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<title>キュクロプスの桎梏</title>
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<description>Captured Cyclops</description>
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<title>アニメ表現と俳優の演技論の追記</title>
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<![CDATA[ <p>（※こちらは前回の試論の続き。ブログの更新日は違うが。2018年7月末から、二週間後に加筆したものだ。なお内容的には、ツイッター同様に一部重複する。ツイートが分散してるので探すのは大変だが、読み比べてみるのも良いだろう）</p><p><br>　アナログとデジタルが分かり難ければ、『砂山とブロック山』でも同じこと。アニメは、中間の芝居が雑味（混色）になる。実写と違って曖昧さの許容量が低い。記号や象徴性の表現だからだ。「過程の芝居」が余計な雑味になる。前回はヒントで「モーフィングと塗り絵の違い」だと述べた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180815/10/cap-cyclops/ab/cd/j/o0552069314247880056.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="276" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180815/10/cap-cyclops/ab/cd/j/o0552069314247880056.jpg" width="220"></a></p><p><br>　映像表現のモーフィングには、『どちらでもないorどちらでもある』領域がある。見る側の感性や想像力が試される。男と女の顔、男でも女でもない顔、男でも女でもある顔。俳優の芝居は『過程を見せる』ものだ。マクロからミクロまで。演技のニュアンスを積みあげる。<br>　アニメではそうした過程のズレが、キャラクターとの同調を妨げる。混色や雑味になる。映像に追いつけずに、3合目、4合目で置き去りになる。だから「遅い」という。声優は『自分の間ではない』。役の気持ちの速度が違う。俳優の中途半端で舌足らずな芝居がやたらと目につく。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180815/10/cap-cyclops/f2/a1/j/o1600120014247881041.jpg"><img alt="" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180815/10/cap-cyclops/f2/a1/j/o1600120014247881041.jpg" width="420"></a></p><p><br>　舞台俳優でも、軽量級と中重量級くらいの隔たりがある。ドラマ俳優だと、もう打撃と組み技くらい性質が違う。だから「歌手やコント芸人の方がまだ適性がある」と述べた。無論、場合によってはだ。普段のイメージが役の印象を左右することもあるが、それは当たり役でも同じだ。<br>　俳優は役作りのノウハウを活かせるが、基本的な技能が追いつかない。発声の基礎が甘いのもあるが。演技性が正反対なのだ。普通は声の表現力を磨いてからナチュラルに段階が進む。そのステップが大きく抜け落ちてる。声の演技の曖昧さが、観客に違和感となって伝わる。</p><p>　キャラや台詞を立てる演技ができなければ、基本向かない。私小説風のリアリズムでは駄目なのだ。贅肉を削ぎ落してコンパクトな、しかも飛躍した芝居の方が有効だ。だが実際には、俳優は流れもツナギも充分に作れていない。芝居の掛け合いも寸刻みでバラバラだ。<br>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180815/10/cap-cyclops/79/eb/j/o0560037314247878919.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180815/10/cap-cyclops/79/eb/j/o0560037314247878919.jpg" width="420"></a></p><p><br>　実写では、自分を重ねて切り取ることで演技を組み立てる。キャラクター芝居はそうではない。主体と客体との違いだ。このあたりは感覚なので、受け手によって解釈が変わる。誤解を防ぐために詳細は省くが。受け取り方次第では真逆になると注意しておこう。</p><p>　俳優は自分の感覚で、普段どおりに役を掴もうとして大体失敗する。キャラクターだから、それは当然だ。アニメ表現は写実よりも、もっと上っ面。表層的で記号象徴的でテクニカル、テンポと切替の芝居。それこそがアニメの長所。</p><p>　俳優が演じる場合、まずアウェイからになる。苦手種目に挑戦するようなもの。だが起用する側が、俳優や声優の演技を理解していない。マーケティング戦略にせよ、フシアナだ。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180815/10/cap-cyclops/ab/6a/j/o1024057614247885652.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="349" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180815/10/cap-cyclops/ab/6a/j/o1024057614247885652.jpg" width="620"></a></p><p><br>　打撃（声の演技）を教えるのに、張り手がある大相撲（俳優）よりはレスリング（芸人）の方が適性があることもある。全身でぶつかって組みにいくのが癖になってる。生っぽさや存在感では物足りない。まあ声優も注意しないと『素振り』にしかならないが（特にゲーム系は）。</p>
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<pubDate>Fri, 31 Aug 2018 09:30:00 +0900</pubDate>
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<title>アニメ表現と俳優の演技のための覚書き、あるいはジキルとハイド理論</title>
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<![CDATA[ <p>　本稿は表現と演技論のための個人的な備忘録である。思い込みも多くて熟慮が足りず、甚だ不完全なものであることをまず申し上げる。くれぐれも注意して取り扱うことをお薦めしておく。ご利用の際には自己責任でお願いする。<br><br><span style="color:#ffcc00;"><span style="font-weight:bold;">◆声優はデジタルの芝居</span></span><br>　まず声優と俳優の違いについて説明しよう。声優はアニメや吹替やゲームもあるが、映像に対して声をあてる芝居だ。またナレーションや企業CMもあるが、ここでは扱わない。あくまで演技に限定する。俳優は映画ドラマ、舞台が活躍の場になる。<br>　演技の違いには、いくつかあるが（細かくいえば沢山ある）。主観と客観のアプローチの違いになる。役者の感覚では「自分の間で演じるか、他人やキャラクターのタイミングに合わせるか」だ。勿論、アニメの場合は作り手がまた別にいて、彼らが芝居のタイミングを決めている。<br>　俳優の演技というのは、過程をみせるものだ。喜怒哀楽が仮にあるとして、AからBへの変化を自分の心情に合わせて変化させて見せていくことが、演技の基本になる。つまりアナログだ。演技にはグラデーションがある。<br>　物語全体の大きなものも、短い台詞でも、それは同じだ。過程の変化を丹念に拾い上げていく。マクロもミクロも同じだ。声優とは、ここに大きな相違がある。アニメ声優の基本はデジタルなのだ。なかば不連続の芝居が前提になる。アニメに必要なのは、演技の速度と切替だ。場合によっては、歌手や芸人の方が向いていることもある。リズム感や演技の軽さが有利に働くからだ。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180727/08/cap-cyclops/45/0b/j/o0600048414236376041.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="339" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180727/08/cap-cyclops/45/0b/j/o0600048414236376041.jpg" width="420"></a><br>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　アニメは連続するコマによって構成されている。1秒24コマというフレームによって、映像が作られている。特にリミテッドアニメと呼ばれる手法だが。作画で描くには自ずと限界がある。芝居をみれば、かなり誇張されて飛躍した表現だ。<br>　俳優が勘違いをしがちなのは、アニメの情報量を落とした芝居でも、自分の速度で演じようとしてしまうことで、タイミングから間合いから何から狂わされる。細かく割る必要がない場面でも、自分の心情に則して演じようとするので、アニメに全く追いつかずに振り落とされる。中途半端で舌足らずな演技をするのは、それなりの理由がある。アニメ用に演技を省略できないことが、根本的な原因だ。<br><br><span style="color:#ffcc00;"><span style="font-weight:bold;">◆モーフィングと塗り絵</span></span><br>　俳優の芝居を、CGの映像表現に喩えれば、モーフィングになる。モーフィングというのはグラフィックス手法で「ある物体が他の物体に変形する」映像だ。物体Aが物体Bに変化する流れを見せるものだ。俳優の演技もこれに近い。<br>　その変形の過程には「AでもBでもある」瞬間や、「AでもBでもない」瞬間も含まれる。見る側は想像力を働かせて、役の心情をそれぞれに投影する。極端なことをいえば、何も考えてないのかもしれない。カットが適切に繋いであれば、そこに意味は生じる。それが実写の強みだ。翻って、そうした芝居がアニメでは不純物になる。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180727/07/cap-cyclops/31/f3/j/o0640064014236372890.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="420" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180727/07/cap-cyclops/31/f3/j/o0640064014236372890.jpg" width="420"></a></p><p><br>　俳優の演技はグラデーションがあってアナログだが、アニメ表現は基本デジタルだ。むしろ色分けされた方が、演技的には適っている。赤と黄色の中間色を出そうとすれば、かえって色彩は淀んで鈍くなる。芝居は濁ってキレがなくなる。そうした愚を俳優は犯してる。色数が増えるほど、くすんで全体が沈んでしまう。ボソボソした喋りと声調の技術不足が、それに輪をかける。気持ちはあっても、表現の幅がずっと狭い。<br>　声優の芝居というのは、ある意味で「塗り絵」に似てる。声色の境目がクッキリしてる。アニメ表現の特性と結びついたものだ。ずっと純度が高い。深みがないじゃないかと思われるかもしれないが、そうではない。軽重の切り替えで演技に厚みを出している。二枚刃、三枚刃といえば分かり易いか。キレや速さが中心で、モーフィングではない。それも俳優が誤解しがちなポイントだ。まるで表と裏に顔が描かれた団扇にように、演技がパタリと変わる。<br><br><span style="color:#ffcc00;"><span style="font-weight:bold;">◆俳優の演技とは何なのか？</span></span><br>　アニメは象徴化された芝居で、昨今は表現力の向上も著しいが、映像で描けるものには限界がある。生身と比べたら映像の情報量は、かなり少ない。俳優は動かずに黙ってるだけで芝居になる（極論だが）。逆にいえば、そうした状況に甘えてることに、俳優は無自覚だ。ぼそぼそ喋る方が自然に見える。マイクも拾ってくれる。カメラマンが助けてくれる――それらの演技が、アニメではマイナスに働く。<br>　例えば、子役を例に挙げよう。ハキハキした元気な子供は、作り過ぎで気持ち悪いと感じるだろう。そんなやつはいねえと。たぶん探せばいるだろうが。現実感覚はそういうものだ。アニメでは最低限それが必要になる。滑舌が悪い役者は使えない。<br>　アニメの芝居は記号化されたもので（パクというが）、口の動きをみても台詞は分からない。数パターンの口の形で構成されたものだから、口舌が悪いと意味が伝わらない。おいてきぼりにされる。キツイ訛りやモゴモゴした台詞が御法度なのは、そのせいだ。ナチュラルな子供は、それだけで声優として使い難くなる。それは俳優も同じだ。最後にまとめよう。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180727/08/cap-cyclops/dc/9c/p/o2000133314236375970.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180727/08/cap-cyclops/dc/9c/p/o2000133314236375970.png" width="420"></a><br>&nbsp;</p><p><span style="color:#ffcc00;"><span style="font-weight: bold;">◆仮初めのまとめ</span></span></p><p>　俳優の演技はアナログで、実写の演技術はアニメでは基本マイナスに働く。ナチュラルな演技もそうだが。根本にあるのは、心情変化に対する役者の考え方の違い。俳優は「自分の間で演じる」方法論に慣れ過ぎていて、発想の転換がまずできない。<br>　アニメ演技というのは、映像の補助的な役割であり、その基本は声調や誇張だ。実は「省略」の芝居でもある。ニュアンスを摘まめない、演技の省略ができない役者は向かない。キャッチさと速度と切り替えが優先される。その不要な物の見極めがつかないと、何度でもミスを繰り返すだろう。　（2400字）</p>
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<link>https://ameblo.jp/cap-cyclops/entry-12393618933.html</link>
<pubDate>Fri, 31 Aug 2018 09:00:00 +0900</pubDate>
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<title>映画「リズと青い鳥」感想（後編）</title>
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<![CDATA[ <p>　さて、ここからは作品の演出に関わることです。前編を踏まえたものになります。山田監督はインタビューや取材で「ふたりの歩調は噛み合ってないし、実はズレてる」という話をしていましたが。その言葉は半分正しくて、半分は間違っているように思います。</p><p style="text-align: center;"><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/56/de/j/o0600030714218906097.jpg"><img alt="" height="307" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/56/de/j/o0600030714218906097.jpg" width="600"></a><br>&nbsp;</p><p>　映画のタイトルにある「リズと青い鳥」は、劇中劇の童話であり、それを題材にした課題曲です。つまり現実の映画、童話、演奏する音楽の三重構造になっています。<br>　この発想のベースにあるのは『比翼連理』でしょう。中国の故事で、白居易の言葉です。劇中では女子高生の関係ですが。本来は男女の睦まじさ、特に夫婦関係に使われます。どちらが欠けても成立しない、二人で一組という意味です。<br>　ここに謎かけがあるように思います。まったく対照的なふたりが、コミュニケーションの取れなさ、リズムの噛み合わなさを表現するのに、どうして比翼連理なのか？</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/d1/2a/j/o0600032314218906055.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="226" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/d1/2a/j/o0600032314218906055.jpg" width="420"></a></p><p><br>　具体的に話をしましょう。物語後半、新山先生の個人指導から、第三楽章、理科室のハグまでが『希美の転機』です。あそこで「ふたりの芝居は入れ替わって」います。<br>　本稿の前編で長々と説明しましたが、みぞれのオーボエにショックを受けた希美は「外界とピントが合わなく」なります。足もとの現実が揺らいで、視界はボヤけて、音楽も遠くなります。自分の現実が覆されたからです。<br>　反対に解放されたみぞれは、伸びやかに羽ばたいていきます。愛情やしがらみを捨てることが、相手のためになると信じたからです。力強く澄み切った演奏は、部員たちの心を動かします。あの場面で、ふたりの住む世界は入れ替わっています。<br>　ここまで言えば、説明は不要でしょうが。ふたりは本来的に同じものなんです。前半のみぞれに足りないのは、後半の希美の芝居。前半の希美に足りないのは、後半のみぞれの芝居。ただ、それはまだ二人の間で顕在化していません。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/4e/99/j/o0600032414218906004.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="227" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/4e/99/j/o0600032414218906004.jpg" width="420"></a></p><p><br>　たぶん忘れてる人もいるでしょうが。エンディングの下校シーン。ハッピーアイスクリームの会話ですが、みぞれの表情が柔らかくなっています。彼女の驚いた顔が、希美にそっくりなんです。それに前を歩く希美は気づきませんが。<br>　もう一歩、もう半歩足りないと書いた理由はそれです。ふたりは似ていないようで、実は似ています。似させることは可能です。ふたりの歩調。青春のつづら折りのような心境変化だけでなく、相補的な関係性にまで、演出が踏み込めたら良かったなと思いました。（2200字）</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/96/0b/j/o0600033714218906031.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="337" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/96/0b/j/o0600033714218906031.jpg" width="600"></a></p>
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<link>https://ameblo.jp/cap-cyclops/entry-12386793467.html</link>
<pubDate>Wed, 27 Jun 2018 19:10:00 +0900</pubDate>
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<title>映画「リズと青い鳥」感想（前編）</title>
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<![CDATA[ <p>　映画「リズと青い鳥」二回目を鑑賞。一度目に比べると、個々のキャラクター表情だとか、特に楽器の演奏面に注意することができましたが。本稿で述べることは、大きくふたつです。キャラクターの性格や芝居について、そして本作の演出に関わることです。<br>　本作はテレビアニメ「響け！ユーフォニアム」の続編スピンオフ作品になります。二期では、二年生の傘木希美が吹奏楽部に復帰するのに、鎧塚みぞれや部員たちとの間にひと波乱ありますが……詳しくはそちらをご覧ください。彼女たちは三年生になって、いよいよ進路をどうするか決めなければなりません。大会の本番も近づいています。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/24/9d/j/o0600032414218905888.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="324" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/24/9d/j/o0600032414218905888.jpg" width="600"></a><br>&nbsp;</p><p>　本編の主人公である、傘木希美と鎧塚みぞれはとても対照的な人物として描かれています。人当たりがよくて後輩の面倒見がよい希美に対して、人とは距離があって誘われても後輩と馴染もうとしないみぞれ。全く対照的なふたりです。<br>　個性の違いは、見た目だけではなく仕草にも出ています。左右に跳ねるポニーテールの髪、不安になって長髪を撫でる癖、足を組み替える仕草、踵の着地や膝の開きかた。動と静の違いです。身体を斜めにしたり、直立したり。<br>　ただ気になったのは、序盤はあまり差がないことです。リズムや動作は違うのだけど（あと音効も）、表情の違いは少なめです。あまり目が動かないんですね。気になって目パチをカウントしながら観ていましたが。はっきりと違いが表れるのは、パート練習の後輩女子トークになってからです。朝食はフレンチトーストですね。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/16/13/j/o0600032514218905923.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="227" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/16/13/j/o0600032514218905923.jpg" width="420"></a></p><p><br>　俳優で大切な演技の一つが『目の芝居』です（といってもここではアニメですが）。俳優は台詞と目で芝居のタイミングをとります。なので「目の動き」に自覚的なのです。演技の間で気持ちの流れを表現するからです。<br>　ふたりの芝居を「俳優の演技で」解釈すると、希美は目の瞬きの多い、パチクリした演技になります。周囲の話題にビビッドに反応して、ピントが合った芝居になる筈です。だからこそ「目に見えないもの」は見えません。視界がクリアで見え過ぎているからです。<br>　対して、みぞれは「希美以外のもの」がハッキリ見えません。希美だけにピントがあっているからです。例外は、オーボエです。それも手段だから、まあ同じに含めても構わないでしょう。彼女と一緒にいたいから演奏するのです。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/c3/00/j/o0600030414218906078.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="213" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/c3/00/j/o0600030414218906078.jpg" width="420"></a></p><p><br>　だから、もっと希美の目は多くのもの追い駆けるし、反対にのぞみはじっと視軸を据えたような目つきをするはずです。ほんの僅かに心が揺れるから、瞬きの回数もずっと少ない。外界にピントが合いません。役者の演技や役作りはこんな具合です。<br>　無論、アニメは情景を切り取るものでもありますが。キャラクターの個性を、演技や役作りの観点から分解したら、という話です。ここまでが話の前半です。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/cd/44/j/o0600033814218905964.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="338" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180627/18/cap-cyclops/cd/44/j/o0600033814218905964.jpg" width="600"></a></p>
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<link>https://ameblo.jp/cap-cyclops/entry-12386791719.html</link>
<pubDate>Wed, 27 Jun 2018 19:00:00 +0900</pubDate>
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<title>ベッキー事件のこと（後編）</title>
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<![CDATA[ <p>　ベッキー事件の論点は、大きくふたつある。ひとつは「強制があったのか」。もうひとは「不特定多数の視聴者がみる番組で適切だったか」。　繰り返して述べるが「暴力表現と実際の暴力とは違う」。ドラマやスポーツは暴力ではないし、SMプレイも区別すべきだ。ただし強制があれば、暴力になる。売れない芸人やアイドルであれば、無理強いされるケースもあるだろう。ただしベッキーの知名度キャリアであれば、それは考え難い。<br>　それから安全管理だ。撮影に危険はなかったか。バラエティ番組でも、数年おきに大怪我や死亡事故はある。この場合は、ムエタイも女子選手を使っているので、キックの手（脚）加減や一定の配慮はなされたことになる。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180108/10/cap-cyclops/e7/c1/j/o0600040014107684295.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="400" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180108/10/cap-cyclops/e7/c1/j/o0600040014107684295.jpg" width="600"></a></p><p>&nbsp;</p><p>　ガキの使い特番、笑ってはいけないは大晦日に移動してから11年目になる（トータルで14年）。毎年恒例の番組だ。芸能人が知らないはずはないし、一般視聴者でも番組名くらいは聞いたことがあるだろう。<br>　ベッキーも然りで、出演すればタイキックなり受けることを覚悟していた筈だ。そうでなくても酷い目に合うことは想像ついただろう。芸能活動は彼女の本業であり、言ってしまえば、「身体を張った仕事」だ。格闘家やプロレスラーに近い。<br>　アレはつまり「暴力表現」なのだ。キックが痛くて可哀想と思うのは自由だが、それをもって責めるのはお角違いだ。そもそも事件性はない。どこにも被害者はいない。ひとつめの論点は、これで消えたことになる。<br><br>　ふたつめだ。「不特定多数の視聴者」だが、これは避けられない。11年も継続していればと思うが。つい知らずに視聴して「暴力表現」にショックを受けたというのであれば、それはもう出会いがしらの事故としか言えない。<br>　だが需要があって番組が続いていることも忘れて欲しくない。番組を嫌うのは勝手だが、好きなひとも数千万人いるのだ。遠ざけて関わらないのが得策だ。あとついでにいえば、「暴力表現」をイジメに擬えるのはスジが悪い。パワハラや暴力行為は区別すべきだ。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180108/10/cap-cyclops/b1/5a/j/o0600040114107684372.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="281" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180108/10/cap-cyclops/b1/5a/j/o0600040114107684372.jpg" width="420"></a></p><p><br>　長話にお付き合い頂いて恐縮だが。願わくば、他のバラエティやスポーツ、ドラマに飛び火しないことを。由々しき問題だ。世間には、暴力と「暴力表現」の区別のつかない人があまりにも多過ぎる。</p><p>　現実とフィクションとの違いも然りだ。そこからパワハラやイジメ問題に議論は発展する。テレビに限らずとも、俗悪とされる表現がスケープゴートになるのが現状だ。身近で叩き易い材料だからだろう。監督責任もだが、暴力行為の責任は当事者にある。これは鉄則だ。</p><p style="text-align: right;">（全角1900字）</p>
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<link>https://ameblo.jp/cap-cyclops/entry-12342760575.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Jan 2018 00:01:00 +0900</pubDate>
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<title>ベッキー事件のこと（前編）</title>
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<![CDATA[ <p>　大晦日に日テレ系で放送された「絶対に笑ってはいけない アメリカンポリス24時」、タレントのベッキーがタイキックを受けた件で非難轟々だが。個人的に思うところがあるので、ブログに記しておく（古くて新しい話題だ）。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180108/10/cap-cyclops/da/bf/j/o0600040114107684509.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="401" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180108/10/cap-cyclops/da/bf/j/o0600040114107684509.jpg" width="600"></a></p><p><br>　論点はいくつかあるが、それほど複雑な話ではない。「暴力表現」の問題だ。これに関する錯誤（誤解というべきか？）がある。これはエンタメ全体に関わる問題だ。暴力的なパワハラ、またイジメを助長するといった論理で語られることが多いが。両者は明確に違う。<br>　なおベッキーの不倫問題に関しては言及しない。興味関心がないし、全く詳しくないからだ。同様に、罰ゲームの禊（みそぎ）に関しても言及しないでおく。知らないことは語れないからだ。<br><br>　まず前提として「暴力表現」と一般的な暴力は違う。映画ドラマにおける危害は「暴力表現」だ。フィクションなので被害者はいない、事件性もない。あくまで劇中で起きてることで、現実の事件と混同するひとは少ないだろう。<br>　次に、ボクシングやK-1やプロレスといった格闘技だ。俗にコンタクトスポーツと呼ばれる。肉体にダメージを与える競技だが。これは暴力だろうか。それも違う。プロ選手にはライセンスがあって、決められたルールがある。競技を裁く審判やドクターもいる。興行でもあるが、これを暴力という人はいないだろう。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180108/10/cap-cyclops/f8/ec/j/o0600048514107685215.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="340" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180108/10/cap-cyclops/f8/ec/j/o0600048514107685215.jpg" width="420"></a></p><p><br>　では話が逸れてしまうが、SMプレイはどうだろうか。こちらは性的嗜好であり、「加虐的な暴力行為を楽しむ」ものだろう。サドマゾの役割分担とも言える。ウエルカムの人がいるかもしれないが、誰でも良いわけでもない。<br>　金銭のやり取りや、信頼関係があって成り立つものだ。偶発的な事故も起きるが。当人たちの了解が前提にある。趣味や性癖に関して、他人がとやかく口を挟むようなことではない。<br><br>　もうひとつ行こう。動物を使った大道芸、猿回しはどうか。無理やり芸をしこんだり、餌を与えなければ「動物虐待」になる。芸事（神事）に関しては、慎重に扱うべきだと思うが。動物と人間が違うのは、対等の関係ではないこと。本人の意思が認められないこと。自然の倫理観もあるが、強制性の問題になる。</p><p style="text-align: right;">（後編につづく）</p>
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<pubDate>Mon, 08 Jan 2018 00:00:00 +0900</pubDate>
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<title>白線を歩む</title>
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<![CDATA[ <p>　最近考えることに「意識を細くする」というのがある。内観の話だ。かなり抽象的な説明になると思うので、その御心算で。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171122/06/cap-cyclops/21/76/j/o0550036714075570589.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="367" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171122/06/cap-cyclops/21/76/j/o0550036714075570589.jpg" width="550"></a></p><p><br>　真っ直ぐ引かれた白い線をイメージして、そこを踏みながら辿っていく。視点はぼんやりと構えて、特に固定しない。意識だけを足もとの線に集中する。肩幅よりも少し狭いイメージだ。<br>　情緒が不安定になったとき、人は支えを必要とする。強く踏ん張ったり、何かに持たれたり。倒れないように腕を突っ張って体重を支えようとする。そういうことは一切しない。白線の上を歩くように、リラックスして滑らかに意識を滑らせる。<br>　独楽を想像して貰うと分かり易いが、高回転になるほど軸がぶれない。垂直になる。あんなイメージだ。動くものを目で追いかけたり、支えになるものを探していると、つられて身体が大きくぶれる。ピントを合わせずに視界の隅で捉える感覚だ。</p><p><br>　何かに強く惹かれたり、あるいは反発するのは、心理的に不安定な状態だといって構わない。生の実感を得るために、感情的になったり、好んで衝突を繰り返す人もいるが。相手まかせの態度だと言えるだろう。体当たり主義だが、そうでない人もいる。トラブル上等を他人に薦めるのも困りものだが。<br>　おそらくパニックと忘我を混同してるのだろうが。アドレナリンを分泌したり、前後不覚を好むという意味では、あまり酔っ払いと違わない。そう昔は酔漢を「トラ」に擬えたのだ。恐いもの知らず、の意味だ。どうして虎なのかは諸説あるので調べてみよう。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171122/06/cap-cyclops/7c/fd/j/o0290040014075570610.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="400" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171122/06/cap-cyclops/7c/fd/j/o0290040014075570610.jpg" width="290"></a><br>&nbsp;</p><p>　話は変わるが、迷子にもいくつかパターンがある。典型的な例だが「関係ないものを既知の情報と結びつける」。つまり誤認だ。何となく見覚えがあるもの、目印を追いかけるうちに、まったく違う場所に出てしまう。錯覚や記憶の混同が原因だ。注意の方向が限定的で、しかも散漫なのだ。<br>　これを防ぐには、いったんスタート地点に戻って、最初からやりなおすことが有効だ。勘だとかアドリブで辻褄を合わせようとするので、さらに悪いことになる。後手のなし崩しから、弱り目に祟り目といった状況だ。<br><br>　それらに共通するのは「周囲に気を取られ過ぎて、注意力が散漫になる」こと。自分の体勢が崩れていることに気づけない。ピンチで判断が鈍ってる証拠だ。何かを行動の支えにする、起死回生のヒントを探そうとする時点で、かなり軸がぶれているのだが。まあ難しい。<br>　ちなみに僕は、乗り物で移動すると方向感覚が狂うスキルの持ち主だ。徒歩や自転車だと平気だが（身体感覚や処理能力の問題だろう）。歩きだったら一度で道を覚えてしまうし、大型駐車場でも迷わない。ただし車の運転やナビには向かない。（全角1103字）</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171122/06/cap-cyclops/47/e2/j/o0507040014075570688.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="331" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171122/06/cap-cyclops/47/e2/j/o0507040014075570688.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Wed, 22 Nov 2017 00:00:00 +0900</pubDate>
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<title>ゴッホ～最期の手紙～感想</title>
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<![CDATA[ <p>　映画「ゴッホ～最期の手紙～」感想。なかなか公開日が決まらなかった本作だが（各所の調整が難航したのだろう）。正式なリリースは約6週間前。少々待ちくたびれたが、ようやく観ることができた。<br>　個人的な興味はふたつあって、ひとつはロトスコープという、映像技法に関すること。もうひとつは、画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに纏わることだ。原題「Loving Vincent」は彼のファーストネームだ。<br>　本作は、物語の案内役アルマンの目を通して、数奇な画家ゴッホの死の真相に迫るという方式。ピストル自殺の謎をとく、所謂探偵ものに分類されるだろう。ネタバレは控え目だが。ここでは技法と演出論について、主に語ることにする。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/06/cap-cyclops/ab/ca/j/o0500036514066457441.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="365" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/06/cap-cyclops/ab/ca/j/o0500036514066457441.jpg" width="500"></a></p><p style="text-align: left;"><br>　僕にとっては、こちらがミステリーになるが。まず結論から書いてしまえば、本作は「ロトスコープである」。油絵であり、アニメーションであり、ロトスコープだ。特に違いを見い出せなかった。<br>　原理的には、実写動画をベースにしたアニメーションだ（デジタル化が進んだので手描きには拘らない）。論点としては、以下のみっつ。画面の構図やカメラアングルが共通であること、人物の輪郭線が一致すること、動きの角度や芝居のタイミングが同じであること。それらが基本線になる。<br>　ただし背景もアニメーションなので、実写と同じとは限らない。同様に、服装やメイクが違うこともあるし、アニメーションだから動きはコマ打ちになる。つまり表現による制約を受ける。原物は油彩だが、メタモルフォーゼ（変容）表現は完全にアニメのそれだ。</p><p style="text-align: left;">　以上の理由からだが、ロトスコープに相反する根拠を見つけられなかった。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/06/cap-cyclops/ac/2c/j/o0600043814066457419.jpg"><img alt="" height="307" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/06/cap-cyclops/ac/2c/j/o0600043814066457419.jpg" width="420"></a><br>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　作品について掘り下げると、アルマンが登場する場面はカラー、ゴッホの回想パートはモノクロと、色やタッチが劇中で使い分けられている。アルマンの夢のなかで、両者は混然として溶け合う。ピストル自殺事件を追う彼がゴッホになった瞬間だ。<br>　物語が進むにつれて、油絵表現も成長していく。ただし、白黒カラーにせよ、重くてアクの強い絵柄なのは変わらない。カロリー過多で脳が疲れるので、もう少し工夫が欲しかった。音響プランが真っ当過ぎると思う。絵は濃厚なのに、場面変化に乏しい。<br>　彼の創作よりも、ドラマチックな事件や生涯に観客の関心が向きがちなので、意図的に抑えたのだろう。見た目は派手でドギツイが、むしろ淡々とした語り口。音楽もドキュメンタリの手法を採っている。だが娯楽よりの相乗効果が欲しかった。</p><p style="text-align: center;"><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/06/cap-cyclops/d8/bf/j/o0600033414066457458.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="234" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/06/cap-cyclops/d8/bf/j/o0600033414066457458.jpg" width="420"></a><br>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　探偵役のアルマンの功罪だが。これは歴史的な人物を取り扱った映画なので、あまり無茶な冒険ができない。独自にエピソードを盛り込もうとすれば、オリジナルの人物が必要になる。その意味では、アルマンの存在はなかば成功してる。<br>　だが問題は、これが謎解きの会話劇であること。現場の聞き取りなので、テキスト過多だ。さらに字幕とゴッホの絵柄との相性はかなり悪い。なるべくであれば、未見だが吹替版をお薦めする。<br>　何せあまりにも映像美術が楽し過ぎて、ほとんど字幕が頭に入らない（8割はスルーだ）。これだけ字幕に向かない映像もないと思う。ロトスコープより、ゴッホの作風が罪作りだ。功罪あるとは、そういう意味。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/06/cap-cyclops/74/cf/j/o0600030014066457491.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="210" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/06/cap-cyclops/74/cf/j/o0600030014066457491.jpg" width="420"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　話を纏めるが、本作にはふたつのミスマッチが存在する。ひとつは映像と音楽との関係性。もうひとつは、ロトスコープと字幕との相性。どちらも演出に関わることだ。さらに動きのない会話劇を選んだことで、スローペースになった感は否めない。<br>　ひと言で感想をいえば「映像の満腹感は高いが、満足度はそれほどでもない」。眼福には違いないが、物語としては味気ない。熱意はあるが、ストイックで真面目過ぎるのだ。それはゴッホと、数多の製作者が正面から向き合おうとした結果だ（ヴィンセントと敬意を込めて呼ぶべきかな）。だからこそ、こうなったと言えるだろう。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/06/cap-cyclops/d8/94/j/o0600032914066457449.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="230" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/06/cap-cyclops/d8/94/j/o0600032914066457449.jpg" width="420"></a></p><p style="text-align: left;"><br>　芸術家のスキャンダルや、彼の関係者の嫉妬や孤独な死の影といった、劇的なドラマを求めるのであれば、あまり本作はお奨めしない（類書もあるだろう）。だが何かしら薫陶を授かりたい、世界中のアーティストたちと一緒にヴィンセントを近くに感じたいというのであれば、これほど適した映画はないように思う。</p><p style="text-align: right;">（了：全角1747文字）</p>
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<pubDate>Thu, 09 Nov 2017 00:00:00 +0900</pubDate>
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<title>単館系のこと</title>
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<![CDATA[ <p>　都心に単館系の映画を見に行ったときの話。所謂ミニシアターで、ファーストデーの平日だった。初めての場所だったが、そこそこ混んでいた。<br>　座席は自由席で、右の通路側を選んで着席すると、すぐに前後が埋まった。幸いにも隣りには誰も来なかった。受付で貰った三つ折りのチラシに目を通すと、二ヵ月先の特集プログラムが記載されていた。シネマ会員募集の案内もついていた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171028/09/cap-cyclops/4e/6f/j/o0600033814057796213.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="338" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171028/09/cap-cyclops/4e/6f/j/o0600033814057796213.jpg" width="600"></a></p><p><br>　お上りさん気分で、館内を眺めていたが。地元とは明らかに客層が違う。高齢者が多いが、若い人もまばらにいる。男女比でいえば、3対1だろうか。<br>　お土地柄なのか、女性の客層はバラバラ。水商売風の人もいれば、美大生みたいな人もいる。有閑マダムもいれば、30手前のライターのような人もいる。パンツスタイルの黒づくめだったり、20年前のエアロビクスのダンサーのような原色だったり。懐かしいがフラッシュダンスだ。トンボのように、大きなサングラスをしてないのが不思議なくらい。<br>　生活スタイルも違えば、行動時間も違う。雑多な人種が一堂に会してる印象だ。ああ都会だなあ、と密かに思った。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171028/09/cap-cyclops/43/19/j/o0600033814057796284.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="237" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171028/09/cap-cyclops/43/19/j/o0600033814057796284.jpg" width="420"></a><br>&nbsp;</p><p>　ひるがえって男性客の見た目だが。これがよく分からない。サラリーマンと、その他に分類されるか。20代から60代までの服装が同じなのだ。違うのは、帽子と白髪頭くらい。ユニクロのようなカジュアルな普段着。スニーカーにチノパンだ。<br>　どうしてこんなに格好が似てしまうのか、不思議なくらいだ。背中のリュックサックや、肩から斜めに下げたバックを見た方が判別し易い。あとは通勤鞄をもった（おそらく仕事中の）スーツ姿のサラリーマンが、影に隠れてチラホラと見てとれた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171028/09/cap-cyclops/0b/5e/j/o0600035014057796313.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="245" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171028/09/cap-cyclops/0b/5e/j/o0600035014057796313.jpg" width="420"></a><br>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　客席の男女間のギャップに妙に感心したが。映画自体は実話ベースで面白かった。型破りで破天荒な主人公と、それを眺める画一的な顔ぶれのオッサンたち。何だろうこの落差は……と感慨に浸らずにはいられなかった。<br>　人生に波風もなくという表現が、適切かどうかは分からない。往年の映画青年がそのまま老けた雰囲気。若作りのセミナー講師が近いかも。昼間から映画が見られるのだから、暇も余裕もあるのだろう。見た目の服装だけが、今の若者と同じなのだ。<br>　そのせいか途中で「自分はゾンビに囲まれてるんじゃないか？」という、奇妙でSFチックな連想に襲われた。映画ゾンビだ。たぶん暗闇の中にいる自分も、そのうちの一人だろう。（了：全角990字）</p>
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<pubDate>Sat, 28 Oct 2017 00:00:00 +0900</pubDate>
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<title>伝統のこと</title>
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<![CDATA[ <p>　伝統と聞けば、何か堅苦しくて難しいものを連想する人もいます。つい身構えてしまうかもしれません。知らないことで恥をかいたり、旧所巡りでお勉強をするようなイメージがあるからでしょう。<br>　古典芸能の世界では「伝統を現代に」なんて掛け声もありますが（立川談志ですね）。僕が思うものは、もう少し違います。生活の基盤であったり、人生の選択肢みたいなものになりますか。生き方の問題ですね。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171022/07/cap-cyclops/f1/f8/j/o0600033714053745886.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="337" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171022/07/cap-cyclops/f1/f8/j/o0600033714053745886.jpg" width="600"></a></p><p><br>　例え話ですが、フォーマルな衣装にモーニングや背広やドレスがあります。仮にそれらが自分の体型に合わなかったり、所持してなかったり、好みじゃなかったりした場合、次の選択肢として、紋付き袴だとか振袖といった着物があります。<br>　革靴を下駄や草履に履き替えても同じです。場所や自分のスタイルに応じて、型や様式を変化させることができる。そこに伝統の重みや価値を感じています。電灯を蝋燭やランプに替えても話は通じます。駄洒落じゃありませんが。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171022/07/cap-cyclops/e8/cb/j/o0500037614053745940.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="316" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171022/07/cap-cyclops/e8/cb/j/o0500037614053745940.jpg" width="420"></a></p><p><br>　伝統といっても、そこには文脈があります。フォーマルに限れば、アフリカの民族衣装だろうが、少数民族の腰ミノだって有りになるでしょう。全身にペイントしたり、派手な毛皮のコートや羽根飾りも良さげです。成人式でも見かけますが。<br>　ただし伝統というのは、社会の背景や通念でもあります。できるだけ穏便に、不要な衝突や摩擦は避けたいところです。相撲の土俵際のように、ギリギリのラインを狙うのが、まあ目立ちたがり屋なんでしょうけれども。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20171022/07/cap-cyclops/c8/bf/j/o0600045014053745899.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20171022/07/cap-cyclops/c8/bf/j/o0600045014053745899.jpg" width="420"></a></p><p><br>　僕にとって伝統とは通奏低音であり亜流です。「今ここにない何か」です。勿論ルーツであったり、歴史や文化が好きなのもありますが。それをどうアレンジすれば、自分の人生に活用できるか。そういった興味本位です。モノサシや指標になるもので、時代遅れかどうかは二の次です。</p><p><br>　テーブルマナーにも、洋食と和食の違いはありますが。洋食のときに箸を使うのは、マナー違反にはなりません。美的な作法であれば、むしろ礼儀に適った態度です。それが伝統の持つ「強さ」だと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/cap-cyclops/entry-12321705609.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Oct 2017 00:00:00 +0900</pubDate>
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