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<title>「脱－信頼」進路塾</title>
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<description>このブログは、某地方都市で高校生の進路指導にあたっている中堅教員の日々の考えを記すものです。今後生きていく生徒たちの将来をともに考えてもらえる人たちに集まってほしいと思っています。</description>
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<title>杉田聡『「買い物難民」をなくせ！』</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#ee82ee" size="5">杉田聡　『「買い物難民」をなくせ！』（中公新書ラクレ　2013年5月）　</font></p><p><font color="#ee82ee" size="5"><br></font></p><p><font size="5"><font color="#000000">　<font size="3">自動車を交通手段の中心にした地方都市の高校生たちと話していると、「車の運転免許を取得して大きなショッピングモールで休日の買い物を楽しみ、アルファベット三文字で表記される巨大アミューズメントパークで遊ぶために年数回東京や大阪といった大都市に出かける」というイメージを明確に持っていることに気づく。そこで彼らに一つ聞いてみる――「もし、自分で車の運転が出来なくなったら、どうする？」</font></font></font></p><p><font size="3">　カント倫理学を専門とする筆者による近著を読みながら、例えば自分の体調の悪い時に駐車場に車を止めた後で、「ショッピングセンター」や「ショッピング・モール」が「大きすぎる」という思いを持ったことのある人間なら、そういう若者たちの歓迎する〈現在〉が、少しの健康不安がある老人たちにとってはどんなに不自由なものであるか、少しは想像してみてもらいたいと考えたりしてしまう。</font></p><p><font size="3">　問題は、そのような販売の場の一元化である。筆者はこの点に明確に切り込んでいる。</font></p><p><font size="3">　ショッピング・モールなどの立地により地域の小店舗が根こそぎにされた後で始まった、各地域のNPOや自治体や町内会などの小規模であるが確かな実践が紹介される。このような主体的な協力の姿を紹介していくと、亡くなったモータリゼーション社会の急先鋒・宇沢弘文教授の視点の確かさも改めて感じる。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　初めて読む筆者</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee" size="3">　</font></p><p><font color="#ee82ee" size="3">　</font></p>
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<pubDate>Sun, 21 Jul 2013 21:05:00 +0900</pubDate>
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<title>池田暁子『思ってたウツとちがう！　「新型ウツ」うちの夫の場合』</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#ee82ee" size="5">池田暁子　『思ってたウツとちがう！　「新型ウツ」　うちの夫の場合』（秋田書店　2013年7月）</font></p><br><p><font color="#ee82ee" size="5"><br></font></p><br><p><font color="#ee82ee" size="3">　<font color="#000000">大正期に、〈縦横無尽〉というか〈自由自在〉というか〈融通無碍〉というか、80年代の岡村靖幸とも（私の頭の中では）イメージの重なる「天与の語り手」ぶりを発揮した作家・宇野浩二が中年期に発狂した姿を、盟友の広津和郎が芥川龍之介の自殺と並べて書いていて、今から二十年以上前、大学生だった（と思う）私は、狂気の宇野の欲したアイスクリームが印象に</font></font><font color="#ee82ee" size="3"><font color="#000000">深く、こんな夏の日、家族にアイスでも買って帰ろうか、などと思うたびに思い出すのだ。</font></font></p><br><p><font size="3">　宇野や芥川を襲った狂気は、文学史的には、当時の日本社会の変貌ぶりに青春の怒濤を超えた世代の感じた「取り残され不安」を背景にしたものと考えられるのだろうが、企画物コミック・エッセイ（汚い部屋を片付けるとか、時間活用術とか）の作者としてその黒く塗りつぶした目で描かれるキャラクターに親しみ易さを感じてきた漫画家の近刊。自らの夫の「ウツ」を描いたコミックエッセイを読んで感じたのは、〈狂気〉こそある世代の共有ソフトとなりえるのではないか、ということだ。</font></p><br><p><font size="3">　私にとっては、本書でも何度も引用されている細川貂々さんの『つれウツ』や、音楽ライター三保航太氏の『僕とうつとの調子っぱずれな二年間』などを読むことほど、ここに同世代の人間がいるという気持ちを強くしてくれる行為はなく、それは広津がしばらくの静養期間を経てやがて復活する宇野を見守りながら感じていたであろう、「彼が病気になって、私がそうでないことに理由なんかないんだ」という気持ちを私に与える。そして本書の夫婦の姿もまた。</font></p><br><p><font size="3">　仕事からボロボロになって帰ってくる夫、そしてその後、夜遅い帰宅にも関わらず、ゲームをしてから寝ようとする彼。ここには、我々アラフォー世代の「まじめさ」や「幼児性」や、仕事のことで興奮した脳をなんとか意識的に冷まそうとしておそらくもっと負担をかけている「往生際の悪さ＝嫌なことを切り離そうとする努力家ぶり」などが観察されると思うが、それを人ごとだと「切り離せる」人がこの世代ではどれだけいるだろうか。日本人の「働かざるもの食うべからず」とか、「偉くなった人より苦労した人のほうが尊敬される」というような旧来の労働観を</font><font size="3">受け継いだ最後の世代としてのアラフォーは、バブルの「稼いだ人間こそ勝利者」という、それ自体は全く合理的な新倫理の洗礼も青春期に浴びた人たちなのだ。つまり、世代の生理にブレがある。どちらも分かるし、どちらも信じ切れない。本書の夫が家で裸でいたり、突然旅行に出かけて行った先で楽しそうにしている姿など見ると、本人の性格・好みの問題だけには帰せられないと感じてしまう。</font></p><br><p><font size="3">　同世代としての共通ソフトの存在を自分の身にも感じつつ、高校進路指導教員としての主張に戻れば、やはりここでも問題は「ワーク」そのものが「ライフ」に化けてしまう、日本の労働慣習の短絡性だろう。まずこの夫氏が夜中にヨレヨレになって帰ってくる姿に象徴されるように、日本の労働時間は長すぎるし、労働組織が労働者の人生全体に関与し過ぎる。また、労働者も、自らの価値を労働に一元化しないように気をつけるべきだ。本書の６７ページの「しがみつき」対象の一つに「仕事」が挙げられていることに、我々は十分な注意をしたことがあっただろうか。</font></p><br><p><font size="3">　　高校生に労働者としての権利を教えることで、自らの権利を主張できる大人に育てたいと思うが、そういう社会は一足飛びにはできあがらず、当面は本書の４７ページにあるように、同じ職場の労働者同士のいがみ合いは避けて通れないだろう。が、そこからある程度安定した倫理が生まれるまで、我々が、今のアラフォーが、前に進まなければ。</font></p><br><p><font size="3"><br></font></p><br><p><font size="3"><br></font></p><br><p><font size="3">　　　　単行本は初めて買った筆者。</font></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/car2013eer/entry-11576648943.html</link>
<pubDate>Sat, 20 Jul 2013 18:55:00 +0900</pubDate>
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<title>杉晴夫『栄養学を拓いた巨人たち』</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#ee82ee" size="5">杉晴夫『栄養学を拓いた巨人たち』（講談社ブルーバックス　2013年4月）</font></p><br><p><font color="#ee82ee" size="5"><br></font></p><br><p><font color="#ee82ee" size="3">　<font color="#000000">十代の後半から理系と文系に分けるということが、日本以外の国ではあまりないと聞いているが、本当だろうか。本当だとしても、そうでないとしても、大学進学を前提として高校生を二種に分類すると言うことは決して得策ではないのだろうなと、この本を読んでいてつくづく思った。</font></font></p><br><p><font color="#ee82ee" size="3"><font color="#000000">　化学式や物理の式が美しいと感じる――読後に起こった変化である。</font></font></p><br><p><font size="3">　現在の日本の高校では家庭科の一ジャンルに包摂されるであろう「栄養学」を、それぞれ命がけで切り開いていった幾多の科学者たちの悪戦苦闘ぶりが描かれる。生体の本質とは、呼吸によって体内に取り込まれた酸素によって体内の物質を燃焼させることだと気がついたラボアジェ。消化とは化学作用であり、消化管の運動による力学作用ではないと確証したスパランツァー二。タンパク質の内容を発見したムルダー。「楽聖」モーツアルトに匹敵し、栄養学の聖人と呼ぶべきクロード・ベルナール。・・・様々な才人・偉人たちのひらめきと努力と挫折と闘争の結果が、我々が現在目にする生化学の化学式に結実していることが紹介される。</font></p><br><p><font size="3">　このような様々の事象の時間的推移や、人の世の中の群像劇のような変移については、やはり日本では文系的な感性ということになるのだろう。だが、どんな科学的な事象も人間社会の中で生み出され定位されていくことを考えれば、やはり文理選択は、将来ある若者の知的トレーニングを片手落ちにしてしまうもののように、この書を読むと気づかされる。おそらくは、答えのある問題をできるだけ短時間で解くという受験システムが元凶なのだろうが。</font></p><br><p><font size="3">　筆者が「ノーベル賞」に過度にこだわっているように見えること、筆者自身の親族のエピソードに学会への私怨のようなものが若干見えること。その二点以外は、例えばこの一冊を読んだときに生徒がどのような方面に興味を持つか、進路指導の立場から、リトマス試験紙的な投げかけが期待できる一冊。</font></p><br><p><font size="3">　なお、本書で好意的に解釈される戦後のララ物資が、速水健朗『ラーメンと愛国』ではどのように記述されているか――おそらくどちらも正しいのだろうと、私は推察する。そういう言い方は、文系的過ぎるか？</font></p><br><p><font size="3">　</font></p>
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<pubDate>Fri, 19 Jul 2013 16:30:00 +0900</pubDate>
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<title>開沼博『漂白される社会』</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#ee82ee" size="5">開沼博　『漂白される社会』（ダイヤモンド社　2013年3月）</font></p><p><font color="#ee82ee" size="5"><br></font></p><p><font color="#ee82ee" size="3">　<font color="#000000">網野善彦の著作では、『蒙古襲来』に最も興味を惹かれる。のちに歴史学者としての彼の分析装置の中心をなす「無縁＝アジ―ル」の概念が、その形成過程自体をさらすように、さまざまな人物同士のぶつかり合いをもって描かれていたから。そしてその魅力に「鳴り物を鳴らす」ように置かれた、冒頭の石つぶてを投げる無名の人たち。――この若い筆者による現代のアジ―ル論（というより、アジ―ル衰弱論）を読んで、私が思い出したのは、網野のその〈石つぶて〉のことだった。</font></font></p><p><font size="3">　売春島、シェア・ハウス、出張キャバクラなど、近代社会のアジ―ルとして成り立っていたはずのものがより社会に包含されやすくなった（過剰包摂　ジョック・ヤング）現代。日常側（アジ―ルではない側の普通の社会）から、わずか半歩の違いで「アジ―ル」へと転落することも容易。もちろん、「アジ―ル」への逃亡を主体的に企ててのことなら問題はない。だが、現代社会の過剰包摂ぶりは、そのような意思を持っていない存在までいつの間にかアジ―ル側へと押し流す。つまり、社会の一部の層にリスクが集中する「リスク社会（ベック）」としての相貌が明らかになりつつあるのだ。</font></p><p><font size="3">　本書の筆者は、一見しては不可視に過剰包摂された社会リスクを強調して、「漂白された」という表現を使っている。多少、過度に情緒的な表現が鼻につく部分はあるが、終章に至って筆者の論旨が明確になり、ぼやけかけた輪郭が鮮明化する。</font></p><p><font size="3">　高校生が直接読むには難しいだろうが、指導する我々は「フリーペーパーの広告の8割以上が風俗」などといった現実を見つめ、そうとは知らず高リスクの側に歩み寄る生徒が少なくなるように努力するべき。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　　初めて読む筆者。</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/car2013eer/entry-11575464570.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Jul 2013 22:45:00 +0900</pubDate>
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<title>古川琢也『ブラック企業完全対策マニュアル』</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#ee82ee" size="5">古川琢也　『ブラック企業完全対策マニュアル』（晋遊舎新書　2013年6月）</font></p><p><font color="#ee82ee" size="5"><br></font></p><p><font color="#000000" size="3">　以前は背後に反社会組織の影が見える企業を「ブラック企業」と呼んでいたように思うのだが、今では過酷な労働環境の中で労働者を酷使する企業のことを指すらしい。すでに難しくなった日本企業の労働慣習を維持するために、「若者に割りを食わせてきた」この国で、知らず知らず、あるいは知っていても選ぶに選べず、劣悪な企業に飛び込まざるを得なかった若者たちに渡すべき「マニュアル」。だが、内容は「マニュアル的」というよりは一般的に読み流せる読み物の体裁。</font></p><p><font size="3">　本文の中では、いわば立志伝中の人物と言える企業経営者や、テレビの経済番組で取り上げられそうな「攻めの」「グローバルな」経営を行っているとされる企業が、負の面でも取り上げられている。その意味で、テレビしか見ない（あるいはテレビも見ない）若い求職者たちには目新しい情報が多いはず。</font></p><p><font size="3">　本書の一番本質的な部分を要約すれば、誰もが「働く」ということの法的な裏付けと社会慣習的な一般性を持つようにすべきで、さらにそれはパソコンのウィルス対策プログラムのように絶え間なく刷新されるセキュリティ・システムでなければならないということだ。著者が言うように、世間一般とは閉鎖されたその企業内の論理の中に（無意識に）幽閉することこそ、このような企業の本質的なやり方だから。これは、ある種の過激で反社会的な集団の閉鎖性による洗脳システムと全く同じ。</font></p><p><font size="3">　そこで改めて、高校進路指導教員は思う――ならば、高校の授業で、労働基準法などのごく基礎的で中核的な労働の法的裏付けについて、学習させればいいのではないか、と。金融リテラシーとともに。</font></p><p><font size="3">　他の多くの学校の科目学習のように、テストの点を争うのではなく、将来困った時に、どういう法律に照らし合わせて解釈しながら、どういう専門家を選んで相談すればいいのか。その入り口を覚えさせるためだけにでも、必要なことだと思うのだが。</font></p><p><font size="3">　ここにはおそらく、「分からない人間たちには分からないままでいてもらったほうがいい」という権力安定化への意志があるように思う。が、権利は権利である。それがどう使われるかを、一部の人間が恣意的にコントロールすべきではない。</font></p><p><font size="3">　進路指導とは、そういう面も担うべきなのかもしれない。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　初めて読む筆者。</font></p><p><font size="3">　</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/car2013eer/entry-11574662210.html</link>
<pubDate>Wed, 17 Jul 2013 21:00:00 +0900</pubDate>
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<title>臨時校長会について　</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">中堅くん＝どうして一番の責任者が現場を離れるのかな・・・。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee" size="3">新人くん＝先生、なんか怒ってらっしゃいます？</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">中堅くん＝ええ。名古屋市で臨時校長会があったって報道を見てね、ちょっとイラッとしたんです。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee" size="3">新人くん＝臨時校長会ですか？</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">中堅くん＝先日の痛ましい中学生の自殺を受けて、その状況と対応策の共有が大きな目的だったんでしょうけど、なんで？　って思いますね。もちろん、公立・私立の別を問わず、学校現場に未だにはびこる隠蔽体質との決別を期してのことととりあえずは好意的に解釈できそうだけど、どう思います？</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee"><font size="3">新人くん＝先生が以前おっしゃっていたことを考えると、まず何よりも後追い自殺的なものを防ぐこと</font><font size="3">を今は考えるべきしょうから、例えば相談室（カウンセリングルーム）の告知をさらに熱心にするとか、学校の外の相談組織の利用を奨めるとか、各家庭にそれとなく担任や部活の顧問から電話を入れるように指示するとか・・・。</font></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">中堅くん＝まさにそう思うんです。何より、生徒だけでなく教員も人間ですよ。教員側に動揺がある可能性も高い。教員を落ち着けることこそ、学校内の管理職が中心になるべきじゃないかな。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee" size="3">新人くん＝そういう事態だからこそ、校長が学校を離れてはいけないと、先生は言うんですね？</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">中堅くん＝そうです。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee"><font size="3">新人くん＝</font><font size="3">でも、みんなを集めないと、具体的な話が出来ないという部分があるかもしれませんし・・・。特に大変に重要な個人情報が飛び交う可能性もあるんだから。</font></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">中堅くん＝セキュリティを何重にもした上でのネット会議で十分じゃないですか？　もし校長が現場長としての存在ならね。やってることは、全くの〈お飾り〉丸出しじゃない。まずはそういう旧態依然とした「学校」という組織を動かすソフトを換えることが急がれると、私は思います。</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/car2013eer/entry-11574551933.html</link>
<pubDate>Wed, 17 Jul 2013 18:05:00 +0900</pubDate>
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<title>絓秀実『大衆教育社会批判序説』</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#ee82ee" size="5">絓秀実　『大衆教育社会批判序説』（秀明出版会　平成10年11月）</font></p><br><p><font color="#ee82ee" size="5"><br></font></p><br><p><font size="5"><font color="#000000">　<font size="3">1960年代、学生運動華やかなりしころ、そのアイドルだった吉本隆明は、彼から見て知識人を代表していると思われた丸山真男を批判して、当時すでに大学生が知的エリートではなく、「消費者＝大衆」となっていることを理解していないと指摘した。――本書の著者によれば。</font></font></font></p><br><p><font size="5"><font color="#000000"><font size="3">　消費者に満たされた大学の中で、どうして「知識人」としての自尊心など持てようか。自尊心なき学生にあふれたキャンパスは、社会の上位に君臨することもなく、自らを守るだけの社会的知識すら持つことができない存在によって埋め尽くされているので、もちろん、あらゆる存在の「敵」とすらなりえない。――本書の著者によれば。</font></font></font></p><br><p><font size="3">　15年前に刊行された（たぶん今は絶版の）本書は、当時、専門学校の教員だった著者が、そのころ危惧された、やがて来る少子化によって引き起こされるであろう「専門学校の衰退」「大学の淘汰」を指摘する。その本質は、「教育のエントロピー」と呼ぶべきものであり、ここに読まれる未来図の多くは、いまほとんど現実化している。</font></p><br><p><font size="3">　たとえば、「大学淘汰の時代」が叫ばれれば叫ばれるほど、大学はバブル戦略に走る」という内容の指摘（ｐ２５）は、高校卒業生の数の減少にも関わらず、８００近くまで全国に増やし続けられた大学の何をやっているんだか名称からはよくわからない学部や、どこかでひとやま当たるとどんどん新設される大学や学部を見るたびに、真実だと思い当たる。どの大学でも数多くいるさまざまな知の専門家は、大学経営の専門家ではないわけだ。で、経営の専門家も、大学組織の専門家ではない。</font></p><br><p><font size="3">　「消費者」ばかりがいて、「経営者」がいない場。－－現在の大学をそういってみることは可能だろう。ならば、そのような場で、本書の巻末の鼎談で呉智英が言うような、〈教育のエントロピー＝彫刻の木の屑になった側〉に関わる者は、どのような態度を取るべきか。</font></p><br><p><font size="3">　おそらくそれは、「訓育」（本書のキーワードの一つ）の側にあえてつくことだろう。多くの「消費者」が「消費する自分に困難を感じない」ことで消費的感性を維持するのに対し、キャンパスの中の「買い物難民＝消費弱者」に否応なくさせられるという体験こそ、新たな屈折の機会を与えてくるものかもしれない。「ああ、ぼくはものを知らないから失敗するんだ」などと意気消沈のため息をつく者の何百人かの一人が自覚的に「訓育」に向かうことを信じることしか、我々にはできはしない。</font></p><br><p><font size="3">　屑を相手にまともに訓育してます―――高校も、専門学校も、中堅以下の大学も、そうやってお互いを思いやり、励まし合うことから始めよう。</font></p><br><p><font size="3">　</font></p><br><p><font size="3"><br></font></p><br><p><font size="3">　多くの文芸批評を通して、影響を受けてきた筆者の、15年前の著の読みなおし。</font></p><br><p><font size="3">図書館から借りてきても読むに値する本</font></p><br><p><font size="3">　</font></p><br><p><font size="3">　</font></p><br><p><font size="3">　</font></p>
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<pubDate>Tue, 16 Jul 2013 21:40:00 +0900</pubDate>
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<title>宇野常寛『原子爆弾とジョーカーなき世界』</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#ee82ee" size="5">宇野常寛　『原子爆弾とジョーカーなき世界』（メディアファクトリー　2013年6月）</font></p><p><font color="#ee82ee" size="5"><br></font></p><p><font color="#000000" size="3">　時代遅れで、もはや使うたびに間違った情報を出力してくるOSを搭載したPC。－－著者が様々な事象に触れながら一貫して繰り返すこのイメージは、現代日本のこと。一冊を読み通す限り、その主張は、筆者の言う批評という言葉の力が発揮される場としての役目を十分果たしているように、私には思われる。その意味で楽しい読書体験。ただ一つ、高校進路指導教員として「ある部分」を論じてほしいという思いが残り、おそらくそれを筆者が共有してくれることはないのだろうなという、冷めた思いを除いては。</font></p><p><font size="3">　この書を貫く「古くなったOS」とは、〈家父長制社会〉とそこに付随するもろもろの価値観と行動様式のこと。この行動様式とは、〈幻想〉または〈想像力〉と呼ぶべきものすら包摂している。この時、〈想像力〉におぼれる者たちをあざ笑うという〈近代的価値観〉の範疇にあってあえて自らの〈想像力〉を固守することしか自分には出来ないことが、自覚的に選択される。AKBのドキュメンタリー映画の考察から始まり、NHKの朝のテレビ小説のいくつかを論じ、やがてバットマンのジョーカーの存在感を核のイメージとして形成し、もう一度AKBのMVの考察に終わるこの書は、人々の頭を越していく〈現在〉が、しかしやはり現在として人々を起動させていることを逆説的に示している。</font></p><p><font size="3">〈現在〉は、すでに近代社会が（これまで）生きてきた現在の範疇を超えている。しかし、（これからの）現在を超えきることはない。人間の社会がある以上、それがどれだけ人々の理解や制御を超えていようと、人間の生きている時代であるのだから。つまり、〈現在〉は超えられない。いつでも、あるだけだ。</font></p><p><font size="3">　とすれば、ここで筆者が言っているような「古くなったOS」が、それなりに便利に機能していると見ている世代が存在すること、彼らがなぜそれを「古い」と思わずに済んでいるかということこそ、現代日本が抱える最も本質的な問題ではないか。もちろん筆者は自覚的にそれを選択しているのだろうが、この超世代的な調整機能こそ、現在の批評に持ってもらいたいと私は期待する。というのも、高校生の両親たちがまさに両親となったこの二十年の間にこそこのOSが古くなったのだが、それ故に、両親の思い込む未来と生徒たちの生きている現在から見える未来のズレこそ大きな亀裂であり、筆者が言うような違和感のある二者を重ねるという批評の力が最も大きな地殻変動を生むはずだと思うから。</font></p><p><font size="3">　日々、その二者の双方が傷つかないようにすりあわせる進路相談を繰り返す進路指導教員は、古くなったOSと最新OSに同時に起動するアプリを生み出すべく苦心し続けている。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　　石破茂との対談集も読んだ筆者。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee" size="3"><br></font></p><p><font color="#000000" size="3"><br></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/car2013eer/entry-11573095488.html</link>
<pubDate>Mon, 15 Jul 2013 19:00:00 +0900</pubDate>
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<title>自殺報道について　気にすべきこと</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#ee82ee" size="3">新人くん＝中学生が自殺したという報道、胸が痛みます・・・。何より、担任の教員の言動が不信感を招いていることが、自分自身の身に置き換えても・・・。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">中堅くん＝その生徒の人生を思うと、悔しい・・・。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee" size="3">新人くん＝私ら、怖い仕事ですよね・・・。</font><font size="3"><br><font color="#ee82ee"><br></font></font></p><p><font size="3">中堅くん＝気を取り直して言えば、私はむしろ、今回の自殺に関する報道に関して、これが次に巻き起こすかもしれない悲劇を予防しに動き出すことが、我々教員の目下の使命だと思います。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee" size="3">新人くん＝と、言いますと？</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">中堅くん＝これは以前、精神医療に詳しい専門家の雑誌コラムで紹介していたのですが、WHO（世界保健機関）とIASP（国際自殺予防学会）が協力して発表した「自殺予防　メディア関係者のための手引き」というレポートがあります。横浜市立大学医学部の河西千秋先生という方を中心とした日本語の翻訳が、ネットで公開されています。（「横浜自殺予防研究センター」のページから）</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee" size="3">新人くん＝そうなんですか・・・。全然知らなかった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">中堅くん＝不勉強だと思いますね、君は。まあ、それはいいのですが、このレポートで言われていることを私なりにまとめると、「後追い自殺をさせないような報道」ということだと思うんです。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee" size="3">新人くん＝はあ・・・。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">中堅くん＝要するに、ある自殺が起こってしまった場合、そのことを知ることになる人物の多くが意識するしないに関わらず、影響を受けることになってしまう。遺族も、その周囲の友人や職場の仲間や地域住民も、報道を知る者も、報道する人々自身さえも。だから、そのような有形・無形の衝撃を共有する、または受け止める機関や存在が社会にあることを十分告知すること。また、過度に具体的なイメージを形成しないように、伝える行為と伝える内容のバランスを冷静に吟味すること。その二点が重要だと言うことになる。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ee82ee" size="3">新人くん＝私はそれがイジメかどうか、教師の取るべき態度はどうだったのか、実際どんなことが起こったのか・・・。そういうことばっかり知りたい、考えるべきだ、と思ってました。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">中堅くん＝たぶんそれはもっと状況が落ち着いてからであるべきだと、私は思う。いま、優先されるべきは、このこと自体に影響を受けた行為に及ぶ人が出ないようにすることでしょう。・・・さっき紹介した「横浜自殺予防研究センター」がネットで公開しているレポートには「教師と学校関係者のための手引」というのもあります。こういうものをお互いにきちんと読んでから、またきちんと時間をかけて話し合いましょう。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3"><br></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/car2013eer/entry-11572760398.html</link>
<pubDate>Mon, 15 Jul 2013 08:42:00 +0900</pubDate>
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<title>稲泉連『仕事漂流』</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#9370db" size="5">稲泉連　『仕事漂流』（文春文庫　2013年4月）</font></p><br><p><font color="#9370db" size="5"><br></font></p><br><p><font color="#9370db" size="3">　<font color="#000000">決して優秀とは言われない高</font><font color="#000000">校の進路指導部の人間としてがっかりする体験の一つに、大学やら短大やら専門学校の募集活動で、あきらかに60代の貫禄のある人が来校された時のお相手だ。それはつまり、「教育版天下り」の体現者の到来を示すのだから。</font></font></p><br><p><font color="#9370db" size="3"><font color="#000000">　おそらく、どこかの高校の校長か教頭を勤めた人物が、老けこむ前の小遣い稼ぎの数年間。よく言えば、彼らの社会関係資本（けれど、それは個人の才能で私有したものではないはずだが）を高校側とのパイプとすることが期待されているのだろうが、ならばそれこそ「天下り」の構図そのものであろうし、何より今の情報社会で</font></font>、<font size="3">教員同士のグレーなやり取りで生徒の差し引きなどできようはずもない。彼らの存在で一番困るのは、プライドは高いが現状把握が出来ておらず、ゆえに、教育の未来像など彼らの妄想でしかなかったり、あるいは「洪水はわが亡き後に」式の思考でどうどうたるやっつけ仕事を展開したりすることに尽きる。今年亡くなった大島渚監督の『絞首刑』という映画で、官僚役の人物が「何も考えないから出世したんじゃないか」と罵倒される場面があったが、やはり現代日本の学校組織の校長や教頭にも、その言葉に当てはまる人物がかなりいると私は確信する。在職期間中に教育者としての全てを出したらよかろうに。</font></p><br><p><font size="3">　そういう人物たちに、ぜひこの三十代の若い著者の、転職した若者たちを追ったインタビュー集を読ませてみたいものだ。就職氷河期と言われる時代にそこそこ社会評価の高い大学を出て就職し、やがてそれぞれの人生の中に無視しがたい大きな距離を感じ始めた青年たちが、別の職に移りゆく姿。「天下り」のような特権的な制度安定がすでに破綻した組織。その一番下っ端に所属した故にむき出しになった〈人生の時間〉そのものの姿が浮かび上がる。白髪頭で、自分自身はボケないための散歩くらいの思いで高校生の人生に関わろうとすることになんの躊躇もない連中とは、なんとかけ離れた世界だろう。</font></p><br><p><font size="3">　ここに描かれた青年たちはそれぞれに苦悩にあふれた困難に直面し、現在も決して（仕事としては）状況が楽観視できるものではないにも関わらず、明るい兆しを感じさせる。それはつまり、組織というものに安住せず、かといって組織を簡単に否定する幼児性も持たないことから生まれてくる、人生そのもののむき出しの姿があらわれているからだろう。</font></p><br><p><font size="3">　全国の校長・教頭経験者こそ必読の文献である。自分たちの世代がいかに何も考えず生きてこれたか知るために。</font></p><br><p><font size="3">　安定就労の醜さと不安定就労の美しさ――ついついそんなことを考えてしまった。大変に読み応えのある一冊。</font></p><br><p><font size="3"><br></font></p><br><p><font size="3">　はじめて読む筆者。</font></p><br><p><font size="3"><br></font></p><br><p><font size="3">　</font></p><br><p><font size="3">　</font></p><br><p><font size="3">　</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/car2013eer/entry-11572537895.html</link>
<pubDate>Sun, 14 Jul 2013 21:45:00 +0900</pubDate>
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