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<title>思考整理ノート</title>
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<description>管理者が自身の思考を言語化し整理するためだけの俺得ブログです</description>
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<title>得るものがない娯楽は排除すべきか</title>
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<![CDATA[ 前回の記事から１ヶ月が過ぎようとしているところで、適当に思考を書き連ねてみたいと思う。<br><br>２０１２年の大晦日。０時をまわり年が変わったところで、近くの神社へ初詣をしに行く。その際、相手の都合もお構いなしに親友を電話で呼び出し、談話に更けるのが私の毎年恒例の新年の迎え方だ。本当に恵まれている。今回は、その談話の中で出てきた話をネタにしたい。<br><br>彼は大学に入ってから読書に目覚め、今では相当のペースで本を読んでいる。しかも小説を自ら書くようにもなったのだ。そんな彼は、世の中の人はもっと本を読むべきと考えてるわけだが、話の流れの中で次のような持論を述べた。<br><br>「得るものがない娯楽は排除するか、減らしていくべきだ」<br><br>ここでいう「得るものがない娯楽」とは、何の教訓も得られない、ただ時間を浪費しているだけのもの。ただ「面白い」「楽しい」だけのアニメ、マンガ、TVのバラエティ番組などを指している。そうしたものに時間を使うことで、その人はそれらのものに「とらわれている」。そうしたものを取り除き、それらにつぎ込んでいる時間を読書などに当てることで、人はより知性を磨くことができるというわけである。<br><br>誤解をしてはならないのは、彼はすべての娯楽を排除すべきとしていない点である。アニメ等における娯楽の中にも、「得るもの」のある娯楽はある。人生ドラマを展開したアニメ、大切な「友情」を再認識させてくれるマンガ、製作者の深い教養に裏打ちされたシナリオなど、その娯楽に接することで自分のためになるものはたくさんある。彼はそれらを認めた上で、そうでないもの、つまり、自分の成長につながらない娯楽へつぎ込む時間を「もったいない」としているのである。<br><br>さて。私は、彼の見解に対して反論を述べることはしなかった。いや、できなかった。正直なところ、彼の見解は正論であると思う。今でも、彼の考えに示唆を与えるほどの主張は持ち合わせていない。くだらぬアニメを見ているくらいなら読書した方がいいに決まっている。しかし、どうにも心のどこかで納得出来ない自分がいる（だからこそ、こんな記事を書いているわけだが）。それは自分が無駄な時間を過ごしているからであろう。私がいくら彼に反論しようと、甘ったれた子供の戯言にしかならない気がする。<br><br>そこで、私は反論ではなく、問を深めることで、彼の見解の真意を探って行きたいと思う。私の抱いた疑問はこうである。<br><br>「その娯楽から何を得るのかは、その人の姿勢によるのではないか」<br><br>ただ楽しいだけのアニメ、時間つぶしに眺めているくだらぬバラエティ番組。こうしたものでも、意識的に何かを得ようと思えばできないこともないのではないか。例えば、アニメなら、内容ではなく作画に注目してみる。何枚もの絵を書く作画スタッフの苦労に思いを馳せ、更には現在の日本のアニメーターの現状について深く考えてみる。バラエティ番組なら、番組の内容ではなく、司会者や出演者のトークスキルの高さをじっくりと観察してみる。こうしたことは、意識すれば誰でもできることではないか。とすれば、本来の意味で「何も得られない娯楽」なんて存在しないのではないか。<br><br>しかし、彼はこう反論するだろう。<br><br>「意識できる人はそうであろう。しかし、それができない、しない人が多すぎる。読書をしない人が増えたと言われている現状からもそれがわかる。多くの人は「考えること」から逃げ、そうした快楽のみの娯楽に走っている。したがって、人々に知的探求をさせるには、無駄な娯楽そのものを無くし、浮いた時間を有益なものに費やすように促すのがよいのだ」<br><br>彼の真意はここにある。彼の目的は無益な娯楽の排除そのものではない。無益な娯楽を排除し、人々が知的探求をするように促すこと。人々が有益な時間を過ごせる環境を作ることにある。ひいては、そうして有益な時間を過ごす人々が増えることによって、社会全体がよりよい方向へと向かって行く事を願っているのだ。<br><br>ここまでくれば、私は彼の見解に反論する余地はない。「考えること」が出来る社会を目指す姿勢は大いに賛成したい。議論の余地があるのは程度の問題である。楽しいだけのアニメは排除すべきなのか。面白いだけのTV番組はなくすべきなのか。こうした娯楽は全て排除ないし減少させていくべきものなのか。<br><br>私は、アニメやTV番組といった、人々の「創作」が介入している娯楽は排除の対象とすべきでないと考える。創作作品である以上、たとえどんなにくだらぬ、得るもののないものであっても、そこには製作者の思いが込められているはずである。確かに、経済的利益を求めたものもあるだろう。しかしそれでも、人々に「楽しさ」を与えたいという作者の善意が込められている。そう思いたい。そうした作品（娯楽）を、「得るものがない」として排除してしまうのは、いささか程度が過ぎるのではないだろうか。接した人が、「考えさせられる作品だ」と思うだけのものはないけど、ただ「楽しい」ものを作りたい。「面白い」作品を作りたい。そうした作者の善意のどこが間違っているのだろうか。前述したように、意識さえすれば何かを得ることはできるのだ。私は、作者の善意を信じたい。<br><br>では、排除すべき娯楽とはなんだろうか。私が真っ先に思い浮かべたのがパチンコである。金銭を支払い、「楽しい」時間を過ごすという意味では、パチンコも娯楽である。しかし、そこに「創作」の余地はない。作者の善意なるものは存在しない。パチンコが抱える問題点については、思考がある程度まとまった段階で別に記事を作成したいと思う。<br><br><br>以上、友人との談話をネタに思考を整理してきた。反省点としては、彼の真意を理解するのにやや遠回りな思考を採った印象を受ける点がある。もっとスッキリと彼の真意を理解していれば、「程度の問題」へと話を進めて、議論を深めることができたかもしれない。そして、こんなに長々と文章を書かなくて済んだだろう。思考の言語化は本当に難しいものである。まあ、良い訓練にはなったのだが。
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<link>https://ameblo.jp/category-zero/entry-11445799334.html</link>
<pubDate>Wed, 09 Jan 2013 22:41:04 +0900</pubDate>
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<title>ブログの趣旨</title>
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<![CDATA[ <font size="2">　本ブログの趣旨は、思考したことを言語化し整理することにある。日々さまざまなことにアンテナを張るように努め、思考を重ねてきたが、これを言語化することの難しさを卒業論文の作成を通じて痛感したため、このブログというツールを用いて思考の言語化を鍛錬していこうと思ったのである。<br>　<br>　ブログというツールを用いる理由は、他者が読んでも理解できる程度にまで思考整理ができる必要があるからである。自身が理解出来るだけでは、意思疎通可能な思考であるとはいえない。このブログを読む者はいないだろうが、読者を想定して文章作成をすることで、より高度な言語化の訓練ができると考える。<br>　<br>　なお、更新頻度は極低となるもよう。</font>
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<link>https://ameblo.jp/category-zero/entry-11428958053.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Dec 2012 14:02:43 +0900</pubDate>
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