<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>新シオンの城壁・アメーバ版</title>
<link>https://ameblo.jp/cavazion2/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/cavazion2/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>メインブログ「新シオンの城壁」Seesaa版 http://cavazion.seesaa.net/ より抜粋してお届けします。こちらもぜひご覧ください。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>聖書を信じない牧師の本に首を傾げる</title>
<description>
<![CDATA[ <p>(2021年03月13日初出)&nbsp;</p><div><br></div><div>山口雅弘著『イエス誕生の夜明け～ガリラヤの歴史と人々～』(日本キリスト教団出版局)を読んだ。イスラエル全体の歴史や風土を解説した本はよくあるが、イエスの活動の中心地であったガリラヤに特化した本は珍しい。これはおもしろそうだと思って読み始めたが、内容は、私の期待とは大きく違っていた。&nbsp;</div><div><br></div><div>確かにガリラヤの歴史(旧約聖書時代からＡＤ1世紀頃に至るまで)や、そこに住む人々の暮らしについて豊富な資料から解説が試みられている。特に、ガリラヤの人々は旧「北イスラエル」王国の末裔であり、この地域ではアッシリアによる強制移住や住民混合政策は大規模には行われなかったという考察は興味深い。確かに、新約聖書に於いて、「ユダ王国」の末裔であるユダヤ地域とも、異民族との混血が進んだサマリヤ地域とも、ガリラヤは違っている。&nbsp;</div><div><br></div><div>ところが、全編を通して、単なる解説に留まらず、特定の思想によって色づけされているとの印象を受けた。具体的には、「フェミニスト神学」と呼ばれるものだ。男性中心の社会で差別されてきた女性たちの解放を訴える政治的姿勢。それを聖書の読み方に適用する神学、といったようなものらしい。 だから、本文中では「彼ら」となるべき代名詞がいちいち「彼女ら、彼ら」と表記されている。英語の「they」に相当する日本語の「彼ら」には、男女の違いで差別する意味合いはないと思うのだが。これでは単なる言葉狩りであろう。&nbsp;</div><div><br></div><div>女性に限らず、社会の弱者と強者―農民たちと、富裕層や政治的指導者たち―の対立を、著者はことさらに強調する。「搾取」という単語がやたら多く使われている。共産主義者の文章を読んでいるようだ。確かに聖書は不正な金持ちや指導者たちの罪を指摘しているが(ヤコブ5章等)、指導者たちの権威を尊び、彼らに従うようにも奨めているではないか。&nbsp;</div><div><br></div><div>いや、そもそも著者は聖書を「誤りなき神のことば」と信じてはいない。たとえば、「マルコが報告する出来事は伝説的要素が強く、そのまま歴史的事実とは言えません。(175頁)」と断言している。そして、聖書の中から「女の頭(かしら)は男(第一コリント11：3)」「女性たちは、教会では黙っていなさい(第一コリント14：34)」などなどの箇所を挙げ、「父権制の男女観が強く反映されて(214頁)」いるとして、「これらを『神の言葉』として『黙って』聞き従うことができる女性が、現在どれほどいるでしょうか。これらの語りかけに女性も男性もまじめに向き合う時、もし疑問に思わなかったり、怒りさえ感じなかったとしたら、『聖書』の読み方のどこかにまやかしがあると言わなければなりません。(215頁)」と語気を荒げる。&nbsp;</div><div><br></div><div>「妻たちよ、主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。(エペソ5：21。214頁に章節箇所のみ引用。)」という夫婦愛の教えも、男女差別になってしまう。更には「(女性は)子を産むことによって救われます。(第一テモテ2：15)」という箇所を「ひどいこと」と評し、レビ記の生理や出産を「汚れ」と見なす規定を批判する(216頁)。 どうして聖書を素直に「神のことば」として受け止められないのか。時代背景による文化の違いを考慮すべきことは、著者が誰よりわかっているだろうに。現代の、いや自分の価値観に合わないからといって聖書のほうを否定するというのは、本末転倒ではないか。&nbsp;</div><div><br></div><div>そしてついに著者は、「歴史的イエスではありませんが、復活したイエスがパンと焼き魚を食べたという伝承があります。(237頁)」と述べる。歴史的イエスすなわち実在したイエスと、聖書に描かれたイエスとは異なっているとした上で、復活したのは歴史的イエスではない、つまりイエスの復活はなかったと言っているのである。その結果、イエスが罪からの救い主ではなく、単なる社会運動家のように描かれてしまっている。&nbsp;</div><div><br></div><div>これが学者の書いた本ならば、今さら驚いたことではない。復活も聖書も信じていない聖書学者などざらにいる。ところがこの本の著者は、経歴を見ると、牧師なのだ。「路上生活者、日雇い労働者、また障がいをもった人々(261頁)」に寄り添う働きをしてきたという著者は、決して口先だけの信仰者ではあるまい。しかし、いくら忠実であっても、聖書や復活を否定する牧師というのはやはり疑問だ。本題のはずのガリラヤ論が充実しているだけに、惜しい一冊であった。</div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/cavazion2/entry-12964850027.html</link>
<pubDate>Sat, 02 May 2026 12:36:27 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>天皇のために祈ろう</title>
<description>
<![CDATA[ <p>(2026年02月14日初出)</p><p><br></p><p>「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。Ⅰテモテ2:1」と、聖書にある。総理大臣のためまでは、とりなし祈っているというクリスチャンは結構いる。しかし、天皇のために祈るというクリスチャンは少ないのではないか。(私の主観かも知れないが。) 考えられる原因のひとつは、「天皇制」について否定的に捉えてきた左翼思想が、戦後の教会に深く入り込んでしまったことだろう。これについては、戦前の教会が国家主導による天皇礼拝に積極的に関与したことへの反動もあるかも知れない。もうひとつは、天皇が神道という宗教と不可分の存在であることによる抵抗感ではないだろうか。&nbsp;</p><p><br></p><p>だが、現行憲法下で「国民統合の象徴」と規定され実質的な国家元首である天皇は、名実共に日本の最高権威である。また神道の言わば「大祭司」とも言えるその存在は、であるからこそ、この国の霊的な鍵を握っていると言える。だから天皇がキリストを信じるなら、霊の壁が崩れ、多くの日本人がキリストを信じるようになり、日本にリバイバルが起こるに違いない。聖書を見るなら、王たちが神に従う時には国民全体が神に心を向けるようになり、王たちが神に背く時には国民全体も神から離れていったのだ。日本の場合、天皇の信仰が国民の信仰を左右する。&nbsp;</p><p><br></p><p>「神話に基づいているから」という理由(実際には左翼への迎合・便乗)から「建国記念の日」を「信教の自由を守る日」に書き変えたり、ましてや「天皇制廃止」を叫んだりするよりも、天皇陛下とご皇族方の救いと祝福のために祈ることのほうが、ずっと日本のためになると思うのだが。</p><p><br></p><p><br></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/cavazion2/entry-12963499402.html</link>
<pubDate>Sun, 19 Apr 2026 15:37:37 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>受肉の奇蹟～オリエント型の神とギリシア型の神～</title>
<description>
<![CDATA[ <p>(2023年12月16日初出)&nbsp;</p><p><br></p><p>今、井上浩一著『生き残った帝国ビザンティン』(講談社学術文庫)を読んでいるのだが、その中で、キリスト教の起源について興味深い考察があった。&nbsp;</p><p><br></p><p>以下、「オリエントの神、ギリシアの神」と題された項(145頁)からかいつまんで引用していく。著者は、「古代の地中海・オリエント世界ではふたつのタイプの神がみられた」と主張する。「ひとつは古代エジプトやバビロニアの神のように、全知全能で、近づきがたい超越的な神である。……このタイプの神をオリエント型と呼ぶならば、イスラエルの神もオリエント型に含まれる。」 一方、「もうひとつのタイプはギリシア型とでも呼ぶべきものである。ギリシア神話の神々に典型的にみられるように、このタイプの神は、人間の姿をもち、人間と同じような感情をもっている。」そしてこれらは、専制君主制と民主制という、それぞれの地域の政治体制と結びついていた。&nbsp;</p><p><br></p><p>ローマ帝国は基本的にギリシア型の神をもっていたが、オリエント型の信仰をもつ地方を支配下におくようになったこと、それと同じ頃に民主制から帝制に移行したことから、オリエント型の神を受け入れる下地ができあがっていた。&nbsp;</p><p><br></p><p>「キリスト教もそのような宗教のひとつであった。ただしキリスト教は重要な点において他の宗教とは異なっていた。神のあり方である。思い切ったいい方をするなら、キリスト教の神は、オリエント型の神とギリシア型の神の折衷であった。ユダヤ教から全能・不可知の神というオリエント型の性格を受け継ぐ一方で、『受肉』という『奇蹟』によって、人間に近づきうる神というギリシア型の特徴も合わせ持とうとしたのである。」&nbsp;</p><p><br></p><p>ギリシア型の神では頼りなく思われ、オリエント型の神では自分たちからはるかに遠いと思われていたローマの人々にとって、「全能の神が、人々を救うために、人間の姿をとって地上にあらわれた、と説くところにキリスト教の最大の魅力があったのである。」&nbsp;</p><p><br></p><p>……引用はここまでだ。もちろん、これは「非宗教人(144頁)」を自認する著者の分析であり、私たち信仰者の理解とは違う。キリスト教の神観は政治体制や地方の特色、そして人々の願望を背景として、人間が作り出したものではない。実際に、全知全能の唯一の神がおられ、この方が人間になって来られたという事実に基づいているのである。&nbsp;</p><p><br></p><p>その上で、この分析は、非常に核心を突いていると思う。一見相反する神の二面性。そのどちらかだけでは、人々は救われない。オリエント型の神では恐れ多すぎて人間には近づけない。ギリシア型の神では人間と同じだから力がない。力ある恐れ多いオリエント型の神でありながら、ギリシア型の神のように人間と同じ存在になってくれたイエスだけが、人を救うことができるのである。折しもクリスマスが近いが、この「受肉」の神秘に思いを馳せたい。&nbsp;</p><p><br></p><p>もう一点。これまでキリスト教の歴史では、そのルーツであるユダヤ的要素が否定・排除され、後から付け加えられたギリシア的要素が重んじられる傾向があった。その反動から、キリスト教のユダヤ的ルーツを強調し、ギリシア的要素を不純物のように見なす動きが近年よく見られる。それはそれで正しい。正しいのだが、文化的な面から見ていった場合、キリスト教のルーツに於いて、ユダヤ的な要素ばかりではなくギリシア的な要素も重要であることは、やはり否定できないのではないだろうか。今回見た、「ギリシア型の神」のように。</p><p><br></p><p><br></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/cavazion2/entry-12962765470.html</link>
<pubDate>Sun, 12 Apr 2026 13:35:03 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>反イスラエルを公言する教会に対する弁明</title>
<description>
<![CDATA[ <p>(2025年09月03日初出)&nbsp;</p><p><br></p><p>ちょっとした用事ができて、とある教会の電話番号を調べるためにその教会のホームページを開いたら、「私たちはイスラエルの全ての軍事侵攻、ガザへの攻撃に抗議します」との文言が。しかも赤字で強調して。ホームページの運営元がイスラエルの企業だとわかり、「不買運動」の一環として、そこを使うのをやめようとしたのだが、ホームページを作り直すことのできる人材がおらず、仕方なく自分たちの立場を明記することで治めたらしい。これは、非常に残念なことである。ここはぜひ、イスラエルのために地道に声を挙げていきたいと思い、ホームページにコメントを書かせてもらった。(コメントというには長過ぎたか。)以下に、その全文を転載する。</p><p><br></p><p>※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※</p><p><br></p><p>こんにちは。市内在住の川崎貴洋と申します。この度、貴教会のホームページを拝見し、深い憂慮を覚え、コメントさせていただきました。「私たちはイスラエルの全ての軍事侵攻、ガザへの攻撃に抗議します」との文言に対してです。&nbsp;</p><p><br></p><p>どうして、聖書のイスラエルと現在のイスラエルを分断させてしまうのでしょうか。神は、一度交わされた約束を反故にされることはありません。イスラエルは今もなお、神によって選ばれ、愛されている民族なのです。&nbsp;</p><p><br></p><p>イスラエル国の存在自体が、そのことの最たるしるしです。世界の四方に散らされたイスラエルの民が、先祖たちが住んでいた土地に帰還し祖国を再建するという、聖書で繰り返し語られている預言の文字通りの成就だからです。私たちの世代は、神のことばの実現を直接目のあたりにできるという特権に与っているのです。しかし、もしこれだけのしるしを見ながらそれを否定するなら、かつてイエスが来られた時に多くのしるしを間近に見ていながら、イエスを信じなかった、パリサイ人たちと同じ過ちを犯すことになります。&nbsp;</p><p><br></p><p>「新約時代になって、イスラエルの地位は教会に置き換えられた」という考え方(置換神学)を持ち出されるかも知れません。しかしこの考えは神のご性質に著しく反するものです。もしイスラエルの選びが途中で取り消されたり変更されたりするものなら、私たちクリスチャンの救いだって、ほかの集団に「置き換えられ」、取り消されてしまうことになりかねません。イスラエルの選びを否定するなら、福音も神学も滅茶苦茶になってしまうのです。&nbsp;</p><p><br></p><p>もちろん、イスラエルが神に選ばれている民だということは、彼らが正義だということを意味してはいません。彼らにも間違いがたくさんあります。しかし今回の戦争に関しては、誤った情報やプロパガンダによって、イスラエルを不当に中傷する言説がまかり通っています。&nbsp;</p><p><br></p><p>そもそもこの戦争は、ハマスが一方的にイスラエルで目を覆うばかりの虐殺と破壊を行ったことで始まったことは覚えておいででしょうか。またハマスは今も数十人の人質を捕らえたままだということも覚えておいででしょうか。イスラエルは、人質奪還と、ハマスに二度と同じことを繰り返させないために戦っているのです。もっとも、戦争の継続に関してはイスラエル国内でも意見が分かれています。イスラエルが自由な民主主義国家だからこそです。&nbsp;</p><p><br></p><p>イスラエルがガザで大量虐殺・ジェノサイドを行っているかのように言われていますが、イスラエル軍が攻撃前に目標近辺の住民に予め警告するなどして、民間人の被害を最小限に留めるよう努めていることはご存知でしょうか。ガザの被害者数の根拠とされている「ガザ保健当局」が実はハマスと一体の組織で、その発表は早い話がハマスの自己申告であり、戦闘員や、イスラエルの攻撃と関係ない死者も含まれている可能性、また水増しが考えられるのに、無検証のまま垂れ流されている数字であることはご存知でしょうか。イスラエル軍が病院を攻撃したと大々的に報道された事件が、実はガザ内のテロ組織が発射したロケット弾が誤って落下したものだったことはご存知でしょうか。最近では、イスラエルの包囲で飢餓に苦しむやせ細った子どもの写真が出回りましたが、実際は全く無関係の病気が原因でやせていたのであり、しかも今はイタリアで治療を受けて元気になっていることはご存知でしょうか。&nbsp;</p><p><br></p><p>ガザの住民の苦しみを見て抗議をするなら、イスラエルではなくハマスとその後ろ盾であるイラン政府に対してこそするべきです。彼らは世界中から集められたパレスチナへの義援金を着服し、私服を肥やすためとテロ活動の武装のために使ってきたのです。しかし、民間人の生活改善のためにそれを使うことはしませんでした。一方子どもたちにはまだ幼いうちから、イスラエル人を憎み、人を殺すことを正義とする教育を施してきたのです。しかも国連の作った学校でです。貴ブログに「……全ての戦争に反対します。……間接的にしろそこに加担することに反対します。」と書いてらっしゃいましたが、もし貴教会がパレスチナ支援の募金などなさってましたら、間接的にテロの資金として使われている可能性があります。ハマスはまた、一般住宅や学校、病院、モスクなどにテロ用トンネルの出入り口を作ったり、武器を隠したりします。今回のように戦争になった時、民間人を「人間の盾」とすることで、国際世論の批判をイスラエルに向けることができるからです。また食糧支援の問題ですが、届けてもハマスがやって来て横取りし、(本来無償なのに)高値で転売するので一般人のところに届かないのです。こうしたハマスの横暴に抗おうものなら、拷問や処刑されてしまう恐怖政治が敷かれています。マスメディアもハマスに都合良いことしか言えません。というかアルジャジーラなどはハマスと一体で、記者がカメラの回ってないところでは戦闘員やってたりします。そのアルジャジーラからニュースを買ってるのがNHKです。こういうわけで、ガザの人々を真に苦しめているのはイスラエルではなくハマスなのです。&nbsp;</p><p><br></p><p>どうか、イスラエルに対する誤解を解いてください。不買運動なんかするよりも、イスラエルのために、祈ってください。彼らのほとんどは今もイエス・キリストを信じていません。しかし、聖書によれば、彼らが民族を挙げてイエスを信じる時が来ます(ローマ11章)。彼らもまた、イエスの十字架による救いを必要としている魂たちです。イスラエルの救いのために祈ってください。そして、イスラエルを祝福してください。イスラエルを祝福する者は祝福されます。しかしイスラエルを呪う者は呪われます。(創世12:3)どうか、呪いではなく、祝福を選び取ってください。&nbsp;</p><p><br></p><p>突然に、長々と、不躾なコメントを大変失礼致しました。貴教会の祝福をお祈り致します。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/cavazion2/entry-12962279605.html</link>
<pubDate>Tue, 07 Apr 2026 18:54:02 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>私が神社参拝をやめた理由</title>
<description>
<![CDATA[ <p>(2019年10月27日初出)&nbsp;</p><p><br></p><p>私は、クリスチャンでありながら、熱心に神社参拝をしていた時期がある。その理由はふたつあった。 ひとつめは、ある大きな困難に直面したことがきっかけである。信じて神に願っていたのにかなえられなかった件があり、私は「なぜですか」と神に尋ねた。納得のいかなかった私は、「直接啓示(目に見える幻だとか、耳に聞こえる声だとか)」による答えを求めた。しかし、神からの答えは一切なかった。ついに神を信じられなくなった私は、あろうことか神に対して「嫌がらせ」をしてやろうと思った。そして、神の最も嫌がること、すなわち偶像礼拝をしようとして、神社に行ったのである。(神道は仏像のような形ある像を拝まないので狭義の「偶像礼拝」ではないとされるが、ここでは異教という意味での広義の「偶像礼拝」を指す。)&nbsp;</p><p><br></p><p>ふたつめの理由は、「日ユ同祖論」に傾倒し過ぎたことである。「日本人は古代イスラエル人の子孫である」とするこの説では、神道は古代イスラエルの信仰や原始キリスト教を受け継いで成立したものだとされる。神社はイスラエルの幕屋・神殿と構造が同じだとか、神輿は契約の箱を模したものであるとか言われる。そして、神社に祀られている神々も、本来はキリスト教の三位一体の神を表していると言う。天岩戸から出てきた天照大神は横穴式の墓から復活したイエスを指しているとか、稲荷は「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」を表すラテン文字「ＩＮＲＩ」から来ているとか、八幡(ヤハタ)は「ユダヤ」を意味するヘブライ語「イェフダー」のなまったものだとか。&nbsp;</p><p><br></p><p>私は、この説に興味を持つあまり、自分も実際に神社に行ってみたい、神社で拝んでみたいという誘惑に駆られた。そして、ついに神社参拝を実行したのである。しかし、先述とは矛盾するが、私は異教の偶像礼拝をしているという認識はなかった。いや、偶像礼拝ではないと自分に言い聞かせていた。それは、神社に祀られている神々は本来は聖書の神なのだから、自分は別の神を拝んでいるわけではないという言い分。また、神はどこにでもご臨在されるのだから、神社という場所で、神道の作法で、あくまで唯一の聖書の神を拝んでいるのだという理由付けからであった。&nbsp;</p><p><br></p><p>私は次第に神社参拝にのめり込み、毎日のように神社に行き、合間を見てはあちこちの神社を訪ね歩いた。また、ネット上でクリスチャンに神社参拝を推奨する記事を盛んに投稿したりもした。一方、当時は教会からも離れがちで、私生活も乱れがちだった。一方、家族や他のクリスチャンからは神社参拝を理解・賛成してもらえなかった。そして、自分自身でも、正直常に疑問はあった。そんなこんなで、私は神社参拝を自粛することにした。もし私自身は偶像礼拝をしているつもりではなくても、私の行為で周囲の人々に誤解やつまずきを与えるなら、私はそれを避けるべきである(第一コリント8章参照)。&nbsp;</p><p><br></p><p>はじめのうちはまだまだ未練があったが、次第に私の心も解けてきた。一番のポイントは、ごく普通に、毎日の生活の中で、 静かに、地味に、聖書に向き合ったことである。神は、ほかでもない聖書から、私に語ってくださる。幻や声といった直接啓示ではなく、ただ聖書から。そのことを体験していく中で、神への信頼が回復していった。&nbsp;</p><p><br></p><p>また、いくつかのきっかけ(キリスト教雑誌やネットの記事)が同時期に重なって、今まで無知だった正教(東方教会)に興味を持つようになり、更にそこから発展してキリスト教会の歴史に強い興味を抱くようになった。―――それまで、聖書完結後、すなわち２世紀以降のキリスト教の歴史には関心がなかった。それどころか、ローマ帝国に公認・国教化された後のキリスト教は堕落しており、このローマ教会の流れを汲む正教やカトリック、プロテスタントといったいわゆる「正統派」のキリスト教は、正統どころかむしろ歪んだものだと理解していた。しかし自分はこの堕落したキリスト教の歴史をバイパスして、聖書を読むことを通じて、1世紀の純粋な原始キリスト教会から直接信仰を受け継いでいると思っていた。そして、神道には、原始キリスト教から直接伝えられた信仰の要素が保存されていると考えた。&nbsp;</p><p><br></p><p>ところが、キリスト教の歴史を学ぶうちに、私は原始キリスト教から一足飛びに直接信仰を受け継いだわけでは決してなく、ましてや神道を経由してでもなく、長いキリスト教会の歴史を介して信仰を受け継いだという事実に気がついたのである。具体的に言うなら、エルサレムのユダヤ人たちによる原始キリスト教会から始まった福音は、シリアのアンティオキアで異邦人に伝えられ(今日のシリア正教など東方諸派につながる教会)、小アジア(現トルコ)・ギリシアに広まり(今日の正教)、ローマからヨーロッパ全土に定着し(今日のカトリック)、宗教改革を経て(今日のプロテスタント)、英国からアメリカに渡って発展し(今日の福音派)、この日本の私たちのところにまで至ったのだ。その過程にはたくさんの過ちや失敗もあっただろう。(私は、今もなおカトリックとは教理上根本的に相容れないと考えている。)だがそれでも神は教会を用いてこられた。私が直接聖書を読むことができるのも、キリスト教会がそれを翻訳し頒布してくれたおかげである。それがわかった時、私が神道に留まる必要はなくなった。むしろ、「教会」というものの大切さを悟り、離れていた母教会の交わりへと復帰したのである。&nbsp;</p><p><br></p><p>古代にキリスト教が日本に伝わり、神道の元になった可能性までは否定しない。しかし仮にそれが事実だとしても、今の神道は聖書の教えとは似ても似つかない多神教に変質している。日本の民族精神を成す文化として尊ぶべき側面、グレーゾーンの要素はあるだろう。だが神社参拝のような直接的な宗教行為は、やはり「偶像礼拝」としてクリスチャンは避けるべきだと今は考える。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/cavazion2/entry-12962040178.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Apr 2026 14:29:01 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>飛鳥昭雄説に隠されたモルモン教の罠</title>
<description>
<![CDATA[ (2016年7月14日初出)&nbsp;<div><br></div><div>アンドリュー・ジャクソン著『モルモン教とキリスト教はどう違うのか』(いのちのことば社)を読んだ。なぜこの本を読んだかというと、私はかつて、自分でも気がつかないうちにモルモン教の思想に侵され、強く影響を受けていたからだ。 どういうことかというと、私は「古代日本にイスラエル人が渡来した」とする、いわゆる「日ユ同祖論」に強く関心を持ってきたが、その過程で飛鳥昭雄氏という人物の著書をたくさん読んだ。「サイエンス・エンターテイナー」を自称する飛鳥氏は、本業は漫画家であるが、オカルト関係の本を多数著しており、その筋ではかなり有名な人である。彼の取り扱う分野は多岐に渡っていて、日ユ同祖論を始め、ノアの大洪水、天文、ＵＦＯ、ＵＭＡ、ノストラダムス、地球空洞論、邪馬台国、古代文明、陰陽道、河童、宇宙人、陰謀論、ヒトラー、ピラミッド、ムー大陸、心霊、妖怪、アポロ計画等、およそ「ミステリー」と呼ばれるものはすべて網羅している。すごいのは、これらがすべて互いに関連しており、一本の線でつながっていることだ。その論理の巧みさに、思わず引き込まれ、納得してしまう。実際、飛鳥氏が取り上げている資料や彼が主張する仮説の中には、真実が含まれているのかも知れない。しかし、彼はあくまで「エンターテイナー」であり、話をおもしろくするための捏造や誇張、脚色が添えられていると思われる。だが、その違いを見分けることは、容易ではない。&nbsp;</div><div><br></div><div>そして、飛鳥氏の著作を読む時に気がつかされるのは、彼は聖書に書かれていることが真実だと信じていることだ。その辺の中途半端なクリスチャンより、ずっと忠実に聖書を信じている。彼は、神による天地創造を信じている。彼は地球の歴史が約6000年であることを信じている。出エジプトの時に海が割れたことを信じている。イエスの行った奇蹟を信じている。イエスが死後復活したことを信じている。イエスが神であると信じている。殊に、進化論を真実とする「アカデミズム」の常識を否定する飛鳥氏の主張は、聖書を真実とし神が世界を創造したとする「創造論」と立場が同じだ。現代科学の常識を否定する創造論は、一般世間の感覚ではオカルトといっしょくたにされてしまう。そういう意味では、創造論を掲げる福音派のクリスチャンは飛鳥氏と「共闘」できるかも知れない。事実、創造論や日ユ同祖論について多数の著作がある久保有政師は、オカルト誌『ムー』にも寄稿しているが、その方面で飛鳥氏と共著を出したり、情報交換を行ったりしている。&nbsp;</div><div><br></div><div>だが、何かが違う。何とも言えぬ違和感がある。確かに彼は聖書を信じており、イエスの十字架と復活を信じている。しかし、その十字架の意味がすっぽり抜けているのだ。私たちの罪を赦すために私たちの身代わりとして十字架で死に、私たちに永遠のいのちを与えるために復活したという、福音の根本が語られていないのである。それもそのはず、彼はクリスチャンではなく、異端のモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)の信徒だったのだ。そのこと自体は割と早くから知っていた。だが、そうであっても、彼が唱える仮説や情報自体は、必ずしも否定されるものではないと割り切っていた。&nbsp;</div><div><br></div><div>ところが、飛鳥氏の主張の中には、モルモン教の教理を背景としたものが多数あることが、だんだんわかってきた。私はモルモン教について、「三大異端」(あと二つはエホバの証人と統一協会)のひとつと認識し否定してきたが、その教理については、「聖書以外に『モルモン書』を聖典としている」くらいしか知らなかった。しかし、ネットなどで情報を得るにしたがって、その辺の事情が見えてきたのである。そんな折り、本書を見つけたので、飛鳥説のモルモン教的背景を確認できるのではないかと思い、読んでみた次第だ。そこで学んだモルモン教の教理全般について触れることは、本稿の主題ではないので省略する。だが、その中で飛鳥説と深く関わりのあると思われる点にしぼって、いくつか挙げてみたい。&nbsp;</div><div><br></div><div>最も顕著な要素は、三位一体に関してである。「神は唯一であり、『父・子・聖霊』の三つの位格を持っている」とする「三位一体」は、正統派キリスト教の根本を成す最重要教理だ。ところが、モルモン教では三位一体を否定し、「父・子・聖霊」は互いに異なる三人の神々だと見なす。そして、この三人の神々が「神会」なるものを構成していると考える。要するに、モルモン教は多神教なのだ。飛鳥氏も三位一体を否定し、「絶対三神唯一神会」なる表現を用いている。そして、日本神話に登場する「造化三神」や京都の「蚕の社」にある「三柱鳥居」などは、この「絶対三神唯一神会」を反映したものであるとする。&nbsp;</div><div><br></div><div>またモルモン教では、ネイティブ・アメリカンの先祖は、太平洋を横断してアメリカ大陸に到達した古代イスラエル人だとする。「ニーファイ人」「レーマン人」と呼ばれる彼らが遺したのが、今日の『モルモン書』だという。日本人の先祖をイスラエル人だとする日ユ同祖論と共通するものがある。飛鳥氏は、太平洋に乗り出したイスラエル人の流れが、一部はアメリカ大陸に着き、一部は日本列島に来て縄文人になったとする。</div><div>&nbsp;</div><div>そして飛鳥説全体を貫くキーワードは、ユダヤ密教「カッバーラ(カバラ)」である。モルモン教の教理はカッバーラを反映した部分が多いらしい。本書ではカッバーラには直接言及されてはいなかったが、「モルモン教徒は、メルキゼデク神権は最初アダムに与えられたもので、末日聖徒教会内のすべての役職の上に及ぶ権威と力を持っていると信じている。(94～95頁)」と記されているものがそれだと思われる。そして、この「カッバーラ」を秘儀として伝えている(らしい)秘密結社が「フリーメイソン」だ。モルモン教の創始者ジョセフ・スミスはフリーメイソンの会員で、モルモン教の「神殿」の儀式はフリーメイソンから借用したものだという(201頁)。飛鳥氏は、著書『失われたフリーメイソン「釈迦」の謎』(学研)で「カッバーラをもって世界統一宗教を成し遂げようとするフリーメーソンには、ひとつだけ重大な弱点がある。預言者である。『神権』をもった本物の預言者がいないのだ。…絶対神ヤハウェ＝イエス・キリストから与えられた『神権』を手にした預言者が世に出てくることを近代フリーメーソンは信じ、捜し求めているのだ。(352～353頁)」と述べている。「モルモン教―フリーメイソン―カッバーラ」というラインが見てとれる。&nbsp;</div><div><br></div><div>ほかにもいろいろあるが、根本的なのは、モルモン教では、真の教会は使徒たちの死の直後に起こった背教によって失われてしまったと考えていることだ(81頁)。既存の「正統派キリスト教会(カトリック、正教、プロテスタント)」はみなサタンによる背教の教会ということになる。モルモン教はこの「背教」した一般の教会のことを「ギリシャ化されたキリスト教」と呼ぶ。キリスト教会は異邦人世界に広がるにつれて聖書の真理を妥協させ、ギリシャの文化や哲学に同化させてしまったというのだ。ギリシャ化される前の「ヘブル的」あるいは「聖書的」なキリスト教こそ真の教会だという(85頁)。そして、ジョセフ・スミスに与えられた啓示によって回復した唯一の真の教会こそが、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)だと言うのである。&nbsp;</div><div><br></div><div>一方飛鳥氏は、初代のユダヤ人信徒からなる「エルサレム教団」の「原始キリスト教徒」たちが、真理であるカッバーラを携えて日本にやって来たと主張する。彼らがＡＤ70年のエルサレム陥落の時にヨルダン川東岸のペラに逃れたところまでは、わかっている。飛鳥氏は、彼らが更に東遷し、その末裔が日本にたどり着いて、謎多き渡来人「秦氏(はたし)」になったとする。秦氏は多くの神社を創建し、現在の神道の基礎を造った。そればかりではなく仏教にも深く関わっている。エルサレム教団秦氏によって受け継がれた真の教会は、カッバーラの仕掛けで日本に隠されているというのが飛鳥説だ。そして、それは世の終わりに明らかにされるという。「真の教会は使徒たちの死の直後(１世紀末)に失われた」とするモルモン教と「真の教会は１世紀末のエルサレム教団失踪により失われた」とする飛鳥説。「失われた真の教会はイスラエル人の末裔であるネイティブ・アメリカンによって隠されていた」とするモルモン教と「失われた真の教会はイスラエル人の子孫である日本に隠されている」とする飛鳥説。そして「隠されていた真理は、末日にジョセフ・スミスへの啓示によって明らかにされた」とするモルモン教と「隠されている真理は世の終わりに明らかにされる」とする飛鳥説。アメリカ大陸を日本列島に置き換えれば、見事に符合する。&nbsp;</div><div><br></div><div>そして、モルモン教の「信仰箇条第十条」では「わたしたちは、イスラエルの文字通りの集合と十部族の回復とを信じる。」と謳われているそうだ(233頁)。イスラエルの「失われた十部族」は、日ユ同祖論の要である。飛鳥説では、複数の系統のイスラエル人が数次に渡って日本に来たとされており、先述の太平洋からの集団やエルサレム教団もあるが、メインとなったのはやはり北王国系の十部族とされる。彼らが、皇室の祖になったという。モルモン教では十部族の回復が「末日」の鍵を握っているようだが、その十部族は日本から現れるというのが飛鳥説である。&nbsp;</div><div><br></div><div>整理すると、「真の教会たる原始キリスト教・エルサレム教団は１世紀末に失われ、その真理たるカッバーラはイスラエル人の子孫によって隠された。以来、サタンによってギリシャ化した背教の教会が『正統派教会(カトリック、正教、プロテスタント)』として世界に広まっているが、末日にイスラエル人の子孫によって真の教会が回復する」というのがモルモン教なり飛鳥昭雄氏なりの考えなのだ。ただ、舞台がアメリカ大陸か日本列島かの違いである。&nbsp;</div><div><br></div><div>そして、この考え方が、かつての私の考え方と一致したのだ。私は、「ユダヤ人信徒からなる初代教会こそ、理想の純粋な教会であった。しかし異邦人にキリスト教が広まっていく過程で本来のユダヤ性が失われ、教会はギリシャ化し、ローマ帝国の国教化されるに至って堕落した。そしてクリスマスや、聖人・マリア崇敬などの異教的要素が教会に入ってきた。私たちは、このローマ教会の流れを汲む『正統派キリスト教(カトリック、正教、プロテスタント)』の伝統を断ち、ヘブル的・聖書的な初代教会に直接つながらなければならない」という考えを持っていた。カトリック的な迷信から離れて純粋な聖書信仰に立ち返ることは、宗教改革以来プロテスタントの追求してきたところである。またユダヤ人に与えられた神の救いの計画を知り、キリスト教のヘブル的ルーツを理解することの重要さは、近年認識されつつある。ところが、これらを追求するあまり、私は、一見似ている飛鳥昭雄氏の主張、ひいてはモルモン教の教えに、知らず知らず取り込まれていたのだ。特に、正統派キリスト教の教える三位一体の神観に疑問を持ち、モルモン教の多神教的な神観に惹かれた。三位一体は直接聖書に書かれているわけではなく、堕落したローマ教会の主導した公会議で決められたものだと考えたからだ。&nbsp;</div><div><br></div><div>しかし、三位一体こそ「正統」と「異端」を分ける最後の砦である。この一線を超えると、真理から外れ、完全に異端となってしまう。私はそのことだけはわかっていた。そして、何とか踏みとどまることができた。 また、私たちは、初代教会、すなわちユダヤ人の「原始キリスト教徒」からなる「エルサレム教団」から一足飛びに信仰を伝えられたのではない。ジョセフ・スミスのような「預言者」が現れて隠されていた真理を発見したわけでもなければ、秦氏によって日本にもたらされた原始キリスト教の奥義を代々受け継いだわけでもない。たとえ途中に堕落や過ちがあったにせよ、ローマ帝国を経由してヨーロッパで発展した「正統派キリスト教(カトリック、正教、プロテスタント)」の歴史・伝統を介して、キリストの福音を受け取ったのである。そのことに気づき、歴史観が変わってゆき、「教会」を受け入れられるようになってきた。&nbsp;</div><div><br></div><div>このブログの前身である旧版『シオンの城壁』(現在は閉鎖)の過去記事を振り返ってみると、当時は自覚しないまま、どれほど「飛鳥史観」に傾倒していたかがわかる。何しろ、「神道には原始キリスト教の奥義が隠されている」との考えから、一時期は熱心に神社参拝をしていたのだから。今となっては恐ろしい限りだ。その状態から、何年もかけて、ここまで神が連れ戻してくださったのである。</div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/cavazion2/entry-12961937553.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Apr 2026 15:16:03 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『ギリシャ人の真実』を読んで</title>
<description>
<![CDATA[ <p>(2015年12月19日初出)&nbsp;</p><p><br></p><p>柳田富美子著『ギリシャ人の真実』(講談社)を読んだ。多くの日本人にとって「『ギリシャ』といえば、『古代ギリシャ』のイメージと『紺碧のエーゲ海』くらい」で、「現代のギリシャについてはあまり知られていなかった。」(尚、私は普段「ギリシア」という表記を使っているが、本稿では「ギリシャ」に統一する。)しかし、この数年のギリシャ財政危機のニュースで、「それまでとはまったく違った視点での『ギリシャイメージ』が世の中に広ま」っている。本書は、ギリシャをこよなく愛する著者が、財政危機の経緯やギリシャの歴史・文化を解説すると共に、この国で暮らす人々の姿を生き生きと描き出したものである。&nbsp;</p><p><br></p><p>私にとっても、ギリシャという国は盲点であった。他の多くの日本人同様、「古代ギリシャの神話・哲学」くらいのイメージしかなかった。また、経済には全くうといので、財政危機のニュースにもほとんど目を留めていなかった。だが、本書の中でも取り上げられていたが、ギリシャ語は新約聖書が書かれた「聖書の言語」である。だから、クリスチャンにとって、ギリシャという国は重要な存在であるはずだ。そしてこの本を読むと、聖書時代のギリシャ人の精神は、現代のギリシャ人にも脈々と受け継がれていることが見えてくるのである。&nbsp;</p><p><br></p><p>本書で繰り返し言及されているのは、ギリシャ人たちがおしゃべり好きだということだ。特に目的もなく外に出て散歩したり、カフェに行ったり、互いに家へ食事に招きあったりしては、友だちや家族とおしゃべりに興じるのが何よりの楽しみなのだそうだ。だが、財政危機に陥ってからは、おしゃべりの話題もお金の不安や政治への不満ばかりとなってしまい、明るかった人々の表情も暗くなってしまったという。一方、彼らは好奇心が強く、「たとえば、たまたま日本人の私が目の前にいると、せっかくだからと日本について何でも聞こうとする…自分の知らないことは何でも知りたい、興味津々という感じ」といった具合だ。これらは、聖書の「使徒の働き(使徒言行録)」に記されたアテネのギリシャ人たちの姿をほうふつとさせる。&nbsp;</p><p><br></p><p>使徒17:19そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。20私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」21アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。&nbsp;</p><p><br></p><p>また、ギリシャ人は「数字と金額で考えるのが得意」だという。「頭脳明晰で論理的な話がうまくて、…いろんなものを数字で判断して考え、計算や判断も速い。機転もきく。」そして、古代ギリシャ人は「自然界の現象を探究して数学や物理学、天文学などを発展させた」。だから、現在日本でも用いられている自然科学の分野の外来語には、ギリシャ語が語源になっているものが多い(「エネルギー」「トラウマ」など)。「数千年にわたって人類が受け継いで来た『知』をたどっていくと古代ギリシャにまで遡る。」ギリシャ人が知識を重んじていたことは、聖書にも述べられている。行いを重視するユダヤ人とは対照的だ。&nbsp;</p><p><br></p><p>第一コリント1：22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。&nbsp;</p><p><br></p><p>だが、「古代ギリシャ神話の世界は、彼らにとってはお伽話の世界」に過ぎない。現代のギリシャ人はキリスト教徒だ。ギリシャのキリスト教はギリシャ正教である。ギリシャ人のアイデンティティとは「ギリシャ正教を信仰するキリスト教徒」であることと、「ギリシャ語を話す」ということであるという。「ギリシャ人の生活にはキリスト教の信仰と風俗習慣が骨の髄まで染み込んでいるのだ。」たとえば、子供が生まれたら幼児洗礼を受けさせる。正式な命名は洗礼式の時に行われ、その時立ち会う「名付け親」になるのは大変名誉なことだ。名前はキリスト教の聖人の名や古代ギリシャの英雄の名から取られることが多いが、「名前を祝う日(ネームデー)」というのがあるそうだ。一年中毎日「聖人○○の日」というのが定められており、その聖人と同じ名前の人はお祝いをするのである。&nbsp;</p><p><br></p><p>これら正教の風習は、プロテスタントの目から見ると奇異であり、教理的に受け入れがたいものではある。また、ギリシャでは神父は公務員であるというのにも驚いた。しかし、ギリシャはもっとも古くからキリスト教が栄えた地であり、この地で初期のキリスト教が発展したのは確かである。(シリアも同様。)何より、先にも述べたとおり新約聖書はギリシャ語で書かれた。「キリスト教が広まっていく時代に、いかにギリシャ語が中心であり、重要であったか」。&nbsp;</p><p><br></p><p>私は、これまで聖書の背景を担う存在として、イスラエル・ユダヤの文化に強い関心を抱いてきた。だが、聖書をより深く理解するためには、ギリシャを知ることも必要であろう。波乱の現代ギリシャも含めて、少しはギリシャという国・ギリシャ人という民族もに関心を持とうかと思った。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/cavazion2/entry-12961104891.html</link>
<pubDate>Fri, 27 Mar 2026 21:48:25 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>現代に成就した聖書の預言</title>
<description>
<![CDATA[ <p>（2004年3月30日初出）&nbsp;</p><p><br></p><p>聖書にはたくさんの預言が書かれている。聖書のいう「預言」とは字のとおり「神のことばを預かって人に伝えること」であり、その内容には様々なものが含まれる。だが、その中には未来を告げる「予言」も多数述べられている。聖書の「予言」は怪しげな占いによる予知ではない。永遠から永遠まで存在し、歴史のすべてを支配するただひとりのお方である神が、そのなそうとしておられる計画を述べたものであるから、信ずべき確かなことばであるのだ。 その「予言」には既に成就したもの、今成就しているもの、まだ成就していないものがある。例えばＢＣ６～８世紀頃に書かれた旧約聖書の預言には、ＢＣ３～４世紀頃のギリシア人王朝の歴史や、新約聖書に描かれたＡＤ１世紀のキリストの生涯が詳細に予言されている。だが、懐疑的な人々は「これらの預言が書かれたのは実際はもっと後代である」とか「新約聖書の記事は旧約聖書の預言に合うよう創作された」と言って信じない。&nbsp;</p><p><br></p><p>しかし、聖書の中には現代、つまり私たちの生きている20～21世紀のことも正確に予言されているのだ。以下そのうちふたつのことを紹介したい。 旧約聖書エレミヤ書16：14～15には、「その日には・・・『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」と書いてある。同様の預言はエレミヤ３：18、ゼカリヤ２：６など数箇所ある。国を滅ぼされ世界に散らされたイスラエル人が再び祖国に帰ってくるという予言は聖書の至るところにあり、歴史の中で実際に何度か起こっていることであるが、ここで「北の国から」帰ってくると強調されていることに注目してほしい。&nbsp;</p><p><br></p><p>当時イスラエル（ユダ王国）はバビロンによって滅ぼされ、囚われの身となっていた。やがて彼らは解放され祖国に帰ってくるが、そのルートはユーフラテス川沿いに北回りで来るものであった。だからこれは、ひとつにはこのバビロンからの解放の予言と見ることができるだろう。だが、バビロンとは現在のイラク、つまりイスラエルの東の国である。予言された「北の国」にはもっと別の意味があるのではないか。&nbsp;</p><p><br></p><p>ＡＤ１世紀ローマによって再び国を滅ぼされたイスラエル人（ユダヤ人）は実に1900年に渡って世界を放浪し、各地に拡がっていった。だが、19世紀の終わりからユダヤ人のイスラエルの地（パレスチナ）への帰還が増大し、遂に1948年、ユダヤ人国家イスラエルが建国されたのである。だが、当時のソ連にも大量のユダヤ人が住んでいたが、彼らは東西冷戦のためイスラエルに渡ることができなかった。&nbsp;</p><p><br></p><p>しかし90年代になって冷戦が終決しソ連が崩壊すると、大量のユダヤ人が旧ソ連からイスラエルに帰還するようになる。その数はひと月に五千人という規模であり、多少ペースは落ちたものの現在も続いている。ロシア系ユダヤ人はイスラエルでは一大勢力となり、ロシアで生活できなくなりイスラエルにやってきた旧ソ連の科学者・技術者たちがイスラエルを一流ハイテク国家に成長させたのだ。さて、ロシアはイスラエルから見てどちらの方角に当たるだろうか。もちろん北である。紀元前に書かれたあの予言は、今こうして文字通り成就しているのだ。&nbsp;</p><p><br></p><p>もうひとつ、エゼキエル書36章を見てみよう。この章では、イスラエル人が祖国を追われて諸国に散らされることでその地は荒れ果てるが、神は再び彼らを連れ戻し、廃墟は建て直され、荒れ地が豊かな耕地となり木々が植えられるようになると予言されている。 ローマによってユダヤ人が追放された後イスラエルの地は、住む人も少なくなり次第に荒れ果てていった。オスマン朝の時代には税金対策のために木々も切り倒され、あとはマラリアのはびこる湿地と作物のできない砂地が広がるばかりだったのである。&nbsp;</p><p><br></p><p>帰還してこの地に入植し始めたユダヤ人たちは、たいへんな苦労をしながら開拓を進めていった。彼らは湿地には水分をたくさん吸収するユーカリの木を植えた。余分な水分を取り除かれた湿地はよい土地に変わり、木が一本もなくなっていたところに再び木々が生い茂るようになった。現在もイスラエルに行くと緑豊かなユーカリの森が至るところに広がっている。&nbsp;</p><p><br></p><p>また砂地ではその特性を生かした農業を開発し、南部の砂漠地帯では潅漑が行なわれ、不毛の土地は肥沃な農地に変貌した。今イスラエルではコンピューター管理による最先端の農業が行なわれ、数少ない食糧完全自給国のひとつとなっている。こうして豊かな土地となったイスラエルには多くの人が住み、古代の廃墟の傍らには新しい町々が建設されている。正にエゼキエル書の予言のとおりの光景が広がっているわけだ。&nbsp;</p><p><br></p><p>これらは私たちが生きている現代の話である。イスラエルに行けば、聖書の予言が文字通り実現していることを私たちは今この目ではっきり見ることができるのだ。聖書がいかに確かな、信ずるに値することばであるかおわかりいただけるだろうか。これからこのエッセイでは、この聖書について、またイスラエルについて、多くを語ってゆきたいと思う。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/cavazion2/entry-12960854985.html</link>
<pubDate>Wed, 25 Mar 2026 13:35:08 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ブログ「新シオンの城壁」</title>
<description>
<![CDATA[ <p>メインブログ「新シオンの城壁」は下記Seesaaブログにて公開中です。キリスト教、イスラエル・ユダヤのことを中心に綴っています。ぜひお越しください。</p><p>http://cavazion.seesaa.net/</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/cavazion2/entry-12959924062.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Mar 2026 16:15:12 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
