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<title>世界遺産検定受検ブログ</title>
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<description>世界遺産検定を受ける事にしました。世界遺産に関する情報や学習経過などをUPしていきます。学術的というより、娯楽要素が強い内容になるでしょう。</description>
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<title>ペトラの古代都市</title>
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<![CDATA[ <p>ペトラはパルミラと並ぶ隊商都市で、紀元前２世紀ごろに遊牧民ナバタイ人が築いた岩山都市で紀元前３世紀頃栄えた。ペトラの都市は理想に近いものであったらしく、奴隷がほとんどおらず、貧困者がなく、王はいたって公平で秩序正しい民主的な政治を行なったと言われています。<br>建造物や彫刻群に古代東方文化とヘレニズム文化との融合が見られています。<br>しかし、自然条件が悪化したのと、ペトラを経由しない別の交易路が作られたことで都市としての力を失い、衰退の一途をたどり、やがて歴史から忘れ去られていきました。<br>この都市が再び日の目を見るのは１２００年後のことでした。<br>１９世紀にスイス人学者が古文書に書かれている“紅バラの街”を探して９ヵ月後についに発見しました。このエル・カズネ神殿が姿を現した時の感動は何事にも変えがたいものだったろうと思います。</p><p>ペトラの入口は、谷底を這うような狭い岩の回廊を抜けると突然、視界が開け、巨大な建造物が現れます。高さ３０メートル、岩をくりぬいて築かれた「エル・カズネ～王の宝物殿」と呼ばれる建造物で、ヘレニズム文化とイスラム文化が融合した建物は見事というしかありません。また、遺跡にはやたらと葡萄の葉などの彫刻が目につきますが、これは酒を飲まなかったナバタイ人が、ヘ</p><p>レニズムの影響でぶどう酒を飲むようになった証拠だと言われています。</p><p>この神殿は『インディー・ジョーンズ最後の聖戦』のロケに使われた。ハリソン・フォード扮する考古学者のジョーンズ博士がキリストの聖杯を求めてこの神殿の中に入っていくシーンがあります。</p><p>当事は交易によって得た富が蓄えられていましたが、当然ながら現在はがらんどうになっています。壁は５彩の美しい縞模様になっています。</p><p>エル・カズネからさらに先に進むとカッパドキアで見たような岩穴住居のある場所に出ますが、ここには王家の立派な墳墓があり、その数はおよそ５００にも及びます。<br>栄華を誇ったペトラも、１０６年にローマ帝国によって征服されたことによりその歴史を閉じました。</p><br>
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<pubDate>Sat, 19 May 2007 22:19:35 +0900</pubDate>
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<title>アッシジのサン・フランチェスコ聖堂と関連建造物郡</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#0000ff"><strong>登録年：</strong>2000年</font></p><p><font color="#0000ff"><strong>登録範囲：</strong>アッシジのサンフランチェスコ聖堂ほか、サン・ルフィーノ大聖堂、サンタ・キアラ聖堂、サン・ピエトロ聖堂などサン・フランチェスコゆかりの建築物郡</font></p><p><font color="#0000ff"><br></font></p><p><font color="#000000">ＧＷ中は旅行、その後は様々な修羅場が待っていたため、すっかりＢＬＯＧをサボってしまいました。<br>復活第一弾は私の一番のお気に入りの街アッシジについて語ります。</font></p><p><br><font color="#000000">古代からイタリアは城塞としての役割も兼ねて丘の上に街を作りました。不便な位置にあるため、開発から取り残されたが、それが幸いして昔日の面影を今に留め、詩情豊かな雰囲気を醸し出</font><font color="#000000">しています。時が止まったような小さな町々はただでさえどこか浮世離れした印象を与えるものですが、このアッシジは聖フランチェスコゆかりの聖地という先入観もあって、神聖さと同時にどこ</font></p><p><font color="#000000">か懐かしい気持ちにさえさせられます。聖地でありながら、異教徒を排除しようといったような雰囲気はかんじられず、また三大宗教の聖地エルサレムのような宗教的緊張感も感じさせません。</font></p><p><font color="#000000">薔薇色のレンガで統一された街は中世独特の暗さはなく、どこか包み込むように温かさを感じさせます。<br>扉や窓を取り替えて、屋根の上の邪魔なアンテナなど現代的なものを取り去ればそのまま中世の映画を撮影することができるのは驚愕ものでこれはもう奇跡と言ってもいいでしょう。</font></p><p><font color="#000000"> アッシジはイタリアの数ある街の中でも最も古い歴史を持つ町の一つですが、この街を世界的に知らしめているのは聖人フランチェスコの存在です。<br>　聖フランチェスコは1181年、アッシジの裕福な商人の息子として生まれました。<br>父の財力にものを言わせて、友人達と放蕩三昧の生活を送っていたフランチェスコですが、その彼に転機が訪れたのはペルージャとの戦争でした。<br>　当時のイタリアを支配していたのはヨーロッパの広範囲に強い影響力を持っていた神聖ローマ帝国でした。<br>　その時代、商人と職人を中心とした支配階級が新勢力として台頭し、その財にものを言わせて、政治的な発言力を徐々に強めていった。彼らは従来の封建体制に反発し、独立と自治を求め</font><font color="#000000">て幾度となく帝国と衝突しました。そして、1998年、アッシジはついに神聖ローマ帝国の力の及ばない教皇領に支配権を渡す事になり、アッシジから追い出された帝国配下の貴族達はやがて、</font></p><p><font color="#000000">アッシジと敵対関係にあったペルージャに亡命。政権奪回を図る彼らはペルージャを後ろ盾にアッシジに宣戦布告。それまで親の財力を背景に、思うままに青春を謳歌していたフランチェスコ</font><font color="#000000">も防衛のために戦争に参加せざるを得なくなりました。元々騎士に憧れていた事もあって勇敢に闘いますが、やがてペルージャの捕虜となって１年も獄中に繋がれてしまいます。<br>　父が賠償金を払ってようやく捕虜生活から解放されましたが、元々、あまり頑健でなかった彼はこの過酷な捕虜生活ですっかり健康を害してしまい、帰国してからしばらく病床に伏してしまいま</font><font color="#000000">した。<br>ようやく起き上がれるようになった彼を慰めたのは故郷ウンブリアの美しい自然でした。<br>　ウンブリアは陰を意味するラテン語のウンブラを語源とする、緑豊かな起伏に富んだ美しい地方で、５月になるとポピーの花が一面に咲き乱れる光景を見る事ができます。フランチェスコを育</font><font color="#000000">んだのはこのウンブリアの自然であり、森の中で陽の光を浴び、花や蝶と戯れているうちに彼の心の中に変化が起こりました。<br>『教会を修復せよ』という神の声を聞き、廃墟と化していたサン・ダミアーノ教会を修復し始めたのです。<br>そして、家も地位も捨て、神に仕える道を選び、清貧を是とする彼の元には多くの賛同者が集まりました。<br>　当時の教会は政治と結びつく事によって莫大な財産を持ち、多くの聖職者や修道者の中にはキリスト教本来の教えからはなはだしく逸脱した贅沢な生活を送っていた者が少なくなく、それに</font><font color="#000000">伴う精神的荒廃など多くの弊害によって、人々は早急に教会の刷新と改革を必要としていたのです。<br>　時の教皇はイノセント三世。彼は政治的に優れた才能を持ち、当時絶大な権力を治めていましたが、一方で精神的なものに価値を求める優れた宗教家であり、教会の刷新の必要性を感じ、</font><font color="#000000">キリストの教えのもと貧しく真剣に生きようとする人々に理解を示す柔軟な心を持っていました。フランチェスコがこのような教皇の時代にローマを訪れたのは幸運だったと言えるでしょう。</font></p><p><font color="#000000">　アッシジを訪れる巡礼者が真っ先に聖堂フランチェスコの死後二年後に着工されたもので、フランチェスコの心と肉体を納める神聖な教会であり、巡礼者が第一に訪れる名所です。<br>　フランチェスコの死後半年後にアッシジのシモン・プッチアレロという人が、当時死刑場であった土地をフランチェスコ兄弟会に寄付した所を聖堂の建立場所として定めた。この壮大な大聖堂</font><font color="#000000">とそれに付属する大修道院の建造を計画したのは、フランシスコ会の第二総会長となったフラテ・エリアである。芸術的、建築学的な見地からも注目に値する建物であり、多くの画家がフランチ</font></p><p><font color="#000000">ェスコの絵を提供している。フレスコ画は教会の装飾の意味もあるが、最大の理由は字の読めない人々の為に聖書の教えを伝える役目を果たしていた。事実、壁画の大部分はテーマを聖書</font><font color="#000000">から取っており、いわゆる「目で読む聖書」と呼ばれている。１３世紀のイタリアはその大半が貧しい農民で占められ、子供たちも貴重な労働力として畑に出ていました。当然ながら学校に行く費</font></p><p><font color="#000000">用も時間的余裕もなく、字が読めない人が少なくなかったのです。<br>　私の最大の目的は上部大聖堂の壁面に描かれたジョットによるフランチェスコの壁画である。この中の一枚にあのあまりにも有名な「小鳥に説教するフランチェスコ」の画があるのである。高校</font><font color="#000000">の美術の教科書にも載っていたのでこの絵には馴染みがありました。<br>　ある時、フランチェスコは仲間と説教の旅に出ていて沢山の鳥が木々に止まっているのを見かけ、思わず説教を始めたという牧歌的な逸話です。<br>　小鳥達は最初首をかしげるしぐさをしながら不思議そうにフランチェスコを見ていたが、説教が終わるとうれしそうに羽を羽ばたせたといいます。<br>　階段を下りると下部大聖堂に出ますが、ここにはフランチェスコの墓があり、実際その肉体と魂が眠っています。<br>　この教会は立派過ぎて花のようにひそやかに行きたいと願ったフランチェスコとかけ離れているような気がしてならないのですが、もちろんフランチェスコ自身が自分を祭るためにこのような聖</font><font color="#000000">堂を建てる事を望んだわけではなく、彼の死後、信者達によって建てられました。例え、フランチェスコの信条にそぐわないとしてもフランチェスコ協会の総本山があまり粗末では格好がつかないと思ったのだろうし、現在の夥しい巡礼者数の事を思うとその選択は正しかったのかもしれません。</font></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/89/c7/10021398276.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 373px; HEIGHT: 240px" height="240" alt="assisi1" src="https://stat.ameba.jp/user_images/89/c7/10021398276.jpg" width="373" border="0"></a></p><p>アッシジの中心、コムーネ広場</p><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/50/6a/10021398304.jpg" target="_blank"><img alt="assisi2" src="https://stat.ameba.jp/user_images/50/6a/10021398304.jpg" border="0"></a></p><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/70/25/10021398383.jpg" target="_blank"><img alt="assisi3" src="https://stat.ameba.jp/user_images/70/25/10021398383.jpg" border="0"></a><br>アッシジの街角</p><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/8c/e1/10021398489.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 340px; HEIGHT: 252px" height="252" alt="assisi4" src="https://stat.ameba.jp/user_images/8c/e1/10021398489.jpg" width="340" border="0"></a></p><p>フランチェスコ大聖堂</p><p><br></p><p><br><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/celticfairy/entry-10033519547.html</link>
<pubDate>Sun, 13 May 2007 22:00:51 +0900</pubDate>
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<title>ブリュッセルのグラン・プラス</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#0000ff"><strong>登録</strong>：1998年</font></p><p><font color="#0000ff"><strong>登録範囲</strong>：ブリュッセル旧市街の中心広場グラン・プラス。110m×70mの広場と周囲の歴史的建造物郡</font></p><br><p>19世紀に文豪ヴィクトル・ユゴーが｢世界で最も美しい広場｣と称された壮麗な大広場グラン・プラスはベルギーの首都ブリュッセ中心部に位置しています。ヨーロッパの都市には必ずこのような広場がありますが、四方を１５～１７世紀各時代に建てられた建造物が見事に融合している事と、広場が街の繁栄の原点となる商取引の場所であったことが、ヨーロッパ北部商業都市を代表する例として評価されました。見事なゴシック建築の市庁舎を中心に構成された広場の周りの建物は、その７割がギルドハウスです。どれも華麗な装飾で飾られており、ブリュッセルがギルドを中心に繁栄した町であることが分かります。<br>ロートリンゲン公シャルル・ド・フランスがこの地に城塞を建てたのが街の起源とされ、１１～１２世紀にはグラン・プラスの原型が造られ、１３～１４世紀にはその周囲に肉屋やパン屋、仕立て屋などのギルド・ハウスが造られました。ギルドとは互いの発展を目的に成立した同業組合のようなもので、中世都市の政治的、政治的実権を握りました。ギルドハウスはその集会所で公邸や私邸として使われることもありました。18世紀の再建時にはバロック様式を競って取り入れたため、統一された空間となっています。<br>また、ベルギーに限らず、フランドル地方ではレース編みが盛んで、つづれ織りのタペストリーや絨毯は伝統産業となっています。糸で模様を編んでいくタペストリーは大作にもなると完成までに３年を要するものもあります。</p><br><p>『世界遺産シリーズ・ブリュッセルのグラン・プラス』</p><p><a href="http://www.nhk.co.jp/sekaiisan/card/cards374.html">www.nhk.co.jp/sekaiisan/card/cards374.html</a></p><br>
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<pubDate>Fri, 27 Apr 2007 21:10:39 +0900</pubDate>
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<title>ハドリアヌスの長城</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#0000ff"><strong>登録年</strong>：1987年<br><strong>登録範囲</strong>：西海岸のボウネスと東海岸のニューカースル・アポン・タインを結ぶ約120kmの城壁</font></p><br><p>  イギリスとドイツ、それぞれの国に残る防壁が世界遺産として登録されています。<br>中でも有名なのが、全長120kmを誇るハドリアヌスの長城で、西海岸のボウネスと東海岸のニューカースルを繋ぎます。<br>五賢帝の一人ハドリアヌスがブリテン・ローマとカレドニア（現スコットランド）とを明確に分断するために建てた防壁ですが、領土を旅するのを好んだハドリアヌスは、領土をこれ以上拡大する必要はないと判断し、城壁の建設しました。　あれほど田舎でありながら、観光の起点となる街カーライルやニュー・カースルからは30分程で行けてしまうという格好のロケーションにあります。一旦ハドリアヌスの長城にたどり着くと一気に２０００年前のブリテンに引き戻されたような錯覚に陥ってしまいます。　とにかく周囲に何もなくただっ広い平原が広がっています。　今にも壁の向こうから古代ケルト人が攻め寄せてきそう。　非常に見晴らしが良く、確かに地の果てから敵が責めてきてもこれなら一目瞭然。ここがローマの北端だと思うと感慨深いものがありますが、向こう側のブリトン人にすれば先祖代々暮らしてきた土地を分断する邪魔な障害物でしかなかったでしょう。<br>　しかし、近郊のヴィンドランダの町は結構立派な町で覇権主義を云々する以前にここにはローマ人とブリトン人、そして彼ら両方の血を引く人々が豊かで平和な生活を営んでいたのだということを実感しました。北にしては珍しいほどの青空のもと、壁に沿ってはるか遠き古代ローマ・ブリテンに思いを馳せながら歩くのは最高の気分でしたが、いきなり、上空で戦闘機がものすごい轟音を立てて幾度も飛びだっていった。おそらく、近くに空軍基地でもあって訓練をしているのでしょう。確かに訓練というものは何もないところで行われるものですが、古代の遺跡と最先端のハイテク機器とのコントラストが何とも不思議な気がしました。 </p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/c2/3d/10020257892.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 401px; HEIGHT: 282px" height="282" alt="hadrianwall6" src="https://stat.ameba.jp/user_images/c2/3d/10020257892.jpg" width="401" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/01/ac/10020257858.jpg" target="_blank"><img alt="hadrianwall5" src="https://stat.ameba.jp/user_images/01/ac/10020257858.jpg" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/98/1a/10020257575.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 427px; HEIGHT: 294px" height="294" alt="hadrianwall2" src="https://stat.ameba.jp/user_images/98/1a/10020257575.jpg" width="427" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/2d/58/10020257473.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 414px; HEIGHT: 285px" height="285" alt="hadrianwall1" src="https://stat.ameba.jp/user_images/2d/58/10020257473.jpg" width="414" border="0"></a><br><br><br><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/celticfairy/entry-10031793960.html</link>
<pubDate>Wed, 25 Apr 2007 21:47:15 +0900</pubDate>
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<title>ピサのドゥオーモ広場</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#0000ff"><strong>登録年</strong>：1987年<br><strong>登録範囲</strong>：ドゥオーモ広場に建つ大聖堂、鐘楼、礼拝堂、墓所の４建築</font></p><p><font color="#0000ff"><br></font></p><p>ピサに行った時は残念ながら雨が降っていたので、写真は曇り気味なので申し訳ないです。<br>ローマ時代、軍港として使われていたピサは11～13世紀に海運都市国家として繁栄しました。<br>ドゥオーモ広場に建つ１１１８年完成の大聖堂は、典型的なロマネスク様式でトスカーナ地方の聖堂建築に影響を与えました。<br>しかし、ピサを世界的に有名にしているのは何と言っても「ピサの斜塔」でしょう。この塔は大聖堂付属の鐘楼で、今でも５度の傾斜を持っています。<br>着工は1173年で、1185年から傾き始めました。<br>この塔はガリレオ・ガリレイの重力実験により、科学の発展に寄与しました。</p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/82/69/10020141663.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 393px; HEIGHT: 276px" height="276" alt="pisa1" src="https://stat.ameba.jp/user_images/82/69/10020141663.jpg" width="393" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/d0/82/10020141717.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 392px; HEIGHT: 282px" height="282" alt="pisa3" src="https://stat.ameba.jp/user_images/d0/82/10020141717.jpg" width="392" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/8c/26/10020141691.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 391px; HEIGHT: 512px" height="512" alt="pisa2" src="https://stat.ameba.jp/user_images/8c/26/10020141691.jpg" width="391" border="0"></a><br><br><br></p>
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<pubDate>Mon, 23 Apr 2007 21:22:59 +0900</pubDate>
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<title>フィレンツェ</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#0000ff"><strong>登録年</strong>：1982年<br><strong>登録範囲</strong>：フィレンツェのアルノ川を挟む歴史地区</font></p><p><br>フィレンツェはルネサンス発祥の地。ルネサンスとは「再生」を意味する言葉で、ローマ帝国崩壊後、1000年に及ぶ中世の暗黒の眠りを経て、フィレンツェに花開いた大輪の花でした。ちなみに花の女神フローラの町として、花を意味する古代名フィオレンティーナが語源ですが、その名の由来には歴史的根拠があったわけです。<br>フィレンツェに残る数々の芸術品や建物を見ていると、陰鬱な中世からきらめくばかりの光の世界へ扉が明け放たれたことへの迸らんばかりの生への喜びを感じ取る事ができますが、サンタ・マリア・デル・フィオーレ-花の聖母教会とてその名の通り、華やいだ印象を人々に与えます。<br>　<br>　フィレンツェが歴史の表舞台に出たのは1125年に自治都市としての地位を確立してからの事です。その後毛織物業で莫大な利益を得、それを国王や教会に貸し付ける事で金融業を発展させていきました。その中でも突出していたのがフィレンツェの権力者である銀行家のメディチ家です。独裁的だとの批判もありましたが、メディチ家亡くしてはルネサンスは語れません。メディチ家が他の銀行業者より抜きん出ていた理由は、いち早く貿易中心の事業を金融中心へとシフトしていったからです。そして、有り余る財力を背景に芸術を保護し発展させた。メディチ家の主宰のプラトン・アカデミーからボッティチェリやミケランジェロが出たのはあまりにも有名な話です。メディチ家は所有する美術品を外部に出すことを許さなかったため、芸術の街フィレンツェには美が溢れています。アカデミア美術館のダビデ像、サンタ・マリア・デル・フィオーレ、聖マルコ美術館のフラ・アンジェリコの「受胎告知」、そして、ボッティチェリの『プリマ・ヴェーラ』やレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』で有名なウフィツィ美術館は世界中の美術愛好家を惹きつけてやみません。</p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/aa/b2/10019901027.jpg" target="_blank"><img alt="firenze7" src="https://stat.ameba.jp/user_images/aa/b2/10019901027.jpg" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/df/39/10019900707.jpg" target="_blank"></a><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/df/39/10019900707.jpg" target="_blank"><img height="423" alt="firenze4" src="https://stat.ameba.jp/user_images/df/39/10019900707.jpg" width="313" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/dd/4d/10019900740.jpg" target="_blank"><img alt="firenze5" src="https://stat.ameba.jp/user_images/dd/4d/10019900740.jpg" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/26/3c/10019900632.jpg" target="_blank"></a><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/26/3c/10019900632.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 365px; HEIGHT: 264px" height="264" alt="firenze2" src="https://stat.ameba.jp/user_images/26/3c/10019900632.jpg" width="365" border="0"></a><br><br><br><br><br><br><br> </p><br><p><br></p>
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<pubDate>Thu, 19 Apr 2007 23:30:01 +0900</pubDate>
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<title>カルヴァリア・ゼブジドフスカの景観複合体と巡礼公園</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#0000ff"><strong>登録年</strong>：1999年 <br><strong>登録範囲</strong>：ツァー山を中心とする総面積４k㎡の巡礼公園<br></font> <br>昨日の『シリーズ世界遺産１００』はポーランドのカルヴァリア・ゼブジドフスカが紹介されましたが、この世界遺産のユニークさはルーマニアの城壁</p><p>教会に匹敵するでしょう。 <br>  ポーランド南部の村カルヴァリア・ゼブジドフスカにある丘とその一帯は、ポーランドの人々の聖地となっています。<br>「カルヴァリア」とはラテン語で「ゴルゴダ」を意味します。この巡礼公園は、自然の中にキリストの受難の地を巧みに再現した独特の景観で知られて</p><p>います公園は、地元の豪族ゼブジドフスキが1600年にツァー山に個人的に建てた礼拝堂が起源となっています。ツァー山の山頂をゴルゴダの丘に</p><p>見立て、山頂に至る道沿いにキリストの道行きを再現した４４の聖堂や礼拝堂が建てられ、巡礼地となっていきました。</p><br><p>世界遺産シリーズ「カルヴァリア・ゼブジドフスカの景観複合体と巡礼公園」<br> <a href="http://www.nhk.co.jp/sekaiisan/card/cards310.html">www.nhk.co.jp/sekaiisan/card/cards310.html</a></p>
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<pubDate>Tue, 17 Apr 2007 20:25:26 +0900</pubDate>
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<title>チボリのエステ家別荘</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#0000ff"><strong>登録年</strong>：2001年<br><strong>登録範囲</strong>：ローマの東31キロ、チボリにある総面積４万5000㎡のエステ家の別荘</font></p><br><p>イタリアの遺産が多いのは。私がイタリア好きという事もありますが、3年連続で訪れた為、デジカメの画像が豊富なのです。</p><p>エステ家別荘はヴィラ・アドリアーナ（ハドリアヌスの別荘）と同日に見学しましたが、ハドリアヌスの別荘は広大なので、チボリに一泊してゆったりと見学する事をお勧めします。私はローマから日帰りで行ったのでチボリ家で２時間しか取れませんでした。<br>チボリはローマから31キロ東に位置する町ですが、古代から王侯貴族の保養地であり、周辺には自然を生かした広大な瀟洒な別荘が建ち並んでました。<br>ルネサンスの名門エステ家は修道院を改造したもので、完成するまでに100年以上費やしました。<br>この別荘を有名にしているのは付近を流れるアニエーネ川を利用した噴水で、その数は500にも及びます。<br>人の往来に合わせて水が流れる「楕円の噴水」、水の圧力で音楽を奏でる「音楽の噴水」などユニークな噴水が人々を魅了しています。</p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/88/b2/10019707505.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 392px; HEIGHT: 282px" height="282" alt="tibori1" src="https://stat.ameba.jp/user_images/88/b2/10019707505.jpg" width="392" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/63/a2/10019707542.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 415px; HEIGHT: 307px" height="307" alt="tibori2" src="https://stat.ameba.jp/user_images/63/a2/10019707542.jpg" width="415" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/07/c1/10019707580.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 413px; HEIGHT: 312px" height="312" alt="tibori3" src="https://stat.ameba.jp/user_images/07/c1/10019707580.jpg" width="413" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/b6/49/10019707619.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 415px; HEIGHT: 308px" height="308" alt="tibori4" src="https://stat.ameba.jp/user_images/b6/49/10019707619.jpg" width="415" border="0"></a><br><br><br><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/celticfairy/entry-10030964239.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Apr 2007 17:44:34 +0900</pubDate>
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<title>ロンドン塔</title>
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<![CDATA[ <p><strong><font color="#0000ff">登録範囲：城壁に囲まれた総面積7.3万㎡の範囲</font></strong></p><p><strong><font color="#0000ff">登録年：1988年</font></strong></p><p><strong><font color="#0000ff"><br></font></strong></p><p><font color="#000000">ロンドン塔は88年に一度訪れただけです。<br>とにかく、拷問道具の数々があまりにも恐ろしかったのを覚えています。</font></p><p><font color="#000000">この塔はあの有名なタワー・ブリッジの近くにあり、テムズにその白亜の美しい姿を映し出し、歴史の重みを感じさせます。<br>シェイクスピアは好んでロンドン塔を取り上げますが、それほど当時の人々にとっては畏怖の対象だったのでしょうか。</font></p><p><font color="#0000ff"><font color="#000000">ローマの武将シーザーが現在のイングランド、ブリタニアに侵入したのは紀元前55年ですが、紀元43年、ローマ皇帝グラウディウス１世がブリタニアを征服したのちこの地にロンデニュウムという集落が形成され、それがロンドンの名称の由来だと言われています。<br></font></font><font color="#000000">実際、地下鉄タワー・ヒル駅を降りると古代ローマの遺跡が残されていてその眼前にロンドン塔の城壁が広がっています。<br>ロンドン塔の主塔であるホワイトタワーが造られたのが1066年、今のフランス・ノルマンディーからイングランドに侵入してノルマン王朝初代の王ウィリアム一世制服王となったウィリアム・ギョームがホワイトタワー居城としたことが始まりです。1078年になると彼はホワイトタワーを中心に石造の宮殿を造ります。この宮殿城塞はのち歴代のイングランド王によって造営されますが、12世紀のリチャード一世、13世紀のエドワード一世の頃に大規模な改築工事が行われ、牢獄、王立造幣局、王立天文台、財宝置き場などた次々と増築されていきました。<br>その後、チューダー王朝に入ると牢獄、処刑場のイメージが濃厚になります。<br>ハンリー八世が「ユートピア」の著者トマス・モアや王妃アン・ブリンを処刑したことで有名で、一度入れば二度と生きては出られない場所として恐れられていましたが、かのバスティーユなどと同様、権力争いで破れた政治犯など高貴な囚人で溢れかえり、エリザベス一世も謀反の汚名を着せられて２ヶ月ここに収容されていました。</font></p><p><font color="#000000">血塗られた歴史があるだけにロンドン塔にまつわる恐い話は数限りなく伝えられています。</font></p><p><font color="#000000">数々の血塗られた歴史はロンドン塔名物の赤い上着と黒い帽子を被ったビフィーターと呼ばれるガイドが詳しく語ってくれますが、残念ながら私は英語が不自由なのでほとんど聞き取れませんでした。<br>このビーフィーターは最低22年の軍籍と功労賞を持つ退役軍人がヨーマン・ウォーダーが努め、"牛肉食らい＝beefeater"という通称は、フランス語のブフェティ（buffetier）が変化したものだと伝えられています。</font></p><p><font color="#000000">ロンドン塔は20の塔と建物から成っていますが、主要な名所は以下の通りです</font></p><p><font color="#0000ff"><br></font></p><p><font color="#0000ff"><strong>◎ホワイトタワー<br></strong>1078年、ウィリアム１世が起工させた石造りの建物で、王宮と要塞を兼ねている。外壁の風化防止用に塗られる石灰塗料で白く見えることからこう呼ばれる。<br>内部には武具、甲冑、拷問や処刑に使われた用具の展示がある。ヘンリー８世の妻アン・ブーリンやキャサリン・ハワードの処刑に私用された斧や斬首台なども残されている。</font></p><p><font color="#0000ff"><strong>◎ブラディ・タワー<br></strong>ロンドン塔の心臓部であるホワイトタワーに通じる入り口で、エドワード４世の死後、王の王位を継承した12才のエドワード５世と９才の弟が叔父のグロースター公リチャードによってここに幽閉され、殺されたと信じられている。</font></p><p><font color="#0000ff"><strong>◎セント・トマス・タワー<br></strong>13世紀にエドワード1世によって作られた。その水門はトレイターズ・ゲート（反逆者の門）と呼ばれ、国事犯がテムズ川から船でこの水門をくぐって城内に入った事に由来する。映画「エリザベス」にもそのシーンが登場する。</font></p><p><font color="#0000ff"><strong>◎ベル・タワー<br></strong>宗教改革に反対したトマス・モアはここに15ヶ月投獄されたのち、処刑された。エリザベス王女21才の時、陰謀に荷担したと疑われ、投獄されるが、奇跡的に2ヶ月で出られた。そのせいでエリザベス1世は終生ロンドン塔を嫌ったという。</font></p><p><font color="#0000ff"><strong>◎ピーチャム・タワー<br></strong>西側の防衛の役割を担当する塔で塔内に収容された幽閉者の刻字で有名。<br>石の壁に囲まれたこの部屋に閉じ込められた人々は、自分が処刑場に送られる日が来るのを恐怖と不安に脅えながら、自分達の非業の運命を嘆き、時世の文字をその壁に刻んだ。その中に17才にして斬首台の露と消えた女王ジェーン・グレイの名前を見ることができる。</font></p><p><font color="#0000ff"><strong>◎タワー・グリーン<br></strong></font><font color="#0000ff">ロンドン塔内の処刑場で、計７人の首が跳ねられ、そのうち５人は女性。<br>その中にはあの1000日の女王アン・ブリン、上記の17才の犠牲者ジェーン・グレイも含まれている。</font></p><p><font color="#0000ff"><strong>◎武器展示室<br></strong>中世にはロンドン塔に大武器庫があったことから、その伝統を引き継ぎ、現在ホワイト・タワーには多くの武器が陳列されている。</font></p><p><font color="#0000ff"><strong>◎セント・ジョン礼拝堂<br></strong>1080年に完成した石灰岩で作られた簡素なノルマン式の礼拝堂。</font></p><p><font color="#0000ff"><strong>◎ジュエル・ハウス（宝物館）<br></strong>王冠や刀剣など、王室の宝物が煌びやかに展示されている。<br>注目は1838年ヴィクトリア女王の戴冠に使われた"インペリアル・ステート・クラウン"でこれには「第２のアフリカの星」といわれる309カラットのダイヤをはじめとする宝石がちりばめられている。<br>また、十字架飾りの王しゃくには530カラットもある世界最大のダイヤモンド"アフリカの星"がはめ込まれている。これは南アフリカ政府から1910年に献上されたものである。</font></p><p><font color="#0000ff"><br></font></p><p><font color="#000000">ちなみに、ロンドン塔最後の囚人はあのナチスのルドルフ・ヘスでした。</font></p><p><strong><font color="#0000ff"><br></font></strong></p>
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<pubDate>Sun, 15 Apr 2007 21:57:54 +0900</pubDate>
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<title>サン・ジミニャーノの歴史地区</title>
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<![CDATA[ <p><strong><font color="#0000ff">登録年：1990年</font></strong></p><p><strong><font color="#0000ff">登録範囲：城壁内の歴史地区</font></strong></p><br><p>中世から19世紀にかけて、トスカーナには個性豊かな城塞都市が数多く建設され、それぞれが独自の文化を育み、発展していきました。<br>このサン・ジャミニャーノもその一つですが、個人的にはアッシジと並んで思い入れのある町。<br>伝説によると権力争いに敗れた兄弟のムツィオと共にローマから逃れたシルヴィオという若者が丘にとどまって、"カステッロ　デッラ　セルヴィア"（森の城）を築いたのがこの街の始まりだと言われています。この町はサフランの一大生産地であり、ローマとフランスを繋ぐフランチェジナ道が町まで伸びていて、商人や旅人が訪れ、街が活性化しました。交易で富を蓄えた貴族達はやがて競って富と権力を現すシンボルを築き始めました。<br>それが今も町に残る塔であり、最盛期にはそれは72基の塔が林立したと言われています。最初は、教皇派と皇帝派に別れて争う貴族達が防衛上の目的で建設しましたが、いつの間にか貴族が力を誇示するための高さを競うものとなっていきました。中世の面影をよく残していてイタリアの偉大な監督フランコ・ゼフィレッリはこの街をアッシジに見立てて『ブラザー・サン・シスター・ムーン』を撮影しました。<br>長い昏睡状態から目覚めたフランチェスコが鳥を追いかけて屋根を歩くシーンでは、この塔が映し出されてますが、青空の中を羽ばたく鳥と高くそびえる塔とのコントラストが見事でした。サン・ジミニャーノは不便な場所にあり、フィレンツェからバスでポッジポジという街まで出て、そこからサン・ジミニャーノ行きのバスに乗り換えなければなりません。幹線から離れているがゆえに開発から取り残されて、中世の街がそのまま残ったのは他の城塞都市にも言えますね。サン・ジャミニャーノに向かうバスからの眺めの美しさはため息が出るほどで、オリーブとぶどう畑に覆われた緩やかな丘稜の所々にトスカーナ独特の糸杉を抜け、突如として不揃いな塔が空に向かってそびえるその街が姿を現わすその情景はとてつもなく印象的で、その感動はとても言葉では語り尽くせません。 </p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/18/6d/10019522984.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 395px; HEIGHT: 295px" height="295" alt="sangiminiano1" src="https://stat.ameba.jp/user_images/18/6d/10019522984.jpg" width="395" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/c9/72/10019523047.jpg" target="_blank"><img style="WIDTH: 390px; HEIGHT: 285px" height="285" alt="sangiminiano2" src="https://stat.ameba.jp/user_images/c9/72/10019523047.jpg" width="390" border="0"></a></p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/77/89/10019523083.jpg" target="_blank"><img height="472" alt="sangiminiano3" src="https://stat.ameba.jp/user_images/77/89/10019523083.jpg" width="335" border="0"></a><br><br><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/celticfairy/entry-10030712247.html</link>
<pubDate>Fri, 13 Apr 2007 21:47:53 +0900</pubDate>
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