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<title>[連載小説] チキサニ ―巨きなものの夢―</title>
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<description>国造りの神は、天の中心に立っていたチキサニ（ハルニレ）から鍬を作り、それを持って地上へやってきた。その、チキサニと疱瘡の神との間に、アイヌの祖先のアイヌラックルが生まれた。……義経は、あのイタオマチプで大陸に渡ったのよ……</description>
<language>ja</language>
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<title>チキサニ　終章</title>
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<![CDATA[ <br>終章　<br><br>ディスクの回る乾いた音が耳に入った。<br><br>　ゴーグルを外すと、そこは自分の部屋だった。<br><br>　すべてのものは馴染み深いものだが、この、ただ眠りに帰り、わびしい食事をし、テレビで気を紛らすだけの小さな箱の世界は、今まで自分を閉じ込めてきた牢獄だったことを悟った。<br><br>　ぼくは、自分の人生という牢獄に閉じ込められ続けてきたのだ。<br><br>　すべてが大きなものの夢で、ぼくの人生は、その中に浮かび上がって消える泡のようなものだとしたら、そこに囚われ続けている必要はない。<br><br>　ぼくは、淫乱の群れの四番目のディスクをたずさえ、シンのラボへと向かった。　<br><br>　そして、ぼくは、『Ｎｏ４』ディスクを装置のスロットに差し入れた。　<br><br>                                                ：<br>                                     ：<br><br>　そこは、懐かしい森だった。<br><br>　…… 太古から人の手に触れずにきた針葉樹の森。<br><br>　人の背丈よりも高いクマザサの下生え、その葉をリズミカルに揺すりながら樹間を吹き渡ってきて、火照った肌をなでる涼しい風。<br><br>　しっとりした液体のような森の香りが充満している。<br><br>　空気そのものが淡くグリーンに染まって見える。<br><br>　森は、とても現実的なのに、何故か自分の存在が希薄だ。<br><br>　まるで、魂だけが、この森の宙に浮いているようだ。<br><br>「こっち……」<br><br>　茂みの先から声が聞こえたような気がした。<br><br> 「こっちよ」<br><br>　今度ははっきりと聞こえた。<br><br>　その声で、自分がこの森の中に存在していることが自覚できた。<br><br>　声のした方向に、踏み出すと、露をたっぷりたたえた下生えの感触が、はっきりと足に感じられる。そして、胸の中に森の香りが充満する。<br><br>　鬱蒼とした針葉樹の樹冠が、陽の光を遮っている。<br><br>　一歩進むごとに、森が濃くなっていくように感じられる。<br><br>　深海にダイビングしていくように、森の深みに落ちていく。<br><br>　そして、ついに森の底にたどり着く。<br><br>　深い森の空気を貫いて、天上から一筋の光が射しこんでくる。<br><br>　その中に人影が浮かび上がった。<br><br>　スポットライトに透けた薄い輪郭のその人物が、手まねきをする。<br><br>「ずっとあなたを待っていたのよ」<br><br>　そう言うと、彼女は手を差しだした。<br><br>　ぼくは、登季子に導かれて森の奥へと進んでいった。<br><br> 「ここは……」<br><br>「そう、わたしたちの村」<br><br>　大地を覆いつくす天蓋のように、梢を上空に四方へ伸ばしてそびえ立つハルニレ、そして、その傘に守られるようにたたずむ集落があった。<br><br>　そこは、淫乱の群れの村であり、登季子の故郷であるあの旭川郊外のコタンでもあった。<br><br>「チキサニは、わたしたちの盟友、守護神なのよ」<br><br>　登季子は、幹に触れ、天蓋を見上げてつぶやく。<br><br>　ぼくも幹に触れる。<br><br>　優しい温もりが、手を通して伝わり、体の隅々にまで浸透する。<br><br>　と同時に、息づくたくましい脈動を感じた。<br><br> 「この世では、わたしたち一人一人はチキサニの細い枝先にぶら下がった小さな実のようなものなの。その位置からは、わたしたちはバラバラに存在しているように見えるわ。<br><br>でも、自分の内側へと辿っていくと、一本の梢でたくさんの実が結ばれ、太い梢ではさらにたくさんの実が一つに結ばれ、幹では、すべての実がひとつに結ばれている。<br><br>わたしたちはひとつなのよ。<br><br>みんな同じチキサニの一部なのよ。<br><br>チキサニはわたしたちを生かす。そして、わたしたちはチキサニを生かし、成長させる。<br><br>チキサニはね、宇宙そのものなの」<br><br>　彼女は、ふたたびぼくの手をとる。<br><br> 「さあ、いきましょう」<br><br>　ぼくたちは交わった。<br><br>　ぼくは、彼女の中にあるそのものになった。<br><br>　彼女の暖かい粘膜に包まれて、ぼくは奥へ、さらに奥へと進む。<br><br>　気がつくと、意識だけが羊水の中に漂っていた。<br><br> 「こっちよ」<br><br>　遠くから彼女の声がした。<br><br>　彼女の実体はどこにもない。しかし、探す必要はなかった。<br><br>　声のほうへ意識を振り向けただけで、そちらへ吸い寄せられていく。<br><br>　ぼくは、いつのまにか、チキサニの梢の中をその中心へ向かって進んでいた。<br><br>　導管を辿り、梢から太い枝に入り、さらに幹に吸い込まれた。<br><br>　根から吸収されたエネルギーが、大きなうねりとなって上昇している。<br><br>　その流れに乗って、上へ進む。<br><br>　チキサニの内部を登り切ると、エネルギーは、そのまま宙の中を天にまで突き抜ける柱となっている。<br><br>　その行き着く先にまばゆい光が見えた。<br><br>（あれが、大きなものだ）<br><br>　ぼくは悟った。　<br><br>「こっちよ」<br><br>　大きなもののほうから声が降ってきた。<br><br>　ぼくの意識は、エネルギーの柱の中をまっしぐらに飛翔する。<br><br>　そして、ついに、大きなものの中に飛び出した。<br><br>　そこは、想像を絶する広大な空間だった。<br><br>　広大だが、すべてを見通すことができた。<br><br>　あらゆる天体があった。<br><br>　あらゆる宇宙があった。<br><br>　あらゆる意識があった。<br><br>　あらゆる時間があった。<br><br>　ぼくには、そのすべてが、水晶玉を見つめる呪術師のように手にとるように理解できた。<br><br>　小さな米粒のような球体がある。<br><br>　それは、地球だった。<br><br>　それを拾いあげ、意識を向ける。　<br><br>　見慣れた光景があった。　<br><br>　シンの庭のチキサニは、あいかわらず真弓と幼い娘を優しく見守っている。<br><br>　お気に入りのハルニレの下で無邪気に遊ぶ子供とそれを見つめる母親。<br><br>　ぼくは、ハルニレの一部となって二人を見降ろしていた。<br><br>　そして、ぼくの隣にはシンの気配が、それに登季子の気配も感じられた。いや、隣ではなく、ぼくの内に彼らも一緒に存在しているのが感じられた。<br><br>　小さなスコップで土を掘り起こして遊んでいたこどもが、こちらを見上げる。<br><br>　そして、真っ直ぐこちらを指さした。<br><br>　彼女にはぼくが、ぼくたちが見えるのだ。<br><br>「どうしたのマーちゃん、なにかいるの？」<br><br>　真弓が子供に顔を寄せ、その視線の先を追う。<br><br>　真弓にも、はっきりとではないが、ぼくたちの気配が感じられていることがわかる。<br><br>「パパ、おじちゃんも……」<br><br>　彼女はこちらに向かって手を振った。<br><br>　真弓も合わせて手を振る。<br><br>　ぼくたちは、梢を揺らして、それに答えた。<br><br>「バイバイ、また遊びに来てね」　<br><br>　意識をほんの少しシフトする。　<br><br><br><br>　蒼黒い、寒々しい海に面した海岸。<br><br>　台風が過ぎ去ったあとに、海藻や腐った木片が打ち上げられている。<br><br>　屈強なアイヌの男たちが、たっぷり水を含んだ堆積物に難渋しながら、三人の男が乗ったイタオマチプ、板くり舟を海へ押しだそうとしている。<br><br>　舳先と艫を守るのは傷ついた鎧をまとった落ち武者。<br><br>　その間に挟まれているのは、小柄な若者だった。<br><br>　彼は、傷つきやつれてはいるが、年のわりには落ち着いていて、泰然と黙想している。<br><br>　彼はこれから自分が向かおうとしている大草原を思い描いていた。それが彼にとっては故郷だった。<br><br>　彼を守る二人は、過ぎ去ったきつく辛い戦いを回想していた。<br><br>　やっと水面に舟を押し出すと、アイヌたちは三人に向かって、深く頭を垂れた。<br><br>　舟上の三人も同じように一礼を返すと、遠くに霞む陸影を目指して真っ直ぐに漕ぎ進んでいった。<br><br><br>　見はるかす草原の真ん中に、緋色の胴帯と鞍をつけた馬が一頭たたずみ、草を食んでいた。<br><br>　どこからともなく、革の鎧をまとった男が現れた。<br><br>　すると、馬は弾かれるように食べるのをやめ、四肢を毅然と伸ばした。男の合図を待ち受ける。<br><br>　男は、あのイタオマチプに乗っていた若武者だった。<br><br>　舟上のときより、一回り体躯がたくましくなっていた。<br><br>　彼が、背に負った長弓を外し、矢をつがえて放つと、それを合図に緋色の騎馬軍団がうねる丘陵の合間から現れ、地平目指して疾駆していった。　<br><br><br><br><br>　こんどは、地球全体が見渡せる位置まで引いて見た。<br><br>　凄惨な戦いがあり、無惨な負傷者や難民の群れが通り過ぎた。<br><br>　どことも知れぬ町並みが現れ、中世のヨーロッパの衣装をまとった人々が石畳の道を通り過ぎる。と、思うと、恐竜がシダをなぎはらいながらばっこする光景が現れた。<br><br>　類人猿が人類が人類へと進化するプロセスがめまぐるしいスピードで展開する。<br><br>　卵と精子が結びつき、授精卵が分裂して人間の形になっていく。<br><br>　生まれ落ち、育ち、恋いをし、子供を育て、老い、土にかえる。<br><br>　大陸が生まれ、海に飲み込まれ、また新しい大陸が生まれ……。<br><br>　地球のあらゆる事象が一遍に眺められた。　<br><br><br><br><br><br> 「まだ先があるんだ」<br><br>　声が言った。<br><br>　そちらに意識を向けると、実体のない壁を突き抜けて、さらに違う次元へと飛び出した。<br><br><br><br><br><br><br><br>　すべての宇宙の、全ての事象の歴史がいながらにして見える。<br><br>　いや、見えるだけではなく、無数に存在する宇宙そのものになって、あらゆることを体験できる。　<br><br><br><br><br><br><br><br>　『声』は、まだ先から聞こえた。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>　そこは無だった。そこにはなにも存在しなかった。<br><br><br><br><br><br>　いや、それは実体を持たない唯一無二の意識だった。<br><br><br><br><br><br>　巨大な、不動で不滅の意識。<br><br><br><br><br><br><br>　それがあらゆる事象を外側から優しく包みこんでいるのだ。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>　大きなものの夢……。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>　その意識の暖かみに、『ぼく』は溶けていった。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>　完
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<link>https://ameblo.jp/chikisani/entry-10000056853.html</link>
<pubDate>Sat, 31 Mar 2007 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>チキサニ　30-2</title>
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<![CDATA[ 　意識が混乱した。<br><br>（ぼくは誰だ？　ここは……）<br><br>　視界が靄に覆われていた。<br><br>（あれから、20年近く経ったんだ）<br><br>　懐かしい声。そうだ、シンの声。<br><br>（きみも、自分の中に空白を感じて生きてきたはずだ。その空白を埋めるんだ）<br><br>　さらに、どこか懐かしい雰囲気を感じた。淡い温もりと、安らぐ香り……。<br><br>　傍らに誰かがたたずんでいる気がする。<br><br>　その誰かが言った。<br><br>「自然を管理できるなんて、人間の最低の奢りよ。<br><br>採集狩猟から牧畜、そして農耕から産業革命を経て現代の高度資本主義へと、まるで進化論みたいに社会が進化してきたように言われているけど、それは高度資本主義の社会に生きる人間たちが、自分たちの優位性を主張するために勝手につくりあげた屁理屈にすぎないわ。<br><br>採集狩猟や農耕、商業社会というのは、それぞれまったく違うイデオロギーで成り立っている社会なのよ。<br><br>今の私たちが暮らしている社会は理想郷かしら？ <br><br>順調に産業を発達させてきて、みんなは幸福になれた？<br><br>アイヌたちは何千年、いえ、何万年もの間、豊かな精神を育みながら、幸福に暮らしてきたのよ。<br><br>かれらは、人間は自然の一部であって、自然から切り離されては存在できないということをよく理解していたから。<br><br>アニミズムは遅れた原始宗教なんかじゃなくて、人間が何万年もかかって育んできた知恵なのよ。あらゆるものに対する畏敬の念が自分たちを幸福にするという。<br><br>すべてのものが、自分たちの手の届かない霊によって支配されていて、その力にただ恐れおののいているアニミズムだと思っているのなら、それは大きな間違いよ。<br><br>アニミズムでは、確かに霊の存在とその力を信じているわ。でも、霊と人間は上位と下位の関係にあるんじゃなくて共生関係にあるのよ。<br><br>アイヌは熊を神として崇めているけど、熊を食べるし、熊がアイヌに害をおよぼせば『このまま悪さを続けるなら、もう我々はおまえをカムイとして崇めてやらないぞ』とチャランケするの。<br><br>そうすれば、ほんとうに熊は悪さをやめるの。彼らの言葉はたしかに霊の世界に届くのよ。ポイヤウンペはいったいどうやってヴェトナムやラップランコタンを旅したと思う？<br><br>世界中で、アニミズムを信仰する民族たちは、物理的な距離なんか簡単に飛び越えて精神的に感応することができるのよ。霊の世界を通してね。<br><br>現代人は、とくに奢り高ぶっているシャモたちは、アニミズムからもっと多くのことを学ぶべきだと思うわ」<br><br>（登季子……）<br><br>　突然、あらゆることを思い出した。<br><br>「登季子さん、どこにいるんだ？」<br><br>　ぼくは、白い視界の中を見回す。<br><br>　彼女の気配が身近にある。それをはっきりと感じることができる。<br><br>　だが、彼女の姿は見えない。<br><br>　今度は、ぼくの内側で彼女の声がした。<br><br>（私ね、現実なんてほんとうはどこにもなくて、すべては夢の中の出来事なんじゃないかって思うことがよくあるの。<br><br>私もあなたも、じつは存在してないの。<br><br>今こうしているのは、何か大きなものが見ている夢にすぎなくて、あなたも私も、この山も町も、いろんな人たちも、その大きなものが何の脈絡もなく見ている夢の光景にすぎないんじゃないかってね）<br><br>（大きなもの？）<br><br>（そう、それが何かはわからない。もしかしたら、神とか宇宙なのかもしれない。<br><br>でも、ひとつだけはっきりわかるのは、その大きなものは、やさしくて、すごく暖かいってこと。<br><br>……囲炉裏の火を見つめながら、おばあちゃんの膝の上で昔話を聞かされているときのような、すべてを託せる暖かさ……みたいなね）<br><br>　シンの声が言葉を引き継ぐ。<br><br>（きみは、彼女と一緒に行くべきなんだ）<br><br>（そう、ぼくは、彼女と一緒に行くべきなんだ）<br><br>　そう確信すると、気の遠くなるような暖かみに包まれた。<br><br>　大きなものの暖かみ……。
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<link>https://ameblo.jp/chikisani/entry-10001426112.html</link>
<pubDate>Sat, 31 Mar 2007 12:00:00 +0900</pubDate>
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<title>チキサニ　30-1</title>
<description>
<![CDATA[ 30<br><br>「ああ、気がついたかい」<br><br>　独特のイントネーション。北海道なまりだ。<br><br>　ぼくは、ゆっくりと目を開けた。<br><br>　白い空間。消毒用のホルマリンの匂い。そこは病院だった。<br><br>　枕元に男がいて、ぼくの顔をのぞきこんでいた。<br><br>　体を起こそうと思ったが、まるで自分の体じゃないみたいに力が入らない。それでも無理に起き上がろうとすると、右の二の腕に鈍い痛みを感じた。<br><br>　見ると、点滴の管が二の腕に刺さっていた。<br><br>「まだ無理せんほうがいいよ。……したけど、あんた、オヤジに襲われんでほんとによかったなあ」<br><br>　枕元の男は、警官だった。<br><br> 「ここは？」<br><br>　警官に尋ねる。<br><br> 「中札内の病院だよ」<br><br> 「病院？」<br><br>「カムエクの頂上で倒れているところを助けられたんだ。ほんとに運がよかったよ、あんた。もう山のシーズンは終わったんだが、たまたまカムエクさ向かったパーティがあって、その人たちが倒れてるあんたをみつけたんだからさ。発見が半日遅れていたら、まちがいなく死んでたよ」<br><br>「カムエク？」<br><br>「カムイエクウチカウシって、舌がこんがらかっちまうっだろ。だから、つめてカムエク。したけど、なんでこんな時期に空荷でカムエクなんかさ登ったんだ？」<br><br>　その初老の警官は、急に尋問口調になった。<br><br>「……………」<br><br>　頭の中を靄が包んでいた。<br><br>（カムエク？ 山？ ここは北海道か……）<br><br>　暴風雨の中を苦労してオートバイを走らせている光景が、擦り切れた古い映画フィルムの一場面のように、あやふやに思い浮かぶだけだった。<br><br>「なにも、記憶にないんです」<br><br>「そだな。目を覚ましたばっかしで、質問した俺が悪かった。あまり、無理せんほうがいいよ。なにしろ２日間も眠っておったんだからな。たぶん、転落でもして、頭打って一時的な記憶喪失にでもなっとるんだよ。何人か、そういう遭難者をわしも見たことあるが、あまり心配せんほうがいい。じきに記憶は戻るから」<br><br>　彼は、目尻に深い皺を寄せて、愛想よく笑った。ぼくを心配させてはいけないとという思いやりが感じられる優しい笑顔だった。<br><br>　制服の左襟の折り返しのところに、かたまりかかった飯粒がこびりついていた。ぼくの意識が戻りそうだと聞いて、食事もそこそこに駆けつけてきたのだろう。<br><br>　翌日には、普通に食事がとれるほどに回復した。<br><br>　昨日枕元にいた駐在所の警官が、ぼくのオートバイが見つかったという報告をもって訪ねてきた。オートバイは、山奥の廃村にあったという。テントなどのツーリング装備は、そこにはなかった。<br><br>「あのあたりは、登山道もないし、カムエクなんて遥か彼方なのに、いったいどうやって行ったんだろうな？」<br><br>　警官は、しきりに首をひねった。<br><br>　ぼくにも経緯がまったく思い出せなかった。<br><br>　結局、彼は疑念を棚上げにして、ぼくのことをろくな準備もしないで気まぐれに山に登って遭難した旅行者と決めつけた。<br><br>　実際、そうなのかもしれない。<br><br>「登山届けも出さずに一人で山に入っては、いくらなんでも危険だ。内地とここじゃ、自然のスケールが違うかんね。とても、素人じゃ北海道の山は歩けん。あんたが救助されたカムエクなんかは、オヤジの巣窟だしな。昔、九州の大学生が、あんたと同じところで、オヤジに襲われて一度に三人が死んだこともあるんだから。そいつは根性の悪いオヤジでさ、二日間、まるで狩りを楽しむみてえに、逃げる人間を追跡して、順繰りに殺していったんだ。いや、おどすつもりで言ってるんじゃない。ほんとに、あんたは運がいいと思ってな。記念と言っちゃなんだが、そのオヤジの剥製が村役場にあるから見てったらいいさ」<br><br>　そういう旅行者が、毎年何人か日高や大雪山系で行方不明になると彼は言った。<br><br> 「内地の人間は自然の怖さをぜんぜん知らんからなあ」<br><br>　と、控えめな非難をつけ加えて。<br><br>　退院すると、ぼくはオートバイを引き取り、東京に戻った。<br><br>　あのとき、どうして山に登ることになったのか、山で何があったのか、結局記憶は戻らなかった。　<br><br>　　　　　　　　　　：<br>　　　　　　　　　　：<br><br>　あれから、20年近くの時が経過した。
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<link>https://ameblo.jp/chikisani/entry-10001009727.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Mar 2007 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>チキサニ　29-2</title>
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<![CDATA[ （ゲーム、そうだ、ゲームをしていたんだ。だけど、ここはどこなんだ？　ゲームの世界ではないだろう）<br><br>（ここは、ゲームの世界でもある。そして、きみがずっと暮らしていた現実の世界でもあるし、きみが旅した淫乱の群れの世界でもある……）<br><br>　様々な光景がフラッシュバックする。幼い日の楽しい思い出。ささやかな幸せを失って、泣き暮れる祖母と暮らした日々。学生時代の慎ましやかだが、再び幸せを取り戻したという充実感にあふれた同棲の日々。それに、山岳部での記憶が二重露出のようにだぶる……。<br><br>妻の心が離れ、荒んでいった日々。そして、シンとの出会い。ゲーム業界での報われぬ日々。シンの失踪。真弓、シンの娘、庭の大きなハルニレ。シンと酒を酌み交わし、新しいゲームの構想を告げられたあの日。ヘッドマウントディスプレイを被り、旅へと出発したあの時。三輪さんとの出会い。そして、登季子との出会い。登季子との旅。イタオマチプ。日高の山中での様々な出来事。……淫乱の群れの長。儀式。黒い地面にこぼれた白い液体の跡。そして、赤く染まった登季子の裸体。月明かりに蒼く浮かぶ日高の山々……。<br><br>（きみは、ラボで失踪した僕を追って、ここまでたどり着いた）<br><br>（そう、だが、ここはどこだ？）<br><br>　ぼくの内なるシンは笑った。<br><br>（そう結論を急ぐなよ。ここはまだ途中に過ぎないんだから）<br><br>（途中？）<br><br>（そうだ。きみは、君自身のストーリーを生きることもできた。だけど、きみは僕の後をかなり正確に辿ってここまでやってきた。きみが体験した淫乱の群れは、じつは、ぼくが20年近く前に体験していたことなんだ）<br><br>（おまえが体験したこと？）<br><br>（そう。もちろん、三輪や登季子といったキャラクターは、きみのイマジネーションが生んだ人物たちだから、僕が会ったキャラクターとは違うし、その他の細部も異なるところはたくさんある。でも、話しのプロットは一緒なんだ）<br><br>（…………）<br><br>　シンは話しを続ける。<br><br>（僕は、ずっと、あのときのことを忘れていた。オートバイで、北海道を旅しているときに、そんな体験をしていたことをね。そして、それが、大きな心の空白となっていたこともね。僕は、きみが体験したあのゲームを作り始めて、はじめて自分の心に大きな空白があることに気づいた。そして、自分を被験者として、ゲームを開発していくうちに、その空白に埋められるべきものが次第にはっきりしてきたんだ。それが、淫乱の群れだったんだ。僕もね、きみと同じように、淫乱の群れと出会い、そして、きみと同じように、彼らのことが理解できずに、そこから逃避したんだ）<br><br>（逃避？）<br><br>（そう。ほんとうは、僕自身彼らと一体であったんだ。だから、あのとき、彼らと行くべきだった。だが、僕はこちら側に残り、彼らのことを忘れてしまっていたんだ。ゲームを完成させていく過程で、僕はそのことを思い出した。そして、自分の力で彼らの元へ行こうと決心したんだ）<br><br>（じゃ、ラボから消えたのは……）<br><br>（そう、僕は、本来あるべきところへ旅立ったんだ。きみも、僕と同じように、心に空白を持っている。それを埋めるためには、進まなくてはならないんだ）<br><br>（進むって、どこへだ？）<br><br>　シンは、再び笑った。<br><br>（それは、もうわかっているはずだ）<br><br>　ずっと身近に感じられたシンの気配がどこかへ消え、代わりに嫌な刺激臭が漂ってきた。
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<link>https://ameblo.jp/chikisani/entry-10001410157.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Mar 2007 12:00:00 +0900</pubDate>
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<title>チキサニ　29-1</title>
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<![CDATA[ 29<br><br>　雲に乗っているような感覚だった。<br><br>　白い靄の立ちこめる空間で、ぼくは横になっていた。温水に浸かっているような心地よいけだるさに全身が包まれている。<br><br>「もう少しだったね……」<br><br>　どこからか、声が聞こえた。<br><br>　上体を持ち上げ、あたりを見回す。<br><br>　だが、どこにも人影はない。<br><br>「きみも、サヘを飲むべきだったんだ」<br><br>　また、声が響く。<br><br>「誰だ？　どこにいる？」<br><br>「ぼくだよ、きみが探していた、シンだよ」<br><br>「シン……？」<br><br>「忘れたのかい。きみは、僕を探して、淫乱の群れの世界へ入ってきたんじゃないか」<br><br>　声の主は、どこにも見当たらない。<br><br>　空間全体が響いて、その声を作り出しているようだった。何か大きなものの意識の中にぼくがいて、その意識が語りかけている、そんな感じだった。<br><br>　だが、シンとは、いったい誰だ……。<br><br>「声を忘れたのかい」<br><br>　その声は、どこか懐かしい響きを秘めていた。<br><br>（天からぼくを迎えに来た使い？ カムイエクウチカウシの頂上で、力尽きたのだから、ここは天国の入り口に違いない）<br><br>「僕は天使じゃない。ここが、天国の入り口と似たようなところなのは確かだけどね」<br><br>　声が言った。<br><br>「ぼくの意識が読めるのか？」<br><br>　思わず叫ぶ。<br><br>　すると、何者かが笑う気配がした。<br><br>「きみの意識は、今、僕の意識と融合している。いや、僕の意識というよりも、もっと大きな意識だ。きみも僕も、一つの大きな意識の一部なんだよ。だから、なんでもわかる」<br><br>（………）<br><br>（まだ理解するのは難しいかもしれないね。だけど、それも、じき何でもなくなるよ。いいかい、思い出してごらん、きみは、僕の作り出したゲームをプレイしていたんだよ）<br><br>　今度は、その声は、外側からではなく、ぼくの内側で聞こえた。<br><br>（ゲームをプレイ……）<br><br>　何かが意識の底で弾けた。<br><br>（そう、思い出したね）<br><br>　内なる声が言った。ぼくは、すべてを思い出した。
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<link>https://ameblo.jp/chikisani/entry-10001281364.html</link>
<pubDate>Thu, 29 Mar 2007 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>チキサニ　28-3</title>
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<![CDATA[ 　陽が頭上にくると飢えと乾きに襲われた。<br><br>　口に入れられるものといえば、若い熊笹の茎ぐらいしかなかった。<br><br>　稜線を少し外れて熊笹のブッシュまで降り、その繁みをかき分けて丈の低いまだ緑も薄い若笹を抜く。その茎を噛むと潤いが口中に広がる。しかしそれも一瞬で、またすぐに飢えと乾きが波のように襲ってくる。<br><br>　空には一点の雲もなかった。ぼくの頭上には、あの嵐が去った翌日のように、どこまでも深い紺青の空が広がっていた。茫漠として冷たく、非情なほど蒼い空。それは、本格的な冬が間近いことを物語っていた。<br><br>　一日歩いても、心にひっかかるあのピークまでの距離はほとんど縮まらなかった。<br><br>　<br><br>　その夜もハイマツの下に潜り込んで寝た。<br><br>　鉛の布団をかぶせられたように、疲れが体を押し包んでいた。<br><br>　夜半に目が醒めた。悪寒が全身を走り抜けた。このまま眠っていては危険だと、もうひとりの自分に揺り起こされたようだった。<br><br>　体はしきりに眠りたがっている。しかし、意識のどこかで、再び眠ったらそれが最後だと警報が鳴っている。ぼくは、必死に抵抗する肉体を調伏し、立ち上がった。<br><br>　ハイマツの繁みから這い出すと、あたりは、真っ白だった。<br><br>（雪？）<br><br>　だが、空には昨夜と同じ月があり、寒々しい光を投げかけていた。<br><br>　それは、雪ではなく霜だった。<br><br>　体を動かすと、固い紙に包まれたような感触がある。<br><br>　自分の体も霜に覆われていた。こんな条件の中で登山姿といっても夏のハイキング程度のものしか身につけていないのだ。眠り続けていたら、間違いなく命はなかっただろう。<br><br>（もう一晩は持ちこたえられない）<br><br>　蒼い月明かりのような怜悧な考えが浮かんだ。<br><br>　この先、どうすればいいのか、考えを巡らす。<br><br>（麓にむかったほうがいいのではないか）<br><br>　高度を下げれば、稜線上ほどの冷え込みはないだろうし、野草を食べて飢えをしのぎ、沢の水で乾きをいやすことができる。だが、人跡未踏の樹海へ地図もなしに踏み込むということは、ただ細々と命を長らえることにしかならない。それにしても、遅かれ早かれ命を落とすことは確実だ。熊に襲われる危険も増すだろう。<br><br>（明日死ぬのを覚悟でこのまま稜線を辿るか、それとも降りて何日か生き延びる道を選ぶか……）<br><br>　ぼくは、このまま稜線を辿ることに決した。<br><br>　そのとき、ある考えが閃いた。<br><br>「そうだ、あれはカムイエクウチカウシだ!!」<br><br>　思わず、叫ぶ。そう、幌尻岳の頂上から南に見えたカムイエクウチカウシが、今は、北に見えているのだ。<br><br>　あのとき、脳裏に刻みつけた頂の形を写真を裏焼きするようにイメージしてみる。<br><br>　彼方に横たわる黒いスカイラインが、その像とぴったり一致した。<br><br>（やっぱり、ここは、日高だったんだ……）<br><br>　カムイエクウチカウシまで行けば、その先は、幌尻岳までのルートはわかっている。<br><br>　幌尻岳を越えて麓に降りれば、残してきたテントがあるはずだ。それだけの行程と今のぼくの体力を考え合わせると、テントまでたどり着くのは、到底不可能に思えたが、他に選択肢はなかった。<br><br>　ぼくは、歩きづめに歩いた。<br><br>　しまいには這うようにして進み、丸一昼夜かけて、ついにカムイエクウチカウシの頂上に立った。だが、そこまでだった。<br><br>　頂を示す石の指標にしがみついたとたん、今度こそ、ほんとうに力尽きた。
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<link>https://ameblo.jp/chikisani/entry-10001257764.html</link>
<pubDate>Thu, 29 Mar 2007 12:00:00 +0900</pubDate>
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<title>チキサニ　28-2</title>
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<![CDATA[ 　目覚めると、そこは暖かいテントの中だった。<br><br>　ぼくは登季子の柔らかい膝に頭を乗せていた。<br><br>「どうしたの？ ひどくうなされて」<br><br>　額が触れ合いそうな近さで、登季子が言う。<br><br>「淫乱の群れは？」<br><br>「淫乱の群れ？ そんなものいるわけないでしょ。また変な夢を見たのね。明日は山へ登るんだから、ちゃんとしてよね」<br><br>「そうか、みんな夢だったのか。よかった……」<br><br>「そう、もう恐い夢は見ないから、安心してお眠りなさい」<br><br>　登季子は、そう言うと、ぼくの額を優しくなでた。<br><br>　彼女の手の温もりに、安堵して、ぼくは再び目を閉じた。<br><br>　<br><br>　目覚めたそこは、テントの中ではなく、冷たく濡れそぼったハイマツの繁みの中だった。<br><br>　空が白みはじめていた。<br><br>　寒さが体の芯まで染みこんでいた。<br><br>　見上げると、蒼黒い天が広がっている。<br><br>　そして、東の空の底に茜色の線が入り、そこから夜の帳が引き上げられようとしていた。<br><br>　無音だった。<br><br>　夜と朝との拮抗、その雄大な宇宙の攻めぎあいの間ですべての営みが息を潜めていた。<br><br>　空気が凍る寸前まで張りつめ、心まで凍りつきそうだった。<br><br>（じっとしていてはいけない。また眠ってしまったらもっとも冷え込むこの瞬間に凍死してしまう）<br><br>　ハイマツの繁みから這い出し、あたりを見渡した。<br><br>　そこは稜線によって半円に縁どられた圏谷の一角だった。<br><br>　見覚えのある風景……。<br><br>（幌尻岳の圏谷？）<br><br>　しかし、茜の増してきた空をくっきり切り取るスカイラインの形は、いくら記憶をさぐっても、思い当たらない。<br><br>　ふと、小屋で目覚めたときの登季子の言葉が思い出された。<br><br>（彼女は、ぼくたちが熊と遭遇した場所からあの村まで二日かかったと言っていた……）<br><br>　だが、そのことが、果たして今何かの役に立つのだろうか？<br><br>　彼女と旅をした記憶が、そもそも実際に在ったこととは思えない。そんなまやかしの記憶を信じても意味がないではないか。<br><br>　ここが日高の山中であるという確証すらないのだ。<br><br>　様々な思いを巡らせているうちにも、夜明け前の冷え込みは厳しさを増していった。<br><br>　ぼくは、何かに突き動かされるように歩き出した。<br><br>　脆い岩肌に取りつき、なんとか稜線まで這い登ったところで、ちょうど夜が明けきった。<br><br>　南北に伸びた稜線は、付近でいちばん抜きんでていた。<br><br>　真横から陽を受けて、西に連なる山襞の上に龍が横わるような影を落としていた。この高さと南北に伸びる規模から、これが記憶の中にある日高の主稜線のようにも思えた。少なくとも、今まで何度も登った北アルプスや南アルプス、八ヶ岳、飯豊連峰、朝日連峰……いずれの山域とも違う。<br><br>（やっぱり、日高にいるんだ）<br><br>　ぼくは、確信した。<br><br>　だが、ここが日高の主稜線とわかっても、自分の現在位置がわからなければ、北へ向かうべきなのか、南へ向かうべきなのか見当がつかない。<br><br>　彼方まで見渡しても見覚えのある山はなかった。<br><br>（いや、まて、あの山……）<br><br>　はるか北方に、特徴的な頂稜を山並みの上に覗かせている山があった。その形にかすかに見覚えがあるような気がした。<br><br>　しかし、いくら考えてもその山の形が記憶にあるピークのスカイラインに合わない。<br><br>（ほかの山と勘違いしているのか……）<br><br>　だが、勘違いとして考慮から外してしまうには惜しい何かがあった。<br><br>　他に選択枝はない。ぼくは、そのピークを目指して北へ向かうことにした。
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<link>https://ameblo.jp/chikisani/entry-10001218493.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Mar 2007 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>チキサニ　28-1</title>
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<![CDATA[ 28<br><br>　広場もなかった。<br><br>　周囲を鬱蒼とした森に囲まれ、大きなハルニレを中心としたそこだけ、ぽっかりと空間が空いている。しかし、そこは、さっきまでの黒土の広場ではなく、短い下草が生えているだけで、あの草葺きの小屋も、跡形もなかった。<br><br>　ハルニレの周囲をやみくもに歩き回った。<br><br>　あれだけの村人がいてあれだけ盛大な儀式が行われていたというのに、なんの痕跡も見出せない。<br><br>　ただ間断なく吹きつける風だけが、そのままだった。<br><br>　急に寒さを感じた。<br><br>　息が白い。<br><br>（なんとかしなければ、凍死してしまう）<br><br>　恐怖に囚われた。<br><br>　やみくもに駆け出す。<br><br>　気がつくと、沢に出ていた。<br><br>　そこは、たしかに、長が案内してくれた沢だ。<br><br>　手が切れるほど冷たい水をすくい、顔を洗う。そして、水を飲んだ。水面に映ったぼくの顔は、墓から這い出したばかりの死霊のようだった。<br><br>　首を振り、水面に拳を叩きつけて、そこに映った顔を打ち壊す。<br><br>　気がつくと、ぼくは、沢の中を上流に向かってがむしゃらに走っていた。<br><br>　滑った岩に足をとられて体のあちこちを打撲し、熊笹に肌を切り裂かれ、ときには深みに落ちておぼれかけた。しかし、痛みも流れの冷たさも苦しさもまるで感じなかった。<br><br>　様々な思いが脳裏を駆け巡り、がむしゃらに動いて、考えることを避けなければ、気が狂いそうだった。<br><br>　いったいどれだけ走ったのか、自分でもわからなかった。<br><br>　気がつくと、深い淵を見下ろす岸辺にへたりこんでいた。流れに顔をつけて、水を飲む。<br><br>　顔を上げると、丸い月が映っていた。その蒼い光に透かされた水の中には、ゆったりと幸せそうに泳ぐ魚の影があった。その傍らには、憔悴しきった魂の抜け殻のようなぼくの顔があった。<br><br>（いったいどうしてしまったんだ？　ここはどこだ？　登季子との旅は、ほんとうにあったことなのか？　あの村はどこへいってしまったのだ？　これから、どうすればいいのだ……？）<br><br>　たちまち混乱が押し寄せてくる。<br><br>　ぼくは、再び走った。押し寄せる混乱から逃れるように、がむしゃらに……。<br><br>　ただ一つ、意識の隅にかろうじてあった、ぼくの登山家の部分が、帯広のマスターの言葉を復唱していた。<br><br>「もし道を見失ったら、大きな沢を選んで遡上し、主稜線に出るのが最良の策です……」<br><br>　ぼくは、無意識のうちに、さらに上流へと進んでいた。<br><br>　星空を黒々と縁取るスカイラインが、見上げた視界に映じた。それが主稜線かどうかはわからない。だが、本能がぼくをそちらに向かわせた。<br><br>　草地を抜け、ハイマツにすがって急斜面を這い登った。<br><br>　稜線に出る前に、ついに力が尽きた。<br><br>　ハイマツの茂みの中に倒れこんだとたん、すべてが闇に包まれた。
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<link>https://ameblo.jp/chikisani/entry-10001203474.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Mar 2007 12:00:00 +0900</pubDate>
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<title>チキサニ　27-6</title>
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<![CDATA[ 　動きと音が、よみがえった。<br><br>　村人の輪が起き上がり、その場でたき火のほうを向いて胡座をかく。彼らは、輪の中心にいる登季子に注目した。<br><br>　長が、くず折れた登季子の背を叩くと、彼女は弾かれるように起き上がった。そして、何かを求めるようにあたりを見回す。<br><br>　長は、取り囲む輪のほうに歩んできて、一人の男の肩を叩いた。それは、ぼくたちの小屋に食事を運んできた、あの若い男だった。<br><br>　男は、長に向かって肯くと、登季子のほうへ向かって進んでいった。<br><br>　ぼくは、登季子と男を見やる。<br><br>　男が、登季子の眼前に立つと、登季子は男に向かって、妖艶な笑みを浮かべた。それは、ぼくが今まで見たことのない彼女の顔だった。男は、答えるように微笑み返す。<br><br>　足の裏から虫の大群が体内を駆け上るような、嫌な感覚に襲われた。<br><br>　村人たちが注視する中で、男は着物を脱ぎ捨て、赤銅色のたくましい体をさらけ出した。<br><br>　そして、登季子も着物を脱ぎ捨て、白い無垢の裸身をさらけだす。<br><br>　ぼくは、おもわず駆け出していた。<br><br>　ふたりの間に分け入り、登季子が脱ぎ捨てた着物をつかんで彼女にかける。<br><br>　しかし、彼女は、それを乱暴にはぎとると、地面に叩きつけ、汚らわしい虫でも払い除けるように、ぼくを突き飛ばした。<br><br>　彼女の力は、想像できない強さで、ぼくは、もんどり打って倒れた。<br><br>　男は彼女の前で、胡座をかいて座った。<br><br>　登季子は、たき火の炎に輝くたくましい男の腿に跨ると、ゆっくり腰を降ろしはじめた。<br><br>「登季子さん、よせ! やめろ！」<br><br>　ぼくが起き上がろうとすると、誰かがぼくの肩をわしづかみにした。ツボを突かれたのか、つかまれただけで全身から力が抜ける。<br><br>　振り向くと、長が悲しそうな顔でぼくを見つめていた。<br><br>「ほんとは、おまえが登季子の相方だったのだ。だが、もう遅い。儀式はすでにはじまっておる……恐れることは何もなかったんじゃ」<br><br>「登季子さん、やめてくれ!! 登季子さん、正気に戻るんだ」<br><br>　ぼくは、長に自由を奪われて彼女に触れることもできない。ただ、声をからして叫んだ。<br><br>　彼女は、ぼくの叫び声など聞こえないように、ゆっくり腰を落としていった。<br><br>「トキコぉぉ！」<br><br>　涙が視界を歪めた。ぼくは目をつぶり、地面に突っ伏した。<br><br>　彼女のかすれるような、歓喜の声が聞こえた。<br><br>　顔面を地面に押しつけた。とめどなく流れる涙が地面を濡らし、口の中で苦い土の味がした。<br><br>　顔を上げると、涙で歪んだ視界の中で、たき火を背に揺れる人影があった。赤銅色のたくましい体にしがみついた登季子の体は、火照ってピンク色に染まっていた。<br><br>「登季子さん、止めろ……」<br><br>　ぼくは、最後の力をふり絞って起き上がろうとした。<br><br>　だが、今度は、両腕を逆手に取られ、強い力で地面に押しつけられた。<br><br>「トキコ……」<br><br>　組み伏せられ、なす術もなく目を閉じた。<br><br>　果てしない時間が流れたような気がした。<br><br>　あたりの気配が変わったように感じた。<br><br>　ぼくは、おそるおそる顔を持ち上げた。<br><br>　だれも、動きを阻止する者はいなかった。<br><br>　あたりを見回す。<br><br>　そこには、何もなかった。<br><br>　登季子も、あの若者も、そして長も、村人も、たき火も、祭壇も、そしてあの集落自体も、何もなかった。<br><br>　ただ、風が吹いていた。月明かりに浮かび上がった巨大なハルニレの梢を揺する音だけが響いていた。<br><br>　そこは、どことも知れぬ、深い森の中だった。<br><br>「いったい、これは……」<br><br>　冴え冴えとした月明かりに浮かび上がった森の一角で、ぼくは、呆然と立ちすくんだ。
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<link>https://ameblo.jp/chikisani/entry-10001131883.html</link>
<pubDate>Tue, 27 Mar 2007 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>チキサニ　27-5</title>
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<![CDATA[ 　黒い地面に広がった白い液体の跡を見つめた。<br><br>（登季子たちの世界に行く最後の機会を、たった今、自から断ってしまったのだろうか）<br><br>　ぼくは、登季子を見やった。<br><br>　彼女は、一人、踊りの輪の内側に進み、たき火と祭壇に向かって踊っていた。<br><br>　たき火の炎の揺らめきと、彼女の動きが同化し、ときおり、彼女の姿が炎の中に消え入ったように見えた。<br><br>　彼女と旅を始めたばかりの時、彼女が言っていたことを思い出した。<br><br>「アイヌはね、文字を持っていなかったの。だから物語は何代も何代も口伝えで伝承されてきたの。おばあちゃんは自分のおばあちゃんから、そのおばあちゃんもそのまたおばあちゃんに教わったの。うちはね、代々、イムフチの家系なの」<br><br>「イムフチ？」<br><br>「シャーマンのようなものね。病気を治したり、未来を予見したり、祭りやいろんな儀式の日を占ったりするの。村に重病人が出たりすると、おばあちゃんが呼ばれるのね。三つくらいになると、私も一緒に行くようになった。おばあちゃんは、病人の枕元に座って、しばらく目をつぶってお祈りをする。そして、しばらくすると、目をかっと見開いて託宣するの。この人は、もうポックナモシリ……死者の国に半分行っている。もう引き戻すことはできないから、送りの用意をしなさいとか、この人はまだポックナモシリへ行く人ではないのに、自分ではそうと気づかずに歩き始めているから、枕元でヨモギを燃やして呼び戻しなさい、なんてね。いつも、おばあちゃんの言うとおりになったわ。私は、おばあちゃんの横で神妙にしていた。いつもは優しいおばあちゃんが、イムフチの仕事をしているときは、まるで仁王様のように恐かった。私が一緒に行くのを嫌がると、恐ろしい形相で睨んで、おまえもイムフチになるんだから、よく見ておかなければいけないって、無理矢理引き立てて行った。……そのおばあちゃんが亡くなる間際に、こう言ったの。登季子、私たちは、ほんとうはアイヌではないんだ。私たちの御先祖様は、北海道よりもっとずっと北から来たんだ。遠い昔、海の向こうの広い大地で、人間たちはカムイとともに仲良く暮らしていた。ところが、ある日、おごり高ぶった人間たちが、カムイの住む聖域を踏みにじった。カムイは、人間たちを業火で焼いた。大地に大きな火の玉が落ち、森の木はみんななぎ倒され、火がすべてを焼き払ってしまった。その大災難の寸前、アラハチという若いイムフチのもとにカムイが現れて言ったんだ。おまえたちは、いつもカムイへの尊敬を忘れずにくらしてきた。おまえたちだけは、許してやろう。だが、もうこの土地におることはできない。おまえは、部族を率いて東に行け。東には大きな島がある。そこで、変わらずカムイを敬い、平和に暮らすがよい。アラハチは部族を率いて、険しく深い山を越え、凍った海を渡ってこの島にたどり着いた。そして、日高の山深くに落ち着いて、そこで、平和に暮らしていたんだってね」<br><br>　さらに、彼女との旅の間に見た夢が思い出された。ある夢では、彼女は鈍色の海を渡る船団を率いていた。そして、ある夢では、彼女は笹の呪縛に動けないぼくを残して、羽衣を翻して飛翔していく天女だった。<br><br>　彼女は、もはや、ぼくと一緒に旅をしてきた登季子ではなかった。アラハチが率いてきた部族のシャーマン。それが、登季子の真の姿だったのだ。<br><br>（登季子は、今ぼくの眼前で羽衣を翻して飛び立とうとしているのだ。ぼくの想像もつかない世界へ向かって…）<br><br>　奏でられる調べと踊りは月が高く昇るにつれ、激しさを増していく。<br><br>　長い髪を振り乱し、たき火に向かって身をささげるようにして踊る登季子は、鬼神のようだった。<br><br>　そして、月がハルニレの真上に差し掛かったとき、突然、音楽が止んだ。<br><br>　踊りの群れは動きを止め、その場に座りこんだ。登季子はその場にうつ伏せに倒れこむ。<br><br>「登季子！」<br><br>　ぼくは、叫んで、登季子の元に走り寄ろうとしたが、声は凍りつき、体も動かなかった。<br><br>　沈黙のおもりが天から落ちて、広場を押しつぶした。たき火の炎も、風も、動きを止めてしまったようだった。その沈黙の帳を破ったのは、長の遠吠えのような叫びだった。<br><br>　長は、大きなイナウを捧げながら松明の外側の闇の中から現われ、遠吠えのような祝詞とともに、イナウをたき火に投げ入れた。<br><br>　炎が、笹掻きにされた白い木肌を炎が嘗め、閃光を発するように燃え上がった。
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<link>https://ameblo.jp/chikisani/entry-10001085469.html</link>
<pubDate>Tue, 27 Mar 2007 12:00:00 +0900</pubDate>
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