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<title>chiko2988のブログ</title>
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<title>最も愛する母のMothers Life</title>
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<![CDATA[ <p>今日は、私の母のお話をさせていただきます。母は２年前に亡くなりましたが、母は私とは全く違うタイプの女性でした。母性愛の強さは私の知る限りでは、誰にも負けないと思います。どの様な過酷な状況でも絶え抜いて壁を乗り越えて来ました。そして、私のように積極的ではありませんが、じっと我慢をして嵐が通り過ぎるのを待てる女性です。母は港町で海産物を営む家に産まれました。でも私は母の実家が何処に在るのか、何人兄弟で祖父母がどんな人か会った事もないし名前も知りません。勿論、既に亡くなっていますがお墓も何処にあるのか知りません。母がいない今は、母方の親族は誰一人分かりません。以前、母から今は有名企業となり成功していると聞いた事がありますが、興味も無かったので詳しい事は尋ねませんでしたし、母も亡くなるまで１度も実家に帰る事はありませんでした。母は子供の頃から苦労を重ねて来ました。この事でも私が母のDNAをしっかり受け継いで来たことが分かります。(苦笑) 　彼女が小学生の時に( 詳しい事情は分かりません。)神奈川県にある真鶴という港町に住むご夫婦が、どうしても母を養女にしたいと望まれて母は実家を出たそうです。新天地に移住してからは、本当に幸せな時間を過ごしたと懐かしそうに話してくれました。高校を卒業した後に現在は存在しませんが、松竹大船撮影所に就職をし、後に婦人部長を務めて忙しい毎日を過ごしていました。余談ですが母は容姿端麗だったようで、となり街から毎日のように男性達が母を見に来ていたと養父母が話してくれました。それから母は鳥取県出身の男性と出逢い結婚しました。後にその方が私の3人の兄達の父親となります。母は、その後その方の仕事の都合で中国に渡りました。ジャムスという土地で夫婦で市役所に務め官舎に住まいしていました。そこで、母は近隣の中国人に料理を教えたり、貧困のあまり病気になっても病院に行けない人にお金を与えたりしていたそうです。日本から持ってきた僅かなお金を使っていたのです。その後、日露戦争で日本がロシアに負けてしまい、二人の兄を連れて敵から逃れるように、引き上げ船に乗りました。官舎を出る前に近隣中国人の数人に金銭や僅かな貴金属を盗まれており(沢山の中国人を助けて来たのにです。)船に乗る時には、手元には殆ど価値のあるものは残っていなかったと話していました。私が呆れると『そうゆう時代だったのよ！』と苦笑していました。母は罪を憎み人は憎まずの考えだったので、私は笑っていられる母が信じられなかったです。それで、引き揚げ船の中で三男を出産しました。既に戦争は終わっていたのに、数十メートル先で大砲の玉が海上に落ちたり、命かながら帰国したそうで、とても恐ろしかったと言っていました。その後、鳥取県のご主人のご実家で暮らしたようですが、格式ある銘柄の家でしたが訳あって離婚をしました。兄達は、母の訴えも虚しく渡して頂けなかったそうです。その事は一生涯、母の後悔として母の心に残っていました。その後、私の父親の実家が酒問屋を営んでおり、その会社で働くようになりました。もし、母がそのまま真鶴に戻っていたら、私は存在しなかったという事です。この時、父は第二次世界大戦の真っ只中で、戦地に行ったり帰還したりの繰り返しで、その間に祖母は私にとっては義母になる方を迎え、ほぼ強制的に結婚をさせて父が帰還した２年の間に義理の兄と姉が産まれて、やがて終戦となり父は戦地から帰還しました。その頃には家業の酒問屋も祖父の不心得のせいで倒産を余儀なくされていました。帰還した父は母と出逢い一目惚れをしてしまいました。気の強い性格の義母にくらべて、母は本当に穏やかで優しい性格でしたし、容姿端麗でしたから恋に落ちるのは当然だと思います。二人は、なさぬ仲となった訳です。それでも父は祖母に、自分が愛した人と一緒になりたいから離婚をさせてほしいと、何度も頼んだそうですが既に子供もいる立場、厳格な祖母が許す筈もなく、それに当時は離婚をして女性が実家に戻るのは恥とされていたので義母も承諾してくれず両親は、共に家を出る事にしました。それからは、母にとって最悪な人生を歩む事になりました。夫婦仲はとても良く、父の会社の社員や近隣の方も事情は知っていましたが、それでも温厚で努力家の母を皆が父の妻と認めていました。それは私が産まれた後も、ずっと変わりませんでした。どの様な環境にあっても、母を悪く言う者はいませんし、家事も完璧にこなし内職も朝から夜までやり、生活を助けていました。と言うのも、毎月の父の給料は殆ど祖母に渡していましたから、母が家計を切り盛りするのは本当に大変だったと思います。そして私が誕生するのですが、何故かその時期だけ父は実家に帰っていて、母は三畳一間で私を産んだそうです。その時の出来事が影響して母は生涯実家に帰らなくなったのです。それは、その家は母の実母の家で母はそこで間借りをして私を産んだのですが、産んでから二日後再婚相手と暮らす為に祖母は、無情にも母と産まれたばかりの私共々家から追い出したそうです。母は知り合いを頼り、やっとの事で小さな家を借りて暮らし始めました。その頃の暮らしは定かではありませんが、間もなくして父が戻り一緒に暮らし始めました。父は、仕事熱心で家族の為に一生懸命働きました。勿論、母も内職をして父を助けていました。私が幼稚園に上がる頃には、父は営業部長という役職にもつき普通なら家庭も安泰しますが、我が家は違いました。相変わらず、いえ前にも増して父の給料は殆どが祖母に渡り、兄や姉たちの教育費や生活費に注ぎ込まれました。ですから、私に関わる物、例えば文具や幼稚園の支払い等は全て母の内職で賄っていました。ある日、父が何をしても許し文句を言わなかった母が、１度だけ父に文句を言いました。それは、幼稚園の時に私が母に『私が小学校に上がる時に、お祝いで自転車が欲しい！』と言ったので、母は遅くまで内職をやり、毎月の支払いをした後に、毎月少しづつお金を貯めて私が小学校に入る時は自転車を買うつもりでいました。でも、その時期、義姉が中学校になるので、『お祝いが欲しいと言うので買ったから、いつもより生活費が少ないから、貯めてあるお金を使って欲しい！』と言うので、母は父に尋ねたそうです。『お姉ちゃんやお兄ちゃんには、今まで色々な物を買っているでしょう？この子は、欲しがらないから何も与えていない。でも初めて自転車が欲しいと言ったのよ！このお金は、私が１年かけて彼女の為に貯めたのです。』と、すると父は言ったそうです。小学生に自転車は要らないよ！と、でも姉や兄には祖母が買い与えていたのを母は知っていたので、この時ほど娘に対して何もしてあげられない母の無力さを思い知ったと後に話してくれました。後にも先にも、母が父に文句をいったのは、この時1回だけです。この事は、父からも悪かったと大人になってから言っていただきました。その後は初めに私がブログで書いた通りです。私が二十歳になる頃には 祖母は度々、我が家へ母を訪ねて来るようになりました。義母は気が強いですが、面倒見の良い性格で私も決して嫌いでは有りませんでしたが、母は料理が上手で優しい性格なので、祖母は母の料理を食べながら、母に愚痴を溢すのが楽しみのようで、その後も祖母が倒れるまでの長い年月、母は祖母の話し相手をしていました。祖母が倒れて入院した時も、母と私とで最期まで看病しました。勿論、義母や義兄、姉もお見舞いには来ましたが『散々、祖母には可愛がって貰ったのに冷たいね！』と母に言ったら『人生、色々な事があるけれど、自分の所から去って行かれる人の心は暗く荒むものです。お婆ちゃんが、ずっとお母さんの所に通っていたから、あちらのお母さんもお兄ちゃんやお姉ちゃんも、きっと寂しかったと思うよ！』と言うのです。祖母にも、義姉にも散々嫌味を言われたのにな～？と母には呆れてしまいました。でも、そんな母だからこそ父も愛したし、母と出逢った人達が親切にしてくれるのかな？と思いました。父の友人から聞きましたが、父が亡くなる時に母に言ったそうです。『母さんと一緒になって良かった！僕が１度浮気をした時も責めずに知らなかった振りをしていたでしょう？済まなかった！そして、ありがとう！』と、君のお母さんは凄い人だね！と言われて本当に嬉しかったです。私は、きっと母のようにはなれないと思いますけれど....母は私が最も尊敬出来る女性です。そんな母ですから、母が亡くなった時は母を介護してくださった方々や前夫の親族や彼の友人からもメールでお悔やみの言葉を沢山いただきました。母の優しさは万国共通に伝わるんだな～と思いました。さて、長き怒濤の母の人生でしたが、私もブログを書きながら母の人生を一歩また一歩と2人で歩けたような気持ちになりました。ブログビギナーの為、読み辛かったと思います。最後までお付き合いいただきまして本当に『ありがとうございました！』皆様の毎日が幸せでありますように🍀</p>
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<link>https://ameblo.jp/chiko2988/entry-12743578642.html</link>
<pubDate>Thu, 19 May 2022 11:38:02 +0900</pubDate>
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<title>泣いたり笑ったりの我が人生 [ 怒濤の時代 ]</title>
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<![CDATA[ <p>さあ、バラ色の青春時代が終わって、ここからは本当の波乱万丈の日々が続きます。30歳で結婚した後で父が危篤状態となり、両親の子供は私だけだったので主人と一緒に帰国しました。父は最期まで私の結婚に反対し続けて亡くなりました。父が亡くなってので、私と主人と母との３人の生活が始まりました。この時、私には母と共に購入した任天堂株とドコモ株の2社を持っていて、TVゲームが発明された任天堂そして、当時発明されたトランシーバーのような携帯電話がヒットして、持ち株が信じられない倍率となり、2社で約7千8百万円を手にしました。ですから、将来の心配は全くありませんでした。帰国後は、暫くの間ライブハウスで、私はDJを主人はバーテンダーで生計をたてていましたがDJという職業は見た目は華やかで交際相手も派手な世界と思われがちですが、実は努力と日々の鍛練が必要で職人の修行のように厳しい世界なんです。勿論、感性も必要ですがマトモなDJは頑固で真面目な方が多いのです。でも、主人には見た目で判断されて、仕事が終わり帰宅すると地獄のような時間が始まります。当時、付き合いのあった横浜FMの外国人DJや遠方から結婚を祝って、わざわざ駆けつけてくれたDJ仲間やお客様に対しても嫉妬心を抱き毎夜喧嘩が始まります。今、思えば私の都合で祖国から日本に連れて来てしまい、しかも彼の知っているインド社会では女性は男性よりも低い地位で暮らしている( 勿論、自立している女性も多くいます)ので、日本の生活に戸惑っていたのかもしれません。それで、とうとう長年携わって来たDJ職を辞める事にしました。その後、妊娠をしましたが流産をしてしまい、その１年後に息子を出産しました。出産する為に入院しましたが、彼は朝まで呑んでいて待合室で爆睡中、私は陣痛で匕ーフーしている時にです。ですから、息子を出産する時は母とカナダ人の友人夫婦が付き添ってくれました。その当時、国際結婚をした友人や外国人の友人がいましたが、全員が離婚を勧めました。しかし幼少時代の寂しい思いを息子にはさせたくないと、離婚をしないで子育てを頑張っていました。主人がいるのに毎日呑んでいて、正気ではないので全く頼れません。相変わらず夕方から出掛けて次の朝まで何処かで呑んでいて帰って来ません。乳児って夜中になると、熱を出したり夜泣きをしたりするので、息子を抱いてタクシーで病院まで行っては、子供を連れて来るご夫婦を見ながら、我が子を見てパパがいなくて可哀想だな～と涙を堪えては時間を過ごしました。そんな時期も過ぎ息子も２歳になった時に、彼もやっと働く気になりました。彼は5ヵ国語を話せる能力があるので、某有名商社の海外事業部に就職して、私は小規模ですが貿易会社を設立しましたが、穏やかな生活も１ヶ月が過ぎ、彼が商社で働くようになってから私達の生活は益々、崩壊して行きました。彼は日本に来て、はしご酒を覚えてしまったのです。毎夜会社の同僚達と呑み歩き、帰宅は夜中の2時3時で当然出勤できずに迎え酒を呑む。その内、朝帰りになりましたが、寂しい思いをさせたくないと、毎日インド料理を作り、母には日本料理を作るという生活でしたが、子育ても手抜きなくこなしていました。それでも帰宅すると悪酔いして、テーブルをひっくり返して折角の料理を駄目にしてしまう有り様。今どき流行りませんよね、そんな暮らし。朝帰りした後は、軽く一荒れしてベッドに直行。そして夕方から私の車で、夜の街へ出掛けては車を何処かへぶつけ壊したり、行きつけのクラブで付けで呑んで、朝 帰宅した後に一時、正常に戻ると『奥さん、夕べ呑んだクラブにお金を支払っていない！』と事後報告。それで、支払いに行き戻ると既に夢の中。こんな生活が何年も続き、その間に会社も辞めてしまいました。社長や部長も来てくださり、説得していただきましたが駄目でした。飲酒も黒ビールから日本酒そしてウォッカを呑むようになりました。それでも何とか、その内気付いてくれると信じていましたが、お酒を呑めない私は、お酒を甘く見ていました。そんな生活が13年も続き、とうとうアルコール中毒になり幻覚を視るようになりました。お酒を隠すと息子や母の前で包丁を取り出し自殺を謀ろうとするのです。やっと静かに寝てくれていると思うと、布団にオシッコをしてしまうのです。子供と違い、大人ですから量が多くて洗濯機は臭いが着くので使えず、手で洗うしかありません。子供も手が掛かるけれど、子供以上に何をするにも疲れて毎日泣きながら彼の世話をしていました。その内、恐怖と不安で主人と暮らす事が出来なくなり、主人が夕方から呑みに出掛けると直ぐに母と息子とペットのアリスを連れて車で家を出ました。車には毛布や息子の幼稚園のカバン等を積み、宛てもなく走り、時には高速道路のサービスエリアで休んだり、川の河川敷で休んだり、警察署に逃げてロビーで寝かせていただいたり、放浪の毎日です。母はこの時80歳で息子は5歳です。子供の頃から苦労は気にしない私でも愛する母や息子に、このような情けない生活をさせてしまい本当に辛い時代でした。主人は、日本に頼れる親族も友人もいません。ですから家から出て行けないのです。自分から祖国へ帰ると言わない限り。こんな生活をしていたので、約8千万円有ったお金も底をついてしまいました。買い替えた車は5台、主人が入院した回数が8回、私は子育てしながら働きましたが、それでも家族にアルコール中毒や依存性の方が居ると、お金が貯まるどころか、頑張っても頑張っても報われません。そして結婚し13年経ち、息子も小学生になった時に、漸く主人から『このままでは、奥さんが駄目になるから僕帰るよ！』と言ってくれました。それで離婚を決心しました。帰りの片道チケットを買い、祖国へ帰っても就活が出来るように１ヶ月分の生活費を渡しました。彼が帰った後は、息子を育てる為に必死に働きました。貯金も少しずつですが出来るようになり大変でしたが、主人という手の掛かる息子がいなくなり、生活を考える余裕が出来て忙しい中でも、落ち着いた普通の生活が出来るようになり、久しぶりに幸せを感じていました。その後、息子が小学校3年生の時に日本人男性と出会いがあり再婚して現在に至ります。再婚当時は8歳だった息子は29歳になり子供も2人授かりました。前夫は10歳も年下でしたが、再婚相手は5歳年上なので、お酒も付き合いで呑む程度で自営業なので時間に余裕が出来て、二人の時間を楽しんでいます。今は息子も主人の仕事を手伝い毎日を普通に生活が出来て幸せです。ただ、2年前に最愛の母が100歳で他界して、最近、共に過ごした苦しかった時代や、母の人生を書面に残してあげたいと思うようになりました。次は最期になりますが母の人生を記したいと思います。今回は読んでいただいた方を、きっと重い気分にさせてしまったと思います。皆様のように為になる事や、楽しい事を読みやすく書けなくて、ごめんなさい！今回も私の手記を読んでいただいて感謝します。『ありがとうございます』皆様の毎日が楽しく幸せでありますようにお祈りします。</p>
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<link>https://ameblo.jp/chiko2988/entry-12743345343.html</link>
<pubDate>Tue, 17 May 2022 23:50:04 +0900</pubDate>
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<title>泣いたり笑ったりの我が人生 [ バラ色の時代 ]</title>
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<![CDATA[ 中学生になる頃には両親が退院して、引っ越した新居で両親と共に暮らし始めました。言い忘れましたが、我が家は引っ越し癖があるのか小学校に入るまでに2回、6年生の時に1回そして中学生になって３年間に1回、高校生の時に2回で18年間に6回も引っ越しを繰り返しました。これだけ引っ越しをすれば、転校を余儀無くされて友人も出来ないと思われがちですが、幸せな事に転校も免れ新天地でも、バス通学とはなりましたが、それなりに友人は出来て小学生時代からすれば、両親も友人もいて本当に幸せな時代でした。中学生の時は、陸上部で短距離と走り幅跳び、そして合唱部でソプラノを担当し、応援部にも所属して[鶴の舞い]とかも先頭に立って男子から学ランを借りて舞っていました。でも、流石に屋上での発声練習は、合唱部の顧問から喉を潰すので辞めるようにと散々注意を受けましたが、それでも其々で優勝するという結果を残したので、何とか3年間は許していただきました。自慢になりますが、小学校では陸上部と水泳部で優勝し、中学では陸上部、合唱部、応援部として、競技会では三者三役で忙しかったですが、短距離走と走り幅跳びで優勝しました。合唱部でも全国中学生の部で優勝しました。これは、私の力と言うより顧問の先生と合唱部の仲間が素晴らしかったという事です。何を言いたいかというと、どの様な過酷な環境におかれても年齢関係なく、私たち人間はその気になれば何でも出来るという事です。しかし小学校、中学校と励んで来た陸上も高校生になると、中学生の時にやっていたガールズバンドの流れで、興味も音楽に変わり卒業時期には音楽の道しか考えられなくなっていました。実は高校３年の時に、母から『実は、あなたには３人の父親違いの兄がいるの！長男は38歳で行方知れず、次男は36歳で熱海で料理長をしていて、三男は熱海で毎日新聞社の芸能記者をやっているの。今まで黙っていてゴメンね？もし、これで貴方が悪い娘になったら、それは私の責任だからね！』と言われましたが、私は単に母方の兄が３人も１度にできた事の方が嬉しくて仕方ありませんでした。だって、父方の兄、姉は、母親が違うので本当に気を使って接してきましたが、母の子供ならば、気を使わずに接する事ができるからです。実際、兄達二人は突然現れた妹を優しく可愛がってくれました。時に三男とは何故か気が合い、兄も度々会いに来てくれました。でも、その兄も２年後に事故に巻き込まれて亡くなりました。幸せと不幸は背中合わせだな～！と実感しました。本当に悲しかった！　20歳代も色々な事が有りましたが、それでも自分の好きな道を歩む事が出来ました。楽器店の企画担当から始まり、何故か観光ホテルのフロント、ローラースケート場のDJや指導員そして最後は25歳～31歳までディスコDJと本当に好き勝手な人生を過ごしました。でも私は私なりに、いつでも全力で進んで来たので後悔は全くありません。ただ私の母は、そんな自由奔放な娘を持って心配で不安な毎日を過ごしたに違いありません。20歳～30歳までの10年間は無我夢中で歩んではきましたが父からは、結婚適齢期を迎え、しかも女だてらに何をやっているの？と散々言われましたが、その間も母は何も言わずに私を見守ってくれました。マレーシアのリゾートホテルで前夫と出逢いました。私の目には勤勉で真面目でルックスも良い、とても好青年に見えました。どちらかと言うと私の一目惚れで、若気のいたりと申しましょうか、父の反対を押しきって１年後に現地で結婚しました。彼はインド系マレーシア人で結婚式もインドスタイルでゲストも数えきれない程の数、右も左も知らない人ばかりで、おまけに新聞社のカメラマンも来る始末、何でもヒンドゥー教徒と他人種でしかも日本人との結婚は、当時は珍しくて何と新聞の半面に大きく結婚式の写真が載ってしまい、殆どのマレーシア人が私の呼び名を知ってしまい、帰国する時には行き交う職員に『おめでとう！』と言っていただき、イミグレーションもそのまま承認をいただき、まるで芸能人のようでした。しかし結婚式では、唯一日本から参加してくれた友人は竹内まりやの、あの有名な失恋ソング『元気を出して』をバンドで唄ってくれて気持ちは有り難いけれど何か複雑😂　　後で何であの歌？と尋ねたら、あの歌しか思い浮かばなかった！と苦笑していました(笑)  そんな大騒ぎの挙式をしたにも関わらず、結局13年間で破局を迎えました。お金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったものです。次回は、怒濤の30代のお話です<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/chiko2988/entry-12743055253.html</link>
<pubDate>Mon, 16 May 2022 11:13:29 +0900</pubDate>
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<title>”泣いたり笑ったりの我が人生”</title>
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<![CDATA[ 私は、間もなく69歳になります。勤務先の同僚から、ブログを勧められて投稿する事にしました。自慢になりませんが、私の人生は波乱万丈でした。私のヒストリーの始まりは小学校2年生の時に遡ります。実は、私の人生を語るためには私の両親のお話をしなくてはいけませんが、波乱万丈は両親からの遺伝??と思う程、二人もまた本当に過酷な人生を過ごして来ました。特に母は語り尽くせない程の人生を経験しましたが、両親の話は次の機会にさせていただくとして、私の話に戻らせていただきます。私の幼少時代は決して裕福では有りませんでしたが、歩いて数分の場所にある銭湯に母と手を繋いで通うのが、本当に嬉しくて幼少時代の大切な思い出での１つです。幸せな事に私には大切な友達が数人いましたが、それは母が日頃から近隣や人に優しくしていたからだと思います。当時は母も辛い毎日を過ごしていた筈なのに.....。<br>でも幸せの後には試練もやって来ます。私が小学校2年生の時に両親が揃って結核にかかり、私に移したら大変と父の実家に預けられました。その家には(後に母について書かせていただきます)父の両親、すなわち私の祖父母、それから、ここからが訳ありですが、父の先妻とその娘と息子いわゆる母違いの兄と姉と使用人との生活が始まりました。私の気の強さは、この時代に培われたのだと思います。まだ、僅か8歳で見も知らない人達との生活です。況してや私は先妻や兄姉にとっては父親を奪った憎き存在です。訳も分からず預けられたのですから、母と別れる時に身をちぎられる思いで辛く悲しく、そして不安だったと思います。その後、20歳を過ぎても時々、夢でその時の情景を思い出しては涙して目を覚ます事が有ったので、やはり子供にとっては大変な状況だったのだと思います。ですから私の毎日が針の筵と思われるでしょうが、私は以外に雑草の如くしぶとかったのです。義母の事は『お母さん』義兄や義姉の事は『お兄ちゃん』『お姉ちゃん』と呼び、大したいじめにも合わずに3年間を過ごしました。もしかしたら子煩悩の母が、絶えず私を心配して頑張れ！とパワーを送ってくれていたのかも？しれません。勿論、祖母は明治生まれで厳格な方だったので、父が家を出た事で義母や兄姉に気兼ねがあり、私には特に厳しく辛い思いをした事は言うまでもありません。でも、そのお陰で色々と学ぶ事が出来ました。それに私には同級生に、老舗山葵屋の娘と母子家庭の二人の親友がいましたし、3年生から陸上部と水泳部に入り、友達と遊ぶ以外は全て大好きなクラブに明け暮れていました。余談ですが当時私は、随分とおてんばで学校の正門に有った大きな木に登り、男子よりも高く登っては得意になっていました。時に女子生徒が男子生徒にいじめられていたら、男子に向かって行っては、弱き者を助けていました。それに、脚には自信が有って誰よりも早く走れました。ですから、運動会では私のチームになった生徒の親から『良かった！みっちゃんが敵チームでなくって！』とよく言われていました。でも6年生の時にマラソンでロープを営む会社の息子に負けた時は、悔しくて泣きながら帰宅した覚えが有ります。そんな訳で私の過酷な小学生時代も何とか無事に終了しました。ただ今でも忘れられない事があります。それは、友人の家から帰る時に夕焼け空を見ながら、ふと気付いたのです。歩きながら辺りを見ると、家に灯りがともり家族の笑い声が聞こえていました。その時、初めて私には帰りを待っていてくれる家族がいないのだという事を、その日の気持ちは覚えていませんが、その時の光景は今でも目に焼き付いているので、小学生の子供にはきっと辛い記憶として心に刻まれたのだと思います。さて今回は小学校までのヒストリーのお話でした。次は中学生から20歳代のお話です。お暇ならば、また読んでいただけたら嬉しいです。私のブログて少しは共感していただいたり、これから生きて行かれる時に何らかの人生のスパイスになれば嬉しいです。<br>
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<link>https://ameblo.jp/chiko2988/entry-12741631606.html</link>
<pubDate>Sun, 08 May 2022 12:05:59 +0900</pubDate>
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