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<title>中国通</title>
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<description>どこよりもわかりやすく、どこよりも詳しく中国ネタを提供することを目指してます。いずれは記事をまとめて、別枠で中国通というサイトを開設する予定です</description>
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<title>日本人には理解できない三顧の礼のもうひとつの意味</title>
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<![CDATA[ <p>三顧の礼とは、三国志の時代、劉備が当時若造に過ぎなかった諸葛亮の元を３度にわたって訪れ、礼を尽くして迎えた故事のことである。<br>しかし、この三顧の礼、日本人には理解できない裏の意味が存在します。</p><p>この三顧の礼ですが、おそらく後世の創作で、たぶんフィクションでしょう。<br>モデルとなったのは、周の文王が姜子牙（呂尚）を配下にしたときの故事（太公望の語源）に少々手を加えたものでしょう。</p><br><p>さて、この文王の故事、釣りをする（ふりをした）呂尚の隣でじっと待ち、礼節を尽くして賢人を迎えたという、文王を称えているように見えます。確かにそうなのですが、中国で評価されるべきは釣りをしていた（ふりをしていた）呂尚の方なのです。</p><p>呂尚はわざと文王を無視していました。それは、礼節云々を見極めるためといった理由ではないのです。自分を売り込むためです。自分が釣りをするふりを続けることによって、文王を待たせるのは失礼と日本人なら考えますが、そこは中国では解釈が違うのです。自分が文王を待たせることによって、文王は釣りの邪魔をせずに礼節を尽くして賢人を招いたと言う噂が広まります。そのため呂尚はそのような行動をわざととったと解釈するのが中国人的考えです。そうすることによって主君の文王の評判も上がり、またそのような行動を取り、主君の評判を上げた自身の評判も上がる、一石二鳥なのです。</p><br><p>小説（フィクション）の場面ですが、三国志における三顧の礼で、昼寝をする諸葛亮の脇で、じっと劉備が待つ場面があります。劉備の舎弟である張飛はそれを見て烈火のごとく怒り、家に火をつけようとするところを劉備にたしなめられる場面は有名です。おそらくこの諸葛亮は狸寝入りです。わざとやっています。そうすることによって、劉備には若造を３度も訪れ、昼寝を妨げることなく礼を尽くして賢人を迎えたと言う評判が立ちます。同時に諸葛亮はこのようにして主君の評判を上げたことが評価されます。</p><br><p>この辺は日本人の感覚では理解できませんが、現代中国において、このような例は今も尚存在しています。</p>
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<pubDate>Fri, 02 Oct 2009 20:53:43 +0900</pubDate>
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<title>三蔵法師</title>
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<![CDATA[ <p>三蔵法師と言えば、『西遊記』にも見られるとおり、多くの人が名前を耳にしたことがあるでしょう。</p><p>『西遊記』に見られる三蔵法師は、玄奘（602～644）をモデルに、明代に呉承恩が小説としたため広くは知られていますが。三蔵法師とは、玄奘のことを指すわけではないです。</p><br><p>そもそも「三蔵」とは、仏教の聖典である「経蔵」「律蔵」「論蔵」の事を指します。この３つのすべてに通暁した人のことを三蔵法師というわけです。</p><p>なので三蔵法師は固有名詞ではありません。鳩摩羅什（344～409）も三蔵です。</p><br><p>ちなみに中国で仏教が最も広がったのは唐代玄奘の時代です。玄奘は天竺行きの話ばかりがクローズアップされますが、天竺から中国へ持ち帰った経典の数は1347巻にも及び、これは世界の翻訳史のなかにおいても、まれに見る量であると言われています。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/chinato/entry-10352832429.html</link>
<pubDate>Mon, 28 Sep 2009 21:27:30 +0900</pubDate>
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<title>乾隆帝・・・終わりの始まり</title>
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<![CDATA[ <p>一般的には清朝の乾隆帝の時代が中国の歴史上において、もっとも広大な国土を誇り、もっとも隆盛の時代と言うかもしれない。しかしそれは同時に終わりの始まりであった。</p><br><p>乾隆帝は政治の面では名君だったのかもしれない。実際乾隆帝の農業政策によって、サツマイモ、ジャガイモ、とうもろこしなどを普及させたことにより、国庫は豊かになりました。（一時的ですが）</p><p><br>そして乾隆帝と言えば十全武功です。これは清朝の辺境諸国、ジュンガル（ウイグル）、ミャンマー、ラオス、ネパールなど１０度にわたって外征したことによります。この十全武功によって清朝の版図は、ほぼ現在の中華人民共和国と同じになります。ちなみに東トルキスタンを現在の「新疆（ウイグル）」としたのも乾隆帝の時代です。</p><br><p>中国史上自分ほど幸福な皇帝はいないと、一見清朝最大版図を誇ったまさにこの世の春を謳歌していたように見える乾隆帝ですが、清朝の衰退はすぐそこまで迫っていました。度重なる外征で国庫は疲弊したのは言うまでもないでしょう。驕れる者も久しからず。輝かしい武功の裏で、政権の中枢の腐敗は始まっていました。寵臣である和珅の専横です。要はこの和珅は乾隆帝の寵愛を受けていることをいいことに全く咎められなかったため、悪事を重ね私服を肥やした金の亡者というやつです。その私財は国家収入の１０数年分とも言われたとか。<br>その後政治の腐敗から全国的に清水教の乱や苗族の乱など、各地で反乱が見られましたが、これらはすぐに鎮圧されました。</p><br><p>中国の王朝の交代劇の裏に宗教結社有り。中国では社会のほころびが見え始めると、人々は迷信めいた宗教をよりどころにし、民間宗教の勢力が強くなる傾向があります。</p><br><p>乾隆帝は在位６０年目に退位して帝位を息子に譲り、自らは太上皇帝となります。つまり院政です。その数ヵ月後、清朝崩壊のきっかけとなる大反乱がおきます。それが白蓮教徒の乱です。</p>
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<link>https://ameblo.jp/chinato/entry-10349989213.html</link>
<pubDate>Thu, 24 Sep 2009 23:33:43 +0900</pubDate>
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<title>餃子が「ギョウザ」になったわけ</title>
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<![CDATA[ <p>日本ではすっかり国民食になった餃子ですが（異論は認めません！）、中国で餃子と言えば主に水餃子を指します。焼き餃子は中国語で「鍋貼」といいます。<br>我々の感覚では餃子はおかずです。ご飯に餃子という組み合わせはポピュラーですが、中国では餃子は餃子は主食になります。一度中国でご飯と餃子を頼んだのですが、「店員におかずはいらないのか？」と言われました。ご飯とパンを一緒に頼むのと同じことでしょう。</p><br><p>餃子は中国語でjiaoziといいます。某格闘漫画（？）の影響で、餃子を「チャオズ」と言うことは知られましたが。「ギョウザ」と「チャオズ」では、発音が違います。どうして餃子が「ギョウザ」になったのでしょうか？<br>そもそも餃子が中国から日本に伝わったのは日中戦争の際だと言われております。当時に中国の東北地方に進出していた日本軍が持ち帰ったものとされています。中国東北地方には、山東半島から移り住んだ人が多いと言います。その山東半島の方言で餃子のことを「ギョウザ」と言った（日本人にはそう聞こえたために）、jiaoziが「ギョウザ」となったと言われております。</p>
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<pubDate>Wed, 23 Sep 2009 15:45:42 +0900</pubDate>
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<title>安史の乱</title>
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<![CDATA[ <p>唐の時代、日本で言えば遣唐使の時代です。（八世紀）楊貴妃で有名な玄宗皇帝の時代、安禄山と史思明が起こした反乱である。それぞれの名前から安史の乱。</p><p><br>安禄山はソクド人と突厥人の父母の間に生まれる。やがて宰相の李林甫、楊貴妃に取り入って節度史（辺境の守護）の任に当たります。その後昇進を重ね北方で大きな軍力を持つようになります。</p><p>そんな中で唐王朝では混乱がおきます。楊貴妃です。楊貴妃の族兄である楊国忠は宰相の地位にあった李林甫を蹴落として、権力の座につきます。楊国忠は安禄山を警戒し、安禄山と玄宗との間を裂きました。離間の計というやつです。玄宗が楊貴妃の言いなりになっていたことはよく知られていることでしょう。</p><p>そして安禄山は奸臣楊国忠を討つべく挙兵します。当初その勢いはすさまじく、15万の大群にて洛陽を落とし大燕国皇帝を自称し、その後長安も陥落させ、玄宗は成都まで落ち延びる羽目になります。その道中楊貴妃と楊国忠は殺害され、玄宗も退位し粛宗が後を継ぎます</p><br><p>飛ぶ鳥を落とす勢いの安禄山軍ですが、悲しいかな中国の反乱軍の歴史は、内紛の歴史を繰り返す。まさに判で押したように。</p><p><br>いわゆるお家騒動、安禄山は妾の子を偏愛したため、そのため不安を感じた太子の安慶緒に暗殺されます。太子廃位→暗殺は中国史ではよくある話です。そして安禄山と共に蜂起した右腕というべき存在の史思明はこの件がきっかけで安慶緒から自立します。その後史思明はいったんは唐に降伏しますが、洛陽にいた安慶緒を攻め滅ぼして、今度は史思明が大燕国皇帝を名乗ります。しかし、その史思明も養子を跡継ぎにしようと企てて息子の史朝義に殺されます。</p><p>そして、この件がきっかけで唐王朝は衰退し、やがて崩壊します。</p><br><p>中国の反乱軍は、調子に乗って皇帝（王）を自称すると内紛で滅びるケースがよくありますね。</p>
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<link>https://ameblo.jp/chinato/entry-10346119150.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Sep 2009 20:41:43 +0900</pubDate>
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<title>鳥篭経済論</title>
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<![CDATA[ <p>鳥篭経済論とは、鄧小平、江沢民らの積極的改革派の対極に位置する保守派（穏健改革派）の長老であった、陳雲（95年逝去）の唱えた経済論である。</p><br><p><a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%9B%B2" target="_blank">陳雲</a> </p><br><p>鄧小平は知っての通り、積極的改革派としてしられ、改革開放を行い積極的に外資を導入、先富論をとなえ、先に発展させることのできる地域（沿海部）から発展させていくことを唱えた。それに対して陳雲は、均衡発展論を唱え、鳥篭経済論という、計画経済の中（篭）に市場経済（鳥）を閉じ込めることを主張、鄧小平路線に対しては、一貫して、保守派の立場をとった。<br>先富論ばかりに注目されますが、中国でもこの手の議論がなかったわけではありません。</p><br><p>改革開放における保守派の重鎮で、鄧小平とは対極にいた人と覚えておきましょう。中国共産党は一党独裁とは言いますが、実際は共産党内部でも左派、右派等があったりします。<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/chinato/entry-10344862736.html</link>
<pubDate>Thu, 17 Sep 2009 23:44:39 +0900</pubDate>
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<title>白求恩</title>
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<![CDATA[ <p>白求恩の名前を聞いた事がありますか？<br>毛沢東の言葉に老三篇というのがあります。</p><br><p>１．為人民服務：人民のためにつくす。 <br>２．愚公移山：志のあるものは、ついには成せる。 <br>３．記念白求恩同士：べチューンを記念する。 </p><br><p>実はこの人いかにも中国人っぽい名前に見えますが中国人ではありません。カナダ人です。<br>本名はノーマン・べチューン（１８９０～１９３９年）と言ってカナダ人の医師です。共産党員でもあります。<br>彼はカナダ人でありながら、抗日戦争時に多くの中国人の命を救いました。そのため中国ではべチューン医師が称えられています。</p>
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<link>https://ameblo.jp/chinato/entry-10344109248.html</link>
<pubDate>Wed, 16 Sep 2009 22:49:40 +0900</pubDate>
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<title>陳勝・呉広の乱</title>
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<![CDATA[ <p>陳勝・呉広の乱の詳細についてはWIKIあたりで参照にしてください</p><br><p target="_blank"><a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%8B%9D%E3%83%BB%E5%91%89%E5%BA%83%E3%81%AE%E4%B9%B1" target="_blank">陳勝・呉広の乱</a> </p><br><p>中国最初、世界最初の民衆反乱でしょうか？始皇帝の秦はこの陳勝・呉広の乱をきっかけに崩壊するわけです。<br>いわば民衆の蜂起が王朝を滅ぼしたわけです。<br>日本史ではかつて一向一揆が加賀国守護を倒して支配したことはありますが、倒幕等には至りませんでした。<br>しかし、中国ではこのような例が多いのです。三国志で有名な黄巾の乱、元を倒したのは紅巾の乱、清朝は白蓮教徒の乱、太平天国の乱で弱体化しました。<br>歴史が繰り返しています。</p><br><p>そこで現代に眼を移してみれば、中国では各地で民衆の蜂起がおきています。チベット・ウイグルなどの少数民族問題です。<br>我々日本人の感覚だったら、そんな蜂起で国が滅びるとまでは行かなくてもバラバラになるとは思いませんが、中国は違うのです。民衆の反乱が連鎖を呼び王朝を崩壊させてきた歴史、現代でもなお少数民族問題が連鎖して国がバラバラになる危険性を常に秘めています。中国最大のアキレス腱は少数民族問題なのです。できレースの台湾問題とは根本的に違っています。<br>人権問題やらそういう議論をとりあえず置いて中国政府の立場になって考えた場合、天安門事件同様、力で押さえつけるやり方ももしかしたら必要なのかもしれません。やらなかったらばらばらになりますから。まあ、その手の議論はここでは置いておきましょう。<br></p><p>中国では民衆による王朝の崩壊を繰り返してきました。今もなおその危険性はあるということです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/chinato/entry-10343235065.html</link>
<pubDate>Tue, 15 Sep 2009 19:34:50 +0900</pubDate>
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<title>冷戦下の中ソ関係</title>
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<![CDATA[ <p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="2">第二次大戦後、世界はアメリカを中心とする資本主義陣営と、ソ連を中心とする社会主義陣営が対立する冷戦の時代に入りました。当然社会主義国家の中国は社会主義陣営について、中ソは蜜月時代を築いていたかと言えば、実はそうではありません。</font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="2">中国共産党は国共内戦に勝利し、スターリンの方針を支持し、ソ連と同調します。しかし、それもスターリンの時代だけでした。ソ連はスターリンの後、フルシチョフが書記長になります。すると、そのフルシチョフはスターリン批判を行いました</font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span lang="EN-US"><font face="Century"><font size="2"><br></font></font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="2"><a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%95" target="_blank">フルシチョフ</a> </font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="2"><a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E6%89%B9%E5%88%A4" target="_blank">スターリン批判</a> </font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span lang="EN-US"><font face="Century"><font size="2"><br></font></font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><font size="2"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">それに伴い中ソ関係は疎遠になります。</span><span lang="EN-US"><font face="Century">60</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">年代の中国は、北ではロシアが国境を伺い、東では台湾の国民党が本土回復、南ではアメリカがベトナムへ軍事介入など、外交方面においてはまさに孤立無援の状態にあったと言えるでしょう。</span></font></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><font size="2"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">中ソ関係が決定的になったのは</span><span lang="EN-US"><font face="Century">1969</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">年珍宝島（ダマンスキー）事件です。</span></font></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span lang="EN-US"><font face="Century"><font size="2"><br></font></font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="2"><a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%8D%E5%AE%9D%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6" target="_blank">中ソ国境紛争</a> </font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span lang="EN-US"><font face="Century"><font size="2"><br></font></font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><font size="2"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">このため中ソ関係はいよいよ一触即発の関係まで悪化します。そこで中国はウルトラ</span><span lang="EN-US"><font face="Century">C</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">の選択をします。そう、アメリカとの国交樹立、映画『フォレスト・ガンプ』のシーンでも有名なピンポン外交です。（これも詳細は別の機会に）</span></font></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="2">これによって中国はソ連との戦争の危機をとりあえずは回避することになります。</font></span></p><font size="2"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 10.5pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-bidi-font-family: 'Times New Roman'; mso-font-kerning: 1.0pt; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-bidi-language: AR-SA">その後中ソ関係は、</span><span style="FONT-FAMILY: Century; FONT-SIZE: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-bidi-font-family: 'Times New Roman'; mso-font-kerning: 1.0pt; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-bidi-language: AR-SA" lang="EN-US">89</span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 10.5pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-bidi-font-family: 'Times New Roman'; mso-font-kerning: 1.0pt; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-bidi-language: AR-SA">年天安門事件のゴルバチョフ訪中を経て、</span><span style="FONT-FAMILY: Century; FONT-SIZE: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-bidi-font-family: 'Times New Roman'; mso-font-kerning: 1.0pt; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-bidi-language: AR-SA" lang="EN-US">90</span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 10.5pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-bidi-font-family: 'Times New Roman'; mso-font-kerning: 1.0pt; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-bidi-language: AR-SA">年代、ロシアの時代になってようやく国境交渉は一部合意に達しますが、国境・領土問題はどこの国でも存在しています。</span></font>
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<link>https://ameblo.jp/chinato/entry-10340838064.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Sep 2009 09:59:08 +0900</pubDate>
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<title>南水北調、生態環境保護問題</title>
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<![CDATA[ <p><font size="2">現在、長年「黄金水道」と呼ばれてきた長江が、その交通インフラとしての機能を失いつつある。ここ数年長江中流域は毎年大洪水に見舞われており、その水害は甚だしいものがある。この点を見る限り中国は水害に悩まされているように見えるが、実際はまったくの逆で深刻な水不足に悩まされており、なんと数千年にわたり中華文明を育んできた黄河が断水を起こしている。また首都北京から北に100キロほど行けばそこはもう砂漠地帯で、かつて当時の朱首相が、首都北京の移転を検討しなければならないと語っている。それほど中国の環境問題、特に砂漠化は深刻である。現状中国では全国の水道の25％以上を地下水に頼っているとされる。南方は長江があるが、黄河流域はそのほとんどを地下水に頼っている。そのため最近は地盤沈下現象も起きるようになり、西安市の有名な観光地である「大雁塔」は年々傾きつつあるという。また、以前外国の学者が中国に対して、このままでは世界的な食料危機が起きると警鐘を鳴らした。それを受けた中国政府は食料の自給自足を目指すために穀物等の食料の大増産計画目標を設定し、それを行った。結果その目標数値は数年繰り上げて達成された。中国は世界的に面子を保つことができたが、大きな負の遺産を背負ってしまった。それは生態環境を破壊してしまったことである。食料を大増産するために中国は多くの未開の森林を切り開いてしまった。その結果必然的に環境問題が起きてしまった。以前中国の環境問題と言えば、まず大気汚染や弁当のからによる、いわゆる白色公害だった。しかし、現在中国が目の前に突きつけられた問題は、いかにして水資源を確保するかである。 </font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">近年中国では"退耕還林"、"南水北調"といったスローガンが掲げられている。"退耕還林"とは一度開拓した耕地をもう一度森林にもどすプロジェクトである。そして、"南水北調"というのは、長江から、黄河へ運河を建設し、それによって北部黄河流域の水不足を解消させようとするのが狙いである。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">われわれは日本に住んでいて水問題など考えたこともない。ほとんどただ同然と考えている。蛇口をひねれば水が出るのは当たり前。中国はそうはいかない、大河があっても水が足りないの現状である。</font></p><br><p><font size="2"><br></font></p>
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<pubDate>Wed, 09 Sep 2009 23:18:17 +0900</pubDate>
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