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<title>デザイナー原田純一のブログ</title>
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<title>第20回卒業生より。</title>
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<![CDATA[ <blockquote class="instagram-media" data-instgrm-version="7" style=" background:#FFF; border:0; border-radius:3px; box-shadow:0 0 1px 0 rgba(0,0,0,0.5),0 1px 10px 0 rgba(0,0,0,0.15); margin: 1px; max-width:658px; padding:0; width:99.375%; width:-webkit-calc(100% - 2px); width:calc(100% - 2px);"><div style="padding:8px;"> <div style=" background:#F8F8F8; line-height:0; margin-top:40px; padding:50.0% 0; text-align:center; width:100%;"> <div style=" background:url(data:image/png;base64,iVBORw0KGgoAAAANSUhEUgAAACwAAAAsCAMAAAApWqozAAAABGdBTUEAALGPC/xhBQAAAAFzUkdCAK7OHOkAAAAMUExURczMzPf399fX1+bm5mzY9AMAAADiSURBVDjLvZXbEsMgCES5/P8/t9FuRVCRmU73JWlzosgSIIZURCjo/ad+EQJJB4Hv8BFt+IDpQoCx1wjOSBFhh2XssxEIYn3ulI/6MNReE07UIWJEv8UEOWDS88LY97kqyTliJKKtuYBbruAyVh5wOHiXmpi5we58Ek028czwyuQdLKPG1Bkb4NnM+VeAnfHqn1k4+GPT6uGQcvu2h2OVuIf/gWUFyy8OWEpdyZSa3aVCqpVoVvzZZ2VTnn2wU8qzVjDDetO90GSy9mVLqtgYSy231MxrY6I2gGqjrTY0L8fxCxfCBbhWrsYYAAAAAElFTkSuQmCC); display:block; height:44px; margin:0 auto -44px; position:relative; top:-22px; width:44px;"></div></div><p style=" color:#c9c8cd; font-family:Arial,sans-serif; font-size:14px; line-height:17px; margin-bottom:0; margin-top:8px; overflow:hidden; padding:8px 0 7px; text-align:center; text-overflow:ellipsis; white-space:nowrap;"><a href="https://www.instagram.com/p/BQZQfCohkN-/" style=" color:#c9c8cd; font-family:Arial,sans-serif; font-size:14px; font-style:normal; font-weight:normal; line-height:17px; text-decoration:none;" target="_blank">Junichi Haradaさん(@khristosmichael)が投稿した写真</a> - <time style=" font-family:Arial,sans-serif; font-size:14px; line-height:17px;" datetime="2017-02-12T02:23:37+00:00">2017 Feb 11 6:23pm PST</time></p></div></blockquote><script async defer src="https://platform.instagram.com/en_US/embeds.js"></script>
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<link>https://ameblo.jp/chitekisosaku/entry-12247003437.html</link>
<pubDate>Sun, 12 Feb 2017 11:23:42 +0900</pubDate>
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<title>新型携帯特殊避難服シリーズ</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<link>https://ameblo.jp/chitekisosaku/amemberentry-12149302353.html</link>
<pubDate>Mon, 11 Apr 2016 23:01:00 +0900</pubDate>
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<title>世界の人々を自然災害から護るため、 新型携帯避難服「BOUGUボーグ®」を発明しました。</title>
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<![CDATA[ 初めまして、新型携帯避難服「BOUGU®ボーグ」を開発した原田純一です。私は東北電子専門学校クリエィティブ分野デザイン学科主任 としてデザイン研究と学生教育に関わっているほか、3.11東日本大震災に被災して以来、震災復興の一助となるべく、一般社団法人　知的創作研究所 の代表理事として、災害から人々を護るための防災方法や避難服のあり方を追求、実際の被災体験を基に新型携帯避難服の開発に全力で取り組んでまいりました。<br><br>「災害は忘れたころにやってくる！」とは、よく言ったものです。まさに3.11東日本大震災の爪痕は今も被災地や被災者の方々をはじめ宮城県全域に大きな禍根を残しています。死者・行方不明者合わせて２万数千人を数え伝説と化した今、津波到来などの直前の・警告・はあまりにも空しく響きます。中でも、全校児童１０８人のうち６８人が一瞬にして命を落とし、６人が行方不明になった県内の小学校の悲劇は、教育現場を襲った災害として歴史に深く刻みこまれることになりました。しかし、何時起こるか分からない恐怖は人知を超えたところからやって来ます。しかも放射能や鉄くず、ガラス片は復興作業の妨げになるだけで再建の見通しすらたたない状況です。しかも宮城県だけでなく、今や日本全国で大きな地震がしばしば起こり、悪夢の再来という不安を払拭できないまま今に至ります。更には世界各地で大地震が発生し、今後も発生が懸念される中、何時起こるか分からない地震や災害の前にして、ある日突然しかも大都会で大地震が起きたら、人間の力では防ぎようがない惨劇となるでしょう。自然災害の発生は予測不可能であることから、発生の瞬間に身を守ることができず、犠牲者があとを絶たないのが現状です。東日本大震災は過去の過ぎ去ったものではなく、東北、中でも被災地の人々の心の中には、「また大地震が起このでは」という不安は常に付きまとっている状態です。事実、現在も余震は絶えることなく、将来的には南海トラフ地震や東京地下直下型地震など、高い確率で発生することは、多くの専門家も指摘しています。<br>太平洋沖に延びる南海トラフでの巨大地震対策を検討する国の有識者会議では、マグニチュード（Ｍ）９・１の地震が起きると、最悪クラスで２２０兆３千億円の経済被害が出るとの想定を発表しました。国内総生産（ＧＤＰ）の４２％、東日本大震災の１０倍を超える規模。今回の公表で死傷者数などを含む被害想定が出そろったことになり、国は防災対策の基本方針を盛り込む大綱の策定を急いでいるものの具体的な対策が急がれます。<br><br><br><strong>新型携帯避難服「BOUGU®」で、世界中の人々を護りたい。</strong><br>地震、災害が発生したまさにその瞬間に、何時どこにいても自らの身を守る手立てがあれば、犠牲者の発生を防ぐことができます。「瞬間的に身を守る手立て」が必要であると感じました。例え自宅に常備した立派な避難具、社内にある頑丈な防具、でもいずれも時と場所を選ばない自然災害の前には、時間と距離などが隔たりとなって実際には何の役にも立ちません。それより各自人一人一人が避難具を携帯することが出来たら、少しでも多くの尊い人名を救うことが出来るのではないだろうか。大災害から少しでも多くの人々を護りたい。<br>実は私の教え子が、3.11で3人もの尊い命を落としました。津波という只の水とは明らかに違う濁流と化した凶器には、大量の瓦礫やガラス片が入り交じり容赦なく人々に襲いかかってきます。挙げ句には、岩などの擦傷で体中がズタズタにされた遺体を目の当たりにした時、日常持ち歩けて、あるいは着ていられる軽さの「耐刃・耐火・防煙・防水」性を備えた携帯避難服があったなら世界中の人々を災害から救えるのではないだろうかと考えました。<br><br>新型携帯避難服「BOUGU®」の内容<br><br>新型避難服（携帯避難服）「BOUGU®」<br>特許出願　　【整理番号】ＨＲＤＪＮＰ１４０１<br>　　　　　　【国際特許分類】　Ａ６２Ｂ　１７／００<br>　　　　　　【識別番号】　514165864<br><br><br>この携帯避難服はA4サイズ(軽量約250g)に小さく折りたたむことで何時でも携帯することができ、数秒で身に纏うことが可能です。本発明は、表地と裏地の、いずれか一方の少なくとも一部が難燃性及び防水性を有する第一の布地からなり、他方の少なくとも一部が耐刃性を有する第二の布地からなることを特徴とする携帯避難服です。目に当接する部分が透明で、口に当接する部分に防煙フィルターを備えたフードが付いています。第一の布地が、酸素指数が２７以上、第二の布地が、引張強度が１７ｃＮ／ｄｔｅｘ以上、引張弾性率が４５０ｃＮ／ｄｔｅｘ以上の高強度繊維で形成されています。凶器津波を実際に体験した者にしか分からない切創性に対し特に、難燃性、耐刃性、防煙性能を備えた避難服に関するものであり、普段着としても使用可能。しかも何時でも<br>何処でも迅速に着用することが可能で、場所を問わず避難の安全性を確保できる携帯避難服です。防災だけでなく、防犯にも十分役立つ避難服です。現在、子供の避難服（防護服）は満足なものがありません。学校の防災頭巾のみと言っても過言ではない状況です。そこで、同様の性能を備えた、子供用の商品も開発致しました。この商品が学校や家庭において普及されれば、必ずや子供の防災・防犯に役立つことが出来ると確信しております。<br>震災後、何度か試行錯誤を繰り返しつつ、プロトタイプ段階ですが今回、新型の避難服である「ＢＯＵＧＵ」を開発致しました。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140716/19/chitekisosaku/41/2f/j/o0800114513005024914.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140716/19/chitekisosaku/41/2f/j/o0800114513005024914.jpg" alt="" border="0"></a><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140716/19/chitekisosaku/8c/e8/p/o0732057113005036607.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140716/19/chitekisosaku/8c/e8/p/t02200172_0732057113005036607.png" alt="BUGU" width="220" height="172" border="0"></a><br>
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<link>https://ameblo.jp/chitekisosaku/entry-11895175525.html</link>
<pubDate>Wed, 16 Jul 2014 19:13:25 +0900</pubDate>
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<title>原田家の紋章「家紋―隅切り角に片喰（かたばみ）」</title>
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<![CDATA[ 私の家の家紋は、隅切り角に片喰（かたばみ）と言うものです。<br><br>インターネットで調べてみると、日本五大家紋に入るらしく、桐紋・ 藤紋・木瓜紋・片喰紋・梅紋のなかの一つだそうです。<br><br>ＨＰ五大家紋より<br><br>［片喰紋の特徴］<br><br>片喰はハート型の葉がクローバーに似ており、可憐な小さな花を咲かし片三つ葉は夜に閉じる。また噛むと酸っぱいので、スグサとかスイモノグサと呼ばれる。葉をすりつぶして鏡を磨いた時代には「鏡草」とも呼ばれ、毒虫に刺されたときにも、すりつぶした汁を塗ると治るといわれている。繁殖力が逞しい雑草なので、この実を財布に入れておくと「いくらつかっても金が減らない」というおまじないから「黄金草」とも呼ばれる。対照的に片喰は西洋の花言葉では「賢い婦人」といい、ハート形で女性に好まれていて賢明な女性を意味する。国内では使用家数で堂々第2位を占めている。理由としては形の美しさ、日常的に見られる親近感が挙げられています。<br><br>【主な使用家】<br>公家では 大炊御門・冷泉・四条・油小路・西大寺、武家では新田・長曽我部・宇喜多・肥田・中沢・多賀・赤田・平尾・上泉・大胡・妹尾・田川・河田、江戸の大名では 森川・松平・酒井などの諸氏が使用し、旗本百六十余家におよび、桐紋についで多用されたとされ、備前の宇喜田氏は、かつて広大な湿地帯であった児島郡を開拓して立派な田にしましたが、水が多い田なので浮田、のちに佳字をあてて宇喜田にしたと云い伝えがあります。<br><br>また土佐の長曽我部氏は、その祖・泰能俊氏が土佐に下向する時の別れの盃に、かたばみの葉が七枚浮いていたことから、「七つかたばみ」を紋としています。<br>かたばみ紋は山陰、北陸地方に多かったようです。<br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140716/19/chitekisosaku/21/0b/p/o0234023813005002833.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140716/19/chitekisosaku/21/0b/p/t02200224_0234023813005002833.png" alt="原田の紋章ー隅切り角片喰" width="220" height="224" border="0"></a><br>
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<link>https://ameblo.jp/chitekisosaku/entry-11895157937.html</link>
<pubDate>Wed, 16 Jul 2014 18:47:55 +0900</pubDate>
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<title>・76歳のストーカー</title>
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<![CDATA[ 2012年7月暑さも本格的になり、寝苦しい夜だった事を今も鮮明に覚えている。<br>時計が0時を過ぎた頃、携帯電話が「ブルブル」と震えた。母の携帯電話からだった。父が癌で亡くなってから、一人で暮らしている母。山形が生まれ故郷でもあるし友達も多い。一度だけ仙台の父の癌の治療のために購入したマンションで妻と生まれたばかりの長男と共に暮らしたことはあるものの、妻とおりが合わず半年程で自分から山形に戻ってしまった。私は、独りで暮す母に申し訳ないやら、心配でしょうがないため、万が一の為、携帯電話で毎日の母の状況を確認していた。<br><br>どうかしたのかと思い電話に出ると、76歳の男に強姦されそうになった。と言う。母は当時79歳。80近い年齢の老人に76歳の老人が、こともあろうに婦女暴行をしたというのか。しかも母が言うには、最近町で時々見かける事があり、遠縁の人であると分かり挨拶をしていたらしい。<br>母の住むアパートにも友人がいるとのことで出入りしていたらしく、アパートの近くでもよく顔を合わせたという。確かに母にも油断はあったにせよ、私はその男の行為が許せなかった。母に男の名前を聞き、104で家の番号を調べた。男の家に電話をした時、最初は若い女性が出た、娘であると思い、「○○さんをお願いします。」と言った。男が出て来た。私は自分を名乗り、母の息子であることを告げ、その男を怒鳴りつけた。私はいつになく強い口調で、今直ぐの謝罪を求めた。しかし、男は認めようとしなかった。私は、男に対し「息子の俺がいる内は、母にどのような手出しもさせない。警察に告訴する、逃げずに待っていろ。」と電話で叱りつけ、直ぐ管轄の警察署に連絡、一部始終を話した。翌日母の元に刑事が数名訪問し、事情聴取をした上で男の身柄を拘束。母にその後の対応を問うたようである。しかし、母は元々優しい人。告訴せずに警察による厳重注意と2度と母の近くに行くことを禁止する旨の誓約書を書かせただけで、決着させてしまった。私は、これで良かったのだろうか。という不安を抱えたまま。1年を迎えた。<br><br>いつものように朝、母の様子を知るため携帯電話に連絡を入れた。普通にいつもの話をして電話を切ろうとした時、母が「最近、無言電話がよく掛かって来て、電話に出ると「がちゃり」と無言で切れることがあり、気になる」という。私は、昨年の事が頭をよぎり、母に詳しく尋ねた。<br><br>やはり、母の住むアパートに友人がいるため時折近くで見かける。という。その友人にも聞いてもらったら、新聞を取りに来るらしい。<br><br>私は、昨年刑事から「厳重注意をした上で、念書を書かせた。2度と母の身辺には行かない。と制限付きの誓約書を書かせた。」と聞いていた。この男はただものではない。と感じた。事が起こる前に、警察に知らせ状況を把握させておくべきだと判断した。<br><br>13日(土)急ぎ山形の母の元に行って来た。発信元表示機能の付いた最新の電話機に機種変更をするためであった。最近、凶悪な犯罪が多発しているので、昨年のあの男がストーカー行為を繰り返していたら困る。と思い、再び警察に相談、発信元表示機能の付いた最新の電話機に取り替えた。<br><br>無言電話が切れても、直ぐ何番からかかってきたか分かり、その番号を警察署に連絡する。という段取りである。80を過ぎた母には複雑な操作を要する電話機に手をやいているとは思うが、とにかく誰が無言電話をしてきているかが分かる。万が一の時、本当に警察がスピーディに対処出来るか、不安はあるがやるべき事はしておきたい。
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<link>https://ameblo.jp/chitekisosaku/entry-11637435275.html</link>
<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 23:14:19 +0900</pubDate>
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<title>過去そしてみらいへ1      亡き父に捧ぐ、「海軍志願兵体験記」著作／原田俊夫</title>
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<![CDATA[ <strong>亡き父に捧げます。</strong><br><br><br>海軍志願兵体験記は私の父、原田俊夫が戦争の実体験を元に書き下ろした体験記です。父は農家の跡取り(長男)として誕生しました。 <br>しかし、父のやりたかった本当の仕事は、新聞記者や執筆活動のようでした。父は嘱託で記者などを若い頃目指していたようですが、あの戦争が勃発、そして日本の敗戦とともに無事帰宅。長男であるということもあり、家業の農業を継ぎました。原田家はもともと地元では有数の地主で、原田の本家は地域の方々から「才兵衛様」と呼ばれていました。原田才兵衛は原田家の初代家長でした。私は父の長男としてこの世に生を受けました。終戦の傷跡がまだ至る所に残っている時代でした。私の子供の頃は、大家族でした。私を含めて曾祖母・祖父・祖母・父・母・妹そして伯父の8人家族が一つ屋根の下で暮らしておりました。私は小学4年の時、自宅の改築工事をしている時にいたずら半分でまだ完成していない屋根にはしごを伝手って昇り2階の屋根の頂上に登りあたりを見渡したことがあります。しかし、降りようとした時、はしごに足を踏み外し、1階の屋根にまともに背中から転落しました。丁度隣に大工さんがいて、「大丈夫か」と声を掛けてくれました。私は本当は背中が重苦しかったのですが、落ちた衝撃で板がむき出しになっている屋根の1部が潰れた事を気にし、「大丈夫です。」と言いました。大工さんも、どういう訳か、「誰にも言わないがら、はやぐ降りろ」と私をかばってくれたように思いました。私はこれ以降この事は親にも言いませんでした。1週間程経過した早朝のこと、私はトイレに起きて小便をしたのですが、何かが変でした。色が赤いきれいな色をした小便が出ているのです。この時はまだ事の重大さに気が付いていませんでした。9歳の年月が過ぎ去ろうとしていた時、3月下旬にもなるのにその年はやけに雪が多かったことを覚えています。いつもの様に朝トイレに行きました。私の家は旧家でしたのでトイレは自宅から数m離れた所に別棟の建物になっていて大用のトビラ付きのものと男子専用の便器が別々に一つの別棟の建物の中にありました。電気が通っていなかったため、照明がなく夜はトイレに行くのが怖かったことを覚えています。そのため早朝にトイレに行くのでした。小便をした瞬間、「どきっ」とする戦慄が私の中を駆け抜けました。小便の色が何と、真っ赤です。しかもまるで血が流れれているように見えました。雪にかけると鮮血が降り掛かったような小便でした。 <br>10歳の少年には、真実を親に言うのは恥ずかしいやら、原因がハッキリしているだけに怒られそうで、結局親にも誰にも言えず2日程血尿をそのままにしていました。<br><br><strong>3日目の朝、</strong><br><br>いつものようにトイレに行くと何と昨日までの赤いおしっこが普通の透明な尿になっていたのです。「もう治ったんだ。」と私は思い、今までのことなど気にする事無く仲間と遊んだり、走り回ったりしていました。もちろん学校にも毎日休まず行きました。 <br>赤いおしっこのことなど何時しか忘れ中学に入学しました。中学でも走り回って遊びました。 <br>体育の時間になり、逆上がりをする練習をしていた時のことでした。 <br>鉄棒の下に頭が来たとき、ふと空を見上げたら雲と雲の間を「すーっ」と白い物体が横切りました。私はとっさに「UFO」だ。と思いました。隣にいた柔道部のクラスメートに「今、UFOみだいな、何が見ないけが」と聞いてみました。すると彼も「見た゛、何だがわがんねげど楕円形の白いもの見だ」と言うのです。私とその友人はもう一度一緒に空を見上げました。 <br>偶然というかまた「白い楕円形をした物体」がゆっくりと雲と雲の狭間を横切っていきました。明らかに飛行機やヘリコプターではありません。当時飛行機はプロペラ機が主流でしたので飛行機では無いと確信、やはり「UFO」だ。と隣の友人に声を掛けようと振り向くと、彼は仲間と一緒に遊んでいました。私は、「やっぱりまた見た。」「お前も見だべ。」と聞くと、彼は何故か、「俺、見なかったな。」と返事をするだけでした。<br><br>私はその後も、幾度か同じような飛行物体を見ています。ただ、TVでやっているような誘拐されたり、というようなことはありません。 <br>中学生になってからも、1度血尿になりました。しかし、2～3日で元に戻るので誰にもこのことは言いませんでした。 <br>高校に進学して血尿が出ることもなくなり、私はクラスメートとモトクロスなどをして青春を謳歌しました。山形の誰も登ったことのない丸太をつかって階段を作った細い山道をバイクで頂上を制覇。トライヤルなどにも挑戦、1度だけ月山の中腹から下の河原まで転落しそうになりましたが、運良く崖の途中に生えていた松の木にバイクが引っかかり九死に一生を得たこともありました。その後、オートバイ仲間も出来て、最上川の堤防をモトクロス場に見たて、登ったり下ったりジャンプをしたりし、2人の友人と楽しんでいたある日曜日の事、堤防に寝そべっていた複数のチンピラ風の男達に取り囲まれ、「お前ら誰の許しを貰ってここでバイクを乘っているんだ」と言いがかりをつけてきました。その後、私と友人は複数のチンピラたちに殴られたり、蹴られたりしましたが謝りもせず手出しもしない私たち2人を見て、チンピラたちは「ばかばかしい」と言って何処かに行ってしまいました。<br><br>翌日、また血尿が出てしまいました。「昨日蹴られたのが原因だと」そう思いました。 <br>今回は、今までとは少し違っていました。2.3日で元に戻ると思っていたのですが、そうではなく、左脇腹が激しく痛みだしたのです。学校を休みました。 <br>痛みが更に激しくなってきたのを母親が心配し、町内の県立病院に父の同級生が泌尿器科の医者をしているから診てもらうことになりました。結果は緊急入院となりました。原因不明の左腎性血尿と診断され、左側の尿管に血の凝血の固まりが詰まっているため痛みがある。ということで入院し点滴を受け続けました。入院3日目に煮こごりのような固まりが尿と一緒に出てきて、痛みも治まり血尿も元に戻りました。それでも念のため1ヶ月様子をみるため入院させられました。医者は父の同級生ということもあり、「俊夫君(父)の息子なら、これからも何かあったら相談に乗るから、ここに連絡をください。」と新しい名刺を渡してくれ親身になって話しかけてくれました。医者によると、「原因は分からないが何かの衝撃で左側腎臓の血管が破れやすくなっているために起こる。完全に治るのは、大人の身体になり堅固な状態になって血尿が出なければ大丈夫でしょう。」という結論でした。私には原因が分かっているので意味が理解できました。大人になれば治る。そう確信しました。<br><br>入院していた同じ病室に、山形の平清水焼きの窯元「丹羽龍之介」先生がおられました。先生は私の隣のベッドでした。先生の方が早く退院したのですが、私は退院記念に先生が作った「平清水焼き(梨青磁)」という茶碗と色紙をいただきました。色紙は病室で 「風雪も育ての親か、梅の花。」 <br>と独特な書体で書いてくださったものです。私はありがたいと思う気持ちより先に、その文字の独特で大胆な印象に圧倒され、梨青磁のもつ質感に感動してしまいました。<br><br>それからは、図案家という職業がある事を知り、そういう職業に就きたいと強く思う様になったのです。<br><br><strong>2年後、</strong><br><br>山形の父に癌が見つかったため、ロンドン大学コートールド美術研究所を1年あまりで中退、外資系企業で東京のタイムインターナショナルの系列出版会社に入社しました。父の治療費と独立費用を捻出するのが目的でした。外資系企業の給料はウィークリーとマンスリーの月2回振り込まれ、実力主義を反映するかのように多い時で月60万円～80万円ほどの給与を23歳で得ていました。<br><br>私は東京千駄ヶ谷の日本医大で正式手続きを行い丸山ワクチンを定期的に投与することに。更にロンドンから神の秘薬と呼ばれていた癌の特効薬も定期的に購入。父の癌の治療に宛てました。1年半程で外資系企業を退社、故郷に錦を飾るつもりでデザイン会社を設立、プロデザイナーとしての道を歩みだしました。しかしデザイン会社は6年ほどで終焉を迎えることになりました。取引関係にあった東京の代理店が倒産し保証金として預けていた300万円が焦げ付いたのです。ひとまず当座の資金を得ようと行政書士に相談、「無記入の手形を5枚切ってくれれば、資金を作る。」と自信たっぷりに言う行政書士の言うがまま空の手形を切りました。100万程度の現金を手に入れましたが、振り出した空手形の危険性を教えてくれた弁護士の助言で会社を法的に清算しました。<br><br>何にもなくなりました。故郷の先祖代々の家、田畑まで手放しました。裸一貫、どうせ丸裸。1から出直すことにしました。仙台でフリーランスデザイナーとしてスタート。機を熟すように波に乗りました。仕事が毎日のように入り、徹夜続きの日々を送りました。いつしかデザイン学校の非常勤講師として採用になり、デザインの指導もするようになりました。気がつくと一人の女子学生が私のスタジオに出入りするようになっていました。バイク好きで話が合い、気さくな雰囲気の子でした。私も大型2輪に乗っていたため両親に紹介するため2人で2台の単車に乗り一路山形へ。その日は生まれ故郷で朝まで飲み明かしました。あの頃、母のとても喜んだ笑顔は今も忘れられません。<br><br>ひょんな事で彼女には同棲している人がいることが分かりました。失意の中、思いを断ち切る為、デザイン学校を辞任したものの思う様に仕事が捗りません。自分の中で「何故だ。」という無念だけが空回りし思う様に歯車が廻らない状態が続きました。そんなある日のこと。スタジオで考え事をしていた時のことでした。頭のてっぺんから、何か妙な感覚を覚えました。最初は頭に油を注がれたような「ぬらぬら」という感触があり、次に何かに頭を捕まえられているような感触を感じたのです。そしてそれは「じわりじわり」と恐怖感に変っていきました。 <br>最後には恐ろしい何かが取り憑いてきたような強烈な寒気を感じ、思わず部屋を飛び出し道路まで逃げました。まだ頭を鷲掴みにされているような感触は残っていたものの恐怖感が薄れてきたため再び部屋に戻ったのです。実は当時、デザインスタジオと自宅を兼ねて借りていたマンションの部屋の前はJR仙石線の線路が2m先にあり、その線路の奥が墓地になっていました。 <br>私は、墓地の霊か何かがいるのかと不安になりながら部屋に戻ったのですが、今度は頭をマッサージされているような気持ちのいい感触を感じ身体が固まったまま15分程佇みました。 <br>それからというもの眠っている時以外は頻繁に何かが頭を鷲掴みされるような、「じわりじわり」と沸き上がる恐怖感を何度も体感するようになったのです。<br><br>仕事をしなければと思い机に向ったものの、いつの間にかあるイラストを描いていたのです。出来上がったイラストは王の椅子に座って聖書を開いている「イエス・キリスト」の絵でした。それからの私は聖書と燭台と十字架を購入し毎日聖書を読む様になっていました。何故か聖書を読むと心が落ち着き、体調が頗る良くなるのでした。旧約聖書と新約聖書を1回読み終えるのに1ヶ月程要しました。私は常に聖書持ち歩き、暗記するまで何度も読み続けようと思ったのです。<br><br>デザイン団体の会議があった夜、早道をしていこうと思い車を路地に向って入って行きました。昼間なら何処を走っているか直ぐ判断が出来たのですが、暗い路地のため道に迷ってしまい引き返そうと灯りのついた広い駐車スペースでUターンしようとバックをした時、その灯りのついた建物の方と思われる男性が私の車の窓ガラスをコンコンと軽く叩いたのです。 <br>私はしまった。と思いつつ敷地に入ったため釈明しようとドアを開け車を降りて道に迷いUターンしようと思いつい敷地に入ってしまったことを説明とお詫びしようとしたところ、その方は、「貴方が来られるのを待っていました。どうぞ遠慮なく中にお入りください。貴方も臨んでおられた筈です。」と言うのです。私はどなただろうと思い回りを見ると、スチールの看板に「仙台パプテスト教会」と書かれているのが見えました。私は「教会?」と思ったものの何故か誘われるまま、教会の中へと案内されました。その方は私に向って「私に聞きたいことがあるのではないですか。」とおっしゃったのです。私は素直にこれまで自分の身に起きた現象(頭に何か降りてくるような恐怖感)や聖書を読み始めたこと等を打ち明けました。すると、その方は、私に向ってこう告げました。「貴方は霊のパプテスマを授かった方です。貴方はご自分の教会を建てられる方です。貴方に今後起こる事を全て受け入れなさい。そういう定めにあります。」私は、始めてお会いした方なのに何故かすべてを打ち明ける事が出来たのです。 <br>そして丁寧にお礼を言って教会を後にしました。私は「牧師」になったとこのとき自覚しました。<br><br><br><strong>「不思議な縁が元で聖職者を目指す。」</strong><br><br><br>霊のパプテスマを受けた事を悟り、身も心も聖職者として生きようと決意する。私は毎日欠かさず聖書を朗読した。1996年8月、現在の東北電子専門学校デザイン分野の教師として招かれた。偶然にもグラフィックデザイン科の立ち上げと同時に採用された。それ以来、デザインはわたしにとって指導の術となった。 <br>デザイン界とのコネクションを生かして多くの展覧会を開催した。デザイングランプリTOHOKUの審査委員となり優秀なデザイナーの育成に精を出して働きかけた。教え子は私の期待に応え、次々と上位賞、そしてグランプリをものにした。6年間連続で優秀賞を受賞し続けた。実はその背景に、審査委員長　中村　誠先生との出会いに由来していた。中村先生との出会いは、私が22歳の時、当時デザイン界の登竜門として開催されていた東北宣伝美術展に初出品し入賞をいただいた。その時の審査委員長が中村　誠先生であった。先生は当時、資生堂の宣伝部長をなさっていた。憧れのデザイナーだった。2年連続して入賞したものの、東北宣伝美術展が解散した。それから24年経って再び東北のデザイン界を盛り上げるため、私は中村先生を審査委員長に推薦。 <br>直接交渉し審査委員長に就任していただいたという経緯があります。7年間デザイングランプリTOHOKUの審査委員長として采配を振るっていただいた功績はとてつもなく大きな力になりました。<br><br>現在の学校の教師になって6年後、今の妻と結婚。妻も同じ学校に勤務する同僚でした。 <br>父の癌を直すため、この頃　仙台国立病院の近くにマンションを購入し両親を呼ぶ準備をしながら独り就寝しようとしていた時、彼女からの電話が届いたのです。<br><br>つき合って欲しいという電話でした。すでに私は48歳。聖職者として生涯独身でいようかとも考えていたのですが、彼女の熱烈なラブコールに引き寄せられるようになりました。 <br>年の差は約20歳、それでも彼女は私の話を真剣に聞いてくれたのです。妻の実家は気仙沼でした。父親は水産会社の魚類の検査員として船乗りと同じ環境にありました。彼女の両親の元に「お嬢さんをください。」と唐突に結婚の意思を告げた事を懐かしく思い出します。<br><br>この頃から、中村先生に少し異変が起きていました。岩手の美術館で中村先生の所蔵記念展を開催するとして招待状を受け取り、参加いたしました。いつもなら、「やぁ。原田さん、よく来てくれたね。ありがとう、ありがとう。」と言葉が出てくる筈なのですが、私と視線が合っても声をかけていただけませんでした。何かとても寂しく感じたものです。 <br>でも、それが先生の引退のシグナルであったと1年後に思い知らされました。私たちは中村先生のご恩、そして東北のデザインに貢献されたご努力に報いるため名誉審査委員長として永遠にその名を残すことで意見が一致。中村誠賞を新設し副賞である金メダルは私がデザインし製造したものです。正に記念のメダルです。先生がご存命中に今一度グランプリを学生たちに取らせてやりたいと思っております。<br><br>ここからは<br><strong>海軍志願兵体験記　　　　　著者／原田俊夫(父、71歳で永眠)<br>第二次世界大戦末期、海軍志願兵として入隊した父の体験小説</strong><br><strong>●青年学校からの強制志願<br></strong><br>昭和二十年といえば太平洋戦争も末期で、私達は役場の兵事係と、青年学校（当時、 各小学校区ごとに当時の旧谷地町には、南部青年学校、中部青年学校、西部青年学校がありました。）<br>それは当時、制度化されていたものと思われます。それが昭和十九年頃に中部青年学校に統合し一本化されました。その青年学校からの強制志願だったのです。<br>私はその時満十七才の少年でした。寒河江町（現寒河江市）の南部小学校に西村山地区から、十六才から十九才までの志願者が身体検査と学科試験（算数と国語）を受けるため集合していた。学校の教室を借りて試験が行われましたが、その時に現役の<br>学校の教師が教室の通路をゆっくり歩きながら問題を声高に教えていたものです。それは、今田信一先生（故人）と、宇井利一先生（故人）だったと記憶しています。<br><br><strong>●記憶をたどる</strong><br><br>遠い記憶で、小学校入学の時、新入生の初顔見せのことを思い出したことがあります。<br>その時は祖母（昭和四十三年、八十九才にて死去）に連れられていった時のことです。新入生の知能テストで、紙の色を言い当てるものでした。<br>係の教師が赤い紙を指し示し、「これは何色ですか？」と、たずねた。私は何の躊躇もなく、「シロ！」と、答えました。すると係員はすかさず裏面を出して、「ウラは白ですがよ。」と言いました。<br>その帰り路、祖母に、「なして、赤を「白」とゆたんだ、バガヤロほに」と、ひどく、ごしゃがれた（叱られた）ことを思い出していました。<br>何であの時、赤色を「白」と答えたのか、後年考察してみましたが、いまだ不可解なままです。<br><br><strong>●結果発表をうけて</strong><br><br>学科試験の結果発表がありました。算数四十点、国語八十点でした。合格基準は二教科共六十点以上とされていましたが、私の場合、合計で百二十点ということで特別に合格ということになりました。<br>学校の雨天体操場内では、厳密な身体検査が行われました。特に軍隊は集団生活なので伝染性の疾患など発見されますと、直ぐ失兵（兵役免除）となったものです。<br>性病検査ということで私達は軍医の前で、フンドシを除去して、裸になり、生殖器を直にさらけ出しました。この時、私の代物は萎縮して蚕の蛹のような形をしていました。それを見た軍医の試験官は即座に、<br>「細いし、小さいね。」と言ったものです。<br>私はこの時、何という感情もありませんでした。（後年、私は美しい娘と結婚し、男女二人の子供を成<br>し、セックスの時は、妻に最高の歓喜を与えることが出来たものです。）<br>身体検査の結果、私は丙種合格となりました。上には、甲種合格、乙種合格とあり、私などは、体格が大きくなかったので最下位の丙種となったものと思います。<br><br><strong>●出征兵士を送る壮行会を迎え</strong><br><br>数日後、町役場の小走り、（当時、各家々へ、役場より通達物を配布して回る小使い）が回ってきて、私の所へ採用通知書を配達して行きました。その時、私は身体的な絶望感に襲われたことを覚えています。<br>谷地町内からは、二十九名の紅顔の少年達は、絶望感に打ちひしがれながら出発の日を待った。<br>当時、私の地区は高関といって、連合会長を槇新助氏（故人）がやっておりました。部落には村社熊野神社があり、そこでは出征兵士を送る壮行会が行われます。主催者は地区の在郷軍人会がとりなしておりました。<br>「出征兵士」を送る言葉、槇新助氏、兵士を代表して召集令状で海軍に征くことになった、年齢の高い、原田喜一郎氏（故人）が私達を代表して、あいさつをしました。その後、八幡神社で神事のあと、私達は山交バスにて神町駅に向かいました。沿道の人々は口々に、「バンザイ」と、叫び大きく両手を上げて送る姿が目につきます。このバスには、見送りの家族も少なからず同乗しております。<br><br><strong>●寒さの中を待つ臨時列車<br></strong><br>私達の乗る列車は、この度の志願兵だけを運ぶ臨時列車だったと思います。その年は近年にない大雪でした。その故で、汽車は定刻の午後八時を過ぎても到着しませんでした。<br>私達は寒さに耐えるため、四、五人で体をくっつけ合って暖をとっていたが、駅の待合所では大変だべな、と言うことで駅前の道路北側にあった旅館「泉屋」という所で部屋を貸してくれました。その頃、見送りの家族は殆ど最終のバスで帰宅していました。<br>午後十時過ぎ、ようやく汽車は到着しました。やはり大雪で遅れたということでした。ホームには、見送り人の中で唯一人最後まで残ってくれた方がいました。その人は、荒町の佐々木貞夫君（仮名）後の「えびや食品店主」の父親（宇井利一先生、私の南部小学校時代の恩師）の実兄でした。<br>やがて列車は駅のホームをすべり出しました。その時、佐々木君の親父さんが、大きな声で、「谷地衆、バンザイ、がんばれや」と、叫んでくれたことを今でも記憶の彼方に残っています。<br><br>私達は誰からともなく、当時の流行歌の替え歌をカラ元気を出して唄ったものです。「さァらばー谷地町よォ、また来るまではァ、しばし別れの涙でうるぅむ <br>ゥー」。大雪の吹雪く中を汽車は轟々と音を立てながら奥羽本線を新庄に向かって走り、新庄からは陸羽西線を通り、鶴岡駅から羽越本線で一路、舞鶴市に向け走ったものと思います。 <br>私達にとって二度と生きて故郷には帰る事の出来ない死地への旅立ちだと思ったものです。このような若い身分で戦争に駆り出されるなんて考えても見なかった事でした。 <br>故郷の家を出る時、母親に、おっつぁ（父親のこと）にあいさつして行げな。と言われたが私は何も言えなかったことを思いだし、悲しくなっていました。<br><br><strong>●舞鶴市の海軍兵舎にて</strong><br><br><br><br>二月一日の午前十時頃、やっと舞鶴駅に着きました。この地方も今年は大雪で約一尺程積っていました。駅には平海兵団の或る下士官が迎えに来ていました。 <br>平海兵団は、舞鶴市の東舞鶴地区の海岸の入り江に建設された志願兵だけを収容する、にわか造りの兵舎でした。当時、日本には四つの海軍鎮守府がありました。北海道、東北、関東方面は神奈川県横須賀鎮守府。山形県と新潟県など北陸地方は、京都府舞鶴鎮守府。中国、四国地方は広島県の呉鎮守府。九州地方は長崎県の佐世保鎮守府が管轄していました。それで山形県から海軍に入隊する者はすべて舞鶴鎮守府の所属になるわけです。 <br>平海兵団の兵舎は二階造りの三棟が並立しており、奥の一棟が機関科（エンジン部門）の兵舎になっていました。私は、機関科を希望しました。理由として、機械いじりが好きなわけでなし、機関々系の知識など何一つ知りませんでしたが、何となしにそういう事にした訳でした。 <br>私の地区から機関科を希望したのは、吉田五郎君（故人）、渡辺惣四郎君、鈴木勝一郎君と四人だけでした。他に吉田光穂君は一般水兵、菅原修一君だけは主計兵だったようです。 <br>海兵団では先ず総員が出席しての入団式が行われました。その時に海軍大臣以下の人名を分隊全員で合唱するのでした。 <br>海軍大臣、島田繁太郎、海軍大将。平海兵団長、伊藤勇平（仮名）海軍大佐、第五十三分隊長、機関科は外に五十四分隊と二分隊でした。第五十三分隊長、佐橋恒蔵（仮名）海軍機関大尉。 <br>分隊の中には第一教班より第十二教班まであり、一教班二十名の新兵から成っており、各教班には班長（海軍上等兵曹より二等兵曹まで）が一名おりました。私は第八教班に組み入れになり、教班長は岸本三三三一等兵曹でした。<br><br>その後、海兵団では新兵達の精密な身体検査が行われました。私はその時、軍医検査官の前に呼び出されました。私の体には左睾丸ヘルニアという軽度の脱腸現しょうがありました。（後年自然完治）私は三人の居並ぶ軍医官の前で褌を外して前部を露出して見せました。 <br>私は一寸恥ずかしい気がしましたが、この事で失格（失兵）するなら大変嬉しいと思ったものです。しかし、私は合格しました。この脱腸についても、子供の頃の遠い記憶があります。 <br>それは、祖母に連れられて白岩町にある、「獅子口神社」へ行った時のことです。脱腸の事実は父母に知られていたけれど当時、私の家ではお金がなくて医者などにはかかれませんでした。それで手術など出来なかったのです。 <br>そこで心配した祖母が神様にお詣りして治そうと考えたのです。白岩までは10キロメートルほどありますが、その当時ですので二人は歩いて行ったものです。 <br>その神社は寒河江川の南岸に古木の繁る、昼でさえ暗い山の中腹にありました。（その神社の境内は山形自動車道のルートになりました。） <br>神主が祠の中から白い紙に包んだ黒い砂を私の前に置き、その砂の上に左睾丸を軽く押し付けるように指示しました。その砂を白い紙毎祭殿に捧げ、厳かに祝詩を言いました。 <br>その間、祖母と私は頭を深く垂れてうなだれていました。 <br>そんな事があってから何となく症状が軽くなったように感じますので不思議です。祖母は「神様のゴエンがあだたんだべ。」と言って喜んでくれたものです。<br><br><strong>●海兵団の新兵教育が始まる</strong><br><br><br>海兵団では、苛酷な新兵教育が始まりました。冬期間の起床は午前六時ではなかったかと思いますが、大方忘れましたので、ある程度はフィクションですのでその様に書きます。 <br>起床もその五分前に、「総員起シ、五分前」という号令が伝わります。すると、新兵は一斉に跳び起き衣服をまとうか早く、寝室に全員が整列し、「軍人勅喩」を斉唱するのです。 <br>一ツ、軍人は忠節を盡くすを本分とすべし。一ツ、軍人は礼儀を正しくすべし。 <br>その外、三ツほどありましたが忘れました。食事は三食共七分搗きの米に丸麦が六割も混入した飯でした。量は家で食べていた頃の約半分でした<br>兵舎の寝室の中央に巾二米程の通路がありました。その板敷の上を「精神棒」（直径五糎ほど、長さ一米五十糎ほどの樫の木の棒）を突き立てながら当番教班長がやってきました。 <br>「お前らに軍人精神を叩き込んでやるゥ」軍人精神が欠如しているとの理由で分隊中の総員罰直が始まるのです。私達新兵一人づつ通路の端にある支柱に両手をかけさせ、下半身を裸にして尻を突き出すのです。そこを当番教班長（今週の新兵の仕置き係）が精神棒で力一杯ぶん殴るのです。それで私達新兵の尻は皆んな青赤く腫れ上がっていたものです。 <br>当番の教班長が疲れると別の班長が交替してやりました。軍隊では、上官の命令には絶対服従、正当な理由などや、個性的な思考、理性的な判断などの人間性は全て無視されたいわば極限に近い集団だと思います。 <br>　夕食は午後四時だったと思います。食後はさまざまな雑作業をやりました。海軍では調理場のことを烹炊所（ほうすいじょ）と言います。 <br>そこでは主計兵（海軍の経理、衣服、食糧関係を担当する兵科）達が食事を作っていました。<br><br>就寝は午後九時でした。その五分前に「巡検」と言う命令が伝達されますと、総員が寝たフリをしなければなりません。その時に分隊長と当直下士官が見廻りにくるのです。巡検が終わりますと、「巡検終わり、たばこ盆出せ。」と、いう号令が出ました。「たばこ盆出せ。」ということは巡検が終わったので、たばこ等吸ってもよいということだそうです。 <br>ある時、分隊の中の一人の新兵が失態をやった。直ちに教班長が現われ、「貴様ら、たるんどるぞッ、気合いを入れてやる」各教班毎に向かい合い二列に整列し、お互いに相手の頬を殴り返すのです。これを往復ビンタ、と言います。他に虫殺シ、前支へ、がありました。「虫殺シ」とは、顔の額を二本の指で強く弾く行為です、これは案外痛い仕打ちでした。<br><br>人間的な理性や個性を無視された生活を続けていると、人間性を失うものと思います。私など、子供の頃から内向的な性格だったので、外に出ることよりも、家で探偵小説や冒険小説などをたん読していたものです。<br><br>特に、江戸川乱歩、南洋一郎など、よく読みました。そしてその合間によくオナニーをして楽しんでいました。それが今は、全くそうゆう感情は失ってしまったようです。 <br>それは、人間性としての深層心理の奥で、動物本能としての性意識が歪められた生活環境の中で、その正常な感情を喪失したものと思います。<br><br><br><strong>●初の陸上演習が始まる</strong><br><br><br><br>四月になり、海兵団では新兵による初の陸上演習が行われました。陸戦隊（アメリカの場合、海兵隊）を仮編成し、上陸作戦、匍匐訓練など行いました。私はこの時、下痢症状になっていました。 <br>昨日、空腹に耐え兼ね兵舎の裏山で雑草を食べたのが原因のようでした。演習の最中、下腹がゴオーッと鳴り、耐えきれず遂にそのままビオーッと、漏らしてしまったものです。 <br>生温かい内容物がスルスルと足の方へ下がるのを夢の中の出来事の様に感じていました。身に付けている支給品の下着は足首の所で、紐で結んであるので外に漏れることはなかった。しかし、海兵団では体に不調があった場合、直ぐ所属の教班長に報告する義務がありました。私はそれをしなかったのです。<br><br>下痢患者の場合、唯一の治療法は絶食でした。絶食を宣告されるのは死を宣告されるよりも恐い実感でした。私は二日程その状態で過ごしましたが、同僚の新兵に、「原田、お前臭いぞ、何したんや」と言われてしまいました。「えや、陸上演習で糞を踏んだんや。」と、ごまかしはしたものの、遂に隠しきれず発覚してしまいました。 <br>分隊中の新兵の前で丸裸にされ、第八教班長に、「教班長の顔に泥をぬるような事しやがって、このヤローッ。」と言ってビンタを五回ほど喰らったものです。下着を脱ぐ時、両足の下から黄色の乾いた砂の様な物がポロポロと落下するのが見えました。 <br>その日は、日常の行事は全て中止になり、分隊中の総員が入浴して身体を洗うことになりました。<br><br><strong>●海軍軍人として、駆逐艦に乗船</strong><br><br><br><br>昭和二十年四月末になり、三か月間の新兵教育もようやく終了することになりました。私達は海軍一等機関兵に進級し正規の海軍軍人としてのスタートを切ることになりました。 <br>その頃から今までのセーラ服の水兵服は廃止され、薄緑色のナッパ服が常用になりました。その後、一等兵達は各自それぞれの配属地に向け出発して行きました。 <br>私は舞鶴市にありました火薬廠内の待機分隊（正式な内令がでるまで一時的に生活する施設）に仮配属になりました。そこでは、舞鶴市より内陸部に入った山間地で約一ヵ月の間、松根油用の松の根っコ堀り作業に従事していました。事実として松根油なるものは出なかったし、そんな物で飛行機など飛ばせるわけはなかったようです。 <br>そんな或る日、「一等兵十名集まれ、」と、言う伝達がありました。私は何かいいことあるんじゃないかと思い、駆けつけてみました。すると、「駆逐艦「槇」乗り組みを命ず。」と、いう命令書を受け取ったのです。駆逐艦「槇」は植物名で三等級の軍艦でした。総重量三千トン、最大速力二十八ノット、広島県の呉軍港に停泊していたのでした。<br><br>昭和二十年六月十五日、兵科、機関科の一等兵十名、兵長数名の約十五名の者が電機科の山田兵曹に引率され、舞鶴駅から呉行の夜行列車に乗り込みました。 <br>午後十一時頃、列車は大阪市内に入ったようです。B29による大阪空襲の直後だったようです。市内はかなり燃えている様で、線路周囲は激しく火柱が立って、焼夷弾が爆発していました。そんな中を列車は、着物の裾を分けるようにして進んでいきました。そんな訳で呉軍港到着が大分遅れ、ようやく着いた頃にはまったく夜が明けていました。 <br>呉軍港に着いた時、海軍工廠の赤錆色と、その土地の広大さに度肝を抜かれた思いがしたものです。 <br>私達は大急ぎで「槇」の繋留する波止場に向かいました。<br><br>「駆逐艦」槇、の艦長は石塚栄氏（故人）と言う海軍兵学校出の海軍少佐という人でした。 <br>当時のエリートコースは、陸軍は士官学校、海軍は兵学校へ入学することでした。私は田中という一機（一等機関兵の略）と二人前部機械室に配属になりました。当時、海軍の艦船は全部蒸気タービンエンジンでした。駆逐艦「槇」には、左舷と右舷に一本づつスクリュウがあり、第一罐室で蒸気を発生させ、ダクトを通して前部機械室のタービンを廻して左舷のスクリュウに伝達するのです。 <br>前部機械室の次は第二罐室があり、ここで発生させた蒸気は後部機械室のタービンを廻して右舷のスクリュウを回転させる、二本の推進機から成り立っています。 <br>その他、前部機械室には補助機械として空気圧縮ポンプ（魚雷を発射するには圧縮空気を使う）や、ディーゼル発電機などが装備されておりました。 <br>七月になり、艦は作戦のため、出航準備に取りかかりました。<br><br>罐室では、水ドラム室の噴燃器に点火されました。重油と水と空気の混合ガスが赤々と勢いよく燃え出しました。蒸気が発生する頃、前部機械室には、「暖機暖管用意」と、伝令より伝達されました。それは、急に熱い蒸気を機械やパイプに通しますと急に膨張して故障の原因になりますので最初少量づつ蒸気を通して機械を暖めることです。前部機械室には、臨戦態勢で総員配置に就いた場合、機関長（海軍機関大尉）を始め、特務下士官（上等兵曹）らも配置に付きます。やがて艦は巡航タービン（補助タービン）を回転させ、海上を滑るように動き出しました。次第に艦は速力を出して走り出したようです。 <br>この場合、私達一等兵はダクトのパッキンに温度計が取り付けてあり、その温度を時間毎に計測するのが仕事です。私には、これが正確にできなくて上官にどやされたものです。艦は瀬戸内海を渡り、目的地の山口県屋代島の大島湾に到着したようです。そこには、既に僚艦の「榧」「竹」の二隻の駆逐艦が入り江に並んで入っていた。<br><br>この三隻の駆逐艦で第九十三駆逐隊が組成され、「槇」はその司令艦でした。向かい対岸の陸地には、柳井という町があったのを記憶しています。 <br>三艦はそこで密接して並び、その全上部に縄網を被せ、その上に更に島の山林から切り出した樹木の枝を乗せて艤装をほどこし、アメリカ海兵隊の本土上陸作戦に備えていたものと思われます。 <br>上空から見ると、その部分は全く島の一部としか見えなかったそうです。<br><br>艦内では、毎日訓練が行われました。しかし故郷にいる時、新聞や雑誌で宣伝されましたような、月月火水木金金、という日曜日もない訓練行程ではありませんでした。艦の前甲板には魚雷発射管二本、前後甲板に高角砲（対空）二基、両舷に対空機銃が二基づつ装着されていました。 <br>ちなみに「槇」の出力は一万九千馬力だったと記憶しています。一般水兵は艦上において対戦装備を使っての訓練。機関兵は航行を予想しての訓練がつづけられました。「パッキン蒸気良し。」<br>前部機械室の八田兵曹が力強く叫びました。パッキン蒸気というのは、パイプのジョイントを包む綿状の物です。蒸気の漏れを防ぐため、パッキンにも蒸気を通しておきます。その状況を確認するため、細い鉄棒で検診をするのです。私達はその鉄棒で時々頭部を叩かれたものです。艦内は冷房装置など何もありませんので、夏など非常に蒸し暑く、飲用水など常に不足していました。 <br>一度使用した蒸気を元の水に戻す復水装置はありますが、そんな事では間に合いません。海水は豊かにあっても何にでも使用できません。その事では大変苦労したものです。<br><br>夜になりますと、「巡検後、パート（機械室）に整列」と、いう伝達が甲板士官から出されました。私達は眠い目をこすりながら午後九時の巡検後、パートに降りて行きました。パートでは甲板士官の北兵曹が鉄棒（海兵団では木棒、艦では鉄棒でした）を握り締めて待っていました。<br><br>「きさまら、この頃甲板上の歩き方はなんだ、軍人精神がなっとらんぞ」前部機械室に所属する、兵長以下の兵全員が、鉄棒で尻を二回づつなぐられたものです。<br><br>艦船同士で手旗信号の外に、機関科などでは、手先信号を使います。機械室の中で全ての機械が発動しますと、その騒音のため人の声など全然聞こえません。そこで手先を使って用達の伝達をします。その訓練も時々行われます。私にはそれがうまく出来ません。たとえば、「後甲板上空に敵機二機襲来」という場合、頭と両手を使って他の者に伝達するのであった。<br><br><strong>●休日、島を散策する。</strong><br><br><br><br>　昭和二十年七月に入った或る日曜日、私は休日ということで島に上陸を許可されました。島の東方に小松という町がありました。その町へ私は歩いていきました。白く乾いた道路が町の方へ続く端に、草だらけの畑の中に赤いトマトの実が数個成っているのが見えました。私はその中の一つを、やにわにもぎ取って食べました。 <br>と、この時二、三米先に農婦らしき女の人が草むしりをしていました。彼女はジロリと私を見て、再び腰を曲げて草取りを始めたようです。トマトの実を食べたのは、帝国海軍の若い少年兵だったので何も言えな <br>かったのだと、私は思っています。 <br>やがて小さな町に着きました。とある町角に、うらぶれた感じの喫茶店の様な店がありました。のそりと私が入ってゆきますと、中に老婆が一人店番をしていました。 <br>「タコ、しかありませえ」老婆さんが答えます。私はタコを一皿注文しました。小さな皿にタコの足の部分が五切ほど乗っていた。艦内では、こんな料理は出ないので大変おいしく食べたことでした。たしか一皿五銭位ではなかったかと思います。 <br>その時、女学生が三人店に入ってきました。店の奥に私の姿を見て、ハッとした様子でしたが、同じタコを注文し黙々と食べていました。客の一人が、同じ年齢位の少年兵だったので、何の言葉も出なかったも <br>のと思います。私も何も言いませんでした。<br><br>店を出た私は、島の唯一の小学校へ向かって歩いていきました。今日は休日なので生徒はいませんし、教室などには、カギなどありませんでした。（当時は全国どこも同じだったと思います。） <br>一つの教室に入ってみますと、小さな図書箱の上に弁当箱が置いてあるのが見つかりました。その弁当箱のサイズや包んであるハンカチの色などから想像するに、確か女の先生の持ち物だと思われます。 <br>私はその弁当箱を素早くフタを開いてみました。中味は馬鈴薯の摺りつぶした物中心に、小さな梅干しが一つ入れてありました。 <br>次の瞬間、私はそれを食べていました。翌日、艦内では大分その事件のことがうわさに上っていました。 <br>「昨日よ、島の学校の日直の先生の弁当、クタヤロ、いたんだと。」「まさか兵隊でそんな事する奴いないよな。」下士官兵達が大きな話題にしていたものです。私はそんな話しを無表情で聞き流していたものです。<br><br><strong>●終戦を迎える。</strong><br><br><br><br>昭和二十年八月六日、午前十時頃ではなかったかと思いますが、艦の上部の網目の間から、はるか上空を銀色に輝く胴体を白く光らせながら、B29爆撃機一機が西方の空に飛び去るのが見えました。 <br>翌日、艦の後部甲板の掲示板に、「昨日、広島に新型爆弾投下さる。」との張紙がしてありました。それが後の原子爆弾だったとは、その時誰も知らなかったようです。 <br>八月十五日の終戦の日は何事もなかったように、いつもと変わりなく過ぎてゆきました。数日後、艦隊司令より武装解除の命令が伝達されました。そして間もなく艤装の解体作業が始まりました。 <br>私はこの時、何か新しい事が起きるんじゃないか、といった期待感に満ちた感動をおぼえたものでした。 <br>駆逐艦三隻は各自の縄網を取り除き、外海に出て呉軍港に帰港することになりました。<br><br>航行の途中不用になりました高角砲の弾丸や爆雷などを、海中にドボンドボンと水しぶきを上げながら投棄しているのが見えました。そのうち、砲術科の下士官が爆雷の一つを信管を外して投下しました。するとその爆雷は海中何十メートル下で爆発します。その水圧で、海中の遊泳中の魚類が圧死して海面上に浮上します。その中の赤ダイを兵科の下士官と水兵達が、内火艇（エンジン付きボート）に乗り込み、そのタイを拾い上げてきました。 <br>その夜、夕食に主計兵が料理した赤ダイの刺身が、全乗組員に振る舞われました。その時のサシミのイキのいい味は、私にとって生涯忘れることのできないものでした。<br><br>呉軍港に帰港してみますと、出航前とはまるで姿が変わっていました。海軍工廠の建物は、見る影もなくガレキと化し、空襲の物凄さを痛感させられました。波止場に停泊した艦はその夜、初めての満艦飾（艦内の電灯を全て灯すこと）となり、空には、満天の星が輝いていました。 <br>(文中、一部実名を使わせてもらいました。)<br><br><br>Copyright (C) 2013 Junichi Harada.All Rights Reserved.
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<pubDate>Thu, 03 Oct 2013 12:55:11 +0900</pubDate>
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<title>3.11から、過去・現在・未来へ</title>
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<![CDATA[ <strong>「2011年3月11日、未曾有の大震災が起こりました。」</strong><br><br>●震災発生時。3.11<br><br>この日は、学校内9階の教室に居ました。学生たちは丁度春休みに入ったばかりで補講を受けに来た学生と就職活動のために私に履歴書を提出に来た学生10名とこれからのことについて話をしていました。 <br>最初は、グラグラと建物が単発的に揺れたので、「皆が地震だ」と言ったものの、その後少し収まったのでそのまま補習を続けていました。でも、また起きるかもしれないと思い、万が一の事もあるので自分の学科の学生をデッサン室に集め、太いロープを繋いで避難はしごを皆で作りました。デッサン室にはスケッチの練習用に様々な素材が置いてあったからです。 <br>このロープを非常階段の鉄の柵に括り付け、9階にある消防隊の出入り口を使って外へ出る計画を立てました。実は、毎年防災訓練を年2回開催しているのですが、その都度思うのは本校の校舎は15階建てです。2500名の学生が一気に数カ所ある非常階段から避難訓練をするのですが、いつも大渋滞、長いときは5分も同じ階段でギュウギュウ詰めで待たされます。「あ～ぁ、これじゃ皆焼き鳥状態だよね。」という声があちこちから聞こえて来ます。実際に私自身もそのことは感じておりました。震災当時校内に残っていた学生の数は私の学科だけではない筈、沢山の学生が移動する、降りれなくなるのではという不安を感じたため、ロープを伝って消防隊の出入り口から外へ出ようと当時は考えた訳です。しばらくして突然大きく建物が揺れ始めました。 <br>「これは、普通じゃない。」と身の危険を感じた私は、学校の防災訓練のマニュアルには従わず、学生たちに直ちにロープを持って非常階段から非難するよう指示をしました。しかし、揺れは益々激しくなり非常階段に立っている事も出来ないほどの揺れを感じ、ロープを諦め急いで階段を下りてとにかく建物の外に出るよう学生たちを急かしました。その間、私は9階のトイレに残っている学生などがいないかどうか確かめるため、左右に揺れる廊下を通ってトイレに向って叫びました。「誰か残ってないか。」返事が無かったため、急いで非常階段へと向いました。 <br>既に学生たちは下の方に降りて行くのが見えました。と、その途端「グラッ」と校舎が左右に強く揺れたため、私は階段を誰かに後ろから押されたように9階～8階の階段まで転がり落ちました。途中、鉄の手摺に顔面を強打し、自慢のメガネが鼻先から潰れ割れてしまいました。それでも、私は転がるように階段を駆け下り1階にたどり着いたのです。左足を捻挫していました。足を引きずりながら、正面玄関を抜けました。やはり、学生たちは大勢でした。私が外に出たときは最初学生たちや教職員は中庭に非難していました。学生の数は500名ほど教職員が80名程、校舎を見守るように皆見つめていたのを覚えています。校舎は高層棟と低層棟が繋がってL字型の校舎を形成しているのですが、このお互いの高低のつなぎ目が激しい揺れのため、バタンバタンと互いにぶつかり合うのが確認できました。「倒れる可能性もあるので、向かいの公園に全員非難」という指示がどこからともなく流れ、全員が道路をはさんだ向かいの公園に非難しました。まだ、頻繁に揺れがあるため建物の中には入ることはできません。皆で自分たちの学生たちの確認を行い全員この場所にいる学生に関しては無事を確認しました。 <br>17時を過ぎてもまだ時折、散発的に強い揺れが起こります。時が経ち大分薄暗くなって来た頃やっと揺れが収まってきたのを機会に、学生たちや教職員の現状確認を行いました。交通機関、帰宅方法、自宅の状況、家族との連絡等、幸い市内は途切れがちではあるものの携帯電話が繋がったため家族の状況などが把握できました。 <br>しかし、交通機関は殆ど寸断され仙台駅も入れない状態であるとの事。かろうじて市営バスが運行しているということでバスで帰れる人はバスを利用して帰宅するよう指示が出され、学生たちはその場で解散帰宅、自宅等の状況を確認させ、当日学内に居なかった学生たちも含めて各担任がそれぞれの状況確認をする事を申し合わせ、教職員と帰れない学生のみ校舎に一旦戻り、各自の荷物等を持って帰宅する準備をしました。 <br>交通機関の関係で帰宅出来ない遠距離通学の学生たちを本校の学生寮に分散して泊めることにしてそれぞれ、その日は帰宅の途につきました。私は普段電車で通勤していたのですが、今回の地震で「仙山線」が不通になったためバスで帰ることにしました。あたりは真っ暗で普段の光景とは明らかに違う印象でした。バスは中々バスプールに到着せず、バスを待つ人々で自分が何処行きのバス停に並んでいるのか分からないほど人が大勢バス待ちをしていたのです。 <br>1時間30分位待ったでしょうか。やっとお目当てのバスが到着しました。しかし乗る人が半端な人数ではありません。満員電車ならぬ満員バスに乗り帰宅した。<br><br>東北電子専門学校（本校）<br><br><br>○建物への際立った被害はなかったものの、外壁の剥離、各教室のコンピュータのほとんどが <br>破損した。学校は春休み中で学校での犠牲者はでなかったが、後日判明していくうちに本校生にも複数犠牲になったものがあり、その年の卒業式は中止となった。当時は、卒業生の住所および安否の確認作業に追われながらも卒業証書を郵送することとなった。<br><br>東日本航空専門学校（ 直営姉妹校）<br><br>○津波による全校舎の水没（校舎内に30cm～50cm の厚みでヘドロが付着）春休みだった為、人的被災はなし。但し、校舎の改築。補修が必要。グループ全体でローテーションを組み、ヘドロの撤去作業および津波で破壊した航空機を洗浄し格納作業を行った。 <br>ヘドロの中に埋もれてしまった航空機材、航空機の教育用部品や工具を掘り出し、教室内の学生机や教卓等を本校である「東北電子専門学校」に搬送し、再利用すべ <br>く洗浄作業を行った。校舎が改築するまでの間、東北電子専門学校の教室を提供し授業を行いました。<br><br>仙台日本語学校 （直営姉妹校：東北電子専門学校内）<br><br>海外留学生が中心 <br>○地震による被災と福島第１原発および女川原発の放射能被害を想定し、自国の帰国勧告に基づきほとんどの外人留学生が各国に帰国しました。<br><br>避難場所は、校舎の向かいにある花京院公園に全員避難。約80 名の教員の方々が皆、学内の独自のサーバーを経由してのデスクネッツを使って自分の現在の所在を確認した。 <br>教職員の安否の確認は、2 日間。先にも記しましたが、学校は春休み中であったため学生との <br>連絡は手間取った。学内にいた学生に対しては、本校中庭に学生全員を教職員全員の誘導で避難させ、激震であることを判断した上、花京院公園に避難揺れがおさまったのを確認し、学内の被災状況を確認した上で解散したのです。<br><br>震災後翌日から、全教職員が登校し、今後の予定や、それぞれの自宅で被災に遭った学生達の確認に動きました。<br><br>■震災当日の帰宅状況 <br>（ア）校舎へ泊まった 2 名（イ）歩いて帰宅した 20 名（ウ）帰宅者受入れ施設の利用 0 名 <br>（エ）その他、臨時市営バス、自転車など利用 <br>学校には、学生食堂と売店があるため、不足はなかった野ですが、このような大規模な自然災害に対しては、人間は無力であると感じました。だからこそ、環境問題をを取り上げた「クリボラ展」の開催は意義あるものと思いました。 <br>余震、および情報収集を怠らずにしたいと思います。今回の被災を受けて感じたことは、仙台は、特に災害が甚大で10,000 人を超える死者が出ました。気仙沼の沿岸部や、陸前高田は壊滅状態となり、荒浜海岸には、500 体近い遺体が打ち上げられまさに地獄絵を見ているようで言葉を失いました。さらに復興を放射能の影が襲いかかってきていました。全ては人間のおごりが招いた結果なのだろうと反省し、クリエーターとしてできることをしていこうと思った次第です。<br><br><br><br>Copyright (C) 2013 Junichi Harada.All Rights Reserved.
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<pubDate>Wed, 02 Oct 2013 17:05:14 +0900</pubDate>
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