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<title>思ひつ記メモワール</title>
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<description>映画にまつわる旅の思い出をつらつらと書いてます</description>
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<title>ある老人の思い出のこと</title>
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<![CDATA[ <p>　その人に初めて会ったのは今から20年以上前の冬のことだった。その年の冬、私はオーストラリア出身の友人にメルボルンにある彼の実家でクリスマスに招待されて年末年始を過ごすこととなり、12月23日に真冬の東京を出発したが到着した豪州メルボルンは南半球の真夏だった。翌イブの日の午後に、彼の家族親族が集まっての帰国祝いのホームパーティーが開かれた。20名くらいの人が集まった真ん中に彼の祖父さんが祖母さんと共にに座して。皆がそれぞれ声高に話し込む中でその二人だけが言葉少なく周囲を見渡すようにしながら悠然としていた。友人が僕を紹介してくれた際は、威厳に満ちた視線を向けられて少々緊張したことを思い出す。当時80歳を過ぎたぐらいだっただろうか、戦後間もなくイタリア・シチリア島から豪州へ家族とともに移民しきたそうで、小柄だががっちりとした体躯に日焼けした容貌そのものがそれまでの年月を語っているようだった。その頃は既に仕事を引退してメルボルンの郊外で農場を営みながら悠々自適に隠居生活を楽しんでいると聞いたが、その時は直接あまり話すこともなく僕は次から次へと紹介される様々な人にただただ圧倒されていた。</p><p>&nbsp;</p><p>　クリスマスの翌日ボクシングデイに友人に連れられ、車で1時間ぐらいの郊外にあるお祖父さんの農場を訪問した。なだらかな起伏を見せる大地の中で、野菜を育てるビニールハウスにオリーブ畑、鶏小屋や牛の放牧場、灌漑用の池に囲まれてお祖父さんがお祖母さんと暮らす農家が建っていた。その日の午後はただ何をするでもなく友人とお祖父さんの会話を横で聞きながらお茶を飲み、窓の外の風景を眺めながら過ごしたのだった。お祖母さんとは母国語であるイタリア語で会話し、友人とは時折イタリア語を交えながらも訛りのある英語でボソボソと話す姿は、饒舌で情熱的というイタリア人のイメージとはかなり異なる印象だった。その日は特別何をしたわけでもないのだが、日々の喧騒からはるか遠く離れた特別な時を過ごすことができた一日だった。</p><p>&nbsp;</p><p>　その後ほぼ毎年のように年末年始をメルボルンの友人宅で過ごすのが恒例となり、その度にお祖父さんの農場へも訪れるようになったが、やがてお祖父さんのそれまでの人生についても色々と知ることができた。中でもお祖母さんとの結婚に際しては、家族に反対されたので駆け落ちしたという話に驚かされた。とても信心深い人で滞在の終わり別れの挨拶の際にまた来年会いましょうと言うと、いつも神の思し召しがあればまた再会できるだろうと言ってくれたものだった。</p><p>&nbsp;</p><p>　初めて会ってから10年後のこと、お祖父さんがイタリアの家族に会いに行き、その後アメリカに渡り現地に移住した親戚に会う世界一周旅行に出かけるという話を聞いた。その頃90歳を超え既にお祖母さんを亡くして一人で暮らしながらも、未だ農場で働き自ら車を運転して回る活発な老人だった。しかしさすがにその年で独りでの世界一周旅行は心配と友人がイタリア行については付き添うこととなり、何故か僕も同行することとなった。ミラノに妹3人が未だ健在とのことで、僕と友人は日本から直接現地へ向かいそこで合流することとなった。</p><p>&nbsp;</p><p>　空港で再会し車で街まで送ってもらう際に隣に座ったお祖父さんは、僕の膝をぴしゃぴしゃと叩きながら「よく来てくれた、また会えて嬉しいよ。」と、それまで見たこともなかった破顔の笑いを投げかけてくれた。ミラノでは数日を過ごしたのだったが、現地に行ってみて改めてイタリア人の饒舌さに驚かされた。とにかく常に何か喋っている人々の中で、お祖父さんの寡黙さが余計に目立つのだった。</p><p>&nbsp;</p><p>　ミラノで数日を過ごした後にお祖父さんの生まれ故郷であるシチリア島のミリテッロへ向かった。ミリテッロは空港がある島南東部の町カターニアから、バスで1時間ほど山の中に入ったところにある古代ローマ時代から続く世界遺産の町だった。空港から僕はお祖父さんと車で、友人はバスでミリテッロへ向かうことになった。到着するとお祖父さんは僕を連れ出して町の説明をしてくれながら歩き回った。かつては一本の通り沿いに千人以上の人が住んでいたけれど、今は数十人になってしまったという。戦後貧困からシチリア島の人口の半分近くが海外へ移民してしまったそうで、お祖父さんは最初アルゼンチンへ行こうとしたけれど、寸前になって先に移住していた親戚に誘われて豪州へ行き先を変更したそうだ。もしアルゼンチンへ行っていたら友人が生まれる事もなく、こうして私がシチリアへ来てお祖父さんと町を歩く事もなかっただろう。そんな話を聞いて、心密かに運命の廻り合わせに感謝したのだった。僕は数日滞在の後に帰国したが、お祖父さんは暫く留まった後にアメリカへ渡り当地に暮らす親戚と無事再会を果たしたそうだ。</p><p>&nbsp;</p><p>それから5年後に農作業中のちょっとした傷から敗血症を起こしてしまい、お祖父さんは亡くなってしまった。個人的な事情やコロナ禍で暫く豪州へは行けなかったが、ようやく落ち着いてきた頃に久し振りにメルボルンを訪問することができた、あの農場も既に人手に渡ってしまったそうだが、神の思召しで又この地へ戻って来られましたと静かに心内で報告した。</p>
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<link>https://ameblo.jp/chronicle55/entry-12906588291.html</link>
<pubDate>Wed, 28 May 2025 12:24:35 +0900</pubDate>
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<title>ヒヤッとしたこと</title>
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<![CDATA[ <p>　オーストラリア大陸の真ん中で車のタイヤがバーストして、通りすがりの人の助けてもらったということは結構ヒヤッとした出来事だったが、実はその後も中々ヒヤヒヤな事態が続いていたのだった。この近道のダートロードは全体で100㎞程あり、バーストしたのはその1/4程度を進んだところだったので未だ80㎞近くその道を進まねばならなかった。しかし、次に何か起こったらもう予備のタイヤもなく完全に行き詰ってしまうことになる。おのずと運転は非常に慎重になり平均時速30～40㎞で進むことになってしまったのだが、運転を再開した時は既に午後4時半を回った頃で次第に陽も傾いていた。刻一刻と地平線に近づいていく太陽を尻目に走れど走れど、景色は代わり映えせず延々とブッシュの中を走り続けることとなった。その後数台の対向車とすれ違うこともあったが、その他に見かけたのは野良ラクダぐらいのもの。かつて大陸内部の探検のためにアフガニスタンから連れてこられたラクダが、その後野生化して今も生息しているとのこと。とにかく、こんなひと気のない荒野の真ん中で闇夜の運転はしたくないと、とにかく暗くなる前にハイウウェイに辿り着くことのみを祈って道を進めたのだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　やがて陽は沈み夕空の残照も消えかけたその時、漸くキングズキャニオンへと続くハイウェイに辿り着くことができ、スピード上げてその夜の宿泊予定地へと向かったのだった、そして漸く夜8時過ぎに何とかホテルに到着しチェックインしようとすると、そこでももうひと騒動が待っていた。何と予約がキャンセルされているという。理由は判らないが旅行代理店が勝手にキャンセルを入れていたというではないか。しかもキャンセルされた部屋を含めてすでに満室だという。ちょっと待て、キャンセルなど頼んでないし、現にこうしてここにいるだろう。なんとかせい！と交渉して、通常は満室でも必ず空けておかなければならい身体障碍者用の客室に泊まることができたのだった。ようよう部屋に荷物を置き夕食を取ろうとレストランへ行ってみたら既にクローズ！しょうがないので隣でまだ開いていたパブに行き、辛うじて残っていた揚げ餃子の様な代物とビールで腹を満たしたのだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　次に話は遡って今から30年近く前の1996年の事、初めてヨーロッパを旅した時ローマで起きた出来事だった。ローマに着いての初日の夕方、市内観光を終えホテルに帰ろうとして近くの大きな交差点で信号待ちをしていた時の事だった。突然背後から声を掛けられ、振り返ると見知らぬ男が地図を指し示しながらここにあるレストランに行きたいのだが道を教えてほしいという。自分は旅行者なので良く判らないが多分あっちの方だろうとさし示したところ、自分も独りで旅行中なので一緒にこの店を探して食事をしないかと言ってきた。見れば小柄でにこやかに人懐っこい表情で話す様子にあまり危険性も感じられず、まあこれも何かの縁かなと思って一緒することにした。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　しかし目的の店を見つけて一歩店内に入ってみると、薄暗い店内からいきなり数人の女性が現れてあれよあれよという間に席へと案内されてしまった。明らかに普通のレストランではない。旅行者をひっかけるヤバい罠に嵌められたことに気がついた。しかし気付いたときはもう遅く、仕方がないので取り敢えずビールを一杯だけ飲み、それ以上被害が大きくならないうちに腹が減っているのですぐ引き上げると言って脱出を試みることにした。女性たちはそれならここでピザを食べればいいじゃないと引き留めようとするが、いやいやご勘弁とビール１杯に円貨で約3万円の支払い何とか脱出することができた。結構痛い出費となったが、うっかり油断するとこんなことになるという勉強代だと思うことにした。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　滞在していたホテルに帰るためには毎度あの交差点を通らざるを得ないのだが、翌日再びそこに差し掛かると今度は別の男が同じことを言ってきた。又かと頭にきて、あっちの方でしょと指差ししてその後は知らぬ顔でさっさとその場を後にした。したらその次の日もそこでまた別の男が声を掛けてくるではないか、もうまともに相手をする気にもなれず、何を言っているか判りません！って顔で無視してやった。そして更にその次の日は翌日に帰国を控えた最後の１日という事でポンペイの遺跡まで足を延ばして帰って来たところ、まさかと思ったがあの交差点でまたまた日替わりで別の男に同じことを言われてしまった。もういい加減うんざりしていたので、ニタっと微笑みを浮かべながら日本語で「てめえアホかっ！いい加減にせんと、いてこましたるぞ、ボケ！」と捲し立て、呆然と立ち尽くす姿を横目にとっとと立ち去ったのだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">その数年後90年代も押詰まってニューヨークで映画・演劇に耽溺する夏休を送っていた時の事、ある夜ダウンタウンで映画を見終えたときにはかなり夜も更けた頃となっており、7番街に沿って走る地下鉄にのってホテルへ帰ろうとしたのだった。泊まっていたホテルチェルシーの最寄りは23丁目駅なのだが、その日に限って通過してしまい次の28丁目駅で降車せざるを得なくなってしまった。今は知らないが当時NYの地下鉄では、時々突然工事等の理由で駅をすっ飛ばすことが多々発生していた。ということで28丁目に降り立った時は午前0時間も回ており、しかもホテルまでは5ブロック歩いて帰らなければならない。当時90年代後半のマンハッタンはかなり治安が悪かった70～80年代よりは改善されていたものの、それでも夜遅くに大通りとはいえひと気のない道を独りで歩くにはかなりの勇気が必要だった。この様な場合の対処方法として、如何にも旅行者然としたようなビクビクと怖がる様子を絶対に見せず、周囲に気を配りながらも真直ぐ前を見て、自分は地元民であり何処へ向かっているかちゃんと把握しているという気配を見せながら、暗いところを避けてなるべくひと気の多いところを選んで速足で歩くべし、と聞いていたのでその通りに実行した。内心はとんでもなくヒヤヒヤしていたが、とにかく何でもない風を装ってひたすら道を急ぎ何とか無事ホテルへ辿り着くことができた。しかし部屋に入ってドアを閉めたときは、緊張が一気に解けて文字通り腰砕けになって座り込んでしまったのだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">又別の夜、ヴィレッジのアンジェリカ・フィルムセンターで映画を見終えた時、時計は既に深夜0：30を回ったところだった。さすがにその時間から地下鉄で帰るのもどうかと思ったのでタクシーで帰ることにした。何とか車を拾って走り出しある交差点にて信号待ちで停車した時の事、突然車のドアが外から開けられたのだった。吃驚し何が起こったかと見てみると、ガタイの大きな黒人男性が頭を車内に突っ込み自分に向かって何やら叫んでくる。どうもこのタクシーは自分が使うからお前はさっさと降りろ、と言われているらしい。パニックになりかけて、どうしようもなく座席の奥に身を押し込み固まっていると、少々年はいっていたがやはり黒人のタクシー運転手さんが何やら言い返してくれた。ちょっとの間二人で言い争っていたが、信号も青に変わると襲ってきた輩は乱暴にドアを閉めて立ち去ったのだった。運転手さんは“Sorry”と一言ぶっきらぼうに言っただけで、その後何事もなかった様に車を走らせてホテルまで送ってくれた。そして料金支払いの際にチップをはずんだことは言うまでもない。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">話は再び豪州に戻る。今まで約25年の間で首都キャンベラを除き、豪州の全ての州の主な都市について全て訪問してきた。その中で大陸の南東タスマン海に浮かぶタスマニア島をメインとしたのがタスマニア州で、その州都は島の南部に位置するホバートである。ここは豪州でシドニーに次いで二番目に古い街で、19世紀初頭英国からの流刑者による植民を起源としていた。このタスマニアを旅したのは2007年初のことだった。そんな歴史のためかホバートの街には結構幽霊話があるようで、夜間のゴーストツアーも開催されており物は試しと参加してみることにしたのだった。ホラー映画や怪談話等は嫌いじゃないが、自身では幽霊やら何やらの心霊体験といわれることはおろか、UFOすら1度も見たことが全くない霊感ゼロ人間なので、まあ話のタネになればぐらいのつもりだった。そして夜8時に開始ということで集合場所付近にてスタートを待っていた時、一緒に旅していた友人がいきなり近くの家の二階の窓に何かがいると言い出したのだった。言われたところを見上げても誰もいず、ただ灯の消えた暗い窓があるだけなのだが彼は何か感じるらしい。普通ならば冗談だろうで済ましてしまう所なのだが、実はそうも簡単に片づけられない理由があった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">前年2006年の夏、その友人のたっての希望で下北半島の恐山を訪れ、その後とある温泉に宿泊した。泊まった旅館の部屋は10畳の和室で床の間と押し入れの後ろ側に浴室・トイレがあり、部屋からは回り込んで行かなければならない間取りとなっていた。その夜食事や温泉も一通り済ませてTVを見ながらくつろいでいた時友人がトイレに立ったのだが、自分はそのままTVを見ていた。すると彼が何やらトイレで騒いでいるので、何事かと様子を見に行った。たら、「使用中のところを覗きに来るなんて、何を考えているんだ！」とのたまうではないか。トイレのドアを開けたま座って用をたしていたところ、扉の陰から誰かがひょこっと頭を出して覗き込んだと言うのだ。ずっとあっちでTVを見ていたと言っても、絶対自分だったと、大体2人しか部屋にいないのに他の誰が覗きに来るのか？と言って譲らない。まあこんなことで喧嘩しても仕方ないと思ったので、取り敢えず驚かせて悪かったと謝って事を収めることにした。彼はそれで納得したようだったが、自分としてはその旅館は恐山から結構な距離があったものの、多分何かを連れてきてしまったのかなと思わざるを得ず、その夜は少々不安な気分で床に就いたのだった。しかし、結局翌日以降は特に何も起きることはなく、無事帰路に就くことができた。直接自分が関わったのはその時だけだったが、彼はそれまでも何度か奇妙な人影を見たことがあると言ったことがあったので、所謂霊感体質の持ち主で“見える人”なのだろうと思っていた。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">そんなことがあったので彼が何かいると言えば多分何かいるのだろうと思ったが、自分としては全く持って何も見えず感じないので特に怖いとも思わずにそのままゴーストツアーは始まったのだった。当時ホバートの街は夜8時を過ぎるとショップどころかカフェ・レストランも殆どが店を閉めてしまい、所々にパブやバーが開いている程度で路上に人影は疎らにしか見えないという感じ。そんな街を歩きながらあちこちの街角で、そこここにまつわるいわく因縁の話を聞きながらツアーは進む。そしてとある古ぼけたビクトリア様式のビルの地下室に入って行ったのだが、そこは何もないがらんとしたただの地下室でむき出しの壁も荒れた感じだった。しかしガイドさん曰くそこには数人の幽霊がいるとの事だったので、室内の写真を数枚撮ってみたのだった。結局ツアー冒頭で「何かいる！」と言われたものの、特に何かが見えたり起きたりすることはなく、特に友人もそれ以上不気味な事を宣わずに無事その夜のゴーストツアーは終了したのいだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">帰国後に旅行中の写真を友人と一緒に見ていたら、あの地下室で撮った写真を見て幽霊が5体ほど映っているという。そことこことと示されてよくよく見ても、自分にはただの壁や床のシミにしか見えない。彼曰くかなり古い霊体でもう動くことも出来ずに半分消えかけているけど、未だその地下室にいたのだとのこと。とは言え相変わらず見えず感じずの自分としては、「ああ、そうなのね…」としか言えなかった。その数日後旅行のお土産を渡しがてら、久しぶりに親に顔を見せるために実家へ帰ることにした。旅の話をしながら持参した写真を見せていると、例の地下室の写真を見た父親が「この写真には幽霊が5人写っているね…。」と言い出した。吃驚してどこにと尋ねれば、友人が示したと同じところを指差すではないか！それまで畑仕事が趣味のただの頑固爺と思っていた父親が、何という事か！余りの衝撃に言葉もなく固まっていた自分に向かって、「本家（父の実家）はな、昔拝み屋と言われていたんだぞ」と言ってにやりと笑った。過去命に関わるような病気もしたこともあるが、何にも増してこの時こそが自分にとって人生最大の恐怖を感じた瞬間だった。因みに父親が亡くなった際に、今現在本家を継いでいる従兄弟にこの話をしたところ、拝み屋と言われていたことなど全く知らないと言っており、何が真相だったのかはいまだ謎のままである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/chronicle55/entry-12906587572.html</link>
<pubDate>Wed, 28 May 2025 12:17:58 +0900</pubDate>
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<title>オーストラリアの思い出と映画のこと（その３）</title>
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<![CDATA[ <p>　90年代に入り、1995年アカデミー賞の最優秀衣装デザイン賞を受賞したのが「プリシラ」だった。その対象となったドラァグ・クイーン達が着ていたコスチュームは、例えばビーチサンダルを繋げたドレスは掛かった費用はたったの７au$等、全てスーパーやDIYセンターで購入した材料で手作りしたものだったとか。登場する3人のDクイーンの中で一番年上のトランスジェンダーであるバーナデットを演じたのがテレンス・スタンプ。当初はこの作品を最後に引退しようと思っていたが、映画が評判となったために俳優を続けることにしたそうな。リーダー格ミッチはヒューゴ・ウィーヴィング、「マトリックス」の冷酷無比なエージェント・スミスとは正反対のキャラを演じた。一番若いフェリシアはこれが映画初出演（それまではTVドラマに出ていた）のガイ・ピアース。これを切掛けにハリウッドへ進出し、「英国王のスピーチ」では元英国国王エドワード8世を演じるまでになった。物語は3人のDクイーンがシドニーから豪州大陸のど真ん中のアリススプリングまで“プリシラ号”と名付けられたバスでおもむき、さらに豪州のグランドキャニオンとも称されるキングズキャニオンへ至る旅の道中を描いたもの。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　一方自分は2002年12月にメルボルンを訪れた後、年が明けた2003年1月<a name="_Hlk178260970"><span style="color:#000000;">アリススプリングス</span></a>から車でキングズキャニオンを経てエアズロック／ウルルへ旅することにした。アリススプリングスへ向かう飛行機から見下ろすと地上はレッドセンターと呼ばれる砂漠地帯、全く人の気配の無い赤い大地に刻まれたように1本の道が地平線まで真直ぐ続いていた。アリススプリングから暫くはスチュワートハイウェイを南下するのだが、上空から見た通り一直線に続く道の周囲は全く変り映えのしない荒涼たる荒野が続く。目印になるような物が全くない状況で走り続けるとなると速度や距離の感覚が無くなり地理感もなくなる、平均時速100㎞で1時間来たから今いるのはこの辺か？という風にしか場所を特定できないのだ。そのままキングズ・キャニオンまでハイウウェイを走り続けると約300㎞の道程になるのだが、途中でハイウェイから離れ未舗装のダートロードを通ると100㎞ショートカットとなる上に、途中には昔の隕石によるクレーターもあるとのとこ。ということで、ハイウェイを外れて近道を取ることにした。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　クレーターはハイウェイを離れてからさほど遠くないところにあり、そこまでは舗装された道だったのだが、その後が未舗装の本格的なオフロード・ドライブとなったのだった。しかし、それまでハイウェイをずっと高速運転してきたために、ついついスピードを上げてしまいがちとなる。しかし道端にはバーストしてそのまま捨てられたタイヤが、そこここにゴロゴロ転がっている。気を付けないとヤバいなと思っていたところで、乗っていた車のタイヤが思いっ切りバースト！やっちまった！と悔やんでももう遅い。荒野のど真ん中、誰も助けを頼めない状況で立ち往生してしまったのだった。意図せずに「プリシラ」で近道のために道を外れ、エンジン故障で立ち往生したのとそっくりな状況に陥ってしまった。しかし、こんな荒野の真ん中で夜を明かすことになるわけにはいかないと、何とか予備タイヤへの交換を試みることした。しかし、自慢じゃないがこちとら都会のドライバー、タイヤ交換など自分でやったことは一度もない。しかもレンタルしたのは結構大きいSUV車でなんとかしようと四苦八苦するもどうにもならず、その時同行していた友人も自分同様全くのお手上げ状態で途方に暮れるばかりとなってしまった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　映画では近くにいたアボリジニに助けられて、彼らのキャンプでグロリア・ゲイナー“I will survive”で踊って大騒ぎ！となるのだが、いくらなんでも現実でそんな風になるわけがない。当時は携帯電話も持ってなく、まあ持っていたとしてもそんな砂漠の真ん中で電波が届いたかも疑問だが、とにかく手も足も出ない事態となっていた。とそんな時、道の遥か彼方に小さな砂埃らしきものが上がっているのに気が付いた。まさかと思って見ていたら、その砂埃はだんだん大きくなって近づいて来ている様子。何と流石にアボリジニではないが、現地の住民が通りかかってくれたのだった。何はともあれ助けをお願いしたところ快く引き受けてくれて、さっさと手早く見事にタイヤを交換してくれた。自分はせめてものと赤い砂まみれになりながらタイヤを運んだりと力仕事と手伝っていたのだが、ふと見れば友人はお助け人のガールフレンドと道端で涼しい顔してお話し中！しかし、そんなことで文句を垂れるよりは先ずタイヤをどうにかすべくと、交換作業を進めたのだった。こうして何とか運転を再開してキングズキャニオンへ向かうことができたのだが、その後はさすがに慎重な運転でキングズキャニオンから更にエアズロック／ウルルへと旅を続けたのだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　スタッフロールの後にオマケは付いてくるが、映画はキングズキャニオンの上の3人のDクイーンの立ち姿で幕となる。キングズキャニオンは確かに雄大な地形ではあるものの、近くにはかの地球上で一番大きい一枚岩である<a name="_Hlk178327937"><span style="color:#000000;">有名なエアズロック／ウルル</span></a>があるではないか。何故ゆえにキングズキャニオンでラスト？と思っていた。しかし後にミュージカル版の舞台を観たら、エアズロック／ウルルで幕となっていた。思うに元々映画でもラストシーンとしたかったのだろうが、しかしそこは原住民アボリジニの聖地。現在登山は禁止されているが当時は頂上まで登ることも出来たものの、いくら映画撮影とは言えDクイーンをハイヒールで登らせるなどできるはずもなかったのだろう。また映画にでてくるABBAボーカルのアグニータの“記念品”というものに本人が激怒し、舞台化に際してはABBAの楽曲が使えなくなってしまったそう。そこで豪州出身の歌手カーリー・ミノーグの曲が代に使われていたが、元の映画のキッチュな感覚は失われずに楽しいジュークボックス・ミュージカルの仕上がりとなっていた。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　オーストラリアは素晴らしい自然と共に、様々な経験が生まれる驚異の大地と言っても言い過ぎではないように感じている。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/chronicle55/entry-12906586162.html</link>
<pubDate>Wed, 28 May 2025 12:04:23 +0900</pubDate>
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<title>オーストラリアの思い出と映画のこと（その２）</title>
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<![CDATA[ <p>　80年代になって話題となったオーストラリア映画が、1986年に公開された「クロコダイル・ダンディー」だった。この映画の主な舞台となったのが、豪州北部ノーザンテリトリー州にあるカカドゥ国立公園で、広大な湿地が広がり様々な鳥、動物、そしてワニが生息する素晴らしく美しい自然に溢れた場所。物語はクロコダイル・ダンディーと呼ばれ原住民アボリジニとも親しい野生人ミック（ポール・ホーガン）を取材するために、NYから記者スー（リンダ・コズラウスキー）がやって来て行動を共にすることから始まる。その際にロケーションが行われたのがカカドゥ公園だったのだった。ところで、この映画が公開された当時、「映画で話される豪州英語は極めて田舎の言葉で、日本でいえば津軽弁みたいなもの。都会の特に教養ある人はむしろBritish Englishを話して、決して“G’day Mate”とは言わないから気を付けるように！」と忠告されたことがあった。確かに過去何度も豪州を訪問したが映画の様に話す人に会ったことはなかった。しかし、2024年の夏にノーザンテリトリー州の州都ダーウィンからリッチフィールド、ニトミルク、カカドゥと三つの国立公園を巡る旅に出かけたのだが、この旅の途中で初めてすれ違いざまに“G’day Mate”と声をかけられ、そのように話す人が本当にいるのだと感動(？)してしまったのだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　カカドゥは映画で描かれたように本当にひと気がない場所で、ニトミルク国立公園で泊まったキャサリンの街からの約300㎞の道のり中も、特に豪州大陸を南北に横断するスチュワート・ハイウェイから逸れた後は、途中に町らしい町もなくひたすらブッシュの中を走り続けることとなった。その途中で野焼きなのか自然発生なのか知らないがブッシュが燃えているところがあり、それが放置されていたことにも驚いた。その日の宿泊地はカカドゥ・クロコダイル・ホテル、その名の通り空から見るとワニを模した建物となっているのだが、翌朝燃えるブッシュからの煙のせいで鳴り出した緊急避難のサイレンに叩き起こされたのには驚いた。結局大したことはなかったのだが、時々あるんだよと平然と言われたときは少々唖然としてしまった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　ホテルから更にカカドゥの奥地へ30分程進んだところウルビーでは、原住民アボリジニが古代岩面に残した壁画を見ることができ、その一番奥の見晴らし台ではカカドゥの湿地や周囲の山波等の雄大な大自然を一望することができる。そこからは映画「クロコダイル・ダンディー２」に出てきた岩壁の小屋が設置された場所が望めるとの事だったが、結局何処かは分からなかった。また近くのチェイヒルズクロッシングには、川を渡るためにダムのような道があり（川はその道を越えて流れている）、それによって堰き止められてできた池には数匹の野生のワニが泳いでいた。川の傍にはワニに襲われて亡くなった人の慰霊パネルもあって、改めて野生のワニの恐ろしさを感じさせられた。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　ダーウィンに戻る途中マムンカ湿地という所で一休みし周囲を散策したところ、湿地の縁に数えきれない程の鳥の大群が蟻の群れの様に帯を成して群れて休んでいるのに出くわし、映画で見た以上の雄大な自然の素晴らしさに改めて感嘆させられた。そしてダーウィンの街に戻るとダウンタウンの繁華街の一角に、ワニと爬虫類を展示しているクロコサウルス・コーブなる施設があった。そこでは沢山のワニが飼育されていて、透明な筒に入ってプールに入り横を泳ぐワニが餌に飛びつく様子をすぐ隣で見るというアトラクションもある。その数多くいるワニの中の一番の古株バートは、「クロコダイル・ダンディー」でリンダ・コズラウスキー演じるスーが水辺で襲われそうになった場面に登場したワニなのだそうだが、先日とうとう永眠したとの記事がネットに出ていた。ご冥福をお祈りします。（合掌）</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　ダーウィンはノーザンテリトリー州の州都とは言いながらこじんまりとした港町で、日本でいうなら九州・長崎の様な感じだろうか。90年代バブル真っ盛りの頃は日本からの直行便もあって多くの日本人が訪れたこともあったようだが、現在は殆ど見かけることもなかった。またこの街は第二次世界大戦中の1942年、日本軍による空襲で甚大な被害を被ったという歴史があり、そのことも被爆地となった長崎となんとなく通じるものがあるように感じた。そのため郊外にある軍事博物館を始めとして、街のあちこちで当時の惨状を示す展示や記録が残っており、単純に観光を楽しむには少々辛い気持ちにさせられてしまうこともあった。</p><p align="left">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/chronicle55/entry-12906585720.html</link>
<pubDate>Wed, 28 May 2025 12:00:18 +0900</pubDate>
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<title>オーストラリアの思い出と映画のこと（その１）</title>
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<![CDATA[ <p>　NYでの映画・演劇漬けの休暇に一区切りをつけて、次に目が向いたのがオーストラリアだった。かつては、そして今でも世界の映画の中心といえば米ハリウッドと誰もが思う事だろう。しかしながら実は南半球に位置するオーストラリアも、世界の映画産業にとってかなり重要な位置を占めている。例えば豪州出身で活躍する俳優には、「リーサル・ウェポン」メル・ギブソン、「Xメン」ヒュー・ジャックマン、「マトリックス」ヒューゴ・ウィービング、「メメント」ガイ・ピアース、「めぐりあう時間たち」ニコール・キッドマン、「エリザベス」ケイト・ブランシェット等々上げればきりがない。又「ミッション・インポッシブル2」等、豪州でロケーションを行ったり、FOXやワーナーブラザースが豪州国内に作ったスタジオで撮影する作品も少なくない。そしてオーストラリア映画自体も世界で注目を集める作品を生み出してきた。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　その代表作としてジョージ・ミラー監督「マッド・マックス」(1979年)が上げられるが、実は豪州映画が世界的な注目を集める切掛けとなったのが、1975年に公開されたピーター・ウィアー監督「ピクニックatハンギングロック」だった。この映画はハンギングロックと呼ばれる岩山へ、学校の遠足に来た少女3人が謎の失踪をするという物語。主演したアン・ランバートの可憐な容姿やミステリアスなストーリー、そして美しい映像が評判となった作品だった。その舞台となったのは、豪州大陸南端ヴィクトリア州の州都メルボルンから北西車で約1時間の所に位置する“ハンギングロック”という岩山。まあ、“山”というよりは、大きな岩が重なった“小高い丘”と言うべきかもしれない。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　自分がここを初めて訪れたのは2002年12月の事だった。生憎と当日は折からの雨天ではあったが、遊歩道が整備されていたこともあって頂上まで登ることにした。そのような天候のため他に人影はなく、歩き出すと小雨の上にだんだん霧に囲まれてくる。そして歩みを進めるほどに霧は周囲にそびえ立つ大きな岩を包み込み、こちらにのしかかってくるような何とも不気味な雰囲気になってきた。30分と掛からずに頂上まで到達することができたが、そこは完全に霧に囲まれてどこか異世界にいるよう。まるで映画の世界に紛れ込み、そのままどこかへ連れ去られてしまいそうな気分になった。後年好天の下再訪したのだが、前回霧をまとって怪物の様に見えた岩々が、今度は山を登るにつれて青空を背景に様々な姿を見せ、周囲の景観も美しく全く異なる印象を残してくれた。又、近くのマウント・マセドンの上から見下ろしてみると、ハンギングロックは岩を積み上げた塊の様だった。周囲を見渡せばそれほど大きくはないものの、他にも岩の塊がいくつかあり、何でもはるか古代の地殻活動か活発だったころの火山噴火の跡だそうで、溶岩が冷えて固まり巨大な岩となったらしい。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　劇中に登場する少女たちが学んでいた寄宿学校は、ハンギングロックから10㎞程離れたウッドエンドという村にあるという設定になっていた。ウッドエンドは実在する町だが、実際はスーパーマーケットと周囲の数軒の商店を中心として広がる静かな田舎町。実は実際に学校のシーンでロケが行われたのはヴィクトリア州の西隣、南オーストラリア州の州都アデレードから北へ車で2時間弱のところにある、マーチンデールホールというマナーハウスだった。この邸宅は19世紀にイギリス人が本国から職人を呼び、家具調度品もすべて取り寄せて建設したもので、2007年に訪問した際は宿泊することができた。夕食の際は宿の管理人が執事／バトラーとなってサービスしてくれて、つかの間の英国貴族気分を味わうことができたたことも思い出深い。また食事の後でふと玄関から外を見たら、室内の光が届く以外の空間が本当に漆黒の闇だったことが強烈な印象となって残っている。泊まった部屋も19世紀当時のままで、その重厚さゆえに夜眠る際は不気味さすら感じたほどだったが、後で聞いたらかつてこの邸宅に住んでいた家族にまつわる幽霊話もあったようだった。</p><p align="left">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/chronicle55/entry-12906585163.html</link>
<pubDate>Wed, 28 May 2025 11:55:03 +0900</pubDate>
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<title>ニューヨークの思い出と映画のこと（その３）</title>
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<![CDATA[ <p>　当時NY行はいつも全行程で10日程度、従って現地で動けるのは実質7日半ぐらいになる。2001年末～02年初のNY行では、それ迄滞在中に観た映画・演劇の数がとうとうピークに達してしまった。たしか舞台を9か10本、映画を23か24本見たと記憶している。しかし、あのテロ事件から未だ3カ月しか経っていなかった時期であり、NYの街のあちらこちらに未だ深い傷跡が残っていた頃だった。消防署の前を通るとツインタワービル崩壊の際に犠牲になった消防士達の写真が掲げられ、その周囲には慰霊の花束が山の様になっていた。そんな様子を見たら何だかもっと視野を世界に広げるべきではないかと思い、またこのような気違いじみた行動も行くとこまで行ってしまったように感じてしまったのだった。そんな思いもあって、その次の2003年夏を最後にして暫くNY行を止めることにした。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　但し03年は観劇を減らして改めてオーソドックスにマンハッタンを観光し、その後ナイアガラの滝に行くことにした。そして帰国する前の最後の夜をマンハッタンでもう一泊したのだが、折角だからとザ・プラザ・ホテルに泊まることにした。バブル景気の切っ掛けとなった1985年先進5ヶ国による“プラザ合意”の舞台となり、また様々な映画に登場するNYを代表するホテルの一つ。しかしここも2000年代になって大幅な改修工事を行い客室の大半をコンドミニアム化して、ホテル・チェルシーとは逆にホテル部分が縮小されてしまったようだ。とにかく1992年「ホームアローン2」では、このホテルのフロントロビーでマコーレー・カルキンとティム・カーリーの追いかけっこがおこなわれた。映画では結構広いように見えたのだったのが、実際に行ってみたら案外狭くてゴチャゴチャした印象だった。しかしロビーから、廊下、客室と、とにかく天井が高かったのには驚かされた。特に凄かったのが浴室で、10畳以上あろうかという部屋の壁際に浴槽、シャワーコーナー、トイレ、洗面台が張り付くように設置されているのだが、真ん中は高い天井のせいもあってポッカリと何もない空間が広がっていたのには唖然とするばかりだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　その後暫く米国東海岸からは足が遠ざかっていたのだが、2018年に久し振りにNYを訪れ、その際にブロードウェイで観劇したのが「ボーイズ・イン・ザ・バンド」だった。元々1968年に上演された舞台の映画版が1970年「真夜中のパーティー」として公開され、今回リバイバルとして再演されたもので、マット・ボマー（TV「ホワイト・カラー」）、ジム・パーソンズ（TV「ビック・バン・セオリー」）、ザッカリー・クイント（映画「スタートレック」シリーズ）等、TVドラマや映画で活躍している俳優が出演していた。その後ほぼ同じキャストで2020年に再映画化されている。今回に限らず、これまでTVや映画俳優が出演した様々な舞台を観たことがあるが、TVや映画と印象がさほど変わらない人もいれば、全く印象が異なる人もいた。又、より生き生きとした演技を披露する人もいれば、印象が薄くなってしまう人もいた。やはり映像と生の舞台は全く異なるものだという事が良く判る。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　そんな中で今までで一番印象的だったのは、「ロード・オブ・ザ・リング」の魔法使いガンダルフことイアン・マッケランと「クイーン」でエリザベスⅡ女王を演じたヘレン・ミレンという英国を代表する俳優二人が共演した舞台「死の舞踏」だった。両人とも映画では見たことのない表情で、特にマッケラン師匠は映画で見せる重厚感と正反対の軽さを見せながらも、それぞれキャリアの厚さを感じさせる演技を見せた舞台となっていた。そしてその日はマチネを鑑賞した後で、夜はローワーマンハッタンに近いところにあるライブハウスの様な所に行ったのだが、なんとそこに先ほどまで舞台に立っていたマッケラン師匠が現れたのだった。当時既にそこそこなお年に拘わらずオーラというか圧倒的な存在感をまき散らしながら、お供な様な人を数人引き連れて颯爽と歩く姿に周囲の人も圧倒されていたようだった。まるで人々を先導し海を割って進むモーゼの様に、そこに居合わせた人々はマッケラン師匠が進むにつれて道を開けていったのだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　NYには濃密な時間を過ごした思い出がこれ以外にも山ほどある。あの頃程パワフルに行動はできないとしても、できればこれからも時々新たな思い出を作りに訪問することができたらと考えている。</p><p>&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/chronicle55/entry-12905450934.html</link>
<pubDate>Fri, 23 May 2025 21:57:50 +0900</pubDate>
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<title>ニューヨークの思い出と映画のこと（その２）</title>
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<![CDATA[ <p>　タイムススクエアの傍にはAMC Empire 25&nbsp;という25スクリーンの巨大シネコンがあって、当時NYで一番大きな映画館だった。ここではブロックバスターからインディ作品まで、様々な映画を一ヶ所で観ることができて結構重宝していた。それ以外にも当時マンハッタンには5・6スクリーンのシネコンがそこここにあって、オン・ブロードウェイだけでなくオフやオフオフの舞台鑑賞をベースにしつつ、残りの時間に一本でも多くの映画を鑑賞できるように効率的な移動のスケジュールを組んで朝から深夜まで走り回っていた。“オン”とはブロードウェイのメインとなる大劇場で上演される「シカゴ」「オペ座の怪人」そして数々のディズニー・ミュージカルの様な作品群。“オフ”は中劇場で上演される若干マイナーな作品で、ここで当たれば、その後「レント」の様に“オン”に昇格することもある。“オフオフ”は小劇場で上演される本当にマイナーな作品で、場合によってはパイプ椅子を並べた会議室の様な場所で上演されるアンダーグランドな作品もあった。そのような舞台をベースに映画鑑賞を組み合わせて、基本昼間は映画3～4本でマチネがある日は舞台1本＋映画2～3本、夜は舞台＋レイトショー1本という感じ。また昔ながらの映画館も色々あって、フィルム・フォーラムはNYでも古参の一つ。ここでは主にマニアックなアート系やインディ作品を上映していた。またクアッド・シネマは名前の通り4スクリーンあったが、ここでは娯楽作でもかなり個性の強い作品を観ることができ、「サイコビーチ・パーティ」というかなりぶっ飛んだ映画を観た記憶がある。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　今はもうないと思うが、当時アンコール・シアターというロードショーが終わった作品を安い料金で観られる二番館があった。ここへヒッチコックの「ダイヤルMを廻せ」のリメイク作品、「ダイヤルM」を観に行った時の事だった。上映が始まって間もなく隣席の女性が何やらゴソゴソし始めると、やがて強烈なチーズの匂いがしてきた。何とその女性は映画を観ながら、持参したチーズマッケン（チーズ・マカロニ）を食べ始めたのだ！しかしながら場内はほぼ満席で、ほかの席に移動したくても身動きが取れない状況。とにかく匂いを我慢してひたすらスクリーンに集中しようとしたが、お話が進んでサスペンスが盛り上がって来くると、今度は真後ろに座席にいた女性が叫びだした。ヒロインを演じるグウィネス・パルトロの行動に合わせて“危ない！何やってんの！”とか“そんなことぐらい、何でわかんないの！”とか大騒ぎ、全くかつての「8時ヨ、全員集合！」の“志村！後ろ！後ろ！”状態である。声から察するに若い黒人女性のよう。そっと様子を伺うと、隣にはBFらしき屈強な黒人男性が座っていたので、何も言わずに静かに向きなることにした。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　隣席からはチーズの匂い、後ろからは叫び声の状況から逃げることも出来ず、もう映画どころではなくなってきて気が狂いそうな気分でいた。すると食事を終えたらしき隣のチーズ女が、今度は後ろの絶叫女に向かって煩いから静かにしろと苦情を言い始め、それに対して絶叫女も今度はチーズ女に対いて負けじと言い返す。もうカオスである。この状況では最早映画は全く頭に入って来ず、映画を観ている振りをしながら隣と後ろの喧嘩の成り行きを見守るしかない。絶叫女のBFらしき男性は流石に恥ずかしいのか知らぬ顔して映画を見ている振りをしているし、周囲の観客も二人に呆れるばかりの様だった。暫く言い争ったのち、やがて疲れたのか二人とも静かになったので漸く映画に集中することができたのだが、もはや手遅れだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　そんなNY行を2000年まで夏毎に続けた。そして2001年は夏休みを9月に取ることにしたのだが、その理由はその頃大ヒットしていたミュージカル「プロデューサーズ」を観たいがためだった。これは1967年メル・ブルックス監督した映画「プロデューサーズ」を、マシュー・ブロデリックとネイサン・レイン主演でミュージカル舞台化したもの。当初はいつも通りの夏休みで行こうとしていて、先にチケットを電話予約しようとしたら既に8月中は殆ど売り切れというではないか。しかし9月分なら未だ幾分空きがあるというので、9月に行くことにしたのだった。そして9月13日出発予定で準備していたところ、その3日前に起きたのがあの9.11テロ事件だった。当然ながらフライトから先に予約していた舞台全てのチケットをキャンセルせざるを得なくなったが、それでも諦めきれずに結局年末年始に予定変更して向かうことにした。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　という事で念願の「プロデューサーズ」であるが、クリスマス・シーズンを過ぎていたとはいえ、当然ながらチケットは年を越してもソールドアウト。あとはキャンセル待ちに一縷の希望を託すしかないとうことで、早朝8時前に劇場に向かいキャンセル待ちの行列に並ぶことにした。思いっ切り氷点下の寒風吹きすさぶNYの冬の朝ではあったが、着いてみれば既に結構なキャンセル待ち行列ができていた。多くの人はカップルやグループで並んでおり、その中の誰かが温かい飲み物等買ってきて寒さをしのいでいた。しかしこちらは自分唯一人で列を離れることも出来ず、ただひたすら寒さに耐え偲びながら吹き曝しの劇場前に立ち尽くのみ。そんなこんなで待つこと2時間強が過ぎ、何とかギリギリでキャンセル待ち最後の1枚のチケットを手に入れることができた。そしてその日の夕刻期待に胸を膨らませて劇場に行ってみたら、そのチケットはなんと2階バルコニーの最前列ほぼ舞台正面席！あの寒さに耐えたかいがあったというものだった。その公演では生憎N・レインは代役だったが、M・ブロデリックは出演した舞台を堪能することができた。「プロデューサーズ」は2005年に同じ主演コンビでミュージカル版が再映画化され、その日の思い出を胸に抱きながら観ることとなった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/chronicle55/entry-12905449947.html</link>
<pubDate>Fri, 23 May 2025 21:52:26 +0900</pubDate>
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<title>ニューヨークの思い出と映画のこと（その１）</title>
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<![CDATA[ <p>　若かったころニューヨーク・ブロードウェイで、ミュージカルの舞台を観ることに漠然と憧れていた。それが具体的な気持ちになったのは1996年頃にTVでNHKがNYから中継して放映した、ジュリー・アンドリュース主演の舞台「ヴィクター／ヴィクトリア」を観た時だった。これは1982年にやはりJ・アンドリュース主演で公開された映画のミュージカル化舞台で、ガラスをも破壊する声を持つコロラチューラソプラノの歌手ヴィクトリアが、ひょんなことから“女装の男性歌手ヴィクター”として有名になった事で巻き起こる大騒動を描いた物語。それ迄アメリカについてはカルフォルニアや中西部を旅したことはあったものの、東部NYは行ったことがなかったこともあって、実際にブロードウェイで舞台を生で鑑賞すべくNYへ行くことを決めたのだった。しかしその後「V/V」の主演は「ミクロの決死圏」「恐竜100万年」で有名なグラマラス女優ラクウェル・ウェルチに交代となり、翌1997年の夏に漸くNYに行けた時には残念ながら既に舞台自体もクローズしていた。それでもBWにはまだまだ様々な舞台が溢れている、という事で面白そうな舞台を探して片っ端から観に行くことにしたのだった。しかしBWの舞台公演は原則水曜日を除いて平日は夜8時からのソワレ1回公演のみ。水曜日と週末は昼公演マチネがあるものの、それでも昼間の時間がかなり空くことになる。有名なところを観光するよりは、折角NYまできたのだからと当分日本では公開が先になりそうな映画や、そもそも日本では公開されなさそうなマニアックなインディ映画を探して観ることにしたのだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　初めてのNY旅行は、タイムズスクエア近くに宿をとることにした。確か到着して2日目の夕刻だったと思うが、42丁目からさほど遠くない映画館でメル・ギブソン主演の「陰謀のセオリー」を観ることにした。映画・演劇が好きな理由の一つとして、スクリーンや舞台を観ている間は現実を忘れることができること。劇場という閉ざされた空間の中では、そこは現実世界から隔絶された異空間となって様々な世界に没頭することができる。しかし幕が下りて一歩劇場から外に出れば、そこには忙しない日常が待っていた。この映画ではM･ギブソン演じる主人公ジェリーはNYのタクシードライバー、ということで劇中NYの街角のあちこちが登場してくる。そしていつものように映画に没入した後で映画館を出ると、当然ではあるがそこは未だ映画に出てきたNYタイムズスクエアの雑踏のど真ん中ではないか。なんだか夢の続きにいるような、現実とも思えないような気分になってしまったのだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　また自分の人生における映画に位置づけを決定付けた作品が、NYを舞台にしたブライアン・デ・パルマ監督の「殺しのドレス」だった。そしてこの映画は、劇中の映像の細部にまで注目すべきことを教えてくれた。それはアンジー・ディキンソン演じるケイトがメトロポリタン美術館の正面玄関から出てきて、路上に停まったタクシーから彼女を誘う手に気付く長回しのシーンに差し込まれた仕掛けに気付いた時の事だった。そして実際にその場に立ちあの場面を思い出しながら自分の眼で再現してみた時、また現実と夢の境界線に立っているような気がしたのだった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　当時は未だ今の様にネットで簡単に舞台や映画の情報が手に入る環境ではなかったので、ぴあNY版のような雑誌”TIME OUT”の映画・演劇欄を舐めるように読み込んで興味をそそりそうな情報を探し、地図で劇場・映画館の場所を探して出かけて行った。そして見つけたのがアンジェリカ・フィルム・センターというインディペンデンス映画やアメリカ以外の映画を主に上映している映画館だった。マンハッタンはグリニッジ・ヴィレッジにあって地下に6個ぐらいのスクリーンがあったのだが、そのすぐ下を地下鉄が走っているので電車の音が響くのが玉に瑕だった。ここで上映される作品のいくつかは後に日本でも公開されたが、大半は公開されないまま。そんなこともあって、とにかく以降NYに行くたびに先ずここで上映されている作品とスケジュールをチェックするのが恒例となったのだった。「Shall we dance?」（オリジナル日本版）もここで上映されていた。1999年インディペンデンスの低予算映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」が公開されアメリカ中で大ヒットとなったが、この時はアンジェリカのみならずマンハッタン中の殆どのシネコンで上映されるという事態になっていた。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　翌年からは少々慣れたこともあって、タイムズスクエアから下った23丁目にあるホテル・チェルシーに宿をとることにした。このホテルにはかつて有名な芸術家、音楽家、作家が住んだ歴史があり、様々な逸話が生まれた場所だった。ボブ・ディラン、サム・シェパード、ジャニス・ジョプリン等が居住し、アーサー・Ⅽ・クラークは、「2001年宇宙の旅」をこのホテルで滞在中に執筆した。70年代を代表するパンクバンド、セックス・ピストルズのシド・ビシャスがここでガールフレンドのナンシー・スパンゲンを殺した事件は、1986年アレックス・コックス監督、ゲイリー・オールドマン主演「シド・アンド・ナンシー」として映画化された。2001年にはイーサン・ホーク監督で、ずばり「チェルシー・ホテル」という作品もあった。また、1994年リュック・ベッソン監督「レオン」では、映画冒頭のレオン（ジャン・レノ）とマチルダ（ナタリー・ポートマン）が住むアパートとして撮影が行われるなど、NYポップカルチャーのアイコニックなホテルであった。という事もあって折角だからと試しに聞いてみたら、そこそこの値段で宿泊が可能だったので泊まることにした。生憎2000年代に入り全面改装して今は高級ホテルとなってしまったようだが、当時はホテルとは言いながら長期居住者が多くいる半分アパートのようなものだった。ロビーから階段、廊下、客室内には地元を始めとした様々なアーチストによるオブジェや絵画が飾られており、インテリア・設備はかなり古ぼけていたが客室は非常に広かった。以降数年の間ここを拠点として、マンハッタンでの映画・演劇まみれの夏休みを送ることにしたのだった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/chronicle55/entry-12905448149.html</link>
<pubDate>Fri, 23 May 2025 21:43:51 +0900</pubDate>
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