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<title>小動物とエクリ</title>
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<title>二重化と分裂 ｜ 中味のない人間  05</title>
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  原註第一章　このうえなく無気味なもの（3）プラトンが前提としていた発見とは、ギリシアにおいてソフィストの詭弁法の成立に至るまで暗黙裡に真実とみなされていた「言語はおのずからあらゆる暴力の可能性を排除する」という原理がもはや有効ではなく、むしろ暴力の行使が詩的言語の補完部分だったというものだ。  第五章　「詩の判断は詩よりも価値がある」これらの作品を享受するときわれわれの行為は、みずからの意識が完全で満足をもたらす真理に到達するような礼拝ではなく、これらの果実から雨粒やほこりを拭きとる外面的行
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<dc:date>2026-06-21T07:11:19+09:00</dc:date>
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<title>異化された仮象 ｜ 中味のない人間  04</title>
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  第九章　芸術作品の根源的構造ヘルダーリンが根源的な特性として芸術作品にあてがうリズムとはいったい何なのか、ということである。　「リズム」という話は、西洋の思想の伝統と無縁なものではない。たとえばわれわれは、アリストテレスの『自然学』の決定的な箇所、第二巻の冒頭で、この単語に出会う。まさしくこの場面で、アリストテレスは、先人たちの理論を解説し批判したのち、自然を定義するという問題に着手する。実を言えば、ここでアリストテレスは、リズムという語に直接言及しているわけではなく、それ自体にリズムを失い
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<title>関心なき快、概念なき普遍性 ｜ 中味のない人間  03</title>
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   第八章　ポイエーシスとプラクシス今日における芸術の運命という問題は、それと不可分なものとして、生産活動の意味、総体としての人間の「行為」の意味という問題を投げかけてきた。この生産活動は、今日では実践として理解されている。われわれは、人間の「行為」全体を実践とみなすこの統一見解に慣れているため、人間の行為がむしろ異なったしかたで理解されうるーーそして、これまでの歴史上の時代にあってはそう理解されてきたーーという見過ごしてしまう。ギリシア人は、ポイエーシス（poiein 存在にもたらすという意
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<title>あらゆる価値の脱価値化 ｜ 中味のない人間  02</title>
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   第七章　剥奪は顔貌のごとくもしも芸術の死が、作品の具体的な次元にまで浸透している無力さにかかわるものであるとするならば、われわれの時代における芸術の危機とは、実際には、「生 - 産」&#61;「詩」つまり「ポイエーシスの危機である。ここで「ポイエーシス」とは、とりわけ芸術を指し示すのではなく、人間の「行為」そのもの、つまり生産活動の名称である。芸術的「行為」は、この活動の顕著な一例にほかならない。しかも、この活動はこんにち、技術と工業生産の行為において地球的規模でその力を伸ばしているようにみえる。
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<title>創造行為と感性的把捉 ｜ 中味のない人間  01</title>
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 第一章　このうえなく無気味なものニーチェにとってはけっして「美学&#61;感性論　エステティカ」ではなかった。逆に、創作者の視点から芸術を考察するためには、まさしく「美」の概念を観賞者の感性から純化することが問題だったのである。この純化とは、すなわち芸術作品に関する伝統的な見通しを覆すことによって実現されるのだ。つまり、美的価値の次元ーー観賞者の側から美的対象を感性的に把捉するーーは、みずからの作品のなかに幸福の約束だけを見る芸術家の創造的な経験に座を譲ることになる。アルトーいわく、「われわれに文化を
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<title>芸術性と非芸術性 ｜ クリティカル・シーイング</title>
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   絶滅の危機 「いま美術批評は、かつてないほどに重要なものになっている。」2002年のハル・フォスターの著作『デザインと犯罪』に収録されている「美術批評家の危機」は、「美術批評家は絶滅危惧種である。」（＊1）という指摘から始められている。「アートに関することで自明なことは、もはや何一つないことが自明になった。」テオドール・W・アドルノ現代アートの動向的変化は、日本において2010年代に本格的に展開していった。政権や原発の安全神話に対する国民の強い不信感を引き起こした東日本大震災と、SNSの拡
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<title>「存在の外」のさらなる余白に</title>
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 動物人歴史の終焉における〈人間〉の消滅は、全宇宙的な終末ではない。すなわち、自然界は永遠に値するものでありつづけるのである。それは生物学的な終末ですらない。すなわち、〈人間〉は、〈自然〉や所与の〈存在〉と一致する動物として生きつづけるのである。消滅するものとは何かといえば、それは、本来の意味での〈人間〉、すなわち所与を否定する〈活動〉であり〈誤謬〉であり、総じていうなら、客体に対立する主体なのである。〈活動〉の廃棄を意味している。実際に人間は、すでに動物に戻っていたのである。純粋なスノビズム現
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<title>あなたの目を通して見た世界</title>
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  私たちはだれもが同じ世界を経験しているはずだという共通の思いこみのもとに日常生活を送っているが、知覚研究でわかるのは、経験的現実ーー見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わう世界ーーは人それぞれに固有のものだということだ。第一部　行う第一章　発達する「身体能力」が、あなたが世界にどのように「適応」しているかを左右する。自分は世界をありのままに見ているというのが私たちの共通感覚だ。だがそうではなく、私たちは「自分が世界にどのように適応しているか」を見ているのである。古代ギリシアの哲学者プロタゴスの言
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<title>「外界」の事実 ｜ 世界を認識する存在</title>
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  たとえば「私はゾンビではなく、他人はゾンビである」という肯定されるべき最初の主張にも、複数の異なる意味があることが明らかになり、したがってもちろん、「ゾンビは可能であり、私自身もまたゾンビでありうる」の方にも、同じことがいえることになります。「ゾンビ」は定義上「意識」の欠如者ですから、この議論はそのまま「意識」にあてはまることになります。  第一日　なぜ意識は哲学の問題なのか心なんて一般的なものはない心とか意識とかいっても、じつは脳や神経が作り出していると、よくいわれますね。私が感じているの
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<title>知覚された身体という空間的な限界</title>
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  序論いまこのときが世界の最後の夜だとしたら？ーージョン・ダンパンデミックは広範にわたる社会および生態系の状況と切り離せないので万人の生活にとって単一の状況を生み出すと、私はいっているのではない。けれども、現在のパンデミックによって、ウクライナへの軍事侵攻をふくむそうした広範な諸状況は、新たなかたちで関連しあっている。われわれはみな病気と死という環境とかかわって生きている。死と病気は広まっているばかりか、文字どおり空気中にあるのだ。われわれは間違いなくパンデミックをグローバルなものと理解してい
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