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<title>コーヒーハウスに一服に来。</title>
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<description>日常で色々思う雑感です。</description>
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<title>精神と自然</title>
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<![CDATA[ <p>　日常のルーティンに追われているとなかなか考え、書き込む余裕がありませんが、友達と会って一息入れると気分が変わるのかもしれません。</p><br><p>　ふと考えたことが、精神と自然との対極的な違いということです。これは、考えてみると非常に不思議な事態であります。精神は、本性が自由であるとされ、すべての始まりを自ら始めうる根源的な自発性であるとされます。その意味でデカルトは、精神は実体である、他に依存しない独立した存在であると規定しました。その精神的な営みによって物質とは異なる言語なり、文字なりのもともと自然世界にはなかった存在者を生み出しています。しかしながら、元を辿ればこの精神性という自由も自然世界の自然必然性から生まれたものです。つまり、精神ではない、物質であったということです。ということは、精神は物質から生まれたものであるという結論に達するということなのでしょうか。</p><br><p>　その点が、精神と物質ないし自然が、対極的ないし対の概念であるとされるところからすると、非常に不思議なところであります。</p><br><p>　どなたか、アイデアをお持ちの方はコメント戴けたら非常に有難いと思います。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/coffeemaker75/entry-11519574801.html</link>
<pubDate>Sat, 27 Apr 2013 22:36:46 +0900</pubDate>
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<title>再開</title>
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<![CDATA[ <p>　随分長く書き込みを休止していましたが、また再開したいと思います。</p><br><p>　休止の理由は、長らく取り組んできた学位論文の執筆が佳境に入ったからであります。論文の完成を成功裏に果たすことができて、ほっとしているところであります。論文のテーマは、規範と共同体でした。法や道徳などの規範体系は一体どのようなものとして存在しているのか、規範と社会、特に全体社会との関係はどのようであり、またどう在るべきかなどの哲学的、原理的な問題を探究しました。</p><br><p>　最終章は、新たに書いたために予定よりかなり長い時間を掛けてしまいました。その甲斐あって、比較的じっくり考えることのできた分、当該の章だけでなく、論文全体の見通しが良くなってある程度まとまりあるものになったと思っています。</p><br><p>　数年に亘って目指してきた目標ですので、簡易製本できたものを眼前にしたときは、大きな達成感・充足感を得ることができました。のみならず、これまで取り組んできた研究内容を一定の水準に総括できたこと、その思考の成果を足掛かりにこれからさらに発展的なテーマへと前進しうると考えられることが何より喜ばしいことであります。　</p><br><p>　これから多少なりとも時間に余裕ができると思われますので、再び折に触れて考え、思うことを気ままに書いていきたいです。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/coffeemaker75/entry-11490375334.html</link>
<pubDate>Thu, 14 Mar 2013 19:42:43 +0900</pubDate>
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<title>新たな共同性はいかにして構想しうるか？(続き)</title>
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<![CDATA[ <p>　この問題についてもう少し書きたいと思います。</p><br><br><p>　この3月に大震災を経験し、これまでの我々の生活の仕方、自然との関わり方を改めて考え直す必要があるのではないかということで、前回思うところを書き留めてみました。</p><br><p>　見直してみる必要のある最も大きな点は、自然と我々人間との関係のあり方、自然と人間との共同性についてではないかというのが、前回の記述の趣旨でした。具体的には、人間が自然を思うままに完全にコントロールできるという思い上がりによって、余りにもリスクの高い原子力の利用に手を出し平然としていた態度を改めるべきではないかというものです。</p><br><p>　ここで我々はさらに、我々人間が特に近代以降科学技術の力によって、自然を開発し利用して築き上げてきた文化・文明の意味について思い起こしてみる必要があるのではないでしょうか。我々が原子力などを利用することによって営んでいる文化社会がいかなるものであり、それがいかなる意味を持つものであるのかということです。</p><br><p>　一言でごく簡単に言ってしまえば、我々の文明社会は我々人間の精神の分身であり、人間精神そのものの具現であります。人間は、元々あった自然に一方的に順応・適応するのでなく、科学技術の力を駆使して生活し易いように自然を作り変えることによって、自然環境を自分たちの生活環境へと開発・改善してきました。これはまさしく人間精神の英知の結晶であり、人間精神を科学技術という形式を通じて客観化した成果であります。便利に使える諸々の家電製品にせよ、家具・調度類、日常の必需品から自家用車や大規模な各種交通機関に至るまで、人間精神がもともとあった自然から自らの能力を結集させて作り上げてきた、客観的な精神と言いうるものです。</p><br><p>　つまり、我々が文明社会と呼ぶものは、手付かずにそれ自身として在った自然を自分たちの生活に都合よいように作り変えた、第二の自然に他なりません。その意味では、我々の文明社会、特に生活環境はすべて自然を基礎とし、自然という基底的土台があって初めて成立するものであります。我々の生活は、自然における土壌や土地、大気や河川などの無機的な自然物の基礎の上に、家屋を建てそこに家具・家電などの自然を作り変えた生活用品を持ち込んで初めて成り立つのであって、自然抜きに営みうることは、全くもって不可能な事柄であることは言うまでもないことであります。</p><br><p>　そのような余りにも自明な事柄を、自然あっての我々人間の生活であり、自然の恩恵のもとに人間生活が可能であるという明々白々な事実を忘れ、むしろ逆に人間が自然を支配し従属させていると勘違いしてしまっているのが、現代社会の悲しき人間たちの実情ではないでしょうか。</p><br><p>　まずは、この根本的な事実関係、自然と人間との共同的関係の事実を思い出すことから始めなければならないのではないでしょうか。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/coffeemaker75/entry-10959817612.html</link>
<pubDate>Wed, 20 Jul 2011 19:09:30 +0900</pubDate>
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<title>新たな共同性はいかにして構想しうるか？</title>
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<![CDATA[ <p>　いま現在、日本が未曾有の危機に直面し、将来への道筋を模索するなかで、微力ながら何か力になれることはないかと思い、思考を巡らせてみることにします。</p><br><br><p>　この危機に直面した今ここで、何を最も反省し、何を最も教訓として今後の様々な取り組みに反映させていかなければならないのか。私たちが、しっかりとじっくりと考えなければならないのは、このことではないでしょうか。何をどのように間違えてしまったために、今回のような大きな被害を受け多くの犠牲者を出すことになってしまったのか。この反省と思索なくして,犠牲になられた方々に対して、真の弔いはないのではないでしょうか。</p><br><p>　今最も問題となっているのは、緊急の要件としてはエネルギー問題であり、さらに根本的には自然環境との共生の仕方、自然と私たち人間との共同性の問題だと思います。</p><br><p>　人間と自然との関わり方、要するに自然の開発の問題で、多くの被害者を出したのは今回に限らず、四大公害病などを、自然利用に対する人間の思惑、欲望が原因で引き起こしてしまっています。私たち人間が生活をしてゆくためには、自然を開発し利用していくことはもはや避けることはできず、本能のみによって自然環境に順応し自然に対して全く従属して生きていくということは、人間の持つ精神的文化的な特性からして、ほとんど全く不可能であることは言うまでもありません。</p><br><p>　しかしながら、今回の大震災と原発事故でも明らかなように、自然の力は人間の知能などの諸能力や一切の思惑を超えて偉大であり、自然はその力によって容赦なく人間に襲い掛かり、人間に対してその関係の歪みや誤りのしっぺ返しを行使してきます。確かに原子力は,利用しうる大いなるエネルギーを内蔵し、実際にそれを発見した人間に大きな恩恵ももたらしてきたのであります。けれども同時に、非常に危険な放射能汚染をもたらすことは最初から承知されていたものの、そのリスクを上手くコントロールしうると信じ込み、実際にそのリスクを押さえ込みえたと思い込んで開発利用し続けてきたのであります。</p><br><p>　そして、いったん負の要因が現実になり、自然が偉大なその容赦ない力を発揮すれば、もはや放射能汚染というその脅威を人間は払い除け、それに対抗する力はいま現在全く持ち合わせていません。人間の科学技術力がいくら進歩したからといって、所詮はその程度の微力なものでしかないのであります。</p><br><p>　この圧倒的で歴然とした自然との力の差を、今回の出来事によって改めて思い知らしめられ、思い出さされたということではないでしょうか。地球環境破壊・汚染にせよ、いったん取り返しがつかない状態にしてしまえば、人間にはどうすることもできない問題になってしまいます。それほど人間は微力であり、自然のなかで自然と共に生きていくしかないという、至極当たり前の大前提を今はっきりと思い起こすべきなのではないでしょうか。</p><br><br><p>　決して卑下する必要はないにせよ、自分の能力、自分自身のことをよく知り、自覚することは、人間が善く生きるうえでの第一の基本事項であります。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/coffeemaker75/entry-10948475113.html</link>
<pubDate>Sat, 09 Jul 2011 19:36:15 +0900</pubDate>
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<title>思想・良心の自由とは何か？</title>
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<![CDATA[ <p>　今日は、思想・良心の自由について書いてみたいと思います。</p><br><br><p>　具体的に述べますと、一昨日最高裁で判決が出されたとされる、学校式典での君が代斉唱の際の起立・斉唱義務についてであります。</p><br><p>　最高裁の判断の趣旨は、学校行事としての入学式・卒業式などの式典でその式の慣例的な式次第の一つとして行う君が代斉唱を一定の秩序を持って正式に挙行するために出された教員に対する職務命令には、合理性と妥当性があり、起立・斉唱義務を拒否する思想・良心の自由を侵害するものではないとするものであります。</p><br><p>　言うまでもなく憲法で規定されている思想・良心の自由や表現の自由、職業選択の自由など様々な自由権は、日本国憲法の掲げる人権規定として、生存権に代表される社会権と並んで、諸々の法律・制度において諸個人に対してまず尊重されなければならない最も基本的な人権であります。一方においては、あらゆる生活場面でこの個人に対する基本的人権は、保障されなければならないという考え方があると思われます。</p><br><p>　けれども、そもそもこの自由権は、どのような種類の権利なのでありましょうか。それは、個人のあらゆる生活場面において個人の人間としてのあらゆる尊厳を守る必要があるということが,まず第一の基本的な趣旨であると思われます。かつての日本が行った戦争をどのように評価し、どのような教訓や歴史的事実として理解するのかは、個人的な思想として持つ限り、その個人の判断や良識、世界観や価値観にゆだねられるあくまで個人の主観性・個別的意識に属する事柄であり、個人的な歴史意識・認識の問題であります。そして、その歴史認識に基づいて日の丸・君が代に対してどのような評価・見解を持つかも、同様に個人の意識・思想の問題です。これは、国家や地方自治体などの公的権力はもちろん、学校・会社などの小規模な社会組織や家族のような私的な社会集団であっても決してその意識・認識について強制や拘束を許されない、個人の心の問題であります。</p><br><p>　このような個人の内面の心の問題は、決していかなる他者によっても強制・強要されてはならないことは当然であります。とはいえ、逆に言えば、その個人の心の問題が公の職務においても許容されるかというと、それはまた状況が異なるのではないでしょうか。学校組織の教育方針、教育理念に対してどのような個人的評価・見解を持つにせよ、その組織に共通の規則・方針に認定された以上(その決定に至る過程において個人的見解を表明し、賛意を募ることは当然行われてしかるべきであります。)、共通の規則・方針には組織への帰属員としては服務の必要があるのではないかと思います。そのような共同の職務遂行において個人的な見解・理念を固持し必要な遂行を為さないのは、非常に独断的な行動ではないかと思われます。</p><br><p>　個人が組織・社会の中でいかに自分自身の尊厳を守れるか。個人的な見解・理念が他者関係においてどこまで表明・許容可能であるのか。個人と社会との関係の問題として、難しい問題であると思います。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/coffeemaker75/entry-10910187323.html</link>
<pubDate>Wed, 01 Jun 2011 19:29:58 +0900</pubDate>
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<item>
<title>個人主義か、共同体主義か？(４回目の続き)</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　個人の主観性・特殊性と国家共同体の客観性・普遍性という相反する特性を持つもの同士が、媒介され統一されるということがもし実際に実現するとすれば､それは、個人の特殊的な利益・幸福が個人によって十分に享受されると同時に、国家の行使すべき公共的な使命や目指すべき普遍的な目的もが実現するような極めて理想的な社会状態が現実のものになるのではないかと思います。</p><br><br><p>　そのようなことは、果たして可能でありましょうか。そのために、個人の側からしてまず第一に基本的に必要になるのは、一言でいって個人の社会の公共的な問題へと向かう高い意識、ないし国家の目指す目的へできる限り参加しようとする政治的な意識ではないかと思います。個人は、もちろん家族の一員、市民の一人として家族と自らのために働き、自分たちの利益・幸福を当然追求する側面があります。それが個人の主観的・特殊的な性質であり、そのように活動して初めて個人自身の自由と諸権利とを行使でき、それは現代の自由主義的・民主主義的な社会での大前提であることは、以前に述べました通りであります。個人が公共的な問題への意識や政治的意識を高く持つということは、まず第一に決して国家や共同体へ自らを犠牲にして滅私奉公するということであってならないのは当然のことであります。</p><br><p>　とはいえ、自らだけの利益・幸福を追求することだけが個人の目指す利益・幸福のすべてであるということになるのでありましょうか。今回、大震災の危難に遭遇して日本人のみならず世界の多くの人々が他人事とは思わず、自らの大事な問題として様々の手段で多くの援助・支援の手を差し伸べたことは、この問題を考える際にも大きな手掛かりになるのではないでしょうか。そのような多様な協力的・共感的な取り組みがなされたのは、自分たちが社会の一員であり、身近であったり疎遠であったりする多くの人たちの協力や支えがあって初めて、自分たちの社会や生活が成り立っているということ、あるいは他者の幸福をも願わずには居られないという率直な感情を、明確に自覚しての活動ということなのではないでしょうか。</p><br><p>　そのように、少し踏み込んで考えれば当然と思われる、自らの社会的存在者、社会内存在者としての立場を多少なりとも強く意識することによって、公共的な問題や政治的な事柄への関心は喚起されることになるのではないでしょうか。そのような自覚が若干でもなされ、心が動き関心が持てたことから公共的・社会的問題にも取り組むことは可能ではないかと思います。</p><br><p>　そして、そのような個人の自覚・意識ができるだけ多く結集することになるならば、上述の理想的な社会の実現ということに多少なりとも近づくということは無きにしも非ずということになるのだと思います。</p><br><br><p>　そのような社会の来たらんことを。</p>
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<link>https://ameblo.jp/coffeemaker75/entry-10874235690.html</link>
<pubDate>Wed, 27 Apr 2011 20:22:42 +0900</pubDate>
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<title>個人主義か、共同体主義か？(３回目の続き)</title>
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<![CDATA[ <p>　続きを書きたいと思います。</p><br><br><p>　現代社会において、個人の自由や様々な権利が尊重され、個人の意志や意向が社会の中に反映され、さらには社会の原動力になるべく中心的に位置づけられる必要があるということは、自由主義的、民主主義的な社会形態として、大前提になると思われます。けれども、この個人の意志・意向がいかに社会・共同体に反映され、中心的に位置づけられることになるのか、または逆に言えば、社会・共同体が諸個人の意志そのものとしていかに存立しうるのかということは、個人の意志・意向の特性が主観的かつ特殊的であるということを考えたときに、大いなる問題となります。というのも、社会・共同体は、全体的なものであり、全体社会である国家は個人とは疎遠で乖離した客観的で普遍的な存在であるという対極の特性を持つと思われるからであります。</p><br><p>　とはいえ、諸個人の自由・諸権利が保障されるのは、基本的に国家においてであり、その意味では個人と全体社会・国家との関係をいかに考え、両者をいかに連関づけるかが、個人の生き方に直接関係し、社会の在り方そのものを問うことであると思われます。</p><br><p>　大震災という大きな困難に直面し、それをこれからいかにして乗り越え、復興していくかという日本の現状にあって、個人・国民の利益・幸福と全体社会・国家の目的・使命とがいかに関係しているのか、そして両者をいかに関係させるのが善いのかという根本的な問題を改めて考えてみる必要があるのではないかと思われます。</p><br><p>　その際の問題の焦点は、個人の特殊的な利益・幸福と国家の普遍的・公共的な使命・目的とがいかに媒介され、統一されうるのかという点にあるのではないかと考えられます。個人が自らの利益・幸福であると実感できることが、同時に国家の公共的な使命や目的にも適っているというような事態は果たして可能となりうるのでしょうか。(続く)</p>
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<link>https://ameblo.jp/coffeemaker75/entry-10870372549.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Apr 2011 19:59:08 +0900</pubDate>
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<title>個人主義か、共同体主義か？(続きの続き)</title>
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<![CDATA[ <p>　前回、個人主義と共同体主義とについて、改めて根本的に考え直してみる必要があるのではないかということを書きました。</p><br><br><p>　基本的な思考のスタンスは、すでに述べましたように、どちらかに優劣をつけるために二者択一的に考えるというよりも、それぞれの問題点を再考・検討しながらより十全な私たちの生き方、社会の在り方を模索しようというものです。</p><br><p>　近代的な思考の仕方からすると、個人の意志や意向、権利など個人の自由や生存についてまず第一に最大限尊重する必要があるということは、至極当然であり、人間や社会の問題を考えるにあたっては大前提になると言うことができます。いくら家族や近隣の人々、地域社会や国家など多重的な社会関係の中で生活することが個人にとって不可欠であるにせよ、それぞれの個人がやはりその社会や共同体の中で自分自身の意志や自由を尊重され,大切に扱われることがなければ、そのような社会や共同体は意味のないものになります。そして、そのように個人の意志や意向、考え方や生き方などがまず第一に尊重される必要があるという考え方は、基本的に自由主義の思想原理であると言うことができると思います。</p><br><p>　個人の意志、生命や財産などの基本財が保障され、言論・出版などの精神活動、政治参加や経済活動も自由に行える市民的な自由権の保障は、人間の生活保障という人権についてまず第一に掲げられ、実現が目指されてきたものであります。自由主義という近代的な理念が、個人の心の中や社会での様々な活動・在り方をまず最優先して人間や社会について考えようとする、人間にとって必要不可欠の思想であることは間違いないことです。</p><br><p>　とはいえ、基本的、原則的に重要で尊重される必要があるにせよ、この個人の意志や意向は、まさにその本性上その人それぞれであり、非常に特殊で主観的・恣意的なものであるということにもなります。そして、その個人の意志や意向は、基本的に自分本位であり、自己中心的に働く傾向があるという性質があるのではないでしょうか。ここ２０、３０年来環境問題が取り沙汰され、地球の温暖化が声高に訴えられてきているにもかかわらず、個人の、自分（たち）自身の生活をまず第一に考え、生活水準を調整することにはなんら関心を示さず、むしろ自分（たち）の生活だけは拘束されず欲望の赴くままに生活することになんら疑問やためらいを持たない人々も、少なからずというよりむしろ非常に多く存在しているというのが実際なのではないでしょうか。</p><br><p>　暮らしぶりだけでなく、政治行動においても自分の実際的な個人的利益を最優先して選挙投票を行ったり、ダムや発電所建設などの地域開発への賛否の意志表示などにおいても公共的・共同的な、あるいは普遍的な視点・利益よりも個人的私的な視点・利益を優先させて意志決定をするということは少なくないのではないでしょうか。</p><br><br><p>　要するに、自由主義を基調とし非常に尊重されるべき個人主義ではありますが、決して無条件で受け入れられる考え方ではなく、少なくとも注視し疑問視される必要のある問題点も抱えた思想であるということは、大いに念頭に置いておいた方がよいと思われます。</p><p>(続く)</p>
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<link>https://ameblo.jp/coffeemaker75/entry-10863547722.html</link>
<pubDate>Sat, 16 Apr 2011 19:35:00 +0900</pubDate>
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<title>個人主義か、共同体主義か？(続き)</title>
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<![CDATA[ <p>　前回の続きを書きたいと思います。</p><br><br><p>　大震災という大きな事件が起こってしまい、この機会に改めて私たちの暮らし方、社会のあり方について考え直してみる必要があるのではないかということを、書きました。近代社会になって、大きく変わったことの一つに個人が尊重されるということがあります。個人は,それぞれがその自由意志が尊重され,平等に扱われ、生命・財産などの基本的な権利が保障される必要があると、今では取り立てて訴えることもないほど当たり前に考えられるようになったことです。人間は、社会や国家という大きな集団で生活することが前提であるにせよ、まず第一にはそれぞれの個人が大切に扱われなければならないという重要な考え方です。</p><br><p>　とはいえ、どの個人も、家族なり近隣の人々、地域社会や職場などのさらに広がった社会の人々と共に生活し、誰一人として周囲の人たちとの大なり小なりの社会的関係を抜きにして生きていくことはできません。今回のような大事件が起こったときには特に、周囲の人たちとの助け・助けられる関係があってこそ、自分自身も共に生活を為しえているということが改めて痛感されるのではないでしょうか。私自身は、震災に遭わず無事に生活しえている中で、困難な生活を強いられている被災者の方々や、その方々に直接援助の手を差し延べておられる人たちを思うにつけ、ひしひしと感じられる次第であります。</p><br><p>　ですから、いくら個人の尊重が大切であるにせよ、個人だけでは無力であり共同体という人間同士共に協力し合い生活する場が不可欠であるということは、これもまた非常に明らかなように思われます。けれども、往々にして、個人の尊重さえしていればなんら問題ない、いや共同体・社会を最優先すべきである、という一方的・一面的な考え方が採られてしまいがちであるというのが、実情ではないでしょうか。</p><br><p>　実際問題としては、どちらを最優先に考えるのかということで、優先順位を付けることが求められる場合があり、イデオロギーないし方法論的原理として対立的に捉えられ、争われることも多いように思われます。</p><br><p>　確かに、エネルギー問題一つをとっても、今回の原発事故のような事態になれば近隣の住民の人たち個々人の生活が避難を余儀なくされ成り立たなくなるので、原発は即刻操業停止にすべきであるという考え方が一つにはあるでしょう。他方、現状からすれば、原子力抜きにして電力需要をまかなえるべくもなく社会政策的に見て原発の操業も止むを得ないであろうとする考え方もあると思います。</p><br><p>　では、どちらかを優先させるのは不可避であるのか、また、最終的にどちらかが優先される必要があるのか、さらにはそもそも個人主義ないし共同体主義として対立的に考えねばならないという事柄自体が有意味であるのかどうか、それらをひっくるめて改めて考えてみる必要があるのではないでしょうか。</p><p>(続く)</p>
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<link>https://ameblo.jp/coffeemaker75/entry-10856625118.html</link>
<pubDate>Sat, 09 Apr 2011 18:09:00 +0900</pubDate>
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<title>個人主義か、共同体主義か？</title>
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<![CDATA[ <p>　暫く書いていない間に、日本が大変なことになってしまいました。</p><p>　東日本大震災で亡くなられた方には心よりご冥福をお祈り申し上げますと共に、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。</p><br><br><p>　３月１１日に、夜のテレビの放映で初めて信じられない悲惨な映像を目にして、ただただ悲痛な思いに耐えるしかなかったというのが、正直なところであります。</p><br><p>　その後は、新聞、テレビなどの情報を心を痛めつつ、追いかけ続ける毎日であったのは、日本のみならず、世界の他の人々と同じであったと思います。</p><br><p>　特に東北地方の余りにも広範囲の被災地のために、またもはや津波に襲われた同じ場所に仮設にせよ避難のための住宅を造るわけにもいかず、そのために土地が見つからず被災者の人たちの仮設住宅の建設も遅々として進んでいない歯がゆい状況のようです。さらに、原発での放射性物質の漏出の回避もなかなか捗らず、自然の脅威と人間の無力さを改めて繰り返し思い知らされる日々であります。</p><br><p>　そんな中でも、復興に向けて前に向かって進んで行こうという多くの人たちの取り組みも行われ、皆で頑張るしかなかろうという決意も湧き出つつあるところであります。</p><br><p>　ということで、改めて私たちの生き方、社会の在り方を今一度しっかり考え直して見る必要があるのではなかろうか、という思いを強く持たざるを得ません。この機会に,この問題を考えてみたいと思いますが、本題はまた日を改めて書くことにします。</p><p>(続く)</p>
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<link>https://ameblo.jp/coffeemaker75/entry-10852388661.html</link>
<pubDate>Tue, 05 Apr 2011 18:05:10 +0900</pubDate>
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