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<title>現代詩歌のコラボ</title>
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<description>時代を反映した新しい詩歌の表現をめざす。</description>
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<title>【COSMOS】詩歌のコラボ（死者の笑み）　　　高橋透水</title>
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<![CDATA[ <p><b style="font-weight:bold;">●<a name="_Hlk200012182">死者の笑み</a>　　　高橋透水</b></p><p><b style="font-weight:bold;">神を見る者は</b></p><p><b style="font-weight:bold;">死なねばならない</b></p><p><b style="font-weight:bold;">太陽を直視するものは</b></p><p><b style="font-weight:bold;">眼の潰さねばならない</b></p><p><b style="font-weight:bold;">&nbsp;</b></p><p><b style="font-weight:bold;">男は太陽の観測をつづけ</b></p><p><b style="font-weight:bold;">大地の動物も植物も</b></p><p><b style="font-weight:bold;">太陽なしで生きられないと</b></p><p><b style="font-weight:bold;">ついに悟った</b></p><p><b style="font-weight:bold;">そして太陽はすべての命の源と</b></p><p><b style="font-weight:bold;">感謝の日々を送った</b></p><p><b style="font-weight:bold;">&nbsp;</b></p><p><b style="font-weight:bold;">しかし男は神に会いたいと</b></p><p><b style="font-weight:bold;">あちこち地球を彷徨った</b></p><p><b style="font-weight:bold;">そして何年か経ち</b></p><p><b style="font-weight:bold;">ある朝森で神の声を</b></p><p><b style="font-weight:bold;">聞いたような気した</b></p><p><b style="font-weight:bold;">それは鳥に声だったか</b></p><p><b style="font-weight:bold;">獣の遠吠えだったか</b></p><p><b style="font-weight:bold;">&nbsp;</b></p><p><b style="font-weight:bold;">男はさらに旅を続けた</b></p><p><b style="font-weight:bold;">しかしとうとう神を見ずして</b></p><p><b style="font-weight:bold;">海辺で死んでしまった</b></p><p><b style="font-weight:bold;">太陽の光を浴び</b></p><p><b style="font-weight:bold;">赤子のような笑みを残して</b></p><p>&nbsp;</p><p><b>（英訳していただきました）</b></p><p><strong>●The Smile of the Dead</strong></p><p><strong>　　　　　　</strong></p><p>Those who behold God<br>Must surely die.<br>Those who gaze into the sun<br>Must lose their sight.</p><p>The man continued to watch the sun,<br>And at last understood—<br>No beast, no plant upon the earth<br>Could live without its light.<br>He came to see the sun<br>As the source of all life,<br>And gave thanks each passing day.</p><p>Yet still, the man longed to meet God.<br>He wandered across the Earth,<br>And after many years,<br>One morning in a forest,<br>He thought he heard God's voice—<br>Or was it the cry of a bird?<br>A beast's distant howl?</p><p>The man journeyed on.<br>But he died without ever seeing God,<br>On a shore, beneath the sunlight,<br>A smile like that of a newborn<br>Still upon his face.</p>
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<link>https://ameblo.jp/cosmos-575/entry-12909303345.html</link>
<pubDate>Mon, 09 Jun 2025 07:58:21 +0900</pubDate>
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<title>【COSMOS】コスモス俳句会　 杉田久女の虚と実（４）　　高橋透水</title>
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<![CDATA[ <p>　　<b style="font-weight:bold;">　久女の信仰とサタン</b><br><br>　　まず久女の文をみてみよう。<br>　　「信仰に入った一年間というものは大酒<br>　のみが盃をとりあげられた程寂しかった。<br>　苦しかった、違った空気を吸ふ事の為め私<br>　の苦痛は一層はげしくされた。私は無我夢<br>　中で信仰へ突進した。こうせねば寂しくて<br>　堪へられなかったから」<br>　人目からも久女の生活は変わって見えた。<br>教会の掃除をし、花を活け、バザーに手芸や<br>自分の絵を出品したりで、熱心に信仰し教会<br>の為に尽力した。<br>　さて前回に挙げた句の、<br>　　われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華<br>の「サタン」とはどんなサタンだったのだろ<br>う。俳友たちとの恋愛感情とる説もあるが、<br>夫と性格が合わず苦悩する日々、また自身の<br>精神的苦痛とも考えられる。<br>久女に次のような言葉がある。<br>　「このごろの私からバイブルを取り去ることは出来ない。しかし之は決して私がよい忠実な信者であると自惚れてゐる訳ではなく、常に肉と霊との激しい闘争、自我と闘ひ、慾心と闘ひ、性癖と闘ひ、己に打克って前進する為のつよい信仰をもとめているのである」<br>と、強い信仰心が窺がわれる。ところが〈バイブルをよむ寂しさよ花の雨〉にあるように、己の立場と信仰心を分析する冷めた精神の持ち主でもあった。<br>　俳句は久女の日々の慰めであったが、夫や母の理解が得られず宗教の道を選んだ。一時救われた気がしたものの、盲目的な信者になれる性格の持ち主でなかった。<br>　自我の強い人間には信仰よりむしろ表現すること以外に救いの道はないのだろうか。久女は己の世界を見つけて己の為だけに俳句を作ろうと、やがて教会から離れ句作を開始する。そして間もなく、久女は後世に偉大な俳人として名を残すべく一句を天から授かった。<br>谺して山ほととぎすほしいまゝ<br>　昭和六年作。「英彦山」と前書があるが、東京日日・大阪毎日新聞主催の名勝俳句に応募し、一席に選ばれた句である。<br>　この句は久女を俳人として不動のものにした。下五の「ほしいまゝ」に苦労したというが、工作がない。本人は神社にお参りした帰りに白蛇を見て、それが「ほしいまゝ」の下五を得ることに繋がったという。一心に言葉を求めた久女に霊感、いや天啓があったとしか思えない。「虚」は全く感じられなく、久女俳句の山脈の頂点を極めた一句と見てよい。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/cosmos-575/entry-12900096333.html</link>
<pubDate>Sun, 04 May 2025 08:55:01 +0900</pubDate>
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<title>【COSMOS】コスモス俳句会 　杉田久女の虚と実（３）　　高橋透水</title>
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<![CDATA[ <p><b style="font-weight:bold;">足袋つぐやノラともならず教師妻　</b></p><p>　　「ノラともならず」の問題点</p><p><br>　明治四十四年、新劇女優の松井須磨子がノラを演じて好評を博したが、この年平塚らいてふらによる「青鞜」が創刊された。また自然主義運動家の島村抱月が妻子を捨てて松井須磨子と同棲するなど、自由恋愛が話題を攫った。女性の自活を目指す社会的自意識が高まったが、こうしたことは当然久女の知るところだった。<br>　〈足袋つぐやノラともならず教師妻〉はそんな時代を背景にしての句であろうが、さらに大正十年、世間の衆目を集める出来事があった。福岡の炭鉱王こと大正鉱業社長伊藤伝右衛門の妻で女流歌人柳原白蓮（燁子）が家出して七歳も年下の宮崎龍介のもとへ奔ったのである。燁子（あきこ）は伯爵柳原前光を父とし、柳橋で芸者をしていた母との間に生まれた。母は没落士族の娘という身分だったが、大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。また龍介は東京帝国大学法学部の出身で、編集者、弁護士、さらに社会運動家と多彩な顔を持っている。中国革命運動の援助者、宮崎滔天の息子である。<br>　　足袋つぐやノラともならず教師妻　<br>　　戯曲読む冬夜の食器漬けしまま<br>　　冬服や辞令を祀る良教師<br>　これらは大正十一年二月の『ホトトギス』に発表され久女の代表句に挙げられる。特に一句目はイプセンの『人形の家』のヒロイン、ノラを連想させ女性の社会的意識と女性の家庭での立場を詠った句として称賛された。また三句目は、夫宇内との軋轢を更に深くしたと世間を騒がせた。同時期に、<br>　　個性まげて生くる道わずかホ句の秋<br>　　われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華　　　　<br>がある。作句と実生活の明らかなズレが見られ、俳句に多分に意識的な虚構が顕現する。　　　<br>　さて、賢明な久女の計算が顕著な〈足袋つぐやノラともならず教師妻〉を見てみよう。もちろん、ノラとはイプセンの戯曲「人形の家」に登場する主人公である。久女の真意は「ノラともならず」だったのか、「ノラにもなれず」だったのか。どちらにせよ、そのころの中流社会の家庭は「足袋をつぐ」くらいは、どこの家庭でもみられたことだろう。ことさら貧困を強調し、女性解放を頭においたと解釈することもなかろう。確かに「人形の家」が上演されたことは久女に作句の動機を与えたろうが、ノラのように家を出ようなどとは思わなったのだ。<br>　物議を醸した〈ノラともならず〉は、〈戯曲読む冬夜の食器漬けしまま〉〈冬服や辞令を祀る良教師〉の句と共に宇内の不快を買い、一層夫婦間に軋轢をもたらした。夫の顰蹙に平然としている久女に、女性の家庭からの解放、女性の自立という社会的風潮にのって評価が高まった。が、久女の本意はそれほど深刻でなく、ノラを自分に見立てたわけでもない。それは後年、久女が次のように語っていることからもわかる。<br>　「覚醒と共に家出したノラははや時代おくれとなつた。かへつてノラともならず、<br>或は忍苦し、或はよき闘ひをなして運命をきりひらくところに、一層の苦みと意義　　　　　がある」（『このごろ』・俳誌「天の川」大正十四年一月）<br>　その頃の久女には、まだまだ自己の性格を分析できる冷静な精神の持ち主だったようだ。では、〈われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華〉の句はどうだろうか。久女は子供達の主治医であった、小倉のメソジスト教会小林牧師に導かれて教会に通うようになり、大正十一年に洗礼を受けた。同時に宇内も受洗している。これは久女一人が洗礼を受けても家庭の争いの改善に役立たないので宇内も洗礼を受けたのだと、娘の石昌子が証言している。<br>　入信後はあまり句作もせず文章を書くことも少なくなった。家族のいざこざを無くすため入信して俳句から遠ざかろうとしたのだ。しかし意識的な入信では一時の安らぎも長く続くようなことはなった。その辺の心情を先と同じ『このごろ』の随筆でみてみよう。<br>（つづく）<br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/cosmos-575/entry-12898695686.html</link>
<pubDate>Wed, 30 Apr 2025 14:06:20 +0900</pubDate>
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<title>【COSMOS】コスモス俳句会　 杉田久女の虚と実（２）　高橋透水</title>
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<![CDATA[ <p>　　<b style="font-weight:bold;">花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ</b></p><p><br>　大正八年の作で、句歴でいうと四、五年経ったくらいだろうか。久女の初期を代表する句ゆえ、評論や観賞文も多い。概して、「花衣」の語感からくる華やかさ艶やかさ、「まつわる紐」や「紐いろいろ」からくる女性ならではの観察眼を称え、果てはエロティシズムさえ論じられている。<br>　しかし、この句には理解できない世界がある。いくら艶やかな「花衣」といっても、そんなに紐が多くあるのだろうか、という素朴な疑問である。「まつわる」は紐が体に纏わるのか。脱ぎ散らしたき衣や襦袢などの紐と紐が重なる様子を「まつわる」と表現したのか。「いろいろ」から、複数の紐であることは、間違いなかろうが。<br>　ナルシストとは言わないまでも、久女の練りあげた、あくまでも創造上の美人画の世界のような気がする。またこの句は、『実際には、花見にゆかず、嫁入り時に実家から持ってきた衣装を広げて、思い出にふけったり、無聊を託ったのときのことを句にしたのだ。父母の元になに不自由なく育った頃に比し、今の生活は決して満足というわけでない。行く末を思うと、ついつい虚脱感・倦怠感が畳の上に投げだされた』とする解釈も可能だろう。<br>　この頃から、久女には自分で気づかない（少なくともこの時点での自覚はない）病魔が育ち始めていたようだ。自己嫌悪と自己顕示欲の悪魔が二つとも巣喰っているのだ。後の〈われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華〉にあるように久女には肉体に、いや精神に「纏いつくもの」、「とりつくもの」が潜在的にあったのだろう。<br>　この句には実際久女が花見に行かずに実験的に句作し発表したものとすると、正に「虚」の世界で「実」を遊んだことになる。この時あたりから、「実」を超越した久女の「虚」の世界が垣間見えてくるようになる。<br>　句作の好調だった久女は大正九年、父の納骨のため松本に行った。その滞在中に発覚したのが腎臓病だった。夫のいる小倉に戻らず静養のため東京の両親の元に帰ったが、久女の生活の実態を知った母親から離婚を勧められた。夫婦に溝ができていること、小倉での生活が痛ましいほど貧窮していることを知り、母親が哀れんでのことだ。長女昌子によれば、久女はこの頃を回想し、「旅暮らしの家庭生活に風波が多く、二十代は泣いて暮らした」とよく言っていたという。当時の小倉での生活は寝具はむろん、机一つ、箸茶碗からととのえての生活だった。その頃を振り返り「我々の生活には矛盾がある」という言葉が『久女文集』に見える。<br>　東京で療養し離婚はせずに小倉に帰ったが、久女は逆境を句にできる非凡な才能の持ち主だ。松本に滞在中に次の二句を得ている。<br>　　病める手の爪美しや秋海棠　<br>　　紫陽花に秋冷いたる信濃かな<br>　一句目は羅病時の描写。「病める手の爪」の美と可憐な「秋海棠」を同等にみる過剰な自意識。二句目は松本で紫陽花を見たときの実感。信濃路では紫陽花は夏過ぎでも咲き残るが、そこで「秋冷いたる」を発見した驚き。全くもって素直な句で久女の代表句として挙げられる。こうした気負わない句は当時のホトトギス俳人のなかで、群を抜いている。<br>（つづく）<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/cosmos-575/entry-12898039252.html</link>
<pubDate>Mon, 28 Apr 2025 08:49:28 +0900</pubDate>
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<title>【COSMOS】コスモス俳句会   杉田久女の虚と実（１）　高橋透水</title>
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<![CDATA[ <p><b style="font-weight:bold;">初期の俳句と環境</b></p><p><br>　明治二十三年生まれの女流俳人、杉田久女の終焉の地は福岡市郊外大宰府の県立筑紫保養院であった。保養院といっても実質は精神病院で、異常の目立った久女を夫の宇内が入院させたのだ。死因は持病の腎臓病によるが、間接的には戦後の食糧難からくる栄養失調が原因だとも考えられている。死亡が確認されたのは入院後わずか数か月後の昭和二十一年一月のことであった。<br>　久女の病歴には様々な仮説・憶説がある。腎臓病説、精神病説（分裂病など）、更年期うつ病説、橋本病説（甲状腺機能障害）などのほか病院での餓死説まである。<br>　若きころの華々しい俳句人生に比し、俳句から離れた晩年を知る資料は少なく、精神病扱いで死亡した久女の終焉はあまりにも悲しい。まず、久女が俳句に出会うまでを辿ってみることにする。<br>　久女は明治二十三年に鹿児島で生を受けている。父は長野県松本出身の官吏。六歳のとき、父の沖縄那覇県庁へ転勤に伴い一家は那覇へ転居。その後も父の転勤に従い台北へ転居している。十七歳、お茶の水高等女学校本科卒業。十九歳（二十歳説あり）のとき杉田宇内と結婚。宇内は愛知県西賀茂郡小西村出身。東京美術学校西洋画科卒業後、福岡県立小倉高等学校教師となる。二十一歳の八月、長女昌子が生れる。<br>　大正五年八月、二十六歳の時に次女光子生が誕生。秋ごろ、次兄の忠雄（俳号月蟾）に俳句の手ほどきを受け、やがて「ホトトギス」に入会した。一説には原田浜人が俳句に導いたというが、いずれにせよ当初の久女の句は客観写生の影響が色濃く表われている。大正六年「ホトトギス」に載った台所雑詠は〈鯛を料るに俎せまき師走かな〉など六句で、二十七歳の時である。また雑詠欄に初入選となったのは大正七年四月号の〈艫の霜に古枝舞ひ下りし烏かな〉であった。<br>　なにごとにも熱中しやすい久女は、俳句を始めだすと「ホトトギス」の台所俳句・婦人十句集について勉強し、めきめきと力をつけた。身のまわりを観察した句が多く、しかし「台所俳句」から少し距離のある自然描写である。<br>　　ゆく春やとげ柔らかに薊の座<br>　　あたたかや皮ぬぎ捨てし猫柳<br>　　春耕に躍り出し芽の一列に<br>　家庭での久女は娘たちの良き母だったが、反面夫との軋轢が芽生え始めた。画家という職業に憧れ宇内へ嫁して小倉での生活を始めたのだが、画家になって欲しいという久女の期待に反して宇内は田舎教師に甘んじていた。ほんの二、三年の田舎暮らしという宇内の言葉を信じて小倉にきたのに、久女は裏切られた思いで夫を詰ったが受け入れられなかった。貧乏を強いられた生活、友のない寂しさ。一枚も絵を画かない夫にも失望し不満は高まるばかりで一度は離婚まで考えたが、二人の娘のために思い留まった。<br>　そんな久女に娘たちへの愛情深い句がある。いずれも大正７年ころの作であるが、率直な親心が見て取れる。<br>　　歯茎かゆく乳首かむ子や花曇<br>　　入学児に鼻紙折りて持たせけり<br>　　その中に羽根つく吾子の声すめり<br>　　ホ句のわれ慈母たるわれや夏痩ぬ<br>　さて初期の頃で、まさに俳句開眼の一句といってよい見逃せない句がある。</p><p><br>　　花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ</p><p><br>　であるが、こには久女の「虚」と「実」の両面が如実に現れている。（つづく）<br><br>　　</p>
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<link>https://ameblo.jp/cosmos-575/entry-12897508557.html</link>
<pubDate>Sat, 26 Apr 2025 10:28:59 +0900</pubDate>
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<title>【COSMOS】コスモス俳句会   山頭火の一句鑑賞（四）　　高橋透水</title>
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<![CDATA[ <p><b style="font-weight:bold;">　　　焼き捨てゝ日記の灰のこれだけか&nbsp; &nbsp; 　</b>山頭火<br><br>　昭和五年九月のこと、それまでの日記を焼き捨て、山頭火は再び行乞の旅にでた。日記を焼き、残骸の灰を見つめて、嘆息する山頭火に一体何があったのか。その頃の心境を綴った文がある。「単に句を整理するばかりぢやない、私は今、私の過去一切を清算しなければならなくなつてゐるのである、たヾ捨てヽも捨てヽも捨てきれないものに涙が流れるのである。私もようやく『行乞記』を書きだすことが出来るようになった。――」<br>　なぜ山頭火が行乞に身を転ずるようになったのか、どうして新たな行乞の直前に日記を焼いてしまったのか。過去の清算というが、焼き捨てた日記に清算に値するどんな言動があったか。残された手紙等で推測するしかないが、これという事象は見当たらない。<br>　考えられることは、時おり山頭火に現れる酒による失態だ。その度に後悔し、挙句の自殺願望だ。酒が入ると高揚して何かをしでかす。失敗と自責の念。繰り返す自己顕示欲と自己喪失。極端な自己破壊として自殺を試みる。他に考えられることは、山頭火にとって重要な日記だろうに、これを残し人様の眼に触れる事は、あまりにも辛すぎたのか。また自分と関わった人に迷惑をかけることだけはしたくない、そう思ってのことだったのか。<br>　が、焼き捨てたことへの後悔の念も無くはなかった。その証拠に、ノートにあった俳句を思い出し、発表している。なかでも尾崎放哉の墓参を果たした感慨は大きかったろう。<br>　それにしても、「過去の清算」だの「たヾ捨てヽも捨てヽも捨てきれないものに涙が流れるのである」など全く大袈裟のことで、山頭火の常套手段とも考えられる。自他に対する甘え以外の何ものでもない。俳句も日記も隠れ蓑にすぎない。しかしこうした病的な精神から文学・文芸が排出され、作者も一時的とはいえ、精神の安定が得られる。山頭火の俳句は病的な精神の生傷から出たどろどろの血、時には動脈の鮮血と言ってよいだろう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/cosmos-575/entry-12897141304.html</link>
<pubDate>Fri, 25 Apr 2025 09:25:15 +0900</pubDate>
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<title>【COSMOS】コスモス俳句会　 種田山頭火の一句鑑賞（三）　高橋透水</title>
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<![CDATA[ <p><br>分け入っても分け入っても青い山&nbsp; &nbsp; 山頭火【そのニ】<br><br>　山頭火が行乞の旅にでたのは、一九二六年（大正十五）のことである。曹洞宗大本山の永平寺で、山頭火は本式修行を望んでいたが、実現しなかった。年齢的なこともあり、きびしい修行に耐えられないだろうと報恩寺の義庵和尚が判断してのことだ。山頭火の世俗を捨てたいという思いは果たせなかった。<br>　かといって、熊本で世話になっていた味取観音堂にも安住できず、山頭火は行乞にでる決心をした。味取観音堂とは、報恩寺の末寺で瑞泉寺のことである。山頭火は出家得度を果たした後、法名を耕畝と称してここで堂守（番人）となっていた。<br>　そんな時に驚愕な報せがあった。面識はなかったものの心の通じあっていた尾崎放哉が、小豆島の西光寺南郷庵で亡くなったという、木村緑平からのハガキだった。緑平は自由律俳句誌「層雲」を知り、投句を続けていた。山頭火は、緑平よりも一年先に「層雲」で活躍しており、緑平は山頭火の才能に惚れ込み、資金的な援助を惜しまず、何かと面倒をみた。<br>　あたかも放哉の死の報せに促されたかのように、山頭火は味取観音堂を飛び出した。緑平から知らせを受け取った数日後のことである。<br>　さて、掲句の前書きに「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」と述べているが、「解くすべもない」とはやはり過去の不幸だろう。母の死、姉の正体不明の病死、実弟二郎の縊死などなど。解くすべもない不幸の連続が、山頭火を苦しめたのだろう。更に、恋慕していた友人工藤好美の妹の死に直面し、人生の果敢なさを嘆いたとの説もあるが検証すべき点が多い。<br>　出家した身だが絶えず生くべきか死すべきかの迷いがあった。そんな時、同じ心境の放哉が死の旅に出た。死に憧れた山頭火には先を越された思いと、羨望があった。しかしどうしても自分は死ぬことが出来ない。貧しくとも寺守として安住の生活ができたはずだが、心とは裏腹に過去の業を背負いつつも脚は放浪の旅、宮崎・大分へと向かっていた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/cosmos-575/entry-12895765525.html</link>
<pubDate>Mon, 21 Apr 2025 10:42:38 +0900</pubDate>
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<title>【COSMOS】コスモス俳句会　 種田山頭火の一句鑑賞（二）　高橋透水</title>
<description>
<![CDATA[ <p><b style="font-weight:bold;">分け入っても分け入っても青い山&nbsp; </b>&nbsp; 山頭火【その一】<br><br>　明治十五年、現山口県防府市に大地主の長男として生まれた山頭火は、十一歳のとき、母の非業の死に直面した。井戸に身投げしての自殺である。これは生涯にわたって山頭火の心を苦しめ、人生観に大きく影響する。<br>　母の死後も父の放蕩は止むことなく、遂に一家は生家を離れた。しかし隣村の大道村で再起を図った酒造場も失敗に終わった。負債のため父は行方不明、山頭火も夜逃げ同然に妻子を連れて新天地熊本で生活を始めた。<br>　熊本で再生したかのように古本や額縁を売る商売を始めたが、山頭火に商魂など生来あるはずがない。店は妻サキノに任せて、はたまた酒の失敗を重ねる日々だ。人生をやり直したい思いはないわけでなく、商売に専念したい気持ちも多分にあった。しかしそんな表面的な家庭生活の幸福に山頭火は満足できる性格ではない。仕事をしていても文学や俳句のことが頭から離れず、自己の存在を自認できるのはやはり俳句しかなかった。<br>　悶々の日々を送っていたが、とうとう山頭火は泥酔して進行中の路面電車の前に立ちはだかって電車をストップさせるという事件を起こしてしまった。乗客は電車を止めた山頭火に詰め寄った。幸い、電車に山頭火のことを知っていた新聞記者の木庭徳治が乗り合わせていた。木庭は山頭火の身の危険を案じ、熊本市内の曹洞宗報恩寺まで山頭火を連行した。そして報恩寺の住職に引き渡し世話してくれるように頼んだ。それをきっかけに山頭火は、翌年に寺の望月義庵住職を導師として出家得度することになる。<br>　参禅が功を奏したのか、大正十四年三月、四十三才のとき、熊本県植木町の味取（みとり）観音堂（曹洞宗瑞泉寺）の堂守となった。しかし、せっかくの堂守も一年余りと長く続かず、『解くすべもない惑ひを背負うて』と、意を決して行乞流転の旅に出る。「解くすべもない惑ひ」とは何を指すのか不明だが、その後の行動からはそれほどの深刻さは感じられない。山頭火の多重的な性格だろうか。</p>
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<link>https://ameblo.jp/cosmos-575/entry-12895533351.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Apr 2025 19:01:52 +0900</pubDate>
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<title>【cosmos】コスモス俳句会　種田山頭火の一句鑑賞    高橋透水</title>
<description>
<![CDATA[ <p><b style="font-weight:bold;">どうしようもないわたしが歩いている　　山頭火</b><br>　<br>　山頭火は明治十五年、山口県防府に生を受<br>け、昭和十五年、愛媛県松山市の一草庵で句<br>座の夜に病没した。漂泊の俳人などと形容さ<br>れる山頭火の人気のある句は、〈分け入つて<br>も分け入つても青い山〉〈うしろすがたのし<br>ぐれてゆくか〉〈鉄鉢の中へも霰〉などであ<br>ろうか。また〈あるけばかつこういそげばか<br>つこう〉などもよく知られた句である。<br>　掲句は昭和五年の句で、同時期に〈しぐる<br>るや死なないでいる〉があり、山頭火は漂泊<br>の俳人などと単純に形容できない、苦難な人<br>生を送っている。<br>　山頭火は常に死を考え、業を紛らすために<br>酒を求めた。業とは父の遊蕩とそれが原因と<br>なる母の自殺だった。やがて大地主であった<br>種田家は没落し、再起をめざした種田酒業の<br>事業も失敗した。もう一家離散しかなく、山<br>頭火は再び歌を求め、酒を求めて旅にでた。<br>そんな自堕落な山頭火であったが、幸いに<br>も面倒をみてくれる句友は少なくなかった。<br>しかし他人に甘えている己が悔しい、情けな<br>い。酒が唯一の慰めだ。けれどまた他人に迷<br>惑をかける。またまた後悔と自責の念。それ<br>の繰り返しだ。歩きながら山頭火は考える。<br>人間はなぜ過ちを繰り返すのか。自問自答が<br>あてどなく続く。そんなことは、どうしよう<br>もない山頭火本人が一番よく知っている。だ<br>から仏門に入り、行乞をしているではないか。<br>〈焼き捨てて日記の灰のこれだけか〉過去<br>の自分を抹消したい。そんなこと出来るはず<br>がない。また自殺を試みているが、死ねなか<br>った。要は本気で死ぬ気などなかったのだ。<br>やはりなんとか生きてゆくしかないと己に言<br>い聞かせ、新たな旅（行乞）に出る。<br>　しかしそんなことが続く山頭火でない。金<br>が手に入れば酒に奢れ、遊蕩と女に走る。は<br>たまたどうしようもない人間だと自責の念が<br>強まる。それが山頭火の性といえば性だった。<br><br>&nbsp;</p>
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<pubDate>Sat, 19 Apr 2025 11:34:24 +0900</pubDate>
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