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<title>日本の歴史と伝統を護る会のブログ</title>
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<description>主に当会ホームページにて紹介している記事を再掲しています。</description>
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<title>【日本精神】薩摩士道・伊東祐亨</title>
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<![CDATA[ 　幕末が終わって、明治になり、我が国はアジア初の近代国家として船出した。<br>　そんな日本は明治維新から27年しか経たない1895年に清国と戦争を起こす。明治二十七八年戦役（通称「日清戦争」。以下通称にならう）である。この戦争の直接の契機は以下の事柄による。1894年3月に朝鮮半島で東学党の乱と云う内乱が起きる。朝鮮は宗主国である清朝に援軍を要請。清朝は宗主国として当然出兵する。これに対して、日本にとっても朝鮮半島はロシアの南下政策を食い止める為の要地でもあるので邦民保護名目の為出兵。ところが日本軍が朝鮮半島に着くや、清朝側は乱をまだ鎮圧していないのに之を鎮圧したとデマを流した。乱の鎮圧後日本は、朝鮮の政治改革を清朝と共にする事を提案する。しかしそれは朝鮮が自立的な方向へ行く事を指す為、朝鮮への影響力を失いたくない清朝はこれを拒否。<br>　そして遂に、豊島沖で礼砲の準備をしていた大日本帝国海軍に向かって清側が砲撃※1。日本側もこれに対して応戦。これが豊島沖海戦である。そして8月1日、両国は宣戦布告する。これが日清戦争の大体のあらましである。<br>　さて、周知の通り日清戦争は日本の勝利に終わった。下関にて講和会議が開かれた事もご存知であろう。しかし、これから書く胸が熱くなる話は意外と知られていない。<br><br>　当時清は、極東最強と謳われた北洋艦隊を保持していた。日清戦争の際、「定遠」「鎮遠」と云う主力の戦艦の名を聞けば、幼い子供でも怯えたと言う。また子供だけではない。我が国海軍の創設者とでも言うべき勝海舟も、「みないうちはナーンにと思っていたが、来て見れば・・・今度ばかりはびっくりしたよ。あの艦は良いねーなかなか良い艦だよ。新聞屋なんぞは・・・艦の善し悪しなど分かるまいがマーマーよおくあーいう艦をみておいて世の中の惰眠を警醒しなくちゃーいけないよ」と述べている。この時点で、大日本帝国海軍と北洋艦隊との戦いで大日本帝国海軍の勝利を考えていた人間など数名を除いていない。<br><br>　日本が北洋艦隊と矛を交えたのは1895年2月のことである。しかし形勢は日本が優勢であって、しばらくすると日本の勝利はほぼ確実なものとなった。あとは、北洋艦隊の母港・威海衛を占領した日本が最後の締めをする時である。指揮官の能力だけで追い詰められた訳ではない北洋艦隊に、日本は降伏勧告を行う。<br>　北洋艦隊を率いるのは丁汝昌（ていじょしょう）提督。日本の連合艦隊司令長官は伊東祐亨（いとうすけゆき）。友人であった。<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130804/15/cpj2010/20/3e/p/t02200144_0363023712634260320.png" alt="$日本の歴史と伝統を護る会のブログ" border="0"><br><br>（左から伊東祐亨と丁汝昌）<br><br>　伊東提督は幕末を潜り抜けてきた、云わば明治日本海軍の草創を知る人物。対して丁提督も清の海軍の育成に力を注いだ人物。ともにその苦労は分かっている。当然伊東提督が送った降伏勧告文は、儀礼的なものではなくして心からの、丁提督のその人を思う心からの書簡であった。伊東提督は丁提督の能力を惜しんで、こう送る。<br><br>「僕が誓ってわが明治天皇の大度を担保とすべし」<br><br>　あなたを失うには惜しい。貴方の身は、私が誓って陛下のその大きな御心を以て守るから降伏されたし、そういう事であろう。そして、「この書を致すや、実に友諠の至誠より出で、決して匆々（そうそう）に出たるものにあらず」と結んだ。<br><br>　この書簡を読んだ丁提督はしばらく無言のまま佇んで、その後諸将を集めてこれを見せ、こう語った。「伊東提督はまことに礼を知った武士である。自分も威海衛が長く支えきれないことを承知しているが、国家に報いるという大義は捨てることはできない。自分はただ死をもって全うするのみである。もし諸君が降伏しても、自分は恨まない・・・」<br><br>　将官等はこれを聞くや、皆涙を流し、丁提督とともにその最期を迎えることを決意する。丁提督は伊東司令長官からの手紙には返事を出さず、部下と最後の指揮を執る。<br>　しかし大日本帝国海軍の攻撃は熾烈を極め、遂に北洋艦隊はことごとく大破。ここに勝敗は決した。丁提督は自らの部下を助ける為、降伏の使者を送る。その使者の持つ書が言うに、「艦隊と砲台兵器はすべて日本に渡すが、兵と人民の命は助けてほしい。これが嘘ではないという証拠に、イギリス艦隊司令長官に証人となってもらう」<br><br>　伊東提督はこの書を読み終わるなりこう即答した。「証人は一切不要。私が信頼するのは、丁汝昌という一人物である」。丁提督がこの返信を読むと、感極まり天を仰ぎ、無言の涙に沈んだ。そして使者として帰ってきた者に、「そうか・・・伊東提督は降伏を許してくれたか・・・。まさに武人の本懐である。友情に本当に感謝する。しかし、国家に報いる義務をどうするか！わがこと足れり・・・」こう言うと、自室にこもり毒杯をあおいで自決した。<br><br>　丁提督は自らが育てた海軍と清とに殉じた。丁提督の部下は涙を流し、伊東提督に降伏した。そんな彼等に伊東提督は尋ねる。<br><br>　「丁提督の御姿が見えないようだが？」<br><br>　部下は伊東提督に丁提督の最期を伝えた。そして丁提督の遺体をジャンク船（小船）に乗せて生まれ故郷に帰してほしいと懇願した。しかし伊東提督はこれを聞いて、怒髪天を衝く勢いで激怒した。<br><br>　　「断じてならぬ！」<br><br>　清国の将兵はショックであった。しかしその次の瞬間、伊東提督は語を続けた。<br><br>　　「丁提督といえばアジアに久しく威名をふるった北洋艦隊の司令官である。その棺を送るのに、一葉のジャンクを用いるとは何事か！港で没収した商船を使い、余裕があれば戦闘員も乗船させて帰還させよ」と一喝した。<br><br>　この伊東提督の恩情に、北洋艦隊の生き残りの者たちは声をあげて泣き出し、伊東提督に感謝の言葉を述べて帰国の途に着いた。丁提督が降伏したと日本で報じられた時、人々は口々に「彼こそ珍客として接待する価値がある」「丁汝昌一人を得たのは、北洋艦隊全艦を獲たよりも価値がある」と歓喜した。<br><br>　ところがその死が伝えられるや、勝海舟は「海外における一知己」と云う漢詩をつくり、女流作家樋口一葉は「丁汝昌が自殺は仇ですが、本当に哀れです。このような豪傑を失ったのだと思うに、疎ましいの戦いです」と日記に書き残し、「中垣の　隣の花の　ちる見ても　つらきは春の　嵐なりけり」と詠んだ。<br>　徳富蘇峰は、陸軍の有力人物が語った言葉として次の言葉を紹介している。「丁汝昌ためには、彼の死せんことを欲し、わが大日本のためには、その生きんことを欲す」と。<br><br>註<br>※1　しかしこれには異論もある。（たとえば、潮匡人『司馬史観と太平洋戦争』PHP新書）
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<link>https://ameblo.jp/cpj2010/entry-11586176181.html</link>
<pubDate>Sun, 04 Aug 2013 15:02:35 +0900</pubDate>
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<title>【日本精神】孝の為に戒律と法律を破る</title>
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<![CDATA[ 　京都にある僧がいた。その僧は母に対しては至極孝を尽くしていた。<br>　家は貧しかったが、その母は生魚を好んで食べ、その時の食卓にこれがなければ、食べようともしなかった。なので僧は常に生魚を買って母が食べられるようにした。しかしその時の白河上皇は生き物を殺すことを禁止しており、なかなか魚を手に入れることはできなかった。食卓に生魚が並ばないので僧の母はほとんど食を絶ち、疲労困憊することあたかも死んでいるかのごとくであった。<br>　そんな母の状態をみかねた僧の気持ちは悲嘆の底に沈み、耐えられず桂河へ行き、みずから二匹の小魚をすくいあげた。しかしそれを官吏の者が見つけ、お触れに反したということで捕らえた。官吏は魚と一緒に役所へ僧を連行した。<br>　法吏は僧の罪を問い質した。僧は涙を流して言った。<br>　　「（一般的に）法が禁じていること皆が守るものである。ましてや私は仏門に身を置いており、その戒律を破ったことは、（法律の面はもちろん）その方面からも当然罪に服すべきである。だけれども母は老いてしかも病を患っており、魚の肉でなければ食に手をつけない有様。今仮にこの魚を放ったとしても生き返ることはないだろう。もしこれを母の元へ送るという私の願いをお聞き願いくださり、母が食に箸をつけたと聞けば、私は刑に服するとも恨みに思うことは毛頭ありません」<br>　その言葉遣いは丁寧であった。僧の言葉を聞いていた官吏等もついに皆感激に泣き出した。<br>　この話は上皇の御耳に達し、金と絹を送って僧を釈放した。<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/296.gif" alt="クリップ">公式サイト「<a href="https://sites.google.com/site/mamorukai2010/spirits/kou" target="_blank">孝の為に戒律と法律を破る</a>」
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<link>https://ameblo.jp/cpj2010/entry-11553947244.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Jun 2013 00:05:17 +0900</pubDate>
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<title>【日本精神】孝は徳のもと・橘逸勢の娘</title>
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<![CDATA[ 　橘逸勢（たちばなのはやなり、782?‐842）の娘は、すばらしい人柄の持ち主であった。逸勢が伊豆に追放※1されると、娘は悲しみに暮れ、泣きながら歩いて逸勢の後についていった。それを見た役人は娘に言って止めさせた。実の親といえども勝手に犯罪者と行動をともにすることは許されない。しかし止めることなど出来るはずはない。そこで娘は、お昼時には寝て夜に起きて行くことにした。逸勢は遠江※2に着くや病死した。娘は大変嘆き悲しみ、その棺を板築駅に埋め、小さな小屋をその駅の側に構え、その親に孝養すること生存していたときの様に接した。その態度は長い間変わることがなかった。<br>　その後、自ら棺を負って京都に帰ることが出来き、先祖の墓によく埋葬した※3のであった。<br><br>註<br>※1　嵯峨天皇がご崩御された直後、謀反を企てたという疑いで伴健岑（とものこわみね）らと共に捕えられた（承和の変）<br>※2　とおうみのくに。現在の静岡県大井川以西の地域の旧国名<br>※3　娘は後に尼となり、墓の近くに庵を結んで菩提を弔い続けたといわれている<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/296.gif" alt="クリップ">公式サイト「<a href="https://sites.google.com/site/mamorukai2010/spirits/tachibana" target="_blank">孝は徳のもと・橘逸勢の娘</a>」
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<link>https://ameblo.jp/cpj2010/entry-11537942296.html</link>
<pubDate>Sat, 25 May 2013 22:22:08 +0900</pubDate>
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<title>【日本精神】名君とその忠臣・島津義久</title>
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<![CDATA[ 　義久は貴久の子。父の事跡を継いで九州に影響力を持ち、伊東、龍造寺等を破ってその勢いは、日増しに盛んとなった。元亀5年※1（1574年）、伊東義祐を破ってその本拠地を崩すと、義祐は逃げて大友氏に救いを乞うた。この時の大友氏というのは、豊前、豊後、筑前、筑後、肥後をも併せた勢力を持っており、その勢いはとても盛んであった。翌年の秋に大友氏は勢力を集結させて日向の国を攻めた。義久は、弟家久に迎え討たせ、次に自ら兵を率いて日向に入って戦い、敵の将を11人斬った。大友義鎮はさんざんに討たれ、やむなく残兵を集めて本拠地へと逃れた。この戦いを世に「耳川の戦い」というが、これによって大友氏は家臣に背かれ、島津氏の勢いがますます盛んになった。<br>　これより前に、島津氏は肥前の龍造寺氏と肥後国の地を争ったが、龍造寺隆信は佐賀城を拠点として隣国を従わせたため、皆が恐れてその勢力はあなどることのできない程のものであった。<br>　天正10年（1582年）、肥前国は島原の城将・有馬義純が隆信から離反し、島津氏と誼（よしみ）を結ぶと、隆信は義純を攻めた。義純が島津氏に救いを乞うと、義久は配下の武将を遣わして義純をたすけさせた。天正12年（1584年）、隆信が再び義純を攻める。その時義久は八代（熊本県）におり、将兵を集めて派兵の事を合議させると、皆隆信を恐れて「派兵せず」との意見が大体を占め、話は「救うことは難しい」とのことでまとまった。しかし義久は、<br>　　「成敗は天にあり。修理大夫、来たって我に依る。今や彼急を告ぐ。座視するは武士の義に非ず（勝つか負けるかの結果は天が決めることである。有馬義純殿は私を頼ってたすけを求めており、今、そのたすけは急を要する。ここで見過ごすのは武士のとるべき道ではあるまい）」と、家久をたすけに向かわせた。<br>　家久を智勇兼備の名将で、甚だしい戦果を挙げて、隆信を破り、とうとう隆信の首を得た。この戦い（沖田畷の戦い）で、家久の子供である豊久も従軍したが、歳は15になったばかり。戦に臨むに当たり、家久みずからが兜を着せ、その紐の余りを切って言うには、<br>　　「今回の戦いには、御家の興廃がこれだけにかかっている。そういう訳だから生きて帰れるとは決して思うな。もし幸いに戦が有利に運び、死ななくてもいい場合になったなら、父がお前の為にその紐を解いてやろう」と。<br>　薩摩士風の精華がこの一時から窺い知ることができる。<br><br>　隆信が死に、龍造寺氏の勢いが衰えると、九州の諸侯は皆使者を島津氏に送って手紙を持って来させた。島津義久は筑前、筑後を攻めようと肥後国に入り、高橋紹運の守る巌城を攻めた。高橋紹運とは、立花宗茂（戦国武将）の父である。その高橋紹運は城を堅く守って降伏せず、城がようやく落ちてから進軍して、宗茂が根拠とする立花城を囲んだ。しかし宗茂も又堅く守って降伏せず、とうとう島津軍の兵は疲労し、一旦義久は軍を還した。<br>　この戦いより少し前に、大友義鎮が救援を豊臣秀吉に乞うたことがあった。義久は使者を秀吉の元に送り、こう述べさせた。<br>　　「九州八ヶ国の守護職をお授け下さるならば、義久は謹んであなた様のおっしゃる通りにいたします」と。<br>　秀吉はこれに対して、「薩摩、大隅は完全に治めたらよいが、日向、筑後、肥後については元の領主らと私が折半し、統治は私に委任されて然るべきである」と返答した。使者が帰ってこのことを報告すると、義久は激昂して、「その八ヶ国は我が力によって合併できたのである。そんな急に他の人間に与えることなどできるはずがなかろう。しかも城を攻めて他国の地を侵すのは、いつの世にもあること。秀吉ごときがどうこうできるものではない。それにしてもなんとおこがましいことだろうか、何もせずして我を制しようなどとは」と。<br>　そういう経緯があって、秀吉は配下の将である、仙石秀久、長曾我部（ちょうそかべ）元親、十河存保（そごうのりやす）等を筆頭に進軍させた。対する島津義久は、その勢力を結集させて秀吉方の勢力を迎え撃とうと戦場に出発した訳だが、その際に通り道の城主等は義久軍を畏れ敬って降伏してしまった。義久の弟・家久は奮って戦い、戸次川（戸次川の戦い）で敵に大勝し、敵将存保と元親の子供である信親の首をはじめ、敵勢の首を取ること1000を超えた。<br><br>　しかしこの時、既に秀吉の前衛部隊である羽柴秀長は豊前に着いており、秀吉は諸軍を率いてこれに継いだ。秀吉は僧侶の興山を遣わせて和平をはからせたが、義久は了承しなかった。そんな中義久軍にとって良くない事態が起こる。義久についていた者たちが至る所で反旗を翻し、軍は意気消沈してしまい、仕方なく義久は兵を引き上げ鹿児島に帰った。<br>　翌年の元亀13年、秀吉は進軍して鹿児島に入り、太平寺と云うお寺に陣をとり兵を分けて立て続けに諸城を落とし、とりわけ先方の秀長の勢はどんどん鹿児島に迫っていった。<br>　これだけの苦境に立とうとも義久はあくまでも戦おうとしたが、配下の臣下等がしきりに降伏を勧めるので、ついに秀長に対して服従しなかった罪を謝し、髪の毛をとかして龍伯と名乗り、秀吉軍の陣である太平寺に赴いて降伏した。<br>　義久の配下の武将に、新納武蔵守忠元（にいなむさしのかみただもと）というものがいた。勇猛において並び立つものがいないと言われた人物であるが、この武将が義久の弟・歳久と共に降伏することを拒否し、憤慨して義久に説いて、<br>　　「秀吉は我等が城下を蹂躙して、その様はあたかも無人の領地に入るようである。今までさんざん戦ってきたのにも関わらずここで降伏することは、薩摩男子の名に婦女の汚名を被るものです。中国は三国時代の曹操は、百万と云う兵を擁した為に呉・蜀を侮り、それで赤壁で敗れました。同じく中国は戦国時代の田単は、莒（キョ）・即墨（ソクボク）の2城だけで燕の兵から領地を守ったと聞いています。であれば我々とても精兵を以て戦い、また険しい地を拠り所として秀吉等と長い間睨め合っていれば、敵は勢いを失い、戦わずとも勝手に壊滅するでしょう。ここでお願い申し上げます。どうか私に領地を取り戻すことを委任して下さい」と言った。<br><br>　秀吉はこれを聞いて忠元の武勇を褒め称え、召して薙刀（なぎなた）を送って言った。<br>　　「おまえは、まだ私に向かって弓を引こうとするのか」と。<br>　忠元は恐れず自信ありげに言う。<br>　　「もし我が君がお許しになるならば、一矢報いることにも決して躊躇しない」と。<br>　秀吉は、その心意気を盛んであるとして感心し、かつ義久が配下の将の心を捉えていることに感じ入った。忠元の様な人物は実に薩摩武士の典型と言うべきである。<br><br>　島津義久が降伏するとことになった時、山田有信はなおも高城の城にこもって降伏せず、義久が使いを遣わして城を差し出してそこから退去することを命じた。それでも有信は従わず、義久が再び諭して「お前が速やかに城を差し出さないのであれば、君臣の義が絶えてしまう」と言うと、有信は泣く泣く降伏した。秀吉はその忠義を褒め称えて熊本県天草の地を与えたのだが、有信は、<br>　　「もし、その地を（秀吉の所領ではなく）我が君の領地とするのであれば、謹んでお受け致す。しかしもし私をあなた様の近臣とする為の思し召しでございましたら、私は死んでもその命令には従いません。私は島津家恩顧の家臣でございますから」と辞退した。<br>　秀吉は、義久が配下の臣の心を捉えていることにますます感嘆した。実にこの一事をで義久の人となりを知るには十分であろう。<br><br>註<br>※1　元亀年間は4年までしかなく、ここでの記述はおそらく元亀3年の、木崎原の戦いを指したものと思われる。<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/296.gif" alt="クリップ">公式サイト「<a href="http://sites.google.com/site/mamorukai2010/spirits/shimazu" target="_blank">名君とその忠臣・島津義久</a>」
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<link>https://ameblo.jp/cpj2010/entry-11535272339.html</link>
<pubDate>Tue, 21 May 2013 23:49:07 +0900</pubDate>
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<title>【日本精神】日本地図を作った伊能忠敬</title>
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<![CDATA[ 　日本史上初めて、実測によって日本全土の地図を作成した伊能忠敬。幼い頃より算術が得意で、医術・天文・暦法等を学んだ。50歳の時家督を長男に譲り隠居する。しかしその後も江戸に出て再び天文学を学ぶ。時代は洋学が盛んで忠能が学んだのは西洋暦学であった。<br>　この時代は、ロシアの艦船が日本の近海に出没しており、これを危惧した江戸幕府は蝦夷地把握を課題としていた。忠能はこれを知って蝦夷地地図作成を計画、自費で蝦夷に渡り数ヶ月にもわたって測量した。若い頃の土木知識と経験も手伝って詳細な地図を幕府に献上した。<br><br>　幕府はこの地図の出来に満足し、忠能に全国の測量を命じてこれに従事する。忠能は72歳で世を去るが、後この測量結果を元に弟子達が「大日本沿海実測全図」「大日本沿海実測録」を完成させる。<br><br>　ロシアの代表的な地理学者・クルーゼンシュテルンは、忠能の日本地図を見て「日本人、我を征服せり」と驚嘆したと言う。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130411/19/cpj2010/f1/e3/p/o0172021012496770459.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130411/19/cpj2010/f1/e3/p/t01720210_0172021012496770459.png" alt="$日本の歴史と伝統を護る会のブログ-伊能忠敬" border="0"></a><br>（伊能忠敬肖像、千葉県佐原市伊能忠敬記念館ホームページより）<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/296.gif" alt="クリップ">公式サイト「<a href="https://sites.google.com/site/mamorukai2010/spirits/inotadataka" target="_blank">日本地図を作った伊能忠敬</a>」<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/cpj2010/entry-11509466155.html</link>
<pubDate>Thu, 11 Apr 2013 19:55:45 +0900</pubDate>
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<title>【日本精神】盲目の大学者・塙保己一</title>
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<![CDATA[ 「私が幼い時のことですが、母は私に『塙保己一先生はあなたの人生の目標になる方ですよ』とよく話してくれたものです。日本には幼くして目がまったく見えなくなってしまったのに、努力して立派な学者になった塙先生という方がいたと教えられました。それを聞いて、私は励まされて、一生懸命勉強しました」。障碍者※1教育、平和活動を行った世界的な偉人、ヘレン・ケラーの言葉である。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130403/14/cpj2010/13/4f/p/o0320024012485941780.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130403/14/cpj2010/13/4f/p/t02200165_0320024012485941780.png" alt="$日本の歴史と伝統を護る会のブログ-塙保己一" border="0"></a><br><br>　塙保己一は、1746年埼玉県に生れた国学者である。7歳の時病気によって視力を失う。それでも10歳で学問に志した。12歳に最愛の母が過労で死去するも、向学の意気はますます盛んになり、15歳の時に父親を説得して江戸に出る。しかし当時は盲人と学問とは無縁と考えられていた時代であるから、保己一がする事と言えば、三味線や琴等の音楽、あるいはあんまと針の医術、座頭金と呼ばれる金貸しに限られた。座頭金に関しては上手くいかず、自殺しようと思った事もあると言う。<br>　それでも、もと学問を志して江戸に出た保己一である。師匠の雨富須賀一※2にその思いを告げた。雨富はその思いに感じ入り保己一に様々な学問を学ばせた。国学・和歌、漢学・神道等を当時の一流文人らに学んだ。国学は本居宣長の師匠である賀茂真淵にも学んでいる。学問方法は、当然目が見えないのであるから書物は読めない。そこで人に読んでもらい、それを暗記した。<br>保己一34歳の時、北畠親房の『神皇正統記』、我が国最古の漢詩集『懐風藻』等の貴重古書の散逸を危惧してこれらを蒐集。編纂して版木（木版：木の板に文字や絵を彫りつけて作った印刷用の版）として残す事を決心。これより後41年にも亘りその作業を行い、74歳にして『群書類従』を完成させる。<br><br><br>　保己一はまた、後継者を育てる為「和学講談所」を設立。今の東京大学史料編纂所である。保己一の門下にはかの高名な平田篤胤（国学者）や、『日本外史』で有名な頼山陽が教えを請うている。<br>1821年、保己一は盲人社会最高位である「総検校」になり、同年76歳にして死去する。明治期の文豪・幸田露伴は保己一の功績について次の様に述べている。<br>「塙保己一は、散逸の恐れがある貴重な文献や書物を後世に伝え、誰もがじかに手に取ることを可能にした。かつては秘伝と称して特定の人だけに授けられてきた学問の開放、普及に貢献した」<br><br><br>註<br>※1　一般的には「障害者」と表記するが、この表記が正確である。<br>※2　雨富須賀一はあるいは雨富検校と言う、検校とは『広辞苑』（第六版）によれば「盲人の最上級の官名。建業」とある。<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/296.gif" alt="クリップ">公式サイト「<a href="https://sites.google.com/site/mamorukai2010/spirits/hanawahokiichi" target="_blank">盲目の大学者・塙保己一</a>」
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<link>https://ameblo.jp/cpj2010/entry-11503972536.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Apr 2013 14:08:38 +0900</pubDate>
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<title>【日本精神】大和武士の典型にして模範・源義家</title>
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<![CDATA[ 　源義家は、日本武士の花形として、広く知られた名将軍である。伊予守頼義の長子で、字を源太という。<br>　父の頼義は、八幡大明神より神剣を貰い受けることを夢にみて、内心奇妙なことだと思ったが、既にこの時、頼義の妻は妊娠しており、義家が生まれた。頼義は、「これはきっと八幡大明神の思し召しである」と思い、義家が七歳の時に、石清水八幡宮にて元服させた。そこで義家は、「八幡太郎」ともいう。<br><br>　義家の人となりは、勇武があって明瞭な判断ができ、中でも騎射に巧みであった。<br>　前九年の役、後三年の役の二回の戦役では、奥羽地方の豪族・安倍氏を討伐し、大いに偉勲を挙げた。そんな前九年の役で、敵の将安倍貞任が衣川柵の戦いで敗れ、軍は潰えて潰走していると、義家迫って来て矢をつがえ、貞任を撃とうとして歌って言った。<br>　　「衣のたてはほころびにけり」<br>　貞任がこれに和して、<br>　　「年を経し絲（＝糸）のみだれの苦しさに」。<br>　貞任は東北の奥の方の将であるが、それでもこの韻事（詩文をつくること）を理解した。義家はその心づかいの情け深さにつがえていた矢を投げ捨てて、構えを解いた。両将のこの唱和のことは、実に、永遠に画題の好主題となるであろう。義家は勇武の将軍でいて、他方閑雅な詩人であるが、同時に徳行の面でも過ぐれた人物であった。こんな話がある。貞任の弟である宗任が偽って義家方に降伏して、密かに刺して亡き者にせんと企てたが、刺すどころか逆にその徳行に感化されて無二の部下としもべとなってしまった。<br>　それだけではない。彼の温厚にしてよく人の言葉を容れるこんな話がある。それは、義家が前九年の役で父頼義につき従って東北の奥地で転戦し、それより帰って関白である藤原頼通を訪れた時のこと。話がたまたま戦争談になったのだが、その時別室に当時の碩学である大江匡房がいて、盜み聞いて言うには、<br>　「義家はとても素晴らしい武士ではあるが、惜しいことにいまだに兵法のことを知らない」と。<br>　義家に従っていた安倍宗任（貞任の弟）が憤慨して義家に告げると、当の義家は「まことにもってその通りである」とうなずいて、それからというものの、匡房のもとへ通って兵法を詳しく学んだ。<br>　寛治3年（1089年）後三年の役が起き※1、清原氏の武衡、同じく家衡等は奥羽を拠点として叛乱を起こした。この役のはじめというものは、出羽に根をはっていた清原武則は前九年の役で源頼義を助けて大いに功があり、奥州の地の「押領使」という官職に任じられ、後鎮守府将軍に補せられて一門は栄えたが、その孫の真衡（まひら）の代になって清原一族に争いごとが起こり、真衡の叔父・武衡が義家の制止を聞かなかった。陸奥守であり鎮守府将軍であった義家は、子である義親、義国、義忠らと共に奥州の国府にいて、清原武衡、家衡が兵を合わせて金沢の柵を拠点としたので、みずから兵数万を率いてここを攻めようと、現地に赴き、柵の西南1.5キロから1.6キロ辺りの沼に着き、馬を丘に登らせそこから地形を見ていた。春の初めの、空がうららかに晴れ渡っている光景に、行列をなした雁が渡っていったが、やがて地面に方へ降りようとしたが、急に行列を崩して乱れて飛び立っていった。義家はそれを望み見て部下に告げて言うには、<br>　　「敵の伏兵があそこにいると思う」と。<br>　そこで兵を放って捜索すると、やはりいた。そうしてから伏兵を殲滅し、金沢の柵を囲んだ。部下等はその明察の優れていることに驚いていると、義家は笑って、「鳥が乱れ飛んだら伏兵がいると兵法にある。学ばなければ危なかったぞ」と言った。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130401/01/cpj2010/24/1d/p/o0320021312482318355.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130401/01/cpj2010/24/1d/p/t02200146_0320021312482318355.png" alt="$日本の歴史と伝統を護る会のブログ-後三年の役" border="0"></a><br>飛騨守惟久『後三年合戦絵巻』1347年<br><br>　この役は3年を費やしてようやく平定された。寛治6年3月、春に吹く風とともに、京都へと帰った。一行が進みに進んで勿来（地名）の関に着いたとき、桜の花がせわしく散って鎧の袖に散りかかった。勿来は常陸と磐城との国境にあり、奥州街道の要塞で、蝦夷が南下しないよう設けられたもので、だからこそ「勿来（来る勿れ）」という。東北はかたや峰が連なり、道が険しいが、一方は海面が果てなく続く大洋に面している地方だが、この地はとても桜の花が多く、義家等の一行はたまたま春の季節にこの地を過ぎた為、多くの桜木を見ることができた。この3年間と言うものの、戦に明け暮れて、月や花といった風流なものと関わりなく過ごして来たが、今となってはともに兵器を収めて、心にも余裕ができ、花に対しても心のゆくままに風流の念が湧いて来る。義家は手綱を持ちながら吟じて、<br>　　「吹く風を　なこその関とおもへども　道もせに散る　山ざくらかな」と。<br>　多大の功をなして馬上にて落ちる花を詠ずるとは、これもよい画題である。義家がやがて京都に帰ると、戦のお祝いを述べる者が多くやって来る訳だが、その中に1人の貴人がいて、その人が義家に向かって、「陸奥にはさぞ名所が多いことでしょう。長らくその地にいｔらっしゃたものだから、おもむくままに歌にある名所を探されたことでしょう。私にはそれが羨ましい」と言うと、義家はそれに答えて、「確かにおあだやかで、静かな所でしたから好奇心をくすぐられたこともありましたが、何より戦いで身が忙殺されおりましたから、風流な眺めを見てもなかなか詠うことが出来ませんでした。ただ勿来の関という所では、散る花の風情がとても心に深く映り、心ある人がご覧になれば、思わず感嘆されることと思います」と、先ほど義家が詠んだ詩を吟じて聞かせた。すると「何という名吟」と、感嘆はしばらく止まらなかった。<br>　かく八幡太郎の武名とともに、風流を知る将軍、と世に広く伝えられた。実に義家こそは、武備わり、文の道にも通じた、我が国の武将の理想的な典型像である。<br><br>註<br>※1後三年の役は、1083年の永保3年に起こって1087年の寛治元年に終わっているので、ここでの記述は正しくない。<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/296.gif" alt="クリップ">公式サイト「<a href="http://sites.google.com/site/mamorukai2010/spirits/minamotonoyoshiie" target="_blank">大和武士の典型にして模範・源義家</a>」
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<link>https://ameblo.jp/cpj2010/entry-11502296499.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Apr 2013 01:36:50 +0900</pubDate>
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<title>【日本精神】ユダヤ人を救った外交官・杉原千畝</title>
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<![CDATA[ 1939年、ある男がリトアニア共和国領事館開設を命じられ、同国の首都カウナス（現ビリニュス）に赴任した。男の名を杉原千畝と言う。赴任した翌年の7月の朝、日本領事館の外に多くのポーランド系ユダヤ人がビザを求めて押しかけていた。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130330/03/cpj2010/50/94/p/o0400028312479248879.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130330/03/cpj2010/50/94/p/t02200156_0400028312479248879.png" alt="$日本の歴史と伝統を護る会のブログ-日本大使館に集まるユダヤ人" border="0"></a><br>（ビザ発給を求めて日本大使館に押しかけるユダヤ人）<br><br>　このユダヤ人は、ポーランドがドイツに四分割された際にすきをみてリトアニアに逃れて来た人であった。リトアニアに逃れて来たのは、当時の同国が中立国だった事による。しかし1940年7月、リトアニアに親ソ政権が樹立してソ連がリトアニアを併合する事が確実になった。さらに、このままいけば独ソ戦争勃発は避けられないところであって、となればリトアニア国境は閉鎖になり、ユダヤ人達は行き場を失う。<br>　そこでユダヤ人達は、ナチスからの迫害を逃れる為にカリブ海にあるオランダ領キュラソー島に逃れる事にする。ユダヤ人達に同情的であったオランダ領事の計らいによるものであった。ところがリトアニアと国境を接する諸国はいずれもドイツの占領下にあり、リトアニアからキュラソーへ行くには、ソ連と日本の通過ビザが必要であった。ユダヤ人が大挙して日本領事館に押しかけたのはこれが為である。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130330/03/cpj2010/34/3d/p/o0159019412479248440.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130330/03/cpj2010/34/3d/p/t01590194_0159019412479248440.png" alt="$日本の歴史と伝統を護る会のブログ-杉原千畝" border="0"></a><br>（八百津町杉原千畝記念館ホームページより）<br><br>　杉原は数百人のユダヤ人の懇願を目にして、まずソ連大使館に赴き、日本通過ビザでソ連領内通過が可能かを問い合わせ、「可」の返答を貰った。しかし日本政府はビザ発給を許可しなかった。言うまでもなくドイツが日本の同盟国だからである。数人なら杉原個人の裁量に委ねられる。しかしビザを必要としている人数は数千人。杉原はさらに許可を求めて本国へ電報を打つが、やはり許可は下りない。この間にも独ソの緊張は逼迫（ひっぱく）している。<br>　杉原は決断した。杉原独断でビザを発給することにした。またできる限り大量にまた迅速に済ませられる様、専用のゴム印も発注する。<br>　こうして杉原は二十日間で二千人分のビザを発給し続けた。外務省の記録では2139人分とされている。しかしその家族も含めれば、救った人数は6000から8000人にも及ぶと言う。杉原は献身的にユダヤ人の為に尽くした。それは杉原自身リトアニアの滞在が危うくなり、ドイツへの退去を余儀無くされ、そこへ向かう列車からホームへ身を乗り出してまでビザを発給し続けた事からも分かる。<br><br>　1985年、イスラエル政府は「ヤド・パシュム（諸国民の中の正義の人）賞」と言う最高位の勲章を杉原に贈っている。<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/296.gif" alt="クリップ">公式サイト「<a href="https://sites.google.com/site/mamorukai2010/spirits-of-japan/sugiharachiune" target="_blank">ユダヤ人を救った外交官・杉原千畝</a>」
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<link>https://ameblo.jp/cpj2010/entry-11500935358.html</link>
<pubDate>Sat, 30 Mar 2013 03:50:18 +0900</pubDate>
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