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<title>ももち駅前文学倉庫</title>
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<description>文学、思考の断片―考えるということ</description>
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<title>『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎</title>
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<![CDATA[ <p>これは小説なのか？</p><p><br>巧妙に小説という表現形態に偽装された別の何かではないのか？</p><p><br>そう思いながらも、これは疑うことのできないほどの「小説」であるという確信も抱いてしまう。はじめは、これは「詩」なのではないかと疑った。でも、やはりこれは「小説」かもしれないと思うようになった。その変化は突然にではなく、徐々に訪れた。第一部、第二部、第三部と続く、その連続性によってもたらされた。</p><p><br>解説で、加藤典洋は「第二部がおもしろくない」と言っている。それは、二部を、高橋源一郎の狙い（意図）として解釈していることから発せられている。はたして、「小説」というものは、そのようにして読まれるべきものなのか？そのようにして読み込む（解釈する）態度こそが問題であり、瞬間、ただの言葉の羅列に思われてしまうような断片たちを拾いつなげていく作業が私たちに課せられていると考えるべきではないのか？</p><p><br>また、加藤は、この高橋源一郎の作業（作品）を比喩を用いて表現する。「小説」に対して、少なくともこのような作品に対して、その「小説」を比喩を用いて解説する、とはどういうことなのか。それこそ、もっとも避けるべき（文芸）批評の方法ではないのか？比喩を用いて説明することは「解説」ではないと、私は思う。<br>比喩することによって、その「小説（作品）」の重要な部分が隠されてしまうのではないか、そういう不安に襲われた。言葉を尽くすこと、それについてまた語ること、これには「さらに言葉を尽くす」ことでしか応答できないように思えるのだ。</p><p><br>さらに、加藤は、第一部を高評価している。それは、第一部がもっとも（それまでの）「小説」らしいからとしか思えない。「娘の死の挿話」、このような話は、それまでの「小説」がたどってきた道（王道）に他ならないし、その意味で、読み手は安心して読むことができる。</p><p><br>でも、そうではない。</p><p><br>第二部、第三部と進むにつれてましていく不安感と高揚感。これこそが、この「小説」（作品）に対峙したときに生まれる感情であり、改めて考えるべきことではないのか。自分にとっての安心・安全に従い読む態度を停止し、不安感に身をまかせる。その不安感の起源に対する思考が求められている気がしたのだ。<br>ここまで書いて（読んで）きた。私だって、言葉を尽くしたとは言い切れないが、ここまでで『さようなら、ギャングたち』というこの言葉の意味はもうわかるだろう。</p><br><p><br>「『私たちは、一般的にギャング的であると信じられている格好・様式に従いました。<br>　私たちは、人々を当惑させるような行動をとったり、珍奇な言辞を弄することを避けましたし、全く新しいギャングになろうとも考えませんでした。<br>　それでも、時として私たちの行為が「ギャングを逸脱した、珍無類な」ものと受け取られることがありましたが、誤解を招くことを恐れて私たちのやり方を無理にねじまげるようなことは決してしませんでした」』</p>
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<pubDate>Tue, 11 Jun 2013 22:13:35 +0900</pubDate>
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<title>『大人にはわからない日本文学史』高橋源一郎</title>
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<![CDATA[ <p>近代あるいは近代的な語りがどこからきたのか。このような問いはあるひとつの盲目的な前提を置いていると考えなければならない。始まりがあり成長があり成熟があり終わる、この歴史的視点をどのように乗り越え、あるいは含みながらわれわれの言語を考えていくべきか。</p><br><p>「わたしたちは、明治の初期にその起源を求めました。しかし、実際の話、明治二十年に、近代文学が突然生まれたわけではありません。もっと以前に、ある意味では江戸時代、いや、そのもっとずっと前にさえ、近代的な文学と呼ぶしかないものがあったのも事実なのです。／しかし、そんな事実は問題ではないのだ―サイードはそう書いています。つまり、歴史の起源は任意なのです。ある共同体の成員が、その共同体の中で起こった出来事を、ずっと後になって回想し、『我々はあそこから来た』のだ、あるいは『我々はあそこから生まれた』と認識したとき、ようやくその歴史は始まるのです。／同じように、その共同体の成員が、『我々の時間は終わった』と考えた時、その歴史もまた終わりを告げることになるのです。／では、なぜわたしたちは、『近代文学が終わった』と考えるようになったのでしょう。／それはもしかしたら、わたしたちが『近代文学が始まった』と考える明治の初期から、百年を遥かに超える時が流れたから、という単純な理由からかもしれません。百年は、一人の人間の生涯を超えた時間です。『わたしたち』は、ひとりの人間ではなく、いくつもの世代であるにもかかわらず、目の前に積み重ねられた百年の文学を見つめ、なぜそこに、さながらひとりの人間の誕生や成長や亡くなる様子を眺めるような感覚を持つのでしょうか。／そこに存在する作家たち、それを読んできた読者たちは、過去のすべての作品に目を通したり、読んだりするわけではないのに、まるで、すべてを知っているかの如く振る舞います。／それが、なにかの、いや、あることばの共同体に所属するということの意味なのかもしれません。」</p><br><p>このような思考がなぜ説得的であると感じられるのか。日本において近代文学が登場したと考えられる頃、それを支えてきた世代の父親たちの世代が死んだということを前田愛が述べている。それと同じ状況が現代にもあてはまるのではないか。そう考えると「死」によって何らかの分断（はっきりとしたものではないけれど）が起こるという考え方もひとつの重要な鍵となると思われる。</p><p>しかしながら、「死」はこの百年の間に絶え間なく存在していたのであり、それがこの百年後の今特別な「死」が起こっていると言うことは難しい。それでも、高橋源一郎は現代の文学を見つめながら、ひとつの歴史が終幕を迎えようとしていると述べている（緩やかな下降のはじまりと言っている）。われわれが次に構築していく新しい言語とはいったいどのようなものであるのか。それは未来の人びとがわれわれを振り返り決めることになる。</p><p>共同体とは、言語によって構築されていく集団であると述べられている（アンダーソンも言っているが）。新しい言語・言語的実践を構築することができれば新たな「生」の実践が可能になるのではないか。これはずっと私が考えている問題であるのだが、今回もそれについて考えさせられた。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/crossroads777/entry-11309693792.html</link>
<pubDate>Mon, 23 Jul 2012 10:56:34 +0900</pubDate>
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<title>『「悪」と戦う』高橋源一郎</title>
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<![CDATA[ <p>ノリ（？）で購入。</p><p>作者の文学論はおもしろいのに、小説についてはあまりおもしろくないと感じるのはなんでだろう…</p><br><p>子どもが「悪」らしきものと戦う。</p><p>（らしいというのは、それが具体的になんなのかわからないから）</p><p>戦うといっても、銃でドンパチとか、リュック・ベッソンみたいなアクション系でもなく、</p><p>革命をめざして地下にこもるとかそういうのではない。</p><br><p>私は「子ども」をかける作家が好きだ。</p><p>吉野朔実、小田扉、大友克洋、小川洋子、長嶋有、サリンジャー</p><p>（半分は漫画ですね、もしかすると松本大洋もかな）</p><br><p>「子ども」って特別な体験だと思う。</p><br><p>人はみんな「子ども」の頃があるのに、ときが経つとなんとなくその感覚がなくなっていく。</p><p>脈略のなさとか、無邪気さとか、やさしさとか、そういう「子ども」独特の感覚ってあると思っていて、</p><p>もちろん大きくなってもそういうのを失わない人もいるけど、たいていの場合、そういったものは性格の一部ではあっても、全面を覆うようなものではなくなってしまう。</p><br><p>「子ども」をえがける人って、そういう感覚が生きている人で、なおかつ観察力があって、表現力がある人だと思う。そういう才能があるってうらやましい。まぁ、そういうふうに思えるということは、自分がもう「子ども」ではない（ある意味ではまだまだ子どもだけれど）ってことなんだと思う。だから、作品の中に求めてしまう、「子ども」を。</p><br><p>そういう意味では、この作品はもの足りなく感じてしまった。</p><p>漫画では子どもを題材にした作品はあるのに、文学には少ない気がする。</p><p>（読書不足なだけ？）</p><p>もしそうだとすると、文学って力不足な気がする。</p><p>「子ども」を表現することが出来ないのだ。</p><p>漫画には出来て文学には出来ないとすると、子どもって視覚的だったり、思考と発話の関係が特殊だったりするのかもしれないと思った、今。</p><br><p>『童夢』読みたくなってきたな、でも勉強せねば。</p><br><p>では、次回。</p>
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<link>https://ameblo.jp/crossroads777/entry-10932559953.html</link>
<pubDate>Thu, 23 Jun 2011 22:23:17 +0900</pubDate>
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<title>『さよなら、ニッポン』高橋源一郎</title>
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<![CDATA[ <p>博論の構想をねろうと、まず一番にしたこと、それが高橋源一郎を読むことだった。</p><p>何か、そこにはあると思って、はじめた。</p><p>でも、読み終わると、そこには何かあったようで何もなかったような、</p><p>あるはずと思っていたことを見透かされ、かわされたような気持ちになった。</p><br><p>たぶん、彼は（意図なんてものはわからないけど）、私たち自身で思考するという宿題を出すだけにしたような気がする。答えを言うのは簡単なことだけれど、それを彼はしなかった。いや、彼にも答なんてわかっていない、というか答えなんてない課題―文学、小説―なのだ、そもそもから。だから、みんなで考えてみようと書いていたのだと思う。</p><br><p>彼は全文引用したいとずっと言っている（私も論文で資料をカットするのはキラいだ）。</p><p>これから彼の本を引用しようと思うが、それは彼の論に反したことになってしまうので残念だけれど、</p><p>それを許して欲しい。</p><br><p>「ベネディクト・アンダーソンの『近代小説（文学）は近代国家の成立と共に始まる』という定説は、それ自体、驚くべき卓見ですが、実は、その奥に、さらに広くて深い、内実を持っているのではないか、とぼくは考えているのです。</p><p>　『近代』というのは、簡単にいうと、『主体性』がいちばん大切である、と考える時代のことです。『主体性』っていうことばは、時には『個性』とも翻訳される。</p><p>　『主体性を持った個人』というと、『悩める豊かな内面』も持っていて、一筋縄ではいかない存在っぽいですね。でも、実際には、この『主体性』ってやつは、資本主義的エコノミー（合理性）ときわめて相性がいいのではないか、とぼくは思っています。</p><p>　『近代小説』というやつを、極端に形式化していうと、『主体性を持った個人』が『社会や他人との相剋に悩む』話です。ほとんど全部、そう。例外なし、です。</p><p>　ということは、『主体性』と『社会』とは敵対しているように見えますよね。なにしろ『相剋』なんだから。</p><p>　たぶん、書いている作家も、たいていは、そう思っているはずですよ。</p><p>　「おれは、個人と社会との、あるいは、男と女との『和解しがたい』本質的な関係を書いているのだ」とか、なんとか。</p><p>　だけれど、『主体性』と『社会』が、敵対もなにもしてなかったら、どうでしょう。いや、それどころか、『裏取引』をしている関係だったら、どうでしょう。」</p><br><p>私がここに興味を持ったのは、ちょうどいま“近代的主体”とはどのようなものなのかと考えていたからだ。</p><p>私は「身の上相談」を研究しているのだけれど、そこでひとつの疑問がわいたのだ。</p><p>相談者は、自己の抱える問題を、個別的だったり、特殊だったりするように表現する。</p><p>しかし、人びとが特殊性を主張すればするほど、逆に（？）既存の社会に吸収されているように見えるのはどうしてなのか？どのようにして、人びとが自ら積極的に（規範だったり、秩序だったりを）内面化へ向かっているようにみえるのかということ。この内面化する主体について、考えることが、ひとつの柱なような気がしている。</p><p>それをぼーっと考えながら、高橋源一郎を読んでいたわけだ。</p><p>「何か私の問いって、オーソドックスというか、なんか古い」とちょっと感じたりもした。とても大事なことな気もするし、そうでもないよな気もしてきた、今これを書いていて。</p><p>高橋源一郎は、上記のことを、後半になって書いている。なんか、この後半にいうところが気になる。</p><p>最後の方になって、主体の話ってどういうことなのだろう。</p><p>結局、彼も（私も含めて）、これまでの文学史がたどってきた道を、かなり寄り道しながらではあるけど、歩いているように感じてしまった。でも、この寄り道が重要なことはわかるし、そこでいろいろな落し物も拾っているのであって、そこが今までになかったというか、私の好きなところではあるように思うのだけれど。</p><p>主体なんて、人文科学はつきつめると、ほとんどこの問題に集約されるんじゃないのか。（ちょっと、いや、かなり？おそろしい）たくさん、たくさん、学問はあって、たくさん、たくさん、本が（文学が）あるのに、「え？結局ここですか？また同じ店だなぁ、でもいいか」みたいな感じがしてしまっている、今。（何か書き方が高橋源一郎みたくなってきた、笑）</p><p>でも、どうしても避けられなかったから、先人たちや私たちはいろんな道具（学問、文学）を使って、どうにかその正体を探ろうとしてきたし、していると思う。だから、やっぱりこの問題について、真剣に考えるのも必要だな、と。</p><p>だけど、私はこれをゴールにするんじゃなくて、なにか、他の言い方が出来る様になるといいなと思う。</p>
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<link>https://ameblo.jp/crossroads777/entry-10928352266.html</link>
<pubDate>Sun, 19 Jun 2011 18:50:37 +0900</pubDate>
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<title>『ライ麦畑でつかまえて』J・D・サリンジャー、野崎孝訳</title>
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<![CDATA[ <p>何度読んでもおもしろい。紀伊国屋で原書さがしたけど、みつからなくて残念。アマゾンで買うかな。</p><p>名訳。</p><br><p>「『とにかくね、僕にはね、広いライ麦畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない―誰って僕のほかには。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ―つまり、子供たちは走っているときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃいけないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げていることは知っているよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げていることは知ってるけどさ』」</p><br><p>ホールデンは、自らを「大人」だとしながらも、子どもの世界と同じ地表に身を置こうと欲している。そして、彼は「知っている」、それができないことだと。</p><p>彼にとって社会は「インチキ」に溢れたものだ。</p><p>彼はそんな世界に閉口するよりはむしろ、積極的に語り続ける。魅力的なことは、彼が語り続けることで、現実と夢（ライ麦畑）の乖離がはっきりとしてくるのではなく、混沌としたまま話がすすんでいくことである。</p><p>彼にとってこの回想は意味をなして（機能して）いないように思われる。話はひとつの点から出発し、また同じに点に戻るってくるかのようである。“普通”の小説ならば、語りに意味を与え、その運動によって話を展開させていくだろう。しかし、サリンジャーはそうではない。ただひたすらに、語るのみで、混沌を混沌のままにおくのである。</p><br><p>「海軍さんと僕は、お互いに、お目にかかれてうれしかったと挨拶をかわした。これがいつも僕には参るんだな。会ってうれしくもなんともない人に向かって『お目にかかれてうれしかった』って言ってるんだから。でも、生きていたいと思えば、こういうことを言わなきゃならないものなんだ。」</p><br><p>ホールデンはたとえ「インチキ」であっても、その世界に身をおいていかねばならないことをわかっている。ただそれが具体的な身体的レベルに現れるような小さな行動でしかできないのである。</p><br><p>「この博物館で、一番よかったのは、すべての物がいつも同じとこに置いてあったことだ。誰も位置を動かさないんだよ。かりに十万回行ったとしても、エスキモーはやっぱし二匹の魚を釣ったままになってるし、鳥はやっぱし南に向かって飛んでるし、鹿も同じように、きれいな角とほっそりしたきれいな脚をして、あの水たまりの水を飲んでるはずだ。それから胸をはだけたインディアンの女も、相変わらず、あの同じ毛布を織りつづけてるだろう。何一つ変わらないんだ。変わるのはただこっちだけさ。」</p><br><p>ホールデンは、社会を適切な言葉で語っている。けれども彼は、そのうちにもそとにも、どこにもいないかのようであるからのように思われる。社会の言葉を借りているが、その内部にいるものではない。外部にいて、どこか達観しているかのように語っているわけでもない。</p><p>彼は外の世界を嫌いながらも、常に誰かにコンタクトしようとする。しかし、誰も自分を知らないところへ行って、「唖でつんぼ」のふりをして過そうとも考える。それでも、同じように「唖でつんぼ」だけれどきれいな女の子と結婚して子どもを生み、その子に読み書きを教える…ということまで想像する。</p><p>彼が拒否しながらもつながっていたいと思うものはいったいなんなのか。それは、ひとことで言うならば“社会”であると思う。しかしながら、そのひとことでは片付けられない何かがある。それを表現しようとするならば、ホールデン以上にたくさんの言葉を用いて表現する必要があるだろう。</p><p>ホールデンが拒否しながらもつながりたいと思うもの…。そして、サリンジャーがホールデンの言葉にのせて語りかけているもの。それは、私たちにどういった反応をさせ、そしてその感触を私たちにどう表現させるのか。</p><p>（実は大学のころからずっと考えている）</p><p>これはライフワークになりそうなくらい重要な問題だと思っている。</p><br>
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<pubDate>Wed, 01 Jun 2011 22:52:29 +0900</pubDate>
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<title>『零度のエクリチュール』ロラン・バルト</title>
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<![CDATA[ <p>バルトは本書において、「言語」「エクリチュール」「文体」の３つの用語を使いわけているが、「エクリチュール」の定義については、さまざまに変化している。バルト自身、「考えを変えることなど、呼吸するのと同じくらい当たり前」であると述べている。“零度のエクリチュール”が実現されるとき、言語はユートピアとなると締めくくられている。しかし、“零度のエクリチュール”とはマルクス主義における“革命”のようなもの―だからこそ、ユートピアという言葉が用いられているのだろう―であり、それは実現不可能であって、その不可能性ゆえに語られうるものになっているように思われる。</p><br><p>「言語と文体は絶対的な力であるが、エクリチュールは歴史との連帯行為である。言語と文体は対象であるが、エクリチュールは機能である。すなわち、創造と社会とのあいだの関係であり、社会的目的によって変化した文学言語である。」</p><br><p>エクリチュールとはそれを目的として書かれるというものではなく、その実践によって“結果的に”獲得されるものであるということがわかる。</p><br><p>高橋源一郎（また！）も同じようなことを述べている。</p><br><p>「わたしは、『文学』とか『小説』というものを、いまは、なにか特別に素晴らしいもの、あるいは、芸術とか人間とか豊かさに結びつく何か、ではなく、一つの機械、あるいは、ひとつの概念、もしくは、ひとつの機能として考えるべきだと思っているのです。」</p><br><p>“零度のエクリチュール”は社会構造の変革への希望であるが、それが実現されるとき、「社会の完全に均質な状態」が実現されるが、そもそもそれが実現されてしまうと、その時点から新たなエクリチュールは生れないということになってしまう。社会とは文学の知らぬところで変化し続けているのだから、エクリチュールに終わりはないのだけれど。</p><br><p>「もしエクリチュールがほんとうに中性的になったとしたら、そして言語活動がやっかいで手に負えない行為ではなくなり、純粋な方程式に達して、人間の空隙にたいして代数ほどの厚みももたなくなったとしたら、そのときに『文学』は克服されることになる。」</p><br><p>文学とは克服されうるのか？つまり、“零度のエクリチュール”は可能かという問いである。</p><p>答えはYesである。ただし、エクリチュールはそのうちに言説や文体に吸収されていくため、その瞬間においては実現したかのように見えてはいるが、その中性性は絶えず変化しているのであり、普遍の“零度”ではない。</p><p>つまり、われわれには、“零度”を念頭におき、試行錯誤し続けるという間断なき思考が課されているのである。</p><br><p>では、次回。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/crossroads777/entry-10899426242.html</link>
<pubDate>Sun, 22 May 2011 08:08:34 +0900</pubDate>
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<title>『文学＝イメージの変容』フレデリック・ジェイムソン</title>
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<![CDATA[ <p>「偉大なアメリカ作品は、アメリカ大陸が言ってもらいたがっていながら、自らは言えない深遠なことを言いつつ、同時にそれを言い損なうために、作品はどれも、前作品を別のレベルで繰り返すような、いわば状況の繰り返しなのです。だからロレンスはホイットマンやメルヴィルにおいてクライマックスに達する物語を語ることができるわけで、しかもこのクライマックスは、純粋アメリカ文学の可能性の終焉なのか、それとも単に以前にあったことに繰り返しなのか、明確ではありません。メルヴィルのクライマックスは死です。ホイットマンにおいては生です。しかし、この二つは実質的に同時におこるのです。」</p><br><p>ずっと私の中にある疑問、―文学は反復なのか？</p><p>それは二重の意味を含む。それは、まず文字通り、上記のように過去（歴史という言葉あえて避けたい）の文学をなぞること、もうひとつは、人びとの実践として世界を再構築させる、社会を反復させることを行うものなのかということである。</p><p>文学はある特定のイデオロギーの流布と定着という機能を果たす。それにより、特定の社会構造が再生産される。しかし、単なる反復ではないからこそ、新たな言葉が生れてきたのではないか。ジェイムソンは言う、「文学上の問題となるのは、人は限定された階級の経験の彼方をどうすれば見ることができるかということです。」（今は階級ではなく、階層というほうがいいと思うが）文学は人びとの経験の総体であると同時に、選択可能性の模索であるからではないのか。</p><br><p>「小説は、いかなる形式もあり得ないような形式危機の状況に対する解決策として考え出されたものです。外部世界の&lt;不確定性&gt;にどう対応するか、その形式危機への解決策なのです。個人との関連で、つまり問題をかかえた個人を視野において、その危機を解決しようとする試みなのです。」</p><br><p>私は文学を過信しているのだろうか。ジェイムソンは“新しい”ことを言っているわけではない。これこそまさに反復であるし、それを利用している私の行為自体も反復である。しかし、そうしながらも何かを語ろうとするこの行為は単なる反復と言い切れないと思われるのである。</p><br><p>高橋源一郎は、「『文学』とか『小説』というものは、その長い歴史において、『文学』とは何か、とか、『小説』とは何かという問いに、滅多に晒されたことがない」という。ならば、これを問題化したい。反復を超えて、実践の可能性を模索することがわれわれの課題であると思うのである。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/crossroads777/entry-10898360907.html</link>
<pubDate>Sat, 21 May 2011 10:49:31 +0900</pubDate>
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<title>『ディアーナの水浴』ピエール・クロソフスキー</title>
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<![CDATA[ <p>アクタイオーンは、狩りを終え泉で水浴するディアーナを見ようとさまざまに思考を巡らす。</p><p>しかし、アクタイオーンが見ようとするのは、「裸のディアーナ、赤面するディアーナ、穢されたディアーナ、身体を洗うディアーナ」であって、それらは「模造」であり、ありのままのディアーナではない。アクタイオーンは自己が欲するがゆえに、ディアーナを見ることが出来ないのである。</p><br><p>「ディアーナとアクタイーオンのあいだには、その神学的不謹慎を開始するダイモンが忍びこみ、そして反省（リフレクシオン）の中に映し出されたディアーナをこのようにして横どりするアクタイオーンはすでに、女神の最も内奥の単一性に損傷を加えているのだ」</p><br><p>いや、“ありのまま”のディアーナなどあるわけはない。ディアーナは、アクタイオーンも含めわれわれが欲し、想像する（まさに、想い・像を与える）ことによって、創造されるものであり、われわれが期待するテオファニーとしてのディアーナなのである。ディアーナの処女性はここにあるのではないか？何ものにも穢されない、思考することすら叶わない、まさに「神」という存在であることが明らかであるもの。この神話には「神」は「神」ゆえに、ある不可能性によってわれわれの中に（！）存在するということを物語っている。このように簡潔に言い捨てられるほどこの問題は単純ではないと思うが、秩序が秩序たる所以がこの神話には描かれていると思われたから、このような言葉が出たのだろう。</p><br><p>「出来事は予感の中ではまだ表現可能であったものを吸収してしまうのだ。わたしが見ていたこと、それが何であったのかわたしには言い表せない。なにも、言い表せないようなことはまして理解できるはずはないというのではないし、また理解できないことは見ることができないといのでもない。アクタイオーンは、伝説の中では、彼の見るところのものを言い表わしえないゆえにこそ見るのである。もし言い表すことができたら、彼は見ることをやめるであろう。」</p><br><p>アクタイオーンは、ディアーナの水浴を見ることで鹿に変えられ、犬どもに引き裂かれてしまう。彼はついぞ自分の目にしたことを語ることは出来ないのだ。しかし、ここで重要であるのは、実際に消滅し言葉を発することが出来ないという不可能性（死）ではなく、語りえないという不可能性のことである。</p><br><p>「われわれは生成しつつあるものを表現するための言語をもっていない」</p><br><p>ニーチェも斯く言う如く、言葉は出来事を遡及的にあらわすのみである。しかし、われわれにはこの言語、そういう実践しかない。しかし、だからこそ語ることが重要になってくるのではないか。</p><br><p>ディアーナは言う。</p><br><p>「もしお前にできるなら、してみるがよい！さあ行って言え、お前にそれができるのなら、してみるがよい！」</p><br><p>われわれはこの挑戦をうけなくてはならない。それについて思考＝試行するのだ。</p><br><p>では、次回。</p>
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<link>https://ameblo.jp/crossroads777/entry-10891644690.html</link>
<pubDate>Sat, 14 May 2011 18:19:47 +0900</pubDate>
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<title>『小説読本』三島由紀夫</title>
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<![CDATA[ <p>この中で、三島は理想の小説について以下のように述べている。少し長いが引用する。</p><br><p>　小説の進行は汽車のダイヤのように正確に決定され、読者に与えるおどろきは、一時五分の汽車が一秒のちがいもなく到着することのおどろき、ただ正確さの与えるおどろきであって、それ以外のものでは一切読者をおどろかせぬという決心で構築された小説。未見なもの・思いがけぬもの・突然の生起が、待ちこがれていたものに出会った場合のような自然な感情でえがかれ、未来と過去が小説内部の各瞬間において、磁石のように親しく接吻する小説。作中人物の死に当っては、その棺の大きさと身長とがぴったり合って一分の隙もない小説。作品そのものが一つの大きな感動的な偶然であるために、作品の内部では注意深く偶然性が排除され、どのような偶然の出会いも偶然の動作もなされず、一度たりとも骰子の振られない小説。すべてが星座のように動く小説。貸借対照表のような潔癖な均衡が、終始一貫漲っている小説。</p><br><p>もし、このような小説が書かれたとして、私はそのような小説を好きになるだろうか。</p><p>そのような小説を「小説」と呼べるのか。</p><p>「小説」とは、作者や読者から離れて、自走する力のあるもののことをいうのではないのだろうか。</p><p>計算されつくし、三島のいうところの、「レールの上を走るように規制されている」言葉たちは、そのように使用されることによって、もっと偉大な機能や可能性を失っているのではないかと思われる。</p><p>言葉とは、ときに人の意思（意図）や使途によって変化し、継ぎ目の部分や遊びの部分から芽を出す。</p><p>それを大切に育てたり、そのままほったらかしにして思うがままに成長されたり、そういうところから次なる言葉が紡ぎだされる。言葉に対する態度は真摯でなければならない。三島もストイックではあるが、方向性に違和を感じてしまう。</p><p>クロソフスキーは言う、「&lt;ディアーナの水浴&gt;は外にある、いいかえれば、アクタイオーンはそれを発見するためには、これこれの場所にそれを位置づける必要は少しもなく、われとわが精神から外に出なければならないのである。そのときアクタイオーンの見るものはあらゆる言葉の誕生の彼方に起る、つまり彼は水浴しているディアーナを見、しかも自分が見ているものを言うことができないのだ。たとえ彼が彼女の不意を襲おうという意図を抱いてさまよっていようとも、その彷徨は言葉がそれ以前の状態へさかのぼろうとする溯行のようなものである。」と。言葉とは何ものかを描こうとしてすべりおち、次にうつるときには消え去っていく。言葉はその時点の事象をとらえているように見えるが、それにはこのような不安定さをともなっている。しかし、この不安定性ゆえに、言葉は語られてきたのであり、数々の「小説」が書かれているのではないのだろうか。</p><p>三島は、この不安定性を拒否しているように思われる。そこが、私の感じている違和なのだと思う。</p><br><p>次回は、三島の『文章読本』か、今回登場した『ディアーナの水浴』の予定。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/crossroads777/entry-10889911681.html</link>
<pubDate>Thu, 12 May 2011 22:52:56 +0900</pubDate>
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<title>『しょっぱいドライブ』大道珠貴</title>
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<![CDATA[ <p>世界との関係性について、新たな視点を紡ぎだそうとしているような</p><p>そうでもないような</p><p>何かしらのエネルギーのあるような作品ではないかな</p><p>いや、文学とは必ずしもそうである必要はないのだからそう読むのはよくないだろう</p><p>そういう付いてまわるものから解き放ってくれるものは</p><p>すべて文学と言えると思う</p><p>しょっぱいのが、人間関係から発せられるものではなく、</p><p> 潮のことだとしたら、確かにしょっぱいなぁと思う</p><p>たぶん掛けられてはいるんだろうけど、作品から潮のかおりが</p><p>立つほどではなかった</p><p>と書いているのが、私は文学とはこうあって欲しいという特定の</p><p>視点から語ってしまっているようでいけない</p><p>別に文学は自由をもたらすものと言っているわけではないのだが、</p><p>ひとには何かしら足かせのようなものはあるわけで、</p><p>そこをついてくるものを欲するという文学の捉え方もあっていいよねと</p><p>だからこそ私はものを読んで、それについて語ろうと試みているわけだし</p><p>また話でかくなってきたな</p><p>ではまた</p>
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<link>https://ameblo.jp/crossroads777/entry-10884995138.html</link>
<pubDate>Sun, 08 May 2011 08:10:32 +0900</pubDate>
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