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<title>ドイツ好きのドイツ知らず</title>
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<title>ハイデルベルク　（２）</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;&nbsp; 二度目に訪ねたのは2006年。　このとき、家内は抗がん剤が劇的に効き、マーカー値は、ほぼ正常値に戻りつつあった。心配をかけた郷里に姉や弟達とヨーロッパに出かけたいとの思いが強く、ライン川下り→ハイデルベルク→ロマンチック街道→スイス→パリ ６泊７日（だったと思う）の弾丸ツアーに参加した。</p><p>&nbsp;</p><p>　&nbsp;&nbsp; フランクフルト近くに泊まった翌日、リュデスハイムからザンクト・ゴアまでライン川下りをして、ローテンブルクに行く途中での短時間の観光であった。</p><p>　　 現地ガイド（日本人男性）に、「アルトハイデルベルクの戯曲を、ここでは皆知っているのでしょうか」と聞くと、「何処にでもあった話ですからね」と、気のない返事が返ってきた。</p><p>&nbsp;</p><p>　　&nbsp; 最初に訪ねたとき、家内は犬を連れた知的な面立ちの女性が、カフェで静かに過ごしているのを何枚も撮っている。　ところで、、昔この地に学んだ哲学者天野貞祐は、</p><p>　　「教養ある婦人にして大学の聴講生でなかった者は少ないと聞く。近世哲学史の講義は午前8時より11時までであったが、朝の買い出しの野菜かごを教室の隅において講義を聞いてゆく主婦もいれば、いつも一冊の哲学小辞典を手にして出て来る老人もいた」</p><p>と書き残している。</p><p>　　&nbsp;&nbsp; 写真の主は　その一人のような気がして、3回目に来たとき、逢えｔら渡そうと写真を持ってきていたのだが、当然のことながら果たせなかった。</p><p>　　</p><p>　&nbsp;&nbsp;&nbsp; 目抜きの通りは観光客だけでなく、学生であふれている。戯曲に登場する、出身地名を冠した「ザクセン・プロイセン団」、「ヴェストファーレン団」などの学生同盟は、今も存在するのだろうか。　そうして、戯曲の最後に近い場面で彼らが歌う　「Rueckblick」（回顧）は、いまなお歌い継がれているのであろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　&nbsp;&nbsp;話は戻るが、前夜のホテルで、フロントの男に話しかけたら、私が日本人であることで気を</p><p>許したのか、「父はSS（ヒットラーの時代の親衛隊）だった」と、制服姿の写真を見せてくれた。</p><p>　「格好いい」とまでは言わなかったとは思うが、敬意を表して、うっかりとご法度の右手を挙げてしまった。学生団の現状についてもそうだが、まさにドイツ好きのドイツ知らずである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　　</p><p>&nbsp;</p><p>　</p><p>　</p>
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<link>https://ameblo.jp/danke0321/entry-12153484616.html</link>
<pubDate>Sun, 24 Apr 2016 15:39:10 +0900</pubDate>
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<title>ハイデルベルク　（１）</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;この地を初めて訪ねたのは平成16年11月、家内は乳がんの肝臓への転移がまだ見つかっていない元気なときで、前日に私たちはバンクーバーに住む娘とフランクフルト中央駅近くのホテル「エクセシルオール」で落ち合っていた。夕方のICEでベルリンに向かうことにしていたので、それまでの時間を利用してのことである。<br>&nbsp; IC(特急)で約50分、駅舎は古都に似合わぬ近代的な造りである。「哲学の小径入口まで」と告げ、タクシーでネッカー川を渡ると、小高い丘に続く坂を上りきった辺りで降ろされる。対岸にはハイデルベルク城の下に街並みが広がっている。ゆるやかな上り道を歩くと見晴台があり、アイヘンドルフの胸像があった。私がこの詩人の名を知っているのは、かっての同僚で若き畏友でもある吉田國臣氏から聞いていたからである。</p><p><br>&nbsp; 上流に向かって1kmほど歩くと、川岸に降りる細い道がある。傾斜が急なため雨で土が流され、えぐれていて、しかも夜半に雨が降ったのか、すべりそうになる。道の両側には灌木が茂っていて、空を半分おおっている。その枝を掴んで下りてゆくと、なんと自転車をかついだ男が登ってきた(もしかして自転車泥棒？) 。さらに中年の女性ひとりとすれ違うが、空をおおう木々で空気が閉じ込められて、香水の香りがどこまで降りても残っていた。川岸にたどり着き、アルテ・ブリュッケ(古い橋)を渡ると、もうクリスマスの飾りを売っていて、興味のない筈の家内が買ったのを思い出す。<br>&nbsp;&nbsp; 日本語のメニューがあると書いてある店に入ると、大学教授らしい穏やか風貌の男女が数組静かに話していた。そう、ここはゲッチンゲンと同じく学都なのだ。<br><br>&nbsp;&nbsp; 戯曲「アルト ハイデルベルク」は、私が旧制高校の生徒であったとき、周りでは多くが岩波文庫、あるいは原文で読んでいたと思う。ある小さな公国の皇太子カール・ハインリッヒが、父の後を継ぎ大公の座につくための修業で、この地にやってくる。迎える宿で働く若き女性ケーテイが歓迎の宴で歌うのが、(記憶が薄れあやふやではあるが)<br><br>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;ネッカの川の懐かしき 岸に来ませしわが君に 今ぞ捧げんこの春の<br>&nbsp; いと麗しき花かざり<br>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; いざや入りませわが家に いずれ去ります日もあらば 偲びたまわれ若き日の<br>&nbsp;ハイデルベルクの　幸多き日の学び舎を</p><p>&nbsp;</p><p>である。学生たちの颯爽とした、しかし儚さ青春の日々を背景に、カール・ハインリッヒとケーテイの束の間の愛が描かれていて、ドイツ教養主義が主流だった戦前、本家のドイツよりも日本で、よく読まれていたとのことである（続く）</p><p>、、</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/danke0321/entry-12150933010.html</link>
<pubDate>Sat, 16 Apr 2016 20:34:38 +0900</pubDate>
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<title>ドイツ（語）との出会い２</title>
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<![CDATA[ <p>昭和27年(1952年) 6月頃、ドイツのバリトン歌手ゲルハルト ヒュッシュがNHKの招きで来日、各地でシューベルトの「冬の旅」、シューマンの「詩人の恋」などの演奏会が開かれました。前後して黒人ソプラノ歌手マリアン アンダーソン、ピアニストのアルフレッド コルトーなどが来日、少しずつ戦後が遠ざかってゆきはじめた頃です。サンフランシスコ講和条約の発効直後で、3月末までは、上野・札幌間に、当時としては豪華な連合軍専用列車「ヤンキー・リミテッド」が運行されていました。勿論、津軽海峡は列車ごと連絡船に載せていた時代です。当時私は仙台の大学の３年生（旧制度では最高学年）でした。</p><p>&nbsp;</p><p>仙台市公会堂での演奏会を終えて宿舎の青木ホテル（だったと思います）に戻ったヒュッシュを迎えたのは東北大学独文学科の学生達で、セレナーデを歌って歓迎の気持ちを伝えたそうです。その一人が私の下宿にやってきて、明日駅に見送りに行かないかと誘ってくれました。当時、街はアメリカ一色でしたから独文の学生がドイツの香りに熱狂したのも無理からぬことで、駅には独文の教授までが姿を見せていました。<br>ヒュッシュはひとりひとりと握手をし、“Alles Gute！”(アレス グーテ<br>ごきげんよう）と繰り返しました。私が生粋のドイツ人が話すドイツ語を聞いたのは、これが初めてでした。<br>ヒュッシュは日本を離れるに際し、仙台での学生の歓迎について、特に触れた新聞記事を読んだ記憶があります。</p><ul><li>因みに、ヒュッシュは日本が気にいったのか、その後何度も来日しています。</li></ul>
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<link>https://ameblo.jp/danke0321/entry-12148774003.html</link>
<pubDate>Sun, 10 Apr 2016 15:13:13 +0900</pubDate>
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<title>ゲッチンゲン</title>
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<![CDATA[ <p>ベルリン中央駅から２時間10分ほど、ICE（日本の新幹線に相当）がゲッチンゲン駅にゆっくりと入ってゆくと、駅名の表示板と並んで、Die Stadt Wissenschaft の文字が目に入る。自ら＜学問の街＞と名乗るほどに、この街が、大学と共に歩んできたことに誇りを抱いていることが読み取れ、身の引き締まる思いにおそわれる。</p><p>&nbsp;</p><p>ゲッチンゲン大学には、日本から多くの学者が留学している。明治末期、東北帝国大学理科大学（現東北大学理学部）の開設の際の教授就任予定者がドイツ、英国に留学したが、その多くがここで学んだと聞いている。本多光太郎博士（金属物理学の世界的第一人者）もそのひとりであった。それだからか、その頃から杜の都仙台は日本の＜月沈原＞と呼ばれていたらしい。<br>第二次世界大戦では、英国はゲッチンゲンに、ドイツはケンブリッジに敬意をいだき、空襲をしないとの話し合いがなされていたというが、真偽のほどは分からない。<br>&nbsp;<br>１日券を買い、学生達が待つバスに乗り込む。停まるごとに学生は降りてゆき、樹木の生い茂る山間を走るころ、乗客は私ひとりだけになった。木立の間に研究棟らしき建物が見え隠れし、それは仙台の青葉山キャンパｽを思わせるが、それとは比べものにならないほど広大である。終点は、さらに先きの森の中。バスが折り返すのは３０分後とのことで、ゆるやかな下り道を、歩いて戻ることにする。風は爽やか、小鳥の囀りも聞こえてきて、まさにハイネの詩によるシューマンの＜詩人の恋＞</p><p>&nbsp;</p><p>　　　　　　　麗しの五月 　　　すべての鳥が 　　　　うたうとき　</p><p>　　　　　　　　　　　　私は 　　　彼女に 　　　憧れと想いを打ち明けた</p><p><br>の世界である。<br>車は通らず人影も見えず、休もうにもベンチもない。右手は見渡す限り潅木が生い茂り、左手の森の奥には大学の施設があるのであろうが、建物は見えない。先ほどのバスが、無情にも猛スピードで追い抜いてゆく。<br>やっと辿りついた麓のバス停で、老婦人が時計を見て、私が尋ねもしないのに、３分で来ると教えてくれる。親切なのかお節介なのか、何れにせよ、こちらから聞くのは億劫なので、私は助かる。定刻にバスはきた。大学病院前で下車し、木陰のベンチで休んでいると、気品のある中年の婦人が話しかけてきた。<br>日本から来たと告げると、何をしに？と、お定まりの問いかけとなる。<br>&nbsp;「家内は４年前に亡くなったが、まだ元気だった2005年に、初めての個人旅行でドイツに来た。その思い出の地を巡り、家内を偲ぶのが、旅の目的」と答えるが、この病院で亡くなったのかと聞き返してくる。その思い違いを訂正すると、話題を変えて、「日本では、気候変動の影響は、最近どうなっているか？<br>ドイツでは四季の区別が、はっきりしなくなった」と、難しい質問をしてくる。<br>&nbsp;「日本では、昔から四季ではなく、五季がある。つまり、春と夏の間に、短い期間だが、雨季がある」、「ドイツには ＜四月の雨＞という言葉があるそうだが、日本にも、秋空の変わりやすさをいう言葉に＜女心と秋の空＞がある。<br>＜四月の雨＞も同じ意味で使うことがあるそうですね」と言うと、これは正しく伝わって、「その通り」との返事が戻ってくるが、後が続かず沈黙。<br>そのほかに何を話したかは覚えていない。折よくバスが来て、“アウフ・ヴィーダー・ゼーエン！”で、駅に向かう。<br>往路とは異なる路線で、いかにも学生の街らしく色彩が豊かで、活気のある通りを走る。もう二度と訪ねてくることはないのに、ひとりでは、下車して<br>歩く気にはなれない。でも折角の機会を勿体ないことをしたなと、これを書きながら後悔している。駅前でアイスクリームを買う。量は多いが２€<br>駅前の広い敷地には、汽車通学の学生の、おびただしい数の自転車が、雑然と置かれている。掲示板に「駐輪場を整備したい。ついてはアイデアがあったら、この箱に入れるように」とある。美観を損ねないで収容するには地下に設けるしか手立てはないだろうなと思ったが、それから４年が経つ。どのように様変わりしているであろうか。　</p><p>&nbsp;</p><p>この季節は、夜９時頃まで明るく、ベルリンに戻るには早すぎる。昔からの木組みの家並みで観光地となっているハン・ミュンデンという近郊の町まで行ってみようと駅の案内所で聞くと、発車時刻と番線を手書きしてくれる。ジャーマンレイルパスで乗れるとのこと。<br>車内は当然のことながら、ほとんどが学生であるのだが、誰もがハードカバーの本を読んでいるか、ノートパソコンに向かっていて、話し声は聞こえてこない。日本では見かけることの少ない光景である。いまでも、本がiPhone に代わっていることはないのではないか。<br>乗ること約４０分。駅から出ても木組みの家並みらしいものは見当たらない。でも、昔から汽車に乗ることだけが好きな私は、この地に来ただけで満足。次の列車で引き返しゲッチンゲンでICEに乗り換え、ベルリンに戻る。<br>宿は中央駅の隣駅「フリードリッヒ通り」から歩いて１０分、ウンター・デン・リンデン通り近くのＮＨ。ロビーのソフアも薄汚い安宿だが、私には似合いの宿。 メモには「駅の売店で買ったレバー・ケーゼとワインで、遅めの夕食。＜学問の街＞の文字が、頭を何度もかすめた一日が終わる」とある。</p><p>&nbsp;</p><p>レバーケーゼとは：レバーでもなければ、ケーゼ（チーズ）とも異なり、ミンチした肉（高級店は別として、駅の構内で売っているのは、何の肉か分からない！）に香料を加え厚さ１cm ほどに固めて焼いたもの。塩味がきつい。熱々で食べると美味しいが、体には良くなさそう。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/danke0321/entry-12147265700.html</link>
<pubDate>Wed, 06 Apr 2016 10:10:47 +0900</pubDate>
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<title>フランクフルト アン デア　オーダー</title>
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<![CDATA[ <p>私が、この都市の名を初めて耳にしたのは昭和21年、旧制高校二年生のドイツ語の授業で、「ドイツには、フランクフルトという名の街が２つある。フランクフルト アム マインと、フランクフルト アン デア オーダーである。フランクフルﾄとは、船着場、浅瀬の意味、つまり オーダー川の船着場」と聞いたときである。（注）<br>また、当時、口伝えに覚えた明治時代の軍歌「ポーランド懐古」の一節に</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;寂しき里にいでたれば&nbsp; ここは&nbsp;&nbsp; 何処とたずねしに<br>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 聞くも哀れやその昔&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 滅ぼされたるポーランド</p><p>&nbsp;</p><p>がある。明治25年（1892年）、駐在武官としてベルリンに赴任していた福島安正少佐は、帰国に際し、ベルリンから、単騎（馬橇？）で、シベリアを横断し調査を行った。これは１年４ヶ月に及んだ、その苦難の道中を描いた国文学者 落合直文の連詩の一節である。<br>私は口ずさむ度に、この都市の名を思い出していたが、初めて訪ねたのは、平成８年12月である。この年の夏、妻は３０数年前に切除した乳がんの再発で、３年間の闘病の末、他界していた。<br>治ったら、ドイツのクリスマス市を見に行こうと話し合っていたこともあって、独り立ちの契機とすべく、ベルリンを訪れた。<br>初冬の季節、小雪の舞う街には、早や、クリスマスの飾りつけが始まっていて、人影はまばらながら、メリーゴーラウンドも動いていた。日本人向けの土産物店「きむらや」の近くで、現地ガイドをしている日本人女性に声をかけられた。案内している日本人団体客の一人と間違えられたからで、旦那さんはＤＢ(ドイツ鉄道)バスの運転手、明日は二人とも仕事がないから、行きたい処があれば案内するという。私は、ためらうことなく、この街の名を口にした。</p><p>この街は、ベルリンの中心部から車で２時間ほどである。その時のメモには、彼女の話として、「東西分断の時代、東ドイツの街は荒れ果てていたが、復興税を設けてインフラを整備し、戦火で破壊されたままであった建物を再建したので、街は昔の姿を取り戻したが、働く場所はなく、職を求めて旧西ドイツに出て行く。この街も、その一つで、人口は、かっての半分の８万。 失業率は２５％だが、最低生活は、失業手当その他で保障されているので、路上生活者はいない」とある。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>オーダー川を渡ると、そこはポーランド。しかし、ある時期から第二次世界大戦終了時まではドイツ領で、敗戦でポーランドに割譲されるという、歴史に翻弄されてきた土地である。地名はスウビッエ（Stubice)。レストランでのメニューは、当然のことながら、ポーランド語。選んだ田舎料理は、スープ、サラダ、肉料理、パンとコーヒーで1200円程度であった。当時、国民ひとり当たりのGDP はドイツの1/５以下と、かなり貧しく、治安も良くなく、ドイツで自動車が盗まれたらポーランドで探せば見つかると、揶揄されているとも聞いた。<br>&nbsp;.橋上では、買い物袋を提げてドイツ側に戻ってくる人とすれ違う。通貨も言葉も異なるのは当然だが、ＥＵ加盟国なので往来は自由。ただ安い煙草を、ドイツから大量に買い付けに来るのを防ぐために、橋のドイツ側のたもとに検問所が設けてあった。<br><br>この街唯一の高層ビル「オーダー ツルム」の最上階（２５Ｆ）のレストランから眼下に広がる街の佇まいは、息をのむ美しさである。<br>&nbsp;<br>案内してくれた男性は旧東ドイツ出身だそうで、「壁のあった時代には戻りたくはない、でも、あの頃が懐かしい」という、典型的なオスタルギー＜ノスタルジーをもじって東（オスト）に対する郷愁＞の持ち主なのか、帰途に連れて行かれたところは、第二次世界大戦の末期、ソ連軍がベルリン攻略の際に基地にしたところで、ソ連の兵士が独軍の戦車を踏みつけている像や、ソ連の兵器が展示してある。<br>ソ連軍がベルリン市民に、いかに暴虐の限りを尽くしたかは、記録を読んでいて、思わず本を閉じたくなるほどなのに、いまだに それらを撤去出来ないのは、ドイツのおかれている状況を象徴しているのかどうか、問いかけることは出来ても、先方の話は聞き取れない。メモの最後に、「八十の手習いは 日暮れて道なお遠しの思いだけが残った５日間の旅」と書いてあるが、それから８年経っても、言いたいことは口に出来ても、聞き取る力は無い。<br>、<br>ベルリン中央駅から普通列車で2時間ほどのこの街を、私は、その後二度訪ねている。<br>ベルリン発のワルシャワ行きは、すべてこの街を通り、現在は日に8本も。他に３０分～1時間間隔で普通列車がベルリンとの間を結んでいる。<br>日本ならば、観光案内所は駅前にあるが、ここは、駅から私の足で２０分ほどの処にある。この街に限らず駅から離れて案内所がある街は少なくない。（ドレスデン 0.3km<br>トリア 1km ）。なお、旧東ドイツ地域は街が整備され物価も安いので、年金生活に入った老夫婦が移り住んでくる例も多くなったと、テレビで紹介するのを聞いたことがある。EUで経済的には、ひとり勝ちを続けている国である。いまは少しは活気のある街になっているかも知れない。</p><p><br>注）これは私の記憶違いで、正しくはフランク族の使っていた船着き場らしい。</p>
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<pubDate>Sun, 03 Apr 2016 16:11:13 +0900</pubDate>
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<title>ドイツ語の小話１</title>
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<![CDATA[ <p>私は今日、89歳の誕生日からブログを始めることにしました。書くからに<br>人様に読んでいただきたいと思うものの、私は緑内障が進行しでいて、読み書<br>きは億劫になりました。かって私の若い同僚が、「貴方は緑内障よりも、もっと<br>心配な病気がある。それは人がヨクナイ（良くない）症です」と。<br>このような「語呂合わせ」を他国語に翻訳して笑わせることは難しいと、故米原万里は実例を挙げて書いています。</p><p>しかし私には、次のようなことがありました。＜ヘーレンとダーメ＞の話です。<br>その昔ドイツを訪ねた日本人がトイレに入ろうとしたが、男性用のドアに＜Herren へーれん（入れない）＞と書いてあるので、「そうか ここには入れないのか」と思い、隣のドアを開けようとしたが、そこは女性用で＜Dame だーめ（だめ）＞とあるので諦めたという話。<br>これをStuttgart の知人Rに、つたないドイツ語で話したら、笑いが止まらないのです。涙を流しながら「こんなに笑ったのは久しぶりだ」と。<br>これは極めて例外のことで、ドイツ語に限らず西欧の小話は、私の知る限りストーリーのあるものばかりで、したがって、必ず「落ち」があるのは落語と同じです。ただし古典芸能に関心のある知人に指摘されるまで、私は迂闊にも気が付きませんでしたが。<br>その例として、米原万里のエッセイに引用されている小話の中から１つを紹介します。ご存知の方が多いかも。</p><p>ある男が医者を訪ねてきて悩みを訴えます。<br>男 「毎晩、変な夢を見て眠れないんです」<br>医者 「どんな夢を？」<br>男 「たくさんのネズミが現れ、二手に分かれてサッカーをするんです」<br>医者 「では、寝る前に、この薬をおのみなさい。ぐっすり眠れますよ」<br>男 「飲むのは明晩からで いいでしょうか？」<br>医者 「なぜ？」<br>男 「今晩、決勝戦があるんです」</p>
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<pubDate>Sun, 03 Apr 2016 12:18:04 +0900</pubDate>
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<title>ドイツ語との出会い１</title>
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<![CDATA[ <p>私が小学生のとき、父は慈恵医大予科（今は消滅した教養課程に相当）の教師をしていました。予科校舎のすぐ近くに住んでいたので、私が学校から帰ると、何人もの生徒が縁側に腰掛けたり、座敷に上がりこんで議論を戦わしていたのを思い出します。彼らの会話では、オペ（手術）、ルンゲ（肺）、シャッテン（影）、デメンチャ（痴呆症）などのドイツ語が飛び交っていました。</p><p>小学校への通学路に、この辺りでただ一軒の統文堂という本屋があり、時折「ノイエ ザッハリッヒカイト入荷しました」と張り紙がしてありました。Neue Sachlichkeit が、新即物主義（当時のドイツの芸術思潮）だと知るのは旧制高校生になってからですが、予科生徒の年齢（17歳～20歳）で、ドイツ語での雑誌を読む者がいたことが分かります。<br>日独防共協定締結を祝して、昭和13年12月、当時としては珍しいプロペラが４つのドイツ機が飛来しました。出入りしていた学生が、ベルリン中央郵便局気付で「私は飛行機が大好きな日本の少年です。資料を送ってください」と英語で代筆してくれて、帰途につく機に託しました。２機で飛んできていたのですが、その１機がマニラ湾に不時着し海中に沈んでしまい、郵便物は先方に届かないだろうと諦めていましたが、忘れた頃に分厚い郵便物が届きました。当時のドイツが誇る戦闘機メッサーシュミットの設計図、ルフトハンザ航空のパンフレットその他であったと記憶します。ドイツ人のこの律義さを、私は何度も見聞きしますが、それは追々紹介します。</p>
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<link>https://ameblo.jp/danke0321/entry-12146194139.html</link>
<pubDate>Sun, 03 Apr 2016 12:16:43 +0900</pubDate>
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