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<title>平南ホテルや、その他、いろいろ考察</title>
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<description>平南ホテルや、その他、いろいろ考察</description>
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<title>トラクター卸（農業用）について説明＆紹介</title>
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<![CDATA[ 私は少しでも異なったことをいう人の名をなるべく多く記憶したり、ちょっとでも新しいことを書いた書物の題をなるべくたくさんに暗記して、ただそれだけでいわゆる旧思想が完全に破壊され得ると考えていたらしい。<br>　私の懐疑は私自身の苦しい思索の結果というよりもむしろ私の断片的な知識の蒐集に本づいていた。しかしさらに悪いことは、私は私が懐疑主義者であるがゆえに私は他の人たちよりも優秀な人間であると思っていたことであった。私はひとかどの思想家のつもりで他のまじめに学業に励み教訓に忠実な人々を蔑んだ。私たちがそれらの人々を呼んだ名は「古い頭の男」もしくは「意気地のない男」というのであった。けれども懐疑主義はどんな理由からでも他人を攻撃することができないはずではないか。懐疑主義が売物にされることほど不合理なことはない。懐疑主義はそれが正当に解された場合においてさえ語られざる哲学においてのみ許され得る思想である。いまから考えてみればあの時代の私の懐疑は新思想を担ぎ廻って新しがらんがための懐疑であり、自己の虚栄心に媚びんがための、あるいは人が自明のことと承認していることをも疑い得る能力が私にあることを示さんがための懐疑であったように思う。
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<link>https://ameblo.jp/dd15w2d5/entry-11421537074.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Dec 2012 20:16:37 +0900</pubDate>
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<title>グリップシフトについて思う</title>
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<![CDATA[ 彼の性格が詩人であるか無いかは、彼が詩人振って［＃「振って」に傍点］自己解釈し乃至自己待遇する――個人の自覚されたる［＃「されたる」に傍点］歴史的運動に寄与する――ことによって決定せられるのではなくして、却って他の人々が彼を詩人として理解するのを媒介として彼の特色を理解する――個人の自覚されざる［＃「されざる」に傍点］歴史的運動に寄与する――ことによってのみ決定せられるのである。実際個人は自己の性格を自覚しようとすることによって、却って振る［＃「振る」に傍点］ことが出来る危険をもつ。この危険をもたないためには彼は自己を公平に客観的に見なければならない。そして恰も之は他の人々が彼の性格に与える理解――但し無論正しい理解――との一致に外ならない。さてそうすれば人々は自己の性格を常に他の人々によって理解され又待遇された限りの性格と一致せしめなければならない道徳的任務を有っていることとなる。自己はその自由にも拘らず、否自由によってこそ、自己を単なる一つの事物と同じ資格をもつ一個人として理解し又待遇しなければならない＊。自己［＃「自己」に傍点］の歴史的運動はそれ故単に個人［＃「個人」に傍点］の歴史的運動に外ならず、又そうなければならぬことが帰結する。この歴史的運動に寄与するものが自己の、実は個人の、性格であるのである。個人の性格はそれ故一般に、前に述べた通り――事物の夫れと同じく――時代の歴史的運動に終局的に帰着し、或いはしなければならない。
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<pubDate>Thu, 22 Nov 2012 08:35:32 +0900</pubDate>
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<title>かみそり製造について思う</title>
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<![CDATA[ だが物質はどこでも消滅などしてはいない。電子や原子核――それは物質自身である――が無くなったということを吾々は何処にも聞かない。では物質自身は無くならないまでも、物質の概念が無くなったのであるか。併し現にそう云っている物理学者自身が、物質という概念を捨てていないではないか。物質自身でもなければ物質の概念でもないとしたら、一体何が消滅したのであるか。――消滅したものは、従来の物質の概念［＃「従来の物質の概念」に傍点］に過ぎない、ただ夫だけである。従来の物質の概念が消滅して、新しいもはや物質という概念ではない概念――例えばエーテルとか場とかエネルギー・波動・確率等々――が之に代ったように見えるまでである。処が之等の諸概念も新しく把握され替えなければ、従来の物質の概念の代用物にはならぬ。即ち夫は物質の概念にまで把握され替えられねばならぬのである。だから、物質という概念が他の概念に還元されて了うのではなくて、却って他の諸概念が物質概念として、造り替えられたのである。――物理学的な物質概念は新物理学に於ても亦決して消滅していない＊。
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<link>https://ameblo.jp/dd15w2d5/entry-11403965999.html</link>
<pubDate>Wed, 14 Nov 2012 07:04:16 +0900</pubDate>
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<title>AMBIENCEや、その他、いろいろ考察</title>
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<![CDATA[ 併しプロレタリヤ文学の台頭と新しい文芸批評の台頭とは、世界各国に於て全く同時期であった。フランス唯物論時代は過去の最もいい例である。フランス文芸批評の伝統が打出されたのは古典作家達の盛大時と同時代であった。ドイツ・ロマン派の時代は批評と創作とが一致した時代だったと考えていい。なるほど批評は近代に至って次第に著しくなって来た文化現象なので、例えば古代ギリシアのプラスティック作品の時代には批評はなかったとも云われる。がその反証は容易に挙げることが出来よう（例えば井島勉氏「批評の芸術史的意味」――『哲学研究』二六八―九）。クリティシズムを創作活動の衰えのように見るのは、クリティシズムを創作活動と全く共通性のない本質から発するものと見るからであり、従って之を創作活動の最も卑屈な奴隷と見るか、又は逆に最も苛烈な刑執行人と見るか、する、からである。だが言葉は凡ゆる人間活動に伴っている。それは最も普遍的な表現形式だ。だから制作活動が旺盛であればあるほど、言語活動としてのクリティシズムも隆盛になる、と考えた方がはるかに自然で公平だとも云える筈ではないか。<br><br><br><br><br><p><a href="http://jfdosokb.jugem.jp/">住宅ローンについて</a></p>
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<link>https://ameblo.jp/dd15w2d5/entry-11402707041.html</link>
<pubDate>Mon, 12 Nov 2012 17:28:39 +0900</pubDate>
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