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<title>debatepotterのブログ</title>
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<description>ディベートについて稀に発言をします。</description>
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<title>&quot;Membership and Political Obligation&quot;</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;&nbsp;Scheffler, S. (2017). Membership and Political Obligation. Journal of Political Philosophy, 26(1), 3-23.</p><p>関係的責務論に関しての比較的新しい論文です。だいたい引用後の分は訳文ではなく適当に言い換えてますし、誤訳はあるかもしれないですね。</p><p>&nbsp;</p><p>1 要約</p><p>重要な部分だけ。</p><p><i>The central idea is that to value one’s relationship with another person non-instrumentally just is (in part) to see that person’s needs, interests, and desires as providing one—in contexts that may vary depending on the nature of the relationship—with reasons for action that one would not otherwise have, and with which the needs, interests, and desires of other people do not provide one.</i></p><p>AがBとの関係を非機能的に正しいと評価することは、Bの必要、利益、望みがAに行為の理由―Bとの関係がなければAが持つことはなかったような理由であり、B以外の人の必要、利益、望みであればAが持つことはなかったような理由―を与えるものであると捉えることである、というのが中心的な考えである。</p><p>・これを筆者は「関係依存的理由（relationship dependent reason）」と呼ぶ。その行為や関係が機能的に良いからではなく、相手との関係そのものを理由に、それ以外の相手にはしなかったような行為を時に人はする。（例えば見知らぬガキにお小遣いを挙げる気はなくても孫にはお小遣いを挙げたくなってしまう）</p><p>&nbsp;</p><p><i>Many relationships are in fact valuable, and when we participate in such relationships we are correct to value them. This means we are correct in seeing them as sources of reasons for action. Participation in a valuable relationship is a source of relationship-dependent reasons.</i></p><p>価値ある関係の中に生きているとそれを評価するので、価値ある関係は関係依存的理由の根拠になる。</p><p>人は関係だけではなく集団や共同体の構成員であることにも価値を感じる。個人的関係がない相手にも同じ集団の構成員としての価値を感じることができる。この構成員としての価値の評価は非機能的。集団が機能的に価値あるとしても、それとは独立して非機能的な価値を与えることができる。これを成員依存的理由（membership dependent reason）と呼ぶ。</p><p>&nbsp;</p><p><i>In general, membership-dependent reasons are reasons for doing one’s share, as defined by the norms and ideals of the group itself, to help sustain it and contribute to its purposes.</i></p><p>「成員依存的理由はある集団の構成員が集団の規範や理想によって定められたのに従って、集団の維持や集団の目的に貢献するのを助ける責任の一端を担う理由である」（Scheffler 2017, 6）</p><p>・成員としての価値を認めるということは集団の規範に従って行為する理由を提供する。</p><p>・最優先の理由を提供するわけではない。他の考慮によって覆されうるが、他の集団が提供しない理由を提供しているというのは確か。理由は解除可能（defeasible）である。</p><p>&nbsp;</p><p>⇒ここまでで関係依存的理由、成員依存的理由が実際にどのように働いているかを示しており、大事なのはこれらを責務に媒介する次のステップ。なぜ関係依存的理由、成員依存的理由が義務に結び付くか。</p><p><i>If I fail to act on compelling relationship dependent reasons to respond to the needs of a friend, then I have wronged him and he is entitled to complain and to hold me to account. He is entitled to do these things because, as participants in a valuable relationship, each of us has reasons to act in behalf of the other in certain contexts, and each also has reason to form certain normative expectations of the other and to complain if those expectations are not met. In particular, each is entitled to expect that the other will act in his behalf in certain contexts.</i></p><p>関係依存的理由を無視して行為した場合、相手はそれについて文句を言い、説明を求める資格がある。ある文脈において、価値ある関係の参加者は他の誰でもない自分が行為する理由、そして相手がそう行為することを規範的に期待するに足る理由、その期待が満たされなかった場合に文句を言う理由を持つ。</p><p>・関係依存的理由に基づいて行為する理由があることの裏返しとして、そう行為することを規範的に期待するに足る理由があることを導出している。（視点の変換）</p><p>・こうした期待を無視することを正当化するような片務的な理由を個人は持たないため、関係依存的理由・成員依存的理由に従って行為する理由が生まれる。</p><p>・相手の期待を無視する理由に関して説明責任が生まれるのだから、まずは相手の期待に従う（＝関係/成員依存的理由に従って行為する）一応の理由が生まれる。</p><p>&nbsp;</p><p>これを政治的責務に応用すると</p><p>①政治社会の成員（資格）は非機能的に価値を持つ。</p><p>②社会の法は構成員の行動の規範の中に位置づけられる。</p><p>⇒この2つが成り立てば成員依存的理由を法に従う理由に適用できる。</p><p>③こうした法に従う理由が法に従う義務に値するものである。（理由≠義務）</p><p>以上の3つで一応の遵法義務が成り立つ。</p><p>&nbsp;</p><p>これらの条件を以下で検討していくが大して重要な記述がなかったのでここだけ。</p><p>③遵法理由は義務に値するか。</p><p><i>One is obligated because one does not have the unilateral authority to disregard one’s membership-dependent reasons. One cannot waive the entitlement of others to complain and to hold one to account if one fails to act on them</i></p><p>成員依存的理由に従って行為することへの他者の規範的期待や説明要求を無視する資格がないので、この理由を持つことは義務に値するといえる。</p><p>&nbsp;</p><p>2 コメント</p><p>　従来の関係的責務論は「なぜ関係が責務の根拠になるのか」という問いに十分答えられていなかった。特に結局は関係論ではなく受けた利益に対して応じるべきという感謝論やフェアプレイ論、あるいは同意論に還元されるだろうという還元主義の批判に対して答えられていなかった。これは主に行為する人自身の視点（のみ）から責務を説明しようとしたことゆえの限界だったといえるかもしれない。</p><p>　Schefflerはそこで視点を変換して、法に従って行為するだろうという「他者の合理的、規範的な期待」を媒介することで、遵法の一応の理由や義務を提供しているところが新しく、面白い。「①他者と何らかの関係がある②その関係は他者が何らかの行為に関して規範的な期待を抱くに値するものである③その他者の期待を裏切る資格を持っていない」という論理構造で、見事に関係から責務を導出していると評価できる。少なくとも従来の理論に比べて優れた説明だろう。</p><p>　しかし第一に、やはり還元主義の批判に完全に応答できていない部分がある。筆者は責務を導出するための関係の価値は機能的ではなく、非機能的であることを求めているが、成員資格が非機能的に価値あるという記述は正直証明が足りない。関係が機能的な価値である場合、結局のところフェアプレイ論などに還元されることを危惧しているのかもしれないが、ここであえて関係的責務にこだわる必要はあるのだろうか。「成員依存的理由に従って行為してくれると期待する規範的理由がある」というのが義務の根拠になっているとして、別に純粋に「ある政治社会で法に従って行為してくれるように期待する規範的理由がある」も成り立つ以上、これに単純化して責務を説明する方針も妥当なのではないか。なぜ一度関係を媒介したのか、おそらく個別性要請にこたえようとした結果だと思われるがより詳細な説明が欲しいところだ。</p><p>　第二に、他者の期待を無視してはいけないという義務が果たしてそれほど強いものなのかもよくわからない。ノージックがフェアプレイ論に対しての批判に用いる「列に並んで後ろの人を笑かし続けてるアレ」とか「町内で交代でみんなラジオDJやる習慣のあるアレ」とかの話はここにも使えそうな気がした。ノージックは「利益を受けているからと言って義務はないでしょ」という目的であの例を出しているが、同じ例から「他者に期待されているからといって義務はないでしょ」とも言えそうである。</p><p>　ただ人の倫理的直観やよくわからないアナロジーに依拠していた従来の関係的責務論に比べると、他者の期待というそれなりに重みのある正当化根拠を持ち出した点で評価できる。これを関係的責務論に限定して適用する必要は必ずしもないとは思うが、視点の変換という技は時に政治的責務論の新たな地平を開拓しうるかもしれない。</p>
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<link>https://ameblo.jp/debatepotter/entry-12371957086.html</link>
<pubDate>Sat, 28 Apr 2018 20:37:42 +0900</pubDate>
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<title>Two Kinds of Climate Justice (Caney, 2014)</title>
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<![CDATA[ <p>　読書メーターでは本や論文の詳細な感想をログに残せないので、こちらのブログを利用しようと思います。誰かに読んで欲しい！というよりは純粋に読んだ本や論文について記録を残しておくようにしたい、というモチベーションです。あとは公開しておくことで監視されてやらなきゃいけない感をちゃんと出し、自分にプレッシャーをかけることですね。全体を要約する、というよりは読んでて僕が気になったところについてメモを残す感じです。</p><p>　基本的には授業で扱った論文や本が多いと思います。特に今学期は。まずはGlobal Justiceについてのゼミで扱っている論文から。</p><p>Caney, S. (2014). Two Kinds of Climate Justice: Avoiding Harm and Sharing Burdens.&nbsp;<i>Journal of Political Philosophy,</i>&nbsp;<i>22</i>(2), 125-149. doi:10.1111/jopp.12030</p><p>&nbsp;</p><p>　まず筆者は環境問題、特に気候変動の問題については負担の公正な分担について論じる分配的正義っぽいアプローチと、気候変動で起きてしまう大惨事を避けるために如何に責任を割り当てるかといった視点からのアプローチに大別され、両者の正義の間にある種のトレードオフの関係が成立することに触れつつ、従来後者についてのアプローチが少なかったことを指摘します。</p><p>　これはいい指摘だと感じました。多少環境問題に関する事実認識に依存する部分もありますが、分配的正義っぽい側面だけでは語れない固有の点があるのだなあと伝わってきます。こういう正義の区分の仕方は他の分野にも応用できそうですね。要は「負担の公正な分担とか言ってる前に、とにかくこの惨事避けるのは最優先や！」みたいな事情が直感的に伝わってくるようなケースでは応用可能な区分なので、戦争のお話、人道介入のお話でも行けそうですし、「政治について決定の時間は無限ではなく、何か異論があってもスピーディーにある程度決めていくことは大事」という文脈をしっかり一般化した上で、政治的決定についてはこうした分配的正義だけでは語れない側面があるんだ、というお話にも使えるかもしれません（ちょっと離れすぎているかもしれませんが）。とにかく、「何か切迫した大惨事を避ける」必要性のあるテーマでは、分配的正義の側面からの批判にしっかり応答していけるんだって筋道を頭の中に持っておくのは大事だなと思いました。</p><p>&nbsp;</p><p>　前半の「国際的パレート効率」と「犠牲なき気候変動の防止」への批判は特に書くことないです。そもそも大したことない議論だし、筆者の出している反駁で十分ですし。いかに筆者のメインの主張をまとめつつ、思ったことをいくつかメモします。</p><p>　筆者は気候変動の防止にかかわる負担の分担について、これを一階の責任（first-order responsibility）と二階の責任（second-order responsibility）に分けて考えます。前者は気候変動を防ぐ行為をする直接の責任を指し、後者は一階の責任がきちんと果たされるように監督する責任みたいなものを指します。二階の責任については論文中で細かい分類やそれを担うアクターが示されていますが興味ないので触れません。一回の責任が果たされるよう「強制する責任」「動機づけの責任」（国家や国際機関など）や「規範を創生する責任」（カリスマ的個人、詩人、小説家など）などいろいろでてきます。まあいろいろあるし、その二階の責任を負うのが国だけじゃなくて全く関係なさそうな個人にもなりうるっていうのが大事です。</p><p>　正当化根拠がすごく大事ですが、これが結構弱めです。Power/Responsibility Principleという原理を持ち出しています。二階の責任を果たす力があるなら、その責任を負うのだという原理です。①気候問題が緊急の問題②ある個人（ないし機関）の力は問題の解決に有効③その役割を代替する存在が希少④二階の責任を持つ人が、それに対抗するより大きな別の責任を持たない、という理由で正当化されると筆者は述べています。大惨事を避けることにpriorityを置いて頑張って個人に重い責任を負わせたって感じがしますね。</p><p>　筆者は一応ありうる反論②として「コストが過大だ」というのを取り上げていますが、いうてそんな大きくないとか、その人がコストを回避するのは別の人に大きなコストを課すことだからダメだとか、責任を果たした後に保障を求められるのに対し、気候変動で死んだ人は保証できないから優先されるのは後者とか、いろいろ言ってます。まあ結論としてはこの反論②が、筆者の想定よりももっと大事な部分でしょって思いますし、少なくとも筆者が定式化したPower/Responsibility Principleの欠陥は明らかにしていると思います。</p><p>　分析系の政治哲学の議論をしてるので、せっかくなのでそれっぽい思考実験でも出してみます。「すごく弁論術に長けていて、カリスマ性もあって、環境問題に関する規範を創生するにはこいつが最適で、彼がやらなきゃ他にはできない！ってレベルで才能に溢れたAさんがいる。けれども彼は環境問題に関わっていく運動かなんかより、地元で平穏に教師をやりたい」みたいなときに、この二階の責任は彼に環境問題の運動家たらしめることができるほど強いか？と問われると答えはNoだと思います。</p><p>　筆者は過大なコストは課さないこと、みたいな留保をつけているつもりなんでしょうが、少なくとも「二階の責任を持つ人が、それに対抗するより大きな別の責任を持たない」みたいな条件だと、個人が自分の望みとしてやりたいこと、みたいな点は絶対無視されちゃう気がするんですよね。気候問題の回避をすごく大事な責任だとすると（実際筆者の論はそうしてる）、「行為する人が個人的にやりたいこと」はそれに釣り合うほどの「責任」を発生させているかっていうと微妙な気がします。</p><p>　ここで「環境問題に時間を充てるより、その時間でポケモンをやりたい弁論の才能に溢れたBさん」を引き合いに出して考えてみると、それなら気候問題に関わる責任優先してもいいのでは？と言われると直観適合的ではあると思います。ただBさんのコストは許容されて、Aさんのコストは許容されないことを正当化しようと思うと、</p><p>1) 少なくともPower/Responsibility Principleでは「責任の衝突」しか考慮していなかった点を改めて、個人の選好レベルで衝突したときに、一定程度「環境問題に関わりたくない」という選好を優先して、その選好の強さや理由とコストを相対化して評価しなきゃいけなくなる。結局はコストの程度問題に後退し、客観的な基準を提示するのも難しい。</p><p>2) Aさんの理由とBさんの理由の差別はある種、卓越主義的でリベラルの中立性には反する。「この選好は二階の責任を免責する程度に正しくて、あの選好は免責できないレベル」みたいな判断を国がやるのは、諸個人の自由な生の構想に介入しすぎで許容できない。</p><p>3) 義務のレベルではなく、あくまで強制力等は伴わない「責任」のレベルで論じていたとして、この責任の構想が果たす役割が不明。結局何の影響も与えないのでは？</p><p>という問題が生じるかなーという感じですね。</p><p>　一階の責任と二階の責任を区分けする構想は面白いと思いますし、国家や国際機関等のある種の自主選択や公共性が伴う人たちの責任構想としては上にあげたような批判も当たらないのである程度機能すると思っています。とはいえやっぱりなんでPower/Responsibility Principleが成り立つかは証明が薄いですね。さっきの極端な事例（教師になりたいAさん）を考えてみて成立しない場合、当該原理の正当化に当該原理以外の理由（例えば議員なら「自分で選んだ職だから」「公共性が問われる職種だから」など）を持ってきてるってことになると思います。</p><p>　次回以降も読んでる人がいるかは知らないけど適当に感想をつらつら書こうと思います。ログを残してみて書いてる途中に思うことも出てくるので、やっぱり読んだら記録に残す、というのは大事ですねー。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/debatepotter/entry-12369597772.html</link>
<pubDate>Thu, 19 Apr 2018 15:07:40 +0900</pubDate>
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<title>”実行可能性”について思ったこと。</title>
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<![CDATA[ <p>　あまり定期的に記事を書こうという意思はなかったのですが、「理想論パラダイムみたいな話が取れたとして、そのパラダイム上で財源の議論の排除とかDA排除みたいなアファのやりたいことはできなくね？」みたいな方面の応答が多かったので、そちらについても少し触れておこうかなあと思います。最終的に今回のベーシックインカム論題において財源の議論を排除できるという主張を支持するみたいな論考ではなく、ディベート上での”実行可能性”って何なんだろうってことをシーズン中に読んだエビデンスを紹介しながら考えつつ、それと関わって”論題を肯定する”とはどういうことなのか、思ったことを書こうと思います。</p><p>　例のごとく特に結論を出さずに思ったことを丸投げしながら、いろんな人の意見を聞く起点づくりにしようというモチベーションで書いてます（これを言えば分析が多少拙くても許されると思っている節がなくもない…）。まずTwitter上とかでいろんな人が書いてくれた批判や意見を要約しつつまとめます。このへんの話はTwitter上だと流れてしまって残りにくいので、ログの機能としても。そのあとで、”実行可能性”とは何なのかということについて、政治哲学の論争（俗にいうロールズ・コーエン論争というやつです）を参照しながらディベートと絡めつつお話しできたらいいなあという感じです。最後にもう一枚試合で読んでいた（反駁次第で読むことがあった）エビデンスに触れつつ、それを入り口に”論題の肯定”とは何かについて、思ったことを書こうかなあという感じです。例のごとく資料や立論中からのの引用があれば<span style="font-style:italic;">斜体</span>でやります（情弱なのでなんかいい感じに箱みたいなやつにいれたりするやつのやり方が分からない…）。</p><p>&nbsp;</p><p>1) 理想論による論題肯定に寄せられた批判</p><p>・財源は後で考えればいいという立場は、あらゆるDAは後で考えればいいという立場にならないだろうか。後で考えざるを得ないのであれば、affは実際にどうやってDAを起こさずにその理想のプラス面を実現するかを述べるべきで、そうすると結局プラン的なものが必要になるのではないか。</p><p>・実行可能性の排除は、条件付きの別の論題の肯定ではないか。</p><p>・「日本」「制度」という文言は政策形成パラダイムを支持している。</p><p>・財政の話は理想に直結する。</p><p>・パラダイムは、ジャッジがどうやって議論を判断するかという枠組みなので、少なくとも同一試合では複数並存し得ないと解すべき。これはジャッジの専権。</p><p>まとめると以上の点に集約されるかなあと思います。他にもあったらまだまだどしどし寄せてください。一旦この話は置いといて、肯定側の議論について詳しめの説明をしたり、実行可能性について立論から離れて詳しいお話をしていこうと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>2) ”実行可能性”って何だろうか</p><p>　実行可能性の排除という話により財源の議論を無効化する、という試みが実際に試合の中でどうなされていたのか説明が少なく、人によって受け取り方に差があったように感じます。まずはその試みが成功しているかはさておき、少し細かめに肯定側の議論の説明を加えておきます。</p><p>　一応試合の中での方向性としては財源ガン無視、というよりは「財源確保の方法は今すぐに実行可能なものとかに絞って議論する必要はない。とにかく財源を確保できる可能性が示せれば、理想として設定することはできるはず」みたいな感じで議論していました。例えば相続税100％とか資産課税とかAI資本に対する課税とか天然資源とかのような、「今は絶対無理だし課税逃れの手段もたくさんあるが、なんとかそこをクリアできれば制度は可能」みたいな財源の例を挙げていく感じです。そのため肯定側の議論における”実行可能性”とは短期的な視点でプランが設計可能かどうかというworkabilityの議論を排除するものだったといえるかもしれません。結局のところ財政DAみたいな議論は国債をするor所得増税等で国民負担率が上がることを前提にしているので、そうではない財源確保の方法が想定できる場合は肯定側の”理想”を否定していないのではないか、という趣旨の議論です。試合でも「飢餓のアナロジーの場合も、今すぐに実行可能な方法に限定して考えれば、国際刷りまくるとか富裕層からお金ぶんどるみたいなよくない方法しかないかもしれないけど、それでも元の命題が偽だ、とはならない」という話を再三繰り返していたことを思い出します笑。とりあえず、この主張が受け入れられるかどうかは別として、”実行可能性の排除”とはこんな感じの意図だったらしい、まずはそこが分かればオッケーです。</p><p>　さて、前回の記事では第一立論のうちの一部だけを抜粋したという影響もあるでしょうが、おそらく”実行可能性”という語がはらむ多義性が、僕と記事を読んだ方の間での認知のギャップの原因であるように思います。ようやく本論となりますが、”実行可能性”について政治哲学上の論争を引用しつつ考えていこうと思います。以下、この項での<span style="font-style:italic;">斜体</span>での引用はすべて「松元雅和(2015)『応用政治哲学―方法論の探求―』、風行社」からです。</p><p>　正義原理を導出するにあたっても、何らかの条件を所与の制約として設けることになります。正義原理は、今回の肯定側の立論で言う”理想社会”にあたるものだといえるでしょう。まずこれについてロールズの見解を見てみましょう。</p><p>　</p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">具体的に、正義原理を導出するにあたり、所与の前提として念頭に置かれている現実は多岐にわたる。例えば、人々は自らの生活様式について互いに還元不可能な多様性を有している。正義原理の及ぶ範囲はさしあたり現今の国民国家に該当する自足的な連合体に限定される。一夫一婦制の家族制度、子供の個別的養育、何らかの市場経済の存在、人生に資する汎用的手段としての基本財が存在していること、等々が前提とされる。なかんずく、ロールズ正義論の基本的前提となっているのは、資源の希少性と利他心の限定性という現実（=正義の情況）である。このように、「正義の様々な構想は、私たちが知っているままの暮らしの条件によって正当化されなければならない」。</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">もちろん、こうした現実を全て取り払って、一層自由に正義原理を追求することもできる。しかしこうした試みは、政治哲学として必要でもないし有益でもない。なぜなら、結局のところ、それは「道徳哲学を世界創造の倫理の研究へと変えてしまう」ものであり、「すべての可能世界の中で最善の世界はどれであるのか」を問うてみたところで、その答えは「人間の理解力の範囲を超えているように思われてしまう」からである。それゆえ、政治哲学者が理論を展開するにあたり、一定の現実を所与とすることに躊躇する必要はない。</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">ただしー次節以降の議論に関わるがーあまりに多くの偶然的事実を前提にしすぎると、政治哲学のユートピア的ポテンシャルが損なわれてしまうことも考えられる。そこで「大切なことは、そうした諸前提は真であり、じゅうぶんに一般的であるべきだということである」。いかなる諸前提が「じゅうぶんに一般的」であるかは未決の問いである。ロールズ自身、後期になるに従って、社会的・歴史的により限定された現実を＜理想理論＞の一部に組み込み始めているように見える。（p118）</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　ロールズは正義原理の導出にあたって「資源の希少性」と「利他心の限定性」を前提条件としました。まあこれはこれで割と妥当な前提条件だとは思うのですが、引用文の後半にもあるようにこうした前提条件は議論次第で動かしうるものですし、まさに何を所与の前提とするか、という問題こそが”実行可能性の排除”なる議論によってなしうる限界を示していると言えそうです。そしてロールズの論敵、コーエンが批判するのはまさにロールズの示した前提条件が現実主義的すぎるという点にありました。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">　以上見たように、ロールズの政治哲学は、＜理想理論＞を展開する点でユートピア的であり、その際「社会における人々のあり方に関する自然本性的な事実」に依拠する点で現実主義的である。しかしコーエンは、この理想化が不十分であるとして、ロールズを批判している。すなわち、ロールズの政治哲学は本来はるかに遠大な理想を描くことができたのに、そうしなかったのは現実主義的すぎると言うのである。（p119）</span></span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">　実は、ロールズの格差擁護論に限らず、政治哲学の多くは、この種のコーエンの批判にさらされる可能性がある。すなわち、理想状態においては取り除かれるべき不適切な現実を所与の前提とするがゆえに、推論全体が誤った方向に向かい、適切とは言えない結論に達している可能性がある。この意味で、コーエンのロールズ批判は、理想と現実のあいだのバランス問題という本章の主題に届く射程を持っている。すなわちそれは、政治哲学一般が現実をどこまで正義原理に組み込む/組み込まないかという問いを投げかけているのだ。（p123）</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　このあと「利他心の限定性」についてロールズとコーエンの議論がまとめられていますが、ここについてはこの記事ではパスします。いうても制度の理想を議論する上で、人間のマインドセットまで前提条件から外してしまうのは無理があるというのはその通りで、個人的にはこの点についてはロールズ寄りの立場を取ります。とりあえずここの引用で大事なのはロールズが正議論の前提とした条件も、一応は偶然的な条件に過ぎないという点です。さてさて引用を続けていきます。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">　C・クカサス/P・ペティットが言うように、今日の政治哲学は二つの研究課題に関わっている。すなわちそれは、「政治的に何が望ましいのか」の分析を含むとともに、「政治的に何が実行可能なのか」の分析も含むものである。問題は、政治哲学者がこれら二つのーときに競合するー課題に同時に取り組む場合に生じる。一方で、政治哲学者があまりにも「望ましさ」の探求に傾きすぎると、案出される正義原理は現実政治に何の示唆も与えない机上の空論や夢物語になってしまう。他方で、政治哲学者があまりにも「実行可能性」の探求に傾きすぎると、案出される正義原理は現状に過度に寄り添うものとなり、その追認的肯定に終わってしまう。そこで、政治哲学者は両者の間に何らかの設定を見出すべく、様々な見解を取っている 。（p141）</span></span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">　一方で、政治哲学者のなかには「望ましさ」の分析に大きなウェイトを置く論者がいる。かれらは、それが実行可能であるかどうかはさておき、まずもって完全に正義に適った状態の社会を自由に描き出そうとする。このように実行可能性を考慮しない政治哲学者の極端なタイプは、 G・A・コーエンである。コーエンは「政治哲学は哲学の一部門であり、その成果は…重要性としては実践に対する帰結に限定されていない」と述べて、実行不可能な正義原理を案出する政治哲学にも依然として意味があると考える。政治哲学は机上の空論や夢物語であって一向に構わない。なぜなら、「政治哲学にとっての問いは、私たちがどうすべきかではなく、私たちがどう考えるべきかーたとえ私たちが考えるべきことが実践上で何の違いをもたらさなくてもーである」からだ。</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">　すると、実行可能性を考慮しない正義原理とは一体どのようなものか。そのヒントはコーエンが立てる「根本原理」と「統制ルール」の区別にある。前者の根本原理とは、ある正当化の作業を続けていった際に、最終的に論証全体を支える規範原理のことである。この種の「べき」は、必ずしも今ここで完全に実行可能である必要はない。例えば、かりに根本原理が「人類は飢餓から解放されるべきである」ことだとすれば、この究極的な規範原理は、たとえこの世界から飢餓を一掃することが実践的に不可能であるとしても、変わらずに真であり続ける。この意味で、根本原理の妥当性はこの世を取り巻く事実に依存していないのだ。（p141-142）</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">　</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">　ひとたび根本原理と統制ルールを区別するなら、実行可能性に関する論点は霧消する。なぜなら、後者とは異なって前者の妥当性は、実行可能であるとかないとかいった事実に依存するものではないからだ。コーエンが言うように、「実行可能性が規範的な究極のものを制約するとの教説は、私が統制ルールと呼ぶところの、各人個別に向けられた指針やそうしたものに関するほぼ例外のない真理を、究極規範の性質という全く異なったトピックに対して誤って適用している」。根本原理を特定しようとする政治哲学者にとって、そこで特定される正義原理は実行不可能であって一向に構わない。ここでコーエンは統制ルールの特定それ自体を否定しているのではなく、根本原理を特定しないまま統制ルールを特定しようとすることは論理的に不可能だと言っているのである。これは、政治哲学の役割を根本原理の探求と統制ルールの探求のいずれに結びつけるかというさらなる問題に依存する。（p142-143）</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　この部分は立論中で引用した部分も含んでいますね。一応コーエンが意図している「根本原理」とベーシックインカムが完全に合致しているかというとそれは違うのが事実ですね。おそらくコーエン的分類の下ではベーシックインカムは「統制ルール」にあたります。ただ「実行可能性を考慮しない正義原理のヒントとしてコーエンがあるよ」って文脈なのでディストーションではなかろうという判断で使っていました。「べき」の解釈については日常的な言語解釈にある程度依存しているところがあるわけで、別にコーエンの分け方がすべてだということにはならないでしょう。実際に「理想として目指すことが望ましい」という形での「べき」が成り立つという話は、このエビデンスからも十分に言えるだろうと判断しています。コーエンの話と完全に合致はしていないものの、適用は可能だろうという感じです。この点は3章でもう少し詳しく触れます。</p><p>　とにかくコーエンの立場は極端な位置にあるものの、正義原理を考えるうえでの所与の条件を一つずつ取り除いていくと最終的にはコーエンの位置にまでたどり着くという感じですね。どこまでを所与の条件とするかは結局のところ理想主義と現実主義のバランス感覚次第となります。実際、完全に実行不可能というレベルになるとさすがに議論する意味ないでしょって文脈で以下のように続けています。</p><p>&nbsp;</p><p>　<span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">実行不可能な正義原理が無益か、有害でさえあることの理由は、正規原理が評価的機能とともに、行為の推奨や禁止といった指令的機能を含んでいるからである(本書第九章第一節も参照)。「～べきだ」「～べきではない」といった指令原理は、その対象が意志や努力によって実現可能でないかぎり、意味を持たないように思われる。例えば、「貴方は寄付を行うべきだ」という提案は有意味であるが、「貴方は空を飛ぶべきだ」という提案は有意味ではない。この点で H ・ブリッグハウスが言うように、「文字通り実施不可能な正義の原理は、その事実に照らすなら、誤りである。それは真に責務を記述しているわけではない」。正義原理が指令的であろうとするかぎり、「ought implies can」を満たさない正義原理はその名に値しないのだ。（p143-144）</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　まあこれはその通りだなあという感じです。ということでベーシックインカムの議論をする際も、いうていつか頑張れば何とかできる感みたいなのは必要だと思います。そういう点で、今回の肯定側も（その試みが成功しているかどうかはともかく）、なんとなくいつかできる感を漂わせるような方向にはシフトしていきました。さてさて、筆者は実行可能性についてもう少し細かく分類しながら論じていきます。ちょっと前までの引用はいうても前座みたいなもので、以下の引用が一番大事ですね（長くてすいません）。</p><p>　</p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">　実行可能性は大別して「技術的実行可能性」と「政治的実行可能性」に区別される。技術的実行可能性とは、意志の有無とは無関係に、実現に向けた何らかの道筋が存在する/しないという客観的事実である。政治的実行可能性とは、実現に向けた道筋を辿る意志がある/ないという（間）主観的事実である。さらに、これらの実行可能性のあいだに、諸々のサブ・カテゴリーが含まれるー例えば、財政的、法的、倫理的、制度的、文化的、等々。これらをひとくくりにして「実践的実行可能性」と呼ぼう。すると、「正義原理が実行可能であるべきか、そうではないか」に関する政治哲学者の見解は、彼らがこれらの実行可能性のうち、何を念頭においているかによって大分ニュアンスが変わってくる。</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">　はじめに、技術的実行可能性とは、ある正義原理が自然法則や物理法則、あるいは人間一般の心理的傾向に照らして実現可能かどうかということである。「貴方は空を飛ぶべきだ」という提案が意味をなさないのは、この次元である。他方で、「子どもは両親ではなく国家が養育すべきだ」という提案は、技術的実行可能性をクリアしている。少なくとも歴史上の一時点で、こうした考えが実行に移されていたことはよく知られた事実である。それゆえ、「子どもは国家が養育すべきだ」という提案が実行不可能であるとすれば、それは技術的次元ではなく別の次元で生じていることである。ただしコーエンを含めた大半の政治哲学者が、この種の技術的実行可能性をも考慮しない正義原理を案出しようとしているとは思われない 。</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">　次に、政治的実行可能性とは、ある正義原理を実行に移す公共政策立案が世論から十分な支持を得られるかどうかということである。独裁国家はともかく、少なくとも民主主義国家においては、「子供は国家が養育すべきだ」といった今日の世論の常識からかけ離れた提案は政治的に実行不可能である。なぜなら、世論に背を向けたままではままで政治家や政党が選挙で勝利することはできないし、かりに実行に移したとしても大規模な批判や不服従に直面することは避けられないからである。ただし、この種の政治的実行可能性の制約を理由に正義原理を棄却するのは、保守的にすぎるであろう。格言にあるように、政治とは「可能性の芸術」である。世論は相対的かつ変化するものであるため、政治哲学者が政治的実行可能性にあまりに捕われるなら、結果的に正義原理の現状批判的な力を削ぐことにもなりかねない。</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">　技術的実行可能性が相対的に強い（無視しえない）制約であり、政治的実行可能性が相対的に弱い（無視しうる）制約であるとすれば、これらの中間点には様々な種類と程度のー財政的、法的、倫理的、制度的、文化的、等々のー実践的実行可能性が存在している。この次元に含まれるのが、例えばロールズが正義の二原理の背景的前提（=正義の情況）として挙げた「資源の希少性」である。これは技術的実行可能性よりも弱い制約である。少なくとも観念的には、分配的正義が問題とならないような物質的に豊かな社会を想像してみることは不可能ではない。それは遠い過去に存在したかもしれないし、あるいは遠い未来に存在するかもしれない。同時に「資源の希少性」は、政治的実行可能性よりも強い制約である。現今社会の資源の希少性を克服するためには、少なくとも選挙キャンペーン以上の大幅な社会変革が必要になる。実行可能性に関する政治哲学者同士の対立の多くは、この中間的次元における制約の取扱いをめぐって生じている 。（p144-145）</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　このあたりでようやく全体像が見えてきたんじゃないかなあと思います。普段のディベートでフィアットによって排除されているのは”政治的実行可能性”にあたります。物理的実行可能性については肯定・否定ともに所与の前提とします。そして肯定側が排除しようとしている実行可能性とはその一歩先にある実践的実行可能性の中にあるといえるでしょう。引用文中で触れられている通り、これらの実行可能性は物理的実行可能性よりも弱く、政治的実行可能性よりも強いものです。そして飢餓のアナロジーで言われる”実行可能性の排除”もまさしく実践的実行可能性の排除にあたるものだと僕は解釈しています。ここについては実行主体にあたる各国政府の意思の問題だと考える人もいるかもしれませんが財政的・制度的制約の側面も強い気がしますし、やはりここで言われる”実行可能性の排除”には実践的実行可能性も含まれうると思います。少なくともそうした「べき」の解釈もreasonableなもののうちの一つではないかと思うのです。</p><p>　実践的実行可能性のうちの財政的制約をある程度除外して考えようではないか、というのが今回の肯定側の言いたかったことです。もちろんベーシックインカムで動く金額は莫大ですから、この制約は所与の前提だという捉え方はできます。ただ少なくとも今実行可能な徴税方法に限定される必要はないのではないか、と思うわけです。</p><p>　一方で肯定側は、そうした財政にかかわる実践的実行可能性を排除する一方で、「資本主義」や「貨幣経済」といった条件は所与の前提として残しています。ベーシックインカムの肯定と”実行可能性の排除”という組み合わせの気持ち悪さは、こうしたある特定の実行可能性のみを排除するところにあったと考えます。実際にこの点については肯定側もかなり悩んだところで、うまく説明できないかと苦心したものです。これは以下の3章で詳述します。</p><p>　以上の実行可能性にかかわる議論がもう一つ問いかけることができるのは、否定側の支持する”実行可能性”も実は政治的実行可能性だけを無視した微妙な代物に過ぎないのではないか、ということです。もちろん政策立案者の立場になる、という考え方をしてみれば「何が取りうる選択肢の中でベストな政策か」という視点において、実行意思の主体の問題のみを無視するのはきわめて合理的なのは分かるのですが、ディベートのルール上直接は政策立案者の立場に立つべき必然性は見出せません。とすると、現状のフィアットなる概念は「政策立案者の立場で考える」ことから演繹されているのではなく、論題の「べき」の文言から演繹し、政治的実行可能性の排除という帰結にたどり着いたと見るのが妥当だと僕は思っています（このあたりあまり詳しくないポイントなので意見・批判欲しいです）。そうであるならば、同じく「べき」の解釈からスタートして、政治的実行可能性以外の実践的実行可能性も排除しようとする考え方は妥当なものの一つではないか、と問いかけることができるのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>3) ”理想”は並立する？</p><p>　さて、今回の肯定側の話に戻ります。以上に触れた通り、実は肯定側の”実行可能性の排除”は非常にambivalentなものです。ある一定の実行可能性は配慮するが、財源その他の実行可能性のみ排除するというある種の気持ち悪さは残ります。シーズン中でも「最大限配ればいいので、最小限配るのは理想じゃない」とか「現物で欲しいものがあればただで手に入る社会が真の理想（哲学的アマゾン）」とかいった反駁をしてくるチームもあり、肯定側としてもこのambivalenceは乗り越えて説明しなければならないところでした。結局辿り着いたのは以下のような議論です。</p><p>　</p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">広大/松尾/2001<a href="#_ftn1" name="_ftnref1" title="">[1]</a></span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">今日の現実から出発して将来の理想（あるいはユートピア）に至る道程を明らかにするという発想から生まれたのが、「終着点ユートピア」と「過程ユートピア」の区別である。（中略）過程ユートピアが終着点に至る道程の一段階である限り、過程ユートピアは最終目標に至る手段である。と同時に、短期的、中期的目標そのものでもある。ここでは、手段が目的でもあり、目的が手段でもある。（中略）現在から出発して、終着点に至る道筋には、幾つかの通過点が想定される。換言すれば、終着点に至る道程は、幾つかの行程に分割される。あるいは幾つかの過程ないしは段階に分割される。いずれにせよ、最終目標に到達するための、短期的、あるいは中期的目標である。おわり</span></span></p><p>&nbsp;</p><hr align="left" size="1" width="33%"><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;"><a href="#_ftnref1" name="_ftn1" title="">[1]</a> 松尾雅嗣（2001）「核軍縮における「アキレスと亀」 核軍縮における「アキレスと亀」　もしくは過程ユートピアの陥穽」『IPSHU研究報告シリーズ　研究報告』No.27、pp1-20、http://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/27/Ma.pdf</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　この概念自体は国際関係論の議論で出てきたものでナイとかが提案したものだったと思います（違うかもしれナイ）。エビデンス中では「核兵器の廃絶」を終着点ユートピア、そのための具体的な方策を過程ユートピアとしていて、今回BIで想定されるよりもやや過程ユートピアが現実にとりうる政策に寄っているという違いはあるのですが、あらゆる論題において、構造としてこの区分を適用することは可能だと思います。理想に至るまでの過程も、また理想の一つであるという考え方です。</p><p>　そしてある種の実行可能性を排除し、他の実行可能性は考慮するという肯定側の立場は、最終的な理想の途上であり、それもまた一つの理想であるという考え方ですね。ここは若干言葉遊びの感もぬぐえないのですが、確かに”理想”という言葉はそれが最終的な終着点であるかどうかに関わらず、”現実”との距離によって測られるべきものなのかもしれません。絶対的貧困のない世界も”理想”ですが、その先にあるみんなが裕福な世界も”理想”と呼べるのではないでしょうか。通常のプラン、カウンタープランの対立では競合性として見られる論点に時間軸を足すことで、”理想の競合性”を否定する試みである、と言えそうです。</p><p>　前回の記事でお話しした論題の文言の解釈はreasonabilityかどうか、という議論はこのあたりとも関わってくると思っています。まさに試合で問うべきなのは「BIが理想かどうか」であり、ある一定の実行可能性を排除し他の実行可能性を残すambivalentな立場も、BIが理想であることを支持する一つのreasonableな解釈であるという点で（そして決してbetterな解釈にはなりえないという点で）、reasonabilityの解釈と相性が良かったといえるかもしれません。ちなみに大会当日、kritikに詳しい英語ディベート系のジャッジの方に肯定側で試合を見て頂いた際、「この種のcritical caseには資本主義Kなど対抗する理想で勝負すべきで政策形成パラダイムを前面に出すのは悪手だ」というアドバイスを否定側に送っていたのは、個人的にすごくおもしろかったです。その指摘が妥当かどうか別にして、肯定側が論題解釈権について強い権利を持つという考え方の下では、否定側は相手の土俵に乗って戦わざるを得ないという考えが背景にあるような気がします。</p><p>　以上の議論をふまえて、特定の論題に限らない一般的な問いかけとして可能なのは、”論題の肯定を妨げる”ことと”論題を否定すること”は別の行為ではないか、という問題提起です。そして、ここでいう”論題の肯定”とは”肯定側の”という所有格がついたものだと指摘できるかもしれません。ちょっと事例がズレすぎているかもしれませんが、もしあなたがcounter warrantは投票理由にならないと考えている場合、無意識のままに”論題の肯定”に対して”肯定側の”という所有格をつけているのだといえるかもしれません。counter warrantとて、少なくとも”論題の否定”はしているわけですから。否定側は肯定側よりも、もっと現実に寄せて議論して”論題の否定”を行うこと、もっと理想に寄せて”論題の否定”を行うことはできるでしょう。しかし、それは”肯定の妨げ”になっていますか？というのが終着点ユートピアと過程ユートピアの議論かもしれません。そして今まで”パラダイムの対立”として捉えられていたものも別の仕方で解釈されることになります。つまり肯定側の提出したパラダイムの下での議論が”論題の肯定”ならびに”肯定の妨げ”であって、その他のパラダイムで議論されたものはすべて”論題の否定”でしかない、という解釈です。</p><p>　以上のような解釈は肯定側に著しく有利なものかもしれませんし、前回の記事に対する批判のうちにもあった通り、「議論する意味」にも関わってくることでしょう。それを踏まえて僕が思うのは、やはりこうした肯定側の立場は純粋にディベートを”ゲーム”として捉え、ルール以外の価値観を極力排除しているものなのではないか、ということです。あるジャッジの方にはcritical caseとし呼ばれてしまった議論ですが、背景にある価値観はcritical theoryのパラダイムに立つkritikと真逆のものだったというのは皮肉ですね（ただし保険として提示している理想の話が大事だという議論はkritikとかなり似ています）。もちろん論題解釈をbetterでやればオッケーという話になればこのへんの議論はすべて霧消してしまうのですが、そうでない限り一つの問いをもう少し真剣に考えてみるきっかけになるのではないかと思います。「我々はディベートの目的や意味とゲームの勝敗を切り離して考えてもよいのか」という問いです。アプローチは真逆になりましたが、kritikが問うたものと同じ問いかけをしているのかもしれません。</p><p title="ambivalentとは">&nbsp;</p><p>4) 以上を踏まえて批判に対する応答</p><p>　頂いた批判に対してどんな感じの応答になるのかまとめてみます。</p><p>・財源は後で考えればいいという立場は、あらゆるDAは後で考えればいいという立場にならないだろうか。後で考えざるを得ないのであれば、affは実際にどうやってDAを起こさずにその理想のプラス面を実現するかを述べるべきで、そうすると結局プラン的なものが必要になるのではないか。</p><p>⇒多少雑ではあるものの、いつかできるかもしれない理想の財源例を示し、それで押し切る方向性でした。少なくとも今実行可能な財源に限って議論をする必然性はない。</p><p>&nbsp;</p><p>・実行可能性の排除は、条件付きの別の論題の肯定ではないか。</p><p>⇒これはやや水かけ感があるものの、一応「いま」実行可能な手段に絞って考えなければならない必然性が論題から導けない以上、実行可能性をある程度排除できるパラダイム上では「べき」を肯定できている。</p><p>&nbsp;</p><p>・「日本」「制度」という文言は政策形成パラダイムを支持している。</p><p>⇒あらゆる国家にとっての理想から演繹して「日本」の理想とできるし、ベーシックインカムが理想なら、日本もそれを「理想」として追い求めることが望ましいとはいえる。「制度」についても、財源を今実行可能なものに限って考える必要はなく、何か理想の財源例を示したうえで、それを含む「制度」は正当化される。つまり「日本」「制度」から導かれるbetterな解釈として政策形成パラダイムはあるかもしれないが、少なくとも理想パラダイムもreasonableなものの一つ。このあたりを踏まえると、なぜ僕が前回の記事でreasonabilityかbetterかみたいな話にこだわっていたかお分かりいただけると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>・財政の話は理想に直結する。</p><p>⇒財政DAを回避でき、今は無理かもしれないいつかできるかもしれない理想の財源例を想定しうる段階で理想パラダイムの下では通常の所得税や国債発行を前提にしたDAが投票理由になるとは言えない。ただここは肯定・否定のどちらがどの程度論証の責任を負うかについて議論の余地あり。</p><p>&nbsp;</p><p>・パラダイムは、ジャッジがどうやって議論を判断するかという枠組みなので、少なくとも同一試合では複数並存し得ないと解すべき。これはジャッジの専権。</p><p>⇒ここは一つの考え方なので何とも反駁しがたいが、「肯定の妨げ」になっていない否定側のパラダイムは棄却可能かもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>5) まとめ・感想など</p><p>　こうした肯定側の議論を試みて思ったのは、実は政策形成パラダイムも暗黙の前提の上に成り立っていてそこに必然性はないのではないか、ということです。その一方で思ったのは、政策形成パラダイムが選択されてきたのにも理由があるのだ、ということです。政策形成パラダイムは唯一絶対のreasonableな解釈にはならないが、それでも多くの場合betterな解釈になりやすい、というのが現時点での感想です。</p><p>　一連の記事を書く前は「ディベートのブログ書いてる人はみんなすごくうまくて実力あるディベーターの人ばかりだし、自分なんかが書いてすごく偉そうな感じじゃないかなあ…」と緊張していたのですが、論考の質はどうあれ気にせず書いて発信してみるのはいいんじゃないかなあと思うようになりました。ディベーターの皆さんは批判すべき内容なら喜んで批判してくれるので、自分の考えていることを何か言語化して、それについて批判を受けて、書いたテーマについて考えを深めるってすごくいいプロセスなんじゃないかなあと思います。なので大学生以下の人たちも軽めのノリで思ったことをたくさん書いて、みんなでああだこうだ言ってみるという流れは一つアリなんじゃないかなあと思います。まあTwitterとかがそういう機能を果たしていたり、多くのディベート理論については既にすごい人たちがすごい記事をたくさん書いてる（語彙力不足）のでやりにくいというのは分かりますが。というか、この記事をきっかけに「あいつが書いてるんやし自分も許されるやろw」みたいなノリになってくれるといいですね。多分今回のアファについてお話しする記事はもう書かないです。なんかすごいいい批判が来たら、それを要約したものだけログに残したりはするかもしれませんが…</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/debatepotter/entry-12359619757.html</link>
<pubDate>Mon, 12 Mar 2018 11:50:47 +0900</pubDate>
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<title>&quot;パラダイム”なるものについて思ったこと。</title>
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<![CDATA[ <p>　はじめまして、関東の大学で細々とディベートをしている者です。今後継続的にディベートのブログを書く予定も特にはないのでちゃっちゃと問題提起をして、問いを投げっぱなしにして、いろんな人の意見を聞きたい！という気持ちでこの記事を書きます。</p><p>　さて第24回のJDA春季大会の論題は「日本は原則すべての国民に生活に最低限必要な現金を無条件で支給する制度を設けるべきである」で、いわゆるベーシックインカムについてでした。この論題の特徴として、肯定側はベーシックインカムに必要な財源をどう捻出するのかに苦しむ傾向にあったことを指摘できます。本大会で僕のチームの肯定側は「財源の話を無視して、今実行不可能でもベーシックインカムを目指すのが大事。それで論題が肯定される！」みたいなことをやったのですが、それをやってみていわゆるディベートにおける”パラダイム”についていろいろと思うことがあったので、それを雑に並べてみようかなあと思います。この記事で何かきっちりした意見を提示するわけではないです。</p><p>　まず肯定側の立論の中で、今回の”パラダイム”のお話に関係してくる部分を抜粋しながら要約します。そのあと”パラダイム”について思ったことを並べます。最後に適当にそれぞれをまとめたり比較したりとりとめのないことを書きます。</p><p>&nbsp;</p><p>1) 肯定側の立論</p><p>通常のフォントでゆるゆると解説を加えながら、立論からの引用を<span style="font-style:italic;">斜体</span>のフォントでやります。さて論点Aと称し、肯定側は政策形成パラダイムに乗らない、新しい方法で論題を肯定することを宣言しています。その理由付けは以下の通りです。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">論題の文言は「日本は○○すべき」となっていますが、私たちはこの「べき」の意味を捉えなおし、新しいやり方で論題を肯定します。例えば「人類は飢餓から解放されるべき」という命題について考えてみましょう。この時、この命題は実際にはほぼ実行不可能ではあるものの、「べき」であることについてはみんなが同意すると思います。このように「べき」という議論はいったん実行可能性と切り離して考えることができます。</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;"><u>関西大/</u><u>松元/2015<a href="#_ftn1" name="_ftnref1" title=""><u>[1]</u></a></u></span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">「すると、実行可能性を考慮しない正義原理とは一体どのようなものか。そのヒントはコーエンが立てる「根本原理」と「統制ルール」の区別にある。前者の根本原理とは、ある正当化の作業を続けていった際に、最終的に論証全体を支える規範原理のことである。この種の「べき」は、必ずしも今ここで完全に実行可能である必要はない。例えば、かりに根本原理が「人類は飢餓から解放されるべきである」ことだとすれば、この究極的な規範原理は、たとえこの世界から飢餓を一掃することが実践的に不可能であるとしても、変わらずに真であり続ける。この意味で、根本原理の妥当性はこの世を取り巻く事実に依存していないのだ。」終わり</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">例えば財源にかかわる議論は「実行可能性」を否定するかもしれません。しかし我々は財源を脇においてみんなに必要なお金を配る制度を設けることが理想であることを示します。ベーシックインカムという制度を理想として目指すことに同意できれば、実行可能性には関係なく肯定側に投票してください。</span></span></p><hr align="left" size="1" width="33%"><p><span style="font-style:italic;"><span style="font-size:0.83em;"><a href="#_ftnref1" name="_ftn1" title="">[1]</a> 松元雅和(2015)「応用政治哲学―方法論の探求―」、pp142-143、風行社。関西大学准教授</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　本当に飢餓のアナロジーとベーシックインカムって合致してる？とかいろんなアタックはあるかもしれませんが、その辺の議論は今回は特に触れないです。とりあえずベーシックインカムが理想だってことが分かれば実行可能性とは関係なく肯定側に投票できるよねっていう枠組みが分かればそれで大丈夫です。財源にかかわる話を実行可能性の議論に落とし込むことで、デメリット等の議論を無効化しながら戦うことを狙った立論の構成になっています。</p><p>　さて、とはいっても否定側は当然財源の話をするために、いわゆる政策形成パラダイムを提示し、パラダイム間の優劣を比較することで論題の肯定を妨げたいと思うでしょう。実際にシーズンの序盤からこの議論を回している中で一番きつかったのは、肯定側の話が、この”理想パラダイム”で認められたとしても、政策形成パラダイムを提示された場合に優位に肯定側のパラダイムを優先させることができなかったことです。そんな苦労もあり、肯定側の”理想パラダイム”で試合を評価すべき理由として、最終的には以下のような議論を提示しました。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-style:italic;"><span style="font-size:0.83em;">私たちのAの議論は、論題の「べき」という文言から出発し、論題のリーズナブルな解釈の一つを示したものです。そしてアファは論題のありうる一つの解釈を出せばよい、とされています。以下の資料はReasonabilityと呼ばれていて、アファの論題解釈が妥当なもののひとつであればそれを採用するというトピカリティの取り方についての説明です。</span></span></p><p><span style="font-style:italic;"><span style="font-size:0.83em;"><u>Millennial Speech &amp; Debate Association/Bauchard/2017/</u><u>和訳<a href="#_ftn1" name="_ftnref1" title=""><u>[2]</u></a></u></span></span></p><p><span style="font-style:italic;"><span style="font-size:0.83em;">「単語は多くの意味を持っているため、否定側は肯定側が満たしていない定義や解釈をいつでも見つけてくることができる。もっとも限定的な解釈を求めるのではなく、ジャッジは単語のリーズナブルな解釈であれば何でも認めるべきなのだ。リーズナブルな解釈はそれでもなお否定側にきちんと議論する機会を与えている。」おわり</span></span></p><p><span style="font-style:italic;"><span style="font-size:0.83em;">要は、ネガは後出しの権利を持っていて、アファの出した定義に基づいても議論できるんだから、アファがリーズナブルな定義を出している限り、それに基づいて議論すべきだ、ということです。私たちは理想としての「べき」を前提に議論しました。それは一つのリーズナブルな解釈です。これに対して、否定側が現実のレベルでの議論を提示したい場合、まず「べき」という語を新しく解釈し直す必要がありますが、それは論題の文言の解釈の争い、つまりトピカリティの議論になります。否定側は、肯定側の解釈はアンリーズナブルだ、と証明できて初めて現実のレベルでの議論を提出する権利を持ちます。ゆえに論題の解釈と、BIが理想だという議論が残る限りは無条件で肯定側に投票することになります。</span></span></p><hr align="left" size="1" width="33%"><p><span style="font-style:italic;"><span style="font-size:0.83em;"><a href="#_ftnref1" name="_ftn1" title="">[2</a>&nbsp;]Since words have many meanings, negatives can always find definitions/interpretations that affirmatives don’t meet. Instead of looking for the most limiting interpretation, the judge should accept any reasonable interpretation of the term. Reasonable interpretations still provide opportunities for the solid negative arguments.</span></span></p><p><span style="font-style:italic;"><span style="font-size:0.83em;">https://policy.millennialsd.com/2017/07/24/debating-topicality/</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　一応保険としてこの後に「理想の話は現実の話より大事！」っていうエビデンスも読んだりしますが、今回の記事では特には触れません。この手の話は「理想を先に決めろ！」って言ってるだけで、理想と非理想の議論が両方残ってるときにどう判断するかって話までできないので、安定して肯定側の投票に結び付けられないところもあり、苦しかったです。</p><p>　さて、上に抜粋した部分の話に戻ります。今までこの記事でもずっと”パラダイム”って言葉を使って説明してきたのですが、実は最終的には立論内ではこの言葉を使わないようにしました。”パラダイム”って言葉を使っちゃうと、複数のパラダイムが並立し競合しちゃう感が出て、先にも言ったような形で否定側に押し切られることが多かったからです。そこで今まで”パラダイム”と呼んでいたものをすべてトピカリティの議論に収斂させてしまおうという発想で、こんな形になりました。</p><p>　結局”理想パラダイム”も”政策形成パラダイム”も論題の「べき」という文言から導かれるわけですから、否定側が異なる”パラダイム”を出すと称してやっていることは、論題の文言の読み替えに過ぎないのだ、と主張することで（ジャッジはだいたいReasonabilityでとってくれるはずだよな…？と期待しつつ）肯定側の提出する”パラダイム”の絶対的な優先性を訴えたわけです。</p><p>　ここまでが導入です。長くてすいません。試合の中では「べき」の解釈もトピカリティの話だ！とゴリ押していたわけですが、僕自身こうしたパラダイムの対立をすべてトピカリティの話に収斂させて否定側から提出される政策形成パラダイムに基づく議論を無効化するという議論には一定程度違和感を感じながらやっていました。ということで、この違和感は何なんだろうということを手探りで言語化したり、いうても肯定側のこの解釈にも一理あるみたいなことを書きなぐりながら蛇行運転を続けていくのが以下の文章です。何度もしつこいのですが、結論は出てません！一緒に悩みながら考えてみてください、という問題提起です。</p><p>&nbsp;</p><p>2) 細かい意見の前に</p><p>　いろいろと論題の解釈権やら”パラダイム”のお話をする前に今回の肯定側の議論の特徴だけ軽く分析しておこうと思います。その後の見通しを良くするかも、という期待も込めて。</p><p>　まず今回の肯定側の議論はいわゆるcritical caseにあたるとも何人かのジャッジに指摘はされたものの、例えばcritical theoryに依拠したものとは異なり、論題の文言の解釈から出発しており、その意味で何か特定のディベート観によらない価値中立的な議論だという特徴があげられると思います。kritikでは例えば「現実の政治に影響を与えるべきだ！」という一つの価値観、ディベート観を自身の議論で正当化する必要がある一方、今回の理想論的な論題肯定では、あくまで論題の文言を解釈しただけにすぎず、その解釈を排除する理由はディベートのルールブックには存在しません。これは”パラダイム”の議論をトピカリティの話に収斂させることができた一つの大きな要因でしょう。</p><p>　2点目として、今回肯定側が提示した”理想パラダイム”自体が、通常の論題においては、きわめてサイドバランスを損ねるものだとは言えないことが指摘できます。例えば一院制だとか裁判員制度廃止とかいった論題を考えてみてください。普通にデメリットを提示すれば理想論を否定できますよね。ベーシックインカムの場合は否定側の議論の構造が「ベーシックインカムを配るという論題⇒配ろうと思ったらお金がすごく要る⇒増税だったり国債発行が必要⇒デメリット」というようになっていて、「配る」ことから直接生じるデメリットではなく、途中に財源を捻出するというプロセスでワンクッション置いたら生じるデメリットだから、”理想パラダイム”ではデメリットの議論が棄却されうるという特殊な事例です。パラダイムの選択についてゲーム的公平性の観点を入れるとしても、それを論題ごとに変えるというのは正当化できない気がします。難民論題だからネガに投票しやすくします、とかジャッジが言ってきたらキレますよね。そういう意味で投票の基準だったり、判断の枠組みは試合の中で何か特別の論証がない限り、論題に左右されないのが妥当でしょう。</p><p>　要するにディベートのルール上”政策形成パラダイム”を支持する必然性が全くない中で、今回の肯定側の議論はサイドバランス的にも問題がなく、中立的ディベート観に立ったものだ、というお話です。なので先ほどの肯定側のトピカリティ的な判断の枠組みを否定するには「ディベートの試合一般として、否定側にもパラダイムの提出権が認められるべきであり、パラダイムの優劣を試合の中で議論すべき」「パラダイムにかかわる論題の文言の解釈は、reasonabilityでとるべきではない」って話をしないといけませんね。まあ直観的には僕もそう思っちゃうんですがなかなかうまく言語化できないこの感覚…</p><p>&nbsp;</p><p>3) 否定側からできる応答</p><p>　一つはそもそもreasonabilityじゃなくてbetterでとればいいのでは？って応答ですよね。実のところ僕もなんでreasonabilityがメジャーといわれているのかよくわかりません（本来ここについてもっと調べて論じるべきだとは思うのですが、まだその力がありません。何かいい文献があったら誰か教えてください。<a href="https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00028533.1985.11951283">https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00028533.1985.11951283</a>とかすごく面白そうだなあと思って読もうとしたんですがぼくの大学からはアクセスできないやつで悲しみを覚えました…）。違う定義で議論しちゃったときにその定義同士を明確に優劣つけられないから肯定側の定義を取るって場合も当然あるとは思うのですが、それを言い始めると何をもってreasonableとみなすか、という基準もある程度は感覚的な部分に依存するわけで、何か明確にreasonabilityであるべき理由としては弱い気がします。読んでるエビデンス中では「ネガもいうてアファの出した定義で十分議論できるやろ」的なことを言っていますが、別に対抗解釈を出して肯定・否定が定義の妥当性について争うというゲームも十分フェアな在り方の一つだと思いますし、betterの考え方を排除する理由をそこまで感じません。とりあえず、このへんのトピカリティ全般についてどうとるべきか、というお話は不勉強なのでパスさせてください。</p><p>　そのうえで問うべきは、今回のように「べき」という論題の文言の解釈がパラダイム自体の対立に結び付くような場合にまで、通常のトピカリティの考え方を適用すべきなのか、という話だと思っています。「首相公選制」の解釈がアファとネガで違うって場合は確かに相互の比較が難しくて、後出しできるネガの方が有利だったりするかもしれませんし、結局のところネガも政策形成パラダイムに立って、アファの定義の下でデメリットを出すことは十分に可能です。ただ、殊に「べき」という文言の解釈の場合、それが違えば議論をするパラダイムも違ってしまうわけで、reasonabilityの見方を採用することが直ちに異なるパラダイムの提示を拒否することにつながります。パラダイムの選択につながってしまう、という点で通常のトピカリティとは一線を画す文言の解釈だと言えそうです。</p><p>　言ってみれば、政策形成パラダイムの提示そのものが棄却されてしまうことへの違和感が、「べき」の解釈については何となくbetterを採用したくなってしまう理由だと思うのですが、この違和感をうまく言語化できません。先ほども触れた通り、”理想パラダイム”自体はディベート一般で見ると著しく肯定側を利することにはならないので、ゲーム的公平性は理由にはならないと思います。一応そのうえで、なんとなくこれかなー？と思うものを以下に2点、雑な形で挙げておきます。</p><p>&nbsp;</p><p>①望ましいディベート像みたいな話。</p><p>教育的な観点だったり、critical theoryっぽい観点なのかもしれませんが、ディベートというゲームの中で多様な視点を入れて、いろんな観点から議論したほうが良いという気持ちは心のどこかにあるんだと思います。アファの、トピカリティっぽい枠組みの提示一点で、政策形成パラダイムが一瞬で棄却されて、現実の政策としての議論ができなくなるのは議論の多様性を否定しているよなあと思ってしまいます。より多様な議論を出せるフレームを作ってあげるっていう観点からすると、あらゆるパラダイムの提示を認めたうえで、パラダイム間の優劣を議論させる、というのが望ましい在り方な気がします。</p><p>&nbsp;</p><p>②中立性、ゆえにreasonabilityを排除する。</p><p>ここは僕の不勉強にも起因するとは思うのですが、アファの定義はreasonableなら採用、ネガはアファの定義がunreasonableってとこまで言わないとだめ！ってとり方自体がそもそも中立的ではないってお話はできそうです。この記事ではこの論点についてはあまり深掘りできないのですが、突き詰めるとこれが一番いい筋な気がします。</p><p>&nbsp;</p><p>4) 肯定側の考え方</p><p>　まず細かいお話の前に、シーズン序盤のバージョンではどんな説明を入れていたのか、ちょっと抜粋してみます。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-style:italic;">否定側の役割は論題の肯定を「妨げる」ことであり、私たちが理想論のレイヤーで論題を肯定している以上、否定側が他のレイヤーで議論したとしても、<u>私たちの</u>「肯定」は妨げられずに残ってしまうので、否定側の勝ちにはなりません。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　以下同様に理想を優先する話が続く…という感じです。さすがにこれだけでは取らないという人が多いものの、この基準を採用するという人もおり、何なら大会当日も、こういう説明だけでアファのパラダイムを採用するという方もいました。最初に提示した、パラダイムの話をトピカリティに収斂させる議論も、結局のところこの2行で示した内容を言い換えただけです。</p><p>　ディベートで勝敗を決める、唯一絶対で明確なルールは「論題を肯定できたら肯定側の勝ち、肯定を妨げられたら否定側の勝ち。」だと思います。肯定側に絶対的（あるいは相対的にかなり優位な）論題の解釈権を認める考え方は、このルールに対して素直であり、それ以外の特定のディベート観を排す中立的なものなのではないか、という指摘はできそうだなあと思っています。「望ましいディベート像」みたいな話も何らかディベートに多様性を求める特定の価値観ですしね。「ディベートを純粋にゲームとして捉え、採用する基準は極力ルールから導かれるものであるように単純化する。そのうえで、試合の「決め方」についての議論もルールから演繹される部分を除いて、ゲーム内の議論に任せる。」こうした中立的ディベート像が肯定側の思想の背景にある、と言えそうです。</p><p>　以上のところでさんざん「お気持ちとしてはネガにもパラダイム提出権を認めたい」としながらも、僕自身、極力中立的なディベート観を採用したうえで判断すべきだという話には同意します。完全に中立的と呼べるものはないかもしれませんが、ディベートがゲームとしての性質を持つことは避けられないことですから、選手のためにもジャッジの判断の予見可能性は高い方がいいと考えます（これ自体一つのディベート観といわれればそうなのですが…）。そして中立的にルールだけを見ていくと、（そして理由はよくわかっていないがトピカリティをreasonabilityでとることを所与の条件とすると、）今回提示したようなパラダイム提出権を肯定側の専権とするような議論は可能なのかなあという感想です。</p><p>&nbsp;</p><p>5) まとめ、感想、その他</p><p>　今後のこの記事で考えたことを洗練していく場合、方向性は二つだと思います。一つはディベートの判断に際して、我々のディベート観は中立的であるべきなのか、というお話です。ディベートのルール自体が「望ましい議論」を方向付けるようなものであるべきならば、3)で挙げたように、パラダイムの提出権を両サイドに認めていくことがよいのでしょう。純粋にゲームとして解釈するならば、肯定側にパラダイム提出の専権を認めることもできます。個人的には迷ったら中立的な方を取ってしまいそうですね…</p><p>　二つ目は中立性を志向した場合に、論題の「べき」の解釈についてはbetterとreasonabilityのどっちが妥当なのか、というお話です。トピカリティ全体についても議論の余地があるかもしれません。僕は何でreasonabilityなのかよくわかりません！助けてください！今回reasonabilityを支持するエビデンスを探してて思ったのは、意外と出てくるエビデンスはbetterを支持しているものが多いことですね。もちろん論題のエリアが広いからより限定的な解釈にしないとまずいっていうアメリカ特有の事情もあるのかもしれませんが。それに既存のreasonabilityかbetterかって話が出てくる文脈は、planがresolutionに合致しているかを判断する際の基準について話しているものなので、論題の「べき」をどう解釈すべきかって文脈には必ずしも合致してないんですよね。そんなこんなで「べき」の解釈をどうするかって問題はディベートセオリーに関するリサーチうんぬんよりも、みんなで話し合ってよくよく考えてみた方がよさそうだなあという感想です。あと日本語でオーソリティ付きでこういうディベートセオリーの議論してくれる人があんまりいなくて英語のリサーチを強いられたので、「強いお兄さんたちがんばって書いてくれ～～～」というお気持ちになりました。はい。</p><p>　雑な文章にお付き合いくださってありがとうございました。結論は特に出てないので、いろんな人の意見が聞きたいなあという気持ちです。この種の議論自体はどんな論題でも普遍的に使えるわけではないので、同じケースに遭遇することは今後そんなにないと思いますが、「ルール解釈について特定のディベート観に立つべきか」とか「中立性を志向するとトピカリティはどう判断すべきか」とか、いろいろ面白い問いも見えてきたので、この手の議論をやってみて良かったです。</p><p>　あと今回アファがやったのとは逆に、何かの議論を「パラダイムの対立」に収斂させていくというやり方はクリティーク対策として一つありうる形なんじゃないかなーとも思ったりしました。今回私たちのアファはシーズン序盤、「政策形成パラダイムではネガの勝ち。理想パラダイムでは財源があればっていう留保がついてアファの勝ち。特に理想のお話を優先しようみたいな議論が残ってない以上、総合的に見てアファの話がネガの議論を上回ってる、とまで言えてないんだからネガ！」みたいな押し切られ方をけっこうしてました。クリティークの話は「政策形成パラダイムとはレイヤーが違って、クリティークの議論が残った時点で無条件でネガ」みたいな説明のされ方をするものの（というか実際にされて負けたものの）、これも「政策形成パラダイムではアファ、critical theoryパラダイムではネガ。スタートの地点ではこれらのパラダイムに優劣の差はなくって、どっちがが残れば無条件でどっちかにvoteということにはならない。そのうえで…」みたいな説明の仕方をすると、けっこう政策形成パラダイムでゴリ押せる説はあるのでは？と思ったりしました。まあこの記事とはあんま関係ないですし、クリティークの勉強もそこまでできてないので間違ってたらごめんなさい。</p><p>　そんなこんなで実行可能性を排除した形で論題を肯定するというチャレンジをしてみたわけですが、楽しいシーズンになりました。秋、春と政策形成パラダイムから離れた議論をぶつけられ、ぶつけてみて、論題の肯定/否定の仕方はまだまだたくさんあって、政策形成パラダイムは所与のものじゃないんだなあと実感しました。今後僕がどういう議論をするディベーターになるのかはわかりませんし、別にどんな論題でもずっと政策形成パラダイムを捨て続けるというわけではないと思います。しかしながら思想・理念・価値観の議論はすごく大事だし、議論してて楽しいという実感はあるので、メリット・デメリット比較方式でもそこは大事にしてやっていくんじゃないかなあと思います。そういう方向性に興味あったら是非声をかけてくれると嬉しいです（ここでさりげなくパートナーを探す）。</p><p>　ということで重ね重ねになりますが、自分自身結論を出してない問題提起をしましたのでぜひいろんな意見を聞かせてください。批判・批評・意見・感想いろいろ待ってます！</p>
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<pubDate>Sat, 10 Mar 2018 16:06:10 +0900</pubDate>
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