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<title>ジャックデリダのブログ</title>
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<title>鎖国</title>
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<![CDATA[ 幕府によるオランダ船を介入して交易するようになった。<br>日本からは、金、銀、銅が輸出された。<br>別子銅山をもつ住友本家は、オランダの繁栄の源泉だった。<br><br>日本は元禄文化を金、銀、銅で買ったようなものである<br>かんざしには、地中海の珊瑚がつかわれ、幕府は年貢収入の２割を絹織物<br>を購買することにあてた。<br>外国船からかいつけた最大の商品は、世界の情報であった。<br>８代将軍吉宗の時代には、１頭の象が長崎から江戸に旅した。<br><br>吉宗は２７頭のペルシャ馬を購入、オランダから馬術師もよび<br>日本の軍馬の改良にはげんだ。<br>海外の学問情報にも敏感だった。<br>顕微鏡も天体望遠鏡もほぼ発明と同時に輸入している。<br>解体新書は、ドイツ語で１７３２年、原書が出版され<br>オランダ語に訳され、それを日本人が１７７４年、翻訳した。<br>１８４０年から４２年のアヘン戦争時、「阿片風説書」を出し、警戒心を強めた。<br><br>国内から算出される外貨が底をつきはじめる。<br>吉宗は輸入を抑制し、海外から生産技術の知識を得て、国産化を急ぐ。<br>朝鮮人参の人工栽培に手をだし、成功。銀の流出を恐れていたからである。<br><br>ヨーロッパも、東インドから得たコーヒーや砂糖や木綿の原料となる栽培植物を<br>新大陸に移植することに成功。かつてアジアから輸入していたものを、自給し出す。<br>その結果、ヨーロッパも日本も、アジア物産の輸入から脱却しつつあった。<br><br>オランダ風説書としてまとめられた本がある。<br>フランス革命からリスボンの大地震まで詳しく述べられている。<br>福知山の大名は、出島のオランダ人から得られた情報をもとに、大西洋地図という世界地図の本を書いた。その中に、当時のパリの正確な市街図がある。<br>
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<link>https://ameblo.jp/delida81/entry-11604507385.html</link>
<pubDate>Sun, 01 Sep 2013 17:32:10 +0900</pubDate>
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<title>ヨーロッパの歴史</title>
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<![CDATA[ <div>紀元前２７２年ローマのイタリア半島の統一。</div><div>ハンニバルによる第二次ポエニ戦争、紀元前１４６年カルタゴの滅亡。</div><div>ドイツのオットー１世によるローマ帝国の再興。</div><div>神聖ローマ帝国の成立９６２年。</div><div><br></div><div>古代ローマ帝国の成立から衰亡まで。</div><div>イエスの誕生、キリストの迫害、国家によるキリスト教の公認、</div><div>ゲルマン民族大移動、同時にキリスト教がローマの国教になった。</div><div>ローマ帝国の東西分裂を経て、ヨーロッパが少しずつその姿を現す。</div><div><br></div><div>末期のローマは、キリストは迫害されていた。</div><div>３１３年、キリスト教は、コンスタンティヌス帝によりはじめて公認された。</div><div>３３０年、コンスタンティノープルに遷都。現在のイスタンブール。</div><div>３９２年、テオドシウス亭が、キリスト教をローマの国教に定めた。</div><div>そして、３９５年、ローマは東西に分裂。</div><div>ゲルマン民族の大移動が、イタリア半島に及んだ。</div><div>４７６年、西ローマ帝国滅亡。</div><div><br></div><div>東ローマ帝国、別名ビザンチン帝国は、この間、長く続く。</div><div>ヨーロッパ文化は、古代のギリシャ、ローマ文化と、キリスト教とゲルマン民族と</div><div>その３つから成り立っている。</div><div><br></div><div>７世紀前半、マホメットが唯一神アラーの教えを説いて、</div><div>アラビア民族の進出はすさまじかった。</div><div>彼らはアラビア半島の大部分を統一し、ビザンチン帝国へも攻撃をした。</div><div>ビザンチン帝国は、コンスタンティノープルを守り抜いた。</div><div>イスラムは進路を変えて、アフリカの地中海を西に進み、７１１年スペインに渡った。</div><div>一気にゲルマン民族の国のひとつである西ゴート王国を倒した。</div><div>ピレネー山脈を越え、７３２年、中部フランスのトゥールとポワティエの間で戦争が起きた。イスラムの内陸進出はこれで食い止められた。</div><div>ゲルマン人の戦いを組織的に戦ったのは、フランク王国の大臣、カロリング家のカールマルテル。</div><div>こうして、東地中海の一部は、ビザンチンの手に残ったが</div><div>西地中海は、ほぼイスラムに制圧された。</div><div><br></div><div>カロリングのカール大帝は、８００年、西ローマ帝国の新しい王冠をかぶる。</div><div>スペインや北アフリカは、イスラム。南イタリアやベニスは、東ローマ。</div><div>カールの建てたフランク王国は、ドイツらへん。</div><div>カール大帝が８１４年に死亡すると、激しい兄弟争いが起こる。</div><div>西ローマ帝国は、イタリア、ロレーヌ、東フランク、西フランクに３分される。</div><div>８７０年のメルセン条約で、ドイツ、イタリア、フランスの原形ができあがってくる。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/delida81/entry-11604485906.html</link>
<pubDate>Sun, 01 Sep 2013 16:54:22 +0900</pubDate>
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<title>歴史５</title>
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<![CDATA[ <br>紀元前８００年ごろから紀元前２００年頃まで<br>人類の歴史の中では、<br>東でも西でも、全人類にかかわる重要で、決定的な出来事が起きた。<br><br>哲学の出現、科学の成立、高度宗教の誕生といったことが相次ぐ。<br>ドイツの哲学者、カールヤスパースは、軸の時代と呼んだ。<br>人間存在が、ひとつの理念的な軸を生み出した時代、という意味である。<br><br>シナでは孔子と老子が生まれ、シナ哲学のあらゆる方向が発生し<br>墨子、荘子、列子などが生まれた。<br>インドでは、ウパニシャッドが発生し、仏陀が生まれ<br>懐疑論、唯物論、詭弁術、虚無主義にいたるまでのあらゆる哲学的可能性が<br>シナと同様に展開された。<br>イランではゾロアスター教が善と悪の闘争という世界像を説き<br>パレスチナでは、エリアからイザイア、エレミアといった預言者が出現<br>ギリシャではホメロスや哲学者たち、パルメニデス、ヘラクレイトス、プラトン<br>アルキメデスが現れた。<br><br>これはヤスパースは、人間が人間として、自己の無力感をはっきりと意識したことに<br>精神覚醒の焦点を絞っている。人間は世界のおそろしさと自己の無力感を経験した。<br>そこから根本的な問いが発せられる。<br>この頃の日本は、縄文晩期から弥生時代を迎えるころであった。<br>灌漑を備えた水田が始まるのは、紀元前４世紀くらいからだといわれる。<br><br>５世紀まで日本と中国の交流はあった。<br>そして７世紀、隋との交渉が始まる。<br>聖徳太子を摂政とする推古天皇朝（５９２～６２８）は、朝鮮外交から大陸外交へ切り替えた。<br>彼は随による大陸の再統一を注意深く見守ったのち、本格的な交渉を始めた。<br>朝鮮を経由せず、じかに大陸の文明を取り入れるためであった。<br><br>７世紀から８世紀にかけて<br>６０４年　冠位十二階施行、憲法１７条制定<br>６０７年、小野妹子ら隋へ派遣。<br>　　　　　「日いづるところの天使、書を、日没するところの天使に致す。」<br>６２８年、唐、中国大陸を統一<br>６４５年、大化の改新。中大兄皇子ら、蘇我入鹿、蝦夷を滅ぼす<br>６６０年、百済滅亡<br>６６３年、白村江の戦いにて敗北<br>６６８年、高句麗滅亡<br>６７０年、全国的に戸籍作成<br>６７６年、新羅、朝鮮半島を統一<br>６９４年、藤原京に遷都<br>７０１年、大宝律令なる<br>７１０年、平城京に遷都<br>８９４年、遣唐使廃止<br>９０７年の唐滅亡以後は、もはや大陸からは学ばなくなっている。<br><br>空海や最澄を乗せた遣唐使の船が唐を目指して出発したのは、８０４年。桓武天皇の年。<br>１１月３日に、福州を出発し、１２月２１日に長安に到着した。４２００キロの行程を、わずか４９日でたどりつく。<br>日本が、正月元旦の儀式に参加した。供え物を皇帝に献上し、皇帝からねんごろな挨拶をされている。<br>日本に対する唐王朝の待遇はかなりのものであった。<br><br><br>韓非子<br>昔、秦の昭王が病気になった。人民は村ごとに牛を犠牲にして王に捧げ、王の回復を願った。<br>これを聞いた王は、人民に罰として、鎧２領の供出を命じた。<br><br>理由はこうである。<br>命令もうけぬのに、勝手な祈祷の儀をなすのは、人民が自分を愛しているからである。<br>その結果、情が移って、法令を緩和したら、法の威令はなくなり、やがて国は滅びるだろう。<br>今の場合、人民に罰を科し、治を確立するのが、最善である。<br><br>韓非子は、ここまで法治の精神を徹底させた。<br>韓非子の人間観はこうである。人間は、利己心のかたまり、醜悪な存在である。<br>臣下たるものは、君主を収奪して自分の勢力を伸ばそうとする存在である。<br>法によって、人間の欲望を制御しなければならない。<br>したがって目的とするのは、完全な法治国家である。<br><br>秦の始皇帝の国家統一に理念上の基礎を提供したのは、韓非子だった。<br><br>日本の歴史の中に巨大なものがいくつかある。<br>奈良の東大寺は、当時の世界最大の木造建築物だった。<br>また、その大仏ほどの巨大な金、銅でつくられた彫像は、世界のどこにも存在しない。<br>平安時代の出雲大社の高さは、４８メートル。<br>また前方後円墳が全国に多数存在する。仁徳天皇領が最大規模で、秦の始皇帝の墓よりも大きい。<br>
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<link>https://ameblo.jp/delida81/entry-11599732774.html</link>
<pubDate>Sun, 25 Aug 2013 21:05:57 +0900</pubDate>
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<title>歴史４</title>
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<![CDATA[ ナチスの計画<br><br>ジプシーとユダヤの絶滅につづき、ポーランド人、ウクライナ人、オランダ人、ロレーヌ人<br>アルザス人の絶滅、さらには器質的疾患を持つもの、肺病および心臓病患者は、家族もろとも消し去られることになっていた。<br>さらに、ナチスは、東欧やソ連の占領区から金髪と青い目をした１２歳以下の美少年、美少女をさらってきて<br>ドイツ人として育てた。係累を絶つために、親兄弟を皆殺しにし、出生証明書なども偽造した。<br>その数、２０万人と言われる。<br>ナチスにとって、全ての事柄の出発点は、人種である。<br>優れた人種を育成することである。<br><br>中国共産党の内部文献が外部に漏れた。「建国以来歴次政治運動史実報告」と題する文書。<br>これによると、毛沢東の建国以来、文革までの殺戮数は２６００万人と書かれている。<br>アメリカ上院安全委員会が１９７１年８月に出した調査報告書では、「毛沢東は、政権を樹立し<br>最初の１０年で３０００万人の大衆を大虐殺し、文化大革命直前まで２０００万人、合計５０００万人を殺している」<br>これに文化大革命の犠牲者を加えれば、途方もない大虐殺数になる。<br>チベットでのジェノサイドは今も続く。<br><br>ジェノサイドは、スターリン、毛沢東、インドネシア共産党書記長アイジット、クメールルージュのポルポト、<br>ウガンダのアミン大統領、セルビアのミロシェビッチ大統領など。<br><br>毛沢東親衛隊の指導をうけたクメールルージュのポルポト派は、１９７５年にプノンペンを制圧。<br>都市住民をことごとく農村に移動せしめた。そして、理想社会をつくると称し、邪魔になる知識層の殺害を開始した。<br>毛沢東も知識分子を嫌っていた。ポルポトは、最も忠実な毛沢東の弟子であった。<br>カンボジア人口のうち８００万のうち、２５０万人を殺戮した。<br>キリングフィールドで知られる。<br><br>キリングフィールドを北京政府が背後で指導していたことが知られると、北京政府は突如、日本軍の南京大虐殺をもちだす。<br>終戦から３０年後のことである。<br>１９９５年、６月終戦５０年の年、中国の江沢民国家主席は、海部首相に、ドイツは謝罪し十分な認識をもっているのに<br>日本は歴史について間違った認識をもっていると言った。<br><br>ドイツの哲学者カールヤスパースは、戦後１９４６年、「責罪論」を書いた。<br>「人間の罪には、個人の罪と集団の罪がある。ナチスの罪は、特定幹部の罪であって、ドイツ民族全体の罪ではない」<br>政治上の罪はあるので、賠償金は支払うということになった。<br>ヤスパースの論法を、歴代のドイツ大統領は踏襲していく。<br>ヤスパースは、全ドイツ国民を救った。<br><br>現代は、古代ギリシャ末期のヘレニズム時代に似ている。<br>ヘレニズム時代とは、古典ギリシャ時代が終わり、ローマ時代の開始されるまでの中間の時代をさす。<br>その最初の時期は、アレクサンダー大王の東方遠征があり、大王の死（前３２３）があってから<br>約３００年ほどの期間である。<br>アレクサンダー大王は、１０年を越す遠征を行った。エジプトのアレクサンドリアをはじめ、<br>アジアにギリシャ系の諸都市を建設し、インドの西北部まで進出した。<br>その頃になると、スパルタもアテネも衰亡した。おびただしいギリシャ人が、ギリシャの町を捨て移住した。<br>オリエントの古い文化の地域に、ギリシャの文化が流れ込んだ。<br>新しいギリシャの文化、すなわちヘレニズム文化である。<br><br>なぜ、ヘレニズム文化と現代が似ているか。<br>ヨーロッパ文明の進出と展開も、おおよそ３００年。<br>地球全体がヨーロッパ化した１７世紀から今日に及ぶ。<br>アレクサンダー大王の東方遠征によって、古代ギリシャの時代のポリスは終止符をうつ。<br>そして、新しい世界国家の時代になった。現代も、国境は低くなっている点において似ている。<br><br>ギリシャの学問が一大発展を遂げたのは、ヘレニズム時代である。<br>アリストテレスの学校、リュケイオン（前３３５）の創設以来、およそ１００年間、知的発見が続く。<br>この時代に、ギリシャの学問ははじめて方法論を備えた一大体系となる。<br>それまでばらばらの混合体であったものが、まとまった。<br>数学や天文学といった分野では、１６世紀以前まで達成することのできない高い水準まで達した。<br><br>アレクサンダー大王の征服によって、当時の人々の空間的視野は、突然広がった。<br>古典期のギリシャ人は、異民族を野蛮人（バルバロイ）と呼んで、はなはだしい人種的偏見をもっていた。<br>ヘレニズム時代にはこれが変わった。<br>アレクサンダー大王は、自らペルシャの王女をめとり、マケドニアの高級軍人とペルシャの貴族の娘を結婚させた。<br>バルバロイとの融和促進を図った。開かれた社会になっていった。<br>アリストテレス、テオフラストス、ゼノン、クレアンテス、クリュシッポスは、みな異邦人であった。<br>ちなみに、当時の哲学の目的は「心の平静（アタラクシア）」だった。<br><br>現代も、ヨーロッパの植民地政策で、地球の半分が侵略され、人種をめぐって激しい戦いが行われていた。<br>第二次大戦が終わり半世紀たち、人々は流血に疲れた。不和や敵意は消えないものの、あまりに露骨な偏見を<br>互いに高めないようにする知恵も身に着けた。<br>南アフリカのアパルトヘイトが廃止され、白豪主義を唱えていたオーストラリアが、多文化主義へと変わっていった。<br><br>エピクロスの言葉<br><br>日常の俗事に煩わされず、死を恐れぬ平静をもって真の幸福とみなした。<br><br>私たちは、過ぎし日々への感謝と、すでに生起したものは元には戻らぬという認識によって<br>不幸を和らげなければならぬと説いた。<br><br>ヘレニズム時代が３世紀を推移して、やがてローマの時代へと移る。<br>知性がやがて退行していき、占星術がはやる。<br>占星術は、バビロニアでつくりだされ、エジプトに広がった。<br>ローマにまで伝播し、流行したのは紀元前２世紀だった。<br>占いの流行は、宗教の衰えである。<br><br>やがてローマが、全地中海を統一し、前２７年、帝政時代に入る。<br><br>ハイデッガーの３つの退屈<br>第一は、誰もが経験する手持ち無沙汰の退屈。<br>第二は、他人との楽しい団欒が、実は退屈を覆い隠していただけということ。<br>人の家にいって、飲んで食べて話して、帰ってきた時、楽しかったけれど、実は退屈していたのだと気づく。<br>時間の空虚を埋めてくれることは可能。<br>われわれの日々の生活は、この２種類の退屈とその取り消しをいったりきたりしているのだと説く。<br>もうひとつの退屈。<br>おもいがけず、なんとなく退屈になる。何もする気になれない。<br>何をみても、楽しくない、どことなく全てが空虚、何もかもがどうでもよい。<br>存在の深いふちに沈黙したまま、不気味に苦しむ。<br>これが、本来的根源的な退屈だという。<br>一般的には、低く評価される。<br>これに襲われたら、抑えたり避けたりせず、じっと耐えて待ち、本質的なものをそこから聞き取るのが肝要だといいます。<br>この退屈の由来をたずねると、われわれは存在の根底へ近づくことができる。<br>言い知れぬ生への無意味の中におかれていることに気がつく。<br>漠と予感する瞬間である。<br><br>みな、第一の退屈と第二の退屈を往復しながら、ごまかしながら生きている。<br>突如として襲われる第三の退屈にどう対処すべきなのだろうか。<br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/delida81/entry-11599678086.html</link>
<pubDate>Sun, 25 Aug 2013 19:40:54 +0900</pubDate>
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<title>歴史３</title>
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<![CDATA[ <br><br>同じころ、アメリカの黒人たちも、国際会議で人種問題がはじめてとりあげられるのに色めきだった。<br>黒人たちは、パリ講和会議へアピールする準備にとりかかり、日本政府をサポートする考えだった。<br>4人の著名な黒人が、会議に先立って日本使節団をたずね、世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくすことに尽力してほしいと<br>嘆願書を出した。国際連盟にではなく、日本政府に嘆願書を出した。<br><br>ウィルソン大統領は、世界秩序回復のための１４箇条を手にパリに乗り込んだ。<br>日本代表は、15番目の提案をもって、講和会議に出席。<br>「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」<br>全米黒人新聞協会は次のような声明を発表した。<br>「われわれ黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい激論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」<br>「全米１２００万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」<br>結局、この法案は通らなかった。<br><br>１９１３年、外国人土地法がさらに強化された。<br>日本人は事実上、農業の仕事から追い出された。<br>１９２４年、排日移民法が連邦議会において可決された。<br>これにより、日本からの移民は、人種的な理由をもって、全面的に禁止された。<br><br><br>アメリカ<br>ペリーが1853年に来航した時は、まだアメリカは一等国ではなかった。<br>当時の一等国は、イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシア。<br>アメリカが大国の仲間入りしたのは、１８９０年にハワイを植民地にし、フィリピンを領有してからである。<br>つまり、日本が日清、日露戦争で勝ち、大国への一歩を踏み出した時期と一致する。<br><br>ハワイ、グアム、フィリピンを結ぶ線をアメリカが新国境と定めた２０世紀初頭、イギリスはアメリカの支配を容認し<br>西太平洋からイギリス艦隊を撤収させている。イギリスの当時の関心ごとは、ロシアであった。<br><br>第一次大戦で日本が攻略した山東省の青島（チンタオ）の権益は、ドイツから日本に渡ったが、<br>アメリカはそれを中国に返還するよう要求した。<br><br>アメリカがこうして、日本を押さえ込みにかかった最も決定的な出来事が、１９２１年のワシントン会議。<br>会議には、日本、イギリス、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギー、アメリカが参加した。<br>テーマの第一は、海軍軍縮問題。第二のテーマは、極東、太平洋問題。<br>この会議で、米英日の主力艦の比率は、５・５・３になった。<br>そして、日英同盟が破棄された。山東省の青島の中国返還が決まった。<br>日本の満州における特殊地位も、廃棄された。<br>こうして、日本の中国進出の既得権益は、全て否定された。<br>ただし、イギリス、フランス、オランダの植民地支配における既得権益には、ひとつも触れられていない。<br><br>ワシントン会議が開かれた年に、ソ連は内モンゴルに進入し、モンゴル人民革命政府を樹立した。<br>そして同じ年に中国共産党が結成されている。<br><br>シベリア出兵が１９１８に起こった。<br>イギリスとフランスが、日米に働きかけて実現した。出兵をしぶるアメリカに、英仏は総力をあげて説得した。<br>使節団まで送った。その時の使節団の団長は、哲学者ベルグソン。<br>シベリアに孤立しているチェコの軍隊を救うというのが、当初の目的だったが、<br>日本は戦線を拡大し、撤兵を遅らせた。<br><br>１９４１年１２月２５日、香港の英軍降伏<br>１９４２年１月２日、マニラ占領、２月１５日、シンガポールの英軍降伏、３月８日ラングーン占領<br>３月９日ジャワの蘭印軍降伏、５月７日、コレヒドールの米軍降伏、日本の緒戦のめざましい勝利はここまで。<br><br>戦局の一大転換となったのは、運命のミッドウェー海戦は、６月５日～７日。<br>これ以後は、米軍の大反攻がはじまり、日本は負けていく。<br>８月７日、米海兵１個師団がガダルカナル島に上陸。８日、第一次ソロモン海戦。<br>８月２１日、ガダルカナル島奪回のため上陸した日本部隊は全滅している。<br><br>徳富蘇峰のような愛国主義者から、平野義太郎のようなマルクス主義者まで<br>４００年にわたるアングロサクソンによる支配と束縛から、東洋民族を解放する声は高まっていた。<br>国民は、戦争の大義の中に、アジア解放が含まれていることは、理解していた。<br><br>ベトナム戦争が終わってから、１９７８年にベトナムが突如、カンボジアに侵攻した。<br>中国は、懲罰するといって、ベトナムに攻め入った。共産主義国家同士の戦争であった。<br><br>１９９５年来日したヴァイツゼッカー前ドイツ大統領は、名古屋で講演した。<br>１２年にわたるナチス支配は、ドイツ歴史における異常な一時期であり、その一時期だけナチスという暴力団にのっとられた。<br>今は、ドイツは彼らを追い払って善良な国民となった。<br>ドイツ国民はそう主張する。<br><br>１９４５年、玉音放送があった。天皇陛下は一億玉砕しろ、最後まで竹やりで戦えとは言わなかった。<br>陛下は、一部の軟弱分子に強制されたのではないか、そういう流言がひろまり、米軍を迎え撃つ決死隊が<br>茨城県筑波山に立てこもったという噂が流れた。<br><br>アメリカが、占領政策を展開した。<br>一般国民と支配階級を区別し、前者に罪はなく、後者に罪はあると言った。<br>指導者を一新し、一般国民をよい方向へ誘導する必要があると言った。<br>日本国民の敵は、連合軍ではなく、日本の支配階級であると宣伝し、自らの敵意を逸らした。<br>War guilt information program ウォーギルトインフォメーションプログラムが、実行された。<br>戦争に関する罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画である。<br>ここで、日本国民の精神の改造が企てられた。<br><br>イギリスと香港、イギリスとシンガポール、フランスとベトナム、アメリカとフィリピン。<br><br>１８７５年、ヨーロッパが所有していたアフリカの土地は全体の１０分の１だった。<br>それが２０年後になると、全体の１０分の９が、ヨーロッパの列強の手に入る。<br>サハラ以南で残った独立国は、エチオピア、リベリアのみ。<br>１８８５年にヨーロッパの大国の間で調印されたベルリン条約では、争奪戦を行うルールが決められた。<br>それによると、アフリカのある地域を実効ある占領のもとにおいた時は、ほかの政府に知らせることになっていた。<br>そうすることにより、その国は、占領地の所有権を獲得した。<br><br>１８７８年、ベルリン会議。<br>ヨーロッパの国境が画定された。それを変えようと思えば、戦争をするしかなかった。<br>だが、当時最も強力なのはドイツで、宰相ビスマルクは平和を望んでいた。<br>ヨーロッパには勢力均衡状態が、存在した。<br>そこで各国は、領土を広げようと思うと、ヨーロッパ以外に目を向けた。<br>弱体で防御力のないアフリカでは、槍で戦う原住民を相手に楽な戦争ができた。<br>ビスマルクはこうした戦争を「スポーツのような戦争」と呼んだ。<br><br>オーストリアは、海軍がなかったため、参戦しなかった。<br>ロシアの興味は、アジアへ向いていた。<br><br>アメリカの教科書<br>「これがアメリカの歴史だ」<br>人間の活動や関心は成長するにつれて変化するものだ。<br>少年期は、学業、スポーツ、青年期は職業をもち、結婚し、家族を養う。より良い仕事に就こうとし<br>政治参加、地域活動、さまざまな活動に従事する。国家も同じような強国になれば、活動も違ってくる。<br>若いアメリカは、未開の地を開拓し、西方への道をたどった。産業も発展させた。<br>そうすれば、国家の関心が世界に向けられるときがやってくるのは、当然だろう。<br><br><br>ヒトラー<br>ヒトラーが文書で出した最初の大量殺戮命令は、ドイツの国内の病院に向けられた。<br>療養所、看護施設にいるドイツの病人７万～８万。障害者１万～２万、３歳～１３歳までの心身障害児など児童３０００人<br>神経病院にいる全てのユダヤ人、合計１０万が職権により殺害。いわゆる安楽死。<br>この命令は、教会の反対で２年で中止された。<br><br>次は、ドイツ国内、東ヨーロッパの占領下の国々のいたるところで、ジプシーが捕えられた。<br>絶滅収容所に送られ、皆殺し。犠牲者の数は５０万人にのぼるといわれる。<br>１９３９年にドイツ居住のジプシーは２５万人、１９４５年には５０００人しかいなかった。<br><br>ポーランド占領直後から５年間、この国の知識分子、指導層が、組織殺戮の犠牲になった。<br>牧師、教師、大学教授、新聞記者、企業家が、殺された。<br><br>東方における非ドイツ系住民には４学年以上の小学校教育は必要でないとしている。<br>５００まで数えられること、名前を書けること、それ以外は、ドイツに従順であればよいとされた。<br><br>ロシアに対して、皆殺し、奴隷化計画がたてられた。<br>演習としてポーランドが選ばれた。６００万人が殺された。うち３００万人はユダヤ人。<br><br>ロシアに対しても、指導層の皆殺しと住民の奴隷化が進められたが、数は不明。<br>１９４４年５月１日の文書によると、５１６万のロシア兵がとらえられ、４７万人が処刑、３００万人が捕虜収容所で餓死。<br><br>ナチスの計画<br><br> <br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/delida81/entry-11599495754.html</link>
<pubDate>Sun, 25 Aug 2013 13:48:54 +0900</pubDate>
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<title>歴史２</title>
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<![CDATA[ 1810年、ロシアはベーリング海峡からアラスカに支配権を拡大。<br><br>イギリスとロシアの対立。<br>陸地を回り、中央アジアからシベリアまで広がったロシアと<br>海を回って、西大西洋まで艦隊を派遣したイギリスが<br>どこでぶつかるか。<br>ひとつは、日本。もうひとつは、北アメリカだった。<br><br>イギリスは、自分の勢力圏にロシアが入ってくるのを牽制するため<br>同盟国をいろいろ変え、ありとあらゆる策を弄していた。<br><br>１８５３年に、アメリカがイギリスやフランスに先駆けて<br>ペリー来航という形で日本に接近。<br>ちょうどその頃、イギリスとフランスは、トルコを援助し、ロシアと戦っていた。<br>クリミア戦争である。１８５３～１８５６<br>イギリスとフランスは、なんとかしてロシアの地中海進出を防ごうと必死だった。<br>それで、対日接近に一歩遅れた。<br><br>幕府軍をフランスが支え、薩長連合をイギリスが支援する。<br><br>アメリカは１８５８年の日米通商条約を最後に、対日接近を手控える。<br>アメリカが最大の内乱である南北戦争（１８６１～１８６５）に突入したからだ。<br>アメリカは外交上の余裕を失った。<br>これは日本にとっては幸運だった。<br><br>一方、クリミア戦争にまけたロシアは、海への出口を失った。<br>そして、東北アジアへの進出を考えだす。ロシアはウラジオストクに軍を集結。<br>ロシアはいち早く、千島列島と樺太を手に入れた。<br>１８６９年、ロシアは樺太の領有を認めるよう日本に求め、日本は拒否。<br>明治の新政府ができてから、樺太は諦めた。代わりに千島列島の領有権を得た。<br>１８７５年千島、樺太交換条約。<br><br>イギリスは、１８７５年、インドでセポイの大反乱を処理し、アヘン戦争を終結させたあとの中国で<br>アロー戦争（１８５６～１８６０）を起こして、清を屈服させ、九竜半島の一部を割譲せしめた。<br>当時最大の帝国のイギリスは、ロシアが日本に迫ったのが気に食わない。<br><br>そこでイギリスは日本を支援することに決めた。<br><br>欧米列強の最大の関心は、中国だった。<br>ここでもイギリスとロシアは、正面から対立している。<br><br>この時代はどの国が覇権をとるかが重要だった。<br>「ヨーロッパで列強と呼ばれる国は、世界に膨張しなくては、三流になる」ということが言われていた。<br><br><br>１９世紀末、イギリスとアメリカで戦争の可能性があった。<br>それは、ガイアナという大西洋に面するラテンアメリカの国。当時はイギリスの植民地であった。<br>そのガイアナが隣国ベネズエラと国境紛争を起こす。イギリスが介入する。<br>ベネズエラはアメリカに仲介を依頼する。アメリカがこれをうけて、イギリスに調停案を出すと<br>イギリスは拒否した。そこでアメリカは腹をたてる。<br>アメリカのある新聞は、「戦争も辞さず」という見出しの記事を書いた。<br>結局、戦争はなかった。<br><br>イギリス、ロシア、アメリカがどんどん領土をひろげ膨張していく時代であった。<br><br>朝鮮は、日本の砲艦外交で開国した。各国に窓口を開き、１８８２年までにアメリカ、イギリス、イタリア、ロシア、フランスが<br>ソウルに在外公館を置いた。<br><br>その頃、朝鮮は親日派と反日派に分かれていた。親日派は、反清派であった。<br>日本は、朝鮮では改革派官僚と手を組んだ。進歩勢力と手を組んだ。当時のミン政権は、親日政策をとり、<br>日本人将校を招いて日本式軍隊の訓練をはじめた。<br>この動きをとめたのが、清。清は、ソウルを軍事体制化に置き、直接李朝を支配した。<br>各国の干渉を排する挙に出た。<br>ミン政権は、清への依存度を高めた。<br><br>日本との提携で、独立し近代化を達成しようとしていた改革派は、窮地に陥った。<br>そのグループの代表が金玉均（キムオクキョン）福沢諭吉の影響を受け、<br>明治維新を模範にしようとした国家改造に情熱を燃やしていた。<br>朝鮮の政治は２派に分かれた。日本派と清国派である。<br>２派の抗争の果て、１８８４年、金玉均は日本公使館の支援を受け、クーデターを実施。<br>清が出動し、直ちに鎮圧、日本公使館は炎上した。<br>在留邦人４０人以上が虐殺された。<br>金玉均は日本に亡命し、のちに上海で暗殺され、売国奴として朝鮮で遺体が八つ裂きにされたと言われる。<br>福沢諭吉は、金玉均の暗殺を契機に、朝鮮に絶望し、アジアとの共闘を断念、日本一国で近代化していこうとする。<br><br>ウラジオストクに拠点を置くロシアは、東北アジア全体の情勢を見ている。<br>中国からすでに満州鉄道の建設権を手に入れている。<br>イギリスは、朝鮮の巨文島を占領した。ロシアは怒って、朝鮮の一部も占領すると発表。<br>清が仲介に入り、ロシアもイギリスも撤退した。<br><br>その頃、ヨーロッパでは、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対し<br>ロシア、フランスの同盟強化があった。そして、アフリカ分割の幕が開きつつあった。<br><br>朝鮮では、清国派と日本派が抗争をしていたが、清の支配権が強化されていた。<br>そして、それをロシアとイギリスが牽制していた。<br>朝鮮に、農民の反乱がおき、李朝は鎮圧できかねたため、清に応援を依頼。<br>日本は認められず、朝鮮に出兵して、日清戦争が始まった。<br>日本は、不平等条約に手足を縛られた半植民地国家であった。<br>福沢諭吉は開戦論者だった。<br><br>日清戦争で勝利を収めた。<br>欧米列強は、勝利を喝采し、日本に対する彼らの特権をあいついで放棄した。<br>朝鮮は、初めてこれで中国から解放され、独立国となった。<br><br>ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉の結果、日本は中国の遼東半島の領有放棄を強いられた。<br>しかも、そこを２年後、ロシアが租借した。<br>ここへきて、日本はまだ弱小国であることを再認識するとともに<br>富国強兵が、全国民共通の目標としてエスカレートしていく。<br>「臥薪嘗胆」が国民的な合言葉になった。<br><br>そして１０年後、日露戦争がおきる。<br><br>１９世紀末から、２０世紀の初頭にかけ<br>中国の分割は、まるでアフリカのように進んでいた。<br>満州にロシア、山東省にドイツ、華北、揚子江地域、香港にイギリス、雲南省にフランス。<br>１９００年、外国勢力に進出は、中国人の反発をかきたて、義和団事件が起こる。<br>清は、各国に対して宣戦布告、ドイツと中国の公使館員が惨殺された。北京の外国公館を北京政府が襲った。<br>１３カ国が清に出兵し、日本も出兵し、鎮圧した。<br><br>この事件を機に、ロシアは満州と内モンゴルを保護領化し、清国に派兵した軍を撤兵させず<br>朝鮮国境に砲台を建設、シベリア鉄道で軍の輸送を開始した。<br><br>１９０２年、日英同盟。<br>中国に介入した西欧諸国の中で、イギリスとロシアは最大のパワーだった。<br>イギリスとロシアは、中国で利益を奪い合った。日英同盟は、日本がロシアと戦うことを想定して結ばれた同盟。<br>日本はイギリスのバックアップもあって、いわゆる大国の仲間入りをすることができた。<br>日英同盟は、１９０５年と１９１１年の２度にわたって、更新された。<br><br>日本は日露戦争で勝利した。<br>イギリスは日本に教えたことは、大国になった以上、義務が生じるということだ。<br>あらゆる大国とのパワーバランスを保ち続ける必要があるということ。<br>フランスはインドシナに植民地を所有していることから、日本との協力関係を求めてきて<br>１９０７年、日仏協約が結ばれた。日本とフランスは、朝鮮支配、インドシナ支配を相互に認め合う。<br>アメリカとも１９０５年、朝鮮支配とフィリピン支配の相互承認する。<br>１９０５年に、イギリスとも、日本の朝鮮支配を認める代わり、インド防衛の同盟義務を負っている。<br>いろんな世界の取り決めの中に巻き込まれた形になった。<br><br>日本はロシアからの復讐を恐れた。<br>ヨーロッパではこの頃、イギリス、フランス、ロシアの三国協商が成立。イギリスとロシアの積年の対決は後退した。<br>それに対し、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟が形成されている。<br>１９０７年、日露協商が結ばれ、日本の朝鮮支配、南満州支配、ロシアの内モンゴル、北満州の支配が合意された。<br>日露協商は、ロシア革命１９１７年で、無効になるまで４度続いた。<br>その４度目の更新の内容は、アメリカの中国支配阻止と、どちらかが戦争に巻き込まれた場合、相互援助義務だった。<br><br>アメリカ<br><br>占領期のダグラス・マッカッサーの父親は、アーサーマッカッサーという。<br>有名な軍人で、南北戦争の将校であった。西部フロンティアでインディアンと戦い、フィリピン征服戦争１９０２年にも<br>参加した将軍だったという話がある。<br>彼の息子は、第二次世界大戦下の太平洋で指揮をとった。<br>フィリピンで日本軍と死闘し、一度フィリピンを終われ、また戻ってきて戦勝者となった。<br>この二人の親子の物語は、西部開拓のインディアン掃討戦、フィリピン征服戦争、第二次世界大戦という<br>３つのアメリカの戦争が時代的に近いものであったことを考えさせられる。<br><br>アメリカが急激に膨張したのは、イギリスが中国沿岸で、アヘン戦争を起こした頃。<br>１８４６年に、メキシコと戦争、テキサス、ネバダ、アリゾナ、ユタ、ニューメキシコ、コロラドの大部分を手に入れた。<br>その余波をかって、ペリーが日本に黒船でやってくる。メキシコとの戦争が終わってから５年目のことだった。<br><br>それからアメリカは南北戦争に突入する。（１８６１～１８６５）<br>そして膨張は足踏みする。それから１８６７年に、ロシアからアラスカを購入し、しばらくはおとなしかった。<br><br>世界強国への道を歩みだしたのは、１８９８年、スペインとの戦争が始まりだった。<br>アメリカはそれに先立って、ハワイを侵略、スペインとの戦争で、プエルトリコ、グアム、フィリピンを押さえた。<br>さらに独立を求めたフィリピンとの３年半の戦いで、フィリピンを完全に植民地にした。<br>加えて、ウエーク、サモア、ミッドウェー等を押さえた。<br>中国への利権を目指して、アメリカが西へ西へと領土を伸張させていた。<br><br>スペイン人によるインディオ征服は<br>アメリカの初代大統領のワシントンは、インディアンを猛獣と称し、狼と同じだが形が違うと言った。<br>第三代大統領はトマスジェファーソンは、インディアンに向かって、わが子供たちと話しかけた。<br>第３２代大統領のフランクリンルーズベルトは、日本人が凶暴なのは、頭蓋骨の形態にあると信じていた。<br>第２６代大統領のセオドアルーズベルトは、アメリカインディアンの事実上の絶滅を指示すると公言した。<br><br>日本人移民がアメリカに到着する前、中国移民が大量に存在していた。<br>中国人労働者は、大陸横断鉄道建設の労務者として連れてこられた。<br>１８５４年、白人のかかわる裁判で、中国人は証人となることを禁じられた。<br>すでにインディアンが同様の措置を受けており、インディアンと中国人は同じ人種だからという理由。<br>１８７９年、カリフォルニアの州憲法は、中国人に対し、精神遅延、精神異常という理由で、参政権を拒否。<br>３年後に、中国の移民を禁止した。<br>そして、その直後、日系移民が登場する。<br><br>１９０４年、アメリカ陸海軍の統合会議が開かれて、世界戦略の研究に着手した。<br>戦争が始まったとき、それぞれの国とどのように戦うかという計画策定案だった。<br>ドイツを仮想敵国にしたのが、ブラックプラン、イギリスに対してはレッドプラン、日本に対してはオレンジプラン<br>南米はまとめてパープルプラン、カナダに対してはクリムゾンプラン、メキシコに対してはグリーンプラン。<br><br>日比谷焼き討ち事件<br>日露戦争が終わった時期、ロシアからは樺太を譲渡されただけで、賠償金がとれなかった日本に対して<br>大衆は不満で、大勝利に対する粗末な外交ということで、日比谷の騒乱になった。<br><br><br>１９０８年３月、突如、アメリカは威嚇行動に出た。<br>アメリカの大西洋艦隊を、太平洋に集結させ、日本近海に近づけた。<br>日本の連合艦隊の２倍もあるアメリカの艦隊の接近は、日本を恐怖に陥れた。<br>白船来航。<br>船は、白いペンキで塗りたくられていて、グレートホワイトフリートと呼ばれていたので、<br>日本人たちは、かつての黒船と区別し白船と言いはじめた。<br>アメリカの大西洋艦隊は、１６隻で構成されていた。日本には７隻しかない。<br>アメリカにしてみると、日本をこのままほうっておくと太平洋の軍事バランスが崩れるということ。<br>なぜならば、ロシアのバルチック艦隊を破った世界有数の日本艦隊が覇権を握るからだ。<br>そのため、威嚇行動に出た。<br><br>フランスのジャーナリズムは、日米戦争がはじまると書きたてた。<br>対米戦争に負けたばかりのスペインから、軍資金の援助をするので、遠慮なく言ってほしいとの申し出もあった。<br>日本人は心の底から、驚いた。アメリカでは、明日にでも日本が攻めてくるというキャンペーンが一斉に開始された。<br><br>日本はどのように対処したか。<br>友好国キャンペーンを一斉に展開した。朝日新聞は、米艦歓迎英語会話欄を設けた。市内見物のアメリカに対し<br>どのように接するかのマニュアルを載せた。白船が横浜に入港した際、朝日新聞は、歓迎歌を載せている。<br>眠れる日本をおこしてくれてから、５０年になる、いさめてくれたお陰で日本は栄えた、友よ、感謝するという内容。<br>日本のマスコミは、一面でアメリカに媚を売り、２面で国民に粗相のないようにと説教した。<br>新橋駅のホームには、千名の小学生が、星条旗よ永遠なれを歌った。艦隊の幹部たちは、晩餐会に引っ張りだこだった。<br><br>日本から白船が去って２週間後、日本の連合艦隊は九州の東南沖で演習を行った。<br>艦隊を３班に分け、１班を奄美大島を占領したアメリカ軍とし、２、３班にこれを迎撃する訓練を行った。<br>アメリカを熱狂的に歓迎攻めにしておいた後で、彼らが立ち去るとたちまち豹変した。<br><br>１９１３年、アメリカに日米戦争に備え、軍艦三隻を動かそうという開戦説が浮上した。<br>外国人土地法。<br>日本人は、アメリカ市民権を取得できない資格剥奪者は、土地所有権を奪われるという法律。<br>きわめて露骨な日本人を狙い撃ちした法律であった。<br>日本政府は、アメリカに猛烈に抗議した。大統領ウィルソンは、日本は戦争を予定しているのではないかと憂慮し<br>ワシントン政府は緊張した。<br><br>海軍作戦部長ブラッドリーフィスク少将は、このカルフォルニア土地法を開戦理由として<br>日本がフィリピンとハワイを奇襲するであろうから、それに備えて軍艦三隻を派遣するよう提案した。<br>ウィルソンの判断で、これは見送りになった。<br><br>第一次大戦の戦後処理をしたパリ講和会議で、日本政府代表が人種平等に関する提案<br>いわゆる人種差別撤廃法案を提出した。<br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/delida81/entry-11599421886.html</link>
<pubDate>Sun, 25 Aug 2013 11:17:21 +0900</pubDate>
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<title>歴史１</title>
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<![CDATA[ １６世紀終わりごろまで、遊牧騎馬民族が、世界を支配していた。<br>広大なユーラシア大陸では、ある循環がある。<br>トルコ・モンゴル系の遊牧民族が、北方のモンゴル高原から大挙して南下してくる。<br>強大な勢力に膨れ上がり、いわゆる遊牧帝国を形成する。<br><br>遊牧帝国は、ある程度まで発展すると、分裂崩壊する。<br>そこで今まで抑圧されてきたオアシスの定住民が権力を握る。<br>定着民は、色が白いアーリア系の人種。<br>遊牧民は、定着民と混血し、定住しはじめる。<br>そこでしばらく均衡状態が続く。<br><br>しばらくすると、また北方から遊牧民がやってきて、戦いが起こる。<br>この循環が続いていた。遊牧民と定住民が栄枯盛衰を繰り返す。<br><br>世界の５分の３を支配下においたチンギスハーンのモンゴル帝国がその頂点。<br>モンゴル支配下の中国は、元朝と称されている。<br>モンゴル支配により、中国は大きく根本的に変わった。<br>朱子学が生まれ、制度もモンゴル流になった。飲食物も、肉料理や香辛料をつかった味付け<br>麺を食べる習慣も、モンゴル民族がもちこんだもの。<br><br>そして、モンゴル帝国は、１３６８年に内乱が起きて、元朝は中国を失って、モンゴル高原へ引き上げる。<br>モンゴル人が、中国を失ったのは、宗教秘密結社の白蓮教の反乱による。<br>赤い頭巾をめじるしにしたので、紅巾の乱と呼ばれる。<br>明の太祖、洪武帝は、この紅巾軍の出身である。<br>モンゴルは中国から撤退したものの、まだ中国の何倍もの領土を支配していた。<br><br>明の永楽帝は、モンゴル帝国を滅ぼすため、戦争を仕掛けるが、負け続けた。<br>１５世紀中ごろ、元朝は再び勢力を拡大し、１４４９年、明の北境へ侵入。<br>これを迎え撃った明の帝は捕らえられ、北京は包囲された。<br>翌年、明の帝は釈放された。<br><br>１５７１年、明の劉慶帝とモンゴルのアルタンハーンは、平和条約を結んだ。<br>ようやく草原に平和が訪れた。<br>モンゴルのアルタンハーンは、チベットを支配し、チベット仏教にほれ込んだ。<br>そしてモンゴルの国教をチベット仏教とした。チベットが、モンゴルの精神的支柱になった。<br>教主をダライラマと呼ぶようになった。<br>このごろ、信長が比叡山を焼き討ちしている。<br><br>明朝とモンゴルが平和条約を結んだごろ、スペイン人がフィリピンに植民を始めた。<br>１５７１年、マニラ市を建設。ここを基地として、中国相手に貿易を始める。<br>メキシコの銀が、マニラ経由で大量に中国に流れ込んだ。<br>そのおかげで、中国は銀本位制に移行し、大発展を遂げる。<br>中国で、消費ブームで巻き起こる。<br>朝鮮人参や毛皮が売れるようになった。<br><br>そのころ、満州を支配していたのが、ヌルハチ、清の太祖である。<br>１５８９年までに、満州の諸部族を統合した。<br><br>１５９２年、日本軍が朝鮮に侵入した。文禄の役。<br>朝鮮に救援に向かった明軍の司令官、李如松（りじょしょう）は、小早川隆景の軍に大敗した。<br>そして、翌年、モンゴル族の進入を迎えうち、戦死した。<br><br>こうして、明軍は弱体化。<br>ヌルハチは、明の国境地帯を次々に併合し、１６１６年、皇帝を名乗る。<br>危機感を抱いた明軍は、１６１９年、朝鮮にもよびかけ、８万名の連合軍を結成。<br>四路からヌルハチの城を攻めたが、大敗した。<br><br>ヌルハチは、明を攻め、明の一部を支配した。１６２６年、ヌルハチは死に、８男のホンタイジが後を継ぐ。<br>モンゴルは、満州族の攻撃から逃れるため、より西方のモンゴル高原へ逃げた。<br><br>１６３６年、漢人、満州国、モンゴル人と大会議を開き、清朝が建国された。<br>こうして、モンゴル帝国、満州、中国の一部は、満州人が支配するようになる。<br><br>この時、ホンタイジは、朝鮮にも、自分の即位に同意を求めた。<br>しかし、朝鮮は明に恩があるため、拒絶。そこで、ホンタイジは清軍を率いて、<br>朝鮮に侵攻、１６３７年にソウルの南にたてこもった朝鮮国王を包囲し、降伏させた。<br><br>１６４３年、ホンタイジが死ぬ。モンゴル人の皇后が産んだ子供が、即位した。<br>１６４４年、明朝は滅亡。正式に、清朝の皇帝が、モンゴル、満州、中国を統治することになる。<br><br>降伏した漢人は、服従のしるしとして、辮髪（べんぱつ）を強制。<br>辮髪とは、前頭部をそり、後頭部の髪を３つ編みにして背後にたらす。<br>漢人の風俗は満州化した。<br><br>日本<br>明が満州に滅ぼされ、清朝になった。<br>何度も中国を奪われる漢民族に軽蔑の情が生まれる。<br>明の遺臣は、２度にわたり清朝皇帝に反乱を起こし、日本に救援を求めてきた。<br>徳川政権は一度、本気で介入を考えた。<br>将軍家光は、２万の兵を中国沿岸に上陸させる計画さえもっていた。<br>しかし、明の遺臣が大敗した情報を聞き、辞めた。<br><br>北京は、大都という名で、モンゴル人が建設した都市。<br>フビライハーンには、世界を構想する計画があった。<br>まず、モンゴル帝国の権力の源泉に、草原の軍事力をおいた。<br>そして商業を活性化させようとした。当時、ユーラシア大陸の通商を握っていたのは<br>ムスリム商業勢力だった。<br>フビライハーンは、ムスリムの商業力を活用しようと考えた。<br><br>西暦１２６０年代のモンゴル帝国の版図はすごい。<br>中国はもとより、イラン、イラクなども支配下に入る。<br>帝国は、ロシア、ウクライナ、ポーランド、東ドイツまで支配下に治めた。<br>ローマ教皇もモンゴルに使者を送ったり、フランスのルイ９世も使者を送っている。<br>マルコポーロも、そのころ、フビライハーンの宮廷を訪れ、東方見聞録を書いた。<br>ユーラシアの東端、西端は、統治を免れた。<br>すなわち、西ヨーロッパと日本である。<br>１５世紀にモンゴルが衰退した後、ポルトガル、スペインが動き出す。<br><br>１４世紀後半から、徐々にモンゴル帝国の衰退が始まった。<br><br>オスマントルコなど西アジアのイスラム勢力は、ヨーロッパにとって最大の脅威だった。<br>１６世紀に、ウィーンは攻撃包囲され、一度イスラム勢力を追い払ったスペインまでも脅かされた。<br>１５７１年に、レパントの海戦で、スペイン艦隊がイスラムをやっつけ、イスラムの脅威はおさまった。<br><br><br>アフリカの北西海岸、モロッコの沖にカナリア諸島がある。スペイン領である。<br>その少し北にあるマディラ諸島はポルトガル領、アゾレス諸島もポルトガル領。<br>この一帯の海域で、１５世紀、１６世紀にかけ、ポルトガルとスペインが戦争をする。<br>そして、両国の中から、地球を二分割して征服する計画が立ち上がる。<br><br>ユーラシア大陸を支配したのは、トルコ・モンゴル系の遊牧騎馬民族だった。<br>スペイン、ポルトガルは、ユーラシアの騎馬民族と戦うのではなく、西の海へと興味は向かった。<br>１４１５年、ポルトガルのエンリケ王子が、アフリカのモロッコのセウタを攻略した。<br>それから、３０年かけ、周辺の諸島を調査した。<br><br>ローマ法王は、この試みに心を動かされた。<br>１４５０年、決定的に重要な出来事が起こった。<br>ギニアを越え、アフリカの南端にいたるまでの陸地の征服が、永久にポルトガル国王に帰属する旨の<br>大勅書が教皇から出されたのだ。<br>このように、ある地域を領有し、独占的に航海、貿易、布教を自由にできる規定を<br>デマルカシオン（境界画定）と呼ぶ。１４５０年は、初めてのデマルカシオン。<br><br>他方、海外進出に遅れたスペインは、アフリカ西海岸の島々の奪取をめぐり、ポルトガルと戦争する。<br>その結果、１４７９年、両国の間で、アルカソヴァス条約が結ばれる。<br>カナリア諸島だけがスペイン領、ほかは全てポルトガル領という内容だった。<br><br>コロンブスは、マルコポーロにインスパイアされて、大西洋周りでインドと日本に行きたがった。<br>各国王室を口説いて回るが、ポルトガル、イギリス、フランスの王室に断られ、スペインで採用された。<br><br>スペインはちょうどその時、イベリア半島に居座っていたイスラム勢力を追い払い<br>カトリックが勢いづいていた。スペインは国威発揚と経済立て直しの理由から、コロンブスを支援。<br>コロンブスがアメリカ大陸を発見した１４９２年は、スペイン南部のイスラム教徒の最後の砦グラナダが攻略され<br>ヨーロッパがはじめて反イスラムで一団となり、キリスト教徒として大同団結した年である。<br><br>ヨーロッパ人による大航海時代は、イスラム教徒をいかにして打倒するかという<br>キリスト教の戦闘意識が背景にある。<br><br>コロンブスの成功は、ポルトガルに比べ遅れていたスペインの海外展開レベルを一気に引き上げた。<br>スペイン国王は、発見された新大陸の領有の承認をローマ教皇に求めた。<br>ポルトガル国王は、カナリア諸島の北はスペイン領、南はポルトガル領という提案を行う。<br>ローマ教皇アレクサンデル６世の結論はこうだ。<br>「ベルデ岬より西３７０グレワの地点から、南北に線を引き、西は全てスペイン領、東は全てポルトガル領とする。」<br>１４９４年６月７日、両国でトリデシリャス条約が結ばれた。<br><br>そこから、スペインとポルトガルにより地球争奪競争が始まる。<br>１４９７年にリスボンを出たポルトガルのヴァスコダガマ遠征隊は、アフリカの南端、喜望峰をめぐり、<br>インド洋を渡って、１４９８年、インド西南のカリカットに入港した。<br>彼らは、カリカットの豊かさと、そこを牛耳ってるのがイスラム教徒という事実に驚く。<br><br>ポルトガルは、インドのゴアをアジア攻略の拠点と決めた。<br>そこにルネサンス様式の壮大な寺院や宮殿を建設した。<br>そして、さらに東進し、マラッカを占領、モルッカ諸島を支配下においた。<br>モルッカ諸島は、胡椒、香辛料の一大生産地で、ヨーロッパ人が最大の犠牲を払ってでも手に入れたい島だった。<br><br>ポルトガルは、ここを拠点に展開した。<br>１６世紀中頃に、日本と中国に進出した。<br>ザビエルの来日は、１５４９年、ポルトガル人がマカオ居住権を得たのは、１５５７年。<br>ポルトガルは、ブラジルに進出、ここを世界一のさとうきび畑とし、大量の奴隷をアフリカから連れてきて<br>働かせた。南米でブラジルだけがポルトガル圏に属するのは、これが理由。<br><br>一方、スペインの中南米破壊の歴史もひどい。<br>１５３３年、ピサロによるインカ帝国征服。そこから莫大な富を得て、スペインの黄金時代になる。<br>文学や、宮廷美術の全盛期は、１５５０年から１６８０年まで続く。<br>ポルトガル人でありながら、スペイン王室のために働いたのは、マゼラン。<br>１５１９年に始まり、グアムやサイパン、マリアナ諸島まで足跡をつけ、１５２１年フィリピンで戦死。<br><br>マゼラン隊の航海の結果、モルッカ諸島の帰属の問題が立ち上がった。<br>胡椒と香辛料は、莫大な金になった。食肉の保存のために、防腐剤と脱臭剤、医薬品としても売れた。<br>１５２９年、両国はサラゴサで会い、条約を結んだ。<br>スペイン国王は、モルッカ諸島に関する全ての権利を、莫大な金でポルトガルに売る。<br>モルッカ諸島の東の地域を拠点に、南北に線を引き、東をスペイン領、西をポルトガルとした。<br>サラゴサ条約。<br><br>ローマ教皇は、全面バックアップしたのであるが、理論的根拠は何か。<br>１、イスラムやトルコ人はこれまでキリスト教の国土を不当に占拠し続けた。だから、彼らに対する戦争は正当。<br>２、東洋各地、ブラジルでは、宣教師が危険を顧みず、布教にいった。霊魂の救済を行うのだから、優遇をうける権利がある。　<br>　　彼らの意見に耳を傾けないものに対する戦争は正当。<br>３、アメリカ大陸の原住民。野蛮な悪習を守り、それをやめようとしない。武力で服従させるための戦争は正当。<br><br>人類が神の名において、別の地域の人類を支配し、奴隷化することが許されている。<br><br>豊臣秀吉<br>武力によって、天下統一を果たした。<br>次に見えてくるものは、世界だった。<br><br>当時の世界情勢は次のようなものだった。<br>ポルトガル、スペインの頂点にはフィリップ２世がいた。すぐ隣の中国では、<br>ヌルハチが明を破って清王朝を築いた。言うことを聞かない朝鮮を打ち負かしてもいる。<br><br>文禄元年１５９２年、日本軍はプサンに上陸、わずか２０日あまりでソウルを占領した。<br>陣営をおいた名古屋で勝利の報を聞いた秀吉は、関白秀次宛に、書簡を送っている。<br><br>「北京に後陽成天皇を移す。都の周辺の１０カ国を進上する。そして、甥の秀次を中国の関白とする。<br>１００カ国を渡す。日本の国内の天皇には、皇太子良仁親王かその弟。日本の関白には、豊臣秀保や宇喜多秀家。<br>そして秀吉自ら、北京に入り、その後、寧波に居を定める。<br>そこから、諸侯に命じて、インドを好き勝手に切り取らせる。」<br><br>秀吉は、これに先立ち、琉球、台湾、ルソンに服属を要求していた。<br><br>彼の世界戦略は、ひとことで言えば、モンゴルのチンギスハーン、スペインのフィリップ２世と<br>同じ視点で世界を見ていた。彼は、明の王や、フィリップ２世など世界各国の王に手紙を送っている。<br><br>「自分は太陽の子である。壮年になり、天下統一をめざしたところ、わずか１１年で諸国の賊を滅亡せしめ<br>日本を統一することに成功した。今では、国は富み栄え、民はいきいきしている。やろうと思ってなしとげられないことはない。<br>予の力にあらず、天の致すところなり」<br><br>１５９１年、秀吉が建てた聚楽第で、ポルトガル人使節団との謁見が行われた。<br>すでにこの頃、ポルトガルはスペインに併合されていて、フィリップ２世がポルトガルの国王でもあった。<br>秀吉に届けられた贈答品は、豪華な飾りをつけたアラビア馬一頭、金銀をちりばめた甲冑２組、金の太刀、火縄銃、<br>時計であった。目録と手紙は、今も京都の妙法院に保管されている。<br>他方、日本からも刀、薙刀、象眼細工の花、動物をちりばめた甲冑２式が返答品として送られた。<br>それに添えた手紙で、日本は神道と仏教の国であるから、キリストの宣教師がここで活動するのは好ましくないと書いた。<br>また、自分が天下統一した話も書き、次は中国を狙っている旨も書いている。<br>甲冑２式は、今でもマドリードの王室兵器博物館に陳列されている。<br><br>スペインは、南ヨーロッパの全域を支配し、中南米大陸を征服、１５７１年のレパントの海戦で<br>オスマントルコを破り、イスラム世界も打倒した。マニラを基地としたアジア展開もにらんでいた。<br>フィリップ２世は、残酷な異端審問で名をはせた、宗教的非寛容のカリスマだった。<br><br>秀吉を支えたブレーン<br>林羅山。華夷変態という言葉がある。世界システムの辺境から、新しい権力が現れ、あらたな生産力を獲得し<br>やがては中華に挑戦し、崩壊させてしまおうという言葉。<br>秀吉は失敗し、自滅した。<br>中国をのっとったのは、女真族のヌルハチ、のちの清だった。<br><br>１５９８年８月１８日、秀吉は伏見城で死んだ。<br>フィリップ２世は、エスコリアール宮殿で９月１３日に死んだ。<br>地球の裏と表で、会うこともなかった。<br><br>秀吉が心を許していたのは、ポルトガル人の通訳ロドリゲス。秀吉は、頑丈な船をプレゼントした。<br>しかし、７年も交流があったにも、かかわらず、キリスト教の話は一回もすることは許されなかった。<br>貿易は許すが、布教は許さないという態度だった。<br><br>スペイン人のフランシスコザビエル。<br>１５４９年に、マラッカから鹿児島にやってきた。<br>ザビエルは、日本は一人の王が支配し、大学があると聞いていた。<br>王に謁見して、布教を許してもらい、大学で論争して布教するという狙いだった。<br>大学というのは、比叡山延暦寺のことである。<br><br>鹿児島の上陸したザビエルは、領主島津貴久から布教の自由を許された。<br>寺の境内で、布教活動し、それなりに信者も増えたが、仏教の激しい抵抗もあり、<br>鹿児島を離れ、京都に向かうことにした。<br><br>１５５１年、京都につくが、室町幕府の末期の京都はあれ荒んでいた。<br>天皇も将軍も権威を失っていた。比叡山延暦寺は、ザビエルを拒んだ。<br>彼は失望し、京都を離れる。１１日しか滞在していない。<br><br>次は、山口に行った。領主に、贈り物を贈った。<br>時計、楽器、めがね、お酒、織物など珍しい贈り物である。領主から寺を与えられ、布教を許された。<br>記録によると、訪問者はあいついで訪れた。日本人を魅了したテーマは、天体の運行、雷、雨、月の満ち欠けなど<br>自然現象に関するものだった。キリストが、天地万物を作ったという思想は、なかなか受け入れられなかった。<br><br>ポルトガルからの援助がきれたため、ザビエルは一旦、インドに帰り、宣教師のメンバーを揃えて<br>来日しようという計画を立てた。しかし、１５５２年、ザビエルは広東港で熱病で死んだ。４６歳。<br>ザビエルの日本滞在はわずか２年３ヶ月。<br><br>１５、１６世紀は、スペイン、ポルトガル人。<br>１７世紀はオランダ人。<br>１８世紀のイギリス人とフランス人。<br><br><br>アジアには４つの帝国が存在していた。<br>ヨーロッパの隣に巨大なロシアのロマノフ王朝。<br>南方の西アジアにオスマントルコ帝国、インドのムガール帝国、東アジアの清帝国。<br><br>ロマノフ王朝は、領土拡張を図り、１９世紀にはヨーロッパ列強の一員になる。<br>オスマントルコは、１５２９年、ウィーンを包囲して、西ヨーロッパを脅かし、１５７１年、レパントの海戦で<br>スペインに大敗した。決定的な敗退は、１９世紀のクリミア戦争で、ロシアと戦ったあたり。<br><br>ムガール帝国は、イギリスとフランスの争奪戦の対象になり、<br>１７５７年、プラッシーの戦いで、フランスにイギリスが勝ち、１００年後、１８５８年に<br>イギリスの植民地となった。<br><br>清朝は、満州地方の女真族がたてた国家。<br>清は１９世紀に入ると、急激な人口増、官僚の腐敗、アヘン密輸入、銀の流出などによる財政破綻で<br>衰退の時代に入った。<br>清は、アヘン戦争に敗北し、１８４２年に南京条約を締結、香港を割譲した。<br><br>アヘン戦争<br>イギリスは、清から茶を輸入していた。<br>イギリスは、メキシコやスペインから買い入れた銀で、茶を購入していた。<br>これにより、清国の国内には、銀がだぶつくようになった。<br>イギリスからは銀が流出するため、財政危機に見まわれるようになった。<br><br>イギリスは、インド人にアヘンを作らせた。茶の支払いの代わりに、アヘンで支払った。<br>官僚は腐敗していたので、黙過した。<br>１８３８年、道光帝はアヘンの販売、吸引を死罪とした。<br><br>自由貿易をうたうイギリスは、艦船を中国に向けてだし、戦争が始まった。<br>戦争は２年続いた。圧倒するイギリス海軍が海上を封鎖した。１８４２年、清朝は屈辱の南京条約に調印した。<br>イギリスは、それにさきだって、香港を占領し、永久居留地とした。<br><br>アヘン戦争は、イギリスでは決して輸入を許していないアヘンを清におしつけ<br>イギリスの財政基盤を支えるとともに、中国大陸ものっとった戦争。<br><br>近代日本<br><br>イギリス、フランス、ロシア、オランダ、アメリカ、ドイツなどの列強がいたこと。<br><br>イギリスのインド支配の完成は、明治維新の１０年前、ビルマは明治１９年、マレー半島は明治４２年。<br>フランスは清仏戦争で、清からベトナムを奪うのが、明治２０年。<br>インドネシアが正式にオランダ領となるのが、明治３７年。南太平洋からはアメリカが北上。<br>アメリカによりハワイの併合が、明治３１年、フィリピン奪取も同じ年。<br>他方、北からは、港を求めてロシアが南下してくる。<br><br>このままでは、朝鮮がのっとられて、次は日本がやられる。<br><br>１９世紀はじめのヨーロッパにナポレオン戦争があった。<br>ナポレオンが失脚した１８１５年に、ウィーン体制が始まる。<br>ナポレオン時代は、戦争に戦争が相次ぐ動乱期。<br>フランス革命の精神的余波が、ヨーロッパ中に広まった革命精神の高揚期でもあった。<br><br>ウィーン体制は、この反動で、安静、安定、秩序というものを<br>何よりも望む保守的時代に入る。その中心にいたのが、オーストリアの宰相、メッテルニヒである。<br>ヨーロッパでは、しばらく平和が保たれる。<br><br>しかし、ナポレオン戦争中に、すでにスペインの植民地であった中南米諸国が<br>スペイン本国が占領された機会に乗じて、次々に反抗ののろしを上げた。<br>１８１６年、アルゼンチンの独立、１８１８年チリが独立、１８１９年コロンビア、１８２１年メキシコ<br>１８２２年、ブラジルもポルトガルの支配を脱して、独立した。<br><br>メッテルニヒは、武力で干渉しようとしたが、<br>イギリスの反対にあった。イギリスは、中南米市場を自由貿易市場に変えたばかりであり<br>中南米全域を無敵のイギリス海軍が守っていた。<br>大西洋世界における平和を守ったのは、事実上、イギリス海軍だった。<br><br>１８２３年、アメリカでモンロー宣言。<br>南北両大陸へ、ヨーロッパの干渉を拒絶する宣言だった。<br>この当時、まだ弱小だったアメリカが、世界制覇を目論んでいる。
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<link>https://ameblo.jp/delida81/entry-11599421541.html</link>
<pubDate>Sun, 25 Aug 2013 11:16:38 +0900</pubDate>
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<title>哲学史まとめ</title>
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<![CDATA[ 全て人間は生まれながらにして知ることを欲する<br>形而上学アリストテレス　<br><br>古代ギリシャにおいて哲学が生まれた時<br>そのテーマは宇宙の根源は何かであった。<br><br>後のカントやヘーゲルの時代になると、人はどうやって物事を認識するかとか<br>宇宙のしくみの大本は何かなどを解明しようとする。<br><br>そして現代の哲学になったりすると<br>キルケゴールの実存主義、人の生き方をとく哲学に近い<br>マルクスの社会主義へと広範な範囲に拡大する<br><br>哲学の祖タレスは、万物の根源は水であると説いた。<br>タレスは紀元前６世紀ごろ、ギリシャ地方のミレトスという地域で<br>多くの分野において、大胆な思想を展開した人。<br><br>彼は動植物の種子は、湿気を帯びている。また水は、気体にも液体にも固体にもなる。<br>すべては水から生まれて水へ帰っていくと説いた。<br><br>日本は縄文時代。<br>そんな昔に、世界がひとつの原理から生まれているという疑問をもったこと自体が驚き。<br><br>ピタゴラス<br>数学者であっただけでなく、宗教教団の教祖であった。<br>前６世紀ごろ、南イタリアのクロトンに移住し、教団を設立。<br>輪廻転生を信じる東方起源のオルペウス教に影響をうけた集団であった。<br><br>その教理によると、人間の魂は不死であり、罪をおかすと運命の輪に組み込まれる。<br>つまり、死後に、再びほかの人間、動植物に生まれ変わってしまうという。<br><br>この教団では、音楽に関する理論が重んじられた。<br>数の性質が、音階や世界構造と関係があることを明らかにし<br>この世界の根本にあるのは、数であると考えた。<br>万物は数によって成り立っていると説いた。<br><br>彼の思想は、プラトンに影響を与える。<br><br>ヘラクレイトス<br>万物は流転する。<br>同じ川に足を踏み入れることはできない。<br><br>この世界は川の流れのように、一度も止まることのない世界であるから<br>人は同じ川に二度と入ることはできない。<br><br><br>ソクラテスは、問答することによって、日常的な思い込み（ドグサ）から脱却し、<br>真の知識を生み出す手助けをした。<br>この方法は、問答法、産婆術とよばれる。<br><br>相手を一方的に説得する弁論術とは異なり、問いを発することにより<br>相手の思い込みを打ち破る。こうして知への覚醒を促すのである。<br><br>ソクラテスのアイロニー<br>あるテーマについて、相手と問答するとき、自分が無知であるようにすっとぼける。<br>私はそれを知らないから教えてくれという。<br>そうやって、質疑応答をしていき、いつの間にか、相手の無知がさらけだされるという方法。<br><br>プラトンによれば<br>どんな人間でも、多かれ少なかれ、最初は肉欲的官能におぼれる。<br>飽くなき欲求とその充足というむなしい繰り返しの人生を送る。<br>そして、いつかそのループに嫌気がさしてくる。<br>やがて、もっともすばらしい愛があるのではないかと気付く。<br>この瞬間、新たな段階へと高次化し、精神的、人格的な結びつきをもった愛の交わりとして表れる。<br><br>肉体的欲求が、高次の精神的探求の態度へと昇華していく。<br>これが、真の恋愛であるという。<br><br>やはり、私たちは、いつも永遠なるもの、完全なるもの、理想をもとめてやまない存在。<br>生成消滅する世界の中で、むなしさを感じる時、誰もがイデアを求めている。<br><br>私たちは、何を目指して行為をしているのか。<br>アリストテレスは、人間にとって最高の善は、幸福であると考えた。<br>幸福を三種類に分けた。<br>快楽を中心とした生き方、飲食と性<br>国事に従事する名誉を中心とする生き方<br>感想を重んじる生き方<br><br>彼は感想を重んじる生き方を最高とした。理性を働かせて、最高の真理である神について思考することができれば<br>人間は神の永遠性にあずかることができる。<br>理性を駆使して、世界のことをさまざまに知ることこそが、最高の幸福である。<br>このような認識を観想（テオーリア）という。<br><br>アリストテレス哲学は、実践よりもテオーリアに重きがあると考えた。<br>もっと簡単にいえば、哲学してれば、幸せになると考えた。<br><br>では具体的にどうすればいいか。<br>まず、苦しい時や悲しい時に、どのような態度をとるかで、魂のよさが決定される。<br>中庸とは、さまざまな感情に対して、過度に強くも弱くも反応せず、その中間をとること。<br>恐怖と暴勇の中間は、勇敢。金銭においては、浪費とケチの間は、適度。<br>なんでも、中間をとることによって、魂のパフォーマンスを最大限に発揮できる。<br><br>さらに、徳には、知性的徳と、習性的徳がある。<br>知性的徳とは、教育によって知性を高めていくということ。つまり勉強。<br>習性的徳とは、習慣によって得られる。朝ジョギングするとか。<br>徳は、習慣によって、完成させることができる。<br><br>アレクサンドロスの世界帝国の出現は、ポリス社会の崩壊をもたらす。<br>こうした時代背景のもとにでてきたのが、ストア派とエピクロス派の哲学。<br>両者とも苦しい人生をいかにして乗り切るかという学問である。<br><br>エピクロスは、体に苦痛がないことを重複し<br>アタラクシア魂の平静を求めた。つまりできるだけ、心身ともに健康であればよいというもの。<br>エピクロスによると、心身の健康を妨げる最大の障壁は、迷信から生ずる恐怖と死に対する恐怖である。<br>そこで彼は、正しい自然観をもって、迷信的な恐怖を捨てることをすすめる。<br><br>アタラクシア心の平静が得られる安全な生活は、知的な哲学探究を行い<br>肉体的快楽をできるだけ避ける、清貧の生活である。<br>よって、できるだけ社会から離れて、隠れて生きるのが理想。<br><br>アウグスティヌスは、人はなぜ真実を求めようとするのか問う。<br>それは幸福になりたいからである。<br>人間は限りない幸福を求める。いつか終わってしまう幸福を求めているわけではない。<br>しかし、現実には、永遠に続く幸福を求めることは不可能である。<br>人間は有限な存在だからこそ、どんな幸福もいつかは途切れる。<br><br>社会的地位を得て、金を溜め込んだとしても、死を免れることはできない。<br>人間が無限なる幸福を見出すことができるのは、永遠なるものにおいて以外にない。それは神だ。<br><br>ベーコン<br>思い込みをなくすことが科学的ということ<br>真理を発見するために、真理に近づくのを妨害するイドラを取り除くべき。<br>イドラとは、幻影や先入観。<br>頑固では科学をやっていく資格がない。<br><br>バークリ<br>存在するとは、知覚するということである。<br><br>ヒューム<br>人間とは、思いもつかない速さで次々と継起し、絶えず変化し<br>動き続けるさまざまな知覚の束、あるいは集合に他ならない<br><br>ショウペンハウアー<br>論理ではなく、むしろ欲望や感情のようなものが世界の根本にある。<br>この欲望や感情を意志とよんだ。<br>苦悩の鎮静剤として、芸術的鑑賞と同苦と禁欲を進める。<br>芸術は、認識のレベルを高め、同苦は苦しみを和らげる<br><br>禁欲による意志の滅却を進める。<br>ショウペンハウアーは、インド思想の影響をうけて、最終的には解脱に興味をもつ。<br><br>ニーチェは永遠回帰というモデルを提唱。<br>神が存在しないということは、創造も終末もない。<br>時間は丸い輪である。同じことの繰り返しが永遠に続く。<br>この世界には、夢も希望もない。<br>だが、この世界をありのまま受け入れて、愛するべきだと説く。創造と破壊の無限な循環を肯定し<br>瞬間瞬間を生き抜くという考え。<br>同じことの繰り返しを、積極的に肯定していく。<br><br>キルケゴール<br>美的実存段階、人は誰でも快楽に生きる。毎日が楽しければそれでいいと説く<br>人は、すぐに快楽に飽き、退屈して憂鬱になる<br>人間関係も希薄になる<br><br>次は、倫理的実存段階　<br>特定なものに深く係わり合い、義務を果たす生活。<br>それは特定のものに責任をもって生きる生き方。<br>良心をもって、厳粛に生きる生き方。<br><br>また、絶望する。良心に従って生きようとすればするほど、できずに自己の無力感に苛まされる。<br>第三段階は、宗教的実存段階。神を信じて救われる。<br><br>サルトル<br>実存は本質に先立つ。<br><br>人間はまず、突如として世界に生まれる。投げ出される。そのときには、本質は決まっていない。<br>世界にまず実存してから、自分自身の本質をつくっていく。<br><br>ベンサム<br>人間には快楽と苦痛しかない。快苦こそ、人間のいっさいの言動と思考を支配する。<br>人間が何をなすべきかを決定するのは、このふたつの基準だけ。<br>快を増す行為が、善であり、苦をます行為が、悪である。これを功利の原理という。<br><br>ミル<br>満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。<br>満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。<br><br>快楽にも高級なものと下劣なものがある。<br>酒の飲み放題から得られる快楽と、文学に感動して涙を流す幸福は、質が違う。<br><br>人間は、自分の生命、身体、財産に関して、他人に危害を及ぼさない限り自由である。<br>だから、他人から見て、おろかな行為と思われても、自分がこれでいいと思えば、それを選ぶ自由はある。<br><br>デューイ<br>概念、理論、思想体系は道具である。<br>全ての道具の場合と同じように、その価値はそれ自身にあるのではなく<br>その使用結果に現れる作業能力のうちにある。<br><br>哲学もまた道具なのだという哲学。<br><br>レヴィナス<br>私という存在は、何もない暗闇である。<br>そして、他人が存在するからこそ、私があるのだと考えた。<br><br>他社が到来しているからこそ、無意味な存在の私に、意味を与えてくれる。<br>他社が私を作ってくれる。<br><br>ソシュール<br>人間にとって、言葉がなければ物もないと同じ。<br>言葉と世界は密接に結びついている。<br>ひとつの記号（シーニュ）は、それ自身の中に表現面（シニフィアン）と内容面（シニフィエ）をもっている。<br>言語が現実世界をきりわける。ソシュールは、言語を差異の体系と呼んだ。<br><br>ウィトゲンシュタイン<br>語りえぬものについては、沈黙しなければならない<br><br>ドォルーズ<br>資本主義は、全体が欲望する機械そのものである。<br>資本主義は、欲望の流れを調整しつつ、できうる限り苦痛を排除するようなシステムを目指している。<br>労働によって、新機種の携帯電話や、ブランドの流行が次々と作られていく。<br>だが、その流動性がなければ、資本主義は死んでしまう。<br>資本主義は、欲望を完全に満足させることなく、先へと引き伸ばすシステム。
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<link>https://ameblo.jp/delida81/entry-11599421129.html</link>
<pubDate>Sun, 25 Aug 2013 11:15:16 +0900</pubDate>
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<title>さあ、哲学の世界へようこそ</title>
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<![CDATA[ 哲学の話を書きまくるぞ
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<link>https://ameblo.jp/delida81/entry-11586227607.html</link>
<pubDate>Sun, 04 Aug 2013 16:51:48 +0900</pubDate>
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