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<title>思想と音楽</title>
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<description>思想、哲学、政治、音楽に関する分析や総合、考えを書きます</description>
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<title>陰謀論やフリーメーソン、イルミナティなど２</title>
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<![CDATA[ <p>　陰謀論で、テレ東やりすぎコージーで最初に取り上げられて話題になったのが、１０００円札の野口英世に関すること。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20191221/16/detects/e1/98/j/o0296017014682499234.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="190" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20191221/16/detects/e1/98/j/o0296017014682499234.jpg" width="330"></a></p><p>&nbsp;</p><p>　この野口英世の右半分と左半分が別人であること。</p><p>　さらに、裏返してすかすと、野口英世の眼が富士山に重なる。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20191221/16/detects/eb/27/j/o0259019414682500023.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="247" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20191221/16/detects/eb/27/j/o0259019414682500023.jpg" width="330"></a></p><p>&nbsp;</p><p>　これがドルにもあるプロビデンスの眼だということを始めて主張したのが小石泉氏で、かれは数年前に亡くなったらしいが、千葉のプロテスタントの牧師です。</p><p>&nbsp;</p><p>　小石牧師はなぜこうしたことに興味を持ったのか知れないのですが、９０年代に第一企画出版というマイナーな出版社から、数冊の本を出していました。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20191221/16/detects/86/9a/j/o0348049914682498659.jpg"><img alt="" height="499" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20191221/16/detects/86/9a/j/o0348049914682498659.jpg" width="348"></a></p><p>&nbsp;</p><p>　こうした本ですね。今はすべて絶版で、第一企画出版という出版社も倒産して存在しません。ブックオフに置かれていることがあるので、気になる人は読んでみてください。</p><p>&nbsp;</p><p>　この方のオフィシャルなブログがありますが、この中で「角笛」というサイトに言及しています。これは２０００年代当時の数少ない陰謀論サイトですが、小石泉ファンか誰かが作っていたようです。小石牧師の本をたくさん引用して、陰謀論言説を繰り広げていました。数年前まであったはずですが、今は見当たりませんね。</p><p>&nbsp;</p><p>　やりすぎコージーでハローバイバイという漫才コンビにいた関という人物の様々な言説の元ネタは、この牧師の９０年代の著作です。</p><p>&nbsp;</p><p>　行き過ぎた、バカげた「極北の陰謀論」の類で、アメリカで８０年代から騒ぎになっていた内容を紹介した本と言えます。その点でのみ評価できるでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>　一つだけ、歴史的政治的事実としてされているイタリアで起きたP2事件という陰謀事件に関する記述だけ、価値がありました。それは真実、事実として認められている有名な事件だからです。</p><p>&nbsp;</p><p>　私が２００５年から知っている、調べてきた陰謀理論総括をするつもりですが、まずは手始めに小石泉さんとハローバイバイ関について触れることから始めてみました。</p><p>&nbsp;</p><p>　「もてあそび陰謀論」、真剣ではない情報の調べ方、取り組み方をすると、パラノイドになる。その典型である人々（ベンジャミン・フルフォードやリチャード・コシミズなど）がたくさんいますが、その日本での大元が小石泉の言説とそれを都市伝説という面白おかしい怪談話に仕立て上げたテレ東と関氏の「功績」と言えるでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/detects/entry-12561292564.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Dec 2019 16:42:09 +0900</pubDate>
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<title>陰謀論やフリーメーソン、イルミナティなど</title>
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<![CDATA[ <p>　最近陰謀論という言葉がもはや一般化している。ハローバイバイの関とテレ東のやりすぎコージーの影響だが、どうにももてあそびの傾向が大きく、インチキ情報や未確認、正当な筋からの情報じゃあないものが多い。</p><p>&nbsp;</p><p>　陰謀論という言葉がもはやつかえない言葉で、本来はコンスピラシー・セオリーという。共謀理論というべきなのだが、いまだに陰謀論という。セオリーなのだから、せめて「陰謀理論」というべき。しかもかつて、２０００年代後半から使われ、ささやかれだしたころには「陰謀説」などという、摩訶不思議な言葉が使われていた。</p><p>&nbsp;</p><p>　コンスピラシー・セオリーの本質は、国家の主権簒奪と簒奪者の歴史の理論であって、歴史の裏、外史といってよい理論である。</p><p>&nbsp;</p><p>　コンスピラシーとはコン＋スパイアーという言葉でできている。コンはコモン、共同するという意味。スパイアーは息を吸い込む。つまり「言葉を使わず、呼吸だけを合わせて、目配せをして、何かを乗っ取る」という意味。マヌーヴァーといってよい。最近のトランプのウクライナ騒動では「コルージョン」という言葉が使われている。</p><p>&nbsp;</p><p>　私がこの言葉について、良い言葉は無いかと数年前に考えた時「主権簒奪理論」「主権奪取理論」あたりが本質をついていると思って、広めようかと思ったが、結局のところ「共謀理論」という言葉を広めるのが一番良いと思ってる。</p><p>&nbsp;</p><p>　ちょこっとだけ、休眠状態のブログを書いてみたが、まずイントロとして、陰謀論についてのここ５年くらいにたまってきたことへの感想を書いてみた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/detects/entry-12561278006.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Dec 2019 15:12:46 +0900</pubDate>
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<title>ヒューマニティーズ２：レトリック（修辞学）</title>
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<![CDATA[ <strong><font size="2">レトリックとは文を書く技術</font></strong><br><br>　ヒューマニティーズ（人文、リベラルアーツ、基礎学問）の２として、レトリックを話しましょう。レトリックとは修辞、修辞学と言います。文章を書く技術です。日本では全く習いません。<br><br>　レトリックとは、今では美辞麗句と言った訳語が当てられ、わざわざレトリック（「ゥレリッ」と発音します）という場合はそういう意味です。学問としてはとうに廃れました。<br><br>　しかし、レトリックが無視され、誰もやらないわけではありません。これは、文章を書く技術なので、レトリックがなければ、文章はただの雑文を書き連ねた元ということになります。<br><br><br><strong><font size="2">レトリックとは比喩のバリエーションのこと</font></strong><br><br>　では文章を書くというのはどういうことか。言葉と文字をただ書き連ねただけでは、文章ではありません。要は、比喩を使うことが文章なのです。では比喩とは何でしょうか。これはフィギュレイティヴ・フォームといい、「フィギュア＝具体的に形のあるもの、画像がイメージできるものを例にとって例えること」なのです。<br><br>　では比喩には何があるでしょう。日本で一般に言われるのは、直喩（ようだ、ようなを使う）、暗喩（ようだ、ようなを使わない）、擬人法（人間に例える）です。<br><br>　しかし、元々これらは一つの範疇に入れられていたもので、本来比喩は「提喩」「換喩」「暗喩」の三つに分けられていたようです。<br><br>　例を出します。恥ずかしいけど、とりあえずウィキです。レトリック入門とレトリックに関するブリタン以下のページコピーが今手元にないからです。<br><br>　隠喩と直喩はいいでしょう。隠喩はメタファー、直喩はシミリと言います<br><br>　提喩（シネクドース）：「トリ」でニワトリの肉を表すこと。鳥がニワトリを含んでいる。大きな概念が、それを含む概念を表す。「花」で桜や梅を表すのもそれ。<br><br>　換喩（メトニミー）：「永田町」で国会、「葵」で徳川を表す。象徴のこと。ランボーやマラルメらはこれをとことん推し進めました。一見関係ないもので、別の物を表す。それが換喩。<br><br>　この三つがレトリックのことです。そしてその他、今では詩の技法として小中学校（の受験専門塾でしかやらないけど）教えられますが、省略、倒置、押韻、反復、対句、呼びかけ、体言止めがあります。<br><br>　小中高校では、まずこういった技法を使ってものを書くこと「も」重要なのです。今では全く無視され、日々の体験で自由に思いつくだけです。これを文盲、イリタラシーの一種と言います。<br><br><strong><font size="2">散文用のレトリック</font></strong><br><br>　以上のレトリックは、一般に「文学的表現に過ぎない」などと言われるレトリックです。文学的表現とは、比喩のことなのです。文学とは小説ではなく、元々「詩」のことです。韻文のレトリックです。ですから、詩学と言えるでしょう。<br><br>　次は、散文用のレトリックです。今では、塾や予備校の先生が教えているのがこれです。一般の学校、特に公立小中高校では、まったく教えられません。教えられる先生がいませんし、私立も含めて、こういうことを知っている先生など皆無です。<br><br>　散文用レトリックとは以下です。<br><br>１：主題（トピック）と要旨（メイン・アイディア）―主題がタイトル。要旨が仮説・前提・結論です。この三つは結局同じものです。<br><br>２：要点（メイン・ポイント）―各段落のメイン・アイディアです。<br><br>３：結論―１の繰り返しです。主張を述べたりします。<br><br>４：話の展開法・文脈<br>↓<br>ここからがいわゆる三分レトリックのバラエティです。<br><br>①具体例（体験や事実、引用、一般論）<br><br>②列挙：<br>１・並列：具体例や理由をひとつづつ上げること。ポイントフォーム（箇条書き）もそれ。<br>２・時系列：物事を起こった順序で記述する。日記がそれ。歴史の編年体もそれ。<br><br>③因果関係（コーザリティ。コーズ・アンド・エフェクト。原因結果を述べること。理由を「挙げる」のではなく、コヒーレント（首尾一貫的に）つなげる。直線的なリニアー（原因→結果だけが成立。結果→原因はあり得ないこと）が基礎。その次のステップが三段論法。それを広げる。欧米人が一番好きなもので、欧米人とイスラムの思考。ロジックがここからスタートした。<br><br>④比較：（コンパリゾン）<br>１・似ているものの共通点をあげる。アナロジーから主張や結論につなげる。<br>２・似て鋳物の共通点を上げたら、どっちが良いかよくないか、重要かどうか、比べる。<br><br>⑤対照：（コントラスト）二通の物の違いを述べる。欧米の文章、近代の三分で最も使われるもの。ここから弁証法とディベートが発達していった。<br><br>⑥空間順序：（スペイシャル・オーダー）要するに道案内。どこに何があるか、どう行けばどこに至るか。その場所に何がどのようにあったかを説明する。<br><br><br><strong><font size="2">レトリックとは「表現」と「説明」のこと</font></strong><br><br>　これらがレトリックです。みなさん毎日の生活で、絶対にどれかを使っています。しかし、日本人は口頭でこれらのどれも上手く出来ません。いや、比喩だけできます。落語や浄瑠璃を昔の人は暗唱して、コミュニケーションの練習をしました。だから昔の人は「韻文レトリック」が上手です。<br><br>　今の人はどれも出来ません。しゃべれません。ソース、証拠を何の検証もなしにあげつらって、人のみにするだけです。鵜呑み国民、日本人となりました。疑問を持ちませんし、疑問があっても以上のこと（リーズニング）が出来ません、全く。<br><br>　私がリーズニングと言っているのは以上のものです。そして、韻文のレトリックは「表現」（エクスプレッション）であり、散文のレトリックは「説明」（エクスプレイン）のことです。両方できなければ「人間―ヒューマン」ではありません。ただの「生き物」です。<br><br>　現代日本人はエクスプレイン（プレイン、平易にわかりやすく明らかにすること）はもちろん、エクスプレッション（表現。感情と感性を上手に表に表すこと）も<br>上手に出来ません。ただ黙っている土偶。<br><br>　日本人にできるのは「印象を受けること」（印象、感銘、感動、乾燥、全部同じです）だけ。インプレッションといって、エクスプレッション―表現の逆です。ただ受け身に心を動かすだけ。泣く、驚くだけです。これは犬猫です。<br><br>　TVの「いい話」とかで感動し、テロや凶悪事件、災害を見て「驚き、わくわくする」。それが現代日本人の正体です。<br><br>　違うというなら、上のどれかを普段の生活の言葉で、当たり前にやってごらんなさい。絶対にできません。
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<link>https://ameblo.jp/detects/entry-12097260059.html</link>
<pubDate>Thu, 19 Nov 2015 11:52:11 +0900</pubDate>
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<title>学問の体系３・ヒューマニティーズとは生活の空気</title>
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<![CDATA[ ヒューマニティーズ=人文、について書くよ<br><br>まずね、今必要な本当のヒューマニティーズ書くよ。<br><br><br>　　　　　　　　ヒューマニティーズ（人文、リベラル・アーツ）<br>　　　　　　　　　　　　　　　｜<br>　　　　　　　　　　　　　　　｜　<br>　　　　　　　　　　　　　　　文法（いわゆる解釈学、理解の仕方で、学校のあの文法じゃない）<br>　　　　　　　　　　　　　　　修辞学（レトリック、話す技術で比喩のバリエーション）<br>　　　　　　　　　　　　　　　弁論術（イロクエンス、要はプレゼン、演説）　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　弁証法（ダイアレクティーク、要はディベート）<br>　　　　　　　　　　　　　　　論理学（ロジック、話の筋の首尾一貫性。原因結果のつながり）<br>　　　　　　　　　　　　　　　詩学（ポエティクス、修辞学の応用）<br><br>これらがヒューマニティーズ。全部日常生活で、家族、友人関係、遊び、仕事、買い物、学校生活。部活。全てにおいて全部必要な者。生活の空気。これがなくては人間と言われないもの。<br><br>中世はこれらに、算数、幾何（図形）、音楽、天文が加わる。天文は暦のこと。今がいつで、何日後に何だということの理解。今の自分が場所、空間と地理的概念ではなく、時間概念的にどこに存在するかを理解することで、ただ空を仰ぎ見て、星の運航を見る趣味のことではない。<br><br>だから音楽も人間の生活に必要だということがわかるでしょう。算数幾何はわかるよね。かつての天文はカレンダーそのものだと考えれば、それがいかに大切だったかわかっぺ。<br><br><br>文法から行きます。<br><br>　文法、あの英文法は本来の文法じゃなく、構造主義の影響を受けて、５０年代にチョムスキーの変形生成文法を東大出身の予備校講師が、受験者用に取り入れたものです。だから女子短大生でも、変形生成文法なんて、あんなもの簡単に出来るとのたまわった渡部昇一さん。当たり前です。<br><br>　文法っていうのは、本来ラテン語文法というけれど、それはアリストテレスの思想をギリシャ語から直ではできなくて、スペインのコルドバでアヴェロイスらがアラビア語から訳していたわけで、その訳というのもいわゆる日本語の「翻訳」ではなく、トランスレイションといって、言っている意味の正確な移し替え、解釈、注釈のことで、それをコメンタールというの。<br><br>　つまり文法とは、相手の言っていることを正確に理解するための解釈、注釈のこと。英文解釈といでしょ。あれが元々の文法。これを中世ヨーロッパはずっとおこなって、ラテン語という知識人（修道士の書字生、この人たちが重要で、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」に出てくるよ）の共通言語で注釈をつけていたの。その前はイスラム国家でアラビア語でつけていた。<br><br>　明治以降の１５０年の日本はまさにこれで、ヨーロッパ思想をああでもないこうでもないと、日本語を作りながらやっている最中で、今もそう。そろそろ抜け出ないとね。<br><br>文法とは、相手のことを正確に理解し、飲み込む技術のこと。<br><br>　文法ってのは「相手の話を聴け」ってこと。ただ聴くだけではなく、「それはこういうことですね」という解釈の能力。それがトランスレーションというのです。<br><br>　そういう人って、あの人は物分かりがいいなんていわれるでしょ。そういうアチチュードが文法なのです。スポーツ選手なんて、これが非常に重要でしょ。新しいコーチが来た時、最新の戦術やその時の戦術を行うとき、これが出来る選手以外は、プロや世界で通じない。そういうことなのです。
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<pubDate>Sat, 17 Oct 2015 11:21:22 +0900</pubDate>
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<title>学問の体系・２</title>
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<![CDATA[ 学問の体系１で書いたような順序だと、サイエンスが最高で、芸術だとか実学が下にあるような感じだが、実際に世の中の役に立ち、人間世界をよくしている順序で書くとこうなる。<br><br><br><br>　　　　　　　　実学（まずこれが無けりゃ生きられないから。生活を便利にする知識と方法）<br>　　　　　　　　　｜<br>　　　　　　　　　｜<br>家政学、栄養学、法学、臨床医学、衛生学、経営学、地理、法医学、法人類学など（スポーツ何とかとかの臨床系のリハビリとかも含まれるよ）<br>テクノロジーのなかの土木と建築<br><br><br>　　　　　　　　芸術（芸能エンタも含まれるよ。生活を楽しくする知識と方法）<br>　　　　　　　　　｜<br>　　　　　　　　　｜<br>音楽、絵画、彫刻、建築、演劇、小説、詩<br><br><br><br>上の二つの領域が、人間にとっての一番の価値、ヴァリュー values。あとに続くテクノロジーとサイエンスは、これらの主人への奉仕として存在している。<br><br><br>　　　　　　　　技術（テクノロジー。アプライド・サイエンス）<br>（実学と芸能芸術をいっそう便利に、進歩させるためにある）<br>　　　　　　　　　｜<br>　　　　　　　　　｜<br>　　　　　何々工学と言われるものすべて<br>（航空工学、宇宙工学、遺伝子工学・・・・）<br><br><br>　　　　　　サイエンス（テクノロジーの基盤で、本質は哲学）<br>　　　　　　　　｜<br>　　　　　　　　｜<br>　　　　　　　統計学<br>　　　　　　　物理学<br>　　　　　　　化学<br>　　　　　　　医学<br>　　　　　　　犯罪心理学<br>　　　　　　　国際関係<br>　　　　　　　比較法学<br>　　　　　　　<br><br>　　　　　　　人文（ヒューマニティーズ）<br>これについて後で書きます。実に重要です。<br>　　　　　　　　｜<br>　　　　　　　　｜<br>　　　　　　　文学（もう死んでますね。ラノベ以外）<br>　　　　　　　歴史<br>　　　　　　　考古学　　　　　　<br>　　　　　　　　<br><br><br>　　　　　　　博物学（自然史、役目終えて博物館行き。だから博物館）<br>　　　　　　　　　｜<br>　　　　　　　　　｜<br>植物学、動物学、民俗学、本草学、地誌・・・・　　<br><br><br><br>＊いずれにしろ、人文である文学部の下に、社会科学である心理学や、全ての嗜好と知識、サイエンスの上にある哲学が来ちゃまずいですよね。経済学と経営学も、違うものです。<br><br>＊そして、理系人間の大半は、本当の「理系」の仕事には携わっておらず、ただ単にじっけんでーたの「統計」をやっている。いやそれすらやっておらず、ほとんどはメンテで、それすらもなく、人員配備とお金の計算、生産管理をやっているだけです。<br><br>＊だから、理系文型なんてバカな区分けは、日本の中で、昭和２，３０年代の予備校や旧制高校で作られた方便用語でしかないのです。世界から切り取られていますね。<br><br>＊人文が、文学、歴史、考古学というのはおかしい。本当は。これ重要なので次に書きます。人文も死滅しているのです。実は人文こそが最も重要なのです。空気のように大切なものです。<br><br>　　　　　　　　<br>　　　　　　　
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<link>https://ameblo.jp/detects/entry-12085121469.html</link>
<pubDate>Sat, 17 Oct 2015 10:57:59 +0900</pubDate>
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<title>音楽が死んで久しい件：パート２</title>
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<![CDATA[ <font size="5"><strong>ジャズはとっくに死んだ音楽</strong></font>　<br><br><br>　<font size="4">ジャズは６０年代いっぱいの音楽であり、６７，８年にジョン・コルトレーンの死と共に、死んだ。あるいはマイルスが「ビッチェズ・ブリュー」を出して、死んだ。マイルスがそのアルバムでエレクトリックを採り入れたからなのです。<br><br>　６０年代のジャズも、もういわゆるモダンジャズではなく、フリー・ジャズ。コルトレーンあたりがジャイアント・ステップスでやりつくしてしまったのです。オーネット・コールマンの「ジャズ、来るべきもの」がフリー・ジャズの開始で、これが６０年代初頭。<br><br>　この三つの要素が「ジャズの死」であり、時代はロックとフュージョン（はじめはクロスオーヴァーと呼ばれていた）だった。７０年代いっぱいなクロスオーヴァーと言われてましたね。</font><br><br><br><br><font size="5"><strong>１９６４年から８４年がロックのコアな時期</strong></font><br><br>　<font size="4">そしてロックの時代が始まるのですが、大きくは１９５４年の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」からがロックの始まりですね。「暴力教室」のテーマソングです。<br><br>　私の母は、ものすごく怖い映画で、恐ろしいから学校で禁止されていたと言ってました。まあ、今見ても、結構やばい映画です。ビッグ・モローが出てます。<br><br>　しかし、ロックのコアな時期はその１０年後の６４年から。ビートルズが「ア・ハー・ド・デイズ・ナイト」を出してからが、いわゆる「ロック・ミュージック」の始まりだ。そこから、１９８４年秋に、元レインボーのディオが出したアルバムが、ロックらしいロックの最後なのです。</font><br><br><br><br><font size="5"><strong>２０年間がロック最盛期</strong></font><br><br>　<font size="4">ロック・ミュージックがロックらしかったのは、その間の２０年で、自らがロックを任じていた時期だと思う。その後、８０年代終盤もいいアルバムなどは出てきたが、いずれにせよロウソクの最後の火である。<br><br>　ボン・ジョビやホワイトスネイクなど日本とイギリス、北ヨーロッパでしか人気のなかったバンドがアメリカでメガヒットを繰り出した頃です。<br><br>　９０年になり、ジューダス・プリーストが「ペイン・キラー」というまあまあなＬＰを出し、９３年に、ドラムを変えて強くなったガンズ・アンド・ローゼズの「ユー・クッビー・マイン」（ターミネイター２のテーマ曲）をだし、それがロックの本当の最後の輝きで、以降、ロックは死んだのです。</font><br><br><br><font size="5"><strong>８３年のイングヴェイ・マルムスティーンの衝撃</strong></font><br><br>　<font size="4">なぜロックが死んだか？ギターの発展が終わったからです。音もギターそのものも。そしてそれ以上に、イングヴェイ・マルムスティーンというスウェーデン出身の、弱冠１９歳のギタリストが、それまで誰も出来なかった物凄い速弾きを完成させた。ギターがあらゆる楽器の中で最もテクニカルで「速い」楽器となり、楽器自体のテクニック進歩に終止符を打ったのです。<br><br>　９１年から３年間は、音楽の中心がロスアンジェルス（それまではロンドンが中心）から、なぜかその北の年がら年中雨のシアトルに移り、グランジ＝オルタナティヴ・ロックのたった３年間がある。<br><br>　それに呼応するように、ロックはアンプラグドとなり、７０年代初頭のレイドバックなブルージーなものとなり、その後の復活はついになかった。<br><br>　２０００年代に「オヤジロック」だの、父から子へのロック魂の継承だの（ありえませんなそんなの。矛盾してる）、ロック伝統の布教だの、女の子ロックだのと、ロリポップと懐メロ演歌の世界へと落ち続け、フジロックだのオズフェスだのと、人をばかにしたような「ロック・フェス」が始まり、ロック（に限らず音楽全て）が、黄泉の国の闇に突入して２０年以上が経ったのが今だというのが、真実なのです。<br></font><br>　<br><br>
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<pubDate>Sun, 02 Aug 2015 20:51:10 +0900</pubDate>
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<title>音楽が死んで久しい件</title>
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<![CDATA[ <font size="4"><strong><font color="#00BFFF">クラシック・ミュージック、ジャズ、ロックが消えていった</font></strong></font><br><br><font size="3">　音楽産業がＣＤ時代にボア・アップして、ダウンロードの時代になり、これからはyoutubeを真似した定額低額ストリーミングの時代が来ましたね。<br><br>　肝心の新しい音楽、音楽技術の進歩は、完全にとまった。クラシックであらゆる普遍的な音楽技術と知識が行きつくとこまで行き、２０世紀初頭に、シェーンベルク、プロコフィエフといった前衛音楽手前で、事実上音楽そのものはやることが無くなってしまった。<br><br>　次に楽器を変え、黒人が新しい音楽、ジャズを始めてくれた。アメリカのイタリアンやアイリッシュがそれに加わり、いやそれでも黒人中心に音楽が発展していった。<br><br>　１９３０年代に全盛だったのがスウィング。これはダンスミュージックで、ポップス。ジャズ。スタンダードがたくさんできて、歌の旋律やコード進行がここでほとんど網羅（もうら）された。<br><br>　この頃は白人ビッグバンドが中心で、アメリカの最前線の音楽産業で成功を収めるゴールが、ビッグバンドのバンマス。指揮やりながら、楽器ソロやピアノ、作曲は全部自分で、出来れば歌まで歌えたら大成功。<br><br>　グレン・ミラーやベニー・グッドマン、カウント・ベイシーやなんといってもエリントンやサッチモが中心。<br></font><br><br><br><strong><font size="4"><font color="#00BFFF">モダン・ジャズ＝ビ・バップとはビーバップハイスクールだろ程度の認識が、貧相な今</font></font></strong><br><br><font size="3">　そして、１９４０年代。アメリカのミュージシャン・ユニオンがストを決行しているときに始まったのが、「ビ・バップ」。モダン・ジャズ。日本では俗に「ダンモ」なんて呼ばれました。<br><br>　どうせ皆様。ビーバップハイスクールとか、その程度のイメージだと思う。あれは完全な勘違いで。あのヤンキー的な、ロックンロール的なそれは「ドゥー・ワップ」ね。男性コーラスのロック調グループってのが、６０年代にあって、８０年代にリヴァイヴァル。その影響です。</font><br><br><br><br><strong><font size="4"><font color="#00BFFF">ビバップ＝ジャズのことで、チャーリー・パーカー＝ジャズ＝今の音楽、これ定式で常識</font></font></strong><br><br>　<strong><font size="3">常識です。パーカーは１９４０年代頃に、相方のトランペッター、ディジー・ガレスピーやピアノのセロニアス・モンク、バド・パウエル、ベースのミンガスやレイ・ブラウン、ギターのチャーリー・クリスチャンらと新しい、ミュージシャンのための音楽、ビバップを演奏し始めた。<br><br>　ここから、楽器の演奏テクニックが、クラシックで確立された物とは別に動き出した。また、クラシックでは敬遠されたコード理論が大きく発展したのです。<br><br>　このコードプログレッション、コード理論こそが現代の音楽理論で、ジャズ・ポップ理論と言います。現代の一般の音楽はジャズ・ポップ理論の上に成り立っている。<br><br>　簡単に言えば、３和音とせいぜいいくつかの７thくらいまでしか許容しなかった、西洋人の近代クラシック音楽から脱却して、7th以上のテンション、9th,11th,13thを使うようになったこと。さらに、コード分析とアドリブ、インプロヴィゼイションを重視したことが、音楽発展の原動力になった。<br><br><br>　はあ、つかれた。続きは別に書こう。</font></strong><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Mon, 27 Jul 2015 09:53:59 +0900</pubDate>
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<title>神学とは何か２</title>
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<![CDATA[ <strong>では理神論とは何か、簡単に説明する<font size="2"><font size="1"></font></font></strong><br><br>　理神論＝デイズムの「デイ」とは、これもゼウスを表す。「ダヴィンチ・コード」で出てきた「オプス・デイ」 opus dei の「デイ」もこれのこと。ただし英語では、大文字のＧＯＤ、唯一の存在であるゴッドのことを表す際に使われるのではなく、複数形小文字のgods のことを表す。ディーイティ deity と言う。この言葉は、ギリシャの神々のことを言う。ポリシーイズムの神々。だから理神論者は、この言い方を本来は認めていなかった。<br><br>そもそもディーイズムもシーイズムも、用語の区別はヨーロッパ思想ではいまだはっきりしていない。ディーイズムのつもりでシーイズムを使っていた例もある。どちらとも、互いを外側から軽蔑する言い方である。<br><br>　理神論とはこれこそが現代につながる、一般の人々の共有する、今では普通の神の観念であり、反ローマ教会的な「教義」の中心である。これが「不可知論」（アグノスティシズムagnosticism ）、果ては「無神論」（エイシーズム atheism ）に変化した。というより、どうやら本来彼らは無神論を言いたかったらしい。<br><br>　理神論とは一七世紀イングランドでチャーベリーのハーバートで知られるエドワード・ハーバートEdward Herbert, 1st Baron Herbert of Cherburyという男が作った。外交官であったらしい。<br><br>　ジェファーソンやジョン・アダムス、ベンジャミン・フランクリンが理神論者であったことはよく知られていて、アメリカは理神論という反カトリック思想によって建国されたと言っても過言ではない。これは、小中高校の一般的な社会科の知識である。<br><br>　シーイズムはこの理神論、ディーイズムと共に使われだした言葉で、この両者は同時に論じられなくてはならない。<br><br>　ブリタニカの理神論の説明では、理神論者と言われる人名の列挙が続く。まるで犯罪者列伝であるかのような印象を抱いてしまう。それほどに理神論とは、根本的に無神論に直結している。ということは、無政府主義、アナーキズムにつながる。当然リバータリアン思想も理神論から来ている。アメリカの国是としての思想の２０世紀版なのだから、当然の思想系譜と言えよう。<br><br>　アメリカ建国の父（ファウンディング・ファーザーズ）や、初期の大統領たちはみな理神論者、ディーイストである。ワシントン、フランクリン、ジェファーソン、アダムズ、みな自分は理神論者であると公言している。これは完全にローマ教皇に反旗を翻す姿勢で、ヨーロッパ側から見ると「自分は犯罪者だ」と言っているようなもの。アメリカ建国自体が、ローマに支配された旧世界からの支配の脱却だったのだから、筋が通っている。<br><br>　理神論は、ブリタニカのようないわゆる権威ある事典に載せるのは憚（はば）かれるような、体制、支配の側からは危険な思想を今でも孕（はら）んでいる。<br><br>政治家や学者、大企業経営者など、社会的立場のある人物や名士と言われるような人は、今でも理神論的思想を公言するのを憚（はばか）られるという傾向を持つ。彼ら社会的地位のある上層階級が気にする先は、いまでも最終的にはヴァチカンのローマ・カトリック教会である。同時に各プロテスタントの宗教教団であろう。宗教からも自由であるはずのアメリカともあろうものが、情けない。<br><br><br><strong>では「有神論」シーイズムとは何か</strong><br><br>　そこでまず、エンサイクロペディア・ブリタニカで、シーイズム（有神論、人格神論とも言う）を説明します。<br><br>私がこの宗教仕分け、シーイズムやディーイズムを知ったのは、ブリタニカからです。それまでは、そのような宗教思想など知りようもなかった。どこにも書かれていない。いまだに。<br><br>　ブリタニカの本体である「ミクロペディア」のシーイズムの定義から見てみましょう。冒頭にはこのように書かれている。<br><br>The view that all limited or finite things are dependent in some way on one supreme or ultimate reality of which one may also speak in personal terms.<br><br>「あらゆる限定された、または有限な事物は、人間の言葉でそれについて語ることも可能な、ある最高の、または究極の現実に、いずれかの方法で依存しているという見解。」<br><br>（ミクロペディア　冒頭の説明。　６８１ページ）<br><br>　非常にわかりづらい。私の文章では、英語やラテン語、ギリシャ語の原文の引用し、その訳を書きます。まず普通の、当り前の訳を書いておきます。しかし、大概それではわかりづらい。<br><br>　ですからそれを、普通の自然な日本語にもう一度直すというやり方をします。ですからもう一度言いかえましょう。<br><br>「シーイズムとは、次のような神の見方である。現実の世界の中では、人間や生物たちが生き、様々な物が存在している。しかし、それらはすべて限りある非力な存在だ。だからみな何らかの形で、ある最高の存在に頼って生きている。その存在とは、人の言葉では表せぬ至高の存在だが、各々が自分の言葉で、その存在を言葉にして表すとよいだろう」という意味である。<br><br>私は、「人間は非力」で「その存在は、言葉では表せぬ至高の存在」と言葉を補っています。これはマクロペディアの定義が裏付けてくれています。それを提示しましょう。<br><br>「Macropedia の定義」（五六三ページ）<br><br>The view that all limited or finite, things, though fully real in their own right, are dependent in some way upon, while, yet distinct from, one supreme or ultimate being, of which one may also speak in personal terms.<br>In religions, one speaks of this being as God, who is regarded as beyond human comprehension, perfect, and self-sustained but also as peculiarly involved in the world and its events.<br><br>「あらゆる制限のある、すなわち有限の物事は、それ自体では完全に現実ではあるが、何らかの形で、それでも別のものではあるが、ある一つの最高の、すなわち究極の存在に依存しており、その存在と人間の言葉で語ることも可能だという考え方。」<br><br>「宗教的には、この存在はゴッドであり、ゴッドは人知を超えており、完全で自立しながらも、個人的に世界とそこで起こる出来事に関わると考えられている。」<br><br>　前半の段落は、ミクロペディアとほとんど変わらない。後半の段落には「ビヨンド・ヒューマン・コンプリヘンジョン」とある。「人間にはとらえられない」「人知を超えた」と言っている。これが、「人間は非力で、神を言葉では表せない」という意味を表している。<br><br>以上がシーイズムの定義である。世界のすべてのものは、究極の存在に依存している。その存在は人間の理解力を超えており、人知で把握することは出来ない。それでいて、世の中にあるものすべて、人間の生活にも心にもかかわってくるという考え方である。これがキリスト教の、カトリックの基本的な考え方である。<br><br>（注記：ピューリタン革命にさらされたホッブズの著作を読んでみると、こうした教えは必ずしもカトリックや、アングリカン・チャーチの教義ではないようだ。分離派と言われたピューリタン諸派が言い出したことで、どうもこれらのほとんどは、カルヴァン派である。長老派、改革派、会衆派、その後のバプティスト、メソジスト、ホーリネスらはすべてカルヴァン派と言ってよい。ですから、この稿でのシーイズム思想は、あくまで理神論者が言い出したものと解釈するべきである。）<br><br>　さて、ここで問題なのは、唯一の存在とかそういうことではなく、人間に関わってくるという性質である。さらに人知を超えていることと、人間の言葉で話しかけられるという点が矛盾となってくる。このことは後に説明します。<br><br><br><strong>「みだりに神の名を口に出してはいけない」の本当の意味</strong><br><br>シーイズムは「一つの最高の究極の現実」（ア・シュープリーム・オア・アルティメット・リアリティ）がある、としている。この現実が神＝GODのことであり、真実の存在、唯一の存在であるのは言うまでもない。<br><br>しかもその現実は最高存在なのだから、有限な人間では把握できるはずがない。しかし「言葉にして表してよい。各々勝手な個人の言葉で」といっている。これこそが神＝GODの定義である。<br><br>　神は言葉では表せない。しかし、偶像を禁ずるどの宗教も、神を言葉に表すのを禁じてはいない。本来神のことを、勝手に自分なりに表してもよいというのは、どの宗教でも同じである。これは不信心な態度だとは言われない。<br><br>しかし、そもそもこれは旧約聖書のユダヤ教の神、ヤーウェ（エホバ）のことである。ヤーウェも、本来はそのように発声されていなかったと山本七平は述べている。ヤーウェは本来、YHWHと表記され、それに母音を足したものだという考えなどがある。細かくはここでは追求しない。<br><br>　いずれにしろ、神の名前をみだりに口にしてはいけないということの元を言っている一文である。<br><br>　ですから、「神の名をみだりに口に出してはいけない」とは、本当は、「神は人知を超えているから、神を人間の言葉で表すことは出来ない（これは後に神の叙述問題となる）が、個々人で神の名を表しても構わない」というのが真実。<br><br>シーイズムは１８世紀、反カトリックとして理神論側から言い出されたもの<br><br>ブリタニカは、この時点で、「理神論」「汎神論」（パンシーズム）「神秘主義」（ミスティシズム）と対照的説明が可能であるとしているが、これは先に述べた理神論から無神論への発展の順番と同じこと。汎神論も神秘主義も実は、理神論と同じ仲間なのである。<br><br>汎神論については述べたが、カバラーやヘルメス・トリスメギストスの思想も、理神論と同じで反カトリック思想から出てきている。<br><br>　これはどういうことかというと、有神論＝シーイズムの本質は、カトリックの神であるとか、ローマ教会の教えではなく、理神論の立場からのカトリックの教えだという見方である。ここのところはこの文章を貫く大きな流れであるから、よく理解してほしい。<br><br>この事実は「オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー」のシーイズムの定義に明記されている。定義は次の四つ。<br><br>a. generally. Belief in a deity, or deities, as opposed to atheism.<br>b. Belief in one god, as opposed to polytheism or pantheism; = Monotheism.<br>c. Belief in the existence in God, with denial of revelation: Deism.<br>d. esp. Belief in one God as creator and supreme ruler of the universe, without denial of revelation: in this use distinguished from deism.<br><br>　一つ目と二つ目の定義にも、無神論や多神教、汎神論とは正反対であると書かれていることがわかる。しかし、ここで重要なのは、四つ目の理神論と対比させてある定義である。<br><br>「唯一の神、GODは、普遍的宇宙の創造者であり、宇宙の最高支配者であるという信仰で、神の啓示も否定しない。この用法で「理神論」と区別される」<br><br>　ですから、シーイズム（有神論、人格神論）は理神論との対比として使われるべき言葉で、理神論の説明としてのキリスト教神学を表した言葉といえる。キリスト教神学の全体像が分かりやすいので、シオロジーやキリスト教の教義、聖書を読むよりもわかりやすいので、私たち一般の現代人がキリスト教思想を簡単に知る道具としては、有効ではある。<br><br>　ただし、必ずしもその当時のローマ・カトリックやイギリス国教会の正式な教義そのものではないし、本来そんなことは言っていないことが多々あっても不思議はない。ローマ・カトリックの教義自体が長年にわたってと、様々な人間によって勝手に会社殊され、変質している面があると思われる。<br><br>　シーイズムという言葉は、一七世紀、一六〇〇年代から使われ始めた。初出は、一七世紀イギリスのフィロソファーでプラトニストのラルフ・コドワースRalph Cudworth （一六一七年～一六八八年）の「ザ・トゥルー・インテレクチュアル・システム」（一六七八年）”The True Intellectual System of the Universe: the first part, wherein all the reason and philosophy of atheism is confuted and its impossibility demonstrated” という出版物からである。<br><br>その次はイギリスの政治家、シャフツベリー伯爵（一六七一年～一七三七年）Anthony Ashley Cooper, 3rd Earl of Shaftesburyの「キャラクタリスティクス」（一七三七年）という著作の中である。シーイズムという言葉自体は、イギリスの名誉革命前後から出てきたということになる。<br>
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<link>https://ameblo.jp/detects/entry-12054926956.html</link>
<pubDate>Sun, 26 Jul 2015 22:44:11 +0900</pubDate>
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<title>神学とは何か</title>
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<![CDATA[ <strong><font size="2">神学について</font></strong><br><br><br><strong>まず神学（シオロジー）、「神の学問」とは何か</strong><br><br>神学とは一体何か。私は長い間、深く考えてきました。この原稿は、２０１１年から書き始めていたものです。しかし、昨年２０１３年に、副島隆彦から理神論を訳せと言われ、それをきっかけとして、その反対の神学、「有神論」（シーイズム、セイズム theism ）を仕分けし終わり、宗教と神学の結論と神の存在論の真実が、はっきりと認識出来ました。<br><br>結論から言いましょう。神学、キリスト教神学とは「カトリック、ローマ教会、ヴァチカントップの枢機卿集団（すうききょうしゅうだん、コンクラーヴェ、英語でコンクレイヴ、ローマ法王＝ポープを決定する最高会議）による人民に対する、思想だけではなく、モラル＝道徳、心の在り方までをも支配管理する学問」なのです。<br><br>では神学というのはいったい何だろうか。宗教ではない。いわゆる「宗教」（リリジオン religion ）とか「信仰」（ビリーフ belief ビリーヴィング believing フェイス faith ）とは違う。祖先崇拝とか自然崇拝に使う「崇拝」（ワーシップ worship ）とも違う。神のことを考える、思う、祈るということが神学ではない。<br><br>「神学」とはシオロジー（ theology セオロジー、テオロジー）という。これは中世から始まり、今でも存在する。カトリック、ローマ教会のエリート養成教育学問である。<br><br>カトリック教会のエリートとは、ローマ法王（教皇、ポープ pope ）が頂点にいる、圧倒的に上位階級の僧侶、聖職者（ clergymanクラージーマンという）のこと。上から、法王、枢機卿（カーディナル cardinal ）、大司教（アーチビショップ archbishop ）、司教（ビショップ bishop ）、司祭（プリースト priest ）となる。<br><br>さらに、ヴァチカンの中にはコンクラーヴェ（コンクレイヴ conclave カトリック中央協議会）という枢機卿の集まりがあり、この枢機卿は司教枢機卿、司祭枢機卿、助祭枢機卿などと言って、一般の司教らとは違うらしい。<br><br>この枢機卿の集まりがローマ法王を決める。カトリックの出世とは、この特別な司教や司祭である枢機卿になることが最終目的である。<br><br>元外交官の佐藤優氏は、同志社大学神学部卒である。佐藤氏の神学関係の著作には、シオロジー、つまり日本の神学部で学ぶことや、本人が学んだことが事細かく書いてある。佐藤勝氏の学んでいたものは、組織神学というらしいが、まさしくシオロジーである。ただしプロテスタント側の。<br><br>私を含めた一般の人間が、ローマ教会幹部を目指す神学を学んでも、一体何のことだかわからない。神学は人間の思想統制、思想コントロールの学問であり、思想警察＝ソート・ポリス thought police につながります。<br><br>思想ではなく、人間の「行動」の方を束縛するのは、権力であり、統治する政治と行政（警察、検察、国税当局）の世界である。しかし、シオロジーは人間の「脳」をコントロールする学問。神学は、人への支配を行動や思想にとどまらず、人としてのモラル、道徳、倫理までもコントロールする学問だという側面がある。教会は「モラル警察」と言っていい。<br><br>この意味で、神学とは、大半の人々には本質的理解が難しく、庶民の実生活に不必要である。その本質を暴いていく必要があるが、歴史上の哲学者や科学者、政治思想（ロック、ホッブズ、ガリレオ、コペルニクス、スピノザ、デカルトといった無数の人々）のほとんど、特に近代思想は、神学の欺瞞を暴くためにあったともいえる。いまさら私がいうことでもないほどに、多くの言論が行われ、多くの解説書が存在する。<br><br>シオロジーの解説は、本筋を外し、結局キリスト教組織の在り方を学ぶことになってしまう。私たち、普通の人が知りたい、知るべきことはすかされてしまう。<br><br><br><strong>ではキリスト教の神について何を学ぶべきか、知るべきか</strong><br><br>　シオロジーがダメなら、何から神に入ればいいのか。私たちが知らなければならない「神学」とは、「シーイズム」theism の方である。<br><br>シーイズム（セイズムともいう）は「有神論」（ゆうしんろん）とか「人格神論」（じんかくしんろん）という。キリストの神性を認める思想である。イエス・キリストは神であるという思想。イエスの人性論ともいう。カトリック教義、アタナシウス派の「三位一体」（トリニティ trinity ）のことだと言っていいでしょう。<br><br>それを外側（キリストが神であることを否定した理神論の側）から観察したものが「シーイズム」という。これは、中世神学哲学（フィロソフィコ・シオロジー）と言って、「スコラ哲学」である。カトリックの教義、ドグマそのものではない。<br><br>副島隆彦の学問道場の「フリーメイソン＝ユニテリアン教会が明治日本を作った」（成甲書房　２０１４年７月）に理神論のブリタニカからの説明を載せたが、じつは理神論だけを見てもあまり意味はないのです。ここに１６世紀に出現し、１７世紀に隆盛を極めた理神論者（ディーイスト、デイスト）が「ローマ教会の教えはシーイズムだ」と言って批判した。彼らが批判したカトリックの教義の基本知識と問題点を提示しよう。<br><br><br><strong>「シオ」「テオ」の意味から</strong><br><br>　シオロジー theologyもシーイズム theismも、その両者の頭の３文字「テ、シー」the、または「シオ、テオ」theo は「ゼウス」「デウス」deusのことを表す。時代の変化と、地域の違いで、発声や綴（つづ）りが変わっただけ。天主、天、いわゆる神のこと。<br><br>ラテン語のデウス deus が変わってデュオdeuo, duo となって、シオとか、シー theo, the という発声、綴（つづ）りとなった。「テオ」と言ってもいいし、テオロジーでもテイズムと表現してもよい。ギリシャ語がラテン語化して、ドイツ語や英語になったものである。<br><br>　オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー（ＯＥＤといい、分厚い数十冊の辞書集）によれば、シーイズムの接頭辞 theは、ギリシャの「テオス」θέ-ός = goodから来ているとある。<br><br>　ローマン・カトリック教会はシーイズムなど認めているはずがない。これは教会外から見た神学論、神学＝シオロジー批判であり、理神論者が、ローマ教会の教義を指して言い出したものだ。理神論者とは何か。ディーイスト（デイスト）はキリストの神性と三位一体というアタナシウス派の教義を否定していた人々のこと。反カトリックであり、無神論者（エイシーイスト atheist ）に近い。<br><br>　理神論者、デイストたちが批判し、名指ししたシーイズム自体、結局何なのだろうか。それは、中世の哲学の事である。アンセルムスから始まり、トマス・アクィナスに終るあれのこと。つまり、スコラ哲学に他ならない。<br><br>　スコラ哲学は、そもそもローマ・カトリック教会の正統教義ではない。むしろ異端である。スコラ哲学というが、それは「哲学的神学（フィロソフィコ・シオロジー）」という。神学と哲学はそもそも一緒になれるわけがない。なぜなら、この二つは「信じること」と「疑うこと」という、相反する思考だからである。「信仰」と「疑問」だ。だからそもそも、哲学、つまり問いかけ、疑問に思うことは、キリスト教にとどまらず、ユダヤ教やイスラム教の教会当局から嫌われ続けた態度である。<br><br>　「疑問」や「問いかける」ことこそが「理性」「合理」ということだ。英語ではラショナル。ラショナルな態度は、現在世界で通用する普遍的価値観で、欧米近代社会のみならず、イスラムの世界でも通じる。通じないのは日本人で、特に老人。しかし、ラショナルな態度は、教会から忌み嫌われた。<br><br>（鴨川光　注記：日本ではラショナルに「合理」「理性」「理由」という訳語が与えられているが、すべて元はラショナルである。「冷静な態度」ではなく、「他人のモラルや価値観、思想や宗教に関わることなく、お金で割り切ってあとくされ無く縁を切る態度。これこそがラショナルという意味。」<br><br><strong>有神論、汎神論、理神論、不可知論、無神論の流れを覚えよう</strong><br><br>　ブリタニカの宗教思想の項目には、世界の宗教思想（ヒンズー、イスラム、キリストとかそういった宗教教団という外面的な仕分けではない）が細かく仕分けされている。その半分は、自然崇拝、アニミズム、祖先崇拝といった、文化人類学的知識に過ぎない。ここのところを宗教思想の「本流」と勘違いしてはいけない。<br><br>　残り半分が反カトリック、反キリスト教会的知識であり、いわゆる「宗教思想」であり、私たち一般庶民が心得ておくべき「神学」の部分。<br><br>　まずは一神教（モノシーイズム）、多神教（ポリシーイズム）、宗教的二元論（リリジャス・デュアリズム、ゾロアスター教のことで、実はこれが一番重要）から始まって、さらにそれ以降の最後の４つの順序が重要である。<br><br>　有神論（シーイズム）、理神論（ディーイズム）、不可知論（アグノスティシズム）、無神論（エイシーズム）の順で書かれている。もう一つ汎神論（パンシーズム、パンテイズム）があるが、汎神論だけこれら４つの思想の前に出ている。おそらく汎神論は、キリスト教神学以前からあり、少なくとも近代以前から唱えられてきた思想であろう。<br><br>　汎神論は非常に気になる思想で、日本では一般的に、日本の「八百万（やおろず）の神」とか「祖先崇拝」と同一視されている。しかし、どうもそれとは違う。<br><br>スピノザやデカルトは「自分は汎神論者だ」と言って、ローマ・教会から迫害されたというが、実はそう言い逃れてきたのだと思う。自分は汎神論を信じると言えば、１６世紀や１７世紀でもお咎（とが）めなしだったのだろう。<br><br>汎神論は独特の立場があり、これも掘り起こす必要がある。おそらくは言い逃れの道具、昔からある少し迷信めいた思想だろう。<br><br>　キリスト教思想の根幹の一つである三位一体（トリニティー）の要素である「精霊（ホーリー・スピリット）」はこれから来ていると思う。また、イギリス人やアイリッシュが元々信じていたドルイド教は汎神論である。ジョン・レノンの歌にも出てくる。<br><br>そんな原始的で未開的色合いを残している汎神論は、「そんなもの信じているこいつは少し教化してやる必要がある」とローマ教会当局に思わせるに便利な言い逃れの役割を果たしたのだと思う。あるいは「落としどころ」であっただろう。そうでないとなぜデカルトやスピノザのような当時最先端の明晰な人間がそんなものを信じていたのか説明がつかない。<br><br>　話を元に戻す。汎神論以外の、ブリタニカにある宗教思想項目の最後のこの４つの宗教思想だが、この順番が重要である。有神論、理神論、不可知論、無神論。この順番で書かれている。<br><br><strong>２００９年の１０月に私は、副島隆彦氏に電話で興味深いことを言われた。</strong><br><br>「不可知論っていうのがあるだろ。あれはアグノスティシズム agnosticism というよな。「グノ」gno、「ノウ」noの部分がある。あれが「ノウ」know 「ナレッジ」 knowledge という意味で、哲学のグノーシス gnosis も「グノ」で同じだろ。結局、真実はわからないってことで、不可知論と同じことを言っていて、最終的に無神論、エイシーズムに行くんだよ」と言われた。<br><br>　実際にはグノーシスというのは、逆の意味で、「知る」という意味らしいのだが、いずれにしろ異端的な思想で、哲学の範疇に入る。実に有名で重要思想だが、今のところよくわからない。私は、グノーシスは不可知論（アグノスティシズム）の哲学版だと思っている。プラトンの思想や、仏教の唯識と同一のもので、そのような大きな運動のうねりがあったと思う。<br><br>　副島先生が言いたかったことは、「哲学も合わせて種々雑多な思想が出てきた理由は、結局、神はいない、または分からない。だから神がいることを前提としたローマ・カトリック教会、ヴァチカンと法王の生活や、態度、考えやモラル、脳の中まで支配するお仕着せの教えはウソ欺瞞だ」ということである。<br><br>　その流れが「神がいるかどうかわからない＝不可知論、アグノスティシズム」から「いや、神なんかいない＝無神論、エイシーズム」という。ニュートンやデカルトなども「お前は神がいないとか、神がやったとかいうが本当はどうなのだ」と教会当局（思想警察。モラル警察）から責め立てられ、「わ、私は、神がいるかどうかわからないと言っただけだ」とごまかしたのだろう。それでも「神がいるかどうかは知らない」では相当やばい。そこで理神論が出てきた。<br><br>　理神論は「神はいるが、イエスは神ではないし、三位一体は知らない。神は世界を創造したが、人間生活には関わらない」という思想。不可知論の一歩手前の思想である。<br><br>　ところが「人間生活にはかかわらない」という、ここが実にヤバイ。相当やばい。実に親切な気がするが、余計なおせっかいすぎるというのがその真相。<br><br>　神＝ゴッドとは、実際にはそのまま教会権力のことをいう。人間生活や国全体、外国へ積極的に「関わる」、「コミット」（ commit あるいはエンゲージ engage ）する「責任」があると自らを見なす。<br><br>　だから教会は国内外に関わらず紛争を止めるため、戦争だって積極的に行うし、超苦節はまずいので「支援」する。今は世俗権力である「政府」がそれを行う。安倍晋三が積極的にかかわって役割を果たしている、積極的平和政策はそれと全く同じことである。２０１５年１月１９日に、安倍晋三はイスラエルのリクード党（テロと大虐殺でイスラエルを建国したイルグン団やグーシュ・エムニームの直系）党首ネタニヤフに約束した。<br><br>　神学の話に戻るが、ブリタニカの宗教思想の目次の並びを見て、私はうわっと思った。副島隆彦氏が電話で私に行ったことが、世界普遍価値（ワールド・ヴァリューズという）として、そこに「見出し」という形ではっきりと提示されていた。<br><br>　ブリタニカは、私の住んでいる東京都下、つまり東京の田舎の、子供やジジババ、ホームレス（昔は障碍者がいたが、今はいない。安全を理由に締め出されているのだろう）が利用する、どこにでもある「地元の」図書館である。<br><br>　私、鴨川の役割は、副島理論が本当であるかどうかの検証と裏付けとりである。サイエンスの手法であるテスティフィケイションをする、追試するということである。「副島思想商店」の「番頭」のごとく副島理論をそのまま鵜呑みにする「思想オカマ」「思想ホモ」「思想オタ」ではない。こういう人間はたくさんいる。反対に、揚げ足取りと単純な批判に趣旨する「思想ＤＱＮ（ドキュン、脳を撃ち抜かれたバカ）」「思想中二病（いい年こいたひねくれ者）」をやっている場合ではない。こういう粘着質キチガイはネットの風物詩だ。<br><br>　この私の文章は、本質的に神学論というより、「理神論とは何か」である。現代の神学論争は理神論から出てきた。理神論と有神論の神学論争の世界で共有されている普遍価値を提示しましょう。<br>
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<pubDate>Sun, 26 Jul 2015 22:36:27 +0900</pubDate>
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<title>とりあえず始めてみる</title>
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<![CDATA[ いろいろ書こうと思いますが、とりあえず、ＩＤ持ってたのでアメブロに書いておきます。<br><br>しかし面倒くさいね、ブログは。ただしまとまったものを書くのはブログなりＨＰでなくちゃならないし。ツイッターはあれはブレインストーミング。<br><br>このブログは、思想系のもので、哲学や政治、さらに音楽や芸能など世相のことも巻きます。
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<pubDate>Sun, 26 Jul 2015 17:06:32 +0900</pubDate>
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