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<title>新　仕事以外</title>
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<description>ビジネスパーソンのコラム</description>
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<title>自意識</title>
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<![CDATA[ 朝の新幹線。仕事の合間に、昨日拝読したアーサー（友人、日本人）の<a href="http://ameblo.jp/suzan0426/entry-11357624161.html " target="_blank">文章</a>を思い出した。<br><br>尖閣諸島の問題に端を発した、中国国内のデモと暴動。色々な人が色々な事を言っている。この文章もその色々にひとつ追加するだけだが、思うところをまとめてみたい。<br><br>自分自身の思想傾向は、あくまでドメスティックだが政治的には右寄り、経済的には中道左派くらいになるのだろう。まあ、よくいるタイプというのが自己分析である。この左右の分類も実に怪しいものだが。<br><br>世界一安全な日本国内おいて、対立を煽るようなセリフを撒き散らしがちなのだが、なぜそのように考え、発言してしまうのかを考えてみる。「よくいるタイプの」分析であるから、ある程度普遍性があることが言えるかもしれぬ。<br><br>まずは我々の世代（1975年生まれ）の受けてきた教育（家庭・学校・社会）から自分の中に形成された近現代の日本の物語を考えてみる。いわゆる「歴史」ではない。ストーリーだ。<br><br><br>明治維新の引き金を引いたペリー来航から祖父たちが戦った第二次世界大戦まで、日本は機械文明として立ち遅れた(日本的)封建主義社会から、西洋列強国に伍す、ただそれだけのために全力を尽くした。<br><br>憲法の制定をはじめとする近代法の整備、不平等条約の解消、富国強兵に集約される産業の近代化と軍備拡張、そして終わりつつあった帝国主義への遅れた参加。栄光のシンボルとしての日露戦争の勝利。<br><br>日本の権益を守るための日華事変(日中戦争)や日韓併合。台頭する非白人国家への恐怖としての国際社会での孤立。真珠湾攻撃、絶望的な攻撃としての特攻隊、米国の原爆投下によるカタストロフと敗戦。<br><br>東京裁判史観を受け入れ、「軍部が悪かった」ことにしてＧＨＱ支配の下に始まった焼け野原からの戦後復興、「押し付けられた」憲法の受け入れ、日米安保への安全保障と奇跡的な経済成長。ソニー・本田・松下の立志伝、トヨタの栄光、バブルの狂乱と崩壊。<br>長期停滞から、少子化・デフレ・新興国の台頭による相対的地位の低下。<br><br>そして現在の自意識としてはこうだ。「我々はひたすら我慢している。、相手のことを考えて、世界に言いたい事も言わずに。そして我々の歴史観は概ね中立で大きく間違っていない。」<br><br>ざっとこんなところだろうか。これが私の中の大まかな日本の近現代ストーリーだ。（ものすごく大雑把で取りこぼしも多いが）それほど違和感はないだろう。<br><br>さて、何が問題なのだろう。私が思うに、他者に「共感と理解」を求めてしまう自意識と「共感と理解」を得ることを（政治的な）目的としてしまうその心理的傾向に「問題」はある。<br><br>個人の間で「ね、ね？（わかってよ）」という心情は理解できる。一種の甘えだが、親密な関係というのは(殊、日本においては)共依存の関係から成り立つので、隣にいる家族（妻・夫・子供・両親）がまったく理解を断絶した存在という認識には立ちにくい。(無理)<br>だが、ここがポイントなのだが、親密圏を超えた場所でも、私は「共感と理解」を求めてしまったりする。「ここまでやれば、お客様もわかってくれる。」「これだけやったんだから部長も認めざるを得ないだろう。」<br><br>よく考えるとそれには何の根拠も保証もないのだが、日本という大きなストーリーを共有している者同士だと、得てしてそれが成り立ってしまうケースが多い。ここが日本の組織が「擬制の血縁」（山本七平・司馬遼太郎）となり、西洋的な機械論的組織にならない理由である。<br><br>もちろん「日本というストーリー」は共同幻想に過ぎないのだが、そんなことを考えながら生活する人はいない。面倒くさくていちいち「お、こりゃ幻想だ」などと意識することなどできはしない。またその必要もない。<br><br>それゆえに「他者」は「自分ではないので断絶している」という認識が持ちにくい。大抵の日本人ならこう考えるだろうというのが成り立ってしまうからである。<br><br>しかし、薄々は気がついている。「果たして皆は自分と同じように考えてはいないかもしれない。」それ故にやたらと周りからどう見られているかに気を使う。そしてそれは常に受身の姿勢である。（「見られて」いるのだから）<br><br>そう考えるから、尖閣諸島についても「我々は正しい見方をしているのに、中国は正しい見方をしていない」となる。こちらが間違っていない限り、間違っているのは向こうであり、偏った愛国主義教育の為に間違った歴史認識を持ち、いちゃもんをつけているようにしか見えない。事の拙劣はあるだろう。愛国主義的教育は実際以上に反日感情を植えつけるのかもしれぬ。しかし、かといって外国にこちらの認識を共有させることなどできない。所詮は外国なのだ。<br><br>まず、他者は「理解できない」事を学ばねばならぬ。もちろん、私も。他者はどこまでいっても他者であり、自分自身の延長にはならない。ましてや外国ならそうである。もっと徹底的に他者である。同じ人間という程度の共有基盤しかない。中国人に日本というストーリーを共有させることはできないし、その必要も認めないだろう。<br><br>そこから出発すると「理解と共感」など求めようがないことがわかる。これはあくまで受身の語法であり、「理解してもらう」「共感してもらう」のであり、相手にこちらの認識を共有「してもらう」事に他ならない。そんなことは理解の断絶した他者には無理だ。<br><br>「相手は変えようがないが自分は変わることが出来る」だれが言ったかは知らぬがそのとおり。これを私は「理解と共感など求めようもないが、そう覚悟してこちらの目的と行動を改めることは出来る」と解釈している。<br><br>まず、「理解と共感」を求めることを（少なくとも外交関係には）諦めることである。だれも日本を理解できないし、共感もできない。当たり前である。日本じゃないのだから。その上で、別の目的と目標を持つことだ。アメリカ式に俗っぽく「世界戦略の遂行」でもよいし、東洋式に現実離れした「東方君子国となる」でもよい。どちらも理解と共感など求めていない。能動的な、つまり自分にかかわるものである。<br><br>中国や韓国への軽蔑感やわだかまりはおそらく、きっと「理解しあえる・共感しあえる」と勘違いしてしまうことから始まる。悪い意味での自己投影なのだろう。そうではなくて徹底的に突き放し、この理解できない他者とどのように平和裏に共存し、東方君子国としての立場を作り上げるか／世界戦略を実行し、東洋の覇者とならんかと考えるほうがおそらく解決は早い。<br><br>まさか日本人が「理解と共感」を目標にしているとは中国人も韓国人も思うまい。だからきっと、こちらの行動が「理解できない」<br><br>現実主義とは所与の事態に逐次的に対応することではない。自ら考え、目的を定め、現実を動かしていくことである。馬鹿々々しいと言わず、日本の国家目標はなんなのかをそれぞれが考えて、議論することでしか、現状は変わらないだろう。<br>
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<link>https://ameblo.jp/dhswordsman/entry-11358581303.html</link>
<pubDate>Wed, 19 Sep 2012 09:20:20 +0900</pubDate>
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<title>8月6日広島</title>
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<![CDATA[ 1945年8月6日、アメリカ陸軍航空隊所属の爆撃機、ボーイングB29「エノラ・ゲイ」が広島に原子爆弾を投下した。その結果16万人(だったかな？)が亡くなった。アメリカ政府の公式見解は「ＷＷⅡの早期終結には原爆投下が必要だった。その結果、(日本)本土決戦が回避され、更なる犠牲の拡大が回避された」というものだ。戦争当事国のアメリカとしてはそれ以外の言葉はあるまい。その立場は理解できるし、それを責めようとは思わない。<br><br>だが、一人の日本人としては「原爆投下による非戦闘員の大量殺戮」というアメリカの罪を永久に許す気はない。いつか必ず、何かの形で報復してやりたいと思う。長崎も同様だ。この落とし前をつけずに翳りが有るとは言え、世界の警察面、盟主面をいつまでも続けるアメリカ。私には不愉快この上ない。<br><br>アメリカはあらゆる意味で日本の最大のパートナーではあるし、「半主権国家」（≒植民地）としての宗主国でもあるので、協業や協力はしていかざるを得ない。だが、彼らの行った本当の意味での「人道に対する罪」は世界中の誰が許したとしても、当事国である日本のわれわれが許すわけにはいかないだろう。<br><br>平和式典でも何でもそうなのだが、不思議なのはこの「この点でのアメリカに対する怒り」が語られないことだ。「この過ちを繰り返しません」この言葉には主語がない。過ちを犯したのはアメリカであって日本ではない。そして日本には核兵器そのものがない。過ちなど犯しようがない。<br><br>「日本はアジア諸国を侵略し、世界大戦を巻き起こした国家ではないか！戦争を志向する発想自体が過ちなのだ！」<br><br>そういう言説は左側からよく聞こえてくるが、骨の髄まで東京裁判史観に毒されているとしか思えない。通常兵器でなく、核兵器を使用したのはアメリカである。そして、当時の国際秩序を形作っていたのもまたアメリカを始とする欧米諸国である。さまざまな力学が働いて日本は開戦に踏み切り、そして敗れたに過ぎない。そして、あの時点で近代化が立ち遅れた中国・朝鮮半島はメインプレイヤーでなかったに過ぎない。近代化したのが日本でなく、朝鮮であれば、また違った展開があっただろう。だが、その場合に、日本と同じような禍根を残さなかったとは私は決して思わない。日本と同じような戦禍を撒き散らしたに違いない。<br><br>オスプレイ「問題」を考えても、半主権国家である日本に選択の余地はない。アメリカの安全保障に乗っかる形で自国の安全保障を保つような国にアメリカの装備変更を云々する資格などない。沖縄や岩国が何を言ってもアメリカはオスプレイを配備するだろう。当たり前である。アメリカから見て、なぜ日本の言うことを聞かなくてはならないのか。いうことを聞く理由などどこにもない。<br><br>オスプレイ配備に反対するなら、普通に考えて、「日本は日米の安全保障に主権国家として貢献する。だから少なくとも国内の軍事基地を返却してくれ。」というしかない。アメリカの世界戦略上、認められないかもしれないが、日本という国家を「主権国家」として認めるか、欺瞞的な「植民地」という本音をあらわにするかどちらかしかないであろう。<br><br>日米安保について云々するなら、なぜこうした議論にならないのだろうか。<br><br>もちろん、自主防衛戦略を日本が選択したら、中国や南北朝鮮が大騒ぎするだろう。しかし、だからどうしたというのか。自分の国を自分で守る選択の何が悪いというのだろう。<br>まあ、案外中国あたりは「日米の不協和音」として歓迎するかもしれないが。<br><br>安全保障から目を背けるのはもういい加減にしよう。幻想にひたるのももう止めにしよう。リアルに議論を積み上げて、それでも現時点で半主権国家に甘んじるというならいい。だが、議論もせずにアメリカが守ってくれるという幻想を抱くのはやめよう。<br><br>もし私がアメリカ人なら、同盟国とは言え、他国のために血を流すなんてご免である。兵士の母親たちも、アメリカのために死ぬならまだしも（それだって、どうしようもない苦痛だろうが）、日本ごときのために自分の息子が死ぬなんて絶対に許せないだろう。日本人の甘えはそのような性質のものだ。<br><br>8月6日に思うこと。われわれはアメリカの呪縛の中にいる。
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<link>https://ameblo.jp/dhswordsman/entry-11321757778.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Aug 2012 18:03:41 +0900</pubDate>
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<title>Zero Fighter</title>
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<![CDATA[ 子供の頃から飛行機が好きだ。小学生の頃、遠い親戚が乗っていたという旧帝国陸軍航空隊の戦闘機「屠龍(とりゅう)」に関する本を祖父からプレゼントされ、それ以来、プラモデルや模型飛行機(ペーパーグライダー・バルサグライダー)を作っては空を飛ぶことばかり考えていた。<br><br>第二次世界大戦期の航空機ばかりプラモデルで作ったせいで、今でも圧倒的にジェット機よりプロペラ機の方に惹きつけられる。いわゆるレシプロ機(レシプロエンジンで飛ぶプロペラ機)の全盛期であった1930年から45年までの航空機の美しさはちょっと特別である。Ta-152やP-51D、SpitFire、B-17、B-29、A6M2(ゼロ戦)等で画像検索してみてほしい。それぞれの用途の極地とも言うべき機能美に驚くだろう。現代の軍用機が持つ海生生物のような不気味さとは違う、猛禽類のような、或いは獰猛な肉食昆虫のような美しさである。<br><br>そしてこの時代に確立した設計技術や生産技術は現在のそれに直結している。たとえば、ナチス時代のドイツ空軍の主力戦闘機であった、メッサーシュミットBf109のエンジンはダイムラー・ベンツ製の12気筒、同じくフォッケウルフFw190のエンジンはBMW製である。メルセデス・ベンツのエンブレムは陸海空での活躍を意味し、BMWのエンブレムはプロペラの回る姿といわれていたりもする。(異説あり)<br><br>航空機の技術は自動車に比べて、非常に難易度が高い。生産技術的にはもちろんだが、設計技術としても非常に高度である。何しろ、航空力学や流体力学的に優れ、戦闘機であれば、相手を圧倒する戦闘力を持たねばならない。敗戦後、航空産業から締め出された技術者たちが、戦後日本を牽引する自動車産業や新幹線といった分野で活躍したのも、考えてみれば当たり前である。<br><br>戦後、某自動車会社の技師となった元航空機の設計技師が何かのインタビューで「そりゃ、自動車は簡単ですよ。何しろ墜落しない。」と書いていた。本質的にはその通りだろう。それだけの技術的蓄積があったことは、敗戦後の日本が高度経済成長を迎えられた要因の一つであるのは間違いない。<br><br>日華事変(日中戦争)から太平洋戦争の間、当時のアジアの発展度から見れば意外なことに日本の航空産業の設計技術面は世界でもトップクラスであった。幕末維新の時代からたったの50年で、少なくとも航空機だけはすさまじい発展を遂げた。そしてその象徴が1939年に初飛行した零式艦上戦闘機、即ち「ゼロ戦」であった。<br><br>ミリタリーマニア的な議論は置くが、ゼロ戦は1940年～1943年の間については世界最高の戦闘機であった。同時にパイロットの質も、選抜と徹底的な訓練と中国大陸での実戦経験によって、太平洋戦争初期には殆ど無敵と言って良い状況を作り出していた。<br><br>さて、このゼロ戦だが、もちろんメーカーがある。現在でも日本の重工業の雄、三菱重工業である。エンジンは中島飛行機製であり、こちらは現在の日産自動車と富士重工業が引き継いでいる。設計者は三菱の堀越二郎氏。<br><br>この機体の開発には当然様々な要素が絡み合っているが、製品なので当然、企画部門から要求仕様が出る。企画部門は帝国海軍であり、その要求仕様は有る意味で非常に日本的であった。<br><br>当時、海軍航空隊内では上層部でもユーザであるパイロットの間でも大きく二つの立場で意見が対立していた。旋回性能を優先するか、速度を優先するかである。平たく言えば、蝶のようにヒラヒラと舞うことを優先するのか、トンボのように高速で飛ぶのかということである。空中戦というギリギリの舞台ではどちらも大切だが、この二つは相反する要素である。ヒラヒラと舞うためには蝶のように大きな羽が必要だが、それでは抵抗が大きすぎて速度がでない。かといって、翼を小さくすれば速度はでるが、蝶のような動きはできない。更に広大な中国大陸に進攻する爆撃機を護衛する為に長時間運用できるという要件もあった。<br><br>こういう場合、意見を吸い上げた上で、上層部がどちらかを決定するのがあるべき姿だろうが、そこはやはり日本である。結局、上層部はまとめることができず、メーカーに対して「蝶のように舞い、トンボのように速く、スズメバチのようにスタミナのある」という特盛り、全部乗せのような要求仕様を出した。こういうところ、日本は何も変わっていない。<br><br>「特盛り全部乗せ」の注文を受領した三菱重工と中島飛行機だが、このあまりといえばあまりの注文に中島飛行機は開発を断念し、受注を降りてしまう。何しろ、「世界一軽快で、世界一速度があり、世界一航続距離があり、世界一重武装で、しかも航空母艦で発着可能な戦闘機を作れ」という指示なのだ。設計者の堀越氏は「ないものねだりだ」とぼやいたらしい。<br><br>しかし、現場が何とかしてしまうのも日本の特徴である。この無茶苦茶な要求に対して堀越氏を中心とした三菱の設計チームは「開発仕様(設計思想)の優先順位付け」で対応してしまう。大きなコンセプトはこうだ。<br>「手に入りうる小型で強力なエンジンを積み、徹底的に軽量化した機体をつくり、相反する要素を高いレベルでバランスする。」<br><br>設計思想の優先順位は「1.軽量化⇒2.重武装⇒3.信頼性(高稼働率)」である。注意すべきは、「(パイロットの)安全性」という項目が無いということだ。これは堀越氏を責めることはできない。何しろ、要求仕様にはそんな項目がないのだ。そこにしわ寄せがくるのは当たり前である。<br><br>そしてゼロ戦は完成した。当初は昭和12年に要求仕様が出たということで十二試艦上戦闘機と呼ばれた機体は、当時の水準からすればとんでもなく高性能だった。世界の戦闘機の最高速度が400km/h程度の水準だったのに対し、ゼロ戦は500km/hを超え、またそれらのどの戦闘機よりも軽快で旋回性能に優れ、現代の最新鋭戦闘機F-22ラプターと同じ口径の20mm機関砲を２門備える重武装である。直径２センチの弾丸を喰らって無事な飛行機は当時は存在しない。さらに、3,300kmを超える航続距離があり、例えば欧州の戦闘機に比べると、レースカーとハイブリット車くらいの燃費のよさである。現場は顧客からの無茶な仕様に対して、工夫を積み重ねてそれ以上のものを作り上げてしまったのである。<br><br>当時としては異常なくらい高いレベルでバランスしたゼロ戦。そのバランスの秘密は徹底的な軽量化である。内部骨格をシンプルにし、超々ジュラルミンという新素材の採用などはもちろん、一切の防弾装備を排除し、それどころかパイロットが座るシートも穴だらけにするという徹底ぶりである。最高の軽快性と速度があるのだから、敵の弾は腕で避けろということだ。<br><br>人命軽視といえばその通りだが、短期的にはこの「超軽量化」戦略は大成功であった。何しろデビュー戦となった中国戦線では13機のゼロ戦で、27機の中国側(ソ連製I-15・I-16)の戦闘機を全機撃墜し、損害ゼロである。上層部が防御性能を無視してしまってもよいと考えたのも分かる。しかし、これほどの圧倒的優位が永久に続くわけは無い。また、現場のパイロットは防弾版の不備について、この時点で早くも声を上げていた。<br><br>当時の航空隊上層部に欠けていた思想がある。いや、今の日本企業でも欠けている思想がである。それはロジスティクス（補給）と熟練の時間である。最もコストのかかる航空機の部品は何か？それは今も昔もパイロットである。1,000時間という飛行時間がベテランのパイロットと呼ばれる条件の一つであり、これは容易に補充できないことを意味する。<br>その観点からすると「超軽量化（裏返しとしての防御ゼロ）」は長期的には非合理であった。どれほど優秀なベテランパイロットでも一瞬の油断はある。また出撃が増えれば疲労は蓄積し、その油断の時間は増えていく。太平洋戦争中期に入ると、アメリカ陸海軍はゼロ戦に対抗しうる性能の戦闘機を大量に投入してきた。その結果、休み無く戦う日本のベテランパイロット達は、一人、二人と歯が抜けるように欠けていく。防弾装備が無いということは撃たれたら終わりなのだ。防弾版があれば撃たれても何とか帰って、次の戦いに参加できるが、撃墜され、パイロットが死んでしまえばそれもできない。<br><br>例えば、同じ枢軸国側のドイツ空軍では、一定期間出撃したり、一定のスコア（撃墜数）を稼いだパイロットは強制的に休みを取らせてしまう。その結果、体調が万全の状態で臨むベテランパイロット達の生還率は非常に高く維持され、撃墜数も300機等と言うとてつもないスコアになるエースも存在した。翻って日本では、世界有数の戦闘機パイロットといえども生還率が低く、50機程度が最大である。（これとてとんでもない数字である。ベトナム戦争における米国空軍のエースの基準は5機撃墜である。）<br><br>そのようにして太平洋戦争中盤以降、日本にはベテランパイロットがいなくなってしまう。高性能な飛行機は作ろうと思えば短期間で作れる。しかしベテランパイロットを作り上げるのは絶対的に時間がかかるのだ。善悪でもなく、感情論でもなく、「ベテランパイロット」の製造と補充という思想が欠けていた大日本帝国航空隊。大戦末期にはろくに訓練されていない若手のパイロットが乗ったゼロ戦に爆弾を積んで、敵艦に突っ込むという「特別攻撃」をせざるを得ない状況に追い込まれていった。その頃には無敵を誇ったゼロ戦の性能も古くなり、アメリカのP-51やF6F、F4Uといった戦闘機に圧倒されていく。そしてどれほど設計技術があろうとも、生産技術ではすでに工業化社会となっていたアメリカに勝てるはずもない。ゼロ戦を徹底的に研究し、対抗手段を自国の戦闘機や爆撃機に反映したアメリカに対しもはや技術的優位さえも無かった。<br><br>日本海軍の栄光であったゼロ戦（零式艦上戦闘機）は、色々なものを示唆する。とりわけ、製造業の内部にいる若手技術者には示唆的だろう。プロダクトとしてどのように生み出され、どのように運用されたのか。どのような設計思想が利用されたのか。欧米諸国の戦闘機と比べてどうか。一つのプロダクトに着目するだけでも多くのことが見えてくる。そしてきっと形を変えてその歴史は繰り返す。たまには航空機史のような全く縁の無いものに触れてみるのも一興だろう。
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<link>https://ameblo.jp/dhswordsman/entry-11245082421.html</link>
<pubDate>Tue, 08 May 2012 14:12:12 +0900</pubDate>
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<title>目的と手段とバズワード</title>
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<![CDATA[ コンサルファーム時代の最後の年に、新入社員への講師・指導役の役目を仰せつかった事がある。その際の教え子の一人から、先日久しぶりに連絡が入った。内容は書けないがちょっとした相談事だった。<br><br>今は海外にいる彼と電話でおよそ１時間。国内時間では宵の口でも、むこうでは深夜の時間帯だ。海外ローミングの国際電話では金銭的な負担も大きいだろう。気を使ってくれたことはありがたい。電話を終えると、妻の用意してくれた熱々のおでんを日本酒で口の中で冷ましながら（猫舌である。）色々なことを考えた。<br><br>教え子たちは男女とも、恐らく日本でも最優秀に入る新入社員だっただろう。他の指導役を含め、国内二流私大の文学部卒など私だけだった。海外の有名校やすでにＭＢＡを持っている者や、例え国内大卒でも、東大大学院、一流私大を優秀な成績で卒業していた。<br><br>今でも十分若いが、皆、若く才能があった。あれから５年。今は二十代後半から三十代前半になり、世界中で活躍している。家庭を持ったもの、転職したもの、独立したもの、様々だ。<br><br>そんな連中でも、私のようなものを忘れずに、結婚式に呼んでくれたり、相談してくれたりするのは、掛け値なしにうれしい。ありがとう。この前もそうしたように、オジサンは海外挙式だろうと（できるだけ）参上するし、たとえ金の相談でも（出せる出せないはともかく）、仕事の愚痴でも、家庭の悩みでも何でも聞くよ。<br><br>さて、就職事情の厳しい昨今でもいくらでも内定がでそうな（実際そうだったに違いない）優秀な彼・彼女達だが、その優秀さを以ってしても、経験を積まないと気がつきにくい問題がある。冒頭の彼と話をしている時にも感じて指摘したのだが、自戒も込めてそのことについて書いてみたい。<br><br>一言でいうと「言葉への囚われ」、流行の言葉で言えば「バズワード」に引っかかるということだ。<br><br>例えば、今日も経済新聞に出ていたが「グローバル人材」というものがある。この10年無闇矢鱈と使われる言葉である。グローバルといったら国際公用語である英語だ。グローバル人材の育成には英語が欠かせない。すると「グローバル人材」＝「英語ができる人材」ということになり、それが英語教育の目的になる。<br><br>また、人材紹介会社にいた時のことだが、複数の内定を取るような「優秀な」転職希望者に限って「原田さん、私のキャリアにはどちらが有利でしょうか？」と聞いてきた。まるで他人から見て立派なキャリアを積むことが目的であるかのような口ぶりだった。<br><br>どちらも「言葉に囚われ」、目的と手段が入れ替わってしまっている。<br><br>バズワードはバズワードとして流通するくらいだから、引き付ける力のある言葉である。だが、これらの言葉を口にした瞬間に「何か考えた気になる」「目的を忘れる」という作用がある。つまり思考停止に陥るということだ。<br><br>普通に考えられているより、いわゆる「バズワード」は沢山ある。先ほどの例で言えば、「グローバル人材」とは殆ど意味のない言葉だ。外国で金を稼げる人という意味なら、世界中にいる外国で働く季節労働者も、売春婦も立派なグローバル人材だ。そうではなくて、どの国でも自国や自社や自分が外国人というだけで不利にならないよう、高いレベルで主張を通せる人材のことだろう。<br><br>それなら、国内にもすでに存在するはずだ。英語ができないというなら（できるに越したことはないが）通訳をつければいい。相手の言い分を尊重しつつ、こちら側の主張を通すのは、交渉ごとの基本である。この基本に国境のあろうはずが無い。<br><br>教育に視点を移せば、英会話など必要に迫られればできるようなスキルを身につけることが目的ではあるまい。説得力をもって、伝えるべきことを伝える能力を磨く方がはるかに優先度が高いだろう。そのためには英語圏の人間が、どういう風にロジックを組み立てるのかを解っていた方がよい。むしろ、質の高い英文を大量に読む方が有用だろう。<br>（結論⇒論拠1、論拠2のような。ピラミッドストラクチャー等もここに入るだろう。）<br><br>最低限の教養もそうだろう。原文でなくてもいいから、シェイクスピアを読む。近松門左衛門との比較で語れればさらによい。<br><br>あるいは「キャリア」だが、我々はキャリアのためにキャリアを形成するわけではない。やるべき事、やりたい事があるから、それに近づくために経験を積むわけである。キャリア形成はその手段にすぎない。<br><br>内定を複数とるようなタイプの人がやるべきことは、どうすれば有利になるかではなくて、何に対して有利になるのかの軸を決めることだろう。それが不明確なら、まずはその軸を考えることだろう。そうすれば「私のキャリアに有利でしょうか？」という内容のない質問ではなく、「どちらの方が、やりたい事が見つかるでしょうか？」となるはずだ。この質問なら、こちらも一緒に考えて、答えることができる。<br><br>システム導入やコンサルティングの世界には、さらに倒錯した例が掃いて捨てる程ある。<br>しばしばＩＴツール導入のコンサルティングでは「効率的な業務」を実現したいというような言葉が担当者からも管理層からも出る事がある。<br><br>問題点や課題がはっきりしている場合はそれでよいのだが、この手の言葉が出てくるケースは、たいていの場合、「何が問題で」「どうすれば解決するのか」が不明確な場合が殆どだ。システムはそれ自体の導入が目的なはずは無い。解決すべき問題を解決するために（大抵、その手段の一つとして）導入するはずである。この場合は、クライアントが「ＩＴ＝効率化」と思い込んでいるか、問題や課題が不明確だからとりあえずお茶を濁しているだけである。(多くは後者だ。)<br><br>効率を上げるためにＳＣＭ（の概念とそれ用のシステム）を導入するわけではない。（中間在庫を圧縮して）収益を最大化することが目的である。効率化のためにＣＲＭを導入するわけではない。（顧客満足の向上を通じて）収益を最大化することが目的である。<br><br>更に言えば、収益を最大化することが企業の目的ではない。収益の最大化はゴーイング・コンサーンによい影響を与える手段でしかない。企業の目的は（社会に有用なヒト・モノ・サービス・雇用を提供して）よりよい社会作りに貢献し続けることだ。<br><br>上述の言葉は綺麗事ではない。大して貢献できてないと、遅かれ早かれ社会から駆逐される。端的に言えば事業継続が出来なくなり、会社は倒産する。これが個人なら、信用を失い、当人が不幸になり、次いで周囲も不幸になる。<br><br>倒錯を回避するのは案外難しい。ある意味で、バズワードやその類の言葉はは思考の効率化を促すから、合理的な場合もあるのだ。だが、大切な決断や大局的な判断を下す前には必ず、目的と手段の取違えをしていないか、今一度考えてみよう。俺って何のために生きてるんだっけ？というレベルも視野に入れて。
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<link>https://ameblo.jp/dhswordsman/entry-11196749195.html</link>
<pubDate>Sun, 18 Mar 2012 22:25:32 +0900</pubDate>
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<title>国民経済と企業の使命</title>
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<![CDATA[ 春闘が始まった。新聞によれば、雇用が多様化し春闘の存在意義が薄れたらしい。経営者側である経団連は「ベアは論外。定期昇給も凍結か廃止の方向。」だという。これに対して、従業員側の連合は対抗するための論理を持っているのだろうか。<br><br>経営者側の言い分はこうだ。「国内市場が人口減少により縮小する中、成長するアジアを含めたグローバル競争で生き残るにはコストダウンがどうしても必要である。国内雇用を維持するためにもコストアップに繋がる人件費は抑制せざるを得ない。」<br><br>従業員側の主張は「やる気を維持しつつ、生活を守るにはこれ以上の賃金低下は受け入れられない」というところである。このロジックでは勝ち目がないだろう。<br><br>不思議に思うのは新聞にせよ、テレビにせよ、国内市場の活性化についての言及がほとんどなされないことだ。まるで日本という巨大な市場がもはや存在していないかのような報道がなされる。そして十年一日のように、「少子高齢化で国内はもう駄目だ。グローバル化しないと世界から相手にされなくなるぞ」というよくわからない脅し文句が氾濫している。<br><br>当たり前のことだが、国内市場とは我々自身のことである。たとえば会社員のあなたは月給やボーナスを働いた対価としてもらい、それを使って消費活動をする。その消費活動そのものが市場を形成する。<br><br>さて、ここで月給が賃金カットされ１０％削減されたとしよう。年収が仮に４００万円だとすれば、３６０万円になる訳だ。するとあなたはどうするだろう。「ただでさえギリギリで生活しているのに、賃金が下がった。しかたないから支出を抑えよう。」と考えるだろう。<br><br>もともと、賃金のすべてが自由な消費に回るわけではなく、衣食住、医療、教育、貯蓄から差っぴいた余剰分が可処分所得として消費されるわけだから、１０％の賃金カットがあった場合、真っ先に削らざるを得ないのがこの部分である。<br><br>従って、１０％の給与カットは実際には可処分所得の５０％、８０％にあたり、国内市場は１０％どころではない縮小となる。何のことはない、給与水準を引き下げたり、昇給を凍結したりすると、経営者側が依存している国内市場を駄目にする結果になるのである。<br>当たり前すぎて馬鹿馬鹿しいが、だれもこういうことを言わない。普通に考えて、「それならばむしろ給与水準を維持・向上した方が市場の購買力がアップするのは自明のこと、だから給与を上げよう」という話には何故かならないのである。<br><br>実例はある。Ｔ型フォードで有名なフォードモーター社は、かつて周囲の大反対や白眼視にもかかわらず、工場労働者の賃金を倍増したことがある。その結果、それまで業務用か金持ちのおもちゃであった、自動車がフォードの社員を中心に普及しアメリカ国内に自動車市場が形成された。<br><br>なぜ、このような考え方が出てこないのだろうか。少なくとももっと主張されていい考え方である。要素は複雑に絡まっているが、大きくは３つの原因があると考えている。<br><br>一つめは労働者側の不勉強である。知的怠惰と言ってもいい。新聞紙面やテレビの垂れ流す論理に無批判に従う弱さである。少なくともメディアやメディアに登場する言説は、自分たちを「勝ち組」と思い込んでいるような大きな既得権益を持つ人間の言説である。誰だって損はしたくない。従ってそこから出てくる主張は既得権をもつ「勝ち組」とやらに有利な主張になる。<br><br>ここには意識的にせよ無意識的にせよ、そうした人々に有利な情報、端的には嘘が混じり、自分たちが損をする主張は報道されないのに自分の頭で考えない人々はそうした情報を受け入れるほかない。<br><br>二つめは「国民経済」意識の欠如である。日本の経済はまず第一義に日本列島に暮らす日本人のために存在する。決して税金対策と称して財産を海外に退避させるような特権階級のために存在するわけではない。この国で暮らさざるを得ない日本人全員をどうやったら食わせることができるのか。全体として向上することができるのかを追求することが日本の経済政策の目的である。<br><br>ＴＰＰにせよ、消費増税にせよ、支配者層がこうした観点から考えているとはあまり思えない。この観点から考えると、自ずから「どうすれば日本が優位に立てるのか」を真剣に考えるようになるはずだ。そうすることで国益を守ることができる。国益とは人口のほとんどを占める日本列島に暮らさざるを得ない人々（我々のことだ。たぶんあなたも）を利することとイコールだ。<br><br>企業活動には「食わせる」、つまり雇用を創出し従業員の生活を向上させるという使命がある。それが一切ない経営者ならば、古い言い方で恐縮だが卑しい国賊でしかない。<br><br>三つめは支配層の卑しさである。損をしてでも何かを守るという誇り高さはほとんど見られない。一部の企業では従業員の賃金を据え置く一方、役員報酬を高額に吊り上げ、グローバル・スタンダードだと居直るような状況が見られる。また、株価が大きく下がっても日本では「愛国相場」、つまり「俺／私が日本を買い支えてやろう」というような動きは皆無である。<br><br>アメリカにはそういう実例がある。現在のＦＲＢの前身を作ったＪ・Ｐ・モルガンは、大恐慌の際、自社の弱体化を省みずに他社の株を買い支えた。その株を買えば独禁法に触れ、会社は存続の危機に立たされる。しかし、その株を買わなければ、連鎖的倒産により、恐慌がさらに悪化するという選択の場で、彼は自分が損をする選択をした。ジュピターというあだ名に恥じぬだけの志を持った男であることを証明して見せたわけである。<br><br>このような選択をする日本の金持ちはいるだろうか。誰も損したくない。なぜ俺だけ損をしなくちゃならないのかと考えるのが関の山であろう。言うも愚かだが。<br><br>弱肉強食が大好きなアメリカでさえ、ウォーレン・バフェット氏のような世界的大富豪から、富裕層への課税が主張される。ロムニーのような原理主義的自由主義者は大統領になれないだろう。まだ、アメリカのほうが腐っていない部分があるのは日本人として悔しい。<br><br>少女時代、ＫＡＲＡ、チャン・グンソクなどの韓流ブームは韓国芸能界の戦略と日本市場を徹底的に研究して進出してきた結果である。それだけ日本市場には未だに大きな魅力があるのだ。（韓国国内のエンタメ市場では投資が回収できないから、海外に目を向けざるを得ない）手遅れにならないうちに、国内市場の活性化と国民のための経済を目的として手を打つべきである。グローバル化対応はそのための一手段でしかない。<br><br>目的と手段が倒錯していると感じる昨今の日本である。
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<link>https://ameblo.jp/dhswordsman/entry-11149202967.html</link>
<pubDate>Sun, 29 Jan 2012 11:42:01 +0900</pubDate>
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<title>自己紹介</title>
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<![CDATA[ この「新仕事以外」というブログをスタートしてから、いくつかのエッセイ風の記事をすでに書いた。既に何人かの方に読んでいただいていることでもあるので、遅まきながら自己紹介を記す。<br><br>若干のプロフィールなどはプロフィール欄に記載したので省略する。５･６年前まで「仕事以外」というブログを書いていた。その際は匿名だったが、今回は敢えて実名で書くことにした。<br><br>匿名では無責任にどのようなことでも書けてしまうし、内田樹氏が指摘するように、「２ちゃんねる風の名無しさんを名乗ると、まず何より自分自身が取替えの利く、どうでもいい個人に成り下がる」ので、楽なようでいて実は自分の価値を自分で否定するようで精神衛生上よくない気がする。そこであえて実名で書くことにした。<br><br>従って、異論・反論・炎上のリスクは私、原田大介という実在の個人が負うので、自由にコメントして頂きたい。<br><br>パブリックに氏名を公開したからには、自己紹介もパブリックに行きたい。何度か記事内で触れたように「製造業向けの業務＆ＩＴコンサルタント」を職業としている。<br><br>所属している社名はお客様に迷惑のかからぬよう伏せて置くが、大手製造メーカ（グローバルでは１万人超の従業員数）のシステム事業部に所属している。興味のある方は非公開コメントにでも連絡先を残して頂ければ、こちらからご連絡差し上げる。<br><br>会社から期待されている内容と自分で考える私のミッションはズレがあるが、どちらにせよ「製造業における研究開発や設計」という業務分野で、コンサルティング手法を確立する。まずは目の前のお客様、そして一社でも多く、製品に関するあらゆる品質の向上、よい商材を世の中へ送り出すお手伝いをするということである。<br><br>その先には日本の製造業が元気を取り戻し、国内外に貢献できるようになることへの支援という目標もある。あまりに大上段で遠大なのだが、ともかくこれくらいの気負いで仕事をしたほうがそれ自体楽しみとなることを経験的に知っている。また、公言してしまうことで、努力を継続するモチベーション・モラールを得られるかもしれない。<br><br>現在、３６歳で既婚。現在の会社は四社目である。中央大学文学部哲学科卒業後、９９年百貨店系システム子会社、イセタン・データー・センター（現、三越伊勢丹システムソリューションズ）に７年お世話になり、３年ほど外資系コンサルティング会社、アクセンチュアで主に製造・流通業のコンサルティングと中国を中心としたオフショア開発基盤作りに従事した。<br><br>その後、人材大手のインテリジェンスにてＩＴ分野のリクルーティング・アドバイザー（企業向け紹介・営業担当）を経て、現在の会社に移り、２年間、製造業向け業務パッケージシステムの営業を担当したというのがここまでの大まかな経歴である。その過程において、コンサルタント業が天職という自覚が朧気ながら出来つつある。<br><br>現在の会社に入社面接の際に、「製造業のＲ＆Ｄ分野はコンサル会社が狙いにくい部分なので、チャンスがありそうだから独自のコンサルサービスをなんらかの形で立ち上げたい。」と主張してから３年がかりでようやくサービス開始までこぎつけ、現在はコンサルティングと、事業の拡大に注力している。<br><br>また、中小企業診断士の資格取得を通じて、経営という視点も取り込んだコンサルタントになるべく勉強中である。ちなみに、一次試験は７科目あり、あと３科目＋二次４科目（ケース問題）というところ。気は抜けないが今年の大きな目標の一つであり、なんとか合格したい。<br><br>仕事以外ではLIQUIDCLIP（リキッドクリップ）というバンドでベースを弾いている。メンバーはそれぞれ社会人なので、なかなか前に進まないが、ビジネスパーソン兼ミュージシャンと名乗れるようにしていきたいと考えている。因みに２０年ベースを弾いているが、歴の長さと腕前は決して比例しない。<br><br>ベースの上達とオリジナルを２０曲は完成させることが今年の目標である。ベースの上達という点では、ジャズのウォーキング・ベースの基本とスラップをものにしたい。しかし、愛用するベースはフェンダー・プレシジョンベースである。あまりスラップ向きではない。<br><br>趣味は割合と多いほうなので、神社仏閣めぐりと歴史（日本・海外）、武術（稽古）とその歴史あたりを挙げてみる。今年は伊勢・熊野や安芸の宮島に詣でるタイミングがあればとも思う。（妻よ、どうでしょう？）<br><br>読書傾向としては歴史、評論が多い。山本七平には大きな影響を受けた。最近では今東光、会田雄次をよく読んでいる。作家では阿刀田高、塩野七海、海音寺潮五郎が好みである。まあ、読書に関しては完全に多読・濫読派なので、なんでも読む。<br><br>妻からは右翼扱いされるが、思想的には保守、経済的には中道左派だと自己認識している。コスモポリタニズムは馬鹿馬鹿しいと考えるし、グローバリズム的市場原理主義にも与しない。緩やかなリージョナル的漸進主義者というところか。<br><br>喫煙者である。銘柄はショートホープ。肩身も狭いし、ずいぶん多く納税していると思うが。下戸ではない。日本酒なら真澄、ウイスキーならラガヴーリンが好みだが、たいていの酒は美味しくいただく。だが白酒（パイチュウ）だけはどうしても駄目だった。紹興酒は大好きなのだが。<br><br>宗派は曹洞宗。家紋は下り藤。願をかける神は弁才天。神仏の実在を信じているわけではないが、somethig greatは何となく信ずる。また永い間そのように信じられてきた存在は尊重する。だが個人崇拝は好みではない。従って多くの新興宗教は好みではない。<br><br>異性愛者である。しかし、フレディ・マーキュリーのファンである。斉藤和義は好きだが、ビートルズは苦手である。パガニーニ、ラフマニノフは好きである。だが、ベートーベンは（曲によっては）苦手である。<br><br>車はマニュアルのクーペが好きである。しかしクーペだがＣＶＴ車に乗っている。スーツスタイルが好きだが、会社ではスーツを着ない人だと思われている。<br><br>気長でカッとなりにくい。しかし、ごくまれに唐突に怒る。自分では自分の逆鱗がどこにあるのかよくわからない。（情緒不安定といわれたことはない。ご心配なく。決して怖いタイプではない。）<br><br>柔道、居合、柔術、剣術、杖術は多少経験がある。打撃系の格闘技を稽古してみたい。（空手、日本拳法、カリなど）<br><br>Ｅテレの０６５５と２３５５にはまっている。我が家にはチワワが２匹いる。<br>引き続きのご愛読をお願いいたします。
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<link>https://ameblo.jp/dhswordsman/entry-11144269690.html</link>
<pubDate>Mon, 23 Jan 2012 22:54:38 +0900</pubDate>
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<title>グローバリズム（続 ロストジェネレーション）</title>
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<![CDATA[ 成人の日の翌日の記事で、いわゆる「ロストジェネレーション」である、我々自身の特徴として「他者への依存を嫌う」性向があると書いた。これについて、もう少し我が偏見を書いてみたい。（要するにまだ書き足りない）<br><br>統計を取ったわけではないので本当に有意にそのような傾向にあるのか解らないのだが、少なくとも私は当てはまるし、同期連中の様子や見聞きする話からも、それを実感できる。なので偏見と断った以上は好きに書く。（と気張るほどのものではないが）<br><br>それ以外に書きようがないので個人的なところからスタートするが、私の両親は戦中生まれである。それぞれ、父は昭和１５年、母は１８年（だったかな？）父は名前からして１５年生で間違いないのだが（紀という字が入っている。紀元２６００年に因んだ名前だ）母は定かではないが、祖母から、台湾だか九州だかで出撃する特攻隊員に幼子だった母が抱っこされたという話を何度も聞いているので、２０年以前であるのは確かである。<br><br>戦後生まれの段階の世代よりはわずかに上の世代となのだが、ここではざっくり団塊の世代と共に括ってしまおう。この世代は敗戦直後の壊滅的な状態から高度成長期の中核となり、バブル崩壊を経験し、ＩＴの台頭の頃に引退した世代である。（職人である私の父はまだ働いているが。）<br><br>適当なサンプルがないので父を基準にこの世代の(本人の無意識の自覚としては)中流の人々について考えてみたい。当たり前だが、子供の行動や意識は（育ての）親の影響化に形成されて大人になる。従って、行動や意識に親の影響がないはずがないからである。もちろん、いい年をしてアダルトチルドレン的に自分の馬鹿さ加減を親に帰結させようということではない。本人の馬鹿はたいていの場合本人の馬鹿のせいだし、親が悪いなどと言い募っても、時間の無駄である。高齢化したわれらの親世代はそう長くは生きないし、さまざまな衰えとともに振るい得る力もまた衰えていくからである。（我々もまた。）<br><br>さて、戦後から昭和３０年代半ばに掛けておおむねこの世代は１５歳から２０歳の青少年の時期にあった。この年代の５歳は文化的には差異が大きい。私の父はロックといえば「エルビス・プレスリー」だし、アメリカがベトナム戦争にはまり込む前の「良き時代」に青春の日々を過ごしていたため、割合素直にアメリカが好きである。（実際に戦った祖父の世代は「我々はアメリカには敗れたがイギリス・オランダ・支那ごときに敗れたわけではない」という意識だったように記憶している。）少し下の段階の世代はちょっと違う。ロックと言えば「ザ・ビートルズ」（イギリス人だ）だし、アメリカがベトナムの泥沼でもがいている時代に青春の時期だったため、ひねくれたポーズとしてのアメリカ嫌いが多い。（目立つだけで）割合は高くないが学生運動などをやって、自分たちの無能と無力を思い知った世代でもあろう。父に話を聞くと、すでに働いていた多くの世代は学生運動など無効でばかげていると冷ややかに眺めていたらしい。（ま、そりゃそうだろう）<br><br>私から見るとやはりよくも悪くも「アメリカ」を基点としていることで、これは同種のものである。自分たちの親世代を打ち負かしたアメリカを素直に（慕夏思想的に）憧れの対象とできた時代と、正しくて強い国（今でもアメリカ人はそう言いたがるが）のはずのアメリカがエゴイズムでベトナムに介入して幻滅した姿を見せられ、丁度、子供が親のみっともない姿を見てしまった時のように反抗したという違いだけで、アメリカを日本の親のような位置づけとして捉えていた点は同じである。<br><br>ようするに、宗主国と植民地の関係が深く内面化した世代という風に乱暴に括ってしまってもいいと思える。言い換えると日本は沖縄が返還されようが、為替相場が変動性になろうが（いわゆる普通の）独立国でないことが当たり前と考える世代が生まれたというわけだ。<br><br>これをアメリカの戦争の罪悪感植え付け作戦（War Guilt Infomation Program）の勝利と捕らえても良いし、日本人の事大主義だとか忘れっぽさを原因と捕らえてもいい。それについてはここでは問わないしどうでもいいことだ。<br><br>ただ、この世代の親世代（つまり祖父母の世代だが）は日本が近代国家として、列強諸国に振り回されながらも、自分たちが主体的に自らが列強となった時代を担った経験があるだけに、アメリカが日本の親であるなどとは考えなかった。近代化の方法論は英独仏にも学び、アメリカを相対化できる視座（価値観）があったはずだ。だから、この世代がまだ社会的地位が高い時期には「アメリカのやり口」を正しいものとして捉えず、方便として従っていても自分たちのやり方をやっていくことができたし、それを子供の世代にも適用したであろう。日本には日本のやり方があると。また（主観的には）その結果として高度成長期を迎えることができたわけである。<br><br>この戦前世代（明治・大正生まれ）がほぼ完全に死に絶えた頃に世に出てきたのが我々の世代ということになる。言い換えれば、宗主国アメリカ（アメリカが親である）を深く内面化してしまった世代が親であり、同時に実権を握った世に出てきた世代ということになる。<br><br>その我々は「個人主義」が（政治的に）「正しい」ということを親の「アメリカ」世代から言われて育ってきたわけである。「子供の個性」とか「腐ったミカン」とか「自分のためにがカッコいい」等とまじめに言い出した世代に育てられたというわけだ。<br><br>それは同時に日本の（家父長的で前近代的と捉えられた）風土を破壊していく過程でもあっただろう。そういうものはカッコ悪いもの・ダサいもの、面倒なもの、あるいは拒否すべきものとして。荒野を一人行くイメージ（１０年ほど前のマルボロのＣＭでも思い出してみるといい）が格好良く、アメリカ的なものが正しいというイメージの植え付けでもある。<br><br>そしてバブルが崩壊した。アメリカの後を追いかけて、言うことを聞いていたら破綻したわけである。崩壊前に引退した戦前世代は意図的にアメリカの後を追いかけ、庇護を引き出していたが、アメリカ世代はそうではない。深く内面化された宗主国としてのアメリカについていくことしか思いつかない。日本のバブルが崩壊した頃、アメリカは金融とＩＴにより再び強さを取り戻した。これを見せられたアメリカ世代の考えることはひとつ。「我々がうまくいかないのはアメリカ化がまだ足りないのだ」ということである。もちろん、アメリカ化とはグローバル化と言い換えても良い。グローバル主義とは「個人主義」の言い換えでもある。<br><br>そして我々は「人に頼らず、個人として自己責任を全うする」ことがグローバルスタンダードであり正しいと信じて世に出たわけだ。バブル世代以前が失敗したのは「グローバル化」が足りなかったということを信じて。そしてそれ以外に考えようがなかったのだ。だから、よりグローバル化すればより良くなる（生活が向上する。無能で強欲な老人が失脚する等）と信じて、小泉純一郎に熱狂し、いまは橋下徹に熱狂している訳である。<br>（小泉純一郎は一面の魅力があると思うが、私は橋下徹が大嫌いだ。）<br><br>かくて、我々はドライで、冷酷で、計算高く、自己責任が大好きで（そのくせ他責的で）、利己的で、他人の気持ちをわかろうとしない（グローバリズムに反するから）。その結果、他者への依存を忌み嫌い、チームプレイが下手で、たいした結果が出せないフリーターとニートだらけの「ロスト・ジェネレーション（氷河期君？）」と成り果てたというのが私の理解である。<br>嘆き節が多いのも我が世代の特徴である。間違ってる？間違っていて欲しいな。<br>
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<link>https://ameblo.jp/dhswordsman/entry-11139314944.html</link>
<pubDate>Wed, 18 Jan 2012 19:09:04 +0900</pubDate>
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<title>クリシェ、或いは陳腐なテンプレート</title>
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<![CDATA[ コンサルティングの仕事をしていると、それ以外の業務よりも「フレームワーク」を利用することが多い。４Ｐ・５Ｆのような良く知られたものから、ＱＣ７つ道具のような、その業務に携わる仕事をしていないと用のないものまで様々である。フレームワークとは何かといえば、何のことはない「枠組み」のことであり、物事をヌケなくダブりなく（ＭＥＣＥというやつですな）考えたり、評価したり、提案したり、説得したりするための道具のことである。ただ、「枠組み」というよりは「フレームワーク」と横文字で書いたほうがインテリ風味なのでそうしているだけである。<br><br>このフレームワークは便利なもので、方程式（関数）のように引数を与えると何がしかの答えが出る。経営分析であればＣＶＰ分析などで、財務諸表やインタビューからいくつかの「事実」を拾ってフレームワークに代入すると、あらかた終わったようなものである。<br>勿論大嘘である。人間の営むことがそれほど単純なはずもない（ましてや経営）。フレームワークの厄介なところはそれで、とりあえず型通りに物事を整理すると、大抵それで判った気になるものである。当たり前の話なのだが、フレームワークに事実をマッピングしただけでは対象となるものを理解するヒントが一つ出来上がっただけなのだが、その作業もそれなりに知力・体力を消耗するので、一所懸命に作業すればするほど、判った気になってしまうのである。駆け出しのコンサルタントの頃、ベテラン・コンサルタントに「枠の話はもういい！中身だ！中身の話をしろ！」といつも怒鳴られていた。<br><br>実際のコンサルティング現場で必要なのはフレームワークに必要なことをプロットしてから、それから何を導き出せるのかを考え、更に詳細に調査する必要のある事柄を選択し、「問題は何か」「課題は何か」「どういう方向性で解決するのか」「具体的な実行計画」という事柄を「考えて、考えて、考え抜く」事である。その為には対象となる事柄を細部まで想像して、或いは実際にクライアントに協力してもらって、小規模に実行してみることで仮説を検証するという作業してはじめて、対象（経営・業務など）の一端が掴めるというものである。<br><br>ちなみに「細部まで想像」と書いたのは、絶対にクライアントの方が自分たちの経営や業務については詳しいし、多岐にわたる対象業務を調べ尽くすせないからである。だからある程度の知識と一般論でもって「こうであろう」と考え、想像することになる。また、そのことが「少し離れた場所からの外部の視点の確保」というコンサルティングにクライアントが期待することの一つに答えることにつながると私は考えている。<br><br>コンサルティングに限らず、業務の多くはフレームワーク的に標準化（画一化）し、できるだけ作業内容やインプット・アウトプット・完了条件を決め、それに従って遂行することで作業効率を上げつつ、その品質を上げることができる。<br><br>しかし、インターネットも含めたメディアが発する内容（コンテンツ）までも、陳腐なフレームワークに従った言説が多いのは、どうも面白くない。何かのトピックがあると、いつものフレームワークに落とし込んで、ありがちなコメントをつけて終わる。こうした傾向は特にテレビが最悪で、ついで新聞、ラジオ、ネットの順であろうか。<br><br>巨大なビジネスを行う企業ほど、コンプライアンス的に神経質になるのは理解できるが、果たして「政治家は我々庶民の感覚がわかっているのでしょうか？」とか「沖縄の人々の負担も考慮しつつ、米軍基地の再編を考えなくてはなりません」とか「これほどの凶悪な事件が起こるとは、まるで信じられません」のような言説が必要だろうか？あのニュースキャスターやコメンテーターという職業は正直申し上げて、フレームワーク的な言葉をタイミングに合わせて、滑舌よく話すというだけで、ずいぶんな高給を取っていると思う。それなら、単なるストレートニュースをアナウンサーが淡々と読んでくれる方が、よほど考えるし、第一、目障り耳障りでない。<br><br>少し前にネット上で「天声人語テンプレ」というものが流行った。思想的な立場はどうあれ、その「テンプレート」に従っていくつかの言葉を埋め込むとまさに天声人語の書きそうなコラムが出来上がることに感心してしまった。誰が作ったのかは知らないが、フレームワークとしての社説子の思考を炙り出して見せていた。社説子はプロの書き手として、この程度の文章を書いていて恥ずかしくないのだろうか。こうした知的怠惰（手抜き）を撒き散らすコラムなど本当に必要だろうか。（どの新聞でも大体同じ問題がある）<br><br>フレームワークの危険性は冒頭に書いたとおり、判った気になることである。考えた気になると言い換えてもいい。フレームワークはあくまでもフレームでしかなく、「判る（解る）」「考える」ための材料でしかない。なのでそれに則って話したり、書いたりするだけでは「何かを述べた」ことにはならない。むしろ、思考停止に陥っているだけである。我々のような受け手側もその陳腐なテンプレートで安心したいというのなら、ただの知的怠惰である。<br><br>自分（会社）の意見を言うわけでもなく、受け手に考えさせるわけでもない。ただ受け手を安心させる、そういうフレームワークは有害である。自分の頭で考えるということができなくなるからだ。「ビジネスとしてそういうニーズに答え、利潤を最大化するためにはそれしかないのだ」というのがメディア側の言い分だろう（これもフレームワーク的定型文だ。いつもメディアは異口同音の言い訳をする）。安心したい読者にそれぞれの政治的・生活的・性別・年齢バイアスに応じて、それぞれのコンテンツを提供しているだけだというのであろう。<br><br>だが、それは本当に自分たちのビジネスを最大化しているのだろうか？受け手を馬鹿にした結果、新聞離れやら、テレビの凋落やらという受け手離れを起こしているだけではないのか？。「まともな」読者や視聴者にそっぽを向かれ始めただけではないのか。<br><br>さて、文句ばかり書いてしまったが、中年に差し掛かった私の娯楽の一つは「テレビに向かって文句をいう」ことである。（妻よ、いつもすまぬ。）従って、あまりにテレビや新聞が改善されてしまうと趣味が一つ減ってしまうので具合が悪い。そんな心配は当面ないだろうというのが現在の見通しである。老後はわからないが。
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<link>https://ameblo.jp/dhswordsman/entry-11136979051.html</link>
<pubDate>Sun, 15 Jan 2012 23:28:44 +0900</pubDate>
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<title>ロスト・ジェネレーション</title>
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<![CDATA[ ２０１２年も成人の日を過ぎ、正月から日常へと世の中も復帰した感がある。我が家でも結婚前からの恒例、七福神巡り（今年は隅田川七福神）も終えて、毎日の為すべき事柄を行う日々が戻ってきた。仕事も作ったドキュメントや受領資料を読み返しながら、再始動というところである。<br><br>成人式のあたりではさまざまなメディアが世代論を特集を組んだりしている。日経新聞も世代論の特集を連載していることだし、今回は私の属する年代の世代論を書いてみたい。<br>ところで、世代論はいつも大雑把でいい加減なものである。話を国内に限ってみても、同世代と言えども千差万別、百者百様。従ってこれから書くことも、一般論の形を借りた私の偏見だと思って頂いてかまわない。<br><br>私は昭和５０年（１９７５年）生まれ。現在３６歳。今年９月で３７歳になる。いわゆる団塊の世代のジュニアに当たる（私の両親は戦中生まれだが）。<br>ここでは大雑把に２０１２年現在、３０代半ばを同世代と考えよう。<br><br>我々はバブルの絶頂期から崩壊にかけて中学・高校という多感な（アホな）時期を過ごし、就職活動の頃には「氷河期」といわれた世代である。私が社会人になった年は山一證券が破綻し、日本的経営やら年功序列やらが崩れ始めた時期でもある。企業は新規採用を絞り始め、「２００社資料請求して、４０社ドサ周り」のような就職活動が当たり前であった。今はさらにシビアなのかもしれない。<br><br>さて、ここまでは事実を書いただけだが、ここからは偏見に満ちた大雑把な考察である。<br>我々の世代は朝日新聞（だったように思う）により「ロスト・ジェネレーション」（ロスジェネ）と名付けられた。「失われた世代」という意味だろうが、「敗れた世代」「負け組み世代」とも取れる。バブル的な経済的繁栄に乗り遅れ、わが国がジリ貧を余儀なくされる時に働き盛りを迎える貧乏くじ世代という含みなのだろうが、なんとも失礼なネーミングだ。とはいえ、その特徴と思われる世代的傾向を考えてみよう。<br><br>我々はバブル入社の世代やその上の世代に比べて、他者に依存することをかなり嫌う。言い換えると他者に甘えることが下手なので、他人のスキルや脳味噌を使うことが上手くない。従って、何もかも一人で抱え込む傾向にあるように思う。私も例外ではない。その結果、個人としての能力はまずまず高いのに、仕事があまり上手ではない（私だけか？）。<br>個人の能力には限界があり、他者との連携して、はじめて大きな力を発揮できることは当たり前なのだが、その連携が下手だ。同期入社の仲間にも個人の能力を超えて仕事を抱え込み、異常なハードワークとなってもそれを訴えることもせず、結果、うつ病を発症した者も何人かいる。それは他の世代にくらべても多い。世代別統計にも恐らく表れているだろう。これは他人を頼れないという意味でのコミュニケーション能力不足と言い換えてもあながち間違いではないだろう。<br><br>コミュニケーション能力が低い原因はさまざまあろう。現在６０代から７０代の親世代が受けた戦後教育、核家族化、個人主義、新自由主義、グローバライゼーション、まあ幾らでも挙げられる。だがこれらを分析してみても始まらない。我々は日本社会の中核（働き盛り）になってしまったのだから。上の世代の所為にしても、彼らはもはや人生の終わりに差し掛かっている。社会のせいにしても、何せ我々がその社会のコアのメンバーなのだから、あまり意味はない。<br><br>ここで話が変わるのだが、結婚して驚いたことがある。それは地方出身の妻の実家へ行くと、一族が本家を中心に非常にまとまっているということだ。東京出身で、親戚とのつながりが薄い私はカルチャーショックを受けた。本家の長である義理の伯父はとても威張っているのだが、その裏側では一族のだれかが困ったら、義理の伯父が必ず手を差し伸べているのである。（だから威張っているし、それでＯＫなのだ）その構造はまるで「氏の長者」であった。氏の長者とはその一族に君臨し、一族全体の舵取りをしていく親分のようなものだ。源氏の棟梁や藤原家の長がそれにあたる。<br><br>何に驚いたのか。それは私がある意味で徹底的に「他人に迷惑をかけない」という道徳を至上命題とし、そしてそれに従ってきた結果、親だろうが親戚だろうが迷惑をかけず、そのためには係わり合いにならず、それゆえ（係わり合いである）親戚など面倒なだけの存在と考えてきたにもかかわらず、妻の一族は濃厚に係わり合い、ある意味で迷惑を掛け合って、互い全体がセーフティネットとして機能しているという事実にである。<br>どのような一族であれ、家庭であれ大なり小なりの問題はある。しかし、一族がまとまって、「氏の長者」を中心に助け合って解決することになんら疑問を感じない人々がいて、一族であるという理由だけで手を差し伸べることを当然としているのだ。まるで時代劇を見ているかのように、これには本当に驚いた。<br><br>極めてドライに「年老いて財産を持たぬ両親は(介護や入院等の)リスクでしかない」という発想も我々の世代は持っていたりもする。リアルに危機的状況の同世代もいるだろう。個別に考えなくてはならない問題ではある。しかし敢えて言えば、これは我々が一族という繋がりを排除した結果なのではなかろうか。恐らく親子二世代に渡って（その意味では親世代との共犯関係がある）。<br><br>我々の世代は「他人に迷惑をかけない」ことに価値を置きすぎる。社会で孤立したり行き詰った時、親にも親戚にも相談せず、理解してくれそうな友人には迷惑をかけたくない。我々はそんな風に生きてきたのではないか。否、少なくとも私はそう思っていた。だが、この考え（道徳と言い換えてもいいが）が迷惑をかけたくないためにそもそものコミュニケーションを拒否し、能力の発達を阻害し、そして我々自身を追い詰めてきたのではないだろうか。<br><br>遅ればせながら、この道徳をもう少し緩めて、少しならば「迷惑をかけてもいい」と考えてみよう。世の中は相互依存で成り立っている。ある意味では迷惑の掛け合いである。そのくらいはもう理解している年代になったのだから。考えてみれば、他者に頼られても我々自身さほど悪い気はしないものである。<br><br>ヘタクソでも相互依存しながら、お互いを支えあいつつ、ジリ貧の日本をなんとか持ちこたえさせて、せいぜい潰れてしまわないように、できることなら多少は良いものにして次の世代に引き渡す。その一端を担うくらいはしたいとロスト・ジェネレーションの一員としては思うのである。<br>
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<link>https://ameblo.jp/dhswordsman/entry-11132160736.html</link>
<pubDate>Tue, 10 Jan 2012 18:41:05 +0900</pubDate>
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<title>哂う崇徳院</title>
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<![CDATA[ ６年ぶりにブログを再開する。その間FacebookやTwitterも使い始めたが、ある程度まとまった文章を書くには今ひとつ使いにくく、また最近、長文を書く能力がどうも落ちてきた気がするため、日本語の練習として本ブログを書くことにする。<br>コラム的な軽い読み物として、日々思う事を綴るつもりなので、暇つぶしにお付き合いの程、よろしくお願いします。<br><br>２０１２年の大河ドラマ『平清盛』。１１年の『江』があまりにもフィクションが多く、脚本もバランスを欠いた印象で、観ていて辛いものがあった。それなら観なければ良いのだが、惰性で最終回まで観てしまった。後悔はしていない。（と自分に言い聞かせる）<br><br>さて、今年の『平清盛』はどうだろう。日本史ではどちらかというとヒールな役回りの清盛を主役に据えるとはＮＨＫもやるなと今回は期待している。（ググったら第十回の大河ドラマで『新・平家物語』という清盛が主役の実績を見つけてしまった。主演は仲代達矢。）<br><br>ドラマ紹介のムックでキャストを見ると、俳優のＡＲＡＴＡ（井浦新）が崇徳院に配役されている。妻がＡＲＡＴＡのファンなので我が家ではちょっと崇徳院ブームである。中性的で知的な顔立ちのＡＲＡＴＡが崇徳院とはなかなかのキャスティング。是非魅力的な演技を見せてほしいところである。<br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120106/23/dhswordsman/5c/08/j/o0270039111720096493.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120106/23/dhswordsman/5c/08/j/t02200319_0270039111720096493.jpg" alt="swordsmanのブログ-崇徳院" border="0"></a><br><br>崇徳院（崇徳天皇）といえば、歴史好きにとってみれば、言わずと知れた日本の大魔王でおわす方。１１５６年の保元の乱に破れ、讃岐へと流された。その地の軟禁生活の間に反省と鎮魂を込めて五部大乗経（お経）を３年かけて写経し、しかるべき寺へ納めてほしいと都に送ったところ、呪詛（呪いですな。）が込められているかもしれぬという理由で返されてしまった。<br><br>この五部大乗経とは華厳経60巻、大品般若経30巻を始め合計190巻という膨大なもの。崇徳院も初めのうちは都への返り咲きのような下心をお持ちだったかもしれないが、３年間の長きに渡って写経をするなかで、恐らくは本当に誠意をお持ちになって書き写されたのだろう。<br>気の遠くなるような写経をやり通すのは、相当の誠意と情熱がなければ出来ることではなさそうだ。一説には己の血を持って書いたという。<br><br>それを突き返されたのだから、崇徳院の怒るまいことか。「国家滅亡」と経に血書（伝説では舌先を噛み切ってお書きになったそうな）され、「願わくは日本の大魔縁となりて天下を悩乱せん」（日本の大魔王となってこの国を乱してやる）の後、有名な呪いの言葉「皇をとって民となし民をとって皇となさん」（天皇を一般人に叩き落し、下賎な一般人を天皇にしてやる）と仰ると、髪も切らず爪も伸び放題の夜叉のような姿におなりになり生きながら天狗になられたという。<br><br>それ以来、わが国の魔王として太平記にも金色の翼を持つ天狗の王として登場、南北朝の騒乱を引き起こし、時はぐっと下って明治維新は戊辰戦争の際にも幕府軍に崇徳院（の怨霊）が味方することを恐れ、孝明天皇、明治大帝の二代の命で白峰神宮を立てられるなど、近代に至っても恐れられた。<br><br>さて「皇をとって民となし民をとって皇となさん」という呪いについては、昔から色々と言われてきた。曰く、朝廷が実権を失い武士の世となったことが呪いの成就である。曰く、四民平等となり、実質的にも皇室が影響力を失ったことが呪いの成就である。曰く、戦争に敗れ、国土は荒廃し、貴族・華族が滅び、天皇が人間宣言をしたことが呪いの成就である、等々。<br><br>話は変わるのだが、社会人生活をしていると、世の中には小天皇が多くいることが実感としてわかる。政界は言うまでもなく、課長部長社長会長、それぞれに影響範囲は違えども人事権や給与査定権を持ち、ある意味では他人の生殺与奪件を握っている訳であり、ワンマンであろうとなかろうと一種の小天皇であるとも言える。そのような小天皇はそれぞれのリーダーであるわけだが、リーダーとは思えない無教養で下品な人物が目に付く。<br><br>例えば上司やそれなりの地位にいる人と飲みに行っても、スポーツ（ゴルフか野球）、芸能、異性と社内人事の話題しかないリーダーがなんと多いことか。酒が進んでそうなるならわかるが、最初から話題がそれしかないのである。時折、人によっては蛸壺的にサブカルチャーで盛り上がってもベースとなる教養がまるで足りないので、そこから会話が広がることはない。日経ビジネス電子版の<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20111226/225643/?rank_n" target="_blank">記事</a>によれば海外赴任する日本からの駐在員は食事をしてもタイガー・ウッズと日本人メジャーリーガーの話題くらいで、歴史や学問、世の中への鋭い洞察など皆無。こんなビジネスエグゼクティブは日本以外の先進国にはいないらしい。<br><br>階級社会ではこうしたことはあり得ない。別に難しいことではない。リーダーとなるような階層に生まれれば、その階層の共通基盤（共通の話題・趣味等の教養）を叩き込まれるからだ。そういうものを社会学では文化資本と呼ぶらしいが、この文化資本を持っているかどうかで階級がわかるから、自ずからそういう人がリーダーとなる。逆に下の階層は無教養でリーダーにはなれないし、文化資本とも無縁かもしれないが気楽に生きる権利があるというわけだ。<br><br>別に階級社会を肯定しているわけではないのだが、最も成功した社会主義と皮肉られるくらいの平等を達成したらしい（近頃は怪しいが）わが国では、下層階級の中でのみ許される程度の教養しかないリーダーが多すぎるのではないか。若手の経営者や元気のいいビジネスパーソンのインタビューを聞いても志や夢を熱く語るその意気やよし、だが、あまりに言葉が稚拙だったり、過度に攻撃的であったりして、その無教養ぶりが透けて見える。<br>政治の世界は言わずもがな。さすがに更迭されたが、震災復興の担当大臣は愚連隊のような態度と言葉遣いが「長幼の序」と勘違いしていたり、どこかの市長は攻撃的であることが改革だと信じていたりする。こういう層がリーダーだというのだから恐れ入る。そういえば漢字が読めないマンガ首相もいたような気がする。<br><br>そしてそうした人物をリーダーにしてしまう、我々もまた下層民的無教養の謗りを免れまい。民主主義とはまさに「民」が「主」なのだからその意味では誰もが小天皇である。本来下層民だけでは民主主義は成り立たないのだろう。民主主義の元祖である古代ギリシアでは、上層の「市民」だけが民主主義に参加し、下層民は「奴隷」であった。今、わが国には奴隷はいない。したがって、リーダーになりうる（権力を行使し得る）だれもが、上層の市民でなくてはならないのだが、これは非常に難しい。権力が集中していれば、権力者だけが教養を学べば済むが、「民」が「主」では、我々「民」一人一人が教養を身につけねばならない。そしておそらくそれは不可能である。どうもこのような現状こそが崇徳院の呪いの成就であり「民をとって皇となさん」の真意だったように思う２０１２年の幕開け。<br><br>あの世から崇徳院の哄笑が聞こえてくるような気がする。<br>
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<link>https://ameblo.jp/dhswordsman/entry-11128705150.html</link>
<pubDate>Fri, 06 Jan 2012 22:58:16 +0900</pubDate>
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