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<title>do-airのブログ 『美と礼』</title>
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<title>問：1≧私≧１である理想の私とは何か答えよ。　∴解：私=1</title>
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<![CDATA[ <p>2014年は、スローにソフトランディングしたかの様相ながら、<br>酒とラインと片思いという、最悪のマインドのカックテルで、<br>家呑みにもかかわらず、大炎上の末、転職を考えようか？<br>などと、逃げるか留まるか？攻めの姿勢は微塵だにない</p><p>受難、贖罪、流刑の身の上の境涯に憂いを禁じ得ぬdo-air</p><p>デスが、皆さん、2014年は如何な幕開けでしょうか？<br><br>私は、今日のテーマ。”１”について、少し、小・中学校の算数</p><p>レベルの能書きで、</p><br><p>”１”が如何に美しく、”１”が如何に端正か。<br><br>という、独り言を独りごちたいと思います。</p><p>ウザいと思われた方は、この時点で、スルーして下さい。<br><br>先ず、”１”について述べる前に、四則演算、平方根、乗数など、<br>算数、及び初等数学の予備知識を前提に、お話しさせて頂き</p><p>ます。<br><br>四則演算に”１”を応用すれば、<br>１+１＝２</p><p>１-１＝０</p><p>1×1＝１</p><p>1÷1＝１<br>平方根に応用すれば、<br>√1＝１</p><p>分数に応用すれば、</p><p>1/1＝１</p><p>乗数に応用しても、</p><p>１を何回乗じても、無限に、</p><p>1×1×1×1×1×・・・・＝永遠に１</p><br><p>上記の”１”をめぐる事情から、<br>”１”にまつわるドラマが、私には浮かんできます。<br><br>上記を上から順に、</p><p>１+１＝２<br>これは、一人前の男女の出会いです。<br>一人と一人で、二人になる。</p><p>次に、<br>１-１＝０</p><p>この数式は、1人の人間と1人の人間の出会いと別れ、</p><p>或いは、1人の人間の限定された人生。誕生から死への</p><p>物語と見て取れます。<br>次に、<br>1×1＝1<br>これは、子孫繁栄。<br>1÷1＝1<br>は、個人の個性。その人は、どこまで行っても、その人。</p><p>つまり、金太郎飴なんですね。<br><br>平方根、分数、乗数については、各人のご考察、一訛言も</p><p>各位おありかも知れません。<br><br>いずれにしても、私の”１”に対するイメージは、<br>頑固・安定・普遍・律儀・毅然といった、すこぶる独立心旺盛な</p><p>さりとて、虚勢や見栄なども感じさせない、<br>非常に真摯でストイック且つ、責任感のある数字であると</p><p>思います。<br><br>とは云え、人となると、誰しも一人きりでは生きていけません。<br>一人一人が過不足無く、”１”である。</p><p>つまり、</p><br><p>「自分が一人前である」</p><p>（因みに、”１”を百分率で表現すると、１００％！</p><p>１００％の自分って、日常的になかなかに実感できませんよね？）</p><br><p>と云えるように、私も甲斐性のないわが身を憂い、哀れむばかりが<br>能ではない！早く、一人前として、自分で自分を認めてやるぞ！</p><br><p>そんな、良く分からない意気込みを私の年頭の抱負を兼ねた<br>ご挨拶として、今日のコラムはお開きとさせていただきたく存じます。</p><br><p>ご精読有難うございました。<br><br>今年もよろしくお願いします。</p>
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<link>https://ameblo.jp/do-air/entry-11770051643.html</link>
<pubDate>Tue, 11 Feb 2014 19:20:35 +0900</pubDate>
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<title>「善悪の此岸/彼岸」</title>
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<![CDATA[ <p>年の瀬も押し迫り、頭を抱える人、陽気に浮かれる人…。<br>勝ち組、負け組なんて、メディアのうたい文句であって、<br>頭を抱えるから負け組でもなければ、<br>陽気に浮かれるから勝ち組だなんて思いません。<br>刹那的な感傷に、とらわれることはあっても、<br>人生、下駄を履くまで分からないものだと思っています。<br>とまれ、1年のカタルシスが、苦かろうが、<br>甘かろうが、平成25年は暮れようとしています。<br></p><p>個々人の思い思いに明暗を分けたこの1年で、<br>私は、「善悪の此岸/彼岸」と云う事を思わずにはいられません。<br></p><p>良かれと思ってしたことには、良き理解者なり、<br>協力者が現れ、<br>その逆に、邪な心持で対人関係を凌いできた人には、<br>成果が乏しい1年だったかもしれませんね。<br><br>金子みすゞをごぞんじでしょうか？<br>私も不勉強ですが、<br>「バカっていうから、バカっていう」<br>アノ思想が、個人の生きる上でのマニュアルのような<br>気がしています。<br><br>他人は自分を映す鏡です。因果応報とは伊達にある<br>教訓とも思えません。<br><br>与太が長くなりましたが、先に述べました、「善悪の此岸/彼岸」。<br>これが、私の本日、述べたかったテーマです。<br><br>性善説で、他人に相対したとき、仮に、相手が性悪説でも<br>性善説の本人は、肩に落ちたフケを払うかの程度に、<br>さほど傷つかずに、明日からまた歩き続けられると思いますし、<br>性善説に性善説で応えてもらった、或いは応えた双方にとって<br>その関係は、おカネでは得難い心情を、甲乙はついたとしても、<br>共有し、円満な関係、絆と云えば大げさでしょうか？<br>そんな、発展性と潤いのある人間関係を瞬間的にでも共有<br>出来るのではないでしょうか？<br><br>性悪説は、大人になればなるほど常識でしょうけれど、<br>私には、情緒的に負の循環が、容易に想像できます。<br>その関係には、生産的とか発展的な正の心理作用は、</p><p>得難いように思います。要するに、因果応報、陰湿で暗いんです。<br><br>冒頭に戻りますが、今年1年を振り返って、頭を抱える方が<br>いらしたとしたら、一つには貴方は騙されているからです。<br>もう一つには、貴方自身が不義理であった報いのような気がします。<br>逆に、今年1年を振り返って、精神衛生上健全な方については、<br>私ごときが何をモノ申すものでもございません。<br>惜しむ無くば、その方たちは、他人に対して真摯であった<br>ご褒美に1年の回想が、穏やかなのだと思います<br><br>「善悪の此岸/彼岸」。などと、大ぶろしきを広げましたが、<br>私の貧しい教養では、何とも言い難いのですが、<br>私も不勉強ながら、その事に生涯をささげたと思われる、<br>金子みすゞさんに当っていただきたく存じます。<br><br>中途半端に、酔っていましたが、相変わらずの与太にて<br>あしからず。<br><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/do-air/entry-11727633182.html</link>
<pubDate>Wed, 11 Dec 2013 23:09:04 +0900</pubDate>
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<title>右が左で、左が右で。</title>
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<![CDATA[ <p>冬の匂いには、まだ早いですね。<br>小雨に濡れたアスファルトに、信号機の点滅の反射の明かりが</p><p>頼りの田舎道を徒歩にて、近所のタバコ屋までタバコを買いに</p><p>行ってきて、夜道でも大して物騒でもない環境に、少しばかり</p><p>愛着が湧きました。</p><br><p>こんな些細なことで、平和とか治安の良さとかを感じる今宵、</p><p>民主主義とか共産主義とか原理主義とか、イデオロギーの</p><p>差こそあれ、各々に一長一短の良し悪しはある事と思いますが、</p><p>日本の田舎で、中年の私が、ボッサリ思うのは、</p><p>一般的に、民主主義は自由。共産主義は抑圧。原理主義は過激。</p><p>そんな、固定観念が、日々のニュースから、我々日本国民には</p><p>漠然とないでしょうか？</p><br><p>それでも、国家がある以上、イデオロギーに準じた各国の秩序</p><p>はある訳で、それと同様に、各国の平和や安全も、各国なりに</p><p>ある訳です。</p><br><p>その、各国の個々の国是と、それに基づいた民俗学的風土を、</p><p>広い世界の中の、敗戦国にして経済立国に成長したとは条、</p><p>日本人のコモンセンスで、やれ民主主義は…。共産主義は…。</p><p>原理主義は…。というのは、失礼というか跳んだ大きなお世話と</p><p>偏見のような気がします。</p><br><p>仮に、私の貧しい私見で、否、そうでなくても、大勢としての常識の</p><p>範疇で、イデオロギーから想起するお国柄を肯定的に捉えたとして、</p><p>それは、日本の今日的な世界における位置づけで、そのような</p><p>世界各国に対するイメージを勝手に膨らませているだけの事</p><p>であり、無論、そのイメージを構築する材料は、ニュースやメディアの</p><p>報道に頼る部分も大きい訳です。</p><br><p>つい先日のブログで、「メディアは催眠・アジテーターは覚醒」という</p><p>事を書きましたが、なんの刷り込みもなく世界を眺めると、</p><p>民主主義が自由で、共産主義が抑圧で、原理主義が過激という認識は</p><p>どこか無知に等しいか、誤解があるようにも思うのです。</p><br><p>その、無知なり誤解を解くカギは、私は「経済」にあるような気がします。</p><p>経済には、イデオロギーの民主主義・共産主義・原理主義に呼応して、</p><p>資本主義・社会主義・第三の道がありますが、国力の貧富が優劣に</p><p>連動する単純な理解は誤解を招きます。</p><br><p>国家の財政、ＧＮＰや人件費、為替のレートで国力を判断することが、</p><p>即座に、少し前に流行った国家の品格や優劣に直結する認識は</p><p>誤りであると思います。</p><br><p>帝国資本主義や社会ダーウィニズムについては、不勉強ですが、</p><p>私は、世界最大左翼は資本と軍事にモノを言わせるアメリカだと</p><p>思っています。その他の国は、社会主義も原理主義も、アメリカ以外の</p><p>民主主義も含めて、程度の差こそあれ右翼だと思っています。</p><br><p>「右が良くて、左が悪い」とか、その逆についても私は意見を持ちませんし、</p><p>私は、敢えて反米でもないのですが、アメリカという多民族国家に対しては、</p><p>「自由」というプロパガンダの下に、いささか外交が強引であり、</p><p>ファシズム的な猜疑心も否めません。</p><br><p>これが、今宵のブログで私がつぶやいてみたかった、</p><p>「右が左で、左が右で」という暇に任せた与太でした。</p><br><p>つまらない能書きにお付き合いいただき、ありがとうございました。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/do-air/entry-11683222966.html</link>
<pubDate>Sun, 10 Nov 2013 21:58:27 +0900</pubDate>
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<title>大衆をめぐる、メディアと催眠・アジテーターと覚醒</title>
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<![CDATA[ <p>立冬が過ぎて、街路樹が色づき始めるも、吐く息は未だ白くない模様。</p><p>中り障りのない束の間の季節を、いかがお過ごしでしょうか？</p><br><p>今宵は、酒も切らして、タバコとコーヒーで、野暮ったいテーマで一席。</p><br><p>唐突ですが、アジテーターって、戦後は特に時代の寵児でしたよね？</p><p>何ででしょうか？</p><p>私が思うに、大衆が唯々諾々と、或いは特に違和感なく構成員として</p><p>帰属し、機能してしる社会のシステムに、柔らかく言えば、問題提起する。</p><p>そして、戦後の平和な治世の大衆の覚醒を煽情する…。</p><p>それが、戦後のアジテーターでした。</p><br><p>私は、“戦後は”と云いましたが、義務教育で受けた授業で取り上げられた</p><p>歴史上の人物は、どれもアジテーターのオンパレードでもあったでしょう。</p><p>平和ボケした戦後と違って、戦前は、革命的に、突如、大衆に向けて</p><p>アンチテーゼを唱えるアジテーターの大衆への受け容れられ方は、</p><p>時代時代で英雄にもなれば、罪人にもなる。</p><p>アジるフィールドも様々ですが、政治・宗教・思想・芸術などの分野で</p><p>顕著に取り沙汰されるように思いますが、アジテーションの目的は、</p><p>決して、法螺を吹くこととも、オオカミ少年でもない筈。</p><p>人類の歴史が始まって以来、アジテーターに値する人物は枚挙に</p><p>暇がなく、時代に埋もれた者もあれば、時代に名を遺したものもある。</p><br><p>戦前の話は出来ませんが、身近な所で戦後のアジテーターであり、</p><p>かつ寵児となった勝ち組。戦後に顕著な平時のアジテーターには、</p><p>存在価値、謂わばシンパシーをさえ感じます。</p><p>何しろ、私はそんな平時の戦後しか知らない青二才ですから…。</p><p>いつの世も平時には、社会に秩序があり、公序良俗や倫理も成熟しています。</p><p>平時が平時然としていられる大きな理由は、政治の安定が第一義的にある。</p><p>平時には、教育も社会保障もある程度は満足され、国内情勢が危機的状況</p><p>にない。が、ここで、登場するのが、メディアです。</p><p>大衆の一員として社会の構成員を健全に営めているうちは、アジなんて、</p><p>馬耳東風です。ですが、一度、福を食い違えると、つまり、社会から</p><p>ドロップアウトすると、情報という情報、つまり、メディアに裏切られた感を</p><p>禁じ得ない。しかし、メディアは、勤勉に、勤労者としての育成を牛耳る教育の</p><p>箸休めにあるのであり、畢竟、メディア自体が、国民の勤勉勤労の士気向上</p><p>をサブリミナル、今風に言えば、“ステマ”として大衆の覚醒を抑止するための</p><p>機能として存在しているのだと思います。<br></p><p>健全とされる大衆は、外套に集る夜光虫のように、メディア中毒・依存症に</p><p>なっていることにすら気付かず、メディアという海水を飲んでは、さらにメディアの</p><p>るつぼに嵌まり、自我を放棄している喜劇にも見受けられます。</p><p>しかしながら、マスコミの催眠からはみ出して、世迷いごと陥った者にとっては、</p><p>社会全体が“敵”という、これはこれで悲劇なのです。</p><p>ここで、アジテーターが参上すると、はみ出し者たちは共感する。</p><p>それでも、平時のアジテーターも、そのシンパもやはり、マイノリティです。</p><p>仮に、時代の先便を切って、時代の舵を取ったとしても、やはり、コミュニティ</p><p>でしかないことでしょう。</p><p>しかし、面白いもので、こうしたコミュニティが近似したコンセプトを標榜して、</p><p>違ったフィールドで点在し始めると、アジは市民運動へ、市民運動は時代変革へと</p><p>拡大していき、やがて、旧態然とした政治を糾弾するまでの勢力に成長する。</p><p>この流れを、“世相”、“風潮”というのかと思います。</p><br><p>能書きが長くなりましたが、メディアの何を見ても、“独自のひらめき”を</p><p>感じなくなる、“感性の不能”を感じる時が訪れたら、ピンチでありチャンスだと</p><p>思います。</p><br><p>ウィークデイにはなかなか出来ない、情緒の整理を週末金曜の宵の口に、</p><p>“独自のひらめき”を絶えず自分の中で更新し、“感性の代謝活性化”を渇望する</p><p>中年が、気分一新の意を込めた与太にて、あしからず。</p><br><br>
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<pubDate>Fri, 08 Nov 2013 22:25:07 +0900</pubDate>
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<title>無意識とリテラシー</title>
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<![CDATA[ <p>秋も入り口。朝晩は、肌寒いです。<br>こんばんは。<br><br>唐突ですが、皆さんは、リテラシーって何かわかりますか？<br>デリカシーにも近い親戚のような気もしますが、<br>以下、私見でリテラシーについて定義することにします。<br><br>私見では、リテラシーとは感じたことを言語化する。<br>モノの本には、「識字」と訳されています。<br>言語化といっても、熱いものに触れて、熱いとか、<br>そういうことも、或いは広義にリテラシーに含まれるかも<br>しれませんが、私はリテラシーとは、現象を帰納的に本質として<br>言語化することだと思っています。<br><br>例えば、貴方が音楽や映画鑑賞をするとします。<br>音楽には、音楽理論があり、映画には映画文法があります。<br>あいにく、私は理論も文法も、どちらにも疎いのですが、<br>音楽や映画は聴視して、個々人で感想を持ちます。<br>個々人で感想を抱くことに、罪はありませんが、誤解や誤謬が<br>紛れ込み、作者の意図とはまるで違った感想を持つことも<br>よくあることで、だからといって悪いことをしているという事がない<br>のもまた真実です。<br><br>ですが、誤解や誤謬で終わることは、聴視していないことよりも</p><p>残念なことであると思うのです。<br>何故なら、作者の思想が咀嚼できぬまま、云わば勘違いで<br>終わるからです。<br><br>それでは、誤解や誤謬はなぜ起こるのか？<br>それは、鑑賞の主体である個々人の判断基準が、個々人の<br>固定観念や先入観、語弊がある事を恐れずに言えば、<br>もっと悪く言うと、主体の独断と偏見が、感想の判断基準に<br>なっているのだと思います。<br>無論、それにしたところで、悪いことではないと思いますが、<br>勝手な解釈で片付けるのは、勿体ないと思いませんか？<br></p><p>判断基準が、客観的であればあるほど、作者の意図は<br>比較的正確に受け手に伝わり、そのこと自体が、<br>作り手と受け手にとって、より健全なコミュニケーションだと</p><p>思います。<br><br>作品を、誤解や誤謬を恐れずに、情熱で鑑賞して楽しむか、<br>作品を、理論や文法で理解して、作者の意図を咀嚼するか。<br>ここで、出てくるのが、「無意識」です。<br>前者は、無意識に気付きさえ出来ずにに無意識に終始するあまり、<br>リテラシーに成長はなく、エゴの墓穴をさらに深めるのに対し、<br>後者は、無意識を意識化するという発見により、リテラシーが<br>成長し、その副産物として、より自分のことも知ることが出来、<br>客観性が培われて、作品を通して、精神的にも鍛えられる。<br>若しくは、自分を肯定出来たり、反省したりする過程で、</p><p>作品を咀嚼して、自分の資質の肥やしにで出来る。</p><p>平たく言えば、役に立つと思うのです。<br><br>リテラシーを高める事は、無意識を意識させてくれる。<br>そして、その前提には、理論や文法といった客観的な価値基準が<br>必要不可欠という事が、何故、それほど重要だとおもうかと云えば…。<br><br>実は、仮に同じ教育、同じ経験を経てきた、仮にＡ氏とＢ氏が各々、<br>生産者になるのか？消費者になるのか？<br>それは、つまり、「得ること」と「失うこと」の二項対立に<br>直結すると思うからです。<br><br>主観的、客観的にも各々に一長一短がありますが、<br>リテラシーは高ければ高いほど、成長もあれば、得るものも<br>多いと思いますが、いかがでしょうか？</p>
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<pubDate>Tue, 29 Oct 2013 22:06:21 +0900</pubDate>
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<title>予定説と諦め</title>
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<![CDATA[ <p>一雨ごとに秋の気配が忍び寄り、朝晩めっきり涼しいですね。<br>昼間の気温も30度を下回るかと思えば、日没も30分早まりました。</p><p>こんばんは。<br><br>今年の秋は、何故かお酒が美味しいです。<br>お気に入りのCDを仕込んで、ソーダ割りやらロックやら…。<br>専ら家呑みですから、タクシーの心配もなく、<br>酔いに任せて、宵っ張り…。<br><br>思索を巡らせたい気分ですが、シラフでもすっかり鈍った思考回路は、</p><p>気の利いたアイディアも編み出せず、お酒が無責任さを煽って、<br>何にという訳もなく、グラスを傾けています。<br><br>思ひ出を肴に…。なんて、湿っぽいコトはこの歳になると、面倒臭くて、</p><p>将来なんてものにも青臭くて、自分自身に期待が持てない。<br><br>憂鬱ではないんです。<br>ひたすら、陽気な秋の夜長です。</p><p>オーディオから流れる音楽と、一杯のグラスがあれば、<br>無理繰り、野心とか革命とか？そんなコトも、われ関せず。<br><br>謂わば、今の気分は、「亡命」でしょうか？<br>日常からの亡命であり、人生からの亡命の時間が過ぎていきます。</p><br><p>一通り、与太った所で、本日のテーマを思いつきました。<br>亡命？いやいや、そうではありません。<br><br>本日のテーマは、「予定説と諦め」とします。<br><br>私は、予定説、平たく言えば結果主義に30歳くらいから諦めがつきました。</p><p>要するに、いつの時点の自分も過去からの結果であり、自己受容できなくては、</p><p>朝は来ても、明日は来ない。つまり、追われながらのお粗末な日常さえ、</p><p>予定された現在という今日、今を受け容れられない事には、全うできないと</p><p>知りました。<br>孔子は『論語』の中で、三十歳を「而立」と云い、意味は「心身ともに<br>独立すること」というらしいです。<br><br>今年が、30代最後の1年になる私は、40の「不惑」を目前に、<br>30代に修め残した「而立」を39にして実感しつつあるように思います。<br>「而立」は自分を知らなくては成し得ません。<br>自分を知ることは、同時に、或いはその前提として、</p><p>「諦念」、「諦観」といった、「諦め」が必要ではないでしょうか？<br><br>私は、過去に縛られて、理想と乖離した現実を、理想をある程度、<br>「諦める」ことによって、次なるステップの現実に踏み出し、</p><p>取り組めるのではないか？<br>だとすれば、この「諦め」は決してネガティヴな心理ではなく、</p><p>むしろ、逆に前向きなポジティヴな心理作用に思えます。</p><br><p>「意志ある所に道は開ける」と、」仕官を志すばかりが人生でもないような気がします。<br>「諦めるところから開けてくる道」を見出して下野すことも、満更ではないと。</p><br><p>「適材適所」は予定説に逆らう考え方でもないように思います。</p><br><p>現状に不満で、八方ふさがりな方がこのブログを読んで下さっていたら、</p><p>「諦める」ことから、足元を見直してみてください。<br>きっと、意外な状況なり、展開が拓けて、足踏み状態から、もしかしたら</p><p>一歩、明日に踏み出せるかもしれませんよ！<br><br>なんてな、与太にお付き合いいただき、ありがとうございました。<br>明日のアナタに乾杯！<br><br>良い、秋の夜長を…。</p>
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<link>https://ameblo.jp/do-air/entry-11606126355.html</link>
<pubDate>Tue, 03 Sep 2013 20:56:38 +0900</pubDate>
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<title>青春</title>
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<![CDATA[ <p>涼しい夜ですね。こんばんは。<br><br>最近、無責任とも云える程に、自分の前途が<br>見えず、さりとてダウナーな鬱々とした気分でもない。</p><p>言うなれば、ココロの開放を感じつつあり、<br>それは同時に、過去からの解放のようにも<br>思わなくもないdo-airデス。<br></p><p>ところで、「青春」って、よく聞きますよね？<br><br>「思春期」や「思秋期」もやっぱり「青春」の<br>初めと終わりのような気がします。<br><br>要は、独りよがりな贅沢な時間の使い方と、<br>それに伴う、心象風景の在り様なのでしょう。<br><br>正直、独り身の私は、結婚とか家庭とか、<br>求める気持ちはあっても、<br>一方では、無責任にどうでも良くなってたり。<br><br>こんな事を言っている私ですが、<br>私も、人生とか生活には興味があることが、<br>救いのようにも思います。<br><br>さて、そこで「青春」ですが、<br>青春期というのは、理想とかライフスタイルの<br>模索の時期であって、<br>その模索に真摯な態度で臨むなら、<br>年齢は関係ないと思います。</p><br><p>況して、独身だろうが、所帯持ちであろうが。</p><br><p>現実に埋もれずに、理想を求める人は、</p><p>たとえ、80歳になっても、青春。<br><br>私は、75歳9か月で芥川賞を受賞した</p><p>黒田夏子さんに学びました。<br></p><p>無責任なようですが、</p><p>「意志あるところに道は開ける」</p><p>「叩けよ、されば開かれん」<br>この2つの格言は伊達にあるものではないと<br>思えてならないのですが、<br>いかがでしょうか？</p><!-- google_ad_section_end(name=s1) --><!--entryBottom--><div class="skinArticleFooter"><div class="articleExLinkArea"><div class="articleExLinkSubArea"><a class="nowBtn" href="http://stat100.ameba.jp/blog/proxy.html?longurl=http%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fdo-air%2Fentry-11600623837.html&amp;title=%E3%80%8E%E9%9D%92%E6%98%A5%E3%80%8F&amp;type=now" rel="nofollow" target="_blank"></a></div></div></div>
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<link>https://ameblo.jp/do-air/entry-11600624574.html</link>
<pubDate>Tue, 27 Aug 2013 02:33:52 +0900</pubDate>
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<title>マイカウチ・イズ・モノアスロン！</title>
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<![CDATA[ <p>梅雨も程よいお湿りで、夜には冷んやり。嫌いじゃないです。</p><p>こんばんは。</p><br><p>昨日は、「何かして遊んでみよう！」という事で、久しぶりに</p><p>「映画でも観に映画館にいこうかな？」と、思い立ち、Webで</p><p>上映スケジュールをチェックしたところ、</p><p>1800円で、2時間半…。コレといってみたい映画もない。</p><p>で、「レンタルDVDでお茶でも濁しとこう！」と思い直して、</p><p>某TSUTAYAへ…。</p><br><p>「新作、準新作…。へぇ～！あ！コレ！エ？コレは？」</p><p>で、2枚借りることにして、レジへ…。</p><p>すると、レジの人が、「こちら、新作なので、2枚よりも、</p><p>本日5枚で1000円でお得となっております！」と。</p><br><p>「はぁ…。ほんなら、チョット待っとってください」と言って、</p><p>もう3作品。「何となく、観たいかも？」という代物を選んで、</p><p>会計を済ませて、蒸し暑い店外へ出て、少し後悔…。</p><p>「5本？1000円？まぁ、良いけど、オレ、ホントに観るかな？」</p><br><p>それが、日曜午後5時。</p><br><p>さらに、暑い車に乗り込み、妙案を思いつく。</p><p>「オレは、今日はカウチやる！やってこます！」</p><p>そう思い立ち、最寄りのスーパーへ…。</p><br><p>缶ビール1カートン。チーズ、ピザ、ポテトチップス…。</p><p>何やかんや買い込んで帰宅。</p><br><p>すべて、ハリウッド映画。話題作揃い！</p><p>でも、観る前から期待感よりすでに面倒臭い憂鬱な感じ。</p><p>「カウチ？って、マジで？まぁ、良いわ…」</p><p>1本目。観終わって、「ウン。まぁまぁ…」</p><p>2本目。観終わって、「何か、大騒ぎしてる割にさぁ…。ん～」</p><p>で、息抜きにテレビをチラッと見たら、見入ってしまった。</p><br><p>半沢直樹。</p><br><p>「エ？よっぽど面白ぇんだけど？…」</p><p>ハリウッドより、連ドラの方が面白いなんて！まさか…。</p><br><p>それが、日曜午後10時。</p><br><p>で、3本目。観終わって、「コレは、さすがのクオリティ！」</p><p>で、4本目。観終わって、「邦画でもっと面白いのあるよ！」</p><br><p>それが、月曜午前2時半。</p><br><p>で、最後の5本目。殆どランナーズハイ！</p><p>普段こんなに長時間メディアに触れたことはここ10年来の記録。</p><p>気付けに缶ビールを開ける。</p><p>「明日から、また1週間ダゼ？寝落ちで良いから観れるところまで…」</p><br><p>窓の外が青みがかって来ていた。</p><p>結局、月曜午前5時。</p><p>「あと、2時間半後には、出勤のバスの中ダゼ？」</p><p>映画が云々より、当初の予定を断行して燃え尽きた達成感にハイ！</p><p>「テンパってるけど、少しでも脳を休めないと、今日が潰れる！」</p><br><p>浅い夢を2,3編みて、出勤！</p><br><p>で、1日終えて、今、こうして振り返れていて良かったと思う。</p><br><p>マイカウチ・イズ・モノアスロン！</p><br><p>馬鹿馬鹿しいけど、自分で決めたことをやり切れた自分に少し感動できた。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/do-air/entry-11582572974.html</link>
<pubDate>Mon, 29 Jul 2013 21:12:11 +0900</pubDate>
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<title>自意識をめぐる「二度生まれ型」と「一度生まれ型」</title>
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<![CDATA[ <p>梅雨に束の間の涼の宵、いかがお過ごしでしょうか？</p><p>こんばんは。</p><br><p>唐突ですが、皆さんは今の自分に満足していますか？</p><p>私は、満足がどういう状況なら、満足といえるのか？</p><p>そんな想像力さえ、失いかけて…。否、失って、</p><p>漫然と日々に埋没しています。</p><p>今の自分が、不満というほど強烈な不満も感じては</p><p>いませんが、やはり、乏しい想像力を駆使しても、</p><p>テレビを点けただけで、嫌になるところを自分なりに</p><p>観察すると、今の自分に満足していないのは、</p><p>明らかです。</p><br><p>では、「どうなれば、自分に満足できるのか？」と、</p><p>チラッと自分に問うてみると、ちっぽけな願望が、幾つか</p><p>浮かんできます。</p><p>そして、それらの状況は、今回の一生で満たせるものか？</p><p>満たせないものについては、端から求めることさえ止めました。</p><br><p>多感な20代から30代前半には、大それた希望でもなにしろ、、</p><p>人並みのと思えるような希望もありましたが、</p><p>ようやく40代を間近に控えて、人並みの幸せさえ、</p><p>諦めかけている自分を受け容れるようにもなれました。</p><br><p>腐ってるとか、鬱のような話がしたいのではないのです。</p><p>世間知らずで夢見ていた頃も過ぎて、現実の占める</p><p>ウェイトが、理想の占めるウェイトよりも、随分と固まって</p><p>きているのであり、それは、誰のせいでもない、</p><p>私の人生の責任は、私以外にはないとも思っていますから。</p><br><p>さて、鬱陶しい前置きはここまでで、今回のテーマである</p><p>『自意識をめぐる「二度生まれ型」と一度生まれ型」』ですが、</p><p>「二度生まれ型」っていうのは、今回の一生、或いは現在に</p><p>何らかの不満なり、不条理、理不尽さを感じて、来世に希望を</p><p>託す考えの持ち主であるようです。</p><p>対して、「一度生まれ型」は現世に満足して生涯を終える人</p><p>のようです。</p><br><p>私が、前者であるのは言うに及びませんが、「二度」と「一度」の</p><p>納得の仕方には、自意識が大いに影響しています。</p><p>エゴ（自我）とも置き換えられるでしょうか？</p><br><p>エゴが強かった若かりし頃に比べれば、今は感謝することも</p><p>多少は身に染みて感じられるようにもなりました。</p><p>昔から、「隣の芝生は青い」などとも言いますが、</p><p>私は、隣の芝生が青かろうが、剥げていようが、もう気にしなく</p><p>なりました。</p><br><p>ただ、「堂々と生きていくための努力」を惜しまず生きていこうとは</p><p>思っています。</p><p>昔、ある女性に言われたことを、今でも昨日のことのように覚えて</p><p>います。</p><br><p>「人生の言い訳すんな！」</p><br><p>と、その女性は私に言い残して去りました。</p><br><p>私の言う、、「堂々と生きていくための努力」とは、他人との比較の</p><p>ためにする事ではありません。</p><p>アイデンティティを持って、平たく言えば、「自分らしく」生きるために、</p><p>自分から逃げずに、自分に立ち向かう姿勢を身に着けて生きていく</p><p>ためにする努力のことです。</p><br><p>私は自分のことを「二度生まれ型」だと言いましたが、</p><p>私は、来世に希望を託すという意味ではなく、</p><p>今回の一生のうちに、一度生まれて、青春に挫折して、ある意味</p><p>「死に」、中年から生まれ変わって、もう一度生きなおしたい。</p><p>つまり、一生のうちに、「生まれて死んで、生きていく」という、</p><p>「再生」というテーマを懸けて、生きていきたいと思っています。</p><br><p>飽く迄も、自分の人生の主人公は自分です。</p><p>自分で舵を執り、自分のペースで人生を切り開いて行きたいと</p><p>思っています。</p><br><p>大事なのは、自分のペース。自分の主導権は自分が握る事では</p><p>ないでしょうか？</p><p>私は、そう思っています。</p><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/do-air/entry-11576211312.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Jul 2013 22:15:58 +0900</pubDate>
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<title>シンクロニシティとセレンディピティ</title>
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<![CDATA[ <p>夏の入り口です。こんばんは。<br>相変わらず、サエない毎日を送っていますが、何とかやってます。</p><br><p>今年も上半期が終わりましたね。</p><p>振り返ると、成果は殆どありませんが、</p><p>「行動を起こす」までは、私なりに気まぐれな部分もありますが、</p><p>アレやコレやと手を出して、言い換えれば「チャレンジに一歩踏み出す」</p><p>という所までは、頑張ったと思っています。</p><br><p>１．ギターを始める。</p><p>２．スケボーを始める。</p><p>３．好きな作家に出会う。</p><p>４．万年筆で、気まぐれな雑記を書く。</p><p>５．ガラケーからスマホに変える。</p><br><p>以上の事柄が上半期のトピックですが、</p><p>何れも、初期投資で気が済むというわけではないのですが、</p><p>じっくり取り組む根気がなく、トライしてみて、さほどの「手応え」なり、</p><p>「充実感」や「面白み」が思っていたほどのレスポンスを得られず、</p><p>現在、停滞気味です。</p><br><p>以前にも、費用対効果の話や、投資と投機の話はしてきました。</p><p>が、どれだけ能書きで誤魔化してみても、実利としての「手応え」は、</p><p>練習や継続からしか得られるものではなく、</p><p>逆に言えば、「論より証拠」「案ずるより産むが易し」</p><p>下手でも、最初は面白くなくても、それは、当たり前なんですよね？</p><br><p>私は、功を焦りすぎているのか、若しくは、功など諦めて開き直りでいるのか。</p><p>いずれにしても、「向き合えない」、逃げる自分がいることだけは確かです。</p><p>それでも、やはり、上記の「挑戦」は、何とかして身に着けたいと思っています。</p><br><p>「何故、あなたはギターやスケボーを身に着けたいのか？」</p><p>と、問われれば、</p><p>「フラストレーションの昇華が目的です」</p><p>と、答えるでしょう。</p><p>リピドーの昇華などという、強烈な動機ではありません。</p><p>少しでも、人生を謳歌したいという細やかな願いです。</p><br><p>さて、今回も前置きが長くなりましたが、</p><p>今回のテーマ『シンクロニシティとセレンディピティ』</p><p>これは、私が今、志して手を伸ばした事柄が、いつしか私の身に着いて、</p><p>スキルを体得できたとしたら…。</p><p>わらしべ長者というお話がありましたね？</p><p>ギターが弾けるようになった私は、どんな出会いをし、経験をするでしょうか？</p><p>スケボー然り、読書、万年筆もまた然りです。</p><br><p>私が、嗜好した上記5つの趣味は、思いつきとはいえ、シンクロニシティ、つまり、</p><p>私という一人の人間に与えられた、或いは、そのドアを叩くという</p><p>一見、一貫性のない様に思えて、実は、フラストレーションの昇華という命題で</p><p>通底している、偶然の？或いは、無意識の？一致があると思います。</p><p>私がスキルを身に着けるまでの多くの試行錯誤がセレンディピティ、つまり、</p><p>失敗から多くを学ぶことがあると思うのです。</p><br><p>種は蒔きました。雑草の草むしりから、肥料をやり、水を与え、陽にかざし…。</p><p>昔から言うではありませんか。<br>「蒔かぬ種は生えぬ」。また、「蒔いた種は自分で刈れ」とも。</p><p>引用が間違っているかもしれませんが、「大人の対応」で、</p><p>下半期は、蒔いた種を育てて、花も咲かせれば、実も収穫して、</p><p>また、種を蒔けるように！と何時も心に留めておこうと思います。</p><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/do-air/entry-11566508302.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Jul 2013 21:48:48 +0900</pubDate>
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