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<title>みことばざんまい</title>
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<title>#98 基礎教理　Do the Non-Elect Have a Chance to Repen</title>
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<![CDATA[ <p>☞ <a href="https://www.youtube.com/watch?v=tK_YIDMQuJc" rel="noopener noreferrer" target="_blank">Do the Non-Elect Have a Chance to Repent?</a><br><br><br>最初から７分２２秒まで。<br><br>今回は、素朴な疑問をテーマにしたメッセージ。<br><br>先人（たち）の練られた品性を拝聴しようと思う。<br><br>◇◇<br><br>まずは、以下の動画。<br><br>・<a href="https://www.youtube.com/watch?v=xwwaEuDeqM8&amp;t=0s" rel="noopener noreferrer" target="_blank">1.21.25 Sermon by The Right Rev. Mariann Edgar Budde</a><br><br><br>Mat 13:29&nbsp;&nbsp;だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。&nbsp;<br>Mat 13:30&nbsp;&nbsp;だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」&nbsp;<br><br><br>◇◇<br><br>正確な数は分からないが、私たちに届いたメールで最も質問の多かった聖句は、ローマ書9章です。<br><br>誇張なしで、この章だけで数百のご質問を頂きました。<br><br>この章で最も質問の多かった箇所は、9章22節。<br><br>この聖句だけで、少なくとも65通のe-mailを頂きました。<br><br>レスリーという視聴者からの代表的なご質問です。<br><br>「こんにちは、ジョン牧師。ローマ書9章22節について悩んでいます。選ばれていない人たちは、悔い改めの機会さえ与えられていないのではないかという印象を持っています。彼らは滅びゆくために生まれてきたのでしょうか。救われるチャンスさえ与えられずに生まれてくる人たちが数多くいるというのは正しいことなのでしょうか。」<br><br>ローマ書9章が、非常に多くの疑問が持たれる聖句の一つであるということは驚くには当たりません。<br><br>私自身の経験がそれを証明しています。<br><br>最近、1977年から1979年までの出版履歴を検索しています。<br><br>30代前半だった私は、自由時間の殆どをローマ書9章、特に14節から23節の研究や文筆に費やしてきました。<br><br>この聖書箇所ですが、多くのリスナーにとって興味深い箇所ではないかと思います。<br><br>他の聖書箇所と同様に、この箇所は、明確に、かつ力強く、救いに関する神の絶対的な統治権を浮き彫りにします。<br><br>それ故、多くの人にとって扱いにくい箇所でもあります。<br><br>1979年、神は、この聖書箇所を用いることにより、大学で6年間教鞭を取った神学者から、その後33年間務めることになるベツレヘムバプテスト教会の牧師へと、私を遣わしました。<br><br>失われた罪人たちを揺りかごから墓場まで救うために、神は私を用いたのだという熱意と、宣教により福音に触れたことのない世界中の人たちのために、多くの宣教師を送り出すことのできる強い教会を作りたいという願いもありました。<br><br>救いにおける神の統治権に関して最も議論の多いこの章を神が用い、そして神の言葉を取り扱う学問の世界から、失われた罪人たちを救うために、教会を強め、世界中の人々と接触するために、私は最前線へと遣わされました。<br><br>罪人の救いの上に神の絶対的統治権があると信じるなら、魂獲得の牧師や、宣教主導の教会には嫌気がさすのではないかと思います。<br><br>（＊神の絶対性を信じ、人の努力は意味がないと思うのであれば、という意。）<br><br>これは真実ではない。<br><br>私には、これとは全く逆の効果が起きた。<br><br>William Carey、John Paton、Adoniram Judson、そして失われた人々に手を差し伸べるために身を粉にした数多くの宣教師や牧師も同じだった。<br><br>歴史的カルヴァン主義ではないハイパーカルヴァン主義というものがあります。<br><br>ハイパーカルヴァン主義は、非聖書的論理によって聖書を捻じ曲げる少人数から成る集団であり、自分たちがキリストへと導いた人たちだけが、神の選びの民であると主張します。<br><br>もしもあなたがハイパーカルヴァン主義者なら、私のように、無差別に福音を分かち合おうとは思わないでしょう。<br><br>選ばれし未信者のみを徹底的に探し求めるのではないでしょうか。<br><br>これは全くの間違いです。<br><br>これは、ローマ書９章が教えていること、示唆していることではありません。<br><br>他の聖書箇所が教えていること、示唆していることでもない。<br><br>救われし罪人たちに対する神の力の大きさや聖書的見解に満ち、神による支配を愛する人は、あらゆる人たちに、一人の例外もなく次のようなことばを語るでしょう。<br><br>渇いている者は、来なさい。<br>水辺に来なさい。<br>お金のない者よ。<br>ここに来て、買って、食べなさい。<br>パンでもないものに、何故お金を使うのか。<br>満足させないことに、何故労苦するのか。<br><br>Isa 55:1&nbsp;&nbsp;ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。&nbsp;<br>Isa 55:2&nbsp;&nbsp;なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。&nbsp;<br><br>言い換えると、私たちは彼らにお願いをしているのです。<br><br>命の水に来なさい。<br><br>誰でも自由に飲みなさい。<br><br>神の御子として、罪人のために十字架に付けられ、死人の中からよみがえったイエスキリストを、神の御子として受け入れるなら、そして、唯一かつ貴重なる救い主として、イエスキリストを信じるなら<br><br>イエスキリストを通して神が成し遂げたものすべてを、キリストとともに受ける。<br><br>キリストにあってあなたのために神がなさったことすべてを、あなたは得る。<br><br>ありとあらゆる良いものが、あなたに与えられる。<br><br>イエスキリストを得るなら、彼が成し遂げて下さったものすべてを手に入れることができて、さらに神の御前で永遠に続く最高の喜びに達することができる、<br><br>これがあなたの言いたいことでしょう。<br><br>このように言いたいことを十分言わせてもらえるのであれば、ありとあらゆる人たちにこのことを伝えたいのです。<br><br>さて、人々を躓ませているローマ書9章のことばがあります。<br><br>それらについて、ローマ書9章18節から19節にこうあります。<br><br>Rom 9:18&nbsp;&nbsp;こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。&nbsp;<br>Rom 9:19&nbsp;&nbsp;すると、あなたはこう言うでしょう。それなのになぜ、神は人を責め立てるのか。<br><br>私たちはパウロが尋ねようとしなかったことを尋ねているのではない。<br><br>「パウロ。私にはあなたが考えもしなかった質問があります」と言っているのではない。<br><br>ローマ書9章19節は次のように続きます。<br><br>「誰が神の御心に逆らうことができようか。」<br><br>パウロは、「誰でも神の御心に逆らうことができる。私たちにはみな自由意志がある。誰でも御心に逆らうことはできる」とは言わなかった。<br><br>そうではない。<br><br>「誰が神の御心に逆らうことができようか」とパウロは答えた。<br><br>ローマ書9勝20節で、パウロはこう言います。<br><br>「お前は何者か、人よ。神に口答えするとは。」<br><br>パウロは、私たちは神に疑問を呈してはいけないと言っているのではない。<br><br>そうではない。<br><br>神の言っていることを否定してはならないと言っているのです。<br><br>パウロは続けます。<br><br>Rom 9:20&nbsp;&nbsp;しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。&nbsp;<br>Rom 9:21&nbsp;&nbsp;陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。&nbsp;<br>Rom 9:22&nbsp;&nbsp;ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。&nbsp;<br><br><br><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/doctor-mk/entry-12884395758.html</link>
<pubDate>Thu, 30 Jan 2025 08:26:56 +0900</pubDate>
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<title>TEST</title>
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<![CDATA[ <p>TEST</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Thu, 16 Jan 2025 13:43:28 +0900</pubDate>
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