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<title>新・日蓮大聖人と私</title>
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<description>旧『日蓮大聖人と私』をご愛読いただきました皆様、ご無沙汰いたしております。この度、装い新たに、帰ってまいりました！</description>
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<title>御書に登場する故事・人物　中国編　第四十回　前漢代　匈奴と戦って敗れ故国に帰れなかった李陵</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">御書に登場する故事・人物　中国編　</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">第四十回　前漢代　匈奴と戦って敗れ故国に帰れなかった李陵</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　李陵(りりょう)は成人すると、建章宮の目付役に選ばれ、騎士たちを監督した。馬上から矢を射ることに優れ、士卒への思いやりもあった。武帝は、李氏が代々将軍であった（祖父は〝石虎将軍〟〝漢の飛将軍〟と言われた李広将軍である）ことを思って、彼を八百騎の将とした。</span></p><p><span style="color:#000000;">　天漢二年の秋、弐師(じし)将軍李広利は三万騎を率いて、匈奴（北方の遊牧民族）の右賢王を祁連(きれん)山・天山方面で攻撃した。そして李陵にその射士・歩兵を率いさせて、居延(きょえん)の地からほぼ千里ほど北方に進軍させた。それは匈奴の兵を二分して、弐師将軍のほうにのみ向けさせないためであった。</span></p><p><span style="color:#000000;">　やがて時期がきたので李陵が軍を引きあげようとすると、単于(ぜんう)（匈奴の王）が八万の兵でその軍を囲んで攻めて来た。李陵の軍五千は、武器も矢もつき、兵士らの半数が死んでしまった。だが殺傷した匈奴の数も一万余にのぼった。退いては戦い、戦っては退いて連戦すること八日、居延の地の手前百里ほどまで引き返して来たが、匈奴は退路のせまくなったところを断ったのだった。李陵らは孤立し、食べものもなく、援兵も来なかった。敵は烈しく攻めたてて、李陵に降伏するようにうながした。李陵は武帝に報告する面目もないと言って、ついに匈奴に降伏したのだった。</span></p><p><span style="color:#000000;">　兵らはほとんどが戦死し、そうでない者は行方しらずであり、漢に帰り得たものは四百人あまりにすぎなかった。単于は李陵を捕えると、以前から家名の高いことを聞いていたし、戦いぶりが立派であったところから、自分の娘を李陵の妻にして、彼を大切にしたのであった。　</span></p><p align="right"><span style="color:#000000;">（「史記」李将軍列伝）</span></p><p align="center"><span style="color:#000000;">※</span></p><p><span style="color:#000000;">　はじめ李陵は蘇武(そぶ)とともに侍中(じちゅう)として宮中にいたが、蘇武は匈奴に使者に行って捕らえられ、翌年、李陵が降伏したのだった。</span></p><p><span style="color:#000000;">　のちに昭帝が即位すると匈奴と和親することになって、蘇武だけは漢に帰ることがゆるされたのである。そのとき李陵は詩を贈って別れの言葉としたのだった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　　手をとりながら川の橋にのぼれば</span></p><p><span style="color:#000000;">　　君は夕暮れて何処へ去り行くのか</span></p><p><span style="color:#000000;">　　いたずらに小道を流離い歩けども（※）　　「流離(さすら)い」</span></p><p><span style="color:#000000;">　　二人してなごりの尽きざるままに</span></p><p><span style="color:#000000;">　　われは鷹のごとく北方の林で泣き</span></p><p><span style="color:#000000;">　　君は蛍火のごとく東南の漢に帰る</span></p><p><span style="color:#000000;">　　無心なる浮雲は日に千里を走るも</span></p><p><span style="color:#000000;">　　どうしてわが心の悲しみを知ろう</span></p><p align="right">&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　そこで蘇武も李陵に別れの詩をつくって言うのだった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　　二羽の鳬がともに北に飛び来て（※）　　「鳬(かも)」鴨(かも) の異体字</span></p><p><span style="color:#000000;">　　一鳬のみひとり南方に翔け帰る</span></p><p><span style="color:#000000;">　　君がまさにこの匈奴にとどまり</span></p><p><span style="color:#000000;">　　われがまさに故国に帰るごとく</span></p><p><span style="color:#000000;">　　一別すれば秦と胡のように離れ</span></p><p><span style="color:#000000;">　　相まみゆるはいつの日になるか</span></p><p><span style="color:#000000;">　　恨み痛みの情は胸に切々と迫り</span></p><p><span style="color:#000000;">　　覚えず落涙して衣服をうるおす</span></p><p><span style="color:#000000;">　　願わくば君よ永遠に忘れまいぞ</span></p><p><span style="color:#000000;">　　二人して談笑した日々のことを</span></p><p align="right"><span style="color:#000000;">　　　　　　　　　　　　　　　（「蒙求」巻之上・李陵初詩）</span></p><p><span style="color:#000000;">（上の「蒙求」の詩は、原文を意訳したものである）</span></p><p><span style="color:#000000;">（｢仏教説話と故事　中国・日本編｣　創価学会教学部編　聖教新聞社刊　昭和48年10月12日発行）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">御書本文</span></p><p><span style="color:#000000;">　同十月十日に依智を立って、同十月二十八日に佐渡国へ着きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ、塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野(れんだいの)のように死人を捨つる所に、一間四面なる堂の、仏もなし。上はいたま(板間)あわず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆることなし。かかる所にしきがわ(敷皮)打ちしき、蓑(みの)うちきて、夜をあかし、日をくらす。夜は雪・雹(あられ)・雷電(いなずま)ひまなし。昼は日の光もささせ給わず。心細かるべきすまいなり。彼の李陵(りりょう)が胡国に入ってがんくつ(巌崛)にせめられし、法道三蔵の徽宗(きそう)皇帝にせめられて面(かお)にかなやき(火印)をさされて江南にはなたれしも、只今とおぼゆ。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「種々御振舞御書」新一二三四㌻、全九一六㌻）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">通解</span></p><p><span style="color:#000000;">　同十月十日に依智を立って同十月二十八日に佐渡の国へ着いた。十一月一日に三昧堂(さんまいどう)へ入ったが、ここは本間六郎左衛門の家のうしろの塚原という山野のなかの、洛陽（京都）の蓮台野</span><a name="_Hlk213063463"><span style="color:#000000;">(</span></a><span style="color:#000000;">れんだいの)のように死人を捨てる（埋葬する）場所にある一間四面の堂で仏もない。上（屋根）は板間が合わず、四面の壁は荒れ果てて、雪が降り積もって消えることがない。こういう所に</span><a name="_Hlk213063672"><span style="color:#000000;">敷皮</span></a><span style="color:#000000;">をしき蓑(みの)を着て夜を明かし日を送った。夜は雪・雹</span><a name="_Hlk213063635"><span style="color:#000000;">(</span></a><span style="color:#000000;">あられ)・雷電(いなずま)の絶え間がなく、昼は日の光もさしこまず、心細いのが当たり前の住居である。彼の李陵(りりょう)が胡国へ入って巌崛(がんくつ)に閉じ込められたのも、法道三蔵が徽宗(きそう)皇帝に責められて顔にかな焼き（罪人の火印）を押されて、江南に放逐されたのも只今だと感じた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">語訳</span></p><p><span style="color:#000000;">李陵(りりょう)</span></p><p><span style="color:#000000;">　李陵は中国前漢の武将で字(あざな)を少卿という。将軍・李広の孫で、幼いときから弓術に長じており、下士をよく愛した。時に武帝に請い部下五千人を率いて匈奴と戦い、よく敵軍をやぶり、兵を返すときに敵方、単于(ぜんう)の率いる八万の大軍に囲まれ、矢尽き刀折れて匈奴に捕われた。李陵の降参したこと、さらに李陵が匈奴に兵術を教えていることを聞いて、武帝は怒り、李陵の一族を皆殺しにした。李陵はこの報を聞き、実は兵術を教えていたのは李緒であり、李緒のために家族が皆殺しにあったとして、人を遣わして、李緒を殺す。「史記」の著者・司馬遷が李陵を弁護して帝の怒りに触れ、宮刑に処せられた話は有名。李陵は単于の娘をめとり、匈奴の地に二十余年暮らして病没した。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">胡国(ここく)</span></p><p><span style="color:#000000;">　北方の北狄(ほくてき)の一部で、匈奴のこと。漢の北方に位置する遊牧騎馬民族の匈奴の領地をさす。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">がんくつ(巌崛)にせめられし</span></p><p><span style="color:#000000;">　法蓮抄（新一四二九㌻、全一〇五二㌻）にも「李陵が巌窟に入って六年蓑をきて」とあり、李陵は、胡国で六年間捕われの身として巌窟にとじこめられていたのである。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">講義</span></p><p><span style="color:#000000;">　日蓮大聖人が佐渡に着かれたのは、十月二十八日であった。そして十一月一日には塚原三昧堂に住まわれている。ここに翌文永九年（一二七二年）四月二日まで、五か月にわたって住まわれ、その後四月三日に一の谷(さわ)入道の邸に移られ、ここで文永十一年（一二七四年）三月、赦免され佐渡を発たれる日までお暮らしになられるのである。</span></p><p><span style="color:#000000;">　この塚原三昧堂のあたり一帯は、死人を捨てる地であり、とても人間が生活できるような場所ではない。佐渡流罪は罪人のなかでも、政治犯や殺人犯など、とくに重犯罪者に対して科せられたのであり、この地に流罪となったということは、すでに死罪を宣告されたに等しいものであった。（中略）</span></p><p><span style="color:#000000;">　さらに、大聖人が到着されたころは、まさに厳冬を迎える直前で、とくに極寒の佐渡にあっては、寒さが膚身(はだみ)に沁(し)みるような毎日であったであろう。富木入道殿御返事（新一二八二㌻、全九五五㌻）にいわく「相州鎌倉に候いし時の思いには、四節の転変は万国皆同じかるべしと存じ候いしところに、この北国・佐渡国に下り着き候いて後、二月(ふたつき)は寒風しきりに吹いて、霜雪さらに降らざる時はあれども、日の光をば見ることなし。八寒を現身に感ず」と。</span></p><p><span style="color:#000000;">　この寒さを防ぐものとしては、板間の合わぬ天井、荒れ果てた壁、床に敷皮を敷いて着るものは蓑(みの)しかない状態であったから、常人なら数日もしない内に凍死してしまったであろう。もったいなくも御本仏日蓮大聖人は、かくも厳しい環境のなかでご生活なさっていたのである。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「種種御振舞御書」第八章　塚原三昧堂での御法悦）</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/dollyellow/entry-12967952704.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Jun 2026 09:19:44 +0900</pubDate>
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<title>御書に登場する故事・人物　中国編　第三十九回　前漢代　北海の地で十九年間降伏せずに忍んだ蘇武  </title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">御書に登場する故事・人物　中国編　</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">第三十九回　前漢代　北海の地で十九年間降伏せずに忍んだ蘇武&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></p><p align="center">&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　天漢元年、中郎将の蘇武を使者として匈奴の地へつかわした。ところが単于(ぜんう)（匈奴王）はこれを降服させようと思って、蘇武を捕えると大きな岩穴の中に幽閉し、しかも食べものも与えようとしなかった。蘇武は飢えを忍ぶために雪と毛織物の毛と咬み合わせて食べ、数日間、命をとりとめていた。匈奴は彼が死なずにいるので、これはただびとではない、きっと神がかった人であろうと考えて、北海のほとりの無人のところへ移したのだった。そして、彼に牡(おす)の羊を飼わせて、言った。</span></p><p><span style="color:#000000;">「この牡羊が子を生んだら、国に帰してやるぞ」と。</span></p><p><span style="color:#000000;">　食物がないので野鼠をつかまえたり、草の実を集めて、これを食い、寝るときも起きているときも、祖国の漢に対する忠誠心だけは変えようとしなかった。あるとき友人の李陵(りりょう)が蘇武に向かって言った。</span></p><p><span style="color:#000000;">「人生は朝露のようなものだよ。どうして降服もせず、みずからをこのように苦しめているのだね。早く降服すればいいじゃないか」</span></p><p><span style="color:#000000;">　漢の友である李陵と衛律(えいりつ)とは、すでに匈奴に降服して、みな結構、富貴な生活をしていたのである。衛律もまた、しばしば蘇武に降服することをすすめた。しかし、彼はそれを承諾しようとはしなかった。</span></p><p><span style="color:#000000;">　やがて漢の使者が蘇武を返してほしいと言って匈奴にやって来た。匈奴はいつわって、</span></p><p><span style="color:#000000;">「蘇武は、すでに死んでしまった」</span></p><p><span style="color:#000000;">　と言った。すると漢の使者は、どうもこれはウソらしいときづいて、言った。</span></p><p><span style="color:#000000;">「わが国の王さまが上林苑（漢の庭苑）の中で狩猟を行なったとき、雁(がん)（※1）を射落とされました。その足には手紙が結んであって、蘇武は大きな湖のほとりにいると書いてあったのです。だから、蘇武がいないわけがありません」（※2）</span></p><p><span style="color:#000000;">　匈奴はこれ以上、隠すこともできず、蘇武を帰すことにした。</span></p><p><span style="color:#000000;">　始元六年、蘇武が匈奴の地から帰還した。匈奴の地にとどまること十九年。はじめは中年の強壮な姿で国を出たものであった。だが、帰って来た姿を見ると、髭も髪もことごとく白くなってしまっていた。帝はそんな彼を典属国(てんぞっこく)（※3）という官に任じたのであった。　</span></p><p align="right"><span style="color:#000000;">（「十八史略」巻二・西漢）</span></p><p><span style="color:#000000;">（｢仏教説話と故事　中国・日本編｣　創価学会教学部編　聖教新聞社刊　昭和48年10月12日発行）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">（※1）「雁の足には手紙が結んであって……」</span></p><p><span style="color:#000000;">　手紙、書信を雁書(がんしよ)、雁信、雁札(がんさつ)とも言う。</span></p><p><span style="color:#000000;">　雁は候鳥（こうちよう）で、秋には南に渡り春には北に帰るところから、中国では遠隔の地の消息を伝える通信の使者と考えられ、雁信、雁書の説が生まれた。（「世界大百科事典（旧版）」</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">（※2）「使者をして單于(ぜんう)に謂はしめて言ふ。天子、上林中に射て雁を得たり。足に帛書(はくしょ)を係(か)くる有り。言ふ、武等某澤中(たくちゅう)に在りと。～單于、左右を視て驚きて、漢使に謝して云ふ、武等實は在りと」（漢書、蘇武伝）〔平凡社「普及版 字通」〕</span></p><p align="right"><span style="color:#000000;">　（帛(はく)＝絹布）</span></p><p align="right">&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">（※3）典属国(てんぞっこく)</span></p><p><span style="color:#000000;">　中国の秦・前漢の官職。降伏した周辺異民族を掌る。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">御書本文</span></p><p><span style="color:#000000;">　北海の島にはなたれしかば、彼の国の道俗は相州(そうしゅう)の男女よりもあだをなしき。野中にすてられて、雪にはだえ(肌)をまじえ、くさ(草)をつ(摘)みて命をささえたりき。彼の蘇武が胡国(ここく)に十九年雪を食って世をわたりし、李陵が北海に六箇年がんくつにせめられし、我は身にてしられぬ。これはひとえに、我が身には失(とが)なし、日本国をたすけんとおもいしゆえなり。</span></p><p><span style="color:#000000;">　しかるに、尼ごぜんならびに入道殿は、彼の国に有る時は、人め(目)をおそれて夜中に食をおくり、ある時は国のせめ(責)をもはばか(憚)らず、身にもか(代)わらんとせし人々なり。されば、つらかりし国なれども、そ(剃)りたるかみ(髪)をうしろ(後)へひかれ、すすむあし(足)もかえりしぞかし。いかなる過去のえん(縁)にてやありけんとおぼつかなかりしに、またいつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかいにてつかわされて候。ゆめか、まぼろしか。尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候わねども、心をばこれにとこそおぼえ候え。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「国府尼御前御書」新一七五五㌻、全一三二五㌻）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">通解</span></p><p><span style="color:#000000;">　（日蓮大聖人が）北方の海の島に流罪されてみると、佐渡の国の出家や在家の者は、相模の男女よりも迫害を加えた。</span></p><p><span style="color:#000000;">　野原の中に捨てられ、雪に膚をさらし、草を摘んで命をささえたのである。</span></p><p><span style="color:#000000;">　かの蘇武(そぶ)が、捕えられた胡国の地で十九年間、雪を食として世を過ごし、李陵(りりょう)が北海の岩窟に六年間閉じこめられたその苦しみを、今、わが身にあてて知ることができた。</span></p><p><span style="color:#000000;">　このことは、ひとえに、わが身の誤りではなく、日本国の人々を助けようと思ったが故の難である。</span></p><p><span style="color:#000000;">　ところが尼御前および入道殿は、日蓮が佐渡の国に居た時は、人目をはばかって夜中に食物を送り、ある時は国の役人の咎(とが)めをも恐れず、日蓮の身代わりにもなろうとした人々である。それゆえ、辛かった佐渡の国ではあったが、そった髪を後へ引かれ、進む足も戻りそうになるほど名残り惜しいものであった。</span></p><p><span style="color:#000000;">　どのような過去の因縁によるものかと、不思議に思っていたところ、また、いつの間にかこの身延まで、これほど大切な我が夫を、御使いとして遣わされた。</span></p><p><span style="color:#000000;">　夢か、幻か。尼御前の御姿を見ることはできないが、心はここにおられると思われる。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">語訳</span></p><p><span style="color:#000000;">蘇武(そぶ)</span></p><p><span style="color:#000000;">（前一四〇年頃～前六〇年）。中国・前漢の武将。字(あざな)は子卿(しけい)。漢書によると、武帝の命により、匈奴(きょうど)王・単于(ぜんう)への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から幾度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海（バイカル湖）の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の手紙が結びつけてあり、蘇武らは某沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われた通り単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて十九年間、漢に戻る折りには、髪は真っ白になっていたという。帰朝後も八十余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、漢中興の補佐に列せられるほど、名臣として尊敬された。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">講義</span></p><p><span style="color:#000000;">　日本国中が「父母のかたきのごとく、謀反・強盗にもすぐれて」憎んだ日蓮大聖人を、国府入道夫妻は、種々御供養し、身をもって守ろうとさえしたのである。これに対し、心からの礼を述べられているところである。</span></p><p><span style="color:#000000;">　普通ならば、流罪の地に未練愛着など、ありえようはずがない。それを「そ(剃)りたるかみ(髪)をうしろ(後)へひかれ、すすむあし(足)もかえりしぞかし」と言われているところに、国府入道夫妻に対する大聖人の愛情の深さが示されている。</span></p><p><span style="color:#000000;">　しかも、そうした大聖人の心に応ずるかのように、国府入道は、身延に入山された大聖人を慕って、はるばる佐渡から訪ねてきたのである。国府入道が来たということは、単に国府入道一人の問題ではない。途中、どんな危険があるとも知れない長路の旅に、大事な夫を送り出した妻の尼御前も、姿こそないが、心はすでに一緒に来られているのだと仰せである。尼御前の思いもまさにそうであったにちがいない。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「国府尼御前御返事」第三章　尼御前の信心を励ます）</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/dollyellow/entry-12967846615.html</link>
<pubDate>Sun, 31 May 2026 10:36:32 +0900</pubDate>
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<title>御書に登場する故事・人物　中国編　第三十八回　前漢代　畜生の身で人に恩返しした昆明池の大魚</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">御書に登場する故事・人物　中国編　</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">第三十八回　前漢代　畜生の身で人に恩返しした昆明池の大魚</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　昆明池(こんめいち)</span><span style="color:#000000;">は、漢の武帝が水戦の演習のために造った大池で、中に霊沼、神池があるといわれている。</span></p><p><span style="color:#000000;">　なんでも魚が武帝の夢の中に現われて、</span></p><p><span style="color:#000000;">「釣針を飲みこんで苦しいから、はずして下さい」</span></p><p><span style="color:#000000;">　と頼んだ。</span></p><p><span style="color:#000000;">　その翌日、武帝は戯れに昆明池に行ってみると、はたして釣針をのんでいる大きな魚が見えた。武帝は、</span></p><p><span style="color:#000000;">「昨夜の夢は、正夢であったのか」</span></p><p><span style="color:#000000;">　と思われて、大魚をつかまえると、その釣針をとりのぞき、また池に放しあげたのだった。帝はのちほど、そのために明珠を手に入れたのである（つまり魚が報恩のためにささげたのだという）。　</span></p><p align="right"><span style="color:#000000;">（太平広記）</span></p><p><span style="color:#000000;">（｢仏教説話と故事　中国・日本編｣　創価学会教学部編　聖教新聞社刊　昭和48年10月12日発行）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">御書本文</span></p><p><span style="color:#000000;">　舎利弗・迦葉等の大聖は、二百五十戒・三千の威儀一つもかけず、見思(けんじ)を断じ三界を離れたる聖人なり。梵帝諸天の導師、一切衆生の眼目なり。しかるに、四十余年が間「永不成仏(ようふじょうぶつ)」と嫌いすてはてられてありしが、法華経の不死の良薬をなめて、燋(い)れる種の生(お)い、破(わ)れる石の合い、枯れたる木の花菓なんどせるがごとく、仏になるべしと許されて、いまだ八相をとな(唱)えず。いかでか、この経の重恩をばほう(報)ぜざらん。もしほうぜずば、彼々の賢人にもおとりて、不知恩の畜生なるべし。</span></p><p><span style="color:#000000;">　毛宝(もうほう)</span><span style="color:#000000;">が亀はあお(襖)の恩をわすれず、昆明池(こんめいち)の大魚は命の恩をほうぜんと明珠(みょうしゅ)を夜中にささげたり。畜生すらなお恩をほうず。いかにいわんや大聖をや。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「開目抄」新七五㌻、全二〇四㌻）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">通解</span></p><p><span style="color:#000000;">　舎利弗・迦葉等の大聖は二百五十戒・三千の威儀が一つも欠けることなく、見思(けんじ)の惑(わく)を断じて三界を離れた聖人たちである。梵天・帝釈は諸天の導師であり一切衆生の眼目である。これら二乗も諸天も、四十余年の爾前経では「永く成仏することがない」と、嫌い捨て果てられてあったが、法華経の不死の良薬たる永遠の生命観を聞いて、たちまち成仏すべしと許された。それは燋(い)れる種が芽を生じ、破(わ)れた石が合い、枯木に華が咲き菓(み)がなるようなものである。しかしまだ未来の成仏を許されたのみで八相成仏を現じていない。どうして法華経の重恩を報じないでいられようか。もし報じないならば、外道の賢人たちにも劣る不知恩の畜生である。</span></p><p><span style="color:#000000;">　毛宝(もうほう)に救われた亀は、毛宝が自分の衣類を売って救ってくれた恩を報じ、昆明池の大魚は、漢の武帝に救われた恩を報じようとして、明珠(みょうしゅ)を夜中に捧げたと伝えられている。畜生すらかくのごとく恩を報じているから、まして舎利弗・迦葉等の大聖が恩を報じないわけがあろうか。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">語訳</span></p><p><span style="color:#000000;">昆明池(こんめいち)の大魚</span></p><p><span style="color:#000000;">　昆明池は、前漢の武帝が水戦訓練のために都の長安（西安）に造った大池である。帝がこの池で大魚を釣ったが、糸が切れて逃げてしまった。すると、その魚は帝の夢の中に現れて、釣針をのみこんで苦しいから、はずしてほしいと懇願した。その翌日、帝が昆明池に行ってみると、はたして釣針をのんでいる大魚を発見し、釣針を取り除いて池に放してやった。帝は、のちに明珠を手に入れたが、これは魚が帝の恩を報いたものだと伝えられている。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">講義</span></p><p><span style="color:#000000;">　本章は、二乗の守護なきを疑う文で、この項においては、二乗が法華の深恩を報ずべき道理を示されている。</span></p><p><span style="color:#000000;">　思うに、人として恩を知り恩に報ずればこそ、他の生類(しょうるい)と異なるゆえんがあるのである。好き嫌いを基調としたり、強きにのみ従ったり、迷ったりして、恩を知らず恩を報ぜざるは、じつに人にして人にあらざるものである。ひたすら現在の世相を見るに、人の道たるべき知恩・報恩の者がごく稀(まれ)である。ここに、社会の乱れや恨みの生活が生ずるのである。この世相を一新せんとすれば、すべからく一乗妙法を弘通して、いっさいの民衆に帰趣する所を知らしめなくてはならない。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「開目抄上」第二十九章　二乗の法華深恩を論ず）</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/dollyellow/entry-12967739024.html</link>
<pubDate>Sat, 30 May 2026 09:36:19 +0900</pubDate>
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<title>御書に登場する故事・人物　中国編　第三十七回　前漢代　西王母の桃を盗んだ東方朔</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">御書に登場する故事・人物　中国編　</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">第三十七回　前漢代　西王母の桃を盗んだ東方朔</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">御書本文</span></p><p><span style="color:#000000;">　今日召し合わせ御問注の由、承り候。各々御所念のごとくならば、三千年に一度花き菓(このみ)なる優曇華(うどんげ)に値(あ)えるの身か。西王母の園の桃、九千年に三度これを得たる東方朔(とうほうさく)が心か。一期の幸い何事かこれにしかん。御成敗の甲乙は、しばらくこれを置く。前立って鬱念(うつねん)を開発せんか。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「問注得意抄」新一二七一㌻、全一七八㌻）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">通解</span></p><p><span style="color:#000000;">　今日召し合わせて、法義取り調べの御問注があると承った。おのおのの念願されたごとくであれば、三千年に一度花が咲き菓</span><a name="_Hlk213055271"><span style="color:#000000;">(</span></a><span style="color:#000000;">このみ)がなるという優曇華(うどんげ)に値(あ)える身であろうか。</span></p><p><span style="color:#000000;">　九千年に三度しか実がならない西王母の園(その)の桃を、東方朔(とうほうさく)が九千年に三度得たというのと同じ心でもあろうか。</span></p><p><span style="color:#000000;">　一生のうちで、これほどの幸いは、またとないであろう。</span></p><p><span style="color:#000000;">　御成敗の甲乙（勝敗の結果）はしばらくこれを置くが、貴殿としては、まずもって日頃の鬱念(うつねん)を開かれるべきであろう。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">語訳</span></p><p><span style="color:#000000;">優曇華(うどんげ)</span></p><p><span style="color:#000000;">　優曇花とも書く。梵語ウドンバラ（Udumbara）の音写・優曇波羅(うどんばら)の略。霊瑞(れいずい)と訳す。インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有(けう)な花で、この花が咲くと金輪王(こんりんおう)が出現し、また、金輪王が現れる時にはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値(あ)いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華(うどんばらけ)の如く」（『妙法蓮華経並開結　新版』六五七㌻　創価学会刊）とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値(あ)い難いことを説いている。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">西王母の薗(その)の桃</span></p><p><span style="color:#000000;">　西王母は中国の伝説上の女神の名。西方に住む祖母の意で、中国西方の高山に住む女神とされた。女子で仙人となったものは、みなこの西王母に従ったという。山海経には豹尾で虎歯の半人半獣、崑崙山(こんろんさん)に住み三羽の青鳥（※1）が食物を運んだという。穆天子伝には周の穆王(ぼくおう)が西に巡狩して西王母に会い、三年間逗留して帰国したとあり、このとき西王母は人の姿で描かれている。のち神仙思想により仙女化し、崑崙(こんろん)の圃(ほ)、閬風(ろうふう)の苑(その)にいるといわれ、この園にある桃（※2）の木は三千年に一度実るという。遇(あ)い難いもののたとえとして引かれたことば。</span></p><p><span style="color:#000000;">（※1）</span></p><p><span style="color:#000000;">「西王母の先相(せんそう)には青鳥(せいちょう)、客人の来相(らいそう)には鳱鵲(かんじゃく)、これなり」（新一三〇四㌻）と。西王母が来る先兆には青鳥が飛来し、客が来る前兆にはかささぎが鳴くといわれるのは、これである、時が到来した、との意。</span></p><p><span style="color:#000000;">（※2）</span></p><p><span style="color:#000000;">　桃を仙果だとし，それを食べることにより長生が得られるという伝承は、南北朝以降，道教的な色彩の強い文芸の中に多く出現する。《漢武故事》や《漢武帝内伝》などがそうした中でも早いもので、漢の宮廷を訪れた西王母が武帝に3000年に1度だけ実を結ぶ桃の実を与えて食べさせる。このように桃はとくに西王母との結びつきが強く、《西遊記》で孫悟空がめちゃくちゃにする蟠桃会（ばんとうえ）も西王母が主宰するものであった。</span></p><p><span style="color:#000000;">（世界大百科事典（旧版）内の西王母の言及）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">東方朔(とうほうさく)</span></p><p><span style="color:#000000;">　中国・前漢代の文学者。山東省の人。武帝に仕え、機知に富む文章と言葉で帝の寵愛を受け、常侍郎、太中大夫、給事中と進官したが酒に酔って失敗し、官を下げられた。後世、仙人的存在とされ、三千年に一度実るという西王母の桃を盗食し、長寿をほしいままにしたと伝えられる。</span></p><p><span style="color:#000000;">〈追記1〉</span></p><p><span style="color:#000000;">　漢代すでに東方朔にまつわる神仙伝説が発展し、「漢武故事」には西王母が植えた三千年に一度しかならない桃の実を三つも盗んだとある。</span></p><p><span style="color:#000000;">　日本では平安時代末期に成立した「唐物語(からものがたり)」に、東方朔は仙宮において罪を犯し、しばし人界に下されたとある。</span></p><p><span style="color:#000000;">〈追記2〉</span></p><p><span style="color:#000000;">　能の演目「東方朔」では仙人として登場する。漢の武帝が七夕の星祭をしていると老人が現われ、最近営中に青鳥が飛び回るのは西王母が参上する瑞兆だと語り、自分は高齢九千歳の東方朔だが神仙国の佳人西王母を伴って参内しましょうと言って消える。やがてふたたび東方朔が現われ、西王母とともに舞をまう。</span></p><p><span style="color:#000000;">（精選版 日本国語大辞典 「東方朔」の意味・読み・例文・類語　一部抜粋）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">講義</span></p><p><span style="color:#000000;">　本抄の内容は、五月九日の当日、富木常忍ら三人が問注所へ行くこととなり、それを大聖人に御報告申し上げ、大聖人がそれに対して細々(こまごま)と心構えを教えられている御手紙である。</span></p><p><span style="color:#000000;">　最初に、この問注はまことに富木常忍らにとって、千載一遇の機会であり、これほどの喜びはないであろうと仰せられている。</span></p><p><span style="color:#000000;">　次に、出仕に際しての心構えについて細かい注意を述べられ、大聖人がこうした注意をあえてするのは、仏経と行者と檀那とが合致してこそ事を成すことができるからである、と述べられている。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「問注得意抄」第一章　問注の実現を喜ばれる）</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/dollyellow/entry-12967641196.html</link>
<pubDate>Fri, 29 May 2026 09:45:26 +0900</pubDate>
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<title>御書に登場する故事・人物　中国編　第三十六回　前漢代　母の仇を思って岩に矢を射立てた李広が一念</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">御書に登場する故事・人物　中国編　</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">第三十六回　前漢代　母の仇を思って岩に矢を射立てた李広が一念</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　今は昔。中国の漢の時代に李広という人がいた。心が猛(たけ)く、弓道の腕前が勝れていた。</span></p><p><span style="color:#000000;">　しかしあるとき、一匹の虎が</span><a name="_Hlk212899018"><span style="color:#000000;">李広</span></a><span style="color:#000000;">の母を殺害した。人がそのことを李広に知らせてあげた。李広はこれを聞いて驚きつつも来て見れば、いつわりではなく、母は虎のために殺害されていたのだった。そこで李広は弓矢を取るや、虎の跡をたずねて追って行った。</span></p><p><span style="color:#000000;">　かくして、ある山の登り口の野中に追いかけて来て見ると、虎が伏していた。李広はこれを見るや、ついに母の仇を見つけたぞ、と喜びながら、ハッシと矢を射た。矢はみごと虎に射立って、矢筈(やはず)まで突きささった。李広はわが母を害した虎を射ることができた！　と喜んで、そばへ寄って見ると射たはずの虎は、まったく虎に似た形をした岩であったのだった。奇異に思って、そののちこの岩を射てみたが、矢は立たずに、はね返ってしまった。</span></p><p><span style="color:#000000;">　李広は、</span></p><p><span style="color:#000000;">（わが母を殺害した虎を射てくれようと思う心が深かったから、岩に矢は立ったのだ。岩だと思って射たときには、もはやそれは立たないのだ）</span></p><p><span style="color:#000000;">　と思って、涙を流しながら帰って行った。</span></p><p><span style="color:#000000;">　そののち、このことは世の中に広く話題となって、李広が虎を追って射た心をほめつつも同情するのだった。</span></p><p><span style="color:#000000;">　したがって、真剣な心を出そうとするときは、諸々のことについても、かくの如くであるべきだと世の人は言うのであると、語り伝えられているのである。　</span></p><p align="right"><span style="color:#000000;">（「今昔物語集」巻第十）</span></p><p><span style="color:#000000;">（｢仏教説話と故事　中国・日本編｣　創価学会教学部編　聖教新聞社刊　昭和48年10月12日発行）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">御書本文</span></p><p><span style="color:#000000;">　李広将軍と申せしつわものは、虎に母を食われて、虎に似たる石を射しかば、その矢、羽ぶくらまでせめぬ。後に石と見ては立つことなし。後には石虎(せっこ)将軍と申しき。貴辺もまたかくのごとく、敵(かたき)はねらうらめども、法華経の御信心強盛(ごうじょう)なれば、大難もかねて消え候か。これにつけても能(よ)く能く御信心あるべし。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「四条金吾殿御返事（石虎将軍御書）」新一六〇八㌻、全一一八六㌻）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">通解</span></p><p><span style="color:#000000;">　昔、中国の李広将軍は虎に母を食い殺されて、虎に似た石を射るとその矢は羽ぶくらまで通った。しかしそれが石と知ってからは、射ても矢はとおらなかったということである。そのことから後世の人々は李広将軍のことを石虎(せっこ)将軍と呼ぶようになった。あなたもまたこの故事のように、敵は狙っているのだろうが、法華経への信心が強盛であるので、大難も、事の起こる前に消えたのであろうか。これにつけても、よくよく御本尊を信じていきなさい。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">語訳</span></p><p><span style="color:#000000;">李広将軍</span></p><p><span style="color:#000000;">　中国前漢時代・武帝の将軍。隴西(ろうせい)・成紀（甘粛省秦安県）の人。家は代々射術に秀でていた。文帝の十四年（前一六六年）に匈奴征伐に参加、さらに呉楚七国の乱のときに有名をとどろかす。上谷・上郡・北地・雁門等の北辺の太守を歴任して常に匈奴と戦ったので、匈奴からは飛将軍と呼ばれ恐れられた。しかし元狩四年（前一一九年）策を誤って軍中で自殺した。李広将軍の部下思いは有名で、自分の恩賞はみな部下に分配したという。</span></p><p><span style="color:#000000;">〈追記〉</span></p><p><span style="color:#000000;">『史記』李将軍伝賛によると、李広将軍が部下思いのために慕われたことから「桃李(とうり)もの言わざれども下(した)自(おのずか)ら蹊(みち)を成す」の言葉が生まれた。すなわち「成蹊(せいけい)」の語源である。桃や李(すもも)は何も言わないが、花や実を慕って人が多く集まり、その下には自然と道ができるように、徳望のある人のもとへは人が自然に集まるとの意である。</span></p><p><span style="color:#000000;">　なお『史記』には、岩に矢を射立てた話はあっても、母が虎に殺害されたことは記されていない。</span></p><p><span style="color:#000000;">　また『西京雑記』には、李広は虎に殺された母の復讐のため猟に出て、草原の中の石を母を殺した虎と信じ切って矢を射たところ、石に矢が立ったことから石虎将軍と呼ばれたとある。ただし西京雑記は時代が下った晋代の作で、「意識的な虚構の手法が用いられており」（世界大百科事典・第２版）、脚色を施したものとされる。</span></p><p><span style="color:#000000;">　李広の長男も有能な武人であったが早世し、その遺児が李陵である。匈奴を相手に勇戦したが衆寡敵せず降伏し、さらに匈奴と内通したと誤解され、武帝の怒りを買い一族皆殺しとなり、李陵を唯一弁護した司馬遷は宮刑に処された。李陵は匈奴王・単于(ぜんう)に帰順し武勲を立て、単于の娘を娶って子を儲けた。李陵は後に、匈奴の捕虜となって辛酸をなめていた蘇武を援助した。</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/dollyellow/entry-12967545231.html</link>
<pubDate>Thu, 28 May 2026 11:01:18 +0900</pubDate>
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<title>御書に登場する故事・人物　中国編　第三十五回　前漢代　高祖に仕えた「漢王の四将」（下）陳平と周勃</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">御書に登場する故事・人物　中国編　</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">第三十五回　前漢代　高祖（劉邦）に仕えた「漢王の四将」（下）陳平と周勃</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　今回は陳平と周勃の故事を挙げる。</span></p><p>&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">（三）陳平(ちんぺい)</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　陳平（～前一七八年）は初め魏王および項羽に従い、のち劉邦（高祖）に仕えて漢の統一に功を立てた。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　司馬遷は陳平を「知謀の士」と評した。そのエピソードの一つを挙げる。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　前回に掲示した「鴻門の会」において、高祖を謀殺しようと計った者が、項羽から亜父と尊称された范増(はんぞう)である。そこで陳平は、離間策を用いた。</span></p><p align="center"><span style="color:#000000;">※</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　項羽の使者が滎陽を訪れた時、豪華な食事が出されたが、劉邦はいつわって驚いてみせ「私は亜父（范増）の使者だと思ったのに、項王（項羽）の使者だったのか」と語り、食事を持ち去り、使者に粗末な食事を食べさせた。使者はこのことを項羽に報告すると、項羽は范増が漢と内通していることを疑った。（Wikipedia「范増」略歴）</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　こうして陳平は范増と戦わずして排除した。〝知恵ある謀略〟の一例である。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　高祖は逝去の際、後事を恃む人物</span><a name="_Hlk212825877"><span style="color:#000000;">を言い残して崩御した。</span></a></p><p align="center"><span style="color:#000000;">※</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">「蕭何(しょうか)に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう……その次は王陵が良いだろうが、愚直すぎるので陳平を補佐とするとよい。だが陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">（Wikipedia「劉邦」晩年）</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　漢王朝が成立したとき、臣下最高位の〝相国〟は蕭何が就任した。高祖の死の二年後に蕭何も亡くなり、次は曹参が相国を任じた。恵帝六年、曹参が死去、相国に匹敵する者無しとして左右丞相制を敷き、王陵が右丞相（正宰相格）、陳平が左丞相（副宰相格）となった。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　ときに、第二代恵帝が若くして崩御した。葬儀の際に呂后は慟哭したものの、涙は流さなかったという。すると、張良の次子・張辟彊(ちょうへききょう)が左丞相の陳平に〝呂后が陳平らの存在を恐れている〟旨を伝え、対策を進言している。</span></p><p align="center"><span style="color:#000000;">※</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　紀元前188年に恵帝が崩御し、その葬儀に参列していたが、呂后（呂雉）がわが子の死にただ哭くだけで、涙を流さない理由について、当時、左丞相兼護軍中尉だった陳平に、</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">「呂后がわが子の死に涙を流さないのは、実家の呂氏一門で朝廷の実権を握れるかどうか懸念しているので気もそぞろなのです。ですから、この際は呂后の甥の呂産・呂禄、そして従孫（呂産の実兄の呂台の庶長子）の呂通ら呂氏一門を全て要職につかせれば、漢朝の安泰を考えると尤(もっと)もで、最善法だと私は思われます。さすれば呂后も安堵なされましょう…」</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　と、わずか15歳の少年とは思えないほどの意見を述べた。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　陳平も「それは君の父君の進言でもあるな」と笑いながら、張辟彊の聡明さに感嘆して、その事項を呂后に進言した。呂后は張辟彊の予想通り安堵し、やっとわが子の死に涙を流した。（『史記』呂太后本紀）</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">（Wikipedia張辟彊）</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　張良は門を閉ざし、家にこもっていたが、国の行く末を念頭から消し去ったわけではなかった。〝恵帝の葬儀に呂后が涙を流さなかった〟との朝廷の内事まで耳に入れている。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　張良には、人の機微を見ぬく目がある。時を遡れば、高祖が天下統一を成し遂げた直後のことである。</span></p><p align="center"><span style="color:#000000;">※</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　劉邦は功績が多大な家臣を先に褒賞し、後の者はそれから決めようとしていた。ところが広い庭のあちらこちらで、臣下らが数人集まって密談をしているところを目撃した。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　劉邦が張良に、あれは何を話しているのかと尋ねたところ、張良は「彼らは謀反を起こす相談をしているのです」と答えた。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　驚いた劉邦が理由を問うと、</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">「今までに褒賞された人は、蕭何や曹参など陛下の親しい者ばかりです。天下の土地全てでも彼ら全てに与えるだけはなく、彼らも忠義などではなく恩賞を求めて仕えてきたのです。彼らの中には嘗て我々と敵対した者、過去罪を犯した者、不手際を起こした者、様々な事情から陛下に嫌われている者など、後ろめたい事を抱えている者も多くございます。故に陛下に過去の罪を掘り返され、誅殺されるのではないかと恐れ、ならば謀反を起こそうかと密談しているのです」</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　と答えた。劉邦が策を問うと、張良は「功績はあるが陛下が一番憎んでおり、それを皆が知っているのは誰ですか」と聞いた。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　劉邦は「雍歯だ。昔に裏切られ大いに苦しませられ、殺したいほど憎い。それを知らぬものは天下広しといえど居ないだろう（だが功績があるから我慢している）」と答えた。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　張良は「ならば雍歯に先に恩賞を与えれば、皆は安心しましょう」と進言した。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　劉邦がそれを受けて宴会を開き、その場で「雍歯よ。その功績に報いるため、お前を什方侯に封じる」と恩賞を発表すると、皆は「あの雍歯ですら侯に封じられたのだから、自分は心配する必要もない」と安堵し、あちこちの密談はぴたりと止んだ。（『史記』「留侯世家」）</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">（Wikipedia「張良」天下統一後）</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　張良には呂后の心中くらい、手に取るように分かる。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　しかし、家にこもっているはずの張良みずから陳平の屋敷を訪ねれば、たちまち人の耳目を集めることとなる。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　張良と陳平――、ともに希代の智謀家であり、その二人が出会うなら〝さては示し合わせての謀議か〟と勘繰られてしまう。張良には長男がいたが、わざと出世前の次男を遣わしたのである。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　呂后は、陳平の建議を喜んで受け入れた。以降、呂后の専制が続き、陳平は面従腹背の姿勢を保ったが、右丞相の王陵は直言居士の性格を変えることはなかった。</span></p><p align="center"><span style="color:#000000;">※</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　呂后は自分の一族呂氏を王にしようとした。王陵にそのことを尋ねたところ、「高祖は『劉氏以外で王になるものがいたら天下皆でこの者を討て』と白馬を生贄にして盟を行いました。呂氏を王とするのはこの盟に背くものです」と堂々と答えた為、呂后は不機嫌になったが正論であるために怒る事ができなかった。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　同じことを陳平、周勃らに尋ねたところ、「高祖（劉邦）は天下を統一すると自分の子弟を王としました。今は皇太后（呂后）が天下を治めているのですから、呂氏の子弟を王として問題はありません」と答え、呂后を喜ばせた。（中略）</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　呂后は王陵を疎んじ、高后元年（紀元前187年）に王陵を太傅に祭り上げて宰相の実権を奪った。王陵は怒り、病気を理由に辞職して屋敷の門を閉じ、朝廷に出ることもなくなった。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">（Wikipedia「王陵」一部編集）</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　引退した王陵に替わり、陳平が右丞相に就いた。呂后の専制時代には面従腹背を貫いて粛清の嵐を避け、反攻の機を伺った。呂后の死を機に、謀計を以て呂氏一族から兵権を奪い、周勃とともにこれを討ち、文帝を推戴した。</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">（四）周勃(しゅうぼつ)</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　周勃（～前一六九年）は高祖（劉邦）に従い蜂起し、幾度となく武勲を立て、漢王朝成立後は数度に渡って反乱平定に尽力した。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　文帝の推戴とともに陳平が右丞相、周勃が左丞相に任ぜられたが、周勃は辞任した。これには興味深いエピソードがある。</span></p><p align="center"><span style="color:#000000;">※</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">（陳平が）呂氏粛清後に周勃と共に丞相になった際、文帝が周勃に「一年間に何回裁判が開かれているのか？」と尋ねると周勃は答えられなかった。文帝が「では一年間の国庫収支はどのくらいか？」と尋ねたが、周勃はそれにも答えられなかった。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　文帝が陳平に尋ね直すと、陳平は「裁判に関しては廷尉が、国庫収支については治粟内史(ちぞくないし)が居ります。この者たちを召しだしてご下問ください」と答えた。文帝が「専門の者が居るのはわかったが、ならば丞相とは何が専門なのか」と聞くと陳平は「丞相の役目は上は天子を補佐し、下は外敵に目を光らせ、諸侯を慰撫し、万民を手懐(てなず)け従わしめ、各々の役目を全うさせることです。局部的な区々たることに関わるのが役目ではございませぬ」と答えた。文帝は「よくわかった。見事な答えだ」と陳平を褒めた。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　後で周勃が陳平に「なぜ陛下が質問される前にああいう答え方を教えてくれなかったのか」と問い詰めると、陳平は「自分の役目を知らないのか。君はもし陛下が長安の盗賊の数を聞いてきたら、それにも答えたいというのか？　人間は全てを知る事は出来ない。だから専門家が居る。我々の専門とは先ほど陛下に申し上げた事だよ」と笑いながら言ったという。自分が陳平には到底及ばないと悟った周勃は丞相を辞任した。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">（Wikipedia「陳平」評価）</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　以後、陳平が単独で丞相を勤めた。しかし陳平没後、周勃が再び丞相となった。高祖（劉邦）が挙げた〝後事を恃む人物〟の最後が周勃であり、劉邦の死期の予言はすべて適中したのである。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　しかし、話はこれで終わり、とはならかった。文帝は諸侯に各自の封国へ赴くよう詔令を発布したのが事の始まりである。「丞相は朕が敬愛する人物である。率先して範を示すがよい」と命じられ、周勃は封国の絳(こう)国へ帰国した。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　上述の「令列侯之国（列侯を封国へ赴か令(し)む）」の詔は、合理性のあるものだった。列侯の多くは長安に居住しており、各自の封国に物資を輸送する費用は甚だしく、また封国を直接治めることができないため、地方の安定にも悪影響を及ぼしていた（Wikipedia「周勃」列侯の封国帰還問題）。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　しかし周勃にしてみれば、体よく丞相の職を免じられ、追いやられた形である。疑心暗鬼にかられた周勃は、河東郡守や尉が絳国に巡察に来る度、誅殺されることを恐れ、鎧を身に纏い、家来に武器を持たせて彼らと面会した。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　これで不可解に思われないはずがない。周勃が謀反を企てているという告発文が文帝に届き、投獄された。窮地に立たされた周勃を救ったのが、薄(はく)太后――、文帝の生母である。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　かつて周勃から金五千斤と一万戸の領地を贈られた薄昭(はくしょう)が、姉の薄太后に周勃の無実を訴えたのである。</span></p><p align="center"><span style="color:#000000;">※</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　薄昭と薄太后は周勃が無罪だと考えていたため、朝の挨拶に訪れた文帝に薄太后は頭巾を投げつけ、「絳侯（周勃）はかつて皇帝から賜った印璽を帯び、北軍を率いていた。その時に謀反を起こさなかった者が、小県に身を置いている今になってどうして謀反を起こすというのか」と叱りつけた。文帝が周勃の供述調書を目にすると、すぐに誤りを認めて謝罪し、周勃を釈放して爵位と封地を回復させた。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">（Wikipedia「周勃」晩年）</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　周勃は無事に封国へ戻り、晩年を送った。これで「漢王の四将」の行く末を見終わった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">御書本文</span></p><p><span style="color:#000000;">　例せば、漢王の四将の張良・樊噲・陳平・周勃の四人を、商山の四皓(しこう)、綺里季(きりき)・角里(ろくり)先生・園公・夏黄公等の四賢に比するがごとし。天地雲泥なり。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「曽谷入道殿許御書」新一三九八㌻、全一〇三一㌻）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">通解</span></p><p><span style="color:#000000;">　例えば、漢王の四将である張良・樊噲・陳平・周勃の四人を、商山の四皓(しこう)・綺里枳(きりき)（綺里季）、甪里(ろくり)先生、東園公、夏黄公等の四賢人に比べるようなものである。そこには天地雲泥の差がある。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">「漢王の四将」は、王朝の創始者とともに天下を創った。しかし人格となれば、聖者である法華経の四菩薩や、商山の四皓(しこう)と言われる君子に及ばず、天地雲泥と仰せである。</span></p><p><span style="color:#000000;">　闘争に明け暮れる六道の人生よりも、四聖（声聞・縁覚・菩薩・仏）の生命を求めるべき、と諭されている。</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/dollyellow/entry-12967392822.html</link>
<pubDate>Tue, 26 May 2026 20:39:50 +0900</pubDate>
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<title>御書に登場する故事・人物　中国編　第三十四回　前漢代　高祖に仕えた「漢王の四将」（上）張良と樊噲</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">御書に登場する故事・人物　中国編　</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">第三十四回　前漢代　高祖（劉邦）に仕えた「漢王の四将」（上）張良と樊噲</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　中国最初の統一王朝は始皇帝が創始した秦王朝であったが、始皇帝が死去した後、わずか三年で滅びた（紀元前二〇六年）。群雄割拠を経て、劉邦が垓下の戦いで項羽を討ち、中国を再統一した（紀元前二〇二年）。劉邦は皇帝に即位、漢王朝の祖（高祖）となる。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　漢の天下統一に寄与した最大の功臣を問われた時、高祖は三人の英傑の名を挙げた。張良(ちょうりょう)、蕭何(しょうか)、韓信(かんしん)である（「漢の三傑」）。</span></p><p><span style="color:#000000;">　しかし御書には高祖を支えた将帥として、張良・樊噲(はんかい)・陳平(ちんぺい)・周勃(しゅうぼつ)の四人を「漢王の四将」と仰せである。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">御書本文</span></p><p><span style="color:#000000;">　例せば、漢王の四将の張良・樊噲・陳平・周勃の四人を、商山の四皓(しこう)、綺里季(きりき)・角里(ろくり)先生・園公・夏黄公等の四賢に比するがごとし。天地雲泥なり。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「曽谷入道殿許御書」新一三九八㌻、全一〇三一㌻）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">通解</span></p><p><span style="color:#000000;">　例えば、漢王の四将である張良・樊噲・陳平・周勃の四人を、商山の四皓(しこう)・綺里枳(きりき)（綺里季）、甪里(ろくり)先生、東園公、夏黄公等の四賢人に比べるようなものである。そこには天地雲泥の差がある。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">語訳</span></p><p><span style="color:#000000;">張良(ちょうりょう)</span></p><p><span style="color:#000000;">（～前一六八年）。字(あざな)は子房。韓の人。韓が秦に滅ぼされると始皇帝を博狼沙(はくろうしゃ)（河南）に狙撃したが果すことができず、変名して隠れた。その間、下邳(かひ)で黄石(こうせき)老人に会い、太公望の兵法を授かったという。劉邦（漢の高祖）が挙兵するに及び帷幄(いあく)（陣営）に参画し、政治的、戦略的手腕を発揮し、遂に項羽を討って平定した。漢の統一後、留(りゅう)侯に封ぜられた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">樊噲(はんかい)</span></p><p><span style="color:#000000;">（～前一八九年）。沛(はい)（江蘇省沛県）の出身。史記巻九十五によると、低い身分の出身で、早くから沛公（漢の高祖・劉邦）に仕え、沛公の漢朝建国を助けた。とくに鴻門(こうもん)の会では、范増(はんぞう)の計略から沛公の危機を救っている。沛公が皇帝即位後も韓信、盧綰(ろわん)等の内乱を平定し、武功をあげて舞陽侯に封ぜられた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">陳平(ちんぺい)</span></p><p><span style="color:#000000;">（～前一七八年）。陽武（河南省）の人。はじめ項羽に従ったが、後に劉邦（漢の高祖）に仕えた。智略にたけており漢の建国に功績があった。恵帝の代に左丞相、恵帝崩御の後に右丞相となった。呂氏一族の乱を平定し、文帝を迎えた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">周勃(しゅうぼつ)</span></p><p><span style="color:#000000;">（～前一六九年）。沛(はい)（江蘇省沛県）の出身。漢の高祖・劉邦と同郷で、劉邦に従って兵を挙げ、秦を討って漢の建国に功績があった。将軍として高祖劉邦を助け、燕王臧荼(ぞうと)を討って絳(こう)侯に封ぜられ、韓王信らの乱を平定した。呂后死後は右丞相の陳平と謀り、呂氏一族の専横を斥(しりぞ)け、文帝に仕え共に丞相となった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">商山(しょうざん)の四皓(しこう)</span></p><p><span style="color:#000000;">　前回（第三十三回）に既出。</span></p><p><span style="color:#000000;">　中国秦代の末、国乱を避けて陝西(せんせい)省商山に入った隠士のこと。すなわち東園公(とうえんこう)、綺里季(きりき)、夏黄公(かこうこう)、甪里先生(ろくりせんせい)の四人。みな鬚眉皓白(しゅうびこうはく)の老人だったところからこの名がある。漢代の高祖が、性格の柔弱な盈(えい)太子を廃して、戚(せき)夫人の子・隠王如意を立てようとした。この時、盈太子の母・呂(りょ)皇后は高祖の功臣・張良と謀り、四皓を盈太子の補佐役とした。高祖はこの四人が高齢ながら威容を持つ商山の四君子であることを知り、盈太子の廃嫡の不可能なるを悟り、その決意を翻したという。この盈太子が高祖の没後に即位し、第二代恵帝となった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　今回は張良と樊噲の故事を挙げる。</span></p><p>&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">（一）張良(ちょうりょう)</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　劉邦が皇帝に即位した翌年の高祖六年（前二〇一年）、各臣下に漢王朝の爵位が授封された。当ブログにおいて紹介する者を抜粋すると以下の通り。（Wikipedia「前漢の功臣侯者の一覧」）</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">&nbsp; 位次　人物　&nbsp; &nbsp;爵位　　&nbsp; 戸数</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　&nbsp; 1　 蕭何　　酇侯&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;8,000&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　&nbsp; 2　 曹参　平陽侯&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 10,600&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　&nbsp; 4　 周勃　　絳侯&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;8,100&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　&nbsp; 5　 樊噲　舞陽侯&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;5,000&nbsp;&nbsp;</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　12&nbsp; &nbsp; &nbsp;王陵&nbsp;&nbsp;&nbsp; 安国侯&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;5,000&nbsp;&nbsp; &nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　47　 陳平　曲逆侯&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 5,000&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　62　 張良　　留侯&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 10,000&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　―&nbsp; &nbsp;&nbsp; &nbsp;韓信&nbsp; &nbsp; &nbsp;淮陰侯&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　張良（～前一六八年）は序列六十二位と低い。自身で兵卒を率いて戦に出ることが無かったからと思われる。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　論功行賞の際、張良は三万戸の領地を提示されたが、これを辞退して留(りゅう)の地を望み、留侯となった。それでも一万戸である。張良が留の地を望んだ理由――、〝そこが高祖と出会った場所だったから〟と。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　序列の低さにかかわらず、張良は戸数で群を抜いている。高祖の評価の表れと知れる。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　建国の大業が成って以降、張良は家に籠り、神仙を学んでいる。暇を持て余した〝世捨て人〟の趣向、と言っては身も蓋もないが、生来病気がちであった張良は、政治の世界に関わることなく、自己の世界に没入している。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　神仙の術といっても、仙人となって雲に乗れるわけでもない、現代に言う〝気功〟のたぐいである。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　建国の功臣の晩年にしては淋しい姿であるが、政治的には賢明な選択であったと言えよう。褒章が高いほど周囲の讒言により、主君の猜疑心の的となりやすい。「漢の三傑」に挙げられた韓信と蕭何が、その例に漏れない。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　韓信は、はじめ斉王となり、劉邦が即位したとき楚王となって得意絶頂であった。しかし翌年、劉邦の不興を買い、讒言もあって位次外の淮陰侯に降格された。この冷遇に耐えかね、謀反を企てたが露見し、斬られた。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　蕭何は、韓信が謀反を企てていると知り、韓信を誘い出して討った。この功により、臣下最高位の相国に任命された。しかし高祖より疑惑の目を向けられ、危険視されたが、何とか粛清を免れた。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　一方、門戸を閉ざした張良は人の妬みを買わず、粛清の嵐をも避けたのである。こうして世の交わりを断ち、静かな余生を送った張良であった。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　ちなみに「漢王の四将」（張良・樊噲・陳平・周勃）の没年を見ると、生まれつき多病であった張良が、他の三人を見送る結果となっている。留侯となってからの、摂生の賜物であったろうか。</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">（二）樊噲(はんかい)</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">　樊噲（～前一八九年）は高祖（劉邦）が微賤(びせん)のときより仕え、鴻門の会（※）で項羽から劉邦の身を救った剛勇の者である。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　しかし高祖は晩年、部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになる。韓信・彭越(ほうえつ)・英布(えいふ)等の外様の将帥は、その功によって諸国の王に封ぜられながら、劉邦にうとまれ滅ぼされた。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　樊噲は建国の大業が成ってのちも諸王の反乱鎮定に功があったが、讒言で罪を得て斬刑を言いわたされ、高祖の逝去によって危うく死罪を免れている。</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">（※）鴻門の会</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">『史記』樊噲伝が熱情を込めて語るのは「鴻門の会」事件の場面である。劉邦の将来を恐れた項羽(こうう)は酒宴に招いたその席で殺そうとした。宴の外で待機していた噲は、主君の危うきを察知するや剣と盾(たて)を帯びて衛兵を押しのけ闖入(ちんにゅう)、自ら項羽に直面して劉邦の二心なきを説く。その間に劉邦は厠(かわや)に行くと称して脱出できた。描写の最後に著者司馬遷(しばせん)は「噲が飛び込まなかったら劉邦は死んでいたろう」と記す。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">（日本大百科全書(ニッポニカ) 「樊噲」の意味・わかりやすい解説）</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left"><span style="color:#000000;">「鴻門の会」は、高祖の生涯で最大の危機であった。このとき張良・樊噲・陳平等の働きによって、劉邦は命を長らえた。彼等名臣が居なければ、劉邦の命運は尽き、漢王室の成立は無かったはずである。</span></p><p align="left"><span style="color:#000000;">　隠棲した張良に比べ、軍略にも政治にも長けた陳平は、三傑が去った後の漢王室を周勃と共に支えることとなる。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">御書本文</span></p><p><span style="color:#000000;">　これにつけても、いよいよ強盛に大信力をいだし給え。我が運命つきて、諸天守護なしとうらむることあるべからず。</span></p><p><span style="color:#000000;">　将門はつわものの名をとり、兵法の大事をきわめたり。されども王命にはまけぬ。はんかい(樊噲)・</span><a name="_Hlk212476914"><span style="color:#000000;">ちょうりょう</span></a><span style="color:#000000;">(張良)もよしなし。</span></p><p><span style="color:#000000;">　ただ心こそ大切なれ。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「四条金吾殿御返事（法華経兵法の事）」新一六二三㌻、全一一九二㌻）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">通解</span></p><p><span style="color:#000000;">　これにつけても、いよいよ妙法に対して強盛な大信力を出していきなさい。自分の福運が尽きて、諸天善神の守護がないと恨むようなことがあってはいけない。</span></p><p><span style="color:#000000;">　平将門は、武将としての名を高め、兵法の大事をきわめていたが、朝廷の命令には負けてしまった。樊噲や張良のような中国の武将の力も結局かいがなかった。ただ根本は心が大切なのである。</span></p><p><span style="color:#000000;">　</span></p><p><span style="color:#000000;">講義</span></p><p><span style="color:#000000;">　樊噲(はんかい)は漢王朝創業にあたって、その卓抜した武力により、張良(ちょうりょう)はその智謀によって、劉邦を助けた功労者である。だが、いずれも、晩年は劉邦からも疎(うと)んぜられ、寂しく惨めであった。</span></p><p><span style="color:#000000;">　もちろん、これらの人々が悪人であったとか、道義的破綻(はたん)者であったとかというのではない。（中略）樊噲、張良の場合は、それぞれ戦争についての武力・智謀という力をもっていたが、それだけにとどまっていたことが、人生の敗北の因であったのである。　</span></p><p><span style="color:#000000;">　したがって、ここで「心こそ大切なれ」とおっしゃっている〝心〟とは、主君に叛(そむ)かず従順に仕える心という意味ではなく、もっと大きく、深いものをさしていわれていることが知られる。もし、単に従順さ、忠誠等ととるなら、この文に引かれている樊噲・張良は叛逆者でなければならないはずであり、（中略）それは余りにも事実に反することだからである。（中略）</span></p><p><span style="color:#000000;">　樊噲は武力、張良は智謀をもって劉邦を助けた。劉邦にしてみれば、天下をとるまでの段階においては、きわめて貴重な部下であったが、王朝をつくったあとは、もはや無用であり、かえって邪魔になってしまった。それは、二人が特殊な分野にのみすぐれた、いわば部分的存在であったことによる。このことから、われわれが学びうるのは、権力者というものの身勝手さということはさることながら、自身を全人格的に完成していくことが人生の限りない栄光の鍵であるという点であろう。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「四条金吾殿御返事（法華経兵法事）」第二章　強靭な信心を勧める）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">〈ブログ管理人より〉</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　上掲の講義に、次下の文言がある。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">「樊噲(はんかい)は漢王朝創業にあたって、その卓抜した武力により、張良(ちょうりょう)はその智謀によって、劉邦を助けた功労者である。だが、いずれも、晩年は劉邦からも疎(うと)んぜられ、寂しく惨めであった」</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　樊噲については、いかにもその通りである。しかし〝張良が劉邦から疎んぜられた〟との歴史的資料は見当たらない。</span></p><p><span style="color:#000000;">　先述した通り、張良は建国後、病気と称して家にこもり、表舞台から姿を消している。健康が勝れなかったことは一方の理由であるが、己を知っていたこと、〝自分の役割は終わった〟と自覚していたからに他ならない。</span></p><p><span style="color:#000000;">　講義が御書の趣旨に即した話となるのは無理からぬが、歴史的事実を無視するわけにはいかない。</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/dollyellow/entry-12967132166.html</link>
<pubDate>Sun, 24 May 2026 10:22:14 +0900</pubDate>
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<title>御書に登場する故事・人物　中国編　第三十三回　前漢代　漢の太子を補佐した商山の四皓(しこう)</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">御書に登場する故事・人物　中国編　</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">第三十三回　前漢代　漢の太子を補佐した商山の四皓(しこう)&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　はじめ戚姫(せきき)が帝（漢の高祖）に寵愛され、趙王如意(じょい)を生んだ。したがって正妻の呂后(りょこう)はうとんぜられ、彼女の生んだ太子（後の孝恵帝）は慈悲深かったが弱々しい体をしていた。帝は如意の気性が自分に似ていたので、太子を廃して如意を立てようとした。群臣がそのことで帝を諫めたが、みな聞き入れられなかった。</span></p><p><span style="color:#000000;">　呂后はそこで張良のところへ人をつかわして、何か良い策はないものかと無理やり頼みこんだ。すると張良が答えた。</span></p><p><span style="color:#000000;">「これは口や舌で説きまくっても勝ち目がありません。思いますに帝が招き寄せようとして、しかも仕えようとはしなかった者が四人おります。東園公(とうえんこう)、綺里季(きりき)、夏黄公(かこうこう)、甪里先生(ろくりせんせい)で、彼らは帝が士を軽蔑していたので、山中（商洛山）に隠遁し義のうえから漢の家臣になろうとしなかった者たちです。帝はこの四人を高潔な人物であると尊敬しております。今、太子が自分で手紙を書かれ、言葉をていねいにして安車（乗りごこちのよい車）をそろえて、ぜひおいで下さいと招いたならば、彼らはおそらく来るでしょう。もし、来たならば客人としてもてなし、ときおり太子が彼らを従えて朝廷に出かけて帝の目にとまるようにすれば、ご心配のことに対する一助となるでしょう」</span></p><p><span style="color:#000000;">　呂后はさっそく人をつかわして太子の手紙をささげ、四人を招いた。一方、帝は黥布(げいふ)を征伐して帰るや、いよいよ太子をかえようと思っていた。</span></p><p><span style="color:#000000;">　その後、宮中での酒宴のとき、太子も帝のそばにいたのだったが、張良の招いたかの四人も太子のうしろに従っていた。年はみな八十歳あまりで、鬚も眉もまっしろ（皓白(こうはく)）で、衣冠をつけた姿は、はなはだ立派であった。帝は不思議に思って彼らのことをたずねた。すると四人は前に進み出て、名前を述べた。帝はたいへん驚いて言った。</span></p><p><span style="color:#000000;">「私は貴公らを招こうとして数年になるが、貴公らは私から逃げて山中に隠れてしまった。それなのに、今どうして私の子に従っておられるのか」</span></p><p><span style="color:#000000;">　四人がそろって言った。</span></p><p><span style="color:#000000;">「陛下は士を軽蔑して、しばしば罵倒しておられました。私たちは義を尊び、陛下から恥ずかしめをうけてまで仕えようとは思わなかったのです。今、太子は慈悲の心も深く、孝行の心も厚く、礼儀正しく敬愛の心を持ち、よく士を愛されます。天下の人々は太子のために死のうと願わないものはないと聞いております。ゆえに私たちは太子のおそばにやって来たのです」</span></p><p><span style="color:#000000;">　帝は言うのだった。</span></p><p><span style="color:#000000;">「貴公たちのお力をわずらわすことにいたそう。どうかいつまでも、私の太子を守って下され」</span></p><p><span style="color:#000000;">　四人が退座すると、帝は戚(せき)夫人を呼んで、彼らを指さしながら言った。</span></p><p><span style="color:#000000;">「私は太子をかえようと思っていたが、あの四人の者が太子を補佐しようとしている。すでに羽や翼ができあがった鳥のようなもので、今さらどうしようもない。あきらめてくれ……」と。　　</span></p><p align="right"><span style="color:#000000;">（「十八史略」巻二・西漢）</span></p><p><span style="color:#000000;">（｢仏教説話と故事　中国・日本編｣　創価学会教学部編　聖教新聞社刊　昭和48年10月12日発行）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">御書本文</span></p><p><span style="color:#000000;">　この千世界の大菩薩の中に四人の大聖まします。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行なり。この四人は虚空・霊山の諸大菩薩等、眼もあわせ、心もおよばず。……太公等の四聖の衆中にありしににたり。商山(しょうざん)の四皓(しこう)が恵帝に仕えしにことならず。巍々(ぎぎ)堂々として尊高なり。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「開目抄」新八四㌻、全二一一㌻）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">通解</span></p><p><span style="color:#000000;">　この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がましました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられる。この四人は虚空会(こくうえ)および霊山会(りょうぜんえ)に来集している諸菩薩等が、眼をあわせることも心のおよぶこともなかった。（中略）太公望等の四聖が大衆の中にいるごとく、商山(しょうざん)の四人の君子が漢の恵帝に仕えたのと異ならない。じつにぎぎ堂々として尊高であった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">語訳</span></p><p><span style="color:#000000;">商山(しょうざん)の四皓(しこう)</span></p><p><span style="color:#000000;">　中国秦代の末、国乱を避けて陝西(せんせい)省商山に入った隠士のこと。すなわち東園公(とうえんこう)、綺里季(きりき)、夏黄公(かこうこう)、甪里先生(ろくりせんせい)の四人。みな鬚眉皓白(しゅうびこうはく)の老人だったところからこの名がある。漢代の高祖が、性格の柔弱な盈(えい)太子を廃して、戚(せき)夫人の子・隠王如意(じょい)</span><span style="color:#000000;">を立てようとした。この時、盈太子の母・呂(りょ)皇后は高祖の功臣・張良と謀り、四皓を盈太子の補佐役とした。高祖はこの四人が高齢ながら威容を持つ商山の四君子であることを知り、盈太子の廃嫡の不可能なるを悟り、その決意を翻したという。この盈太子が高祖の没後に即位し、第二代恵帝となった。</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/dollyellow/entry-12967031097.html</link>
<pubDate>Sat, 23 May 2026 09:55:38 +0900</pubDate>
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<title>御書に登場する故事・人物　中国編　第三十二回　前漢代　わが子の漢王への忠誠を願い自害した王陵の母</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">御書に登場する故事・人物　中国編　</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">第三十二回　前漢代　わが子の漢王への忠誠を願い自害した王陵の母&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　王陵(おうりょう)の母とは、漢の丞相（大臣）安国侯王陵の母のことである。王陵ははじめ県の豪族であった。漢の高祖はまだ王ではなかったころには彼を兄のように頼っていたものだった。やがて高祖が沛(はい)の地で兵を起こしたとき、王陵もまた郎党数千人を集め、その兵を率いて漢王のもとに加わったのだった。項羽は漢とは敵同士になっていたが、王陵の母を捕えることができたので軍中においた。</span></p><p><span style="color:#000000;">　すると王陵の使いがやって来た。そこで項羽は東向きに王陵の母を坐らせ、いかにも大切にもてなしているかのように思わせて、王陵を味方に招き入れようとした。だが、母はひそかに王陵のもとへ送る使者に、涙ながらに言ったのであった。</span></p><p><span style="color:#000000;">「この老母のために王陵に伝えて下され。よく漢王に仕えなさいと。漢王は高徳の人でいらっしゃる。この老母のために二心をいだくようなことがあってはなりません。私はすでに死んでしまったと言うのですよ」</span></p><p><span style="color:#000000;">　そして剣で自害をはかり、死んで</span><a name="_Hlk212882256"><span style="color:#000000;">王陵</span></a><span style="color:#000000;">の忠誠をすすめたのだった。項羽は怒ると王陵の母の死屍(しかばね)を釜ゆでにした。母のその心に感じて王陵の忠誠の志はますます強まり、ついに高祖とともに天下を治め、その位は丞相に至り安国侯に任ぜられたのだった。さらに爵位を子孫に伝えること五代におよんだ。</span></p><p><span style="color:#000000;">　そこで、ある君子が言った。</span></p><p><span style="color:#000000;">「王陵の母は、よく身を棄てて忠義を立て、その子を大成に導いた」と。</span></p><p align="right"><span style="color:#000000;">　（「古列女伝」巻之八・続列女伝）</span></p><p><span style="color:#000000;">（｢仏教説話と故事　中国・日本編｣　創価学会教学部編　聖教新聞社刊　昭和48年10月12日発行）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">御書本文</span></p><p><span style="color:#000000;">　心なき畜生すら、子のわかれしのびがたし。……いかにいおうや、心あらん人においてをや。されば、王陵(おうりょう)が母は子のためになずき(頭脳)をくだき、神尭(しんぎょう)皇帝の后は胎内の太子の御ために腹をやぶらせ給いき。これらをおもいつづけさせ給わんには「火にも入り、頭をもわりて、我が子の形をみるべきならばおしからず」とこそおぼすらめとおもいやられて、なみだもとどまらず。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「光日房御書」新一二五二㌻、全九二九㌻）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">通解</span></p><p><span style="color:#000000;">　心ない畜生でさえも子との別れには堪え難いものである。（中略）ましてや心ある人間においてはなおさらのことである。それゆえ漢の王陵の母は、子のために頭を砕いて死に、唐の神尭皇帝の后は、胎内の太子のために腹を破った。これらのことを思い続けていったならば、たとえ火の中に入ろうとも、頭をも割ってもわが子の姿を見ることができるならば、惜しくはないと思われることであろうと、その心中が察せられて涙がとまらない。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">語訳</span></p><p><span style="color:#000000;">王陵(おうりょう)が母</span></p><p><span style="color:#000000;">　漢の沛(はい)の人。王陵ははじめ県の豪族であったが、漢の高祖に従って項羽と戦った。項羽は王陵の母を捕えて母子の情に訴えて王陵を味方にしようとしたが、母は密かに使者を出して、王陵に漢王への忠節を尽くすことを訴え、自害して果てた。のちに王陵は高官に昇進し、安国公に封ぜられ右丞相となった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">神尭(しんぎょう)皇帝の后(きさき)</span></p><p><span style="color:#000000;">　神尭皇帝とは唐の高祖李淵(りえん)のこと。その皇后で、竇(とう)皇后をいう。謚(おくりな)は太穆順聖(たいぼくじゅんせい)皇后。才色兼備の后で、文と画に巧みであったといわれる。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">講義</span></p><p><span style="color:#000000;">　別れのうちで、最も辛い別れは親子の別れである。それは親の子を思う情が実に深いからであるといえよう。老いたる親が先立つのが世の習いである。だが、子が先立つことこそ、不幸のなかの不幸であり、親にとって嘆いても嘆ききれない。</span></p><p><span style="color:#000000;">　この章は、幾多の故事を挙げて、弥四郎に先立たれた尼御前を哀悼(あいとう)された段であり、夫もすでに亡く、老後の頼りとする子に先立たれて、ただ一人のこされた尼御前の心情を透徹して理解され、逆境の尼御前に希望を与えようとなされた大聖人の大慈大悲をよくよく理解すべきである。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「光日房御書」第六章　光日房の心情を汲む）</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/dollyellow/entry-12966928695.html</link>
<pubDate>Fri, 22 May 2026 09:14:01 +0900</pubDate>
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<title>御書に登場する故事・人物　中国編　第三十一回　漢王朝　はかりごとを帷帳の中でめぐらした張良</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">御書に登場する故事・人物　中国編　</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="color:#000000;">第三十一回　漢王朝　はかりごとを帷帳(いちょう)の中でめぐらした張良</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　前漢の張良(ちょうりょう)は、字(あざな)は子房(しぼう)といい、その先祖は韓の人である。かつて下邳(かひ)というところの、ある橋のほとりで遊んでいると、うすぎたない道士</span><span style="color:#000000;">の衣服を着た一人の老人が張良のところにやって来て、わざわざ、その履(くつ)を橋の下に落としてから、言うのだった。</span></p><p><span style="color:#000000;">「若いの、下へ行って履を取ってきな」</span></p><p><span style="color:#000000;">　張良はびっくりして、このオイボレめ殴ってくれようかと思ったが、まあ老人のことだからと考えなおして、どうにか忍んで、おりて行き履をとってあげた。そしてひざまずいてそれを足のところへ持って行ってやると、老人は足でうけとって、サッサとはいて、笑いながら去って行った。</span></p><p><span style="color:#000000;">　と、思ったら、またやって来た。</span></p><p><span style="color:#000000;">「若いの、教授してやるから、五日後の夜明けごろ、わしとここで会うことにしよう」</span></p><p><span style="color:#000000;">　と言うのだった。張良はひざまずいて、</span></p><p><span style="color:#000000;">「はい」</span></p><p><span style="color:#000000;">　と言った。</span></p><p><span style="color:#000000;">　さて約束のときに行ってみると、老人はさきに来ていた。そしてぷりぷり怒りながら、</span></p><p><span style="color:#000000;">「老人と約束して、遅れてくるとは何事じゃ。</span><a name="_Hlk212452021"><span style="color:#000000;">去れ。五日後の早朝に来い」</span></a></p><p><span style="color:#000000;">　と言うのだった。かくて五日後、鶏(にわとり)が鳴くのと同時に行ってみると、また老人のほうがさきに来ていた。またぷりぷりして、</span></p><p><span style="color:#000000;">「去れ。五日後の早朝に来い」</span></p><p><span style="color:#000000;">　と言った。かくて五日目、張良は夜半に約束のところへ行くと、しばらくしてから、老人がまたやって来た。そして今度はニコニコと喜び顔で言うのだった。</span></p><p><span style="color:#000000;">「こうでなくちゃいかんのだ」</span></p><p><span style="color:#000000;">　それから一編の書物を出して、</span></p><p><span style="color:#000000;">「これを読めば王者の師匠になるであろう。十年後には興隆するであろうし、十三年したら、若者よ、わしを済北(さいほく)の穀城山(こくじょうさん)のふもとで見るがよい。そこにある黄色の石が、すなわちわしじゃと思っての……」</span></p><p><span style="color:#000000;">　と言って、いずこにか去って、ついに姿を見せなくなった。</span></p><p><span style="color:#000000;">　翌日、その書を見ると、太公望の兵法の書物であった。張良はこれを不思議なことだと考えて、つねに声をあげて習い読むのだった。</span></p><p><span style="color:#000000;">　その後（十三年たって）張良は漢の高祖（劉邦）に従って済北の地を通ったときに、はたして黄石(おうせき)を見出すことができた。そこでその石を持ち帰って宝として祀った。さらに張良が死ぬにおよんでは、これを一緒に塚へ葬ったのである。</span></p><p><span style="color:#000000;">　張良はしばしば兵法を高祖に説いたが、そのときには、つねに太公望の兵法書の策をもちいた。これまで高祖以外の人に説いたときには誰もこれをかえりみようとはしなかったので、張良は、</span></p><p><span style="color:#000000;">（天から授かった君主である）</span></p><p><span style="color:#000000;">　と思って、最後までつき従って去らなかったのである。</span></p><p><span style="color:#000000;">　だが張良は多病であったから、いまだかつて、一人、兵を率いる武将とはならなかった。いつも戦いの策略を企てる家臣であったのだった。功臣に禄を与えるにおよんで、張良には、いまだかつて戦闘の功績がなかった。しかし、高祖は言った。</span></p><p><span style="color:#000000;">「はかりごとを帷帳(いちょう)（陣営）の中でめぐらして、勝利を千里の外に決したのは張良の功績である」</span></p><p><span style="color:#000000;">　と。すなわち禄を与えて留侯(りゅうこう)に任じたのであった。　</span></p><p align="right"><span style="color:#000000;">（「蒙求」巻之下・子房取履）</span></p><p><span style="color:#000000;">（｢仏教説話と故事　中国・日本編｣　創価学会教学部編　聖教新聞社刊　昭和48年10月12日発行）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">（参考）黄石老人が張良に教えたことの意味</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">　北宋の詩人蘇軾は『留侯論』で、黄石公が張良に教えたのは小事を耐え忍んで大事を為すことで、これにより項羽相手の劣勢の戦でも耐えて相手が疲弊するのを待つことができたし、韓信が自ら斉王になることを求めたとき、激怒する劉邦に猶も耐え忍ぶことを説いたのも張良以外に誰ができただろうかと述べている。</span></p><p><span style="color:#000000;">（Wikipedia「張良」）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">御書本文</span></p><p><span style="color:#000000;">　方今、世はことごとく関東に帰し、人は皆土風を貴ぶ。なかんずく日蓮、生をこの土に得て、あに吾が国を思わざらんや。よって立正安国論を造って、故最明寺入道殿の御時、宿屋入道をもって見参に入れ畢(お)わんぬ。</span></p><p><span style="color:#000000;">　しかるに、近年の間、多日のほど、犬戎(けんじゅう)は浪を乱し、夷敵(いてき)は国を伺う。先年勘(かんが)え申すところ、近日符合せしむるものなり。彼の太公が殷(いん)の国に入りしは、西伯の礼による。張良が秦朝を量りしは、漢王の誠を感ずればなり。これ皆、時に当たって賞を得たり。謀(はかりごと)を帷帳(いちょう)の中に回(めぐ)らし、勝つことを千里の外に決せしものなり。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「一昨日御書」新八七三㌻、全一八三㌻）</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">通解</span></p><p><span style="color:#000000;">　今、世はことごとく関東に帰し、人々は皆、土地の気風を貴んでいる。とりわけ日蓮はこの国に生を受けて、どうして我が国のことを思わないでいられようか。そのために立正安国論を述作して、故最明寺入道殿（北条時頼）に、宿屋入道を通して見参に入れたのである。</span></p><p><span style="color:#000000;">　しかるに近年の間、しばしば西戎蒙古国は牒状を届けて、我が国を窺(うかが)っている。先年（文応元年）に勘(かんが)え提出した立正安国論の予言と全く符合したのである。</span></p><p><span style="color:#000000;">　かの太公望が殷(いん)の国に攻め入ったのは、西伯が礼をもって迎えたからであり、張良が謀(はかりごと)をめぐらして秦の国を亡ぼしたのは、漢の高祖の誠意に感じたからである。これらの人は皆、その当時にあって、賞を得ている。謀を帷帳(いちょう)</span><span style="color:#000000;">の中に回(めぐ)らし、千里の外に勝利を決した者である。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">語訳</span></p><p><span style="color:#000000;">人は皆土風を貴ぶ</span></p><p><span style="color:#000000;">「土風(どふう)」とは、その土地の風俗・風習・気風の意。ただし旧『御書全集』にはこの箇所が「士風(しふう)」となっており、当時の『御書講義録』の通解も「人々は皆、武士の風(ふう)を貴んでいる」と記していた。しかし『御書　新版』では「土風」としてあるゆえ、通解も「人々は皆、土地の気風を貴んでいる」と直した。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">太公</span></p><p><span style="color:#000000;">　太公望のこと。周代の斉(せい)国の始祖。姓は姜(よう)、氏は呂(りょ)、名は尚(しょう)。渭水(いすい)で釣りをしていて周の西伯(せいはく)（後の文王）に会い、請われてその師となる。文王の祖父太公が周に必要な人材として待ち望んでいた人という意味で、のちに太公望と称された。文王の死後、武王（文王の子）を助け、殷の紂王を滅ぼして斉(せい)国に封ぜられた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">西伯(せいはく)</span></p><p><span style="color:#000000;">　周の文王のこと。中国周王朝の基礎をつくった君主。理想の名君とされている。姓は姫(き)、名は昌。太公望をはじめ多くの名臣を集め、周囲の諸族を征服して都を鄷（鄷邑(ほうゆう)）と定めた。生前は殷王朝に反旗をひるがえさなかったが、勢力は強大で、中国西部の支配をまかされて西伯と呼ばれた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">張良(ちょうりょう)</span></p><p><span style="color:#000000;">（～前一六八年）。中国・前漢代の建国の功臣。字(あざな)は子房。韓の出身。韓を滅ぼした秦の始皇帝を恨み、刺客を集めて始皇帝を殺そうとしたが果たせず、下邳(かひ)に隠れた。そこで黄石(こうせき)老人から兵法を学んだといわれ、劉邦（漢の高祖）の挙兵に呼応して軍師となって活躍した。後、秦を滅ぼし、鴻門(こうもん)の会において劉邦の危機を救い、漢の建国に貢献した。漢朝成立後は留侯(りゅうこう)に任ぜられた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">講義</span></p><p><span style="color:#000000;">　大聖人は、中国の故事を引かれて、蒙古襲来に勝利する道を示唆されている。</span></p><p><span style="color:#000000;">　周の文王の師となった太公望呂尚(りょしょう)は、文王なきあと、文王の子・武王をその智謀で助けて、暴虐な殷の紂王(ちゅうおう)を倒している。それは、西伯（文王）が呂尚を師として礼を尽くした徳によるのである、と仰せられている。</span></p><p><span style="color:#000000;">　また、漢の高祖・劉邦の軍師となった張良は、秦王朝を滅ぼして、漢の建国に貢献している。それは、劉邦の誠実に感じたからである、とされている。</span></p><p><span style="color:#000000;">　大聖人は、この二人を、「謀(はかりごと)を帷帳(いちょう)の中に回(めぐ)らし、勝つことを千里の外に決せしものなり」と、史記の高祖本紀</span><span style="color:#000000;">の意をとって称賛されている。呂尚も張良も、その智謀によって、作戦の段階で必勝の策を立て、戦わないうちから千里の外の勝利を決した、といわれているのである。（中略）</span></p><p><span style="color:#000000;">　蒙古の襲来に必ず勝利する法は、邪法への帰依を止めて、正法を立て、大聖人に帰することであるが、そのためには、西伯が太公望を、劉邦が張良を厚く遇したように、鎌倉幕府は大聖人を遇するべきであると言われているのである。</span></p><p><span style="color:#000000;">（「一昨日御書」第一章　立正安国論の予言の的中を挙げる）</span></p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Wed, 20 May 2026 09:10:56 +0900</pubDate>
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