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<title>dorabidaのブログ</title>
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<description>記紀で隠された古代日本の真実を暴く!!</description>
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<title>徐福は和国の王になるため出雲王をテロ暗殺</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3"><strong>■徐福集団渡来</strong></font></p><p><font size="3"><strong>紀元前２１９年頃に出雲王国に徐福集団が渡来してきた<font color="#ff0000">。●石見の海岸（五十猛海岸）</font>に見たことがない数十隻の大船団だった。秦国から来た渡来集団は千数百人にのぼった大渡来集団だった。アリの隊列のように次々と上陸した。秦から来た彼らは、高級機織りの技術を持っていたので秦（ハタ）族と呼ばれた。その当時の出雲王国のオオナモチ（主王）は、西出雲王国・神門臣家の第八代出雲国王の大国主であった。またスクナヒコ（副王）は東出雲王国・富家の事代主であった。徐福は出雲王国では、和国風の名前としてホアカリ（火明）の名前を使った<font color="#ff0000">。●大屋の地</font>に屋形を構えていたが、大国主の娘・高照姫を奥方として迎えたい、と希望した。神門臣家と親しくなっていた<br>渡来系の通訳が、その旨を伝えた。大国主はそれに応じることを決められ、高照姫は大屋の屋形に輿入れした。</strong></font></p><p><font size="3"><strong><br></strong></font></p><p><font size="3"><strong>■大国主の后・八上（やがみ）姫</strong></font></p><p><font size="3"><strong>大国主は稲葉（因幡）国からも八上（やがみ）姫后を迎えた。その出身地（鳥取県河原町曳田）には、延喜式内社で八上（やがみ）姫神社と呼ばれたことのある<font color="#ff0000">●売沼（めぬま）神社</font>が鎮座し、八上（やがみ）姫命を祭神としている。八上（やがみ）姫は、豪族・曳田家の娘だった。社の南方に古墳があるが、被葬者は曳田家の人だと言われる。その一族は豪族として永く栄えたものと思われる。島根県斐川郡斐川町の<font color="#ff0000">●「湯の川温泉</font>」では、八上（やがみ）姫が、ここの湯に入ったと伝えられ、それで「美人の湯」の名前がついたと言う。斐川町直江には<font color="#ff0000">、●御井神社</font>が鎮座していて、祭神は八上（やがみ）姫がお生みになった木俣（きまた）姫（下照したてる姫）となっている。その姫は、「安産の守り神」として崇拝されている。社の西方には、彼女が産湯に使ったとて言われる井戸がある。下照（したてる）姫は、伯耆国のタテハヅチの嫁になった。伯耆一宮の倭文（しとり）神社（鳥取県湯梨浜町宮内）には、この夫婦神が祭られた。社の名は下照（したてる）姫が人々に、倭文（しとり）織りを教えたことに依る。</strong></font></p><p><br><font size="3"><strong>■出雲両国王同時暗殺テロ事件</strong></font></p><p><font size="3"><strong>その後に出雲では徐福が出雲王国内を震撼させる事件、を起こしたため直接、徐福にまつわる遺跡等は、残されていない。仮にあったとしても、そんな縁起の悪いものは壊され、撤去されているはずだ。ただ徐福が高照姫との間に生まれた、五十猛に因むものは、残っている。まず徐福集団が上陸した海岸は<font color="#ff0000">●五十猛海岸</font>になっている。近くに<font color="#ff0000">●五十猛神社</font>もある。出雲空港に北方には、徐福と一緒に来た海童集団が住みついて、今でも海童として来日たことを伝えている<font color="#ff0000">●海童神社</font>がある。徐福は大国主の娘・高照姫を妻にもらっておきながら、とんでもない事件を起こす。出雲両国王の同時暗殺テロだった。徐福は和国の王になるため、始皇帝を騙して出雲王国にやってきた。和国の王になるためには、大国主の代わりに自分がなるのが手っ取り早いと考えた。その事件の現場</strong></font></p><p><br><font size="3"><strong>■粟嶋神社　非業の事件現場</strong></font></p><p><font size="3"><strong>の一つが<font color="#ff0000">●粟嶋神社</font>である。粟嶋神社は現在、陸続きであるが、当時は島だった。江戸時代末期に埋め立てられ陸続きになった。東出雲王国・富家の事代主は<font color="#ff0000">●王ノ海（中海）</font>をわたり、島根半島の東端に住まわれたの妃のヌナカワ姫の館に行った。そこには越後の糸魚川から来た、ヌナカワ姫が住んでいた。そこへ○○が諸手舟でやって来た<font color="#ff0000">。●「園の長浜（出雲市西園町）</font>で八千矛（大国主）様が行方不明になったから、事代主様も来て探して下さい」と言って、事代主を舟に乗せた。舟は弓ケ浜の粟島（米子市彦名町）に着いた。すると海童（かいどう）たちが現れ、舟を取り囲んだ。海童というのは、徐福がシャントン半島から連れてきた少年たちを言う。捕らわれた事代主は<br>、粟島の裏の洞窟に幽閉された。八千矛（大国主）王も<font color="#ff0000">●猪目洞窟</font>に幽閉された。後日、事代主の遺体は粟島の洞窟で見つかった。死因は餓死と、判定された。その遺体は<font color="#ff0000">●熊野山（松江市八雲町）</font>に埋葬された。その後、島全体が神社になり、事代主の御霊をまつっている。鳥居の近くに万葉集の３５５番・生石村主（いずしすぐり）作の歌の石碑がある。それには「大汝（おおあなもち）　少名彦の　いましけむ　志都の岩屋は幾代経ぬらむ」その歌は、大国主と事代主がそれぞれ岩屋に居られたことを伝えている。この「黄泉（よみ）の岩屋」の話は奈良の都にも聞こえて、出雲は「黄泉（よみ）の国」だと言われるようになり、「記紀」にも書かれた。奈良時代までは、都の貴族も出雲王国の大国主と事代主のことを覚えていてよく語られていた。しかし日本書紀が出て、講義されるようになると、出雲王国のことは人々は話さなくなった。かれらが徐福の指示により、非業の死を遂げたことも知っていた。そして都の貴族たちの中には、海部王朝や物部王朝の子孫が多かった。かれらは大国主と事代主の怨霊を恐れていた。また当時の都の政府関係者は、物部勢力が出雲王朝を滅ぼしことを覚えていたので、旧出雲王国の神霊を恐れていた。尚、古事記では、この事件のことを「スサノオが天照大神(出雲の太陽の女神)の耕作田の畔(畔)をこわし、用水溝を埋め、新米のご飯を供えた神殿に排泄物を、まき散らした」という例え話で暗示している。また古事記では、事代主の枯死事件は、事代主の入水（自死）に書き変えられた。さらに王子・タテミナカタ・建御名方のことは悪意を持って書かれた。この粟嶋神社は出雲王国の非業を、象徴する場所である。丘の急な階段を昇ると、頂上に社がある。祭神は少名彦・事代主である。頂上の後ろからの眺めがすばらしい。古代の数々の歴史を秘めた王の海（中海）が一望のもとに見える。紀元前２２０<br>年ごろイズモ王国の少名彦スクナヒコであった事代主が越前の糸魚川の方からヌナカワ姫を后として迎えられ、ヌナカワ姫は島根半島の東端に住まわれた。</strong></font></p><p><font size="3"><strong><br></strong></font></p><p><font size="3"><strong>■美保神社</strong></font></p><p><font size="3"><strong>事代主が不慮の死に遭い、ヌナカワ姫は故郷の越前に帰られること決断された。娘のミホススミ姫は、その地に留まり亡き父・事代主（通称、エビスさん）の御霊を祠をつくり祀った。その後、紀元３世紀にミホススミ姫の住居跡に建てられのが<font color="#ff0000">●美保神社</font>である。拝殿から見て左の屋根の下には、事代主命をまつった。本殿右側にはミホススミ姫を、三穂津姫命の名前でまつった。また千木も縦削ぎと横削ぎが併存しているが、それは先住イズモ族と渡来系（九州・物部氏系）が恩讐を乗り越えて、仲良くしようとの意味が込められている。「記紀」が先住系を国ツ神とし、渡来系の神を天ツ神と呼ぶのは差別であるので、そのような表現は慎むべきである。この社殿の形には、過去に苦い対立と抗争があった先住系、渡来系社会の未来に向かう新しい決を表している。本殿前の拝殿には、妻入りの大屋根がある。その前に、比翼（ひよく）造りと呼ばれる小屋根がある。これは包容力のある心で、未来のイズモを築いていこうという理想を示している。拝殿の柱列はギリシャのパルテノン神殿を連想させる。また拝殿の側面は、なんと解放的なことか。どこからでも人々が入れる。先住系の人でも、渡来系の人でも隔てなく、受け入れている。これ以上に民族的に平等で、どこの人でも受け入れる形を示した神社建築は、日本では他にないだろう。９本柱の神殿建築では、現存するものの中では最も古い。また娘のミホススミ姫に因んで地名も<font color="#ff0000">●美保関</font>になった。江戸時代中期に美保神社では事代主の不慮の死を忘れまいと京都から事代主の子孫の大田政清を招いて、古事記を参考にして、構成された神事が、美保関町で行われる。１２月３日「諸手舟神事」、４月７日がクライマックスの「青紫垣神事」という神事である。また全国えびす社３３８５社の総本宮がイズモの美保神社である。「えびす」さんとは事代主のことである。それだけ全国に事代主の子孫がいることになる。尚、島根県の観光情報には、「記紀」を鵜呑みにして事代主は大国主の子息と堂々と書かれているが、「記紀」の受け売りの嘘の情報である。紀旧東出雲王家の向家が神主になっていたが、多忙であったので、美保神社の管理を神職の横山家に任せた。米子市と境港市がある●<font color="#ff0000">弓ヶ浜半島</font>は今は陸続きだが、古代は島であった。黄泉の島→夜見の島→弓ヶ浜と名前が変わった。なぜ<font color="#ff0000">●黄泉の島</font>と言われたかは、粟島で事代主が非業の死を迎えられ、黄泉（よみ）の国に行かれた、と言われた。それで粟島の対岸にあった島を黄泉の国・黄泉の島と呼んだ。</strong></font></p><p><font size="3"><strong><br></strong></font></p><p><font size="3"><strong>■「諏訪王国建立」に繋がった、事代主の后、沼川（ヌナカワ）姫の、その後</strong></font></p><p><font size="3"><strong>沼川（ヌナカワ）姫は、ヒスイがとれる越ノ国から事代主の后に迎えられ、美保の郷にお住みになられていた。事代主が不慮の事件に遭い、夜見ケ浜の粟島で天に昇られ、沼川（ヌナカワ）姫は淋しさがつのり、古里の姫川や黒姫山の景色ばかり想い出された。そして越後国糸魚川の実家に、帰ることを決意された。王子のタケミナカタは、父君を助け出すことの出来なかった、苦い思いのある出雲を離れたく思い、母君とともに越後国に移った。娘のミホススミは出雲の美保関に残り、父の霊を慰めることになった。彼女の住居には美保の社が建てられ、現在、美保神社となっている。事代主命と三穂津姫（沼川姫のこと）が祭られた<font color="#ff0000">。●上越市居多</font>には<font color="#ff0000">●一ノ宮・沼川神社</font>が鎮座す<br>る。王子のタケミナカタはその後、信濃国の諏訪地方まで進出し、<font color="#ff0000">●諏訪王国</font>をつくった。そのとき以来かれの子孫は江戸時代まで、この地の豪族として栄えた。諏訪湖沿岸には、タケミナカタをまつる<font color="#ff0000">●諏訪大社</font>の社殿が四か所に建てられた。そこの下社（下諏訪町）の社殿は、出雲地方の社殿に似て、正面が妻入りで締め縄が太い特徴を示している。諏訪湖北側の諏訪大社は、春宮と秋宮に分かれている。それには出雲王国時代に春分大祭と秋分大祭が重んじられた影響が考えられる。春宮と秋宮では、春祭りと秋祭りで祭りの場所が移動する。そのときサイノカミのクナトの夫婦神が、舟形の山車に載せられて遷宮する。これが史実であるが、古事記では、「タケミナカタが力比べをしようといどみ、タケミカヅチがタケミナカタを掴みねひしぎ投げ放ったら、タケミナカタはシナノ国のスワの海に逃げた」という悪意のある神話に変えている。</strong></font></p><p><br><font size="3"><strong>■事件後の姫たち・大国主の后・多伎津姫（たきつひめ）</strong></font></p><p><font size="3"><strong><br></strong></font></p><p><font size="3"><strong>宗像三姉妹の一人であり大国主の后だった多伎津姫（たきつひめ）は、住まわれたとこが地名として<font color="#ff0000">●多伎町</font>となっている。また多伎津姫（たきつひめ）は大国主（八千矛）の王子・アジスキタカ彦を生んだ。出雲市遙堪（ようかん）には、アジスキタカ彦をまつる阿須伎神社が鎮座している。多伎津姫（たきつひめ）大国主が亡くなられた後、オウノ群のアダカヤ・阿太加夜（東出雲町）に<br>住む、宗像三姉妹の一人である、姉の田心姫（たこりひめ）の許に、移り住まわれた。田心姫（たこりひめ）は後で、オウノ群を離れ<font color="#ff0000">、●伯耆国（現</font>米子市宗像）に移られた。その跡は今は<font color="#ff0000">●宗像神社</font>となっている。多伎津姫（たきつひめ）だけはそのまま残られた。彼女はアダカヤ主（ぬし）と呼ばれ、没後に<font color="#ff0000">●阿太加夜（アダカヤ）神社</font>にまつられた。宗像神社（米子市宗像）の近くにも、阿太加夜（アダカヤ）神社が建てられた。</strong></font></p><p><br><font size="3"><strong>■丹波王国</strong></font></p><p><font size="3"><strong>徐福と高照（たかてる）姫の間に、五十猛・イソタケが生まれた。徐福は王になれず、高照姫に五十猛の成長を託し、秦国に一時帰国することを決断した。、徐福は次は、さらに多くの秦族を連れてきて和国の王になることを胸に帰国した。大国主の孫娘・大屋姫は、高照姫の世話をするために、大屋の屋形に移り住んだ。高照姫とイソタケは、その後で五十猛海岸に移り住んだ。後者の育った所は、かれの名にちなみ<font color="#ff0000">●五十猛</font>の地名となった。かれの死後には、その地に五十猛神社が建てられた。大屋姫は、しばらく大屋に住んでいた<font color="#ff0000">。●大屋の地名は、</font>彼女が住んだとに因む。大屋の地には彼女の死後に建てられた<font color="#ff0000">、●大屋姫神社（大田市）</font>が鎮座している。イソタケ（五十猛）は成長すると父の意志に従い<font color="#ff0000">、●丹波国</font>に移住した。母君の高照姫と後に奥方となる大屋姫も、ともに移転した。五十猛（イソタケ）は大屋姫と結婚し、タカクラジ（高倉下）をもうけた。出雲王の親族であった大伴氏の祖・日臣（ひおみ）も、付き添いとして行ったという。イソタケ（五十猛）は石見国や出雲国にいる大部分の秦（ハタ）族を、丹波国に集めた。かれは移住先で指導者となり、カゴヤマ（香語山）と名前を改めた。そして海（あま）香語山、海（あま）は後に海部（あまべ）氏となった。海（あま）香語山（カゴヤマ）の親族が住んだ所は、丹後半島方面にあった。丹後半島にも、秦（ハタ）の字から「畑」に変わった地名が多く<font color="#ff0000">、●「畑谷」</font>もある。その半島の<font color="#ff0000">●伊根町</font>には、徐福をまつる<font color="#ff0000">●新井崎神社</font>がある。その社（やしろ）は、かれらハタ族がまつった社で<br>ある。カゴヤマ（香語山）の子孫は丹後国で、豪族になった者が多い。そのうち竹野川流域（京丹後市）に住んだ一族がいた。かれらは<font color="#ff0000">●竹野神社</font>を建てた。竹野は、「陶けん」が出土した所である。ハタ族は由良（ゆら）川を逆上って、南にも広がった。その川の流域に、徐福の名前の「福」にちなむ<font color="#ff0000">●福井</font>や<font color="#ff0000">●福知山</font>の地名がある。舞鶴（まいづる）の南には、カゴヤマが仙人を尊び天を拝んだ<font color="#ff0000">●弥仙山</font>がある。ハタ族の居住地域を<font color="#ff0000">、●丹波王国</font>だと言う人もいる。その後、海香語山（あまのかごやま）は九州の徐福の娘・穂屋姫と重婚し、海村雲（あまのむらくも）をもうけた。</strong></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida/entry-12130220350.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Feb 2016 19:56:51 +0900</pubDate>
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<title>日本人の祖先の偉大な旅</title>
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<![CDATA[ <p><font size="6">■日本人の祖先の偉大な旅</font></p><p><font size="3">　約６万年前に人類はアフリカから出発し、車も飛行機もない時代に地球上のあらゆる地域に進出、拡散した。南米の高地、北極圏、赤道直下のジャングル、寒冷地、乾燥地帯そして、それぞれの</font><font size="3">地域の気候・風土の環境に適合して、それぞれの人種・民族になっていた。大陸の東の海に浮かぶ日本列島にも、偉大な旅をして渡って来た、日本人の祖先の物語があった。それは今から３５００年前の話である。</font></p><p><br><font size="6">■日本人は４大文明の一つインダス文明の子孫</font></p><p><font size="3">　いわゆるイズモ族は３千年以上前に、日本の本州に民族移動したと言う。「鼻の長い動物の住む国から来た」との伝承がある。３５００年以上前に、インド西北から戦闘的な民族アーリア人がインドに侵入して、先住民の土地を奪い牧畜を行った。母系制度で平和に暮らし農耕生活だった先住<br>民はドラビダ人だった。４大文明の一つインダス文明はドラビダ人が築いた。紀元前３８００年頃から、砂漠化や洪水、河川流路の変更など、さまざまな理由にのよって衰退期であった。紀元前３５００年頃、インドの中部に、クナ国と呼ばれる小王国があった。（今のグナの町らしい）そこにイラン高原で遊牧をしていたアーリア人がが次々に侵入して来た。彼らは騎馬民族で父系家族制だ<br>った。森の樹木を切りはらいどんどん牧場を広げて、勢力を広めた。アーリアの男たちは、クナ人の家に婿が来ていない夜の隙を狙って泊まり込み、女たちに彼らの種を植える行動に出た。彼達は父系家族民なので、戦いに長じていた。クナ国の家々は女戸主の家族だったから、まとまりが弱く、対抗できなかった。結果として、アーリア人との混血児をクナ族の女が産み、育てることが多くなった。そして多くのドラビダ族は、アーリア人の奴隷にされた。母系家族制の民族は平和的だが、父系家族制度の民族が得意の戦争には弱い面があった。この情勢の中で南方に逃れるドラビダ族もいたが、クナ地方を支配していたクナト王は別の策を考えた。当時インドには、バイカル湖方面から、ブリヤード人の商人が交易に来ることがあった。彼らから「シベリアの南方の大海原の中に住民の少ない、温暖な島がある」と聞いていた。クナト王はそこに移住しようと考えた。出雲の古老は「イズモ族は、砂の平原を通り、広い湖の近くから、長い川を流れ下って来た」と伝えている。この「砂の平原」とはゴピ砂漠のことであろう。「広い湖」とはバイカル湖だと考えられる。「長い川」は黒竜江（アムール川）であろう。クナト王は移住計画を発表し、移住集団に加わる若い元気な男女を募集した。数千人の応募があったらしい。そこで食料などを家畜の背中に積んで、案内役のブリヤード人を先頭に、移民団は出発した。まず北の山岳地帯を超えた。そこから東に進み、朝鮮半島を通る道が近い、と現代人は思うかも知れない。しかし紀元前の古代世界では、それは危険なことであった。獣でも縄張りがあり、近づくと攻撃してくる。ましてや弓矢を持つ異民族の国の中を大集団が通過すると襲撃され、犠牲者が出る時代であった。だから住人の少ないシベリアを通るのが無難であった。しかし冬のシベリアは極寒の地である。冬を避けて秋までに通過するために、移住者たちはゴビ砂漠を春に過ぎたことであろう。篠田謙一さんの研究報告によると遺伝子ＤＮＡデータバンクに登録されている縄文人２９体のうち、ブリヤード人と同じ塩基性配列のものが１７体あり、その配列はブリヤード人とモンゴル人に共通する、という結果が出た。登録数が少ないので偏りが考えられるが、ブリヤード人が縄文人に混血していることは間違いない。アムール川上流に自生していたソバの実をブリヤード人が倭国に伝えた、とも言われる。その上流で、移民団は木材を用意し、筏と櫂を作った。そして食料を、家畜の背中から筏に移した。食料と家畜は途中で食べられて減少し、最後にはすべてが移住者の胃袋に消えたことであろう。筏に乗ったあとは、簡単であった。川の水が数千キロの距離を間宮海峡まで、移住民を流し運んでくれた。歩き疲れることはなかった。古代にブリヤード人が倭国と交易していたことは、北海道産の黒曜石の石器がアムール川流域やバイカル湖岸から発掘されていることで証明できる。ブリヤード族はバカル湖付近<br>に住むが、アムール川を舟で下れば、楽に日本に来ることがてきた。アムール川は縄文時代の重要な交易の道であった。一行は樺太(サハリン)西海岸を南に進み、古代に本州人が「渡り鳥」と呼んでいた、北海道に上陸し、そののち津軽半島にに渡った。ドラビダ族はサルタヒコ（鼻高神・性神）の信仰をもっていてサルタ族とも呼ばれた。九州の宇佐八幡宮の社家であった宇佐公康さんが、社家の伝承を本にしている。それにイズモ族の移住について書いている。すなわち「サルタ族がシベリア方面から、日本列島に移動漂着した」と。宇佐八幡の付近に住んでいたウサ族は、サルタ族より先に日本に住んでいたらしい。尚、ご存じのとおり、津軽半島の三内丸山遺跡には、約５５００～４０００年前の１５００年間ブリヤード人が定住していた。その遺跡からは現代人が想像する<br>より、はるかに文明が発達していたことが、伺える。日本人の遺伝子の検査により、出雲族には、ドラビダ人の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが、明らかになっている。民族移動の道中の混血は当然だ。日本人の祖先は３０００年前にインドから日本列島に民族移住したというと、日本人全員それは絶対にあり得ないとの反応があると思う。日本人の古代史に関する常識では、トンデモ話とされる。そういう常識になったのも「記紀」で出雲王国が抹消されたためだ。尚、これだけは理解してほしい。南米のアンデス文明を築いた民族は、最初から南米に住んでいたわけではない。我々、日本人と同じ顔つきをしたモンゴロイドが今から、１万５０００年～１万２０００年ほど前にアジアからベーリンク海峡をわたって、南米まで到達したのだ。そして標高６０００メートルの高地で生活を始めて文明を築いたことを。我々の祖先は、想像できない、とてつもない偉大な旅をして世界中に進出、拡散し、環境に適応してそれぞれの民族になっていった事実をわかってもらいたい。我々人類・ホモサピエンスは、最初からその地域にいたわけではなく、約６万年前に人類はアフリカから出発し、紆余曲折を経ながら世界中の隅々まで拡散・進出したのであり、現代、日本人のルーツである縄文人も紆余曲折を経ながら日本列島に渡ってきた歴史があるのである。最初から日本列島に縄文人がいたわけではない。縄文人は遠い昔にどこからか日本列島に渡ってきて住み着いたという歴史がある。それが後に縄文人と呼ばれるようになった。しかし、縄文人は、いつ頃、何処から、どういう民族が、どれくらいの人数で日本列島にやって来たのか。民族のルーツ・祖先について答えられる日本人は、いないのである。多くの日本人は先祖は中国大陸や朝鮮半島から来たと漠然と思っている。確かに渡来人などにより、混血されている面があるが、基本的には違う。中国も韓国も父系家族制度の国で父が威張る民族だ。父系制度の民はまた好戦的という側面を持つ。ところがドラビダ族＝縄文人＝出雲族は母家族制度（婿入り婚も含む）の民族だ。<br>また出雲族より先に日本列島で暮らしてた日本最初の生活文化圏であった南北の、北海道・東北また沖縄・九州の民族も母系家族制度だった。家族制度から見ても縄文人のルーツ・祖先は、中国人や韓国人とは違うのである。この母系家族制度の特色は争いを好まず、平和的ということだ。和をもって尊ぶという日本人の精神は、母系家族制に起因する。家族制度(結婚形態)というのは民族の根源的なものであり、簡単には変えられないのである。しかし、その遠い昔の日本人のルーツ・縄文人については、「記紀」によって出雲王国史が抹消されたために、ドラビダ族＝縄文人＝出雲族の記憶も消えてしまった。日本人・縄文人の記憶のルーツは官史によって、完全に閉ざされてしまったのである。それは歴史の敗者になった出雲王国の宿命なのかもしれない。イズモ族が古代インドから来たことは、縄文時代の日本語（ヤマト言葉）か゜ドラビダ語にそっくりであることで理解できる。言語学者の大野晋さんは著書「日本語とタミル語」でタミル語の文法が日本語と似ていることを説明している。タミルはインドの南部地方で、ドラビダ族の一種が住んでいる。イズモ族が古代に共に住んだインド中部のドラビダ族のうちで、南へ移動したのがタミル人だと考えられる。<br>尚、ドラビダ族はブリヤード人＝モンゴル人と似た顔つきだった。今のインド人はアーリア人支配以後の顔である。フィリッピン人がスペイン人に征服され血が混じり顔つきが西洋人ぽくなったのと同様である。ドラビダ語に古代モンゴルなどが混じって出雲語ができた。それが基になって日本語ができた。つまり出雲王国に各地の人が関係したから、出雲王国の言葉が共通語になり日本語が<br>形成されたらしい。日本人の先祖・縄文人は中国大陸や朝鮮半島から来たという大半の日本人が漠然に思っている説は言語学的にも大分、遠い。クナト王が日本列島に上陸した時に、カネの兜（かぶと）をかぶりカネの槍をもっていた、との伝承がある。ドラビダ語では、金属をカネと言った。その言葉が日本でも使われている。クナト王の所持していたカネ製品は、アカガネと呼ばれた銅製品であったらしい。インドでは紀元前１３００年以上前から、鉄が使われている。金属器が生活必需品になっていたから、クナト王は移住の時、金属精錬の技術者をイズモ族として連れてきた可能性が大きい。</font></p><p><font size="6">■出雲の「黒い川」</font></p><p><font size="3">　本州に渡たり、東北地方に住んだ後、移住者は分かれて行った。クナト王の子孫は日本海沿岸を南に移動し、最後には出雲の地に住みついた。暖かい関東平野や濃尾平野があるのに、なぜ雪深い寒い出雲に住んだのか。その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。黒い川とは、現在の斐伊川のことであろう。その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがある。古代には砂鉄がもっとも重要な産物だった。斐伊川は「聖なる川」としてあがめられた。その川には、「ゆまり」（小便）をするのも禁じられた。「鉄は国家なり」と言われるが、古代でも国家の繁栄を左右していた鍵は鉄だった。石器から鉄器の時代になると文明は飛躍的に発展する。自然に川底にたまった砂鉄は「川粉（かわこ）ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。後では山の真<br>砂(まさ)・（花崗岩が風化したもの）がくずされて、「鉄穴流し(かんなながし)」が行われた。それは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。奥出雲山地の真砂砂鉄は、チタンなど有害不純物が少なく、低温精錬が容易で還元性に優れている。タタラはドラビダ語で「猛烈な火」を意味する。日本で最初に行われた製鉄は、「野たたら」と呼ばれた。このような鉄の低温精錬は、古代にオリエント地方でも行われたことが知られている。出雲王国は「鉄器の国」とも呼ばれた。それは明治期の西洋の近代的製鉄が導入される江戸時代まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の８０～９０％を担っていた。尚、クナト王の子孫は、イズモに住み着いた。インドの熱帯では、常緑樹が濃緑色にしげっていた。それに対し、新しい土地では、春に芽が出た森の色が、目にしみるよう<br>に美しく感じられた。かれらはその色をめでて自分たちの地方を「出芽（いずめ）の国」と呼んだ。その発音が変化して「出雲の国」になったと伝わる。</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida/entry-12129852374.html</link>
<pubDate>Wed, 17 Feb 2016 19:31:27 +0900</pubDate>
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<title>出雲王国の風景</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#000000" size="5"><strong>■出雲王国の風景</strong></font></p><p><strong><font color="#ff0000" size="5"><br></font></strong></p><p><font size="3">　<strong>出雲の北部には、島根半島がある。その半島は天然の防波堤であった。王の海は波静かで、その岸は良い港となった。誤解が多いが王国の都は現在の松江市である。そこに国の内外から交易の舟が来た。出雲の輸出品はカネと首飾りに使われる玉類であった。勾玉も韓国人が高価で買い求めた<br>。特に鉄は各地の人々に重宝され、買いに来る人々で出雲（松江市）の港や村は賑わった。景気がよかったので毎日、景色の良いところで老若男女が昼間から宴会を開いていた。出雲では庶民は労役を課せられることもなく、厳しい年貢もなかった。それがＤＮＡに刷り込まれていて今も、エビスさん、ダイコクさん信仰が続いているのかも知れない。出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は各地から求められた。豪族たちが最も欲しがったの鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。それはウメガイと呼ばれた。それで木を削って木製品をつくるために、日用品としても、使われた。イズモ族はインドでの風習であった祭りを、各地で続けていた。春分の日に春祭りを、秋分の日には<br>秋祭りを村中で行った。それは年２回の待ちに待った祭りだった。メインは歌垣で、それはあとのお楽しみ付の合コンのようなものだった。現代人は紀元前２００年頃の事代主がいた時代を想像しずらいと思うが、胎児の形の勾玉を造るには、その曲線の多い胎児形に石を加工する技術ならびに、また勾玉に糸を通すために穴を開けなければならない。そのためには穴を作るには鉄の錐（きり）が必要だ。石を加工して胎児形の勾玉を造るのは、現代でも容易ではない。紀元前の出雲王国には、現代でも難しい技術をもっていた文化の発展していた国だった。その名残が松江市に玉造り温泉とか勾玉づくりとして残っている。</strong></font></p><p><br><font size="3"><strong>■幸の神（サイノカミ)</strong></font></p><p><font size="3"><strong>　その後、出雲の各地の代表は春分の日と秋分の日に王宮・神魂の丘（松江市大庭町・王の庭、場という意味）に集まり大祭を行った。そしてドラビダ族＝縄文人＝出雲族の民族移住の指導者だったクナト王を民族の守護神として定め、幸の神（サイノカミ）と呼んだ。また幸の神（サイノカミ）は家族神(幸の神三神)で構成された。主神が「クナト大神」、母神を「幸姫の命」、息子神を「<br>サルタヒコ」と呼ばれた。サルタはドラビダ語で長鼻（男性器の隠語）という意味なので、サルタ彦は「鼻高神」とも呼ばれる。幸の神（サイノカミ）の特色は子孫繁栄（生殖）の神である。先祖・幸の神を敬い、子孫繁栄の守護を祈願するものだった。子孫繁栄には結婚と出産が必要である。幸の神(サイノカミ)は「縁結びと子宝の神」とも言われる。子孫繁栄（生殖）には広い意味では、<br>夫婦円満、子宝安産、万物創生、五穀豊穣、男女和合、豊作祈願、招福除厄、無病息災・・等が含まれる。つまり性の原理(生命創生・五穀豊穣・自然原理)を芽出たいとする考えが人生の基本になっていた。また古代は医療が未発達で祈るしかなかった。自然の猛威の前にも同様だった。世界の３大宗教は性を罪悪視する考え方だが、日本人は幸の神（サイノカミ）のおかげで、性に対して寛容な国民性となった。また３大宗教のような一神教、排他的な考えをもつことが避けられた。また幸の神（サイノカミ）のおかげで日本人は先祖神を何より敬う精神構造になった。幸の神の（サイノカミ）が全国に広まり、各地の御柱(男根崇拝)祭り、有名なもので名古屋小牧の「豊年祭り」、長野の女男神像、等がある。尚、神道というのは幸の神（サイノカミ）が国家に横取りされたものである。地方の田舎の家では神棚に先祖神・幸の神（サイノカミ）を拝んでおり、神道とかと呼ぶ庶民はいないのである。正月と言えば日本最大の行事であるが、正月も元々は幸の神（サイノカミ）の行事として始まった。正月は幸の神（サイノカミ）さんのことを特別に歳徳神・歳神（としがみ）さんと呼んだ。お供えを用意し先祖神の歳神（としがみ）さんを家に招き迎えた。そして女夫が添寝をし、仲よく幸せにやっていますよというところを見せて、先祖神・歳神（としがみ）さんに安心をしてもらうことが重要だった。だから正月の姫初めは大事な神事だった。尚、紀元前１００年頃にヤマトに出雲族が建てた正月の神さんを祭る御歳神神社が鎮座する。「記紀」が出た後、神社の祭神は政府の意向で出雲系の神、及び「幸の神」はずいぶん変えられた。それは「記紀」で初めて登場したイザナギとかイザナミ等々に変えられた。それでも出雲系の神、大国主や事代主を祭る神社が現在でも、全国各地に多数ある。それだけ幸の神（サイノカミ）信仰が、日本全土にひろまっている証拠である。それは縄文人＝出雲族＝日本人の民族の風習・伝統・行事といった民衆レベルのことは、支配者が変わろうが、なかなか変わることはないのである。またへびのトグロに似た山が、「神がこもる山」(神名備山かんなびやま)として崇拝された。中国地方最高峰の大山は、伯耆富士ともいわれるように、三角錐の形をしており、代表的な神名備山である。その大山は、出雲王国時代から奈良時代までは、大神（おおがみ）山と呼ばれていた。何故、大神山（おおがみやま）と呼ばれていたかと言うと、出雲王国の王宮がある大庭おおば（松江市大庭町）から、春・秋の年２回の大祭の時に遠方、各地から参集した豪族たちは、、各種、催しもの・宴会が終わった最後に、全員で東の彼方にクナトの大神がこもるとされた崇高な大神山（おおがみやま）に向かっ<br>て遥拝した。その後、大神山（おおがみやま）の麓には、大神山（おおがみやま）神社が遥拝地として建てられた。また後に大神山（おおがみやま）の、山腹に大神山（おおがみやま）神社奥社も建てられ、現在も続いている。尚、なぜ大神山（おおがみやま）が、大山（だいせん）と呼ばれるようになったかというと、奈良時代に仏教勢力が強くなり大神山に大山寺（だいせんじ）を建てた<br>。それ以降、地元の人々は大神山（おおがみやま）と言わずに、大山寺（だいせんじ）があるので大山（だいせん）と呼ぶようになった。尚、大神山（おおがみやま）神社が出雲王国、サイノカミ、クナトの大神の名残を今に留めている。しかし残念ながら、なぜ昔、大神山（おおがみやま）と言われていたのかということを知っている地元の人は、いない。これも「記紀」の影響で出雲王国<br>が忘れられたからだ。</strong></font></p><br><p><font size="3"><strong>■「三」は聖数</strong></font></p><p><font size="3"><strong>　尚、サイノカミ(幸の神)三神というように、幸の神では、「三」が聖数として扱われた。それで結婚式で使う三三九度用の三つ重ねの盃は「三三クナト」の意味が込められている。大きい盃は花婿を、中の盃は花嫁を、上の盃ははうまれてくる赤ん坊を象徴する。三宝も幸の神からだ。</strong></font><font size="3"><strong>　また、三拍子そろうと縁起が良い、も幸の神三神からきている。万歳三唱（当時はイズメ、イズ<br>メイズメ）も聖数「三」からきている。締めの拍子を三つ打つのも同様である。</strong></font></p><p><font size="3"><strong>　幸の神三植物は松竹梅だ。松の葉は乙女の下の毛に似ているので（若松様）と呼ばれ縁起が良い。竹の筒は男性のアレである。梅の花は、幸の神では「産め」に通じるので、最高の花とされる。<br>　<br>■「八」も聖数</strong></font></p><p><font size="3"><strong>　太陽信仰からきており、日本海軍旗のように、朝日が八方に光りを放つ姿に見えるのでその八本の光から来ている、という。</strong></font><font size="3"><strong>　サイノカミ(幸の神)では、「八」も聖数になっている。例えば「ワラヘビ」は尻尾を八回巻き終わると、竜の威力が現れると言う。頭に締める「ハチマキ」はそれに起源を持ち、ヘビの霊力により、幸運が訪れると言われた。</strong></font><font size="3"><strong>　八の字は末広がりで縁起が良いと言われた。地名・人名では八雲、八束郡、八重垣、八千矛（やちほこ・大国主の個人名）、八重波津身（やえなつみ・事代主の個人名）<br>　<br>　出雲の枕詞が「八雲立つ」になったのは、八の聖数のためだった。　　</strong></font></p><p><font size="3"><strong><br></strong></font></p><p><font size="3"><strong>■■出雲王国へ徐福集団（秦族）の渡来・紀元前２１９年頃■■</strong></font></p><p><font size="3"><strong>中国では秦国が全土を統一する前に、シャントン（山東）省方面に斉（せい）という国があった。斉は秦に亡ばされた。そこに徐福という人がいた。紀元前２１９年頃、出雲王国の海岸に秦国人の乗った船が着いた。和国では当時は、丸木船を使っていたから、その船は立派に見えた。それは板を組み合わせて作られている、いわゆる構造船であった。上陸した秦人たちを出雲兵がすぐ捕まえて、王宮に連れてきた。かれらは通訳と銅器製作の技術者であったが、秦国から持ってきた青銅器を、オオナモチに捧げた。そして青銅器が和人の好みに合わないならば、造り変えると申し出た。土産物は、銅剣と銅鋒に似た鐘（除族の旬よう）だったようである。後者を参考にして、銅鋒が作<br>られ、出雲では神宝となった。彼らは徐福の先遣隊であった。かれらの来日の目的は後日、多勢の秦族と頭の徐福が移住することへの、許可願いであった。徐福はシャントン省の方士（道教の師）である、と語ったるオオナモチの許可を得ると、かれらは出雲にそのまま住み着いた。徐福の言動について「史記」「秦始皇本記」に記されている。「紀元前２１９年、始皇帝は諸郡県を巡行した。ろうや山（シャントン省）に三か月も留まった。その時、斉人の徐福らが上書して述べた。・・蓬莱の仙人は不老長寿の仙薬を持っています。心身を清め、けがれなき童男童女を連れて仙人を求めたいと思います」と。そこで始皇帝は徐福をつかわし、童男童女数千人をおくって、海に出て仙人を探させた」。シャントン半島が面する黄海では、晩秋以降には東南方向に吹く強い季節風がある。それはアナジと呼ばれる。船に帆をかけるとアナジに押されて、船は海上をすべるように進むことができる。徐福が率いた船団は、アナジに吹かれて、楽に玄界灘に達することができたる玄界灘からは東に日本海を進めば、出雲方面に着くことができる。徐福と一緒に和国に来た童男童女は「海童（かいどう）」と呼ばれた。徐福集団の日本移住は、前後二回にわたり、移住者は五千人を超えた。そして弥生時代の和国での、この移住民の活躍は、和国の文化向上に大きく貢献した。徐福集団来日は日本の歴史上、重要な事件であった。山口県下関市豊北町江尻に、土井ケ浜遺跡がある。そこからは、三百体以上の弥生人の骨が見つかった。その遺跡には、人類学ミュージアムが建てられている。その墓地の初現は、発掘された板付Ⅱ式の土器により、弥生時代前期で、紀元前二世紀前半以前であることが分かった。そのミュージアムの松下孝幸さんと、中国の人類学者・韓康信さんの共同調査の結果、その人骨に最も良く似ているのは、中国のシャントン省の古人骨であることが判明した。これらのことにより、徐福が率いて出雲へ向かった船団の一部が離れて、響灘から長門の国に上陸した可能性が大きくなった。しかし彼らの大部分は、故郷に帰れなかったらしい。かれらの死後、遺体の顔はシャントン半島の方へ向けられて、葬られていたと言う。多くの者た<br>ちが、望郷の念を抱いたまま亡くなったらしい。近くの甲殿遺跡からは、ガラス製トンボ玉が出土している。白色同心円文様のガラス玉は、中国戦国時代の系譜に属する。玉屋敷遺跡（長門市油谷向津具）からは，有栖細型銅剣（国指定重要文化財）が出土したが、類似の物は、同じく徐福と関係深い吉野ヶ里遺跡（佐賀県）からも出土している。徐福ひきいる大船団は、ともえあいつぎ日本　海に現れたる先頭の船は石見国五十猛（島根県太田市）の磯に着き、徐福が上陸した。他の船も、その付近に碇を下したる海童たちが続々と陸にあがって住み着いた。秦からきたので、かれらは秦族と呼ばれた。かれらは高級機織の技術を持っていたので、後には秦（ハタ）族と、呼ばれるようになった。かれらは主に、五十猛の東方に住んだ。そこには、ハタ族のハタが「畑」の字になった地名が残っている。五十猛の東南部には、畑井（秦居）や畑谷・畑中の村がある。徐福は和国に来てから、和国風の名前としてホアカリ（火明）の名前を使った。大屋の地に屋形を構えていたが、大国主の姫君・高照姫を奥方と迎えたい、と希望した。神門家臣と親しくなっていた渡来系の通訳が、その旨を伝えた。ヤチホコ（大国主）は、それに応じることを決められ、高照姫は大屋の屋形に輿入れした。徐福・ホアカリ（火明）のの奥方になった高照（たかてる）姫は、大屋の屋形で息子イソタケ（五十猛）を生んだ。　徐福・ホアカリ（火明）は道教の方士（ほうし）であったから、童男童女を夜に山頂に導き、仙人を尊ぶことを教え、道教の星神を拝ませた。仙人を意味する「仙」の字が、かれらが登った山の名に付けられている。物部神社の北方に大仙山があり、大森の石見銀山に仙ノ山がある。ハタ族は、出雲の南部にも住んだ。出雲風土記の飯石の郡に、波多の郷の記事がある。「ハタツミ（波多都身）の命の現れた処である。この故に、波多の地名になった」と<br>。このハタツミの命とは徐福のことで、ハタ族の代表として伝えられたのであろう。かれらは先住者の所有地でない所を探し続けて、山奥に住むことになったらしい。ハタ族は次第に東に進出し、島根半島方面にも居住地を広げた。長門の土井ケ浜遺跡に似た、弥生人の遺跡が出雲でも発掘された。約六〇体の人骨が日本海に面した古浦砂丘（松江市）に眠っていた。弥生初期に属する土器を、かれらは持ち込んでいた。かれらの住んだ跡からは、多くの土製の笛が出土している。それは手の平で握る卵形の物で、穴が七個あいている。中国で「陶けん」と呼ばれる物で、新石器時代から使われていた楽器であった。タテチョウや西川津の遺跡のある松江市は、五十点以上出土していて「陶けんのメッカ」と言われる。長門の響灘沿岸では、綾羅木団地や高野遺跡などで発見されている。また徐福集団移動先の丹後半島では、竹野や扇谷遺跡などで出た。つまり「陶けん」出土地は、第一次徐福集団が上陸した地域と一致する。民族考古学では、それは祭りのときに吹いて神霊を<br>招くのに使われたという。その使い方もあったであろうが、海童たちが吹いて望郷の念を紛らわしたこともあったであろう。斐川町にある出雲空港の北方には、海童集団が住み着いて、今でも海童として来日したことを伝えている、出雲市島村町がある。そこの社の名は、海童神社となっている。その社の祭日には、幟が立てられるが、それに「海童神社」の名が書かれている。そこから斐伊川を挟んだ対岸に、浮洲神社がある。「浮洲」は、「蓬莱島」になぞらえられ、道教の理想郷とされた。だから浮洲神社も徐福の聖地だと言うことができる。尚、徐福はその後、とんでもない事件を起こすが、自分が出雲王国で王になることが、できないことを悟ると、高照（たかてる）姫にイソタケの成長を託し、秦国に一時帰国することを決断した。徐福は次は、さらに多くの秦族を連れてきて和国の王になることを胸に帰国した。大国主の孫娘・大屋姫は、高照姫の世話をするために、大屋の屋形に移り住んだ。高照姫とイソタケは、その後で五十猛海岸に移り住んだ。後者の育った所は、かれの名にちなみ五十猛の地名となった。かれの死後には、その地に五十猛神社が建てられた。大屋姫は、しばらく大屋に住んでいた。大屋の地名は、彼女が住んだとに因む。大屋の地には彼女の死後に建てられた、大屋姫神社（大田市）が鎮座している。イソタケ（五十猛）は成長すると父の意志に従い、丹波国に移住した。母君の高照姫と後に奥方となる大屋姫も、ともに移転した。五十猛（イソタケ）は大屋姫と結婚し、タカクラジ（高倉下）をもうけた。出雲王の親族であった大伴氏の祖・日臣（ひおみ）も、付き添いとして行ったという。イソタケ（五十猛）は石見国や出雲国にいる大部分の秦（ハタ）族を、丹波国に集めた。かれは移住先で指導者となり、カゴヤマ（香語山）と名前を改めた。そして海（あま）香語山、海（あま）は後に海部（あまべ）氏となった。海（あま）香語山（カゴヤマ）の親族が住んだ所は、丹後半島方面にあった。丹後半島にも<br>、秦（ハタ）の字から「畑」に変わった地名が多く、「畑谷」もある。その半島の伊根町には、徐福をまつる新井崎神社がある。その社（やしろ）は、かれらハタ族がまつった社である。カゴヤマ（香語山）の子孫は丹後国で、豪族になった者が多い。そのうち竹野川流域（京丹後市）に住んだ一族がいた。かれらは竹野神社を建てた。竹野は、「陶けん」が出土した所である。ハタ族は由良<br>（ゆら）川を逆上って、南にも広がった。その川の流域に、徐福の名前の「福」にちなむ福井や福知山の地名がある。舞鶴（まいづる）の南には、カゴヤマが仙人を尊び天を拝んだ弥仙山がある。ハタ族の居住地域を、丹波王国だと言う人もいる。その後、海香語山（あまのかごやま）は九州の徐福の娘・穂屋姫と重婚し、海村雲（あまのむらくも）をもうけた。息子の村雲命は成人すると、一万人前後の丹波人を引き連れて、ヤマトに進出し、出雲の事代主の子孫の登美（とび）家と協力して、海部王朝を作った。海部王朝では登美（とび）家から后を迎ええる習慣があり、三代以上それが続いたので、登美（とび）家の血が圧倒的に濃くなり、出雲系の磯城（登美家が住んでいた地名により）王朝に変わった。つまりヤマトの政権は海部王朝が二代つづき、それ以降は出雲系である磯城王朝になった。</strong></font></p><p><font size="3"><strong><br></strong></font></p><p><font size="3"><strong>■出雲王国を襲った同時暗殺テロ■紀元前２１０年代頃■</strong></font></p><p><font size="3"><strong>大国主（ヤチホコ）は園の長浜にでかけたとき、行方不明になった。その地にはサイノカミを祭る祠があったという。そのとき東出雲王国・富家の事代主は王宮のある松江市大庭には不在で、王の海（中海）わたり、島根半島東端の美保関（松江市美保関町）の港の妃の館に行っていた。そこには越後の糸魚川から来た、沼川（ヌナカワ）姫が住んでいた。事代主は姫に逢いに行き、海岸で釣りをしていた事代主の所に、○○家の○○がが諸手舟に乗って使者としてやって来た。このことが現在、美保神社では、「諸手舟神事」として、毎年１２月３日に美保港で行われている。迎えに来た○○は、事代主副王に告げた。「園の長浜（出雲市西園町）で八千矛（ヤチホコ）様が行方不明になったから、事代主様も来て探して下さい」と言って、事代主を舟に乗せた。舟は弓ケ浜の粟島（米子市彦名町）に着いた。すると海童（かいどう）たちが現れ、舟を取り囲んだ。海童というのは、徐福がシャントン半島から連れてきた少年たちを言う。事代主は、粟島の裏の洞窟に幽閉された。現在、その粟島は島全体が神社となり粟嶋神社として事代主をまつっている。大国主（ヤチホコ王）も猪目（いのめ）洞窟に幽閉された。主王と副王が同時に、洞窟で枯死するという非業な事件に、出雲王国では大きな衝撃が走った。また国の機能も麻痺してしまった。尚、「記紀」ではこの事件を、事代主が入水（自死）したようにして、事実を歪曲して書いた。</strong></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida/entry-12129504651.html</link>
<pubDate>Tue, 16 Feb 2016 20:02:07 +0900</pubDate>
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<title>出雲王国の体制</title>
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<![CDATA[ <p><font size="6">■出雲王国の仕組み</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">新しい土地では、春に芽が出た森の色が、目にしみるように美しく感じられた。かれらはその色をめでて自分たちの地方を●「出芽（いずめ）の国」と呼んだ。その発音が変化して●「出雲の国」になったと伝わる。出雲王国は紀元前４００年頃成立し、紀元後２５０年頃滅ぶ。約６５０年続いた。決して国譲りではない。出雲王国の初代王、菅之八耳には二人の息子がいた、２王制とした。直轄地を東西にわけた。主王を「オオナモチ」、副王を「スクナヒコ」という職名であった。約７００年間の王国史の間に、合計１７人のオオナモチが存在。スクナヒコも同数。オオナモチの語源は野ただら製鉄は斜面の横穴オオアナを開けてするため鉄生産の支配者の意味初代オオナモチは各地の豪族の意見によく耳を傾けたことから、八耳王と呼ばれた。八耳王には二人の王子がおり、直轄地を東西に分けた。その後、東（松江市）の領地を支配する王家は富家または出雲臣家と呼ばれた。西の領地を支配する王家は神門臣家と呼ばれた。両家の当主のうち年長者がオオナモチになり、別の家の当主がスクナヒコに就任した。東出雲王国の王家は（富家・出雲臣家、のちに向家に名を変える）王宮は神魂神社は●王庭（松江市大庭おおば町）の丘にあった。東の領地（東出雲王国（松江市））を支配する王家が、富（とみ）家または出雲臣家と呼ばれた。後に向（むき・むかい）家を名のる。王国滅亡後には、また富家を名乗る。分家には富永・富田・向井の家があった。出雲の大祭に参加した人々は、土産を向家に捧げるようになった。それが倉にあふれた。以後、人々は向家を富家と呼ぶようになった。出雲家と称することもあった。尚、松江に意宇（おう）川があるが、古代では●王（おう）川であった。意宇（おう）群も●王（おう）群であった。●中海も古代は王の海と呼ばれていた。西の領地（西出雲王国（出雲市））を支配する王家が、神門臣（かんどおみ）家と呼ばれた。出雲市は昔は●神門の群と言われた。出雲市には神戸川があるが、古代は●神門川であったが、後世に字が変わり神戸川になった。６代出雲王の王子・アタカタスが北九州に進出し、●ムナカタ（宗像）家を起こした。そして有名な宗像三姉妹を育てた。田心姫（たこりひめ）・多伎津姫（たきつひめ）、市杵島姫（いちきしまひめ）の三女神。出雲王国は武力で統一された王国ではなく、鉄生産で繁栄し、自然に人が集まるようになり、サイノカミ・幸の神の祭事に各地の豪族が参加し、また出雲王が各地の豪族の娘との結婚によって血縁関係ができ、それが王国の広がりとなった。出雲王国中期に当たる紀元前２００年頃の第八代オオナモチが有名な大国主（個人名・八千矛・やちほこ）である。同じく第八代スクナヒコが有名な事代主（個人名・八重波津身・やえなつみ）である。その当時の広域出雲王国の領地は東は●越の国（新潟）、西は北九州の宗像であった。それは、事代主が越の糸魚川近辺の豪族・越の豪族ヘツクシヒの娘・ヌナカワ姫を后に迎えて血縁関係が出来たため。また大国主が宗像家から宗像三姉妹の一人、多伎津姫（たきつひめ）を后として迎えた関係による。出雲王国は武力で統一された王国でなく結婚による縁結びで親戚関係をつくり、それが広域出雲王国の領地だった。親戚になった家は、出雲王家の親族を意味する「臣おみ」を名乗ることができた。ここで紀元前２００年頃の第八代両王の大国主と事代主の后を整理すると、◆大国主の后には八上姫（やがみひめ）・稲葉（因幡）国。と多伎津姫（たきつひめ）・宗像家からのお二人。◆事代主の后は鳥耳姫（一族の親族から）、ヌナカワ姫（越前の糸魚川の方）、活玉依姫（イクタマヨリヒメ）・摂津国三島（大阪市高槻市）の四方。ちなみに、代九代オオナモチには事代主と后の鳥耳姫の間に生まれた鳥鳴海（トリナルミ）が就任。鳥鳴海（トリナルミ）命は伯耆国日吉津（ひえづ）の●蚊屋島神社に、まつられている。</font></p><br><p><font size="6">■出雲王国の風景</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">出雲の北部には、島根半島がある。その半島は天然の防波堤であった。王の海は波静かでその岸は良い港となった。誤解が多いが王国の都は現在の松江市である。そこに国の内外から交易の舟が来た。出雲の輸出品はカネ（鉄器）と首飾りに使われる玉類であった。特に鉄は各地の人々に重宝され、買いに来る人々で出雲（松江市）の港や村は賑わった。景気がよかったので毎日、景色の良いところで老若男女が昼間から宴会を開いていた。出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は各地から求められた。豪族たちが最も欲しがったの鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。それはウメガイと呼ばれた。それで木を削って木製品をつくるために、日用品としても、使われた。また曲玉も韓国人が高価で買い求めた。出雲王国の時代には、玉の首飾りを付けないと、豪族とは認められなかった。曲玉は特に縁起のよいものだと考えられていた。それは生まれる前の胎児の形と、見なされたからである。赤ん坊はサイノカミが恵む宝だという信仰があった。それで各地から求められた。出雲で作られた曲玉や官玉・丸穴玉はヤマトにも送られ、祭祀などで使われた。意宇（王）の群<br>・拝志（はやし）の群の●花仙（かせん）山（松江市玉湯町）では、メノウや碧玉の原石が産出した。それを削って、曲玉（まがたま）や官（くだ）玉などが造られた。その伝統を継いでいるのが、●いずもまがたまの里伝承館がある。穴をうがつには細い鏨（たがね）が必要であるが、それには、出雲産の鉄が使われた。そこには●玉造り温泉があるが、そこの橋には玉造り遺跡にちなんで<br>、●大きな曲玉の飾りが付けられている。原料はメノウの他に、ヒスイも使われた。その関係で事代主の后に、越の豪族ヘツクシヒの娘・ヌナカワ姫が嫁いだ。　<br></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida/entry-12128339152.html</link>
<pubDate>Sat, 13 Feb 2016 17:59:56 +0900</pubDate>
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<title>鉄こそが文明をひらいた</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#000033" size="6">鉄こそが国家の繁栄を左右していた鍵</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#ff0000" size="6"><strong>文明の始まりは「黒い川」</strong></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font color="#0000ff" size="6"><strong>■野だたら■</strong></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="4">◇出雲王国誕生の秘密◇野だたら◇その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。黒い川とは、現在の斐伊川のことであろう。その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがある。古代には砂鉄がもっとも重要な産物だった。斐伊川は「聖なる川」としてあがめられた。その川には、「ゆまり」（小便）をするのも禁じられた。「鉄は国家なり」と言われるが、古代でも国家の繁栄を左右していた鍵は鉄だった。石器から鉄器の時代になると文明は飛躍的に発展する。自然に川底にたまった砂鉄は「川粉（かわこ）ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。後では山の真砂(まさ)・（花崗岩が風化したもの）がくずされて、「鉄穴流し(かんなながし)」が行われた。それは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。奥出雲山地の真砂砂鉄は、チタンなど有害不純物が少なく、低温精錬が容易で還元性に優れている。タタラはドラビダ語で「猛烈な火」、を意味する。日本で最初に行われた製鉄は、「野だたら」と呼ばれた。◇鉄生産について◇和国で最初に鉄生産「野だたら」が行われ文明のブレークスルーがおき、繁栄したのが出雲王国である。その名ごりを残すものとして<font color="#ff0000"><strong>、●「金屋子（かなやご）神社」</strong></font>製鉄や鍛冶の神様で、同名の神社は全国に千二百社もあり、ここがその総本社。製鉄・冶金関係者らが現在でも数多く参拝しています。他に<font color="#ff0000"><strong>●「和鋼博物館」、●「鉄の歴史博物館」、●「野だたらと白椿の里」、●「奥出雲とたたら刀剣館」、●「たたら角炉伝承館」、●「鉄の未来科学館」●「金持神社」</strong></font>等があります。明治期の西洋の近代的製鉄が導入される明治初期まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の８０～９０％を担っていた。「野だたら」の伝統はその後、途絶えてしまったが、日本刀の原材料として欠かせないということで現在は日本刀の伝統を守るために、日本刀保存協会の資金援助のもと、「野だたら」の伝統が復活している。原始的な「野だたら」で作られるカネ・鉄（はがね）の、その品質は、現在の最先端の鋼（はがね）生産技術をもってもかなわない</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida/entry-12127271532.html</link>
<pubDate>Wed, 10 Feb 2016 19:53:55 +0900</pubDate>
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<title>出雲王国の概要</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">■■出雲王国■■</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">■紀元前４００年頃成立し、紀元後２５０年頃滅ぶ。決して国譲りではない。</font></p><p><font size="3">■約７００年間の王国史の間に、合計１７人のオオナモチが存在。スクナヒコも同数。</font></p><p><font size="3">■オオナモチ（大名持ち）とは、大穴持ち（野だたらの横穴・鉄生産の支配者の意）</font></p><p><font size="3">■スクナヒコとは、若い王の意味</font></p><p><font size="3">■出雲両王家はオオナモチ・スクナヒコを交替でした。</font></p><p><font size="3">■出雲王国の初代王、菅之八耳には二人の息子がいた、２王制とした。直轄地を東西にわけた。</font></p><p><font size="3">■東の領地を支配する王家が、富（とみ）家、出雲臣家。後に向（むき・むかい）家を名のる。</font></p><p><font size="3">■竜鱗枠（りゅうりんわく）銅剣交差紋。東出雲王国・富家、向家の紋章。外枠はいわゆる亀甲紋でなく、イズモ族の崇拝するオロチ竜神のウロコの形である。銅剣は王者の象徴とも言われた。中の×印の意味は、剣による交戦ではなかった。古代には、あたらしい命が発生する尊いマー<br>ク、と考えられた。銅剣・銅鐸で×印は向家のものを示す。また神社の社紋の外枠は亀甲紋でなく、竜鱗枠（りゅうりんわく）である。</font></p><p><font size="3">■西の領地を支配する王家が、神門臣（かんどおみ）家と呼ばれた。</font></p><p><font size="3">■東出雲王国（松江市）と西出雲王国（出雲市）が存在した。</font></p><p><font size="3">■出雲王国は武力で成立した国ではなかった。「野だたら」による繁栄で自然と国ができた。</font></p><p><font size="3">■出雲王国はサイノカミを信仰する宗教国家であった。</font></p><p><font size="3">■縁結びによる広域出雲王国の範囲は日本海沿岸各地、東は越（新潟）から西は北九州。及び四国方面。</font></p><p><font size="3">■事代主の后としてヒスイがとれる越ノ国から沼川（ヌナカワ）姫が后として迎えられた。また６代出雲王の王子・アタカタスが北九州に進出し、ムナカタ（宗像）家を起こした。という事情からだ。</font></p><p><font size="3">■各地の豪族の娘と結婚（複婚）する縁結びによる弱い連合体であった。</font></p><p><font size="3">■主王を「オオナモチ」、副王を「スクナヒコ」という職名である。</font></p><p><font size="3">■第八代オオナモチが（個人名・八千矛・やちほこ）。「記紀」では大国主とされた。</font></p><p><font size="3">■第八代スクナヒコが（個人名・八重波津身・やえなつみ）「記紀」では事代主とされた。</font></p><p><font size="3">■沼川（ヌナカワ）は姫越ノ国糸魚川から事代主の后として嫁がれた。</font></p><p><font size="3">■事代主＋沼川（ヌナカワ）姫＝タケミナカタ→諏訪王国を造る</font></p><p><font size="3">■活玉依（イクタマヨリ）は、摂津国三島（大阪市高槻市）から事代主の后として嫁がれた。</font></p><p><font size="3">■事代主＋活玉依（イクタマヨリ）＝クシヒカタ→ヤマトを最初に開拓。ヤマト初代副王</font></p><p><font size="3">■クシヒカタの家は登美（とび）家と称し、出雲王家・富（とみ）家の分家にあたる。</font></p><p><font size="3">■登美家は、後に磯城方面に住んだので、磯城登美家とも言われる。磯城県主である。</font></p><p><font size="3">■事代主＋活玉依（イクタマヨリ）＝タタライスズ姫→三輪山の初代、太陽祭祀の姫巫女。</font></p><p><font size="3">■海（天）村雲＋タタライスズ姫＝姫巫女の権威が、王より上であった。</font></p><p><br><font size="3">■■■■徐福と出雲王家はすぐ混血した■■■■</font></p><p><font size="3">■秦から徐福は約２千人弱の秦人を引き連れ出雲王国に渡来してきた（紀元前２１９年頃）</font></p><p><font size="3">■徐福（出雲）→火明（ホアカリ）と和国風の名前を名のる。「記紀」ではスサノオとされた</font></p><p><font size="3">■徐福・ホアカリ（出雲）＋高照姫（大国主の娘）＝五十猛（いそたけ）誕生。</font></p><p><font size="3">■徐福は出雲王国で王に就任することができず、失望し、一旦秦に帰国する。</font></p><p><font size="3">■五十猛は、姓を海（あま）とし、海（あま）五十猛となる。</font></p><p><font size="3">■海　五十猛は成人し、出雲の秦（ハタ）族を引き連れ、丹波に移住する。</font></p><p><font size="3">■海　五十猛→海　香語山（かごやま）（丹波で改名する）</font></p><p><font size="3">■海　香語山＋大屋姫（大国主の孫娘）＝高倉下→紀伊国造→武内宿祢→蘇我氏</font></p><p><font size="3">■五十猛＋穂屋姫（九州の徐福の娘）＝海　村雲が誕生。「記紀」が海を（天）の字に変える</font></p><p><font size="3">■海　村雲は成人し、出雲人が開拓したヤマトへ１万人近い丹波人を引き連れ、集団移住する。</font></p><p><font size="3">■海（天）村雲＋タタライスズ姫（事代主の娘）＝→海部氏（尾張氏）→</font></p><p><font size="3">■秦から徐福は約３人千の秦人を引き連れ九州に再来日した（紀元前２１０年頃）</font></p><p><font size="3">■徐福（九州）→ニギハヤヒという名前を名のる。「記紀」ではニニギノという名にされた。</font></p><p><font size="3">■徐福（出雲）→火明（ホアカリ）、徐福（九州）→ニギハヤヒで同一人物異名である。</font></p><p><font size="3">■「記紀」では徐福（出雲）はスサノオ、徐福（九州）はニニギノという名にされた。</font></p><p><font size="3">■徐福（九州）＋市杵島姫（出雲王国の分家・宗像家の娘）＝ホホヒデミ誕生→物部氏</font></p><p><font size="3">■徐福（出雲）での五十猛、徐福（九州）でのホホヒデミは腹異の兄弟である。</font></p><p><font size="3">■「記紀」では腹異の兄弟、五十猛とホホヒデミのことを海彦と山彦の神話にしている。</font></p><p><font size="3">■徐福（出雲）での五十猛が海部氏、徐福（九州）でのホホヒデミが物部氏になる。</font></p><p><font size="3">■古代の政治を動かした海部氏と物部氏の始祖が徐福である。その意味でも徐福の渡来は、歴史上、大変に重要なことであり、徐福渡来が分からなければ古代史は理解できない。</font><font size="3">渡来人と言っても、出雲王家の血とすぐ交わっているのである。だから、単純に出雲系とか渡来系と区別するのは、簡単にいかない。女系家族制の影響もあり、母方の血も重要になる。古代では、血筋が有力視された。奈良時代の都の貴族のほとんどが、海部氏・物部氏・事代主の子孫であったが、大きくとらえれば、みな出雲王家および徐福の血を引き継いでいるので、あまり血筋をとやかく言うことには意味がない。ただ子孫には、自分の家は、海部氏系とか物部氏とか事代主とかの、こだわりがあった。また徐福の腹異いの子孫である物部氏と海部氏は仲が悪く、お互い対抗心を持っていた。腹異いの兄弟の確執は、それは現代にも言える話だ。それを「記紀」では山彦と海彦の話で例えている。尚、物部氏の家系は藤原不比等によって本家筋は歴史の闇に葬られた。物部氏の親族は鈴木姓を名乗った。海部氏の家系はその家系図の「海部氏本系図」、と「海部氏勘注系図」が、国宝となっているにことをもっても現代に脈々と続いている。家系図が国宝となっているのは海部氏家だけである。民間の家系図が国宝になっていることは、どういう意味があるか考えてみてください。海部元首相や、日商岩井の海部副社長も海部氏の家系である。また徐福と一緒に渡来してきた秦（ハタ）族とよばれた人たちの子孫は日本人の多数に上る。波多（はた）や秦（はた）を名乗る人は子孫である。有名な人では、羽田元首相。羽田元首相は自分は秦（ハタ）族の子孫だと明言されている。和国に縄文→弥生と文化向上に尽くしたのが渡来人秦（ハタ）族である。なので本来はかれらは称賛されていい人達である。渡来人＝悪人ではなく、渡来人＝和国の文化発展に貢献した人、である。日本の歴史では、そのへんのところを、下手に隠している。光と影があったが、光の部分は正当に評価が必要だ。だから和国の権力者が出自が渡来人であっても、何ら問題は、<br>ないのである。また徐福の子孫も２世代以降には出雲王家の血が入っているのであり隠す必要はないと思われる。尚、出雲族＝縄文人＝ドラビダ族というのは、母系家族制の権力指向がない、平和を尊ぶ民族だが、反面、人が良い、騙されやすいという欠点がある。それにひきかえ、徐福にしてもヒボコにしても戦乱の絶えない国からやってきて戦には長じており、実践経験の乏しい出雲族とは断然、違っていた。また父系家族制で権力指向のかたまりだ。平和だった和国に、そういう、渡来人がやってきたら、渡来人系がおのずと支配者階級になるのは、いたしかたないことかも、知れない。尚、誤解があるといけないのでかくが、決して和国・出雲人が文化が遅れていたとかでなくインダス文明の子孫であったのでそれなりにあった。中国は４千年の歴史といっても、ほとんどが西のオリエントから文化は入ってきた。それに対して日本は直接インドからインダス文明をひきついでいたので、中国に引けをとるようなことは、さほどなかった。但し中国は父系制度だったため権力指向が強いため政治体制が進んでいた。母系制度の平和に暮らしていた日本人は征服されやすい面があった。しかし人民は簡単に渡来人系には従わない。そこでヤマトの歴代大王は、事代主の血を引く三輪山の姫巫女を后に迎え、その人気を利用し、政権を維持した。また「幸の神」を神道として、国家行事に取り入れ、人心の掌握に努めた。但し、支配者階級に都合が良かったとはいえ、さすがに出雲王国を史実から葬りさったのは、やりすぎだ。それは当時の支配者が先住出雲系でなく、渡来系だと自ら言っているようなものだ。しかし、出雲王国に限らず、アイヌ民族にしても然り、次に記述する安倍王国にしても、敗者の歴史とは正史からは抹消されてしまう運命にある。古今東西そういうもので、さほど異なものではない。。但し、歴史の闇に葬られた敗者の歴史に光をあてることが、子孫の役目ではないかと考える。「記紀」が書かれた奈良時代以降、歴代政府、また政治家はわが国で最も古い出雲王国を無視しつづけてきた。それは自国の歴史について無知で日本人の先祖に対して先祖不幸をしていると、言われても仕方がないのである。</font></p>
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<pubDate>Tue, 09 Feb 2016 19:22:45 +0900</pubDate>
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<title>徐福と出雲王家はすぐ混血した</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">■■■■徐福と出雲王家はすぐ混血した■■■■</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">■秦から徐福は約２千人弱の秦人を引き連れ出雲王国に渡来してきた（紀元前２１９年頃）</font></p><p><font size="3">■徐福（出雲）→火明（ホアカリ）と和国風の名前を名のる。「記紀」ではスサノオとされた</font></p><p><font size="3">■徐福・ホアカリ（出雲）＋高照姫（大国主の娘）＝五十猛（いそたけ）誕生。</font></p><p><font size="3">■徐福は出雲王国で王に就任することができず、失望し、一旦秦に帰国する。</font></p><p><font size="3">■五十猛は、姓を海（あま）とし、海（あま）五十猛となる。</font></p><p><font size="3">■海　五十猛は成人し、出雲の秦（ハタ）族を引き連れ、丹波に移住する。</font></p><p><font size="3">■海　五十猛→海　香語山（かごやま）（丹波で改名する）</font></p><p><font size="3">■海　香語山＋大屋姫（大国主の孫娘）＝高倉下→紀伊国造→武内宿祢→蘇我氏</font></p><p><font size="3">■五十猛＋穂屋姫（九州の徐福の娘）＝海　村雲が誕生。「記紀」が海を（天）の字に変える</font></p><p><font size="3">■海　村雲は成人し、出雲人が開拓したヤマトへ１万人近い丹波人を引き連れ、集団移住する。</font></p><p><font size="3">■海（天）村雲＋タタライスズ姫（事代主の娘）＝→海部氏（尾張氏）→</font></p><p><font size="3">■秦から徐福は約３人千の秦人を引き連れ九州に再来日した（紀元前２１０年頃）</font></p><p><font size="3">■徐福（九州）→ニギハヤヒという名前を名のる。「記紀」ではニニギノという名にされた。</font></p><p><font size="3">■徐福（出雲）→火明（ホアカリ）、徐福（九州）→ニギハヤヒで同一人物異名である。</font></p><p><font size="3">■「記紀」では徐福（出雲）はスサノオ、徐福（九州）はニニギノという名にされた。</font></p><p><font size="3">■徐福（九州）＋市杵島姫（出雲王国の分家・宗像家の娘）＝ホホヒデミ誕生→物部氏</font></p><p><font size="3">■徐福（出雲）での五十猛、徐福（九州）でのホホヒデミは腹異の兄弟である。</font></p><p><font size="3">■「記紀」では腹異の兄弟、五十猛とホホヒデミのことを海彦と山彦の神話にしている。</font></p><p><font size="3">■徐福（出雲）での五十猛が海部氏、徐福（九州）でのホホヒデミが物部氏になる。</font></p><p><font size="3">■古代の政治を動かした海部氏と物部氏の始祖が徐福である。その意味でも徐福の渡来は、歴史上、大変に重要なことであり、徐福渡来が分からなければ古代史は理解できない。</font><font size="3">渡来人と言っても、出雲王家の血とすぐ交わっているのである。だから、単純に出雲系とか渡来系と区別するのは、簡単にいかない。女系家族制の影響もあり、母方の血も重要になる。古代では、血筋が有力視された。奈良時代の都の貴族のほとんどが、海部氏・物部氏・事代主の子孫であったが、大きくとらえれば、みな出雲王家および徐福の血を引き継いでいるので、あまり血筋をとやかく言うことには意味がない。ただ子孫には、自分の家は、海部氏系とか物部氏とか事代主とかの、こだわりがあった。また徐福の腹異いの子孫である物部氏と海部氏は仲が悪く、お互い対抗心を持<br>っていた。腹異いの兄弟の確執は、それは現代にも言える話だ。それを「記紀では山彦と海彦の話で例えている。尚、物部氏の家系は藤原不比等によって本家筋は歴史の闇に葬られた。物部氏の親族は鈴木姓を名乗った。海部氏の家系はその家系図の「海部氏本系図」、と「海部氏勘注系図」<br>が、国宝となっているにことをもっても現代に脈々と続いている。家系図が国宝となっているのは海部氏家だけである。民間の家系図が国宝になっていることは、どういう意味があるか考えてみてください。海部元首相や、日商岩井の海部副社長も海部氏の家系である。また徐福と一緒に渡来してきた秦（ハタ）族とよばれた人たちの子孫は日本人の多数に上る。波多（はた）や秦（はた）を名乗る人は子孫である。有名な人では、羽田元首相。羽田元首相は自分は秦（ハタ）族の子孫だと明言されている。和国に縄文→弥生と文化向上に尽くしたのが渡来人秦（ハタ）族である。なので本来はかれらは称賛されていい人達である。渡来人＝悪人ではなく、渡来人＝和国の文化発展に貢献した人、である。日本の歴史では、そのへんのところを、下手に隠している。光と影があったが、光の部分は正当に評価が必要だ。だから和国の権力者が出自が渡来人であっても、何ら問題は、ないのである。また徐福の子孫も２世代以降には出雲王家の血が入っているのであり隠す必要はないと思われる。尚、出雲族＝縄文人＝ドラビダ族というのは、母系家族制の権力指向がない、平和を尊ぶ民族だが、反面、人が良い、騙されやすいという欠点がある。それにひきかえ、徐福にしてもヒボコにしても戦乱の絶えない国からやってきて戦には長じており、実践経験の乏しい出雲族とは断然、違っていた。また父系家族制で権力指向のかたまりだ。平和だった和国に、そういう、渡来人がやってきたら、渡来人系がおのずと支配者階級になるのは、いたしかたないことかも、知れない。尚、誤解があるといけないのでかくが、決して和国・出雲人が文化が遅れていたとかでなくインダス文明の子孫であったのでそれなりにあった。中国は４千年の歴史といっても、ほとんどが西のオリエントから文化は入ってきた。それに対して日本は直接インドからインダス文明をひきついでいたので、中国に引けをとるようなことは、さほどなかった。但し中国は父系制度だったため権力指向が強いため政治体制が進んでいた。母系制度の平和に暮らしていた日本人は征服されやすい面があった。しかし人民は簡単に渡来人系には従わない。そこでヤマトの歴代大王は、事代主の血を引く三輪山の姫巫女を后に迎え、その人気を利用し、政権を維持した。また「幸の神」を神道として、国家行事に取り入れ、人心の掌握に努めた。但し、支配者階級に都合が良かったとはいえ<br>、さすがに出雲王国を史実から葬りさったのは、やりすぎだ。それは当時の支配者が先住出雲系でなく、渡来系だと自ら言っているようなものだ。しかし、出雲王国に限らず、アイヌ民族にしても然り、次に記述する安倍王国にしても、敗者の歴史とは正史からは抹消されてしまう運命にある。古今東西そういうもので、さほど異なものではない。。但し、歴史の闇に葬られた敗者の歴史に光<br>をあてることが、子孫の役目ではないかと考える。「記紀」が書かれた奈良時代以降、歴代政府、また政治家はわが国で最も古い出雲王国を無視しつづけてきた。それは自国の歴史について無知で日本人の先祖に対して先祖不幸をしていると、言われても仕方がないのである。</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida/entry-12125771725.html</link>
<pubDate>Sat, 06 Feb 2016 18:49:40 +0900</pubDate>
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<title>記紀では隠されたが中国の史書には歴史と残っている</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3"><strong>■■秦の始皇帝を騙して和国に渡来した徐福■■紀元前２１９年頃■■</strong></font></p><p><font size="3"><strong><br></strong></font></p><p><font size="3"><strong>　始皇帝は、その短い１５年の治世期間に広い中国を５回も行幸している。表向きは威厳を示すためと言われたが、真の目的は不老長生の薬探しだったと言われる。始皇帝は永遠の命が得られるということで、水銀を飲んで亡くなったと言われるくらいの不老長生オタクだった。徐福は自分が住んでいるとこに行幸して来た始皇帝に近づき、蓬莱(ほうらい・和国のこと)には仙人が住んでいて不老長生の仙薬があると手玉にとり、莫大な金を使わせ、山（シャントン）半島から蓬莱を目指した。先遣隊として徐福の息のかかった○○が親子で先に出雲王国に到着した。銅鐸に似たような物を土産として、後日、大集団が来るので上陸の許可を願いたいと。言葉どおり、翌年、紀元前２１９年頃に、出雲の五十猛海岸に見たことがない何十隻の大船団が現れた。約２０００人弱にのぼる童男童女がアリの隊列のように上陸した。秦から来た彼らは、高級機織りの技術を持っていたので秦（ハタ）族と呼ばれた。尚、徐福は仙薬探しというのは口実で、本当は和国の王になるという野心を隠して始皇帝を騙して，和国へやって来た。</strong></font><font size="3"><strong>「史記」「秦始皇本記」に記事がある。「「紀元前２１９年、始皇帝は諸郡県を巡行した。ろうや山（シャントン省）に三か月も留まった。その時、斉人の徐福らが上書して述べた。・・海中に三つの神山があり、名前は蓬莱と方丈ほうじょう・えい州と言います（蓬莱は和国、方丈は韓国のチェジ島、えい州は沖縄だと言われる）島上に仙人が住んでいて、仙人は不老長寿の仙薬を持っています、心身を清め、けがれなき童男童女を連れて仙人を求めたいと思います」と。そこで始皇帝は徐福をつかわし、童男童女数千人をおくって、海に出て仙人を探させた。また「漢書」の「地理志<br>」に千童県という地名が書かれているが、その地名は３７０年間続いた。唐代の書「元和群県図志」に次のように書かれている。「じょ安県はもと漢の「千童県」で、徐福が衣食や船と梶を準備した所である」と。現在そこはホーペイ(河北)省塩山県「千童鎮」となり、そこには徐福集団の、日本渡海を記念して、立派な千童祀が建てられている。</strong></font></p><p><br><font size="3"><strong>■■徐福の再来日　紀元前２１０年頃■■</strong></font></p><p><font size="3"><strong>　「史記」「秦始皇本記」に徐福のその後の話がある。３７年（紀元前２１０年）、始皇帝はシャントン省に至った。方士の徐福は海に浮かんで仙薬を求めたが、数年すぎても得られず、使った費用は莫大であったから、責任を取らされるのを恐れて偽って言った。「蓬莱島の薬を手に入れることは可能です。しかし幾度も大ザメに苦しめられて、島に着くことができません。どうか弓の名手を連れて行かせて下さい。大ザメが現れたら弩を連発して仕留めましょう」同じ年の話が「史記」「准南衡山列伝」にも書かれている。徐福に神仙妙薬を求めさせたが、徐福は帰ってきて、偽って言った。臣は海上で神に出会いました。すると、その神は言いました。「おまえは西皇(始皇帝)使者か」と。「いかにも」と臣は答えました。神は「お前は何を求めるのか」と聞いた。「願い賜りたい物は、長生不老の薬です」と臣は答えました。「西皇（始皇帝）は礼献が少ないので、見せることはできるが、与えることはできない」と神は言いました。その後、神は臣をつれて東南方の蓬莱に至りました。銅色竜形の使者がいて、天に昇り輝いたので、臣が拝んで改めて問いました。「<br>どんなものを献上すれば、かなうでしょうか」すると神は「童男童女と五穀と各種百工を献上すれば薬が得られる」と言いました。始皇帝はこれを聞いて大いに喜び、さっそく男女三千人と五穀・種々の熟練工を与え海に行かせた。徐福は平原平沢を得て、とどまり王となり、帰ってはこなかった。この記録により、３千人以上の人々が出航し黄海を東南へ向かったことがわかる。かれらの出発した所は、シャントン半島北部のポンライ（蓬莱）という海岸だと言われる。蓬莱島を目指して出発したので、この名前がついた。徐福と童男童女の２回目の渡航は、北九州を目指した。そして有明海沿岸に着いた。着いた島国には「平原」がある、と「史記」に記されている。その平原は筑紫平野であった。築後川の下流の諸富から柳川にかけては、古代には沼地だったので、「広沢」と言われた、と考えられる。徐福は２回合わせて５千人以上の、若い男女を新天地に連れてきた。紀元前２００年頃の５千人以上の子孫は、その後、大きな人口になっている。日本書紀は中国人にも見せるために、漢文で書かれた。徐福集団の渡来を中国人が知ると、倭国は中国の植民地だと軽く見られることを、外交上警戒したのかも知れない。奈良時代に書かれた古事記と日本書紀には、徐福集団の渡来は隠された。しかし現代は、奈良時代と事情が違うので、もはや隠す必要はないと思われる。徐福集団の渡航については、「後漢書」「東夷伝」にも書かれていて、中国では史実だと考えられている。「会稽（かいけい）（長江の河口地域）の海のかなたに東　（とうてい）人（倭人）がいる。分かれて、二十余国になる。伝えて言うには、「秦の始皇帝が方士(道教の師)徐福を遣わし、童男童女数千人をひきいて海を進み、蓬莱の神仙を求めさせたが、得られなかった。徐福は誅(ちゅう・罰の死)をおそれて、あえて帰らず、ついにこの州に止まった。かれらの子孫が増えて、数万家になる。かれらの中には、時に会稽に行って交易を行う者がいる」と。吉野ケ里遺跡は紀元前２００年頃に造られた徐福集団の住居跡である。新しく秦を築くということで築秦国となり、その後なまって筑紫国になった。また、かれらが築後平野で焼いた土器が日本の弥生土器の基になっており、弥生時代というのは徐福集団がもたらした。尚、徐福は出雲王国では火明（ホアカリ<br>）と名乗り、九州ではニギハヤヒと名乗った。それぞれ名前は違うが同じ人である。だから旧事本記では「ホアカリニギハヤヒ尊」と続けて書いて、一人と見なしている。徐福は築秦王国を造ったのち、築後平野で亡くなったという。だから、吉野ケ里遺跡のどこかに埋葬されている可能性が大きい。「肥前国風土記」の三根の群に「むかし三根の群と神埼の群は、合わせて一つの群であった」との記事がある。神埼の群に「むかし、この群に荒れる神がいて、往来の人が多く殺された」と書かれている。徐福集団は先住民を追い払い抵抗するものは殺したのであろう。その徐福が上陸した佐賀県諸富町の道角には、立派な徐福の全身像壁画が飾られている。徐福は上陸したとき、まず<br>井戸を掘らせたという、その井戸が今も民家の裏に残されている。それが「テアライ（手洗い）の井戸」と呼ばれたが、なまって「寺井」の地名となった。そこの小川にかかる橋には「徐福寺井橋」と書かれている。徐福は上陸し落ち着いたあと、西北方の金立（きんりゅう）山に登り天を拝んだ。今その山の頂上には、金立神社上社（佐賀市金立町）がある。麓に、金立神社下社が鎮座する。金立神社には、徐福を「金立大権現」として、まつっている。童男童女たちは成人しても、故郷に帰れずに、筑紫平野方面で亡くなった。かつての童男童女をまとめて「海童神」とした供養塔が、下社の境内にひっそりと建っている。出雲市に徐福集団の子孫が建てた海童神社があるのと同じく、佐賀市の西方、白石町深浦竜王崎にも「海童神社」が鎮座する。長崎自動車道のサービス・エリア近くに、徐福長寿館（佐賀市金立町）がある。そこでは、徐福伝承や薬用植物の展示をおこなっている。徐福集団が上陸後住んだ地域が、志波屋遺跡群だと考えられるが、その拠点集落が吉野ヶ里遺跡である。その遺跡の特徴は徐福が住んでいたシャントン省にある「臨し城」と吉野ヶ里遺跡はそっくりだということた゜。また遺骨を納めるために埋めた「かめ棺」が二千基以上出土している。それはシシャントン省から出土しとたものと同じだ。銅剣や鋳型工具が出土してるが秦時代のものだ。「肥前国風土記」の三根の群・物部の郷に記事がある。「この郷にの中に、神の社がある。・・・その神を鎮め祭られた。これにより物部の郷という」三根の群・物部の郷は吉野ヶ里の近辺であり、吉野ヶ里には徐福が住んだ。そこには物部氏の重要な旧跡であったことは、奈良時代までは知られていた。しかし「記紀」に書かれなかったので、忘れられたと言う。また、同じ、九州人でも「佐賀県人が歩いた後は、ペンペン草も生えぬ」と言うが、なるほどと思わせる話である<br>。</strong></font></p><p><br><font size="3"><strong>■「ユダヤの失われた十士族」の子孫<br>　<br>　尚、話は前後するが徐福が住んでいた斉という国は、「ユダヤの失われた十士族」の子孫が住んでいた地域と言われている。古代ユダヤ人は黒髪・黒目のモンゴロイドであった。時々、日本人＝ユダヤ人という説が話題になることがあるが、まんざらトンデモ話ではないのである。徐福は道教の方士（グル）であった。道教というのは、ユダヤ教とそっくりで、夜、山に登り、星を拝む信仰である。「７」を聖数としているのも同じだ。またイスラエルの国旗に採用されている、「ダビデの星」は中国では六亡星と呼ばれ、日本では「カゴメ紋」とされている。秦（ハタ）族と呼ばれたかれらの大半が「ユダヤの失われた十士族」の子孫と考えられる。</strong></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida/entry-12125768230.html</link>
<pubDate>Sat, 06 Feb 2016 18:33:24 +0900</pubDate>
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<title>弥生時代は徐福集団渡来でもたされた</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#333333" size="5"><strong>日本最大の秘密にして最大のタブー</strong></font></p><p><strong><font color="#333333" size="5">和国(出雲王国)は徐福集団(古代最大の渡来集団・弥生人)により滅ぼされる。和国は渡来人に牛耳られた。<font size="3">奈良の都の貴族はほとんどは徐福の子孫であった。記紀では本当の和国の歴史は隠された。</font></font></strong><font size="3"><font color="#333333"><strong>騙され続けている日本人のルーツ。</strong></font><strong><font color="#333333">日本人の思考停止の古代史を糺す。</font></strong></font></p><p><font size="5"><font color="#333333"><strong>古代史で欠落している最大の重要なこと</strong></font><font color="#333333"><strong>は、２点。</strong></font></font></p><p><font color="#ff0000" size="5"><br></font></p><p><font color="#0000ff" size="5">１点目が、徐福の渡来大集団</font></p><p><font color="#0000ff" size="5">２点目が、出雲王国の事実</font></p><p><font color="#ff0000" size="5"><font size="5"><br></font></font></p><p><font color="#ff0000" size="5"><font size="5"><font color="#000000">最近、エグザイルが「島根には本物がある」、というプロモーションに出演していて話題になっていますが、その昔、ラフカディオハーンも松江に日本の古代の元風景を感じたと、いうことを残しています。古代出雲王国は和国で最初に文明が開いた国です。和国で鉄が最初に生産されたのが出雲のたたら製鉄です。鉄は国家なりという言葉があるが古代においてはまさしく鉄こそが国家の繁栄を左右していた鍵だった。鉄によって石器時代から文明が飛躍し、富も集まり、自然に王国が成立した。鉄こそが文明の源になったのです。戦前、ドイツの建築家ブルーノ・タウトがを訪れ、古代の木造建築の傑作と褒めたたえた神魂神社(松江市大庭)こそが</font></font></font><font color="#ff0000" size="5"><font size="5"><font color="#000000">古代、出雲王国の王宮があったとこだ。ちなみに地名の大庭は王の場・庭という意味があり、現在は大庭という漢字表示になっている。古代出雲王国のことは徐福のあとに説明します。古代出雲王国こそが日本人のルーツであり、日本人はそのことを奈良時代に書かれた記紀によって神話で誤魔化されたため史実であることを忘れてしまった。</font></font> </font><br></p><p><br></p><br><p><font size="5">紀元前200年頃から紀元後300年頃までの神話で</font></p><p><font size="5">誤魔化された古代史の事実を明らかにします。</font></p><p><font size="3">■古代最大の渡来集団■紀元前２１９年頃■紀元前２１０年頃■</font></p><p><font size="3">　徐福集団は秦国から和国へ前後２回渡来している。計５０００人以上が渡来してきた。古代の５０００人はその後、何万、何十万人の人口になった。日本で一番多いとされる鈴木姓は物部氏系の子孫の苗字であるる徐福集団の大渡来は光と影があった。光の部分では和国の文化発展に大きく貢献した。それが社会科で習った、縄文→弥生の変化だった。教科書では縄文時代に渡来人が来て、稲作、等他、文化が伝来され弥生時代になったというふうな記述と記憶しているが、それは、いつ頃、集団渡来だったのか、数人の散発的な渡来だったのか、また、渡来人はその後どうなったのか。渡来人の頭は誰であったのか。発達した文化をもってきたのであれば、渡来人の具体的な名前とか、残ってて不思議ではない。文化がブレークスルーしたのであれば、ちゃんとした記録が残っているのが当然だ。教科書の簡単な記述は、どう考えてもおかしい。また教科書では縄文人と渡来人が、融合したと簡単に書いてるが、物見遊山で渡来人が来たとは、とうてい考えられない。「記紀」で徐福集団の渡来をいくら隠しても、徐福集団が渡来してきた出雲や丹波また二度目の渡来地の佐賀には徐福集団の伝承や、遺跡が多数残っている。<br></font></p><p><font size="3">■第一次徐福集団渡来、出雲王国に現れる■紀元前２１９年頃■</font></p><p><font size="3">　紀元前２１９年頃、約２０００人を引き連れた最初の渡来地は出雲王国であった。「記紀」では<br>出雲での徐福はスサノオという名に変えられた。また渡来してきたことは、スサノオの出雲への天<br>孫降臨という神話に変えられた。徐福は秦の始皇帝を騙して和国へきた。物見遊山で来たわけでな<br>く、真の目的は和国の王になるためだった。徐福は有名な大国主の姫・高照姫を妻にもらったにも<br>かかわらず、とんでもない事件を起こした。当時の第八代・主副王である大国主と事代主の同時暗<br>殺テロ事件を引き起こした。徐福としては自分が和国の王になるには、大国主にとって代わるのが<br>手っ取り早いと考えたのであろう。しかし徐福は王になれる見込みはなく一旦、秦に帰国しさらに<br>もっと大勢の秦人を連れてきて野望を果たそうと決断する。当時、出雲王国は文明が栄えており、<br>徐福集団の渡来があっても支配されるとか属国になるとかは、なかった。同時暗殺テロ事件のこと<br>を古事記では、「スサノオが天照大神(出雲の太陽の女神)の耕作田の畔(畔)をこわし、用水溝を埋<br>め、新米のご飯を供えた神殿に排泄物を、まき散らした」という例え話で暗示している。</font></p><p><font size="3"><br>■第二次徐福集団渡来地は九州■紀元前２１０年頃■</font></p><p><font size="3">　二回目の渡来地は九州有明海であった。今度は３千人余りを引き連れての渡来であった。「記紀」では九州での徐福のことをニニギネという名に変えた。そして日向、高千穂の峰に天孫降臨した神話の話に変えた。尚、徐福の九州での子孫は物部氏を名乗るようになった。子孫の代になると筑紫平野一帯を支配下に収めた。新しく秦を築くという意味で築秦国としたが、後になまって筑紫国になった。尚、「吉野ケ里遺跡」は徐福集団の居住跡である。<br></font></p><p><strong><font color="#000000" size="4">ヤマト政権やヤマタイコク、卑弥呼の話はその後の話であり枝葉である。</font><font color="#333333"><font size="4">この２点を隠し続けているため、古代史は要とせず</font><font size="4">さっぱり、わからない話になっているのである。</font><font size="4">尚、本プログの趣旨は例えば天皇の出自は渡来系</font><font size="4">とか、出自云々を暴くことでなく歴史の事実を残す</font><font size="4">ことが目的である。</font></font></strong></p><p><strong><font size="4"><br></font></strong></p><p><strong><font size="4">欧米の歴史においても、例えば米国の歴史では先住民を虐殺・レイプした血塗られた歴史、ハワイ王朝を陰謀で滅ぼした歴史等は正史として扱われなく、歴史の敗者の言葉は残されないのが現実です。</font></strong></p><p><strong><font size="4">フランスも過去、十字軍でイスラム世界を攻め、女子供を殺して食う残虐なことをおこなっている。第４次十字軍では突き落としの刑は目隠しではなく目を抉って塔から突き落としている。フランスは主人このために働くのを拒んだ植民地人にギロチンにした。そのため植民地の町にはギロチンがあった。翻って日本では何が敗者の歴史として隠されているのか。日本の場合、世界でも唯一という古代史の歴史が神話に隠されていて史実が隠されている。神話と歴史を混同しているのである。最大の原因は歴史学会の学者は大学の教授であったり、等で国家のタブーにふれることは公務員では給料をもらっている身分では触れることはできないのである。。国立何とかセンターの所長の見解といったものも同様である。また日本では明治政府により天皇を利用した国家神道が全面にでて記紀の</font></strong><strong><font size="4">絶対視が行われ、天皇バンザイ</font></strong><strong><font size="4">と国民も熱風のごとく狂気の時代を体現し、そのため自国のルーツ、古代史に疑問を持たない国民性になった。その証拠に「建国記念日」について疑念をもつ国民はいないのである。</font></strong></p><p><strong><font size="4"><br></font></strong></p><p><font color="#0000ff" size="5">徐福の渡来大集団</font></p><p><font color="#000000" size="5">■隠された古代最大の渡来集団</font></p><p><font color="#000000" size="5">■弥生時代は徐福集団によってもたされた</font></p><p><font color="#000000" size="4">■弥生式土器も彼らによってもたされた</font></p><p><font color="#000000" size="4">■徐福は和国の王になるため蓬莱(和国)を目指した</font></p><p><font color="#000000" size="4">■徐福は不老長生の仙薬が蓬莱にあると健康オタクの始皇帝を手玉にとった胆力の人物</font></p><p><font color="#000000" size="4">■ユダヤ教、道教には蓬莱信仰があった。海に浮かぶ理想の地</font></p><p><font color="#000000" size="5">■秦の始皇帝の時代２度の渡来(計5千人余り)</font></p><p><font color="#000000" size="4">■徐福の渡来については、記紀では隠されたが中国では正史として扱われている。出発した海岸には海童の立派な石碑がたてられている。海童というのは徐福が蓬莱(和国)に連れて行った何千人にも及ぶ童男童女のことである。他、徐福の立派ん像など</font></p><p><font color="#000000" size="4">ゆかりの地に多数あり、子孫が住んでいる村は徐福村と名付けられている。</font></p><p><font size="4"><font color="#000000">■</font><font color="#000000">徐福集団は和国の文化向上に大きく貢献した</font></font></p><p><font color="#000000" size="4">■一方、徐福は出雲王国の主・副王である大国主</font></p><p><font color="#000000" size="4">と事代主を身の毛も立つ壮絶な暗殺テロを行い、</font></p><p><font color="#000000" size="4">命を奪った。詳細は後日記述の出雲王国の記事で</font></p><p><font color="#000000" size="4">■徐福の出雲渡来については、記紀でははスサノオの出雲への天孫降臨になっている。秦から来た渡来人とは書けなかった。つまり渡来人のことは記紀では天孫降臨した表現で書かれており、渡来人のことは天孫族となっている。暗殺テロを暗喩する表現では、スサノオは新米が祭ってある神殿において排泄物をまき散らした、という表現でかかれている。</font></p><p><font color="#000000" size="4">■徐福のことは出雲王国で行った悪事があるため</font></p><p><font color="#000000" size="4">徐福の子孫や同じ渡来してきた集団は出自を公にしずらい面があった。また悪事が思いだされることを恐れ、出雲王国のことも神話で隠された。</font></p><p><font size="4"><font color="#000000">■記紀が書かれた都の貴族そのほとんどは徐福の腹異いの子孫である物部氏、海部氏の子孫は先祖が出雲王国で行った悪事について800年経った奈良時代でも、そのことを覚えており大国主と事代主の怨霊に怯えていた。そのため出雲</font><font color="#000000">のことを黄泉の国と言って恐れた。</font></font></p><p><font color="#000000" size="4">■出雲祝詞はなぜ行われたのか。奈良時代に出雲から神職が多数、都に行き時の政権に対して、出雲祝詞をおこなったが、それは出雲はヤマトに対して怨霊をもたず平服し、国譲りを明確にします、という意味である。</font></p><p><font color="#000000" size="4">■出雲王国の暗殺テロ事件があったため、記紀では本当のことは書けなかった。徐福のことも出雲王国のことも神話でぼかされて書かれた。</font></p><p><font color="#000000" size="4">■古代の5千人はその後、大きな人口になった</font></p><p><font color="#000000" size="4">■日本で一番多い苗字の鈴木姓は徐福の子孫の</font></p><p><font color="#000000" size="4">物部氏系の姓である</font></p><p><font color="#000000" size="4">■一度目は紀元前219年頃、出雲王国に渡来</font></p><p><font color="#000000" size="4">■徐福は出雲王国で主副王の暗殺テロ事件を起こしたが和国で王になることはできず一旦、秦に帰国し始皇帝に嘘の報告をしさらに大人数の人民と各種、物品を用意させ２度目の蓬莱行を始皇帝に許可させる。</font></p><p><font color="#000000"><font size="5">■２度目は九州有明海に上陸</font></font></p><p><font color="#000000" size="4">■記紀では船で来た渡来人とは書けず、権威を高めるため日向の峰にニニギノが天孫降臨したと書かれた。渡来人とは書けないため。</font></p><p><font color="#000000" size="5">■吉野ヶ里遺跡は徐福集団の居住跡</font></p><p><font color="#000000" size="4">■佐賀県には徐福長寿館があり、そこの説明にも2200年前に中国の方士・徐福が不老不死の薬を求めて佐賀に上陸したといわれてい ます。</font></p><p><font color="#000000" size="4">■秦からきた彼らは新しく秦を築くという意味で筑秦</font></p><p><font color="#000000" size="4">国とした。その後、なまり筑紫となった</font></p><p><font color="#000000" size="4">■秦からきた彼らは高級な機織りの技術を持っていたのでハタ(秦)族と呼ばれた</font></p><p><font color="#000000" size="5">■徐福は出雲ではホアカリ、九州ではニギハヤヒ</font></p><p><font color="#000000" size="5">　と名乗る。</font></p><p><font color="#000000" size="5">■記紀では徐福のことは出雲神話でスサノオ。</font></p><p><font color="#000000" size="5">　九州神話ではニニギノと書かれている。</font></p><p><font color="#000000" size="5">■徐福＝ホアカリ＝ニギハヤヒ＝スサノオ＝ニニギ　　</font></p><p><font color="#000000" size="5">　ノは同一人物異名である</font></p><p><font color="#000000" size="4">■国宝になっている海部氏家系図には、海部氏の祖は、ニギハヤヒとなっている。すなわち徐福である。</font></p><p><font color="#000000"><font size="5">■徐福の出雲の子孫は丹後に移住し丹後王国をつ　　　　　　　　　　　　</font> </font></p><p><font color="#000000" size="5">　くり、その後ヤマト(先に出雲族が開拓)に移住。</font></p><p><font color="#000000" size="5">■出雲族と協力して作ったのが初期ヤマト政権</font></p><p><font color="#000000" size="5">■その子孫は海部氏となる。</font></p><p><font color="#000000" size="5">■海部氏の家系図は国宝に指定。また皇室に多く</font></p><p><font color="#000000" size="5">　はいっている。</font></p><p><font color="#000000" size="5">■記紀では天村雲とか、海彦で例えられている</font></p><p><font color="#000000" size="5">■九州の徐福の子孫は物部氏となる</font></p><p><font color="#000000" size="5">■記紀に書かれた神武東征は物部氏が２度にわ　　　　<br>　　たったヤマト攻めを一つにまとめて書いてある</font></p><p><font color="#000000"><font size="5">■徐福の腹異いの海部氏と物部氏は仲が悪くお互　</font> </font></p><p><font color="#000000" size="5">　対抗心を持っていた</font></p><p><font color="#000000" size="5">■記紀では海彦と山彦の例話で仲の悪さを書いて<br>　ある</font></p><p><font color="#000000" size="5">■記紀が書かれた奈良時代の都の貴族のほとんど</font></p><p><font color="#000000" size="5">　は海部氏と物部氏と事代主(出雲王)の子孫である。かれらが古代の政治を動かした。</font></p><p><font color="#000000" size="4">■記紀が書かれた奈良時代、外交上、和国は渡来人(中国人)が支配者などとは書けなかった。見下される。属国扱いになる恐れがあったため。</font></p><p><font color="#000000" size="4">■徐福をはじめ付いてきた集団は「ユダヤの失われた十氏族」の末裔である。</font></p><p><font color="#000000" size="4">■ユダヤ人は元々、黒目・黒髪のアジア系である。</font></p><p><font color="#000000" size="4">■たまに日本ユダヤ同胞論が話題になるが、上記の理由による。トンデモ話ではないのである。</font></p><p><font color="#000000" size="4">■徐福は道教の方士であり、道教というのはユダヤ</font></p><p><font color="#000000" size="4">　教と瓜二つの教義である</font></p><p><font color="#000000" size="4">■道教もユダヤ教も夜、山に登り星を拝む</font></p><p><font color="#000000" size="4">■日本で仙がつく山はほとんどが彼らが信仰で登った山である</font></p><p><font size="4"><font color="#000000">■道教の六芒星（ろくぼうせい)、ユダヤ<font color="#000000">教のダビデの星も同じである</font></font> </font></p><p><font color="#000000"><br><font size="4"><br></font></font></p><p><font color="#000000" size="4">次回は徐福が始皇帝を騙し和国にきた詳細の記事を書きます。</font></p><p><font size="4"><br></font></p><br><font color="#000000" size="1">急上昇 総合 新登場 人気プログ <br></font><br><p></p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida/entry-12124306958.html</link>
<pubDate>Tue, 02 Feb 2016 19:37:25 +0900</pubDate>
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