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<title>国家最大のタブー</title>
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<description>かぐや姫のおとぎ話には子孫に気づいて欲しい暗号が隠されてた。</description>
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<title>勇ちゃんサイコー(*≧∀≦*)</title>
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<pubDate>Wed, 09 Dec 2015 20:13:50 +0900</pubDate>
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<title>渡来人、和国の王になる  隠された日本の源流</title>
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<![CDATA[ <br><p>今朝、日経を見てたら朝鮮通信使を世界記憶遺産へ登録を目指す決起大会を長崎県「対馬」で行った、との<br>記事がありました。全くそのことに水を差す話ではないのですが、「対馬」の名前の由来について。中<br>華思想では、他民族を意味する言葉には、動物(魚を含む)の字を使う。ヤマト国を「邪劣な馬の台地<br>の国と蔑字(軽蔑の漢字)と馬の字を使って邪馬台国と表した。ヒミコについては姫巫女(ヒメミコ)の<br>ことを聞き間違えたのか、メを省いたのかのいずれかである。同様に蔑字を使い卑弥呼と書いた。ちなみにヒミコとは、宇佐家の豊玉姫である。話はとんでしまったがツシマは古くは、津島と書いた。意味<br>は「良港のある島」である。ところが漢民族が「対の馬の国」と書いたら、日本人も真似して「対馬」と書いた。なぜ 「日本書紀」でヒミコ・ヤマタイコクの話は省かれたのかというと、話は簡単である。<br>渡来人の子孫が和国の王になったからである。日本書紀が書かれた当時、奈良の都の貴族の大半は、渡来人・徐福の子孫である物部氏や海部氏が占めていた。先祖(渡来人)が和国の王になった話など、とても外交上、書けなかった。ちなみに日本で一番、多い姓である鈴木姓は物部系である。</p><br><p>■ヒミコ、ヤマタイコク不毛赤面論争</p><p>ヒミコ、ヤマタイコクは歴史の断面では、第二次物部東征の一コマである。詳細は、かぐや姫コード<br>(下巻)・「渡来人、和国の王になる」を参照。まずヒミコの正体は宇佐豊玉姫である。宇佐家という<br>のは、宇佐八幡宮の社家であり、九州の豊前と豊後が分かれる前の豊王国の王家だった。尚、豊王国<br>のウサ（宇佐）（ウサ族も母系家族制であった）。豊王国の宇佐王家は、豊前と豊後の中間の宇佐に<br>あった。月の女神（月読尊）月を拝む民族だった。ウサギ族と最初、言われてたが、なまってウサ族<br>になった。第二次物部東征を計画していた物部イニエ大王の再婚相手が宇佐豊玉姫であった。第二次<br>物部東征を実行する前に物部イニエ大王は短命で九州で亡くなった。宇佐豊玉姫は皇太后として女王<br>となり、イニエ大王の意志を引き継ぎ、第二次物部東征軍総指揮者となった。実行する前に魏に使い<br>を送り、魏の属国になるからヤマトの女王として認めてもらうことと、鏡、親魏和王の金印や旗等を<br>うけたまわった。第二次物部東征は物部軍と豊国軍とタジマモリ（辰韓ヒボコ子孫）軍の連合で行わ<br>れた。侵攻軍は瀬戸内方面と山陰側に分かれて進軍した。豊国軍が安芸の国に留まっていた２４８年<br>頃、女王宇佐豊玉姫は安芸国のえノ宮で没し、その遺体は「安芸の宮島」に仮埋葬された。戦時中で<br>あるので、女王の墳墓は厳島には造られなかったが、遺骨は宇佐に移された。宇佐八幡宮から見える<br>奥山に、墳墓があると言われるから、それが豊玉姫の墓であるらしい。遺骨の一部は宇佐神宮に移さ<br>れ、本殿の二ノ御殿の下に、ウサ家の先祖と共に祭られていると言う。二之間の神は「姫神」とされ<br>ている。</p><p>　中国人は中華思想により、他国のことを動物（魚を含む）の字を使ったり、蔑字で書いた。ヤマト<br>の国のことをそれで、邪馬台国（邪し馬の台地の国の意）と書いた。日本人が勝ってに日本語読みし<br>て、ヤマタイコクにしてるだけだ。尚、豊玉姫の娘・豊のことを台与（トヨ）と別に記載があるが、<br>台は（ト）と読む。ヒミコについては、中国人には姫巫女ヒメミコがヒミコに聞こえたらしい。それ<br>で蔑字で卑弥呼と書いた。尚、話はちょっとややこしいが、魏書に書かれた卑弥呼（姫巫女・ヒメミ<br>コ）は二人いて１人目が、魏書前半に書かれているのは１５０年頃のヤマト磯城王朝第７代のフトニ<br>大王の娘の三輪山の姫巫女(女司祭者)のモモソ姫である。魏書後半に書かれたの２人目の卑弥呼（<br>姫巫女・ヒメミコ）が、論争になっている卑弥呼（姫巫女・ヒメミコ）・宇佐宇佐豊玉姫である。宇<br>佐豊玉姫は月神信仰の姫巫女であった。どちらも同じ（姫巫女・ヒメミコ）・卑弥呼なのである。</p><p>■中韓連合に滅ぶ■紀元２５０年頃</p><p>　その物部氏勢力の猛攻撃というのは、中韓連合であった。「出雲王国」は紀元前４００年頃～紀<br>元後２５０年頃の６００年以上の長きに続いた王国であった。渡来人の徐福の九州の子孫である物<br>部氏の軍勢と紀元１世紀頃に辰韓（新羅）から渡来してきたヒボコの５世の子孫である田島間守（<br>タジマモリ）率いるヒボコ軍勢の渡来人連合による猛攻撃で滅ぼされた。特に田島間守（タジマモ<br>リ）は、先祖・ヒボコと家来集団が、出雲での上陸を許可されなかったことを根にもっていた。そ<br>のため、東征する前に出雲王家を皆殺しにすると宣伝していた。そして田島間守（タジマモリ）率<br>いるヒボコ子孫勢力は当時の出雲の祭場・田和山の王宮を猛攻撃で破壊した（田和山遺跡）。それ<br>が第二次物部東征での道中での出来事である。「記紀」では神武東征として書かれた。日本で最初<br>の王国、「出雲王国」は中韓連合によって、滅ばされた。残念ながら日本の政治家は自国の歴史を<br>知らないから、歴史認識で中韓にとやかく言われるのだ。それは、恩讐としてではなく、史実とし<br>て歴史を知るということだ。</p><p>■竜神(へび)信仰</p><p>　インドのガンジス川に昔、ワニがいたと言う。ワニは怖れられ神に祭り上げられたて、河の神と<br>呼ばれた。同じくコブラも怖れられち、森の神となった。両者は合体されナーガ（竜神）となり、<br>ドラビダ族に崇拝された。その竜神信仰を出雲族が倭国に持ってきた。その竜神が幸の神（サイノ<br>カミ）の眷属（けんぞく）神になっている。出雲族は竜をワラで作り、木にまきつけて、拝んだ。<br>その木は神木とされ、「斎（さい）の木」と呼ばれた。山陰地方は「斎（さい）の木」信仰が盛ん<br>な地域である。出雲族の竜信仰はへび信仰にもなっている。尚、縄文時代は、ほとんとが出雲族だ<br>った。ある時、縄文人が土でへびのトグロを作り、それを素焼きにした。そしてひっくり返して、<br>内側をなめらかにしたら器にいいことに気付いた。それが縄文土器の始まりだった。またヘビは世<br>界各地で男根の意味に使われた。ヘビ＝生殖でもあった。尚、東出雲王国の向家の紋章は、竜鱗枠<br>（りゅうりんわく）銅剣交差紋であった。外枠はいわゆる亀甲紋ではなく、出雲族の崇拝する竜神<br>・ヘビのウロコの形である。銅剣は王者の象徴ともいわれた。出雲系の神社の社紋の外枠は竜鱗枠<br>になっている。山陰地方「ワラヘビ」の風習がある。竜神が斎の木を伝って昇天し、また斎の木を<br>伝って、天から地下に戻ると言う。その姿を示すために、地区の人々が集まってワラで竜を作る。<br>それを「ワラヘビ」と呼ぶ。出雲地方では、稲刈の後の十一月に、「荒神祭り」として、それを作<br>る。伯耆地方では、「ワラヘビ」の腹に大きな男根を付ける村もある。斎の木に巻き付ける時、「<br>抱き締めろ、抱き締め」と囃す。木の根には白い紙垂（男の種水の表象）がつけられる。白い紙垂<br>が多いと、男が元気な印で、お芽出度いという。　</p><p>■日本人と注連縄</p><p>　「記紀」で出雲王国史が抹消されたため、日本人は民族の源流、風習の意味がわからなくなった<br>。また幸の神(サイノカミ)のことも日本人は忘れてしまった。幸の神(サイノカミ)も国家に神道と<br>して横取り、利用された。そのため、日本人が本来もっていた原始土着的信仰・アミニズムがどこ<br>から来たのかわからなくなった。それは例えば、注連縄の本来の意味を知る日本人は皆無だ。イン<br>ドから民族移住したドラビダ族＝縄文人＝出雲族、幸の神信仰のことがわからないからだ。注連縄<br>とは出雲族のへび信仰に由来するものだ。注連縄とは雄雌のへびの交尾である。へびの交尾はあの<br>ようにぐるぐる巻きになって相手の目を見つめ抱き合い、固く結び合って行われる。古代人は自分<br>の種族を残すために、全身全霊を生殖に捧げている姿に崇高すら感じ、これは神の姿だと思った。<br>その一日がかりで行われる、その凄まじい子孫繁栄の性エネルギーの姿に圧倒され、神聖な畏怖の<br>念をもった。「へびの交尾」の表象が注連縄である。また白い紙垂は雄のあふれでる種水を表して<br>いる。三つの房は生まれてくる三匹の子を暗示する。現代人はへびというと、眉をしかめると思う<br>が、古代ではへびは動物の王者だった。なので古代オリエントでは王家の紋章はへびが使われた。<br>古代エジプトでもそうであり、クレオパトラはへびの冠をしていた。ドラビダ族＝縄文人＝出雲族<br>は古代人の素直な精神を引き継いでいた。自然の猛威、怖い動物、大きい岩・・等々は古代では自<br>然に崇拝の対象となった。その古代人の自然に対する素直な崇拝する精神、また性の原理すなわち<br>生命創生・穀物豊作・男女和合・子孫繁栄といった自然の原理を何より芽出たいと崇拝する精神が<br>あったからこそ、注連縄・「斎（さい）の木」・縄文土器、等々の造形が生まれた。自然のあらゆ<br>るものに崇拝の気持ちを持った、それが八百万の神々と呼ばれるようになった。尚、神社というの<br>は、鎮座する敬う先祖神に、生命創生のシンボルである注連縄（へびの交尾）を前に、子孫繁栄を<br>祈願する所である。</p><p><br>■太陽信仰</p><p>　出雲族はインドから、太陽の女神スーリアも持って来た。その太陽信仰では、東の山から昇る朝<br>日を拝む習慣になっていた。出雲族は早寝早起きだった。薄暗いうちに起き、朝日が昇るときに、<br>家族が一緒に太陽を拝む習慣があった。紀元前２１５年頃、徐福が出雲王国で主・副王の同時暗殺<br>テロ事件を起こした後、出雲族は渡来人との共生を嫌う人が多かった。そして新天地での王国造り<br>を目指した。そしてまだ人がほとんどいなかった、ヤマト（奈良）を開拓した。葛城から、三輪山<br>見えた。形が美しいので、多くの人が崇拝した。出雲族たちは、よく見える場所に集まって、昇る<br>朝日と共に拝んだ。出雲王国と同じく、年２回春分と秋分の日に、事代主の娘・タタライスズ姫が<br>司祭となって、太陽と山の神に祈る祭りを行った。当時は、祭政一致の時代であった。そして母系<br>家族制の影響で姫巫女（女司祭者）が政権者（男の王）より、尊敬の大きい、いわゆる姫巫女（ひ<br>めみこ）制になっていた。出雲王国と同じく、祭りに集まる人々の結びつきから、幸の神信仰と協<br>力の政治が行われた。その政治はマツリコゴトと呼ばれた。大和の各地の人々が集まるようになっ<br>たので、祭りを三輪山の西山麓ですることになった。大和の人々は、彼女を三輪山の太陽の女神で<br>あるかのように崇拝した。以後、三輪山の太陽の女神の姫巫女は代々、事代主の家系の東出雲王家<br>(富家、出雲臣家、のちに、むかい向家と名乗る)の分家の登美家の姫が執り行う、仕来たりになっ<br>た。三輪山の太陽の女神、はその後、伊勢に移された。それは奈良時代に書かれた「記紀」では、<br>天照大神として、皇室の始祖神にされた。三輪山の地元の伝承では「神武さんより、三輪山の神さ<br>んのほうが先だ」という伝承がある。三輪山の祭神は事代主とへびになっている。鴨都波神社、一<br>言主神社、大神神社、高鴨神社、御歳神社といったヤマト（奈良）の古社はすべて出雲族が建てた<br>神社だ。。三輪山の近くには出雲屋敷がのこっている。尚、近年巻向くの遺跡が話題になっている<br>が、１５０年頃の三輪山の太陽の女神の姫巫女・モモソ姫時代の三輪山の太陽の女神祭祀に、遠方<br>各地から、かけつけた豪族の宿泊するところであった。日本という国名も事代主の血をつぐ安倍王<br>国が最初に名付けた。それも太陽信仰からきている。</p><p><br>■幸の神（サイノカミ）◇◆◇◆クラウドファンディング◇◆◇◆</p><p>　その後、出雲の各地の代表は春分の日と秋分の日に王宮・神魂の丘（松江市大庭町・王の庭、場<br>という意味）に集まり大祭を行った。そしてドラビダ族＝縄文人＝出雲族の民族移住の指導者だっ<br>たクナト王を民族の守護神として定め、幸の神（サイノカミ）と呼んだ。また幸の神（サイノカミ<br>）は家族神(幸の神三神)で構成された。主神が「クナト大神」、母神を「幸姫の命」、息子神を「<br>サルタヒコ」と呼ばれた。サルタはドラビダ語で長鼻（男性器の隠語）という意味なので、サルタ<br>彦は「鼻高神」とも呼ばれる。幸の神（サイノカミ）の特色は子孫繁栄（生殖）の神である。先祖<br>・幸の神を敬い、子孫繁栄の守護を祈願するものだった。子孫繁栄には結婚と出産が必要である。<br>幸の神(サイノカミ)は「縁結びと子宝の神」とも言われる。子孫繁栄（生殖）には広い意味では、<br>夫婦円満、子宝安産、万物創生、五穀豊穣、男女和合、豊作祈願、招福除厄、無病息災・・等が含<br>まれる。つまり性の原理(生命創生・五穀豊穣・自然原理)を芽出たいとする考えが人生の基本にな<br>っていた。また古代は医療が未発達で祈るしかなかった。自然の猛威の前にも同様だった。世界の<br>３大宗教は性を罪悪視する考え方だが、日本人は幸の神（サイノカミ）のおかげで、性に対して寛<br>容な国民性となった。また３大宗教のような一神教、排他的な考えをもつことが避けられた。また<br>幸の神（サイノカミ）のおかげで日本人は先祖神を何より敬う精神構造になった。幸の神の（サイ<br>ノカミ）が全国に広まり、各地の御柱(男根崇拝)祭り、有名なもので名古屋小牧の「豊年祭り」、<br>長野の女男神像、等がある。尚、神道というのは幸の神（サイノカミ）が国家に横取りされたもの<br>である。地方の田舎の家では神棚に先祖神・幸の神（サイノカミ）を拝んでおり、神道とかと呼ぶ<br>庶民はいないのである。正月と言えば日本最大の行事であるが、正月も元々は幸の神（サイノカミ<br>）の行事として始まった。正月は幸の神（サイノカミ）さんのことを特別に歳徳神・歳神（としが<br>み）さんと呼んだ。お供えを用意し先祖神の歳神（としがみ）さんを家に招き迎えた。そして女夫<br>が添寝をし、仲よく幸せにやっていますよというところを見せて、先祖神・歳神（としがみ）さん<br>に安心をしてもらうことが重要だった。だから正月の姫初めは大事な神事だった。尚、紀元前１０<br>０年頃にヤマトに出雲族が建てた正月の神さんを祭る御歳神神社が鎮座する。「記紀」が出た後、<br>神社の祭神は政府の意向で出雲系の神、及び「幸の神」はずいぶん変えられた。それは「記紀」で<br>初めて登場したイザナギとかイザナミ等々に変えられた。それでも出雲系の神、大国主や事代主を<br>祭る神社が現在でも、全国各地に多数ある。それだけ幸の神（サイノカミ）信仰が、日本全土にひ<br>ろまっている証拠である。それは縄文人＝出雲族＝日本人の民族の風習・伝統・行事といった民衆<br>レベルのことは、支配者が変わろうが、なかなか変わることはないのである。またへびのトグロに<br>似た山が、「神がこもる山」(神名備山かんなびやま)として崇拝された。中国地方最高峰の大山は<br>、伯耆富士ともいわれるように、三角錐の形をしており、代表的な神名備山である。その大山は、<br>出雲王国時代から奈良時代までは、大神（おおがみ）山と呼ばれていた。何故、大神山（おおがみ<br>やま）と呼ばれていたかと言うと、出雲王国の王宮がある大庭おおば（松江市大庭町）から、春・<br>秋の年２回の大祭の時に遠方、各地から参集した豪族たちは、、各種、催しもの・宴会が終わった<br>最後に、全員で東の彼方にクナトの大神がこもるとされた崇高な大神山（おおがみやま）に向かっ<br>て遥拝した。その後、大神山（おおがみやま）の麓には、大神山（おおがみやま）神社が遥拝地と<br>して建てられた。また後に大神山（おおがみやま）の、山腹に大神山（おおがみやま）神社奥社も<br>建てられ、現在も続いている。尚、なぜ大神山（おおがみやま）が、大山（だいせん）と呼ばれる<br>ようになったかというと、奈良時代に仏教勢力が強くなり大神山に大山寺（だいせんじ）を建てた<br>。それ以降、地元の人々は大神山（おおがみやま）と言わずに、大山寺（だいせんじ）があるので<br>大山（だいせん）と呼ぶようになった。尚、大神山（おおがみやま）神社が出雲王国、サイノカミ<br>、クナトの大神の名残を今に留めている。しかし残念ながら、なぜ昔、大神山（おおがみやま）と<br>言われていたのかということを知っている地元の人は、いない。これも「記紀」の影響で出雲王国<br>が忘れられたからだ。尚、クラウドファンディングで資金集めをして、幸の神アーカイブ（記録・<br>保存）プロジェクトを計画しています。ご賛同いただける方はご連絡ください。</p><p><br>■「三」は聖数</p><p>　尚、サイノカミ(幸の神)三神というように、幸の神では、「三」が聖数として扱われた。それで<br>結婚式で使う三三九度用の三つ重ねの盃は「三三クナト」の意味が込められている。大きい盃は花<br>婿を、中の盃は花嫁を、上の盃ははうまれてくる赤ん坊を象徴する。三宝も幸の神からだ。</p><p>　また、三拍子そろうと縁起が良い、も幸の神三神からきている。万歳三唱（当時はイズメ、イズ<br>メイズメ）も聖数「三」からきている。締めの拍子を三つ打つのも同様である。</p><p>　幸の神三植物は松竹梅だ。松の葉は乙女の下の毛に似ているので（若松様）と呼ばれ縁起が良い<br>。竹の筒は男性のアレである。梅の花は、幸の神では「産め」に通じるので、最高の花とされる。<br>　<br>■「八」も聖数</p><p>　太陽信仰からきており、日本海軍旗のように、朝日が八方に光りを放つ姿に見えるのでその八本<br>の光から来ている、という。</p><p>　サイノカミ(幸の神)では、「八」も聖数になっている。例えば「ワラヘビ」は尻尾を八回巻き終<br>わると、竜の威力が現れると言う。頭に締める「ハチマキ」はそれに起源を持ち、ヘビの霊力によ<br>り、幸運が訪れると言われた。</p><p>　八の字は末広がりで縁起が良いと言われた。地名・人名では八雲、八束郡、八重垣、八千矛（や<br>ちほこ・大国主の個人名）、八重波津身（やえなつみ・事代主の個人名）<br>　<br>　出雲の枕詞が「八雲立つ」になったのは、八の聖数のためだった。　　<br>■その他、出雲・「幸の神」発祥の神事、一部紹介</p><p>○餅つき<br>幸の神の芽出たい神事だ。臼（うす）」が女神で、杵「きね」が男神とされる。突いて出来た餅は<br>子宝とされる。</p><p>○綱引き<br>古代の綱引きは、蛇の交尾にあやかって始まった。雄綱と雌綱が結ばれることは、神事を意味する<br>。そして、引き合うことは、夫婦円満・子孫繁栄のお芽出たい、姿とされた。</p><p>○神事相撲<br>これは今、島根県隠岐の島に残っている。古代出雲では、紅白試合があったと言われる。勿論、赤<br>は女で、白は男だ。現代では紅白試合の意味が忘れられている。男女が組むから、神事相撲と言わ<br>れた。</p><p><br>○トンド祭り<br>女正月とも呼ばれる。陰暦では、一月の満月の日に行われた。古くは、日本の「母の日」でもあり<br>、その日は産んでくれた母に感謝し、一切の家事や食事は子どもや婿がした。また、人生の最後を<br>「トドのつまり」からトンド焼きと名がついた。火をつけ煙となって、神名備山に魂は宿ると昔の<br>人は考えた。</p><br><p>○梅雨<br>古くは「幸水垂れ（さいみずだれ）と呼んだ。それがつまって、五月雨（さみだれ）になった。こ<br>れは旧暦の五月で、新暦では六月に相当する。旧暦五月は初めは幸月（さいつき）呼ばれたが、つ<br>まって「サ月」になった。</p><p>○お月見<br>ススキの穂は父を表す。花瓶と盆は母の象徴だ。ウサギの団子は、父母で作った子宝を意味する。</p><p>○霜月祭り<br>隠岐の島町・知父には、霜ツサ粥の行事がある。それは「月（つき）」の発音が利用されている。<br>牛の日に行われる。牛は、その「角突き」にあやかっている。若い連中が、乙女達を若者宿に招待<br>する。彼達が、白かゆ（種水の暗喩）を煮て神棚に供え、彼女達にも見せてご馳走する。その狙い<br>は「下(しも)突き」で、各地の霜月祭りとも共通する。なぜならば旧暦の仕果（しは）つ月（十二<br>月）は禁欲月だったから、その前に充分に股草を重ねて置きなさいという行事だった。<br>－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－<br></p>
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<pubDate>Sat, 20 Jun 2015 21:19:13 +0900</pubDate>
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<title>和国で最初の鉄生産「たたら製鉄」野だたら　鉄が国家の繁栄を左右していた鍵</title>
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<![CDATA[ <p>◇◆◇◆◇◆たたら製鉄◇◆◇◆◇◆◇◆<br>◇◆◇◆クラウドファンディング◇◆◇◆</p><p><br>■出雲の「黒い川」</p><p>　本州に渡たり、東北地方に住んだ後、移住者は分かれて行った。クナト王の子孫は日本海沿岸を<br>南に移動し、最後には出雲の地に住みついた。暖かい関東平野や濃尾平野があるのに、なぜ雪深い<br>寒い出雲に住んだのか。その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。黒い川とは、<br>現在の斐伊川のことであろう。その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがある。古代に<br>は砂鉄がもっとも重要な産物だった。斐伊川は「聖なる川」としてあがめられた。その川には、「<br>ゆまり」（小便）をするのも禁じられた。「鉄は国家なり」と言われるが、古代でも国家の繁栄を<br>左右していた鍵は鉄だった。石器から鉄器の時代になると文明は飛躍的に発展する。自然に川底に<br>たまった砂鉄は「川粉（かわこ）ガネ」と呼ばれた。、タタラはドラビダ語で「猛烈な火」を意味<br>する。日本で最初に行われた製鉄は、「野たたら」と呼ばれた。このような鉄の低温精錬は、古代<br>にオリエント地方でも行われたことが知られている。出雲王国は「鉄器の国」とも呼ばれた。それ<br>は明治期の西洋の近代的製鉄が導入される江戸時代まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の８０<br>～９０％を担っていた。尚、クナト王の子孫は、イズモに住み着いた。インドの熱帯では、常緑樹<br>が濃緑色にしげっていた。それに対し、新しい土地では、春に芽が出た森の色が、目にしみるよう<br>に美しく感じられた。かれらはその色をめでて自分たちの地方を「出芽（いずめ）の国」と呼んだ<br>。その発音が変化して「出雲の国」になったと伝わる。</p><br><p>■野だたら◇◆◇◆クラウドファンディング◇◆◇◆</p><p>砂鉄「川粉（かわこ）ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。<br>　山の真砂(まさ)・（花崗岩が風化したもの）がくずされて、「鉄穴流し(かんなながし)」が行わ<br>れた。それは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。奥出雲山地の真砂砂鉄は、チタンな<br>ど有害不純物が少なく、低温精錬が容易で還元性に優れている。そして雨が長く降らず土が乾燥し<br>た時季に、奥出雲の山地で風の強く当たる傾斜地にね直径７０センチほどの深い穴が掘られる。そ<br>こには火が焚かれ、木炭と砂鉄が交互に入れられる。そしてタタラの横の小穴から、強風を吹きつ<br>ける。この作業の指揮者を、炭坂と呼ぶ。温度が七百度以上になると、タタラの底かの穴からズク<br>（銑）を取り出すことができる。このような鉄の低温精錬は、古代にオリエント地方でも行われた<br>ことが知られている。そのタタラの横穴からは、金くそも取り出す。これは不純物のチタンなどが<br>、粘土と化合したものである。長時間の加熱の後に、野ダタラの穴はこわされる。そして、底に固<br>まった円盤状のケラ（鉧）を取り出す。それは上質なケラで、刃金の材料になった。それで、ウメ<br>ガイと呼ぶ両刃の小刀が作られた。野ダタラ製鉄は、江戸時代まで行われた。鳥上山の上に周辺に<br>は、多くの野ダタラ跡があった。捨てられた金くそが散らばり、タタラで使った木炭の破片が土の<br>上にこぼれている。つぎに、大鍛冶場が造られる。土の湿気を除くために、地面を煉瓦のように焼<br>く。その上に粘土で炉を築く。炉の横には羽口が付き、そこから吹子で風を入れる。そのタタラで<br>、野ダダラから出た鍛鉄を加熱して脱炭し精錬する。つぎに小鍛冶場で、脱炭したり浸炭したりし<br>て、鉄製品を作る。だから製鉄加工遺跡は、野ダタラと大鍛冶場と小鍛冶場の三種類に分けられる<br>。出雲の砂鉄の出る山地と野ダタラの穴を作る土地を所有し、製鉄と鉄器生産を支配していたので<br>、古代出雲王はオオナモチ（大穴持ち）と呼ばれたと言う。津軽の岩木山方面に金屋子神がまつら<br>れているが、鉄の作り方を大国主が教えたとの伝承がある。和国の弥生遺跡からは、鉄製品ととも<br>に鉄器で削られた木製品が数多く発掘されている。遺跡の年代測定は、国立民族博物館の春成教授<br>らにより、精度の高いＡＭＳ法が行われるようになった。すると、弥生時代の遺跡は従来の推定と<br>は異なり、歴年代（実年代）が約五百年も古いことがわかった。中国で最古の鉄製品は、西周末の<br>遺跡から出土した鉄剣である。新しいＡＭＳ法での測定によると、福岡県の曲り遺跡の実年代は紀<br>元前９００年となった。その結果、そこから出土した鉄製品が中国出土の鉄製品より古いことにな<br>った。これは、和国の鉄の生産と使用が、中国の影響によるのではなく、インド方面から直接に和<br>国に伝わったことを意味している。明治期の西洋の近代的製鉄が導入される江戸時代まで「たたら<br>製鉄」は日本の鉄の総生産の８０～９０％を担っていた。「野だたら」の伝統はその後、途絶えて<br>しまったが、日本刀の原材料として欠かせないということで現在は日本刀の伝統を守るために、日<br>本刀保存協会の資金援助のもと、「野だたら」の伝統が復活している。現在の最先端の鋼（はがね<br>）生産技術をもっても、原始的な「野だたら」で作られるカネ・鉄（はがね）の品質には、およば<br>ないとのことで日本刀保存協会が、日本刀の伝統を守るために、「野だたら」の支援、援助してい<br>る。尚、「野だたら」でできるハガネの原料は新日鉄住金、日立金属でもその品質は作れないとの<br>こと。原始的だが最先端技術でも作れないものである。本来であれば、国からの支援があってしか<br>るべきであるが、一切国の支援もなく、日本刀保存協会の支援、援助だけで、かろうじて現状、細<br>々と伝統が維持できている。いつ資金難とかで伝統が途絶えてしまうことを憂慮すれば、一刻も早<br>く幅広くクラウドファンディングにより、浄財を集めて、「、野だたら」の伝統の維持に留まらず、<br>世界最高峰のハガネとして、ドイツのゾーリンゲンを超え、積極的に最高級の医療用メス、最高級<br>のハサミ、最高級の包丁等、汎用品でなく高級品であらたなニーズをつくっていきたい。そして「<br>野だたら」を現在でも経済的に儲かるものとして、復活させ地域経済に貢献できないかと考えてい<br>ます。それが「野だたら」をした先祖への恩返しではないかと思います。ご賛同いただける方は、<br>ご連絡ください。</p><p>和国で最初に鉄生産「野だたら」が行われ文明のブレークスルーがおき、繁栄したのが出雲王国で<br>ある。その名ごりを残すものとして、●「<font color="#ff0000"><strong>金屋子（かなやご）神社</strong></font>」製鉄や鍛冶の神様で、同名の<br>神社は全国に千二百社もあり、ここがその総本社。製鉄・冶金関係者らが現在でも数多く参拝して<br>います。他に●「<font color="#ff0000"><strong>和鋼博物館</strong></font>」、●「<strong><font color="#ff0000">鉄の歴史博物館</font></strong>」、●「<font color="#ff0000"><strong>野だたらと白椿の里</strong></font>」、●「<font color="#ff0000"><strong>奥出雲<br>とたたら刀剣館</strong></font>」、●「<font color="#ff0000"><strong>たたら角炉伝承館</strong></font>」、●「<font color="#ff0000"><strong>鉄の未来科学館</strong></font>」●「<font color="#ff0000"><strong>金持神社</strong></font>」等があります<br>。明治期の西洋の近代的製鉄が導入される明治初期まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の８０<br>～９０％を担っていた。「野だたら」の伝統はその後、途絶えてしまったが、日本刀の原材料とし<br>て欠かせないということで現在は日本刀の伝統を守るために、日本刀保存協会の資金援助のもと、<br>「野だたら」の伝統が復活している。原始的な「野だたら」で作られるカネ・鉄（はがね）の、そ<br>の品質は、現在の最先端の鋼（はがね）生産技術をもってもかなわない。</p><br><p>■出雲王国の風景</p><p>　出雲の北部には、島根半島がある。その半島は天然の防波堤であった。王の海は波静かで、その<br>岸は良い港となった。誤解が多いが王国の都は現在の松江市である。そこに国の内外から交易の舟<br>が来た。出雲の輸出品はカネと首飾りに使われる玉類であった。勾玉も韓国人が高価で買い求めた<br>。特に鉄は各地の人々に重宝され、買いに来る人々で出雲（松江市）の港や村は賑わった。景気が<br>よかったので毎日、景色の良いところで老若男女が昼間から宴会を開いていた。出雲では庶民は労<br>役を課せられることもなく、厳しい年貢もなかった。それがＤＮＡに刷り込まれていて今も、エビ<br>スさん、ダイコクさん信仰が続いているのかも知れない。出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は各地<br>から求められた。豪族たちが最も欲しがったの鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。それ<br>はウメガイと呼ばれた。それで木を削って木製品をつくるために、日用品としても、使われた。イ<br>ズモ族はインドでの風習であった祭りを、各地で続けていた。春分の日に春祭りを、秋分の日には<br>秋祭りを村中で行った。それは年２回の待ちに待った祭りだった。メインは歌垣で、それはあとの<br>お楽しみ付の合コンのようなものだった。現代人は紀元前２００年頃の事代主がいた時代を想像し<br>ずらいと思うが、胎児の形の勾玉を造るには、その曲線の多い胎児形に石を加工する技術ならびに<br>、また勾玉に糸を通すために穴を開けなければならない。そのためには穴を作るには鉄の錐（きり<br>）が必要だ。石を加工して胎児形の勾玉を造るのは、現代でも容易ではない。紀元前の出雲王国に<br>は、現代でも難しい技術をもっていた文化の発展していた国だった。その名残が松江市に玉造り温<br>泉とか勾玉づくりとして残っている。</p><br><br><p>■世紀の大発見３５８本の出雲型銅剣－神庭荒神谷遺跡－吉備・出雲戦争が原因　昭和５９年発見<br>■埋納された理由のひとつは奥出雲の良質な砂鉄が狙われた</p><p>紀元後１８０年頃、ヤマトの内紛からフトニ王がヤマトを飛び出し、出雲王国領であった、吉備を<br>占領し吉備王国を成立させた。そして吉備から出雲に二つの要求があった。その一つは、出雲の仁<br>多の群と飯石の群を吉備王国に譲ることであった。仁多と飯石の奥出雲は和国でも最も良質な砂鉄<br>がとれる産地であった。二つ目の要求は、すべての銅剣を吉備王国に渡せ、というものだった。出<br>雲の二王家はすぐさま協議し、この要求には応じないことを決めて通知した。結果は怒涛のごとく<br>の吉備兵士の侵攻があり、奥出雲に敵が侵入する段階で出雲の両王家は対応を協議した。神門王家<br>は銅剣を渡す条件で、休戦交渉に入ることを提案した。向王家はそれには反対で徹底抗戦を主張し<br>た。妥協には至らなかった。それで、これからは相手の王家の方針には、干渉しないことを決めた<br>。両家は古くから協力していたから、完全に別れることは望まなかった。しかし実質的には、その<br>時点で出雲王国は東西に分裂した。両家はそれぞれ。独自の外交を行うことになった。対外的には<br>一つの王国であるが、外務大臣が二人いるような状態だった。向家は銅剣を構成員に配ることをや<br>め、すべての出雲型銅剣３４４本を、神に守って貰うために、神庭斎谷の地下に隠すことになった<br>。神門王家はは所有する出雲型銅剣を、吉備王国に差し出すつもりであったが、銅剣そのままを渡<br>すのは、自尊心が許さなかった。それで融かして、インゴットにすることになった。両王家は領地<br>の境である、神庭斎谷に集まった。そして以前に銅矛と銅鐸を埋納した斜面の左側に埋納した。向<br>家所有の銅剣には、×印が刻まれた。それは、向王家の「銅剣交差紋章」の形であった。神門家で<br>は、所有するすべてを融かす予定であったが、１４本を神門家の守護を神に頼むために、一緒に埋<br>納することになった。最終的には、合計３５８本が埋納された。銅剣を埋納した斜面の谷底では、<br>坩堝炉がつくられ、その中に神門家の銅剣が入れられた。融解された銅剣が冷えた頃、陶土の炉が<br>壊された。中から、ただの塊となった青銅が現れた時、見守っていた人々の目からは涙が流れた。<br>尚、桃太郎の鬼退治の話は、吉備・出雲戦争で猛攻撃した吉備津彦の子孫が、先祖が出雲を攻めた<br>とを、正当化し誤魔化すために、おとぎ話を作った。鬼の名を温羅（うら）となづけているが、そ<br>れは裏日本の出雲を指す。現代人はそれを忘れて、吉備・出雲戦争の激戦地の鳥取県溝口町では、<br>「鬼の里」として観光にしている。吉備人に先祖・出雲族が言われのない鬼扱いにされ、その上に<br>またそこで戦士した多数の出雲兵のことを考えれば、現代の大人が歴史を知らないということは、<br>先祖不幸な悲しいことである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida1207/entry-12037846632.html</link>
<pubDate>Fri, 12 Jun 2015 00:53:58 +0900</pubDate>
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<title>かぐや姫コード■1国家最大のタブー</title>
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<![CDATA[ <p>◎かぐや姫の物語には、国家最大のタブーが隠されてた<br>　　<br>■かぐや姫コード</p><p> 「いまは昔、竹取の翁といふもの有りけり」で始まる、かぐや姫の話には、重大なコード（暗号）<br>が隠されていた。おとぎ話は、あくまで隠れミノであり、作者がかぐや姫を創作した真の意図はお<br>とぎ話の中に隠された（コード暗号）であった。かぐや姫の話は、時の権力者が犯した歴史の改ざ<br>んについて糾弾するために、おとぎ話の設定を借りて後世の日本人に是非、気づいてほしいとの命<br>がけの思いで書かれたものて゛ある。これは不都合な事は隠し、自分達の都合のいい話に、歴史を<br>歪曲してしまった虚飾に満ちた「古事記」、「日本書紀」のいわゆる「記紀」の欺瞞を糾弾するの<br>が目的だった。しかし作者が工夫して書いた、かぐや姫の意図は気づかれず、現代では作者の意図<br>とは反対に、おとぎ話が映画化されてしまった。また学者も「記紀」に書かれていることを鵜呑み<br>にして古代史を解説している。日本の古代の歴史を、欺く基を作った「記紀」の欺瞞は１３００年<br>経ても解明されていないのである。歴史の勝者の子孫によって作られた官史。それが正史として後<br>世に残る。。そこに権力者でも及ばない月の明りを照らして、隠された勝者の不都合な歴史、敗者<br>の歴史というものは、一体何だったのか、ということを後世の子孫に探ってもらいたいという願い<br>で「かぐや姫」の物語は、書かれた。</p><p>■封印された「かぐや姫」、２００年後に発表</p><p> かぐや姫の作者は事代主の子孫にあたる伊予部馬飼（うまかい）が書いた可能性が高い。「記紀」<br>が世にでたあと、あまりにものの虚飾に憤慨し、おとぎ話の設定にし、批判とはわからぬように工<br>夫して書いたが、話の比喩、実在の政界実力者をもじった登場人物の設定など、わかる人が見れば<br>時の政界実力者への批判、官史への批判ということは一目瞭然だった。そんな物を世に出したら、<br>一族郎党の壊滅は必至だった。その後、あたり障りのない２００年後に、彼の意志を継いだ子孫が<br>発表した。そういう理由で作者不詳になっている。</p><p>■かぐや姫コード（暗号）とは登場人物とその筋書き<br>　<br>かぐや姫に求婚する５人の貴公子は「記紀」が製作された当時の政府高官がモデルになっている。<br>偽りの多い「記紀」を書かせた人と虚飾を知りながら黙認した人たち、だった。偽物を作らされた<br>金工は、偽物の史書を書かされた、古事記の執筆者、柿本人麿がモデルだ。これが、かぐや姫のお<br>とぎ話の中に埋め込まれた、登場人物とその筋書きが、「かぐや姫コード（暗号）」である。まず<br>、「記紀」に虚偽の話が加えられたことを黙認したことで、悪役にされた三人の名前は、実存の大<br>納言・阿部御主人（みぬし）は物語では左大臣・阿部ミムラジとされて「永遠の皮袋（真実の史書<br>）」を見つけに行ったが、偽物を手に入れて来た。実存の大納言・大伴御幸は物語では同じ位と実<br>名で登場した。かれは竜の玉を得るために、竜神を殺そうとした。神罰のアラシは大伴を襲い、船<br>は転覆寸前となった。雷神は大伴御幸を攻撃し、かれは死に直面した。これは古事記にヤマタのオ<br>ロチ(竜神)を殺す話を作った人を、大伴御幸に例えている。実存の右大臣・丹比（たじひ）島は、<br>物語では石作ノ皇子とされた。丹比氏と石作氏は同族だったからだ。かれは「仏の光る石鉢」を探<br>せられたが、見つけられなかった。かぐや姫の話は、「記紀」製作時の政府高官がモデルになった<br>登場人物が失敗し、罰をうけた話だ。「記紀」の虚飾に怒っていた当時の知識人は、さぞ溜飲が下<br>がったことだろう。</p><p>■藤原不比等への糾弾<br>　<br>作者が一番、糾弾したかったのが、偽りの多い「記紀」を書かせた、時の右大臣・藤原不比等であ<br>った。隠されているが「記紀」の実質総責任者は藤原不比等であった。不比等は、かぐや姫の物語<br>の中では、かぐや姫に求婚する貴公子の中の一人、庫持ノ皇子の名前で登場している。右大臣・藤<br>原不比等の母の名が、車持与志古娘だったので、「車」の字と良く似た字の「庫」にされたらしい<br>。</p><p>■藤原不比等の描かれ方<br>　<br>物語の中で、庫持ノ皇子が、かぐや姫から与えられた結婚の条件は、「真珠の枝」を探してとって<br>くることだった。持ノ皇子は「真珠の枝」を海に行って探すこともせずに、金工に偽物を作らせた<br>。しかも金工に工賃を払わなかった。それらの実態をかぐや姫に見抜かれて、恥をかいた。かぐや<br>姫はほうびとして金工たちに、たくさんの工賃を払った。その後、庫持ノ皇子は金工たちの帰り道<br>を待ち伏せし、血か゜出るまで金工たちを殴り、工賃を奪った。この筋書きは何を暗示しているの<br>か。</p><p>■かぐや姫最大のコード（暗号）<br>　<br>偽物を作らされた金工の名は、漢部（あやべ）内麻呂という名で登場している。これは嘘の多い官<br>史(古事記)を書かされた、綾部(あやべ)柿本人麿がモデルだ。人麿は幼少時は綾部姓で柿本家に養<br>子に行き綾部姓から柿本姓に変わった。この設定は史書製作における右大臣・藤原不比等と柿本(<br>綾部）人麿の関係を表している。庫持ノ皇子と金工・漢部（あやべ）内麻呂のこの登場人物と筋書<br>きが、かぐや姫最大のコード(暗号)である。</p><p>■監禁／流刑<br>　<br>古事記を書き終わったあと、人麿にはとんでもない事件が待ち受けていた。高貴な女性との密会と<br>いう濡れ衣を着せられた。そして、監禁されその後、上総(かずさ)国に流刑となった。はめられた<br>のだ。なぜ人麿はこのような運命にならなければいけなかったのか。それは虚飾の官史を書かせら<br>れためだった。証拠隠滅である。和歌を詠み、日本人の精神風土の土台の一つを作り日本文化に多<br>大な貢献した偉人・人麿は、人生後半は不比等に利用され、虚飾の史書作りに関わらされたために<br>口封じの陰謀にはめられ最後は不幸な運命にされた。そのことを現代日本人は知らないのである。</p><p>■蔭位（おんい）の制</p><p>藤原不比等の時代に律が決められた。あわせて貴族・上級の官吏には経済的・身分的な特権が与え<br>られた。父や祖父の位階に応じた地位が無条件で与えられた。つまり貴族は生まれた時から、どの<br>官職につくか、出世の時期も決められていた。日本書紀に祖先が活躍したことが載れば、それは上<br>級の官吏になれることを意味する。また国史である「日本書紀」に、本当は黒でも白と書かれたら<br>、白になる。権威があった。当時の都は粛清と「蔭位（おんい）の制」があり、北朝鮮と同じ空気<br>があった。現代人には理解できないかも知れないが、それが公家社会の掟だった。お上が黒を白と<br>いったら逆らえなかった。奈良時代までは出雲王国のことは良く語られていたが、国史「日本書紀<br>」がでて講義されるようになると人々は史実として書かれていない、出雲王国のことは語らなくな<br>った。それが１３００年も続いているのである。尚、そういう中での、かぐや姫の作者の「記紀」<br>への批判は命がけ、一族没落と背中合わせだった。</p><p>---------------------------------------------------------------------------------------<br>■何故、かぐや姫の作者の怒りに気づかないのか</p><p>　かぐや姫の作者が後世の子孫に気づいてもらいたいという願いが、何故届かないのか。それはひ<br>とえに、学者の怠慢である。まず古代史を語るのは、その多くは「記紀」、「風土記」の研究者で<br>ある。かれらが語る古代史と言うのは、官史「記紀」＝正史の前提で、「記紀」に書かれている、<br>記述を研究・解釈することが古代史研究と思っている。その学者の書いた、監修した本・雑誌が、<br>書店の古代史コーナーにあふれている。そのために日本人は間違った古代史の常識を持つようにな<br>った。「記紀」研究者は、まず大きな背景を見逃している。国宝となっている「海部氏本系図」、<br>と「海部氏勘注系図」には、海部氏の祖先が徐福であることや、徐福が出雲王国の第八代の王であ<br>る有名な大国主、の娘・高照姫と結婚したことが書いてある。そして生まれた子が五十猛であり、<br>姓を海（あま）とし、海（あま）五十猛と名乗る。成人すると、出雲に渡来してた秦（ハタ）族の<br>集団を引き連れ丹波の国に集団移住した。そして、丹波の国で指導者となり、香語山と改名し、海<br>（あま）香語山となる。、その子が海（あま）村雲である。「記紀」では、天　村雲と書かれた。<br>天　村雲が、出雲人が開拓したヤマトに後から丹波人約一万人を引き連れ、集団移住した。そして<br>、出雲人集団と丹波人集団が協力して、政治的共同体を作った。それが初期のヤマト政権だった。<br>その後、天　村雲が、事代主の娘であるタタライスズ姫と結婚したので、村雲が両集団の代表とさ<br>れた。その代表が、後世に、ヤマト初代大王とされた。尚、海（あま）家は、三韓征服に参加した<br>あと、海部（あまべ）氏と名乗るようになった。近年では海部（かいふ）という呼び名に変わって<br>いる。話は戻るが、その徐福とは、「記紀」ではニニギノとしても書いてある。また「記紀」では<br>よく知られているように初代天皇は、神武天皇と書いてあり、その神武天皇の始祖は「記紀」では<br>、はっきりと日向に天孫降臨したニニギノと書いてある（実際は有明海に上陸したのだが）そのニ<br>ニギノとは、秦国から渡来して来た、徐福である。さらに「記紀」製作の責任者が時の右大臣・藤<br>原不比等ということが、わかっていない。まずわかっていたら、藤原不比等が関わっていることが<br>わかれば、信用に値しないことがわかるはずだ。わかった上であれば、「記紀」を前提に歴史を語<br>るのは、おこがましいのある。さらに「記紀」では歴史書といえ、権力闘争が一切書かれていない<br>不思議がある。戦国時代のような戦乱がないのは、どう考えても、おかしすぎる。戦で一人も死ん<br>でいないのである。記述内容は子ども向け相手のおとぎ話のような物語だ。さらに万世一系になっ<br>ているが、それについては一切、触れないのである。「記紀」は冒頭、国生み神話が書かれている<br>が、これは誰でも作り話だと分かる。また古事記ではその後、神話の話が続き、「出雲神話」と「<br>日向神話」が書かれている。学者はそのまま神話の話と解釈して解説している。ただし考えてみれ<br>ば、なぜ「出雲神話」と「日向神話」が書かれたのか。たんなる暇つぶしで書かれたのか。またな<br>ぜ、「出雲」と「日向」なのか。吉備と讃岐ではダメだったのか。ちょっと考えても史実としてで<br>なく、神話にされた裏には、何か重大な事が隠されていると考えるのが普通である。しかし、神話<br>の絵空事として、学者は史実としてみていない。その証拠に出雲を語る枕詞は「神話の国、出雲」<br>、「神々の国、出雲」、「神代の出雲」である。日本で最初の王国が神話の話にされ放置されたま<br>まになっているのである。さらに古代最大の渡来集団の徐福集団の渡来に関しては、古代史、最大<br>の事件であるはずの、縄文→弥生になった記述が「記紀」には一切、書かれていないことである。<br>それは、ペリーの黒船襲来の事件を隠して、江戸から明治時代になったと書かれているのと同じで<br>あるが、学者はそういうことを一切し無視し指摘もしないのである。</p><p><br>■かぐや姫の作者は何に怒っていたのか<br>　<br>　それは「記紀」では古代史、歴史年表で言えば弥生時代の歴史が、いいように改ざんされている<br>ことだった。それは紀元４００年頃～紀元後３００年頃の歴史である。但し、あえてそういうこと<br>は、声高に指摘しなくても「記紀」のその時代の記述が歴史年表に採用されていないことを見ても<br>、学問的には史実と認められていない証左である。一番、大きい理由は、持統女帝の指示で「記紀<br>」は、史話を撰善言（よきことえらぶ）巻末資料参照で書くことに、なったからである。これは簡<br>単にいうと、ＴＶの水戸黄門のようなものだ。実際の水戸光圀の史話ではなく、子どもが見ても安<br>心な脚色した話で正義は悪に最後は勝って、メデタシで終わるような話だ。だから結果、史話は嘘<br>で嘘を塗り固めた、ような話になった。史話が１８０度、変わってしまうのである。だから、そう<br>いうことを踏まえて「記紀」を見なくてはいけない。しかし、現代の学者は、「記紀」に書いてあ<br>る虚構の話の上面の解説に全労力を費やしており、例え話から、真実を探ろうという考えがないの<br>である。そのため、「記紀」の古代史に関しては、マンガの解説のような内容ばかりである。例え<br>ば「本能寺の変」を、撰善言（よきことえらぶ）方式で書くと、お殿様も旅先で戸締り、火の元に<br>注意しないと火事に遭います。よい子は火遊びに気を付けましょう。と言った話に変わってしまう<br>のである。子ども向けには、いいかも知れないが、大人が読む史書として耐えられない内容になっ<br>た。だから「記紀」には、権力闘争、戦争、裏切り、騙し合い、攻撃、滅亡と言った歴史の真実は<br>語られず、子ども向けの、マンガのような歴史書が、官史となった。他に万世一系方式の編集方針<br>も史実と異なる結果になった。これは例えると、織田政権、豊臣政権、徳川政権と政権が代わって<br>も同じ政権が続いているように見せることだ。それは、徳川政権は初代は徳川信長、二代目は、徳<br>川秀吉、三代目が徳川家康といった具合だ。また権力闘争を書くことも禁じられたので「比叡山焼<br>き討ち」、「大阪夏の陣」といった戦があっても、「記紀」では、隠された。尚、天武天皇以前の<br>大王は万世一系方式のため天皇にされた。また、万世一系方式のため、それらの大王には「記紀」<br>で創作された天皇名が付けられた。さらに天孫降臨をする話を入れることになった。人間が天孫降<br>臨することなど、おとぎ話ならいざ知らず、歴史書に天孫降臨の話をいれたら、歴史でなくなる。<br>以上の理由で「記紀」は史実とかけ離れた話が多数、存在する結果になった。まだ「記紀」の虚飾<br>は他にも多数あるが、以上みただけでも、かぐや姫の作者だけでなく、大人であれば誰でも、あま<br>りにものの虚飾に憤慨するのである。神話・歴史的おとぎ話なら許せるが、しかし大人が「記紀」<br>は官史だから、書かれていることは正しいとの思い込みで、まともに読むと有害な面がある。元総<br>理が「日本は神の国」発言をして話題になっていたが、総理大臣でも「記紀」の虚飾を信じている<br>のである。それは明治政府以降の王政復古政策により、官史「記紀」は絶対的になった。その時代<br>の国民は天孫降臨した話も信じたのであった。それは官史ということで嘘でも本当のことだと思わ<br>せる権威があるのである。かぐや姫の作者は官史「記紀」の何に怒っていたのか。生命の保障も顧<br>みず時の権力者に楯突いても、かぐや姫コードで、子孫に是非わかってほしいという願った真善美<br>とは何だったのか。史実でない記述が大半を占める史書を、偽書とするならば「古事記」は偽書と<br>言うことができる。日本書紀は、古事記より後の時代も書かれていて、後半に偽りが少ないので、<br>詐偽が過半数とはならない。</p><p>■「記紀」により日本人は間違った古代史の常識を持つようになった。</p><p>「記紀」では「出雲王国」と「徐福集団の渡来」のことを史実としてではなく、神話の話に変えた<br>。文明が栄え、日本で最初の王国である出雲王国だったが、国史により神話の話にされたため、出<br>雲は「神話の国」として語られるようになった。そしてはまた、弥生時代の到来をもたらした「徐<br>福集団の渡来」についても、「記紀」で出雲へのスサノオの天孫降臨、日向・高千穂のニニギノの<br>天孫降臨で誤魔化した。「出雲王国」と「徐福集団の渡来」という古代史の根本が何故、史実とし<br>て隠されて、神話の話にされたのか、それは簡単に言うと、勝者の子孫の都合で隠された。しかし<br>、史実として抹消しても何らか触れないと誰も納得しない。そこで神話の話にして差し替えた。何<br>の意味もなく「出雲神話」や「日向神話」が書かれた訳ではないのである。奈良時代に書かれた「<br>記紀」のせいで、日本人は１３００年間も、自国の歴史について、誤った認識を持つようになった<br>。それは日本人は、どこからやってきたのかを忘れる結果になった。そして日本人の先祖は、中国<br>大陸や朝鮮半島から、渡って来たんじゃないかと漠然と考える国民になった。それは官史（記紀）<br>＝正史と思い込む、お上に弱い国民性も影響している。日本人は自国の古代の歴史については、思<br>考停止した国民になってしまったのである。</p><p>■日本古代史研究レベル<br>和国、最初の歴史書「日本書紀」、「古事記」、「風土記」についての学者の見識は、狭い専門知<br>識範囲での見解であり、俯瞰した知識がないのである。依って史学者・考古学者の見識というのは<br>単純・純朴そのものである。誰が何の目的で、どういう背景で書かれたのか推測する能力が、完璧<br>に欠けている。それは、専門分野以前に洞察力がないのである。「日本書紀」、「古事記」が、書<br>かれた当時の政治状況、政治を動かした人物は誰か。誰が国の支配者であったのか、大きな時代の<br>流れの視点等の観点が全く欠け落ちているのである。そういうことを抜きに「記紀」をとらまえて<br>語るのは、いささか狭量すぎるのである。また歴史というのは、日本書紀」、「古事記」以外に民<br>間の風習・祭り・伝統があり、それらのほうが真実の歴史があり重要であるが、フィールドワーク<br>もなく、それらの知識がないのに堂々と学者は専門分野での知っている狭い範囲での古代史を語っ<br>ているのが日本古代史の現状である。つまり、日本の古代史と言うのは、神話解説者や、「記紀」<br>研究者がいたり、古墳至上主義の考古学者がいたりで、古代史は狭い専門分野しかわからない学者<br>が好き勝手なことを言う、言いたい放題が現状であり、そのため日本の古代史は混沌としてしまっ<br>た。言いたい放題が古代史の現状である。戦国時代以降は様々な敗者の歴史にも光が当たっている<br>が、古代史に関しては、依然とし勝者の歴史＝正史「記紀」のみであり、敗者の歴史に光をあてる<br>研究は、まったくなく、「記紀」の言いなりになっており、学問として成立しえてないのが現状で<br>ある。そのレベルの低さを物語るのがが古代史最大のロマンと言われるヤマタイコク・ヒミコ論争<br>である。</p><p><br>■古代史ダイジェスト版－出雲王国～三韓征服まで－</p><p>紀元前４００年頃、和国で最初の王国「出雲王国」は誕生した。それは武力で統一された国ではな<br>かった。「野ダタラ」と呼ばれる和国最初の鉄の生産により、経済が発展し文明が栄え、自然に人<br>々が集まるようになった。各地の豪族の娘と重婚し、それが広域出雲王国の領土となった。また「<br>幸神」を信仰する宗教国家であった。母系家族制で戦争もない平和な国だった。秦の始皇帝の時代<br>、紀元前２１９年頃に、秦国から古代最大の渡来人集団、徐福集団が出雲王国に渡来した。そして<br>出雲両国王の暗殺事件→出雲人による新王国の建立（ヤマト開拓）と、歴史が玉突きで動いた。徐<br>福は和国で王になれる見通しがないので失望し、さらに多勢の秦人を引き連れ和国の王になること<br>夢見、一旦、帰国することを決断する。紀元前２１０年頃に、徐福はさらに多勢の秦人を引き連れ<br>こんどは、九州の有明海に上陸した。合計五千人以上の渡来人が、古代の和国にやってきた。かれ<br>らの渡来は光と影があったが、縄文→弥生は徐福集団集団の渡来が、もたらしたものだ。紀元前１<br>００年頃、第二の渡来集団が、現れた。辰韓（新羅）からヒボコ王子とその従者（数百人）たちで<br>あった。ヒボコは辰韓王の長男であった。王は跡継ぎ争いを避けるために、ヒボコに家来をつけて<br>、財宝を持たせて和国に送った。それは次男を、跡継ぎにさせるためであった。それでヒボコは父<br>王を恨んで、反抗的な性格になっていた。ヒボコは生意気な態度であったため上陸を許可されず、<br>但馬方面に上陸した。尚、吉野ヶ里遺跡は徐福集団の住居跡で、そこで作られた土器が弥生土器の<br>基になった。秦人は高級機織りの技術をもっていたので秦（ハタ）族と呼ばれた。そして徐福の子<br>孫の代になると、筑紫平野を征服し新しく秦の国を築くという意味て゜築秦国とした。のちに、そ<br>れがなまって筑紫国となった。つまり九州の北部、筑紫平野は、中国人に支配されたことが、歴史<br>の事実である。徐福の子孫は物部氏を名乗った。日本史で重要な弥生時代の到来について、いつ、<br>誰が、何処にやってきたか具体的な話がないのは、そのためである。日本の古代史に欠落している<br>一つは弥生時代がどうやってもたされれたのか。そのことに言及する学者はいないのである。奈良<br>時代の日本書紀は、中国人にも見せるために、漢文で書かれた。そんなことを書いたら中国から属<br>国扱い、軽く見られる。そんなことは伏せるしかなかった。また、出雲渡来時の孫が海　村雲であ<br>り、ヤマトの初代大王となった。また子孫は海部氏（尾張氏とも言う）となった。徐福の腹異いの<br>子孫である物部氏と海部氏、それと事代主の子孫が古代の政治を動かしていた。紀元１００年頃、<br>九州の物部勢がヤマトに第一次物部東征を行う。武力では優勢だったが、人民の尊敬を集めること<br>はてきず失敗（姫巫女がいなかったため）。約１５０年後の紀元後２３２年頃に、第二次物部東征<br>を計画。その最中に、物部イニエ大王が九州で没し、未亡人となったヒミコが意志を引き継ぐ。ヤ<br>マトに攻める前に魏に朝貢し後ろ盾を得ることにした。第二次東征は瀬戸内海ルートと日本海側ル<br>ートに分かれて進んだ。その日本海ルートで出雲王国は物部勢力に滅ぼされた。瀬戸内海ルートで<br>は安芸の宮島でヒミコは病死し、物部イクメが指揮官を引き継ぎヤマト磯城王朝（出雲系）を滅ぼ<br>し、物部王朝の政権を樹立。しかし物部王朝は短命の三代で終わる。物部王朝三代目はワカタラシ<br>（成務）大王で、后はオキナガタラシ姫であった。オキナガタラシ姫はヒボコの血を引き継いでい<br>た。当時、辰韓の王家が断絶し、家来が新羅国を起こした。当時は領土も人民も王家の財産だとの<br>考えがあった。だからヒボコの子孫のオキナガタラシ姫は、新羅領地と年貢を自分が受け継ぐ権利<br>があると考え、新羅に出兵し権利を承認させようと考えた。日向国の武内ソツ彦王の協力得て、ソ<br>ツ彦王が新羅出兵の総指揮者となり新羅だけでなく三韓征服に成功する。そして三韓からの年貢が<br>財政として使えたので、和国はそれ以前より豊になった。その三韓年貢マネーが使えたから、近畿<br>方面に巨大な古墳が誕生した。以上が出雲王国～三韓征服までの、ざっとした、あらましである。</p><p><br>■神武天皇　架空（建国記念日）<br>　<br>　日本書紀には、天照大御神の孫にあたるニニギノ尊が日向に降臨し、３代経た後に生まれたのが<br>イワレヒコ、後の神武天皇で、イワレヒコは４５歳のときに国土を拡大、そして支配するため東征<br>を決意、日向を旅立つ。１月１日（旧暦） 橿原野宮で即位して初代神武天皇となった、と記され<br>ている。この記述を解説すると、まず天照大御神というのは、出雲族の太陽信仰のことである。次<br>にニニギノ尊というのは秦から渡来して来た、徐福を指す。徐福は２回目の渡来地・九州ではニギ<br>ハヤヒという和国名を名のっていた。実際は有明海に上陸したのだが、降臨するという話で高千穂<br>の峰に天孫降臨する話に変えられた。子孫は物部氏となり筑紫平野を支配した。東征は実際は第１<br>次物部東征は紀元１００年頃、第２次物部東征は紀元２５０年頃の２回行われた。それを、まとめ<br>て１回の話にし神武東征の話にしている。第２次東征でヤマト政権磯城王朝を倒し、物部イクメが<br>物部政権を樹立したが、短命の３代で物部政権は終わった。実際はヤマト初代大王は海（天）村雲<br>である。物部政権の時代は大王でいえば１１代目位の時代背景に当たる。紀元後２５０～３００年<br>頃の話だ。物部氏は古代の政治を動かした大豪族だ。もし日本書紀が正しいとすれば、物部氏が天<br>皇の祖ということになる。しかし、物部氏は天皇の祖ではない。なぜ、こういう話ができたかとい<br>うと、「記紀」製作時の左大臣が石上(物部)麻呂だったからである。右大臣・藤原不比等が、左大<br>臣・石上(物部)麻呂にご機嫌取りをして、こういう話を書かせた。「記紀」は当時の関係者により<br>、都合のいいように史実が変えられた。また、初代天皇とされている神武天皇は即位期間が紀元前<br>６６０年～紀元前５８２年の７８年間に及び１３８歳まで生きたことになっている。これでは小学<br>生にも嘘だと指摘されてしまう。また現在の史学界では、第二十代の天武天皇から天皇という称号<br>が使われているので、それ以前の天皇は大王と呼び区別することが定説になっている。であればイ<br>ワレヒコが即位して初代の天皇、神武天皇になったという話自体がおかしい話になる。小学生にも<br>嘘だと指摘されてしまう神武天皇を根拠にしているのが日本の建国記念日なのである。ファンタジ<br>ーだとすれば問題ないが、明治の王制復古に伴い、国家に利用され、神武天皇の他、日本書紀（官<br>史）官史は日本の正史として絶対性を持った。また異を唱える国民はいなかった。熱風のごとき時<br>代では、日本は神の国と国家が煽った。そういう「記紀」（官史＝正史）を絶対視する考えは現代<br>にも多分に引き継がれている。そこに官史＝正史であるという先入観で「記紀」に疑いの余地を持<br>たない、日本人は自国の歴史に対して思考停止した国民性になってしまった。神武天皇１３８歳の<br>寿命は小学生であれば嘘だと言うが、大人で嘘と指摘する人はいないのである。書店の古代史コー<br>ナーの大人向けの雑誌には、「記紀」に書いてある神武天皇はじめ、その他記述が、さも古代の歴<br>史のように書かれている。監修を見ると大学教授だったりする。子ども向けの神話と史実の区別が<br>つかないのが、日本の古代史の現状である。言うまでももなく初代天皇は神武天皇というのは「記<br>紀」が、作った創作であり、初代天皇は天武天皇である。尚、ヤマトの初代大王・海あま（記紀で<br>は天に変えられた）村雲が消されて、その代わりに、架空のイワレヒコ（神武天皇）が書かれた。<br>史実であるヤマトの初代大王・海あま（天）村雲が、大王に就任するときに、出雲王から祝いとし<br>て贈られたのが、「村雲の剣」である。それは出雲型銅剣であった。「記紀」では、それを「草薙<br>の剣」として変えた。天皇家の三種の神器の一つになった。尚、徐福は出雲では和国風の名前、火<br>明り（ホアカリ）を名乗り、出雲の大国主の娘・高照姫を妻にもらい、生まれた御子が五十猛（い<br>そたけ）だった。海（あま）五十猛と名乗った。五十猛は成人し、出雲王国から秦族を引き連れ、<br>丹波の国に集団移住した。五十猛は丹波の国で指導者となり、海あま香語山（かごやま）と改名し<br>た。その長男が海（あま）村雲であった。村雲は成人してから、父上の香語山がしたように、丹波<br>人を引き連れて、出雲人が開拓したヤマトに約一万人が集団移住した。ヤマトでは先住の出雲人よ<br>り、丹波勢力が多くなった。そして出雲人集団と丹波人集団が協力して、政治的共同体を作った。<br>それが初期のヤマト政権だった。そして村雲は出雲の事代主の娘であるタタライスズ姫と結婚した<br>ので、村雲が両集団の代表とされた。それが後世にヤマト初代王と呼ばれた。尚、副王はタタライ<br>スズ姫の兄、登美家とか磯城家と呼ばれる（出雲王家の分家）のクシヒカタであった。出雲族は古<br>くから、朝日を拝む信仰をもっていた。三輪山から昇る太陽を葛城から拝んでいたが、タタライス<br>ズ姫は三輪山の麓に移り住み、太陽の女神を拝む儀式を行った。その祭りに多くの人が集まるよう<br>になり、政治的な結束が強まった。これが古代の「祭政一致」の政治状態だった。三輪山には、タ<br>タライスズ姫の父君・事代主の霊を、大物主の名前で祭った。三輪山には出雲の竜蛇神や幸の神（<br>サイノカミ）も祭られたから、三輪山には幸の神（サイノカミ）関係の社（やしろ）が多い。ヤマ<br>トの初代の王朝は、初代大王の出身家系により「海部王朝」と言われる。大王家には３代続けて磯<br>城家から后を迎えた。だから後には、磯城家の血が濃くなった。そのため３代以後は「磯城王朝」<br>と呼ばれ、大王には出雲人という意識や習慣を持つお方もいた。だから磯城王朝は第二の出雲王朝<br>とみなされた。登美家（磯城家と呼ばれる）は、大王家と同様な勢力を持つ存在となった。尚、ヤ<br>マトに移住し磯城王朝を建てた出雲人に対し、出雲に残った両王家は３世紀まで、後期出雲王国の<br>支配を継続した。若干、解説をしておくと海（あま）村雲の海（あま）家は、後に海部（あまべ）<br>家と呼ばれるようになったので海部（あまべ）王朝とした。また海部（あまべ）家は尾張家ともい<br>い、合わせて尾張家とも呼ぶ。尚、海部（あまべ）家は日本では、出雲の二王家と宗像家に次ぐ、<br>古い家柄である。その家系図の「海部氏本系図」、と「海部氏勘注系図」は国宝となっている。こ<br>の国宝の家系図や「旧事本記」を合わせ持って見ると、「記紀」で誤魔化された嘘の一旦が、わか<br>る。尚、この海部（あまべ）家とその親族の娘（竹野姫など）は、天皇家に后妃てして多く選ばれ<br>て入る。また初代天皇の天武天皇は即位の前は大海人（おおあまと）皇子という名前だった。「大<br>海人（おおあまと」の言葉は、「海（あま）部」から来ている。大海人（おおあまと）皇子の養育<br>者は安曇（あずみ）連家で、安曇家は海部（あまべ）家の分家であった。「安曇（あずみ）」とは<br>「海住（あまず）み」の発音がなまった苗字だ。話は飛ぶが「記紀」の前に、天武天皇の時代に「<br>帝紀編纂」という史書作りの大プロジェクトがあったが、結局完成せず、未完のまま下書きが残っ<br>た。それらの資料が「記紀」製作の資料に使われた。「帝紀編纂」の編集委員の中の一人に安曇（<br>あずみ）連稲敷（いなしき）が選ばれている。逆に海部氏と仲が悪かった腹異いの物部氏関係者は<br>帝紀編集委員には含まれていない。もし「帝紀」が完成されていたら、ヤマト王朝の初代王には海<br>部氏・安曇（あずみ）連の先祖に当たる、史実である海（あま）村雲になっていたはずだ。それが<br>「記紀」では関係者の都合により、架空のイワレヒコ（神武天皇）にされた。</p><p><br>■第六代孝安天皇<br>　<br>（国押人・クニオシヒト大王）にいたっては、即位期間が紀元前３９２年～紀元前２９１年の何と<br>即位期間が１０１年間のおよぶ。いったい何歳までの寿命だったのかと思う。ところが嘘はヒョン<br>なところからばれる。「後漢書」に紀元後１０７年に、和国から国押人大王が自ら生口（奴隷）１<br>６０人を献上し、後漢安帝に自分が和国の王であることを認めるよう謁見したことが書かれている<br>。何とその年代の差は約５００年も食い違う。</p><p>■武内宿祢<br>　<br> 古代史の重要人物である武内宿祢にいたっては３８０歳位の生きたことになっている。他、あげた<br>らきりがないのでやめる。</p><p><br>○こども向けの推薦図書　　　　　　　　　　　　　</p><p>■天武帝「帝紀編集事業」■紀元６８３年頃■<br>　<br>　「記紀」がなぜ、史書として耐えられないのか。それには伏線があった。天武１０年に、帝紀編<br>集事業が始まった。天武帝は真実に近い古代史を書かせる方針だったらしい。それは編集委員の人<br>選から推測できる。また編集委員は１２人だった。ただそれが仇となった。各王朝の子孫が、過去<br>の事件記述に際し、当時の敵味方によって利害が異なり、表現に対する衝突が続いた。この対立の<br>中で、各委員は自分の先祖王朝に有利な史書の下書きを書いた。また最初に出雲王国史を書くべき<br>だ、とかれらは考えていた。しかし詳しく書くことに反対する者がいた。結局、各王朝史を一つに<br>まとめる事はできなかった。結局ばらばらの記述書類が残されたまま、「帝紀編集」という大プロ<br>ジェクトは休止状態になった。</p><p>■持統女帝の読書感想■紀元６８９年頃■<br>　<br>　天武帝なきあと持統女帝の時代になった。当時は漢文が自在に、読み書きできる人は少なかった<br>。漢文が達者なことが良く知られていた人が、人麿だった。草壁皇子が亡くなった２か月あと、持<br>統女帝から人麿は召しを受けた。中国の神話の書「山海経」を読んで説明せよ、との話だった。こ<br>の本は世界の始まりを想像した神話が書かれていた。また古代の王や政治家たちの話に、尾ヒレを<br>付けた神話も書かれていた。女帝はこの本の物語を、ことのほか喜ばれた。この漢書を読み終わる<br>と、先帝が作らせた帝紀を読み解説せよ、命じた。帝紀は完成していなかったが、編集委員が作っ<br>た漢文の下書きが残されていた。それを中務省の公文書保管の係りから借り出してきて、人麿は読<br>みながら女帝に説明した。各委員の作った下書きを長時間かけて、あらまし読み聞いたあとで、女<br>帝は吐き捨てるように言われた。「何という嫌な記録ばかりですか。それらは皇位獲得にかかわる<br>陰謀と争いの連続ではないですか。このような物を役人や若い豪族たちに読ませるのは、有害です<br>。焼き捨てるがいいわ」。人麿は恐る恐る申し上げた。「これらの物は、苦労して書き続けられた<br>物ですので、中務省に返したいと思いますが」「それなら、そちは返すがよい。わたしから、中務<br>省長官に焼却を命じることにする」。人麿はそのまま、引き下がる他はなかった。</p><p>■撰善言司（よきことえらぶつかさ）■紀元６８９年頃■ 巻末付録資料参照<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br>　６８９年６月に、撰善言司を設置する、との勅令が゛発せられた。委員には事代主の子孫・伊予<br>部馬飼や大学頭・調老人（つきのおきな）たちが、指名された。その役目は、「善言」という題名<br>の説話集を作る仕事だった。史話を、良い教訓になる話に変えて書かせるのが、持統女帝の意図だ<br>ったらしい。そして史話はマンガのように書き変えられた。撰善言司の委員たちが、つぶやいた。<br>「撰言の文書を読むと、良い話だから読むのは気楽だ。しかし、実話が嘘の話に変わっている。わ<br>たしは善言を読むと、学者としての良心が痛むよ」そう言って自分が書いた物を、自宅に隠す者が<br>多かった。そのうちに、委員たちは書き渋った。仕事がはかどらないのを知り、持統女帝は撰善言<br>司を解散させた。この仕事は、無駄だった訳ではない。かれらの書いた説話が、後で作られた古事<br>記や日本書紀に入っている。</p><p>■歴史的物語<br>　<br>　だから古事記と日本書紀は完全な史書ではなく、神話と説話と例え話が、史話のなかに半分程度<br>、混じっている。だから古事記と日本書紀は、図書館では史書の分類には入らず、「歴史的物語」<br>の分類に属する。</p><p>■不比等の提案、持統女帝の意向</p><p>　和国が東洋の一流国と見なされるためには、国史をもつことが重要だと、不比等の息子・定恵が<br>遣唐使で外国事情を学んだあと、父に話した。それで国史製作の必要性を、不比等は持統女帝に提<br>案した。女帝は賛成したけれども、国史の中に前王朝を倒す権力闘争を書くことに反対した。真実<br>の歴史を書くには、王朝の交替とその因果関係を書く必要がある。それで、不比等も迷った。しか<br>し女帝の意志が固いので、不比等は正確な歴史の作成を断念した。そして万世一系方式を、提案し<br>た。すなわち王朝の交替を誤魔化す方式だった。前王朝打倒者を前王朝の血統者に書き変え、各王<br>朝を連続して一王朝とする官史を書くことで、両者の意見は一致した。また韓国の壇君伝説を真似<br>て、最初の王朝の始祖を神に祭り上げて、天孫降臨の話を作ることが決められた。</p><p>■こども向けの推薦図書</p><p>　さらにそのほか不比等は女帝から撰善方式を指示され、約束させられた。その結果、古事記と日<br>本書紀は「撰善言史書」となった。「撰善言」だから、子ども向きの推薦図書には、適しているか<br>もしれない。しかし「記紀」には史実と異なる箇所が多数、存在することになった。だからあらか<br>じめ内容の詐為性を十分踏まえた上で接っしないと、とんでもないことになる。こども向けなら「<br>記紀」は許せるが、大人が間に受ける歴史の書ではないのである。しかし、書店の古代史コーナー<br>には、「記紀」の記述をそのまま引用して古代史の解説をしてる本ばかりである。だから古代史は<br>史実とかけ離れた話が通説になってしまった。それは虚飾の歴史を基に、本当の歴史のごとくその<br>まま解説するのは詐偽の洗脳行為であり、有害になる。そういう本に加担する大人は学問的責任を<br>負わなければならない。官史に書かれているからというのは言い訳にはならないのである。日本の<br>古代史学者は「記紀」研究者が多く占めており、「記紀」で神話になっていることは史実として認<br>めない立場であり、また「記紀」に書かれていることを忠実に考えるのが研究の第一になっており<br>、そのため「記紀」そのものの虚構性について疑うという考えが及ばないのである。よって日本の<br>古代史研究は進歩のない状態から一歩も抜け出せないのである。数年前に「古事記編纂１３００年<br>」というイベントがあったが、そのどれもが古事記を絶賛する内容だった。それは「記紀」の和歌<br>はすべて人麿が書き、そのすばらしい和歌の影響が多分に影響してるかも知れない。しかし、「撰<br>善言」の虚構性は大人には耐えられない内容だ。まがりなりにも「古事記」、「日本書紀」は官史<br>なので、それに異を訴えるという姿勢は史学界にはないので、日本の古代史は「撰善言」のマンガ<br>のような世界がそのまま放置されることになった。</p><p>-----------------------------------------------------------------------------------------<br>○「記紀」で隠された、最大の「不都合な真実」</p><p>■神話の国にされた「出雲王国」、スサノオ・ニニギノにされた徐福</p><p>　奈良時代に書かれた「記紀」は時の権力者が不都合な事は隠し、また史実としてでなく神話の形<br>を借りて話を創作した。それにより日本の古代史（紀元前５００年頃～紀元後３００年頃）、歴史<br>年表で言えば弥生時代に相当。その時代の古代史は「記紀」によりブラックホール化されてしまっ<br>た。現代人の古代史に関する常識も「記紀」が基になってしまった。「記紀」の最大の罪は、日本<br>の源流・古代史そのものと言ってよい「出雲王国」のことを神話の話に変えて隠したこと。それは<br>子孫が日本人の民族のルーツ・祖先を忘れる結果に繋った。もうひとつが、弥生時代の到来をもた<br>らした古代最大の渡来集団である「徐福集団の渡来」の史実を同じように神話の話に変え隠したこ<br>と。それは奈良時代の支配者であった貴族は、そのほとんどが、渡来人・徐福の子孫である物部氏<br>や海部氏(尾張氏)と、それと旧出雲王家の事色主の血を継ぐ子孫であった。渡来系の子孫は、今さ<br>ら９００年前の出自・血筋・血統には、触れられくなかった。だから勝者の都合の良い官史には先<br>祖が渡来人であったことは隠された。都の貴族にとって先祖が渡来人であったことは隠さなければ<br>ならなかった。だから先住日本人の・出雲王国を徐福の子孫（奈良時代の物部氏や海部氏(尾張氏)<br>から見たら先祖にあたる）か゜滅ぼし、徐福の子孫がヤマトの大王（ヤマトの初代・海部王朝や、<br>３００年頃の物部王朝）になったことなど、奈良時代の支配者／貴族であった徐福の子孫である、<br>物部氏や海部氏（尾張氏）にとっては不都合なことであり、隠したかった。先祖は天孫降臨したと<br>いう設定が一番、都合がよかった。先祖が渡来人の場合、あいまいなうやむやな話が一番、都合が<br>良かった。例えばハワイ王朝がアメリカに滅ばされた史実は、勝者の歴史では単にハワイがアメリ<br>カの州になったとしか記されないのと同様である。だから「記紀」の虚飾については支配者の腫物<br>に触ることに繋がるので、指摘するには命がけの覚悟が必要になる。いずれにしても、この二つの<br>重大な史実を「記紀」が隠したため、日本の古大史はすっぽり穴が開き、闇に葬られたままで、全<br>く判然としないのである。さらに明治の王政復古によって「記紀」の虚飾性ついては、政府・国に<br>よっても正当化され利用された。また国民も熱風のごとく歓迎し、時代の背景もあったが、それは<br>「記紀」の虚飾の虚構が影響を与えた部分も多少あり昭和の破滅に繋がった一面もある。そして出<br>雲王国は「神話の国」のまま放置にされた。日本の学者は官史「記紀」を鵜呑みにし、出雲王国は<br>史実に基づかない絵空事として取り扱ってきた。それは平成の世でも明治以後の王政復古に伴う呪<br>縛から解き放たれていない証左である。官史ということで疑いを持たないのが史学界の体質である<br>。そこには真実の探求という姿勢が感じられないのである。かぐや姫の作者の命がけの願いが全然<br>わかっていないのである。そういう姿勢は昭和５９（１９８４）年、世紀の大発見と騒がれた、「<br>３５８本の銅剣」が見つかった神庭荒神谷遺跡から３０年も経つのに、依然として出雲を語るとき<br>の枕詞は「神話の国」なのである。その間、史学界は何をやっていたかと言うと相も変らぬ、邪馬<br>台国論争・卑弥呼論争であった。これについては、巻末に説明しているので参照されたし。とにか<br>く史学界の出雲への無視ははなはなだしいのである。いずれにしても、日本人は官史である「記紀<br>」で、出雲神話の話が書かれたため、出雲はただ単に神話の話の舞台にされただけで、出雲王国が<br>史実であったとは思わなくなった。その結果が、日本人の起源は中国や半島から人が来て、それが<br>日本人になったと漠然と思うようになった。そして大和に最初の政権（裏付けとして巨大な古墳）<br>ができ、それが日本で最初の国造りと思うようになった。出雲王国を「記紀」が神話の話に変えた<br>結果大和が日本の国造りの原点と思うようになった。日本人は民族のルーツ・祖先を忘れることに<br>なったのである。徐福渡来のことは、各地に徐福の伝承があるため、徐福伝説という話を聞いたこ<br>とがある位の認識になった。「記紀」の罪は日本の国の初期を隠したために、子孫は国の成り立ち<br>を忘れてしまう結果を生んだ。それは、日本人は民族のルーツ、国としてのルーツを忘れることに<br>繋がった。また歴史＝正史は、渡来人の光と影を隠した。それは稲作の伝来、文化向上で大きな役<br>割を果たした渡来人の功績を歴史から消してしまった。奈良時代では書けなかった事情もあるかと<br>思うが、今の時代であれば、ちゃんと中国人・秦人・ユダヤの子孫のかれらを評価すべきだと考え<br>る。</p><p>■スサノオの名前の由来（神話にされた出雲での徐福）「記紀」が創作した名前</p><p>　国史製作の折、出雲王国の史実の抹消案を要望し、代わりに出雲神話を作った○○が、出雲神話<br>で徐福のことをスサノオという名前に変えた。なぜ変えたのかと言うと、徐福の名をだすと、出雲<br>人が昔、出雲王国時代に徐福がした悪事を思い出す恐れがあっったからだ。また○○の祖先○○は<br>、徐福の忠実な部下だったからである。日本書紀の神代八段第五に、「スサノオの子の名を五十猛<br>（香語山）と言う」とあり、後者は徐福の長男だから、スサノオとは「記紀」が名づけた徐福のこ<br>とだと、わかる。渡来してきた徐福の実家は、中国のシャントン半島にあったが、その一族は蘇州<br>にも移住し発展していた。蘇州の漢字の前後を逆にすると、「スサ（州蘇）となる。この地名に基<br>づいて、スサノオという名前を作った。「オ」は、「男」の意味だろう。尚、徐福は出雲では和国<br>風な名前として火明（ホアカリ）を名乗る。</p><p><br>■徐福は道教の方士（道士）であった。中国の道教というのは、ユダヤ教とそっくりで、その特色<br>は仙人崇拝と北極星礼拝がある。この教えは方士・徐福が、はじめて和国に伝えた。それで各地の<br>山に「仙」の字のつく名がついた。出雲での徐福・ホアカリ（火明）は道教の方士（ほうし）であ<br>ったから、童男童女を夜に山頂に導き、仙人を尊ぶことを教え、道教の星神を拝ませた。仙人を意<br>味する「仙」の字が、かれらが登った山の名に付けられている。</p><p><br>■ニニギノの名前の由来（神話にされた九州での徐福）「記紀」が創作した名前</p><p>九州に再来日した徐福は、和国名をニギハヤヒノと名乗った。子孫は物部氏を名乗る。</p><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida1207/entry-12037755216.html</link>
<pubDate>Thu, 11 Jun 2015 20:55:55 +0900</pubDate>
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<title>出雲王国　～日本人の源流～最も古く文明の栄えた最初の王国</title>
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<![CDATA[ <p>■真実の出雲王国史■</p><p>弥生時代の到来をもたらした渡来人の真実</p><p>■■秦の始皇帝を騙して和国に渡来した徐福■■紀元前２１９年頃■■</p><p>　始皇帝は、その短い１５年の治世期間に広い中国を５回も行幸している。表向きは威厳を示すた<br>めと言われたが、真の目的は不老長生の薬探しだったと言われる。始皇帝は永遠の命が得られると<br>いうことで、水銀を飲んで亡くなったと言われるくらいの不老長生オタクだった。徐福は自分が住<br>んでいるとこに行幸して来た始皇帝に近づき、蓬莱(ほうらい・和国のこと)には仙人が住んでいて<br>不老長生の仙薬があると手玉にとり、莫大な金を使わせ、山東（シャントン）半島から蓬莱を目指<br>した。先遣隊として徐福の息のかかった○○が親子で先に出雲王国に到着した。銅鐸に似たような<br>物を土産として、後日、大集団が来るので上陸の許可を願いたいと。言葉どおり、翌年、紀元前２<br>１９年頃に、出雲の五十猛海岸に見たことがない何十隻の大船団が現れた。約２０００人弱にのぼ<br>る童男童女がアリの隊列のように上陸した。秦から来た彼らは、高級機織りの技術を持っていたの<br>で秦（ハタ）族と呼ばれた。尚、徐福は仙薬探しというのは口実で、本当は和国の王になるという<br>野心を隠して始皇帝を騙して，和国へやって来た。</p><p>「史記」「秦始皇本記」に記事がある。「「紀元前２１９年、始皇帝は諸郡県を巡行した。ろうや<br>山（シャントン省）に三か月も留まった。その時、斉人の徐福らが上書して述べた。・・海中に三<br>つの神山があり、名前は蓬莱と方丈ほうじょう・えい州と言います（蓬莱は和国、方丈は韓国のチ<br>ェジ島、えい州は沖縄だと言われる）島上に仙人が住んでいて、仙人は不老長寿の仙薬を持ってい<br>ます、心身を清め、けがれなき童男童女を連れて仙人を求めたいと思います」と。そこで始皇帝は<br>徐福をつかわし、童男童女数千人をおくって、海に出て仙人を探させた。また「漢書」の「地理志<br>」に千童県という地名が書かれているが、その地名は３７０年間続いた。唐代の書「元和群県図志<br>」に次のように書かれている。「じょ安県はもと漢の「千童県」で、徐福が衣食や船と梶を準備し<br>た所である」と。現在そこはホーペイ(河北)省塩山県「千童鎮」となり、そこには徐福集団の、日<br>本渡海を記念して、立派な千童祀が建てられている。</p><p><br>■■徐福の再来日　紀元前２１０年頃■■</p><p>　「史記」「秦始皇本記」に徐福のその後の話がある。３７年（紀元前２１０年）、始皇帝はシャ<br>ントン省に至った。方士の徐福は海に浮かんで仙薬を求めたが、数年すぎても得られず、使った費<br>用は莫大であったから、責任を取らされるのを恐れて偽って言った。「蓬莱島の薬を手に入れるこ<br>とは可能です。しかし幾度も大ザメに苦しめられて、島に着くことができません。どうか弓の名手<br>を連れて行かせて下さい。大ザメが現れたら弩を連発して仕留めましょう」同じ年の話が「史記」<br>「准南衡山列伝」にも書かれている。徐福に神仙妙薬を求めさせたが、徐福は帰ってきて、偽って<br>言った。臣は海上で神に出会いました。すると、その神は言いました。「おまえは西皇(始皇帝)使<br>者か」と。「いかにも」と臣は答えました。神は「お前は何を求めるのか」と聞いた。「願い賜り<br>たい物は、長生不老の薬です」と臣は答えました。「西皇（始皇帝）は礼献が少ないので、見せる<br>ことはできるが、与えることはできない」と神は言いました。その後、神は臣をつれて東南方の蓬<br>莱に至りました。銅色竜形の使者がいて、天に昇り輝いたので、臣が拝んで改めて問いました。「<br>どんなものを献上すれば、かなうでしょうか」すると神は「童男童女と五穀と各種百工を献上すれ<br>ば薬が得られる」と言いました。始皇帝はこれを聞いて大いに喜び、さっそく男女三千人と五穀・<br>種々の熟練工を与え海に行かせた。徐福は平原平沢を得て、とどまり王となり、帰ってはこなかっ<br>た。この記録により、３千人以上の人々が出航し黄海を東南へ向かったことがわかる。かれらの出<br>発した所は、シャントン半島北部のポンライ（蓬莱）という海岸だと言われる。蓬莱島を目指して<br>出発したので、この名前がついた。徐福と童男童女の２回目の渡航は、北九州を目指した。そして<br>有明海沿岸に着いた。着いた島国には「平原」がある、と「史記」に記されている。その平原は筑<br>紫平野であった。築後川の下流の諸富から柳川にかけては、古代には沼地だったので、「広沢」と<br>言われた、と考えられる。徐福は２回合わせて５千人以上の、若い男女を新天地に連れてきた。紀<br>元前２００年頃の５千人以上の子孫は、その後、大きな人口になっている。日本書紀は中国人にも<br>見せるために、漢文で書かれた。徐福集団の渡来を中国人が知ると、倭国は中国の植民地だと軽く<br>見られることを、外交上警戒したのかも知れない。奈良時代に書かれた古事記と日本書紀には、徐<br>福集団の渡来は隠された。しかし現代は、奈良時代と事情が違うので、もはや隠す必要はないと思<br>われる。徐福集団の渡航については、「後漢書」「東夷伝」にも書かれていて、中国では史実だと<br>考えられている。「会稽（かいけい）（長江の河口地域）の海のかなたに東　（とうてい）人（倭<br>人）がいる。分かれて、二十余国になる。伝えて言うには、「秦の始皇帝が方士(道教の師)徐福を<br>遣わし、童男童女数千人をひきいて海を進み、蓬莱の神仙を求めさせたが、得られなかった。徐福<br>は誅(ちゅう・罰の死)をおそれて、あえて帰らず、ついにこの州に止まった。かれらの子孫が増え<br>て、数万家になる。かれらの中には、時に会稽に行って交易を行う者がいる」と。吉野ケ里遺跡は<br>紀元前２００年頃に造られた徐福集団の住居跡である。新しく秦を築くということで築秦国となり<br>、その後なまって筑紫国になった。また、かれらが築後平野で焼いた土器が日本の弥生土器の基に<br>なっており、弥生時代というのは徐福集団がもたらした。尚、徐福は出雲王国では火明（ホアカリ<br>）と名乗り、九州ではニギハヤヒと名乗った。それぞれ名前は違うが同じ人である。だから旧事本<br>記では「ホアカリニギハヤヒ尊」と続けて書いて、一人と見なしている。徐福は築秦王国を造った<br>のち、築後平野で亡くなったという。だから、吉野ケ里遺跡のどこかに埋葬されている可能性が大<br>きい。「肥前国風土記」の三根の群に「むかし三根の群と神埼の群は、合わせて一つの群であった<br>」との記事がある。神埼の群に「むかし、この群に荒れる神がいて、往来の人が多く殺された」と<br>書かれている。徐福集団は先住民を追い払い抵抗するものは殺したのであろう。その徐福が上陸し<br>た佐賀県諸富町の道角には、立派な徐福の全身像壁画が飾られている。徐福は上陸したとき、まず<br>井戸を掘らせたという、その井戸が今も民家の裏に残されている。それが「テアライ（手洗い）の<br>井戸」と呼ばれたが、なまって「寺井」の地名となった。そこの小川にかかる橋には「徐福寺井橋<br>」と書かれている。徐福は上陸し落ち着いたあと、西北方の金立（きんりゅう）山に登り天を拝ん<br>だ。今その山の頂上には、金立神社上社（佐賀市金立町）がある。麓に、金立神社下社が鎮座する<br>。金立神社には、徐福を「金立大権現」として、まつっている。童男童女たちは成人しても、故郷<br>に帰れずに、筑紫平野方面で亡くなった。かつての童男童女をまとめて「海童神」とした供養塔が<br>、下社の境内にひっそりと建っている。出雲市に徐福集団の子孫が建てた海童神社があるのと同じ<br>く、佐賀市の西方、白石町深浦竜王崎にも「海童神社」が鎮座する。長崎自動車道のサービス・エ<br>リア近くに、徐福長寿館（佐賀市金立町）がある。そこでは、徐福伝承や薬用植物の展示をおこな<br>っている。徐福集団が上陸後住んだ地域が、志波屋遺跡群だと考えられるが、その拠点集落が吉野<br>ヶ里遺跡である。その遺跡の特徴は徐福が住んでいたシャントン省にある「臨し城」と吉野ヶ里遺<br>跡はそっくりだということた゜。また遺骨を納めるために埋めた「かめ棺」が二千基以上出土して<br>いる。それはシシャントン省から出土しとたものと同じだ。銅剣や鋳型工具が出土してるが秦時代<br>のものだ。「肥前国風土記」の三根の群・物部の郷に記事がある。「この郷にの中に、神の社があ<br>る。・・・その神を鎮め祭られた。これにより物部の郷という」三根の群・物部の郷は吉野ヶ里の<br>近辺であり、吉野ヶ里には徐福が住んだ。そこには物部氏の重要な旧跡であったことは、奈良時代<br>までは知られていた。しかし「記紀」に書かれなかったので、忘れられたと言う。また、同じ、九<br>州人でも「佐賀県人が歩いた後は、ペンペン草も生えぬ」と言うが、なるほどと思わせる話である<br>。</p><p><br>■「ユダヤの失われた十士族」の子孫<br>　<br>　尚、話は前後するが徐福が住んでいた斉という国は、「ユダヤの失われた十士族」の子孫が住ん<br>でいた地域と言われている。古代ユダヤ人は黒髪・黒目のモンゴロイドであった。時々、日本人＝<br>ユダヤ人という説が話題になることがあるが、まんざらトンデモ話ではないのである。徐福は道教<br>の方士（グル）であった。道教というのは、ユダヤ教とそっくりで、夜、山に登り、星を拝む信仰<br>である。「７」を聖数としているのも同じだ。またイスラエルの国旗に採用されている、「ダビデ<br>の星」は中国では六亡星と呼ばれ、日本では「カゴメ紋」とされている。秦（ハタ）族と呼ばれた<br>かれらの大半が「ユダヤの失われた十士族」の子孫と考えられる。</p><p>------------------------------------------------------------------------------------</p><p>■日本人の祖先の偉大な旅</p><p>　約６万年前に人類はアフリカから出発し、車も飛行機もない時代に地球上のあらゆる地域に進出<br>、拡散した。南米の高地、北極圏、赤道直下のジャングル、寒冷地、乾燥地帯そして、それぞれの<br>地域の気候・風土の環境に適合して、それぞれの人種・民族になっていた。大陸の東の海に浮かぶ<br>日本列島にも、偉大な旅をして渡って来た、日本人の祖先の物語があった。それは今から３５００<br>年前の話である。</p><p><br>■日本人は４大文明の一つインダス文明の子孫</p><p>　いわゆるイズモ族は３千年以上前に、日本の本州に民族移動したと言う。「鼻の長い動物の住む<br>国から来た」との伝承がある。３５００年以上前に、インド西北から戦闘的な民族アーリア人がイ<br>ンドに侵入して、先住民の土地を奪い牧畜を行った。母系制度で平和に暮らし農耕生活だった先住<br>民はドラビダ人だった。４大文明の一つインダス文明はドラビダ人が築いた。紀元前３８００年頃<br>から、砂漠化や洪水、河川流路の変更など、さまざまな理由にのよって衰退期であった。紀元前３<br>５００年頃、インドの中部に、クナ国と呼ばれる小王国があった。（今のグナの町らしい）そこに<br>イラン高原で遊牧をしていたアーリア人がが次々に侵入して来た。彼らは騎馬民族で父系家族制だ<br>った。森の樹木を切りはらいどんどん牧場を広げて、勢力を広めた。アーリアの男たちは、クナ人<br>の家に婿が来ていない夜の隙を狙って泊まり込み、女たちに彼らの種を植える行動に出た。彼達は<br>父系家族民なので、戦いに長じていた。クナ国の家々は女戸主の家族だったから、まとまりが弱く、<br>対抗できなかった。結果として、アーリア人との混血児をクナ族の女が産み、育てることが多くな<br>った。そして多くのドラビダ族は、アーリア人の奴隷にされた。母系家族制の民族は平和的だが、<br>父系家族制度の民族が得意の戦争には弱い面があった。この情勢の中で南方に逃れるドラビダ族も<br>いたが、クナ地方を支配していたクナト王は別の策を考えた。当時インドには、バイカル湖方面か<br>ら、ブリヤード人の商人が交易に来ることがあった。彼らから「シベリアの南方の大海原の中に住<br>民の少ない、温暖な島がある」と聞いていた。クナト王はそこに移住しようと考えた。出雲の古老<br>は「イズモ族は、砂の平原を通り、広い湖の近くから、長い川を流れ下って来た」と伝えている。<br>この「砂の平原」とはゴピ砂漠のことであろう。「広い湖」とはバイカル湖だと考えられる。「長<br>い川」は黒竜江（アムール川）であろう。クナト王は移住計画を発表し、移住集団に加わる若い元<br>気な男女を募集した。数千人の応募があったらしい。そこで食料などを家畜の背中に積んで、案内<br>役のブリヤード人を先頭に、移民団は出発した。まず北の山岳地帯を超えた。そこから東に進み、<br>朝鮮半島を通る道が近い、と現代人は思うかも知れない。しかし紀元前の古代世界では、それは危<br>険なことであった。獣でも縄張りがあり、近づくと攻撃してくる。ましてや弓矢を持つ異民族の国<br>の中を大集団が通過すると襲撃され、犠牲者が出る時代であった。だから住人の少ないシベリアを<br>通るのが無難であった。しかし冬のシベリアは極寒の地である。冬を避けて秋までに通過するため<br>に、移住者たちはゴビ砂漠を春に過ぎたことであろう。篠田謙一さんの研究報告によると遺伝子Ｄ<br>ＮＡデータバンクに登録されている縄文人２９体のうち、ブリヤード人と同じ塩基性配列のものが<br>１７体あり、その配列はブリヤード人とモンゴル人に共通する、という結果が出た。登録数が少な<br>いので偏りが考えられるが、ブリヤード人が縄文人に混血していることは間違いない。アムール川<br>上流に自生していたソバの実をブリヤード人が倭国に伝えた、とも言われる。その上流で、移民団<br>は木材を用意し、筏と櫂を作った。そして食料を、家畜の背中から筏に移した。食料と家畜は途中<br>で食べられて減少し、最後にはすべてが移住者の胃袋に消えたことであろう。筏に乗ったあとは、<br>簡単であった。川の水が数千キロの距離を間宮海峡まで、移住民を流し運んでくれた。歩き疲れる<br>ことはなかった。古代にブリヤード人が倭国と交易していたことは、北海道産の黒曜石の石器がア<br>ムール川流域やバイカル湖岸から発掘されていることで証明できる。ブリヤード族はバカル湖付近<br>に住むが、アムール川を舟で下れば、楽に日本に来ることがてきた。アムール川は縄文時代の重要<br>な交易の道であった。一行は樺太(サハリン)西海岸を南に進み、古代に本州人が「渡り鳥」と呼ん<br>でいた、北海道に上陸し、そののち津軽半島にに渡った。ドラビダ族はサルタヒコ（鼻高神・性神<br>）の信仰をもっていてサルタ族とも呼ばれた。九州の宇佐八幡宮の社家であった宇佐公康さんが、<br>社家の伝承を本にしている。それにイズモ族の移住について書いている。すなわち「サルタ族がシ<br>ベリア方面から、日本列島に移動漂着した」と。宇佐八幡の付近に住んでいたウサ族は、サルタ族<br>より先に日本に住んでいたらしい。尚、ご存じのとおり、津軽半島の三内丸山遺跡には、約５５０<br>０～４０００年前の１５００年間ブリヤード人が定住していた。その遺跡からは現代人が想像する<br>より、はるかに文明が発達していたことが、伺える。日本人の遺伝子の検査により、出雲族には、<br>ドラビダ人の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが、明らかになっている。民族移動<br>の道中の混血は当然だ。日本人の祖先は３０００年前にインドから日本列島に民族移住したという<br>と、日本人全員それは絶対にあり得ないとの反応があると思う。日本人の古代史に関する常識では<br>、トンデモ話とされる。そういう常識になったのも「記紀」で出雲王国が抹消されたためだ。尚、<br>これだけは理解してほしい。南米のアンデス文明を築いた民族は、最初から南米に住んでいたわけ<br>ではない。我々、日本人と同じ顔つきをしたモンゴロイドが今から、１万５０００年～１万２００<br>０年ほど前にアジアからベーリンク海峡をわたって、南米まで到達したのだ。そして標高６０００<br>メートルの高地で生活を始めて文明を築いたことを。我々の祖先は、想像できない、とてつもない<br>偉大な旅をして世界中に進出、拡散し、環境に適応してそれぞれの民族になっていった事実をわか<br>ってもらいたい。我々人類・ホモサピエンスは、最初からその地域にいたわけではなく、約６万年<br>前に人類はアフリカから出発し、紆余曲折を経ながら世界中の隅々まで拡散・進出したのであり、<br>現代、日本人のルーツである縄文人も紆余曲折を経ながら日本列島に渡ってきた歴史があるのであ<br>る。最初から日本列島に縄文人がいたわけではない。縄文人は遠い昔にどこからか日本列島に渡っ<br>てきて住み着いたという歴史がある。それが後に縄文人と呼ばれるようになった。しかし、縄文人<br>は、いつ頃、何処から、どういう民族が、どれくらいの人数で日本列島にやって来たのか。民族の<br>ルーツ・祖先について答えられる日本人は、いないのである。多くの日本人は先祖は中国大陸や朝<br>鮮半島から来たと漠然と思っている。確かに渡来人などにより、混血されている面があるが、基本<br>的には違う。中国も韓国も父系家族制度の国で父が威張る民族だ。父系制度の民はまた好戦的とい<br>う側面を持つ。ところがドラビダ族＝縄文人＝出雲族は母家族制度（婿入り婚も含む）の民族だ。<br>また出雲族より先に日本列島で暮らしてた日本最初の生活文化圏であった南北の、北海道・東北ま<br>た沖縄・九州の民族も母系家族制度だった。家族制度から見ても縄文人のルーツ・祖先は、中国人<br>や韓国人とは違うのである。この母系家族制度の特色は争いを好まず、平和的ということだ。和を<br>もって尊ぶという日本人の精神は、母系家族制に起因する。家族制度(結婚形態)というのは民族の<br>根源的なものであり、簡単には変えられないのである。しかし、その遠い昔の日本人のルーツ・縄<br>文人については、「記紀」によって出雲王国史が抹消されたために、ドラビダ族＝縄文人＝出雲族<br>の記憶も消えてしまった。日本人・縄文人の記憶のルーツは官史によって、完全に閉ざされてしま<br>ったのである。それは歴史の敗者になった出雲王国の宿命なのかもしれない。イズモ族が古代イン<br>ドから来たことは、縄文時代の日本語（ヤマト言葉）か゜ドラビダ語にそっくりであることで理解<br>できる。言語学者の大野晋さんは著書「日本語とタミル語」でタミル語の文法が日本語と似ている<br>ことを説明している。タミルはインドの南部地方で、ドラビダ族の一種が住んでいる。イズモ族が<br>古代に共に住んだインド中部のドラビダ族のうちで、南へ移動したのがタミル人だと考えられる。<br>尚、ドラビダ族はブリヤード人＝モンゴル人と似た顔つきだった。今のインド人はアーリア人支配<br>以後の顔である。フィリッピン人がスペイン人に征服され血が混じり顔つきが西洋人ぽくなったの<br>と同様である。ドラビダ語に古代モンゴルなどが混じって出雲語ができた。それが基になって日本<br>語ができた。つまり出雲王国に各地の人が関係したから、出雲王国の言葉が共通語になり日本語が<br>形成されたらしい。日本人の先祖・縄文人は中国大陸や朝鮮半島から来たという大半の日本人が漠<br>然に思っている説は言語学的にも大分、遠い。クナト王が日本列島に上陸した時に、カネの兜（か<br>ぶと）をかぶりカネの槍をもっていた、との伝承がある。ドラビダ語では、金属をカネと言った。<br>その言葉が日本でも使われている。クナト王の所持していたカネ製品は、アカガネと呼ばれた銅製<br>品であったらしい。インドでは紀元前１３００年以上前から、鉄が使われている。金属器が生活必<br>需品になっていたから、クナト王は移住の時、金属精錬の技術者をイズモ族として連れてきた可能<br>性が大きい<br>。</p><p>■出雲の「黒い川」</p><p>　本州に渡たり、東北地方に住んだ後、移住者は分かれて行った。クナト王の子孫は日本海沿岸を<br>南に移動し、最後には出雲の地に住みついた。暖かい関東平野や濃尾平野があるのに、なぜ雪深い<br>寒い出雲に住んだのか。その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。黒い川とは、<br>現在の斐伊川のことであろう。その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがある。古代に<br>は砂鉄がもっとも重要な産物だった。斐伊川は「聖なる川」としてあがめられた。その川には、「<br>ゆまり」（小便）をするのも禁じられた。「鉄は国家なり」と言われるが、古代でも国家の繁栄を<br>左右していた鍵は鉄だった。石器から鉄器の時代になると文明は飛躍的に発展する。自然に川底に<br>たまった砂鉄は「川粉（かわこ）ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。後では山の真<br>砂(まさ)・（花崗岩が風化したもの）がくずされて、「鉄穴流し(かんなながし)」が行われた。そ<br>れは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。奥出雲山地の真砂砂鉄は、チタンなど有害不<br>純物が少なく、低温精錬が容易で還元性に優れている。タタラはドラビダ語で「猛烈な火」を意味<br>する。日本で最初に行われた製鉄は、「野たたら」と呼ばれた。このような鉄の低温精錬は、古代<br>にオリエント地方でも行われたことが知られている。出雲王国は「鉄器の国」とも呼ばれた。それ<br>は明治期の西洋の近代的製鉄が導入される江戸時代まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の８０<br>～９０％を担っていた。尚、クナト王の子孫は、イズモに住み着いた。インドの熱帯では、常緑樹<br>が濃緑色にしげっていた。それに対し、新しい土地では、春に芽が出た森の色が、目にしみるよう<br>に美しく感じられた。かれらはその色をめでて自分たちの地方を「出芽（いずめ）の国」と呼んだ<br>。その発音が変化して「出雲の国」になったと伝わる。</p><p><br>■出雲王国の風景</p><p>　出雲の北部には、島根半島がある。その半島は天然の防波堤であった。王の海は波静かで、その<br>岸は良い港となった。誤解が多いが王国の都は現在の松江市である。そこに国の内外から交易の舟<br>が来た。出雲の輸出品はカネと首飾りに使われる玉類であった。勾玉も韓国人が高価で買い求めた<br>。特に鉄は各地の人々に重宝され、買いに来る人々で出雲（松江市）の港や村は賑わった。景気が<br>よかったので毎日、景色の良いところで老若男女が昼間から宴会を開いていた。出雲では庶民は労<br>役を課せられることもなく、厳しい年貢もなかった。それがＤＮＡに刷り込まれていて今も、エビ<br>スさん、ダイコクさん信仰が続いているのかも知れない。出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は各地<br>から求められた。豪族たちが最も欲しがったの鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。それ<br>はウメガイと呼ばれた。それで木を削って木製品をつくるために、日用品としても、使われた。イ<br>ズモ族はインドでの風習であった祭りを、各地で続けていた。春分の日に春祭りを、秋分の日には<br>秋祭りを村中で行った。それは年２回の待ちに待った祭りだった。メインは歌垣で、それはあとの<br>お楽しみ付の合コンのようなものだった。現代人は紀元前２００年頃の事代主がいた時代を想像し<br>ずらいと思うが、胎児の形の勾玉を造るには、その曲線の多い胎児形に石を加工する技術ならびに<br>、また勾玉に糸を通すために穴を開けなければならない。そのためには穴を作るには鉄の錐（きり<br>）が必要だ。石を加工して胎児形の勾玉を造るのは、現代でも容易ではない。紀元前の出雲王国に<br>は、現代でも難しい技術をもっていた文化の発展していた国だった。その名残が松江市に玉造り温<br>泉とか勾玉づくりとして残っている。</p><p><br>■幸の神（サイノカミ）◇◆◇◆クラウドファンディング◇◆◇◆</p><p>　その後、出雲の各地の代表は春分の日と秋分の日に王宮・神魂の丘（松江市大庭町・王の庭、場<br>という意味）に集まり大祭を行った。そしてドラビダ族＝縄文人＝出雲族の民族移住の指導者だっ<br>たクナト王を民族の守護神として定め、幸の神（サイノカミ）と呼んだ。また幸の神（サイノカミ<br>）は家族神(幸の神三神)で構成された。主神が「クナト大神」、母神を「幸姫の命」、息子神を「<br>サルタヒコ」と呼ばれた。サルタはドラビダ語で長鼻（男性器の隠語）という意味なので、サルタ<br>彦は「鼻高神」とも呼ばれる。幸の神（サイノカミ）の特色は子孫繁栄（生殖）の神である。先祖<br>・幸の神を敬い、子孫繁栄の守護を祈願するものだった。子孫繁栄には結婚と出産が必要である。<br>幸の神(サイノカミ)は「縁結びと子宝の神」とも言われる。子孫繁栄（生殖）には広い意味では、<br>夫婦円満、子宝安産、万物創生、五穀豊穣、男女和合、豊作祈願、招福除厄、無病息災・・等が含<br>まれる。つまり性の原理(生命創生・五穀豊穣・自然原理)を芽出たいとする考えが人生の基本にな<br>っていた。また古代は医療が未発達で祈るしかなかった。自然の猛威の前にも同様だった。世界の<br>３大宗教は性を罪悪視する考え方だが、日本人は幸の神（サイノカミ）のおかげで、性に対して寛<br>容な国民性となった。また３大宗教のような一神教、排他的な考えをもつことが避けられた。また<br>幸の神（サイノカミ）のおかげで日本人は先祖神を何より敬う精神構造になった。幸の神の（サイ<br>ノカミ）が全国に広まり、各地の御柱(男根崇拝)祭り、有名なもので名古屋小牧の「豊年祭り」、<br>長野の女男神像、等がある。尚、神道というのは幸の神（サイノカミ）が国家に横取りされたもの<br>である。地方の田舎の家では神棚に先祖神・幸の神（サイノカミ）を拝んでおり、神道とかと呼ぶ<br>庶民はいないのである。正月と言えば日本最大の行事であるが、正月も元々は幸の神（サイノカミ<br>）の行事として始まった。正月は幸の神（サイノカミ）さんのことを特別に歳徳神・歳神（としが<br>み）さんと呼んだ。お供えを用意し先祖神の歳神（としがみ）さんを家に招き迎えた。そして女夫<br>が添寝をし、仲よく幸せにやっていますよというところを見せて、先祖神・歳神（としがみ）さん<br>に安心をしてもらうことが重要だった。だから正月の姫初めは大事な神事だった。尚、紀元前１０<br>０年頃にヤマトに出雲族が建てた正月の神さんを祭る御歳神神社が鎮座する。「記紀」が出た後、<br>神社の祭神は政府の意向で出雲系の神、及び「幸の神」はずいぶん変えられた。それは「記紀」で<br>初めて登場したイザナギとかイザナミ等々に変えられた。それでも出雲系の神、大国主や事代主を<br>祭る神社が現在でも、全国各地に多数ある。それだけ幸の神（サイノカミ）信仰が、日本全土にひ<br>ろまっている証拠である。それは縄文人＝出雲族＝日本人の民族の風習・伝統・行事といった民衆<br>レベルのことは、支配者が変わろうが、なかなか変わることはないのである。またへびのトグロに<br>似た山が、「神がこもる山」(神名備山かんなびやま)として崇拝された。中国地方最高峰の大山は<br>、伯耆富士ともいわれるように、三角錐の形をしており、代表的な神名備山である。その大山は、<br>出雲王国時代から奈良時代までは、大神（おおがみ）山と呼ばれていた。何故、大神山（おおがみ<br>やま）と呼ばれていたかと言うと、出雲王国の王宮がある大庭おおば（松江市大庭町）から、春・<br>秋の年２回の大祭の時に遠方、各地から参集した豪族たちは、、各種、催しもの・宴会が終わった<br>最後に、全員で東の彼方にクナトの大神がこもるとされた崇高な大神山（おおがみやま）に向かっ<br>て遥拝した。その後、大神山（おおがみやま）の麓には、大神山（おおがみやま）神社が遥拝地と<br>して建てられた。また後に大神山（おおがみやま）の、山腹に大神山（おおがみやま）神社奥社も<br>建てられ、現在も続いている。尚、なぜ大神山（おおがみやま）が、大山（だいせん）と呼ばれる<br>ようになったかというと、奈良時代に仏教勢力が強くなり大神山に大山寺（だいせんじ）を建てた<br>。それ以降、地元の人々は大神山（おおがみやま）と言わずに、大山寺（だいせんじ）があるので<br>大山（だいせん）と呼ぶようになった。尚、大神山（おおがみやま）神社が出雲王国、サイノカミ<br>、クナトの大神の名残を今に留めている。しかし残念ながら、なぜ昔、大神山（おおがみやま）と<br>言われていたのかということを知っている地元の人は、いない。これも「記紀」の影響で出雲王国<br>が忘れられたからだ。尚、クラウドファンディングで資金集めをして、幸の神アーカイブ（記録・<br>保存）プロジェクトを計画しています。ご賛同いただける方はご連絡ください。</p><p><br>■「三」は聖数</p><p>　尚、サイノカミ(幸の神)三神というように、幸の神では、「三」が聖数として扱われた。それで<br>結婚式で使う三三九度用の三つ重ねの盃は「三三クナト」の意味が込められている。大きい盃は花<br>婿を、中の盃は花嫁を、上の盃ははうまれてくる赤ん坊を象徴する。三宝も幸の神からだ。</p><p>　また、三拍子そろうと縁起が良い、も幸の神三神からきている。万歳三唱（当時はイズメ、イズ<br>メイズメ）も聖数「三」からきている。締めの拍子を三つ打つのも同様である。</p><p>　幸の神三植物は松竹梅だ。松の葉は乙女の下の毛に似ているので（若松様）と呼ばれ縁起が良い<br>。竹の筒は男性のアレである。梅の花は、幸の神では「産め」に通じるので、最高の花とされる。<br>　<br>■「八」も聖数</p><p>　太陽信仰からきており、日本海軍旗のように、朝日が八方に光りを放つ姿に見えるのでその八本<br>の光から来ている、という。<br></p><p>出雲大社</p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida1207/entry-12035595182.html</link>
<pubDate>Sat, 06 Jun 2015 10:01:45 +0900</pubDate>
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<title>安倍総理は逆上ればイズモ王・事代主の系譜</title>
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<![CDATA[ <p>◇◆安倍総理は逆上ればイズモ王・事代主の系譜◇</p><p>◆◇安部晋三◆◇内閣総理大臣<br>◆◇◇◆◇蝦夷扱いされ正史から葬られた、日本の名門◇◆◇</p><p>■事代主・・・子孫→２世紀のヤマトの指導者・大彦（ナガスネヒコ）<br>■大彦（ナガスネヒコ）はヤマトに攻めてきた物部勢と戦う<br>■大彦は戦いに敗れ、東国に移住し強力な→安倍王国を築く<br>■ヤマト物部勢からは蝦夷と蔑まれる<br>■安倍王国が最初に「日の本」国を名乗る<br>■大彦（ナガスネヒコ）→阿倍→安倍→安東<br>　<br>　鳥取県米子市に安倍という地名がある。なぜ安倍という地名になったかと言うと、安倍という家<br>が、多かったので、その地名がついた。なぜ安倍家が多かったのか。それは先祖が粟嶋神社にまつ<br>られているからだった。子孫は先祖の地に心ひかれて、どうしても住みたくなるということで子孫<br>の安倍家が集まり、安倍という地名になった。それは１０６２年の前九年合戦で敗れた安倍一族が<br>船で、この地に逃れた、ことにさかのぼる。その粟嶋神社に祭られている先祖とは、出雲王国の有<br>名な第八代スクナヒコの事代主（個人名・八重波津身・やえなつみ）通称エビスさんとして、親し<br>まれている御方だ。紀元後１８０年頃のヤマト磯城王朝第八代クニクル大王（孝元）の御子で、実<br>質のヤマトの指導者は大彦（個人名・ナガスネヒコ・ナーガ竜神、スネヒコはスネークに通じる）<br>、尚、大彦とは大兄（おおえ）に相当する呼称である。、安倍家の直接の祖先に当たるが、大彦・<br>ナガスネヒコは事代主の血を引き継いでいた。紀元後１８０年頃にヤマトに攻めてきた第一次物部<br>勢と戦ったのが大彦であった。劣勢になり、琵琶湖の東岸に逃れた。なおも攻撃された大彦・ナガ<br>スネヒコは、出雲の向王家に来訪して加勢を求めた、と伝承されている。３世紀に日向にいる物部<br>政権が出雲を攻めるという噂があったので、向家は大彦・ナガスネヒコを助ける余力はないと、断<br>った。そのときまで、富家を名乗っていた大彦・ナガスネヒコに、以後は富家を名乗らないように<br>通告した。摂津国三島（大阪府高槻市）に事代主の領地があった。そこの山、（阿武山）の名をと<br>って、大彦・ナガスネヒコは以後、阿武（あべ）家を名乗ることになった。いわゆるナガスネヒコ<br>王国は、その後も物部王国に追われて、都を駿河の安倍川付近に移した。ナガスネヒコ王が亡くな<br>った後では、王家は安倍家を名乗り、クナト国を名乗った（因みにクナト大神に由来する）。三島<br>の人々はナガスネ王家を守るために、駿河国まで付いて行き、伊豆半島の入口に三島の町を造った<br>。そこに三島大社を建て、事代主をまつった。阿武山は古代は重要な神山で、今城塚古墳はその山<br>に向けて造られた。物部勢は安倍王国の征服に向かい、焼津や日本平の戦いなどで勝ち進んだ。安<br>倍勢は船で常陸（ひたち）国に移り、鹿島を都とし、そこに鹿島神宮を建て雷（出雲竜神の化神）<br>を祀った。中臣氏率いる軍勢が西から攻め神宮を奪った。そして、そこの祭神タケミカヅを奪って<br>自家の氏神に加えた。先に述べたように、出雲族はインドの太陽神スーリアの信仰を受け継ぎ、大<br>和に移住した後も三輪山の日の出を拝んだ。旧大和王国のナガスネ王一族と従う人々も、同じく太<br>陽信仰を持っていた。それで、住み着いた常陸国を「日立ちの国」と呼んだ。それは「太陽の昇る<br>国」の意味だった。「常陸国風土記逸文」に、鹿島の西方の「信太群の地は本、日高見（ひだかみ<br>）国なり」と記されている。また駿河の安倍川の東にある日本平の「日本」は、「日の元の国」の<br>意味で安倍王が名付けた地名かも知れない。その後、安部王国は宮殿を睦前国や睦中国へと移した<br>。そして、国名を日高見国と称した。今の北上川の名前は元は、「日高見川」だったらしい。その<br>流域に、鳥海柵や厨川柵（盛岡市）などの防衛基地の遺跡が残っている。ナガスネ王国が日高見国<br>と名乗ったから、日本書紀の景行期２７に「東の夷の中に、日高見あり」と書かれた。日高見国は<br>その後、「日之元津国」とか、「日本之（ひのもとの）国」と名乗った。「旧唐書」（倭国日本国<br>の条）に次の記事がある。「日本国は倭国の別種なり。その国は（あさ）日の辺にある故に、日本<br>を名とする。倭国はその名が上品でないと自ら嫌い、改めて日本に変えた。あるいは言う。日本は<br>古くは小国で、倭国と並立していた」この日本国は倭国とは別の国名で、独自の貿易を行っていた<br>。この貿易の続行による輸入品は、後の平泉文化にも入っている。だから、この史書に書かれたよ<br>うに、日本列島には二つの独立国があったことは、外国には広く知られていた。そして「日本（ひ<br>のもと）」の国名は、東北の日高見国が先に使ったものだった。北にあった日本国の記念碑が、青<br>森県東北町に残っている。場所が移動したので、元あった位置「石文」の地名から陸羽街道（国道<br>４号線）をはさんで反対側の千曳神社近辺にある。その南が「坪」の地名で坪川が流れている。そ<br>の石文には、浅い彫りで「日本中央」と書かれている。浅い彫りであることが、彫る技術が未発達<br>な古い時代に造られたことを示している。この石文は東国の王・安倍致東が建立したと伝えられて<br>いる。伝承によると安倍政権には、アイヌ代表も加わっていたと言う。ということは、日本国はア<br>イヌが住む渡り鳥（北海道）や樺太も領土にしていたことになる。だから坪の石文が建てられた時<br>は、その場所が安倍王国すなわち、日本国の中央であったことは、誇張でないことがわかる。その<br>後、倭国は日本国の名を使ったから、大和政権の記事は「新唐書」では「東夷伝の日本の条」に書<br>かれた。それに関することが、若狭国の羽賀寺（小浜市国富）に残された記録だ。それにナガスネ<br>王の子孫・安倍（安東）康季公がその寺の伽藍を再興した際のもので、「奥州十三之港の日本の将<br>軍」と１４３５年に名乗っている。この文は安倍氏の東北王国が日本国を名乗った後に、倭国が勝<br>ってに日本の名を使ったことを示している。東北地方を領国とした安倍王は、都を津軽半島に定め<br>た。亀岡（木造町）はアラハバキ（出雲と同じ竜神木信仰）の聖地とされて、王国各地より、代表<br>が祭りに参列したと言う。その際に祭壇に目閉じ女神像が立てて拝まれたらしい。平安時代の末に<br>は、安倍王家の一部は奥六群に中心を移した。そこに源氏の軍勢が進出し、政府の指示なしに、私<br>闘を繰り広げた。それがいわゆる前九年合戦だった。これに敗れた安倍王家は領土を狭めた。安倍<br>家は鎌倉時代には安東氏を称するようになった。当時はアイヌが住む北海道も支配していたから、<br>自分の家系が東国の将軍だと自負したのは当然だったと考えられる。後の中心地は、津軽の十三港<br>（とさみなと）近辺だった。そこは初めはトミの港と呼ばれたが、後にはトサと呼ばれた。近年、<br>安東勢力の根拠地跡が発掘された。その場所は津軽半島の西海岸にあり、岩木川が海にそそぐ所だ<br>った。十三湖の日本海側に二本の長い砂州が防波堤のように伸びている。その内潟の明神沼の入口<br>に護岸施設と桟橋か゜ある港湾施設（青森県市浦村）が見つかった。安東氏の館と家臣団屋敷を掘<br>と土塁で守る形になっている。掘の外側には町屋や寺院跡があった。この十三港と町は出土遺物か<br>ら鎌倉時代初期に出現したことがわかった。１９６８年に函館空港の近くに、中世の志苔館遺跡が<br>発掘された。そこから、銅銭が３７万４千枚以上見つかった。日本列島での埋納銭としては、最多<br>数だった。これは安東一族が埋めた可能性が大きい。安東氏は鎌倉時代後期に、北条執権政府の支<br>配下に入った。それ以前は独立していたから、古代から続いた安倍王国はこの時、終了したと言え<br>る。その後、文永と弘安年間の二回にわたり蒙古軍船の大襲来があった。二回とも神風が同じ場所<br>に来て、蒙古軍船は全滅したという奇妙な話が流された。しかし、実際は執権政府の要求に応えて<br>、津軽の安東水軍等が海上で懸命なゲリラ戦を繰り広げ、蒙古船を追い払った、と古老は伝える。<br>羽後国で湧き出る重油を樽に入れ積んだ安東船は、夜陰にまぎれて蒙古船に近づき、重油をつけた<br>松明に火をつけて敵船に投げ入れた。多くの敵船は燃えた。前九年合戦で敗れた安倍宗任は肥前松<br>浦に移って、松浦姓を名乗り一族は松浦党という水軍となった。かれらも蒙古軍船撃退のために活<br>躍した。残った蒙古の軍船は逃げ帰ったという。鎌倉幕府は恩賞を与えることを嫌い、安東水軍の<br>活躍を無視したという。蒙古船の一部は安東船を追って津軽まで進み上陸した。しかし、蒙古兵は<br>安東氏の指揮する軍勢に打ち滅ばされた。その蒙古兵のことが、今も津軽の子守唄に歌われている<br>。松浦党の一部はその後、先祖ゆかりの地・出雲に移り住んだという。その後も安東水軍による海<br>外貿易は続いたが、１３４１年（南北朝時代）の大津波が、十三港襲い町も滅んで、安東家（安倍<br>家）は衰退した。日本の名門・安倍家は時の政権から異民族でないのに蝦夷扱いされ、出雲王国と<br>同様に勝者の歴史＝正史から、葬られた。大彦は二世紀末の指導者だったが、「記紀」では紀元前<br>二世紀の豪族にかえられ、神武天皇の敵にされた。たしかに大彦は、徹底した物部嫌いであった。</p><p>---------------------------------------------------------------------------</p><p>■古代史ダイジェスト版－出雲王国～三韓征服まで－</p><p>紀元前４００年頃、和国で最初の王国「出雲王国」は誕生した。それは武力で統一された国ではな<br>かった。「野ダタラ」と呼ばれる和国最初の鉄の生産により、経済が発展し文明が栄え、自然に人<br>々が集まるようになった。各地の豪族の娘と重婚し、それが広域出雲王国の領土となった。また「<br>幸神」を信仰する宗教国家であった。母系家族制で戦争もない平和な国だった。秦の始皇帝の時代<br>、紀元前２１９年頃に、秦国から古代最大の渡来人集団、徐福集団が出雲王国に渡来した。そして<br>出雲両国王の暗殺事件→出雲人による新王国の建立（ヤマト開拓）と、歴史が玉突きで動いた。徐<br>福は和国で王になれる見通しがないので失望し、さらに多勢の秦人を引き連れ和国の王になること<br>夢見、一旦、帰国することを決断する。紀元前２１０年頃に、徐福はさらに多勢の秦人を引き連れ<br>こんどは、九州の有明海に上陸した。合計五千人以上の渡来人が、古代の和国にやってきた。かれ<br>らの渡来は光と影があったが、縄文→弥生は徐福集団集団の渡来が、もたらしたものだ。紀元前１<br>００年頃、第二の渡来集団が、現れた。辰韓（新羅）からヒボコ王子とその従者（数百人）たちで<br>あった。ヒボコは辰韓王の長男であった。王は跡継ぎ争いを避けるために、ヒボコに家来をつけて<br>、財宝を持たせて和国に送った。それは次男を、跡継ぎにさせるためであった。それでヒボコは父<br>王を恨んで、反抗的な性格になっていた。ヒボコは生意気な態度であったため上陸を許可されず、<br>但馬方面に上陸した。尚、吉野ヶ里遺跡は徐福集団の住居跡で、そこで作られた土器が弥生土器の<br>基になった。秦人は高級機織りの技術をもっていたので秦（ハタ）族と呼ばれた。そして徐福の子<br>孫の代になると、筑紫平野を征服し新しく秦の国を築くという意味て゜築秦国とした。のちに、そ<br>れがなまって筑紫国となった。つまり九州の北部、筑紫平野は、中国人に支配されたことが、歴史<br>の事実である。徐福の子孫は物部氏を名乗った。日本史で重要な弥生時代の到来について、いつ、<br>誰が、何処にやってきたか具体的な話がないのは、そのためである。日本の古代史に欠落している<br>一つは弥生時代がどうやってもたされれたのか。そのことに言及する学者はいないのである。奈良<br>時代の日本書紀は、中国人にも見せるために、漢文で書かれた。そんなことを書いたら中国から属<br>国扱い、軽く見られる。そんなことは伏せるしかなかった。また、出雲渡来時の孫が海　村雲であ<br>り、ヤマトの初代大王となった。また子孫は海部氏（尾張氏とも言う）となった。徐福の腹異いの<br>子孫である物部氏と海部氏、それと事代主の子孫が古代の政治を動かしていた。紀元１００年頃、<br>九州の物部勢がヤマトに第一次物部東征を行う。武力では優勢だったが、人民の尊敬を集めること<br>はてきず失敗（姫巫女がいなかったため）。約１５０年後の紀元後２３２年頃に、第二次物部東征<br>を計画。その最中に、物部イニエ大王が九州で没し、未亡人となったヒミコが意志を引き継ぐ。ヤ<br>マトに攻める前に魏に朝貢し後ろ盾を得ることにした。第二次東征は瀬戸内海ルートと日本海側ル<br>ートに分かれて進んだ。その日本海ルートで出雲王国は物部勢力に滅ぼされた。瀬戸内海ルートで<br>は安芸の宮島でヒミコは病死し、物部イクメが指揮官を引き継ぎヤマト磯城王朝（出雲系）を滅ぼ<br>し、物部王朝の政権を樹立。しかし物部王朝は短命の三代で終わる。物部王朝三代目はワカタラシ<br>（成務）大王で、后はオキナガタラシ姫であった。オキナガタラシ姫はヒボコの血を引き継いでい<br>た。当時、辰韓の王家が断絶し、家来が新羅国を起こした。当時は領土も人民も王家の財産だとの<br>考えがあった。だからヒボコの子孫のオキナガタラシ姫は、新羅領地と年貢を自分が受け継ぐ権利<br>があると考え、新羅に出兵し権利を承認させようと考えた。日向国の武内ソツ彦王の協力得て、ソ<br>ツ彦王が新羅出兵の総指揮者となり新羅だけでなく三韓征服に成功する。そして三韓からの年貢が<br>財政として使えたので、和国はそれ以前より豊になった。その三韓年貢マネーが使えたから、近畿<br>方面に巨大な古墳が誕生した。以上が出雲王国～三韓征服までの、ざっとした、あらましである。</p><p>○「記紀」で隠された、最大の「不都合な真実」</p><p>■神話の国にされた「出雲王国」、スサノオ・ニニギノにされた徐福</p><p>　奈良時代に書かれた「記紀」は時の権力者が不都合な事は隠し、また史実としてでなく神話の形<br>を借りて話を創作した。それにより日本の古代史（紀元前５００年頃～紀元後３００年頃）、歴史<br>年表で言えば弥生時代に相当。その時代の古代史は「記紀」によりブラックホール化されてしまっ<br>た。現代人の古代史に関する常識も「記紀」が基になってしまった。「記紀」の最大の罪は、日本<br>の源流・古代史そのものと言ってよい「出雲王国」のことを神話の話に変えて隠したこと。それは<br>子孫が日本人の民族のルーツ・祖先を忘れる結果に繋った。もうひとつが、弥生時代の到来をもた<br>らした古代最大の渡来集団である「徐福集団の渡来」の史実を同じように神話の話に変え隠したこ<br>と。それは奈良時代の支配者であった貴族は、そのほとんどが、渡来人・徐福の子孫である物部氏<br>や海部氏(尾張氏)と、それと旧出雲王家の事色主の血を継ぐ子孫であった。渡来系の子孫は、今さ<br>ら９００年前の出自・血筋・血統には、触れられくなかった。だから勝者の都合の良い官史には先<br>祖が渡来人であったことは隠された。都の貴族にとって先祖が渡来人であったことは隠さなければ<br>ならなかった。だから先住日本人の・出雲王国を徐福の子孫（奈良時代の物部氏や海部氏(尾張氏)<br>から見たら先祖にあたる）か゜滅ぼし、徐福の子孫がヤマトの大王（ヤマトの初代・海部王朝や、<br>３００年頃の物部王朝）になったことなど、奈良時代の支配者／貴族であった徐福の子孫である、<br>物部氏や海部氏（尾張氏）にとっては不都合なことであり、隠したかった。先祖は天孫降臨したと<br>いう設定が一番、都合がよかった。先祖が渡来人の場合、あいまいなうやむやな話が一番、都合が<br>良かった。例えばハワイ王朝がアメリカに滅ばされた史実は、勝者の歴史では単にハワイがアメリ<br>カの州になったとしか記されないのと同様である。だから「記紀」の虚飾については支配者の腫物<br>に触ることに繋がるので、指摘するには命がけの覚悟が必要になる。いずれにしても、この二つの<br>重大な史実を「記紀」が隠したため、日本の古大史はすっぽり穴が開き、闇に葬られたままで、全<br>く判然としないのである。さらに明治の王政復古によって「記紀」の虚飾性ついては、政府・国に<br>よっても正当化され利用された。また国民も熱風のごとく歓迎し、時代の背景もあったが、それは<br>「記紀」の虚飾の虚構が影響を与えた部分も多少あり昭和の破滅に繋がった一面もある。そして出<br>雲王国は「神話の国」のまま放置にされた。日本の学者は官史「記紀」を鵜呑みにし、出雲王国は<br>史実に基づかない絵空事として取り扱ってきた。それは平成の世でも明治以後の王政復古に伴う呪<br>縛から解き放たれていない証左である。官史ということで疑いを持たないのが史学界の体質である<br>。そこには真実の探求という姿勢が感じられないのである。かぐや姫の作者の命がけの願いが全然<br>わかっていないのである。そういう姿勢は昭和５９（１９８４）年、世紀の大発見と騒がれた、「<br>３５８本の銅剣」が見つかった神庭荒神谷遺跡から３０年も経つのに、依然として出雲を語るとき<br>の枕詞は「神話の国」なのである。その間、史学界は何をやっていたかと言うと相も変らぬ、邪馬<br>台国論争・卑弥呼論争であった。これについては、巻末に説明しているので参照されたし。とにか<br>く史学界の出雲への無視ははなはなだしいのである。いずれにしても、日本人は官史である「記紀<br>」で、出雲神話の話が書かれたため、出雲はただ単に神話の話の舞台にされただけで、出雲王国が<br>史実であったとは思わなくなった。その結果が、日本人の起源は中国や半島から人が来て、それが<br>日本人になったと漠然と思うようになった。そして大和に最初の政権（裏付けとして巨大な古墳）<br>ができ、それが日本で最初の国造りと思うようになった。出雲王国を「記紀」が神話の話に変えた<br>結果大和が日本の国造りの原点と思うようになった。日本人は民族のルーツ・祖先を忘れることに<br>なったのである。徐福渡来のことは、各地に徐福の伝承があるため、徐福伝説という話を聞いたこ<br>とがある位の認識になった。「記紀」の罪は日本の国の初期を隠したために、子孫は国の成り立ち<br>を忘れてしまう結果を生んだ。それは、日本人は民族のルーツ、国としてのルーツを忘れることに<br>繋がった。また歴史＝正史は、渡来人の光と影を隠した。それは稲作の伝来、文化向上で大きな役<br>割を果たした渡来人の功績を歴史から消してしまった。奈良時代では書けなかった事情もあるかと<br>思うが、今の時代であれば、ちゃんと中国人・秦人・ユダヤの子孫のかれらを評価すべきだと考え<br>る。</p><p>■■■■徐福と出雲王家はすぐ混血した■■■■</p><p>■秦から徐福は約２千人弱の秦人を引き連れ出雲王国に渡来してきた（紀元前２１９年頃）</p><p>■徐福（出雲）→火明（ホアカリ）と和国風の名前を名のる。「記紀」ではスサノオとされた</p><p>■徐福・ホアカリ（出雲）＋高照姫（大国主の娘）＝五十猛（いそたけ）誕生。</p><p>■徐福は出雲王国で王に就任することができず、失望し、一旦秦に帰国する。</p><p>■五十猛は、姓を海（あま）とし、海（あま）五十猛となる。</p><p>■海　五十猛は成人し、出雲の秦（ハタ）族を引き連れ、丹波に移住する。</p><p>■海　五十猛→海　香語山（かごやま）（丹波で改名する）</p><p>■海　香語山＋大屋姫（大国主の孫娘）＝高倉下→紀伊国造→武内宿祢→蘇我氏</p><p>■五十猛＋穂屋姫（九州の徐福の娘）＝海　村雲が誕生。「記紀」が海を（天）の字に変える</p><p>■海　村雲は成人し、出雲人が開拓したヤマトへ１万人近い丹波人を引き連れ、集団移住する。</p><p>■海（天）村雲＋タタライスズ姫（事代主の娘）＝→海部氏（尾張氏）→</p><p>■秦から徐福は約３人千の秦人を引き連れ九州に再来日した（紀元前２１０年頃）</p><p>■徐福（九州）→ニギハヤヒという名前を名のる。「記紀」ではニニギノという名にされた。</p><p>■徐福（出雲）→火明（ホアカリ）、徐福（九州）→ニギハヤヒで同一人物異名である。</p><p>■「記紀」では徐福（出雲）はスサノオ、徐福（九州）はニニギノという名にされた。</p><p>■徐福（九州）＋市杵島姫（出雲王国の分家・宗像家の娘）＝ホホヒデミ誕生→物部氏</p><p>■徐福（出雲）での五十猛、徐福（九州）でのホホヒデミは腹異の兄弟である。</p><p>■「記紀」では腹異の兄弟、五十猛とホホヒデミのことを海彦と山彦の神話にしている。</p><p>■徐福（出雲）での五十猛が海部氏、徐福（九州）でのホホヒデミが物部氏になる。</p><p>■古代の政治を動かした海部氏と物部氏の始祖が徐福である。その意味でも徐福の渡来は、歴史上<br>、大変に重要なことであり、徐福渡来が分からなければ古代史は理解できない。</p><p>渡来人と言っても、出雲王家の血とすぐ交わっているのである。だから、単純に出雲系とか渡来系<br>と区別するのは、簡単にいかない。女系家族制の影響もあり、母方の血も重要になる。古代では、<br>血筋が有力視された。奈良時代の都の貴族のほとんどが、海部氏・物部氏・事代主の子孫であった<br>が、大きくとらえれば、みな出雲王家および徐福の血を引き継いでいるので、あまり血筋をとやか<br>く言うことには意味がない。ただ子孫には、自分の家は、海部氏系とか物部氏とか事代主とかの、<br>こだわりがあった。また徐福の腹異いの子孫である物部氏と海部氏は仲が悪く、お互い対抗心を持<br>っていた。腹異いの兄弟の確執は、それは現代にも言える話だ。それを「記紀」では山彦と海彦の<br>話で例えている。尚、物部氏の家系は藤原不比等によって本家筋は歴史の闇に葬られた。物部氏の<br>親族は鈴木姓を名乗った。海部氏の家系はその家系図の「海部氏本系図」、と「海部氏勘注系図」<br>が、国宝となっているにことをもっても現代に脈々と続いている。家系図が国宝となっているのは<br>海部氏家だけである。民間の家系図が国宝になっていることは、どういう意味があるか考えてみて<br>ください。海部元首相や、日商岩井の海部副社長も海部氏の家系である。また徐福と一緒に渡来し<br>てきた秦（ハタ）族とよばれた人たちの子孫は日本人の多数に上る。波多（はた）や秦（はた）を<br>名乗る人は子孫である。有名な人では、羽田元首相。羽田元首相は自分は秦（ハタ）族の子孫だと<br>明言されている。和国に縄文→弥生と文化向上に尽くしたのが渡来人秦（ハタ）族である。なので<br>本来はかれらは称賛されていい人達である。渡来人＝悪人ではなく、渡来人＝和国の文化発展に貢<br>献した人、である。日本の歴史では、そのへんのところを、下手に隠している。光と影があったが<br>、光の部分は正当に評価が必要だ。だから和国の権力者が出自が渡来人であっても、何ら問題は、<br>ないのである。また徐福の子孫も２世代以降には出雲王家の血が入っているのであり隠す必要はな<br>いと思われる。尚、出雲族＝縄文人＝ドラビダ族というのは、母系家族制の権力指向がない、平和<br>を尊ぶ民族だが、反面、人が良い、騙されやすいという欠点がある。それにひきかえ、徐福にして<br>もヒボコにしても戦乱の絶えない国からやってきて戦には長じており、実践経験の乏しい出雲族と<br>は断然、違っていた。また父系家族制で権力指向のかたまりだ。平和だった和国に、そういう、渡<br>来人がやってきたら、渡来人系がおのずと支配者階級になるのは、いたしかたないことかも、知れ<br>ない。尚、誤解があるといけないのでかくが、決して和国・出雲人が文化が遅れていたとかでなく<br>インダス文明の子孫であったのでそれなりにあった。中国は４千年の歴史といっても、ほとんどが<br>西のオリエントから文化は入ってきた。それに対して日本は直接インドからインダス文明をひきつ<br>いでいたので、中国に引けをとるようなことは、さほどなかった。但し中国は父系制度だったため<br>権力指向が強いため政治体制が進んでいた。母系制度の平和に暮らしていた日本人は征服されやす<br>い面があった。しかし人民は簡単に渡来人系には従わない。そこでヤマトの歴代大王は、事代主の<br>血を引く三輪山の姫巫女を后に迎え、その人気を利用し、政権を維持した。また「幸の神」を神道<br>として、国家行事に取り入れ、人心の掌握に努めた。但し、支配者階級に都合が良かったとはいえ<br>、さすがに出雲王国を史実から葬りさったのは、やりすぎだ。それは当時の支配者が先住出雲系で<br>なく、渡来系だと自ら言っているようなものだ。しかし、出雲王国に限らず、アイヌ民族にしても<br>然り、次に記述する安倍王国にしても、敗者の歴史とは正史からは抹消されてしまう運命にある。<br>古今東西そういうもので、さほど異なものではない。。但し、歴史の闇に葬られた敗者の歴史に光<br>をあてることが、子孫の役目ではないかと考える。「記紀」が書かれた奈良時代以降、歴代政府、<br>また政治家はわが国で最も古い出雲王国を無視しつづけてきた。それは自国の歴史について無知で<br>日本人の先祖に対して先祖不幸をしていると、言われても仕方がないのである。</p><p>------------------------------------------------------------------------------------<br>付録資料５<br>．<br>■「天皇」という称号</p><p>　中国の道教の最高神のことを指し、北極星を神格化した「天皇大帝」に由来する。秦から渡来し<br>てきた徐福は道教の方士（道士）であった。中国では秦国が全土を統一する前に、シャントン（<br>山東）省方面に斉（せい）という国があったが斉は秦に亡ばされた。徐福はその斉に住んでいた。<br>そして斉（せい）という国は「ユダヤの失われた十士族」の子孫がたどりついて住んだ地と言われ<br>ている。尚、日本人はユダヤ人というと白色の西洋人を思い浮かべるが、元々のユダヤ人というの<br>は、日本人に近いアジア系民族だった。中国の道教というのは、ユダヤ教とそっくりで、その特色<br>は仙人崇拝と北極星礼拝がある。この教えは方士・徐福が、はじめて和国に伝えた。それで各地の<br>山に「仙」の字のつく名がついた。出雲での徐福・ホアカリ（火明）は道教の方士（ほうし）であ<br>ったから、童男童女を夜に山頂に導き、仙人を尊ぶことを教え、道教の星神を拝ませた。仙人を意<br>味する「仙」の字が、かれらが登った山の名に付けられている。出雲では物部神社の北方に大仙山<br>があり、大森の石見銀山に仙ノ山がある。「７」を聖数としているのも同じだ。またイスラエルの<br>国旗に採用されている、「ダビデの星」は中国では六芒星と呼ばれ、日本では「カゴメ紋」とされ<br>ている。徐福と一緒にきた秦（ハタ）族と呼ばれたかれらの大半が「ユダヤの失われた十士族」の<br>子孫と考えられる。丹後の「天の橋立」があるが、その北端の近く（宮津市大垣）に、丹後国一の<br>宮である籠（この）神社が鎮座する。その地は徐福・ホアカリ（火明）ゆかり所であり、その直系<br>の子孫・海部氏が徐福・ホアカリ（火明）をおまつりしている。元宮は籠（この）神社の後方の小<br>高い山に元宮は、鎮座している。その山の名前が香語山であるから、五十猛（イソタケ）は、その<br>山の名前によって香語山（カゴヤマ）と名を変えたのであろう。元宮は比治真名井原にある真名井<br>神社であるが、初めは吉佐（よさ）と呼ばれた。７１９年に籠（この）神社創建されるまでは、吉<br>佐（よさ）宮が丹後地方の祭祀の中心であった。その真名井神社の碑には、カゴメ紋＝六芒星＝ダ<br>ビデの星が刻まれている。海部（あまべ）家の家系図、「海部氏本系図」、と「海部氏勘注系図」<br>は国宝となっている。尚、この海部（あまべ）家とその親族の娘（竹野姫など）は、天皇家に后妃<br>てして多く選ばれて入る。</p><p><br>■日本人の祖先の偉大な旅</p><p>　約６万年前に人類はアフリカから出発し、車も飛行機もない時代に地球上のあらゆる地域に進出<br>、拡散した。南米の高地、北極圏、赤道直下のジャングル、寒冷地、乾燥地帯そして、それぞれの<br>地域の気候・風土の環境に適合して、それぞれの人種・民族になっていた。大陸の東の海に浮かぶ<br>日本列島にも、偉大な旅をして渡って来た、日本人の祖先の物語があった。それは今から３５００<br>年前の話である。</p><p><br>■日本人は４大文明の一つインダス文明の子孫</p><p>　いわゆるイズモ族は３千年以上前に、日本の本州に民族移動したと言う。「鼻の長い動物の住む<br>国から来た」との伝承がある。３５００年以上前に、インド西北から戦闘的な民族アーリア人がイ<br>ンドに侵入して、先住民の土地を奪い牧畜を行った。母系制度で平和に暮らし農耕生活だった先住<br>民はドラビダ人だった。４大文明の一つインダス文明はドラビダ人が築いた。紀元前３８００年頃<br>から、砂漠化や洪水、河川流路の変更など、さまざまな理由にのよって衰退期であった。紀元前３<br>５００年頃、インドの中部に、クナ国と呼ばれる小王国があった。（今のグナの町らしい）そこに<br>イラン高原で遊牧をしていたアーリア人がが次々に侵入して来た。彼らは騎馬民族で父系家族制だ<br>った。森の樹木を切りはらいどんどん牧場を広げて、勢力を広めた。アーリアの男たちは、クナ人<br>の家に婿が来ていない夜の隙を狙って泊まり込み、女たちに彼らの種を植える行動に出た。彼達は<br>父系家族民なので、戦いに長じていた。クナ国の家々は女戸主の家族だったから、まとまりが弱く、<br>対抗できなかった。結果として、アーリア人との混血児をクナ族の女が産み、育てることが多くな<br>った。そして多くのドラビダ族は、アーリア人の奴隷にされた。母系家族制の民族は平和的だが、<br>父系家族制度の民族が得意の戦争には弱い面があった。この情勢の中で南方に逃れるドラビダ族も<br>いたが、クナ地方を支配していたクナト王は別の策を考えた。当時インドには、バイカル湖方面か<br>ら、ブリヤード人の商人が交易に来ることがあった。彼らから「シベリアの南方の大海原の中に住<br>民の少ない、温暖な島がある」と聞いていた。クナト王はそこに移住しようと考えた。出雲の古老<br>は「イズモ族は、砂の平原を通り、広い湖の近くから、長い川を流れ下って来た」と伝えている。<br>この「砂の平原」とはゴピ砂漠のことであろう。「広い湖」とはバイカル湖だと考えられる。「長<br>い川」は黒竜江（アムール川）であろう。クナト王は移住計画を発表し、移住集団に加わる若い元<br>気な男女を募集した。数千人の応募があったらしい。そこで食料などを家畜の背中に積んで、案内<br>役のブリヤード人を先頭に、移民団は出発した。まず北の山岳地帯を超えた。そこから東に進み、<br>朝鮮半島を通る道が近い、と現代人は思うかも知れない。しかし紀元前の古代世界では、それは危<br>険なことであった。獣でも縄張りがあり、近づくと攻撃してくる。ましてや弓矢を持つ異民族の国<br>の中を大集団が通過すると襲撃され、犠牲者が出る時代であった。だから住人の少ないシベリアを<br>通るのが無難であった。しかし冬のシベリアは極寒の地である。冬を避けて秋までに通過するため<br>に、移住者たちはゴビ砂漠を春に過ぎたことであろう。篠田謙一さんの研究報告によると遺伝子Ｄ<br>ＮＡデータバンクに登録されている縄文人２９体のうち、ブリヤード人と同じ塩基性配列のものが<br>１７体あり、その配列はブリヤード人とモンゴル人に共通する、という結果が出た。登録数が少な<br>いので偏りが考えられるが、ブリヤード人が縄文人に混血していることは間違いない。アムール川<br>上流に自生していたソバの実をブリヤード人が倭国に伝えた、とも言われる。その上流で、移民団<br>は木材を用意し、筏と櫂を作った。そして食料を、家畜の背中から筏に移した。食料と家畜は途中<br>で食べられて減少し、最後にはすべてが移住者の胃袋に消えたことであろう。筏に乗ったあとは、<br>簡単であった。川の水が数千キロの距離を間宮海峡まで、移住民を流し運んでくれた。歩き疲れる<br>ことはなかった。古代にブリヤード人が倭国と交易していたことは、北海道産の黒曜石の石器がア<br>ムール川流域やバイカル湖岸から発掘されていることで証明できる。ブリヤード族はバカル湖付近<br>に住むが、アムール川を舟で下れば、楽に日本に来ることがてきた。アムール川は縄文時代の重要<br>な交易の道であった。一行は樺太(サハリン)西海岸を南に進み、古代に本州人が「渡り鳥」と呼ん<br>でいた、北海道に上陸し、そののち津軽半島にに渡った。ドラビダ族はサルタヒコ（鼻高神・性神<br>）の信仰をもっていてサルタ族とも呼ばれた。九州の宇佐八幡宮の社家であった宇佐公康さんが、<br>社家の伝承を本にしている。それにイズモ族の移住について書いている。すなわち「サルタ族がシ<br>ベリア方面から、日本列島に移動漂着した」と。宇佐八幡の付近に住んでいたウサ族は、サルタ族<br>より先に日本に住んでいたらしい。尚、ご存じのとおり、津軽半島の三内丸山遺跡には、約５５０<br>０～４０００年前の１５００年間ブリヤード人が定住していた。その遺跡からは現代人が想像する<br>より、はるかに文明が発達していたことが、伺える。日本人の遺伝子の検査により、出雲族には、<br>ドラビダ人の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが、明らかになっている。民族移動<br>の道中の混血は当然だ。日本人の祖先は３０００年前にインドから日本列島に民族移住したという<br>と、日本人全員それは絶対にあり得ないとの反応があると思う。日本人の古代史に関する常識では<br>、トンデモ話とされる。そういう常識になったのも「記紀」で出雲王国が抹消されたためだ。尚、<br>これだけは理解してほしい。南米のアンデス文明を築いた民族は、最初から南米に住んでいたわけ<br>ではない。我々、日本人と同じ顔つきをしたモンゴロイドが今から、１万５０００年～１万２００<br>０年ほど前にアジアからベーリンク海峡をわたって、南米まで到達したのだ。そして標高６０００<br>メートルの高地で生活を始めて文明を築いたことを。我々の祖先は、想像できない、とてつもない<br>偉大な旅をして世界中に進出、拡散し、環境に適応してそれぞれの民族になっていった事実をわか<br>ってもらいたい。我々人類・ホモサピエンスは、最初からその地域にいたわけではなく、約６万年<br>前に人類はアフリカから出発し、紆余曲折を経ながら世界中の隅々まで拡散・進出したのであり、<br>現代、日本人のルーツである縄文人も紆余曲折を経ながら日本列島に渡ってきた歴史があるのであ<br>る。最初から日本列島に縄文人がいたわけではない。縄文人は遠い昔にどこからか日本列島に渡っ<br>てきて住み着いたという歴史がある。それが後に縄文人と呼ばれるようになった。しかし、縄文人<br>は、いつ頃、何処から、どういう民族が、どれくらいの人数で日本列島にやって来たのか。民族の<br>ルーツ・祖先について答えられる日本人は、いないのである。多くの日本人は先祖は中国大陸や朝<br>鮮半島から来たと漠然と思っている。確かに渡来人などにより、混血されている面があるが、基本<br>的には違う。中国も韓国も父系家族制度の国で父が威張る民族だ。父系制度の民はまた好戦的とい<br>う側面を持つ。ところがドラビダ族＝縄文人＝出雲族は母家族制度（婿入り婚も含む）の民族だ。<br>また出雲族より先に日本列島で暮らしてた日本最初の生活文化圏であった南北の、北海道・東北ま<br>た沖縄・九州の民族も母系家族制度だった。家族制度から見ても縄文人のルーツ・祖先は、中国人<br>や韓国人とは違うのである。この母系家族制度の特色は争いを好まず、平和的ということだ。和を<br>もって尊ぶという日本人の精神は、母系家族制に起因する。家族制度(結婚形態)というのは民族の<br>根源的なものであり、簡単には変えられないのである。しかし、その遠い昔の日本人のルーツ・縄<br>文人については、「記紀」によって出雲王国史が抹消されたために、ドラビダ族＝縄文人＝出雲族<br>の記憶も消えてしまった。日本人・縄文人の記憶のルーツは官史によって、完全に閉ざされてしま<br>ったのである。それは歴史の敗者になった出雲王国の宿命なのかもしれない。イズモ族が古代イン<br>ドから来たことは、縄文時代の日本語（ヤマト言葉）か゜ドラビダ語にそっくりであることで理解<br>できる。言語学者の大野晋さんは著書「日本語とタミル語」でタミル語の文法が日本語と似ている<br>ことを説明している。タミルはインドの南部地方で、ドラビダ族の一種が住んでいる。イズモ族が<br>古代に共に住んだインド中部のドラビダ族のうちで、南へ移動したのがタミル人だと考えられる。<br>尚、ドラビダ族はブリヤード人＝モンゴル人と似た顔つきだった。今のインド人はアーリア人支配<br>以後の顔である。フィリッピン人がスペイン人に征服され血が混じり顔つきが西洋人ぽくなったの<br>と同様である。ドラビダ語に古代モンゴルなどが混じって出雲語ができた。それが基になって日本<br>語ができた。つまり出雲王国に各地の人が関係したから、出雲王国の言葉が共通語になり日本語が<br>形成されたらしい。日本人の先祖・縄文人は中国大陸や朝鮮半島から来たという大半の日本人が漠<br>然に思っている説は言語学的にも大分、遠い。クナト王が日本列島に上陸した時に、カネの兜（か<br>ぶと）をかぶりカネの槍をもっていた、との伝承がある。ドラビダ語では、金属をカネと言った。<br>その言葉が日本でも使われている。クナト王の所持していたカネ製品は、アカガネと呼ばれた銅製<br>品であったらしい。インドでは紀元前１３００年以上前から、鉄が使われている。金属器が生活必<br>需品になっていたから、クナト王は移住の時、金属精錬の技術者をイズモ族として連れてきた可能<br>性が大きい</p><p>■中韓連合に滅ぶ■紀元２５０年頃</p><p>　その物部氏勢力の猛攻撃というのは、中韓連合であった。「出雲王国」は紀元前４００年頃～紀<br>元後２５０年頃の６００年以上の長きに続いた王国であった。渡来人の徐福の九州の子孫である物<br>部氏の軍勢と紀元１世紀頃に辰韓（新羅）から渡来してきたヒボコの５世の子孫である田島間守（<br>タジマモリ）率いるヒボコ軍勢の渡来人連合による猛攻撃で滅ぼされた。特に田島間守（タジマモ<br>リ）は、先祖・ヒボコと家来集団が、出雲での上陸を許可されなかったことを根にもっていた。そ<br>のため、東征する前に出雲王家を皆殺しにすると宣伝していた。そして田島間守（タジマモリ）率<br>いるヒボコ子孫勢力は当時の出雲の祭場・田和山の王宮を猛攻撃で破壊した（田和山遺跡）。それ<br>が第二次物部東征での道中での出来事である。「記紀」では神武東征として書かれた。日本で最初<br>の王国、「出雲王国」は中韓連合によって、滅ばされた。残念ながら日本の政治家は自国の歴史を<br>知らないから、歴史認識で中韓にとやかく言われるのだ。それは、恩讐としてではなく、史実とし<br>て歴史を知るということだ。</p><br><p>出雲大社</p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida1207/entry-12035056542.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Jun 2015 22:20:52 +0900</pubDate>
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<title>出雲王国 　1史実ストーリーによる</title>
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<![CDATA[ <p>■野だたら</p><p>◇出雲王国誕生の秘密◇野だたら◇その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。黒<br>い川とは、現在の斐伊川のことであろう。その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがあ<br>る。古代には砂鉄がもっとも重要な産物だった。斐伊川は「聖なる川」としてあがめられた。その<br>川には、「ゆまり」（小便）をするのも禁じられた。「鉄は国家なり」と言われるが、古代でも国<br>家の繁栄を左右していた鍵は鉄だった。石器から鉄器の時代になると文明は飛躍的に発展する。自<br>然に川底にたまった砂鉄は「川粉（かわこ）ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。後<br>では山の真砂(まさ)・（花崗岩が風化したもの）がくずされて、「鉄穴流し(かんなながし)」が行<br>われた。それは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。奥出雲山地の真砂砂鉄は、チタン<br>など有害不純物が少なく、低温精錬が容易で還元性に優れている。タタラはドラビダ語で「猛烈な<br>火」、を意味する。日本で最初に行われた製鉄は、「野だたら」と呼ばれた。◇鉄生産について◇<br>和国で最初に鉄生産「野だたら」が行われ文明のブレークスルーがおき、繁栄したのが出雲王国で<br>ある。その名ごりを残すものとして、●「金屋子（かなやご）神社」製鉄や鍛冶の神様で、同名の<br>神社は全国に千二百社もあり、ここがその総本社。製鉄・冶金関係者らが現在でも数多く参拝して<br>います。他に●「和鋼博物館」、●「鉄の歴史博物館」、●「野だたらと白椿の里」、●「奥出雲<br>とたたら刀剣館」、●「たたら角炉伝承館」、●「鉄の未来科学館」●「金持神社」等があります<br>。明治期の西洋の近代的製鉄が導入される明治初期まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の８０<br>～９０％を担っていた。「野だたら」の伝統はその後、途絶えてしまったが、日本刀の原材料とし<br>て欠かせないということで現在は日本刀の伝統を守るために、日本刀保存協会の資金援助のもと、<br>「野だたら」の伝統が復活している。原始的な「野だたら」で作られるカネ・鉄（はがね）の、そ<br>の品質は、現在の最先端の鋼（はがね）生産技術をもってもかなわない。</p><p>地域ストーリー作り 経済産業省<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida1207/entry-12034347980.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Jun 2015 04:31:44 +0900</pubDate>
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<title>出雲王国　2史実ストーリーによる</title>
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<![CDATA[ <p>◇◆◇安倍総理は逆上ればイズモ王・事代主の系譜◇◆◇<br>◇◆◇蝦夷扱いされ正史から葬られた、日本の名門◇◆◇<br>■事代主・・・子孫→２世紀のヤマトの指導者・大彦（ナガスネヒコ）<br>■大彦（ナガスネヒコ）はヤマトに攻めてきた物部勢と戦う<br>■大彦は戦いに敗れ、東国に移住し強力な→安倍王国を築く<br>■ヤマト物部勢からは蝦夷と蔑まれる<br>■安倍王国が最初に「日の本」国を名乗る<br>■大彦（ナガスネヒコ）→阿倍→安倍→安東<br>　<br>　鳥取県米子市に安倍という地名がある。なぜ安倍という地名になったかと言うと、安倍という家<br>が、多かったので、その地名がついた。なぜ安倍家が多かったのか。それは先祖が粟嶋神社にまつ<br>られているからだった。子孫は先祖の地に心ひかれて、どうしても住みたくなるということで子孫<br>の安倍家が集まり、安倍という地名になった。それは１０６２年の前九年合戦で敗れた安倍一族が<br>船で、この地に逃れた、ことにさかのぼる。その粟嶋神社に祭られている先祖とは、出雲王国の有<br>名な第八代スクナヒコの事代主（個人名・八重波津身・やえなつみ）通称エビスさんとして、親し<br>まれている御方だ。紀元後１８０年頃のヤマト磯城王朝第八代クニクル大王（孝元）の御子で、実<br>質のヤマトの指導者は大彦（個人名・ナガスネヒコ・ナーガ竜神、スネヒコはスネークに通じる）<br>、尚、大彦とは大兄（おおえ）に相当する呼称である。、安倍家の直接の祖先に当たるが、大彦・<br>ナガスネヒコは事代主の血を引き継いでいた。紀元後１８０年頃にヤマトに攻めてきた第一次物部<br>勢と戦ったのが大彦であった。劣勢になり、琵琶湖の東岸に逃れた。なおも攻撃された大彦・ナガ<br>スネヒコは、出雲の向王家に来訪して加勢を求めた、と伝承されている。３世紀に日向にいる物部<br>政権が出雲を攻めるという噂があったので、向家は大彦・ナガスネヒコを助ける余力はないと、断<br>った。そのときまで、富家を名乗っていた大彦・ナガスネヒコに、以後は富家を名乗らないように<br>通告した。摂津国三島（大阪府高槻市）に事代主の領地があった。そこの山、（阿武山）の名をと<br>って、大彦・ナガスネヒコは以後、阿武（あべ）家を名乗ることになった。いわゆるナガスネヒコ<br>王国は、その後も物部王国に追われて、都を駿河の安倍川付近に移した。ナガスネヒコ王が亡くな<br>った後では、王家は安倍家を名乗り、クナト国を名乗った（因みにクナト大神に由来する）。三島<br>の人々はナガスネ王家を守るために、駿河国まで付いて行き、伊豆半島の入口に三島の町を造った<br>。そこに三島大社を建て、事代主をまつった。阿武山は古代は重要な神山で、今城塚古墳はその山<br>に向けて造られた。物部勢は安倍王国の征服に向かい、焼津や日本平の戦いなどで勝ち進んだ。安<br>倍勢は船で常陸（ひたち）国に移り、鹿島を都とし、そこに鹿島神宮を建て雷（出雲竜神の化神）<br>を祀った。中臣氏率いる軍勢が西から攻め神宮を奪った。そして、そこの祭神タケミカヅを奪って<br>自家の氏神に加えた。先に述べたように、出雲族はインドの太陽神スーリアの信仰を受け継ぎ、大<br>和に移住した後も三輪山の日の出を拝んだ。旧大和王国のナガスネ王一族と従う人々も、同じく太<br>陽信仰を持っていた。それで、住み着いた常陸国を「日立ちの国」と呼んだ。それは「太陽の昇る<br>国」の意味だった。「常陸国風土記逸文」に、鹿島の西方の「信太群の地は本、日高見（ひだかみ<br>）国なり」と記されている。また駿河の安倍川の東にある日本平の「日本」は、「日の元の国」の<br>意味で安倍王が名付けた地名かも知れない。その後、安部王国は宮殿を睦前国や睦中国へと移した<br>。そして、国名を日高見国と称した。今の北上川の名前は元は、「日高見川」だったらしい。その<br>流域に、鳥海柵や厨川柵（盛岡市）などの防衛基地の遺跡が残っている。ナガスネ王国が日高見国<br>と名乗ったから、日本書紀の景行期２７に「東の夷の中に、日高見あり」と書かれた。日高見国は<br>その後、「日之元津国」とか、「日本之（ひのもとの）国」と名乗った。「旧唐書」（倭国日本国<br>の条）に次の記事がある。「日本国は倭国の別種なり。その国は（あさ）日の辺にある故に、日本<br>を名とする。倭国はその名が上品でないと自ら嫌い、改めて日本に変えた。あるいは言う。日本は<br>古くは小国で、倭国と並立していた」この日本国は倭国とは別の国名で、独自の貿易を行っていた<br>。この貿易の続行による輸入品は、後の平泉文化にも入っている。だから、この史書に書かれたよ<br>うに、日本列島には二つの独立国があったことは、外国には広く知られていた。そして「日本（ひ<br>のもと）」の国名は、東北の日高見国が先に使ったものだった。北にあった日本国の記念碑が、青<br>森県東北町に残っている。場所が移動したので、元あった位置「石文」の地名から陸羽街道（国道<br>４号線）をはさんで反対側の千曳神社近辺にある。その南が「坪」の地名で坪川が流れている。そ<br>の石文には、浅い彫りで「日本中央」と書かれている。浅い彫りであることが、彫る技術が未発達<br>な古い時代に造られたことを示している。この石文は東国の王・安倍致東が建立したと伝えられて<br>いる。伝承によると安倍政権には、アイヌ代表も加わっていたと言う。ということは、日本国はア<br>イヌが住む渡り鳥（北海道）や樺太も領土にしていたことになる。だから坪の石文が建てられた時<br>は、その場所が安倍王国すなわち、日本国の中央であったことは、誇張でないことがわかる。その<br>後、倭国は日本国の名を使ったから、大和政権の記事は「新唐書」では「東夷伝の日本の条」に書<br>かれた。それに関することが、若狭国の羽賀寺（小浜市国富）に残された記録だ。それにナガスネ<br>王の子孫・安倍（安東）康季公がその寺の伽藍を再興した際のもので、「奥州十三之港の日本の将<br>軍」と１４３５年に名乗っている。この文は安倍氏の東北王国が日本国を名乗った後に、倭国が勝<br>ってに日本の名を使ったことを示している。東北地方を領国とした安倍王は、都を津軽半島に定め<br>た。亀岡（木造町）はアラハバキ（出雲と同じ竜神木信仰）の聖地とされて、王国各地より、代表<br>が祭りに参列したと言う。その際に祭壇に目閉じ女神像が立てて拝まれたらしい。平安時代の末に<br>は、安倍王家の一部は奥六群に中心を移した。そこに源氏の軍勢が進出し、政府の指示なしに、私<br>闘を繰り広げた。それがいわゆる前九年合戦だった。これに敗れた安倍王家は領土を狭めた。安倍<br>家は鎌倉時代には安東氏を称するようになった。当時はアイヌが住む北海道も支配していたから、<br>自分の家系が東国の将軍だと自負したのは当然だったと考えられる。後の中心地は、津軽の十三港<br>（とさみなと）近辺だった。そこは初めはトミの港と呼ばれたが、後にはトサと呼ばれた。近年、<br>安東勢力の根拠地跡が発掘された。その場所は津軽半島の西海岸にあり、岩木川が海にそそぐ所だ<br>った。十三湖の日本海側に二本の長い砂州が防波堤のように伸びている。その内潟の明神沼の入口<br>に護岸施設と桟橋か゜ある港湾施設（青森県市浦村）が見つかった。安東氏の館と家臣団屋敷を掘<br>と土塁で守る形になっている。掘の外側には町屋や寺院跡があった。この十三港と町は出土遺物か<br>ら鎌倉時代初期に出現したことがわかった。１９６８年に函館空港の近くに、中世の志苔館遺跡が<br>発掘された。そこから、銅銭が３７万４千枚以上見つかった。日本列島での埋納銭としては、最多<br>数だった。これは安東一族が埋めた可能性が大きい。安東氏は鎌倉時代後期に、北条執権政府の支<br>配下に入った。それ以前は独立していたから、古代から続いた安倍王国はこの時、終了したと言え<br>る。その後、文永と弘安年間の二回にわたり蒙古軍船の大襲来があった。二回とも神風が同じ場所<br>に来て、蒙古軍船は全滅したという奇妙な話が流された。しかし、実際は執権政府の要求に応えて<br>、津軽の安東水軍等が海上で懸命なゲリラ戦を繰り広げ、蒙古船を追い払った、と古老は伝える。<br>羽後国で湧き出る重油を樽に入れ積んだ安東船は、夜陰にまぎれて蒙古船に近づき、重油をつけた<br>松明に火をつけて敵船に投げ入れた。多くの敵船は燃えた。前九年合戦で敗れた安倍宗任は肥前松<br>浦に移って、松浦姓を名乗り一族は松浦党という水軍となった。かれらも蒙古軍船撃退のために活<br>躍した。残った蒙古の軍船は逃げ帰ったという。鎌倉幕府は恩賞を与えることを嫌い、安東水軍の<br>活躍を無視したという。蒙古船の一部は安東船を追って津軽まで進み上陸した。しかし、蒙古兵は<br>安東氏の指揮する軍勢に打ち滅ばされた。その蒙古兵のことが、今も津軽の子守唄に歌われている<br>。松浦党の一部はその後、先祖ゆかりの地・出雲に移り住んだという。その後も安東水軍による海<br>外貿易は続いたが、１３４１年（南北朝時代）の大津波が、十三港襲い町も滅んで、安東家（安倍<br>家）は衰退した。日本の名門・安倍家は時の政権から異民族でないのに蝦夷扱いされ、出雲王国と<br>同様に勝者の歴史＝正史から、葬られた。大彦は二世紀末の指導者だったが、「記紀」では紀元前<br>二世紀の豪族にかえられ、神武天皇の敵にされた。たしかに大彦は、徹底した物部嫌いであった。</p><p>----------------------------------------------------------------------------<br>◎かぐや姫の物語には、国家最大のタブーが隠されてた<br>　　<br>■かぐや姫コード</p><p>「いまは昔、竹取の翁といふもの有りけり」で始まる、かぐや姫の話には、重大なコード（暗号）<br>が隠されていた。おとぎ話は、あくまで隠れミノであり、作者がかぐや姫を創作した真の意図はお<br>とぎ話の中に隠された（コード暗号）であった。かぐや姫の話は、時の権力者が犯した歴史の改ざ<br>んについて糾弾するために、おとぎ話の設定を借りて後世の日本人に是非、気づいてほしいとの命<br>がけの思いで書かれたものて゛ある。これは不都合な事は隠し、自分達の都合のいい話に、歴史を<br>歪曲してしまった虚飾に満ちた「古事記」、「日本書紀」のいわゆる「記紀」の欺瞞を糾弾するの<br>が目的だった。しかし作者が工夫して書いた、かぐや姫の意図は気づかれず、現代では作者の意図<br>とは反対に、おとぎ話が映画化されてしまった。また学者も「記紀」に書かれていることを鵜呑み<br>にして古代史を解説している。日本の古代の歴史を、欺く基を作った「記紀」の欺瞞は１３００年<br>経ても解明されていないのである。歴史の勝者の子孫によって作られた官史。それが正史として後<br>世に残る。。そこに権力者でも及ばない月の明りを照らして、隠された勝者の不都合な歴史、敗者<br>の歴史というものは、一体何だったのか、ということを後世の子孫に探ってもらいたいという願い<br>で「かぐや姫」の物語は、書かれた。</p><p>■封印された「かぐや姫」、２００年後に発表</p><p>かぐや姫の作者は事代主の子孫にあたる伊予部馬飼（うまかい）が書いた可能性が高い。「記紀」<br>が世にでたあと、あまりにものの虚飾に憤慨し、おとぎ話の設定にし、批判とはわからぬように工<br>夫して書いたが、話の比喩、実在の政界実力者をもじった登場人物の設定など、わかる人が見れば<br>時の政界実力者への批判、官史への批判ということは一目瞭然だった。そんな物を世に出したら、<br>一族郎党の壊滅は必至だった。その後、あたり障りのない２００年後に、彼の意志を継いだ子孫が<br>発表した。そういう理由で作者不詳になっている。</p><p>■かぐや姫コード（暗号）とは登場人物とその筋書き<br>　<br>かぐや姫に求婚する５人の貴公子は「記紀」が製作された当時の政府高官がモデルになっている。<br>偽りの多い「記紀」を書かせた人と虚飾を知りながら黙認した人たち、だった。偽物を作らされた<br>金工は、偽物の史書を書かされた、古事記の執筆者、柿本人麿がモデルだ。これが、かぐや姫のお<br>とぎ話の中に埋め込まれた、登場人物とその筋書きが、「かぐや姫コード（暗号）」である。まず<br>、「記紀」に虚偽の話が加えられたことを黙認したことで、悪役にされた三人の名前は、実存の大<br>納言・阿部御主人（みぬし）は物語では左大臣・阿部ミムラジとされて「永遠の皮袋（真実の史書<br>）」を見つけに行ったが、偽物を手に入れて来た。実存の大納言・大伴御幸は物語では同じ位と実<br>名で登場した。かれは竜の玉を得るために、竜神を殺そうとした。神罰のアラシは大伴を襲い、船<br>は転覆寸前となった。雷神は大伴御幸を攻撃し、かれは死に直面した。これは古事記にヤマタのオ<br>ロチ(竜神)を殺す話を作った人を、大伴御幸に例えている。実存の右大臣・丹比（たじひ）島は、<br>物語では石作ノ皇子とされた。丹比氏と石作氏は同族だったからだ。かれは「仏の光る石鉢」を探<br>せられたが、見つけられなかった。かぐや姫の話は、「記紀」製作時の政府高官がモデルになった<br>登場人物が失敗し、罰をうけた話だ。「記紀」の虚飾に怒っていた当時の知識人は、さぞ溜飲が下<br>がったことだろう。</p><p>■藤原不比等への糾弾<br>　<br>作者が一番、糾弾したかったのが、偽りの多い「記紀」を書かせた、時の右大臣・藤原不比等であ<br>った。隠されているが「記紀」の実質総責任者は藤原不比等であった。不比等は、かぐや姫の物語<br>の中では、かぐや姫に求婚する貴公子の中の一人、庫持ノ皇子の名前で登場している。右大臣・藤<br>原不比等の母の名が、車持与志古娘だったので、「車」の字と良く似た字の「庫」にされたらしい<br>。</p><p>■藤原不比等の描かれ方<br>　<br>物語の中で、庫持ノ皇子が、かぐや姫から与えられた結婚の条件は、「真珠の枝」を探してとって<br>くることだった。持ノ皇子は「真珠の枝」を海に行って探すこともせずに、金工に偽物を作らせた<br>。しかも金工に工賃を払わなかった。それらの実態をかぐや姫に見抜かれて、恥をかいた。かぐや<br>姫はほうびとして金工たちに、たくさんの工賃を払った。その後、庫持ノ皇子は金工たちの帰り道<br>を待ち伏せし、血か゜出るまで金工たちを殴り、工賃を奪った。この筋書きは何を暗示しているの<br>か。</p><p>■かぐや姫最大のコード（暗号）<br>　<br>偽物を作らされた金工の名は、漢部（あやべ）内麻呂という名で登場している。これは嘘の多い官<br>史(古事記)を書かされた、綾部(あやべ)柿本人麿がモデルだ。人麿は幼少時は綾部姓で柿本家に養<br>子に行き綾部姓から柿本姓に変わった。この設定は史書製作における右大臣・藤原不比等と柿本(<br>綾部）人麿の関係を表している。庫持ノ皇子と金工・漢部（あやべ）内麻呂のこの登場人物と筋書<br>きが、かぐや姫最大のコード(暗号)である。</p><p>■監禁／流刑<br>　<br>古事記を書き終わったあと、人麿にはとんでもない事件が待ち受けていた。高貴な女性との密会と<br>いう濡れ衣を着せられた。そして、監禁されその後、上総(かずさ)国に流刑となった。はめられた<br>のだ。なぜ人麿はこのような運命にならなければいけなかったのか。それは虚飾の官史を書かせら<br>れためだった。証拠隠滅である。和歌を詠み、日本人の精神風土の土台の一つを作り日本文化に多<br>大な貢献した偉人・人麿は、人生後半は不比等に利用され、虚飾の史書作りに関わらされたために<br>口封じの陰謀にはめられ最後は不幸な運命にされた。そのことを現代日本人は知らないのである。</p><p>■蔭位（おんい）の制</p><p>藤原不比等の時代に律が決められた。あわせて貴族・上級の官吏には経済的・身分的な特権が与え<br>られた。父や祖父の位階に応じた地位が無条件で与えられた。つまり貴族は生まれた時から、どの<br>官職につくか、出世の時期も決められていた。日本書紀に祖先が活躍したことが載れば、それは上<br>級の官吏になれることを意味する。また国史である「日本書紀」に、本当は黒でも白と書かれたら<br>、白になる。権威があった。当時の都は粛清と「蔭位（おんい）の制」があり、北朝鮮と同じ空気<br>があった。現代人には理解できないかも知れないが、それが公家社会の掟だった。お上が黒を白と<br>いったら逆らえなかった。奈良時代までは出雲王国のことは良く語られていたが、国史「日本書紀<br>」がでて講義されるようになると人々は史実として書かれていない、出雲王国のことは語らなくな<br>った。それが１３００年も続いているのである。尚、そういう中での、かぐや姫の作者の「記紀」<br>への批判は命がけ、一族没落と背中合わせだった。</p><p>---------------------------------------------------------------------------------------<br>■何故、かぐや姫の作者の怒りに気づかないのか</p><p>　かぐや姫の作者が後世の子孫に気づいてもらいたいという願いが、何故届かないのか。それはひ<br>とえに、学者の怠慢である。まず古代史を語るのは、その多くは「記紀」、「風土記」の研究者で<br>ある。かれらが語る古代史と言うのは、官史「記紀」＝正史の前提で、「記紀」に書かれている、<br>記述を研究・解釈することが古代史研究と思っている。その学者の書いた、監修した本・雑誌が、<br>書店の古代史コーナーにあふれている。そのために日本人は間違った古代史の常識を持つようにな<br>った。「記紀」研究者は、まず大きな背景を見逃している。国宝となっている「海部氏本系図」、<br>と「海部氏勘注系図」には、海部氏の祖先が徐福であることや、徐福が出雲王国の第八代の王であ<br>る有名な大国主、の娘・高照姫と結婚したことが書いてある。そして生まれた子が五十猛であり、<br>姓を海（あま）とし、海（あま）五十猛と名乗る。成人すると、出雲に渡来してた秦（ハタ）族の<br>集団を引き連れ丹波の国に集団移住した。そして、丹波の国で指導者となり、香語山と改名し、海<br>（あま）香語山となる。、その子が海（あま）村雲である。「記紀」では、天　村雲と書かれた。<br>天　村雲が、出雲人が開拓したヤマトに後から丹波人約一万人を引き連れ、集団移住した。そして<br>、出雲人集団と丹波人集団が協力して、政治的共同体を作った。それが初期のヤマト政権だった。<br>その後、天　村雲が、事代主の娘であるタタライスズ姫と結婚したので、村雲が両集団の代表とさ<br>れた。その代表が、後世に、ヤマト初代大王とされた。尚、海（あま）家は、三韓征服に参加した<br>あと、海部（あまべ）氏と名乗るようになった。近年では海部（かいふ）という呼び名に変わって<br>いる。話は戻るが、その徐福とは、「記紀」ではニニギノとしても書いてある。また「記紀」では<br>よく知られているように初代天皇は、神武天皇と書いてあり、その神武天皇の始祖は「記紀」では<br>、はっきりと日向に天孫降臨したニニギノと書いてある（実際は有明海に上陸したのだが）そのニ<br>ニギノとは、秦国から渡来して来た、徐福である。さらに「記紀」製作の責任者が時の右大臣・藤<br>原不比等ということが、わかっていない。まずわかっていたら、藤原不比等が関わっていることが<br>わかれば、信用に値しないことがわかるはずだ。わかった上であれば、「記紀」を前提に歴史を語<br>るのは、おこがましいのある。さらに「記紀」では歴史書といえ、権力闘争が一切書かれていない<br>不思議がある。戦国時代のような戦乱がないのは、どう考えても、おかしすぎる。戦で一人も死ん<br>でいないのである。記述内容は子ども向け相手のおとぎ話のような物語だ。さらに万世一系になっ<br>ているが、それについては一切、触れないのである。「記紀」は冒頭、国生み神話が書かれている<br>が、これは誰でも作り話だと分かる。また古事記ではその後、神話の話が続き、「出雲神話」と「<br>日向神話」が書かれている。学者はそのまま神話の話と解釈して解説している。ただし考えてみれ<br>ば、なぜ「出雲神話」と「日向神話」が書かれたのか。たんなる暇つぶしで書かれたのか。またな<br>ぜ、「出雲」と「日向」なのか。吉備と讃岐ではダメだったのか。ちょっと考えても史実としてで<br>なく、神話にされた裏には、何か重大な事が隠されていると考えるのが普通である。しかし、神話<br>の絵空事として、学者は史実としてみていない。その証拠に出雲を語る枕詞は「神話の国、出雲」<br>、「神々の国、出雲」、「神代の出雲」である。日本で最初の王国が神話の話にされ放置されたま<br>まになっているのである。さらに古代最大の渡来集団の徐福集団の渡来に関しては、古代史、最大<br>の事件であるはずの、縄文→弥生になった記述が「記紀」には一切、書かれていないことである。<br>それは、ペリーの黒船襲来の事件を隠して、江戸から明治時代になったと書かれているのと同じで<br>あるが、学者はそういうことを一切し無視し指摘もしないのである。</p><p><br>■かぐや姫の作者は何に怒っていたのか<br>　<br>　それは「記紀」では古代史、歴史年表で言えば弥生時代の歴史が、いいように改ざんされている<br>ことだった。それは紀元４００年頃～紀元後３００年頃の歴史である。但し、あえてそういうこと<br>は、声高に指摘しなくても「記紀」のその時代の記述が歴史年表に採用されていないことを見ても<br>、学問的には史実と認められていない証左である。一番、大きい理由は、持統女帝の指示で「記紀<br>」は、史話を撰善言（よきことえらぶ）巻末資料参照で書くことに、なったからである。これは簡<br>単にいうと、ＴＶの水戸黄門のようなものだ。実際の水戸光圀の史話ではなく、子どもが見ても安<br>心な脚色した話で正義は悪に最後は勝って、メデタシで終わるような話だ。だから結果、史話は嘘<br>で嘘を塗り固めた、ような話になった。史話が１８０度、変わってしまうのである。だから、そう<br>いうことを踏まえて「記紀」を見なくてはいけない。しかし、現代の学者は、「記紀」に書いてあ<br>る虚構の話の上面の解説に全労力を費やしており、例え話から、真実を探ろうという考えがないの<br>である。そのため、「記紀」の古代史に関しては、マンガの解説のような内容ばかりである。例え<br>ば「本能寺の変」を、撰善言（よきことえらぶ）方式で書くと、お殿様も旅先で戸締り、火の元に<br>注意しないと火事に遭います。よい子は火遊びに気を付けましょう。と言った話に変わってしまう<br>のである。子ども向けには、いいかも知れないが、大人が読む史書として耐えられない内容になっ<br>た。だから「記紀」には、権力闘争、戦争、裏切り、騙し合い、攻撃、滅亡と言った歴史の真実は<br>語られず、子ども向けの、マンガのような歴史書が、官史となった。他に万世一系方式の編集方針<br>も史実と異なる結果になった。これは例えると、織田政権、豊臣政権、徳川政権と政権が代わって<br>も同じ政権が続いているように見せることだ。それは、徳川政権は初代は徳川信長、二代目は、徳<br>川秀吉、三代目が徳川家康といった具合だ。また権力闘争を書くことも禁じられたので「比叡山焼<br>き討ち」、「大阪夏の陣」といった戦があっても、「記紀」では、隠された。尚、天武天皇以前の<br>大王は万世一系方式のため天皇にされた。また、万世一系方式のため、それらの大王には「記紀」<br>で創作された天皇名が付けられた。さらに天孫降臨をする話を入れることになった。人間が天孫降<br>臨することなど、おとぎ話ならいざ知らず、歴史書に天孫降臨の話をいれたら、歴史でなくなる。<br>以上の理由で「記紀」は史実とかけ離れた話が多数、存在する結果になった。まだ「記紀」の虚飾<br>は他にも多数あるが、以上みただけでも、かぐや姫の作者だけでなく、大人であれば誰でも、あま<br>りにものの虚飾に憤慨するのである。神話・歴史的おとぎ話なら許せるが、しかし大人が「記紀」<br>は官史だから、書かれていることは正しいとの思い込みで、まともに読むと有害な面がある。元総<br>理が「日本は神の国」発言をして話題になっていたが、総理大臣でも「記紀」の虚飾を信じている<br>のである。それは明治政府以降の王政復古政策により、官史「記紀」は絶対的になった。その時代<br>の国民は天孫降臨した話も信じたのであった。それは官史ということで嘘でも本当のことだと思わ<br>せる権威があるのである。かぐや姫の作者は官史「記紀」の何に怒っていたのか。生命の保障も顧<br>みず時の権力者に楯突いても、かぐや姫コードで、子孫に是非わかってほしいという願った真善美<br>とは何だったのか。史実でない記述が大半を占める史書を、偽書とするならば「古事記」は偽書と<br>言うことができる。日本書紀は、古事記より後の時代も書かれていて、後半に偽りが少ないので、<br>詐偽が過半数とはならない。</p><p>■「記紀」により日本人は間違った古代史の常識を持つようになった。</p><p>「記紀」では「出雲王国」と「徐福集団の渡来」のことを史実としてではなく、神話の話に変えた<br>。文明が栄え、日本で最初の王国である出雲王国だったが、国史により神話の話にされたため、出<br>雲は「神話の国」として語られるようになった。そしてはまた、弥生時代の到来をもたらした「徐<br>福集団の渡来」についても、「記紀」で出雲へのスサノオの天孫降臨、日向・高千穂のニニギノの<br>天孫降臨で誤魔化した。「出雲王国」と「徐福集団の渡来」という古代史の根本が何故、史実とし<br>て隠されて、神話の話にされたのか、それは簡単に言うと、勝者の子孫の都合で隠された。しかし<br>、史実として抹消しても何らか触れないと誰も納得しない。そこで神話の話にして差し替えた。何<br>の意味もなく「出雲神話」や「日向神話」が書かれた訳ではないのである。奈良時代に書かれた「<br>記紀」のせいで、日本人は１３００年間も、自国の歴史について、誤った認識を持つようになった<br>。それは日本人は、どこからやってきたのかを忘れる結果になった。そして日本人の先祖は、中国<br>大陸や朝鮮半島から、渡って来たんじゃないかと漠然と考える国民になった。それは官史（記紀）<br>＝正史と思い込む、お上に弱い国民性も影響している。日本人は自国の古代の歴史については、思<br>考停止した国民になってしまったのである。</p><p>■日本古代史研究レベル<br>和国、最初の歴史書「日本書紀」、「古事記」、「風土記」についての学者の見識は、狭い専門知<br>識範囲での見解であり、俯瞰した知識がないのである。依って史学者・考古学者の見識というのは<br>単純・純朴そのものである。誰が何の目的で、どういう背景で書かれたのか推測する能力が、完璧<br>に欠けている。それは、専門分野以前に洞察力がないのである。「日本書紀」、「古事記」が、書<br>かれた当時の政治状況、政治を動かした人物は誰か。誰が国の支配者であったのか、大きな時代の<br>流れの視点等の観点が全く欠け落ちているのである。そういうことを抜きに「記紀」をとらまえて<br>語るのは、いささか狭量すぎるのである。また歴史というのは、日本書紀」、「古事記」以外に民<br>間の風習・祭り・伝統があり、それらのほうが真実の歴史があり重要であるが、フィールドワーク<br>もなく、それらの知識がないのに堂々と学者は専門分野での知っている狭い範囲での古代史を語っ<br>ているのが日本古代史の現状である。つまり、日本の古代史と言うのは、神話解説者や、「記紀」<br>研究者がいたり、古墳至上主義の考古学者がいたりで、古代史は狭い専門分野しかわからない学者<br>が好き勝手なことを言う、言いたい放題が現状であり、そのため日本の古代史は混沌としてしまっ<br>た。言いたい放題が古代史の現状である。戦国時代以降は様々な敗者の歴史にも光が当たっている<br>が、古代史に関しては、依然とし勝者の歴史＝正史「記紀」のみであり、敗者の歴史に光をあてる<br>研究は、まったくなく、「記紀」の言いなりになっており、学問として成立しえてないのが現状で<br>ある。そのレベルの低さを物語るのがが古代史最大のロマンと言われるヤマタイコク・ヒミコ論争<br>である。</p><br><p>■日本人の祖先の偉大な旅</p><p>　約６万年前に人類はアフリカから出発し、車も飛行機もない時代に地球上のあらゆる地域に進出<br>、拡散した。南米の高地、北極圏、赤道直下のジャングル、寒冷地、乾燥地帯そして、それぞれの<br>地域の気候・風土の環境に適合して、それぞれの人種・民族になっていた。大陸の東の海に浮かぶ<br>日本列島にも、偉大な旅をして渡って来た、日本人の祖先の物語があった。それは今から３５００<br>年前の話である。</p><p><br>■日本人は４大文明の一つインダス文明の子孫</p><p>　いわゆるイズモ族は３千年以上前に、日本の本州に民族移動したと言う。「鼻の長い動物の住む<br>国から来た」との伝承がある。３５００年以上前に、インド西北から戦闘的な民族アーリア人がイ<br>ンドに侵入して、先住民の土地を奪い牧畜を行った。母系制度で平和に暮らし農耕生活だった先住<br>民はドラビダ人だった。４大文明の一つインダス文明はドラビダ人が築いた。紀元前３８００年頃<br>から、砂漠化や洪水、河川流路の変更など、さまざまな理由にのよって衰退期であった。紀元前３<br>５００年頃、インドの中部に、クナ国と呼ばれる小王国があった。（今のグナの町らしい）そこに<br>イラン高原で遊牧をしていたアーリア人がが次々に侵入して来た。彼らは騎馬民族で父系家族制だ<br>った。森の樹木を切りはらいどんどん牧場を広げて、勢力を広めた。アーリアの男たちは、クナ人<br>の家に婿が来ていない夜の隙を狙って泊まり込み、女たちに彼らの種を植える行動に出た。彼達は<br>父系家族民なので、戦いに長じていた。クナ国の家々は女戸主の家族だったから、まとまりが弱く、<br>対抗できなかった。結果として、アーリア人との混血児をクナ族の女が産み、育てることが多くな<br>った。そして多くのドラビダ族は、アーリア人の奴隷にされた。母系家族制の民族は平和的だが、<br>父系家族制度の民族が得意の戦争には弱い面があった。この情勢の中で南方に逃れるドラビダ族も<br>いたが、クナ地方を支配していたクナト王は別の策を考えた。当時インドには、バイカル湖方面か<br>ら、ブリヤード人の商人が交易に来ることがあった。彼らから「シベリアの南方の大海原の中に住<br>民の少ない、温暖な島がある」と聞いていた。クナト王はそこに移住しようと考えた。出雲の古老<br>は「イズモ族は、砂の平原を通り、広い湖の近くから、長い川を流れ下って来た」と伝えている。<br>この「砂の平原」とはゴピ砂漠のことであろう。「広い湖」とはバイカル湖だと考えられる。「長<br>い川」は黒竜江（アムール川）であろう。クナト王は移住計画を発表し、移住集団に加わる若い元<br>気な男女を募集した。数千人の応募があったらしい。そこで食料などを家畜の背中に積んで、案内<br>役のブリヤード人を先頭に、移民団は出発した。まず北の山岳地帯を超えた。そこから東に進み、<br>朝鮮半島を通る道が近い、と現代人は思うかも知れない。しかし紀元前の古代世界では、それは危<br>険なことであった。獣でも縄張りがあり、近づくと攻撃してくる。ましてや弓矢を持つ異民族の国<br>の中を大集団が通過すると襲撃され、犠牲者が出る時代であった。だから住人の少ないシベリアを<br>通るのが無難であった。しかし冬のシベリアは極寒の地である。冬を避けて秋までに通過するため<br>に、移住者たちはゴビ砂漠を春に過ぎたことであろう。篠田謙一さんの研究報告によると遺伝子Ｄ<br>ＮＡデータバンクに登録されている縄文人２９体のうち、ブリヤード人と同じ塩基性配列のものが<br>１７体あり、その配列はブリヤード人とモンゴル人に共通する、という結果が出た。登録数が少な<br>いので偏りが考えられるが、ブリヤード人が縄文人に混血していることは間違いない。アムール川<br>上流に自生していたソバの実をブリヤード人が倭国に伝えた、とも言われる。その上流で、移民団<br>は木材を用意し、筏と櫂を作った。そして食料を、家畜の背中から筏に移した。食料と家畜は途中<br>で食べられて減少し、最後にはすべてが移住者の胃袋に消えたことであろう。筏に乗ったあとは、<br>簡単であった。川の水が数千キロの距離を間宮海峡まで、移住民を流し運んでくれた。歩き疲れる<br>ことはなかった。古代にブリヤード人が倭国と交易していたことは、北海道産の黒曜石の石器がア<br>ムール川流域やバイカル湖岸から発掘されていることで証明できる。ブリヤード族はバカル湖付近<br>に住むが、アムール川を舟で下れば、楽に日本に来ることがてきた。アムール川は縄文時代の重要<br>な交易の道であった。一行は樺太(サハリン)西海岸を南に進み、古代に本州人が「渡り鳥」と呼ん<br>でいた、北海道に上陸し、そののち津軽半島にに渡った。ドラビダ族はサルタヒコ（鼻高神・性神<br>）の信仰をもっていてサルタ族とも呼ばれた。九州の宇佐八幡宮の社家であった宇佐公康さんが、<br>社家の伝承を本にしている。それにイズモ族の移住について書いている。すなわち「サルタ族がシ<br>ベリア方面から、日本列島に移動漂着した」と。宇佐八幡の付近に住んでいたウサ族は、サルタ族<br>より先に日本に住んでいたらしい。尚、ご存じのとおり、津軽半島の三内丸山遺跡には、約５５０<br>０～４０００年前の１５００年間ブリヤード人が定住していた。その遺跡からは現代人が想像する<br>より、はるかに文明が発達していたことが、伺える。日本人の遺伝子の検査により、出雲族には、<br>ドラビダ人の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが、明らかになっている。民族移動<br>の道中の混血は当然だ。日本人の祖先は３０００年前にインドから日本列島に民族移住したという<br>と、日本人全員それは絶対にあり得ないとの反応があると思う。日本人の古代史に関する常識では<br>、トンデモ話とされる。そういう常識になったのも「記紀」で出雲王国が抹消されたためだ。尚、<br>これだけは理解してほしい。南米のアンデス文明を築いた民族は、最初から南米に住んでいたわけ<br>ではない。我々、日本人と同じ顔つきをしたモンゴロイドが今から、１万５０００年～１万２００<br>０年ほど前にアジアからベーリンク海峡をわたって、南米まで到達したのだ。そして標高６０００<br>メートルの高地で生活を始めて文明を築いたことを。我々の祖先は、想像できない、とてつもない<br>偉大な旅をして世界中に進出、拡散し、環境に適応してそれぞれの民族になっていった事実をわか<br>ってもらいたい。我々人類・ホモサピエンスは、最初からその地域にいたわけではなく、約６万年<br>前に人類はアフリカから出発し、紆余曲折を経ながら世界中の隅々まで拡散・進出したのであり、<br>現代、日本人のルーツである縄文人も紆余曲折を経ながら日本列島に渡ってきた歴史があるのであ<br>る。最初から日本列島に縄文人がいたわけではない。縄文人は遠い昔にどこからか日本列島に渡っ<br>てきて住み着いたという歴史がある。それが後に縄文人と呼ばれるようになった。しかし、縄文人<br>は、いつ頃、何処から、どういう民族が、どれくらいの人数で日本列島にやって来たのか。民族の<br>ルーツ・祖先について答えられる日本人は、いないのである。多くの日本人は先祖は中国大陸や朝<br>鮮半島から来たと漠然と思っている。確かに渡来人などにより、混血されている面があるが、基本<br>的には違う。中国も韓国も父系家族制度の国で父が威張る民族だ。父系制度の民はまた好戦的とい<br>う側面を持つ。ところがドラビダ族＝縄文人＝出雲族は母家族制度（婿入り婚も含む）の民族だ。<br>また出雲族より先に日本列島で暮らしてた日本最初の生活文化圏であった南北の、北海道・東北ま<br>た沖縄・九州の民族も母系家族制度だった。家族制度から見ても縄文人のルーツ・祖先は、中国人<br>や韓国人とは違うのである。この母系家族制度の特色は争いを好まず、平和的ということだ。和を<br>もって尊ぶという日本人の精神は、母系家族制に起因する。家族制度(結婚形態)というのは民族の<br>根源的なものであり、簡単には変えられないのである。しかし、その遠い昔の日本人のルーツ・縄<br>文人については、「記紀」によって出雲王国史が抹消されたために、ドラビダ族＝縄文人＝出雲族<br>の記憶も消えてしまった。日本人・縄文人の記憶のルーツは官史によって、完全に閉ざされてしま<br>ったのである。それは歴史の敗者になった出雲王国の宿命なのかもしれない。イズモ族が古代イン<br>ドから来たことは、縄文時代の日本語（ヤマト言葉）か゜ドラビダ語にそっくりであることで理解<br>できる。言語学者の大野晋さんは著書「日本語とタミル語」でタミル語の文法が日本語と似ている<br>ことを説明している。タミルはインドの南部地方で、ドラビダ族の一種が住んでいる。イズモ族が<br>古代に共に住んだインド中部のドラビダ族のうちで、南へ移動したのがタミル人だと考えられる。<br>尚、ドラビダ族はブリヤード人＝モンゴル人と似た顔つきだった。今のインド人はアーリア人支配<br>以後の顔である。フィリッピン人がスペイン人に征服され血が混じり顔つきが西洋人ぽくなったの<br>と同様である。ドラビダ語に古代モンゴルなどが混じって出雲語ができた。それが基になって日本<br>語ができた。つまり出雲王国に各地の人が関係したから、出雲王国の言葉が共通語になり日本語が<br>形成されたらしい。日本人の先祖・縄文人は中国大陸や朝鮮半島から来たという大半の日本人が漠<br>然に思っている説は言語学的にも大分、遠い。クナト王が日本列島に上陸した時に、カネの兜（か<br>ぶと）をかぶりカネの槍をもっていた、との伝承がある。ドラビダ語では、金属をカネと言った。<br>その言葉が日本でも使われている。クナト王の所持していたカネ製品は、アカガネと呼ばれた銅製<br>品であったらしい。インドでは紀元前１３００年以上前から、鉄が使われている。金属器が生活必<br>需品になっていたから、クナト王は移住の時、金属精錬の技術者をイズモ族として連れてきた可能<br>性が大きい<br>。</p><p>■出雲の「黒い川」</p><p>　本州に渡たり、東北地方に住んだ後、移住者は分かれて行った。クナト王の子孫は日本海沿岸を<br>南に移動し、最後には出雲の地に住みついた。暖かい関東平野や濃尾平野があるのに、なぜ雪深い<br>寒い出雲に住んだのか。その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。黒い川とは、<br>現在の斐伊川のことであろう。その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがある。古代に<br>は砂鉄がもっとも重要な産物だった。斐伊川は「聖なる川」としてあがめられた。その川には、「<br>ゆまり」（小便）をするのも禁じられた。「鉄は国家なり」と言われるが、古代でも国家の繁栄を<br>左右していた鍵は鉄だった。石器から鉄器の時代になると文明は飛躍的に発展する。自然に川底に<br>たまった砂鉄は「川粉（かわこ）ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。後では山の真<br>砂(まさ)・（花崗岩が風化したもの）がくずされて、「鉄穴流し(かんなながし)」が行われた。そ<br>れは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。奥出雲山地の真砂砂鉄は、チタンなど有害不<br>純物が少なく、低温精錬が容易で還元性に優れている。タタラはドラビダ語で「猛烈な火」を意味<br>する。日本で最初に行われた製鉄は、「野たたら」と呼ばれた。このような鉄の低温精錬は、古代<br>にオリエント地方でも行われたことが知られている。出雲王国は「鉄器の国」とも呼ばれた。それ<br>は明治期の西洋の近代的製鉄が導入される江戸時代まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の８０<br>～９０％を担っていた。尚、クナト王の子孫は、イズモに住み着いた。インドの熱帯では、常緑樹<br>が濃緑色にしげっていた。それに対し、新しい土地では、春に芽が出た森の色が、目にしみるよう<br>に美しく感じられた。かれらはその色をめでて自分たちの地方を「出芽（いずめ）の国」と呼んだ<br>。その発音が変化して「出雲の国」になったと伝わる。</p><p><br>■出雲王国の風景</p><p>　出雲の北部には、島根半島がある。その半島は天然の防波堤であった。王の海は波静かで、その<br>岸は良い港となった。誤解が多いが王国の都は現在の松江市である。そこに国の内外から交易の舟<br>が来た。出雲の輸出品はカネと首飾りに使われる玉類であった。勾玉も韓国人が高価で買い求めた<br>。特に鉄は各地の人々に重宝され、買いに来る人々で出雲（松江市）の港や村は賑わった。景気が<br>よかったので毎日、景色の良いところで老若男女が昼間から宴会を開いていた。出雲では庶民は労<br>役を課せられることもなく、厳しい年貢もなかった。それがＤＮＡに刷り込まれていて今も、エビ<br>スさん、ダイコクさん信仰が続いているのかも知れない。出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は各地<br>から求められた。豪族たちが最も欲しがったの鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。それ<br>はウメガイと呼ばれた。それで木を削って木製品をつくるために、日用品としても、使われた。イ<br>ズモ族はインドでの風習であった祭りを、各地で続けていた。春分の日に春祭りを、秋分の日には<br>秋祭りを村中で行った。それは年２回の待ちに待った祭りだった。メインは歌垣で、それはあとの<br>お楽しみ付の合コンのようなものだった。現代人は紀元前２００年頃の事代主がいた時代を想像し<br>ずらいと思うが、胎児の形の勾玉を造るには、その曲線の多い胎児形に石を加工する技術ならびに<br>、また勾玉に糸を通すために穴を開けなければならない。そのためには穴を作るには鉄の錐（きり<br>）が必要だ。石を加工して胎児形の勾玉を造るのは、現代でも容易ではない。紀元前の出雲王国に<br>は、現代でも難しい技術をもっていた文化の発展していた国だった。その名残が松江市に玉造り温<br>泉とか勾玉づくりとして残っている。</p><br><p>出雲大社</p><br><br><p>。</p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida1207/entry-12034347753.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Jun 2015 04:28:39 +0900</pubDate>
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<title>出雲王国　3史実ストーリーによる</title>
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<![CDATA[ <p>■出雲王国の風葬</p><p>出雲王国前期では、王の葬儀は風葬であった。王が没すると、立て膝で座る姿勢にされて、竹籠に<br>納められる。口に刺した漏斗から、朱を注ぎ入れる。朱は体の総ての細胞に染みわたり、死臭を防<br>ぐ。遺体は駕籠で●熊野山に運ばれ、ヒノキの大木の茂みに隠される。その木には、締め縄が巻か<br>れ、紙幣が付けられた。それは霊（ひ）モロギと呼ばれた。３年後に洗骨して、頂上付近の磐座（<br>いわくら）の横に埋葬することになるる遺骨なき後も、その木は締め縄が張られ、霊（ひ）モロギ<br>と呼ばれ続けた。古代オリエント地方でもこういう風葬があった。またそれにより磐座（いわくら<br>）信仰もできた。インダス文明も巨大な墓とかは発見されていないが、他の遺跡をもってインダス<br>文明は証明されている。日本の考古学者は古墳至上主義のため、古墳がないと政権は実存しなかっ<br>たという単純な学説に閉じ籠っている狭い学問なのである。現在でも熊野山には締め縄が巻かれ、<br>紙幣が付けられた。それは霊（ひ）モロギが多数、存在する。<br>地域ストーリー作り 経済産業省　出雲大社</p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida1207/entry-12034347564.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Jun 2015 04:26:01 +0900</pubDate>
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<title>出雲王国　4史実ストーリーによる</title>
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<![CDATA[ <p>■出雲王国の風景</p><p>出雲の北部には、島根半島がある。その半島は天然の防波堤であった。王の海は波静かでその岸は<br>良い港となった。誤解が多いが王国の都は現在の松江市である。そこに国の内外から交易の舟が来<br>た。出雲の輸出品はカネ（鉄器）と首飾りに使われる玉類であった。特に鉄は各地の人々に重宝さ<br>れ、買いに来る人々で出雲（松江市）の港や村は賑わった。景気がよかったので毎日、景色の良い<br>ところで老若男女が昼間から宴会を開いていた。出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は各地から求め<br>られた。豪族たちが最も欲しがったの鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。それはウメガ<br>イと呼ばれた。それで木を削って木製品をつくるために、日用品としても、使われた。また曲玉も<br>韓国人が高価で買い求めた。出雲王国の時代には、玉の首飾りを付けないと、豪族とは認められな<br>かった。曲玉は特に縁起のよいものだと考えられていた。それは生まれる前の胎児の形と、見なさ<br>れたからである。赤ん坊はサイノカミが恵む宝だという信仰があった。それで各地から求められた<br>。出雲で作られた曲玉や官玉・丸穴玉はヤマトにも送られ、祭祀などで使われた。意宇（王）の群<br>・拝志（はやし）の群の●花仙（かせん）山（松江市玉湯町）では、メノウや碧玉の原石が産出し<br>た。それを削って、曲玉（まがたま）や官（くだ）玉などが造られた。その伝統を継いでいるのが<br>、●いずもまがたまの里伝承館がある。穴をうがつには細い鏨（たがね）が必要であるが、それに<br>は、出雲産の鉄が使われた。そこには●玉造り温泉があるが、そこの橋には玉造り遺跡にちなんで<br>、●大きな曲玉の飾りが付けられている。原料はメノウの他に、ヒスイも使われた。その関係で事<br>代主の后に、越の豪族ヘツクシヒの娘・ヌナカワ姫が嫁いだ。</p><p>地域ストーリー作り 経済産業省　出雲大社</p>
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<link>https://ameblo.jp/dorabida1207/entry-12034347419.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Jun 2015 04:23:40 +0900</pubDate>
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