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<title>瞑想などなど</title>
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<description>仏教系ブログ　by　しみP</description>
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<title>プラユキ先生の瞑想会から1か月</title>
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<![CDATA[ プラユキ先生の瞑想会から、1か月ちょっと経ったので、変化などを。<br><br>　ツイッターで呟いているけれど、チャルーンサティを1日1時間から2時間くらい続けてきて、大きな変化としては、日曜日夜の憂鬱（所謂、サザエさん症候群というやつです）があまり出てこなくなった。また、平日は、週末の楽しみだけを支えにして過ごしてたのだけれど、それも無くなってきて、淡々と日々が過ぎていくようになった。まあ、そうは言っても、職場では色々起こるわけで、そのたびにジタバタ、あわあわするのだけれど。<br><br>　そもそも、私は心配性で、仕事の成否が心配でならなくて、できることは全力でやってきた。それで、周りからは責任感があるとか、安心して仕事を頼めるとか言われていたのだけれど、責任感からではなく、失敗したくないから、叱責されたくないから、一生懸命仕事をしてきただけだった。これは、これである程度うまくはいっていたのだけれど、「行動はその思考を強化する」との言葉の通り、心配性の度が過ぎてしまい、心や身体に歪がたまってしまい、限界を迎えていた。身体は悲鳴を上げ、自律神経を患い、精神安定剤のお世話になっていた。精神安定剤は効きの強いものに変わったが、身体は悲鳴を上げたままで、薬の副作用である筋弛緩作用によって、40肩の痛みが緩和されるだけだった。40肩は痛いから、それだけでも、嬉しいのだけどね。<br><br>　薬を服用しつつ、チャルーンサティを続けていたら、二日連続で薬を飲むのを止めろ的なメッセージとしか思えない夢を見た。そして、思い切って薬を止めた。私が服用していた精神安定剤は、最も効くものなので、離脱症状が出てしかるべきのはずが、まったく出ず、薬は止められた。すると40肩の痛みが、増幅されて戻ってきた。<br><br>　あららと思いつつ過ごしていたのだけれど、ある時「無常」に触れた。チャルーンサティ中ではなくて、会社帰りの車の中だった。五蘊について考えながら運転をしていたら、はずみで触れたようだった。その瞬間、40肩の痛みは消えた。それ以降も痛みは出ていない。無常は私にとって福音だった。無常であるがゆえに、将来を心配することは不毛なものであることがわかったからだ。今の延長線上に将来を思い描き、そこから導き出される最悪の事態を想起して、それを起こさぬよう心配しておびえながら、必死で将来をグリップしようと試みながら生きることは、やってもいいが、そもそもの前提が間違っていることを意味し、意味なく消耗する生き方であることを教えてくれたからだ。<br><br>　そんなわけで、生きるのが少しだけ楽になった。少しだけというのは、今までの生き方、考え方は、習慣性のもので、癖になっているので、ちょっと油断しているとすぐにそっちに引っ張られるからだ。怠らず修行に励めというブッタの言葉は、まさにその通りで、チャルーンサティという気付きを習慣化させてくれる瞑想を続けること、修行を怠らずに行うことは、ここに意味があると思っている。<br><br>　さて、「無常」にちょっと触れたのが原因かどうかは不明だけれど、心の中に抑圧してきたものの蓋が少し開いたようで、重たーいものが心から湧き出ていること、身体も少し解放されたらしく、身体も今までため込んできた歪をとろうとしているのか、心身ともにキツイ状態が続いている。心が吐き出したものに身体が影響を受け、身体が吐き出したものに心が影響を受けといった状態で、掛け算でキツイ。キツイのだけれど、苦ではない。キツイと苦は違うことを、半世紀近く生きてきて初めて知った次第。<br><br>　今は、この湧き出てくるものに気付き続けるのが当面の方向なのかなと思っている。<br><br>　最後に、最強の瞑想本と言われているウ・ジョーティカ師の「自由への旅」を読もうとしても、読めない状態が続いている。翻訳したニー仏こと魚川氏から直接購入したという在り難い御本（しかも直接購入なのでちょっとだけ安い）なのだが、なぜだかページが進まない。5章途中で止まっている。私は、瞑想を続けた先に見えてくる光景をみてはいけない性分のようだ。たぶん、先の光景を目指して瞑想をしてしまうからなのだろう。答えを先に知ってはいけないタイプのようだが、答え合わせは良いらしい。<br><br>　基本は、ツイッターで呟いているので、リアルタイムの変化にご興味のある方は「しみP」で検索してください。適当なことを呟いていると思います。<br><br>&nbsp;
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<link>https://ameblo.jp/dr1210s/entry-12248896729.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Feb 2017 10:38:18 +0900</pubDate>
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<title>1月8日プラユキさん瞑想会メモ</title>
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<![CDATA[ <p>昨日（1月8日）のプラユキさん瞑想会のメモ。</p><p><br>長文ですが、お付き合いのほどを。</p><p><br>もともとは、苦しみから離れて楽になりたくて、スピリチュアル界隈を徘徊していたが、ままならず、次に禅に興味が向いた。禅の教えは素晴らしく、これだ！と思い座り始めたものの、禅のお坊様はたくさんいるが、見性された方はわずか、で確率の悪さに気づいた。</p><p>&nbsp;</p><p>また色々徘徊したところ、テーラワーダ仏教ですよ。きちんと、方法が確立されていて、歩き方が示されている。スマナサーラ長老の著書を読み、ヴィパッサナー瞑想を始めた。いわゆる、ラベリングです。これを数か月続けたが、浮かんでくる思考に「妄想」とネガティブワードでラベリングすることに違和感を感じ始め、ラベリングはせずに、ただ、観ることにした。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな中、プラユキさんの手動瞑想に出会い、ユーチューブの動画をみて、見様見真似で実践を開始。はじめは、1回あたり20分くらいが限界だったが、40分くらいはできるようになってきた。数か月がたち、今の自分の位置を確かめたくて、プラユキさんに個人面談をしていただいたのが先月。個人面談では、方向性に間違いがないのがわかったこと、瞑想と如理作意による認知の修正の仕方を教えていただいた（たぶん、これが「智慧」といわれるものだろうと思う）。</p><p>&nbsp;</p><p>1時間くらいは瞑想したらとアドバイスをいただき、サラリーマンとしては、確実に確保できる時間は朝になるので、1時間を朝に確保することにした。また、寝る前も時間がとれれば瞑想するようにした。すると、これが日課となり、瞑想しないと居心地が悪くなるようになり、今は、毎日１から2時間くらいは瞑想をしている。当然のことながら、1時間経たずにもうやめようかなぁとかという思いが沸くことも多々あるが、それも気づいてオッケーとやって、1時間をするようにしている。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、ここからが、瞑想会のレポート。読んでいただく方にお願いしたいのは、これは私の理解であって、プラユキさんの本意と違っている可能性があること、あくまで、私の感想です。</p><p>&nbsp;</p><p>最初にプラユキさんの資料作りの時間が押したそうで、資料完成までのつなぎとして、いくつかのグループに分かれて自己紹介と一言。その後、資料が配られ、1時間ほど仏法のコアの部分について、プラユキさんの解説。続いて、手動瞑想の説明と実践。私の手動瞑想は動作のペースがちょっと早いことがわかる。違和感を感じつつも、プラユキさんのペースで動作を繰り返す。お昼になり、食事瞑想。ここでも、手動瞑想と同じように、気づき続けることを説明されていた。</p><p>&nbsp;</p><p>午後は、天気を気にしつつ歩行瞑想。私の今回の目的は、歩行瞑想を教えてもらうことであった。実は、手動瞑想と歩行瞑想は動作が変わるだけで、気づき続けるということに変わりがないことがわかった。歩行瞑想は、足裏感覚に集中するというようなものでなく、歩行という動き、肌に触れる風、変わる景色に全体として気づき続けるというもの。これまで、私は、足裏感覚をアンカーにしていたので、修正できてよかった。</p><p>&nbsp;</p><p>次は、呼吸瞑想。呼吸を10カウントし続け、何度か繰り返した後、ボディスキャンをするというもの。ボディスキャンは意識を頭や腕などに向けていく。歩行瞑想と呼吸瞑想は、私にとってご馳走でした。ここまでで、満足感でいっぱい。ただし、呼吸瞑想は目を閉じるので、行う時間を気にしないと寝てしまう可能性が大。寝ると、瞑想じゃなくて、睡眠になってしまう。呼吸瞑想の出番は、職場の昼休みが最適と思ったところ。続いて、手動瞑想のおさらいと実践。やっぱり、動作のペースが合わなくて、違和感を感じつつも、プラユキさんのペースで行う。最後は、また、グループに分かれてディスカッションし、その後、質疑応答。</p><p>&nbsp;</p><p>質疑応答は、プラユキさんの真骨頂がさく裂した感じ。プラユキさんの回答、解説が止まらない。</p><p>&nbsp;</p><p>その中からいくつか印象に残ったものを。</p><p>&nbsp;</p><p>どの瞑想がいいのかという質問には、抜苦与楽になっていればOK。苦しくなっていくのであれば、相性が良くないとのこと。手動瞑想は、苦しくなる方向にいかないよう色々仕掛けを入れて考えられたものなので、お勧めとのこと。</p><p>&nbsp;</p><p>1日どのくらいすればいいのか、どんなメニューがいいのかという質問には、お好みでといった感じ。10分でも、20分でもいいからしましょうと。また、例えば、歯磨きは気づきながら、通勤の歩くところは歩行瞑想といった風に、日常の生活に落とし込み習慣化するといいでしょうと。</p><p>&nbsp;</p><p>最後に、過去は現在に湧き上がる思いの条件（縁）ではあるけれど、原因ではない、ここに気づいたのがブッタだと。原因ではないのだから、現在は変えることができる。ブッタはその可能性を示したと。思いが沸きそれに続いて考えが起こるが、思いから考えに移る時に、自覚がなければ、過去に引っ張られたこれまでの思い癖からの考えにしかならない。しかし、自覚すれば、反応ではなく対応に変えることができる。すると、過去が後悔や嫉妬の物語から変化していく。心理療法は、過去の出来事ひとつひとつを相手にしていく。一方、仏法はそれを一網打尽に、変えていく。今日、皆さんはその可能性を手に入れたと。この日、一番のごちそうは最後に来ました。</p><p>&nbsp;</p><p>日が変わって、今日、これを書いていますが、違和感があった動作のペースですが、1時間瞑想してみて、プラユキさんペースのほうが、位置確認が入りやすいことがわかりました。</p><p><br>ここからは、私のこれまでの理解を書きます。瞑想は、無心になったり雑念を追い払ったりするのを目的としていない。雑念、思いは沸くもの。ここは、普通はコントロールできない。苦しみは、出てきた思いに抵抗するから。出てきたものだから抵抗してもしょうがないんです。もう、出てしまった後なんです。なので、この思いにはオッケーと言って受容するしかないんです。しかし、この思いも抵抗もただの癖です。でも、ずっとこの癖で生きてきたので、癖だと思うことができない。そして、過去、この癖のおかげでうまく生きることができた。だから、その癖が今でも働く。しかし、今の自分にとってはマイナス、だから、苦しい。その癖に気づいて、癖を智慧や如理作意に変えていく手段が瞑想だと思っています。癖に気づいたとき、その癖がなくなって、癖があった場所にスペースができる。そこが智慧に置き換わっていく。癖は、心理学的には、認知にあたるものだと思います。置き換えのペースは、人それぞれでしょう。私は、亀の歩みで、今でもしょっちゅう癖に引っ張られますが、捕らわれる時間は短くなってきている気がしています。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、天気も回復してきたので、犬の散歩兼歩行瞑想をするとしよう。</p><p>&nbsp;</p><p>長文をお読みいただきありがとうございました。プラユキさんとの縁に感謝します。</p><p>&nbsp;</p><p>次回のUPはいつになるんだろう。基本、ツイッターてつぶやいてます。時々だけど。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/dr1210s/entry-12236444058.html</link>
<pubDate>Mon, 09 Jan 2017 13:43:20 +0900</pubDate>
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