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<title>『江島氏物語』</title>
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<description>歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」　　通史に無い九州歴史物語</description>
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<title>Vol 67    九州家紋考 ①『肥前高木氏と日足紋』</title>
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<![CDATA[ <p>『江島氏物語』に初めて訪問された方へ</p><p>&nbsp;</p><p>当ブログは<a href="https://ameblo.jp/ejimayakata/entry-12915674947.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">「Vol１ようこそ江島氏物語へ」</a>から順番にご覧ください。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><img border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/2f/dd/j/o0268030515631945499.jpg"><br>藤原隆家　画像：出典　Wikipedia　米国版<br><br><br>●筑後江島氏の祖、藤原隆家とは<br><br>筑後江島村を本貫とする筑後江島氏の出自は「藤原隆家」を祖とする肥前高木氏の庶流とされています。<br><br>藤原隆家（979～1044）は平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白内大臣・藤原道隆の四男として誕生しました。官位は正二位・中納言。隆家の父、藤原道隆は正二位、摂政、関白、内大臣を勤めました。従って隆家の氏族は「藤原北家中関白家」とも呼ばれます。<br><br>また道隆は藤原兼家（従一位、摂政、関白、太政大臣）の長男で、弟に藤原道長（五男、または四男）がいます。従って道長と隆家は叔父、甥の関係です。<br>ここで藤原隆家と九州(太宰府)との繋がりと人物像をご紹介しましょう。<br><br>●藤原隆家と大宰府<br>　　　　　出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br><br>隆家は長和元年（1012年）末頃より先の尖った物による外傷を原因とした眼病を患い、出仕や交際もできず邸宅に籠居するようになる。ここで、大宰府には眼の治療を行う唐人の名医がいるとの話を聞きつけて、隆家は進んで大宰権帥への任官を望む。この任官希望に対しては、未だ声望高い中関白家と九州在地勢力との結合を抑止したい道長に強く妨害されるが、結局同じ眼病に悩む三条天皇の隆家への同情は深く、決定までに9ヶ月を要した末、長和3年（1014年）11月になってようやく大宰権帥に任ぜられた。<br><br>長和4年（1015年）には赴任の功労により正二位に叙せられている。大宰府では善政を施し、九州の在地勢力はすっかり心服したという。在任中の寛仁3年（1019年）刀伊の入寇が発生。刀伊（女真族と考えられている）が対馬・壱岐に続いて、同年4月に博多を襲うが、隆家は総指揮官として大宰大監・大蔵種材らを指揮してこれに応戦・撃退している。同年6月には高麗が虜人送使・鄭子良を派遣し、刀伊から奪回した日本人捕虜259名を送還する。隆家は鄭子良に対して朝廷の返牒を遣わし禄物を与えるなど後処理を行った。<br><br>同年12月に大宰権帥を辞して帰京（後任は藤原行成）。帰京後の朝廷において、刀伊を撃退したことに対する功績により隆家の大臣・大納言への登用を求める声もあったが、帰京後の隆家は内裏出仕を控えていたため昇進の沙汰はなかったという。<br><br>一方で、翌寛仁4年には都に疱瘡が大流行し、刀伊が大陸から持ち込んだものが隆家に憑いて京に及んだものと噂された。治安3年（1023年）次男の経輔を右中弁に昇任させる代わりに中納言を辞退する。その後、大蔵卿などを務めるが、後朱雀朝の長暦元年（1037年）藤原実成に代わって再度大宰権帥に任ぜられ、長久3年（1042年）までこれを務めた。<br>長久5年（1044年）1月1日薨去。享年66。最終官位は前中納言正二位。<br><br>●藤原隆家の人物像　<br>　　出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br><br>天下の「さがな者」（荒くれ者）として有名であった隆家は、王権をかさに着る花山院との賭け事や、姉の中宮定子の女房清少納言との応酬など、『枕草子』『大鏡』『古今著聞集』にも多彩な逸話が伝えられている。<br><br>姉が生んだ敦康親王の立太子を実現できなかった一条天皇を「人非人」と非難したり、権力者の叔父道長の嫌がらせに屈せず三条天皇皇后娍子の皇后宮大夫を引き受けたりするなど、気骨のある人物として知られた。<br><br>その「こころたましひ」（気概）は政敵の道長も一目置く存在であり、「長徳の変の黒幕」と衆目の一致する所であった道長は、後年、賀茂詣のついでにわざわざ隆家を招いて同車させ、その弁明に努めている。<br><br>「もし敦康親王が即位して隆家が政治を補佐したならば、天下はよく治まるだろう」という世人の密かな期待があり、その期待に反して敦康が立太子できなかったのは、さすがの隆家も気落ちしているだろう、という世間の忖度を逆手にとって、隆家は三条天皇の大嘗会では華美な正装で煌びやかに振る舞ったという。<br><br>（引用終了）<br><br>●新興土豪勢力(在地官人）と藤原党の成立<br><br>この時代の貴族階層の生活は、源氏物語や枕草子に代表される王朝文学によって多くの人々が知るところです。<br>これらの物語の影響で、ともすれば公卿は恋愛に明け暮れる、なよなよとした女性的なイメージがついて回ります。しかしながら、隆家はそれとは真逆な剛の者で、刀伊入寇の際は自ら甲冑を纏い、馬を駆って奮戦しています。その様子は貴族というよりは武人と呼んだ方が相応しく思われます。<br><br>当時の大宰府は九州の政治、軍事の中心だけではなく、外交や大陸文化、学問の中心都市であり、古くは「遠の朝廷」（とおのみかど）と呼ばれ、京の都と並ぶ繁栄を誇っていました。<br><br>大宰府政庁の長官である、「権師（ごんのそつ）」は皇族や有力貴族から任命され、その多くは直接大宰府には任官せず、家臣などを代理として派遣する「遥任」でありました。また大宰府の政務にあたる官人の多くは九州の有力豪族や土豪達が任官し、在地官人として政務や軍事の職についていました。<br><br>そのような状況の中で、前の関白の嫡男で武名も高い隆家が着任して来たのですから、貴種として歓迎されたのは言うまでもないでしょう。筑前、筑後、肥前の国では古代氏族を祖とする豪族や帰化人を祖とする豪族達が隆盛を誇っていました。格式と権威に劣る新興の土豪勢力とって、隆家は出自、人柄共に、権威付けには申し分のない人物でした。<br><br>隆家配下として政務や軍事を担当した土豪勢力の中には、隆家や京から隆家に臣従してきた藤原北家一門の血を受け継ぐ者も現れたでしょう。また藤原北家一門の中には土豪の娘を娶り、九州に土着する者も出て来たと思われます。<br><br>藤原北家一門と土豪間の婚姻関係や同盟関係のなかで、藤原党としての同族意識が形成されていった事が想像出来ます。こうした状況の中で頭角を現した氏族が、肥前高木氏であり、後に肥後で勢力を拡大する菊池氏等の前身であったと思われます。私はこれらのプレ高木氏やプレ菊池氏を仮に「藤原党」と呼んでいます。<br><br>藤原隆家を祖と称する、これら藤原党は当初家紋に「日足紋」を使用しました。<br>高木氏は「十二日足」、菊池氏は「八つ日足」です。<br><br>日足紋は高木氏の庶流とされる草野氏は「六つ日足」、上妻氏も同じく「六つ日足」、龍造寺氏「十二日足」、於保氏「八つ日足」等が使用されていました。<br>大村直の後裔、藤原北家純友流とも称する肥前大村氏も、初めは「大村日足」と呼ばれる日足紋を使用していたようです。<br><br><img border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/fc/0e/j/o0130013215631945503.jpg"><br>肥前高木氏／十二日足<br><br><img border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/68/2c/j/o0130013015631945508.jpg"><br>菊池氏／八つ日足<br><br><img border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/f9/6a/j/o0130013015631945510.jpg"><br>肥前大村氏／大村日足<br><br><img border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/3d/0a/p/o0250016715631945514.png"><br>16条の旭日旗<br><br>●筑後江島氏の家紋の変遷<br><br>久留米藩士「矢野一貞」（1794－1879）著の「筑後将士軍談」では、江島氏は藤原中関白隆家を祖とする藤原姓と紹介していますが、同書の中の「筑後領主附」の添え書きでは「少弐末中関白」とも記しています。<br>筑後江島氏も高木党の一員として当初は日足紋を使用していたと推測されます。<br>日足紋は太陽と光芒を著し、後の国旗の「日章旗」や第二の国旗「旭日旗」の元となった紋です。<br><br>過去記事「Vol 21筑後領主附に見る戦国期の所領」でもご紹介しましたが、高木党が少弐氏との関係を深めるに従って、江島氏も少弐氏に接近し、高木氏の衰退に従って少弐氏との関係が深まり、少弐氏の「四ツ目結（ゆい）紋」に因み「丸に四ツ目」紋を戦国期迄、定紋として使用します。<br><br>男子直系の家系というのは徳川家や諸大名家の例を見ても、長くても４～5代しか続く事は無く、他家からの養子を迎えて、家名を存続させる事が度々行われています。当然ながら江島氏も他家から養子を迎えた事でしょう。少弐氏全盛の頃には勢力維持の為に、積極的に主家筋の少弐氏から養子を迎え入れる事もあったと思われます。そして少弐氏の四ツ目結紋を家紋とし、少弐氏の末裔を名乗った時期があったのではないでしょうか。<br><br>次回、『少弐氏、目結紋の由緒と庶流』へ続く。<br><br><img border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/a2/88/j/o0344049915631945517.jpg"><br><br><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%88%80%E4%BC%8A%E5%85%A5%E5%AF%87-%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AE%B6%E3%81%AE%E9%97%98%E3%81%84-%E8%91%89%E5%AE%A4-%E9%BA%9F/dp/4408535893">刀伊入寇 - 藤原隆家の闘い<br>葉室麟(著）</a><br><br>Copyright (C) 2020 ejima-yakata All Rights Reserved</p>
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<link>https://ameblo.jp/ejimayakata/entry-12915675344.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Jul 2020 06:38:14 +0900</pubDate>
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<title>Vol 66   特別編　九州・全国の『江嶋さん・江嶌さん』</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/b3/6b/j/o0640048115631945496.jpg" border="0"><br><br>※九州地方の大雨被害は如何でしょうか。<br>被災された方々へ心からお見舞い申し上げます。<br><br>■関連記事<br> <a href="https://blog.goo.ne.jp/ejima-yakata/e/422fb551f38ee3c717b40f7bdfb1854f">Vol２  九州・全国の江島さん(改訂版）</a><br><br>■島、嶋、嶌<br><br>「江島氏」に関する一次史料、二次資料を多く見てきましたが、人名表記に関しては時代が古いほど「江嶋」が多く用いられています。「江嶌」に関してはごく少数ですが、同様に古い時代に使用されています。<br><br>「嶋」と「嶌」は正字の「島」の異体字であって、読みも意味も全く同じです。<br>同時代の記録を見ても書き手が違うと「江島」であったり、「江嶋」であったりと同一人物についても違う例も有ります。<br>つまり、書き手の判断による当て字で書かれる事が多く、文字の違いには左程拘っていなかったようです。<br><br>文化年間（1804-1818）生まれの私の高祖父は書家を志した事も有って、文字には拘りがあり、通常用いた「島」ではなく、「嶌」の字を好んで使用していたそうです。この字には当時でも歴史を感じさせる重みのようなものがあったのでしょう。明治になって戸籍制度が出来た時に、曾祖父が「江島」で届け出を行ったと伝え聞いております。<br><br><br>■宮崎・愛媛の江嶋さん<br><br>下記の「江嶋」の項で「宮崎県日南市飫肥が藩庁の飫肥藩士、愛宮崎県日南市飫肥が藩庁の飫肥（ふよ）藩士、愛媛県今治市通町が藩庁の今治藩士に江戸時代にあった」という記載がありますが、今治藩士とは家老の「江嶋為信」とその子孫を指しています。<br><br>為信は日向国の飫肥藩士の家に生まれ、その才能を見込まれて今治藩に仕官し、家老に出世しました。飫肥藩の江嶋家の苗字は筑後江島氏、豊前江島氏、肥後江島氏とはいずれも関係はありません。元は「海老原」姓で、江島姓は主君から賜った、海の風景にちなんだ苗字なのだそうです。<br>詳細は愛媛大学のＨＰ<br>『江嶋家文書』<a href="http://www.lib.ehime-u.ac.jp/EJIMA/index.htm">http://www.lib.ehime-u.ac.jp/EJIMA/index.htm</a>をご覧ください<br><br><br><br>■エジマ 【江嶋】の苗字の由来・語源・分布<br>　出典：日本姓氏語源辞典<br>https://name-power.net/<br><br>福岡県、長崎県、熊本県。江島の異形。<br>長崎県対馬市に安土桃山時代、熊本県熊本市中央区本丸が藩庁の熊本藩士、宮崎県日南市飫肥が藩庁の飫肥藩士、愛媛県今治市通町が藩庁の今治藩士に江戸時代にあった。<br><br>人口約1,200人<br>順位7,296 位<br>レベル4<br><br>■全国 都道府県順位<br><br>1　福岡県(約200人)<br>2　熊本県(約150人)<br>3　長崎県(約140人)<br>4　神奈川県(約100人)<br>5　山口県(約90人)<br>6　大阪府(約70人)<br>7　大分県(約60人)<br>8　東京都(約50人)<br>9　佐賀県(約30人)<br>10  京都府(約30人)<br><br><br>■市区町村順位<br><br>1　福岡県 久留米市(約70人)<br>1　熊本県 熊本市(約70人)<br>3　長崎県 諫早市(約60人)<br>4　山口県 宇部市(約50人)<br>5　福岡県 うきは市(約40人)<br>5　長崎県 長崎市(約40人)<br>7　熊本県 八代市(約30人)<br>7　神奈川県 相模原市(約30人)<br>9　大分県 大分市(約30人)<br>10  長崎県 大村市(約20人)<br><br>■小地域順位<br><br>1　福岡県 うきは市 高見(約30人)<br>1　福岡県 久留米市 田川(約30人)<br>1　山口県 宇部市 亀浦(約30人)<br>4　熊本県 八代市 植柳上町(約10人)<br>4　長崎県 諫早市 栄田町(約10人)<br>4　熊本県 熊本市 画図町所島(約10人)<br>4　三重県 志摩市 安乗(約10人)<br>8　福岡県 うきは市 福永(約10人)<br>8　大分県 大分市 下戸次尾津留(約10人)<br>8　長崎県 諫早市 小川町(約10人)<br><br><br>■顕著に見られる市区町村<br><br>熊本県 球磨郡相良村 , 福岡県 うきは市 , 北海道 空知郡上富良野町<br><br><br>――――――――――――――――――――――――――――――――――<br><br>■エジマ 【江嶌】　の苗字の由来・語源・分布　　<br>出典：日本姓氏語源辞典<br><br>長崎県。江島の異形。<br>福岡県柳川市本城町が藩庁の柳河藩士に江戸時代にあった。<br><br>人口約60人<br>順位41,097 位<br>レベル3 <br><br><br>■全国 都道府県順位<br><br>1　長崎県(約30人)<br>2　福岡県(ごく少数)<br>2　神奈川県(ごく少数)<br>2　東京都(ごく少数)<br>2　愛知県(ごく少数)<br>2　岐阜県(ごく少数)<br>2　千葉県(ごく少数)<br>2　三重県(ごく少数)<br><br><br>■市区町村順位<br><br>1　長崎県 南島原市(約10人)<br>2　長崎県 長崎市(約10人)<br>3　福岡県 福岡市中央区(ごく少数)<br>3　三重県 志摩市(ごく少数)<br>3　神奈川県 横浜市神奈川区(ごく少数)<br>3　岐阜県 恵那市(ごく少数)<br>3　東京都 大田区(ごく少数)<br>3　愛知県 名古屋市港区(ごく少数)<br>3　千葉県 船橋市(ごく少数)<br>3　長崎県 佐世保市(ごく少数)<br><br><br>■データは下記の方法で調査したものです。<br><br>●2002年の電子電話帳にもとづく推定人口から七つに分類。2002年としたのは1993年は登録数が多いのに対して抜けている地域や誤字が多いことによる。<br><br>●レベル1は9人以下、レベル2は10人から49人、レベル3は50人から499人、レベル4は500人から1,999人、レベル5は2,000人から19,999人、レベル6は20,000人から199,999人、レベル7は200,000人以上。1から3がレア、4が普通、5から7がポピュラー。<br><br><br>Copyright (C) 2020 ejima-yakata All Rights Reserved<br>
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<link>https://ameblo.jp/ejimayakata/entry-12915675337.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Jul 2020 18:28:12 +0900</pubDate>
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<title>一部改訂のお知らせ</title>
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<![CDATA[ 当ブログの下記ページの記事を一部改訂しました。<br><br> <a href="https://blog.goo.ne.jp/ejima-yakata/e/ac7b0677dce5a9f08c31d3380701716a">Vol.1　ようこそ江島氏物語へ</a><br>　　　　加筆修正<br><br><a href="https://blog.goo.ne.jp/ejima-yakata/e/422fb551f38ee3c717b40f7bdfb1854f">Vol.2 九州の江島さん、全国の江島さん</a><br>  　苗字分布資料データの更新、差し替え<br>　　　■全国 都道府県順位<br>　　　■市区町村順位<br>　　　■小地域順位<br>　　　■顕著に見られる都道府県<br>　　参考サイト　リンクの更新<br><br>現在アップ中の記事を推敲し、加筆修正を順次行ってゆきます。
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<pubDate>Mon, 06 Jul 2020 03:17:31 +0900</pubDate>
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<title>Vol 65　違い鷹ノ羽の謎 7 　　そして江島氏は肥前へと還って行った</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/6a/ab/j/o0422064015631945440.jpg" border="0"><br><br><br>●九州探題、渋川氏の九州統治戦略<br><br>前回ご紹介した「九州探題考」で「黒嶋　敏」氏は渋川氏の筑紫・東肥前経営について次のように述べています。<br><br>「実勢力としては東肥前の一勢力として終始した」と評されるが、現在でも九州自動車道と長崎・大分自動車道が交差する鳥栖ジャンクションがあることから分かるように、肥前東部は九州各地と連絡可能な要衝で、大宰府・博多にも近く九州の喉元と言える地域である。<br><br>筑前には岩門（現：福岡県那珂川市）の他に、最後まで探題領となる姪浜（福岡市西区）唐房遺跡などからチャイナ・タウンの存在も想定される港湾都市であったし、影響力を及ぼした筑後側にも、筑後川流域には探題方となった河北一揆（河北庄→現：三井郡北野町）や河川交通だけでなく有明海交通とも関係する水運拠点が存在しており、複数国におけるこれらの物流拠点が、探題領の重要な構成要素だったことは言うまでもないだろう。<br><br>渋川氏の地政学的な戦略に基づく、筑紫・東肥前経営はなかなか優れた政策であった事が分ります。では何時頃から渋川氏の東肥前進出が始まったのでしょうか。<br><br><br>●肥前綾部の守護館<br><br>応永3年（1396）今川了俊の後を受け継いだ渋川満頼は少弐氏や菊池氏、阿蘇氏らの反幕府勢力の平定に努力し、少弐貞頼、菊池武朝と戦いました。満頼は肥前国を九州探題の分国と定めて渋川氏が九州における一勢力として戦国時代前期まで存続する基盤を築きました。<br><br>さらに、筑前国より肥前に本拠を遷し、肥前国養父郡綾部に守護館を設け、これが渋川氏代々の館となりました。現在、綾部城跡が残る佐賀県三養基郡みやき町あたりが守護館の所在地であったと推測されますが、城址から東南の方向の数キロ先が、肥前国養父郡江島村（現：鳥栖市江島町）なのです。<br><br>応永26年（1419年）に父・満頼に代わって、義俊が19歳で九州探題となります。『肥前国史』によれば応永30年（1423）に満頼の子「渋川義俊」が勝尾城（かつおのじょう）を築いたとあり、また応永30年に少弐満貞に博多を攻められて敗れ、肥前国山浦城(勝尾城の支城、現：鳥栖市)に逃れたとの記述もあるように、義俊の時代には完全に鳥栖地域への定着化と肥前支配が完了していたと思われます。<br><br>ちなみに勝尾城（かつのおじょう）は戦国期まで佐賀県鳥栖市河内町に存在した山城です。九千部山の山ふところ、標高約500mの城山山頂に位置しています。安良川とその支流の四阿屋川の谷に挟まれた要害で、支城に鏡城、葛籠城、鷹取城などがあります。現在はこの城の真下を九州新幹線が貫通しています。現在貴重な中世の城郭、城下町遺跡として国の史跡指定を受けています。<br><br>この遺構の規模はなかなかのものですが、後に城主となった筑紫氏によるものではなく、九州探題渋川氏の威光と権勢が土台にあるものと感じます。<br><br>また、私は江島和泉守の家老、河内九郎左衛門重家は勝尾城のあった河内村に出自があるのではないかと考えています。<br><br><br>●渋川氏の肥前・筑後の国衆政策<br><br>満頼、義俊時代の文献、文書類は少なく、詳細は分かりませんが、後代の渋川氏が発給した文書類によると、東肥前の国人達を被官化していた様子が伺えます。領地の安堵や官職の発給など文書や写しが現存しています。<br><br>探題は肥前守護を兼ねていた訳ですから、肥前の有力国人達に働きかけることなく、直接国人領主を被官化し、纏める事も可能だった訳です。また渋川氏の被官となる事は、室町幕府に繋がる事でもあり、国衆、特に小領主にとっては歓迎すべき事であったに違いありません。<br><br>ちなみに南北朝時代、高木、龍造寺、後藤、安富、江上等の肥前の有力国人は今川了俊の弟。仲秋に従い、南朝方と戦ってきました。前述の筑後の河北一揆の件。義俊が探題職を退いて筑後の酒見に隠居した等、東肥前の国衆だけでなく、対岸の筑後の国衆もその勢力下においていた事が推測出来ます。少弐氏が衰退していく中で、筑後江島氏、肥前江島氏も九州探題の勢力下にあったとしても不思議はありません。<br><br>永正年間に発給された文書には肥前・村田村の国人「村田総三郎」への「治部丞」への官途推挙状や安堵状が残っています。過去記事の<a href="https://blog.goo.ne.jp/ejima-yakata/e/8e7820217f08a764f36ba15838f0bd34">Vol 20　もう一つの江島村　「肥前江島村」</a>で村田八幡宮の縁起に関する伝承をご紹介した、村田村の住人「村田石見」とはこの総三郎の子孫にあたる人物と思われます。<br><br>江島和泉守の官職名「和泉守」も渋川氏から与えられた正式の官職であり、それに相当した官位も発給されていたかもしれません。その理由は後述します。<br><br><br>●江島和泉守の肥後・小国派遣の目的と理由<br><br>過去記事にも述べましたが、当時、阿蘇氏は嫡流家と庶子家で勢力争いを行っていました。九州探題は庶子家を応援し、戦で争うのではなく訴訟でもって決着をつけるように働きかけます。こうして武力による一族内の争いは防ぐことが出来ました。嫡流家は菊池氏と結びつきがありましたし、もっと油断できないのが、島津と大友の動静でした。<br><br>このような情勢下、阿蘇氏への目付として、阿蘇氏が和解し一つになった時には帰還するという約定付で、江島和泉守が遣わされたのではないでしょうか。<br><br>阿蘇氏の目付ならばもっと本来の阿蘇氏の本拠近くが良いはずですが、何故小国となったのか。それは小国は豊後国にも接しており、室町幕府の御家人であった日田氏を通じて大友や島津の情報も収集しやすい場所に在ったからでしょう。阿蘇氏や菊池氏等肥後の情報と共に隣接する他国の情報収集が本来の派遣目的であったと思われます。<br>　<br>小国郷下城は探題側に与する阿蘇庶子家の支配下にありましたから、庶子家は探題側の求めに対し、田原にいた氏族を大善寺に転封させ、和泉守一族を平和裏に受け入れたと考えられます。<br><br><br>では何故この役に肥前江島村の江島氏が選ばれたのか。その理由についてはこう推察しています。<br><br>肥前江島村にあった江島石王社は村田八幡宮の元社であった事は過去記事「もう一つの江島村」で述べました。江島石王社から祭神を分霊し村田村に祀ったのが村田八幡宮の起源です。<br><br>★「佐賀県神社誌要」より抜粋<br><a href="http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020648">http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020648<br></a><br>村社　八幡神社　三養基郡旭村大字江島字村田<br>祭神　玉依姫命　應神天皇　筒男命<br>　　　菅原道眞　豊玉彦命　保食神<br><br>   往古は江島村石王と云へる所に，豊后宇佐八幡宮の分霊を祀りしに，天文年中時の領主筑紫椎門現社地に社殿を新築して奉遷し，神領地を献し神職数名命婦一名をして奉仕せしめ此郷の宗廟として崇敬せしか，天文五年八月島津来たりて筑紫氏を亡ほすや，社殿は兵火にかゝり，文書神寳等悉く烏有となる，其後鍋島氏の領となるや，寛文年間社殿を再興し祭資を供進して復舊を謀り，江島郷の宗廟と定め祭禮神幸式等盛大に擧行する事となりて維新に及へり。明治六年村社に列せらる。合祀により菅原道眞他二柱祭神追加す。<br>明治四十年二月十五日神饌幣帛料供進指定<br>氏子戸数　二百六十戸<br><br>大正15年に発刊された佐賀県「佐賀県神社誌要」によれば、村田八幡宮の本来の祭神は玉依姫命、應神天皇、筒男命の三神で、筒男命は筑後江島村、坂本神社の祭神の一柱、住吉神と同神です。<br><br>また明治期に合祀された、豊玉彦命はわだつみの神、海神であり、肥前江島村の周囲の人々が海や川など、水や航海に関係する仕事をしていたことが伺えます。江島石王社は現在は有りませんが、江島町公民館がその跡地です。公民館のすぐ傍には筑後川ヘと注ぐ川があります。<br><br>室町末期の時代、既に筑後江島氏と肥前江島氏は、筑後川交通、有明海沿岸交通の一端を担っていたのかもしれません。有明海を経て肥後国の海沿いのルート。さらに筑後江島氏は八女に庶流が住み着いていました。八女から一気に街道の山道（現442号）を駆ければ、そこは小国郷です。<br><br>一族間の連携で、陸路、海路をもって肥後と肥前の連絡ルートが確保できる。その様な理由で江島和泉守に白羽の矢が立ったのではないでしょうか。<br><br>杖立竹原家文書から分かるように和泉守の一族は多数の兵力を有していた訳ではありません。それはその目的が城の守備ではなく、あくまでも監視と情報収集にあったからです。<br><br>肥前の大族の国衆や、日田氏の家臣が多数の兵力を持って、小国郷に進駐してきたならば、九州探題の命であっても、阿蘇氏や小国の国衆は心中穏やかでなく、当然警戒もし、小競り合いさえあったかもしれません。<br><br>その点、肥前の一国人領主は警戒心を持たれず、適任であったと考えます。<br>しかしながら、九州探題は江島氏に和泉守の官職を与えます。和泉守は従五位下に相当し、探題職の渋川氏当主にも匹敵する位階に相当します。その身分と共に権威を与え、九州探題渋川氏の名代として田原に着任したのではないかと推察するのです。<br><br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/9b/e9/p/o0200020015631945444.png" border="0"><br>阿蘇氏家紋　違い鷹の羽<br><br><br>●和泉守一族、違い鷹の羽を家紋とする。<br><br>江島和泉守の任務は短期間で終わるかと思いきや、阿蘇氏の内紛は半世紀以上に渡って続きました。しかし無駄な血を流さぬ、訴訟と言う方法を取った為、表面的には平和な時期が続きました。<br><br>やがて、渋川氏も同族内での権力交代が原因となって、九州探題の影響力の衰退を迎えます。江島氏も周囲の国衆に刺激を与えぬ温和な態度を続けました。<br><br>やがて和泉守もその家臣達も第二世代が誕生し、成人し、末期には第三世代も育っていた事でしょう。中には阿蘇氏所縁の一族と姻戚関係を持つ者や、阿蘇氏の臣下となる者も出たかもしれません。小国郷の社会に溶け込むうちに、江島氏自体が阿蘇氏と融合し、何時しか家紋を阿蘇氏に因み、丸に違い鷹の羽に変えるような事があったのかもしれません。<br><br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/0f/8b/j/o0640051615631945451.jpg" border="0"><br>「絵本鷹かがみ」　　　国立国会図書館デジタルコレクション<br><br>鷹の羽について少し調べてみますと。「絵本鷹かがみ」では左ページ下段の真ん中を、「屋形符」、下段左を「四の符尾」とありますが、他書では下段左の文様を「屋形尾」と呼んでいるものもあります。いずれにせよ、違い鷹の羽の家紋デザインのような山形の柄を指す事が分りました。<br><br>田原の江島城が別名、屋形尾（矢形尾）の城と呼ばれたのも、家紋を違い鷹の羽に変えた事に起因しているのかもしれません。<br><br><br>●小国江島氏、故郷へ還る　<br><br>阿蘇氏の見せかけの平和は永遠には続きませんでした。文明16年(1484)から文明17年にかけて、惟歳・惟家は菊池重朝の支援を得て惟憲を攻め、一方の惟憲方は相良氏の応援を得て惟歳・惟家らに対抗しました。両者は幕の平で激突し、惟憲方の大勝利となりました。こうして阿蘇氏は統一されました。そして、阿蘇氏より江島氏への立ち退きを要求されたのでしょうか、江島氏は当初の約状に従ったのか、争う事も無く静かに小国郷を去って行ったようです。<br><br>小国に生まれ育ち、姻戚関係など地元との深い関係が出来、肥後に残る事を望む者。父祖伝来の本貫の地である肥前江島村に還る事を希望する者と、一族の意見は二手に分かれた事でしょう。この時の江島氏の棟梁はそれぞれの意志を尊重し、自らの望む地に一族の未来を託<br>したと思われます。<br><br>この後九州は戦国期へと突入してゆきます。戦乱の中で肥後に残った一族が主家を変え、あるいは同族や縁故の者を頼って、肥後各地、豊後、日向へと移動したのではないかと推測しています。（註：日向には肥前高木氏の庶流花木氏が宮崎県延岡に土着していた）<br><br>一方肥前江島村に戻った違い鷹の羽を家紋とする江島氏も、激動の戦国期を迎え、諸事情によって肥前各地へと広がってゆきました。家紋分布調査ではないので何とも言えませんが、現在の佐賀や長崎の江島姓の分布を見ると、有明海沿岸部の湊で栄えた地区、長崎県沿岸部に多く見られます。一時は山の民となった一族も本来の川の民、海の民にもどって、遠方に進出していったのかもしれません。<br><br>福岡県に違い鷹の羽を家紋とする江島氏が見られないのは、肥後小国郷の江島氏が筑後の江島村には戻らなかったという事でしょう。つまり小国の江島氏が、肥前江島村を本貫とする一族であったという何よりの証ではないでしょうか。<br><br><br>違い鷹の羽の謎　（完）<br><br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/28/63/p/o0200020015631945454.png" border="0"><br><br>筑後高木氏族　江島家　家紋　丸に違い鷹の羽<br><br><br>Copyright (C) 2018 ejima-yakata All Rights Reserved
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<link>https://ameblo.jp/ejimayakata/entry-12915675316.html</link>
<pubDate>Sat, 13 Oct 2018 01:02:51 +0900</pubDate>
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<title>Vol 64　違い鷹ノ羽の謎 6 　江島和泉守の出自と九州探題</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/f1/9a/j/o0433064015631945409.jpg" border="0"><br><br><br>●山号から推測する江島和泉守の出自<br><br>江島和泉守とその家臣達はどこから小国郷田原にやって来たのか。実は一族の出自を推測出来るヒントが杖立竹原家文書にあるのです。<br><br>それはこの一文です。<br>「天台宗鳥巣山向林寺幸林院、秋原向に在り、和泉守の寺なり。河内九郎左衛門同寺」<br><br>在城期間が長くなるにつれて、江島和泉守が自身と家臣達の為に天台宗の寺院を建立したと思われます。天台宗は和泉守や家老の河内九郎左衛門が元の在所で帰依していた宗派であり、以前の在所にある天台寺院から僧侶を招き、分院を建立したと考えるのが理に適っているでしょう。<br><br>そこで向林寺の山号「鳥巣山」に注目してみました。寺院の山号はそもそも、その寺院の所在地を表すものです。<br><br>比叡山延暦寺、高野山金剛峰寺、成田山新勝寺というようにお寺の発祥地・所在地にちなんだ名前がつけられています。<br><br>現在の田原を地図で見る限り、江島城があった城山に名前はありません。（地元だけの呼称はあるのかも・・・）江島氏が移住する前から存在したと思われる真言宗雲山寺の山号は五角山です。どうやら江島城があった山の名は鳥巣山ではなかったようです。<br><br>そこで、日本姓氏語源事典で「鳥巣」という地名を調べてみますと。<br><br>トリス 【鳥巣】5 日本姓氏語源辞典　より一部転載<br><a href="https://name-power.net/fn/%E9%B3%A5%E5%B7%A3.html">https://name-power.net/fn/%E9%B3%A5%E5%B7%A3.html</a><br><br>①福岡県久留米市北野町鳥巣発祥。江戸時代から記録のある地名。地名はトリノスとも発音した。<br><font color="blue">②佐賀県唐津市浜玉町鳥巣発祥</font>。江戸時代から記録のある地名。同地に分布あり。<br>③鹿児島県伊佐市大口鳥巣発祥。同地に江戸時代に門割制度の鳥巣門があった。<br>④鹿児島県鹿屋市串良町有里鳥之巣（トリノス）発祥。同地に江戸時代に門割制度の鳥之巣門があった。<br><br>とあります。<br><br>鹿児島は江島姓を名乗る一族とはあまり関連性が無いので除外し、福岡と佐賀に注目し、現地の歴史等を調べてみました。<br><br>すると唐津市玉町鳥巣の歴史は意外に古く、平家の落人「鳥巣氏」が住み着いたとあり、江戸期の記録では鳥巣山村と呼ばれていた事が分りました。鳥巣は背振山系の山奥に位置しています。平清盛の帰依した宗派は天台宗であり、鳥巣氏と天台宗との繋がりはありそうです。また久留米市北野町の鳥巣の名前の由来、歴史は不明です。<br><br>次に家老の河内九郎左衛門重家の名前にも出自を表すヒントがありました。<br>それは姓の「河内」です。九郎左衛門は現在の鳥栖市河内町（肥前国基肄郡河内村）出身の地侍であったかもしれません。<br><br>以上の事から、江島和泉守はもう一つの江島村、肥前国養父郡江島村（現：鳥栖市江島町）の肥前江島氏ではなかったのかと思えます。<br><br>三潴江島村の江島宗家は、江島村と高良山との鎌倉以来の関係から、宗門は天台宗であったろうと過去記事にも書きました。肥前と肥前江島村は対岸に大善寺が控えており、天台宗の影響力を強く受けた地域であったでしょう。<br><br>●鳥栖＝鳥巣<br><br>さらに鳥栖市の<font color="blue">「鳥栖」</font>の文字は、古代には<font color="blue">「鳥巣」</font>と書かれ、江島村も河内村も、鳥巣と言う地名に大いに関りがあるのです。向林寺山号、<font color="blue">「鳥巣山」</font>は「とりす」や「とりのす」ではなく<font color="blue">「とすざん」</font>と発音したのではないでしょうか。<br><br>和泉守は他国からの新参者として、小国郷の国衆へ謙虚な配慮を行いながらも、自分の寺の山号に、一族のアイデンティティを明確に主張していたと思えるのです。<br><br><br>●和泉守を田原に遣わした者？<br><br>では江島和泉守の一族を肥後小国郷に遣わし、矢形尾の城を築城（改築かも）させた者は誰なのか、そして和泉守の託された使命とは何だったのでしょうか。<br><br>和泉守が田原に入部するにあたり、周囲の国衆、満願寺（阿蘇流北条氏の後裔勢力）、そして阿蘇氏さえも、何の抵抗もすることなしに平和裏に受け入れています。さらに小競り合いも無く半世紀以上も江島氏は在城し続けます。これには小国の支配者、阿蘇氏さえも文句をつける事が出来ない強大な権力の後押しが和泉守にあったからに違いありません。<br><br>応永期の肥前、肥後、いや九州全体に力を及ぼす事の出来る存在とは何でしょうか。もうお分かりだと思いますが、それは九州全域における軍事指揮権と室町幕府（将軍）の権威を兼ね備えた「九州探題」に他なりません。<br><br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/9c/61/j/o0204030015631945420.jpg" border="0"><br>今川伊予守貞世　　富士市立美術館蔵<br><br><br>●応永期における九州探題の動向<br><br>和泉守が田原に進出した応永年間(1394—1428)の最初の2年は今川貞世（了俊）が九州平定後も九州探題を務めています。九州の有力氏族を討ち従えた今川貞世の強大な力を恐れた室町幕府によって、その任を解かれ失脚するのが応永2年（1395）です。後任は渋川満頼で、本拠を博多に置き豊前、肥前、肥後の守護職を兼任しています。<br><br>今川貞世の九州探題の弱点はその経済基盤の弱さにありました。探題直轄の領地が少ない為、寺社等の所有する荘園の年貢を半分、配下の武将に預け置く、「半済」を行って軍費に充てました。<br><br>新たに探題として赴任して来た渋川氏は、軍資金確保の手段として、探題主導による一族や被官を含めた活発な朝鮮との交易を行います。また博多の姪浜から、背後の背振山地の軍事拠点や筑前と肥前を結ぶ川と街道の流通路を勢力下に治めました。さらに肥前の基肄郡(きい)、養父郡(やぶ)、三根郡(みね)、神崎郡など肥前東部に進出し、国人領主を被官として、肥前の直轄地化と勢力拡大を図ってゆきます。<br><br>九州探題に関する研究は今川了俊に関しては良く行われていますが、残念な事に渋川氏に関してはあまり行われていません。<br><br>九州探題歴代研究に努められた、「川添昭二」氏は「渋川氏は今川了俊に比べ弱体で少弐充貞に敗れた事をきっかけとしてその勢力を急速に失い、東肥前の一勢力となった」と述べられていますが、何時しか川添説が固定化し、渋川氏の衰退は代々の渋川氏当主が無能であったからと言う説がネットでは蔓延しています。<br><br>しかし実際はそうではなかったようです。渋川氏は様々な積極策を展開した事。渋川氏の勢力が衰えた理由は、くじ将軍こと6代将軍、足利義教（よしのり）が、渋川氏が強大な力を持ち、今川了俊の再来となる事を恐れて、探題の権限を徐々に削いで行った事が真相のようです。<br><br>今回の記事を書くにあたっては、「黒島　敏」氏の論文「九州探題考」を参考とさせて頂きました。この論文はネットで公開されています。ともすれば評価が低い渋川氏ですが、その実像と当時の肥前の情勢の一端を知る上でも、是非ご一読をお薦めします。<br><br>★「九州探題考」黒嶋　敏<br><a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/116/3/116_KJ00004785812/_article/-char/ja/">https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/116/3/116_KJ00004785812/_article/-char/ja/</a><br><br>九州探題と江島和泉守の接点が少し明らかになってきました。「違い鷹ノ羽の謎」次回は最終回です。<br><br><br><br><br>★違い鷹ノ羽の謎<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/fa/93/p/o0200020015631945424.png" border="0"><br><br>その１　何故、筑後江島氏が家紋に違い鷹ノ羽を用いたのか？<br>その２　何故、福岡には違い鷹ノ羽を家紋にした江島家がないのか？<br>その３　何故、違い鷹ノ羽を家紋とする江島家が九州５県に拡がったか？<br><br><br><br>Copyright (C) 2018 ejima-yakata  All Rights Reserved
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<pubDate>Wed, 26 Sep 2018 03:46:31 +0900</pubDate>
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<title>Vol 63　違い鷹ノ羽の謎 5 　江島和泉守は武力侵攻によって田原領主となったのか？</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/49/6f/j/o0429064015631945402.jpg" border="0"><br><br><br>●古城史考説の誤り<br><br>今まで数回にわたって、小国郷史の記事全文と田原とその周辺の様子等を紹介してきましたが、今回からいよいよ真相の検証と違い鷹の羽の謎の解明に入ってゆきたいと思います。<br><br><br>小国郷史に書かれた田原の江島城こと矢形尾の城について「古城史考」と杖立竹原家に伝わる文書からその概要を紹介してきました。<br><br>古城史考および小国郷史では「応永年間、日田地頭日田詮永が阿蘇氏の日田侵入を防ぐ第一線として、江島和泉守に築かしめたもの」という論を述べています。<br>これらの史料を読み込み、傍証となる他の史料をあたる内に、一次史料となった古城史考の内容が史実とは違っていることが分かってきました。<br><br><br>その根拠となる事柄を列挙しますと<br><br>★江島和泉守が田原に入城したとされる応永年間には、日田詮永は死去から既に数十年が経過しており時代が合わない。<br><br>★田原の城は豊後からの侵入を防ぐには有用と思われるが、肥後からの侵入を防ぐためには位置的、地形的に戦略的な価値が認められない。肥後勢をいたずらに刺激するだけで、日田氏が田原に進出、築城するメリットが無い。<br><br>★江島氏が日田氏の配下であった根拠がない。（日田財津氏の庶家が江島姓を名乗るのは戦国時代後期）<br>　<br>★田原を含む下城地区は国境沿いの無人の緩衝地帯ではなく、古くから小国郷の国人領主が多数居住していた。また小国郷の国衆は阿蘇大宮司庶子家の支配下にあった。日田勢が進出すれば戦闘は必至である。<br><br>★江島和泉守は平和裏の内に田原に入城。半世紀以上の在城中に小競り合い無し。文明年間の頃に静かに田原を退去。<br><br>★応永年間は九州探題、今川了俊による九州平定や南北朝の統一が既に完了。菊池、阿蘇氏共に九州探題に降伏、帰順しており、探題配下の御家人日田氏と阿蘇氏の敵対関係は解消していた。<br><br>★阿蘇氏は惣領家と庶子家が対立していたが、訴訟で解決しようとしていた。九州探題は阿蘇大宮司庶子家（小国郷は庶子家の支配下）を支援していた。<br><br>以上の点から、応永期に日田氏勢力が肥後領田原に侵攻し築城を行う事は、新たな戦乱の火種を作る事であり、日田氏が臣従する足利将軍に弓引く行為となります。地理的に大友氏と阿蘇氏に挟まれながら、室町幕府の小番衆となる事によって独自の立ち位置を保持して来た日田氏が、「古城史考」が述べるような、軽率な軍事行動をとるとは到底考えられないのです。<br><br><br><br>●三寺院の考察<br><br>杖立文書を読むうちに、不可解な事実に気がつきました。それは田原という狭い地域に三つの寺院が存在していたという事実です。<br><br>一の寺は城主の居館の上に在る真言宗高野山末寺、五角山雲山寺専林院。<br>二の寺は「北原」の向いにある江島和泉守の寺、天台宗鳥巣山向林寺幸林院。<br>三の寺は宗派名が書かれてない北原の金角山円林寺法春院。<br><br>これら三つの寺の位置関係と他の史料を検証することによって、小国郷田原の当時の状況を伺い知る事が出来るのです。<br><br>第一の寺、「雲山寺」は真言宗という事から阿蘇流北条氏の菩提寺「満願寺」（真言宗）との関係が容易に想像できます。寺のある場所は城主の居館がある「上屋形野」の上です。城主が帰依する寺であればこそ、聖なるものとして自分の居館より高い場所に寺院を配置するのは当然の理です。<br><br>しかしながら和泉守が帰依する第二の寺「天台宗向林寺」は城山の麓の低地、「北原」の向いにありました。北原の向いとは、道などを挟んで北原に面していたという事です。<br>向林寺は和泉守が田原に在城してから建立されたと思われます。<br><br>第三の寺、円林寺は<font color="blue">金角山</font>という山号から、上屋形野の上に在ったという<font color="blue">五角山</font>雲山寺との名前の類似性において、同じ宗派、真言宗の寺と思われます。<br><br>文明九年(1477)の阿蘇大宮司宇治惟家発行の満願寺への安堵状によれば、時を遡る事約140年前から、円林寺のある「北原」は満願寺の所領でした。つまり円林寺も満願寺系の寺という事が証明出来ます。<br><br>寺名を考察しますと<br>　　雲がかかる山上にあるから雲山寺。<br>　　円林寺とは周囲を林に囲まれた寺。<br>　　その林に向かって建つのが和泉守の寺で向林寺。<br><br><br>円林寺は満願寺領、北原の寺という事が明白です。そこで円林寺を除いても、田原に二つの寺が併存したというのは不自然です。<br>和泉守が武力を背景に田原に侵攻して来たのであれば、館の上の寺の僧侶を排除して、天台の僧侶を迎えるか、寺を取り壊して新しい寺をその地に作ればよい訳です。<br><br>しかしながら、元々山上にあった雲山寺に遠慮して、自分の寺向林寺は低地に建て、北条氏の菩提寺満願寺に敬意を表して、自分の寺の正面を円林寺に向けていたのでしょう。和泉守の謙虚さと国衆への細やかな配慮が伺えるような気がします。<br><br><br>●平和裏に行われた田原の領主交代<br><br><a href="https://blog.goo.ne.jp/ejima-yakata/e/559c78ce80eee40bb225797aad5c445c">「Vol 61　江島城址と阿蘇流北条氏」</a>に現存する田原神社を紹介しました。<br>この神社が何時頃から存在するかは不明ですが、鳥居横の巨大な神木から推測すれば、かなり昔から存在したのではないでしょうか。<br><br>小国郷には北条氏が移ってくる以前から清和源氏を自称する「北里氏」がいました。北里氏は北条氏の移住によって勢力範囲を変えますが、和泉守の時代の下城は北里氏や阿蘇流北条氏等多くの氏族が入り混じって国衆を形成していました。<br><br>また姻戚関係によって、これらの国衆の調和が取られていたと考えられます。<br>そして田原神社は田原地区を領した一族の産土神社（氏神）として大切に守られてきた事でしょう。<br><br>江島氏が田原に定住した時から退去する間、小競り合いや争いも無かったというのは、話し合いの上で、領主の交代が成されたという証ではないでしょうか。<br><br>田原の領民や舘、城、寺等を前領主からそのまま受け継ぐ、今風に言えば「居抜き」という形で和泉守が新領主として田原に収まったのではないかと考えます。また在城にあたっては、阿蘇氏や満願寺との間に、ある約定が取り交わされていたのではないかとも推察しています。<br>そうであれば二つの寺院が狭い領内に存在する理由や、国衆や阿蘇氏の抵抗が無かった事が説明できます。<br><br><br>●「下城田原神社」と「満願寺・田原神社」二つの神社の関係<br><br>そして、領主交代を示している証拠が<a href="https://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-12320499546.html">「ひぼろぎ逍遥」さんの田原神社の記事中にある熊本県神社誌の画像</a>です。画像からは、田原神社、小国町満願寺7397（現在は南小国町満願寺）という文字が確認できます。<br><br>満願寺には田原（たばる）という地名は無いようなので、下城田原の田原神社が元社で満願寺の田原神社は分社ではないかと考えられます。<br>（勿論、田原の田原神社の成立時期が応永期以前であり、満願寺の田原神社の創建が応永期である事が証明されなければなりませんが・・・）<br><br>満願寺の田原神社の祭神は菅原道真公ですが、下城の田原神社も社殿の飾りの牛の彫り物がある事から、同じく菅公を祀る神社であると考えられます。<br>【牛は天神様（菅公）のお使い（神使）と考えられている】<br><br>田原の先住領主が領地を江島和泉守に領地を明け渡し、満願寺領内に移住した際、寺はともあれ、氏神だけは移住先の神社でという訳にはいかず、分社して新領地に祀ったのではないかと私は考えています。<br><br><br>●【参考記事】<br>　 下城田原神社社殿の「丸に篠笹紋」について<br><br>本題とは直接関係有ありませんが、「ひぼろぎ逍遥」さんの記事にある、下城田原神社の社殿の「丸に篠笹」紋については、小国郷の国人領主、北里氏由来の紋だと私は考えます。<br><br>北里氏は清和源氏二代「源満仲」の次男、「源頼親」を始祖と称する氏族です。鎌倉期に頼親の子孫が小国郷北里に定住したとされています。九州は源氏の流れを組む氏族は大変少ないので、まず間違いなく北里氏由来だと考えて良いでしょう。<br><br>註※北条氏は桓武平氏高望流の平直方を始祖とし、伊豆国田方郡北条を拠点とした在地豪族。従って阿蘇流北条氏の出自は平氏。<br><br>北里氏は代々阿蘇氏に仕え、阿蘇氏滅亡の後は、加藤清正に帰農を勧められ、江戸期は小国郷の惣庄屋や庄屋を務め明治に至ります。現在の社殿に建て替えられるとき、社殿を寄進した村人が北里氏の後裔であったから、あるいは創建時から北里氏に縁ある神社ではなかったかと推測します。<br><br>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br><br><br>では、江島和泉守を小国に遣わしたのは誰なのか、そして江島和泉守は筑後江島氏なのか？<br><br>続きは次回で。<br><br><br>★違い鷹ノ羽の謎<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/0b/8c/p/o0200020015631945405.png" border="0"><br><br>その１　何故、筑後江島氏が家紋に違い鷹ノ羽を用いたのか？<br>その２　何故、福岡には違い鷹ノ羽を家紋にした江島家がないのか？<br>その３　何故、違い鷹ノ羽を家紋とする江島家が九州５県に拡がったか？<br><br><br>Copyright (C) 2018 ejima-yakata  All Rights Reserved<br>
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<link>https://ameblo.jp/ejimayakata/entry-12915675300.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Sep 2018 18:18:01 +0900</pubDate>
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<title>Vol 62　違い鷹ノ羽の謎 4   「屋形尾の城と杖立竹原文書に見る江島氏」</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/1a/80/j/o0330048615631945384.jpg" border="0"><br><br><br>●屋形尾とは鷹の尾羽の模様<br><br>「古城考」によれば、田原の江島城は「屋形尾の城」と呼ばれていたようです。「屋形尾」は「矢形尾」とも書きます。この名は鷹の尾羽の先にある白い斑の三角の模様の呼び名です。模様が舘の切妻屋根や矢の鏃の形に似ている事からついた名称です。<br><br>鷹や鷲の尾羽は丈夫でまっすぐな為、矢の矢羽にするには最高の品です。また1羽から12～14枚しか取れない為、大変貴重な物でした。武家の間では尾羽は高級な贈答品として珍重されました。鷹の羽が武家に好まれる理由の一端が分かるような気がします。<br><br>田原の江島城に何故この名が付いたのか。グーグルマップでご覧になればわかるように城がある山はなだらかな丘陵状をなしています。ストリートビューで確認しても、川沿いの日田街道からは手前の山が邪魔をして、この山を見ることが出来ません。<br><br>下から見えないという事は、山上からも街道の様子が見えないという事です。現在は植林の結果、木々の高さは統一され、さほど高くはありませんが、室町末期の頃は大木が生い茂り、視界は一層良くなかったと思われます。<br><br>矢形尾の城の主たる任務は、日田街道の往来の監視と近接する豊後との国境を越境する者の監視にあったのではないかと考えています。<br><br>ですから、城から下の様子が良く見えるように、通常より一段高い城柵で囲まれており、城の中心にはさらに高い望楼が設けられていたと思います。そしてその望楼からは眼下の日田街道だけでなく、主要街道が交差する宮原（現小国町の中心）辺りまでも見通せたのではないでしょうか。<br><br>周囲の地域から城を遠望すると、城柵を底辺とし望楼を頂点する三角形のシルエットが、笠を伏せたような濃緑の山肌の頂上に映えて、鷹の尾羽の模様のよう見えたのではと想像します。<br><br>鷹羽に因んだ「矢形尾」という名は、肥後の山城に真に相応しい名だとお思いになりませんか。<br><br><br>●杖立竹原氏蔵文書から見えるもの<br><br>小国郷史（1960）は杖立竹原氏蔵文書について、次のように説明しています。<br>「比文献は高村某から竹原氏の数代前の人に借金の質にいれたものという。古城考と年代もあっている」というだけで、この文書を誰が、何時頃、何のために書いたかの説明がありません。<br><br>この文書が書かれた時代は江戸の初期頃ではないかと推察します。理由は和泉守の知行を「石高表示」としている事。また家老と家臣の俸禄について「人扶持」を使っていることです。石高表示になるのは文禄、慶長期の太閤検地以降の事です。<br><br>この文書の内容から見ますと、文書が書かれた時には三つのお寺と江島一党の墓がまだ存在していたようです。<br><br>文書の筆者は寺に残る過去帳もしくは記録文書、墓碑銘等を参考にして書いたものだと思われます。しかも欠字や抜字がある事、文章的にやや雑な事などから、江戸期初頭、領主の命によって、各村の由緒来歴等を提出する際に作成した書類の下書きまたは資料の一部ではないかと推察しています。<br><br><br>では文書を具体的に見てみましょう。<br><br>一．文明二年(1470)七月九日、江島和泉守の●領御儀家中十二人御知行五百石、墓前は鹿の向塚なり。<br>一．河内九郎左衛門重家　右御家老四人扶持なり、下形野に墓あり上に在り。　<br>一．宇田五郎左衛門兼水　二人扶持、文明十四年(1482)八月十五日五十二才、下屋形野に墓あり上に在り。<br>一．兼水女房、下屋形野に墓あり上に在り。<br>一．真言宗高野山末寺、五角山雲山寺専林院、上屋形の上にあり。<br>一．天台宗鳥巣山向林寺幸林院、秋原向に在り、和泉守の寺なり。<br>一．金角山円林寺法春院、秋原上にあり。<br><br>●命日、石高、家臣数<br><br>年月日は江島和泉守が亡くなった年月日に間違いないと思われます。知行地は500石とありますから、元の資料には50町と書いてあったのでしょうか。そうであれば田原以外にもう1～2村（集落）の知行地があったのかもしれません。<br><br>「●領御儀家中十二人御知行五百石」は●は欠字か判読不明の様です。一体何の文字が書かれていたのでしょうか。気になるところです。<br><br>家中十二人とは侍身分の者の家臣数と思われます。家老の河内九郎左衛門は四人扶持とあります。江戸時代なら一人扶持は約一石に相当しますが家老身分で四石というもおかしな話ですので、４人の家来（陪臣）がいたと解釈した方が良いのかも。同様に宇田五郎左衛門には二人の家来がいたという事になります。<br><br>50町の知行から推測すると和泉守の親族、家臣、郎党合わせて戦闘員はおよそ30〰40人、戦時の領民からの徴兵を合わせて兵力100人程度の小規模な城塞ではなかったかと思います。<br><br>江島氏と家臣達は半世紀以上の年月を小国郷田原で過ごした訳ですから、田原を去る頃は、一族のほとんどがこの地で誕生した第二世代であり、第三世代も大きく成長していたことでしょう。<br><br>和泉守が文明二年に没したとすれば移住時期を考えれば相当な高齢であったと思われます。ひょっとすればこの墓に埋葬された人物は二代目和泉守であった可能性も考えられます。<br><br>宇田五郎左衛門は年齢を考えると田原で誕生した第二世代か、中途採用の家臣でしょう。また彼の没年から見ると、江島氏の一党は文明14年迄は、確実に田原に在住していたという証明になります。<br><br><br>●屋敷、寺、墓所の配置位置<br><br>現在グーグルマップである程度の配置が確認できます。山頂部に城、山の東面斜面の中腹上部辺り（上屋形野）に城主一族の住む屋敷が、そして屋敷の上の辺りに真言宗の寺、雲山寺があったようです。和泉守の墓所、鹿の向塚は特定出来ませんが、おそらく上屋形の上の場所に在ったと思われます。<br><br>中世の豪族の居館配置は傾斜地の場合、上部に領主の館、その下部に階級順に上から下へと建物が続くのが定番です。<br><br>家老の九郎左衛門、と家臣の五郎左衛門とその妻の墓は、士分の家臣達の家屋がある、下屋形野の上の場所にあったようです。<br><br><br>次回に続く<br><br><br>★違い鷹ノ羽の謎<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/57/c9/p/o0200020015631945387.png" border="0"><br><br>その１　何故、筑後江島氏が家紋に違い鷹ノ羽を用いたのか？<br>その２　何故、福岡には違い鷹ノ羽を家紋にした江島家がないのか？<br>その３　何故、違い鷹ノ羽を家紋とする江島家が九州５県に拡がったか？<br><br>Copyright (C) 2018 ejima-yakata  All Rights Reserved
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<pubDate>Sat, 22 Sep 2018 14:13:20 +0900</pubDate>
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<title>Vol 61　違い鷹ノ羽の謎 3　「江島城址と阿蘇流北条氏」</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/3b/6d/j/o0640041215631945364.jpg" border="0"><br><br><br>●小國・江島城の地政学的位置<br><br>肥後小國郷の江島城、別名屋形尾の城とはどのような城だったのでしょうか。<br>この城跡、や江島氏の館跡は現在でも見ることが出来ます。まずはグーグルマップを開いて、住所欄に熊本県阿蘇郡小国町下城田原と打ち込んでみてください。<br><br>★グーグルマップ<br><a href="https://www.google.co.jp/maps/">https://www.google.co.jp/maps/<br></a><br><br>地図には杖立川の鯉のぼりで有名な杖立温泉と田原神社の文字が出てくると思います。<br>この田原神社のある集落が江島和泉守の居城があった田原と呼ばれる地域です。<br>地図の縮尺を大きくして、その位置関係を見てください。田原は豊後の国境に近く接していることがお分かりだと思います<br><br>日田街道を北に向かい、杖立温泉を左に曲がって、谷沿いに212号線を進めば日田市に出ます。日田市を左に曲がり210号線を少し進めば、そこはもう筑後です。うきは市を抜けて久留米市へと道は繋がっています。<br><br>一方日田街道を南下すると観光名所の「池の鶴の大桜」「下城の大イチョウ」と続き、小国町の市街地に出ます。<br>そのまま212号線を直進すると阿蘇市へと繋がりますが、小国町から442号線で西に向かうと、筑後の八女市へと繋がります。<br><br>日田詮永が戦死したという筑後山崎の戦いとは筑後山崎城（現：八女市橘町山崎）の戦いであったろうと推察します。また山崎城は江島氏の同族とされる上妻氏の居城でした。<br><br>阿蘇氏、菊池氏の南朝方はしばしば、この二つのルートを経由して、筑後や筑前に侵攻してきました。<br><br>小国は肥後から筑前、筑後、豊前、豊後へと進出するにあたって、地政学的に大変重要な位置にあることが良くお分かりいただけると思います。<br><br><br>●江島城址と館址<br><br>では次に地図を田原に戻って縮尺を小さくしてください。田原神社の左下に「田原」という地名が現れます。そして田原の左下に「秋原」という地名があります。秋原は後の考察にも度々出てくる重要な地名なので覚えておいて下さい。<br><br>次に画面を地図表記から航空写真表記に切り替えます。現在の田原集落とその周囲の様子が良く分かると思います。田原神社を中心にして、航空写真を拡大すると神社の左に、山の中腹を開いた畑が確認できます。畑の上段の左には森の中に道が通り、山の頂上手前付近と思われる辺りに地面が露出して見える部分が数か所あります。<br><br>現地を訪れたわけではないので、あくまで写真を見ての推測です。頂上手前付近の露出地が江島城址の一部かなと思います。実際の頂上はそこから左斜め後ろが山頂のようです。山頂付近は意外と平らな部分が広がっています。山を覆う木々は植林されたような感じを受けます。昔は相当に高い木々が生い茂って、山は深い森に包まれていた事でしょう。<br><br>山の東側斜面に、現在の集落付近から中腹に開けた畑の上段部分が城主と一族の館跡の「上屋形野」。畑の中段から下にかけてが、家臣や郎党の屋敷があった「下屋形野」であろうと推察します。田原の海抜は現在人家のある集落部分の低地で凡そ550m、山頂付近で700mほどです。<br><br>田原の地名に関して、小國郷下城付近の地名には宮原、北原、前原とあるように、谷間に開けた平地を原と呼び、田原は田がある開けた平らな場所という、地形由来の地名であり、人名由来の地名では無いようです。<br><br><br>●田原神社<br><br>田原集落を通る道から見える風景は「ストリートビュー」で見ることが出来ます。田原神社の参道にある巨大なご神木も根元から上部まで観察することが出来ます。その幹の太さと空を覆うばかりの枝の張り具合には圧倒されます。おそらく樹齢は500年を超えているかもしれません。<br><br>グーグルマップの住所欄に熊本県阿蘇郡小国町下城田原神社と入力します。サイドパネルに田原神社の写真が出ますので、写真をクリックします。神社の写真が７カットありますので、詳しくご覧ください。<br><br>苔むした参道と石の鳥居。拝殿と社殿は比較的新しく古びた感じはありませんが、風格と長い歴史を感じさせます。地域の方々が先祖代々大切に守ってこられたようで、神社に対する篤い崇敬の念に感動を覚えます。<br><br>この神社に関する記事が「ひぼろぎ逍遥」というサイトで紹介されており、「熊本県神社誌」の画像は大変参考になりました。<br><br>★ひぼろぎ逍遥<br>「田原神社とは何でしょうか？”との問い合わせについて　熊本県小国町田原の田原神社」<br><a href="https://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-12320499546.html">https://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-12320499546.html<br><br></a><br><br>●小國郷と北条氏（阿蘇流北条氏）<br><br>さて本題に入る前に、江島和泉守が田原に江島城を築城したという応永年間(1394—1428)の小国郷下城の情勢ははどのようであったかを考えてみたいと思います。<br>鎌倉期、肥後小國郷は北条氏の支配下にありました。これが阿蘇（阿曽）を姓とした阿蘇流北条氏です。<br>北条政権は小國郷を九州統治の戦略的な重要地点として一族を定住させたのです。<br><br>★北条氏 (阿蘇流)　ウィキペディアより転載<br><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F_(%E9%98%BF%E8%98%87%E6%B5%81)">https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F_(%E9%98%BF%E8%98%87%E6%B5%81)<br></a><br>阿蘇流北条氏（あそりゅうほうじょうし）は、鎌倉時代の北条氏の一門。鎌倉幕府4代執権・北条経時、5代執権・北条時頼の同母弟である北条時定（北条為時）を祖とする。<br><br>北条氏の祖である北条時政以来、代々継承された肥後国阿蘇社領の預所・地頭両職を時定が継承し、苗字を阿蘇と呼ばれる。元寇にあたり、肥前国の守護となった時定が現地に下向して以降、九州に土着した。時定は阿蘇家と同じく得宗家傍流で鎮西に下向した桜田家で桜田時厳の子の定宗を養子に迎えて家督を譲り、阿蘇家は随時、治時と継承された。<br><br>歴代は鎮西に在住していたが、3代随時は鎮西探題就任前の短期間に鎌倉で二番引付頭人を務めており、また4代治時は得宗家の総領である北条高時の猶子となるなど、得宗家との結びつきがつよく、阿蘇家は得宗家による鎮西支配強化の役割を担っていたと見られる。<br><br>元弘の乱では当主北条治時が楠木正成の本拠地千早城を攻めたが、鎌倉陥落の報を聞き、般若寺で出家して降伏するが京都阿弥陀寺で処刑されて滅亡した。 ただし戦国期伊勢北畠氏の重臣に阿蘇流北条氏の子孫を名乗るものが複数存在する。<br><br>祖の時定が熊本県阿蘇郡南小国町(大字満願寺)に建立した満願寺には、時定・定宗・随時三代のものと伝えられる五輪塔と、時定・定宗の肖像画がある。<br><br>（転載終了）<br><br>阿蘇流北条氏は４代治時が鎌倉幕府滅亡時、建武元年（1334）に京都で処刑され滅びます。しかし子孫が出家し満願寺で先祖代々の菩提を弔い、満願寺住持職は代々子孫が務めたようです。<br><br>★戦国武将列伝Ω<br>「満願寺と阿蘇流北条氏～元寇や鎌倉滅亡にも関与した阿蘇の北条一族」<br><a href="https://senjp.com/mangan/">https://senjp.com/mangan/<br></a><br><br>●北条氏と満願寺と下城<br><br>小国郷史p171に掲載されている文明九年(1477)の阿蘇大宮司宇治惟家発行の満願寺への安堵状によれば、興国二年（南朝方の元号1341）に阿蘇大宮司惟時が満願寺に送った公避状の遺誡を守って所領、所職の安堵を約束したものです。その文面には下城の所領の一つに前述の「北原」の地名が明記されています。文明九年と言えば田原の江島氏の墓誌等から推定して、まさに江島氏が江島城に在城していた時期になります。<br><br>また、「寺僧が勤行を怠った場合はその職を取り上げる。奉行や被官に努めの落ち度があればその科は勿論である」とか書かれていることから、阿蘇大宮寺家と満願寺の力関係と満願寺は武装した家臣団を抱えていた事が分ります。<br><br>「ひぼろぎ逍遥」の記事にある熊本県内神社誌によれば小国町下城の下城神社の主祭神は北条貞宗命とあります。これらの情報を総合すると江島和泉守が田原に入所した応永期の数十年前から、下城地区の知行主は満願寺および、北条氏に繋がる者達であった事が伺えます。<br><br>次回に続く<br><br><br>★違い鷹ノ羽の謎<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/fd/c3/p/o0200020015631945367.png" border="0"><br><br>その１　何故、筑後江島氏が家紋に違い鷹ノ羽を用いたのか？<br>その２　何故、福岡には違い鷹ノ羽を家紋にした江島家がないのか？<br>その３　何故、違い鷹ノ羽を家紋とする江島家が九州５県に拡がったか？<br><br>Copyright (C) 2018 ejima-yakata  All Rights Reserved
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<pubDate>Wed, 19 Sep 2018 19:37:35 +0900</pubDate>
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<title>Vol 60　違い鷹ノ羽の謎 2　「小國・江島城 (屋形尾の城）」</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/51/b4/j/o0429064015631945355.jpg" border="0"><br>鳶巣山暁月<br><br><br>江島和泉守の居城、江島城の記事は1960年発刊の「小国郷史」禿迷盧（かむろめいろ）著　のものです。著者の禿氏はその珍しい名前から、小国の北里氏の分流のご子孫と推察しますが、地元出身の郷土史研究家ではないかと思われます。<br><br>その小国郷史の文中二か所に江島和泉守の記事が紹介されています。また江島氏の墳墓に関する古文書も現存しているようです。<br><br><br>「小国郷史」より転載<br><br>★【資料１】p170―p171<br><br>文明二年(1470)「古城史考」によると、田原(たばる)城は日田地頭、日田詮永(のりなが)が<font color="blue">江島和泉守を</font>遣わして、阿蘇氏にそなえて応永年間(1394—1428)に築城したもので、文明（1469―1487）の頃迄在城した。とあるから約五、六十年在城したであろう。<br><br>田原城は下城田原の北方丘陵で現在も上屋形、下屋形、城の迫（せまり）等の地名が残っている。当時阿蘇氏は惣領庶子家の二派に分れて争っていた時代で、むしろ日田氏がここまで進出したとみるべきであろう。文明年間に<font color="blue">江島氏</font>は引き上げたが、その文明十七年阿蘇氏の内紛が解消している事から考えても、阿蘇氏統一を見て引き上げたものと解すべきである。<br><br>日田地頭日田詮永が阿蘇氏の日田侵入を防ぐ第一線として築かしめたものというが、当時阿蘇氏は惣領庶子二派に分れて争っていた時代で、むしろ日田氏がここまで進出したとみるべきであろう。文明年間に江島氏は引き上げたが、その文明十七年阿蘇氏の内紛が解消している事から考えても、阿蘇氏統一を見て引き上げたものと解すべきである。<br><br><br>★【資料２】<br><br>【杖立竹原氏文書】<br><br>一．文明二年(1470)七月九日、江島和泉守の●領御儀家中十二人御知行五百石、墓前は鹿の向塚なり。<br><br>一．<font color="blue">河内九郎左衛門重家</font>　右御家老四人扶持なり、下形野に墓あり上に在り。　<br><br>一．宇田五郎左衛門兼水　二人扶持、文明十四年(1482)八月十五日五十二才、下屋形野に墓あり上に在り。<br><br>一．兼水女房、下屋形野に墓あり上に在り。<br><br>一．真言宗高野山末寺、五角山雲山寺専林院、上屋形の上にあり。<br><br>一．天台宗<font color="blue">鳥巣山</font>向林寺幸林院、秋原向に在り、和泉守の寺なり。<br><br>一．金角山円林寺法春院、秋原上にあり。<br><br>※管理人註：下形野→下屋形野<br>（この文書の作成時期は江戸時代と思われる）<br><br><br>右文献より見れば城の付近、上屋敷、下屋敷に墓と寺とあったに違いないが、今は畑となり、五輪塔の石が畑の岸に、そこそこあったと宮崎老人は話された。多分開墾した時出土したものを墓石と知らずに捨て置いたものと見ゆる。<br><br>この文献は高村某から竹原氏の数台前の人に借金の質に入れたものという。古城考と年代もあっている。<br><br><br>★【資料３】　p216<br><br>「小国の城址」　　<br><br><font color="blue">江島城</font>は下城の田原にある。今も上屋形、下屋形の地名が残っている。屋形は館で城主の居住邸のあった処である。日田氏が阿蘇氏の侵入を防衛する第一線として、<font color="blue">江島和泉守</font>に構築させて、応永年間から文明年間まで居たという。<br><br>一名<font color="blue">屋形尾の城</font>ともいう。尚時阿蘇氏は惣領庶子家の二派に分れて争っていた時代ゆえ、むしろ日田氏が小国に進出していたとみるべきであろう。文明年間の末（文明17）には内紛も解消したので、江島氏も引き揚げたのか、別に阿蘇氏支配下の小国勢と戦った文献も伝説もない。<font color="blue">江島氏一統の墓地等の文献</font>は既に前記した。<br><br>※屋形尾は矢形尾とも表記<br><br>（転載終了）<br><br><br>●校正ミスについて<br><br>まずは資料１をご覧になって、内容に矛盾する部分がある事にお気づきになりましたか。<br><br>それは文頭の「文明二年(1470)「古城史考」によると、田原城は日田地頭、日田詮永が江島和泉守を遣わして、阿蘇氏にそなえて応永年間(1394—1428)に築城したもので、文明（1469―1487）の頃迄在城した」の部分です。<br><br>文章をそのまま受け取ると日田詮永が江島和泉守を遣わしたのが文明二年と取れます。しかし阿蘇氏に備えて築城したのが応永年間ですから、時代が合いません。資料２，３と突き合わせてみると、文明二年は資料２の和泉守の没年と同じなので、多分校正ミスか一次資料の誤記であろうと思われます。<br><br><br>●一次史料、「古城史考」の検証<br><br>この記事の元記事となった一次史料「古城史考」は、他の文中では「古城考」とも書かれており、著者名など詳細情報が無い為、正式な書名は特定出来ませんでした。<br><br>そこで、熊本藩士、森本一端による「古城考３巻」（肥後文献叢書. 第1巻）。および　宇土藩士、辛島道珠著の「肥州古城主考」、あるいは「肥州古城主考」を増補改訂した森本一端の「新篇肥後古城主考」を探してみました。<br><br>森本一端による「古城考」「新篇肥後古城主考」はデジタル化されていましたが、小国郷田原の江島城の記事は見当たりませんでした。<br><br>また辛島道珠著の「肥州古城主考」は肥後文献叢書の多くががネット閲覧不可なので現在のところ確認できません。<br><br>ともあれ、禿氏が記事の参考にした一次資料の「古城史考」には「日田詮永が江島和泉守を遣わした」とあるわけですから、その検証から始める事にしました。<br><br><br>●日田詮永の没年<br><br>まずは日田詮永に関して、詮永は九州探題・今川了俊の北朝方につき、南朝方の菊池、阿蘇連合軍と戦って、応安七年（1374）（※没年出典：豊後国志）水島の変に出陣し、正確にはその後、南朝方の激烈な追撃にあって同年、筑後国山崎城の戦いで討死しています。<br><br><br>小国郷史の記事には「応永年間(1394—1428)に築城したもので」とありますから、和泉守が小国に遣わされたのは詮永の死後最短20年から最長54年の後という事になり、和泉守に命じた人物は日田詮永では無いという事実が明らかになりました。<br><br><br>●江島和泉守の出自は何処<br><br>第二は江島和泉守の出自が筑後江島氏、豊前（栗田流）江島氏、財津流江島氏のいずれかという検証です。<br><br>「古城史考」が書かれたのは江戸期に入ってからであり、既に財津流江島氏は細川家家臣として阿蘇に定着していました。当然阿蘇の江島氏は財津氏の分流であり、日田氏の一族という認識と、江島氏は日田で分流したとの固定観念があったのではないでしょうか。<br><br><a href="https://blog.goo.ne.jp/ejima-yakata/e/3830db08a6e79c8f381eab4bb8802760">Vol 53 　肥後・財津流江島氏とそのルーツ</a>に書きましたように、財津氏が豊前に居を移し、分流の一家が江島姓を名乗るのは、日田詮永の死後200年以上、後の事になります。<br>したがって、江島和泉守は日田氏の一族や家臣ではないという事になります。<br><br>日田詮永の時代は、宇佐の（栗田流）江島氏は江島姓を名乗り始めたばかりの頃ですが、宇佐の一国人領主であり、当時の諸状況を考慮しても日田氏に仕えた可能性はほとんど無いと考えられます。但し、その確証となる資料はありません。<br><br>その代わりと言っては何ですが、江島和泉守は筑後江島氏か？築城の命令をしたものは誰なのか？を、傍証を交えた考察で明らかにして行きたいと思います。<br><br>続きは次回で。<br><br><br>★違い鷹ノ羽の謎<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/a0/ca/p/o0200020015631945359.png" border="0"><br><br>その１　何故、筑後江島氏が家紋に違い鷹ノ羽を用いたのか？<br>その２　何故、福岡には違い鷹ノ羽を家紋にした江島家がないのか？<br>その３　何故、違い鷹ノ羽を家紋とする江島家が九州５県に拡がったか？<br><br><br>Copyright (C) 2018 ejima-yakata  All Rights Reserved
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<pubDate>Mon, 17 Sep 2018 15:49:55 +0900</pubDate>
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<title>Vol 59　違い鷹ノ羽の謎 1　 家紋分布に見る江島氏</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/f9/98/j/o0428064015631945266.jpg" border="0"><br><br><br><a href="https://blog.goo.ne.jp/ejima-yakata/e/cb1eab38f7402644d8885ffd8ade9cb2">「Vol 33 九州各県・江島さんの氏族と家紋」</a>では九州各県の江島さんの家紋をご紹介しました。　筑後江島氏（筑後高木氏族、筑後藤原氏族）をルーツとする方々が、何と鹿児島を除く６県にいらっしゃる事が分り、大いに驚きました。明治以降、人々の移動が自由になった事も要因の一つと考えられますが、その辺りの事情を加味しても、明治以前の時代に私達の先祖が様々な事情で九州全体に広がって行った過程を想像するだけでも、実に興味深いものがあります。<br><br><br>●福岡　江島家（筑後高木氏族）<br>　<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/a6/80/p/o0200020015631945267.png" border="0"><br>少弐氏定紋　　　隅立四ツ目<br><br><br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/85/ce/p/o0200020015631945272.png" border="0"><br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/6d/6d/p/o0200020015631945276.png" border="0"><br>江島家（筑後高木氏族）　　　丸に四ツ目<br><br>筑後江島氏も最初の家紋は肥前高木氏族の出自を表す「日足紋」であったでしょう。やがて少弐氏の勢力下に加わり少弐氏庶家から、養子を迎える事によって、少弐氏の家紋、目結紋に丸を加え少弐氏の一員である事を示したようです。<br><br><br><br>●佐賀　江島家（筑後高木氏族）<br>　<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/a6/33/j/o0200020315631945291.jpg" border="0"><br>龍造寺氏　杏葉(ぎょうよう)<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/dc/73/p/o0225022515631945302.png" border="0"><br>鍋島氏定紋　鍋島杏葉(ぎょうよう)<br><br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/56/00/p/o0200020015631945303.png" border="0"><br>江島家（筑後高木氏族）　　丸に抱き茗荷(みょうが)<br><br><br>一方、肥前に本拠を移した一族は龍造寺氏、鍋島氏の家臣となって両氏の家紋である「杏葉紋」にちなんで「抱き茗荷」を家紋としました。主家と同じ家紋を使用することは、親類か特別に許された家臣に限りますので、よく似た家紋にして、龍造寺、鍋島の家臣であることを示しました。<br><br><br><br>●熊本・佐賀　　財津流江島家（日田氏族）<br><br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/63/18/p/o0200020015631945318.png" border="0"><br>細川氏定紋　離れ九曜<br><br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/9a/b7/p/o0200020015631945320.png" border="0"><br>財津流江島家　　九曜<br><br><br>同様に日田の財津氏から分かれた江島氏は主家の細川家の家紋にちなんで「九曜紋」を使用しました。細川家の九曜紋は、細川忠興が織田信長の脇差についていたこの紋が大層気に入り、信長に願って下賜されたものです。<br>ただある事件によって、細川家では星紋の感覚が広い、「離れ九曜紋」を使用するようになったそうです。<br><br>★津々堂のたわごと日録　　　細川家の家紋・・１（九曜紋・細川九曜紋）<br><a href="https://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/51165b1d7acb08c16c721b79aced4189">https://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/51165b1d7acb08c16c721b79aced4189</a><br><br>したがって肥後の財津流江島家は本来の九曜紋を家紋としたようです。<br><br>過去記事でご紹介しましたが、財津流江島氏が江島姓を名乗るようになったのは1593年以降で、その後細川家家臣となって肥後に移りました。佐賀県に九曜紋を家紋とした江島家があるという事は、明治維新以降に熊本から佐賀に移住されるような事があったのでしょうか。このあたりの情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら是非とも教えて頂きたいと思います。<br><br><br><br>●佐賀・長崎・熊本・大分・宮崎　　江島家（筑後高木氏族）<br><br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/f7/93/p/o0200020015631945329.png" border="0"><br>阿蘇氏　違い鷹の羽　<br><br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/00/cf/p/o0200020015631945335.png" border="0"><br>江島家（筑後高木氏族）　　丸に違い鷹の羽<br><br><br><br>●福岡に無い「丸に違い鷹の羽」を家紋とする江島家の謎<br><br>「Vol 33 九州各県・江島さんの氏族と家紋」をご覧になった方は、「丸に違い鷹の羽」を家紋とするお家が佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎の５県に広く居住されていることにお気づきになったでしょうか。<br><br>鹿児島に筑後江島氏をルーツとするお家が無い事は合点がゆきます。薩摩・大隅は距離的に遠い事、島津家とはほとんど接点が無い事などです。しかし、筑後江島氏の本貫である筑後や隣国の筑前には何故存在しないのでしょうか。<br><br>「丸に違い鷹の羽」を家紋とする一族は、皆さん良くご存知の阿蘇氏です。阿蘇氏は戦国期の後半には戦国大名（武家）としては実質上消滅します。「丸に違い鷹の羽」を家紋とする江島氏、つまり阿蘇氏を主家とした江島氏が存在したという事になります。違い鷹の羽は武門の印に相応しいと武家の家紋としては良く使われますが、それにしても５県に拡がっているのは偶然の結果とは到底思えません。<br><br>九州の江島さんの氏族や家紋を調べた結果、これらの疑問が頭から離れませんでした。<br><br>そこで、阿蘇氏と筑後江島氏の接点を探して、長い間様々な文献をあたる内に、この謎を解く鍵を見つけ出す事が出来ました。その史料の書名は昭和35年(1960)発行の「小国郷史」でした。<br><br>そしてその内容とは、<font color="blue">室町時代末期、肥後小國郷に「江島和泉守」の居城「江島城」</font>があったというものだったのです。<br><br>続きは次回で。<br><br><br><br>★違い鷹ノ羽の謎<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/17/ejimayakata/f7/93/p/o0200020015631945329.png" border="0"><br><br>その１　何故、筑後江島氏が家紋に違い鷹ノ羽を用いたのか？<br>その２　何故、福岡には違い鷹ノ羽を家紋にした江島家がないのか？<br>その３　何故、違い鷹ノ羽を家紋とする江島家が九州５県に拡がったか？<br><br>Copyright (C) 2018 ejima-yakata  All Rights Reserved<br>
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<pubDate>Sat, 15 Sep 2018 12:59:32 +0900</pubDate>
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