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<title>あなたがじっとしていれば人はあなたに会いに来るだろう</title>
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<title>「私」が「私」である神秘</title>
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<![CDATA[ 　言うところの「近代的自我の乗り越え」なる議論が、ほとんど常にくだらないのは、そもそも「自我」という言い方で自分が何を言ってるのか不明なまま、それを乗り越えろと言っているからにほかならない。問い方のわからないものを、議論できるわけがない。<br>　それらの論者の方々は、揃って、「私」というものはもはや「ない」と主張しているのらしい。しかし、問われているのは、「ない」と主張しているところのその人の「私」なのだから、これはおかしい。「ない」なら、黙っているはずであろう。<br>　前項で私は、科学には「私」は扱えないと言ったが、社会学などにはもっと扱えないのだ。社会学は、「私」とは社会の形成物だと前提することで成立する。むろん、それはその限りでの真実ではある。つまり、生まれと育ちによる、性格もしくは世界観である。しかし、それらは決して「私」ではない。それらがそのようであると認識しているところのこれ、これのみが常に問われるべき「私」なのだ。だからこそそれは、哲学という思考にしか扱われないということになる。<br>　が、「哲学」と一括して言ったところで、それを考えているのは、やはりそれぞれの「私」である。認識主体としての「自我一般」は、「私」ではない。大勢の哲学者たちの間で議論されたところで、「私」が「私」であるというこのことの不思議は、ほんの少しもうごかない。したがって、「私」は、いかなる学問の網の目にもかからないということになる。なぜなら、「私」は、質だからだ。一般的な量には換元され得ない、唯一無二の質だからだ。たとえば、同じ「私」の語によって、私が「私」と発語するときのその感覚と、誰か他人が「私」と発語するときのその感覚が、同じ感覚であるかどうか、いかにして知り得ようか。いかにしても知り得ない。質とはこれだ。これを感じることなく自分を「私」と言うときにのみ、「私」はたんなる記号であり得る。<br>　質的「私」の扱いに慣れているのは、哲学よりもむしろ宗教、というより教説を無視して自身に向き合う禅とか神秘主義とかのほうなのだ。あれらもやはり、「私」なんてものは「ない」と言う。そんなもの、どこかに探してもどこにもないと。しかし、ここが違う。「ない」が、「在る」と言う。「無い」ことにおいて「在る」。そして、「在る」もの、それは「神」だ、と。<br>　「私」は「神」である<br>　というのは、うんと大ざっぱに言うなら、まあだいたいにおいてそうなのである。しかし、このことを正確に述べようとすると、これがもう本当に難しい。どうしてもあちこちに無理が生じる。それで禅などは、そういう無理を説明するのがいい加減億劫なので、ああいう形式なのである。そこが私は好きなのだが。この話、詳しくは「神」の章をご覧ください。<br>　たとえば、「神との合一」と言って万歳できると思っている神秘主義などの底がすぐに割れるのは、それなら、「神」であるところの「私」と、やはり「神」であるところのあなたの「私」との関係如何と問うときである。「神」としての私の「私」は、やはり「神」としてのあなたの「私」の、その質を、いかにしても知り得ない。それなら、神様同士はやはり互いにどこまでも孤独なわけで、それなら、なんのことはない、この世の「私」たちが互いにどこまでも孤独なのと同じことである。とくに何を説明したことにもなっていない。神秘主義的認識は、問いの側から見てみれば、決して上がりではなく、永遠の振り出しなのである。<br>　とはいえ私は、「私」を「問う」のに、少々飽きた。<br>　　それが、そんなに、特別か？<br>　最近私は、「魂」と言う。それを「感じる」ことのほうが、ずっと切実であると今や感じられる。<br>
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<link>https://ameblo.jp/ejo/entry-11265867758.html</link>
<pubDate>Fri, 01 Jun 2012 02:27:00 +0900</pubDate>
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<title>「私」は脳なのか</title>
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<![CDATA[ 　　脳で考える<br>　と、誰もが思っている。<br>　　心とは脳のことである<br>　　私とは脳のことである<br>　と、誰もがそう思っているのだ、これは驚くべきことだと私は思う。のだが、うっかりそんなことを言うと、百人が百人、妙な顔をする。「この人は、大丈夫だろうか」。<br>　考えているのは脳であり、私の心とは脳のことであるという「思い込み」、この思い込みを根底で支え、また助長もしているのは、言うまでもなく、科学である。人は、科学の言うことはすべて真実であり絶対であると見事に思い込む。これはこれでまた驚くべきことだと思う。<br>　といって、科学の言うことはウソである、間違っているというのではない。そうではなくて、科学的真実とは「科学的」真実にすぎないと、そう言っているだけである。科学とは、真実を知るための一方法にすぎないのだが、人はしばしばそれを忘れる。忘れて、科学の言うことが真実の全体を述べていると思い込む。と、そのときにそれは、明らかにウソとなり、また度し難い勘違いともなるのだ。<br>　科学がその方法によって扱うものは、目に見え手で触れられるもの、すなわち物質である。したがって、「心」や「私」を扱う場合は「脳」、物質としての脳を扱うということになる。<br>　ところでしかし、心とは脳であり、私とは脳であると、なぜまた科学はそう思い込んでいるのか。「心」、そんなものを誰が見たことがあるか、触れたことがあるか。「私」を誰が見たか、触ったか。<br>　脳をどこまで仔細に腑分けしていったとて、「心」も「私」も出てこない。この部位が「心」であり、この細胞が「私」であると、ピンセットでつまみ上げて示すことは絶対にできないのだ。なぜか、明らかだ。「心」も「私」も物質ではないからである。感情とは感じるものであり、あれに触れる人はいない。「私」とは、考えられているこれであり、考えている脳に触っても、これに触ったことにはならない。これは、誰にとっても明瞭な事実ではないのか。<br>　百歩譲って、科学のいうように、「私」とは脳だと認めるとする。ところで、科学の大前提は、主観と客観を截然と分けておくことだった。「私」とは主観であり、客観としての自然とは別物であると。すると、自然物であるところの脳であるところの「私」、これは主観か客観か。認識主観としての「私」が、同時に客観的対象としての脳であるなら、主格二分に基づく科学という認識の全体は、主観的なのか、客観的なのか、どちらなのか。<br>　とはいえ、本当の謎は、これではない。すると、「私」はどこに「居る」ことになるのか、これである。<br>　近代的自我を越えて主格合一の世界観なんて言えると思っているのは、ただの「脳」天気である。脳ではない、すなわち脳には居ないところのこの「私」は、するといったいどこに「居る」ことになるのか、これこそが最も悩ましき謎なのだ。非物質的存在について、空間的位置を問うことの無意味、しかし、「私」はまぎれもなくここに居る。<br>「私は脳である」、この考えはじつにわかりやすい。わかりやすい以上にこれは、じつは人間の認識にとっては一種の安全弁のようなものであって、下手にこれがはずれてしまうと、かなりアブナイことになるということを、人はうすうすわかっているのに違いない。だからこその「科学」、と言ってもいい。
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<link>https://ameblo.jp/ejo/entry-11262866028.html</link>
<pubDate>Mon, 28 May 2012 16:46:00 +0900</pubDate>
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<title>「私」とは何か</title>
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<![CDATA[ 　　私とは何か<br>　私にはそれが不思議でたまらない。ときに、アタマのねじが、あ、はずれる、という感じになる。なぜ、こんな妙なものが、在るのだろう。<br>　というこの問いの意味、ほとんどの人に通じない。世の人、口を揃えて「私とは何か」と問うているにもかかわらず。<br>　確かに池田某は妙な人間である。しかし私が妙だと言っているのは、池田某のことではなくて、私とは池田某であると言っているところのその私とは何か、それが妙だと言っているのだ。かなり妙でしょ。<br>　普通に人が、「私とは何か」という問い方で問うてるのは、じつはあれ、問いではなくて答えなのである。「私とは何か」と問うているところの「私」は、自明の前提としてそっくり信じられているのであって、「とは何か」のそこに、ほんとの私はこんなじゃない、とか、もっと自由に生きたいのに、とか、何かその手の人生訓めいた答えがくることが、あらかじめ知られている問いなのである。私は、そんなの、興味がない。<br>　　私とは何か<br>　と私が問うときのその「私」は、この顔でも、この名でも、この生い立ち、性格、世界観のどれのことでもなくて、「私とは何か」と今まさに問うているこれ、これは何か、なのである。この否応なさを、デカルトという人は、「我思う（コギト）」の確実さというふうに言ったけれども、彼はしかし、この問いの不思議さをさらに問い続けることをしなかった。「私とは考えるものである」の、その「私」をさらに考え詰めることをしなかったのだ。だからそれが言うところの、「近代的自我」の始まり。私は、私だ。<br>　そうだ、私は私だ、自明なことだ、恐るべき自明さだ。なぜ世の人皆この自明さを疑わずにいるのか。私はこういう人間である、私はこう思う、私はこうしたい、私はこうしたくない、私はそれはいやだ、私のもの、私のこと、私、私、私～。<br>　　私のしたいことを邪魔するな<br>　人の世のいざこざとは、だいたいにおいて自己主張のぶつかり合いであることは、認めますよね。でも～どの自己？どの自己のことを人は、他人を蹴飛ばしてでも主張したいほど確実な自己であると信じているのか。そんな確実さは錯覚だ、私は知っている。もしもそうでないと言うのなら、あなたが「私」と言うときのその「私」を指示してみてほしい。どのって、このですよ、と鼻の頭を指す以外の仕方で、示してみてほしい。<br>「私は」「私は」と、声高に主張し合う人々もじつは、主張している「私」の何であるかを、鼻の頭を指す以上の確実さで知っているわけではないのである。いや、さらに正確には、指してしるのが「私」なのか、指されているのが「私」なのか、それを知ろうとしているのは、誰なのか。そんなわけのわからないもの、他人を蹴飛ばしてまで主張したい気持ちは、少なくとも私には、ない。<br>どこまでも不思議なのは、指示代名詞としての「私」、「私」というその言葉なのだ。「犬」という語によって、誰もが一律に犬を思うように、「私」という語によって誰もが一律に「私」を思うだろう。ところで、そのときの「私」って、どの「私」ですか。だって、この世の誰もが一律に自分のことを「私」と思ってるのですよ。「私」のイデアって、そりゃいったい何なのです？<br>　上のような考えを、言葉の遊びだと言うのなら、そう言っているあなたの「私」を、言葉によらずに示してみてください。<br>
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<link>https://ameblo.jp/ejo/entry-11261802718.html</link>
<pubDate>Sun, 27 May 2012 12:37:00 +0900</pubDate>
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<title>生死とは論理である</title>
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<![CDATA[ 　立花隆さんという人は、おっちょこちょいな人だなあ。先日、NHKの「人間大学」で、臨死体験の話をされているのを聞いて、私は思った。気持ちはわかるのだけど。<br>　政治や経済、せいぜいインターネットくらいまでなら、調査とデータとデータ分析で、わかりたいことはわかるだろうが、こと、「死」、生きているというまさにそのことにおいて誰ひとりわかるわけのない死について、調査とデータとデータ分析でわかるだろうと思って頑張っている立花さんは、ちょっと気の毒みたいだ。<br>　カテゴリー・エラーというより、ジャーナリズムの限界だろう。私は聞いていて、なんだか痒くなるような心地がした。臨死体験者何パーセントはお花畑を見、さらに何パーセントはそこで先に死んだ人に会った。これだけの事例で性急に結論づけるわけにはいかないが、さらなる調査によって、臨死体験はどうも現実のものと言えるのではなかろうか。<br>　　そんなに知りたいのなら、死んでみればー<br>　意地悪でなく、率直に私はそう思った。何百何千の事例を集めたところで、臨死体験を語るひとは、ひとり残らず、生きている人である。死を語っているのは、生きている人である。あれは、どこまでも、生きている人の言葉なのである。生きている人に、死のことは、逆立ちしたって語れやしないのだ。そして、死んでいる人には、逆立ちも、語ることも、できやしないのだ。したがって、どうしても生きているうちに死のことを知りたいのなら、自分で死んでみるしかないのである。<br>生死について考えるためには、事例は不要だ、論理だけで十分なのだ。氏においては、「死とは何か」という問に対して、事例によって答えが為される。その限り、「死とは何か」と問いながらも、じつは「死」は氏にとって、すでに自明とされているのだ。事例によって答えが為されるそのようなものとして、すでに自明なものなのだ。しかし、何が自明か。自明ならば、なにゆえにそのように思い悩んでおられるのか。つまり、「死とは何か」と問うて、事例によって答えが為されるところのその「死」こそが、問われているのだから、事例はその答えにならないということである。<br>　あるいはまた、「死後の世界は在るか無いか」という問い方が為される。何をもって「死」と言うかが明瞭でないのに、何をもって「死後」と言うべきか。在る側の我々が、「在る」と言うなら同じ「在る」だし、無いなら無いで、無いことの無いを、在る我々にいかにして知り得ましょうか。<br>　さらにはまた、「脳内現象」か「現実体験」か、という判別の仕方が為される。脳内現象なら幻覚で、現実体験こそ本当ということらしい。しかし、なぜ脳内現象が現実体験であってはならないのか。脳以外の何が現実を体験しているというのか。幽体離脱なるものは「脳外体験」であるとして、それすら脳の見る夢であって何の不都合があろう。脳の見る夢であっては困るのなら、そんなの、夜毎のことではないか。ましてや、白昼のこの現実が、脳の見る夢であることには、もっと困っていいはずではないか。なにゆえに臨死体験ばかり、その真偽が問われるのだろう、問えると思っているのだろう。<br>　私には、凡百の臨死体験なんぞより、臨生体験、自分が今この生に臨んでいるということのほうが、はるかに理解し難い不思議である。先に考えるべきは、こっちである。臨死のお楽しみは、最後のことで、よろしいのではないでしょうか。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ejo/entry-11260781782.html</link>
<pubDate>Sat, 26 May 2012 09:13:00 +0900</pubDate>
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<title>精神と肉体という不思議</title>
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<![CDATA[ 　私は、自分は生きるのによくよく向いていないと思う。<br>　この場合の「生きる」と言うのは、「生活する」「生存する」の意であって、人がしばしば、生活や生存それ自体のことを「生きる」と称するのを、いまだもって理解できない。せんだって私は、「いのち根性」が全然ないから私は変わっていると思われるようだと書いたが、これにはもうひとつバージョンがあって、「精神性以外にものを価値と思ったことがない」。<br>　ものごころついたときから私は、この世に精神性以外のものがあると思ったことがなく、人が精神性以外のものを価値として生きているのは、あれは一種の韜晦なのだ、あれはああいうフリをしているだけなのだと、わりと最近まで思い込んでいたのだ。だから、あれは、フリではない、まるきり本気なのだと気づいたときには驚いた。驚いたけれども、やっぱり私は変わらなかった。したがって、人からは変わっていると思われるのは当然なのだ。なぜなら、人は多く、生活や生存がなければ精神性もないと思っているからである。<br>　　そうでもしなければ生きられないではない　　か<br>　他人事みたいに不満を言うから、私は答えた。<br>　　そうまでしてまでなぜ生きるのか<br>　生活や生存それ自体を価値として生きることができるなら、それで不満はないはずではないか。私は、精神性以外のものすなわち生活や生存それ自体、いわんや金銭や物品それ自体を価値として生きることが、どうしても、できない。できないその見返りとして、私は、死を恐れないという特権を得ているのだからと。<br>　まあ、ほとんど通じたことはなかったが。普通には人は、わかりたくない理屈は、わからないものだからである。<br>　かく言う私も、わかりたくない理屈は、わからない。生活や生存のために生きる気がない、精神性以外を価値として生きることを「生きる」とは認めない。それで私は、生きるのにはまったく不向きだと思っていたわけなのだが、あるとき、ふと、妙な考えが来た。<br>　ひょっとして、人間は例外なく、生きるのに不向きなのではないか。不向きだから、死ぬのではないか。　<br>　これは、どういうことか。精神と肉体というありかたの異なるふたつのものが、なぜたかひとつになって人間である。ここに、どうしても無理があると思われる。<br>　　肉体かなければ、人は死なないのではない　　か<br>　上、当たり前のことを言っていると思いますか。これを変換してみましょう。<br>　　精神だけなら、人は死なないのではないか<br>　ところで、死なんてものはどこにも無いのだった。普通に人が「死」と思っているのは、死体すなわち死んだ肉体のことであって、死体は在るが、しかし死は無いのである。肉体は死ぬが、死は無いのだったら、精神は在るのではないか、生きるのではないか。<br>　さて、上の｢生きる｣がすでに、「生活する」「生存する」の意でなくなっているのは明らかである。「死体が生存する」とは意味を成さないからである。事態のこのような奇妙さを、やはり認識した昔の人々、たとえばイエス・キリストなどは、それで、このように行ったわけだ。<br>「生きながら、私において死ぬ者は、永遠の生命を得るであろう」<br>　ぐっと人生訓ふうにして、<br>「人はパンのみにて生くるにあらず」<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ejo/entry-11259112718.html</link>
<pubDate>Thu, 24 May 2012 09:57:00 +0900</pubDate>
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<title>死んだ人は生きている</title>
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<![CDATA[ 　私は、他人の死というものを、「悲しい」というより、むしろ「おかしい」「変だ」というふうに感じる。<br>　というのは、死んだ人は死んでいるのだから、自分の死を悲しいとは思っていないはずなのだから、悲しいと思っているのは、したがって、死んだその人ではなくて、生きている側の人である。生きている側の人が、死んだ人はさぞ悲しかろうと思って、そのことで悲しく思ったりするのである。しかし、死んだ人は悲しくはないのだから、死んだ人のことを悲しく思っている生きている人は、すると一方的に悲しんでいるだけということになる。悲しみというのは、多分に、自分勝手なものなのである。生まれてきた子供が、喜んでいるかわからないのに、一方的に喜んでいるのと同じである。<br>　そんなふうな視点をもつと、人の死を悲しむというのは、かえって何かこう分を越えたことをしているような気持ちに、私はなる。<br>「いつまでも悲しんでいると、死んだ人も悲しみますよ」<br>　という慰めは、よく考えてみると、よく出来ていて、自分が悲しいから悲しいというのは、死んだ人にとっちゃ、知ったこっちゃないことのはずだからである。<br>「泣かれたって困る」<br>　もし思うとしたら、死んだ人は思うのではないか。思うわけ、ないが。　<br>　さすがにその場でそう言ったことはないが、人が死ぬのは「変だ」と感じ、ときに爆笑したくなって困るのが、葬儀の最中である。<br>　人は、お葬式というあのセレモニーによって、いったい「何を」しているのだろう。「死者を送る」「冥福を祈る」「弔辞を読む」、これらすべて、<br>　　死んだ人は生きている<br>　と思っているのでなければ、あり得ない行為ではないか。死んだ人は生きている、何らかの形で存在していると思っているのでなければ、人が死者のために何かをするなど、あり得ないはずではないか。しかし、そう思っているなら、なぜ人はお葬式で悲しんでいるのか。それこそ、生者の側の得手勝手ではないのか。 <br>　生きていた人が死ぬ、死んで居なくなる、ということは、どう考えても変なことだ。人がそれを、「変だ」と思うより、「悲しい」と思うことのほうが多いのは、人生という出来事を、形式の側からでなく内容の側からのみ見ることに慣れているからだ。人生の内容とは、自分は誰かであって、苦しみとか喜びとかの感情とともに、前方へ向かって生きているといったような意味的内感である。対して、人生の形式とは、ほかでもない、生死というこの枠である。枠それ自体は、無時間、非意味、非人称である。どうしてそうなのだか、それこそ私の知ったこっちゃないから、それは形式と呼ばれるのである。<br>　ところで、この形式をそうと見ているところのこれ、これは、それでは、誰なのか。巨大な疑問符が、ここにおいて笑いへと炸裂する。しかし、お葬式の最中だけは、やはり、まずい。<br>　非意味の形式の側から、意味らしき内容の側を見るときの端的な感情、これをひとことでいうと、<br>「あ、ばかばかし」<br>　となる。私は自分の人生の毎瞬をわりとそんなふうに感じる。馬鹿にしているのではない、可笑しいのである。お葬式で泣かれても、ちょっと困る。<br>　自分の葬式、式次第を指示しておく人がいるという。あるいは、夫と同じ墓に入るのは「いやだ」とか。内容のほうから形式を見ようとするときに起こりがちな、ほほえましい勘違いである。私ならいっそ、私の葬式をこのように指示しておく。泣いてはならない、しかしまた、決して笑ってはならない、と。<br>
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<link>https://ameblo.jp/ejo/entry-11254347780.html</link>
<pubDate>Sat, 19 May 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
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<title>人はなぜ死を恐れるのか</title>
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<![CDATA[ 　前項での死の話は、生が生なのは死があるから生なのだが、死は無であり、無は無いから無なのだから、死なんてものはじつは無い、したがって生もまた人が信じている仕方では確かではない、といった極めて論理的な話でした。<br>　で、この項は、論理的でなく現実的な話かというと、やっぱりそんなことはないのである。普通に人が、「論理的にはそうだが現実的には」という言い方で言う「現実」という言葉、それをこそ明らかならしめるための論理なのだから、この言い方はあべこべである。そんなふうな逃げ道など最初からないと、潔く腹をくくったほうがいい。現実を現実たらしめているところの論理のほうが、現実以上に現実的なのだ、ヘーゲルという人もそう言った。「すべての現実的なものは理性的である」。別にヘーゲルが言わなくたって、そうなものはそうなのだから仕方ない。私のせいではない。<br>　私は自分のことを変わっていると思ったことはなかったのだが、あんまり人が変わっていると言うので、どこがそんなに変わっているのか、考えてみたことがある。そして、その最たる要因は、どうやら「いのち根性が全然ない」、というここにあるらしいと気がついた。「いのち根性」、これは私の造語なのだが、とくに生きていたいというふうには思わないのである。したがってそれは、死にたいということともまた少し違うのだが、死ぬのがちっとも嫌でないので、人がなぜ死ぬのをさほどに厭のか、それが私にはわからないのである。<br>　とはいえじつは、わかっている。普通に人が、死ぬのが嫌だと思っているのは、死んだら、したいこと、したかったことが、もうできなくなるという理由によるようだ。しかし、これはおかしい。なぜなら、死んだら、したいことができないと悔やんでいるところの主体も、無いはずだからである。可能性を失ったと思うところの主体が無いのだから、可能性を失うということも、ないのである。すると人は、何を失うことを恐れて、死を恐れているのだろう。<br>　　失うことは怖くはないが、死んだら無にな　　る、それが怖い<br>　しかし、これもやはりおかしい。無なら無で、やはりできないはずである。<br>　　いや、生の側から見た無としての死が怖い　　のだ<br>　それならなおのこと、これはおかしい。生の側から死を見るとは、いったいどういうことなのか。無を見るとはどういうことなのか。見えたらそれは、無ではないではないか。<br>　どんなに頑張って、どの角度から考えて見ても、無なんてものは絶対にないのだ。我々には死なんてものは、ないのだ、無なのだ、あり得ないのだ。なのに人は、無であるところの死を恐れる。つまり、現実には「無いもの」を恐れて生きているのだから、こんなに非現実的な態度ったらない。現実を直視せよ。<br>　　無いなら無いで、それに超したことはない　　ではないか<br>　根っからものぐさな体質の私は、むしろそう感じる。確かソクラテスもそういった。「夢をみない眠りほどの幸福は人生にはない。死もまたそうであれば」。<br>　しかし、である。悔しいかな、ああ悔しい無は無いから無なのだった、我々は、在ることしかできないのだった。生きようが死のうが、存在することしか我々にはできないのだ。<br>　私などには、このほうが、よほど困る。絶対無を渇望しつつ永劫に存在するこの｢私｣を、ああ、どうしてくれましょう。<br>
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<link>https://ameblo.jp/ejo/entry-11253283751.html</link>
<pubDate>Thu, 17 May 2012 20:57:00 +0900</pubDate>
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<title>死はどこにあるのか</title>
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<![CDATA[ 　以前は死の話をすると、たいていはそれは「自殺」の意にとられた。つきあう人々の年齢が相対的に高くなってくると、さすがにそういうことは少なくなってきた。それでもたいていの人はまだ、死を、いつか先のやはり自分とは別のことだと思っている。<br>        人々はそう思っている<br>        私にはそれがわかる<br>　なぜわかるかというと、まあ、わかるのである。もううんと高齢の、傍目にはもう、と思われるような人でさえ、それでも自分の死を明日かもしれないとは思っても、今のここだとは思っていない。まず思っていない。なぜ思わずにいられるのか、それが私にはわからない。死を、今の今ではない、いつか先に設定して生きる人生の構え、これが私には本当に理解できないのだ。別に責めているわけではないのだけれど。<br>「人生の意味」と誰もが言う。あれやこれや、求めたり、悩んだり。「一度限りの人生だから」。<br>　しかし、それは、本当か。本当にそう思ったうえでの、あれやこれやなのか。<br>「一度限りの」と思うためには我々は、何について考えておかなければならなかったはずか。直線的に前方へと進行してゆくと思われている時間軸の、その終端と思われるかの地点は、じつは漠然と消えるにまかせたままではいないか。人生を画然たる線分として限るためのもう一方の端を、人はじつは見出だしてはいないはずなのである。それなら「一度限りの」という前提もまた、もろもろ、ほろほろ、崩れ始めるはずではないのか。<br>   誤解なきように、私は、人生は一度限りではないと言っているのではない。前世とか来世とか、何かその手のことを言おうとしているのでは今はない。そうではなくて、もしも人が、人生は一度限りであるということを前提にその意味を求めようとするならば、生における死の位置を明確にしておくことなしには、それは不可能だと言っているのだ。<br>   ならば死はどこにあるのか。終端におけるそれが、あくまでも不分明なままならば、私たちは死を、生のどこに見出すことができるのか。<br>        今のここ<br>   と、私は言った。生を生たらしめているものは、生ではないものすなわち死である。瞬間瞬間の生を瞬間瞬間の生たらしめているものは、瞬間瞬間の死である。だから死は今のここにある、と私は言ったのだ。ところで、<br>　　「ここ」とは、どこか<br>　　「ここ」と言うとき、そこはもうここでは　　ない<br>　　「ここなんて、どこにもない」<br>       だから死はない、したがって生もない<br>       なんとまあ不可思議にも明瞭すぎる話<br>　なのに、これがたいていの人には、全然明瞭ではないのである。生は確かで、死はなんとなく先のことなのである。そうして漠然と根拠なく設定した期間のうちに、あれを求めたり、これを悩んだり。例のライフプランてやつ。私、そんなの生まれて一度も持ったことがない。<br>　　それじゃまるで人生に意味なんかないみたいじゃないですか<br>　そんなの私の知ったこっちゃないわよ。別に責めてるわけでなし。好きに生きればいいのだし。<br>　ただ、少なくとも私は、生来の変てこな論理癖によって、生は確かで死は先のこととして人生の意味を求める仕方は、もしも人が、人生に意味をもとめるとするならば、決定的な勘違いだと知っている、というそれだけのことである。<br>
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<link>https://ameblo.jp/ejo/entry-11248254961.html</link>
<pubDate>Sat, 12 May 2012 02:30:00 +0900</pubDate>
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<title>プロローグ</title>
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<![CDATA[ 「人生論」という、むろん知ってはいたけれど、とうに忘れていた古めかしい響き、ああ、「あの」人生論～<br>　往年の哲学青年たちは、切なくも甘く、懊悩したのだった、「人生、いかに生くべきか」。<br>　そしてまた、それらの書物は、厳かにも優しく、答えてくれたのだった、「人生、かく生きるべし」。<br>　ところで、この本、新式の人生論。ああ、「あの」人生論と思って手に取ると、おや、うえに「残酷」と、ついている。「残酷人生論」。なんだ、これは。<br>　　甘くみるな<br>　　この書は懊悩の書ではない<br>　　しかしまた、慰撫の書でもない<br>　なんの書かというと、たんなる思考の書である。しかし、この「たんなる」の、世にいかに困難であることか、まさにあれら凡人の人生論の示すところではなかったか。<br>　　考えることは、悩むことではない<br>　世の人、決定的に、ここを間違えている。人が悩むのは、きちんと考えていないからに他ならず、きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。なぜなら、悩むよりも先に、悩まれる事柄の「何であるか」、が考えられていなければならないからである。「わからないこと」を悩むことはできない。「わからないこと」は考えられるべきである。ところで、「人生いかに生くべきか」と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか。<br>　悩むのではなく考えるということが、いかほど人を自由に、強く、するものか。<br>　普通に人が、「悩む」という言い方で悩んでいる事柄は、内容としては、人さまざまである。人さまざまに、じつによく人は悩んでいる。しかし、その内容においていかに人さまざまであれ、その形式においてはそれらはすべて、「私とは何か」「なぜ生きているのか」「死ぬのはどういうことなのか」といった、いくつかの基本形に、必ず集約されるのである。「哲学」というものの考え方は、誰がどのように考えてもそのように考えられるという仕方で、これらの事柄を「考える」のであって、これらの事柄を難しい言葉でもって「悩む」のではない。これらの事柄を「個人の悩み」として悩むのでは決してないのだ。だからこそ人は、より自由に、より力強くもなれるのである。<br>　上のような事柄を、考え方の道筋に沿った仕方できちんと考え、納得と確信を手にし、さらなる段階へ進むという道程は、少なくとも私にとっては、切なる悦びなのだった。そして、私がそうだということは、むろんほかの誰もがそうなのだと、こう思っていたのだった。ところが、なんと、人は言うのだった、「それは、残酷だ」。<br>　ならば、私はこう言おう。考えるということは、残酷なことである。ぐずぐず悩むことに人を甘やかさない、ありもしない慰めで人を欺かない、人生の真実の姿だけを、きちんと疑い考えることによって、はっきりと知るというこのことは、なるほどその意味では残酷なことである、と。<br>　むろん、残酷なる真実を知るよりも、甘たるい 悩みに憩っていたい人は、そうすればよろし。人は、自分の望むようにしかいきられないというのも、これはこれでまた残酷な真実であろうからである。<br>　ところで、真実を知ることを残酷だと言えるためには、人は、知られる真実が残酷であるかどうかを、先に知っていなければならないのではなかったか。<br>　　ただ真実を知ることをのみ希うなら<br>　　さらに、疑え <br><br><br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<pubDate>Wed, 09 May 2012 16:46:00 +0900</pubDate>
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<title>想像</title>
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<![CDATA[ その場にないものを思い浮かべることで <br><br>幸福と不幸についての感受性が高まり <br><br>時には死に至るほどの歓喜 <br><br>あるいは絶望的な自殺へと導くこともある 
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<pubDate>Thu, 19 Aug 2010 03:56:33 +0900</pubDate>
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