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<title>emuragiさんのﾌﾞﾛｸﾞ</title>
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<title>検察問題に見るガバナンス視点での社会構造</title>
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<![CDATA[ 検察が証拠を捏造したという。恐ろしい世の中である。<br>権力を持つ人や機関は、人の人生を大きく左右するから、常に正しいくやっていなくてはならない。社会の規範であり、公明正大に、偽造なんてもってのほか。確かにその通りだろう。権力者が悪いことをやりだすと、何でもありになってしまい、世の中の秩序は乱れる。<br><br>では、庶民にはそこまで求められないのか？、きれいすぎる世の中は住みにくいと言っていないか？、多少の清濁併せ持つところがとか言っていないか？、常に公平に人に接しているか？、やっていいことと悪いことははっきりと決まっているか？<br><br>世の中では意外に多くの人が人を裁いたり追い込んだりできる立場にある。先生や上司にあたる人、スポーツの審判や行政を担当する公務員、親もそうだろう。そしてマスコミ。勿論検察や裁判官とはレベルが違うのかもしれない。強制力がある社会的制裁の判断とは全く違う。ただ、多かれ少なかれ、多くの人が人を裁いたり人を追い込んだりすることができる立場なのである。<br><br>だからこそ、この問題は非常に難しく、結論の出ない問題に感じる。精神論にもルールの問題にもなりえる。社会的立場とは何か、そのインセンティブは何か。人が人を統治するとか、法治国家たとか、憲法だとか、常識だとか、マナーだとか、宗教だとか、教育だとか・・・。<br><br>そう考えると、今の世の中は概ね良くできている。一応多くの人が笑って暮らしている。戦争も自殺も貧困も絶えないから満足しちゃいけないが、ここまでの世の中の仕組みを私には作れない。先人の偉大さに敬意を表したい。
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<link>https://ameblo.jp/emuragi/entry-10662107005.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Sep 2010 07:31:53 +0900</pubDate>
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<title>民主主義の原則とその限界</title>
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<![CDATA[ 政策コンテストだそうだ。じゃあ国会議員はなにやるの？という批判は、酷すぎるだろうか。<br><br>基本的に政治家が国民に阿り過ぎだと思っている。特に国民を代表したようなフリをしているマスコミに。人は金が絡むとエゴが強まる。そういうものだと思うしかない。マスコミはスポンサーのために仕事しているし、熾烈な競争のために面白おかしく描くのがミッションなのである。民衆がエゴなのは、先の２回の選挙が証明した。子供手当が有効な公約で、消費税引き上げ発言が敗北要因になるのである。頭ではわかっていても、将来へツケて今の１万円を得たくなってしまう。そして選挙が終わるとマスコミは逆の論調になる。バラマキは愚策で直間比率是正は必要だと。<br><br>政策コンテストは限られた予算の最大幸福の実現のようにも見えるが、実際行われると直接享受者数の多数決の色合いが強まる。間接享受や将来に渡って必要な投資はどうしても弱いだろう。そして、仮に直接享受者が多い政策が選ばれても、それが効率的な使い道ではないというケースが多くなるのではなかろうか。バラマキやダム空港のように。<br><br>考えてみれば、昔の政治家はうまく民衆を騙していた。民衆はエゴの固まりであり、学もない、尊重なんかしてたらこの国の行く末はないと思っていたかは知らないが、一部の特別意識やエリート意識が国を引っ張っていた気がする。それが一億総中流とは古い言葉だが、上流になるべき方々も中流になってくださっているのか。<br><br>昔の体制は、お上にお任せであり、お上に伺いを立てなくてはならない気質を産むわけで、それがいいとは思わない。だが民主主義といいながら、全て国民の多数決またはその代表者の多数決によって決まるこの仕組みに少し限界を感じてきた。
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<link>https://ameblo.jp/emuragi/entry-10654618976.html</link>
<pubDate>Tue, 21 Sep 2010 08:18:16 +0900</pubDate>
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<title>若手指導の現場と期待される職業観</title>
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<![CDATA[ 一人の中堅教師が悩んでいました。最近の若手教師は、どの子にも同じように指導するから、タイプによってはうまく伝わっていない生徒もいるようだ。そんなことを校長に話したら、「若手の先生の修業が足りないね。生徒のタイプを見極めつつ、伝え方を変えていかないと。」と言いました。教頭は「マニュアルを作ってあげたらどうだ。生徒のタイプ別指導の仕方とか」と言いました。<br>どちらのアドバイスが正しいかなんてナンセンスなことを問うつもりはない。どちらが好きか、どちらが共感するかである。と思う。<br><br>では、これは小学校と中学校と高校では、答えは違うだろうか？幼稚園は？塾は？家庭教師は？少年野球だったら？高校野球だったら？親子だったら？<br>もっと考えてみる。営業マンとお客様だったら？コンサルタントとクライアントだったら？コールセンターの電話営業だったら？医者と患者だったら？ファミレスの店員と客だったら？<br>上記のそれぞれのシチュエーションで、答えは異なるだろうか。おそらく、ある程度の傾向はあるものの、人によって答えはバラバラだろう。そしてそれらの答えは、その職業に期待する姿なのだろう。<br><br>中間管理職がかなりの確率で悩んでいるであろう若手指導の現場である。きっとどんな職場でも同じようなことは起こっている。マニュアル化、仕組み化、本質的な実力、鍛え方・・・。<br>そして、その指導の仕方次第で成否は大きく左右され、数年後指導された側が指導する側にまわり、自分がされた指導方法と同じやり方または全く違うやり方で指導をする。こうやってその職業や会社が変わったり変わらなかったりする。<br><br>因みに、私は結構マニュアル派です。<br>何が正しいなんてない。今日も悩んで生きて行こう！<br>
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<link>https://ameblo.jp/emuragi/entry-10648078761.html</link>
<pubDate>Tue, 14 Sep 2010 08:23:38 +0900</pubDate>
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<title>ペイオフ適用と理論的リスクリターンの本質</title>
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<![CDATA[ 一つの銀行が破綻した。ペイオフだそうだ。<br>一千万円以上の預金について、保護されない人がいるらしい。本件はそんなに騒がれていない気がする。リスクの自己責任が定着したのか。ペイオフ解禁となって久しく、いつかそんな日が来るかもしれないと思っていたからか。木村氏が逮捕されたころから、あそこは危ないと思っていたからか。<br>今回保護対象外となった３千人の方々は、少なくとも１千万以上を預けていた人で、おそらく全財産ということはまずないだろうから、プチ富裕層またはホントの富裕層。だからマスコミは騒がないのだろうか。影響は「限定的」とかいって。<br>弱いものの味方である天下のマスコミ様はいつもそんな感じだ。<br><br>かといって、騒いで欲しい訳では全くない。寧ろ冷静な日本国民に敬意を表したいぐらいだ。<br><br>今回は、預金という形で銀行経営のリスクを取った人が、その損失を実際被る訳で、やむを得ないよねとなるが、世の中こういった公平なことばかりではない。何故かわからないけど、超法規的処理で損失を被らないことがある。いや実は何らかしらの形で税金が投入され、リスクが国に転嫁されている。結果として、税金の実損というケースもあれば、時間が解決することにより、なんとか実損がでなかったりすることもある。税金の実損ということは、国民への均等負担だ。これらは、経済全体への影響を鑑みると正しい判断だったりする。<br><br>何が言いたいかというと、リスクリターンは世の中で思われてるほど公平ではないということ。というか、政策判断も加味してリスクが存在してるということ。マーケットでは大概そんなことも折り込み済みな訳だが。ファニーメイの一件でも完全に政策リスク。<br><br>政策判断までも予測した投資なんて、素人には難しすぎる。つくづく投資機会は不公平だなあと感じる。理論的ポートフォリオ管理なんて、机上の空論なのか・・・。<br>
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<link>https://ameblo.jp/emuragi/entry-10647769807.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Sep 2010 22:23:57 +0900</pubDate>
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<title>世論形成の過程と地動説的本質</title>
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<![CDATA[ 円高だと大騒ぎである。対策を打たない政府は無能であるとマスコミは書き立て、インターネットにも書きまくられている。政府は中途半端なことを言っては中途半端だと批判されている。<br><br>我が尊敬するある方のメルマガによると、円高は諸悪の根源というのは間違いだという。円高対策数兆円とは愚らしい。大体それを日銀のせいにするとは、中学校からやり直しだと。<br><br>国の借金についても、同じ感じ。対外債務を考慮せずして財政破綻論など、ありえない、らしい。実は日本はギリシャ以下だと騒いでいるのは、茶番だと。<br><br>なんで、こんなことが起こるのだろう。国のトップも、高名な評論家達も、国民の大多数もがちょっとピントがずれてしまう。<br><br>一つは、僕が間違っているということかもしれない。とあるメルマガを信じきっているアホがいるということ。新興宗教に引っ掛かったのね・・・ということ？<br><br>一つは、ガリレオのように、幕末の幕府のように、ソビエト政府のように、世の中が誤っているのかもしれない。地動説を唱えるものは、国家反逆罪だが歴史を振り返って初めて偉大さを知る。<br>もしそうだったら、何故このような世論になるのか？原点は小中学校の社会の教科書にある気がする。確かに学校で、「日本は輸出の国」だから、円高は大変だと習った。そういえば北欧のゆりかごから墓場までが理想の国家だとも。３つ子ではなかったけれど、影響は計り知れない。もちろん、高校大学大人といろんな情報に触れて変わるはずだが、世の中大多数の世論とはこうやって形成されるのかも。<br><br>教科書問題ばかにできず、今更ながら教育の重要性を実感する 火曜日の朝。<br>
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<link>https://ameblo.jp/emuragi/entry-10641988276.html</link>
<pubDate>Tue, 07 Sep 2010 19:54:03 +0900</pubDate>
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<title>首相の選択と国家の行く末を案じる小市民</title>
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<![CDATA[ 一国の首相が代わるかもしれない。国民は投票できないけど。<br><br>政変好きか？権力好きか？<br>どちらになっても、マスコミは将来の失望を予感させる報道だろう。まるで推理小説の伏線のように。<br>こんなパターンがかれこれ５年近い。誰がなっても、初めはお手並み拝見モード。ちょっとでもなんかあるとそれに付け込み、失望売り。最終的には本人が堪えられなくなって引責辞任・・・。<br>じゃあどうすりゃいいんだという感じもする。真のリーダーを嘱望するニッポンという国なのかもしれないけど。皆が想像しているリーダーなんて出てこないだろう。<br><br>誰がいけないのか？政治家か？マスコミか？官僚か？国民か？制度か？<br>全てが少しずつ悪いから、完全懲悪にならず変わらない。変わらなくても生きていけてるんだからニッポンは立派な国だとも思うけど、クリティカルじゃないから痛みを伴う変革は結局起こらない。総論賛成、各論反対。ん、典型的な大企業病と同じ症状じゃないか？<br><br>変革しない大企業はどうなるのか？倒産する前に買収合併という感じ。じゃあドラスティックに変革したところがどうなったかというと、結局どこかで無理が祟って、なんか別な問題を抱えてる。<br>うーん、だからどうした。<br><br>国家の行く末を案じるより、我が身の行く末を案じなくてはいけない身。<br>プロコン分析はできて、バランス調整はできても、決断の結果が負ける勝負弱さ。<br><br>こうして、独り言を語る月曜日の夜。
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<link>https://ameblo.jp/emuragi/entry-10641311292.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Sep 2010 21:51:37 +0900</pubDate>
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