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<title>epsil0nのブログ</title>
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<title>意識高い系</title>
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<![CDATA[ 意識高い系、という言葉がありますね。<br><br>あの、無意味なセルフ・ブランディング志向のことです。<br><br>彼らは、意識高い系という考え方を誤って解釈してしまっているのでしょうね。<br><br>一重に、iPhoneを使ったり、スタバでMacというのも空虚なブランディング意識があるからこそ成り立つものなのでしょう。<br><br>しかし、彼らは気付いていません。<br><br>彼らが「意識高い系」の行為が出来るのは、そのバックで企業のブランディングイメージが成り立っているからです。<br>即ち、例えばこれがマクドでMacbookだとどうでしょうか？<br>やってることが全く同じでも意識高い系だとは言われなくなるでしょう。<br><br>思うに、本当に意識の高い人間というのは、本人がそんなことを全く気にしていなくても周囲が勝手にそう判断してしまうものです。<br><br>自称意識高い系が無駄に高い金を払ってコーヒーを嗜みながらMacbookで何かしている傍らで、複数枚のモニターと睨み合いっこしながら数十秒で数十万儲けている人間がいます。彼らは、余計な人脈に興味はありません。セミナーなんて行く気もありませんし、Macbookを欲しいとも思いません。自己啓発系本なんて読むこともありません。そんな本を読むくらいならチャートや四季報を読みます。<br><br>そんな私はスタバにも自己啓発にも興味が無いわけなんですが、周囲からはその趣味や思考回路からして意識高い系だとか(おっさん臭いだとか)言われることがあります。<br>何故って、スタバや自己啓発本の真の価値、投資価値をわかっているからです。<br><br>一度、スタバでMacbookを使っている人がどれだけの生産的な活動をしているのか見てみるのも一つでしょうか。<br>その意識高い系さんが、スタバでの時間で幾ら稼げる種を撒いているのか聞いてみたいところです。<br><br>・お断り<br><br>なんてスタバやMacbookをボロクソ言ったわけですが、特にスタバやMacbookを否定する気はありません。
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<link>https://ameblo.jp/epsil0n/entry-12167971051.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Jun 2016 17:25:00 +0900</pubDate>
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<title>サイコパス</title>
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<![CDATA[ 皆様、こんにちは。<br><br><br>この題名を見て、アニメを連想された方々、すいません。私も曲がりなりにもサイコパスは好きですが、私の言うところの「サイコパス」とは、例の千葉大生の件です。<br><br>さて、そんな千葉大生、ネットでは明々後日のベクトルを向いた批判で炎上しているみたいですね。<br><br>(h)ttp://www.j-cast.com/2016/03/31262948.html<br>(h)ttp://news.livedoor.com/article/detail/11361993/<br><br>さて、私は、今回の批判について逆に批判的な意見を持っています。<br><br><br>『「千葉大って犯罪者出しすぎじゃね？」<br>「千葉大は犯罪が多いイメージ」<br>「犯罪者多いから千葉大はやめとけ」』<br><br>恐らく、某掲示板の発言を纏めたものでしょう。<br>しかしながら、これらの批判は本質を貫くどことか、先述通り批判は明々後日の方向を向いてしまっています。<br><br>犯罪者を出し過ぎ？犯罪が多い？<br>昨今の日本の大学の質の低下はおろか、ヒトという存在やその行動学・心理学的要素を考慮していない批判です。もっとも、私立まで言及するなら、その全体のレベルの崩壊は誰もが知るとおりでしょう。<br>例えば、日本に私立の雌雄を決する早慶でも、女子大生が被害の対象となる事件は毎年少なからず発生しています。また、毎年何処かの大学では一気飲みを原因とする死亡事件が恒例行事のように発生しています。それにも拘わらず、千葉大学だけが口撃されるのであればそれは理不尽というヤツです。私も早慶の受験を検討しようとしていたクチですが、結局は「ああ、早慶ってそういう大学なんだ」という結論に達して受験を見送った経緯を持った人間です。あ、因みに別に早慶が嫌いだというわけではありません。早慶でも２－６－２で評価すれば上位２割は素晴らしい学生が集中しています。まぁ、それでも学費を払ってまで逝く大学だとは感じなかっただけです。<br><br>さて、昨今に於いて、スーパーフリーの事件を覚えている人が一体どれだけいるのでしょうか？同志社大生による未成年との連続性行為の事件はどうでしょうか？神戸大を筆頭とした所謂難関大学の学生による威力業務妨害の件もそう。明大の泥酔事件もそう。シルキャンというどうしようもない学生ばかり集まったサークルもそう。<br>そして、極めつけのあの事件。<br>そう、名大の女子大生による殺人事件です。<br>もっとも、サイコパスの疑いを私が感じるのは名大生の殺人事件くらいですが、評価の仕方によっては今回の件もそのきらいを疑ってもいいのではないでしょうか？もっとも、この判断が間違っているという批判もあって然るべきですから、断言はしません。しかし、我々は、事件に対し、もっと広く考えるべきです。<br><br>件の少女誘拐事件は、如何なる事情があろうとも許されるわけではありません。しかしながら、私はここまで千葉大生による誘拐事件がメディアで騒がれていることについては違和感を超えて気持ち悪ささえ感じます。<br>極端な話、全ての大学について人物調査をしてもいいくらいです。それが出来ないならその根拠（恐らく大学過多）を見出し、必要に応じて大学の数を減らし、一大学当たりの教育の質を高めていくことも必要でしょう。もっとも、今のどうしようもない大人たちの社会の動かし方を鑑みると不可能以前に当の本人たちがカイゼンさせる気も無いように感じますが。<br><br>あ、因みに私は千葉大に縁も縁も無い人間です。ただ、ネット上での批判に逆に批判的になってしまう単なる一介の市民です。
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<link>https://ameblo.jp/epsil0n/entry-12145473824.html</link>
<pubDate>Fri, 01 Apr 2016 11:59:11 +0900</pubDate>
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<title>行間を読まない日本人</title>
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<![CDATA[ 久々に投稿してみます。<br><br>ところで、日本には、所謂「空気を読む」という言葉があるように、その場のムードに合わせた、場を乱さない振る舞いが求められることがありますね。入試でも「行間を読め（先生、行間は真っ白です！」なんていわれるくらい、本質を掴むことが要求されます。<br>しかしながら、実際には空気を読むと言いますか、行間を読むということは日本人は非常に苦手なのではないかと私は考えています。何故か。実際には読めるべきときに読めなかったりするからです。<br><br>先日、寺井校長の発言をメディアが取り上げ、大炎上していましたね。これも不思議な話です。<br><br>『今から日本の将来にとって、とても大事な話をします。特に女子の人は、まず顔を上げて良く聴いてください。女性にとって最も大切なことは、こどもを二人以上生むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。<br><br>なぜなら、こどもが生まれなくなると、日本の国がなくなってしまうからです。しかも、女性しか、こどもを産むことができません。男性には不可能なことです。』<br><br>はい、仰る通り。<br>しかし、寺井校長は、昨今の教育現場をオブラートに包んで批判しているように私は思います。<br>あるサイトでは、この話を聞いた生徒の中には<br><br>『女子生徒は「私はまず大学に行きたい。女性だけが年を取って入学するなんておかしい」。別の１年の女子生徒は「勉強するのも記憶力や集中力がある若いときの方がいい」と言った。』<br><br>とのことですが、こういう生徒はいいでしょう。しかしながら、現在、多くの大学のレベルは完全に崩壊しています。特に悪いケースでは、上位国公立や私立との併願をしたものの受験に失敗し、不本意入学をしたケースだと、スタート時点で学生が教官を追い越している場合もあります（実例アリ）。<br>また、大学に行ったものの部活やサークル、バイトに明け暮れるて単位をギリギリ取って卒業するケース、大学に馴染めずニートや消極的中退（＝起業などの相当の事情無く退学するケース）となってしまうケースや非医学系学部で５年生以上の学生もいるケースも考えると、今の大学生のうち、本当に行く意味がある人口がどれだけあるのか、私には疑問です。<br><br>日本が無くなってしまう、ということも、これも試算が出ています。詳しい計算やデータは割愛しますが、このままでは日本は着実に消滅に近付いていきます。<br><br>『「女性が、こどもを二人以上産み、育て上げると、無料で国立大学の望む学部を能力に応じて入学し、卒業できる権利を与えたら良い」と言った人がいますが、私も賛成です。子育てのあと、大学で学び医師や弁護士、学校の先生、看護師などの専門職に就けば良いのです。子育ては、それ程価値のあることなのです。』<br><br>これは賛否両論アリです。<br>ところで、何故女子大はあっても男子大学は無いのでしょうか？それは、本来であれば女性は家を守ればそれで終わりだからです。<br>しかしながら、男女平等だか男女共同参画社会だか云々という平等意識が一人歩きしてしまっている気もします。もっとも、私自身、女子は大学に行くべきではない、ということを言いたいわけではありません。行きたければ行けばいい、しかしながらキャリを率先し過ぎて、生物としての本質を見失っていないか、と疑問を投げかけたいわけです。<br><br>『もし、体の具合で、こどもに恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれないこどもを里親になって育てることはできます。』<br><br>これも、私は賛成です。<br><br>世の中には、経済的にも肉体的にも未熟な青少年が望まぬ妊娠に直面することがあります。そんな時、当事者たちは本人の性的認識の不十分さを責めるだけでしょう。大人たちも、余りに無責任なまでにも、また大して解決策を与えられるわけでもないのにそういうことを不適切な異性間交友と罵りさえすることもあります。<br>しかし、そういうことがありつつも、世の中には治療をしてまで妊娠を望む人口も存在します。消滅可能性都市や限界集落という言葉もあります。この違和感は何でしょうか？<br>結局、社会全体として、人口を増やし、維持していくための意識が根本から欠落しているわけです。曖昧な道徳意識や発言に対する過剰なまでの責任追求体制が、結局は「臭い物には蓋を」の精神を産んでしまうのです。<br><br>『次に男子の人も特に良く聴いてください。子育ては、必ず夫婦で助け合いながらするものです。女性だけの仕事ではありません。<br><br>人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返しです。』<br><br>これも前半は正しいです。<br>私自身、因習的な「男は働き、女は家事」という考え方に対しては賛成しかねます。必要であれば育休を取得し、我が子の成長を見守るのは人生において必要な経験です。<br>そもそも、夫婦というのは結婚の際、互助努力を誓い合った身です。なのに、男性と女性それぞれにユニークな役割を課すことが変です。<br>もっとも、後半部には若干の違和感は感じました。子育ては、本来は生物としての繁栄欲求ですからね。<br><br><br>義務教育では、色々と生徒に問題意識を植え付けています。合計特殊出生率、少子高齢化、核家族、平等意識などと様々です。<br>しかしながら、そういったことを学校で学びながらも、その意識はどこか遠くへ薄れてしまっている気がします。<br>ところで、女性が結婚相手に求める年収でこれまた色々とあるみたいですね。私からしてみれば何とも意味不明な議論ですが。<br>私としては、結婚と株式投資が被ります。最初は魅力的に見えた結婚相手（企業）は、ぱっと見はその中身は（何処まで株価が上昇するか）わかりません。それでも、自分の魅力（判断力）の範疇で、より良い結婚相手（銘柄）を選ぶしかないわけです。顔が魅力的なのか人間味なのか家庭的なのか（財務諸表の中身が魅力なのか事業内容が魅力なのか株価が魅力なのか）を判断した上で、相手を選ぶしかないわけです。<br>しかしながら、昨今の婚活市場で焦っている女性は、ＩＴバブル期の銘柄のようにも映ります。結婚相手に対して、一流企業だから、年収が魅力的だから言い寄る女性は多く居ますが、ではその女性にはそれだけの価値が本当にあるのでしょうか？若かりし頃は若いことだけが取り柄だったからこそ言い寄られていたのに悉くその誘いを断り、賞味期限が切れ掛かってから急に焦りだしている姿は、ＩＴバブルで一気に株価が上がるものの、バブルが弾けて一瞬で価格が暴落して行く銘柄みたいである意味滑稽です。<br><br>私の以上の意見に対しても批判があって当然ですが、私は飽くまで寺井校長の意見に賛成です。もしそれでも校長の意見を批判するなら、それこそ先に行間を読むスキルを磨いてからにしても遅くはありません。<br>感情論でなら、誰でも校長の意見を批判することは出来ますが、しかしネット上でなされている批判をみる限りでは、結局は社会全体としての問題意識はこんなものなのかな、とさえ思ってしまいます。結局のところ、日本人がいうところの「行間を読む」だとかいう技術とは一体何なのか、と疑問に感じる一件でした。
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<link>https://ameblo.jp/epsil0n/entry-12141855334.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Mar 2016 10:18:28 +0900</pubDate>
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<title>「教育の崩壊」</title>
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<![CDATA[ こんにちは、Epsil0nです。<br><br>先日、ふとしたことが切っ掛けで現在の大学の教育の実情についての記事を読む機会があったのですが、ゆとり教育という考え方の恐ろしさを身に染みて感じたことを言うべきかどうか、迷うところです。<br>ところで、そういったゆとり教育の現状について書かれた本として、「分数の出来ない大学生」という著作があります。これはゆとり教育以後の学生の質の崩壊について様々な教員の意見や現状が纏められたものですが、ゆとり教育の恐ろしさのみならず、「大学とは何か」を考えることにも一石を投じている本とも言えます。<br><br>昨今の学生は、大なり小なり苦手科目が当然あります。私でも理系科目、特に数学が得意で、そこに英語が多少、それ続いて情報系や理系と得意分野を持っていますが、対して地歴などの文系科目は全般が苦手です。実際、同じアカデミックな話でｍ、数理科学系の話であればついていけるにも拘わらず地歴の話はチンプンカンプンと、個人的には十分焦りを感じてはいますがその割には永らく改善出来ていないのが「自分もまだまだだな」と反省する点です。<br>しかしその一方で、周囲をみていると私の焦燥感がどこまで「焦り」と言えるものなのか些か疑問になるのもまた事実です。数字が大の苦手で、「数学なんて出来なくても人生は生きていける！」と言い切る友人を見ると、間違ってはいないが何かを勘違いしていないか？と思うものです。<br><br>閑話休題、ここ１０年程度の間に大学の数は爆発的に増えました。いつの話か、新規３校の大学が設置不認可問題が取り沙汰されましたが、私個人の意見としては、例の３校も然り、昨年度もある一校が不認可判定でしたが、この件についても認可すべきだったのかどうかは一言では判断出来ない問題ですが、その理由として<br><br>①大学の新規に設立させることで新たに競争させ、競争に負ける大学は容赦なく潰す<br>②そもそも大学数が明らかに過剰であるのだから、これ以上の認可は不適当<br><br>という二つの理由を挙げることとします。問題なのは①で、現状でも定員割れを起こしている大学や大学としては余りに不適当な教育を行っているにも拘わらず国が補助金を出して運営を続けている大学は少なからず存在していることです。<br>確かに、大学が潰れることで母校が無くなるという事態にはなるでしょう。しかし、見方を変えれば、日本のように学歴がないことによる不利益がアメリカのそれと比べるとそこまで大きくない社会に於いて、母校が無くなったとしても本人が社会での立ち回りを覚える方が余程か重要なことでしょう。大卒でも中卒程度の知識・教養しか有さない人もいるわけですから、「大卒」というブランドに一体どれだけの価値があるのかは十分に疑問です。（・・・が、これは企業の採用担当者の方も感じていることでしょう。）<br><br>ところで、ここからは、現在の大学教育の問題点を個人的見解の下で指摘してみようと思います。<br><br>・リメディアル教育<br>まず以て可笑しいのが、このリメディアル教育という制度です。<br>Wikipediaにも多少のことは書かれてありますが、それでも現状の大学でリメディアル教育が行われている現状を知った上で「可笑しい」と思えない教育者は、その時点で教育者としては失格である、と断言しておきましょう。と言うのも、入学試験に合格した時点で、本来ならその学生は大学での学びについていけるだけの最低限の学力は有していると判定されているわけで、言ってしまえば、その試験の質が悪かったからこそ授業についていけない学生までもを合格させてしまったということと同義であって、入学試験の質を改善させることが大学側の義務とも言えます。<br>もっとも、リメディアル教育の是非を簡単に判断してしまう他の危険性も存在します。例えば、本当に勉学の意欲がある学生で、ギリギリ志望校に受かっていたとしましょう。入試のレベルの多少の差異はあるとしても、やはり入学してから授業についていけない学生は多分にいるものと思われますが、根っこを鍛えなおしてやればきちんと伸びる学生は確かにいます。その意味で、大学の価値を高めてくれる学生がリメディアル教育を受けることには大いに賛成です。と言うもの、高校まででは中途半端な知識で来ていただけで「あと一歩」を誰から支援してあげると一気に伸びる学生も居るからです。<br>また、単位の取得が容易でない大学というものは確実に存在しますが、残念ながらそれらの大学は大抵「留年が多い」「単位の取得が難しい」というネガティブな方向に評価されてしまうことが、今の教育現場の失敗でしょう。留年が多いことや単位の取得が難しいことは、裏を返せばそこまでしっかりと学生を育てる意欲があることと同義であって、むしろ留年へのハードルが低い、単位の取得が容易な授業が多い大学に、４００万なり６００万なり、場合によっては数千万の価値は本当にあるのでしょうか？本当に学びの意義を見出した学生にとって、数百万の学費は高いものではなく、自らの知見を広めてくれる本当の意味での「授業料」であって、リメディアル教育はそれを支えるセーフティーネットとなります。それでも学びの意義が見出せない学生は、１０年程度前に山梨大学工学部で行われたように退学勧告を行い、「何故大学で学ぶのか？」を再認識させた方がむしろ本人のためになるのではないでしょうか。<br><br>・成績表の送付<br>私の知り得る限りでも、二桁の大学が、成績表を親元に送付しています。そこで、親は「Sが何個ある」だとかという余りに表面的な情報でご子息の成績を評価してしまうわけです。<br>実際のところ、同じSでも、授業によってはその質は全く違います。ある授業のSは他のある授業の１Ｃ程度であるということは普通であり、従ってSの取得が容易な授業ばかりで評価を勝ち取っていた学生の学力レベルがBばかりの学生より優れているという証明にはならないわけです。それでも、ご子息がSを大量にとっていれば学生自身も「俺（私）は頑張った」と虚構に満ちた頑張りを証明出来ますし、親御さんも「ああ、娘（息子）は安全なのだな」と変な安堵に落ち着いてしまうわけです。この点、確かに「親に成績が知られてしまう」という焦りに多少は繋がるでしょうが、逆に言うと親に知られて困る成績をとるような学生いると予想されて、またそのような学生が何故学生を続けていられるのかは疑問です。<br><br>・卒論が不要な卒業<br>特に私立大学に多いとは聞きますが、大学を卒業するに当たって卒論が必要ない、というものです。<br>もっとも、「卒論が必要ない」と言ってしまうとこれまた語弊が存在してしまい、例えば医学部医学科などの相当の学部なら卒論（と言うより学位を目的とした論文）はMaster's thesisやPh.D.で書いたら十分、とは言えます。しかし、昨今の大学ではそれ以外の学部でさえも卒論の代替講義で単位を取得すればそれで卒業可能、という制度が当然の状態であり、卒論を書くのは所謂「意識高い系学生」という謎の括りになってしまっている大学が存在しているのが実際です。<br>確かに、欧米などではBachelor's thesisというのは学部内でも優秀な学生のみが書くものですが、では「優秀でない学生」というのはそれまで何をしてきたのでしょうか？また、規模の大きい私立大学では学生数と教員数の比率が悪く、苦しくも質の高い卒論指導が出来ない状況にありますが、しかしそれは明らかに大学側の責任でしょう。大学側には、縦しんば全学生が求めれば全学生が満足に卒論を書ける状態を提供して当然であって、「教員数が足りない」というのは本来なら、教員数と学生数の適当な比率を見越して合格者数を決定しなかった大学側に相応の責任があるわけですね。<br>そして同じ「卒論を書かない」という状況でも、「書きたくても書けない」という状況と「最初から書く気がない」という状況とでは意味がπ rad違います。前者なら担当教員の手腕の問題も考えられますが、後者なら大学の、そして教育現場全体としての問題であって、文字通りその大学の存在意義にも拘わるのではないか、というのが個人的な意見です。<br><br>・盗作論文<br>昨今、他人の論文を不正に引用したり、Wikipediaの内容を丸々引っ張ってこれをさも論文かのようにするケースが相次いでいるようですが、これに関しては大学のみならず、大学までの全ての教育課程に責任があります。というもの、自力では卒論を書けないような論理的思考力や科学的思考力を十分に養成せずに高等教育を受けさせ、そのまま大学へと押し込む。論理的思考力が身に付いていないに卒論を書かせることなど離れ技にも程があるでしょう。当然その様な離れ技が出来るわけもなく、盗作論文が罷り通ってしまう現状には、誰が責任を取るわけでもなく、結局は大学側の責任が追及されてしまうのです。確かに、盗作論文を受け付けた大学側に責任を追及することは正しいことでしょう。しかし、何故彼が、彼女が盗作論文を以て卒論に代えたか。それは、それまでの教育に多大なる功罪があったからでしょう。<br>ところで、花川 典子　阪南大学 教授が不正論文の精査システムを開発した件について、最早「大学」という存在の意義は完全に危ういものとなってしまったと評価すべきでしょう。こういったシステムを開発しなければいけなくなる程に不正論文が蔓延ってしまっていることについては現場の教員を筆頭に真摯に受け止めなければならないことであり、また学力上不適格な学生を迷い無く不合格にするなど、更に引き締めた対応を取らないと大学の存在意義の崩壊は止められないものではないでしょうか。<br><br>今や大学は、補助金を国が出しているからこそ生きながらえているところもありますが、教育目的であるとの大義名分の下、その存在意義が問われかねない大学が何故潰されないのか、やはり業界についてそこまで詳しくない身としては疑問ばかりが残るものです。//<br><br>P.S.<br>これまた古いネタですが、某大学のM.B. SLR McLarenのお話。個人的には<br><br>①結局何がしたかったのか・・・？<br>②単に自身がSaloonの方が好き<br><br>という理由で眉をひそめてしまいましたが、SLR程ではないものの、母校の駐車場にもGクラスやChrysler 300Cが時折停まっており、「学校の経営者って一体何なんだ？」と疑問に思ってはしまいますが、車について疎い人からは「で、凄そうだけど何なの？」と言われる時点で結局彼らも学費を吸い取られているだけじゃないのかな？・・・と思ってしまうものでした。
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<link>https://ameblo.jp/epsil0n/entry-12022780930.html</link>
<pubDate>Tue, 05 May 2015 11:34:24 +0900</pubDate>
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<title>「林檎の失敗」</title>
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<![CDATA[ こんにちは。Epsil0nです。<br><br>ところで、皆さんは腕時計は付けますか？<br>Epsil0nは・・・付けませんね。特にスマホを使い始めてから・・・というわけでもなく、単純に腕時計は使いません。<br><br>さて、Apple Watchが発売されてから早２週間程度。何かと賛否が多いかの腕時計型端末ですが、色々と調べてみたところ、個人的な感想ではありますが、何とまぁ、<br><br><font size="4">何故これをリリースすることになったのか。</font><br><br>そもそも、Apple Watchは、「Apple Watch concept design」とググると出て来るように、かなり近未来的なルックスであることを求められていた商品だと言うべきでしょう。すなわち、スターウォーズやアバターで出て来るような洗練されたデザインで、「This is Apple」という主張を楽しめるSophisticatedなものでないと認められないものであったことが伺えます。しかし結果として実際にリリースされたのはSAMSUNGのSMART WATCHと同系のものでした。これなら、むしろApple Watchという概念自体をコンセプトモデルとしてのみで開発を行い、リリースに十分な状態になってから売り出した方が懸命ではなかったのか・・・？というのが、個人的な感想ですね。<br>少なくとも、余程のお金持ちでないとEdition Modelは買わないでしょうし、私でも１００万円あるなら老舗のしっかりとした「腕時計」を買う方がいいものでしょう。突然、商談の場でApple Watchをつけてくるビジネスパーソンと「ビジネス」向きの時計をつけてくる人では、相手の心象も違うものになりますからね。<br><br>ところで、AppleはiCarなんたるものの開発も行っているとかいないとかという噂もありますが、これもググってみると、面白いことにBMW i8と言うべきか、R-Rのconcept modelと言うか、色が落ち着いているMcLaren P1と言うべきか・・・。これも、デザイン一つで市場から受け入れられるか受け入れられないかが一瞬で決まってしまう、恐ろしい商品であることには間違い無いでしょう。その意味では、他の自動車会社と比べればかなり苦しい立場にあるとしか言えないもので、いきなりフロントグリルにAppleのロゴを入れるだけでは終わることはできない（もっとも、それを活用する方法は色々な車のフロントグリルを研究すれば突破口があることは容易にわかります）こと然り、仮にiCarを作るとしても車としての方向性（大衆車なのかluxury saloonなのかなど）もありますから、実際にiCarが市場に投入されるのには少なくともあと２年は必要でしょう。それまでにどこまでiPhoneとApple Watch、Macがもつかが勝負であって、この点、狭義に「The Ghost of Jobs」に苦しめられるのは必死でしょう。<br>デザインが売り上げに大きく影響することは過去のAppleの製品のみならず他の企業を見ていてもそれは顕著です。国内のある大手自動車メーカーでも、あるグレードのサルーンは、全体のフォルムを変えずにデザインを変えただけで売り上げが向上した例があるとおり、如何に視覚情報が売り上げに繋がるか、ということは最早自明なことでしょう。<br>何れにせよ、今回のAppleの件は、他の企業もしっかりと他山の石としてもらいたいものです。//
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<link>https://ameblo.jp/epsil0n/entry-12022024158.html</link>
<pubDate>Sun, 03 May 2015 15:40:23 +0900</pubDate>
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<title>「論理的思考ができない、致命傷」</title>
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<![CDATA[ 皆様こんにちは。Epsil0nです。<br><br>ところで、皆さん、論理的思考は得意な方でしょうか？<br><br>私は・・・<br><br><font size="4">大の苦手です。（＾＾；</font><br><br>脱ゆとりが叫ばれ、指導要領も大幅に変更されてから早数年。実際のところ、どれだけの効果があったのでしょうか？<br><br>ゆとり世代の学力が低い、ということはよく言われることですが、実際のところでは、むしろ学力が低いというより、「考える力が落ちた」と言う方がしっくりくるのかも知れませんね。<br><br>先日、とあるイベントに参加しました。その時、受付の子が大体２３歳くらいの女性だったのですが、事前に私が聞いていた情報と現場での情報が根本的に相違しており、何点か確認してみたところ、これでもかというくらいに素っ気ない対応が返って来ました。特に、事前にはクレジットカードでの決済が可能だと聞いていたにも拘らず実際は現金払い、持ち合わせが無かったために「近くにコンビニはあるのか？」と聞くと「そこらへんにあるんじゃないんです？」・・・。<br>また、参加方法も何個か選択肢があり、それから選ぶものでしたが、それの説明も中途半端・・・ならまだ良かった。「何がどう違うのか？」と聞くと、最早説明するのが面倒なのかと怒りたくなるくらいにダルそうな説明が・・・。<br>まさに、よく言われる意味での「ゆとり世代」をその場に具現化したかのような女でしたね。<br><br>ゆとり世代は、論理的思考力の欠如や数理的思考力の欠如がしばしば指摘されます。論理的思考や数理的思考というと何やら小難しいものに聞こえそうですが、結局は「人にわかりやすく伝える力」に他なりません。ＡとＣの対比をするなら、一先ずＢを説明するためのステップとして用意し、ＡとＢの関係を明白にし、その上でＢとＣの関係を明らかにすればＡ→Ｂ→Ｃと繋がる、たったこれだけの話ですが、所謂ゆとり世代というのはこの論理関係に疎いわけです。<br>もっとも、数理的思考まで必要かどうかと言われるとこれはなかなか難しいものです。実際、数学を基にした説明を人にするのは避けるべきでしょう。経験者は語るものです。<br>しかしその一方で、人に分かり易く伝える力という能力はいつの時代でも要求されることで、これが出来ないならその人の教養や知識レベルが危ぶまれるものです。実際、先の女性も、ぱっと見は美人でしたが、接客態度や説明力などにかけては本人の人間的魅力や社会性を疑わざるを得ないものでした。顔や服装ばかり取り繕っていても、僅か１０秒でその仮面はあっさりと崩れ去り、水泡に帰すのです。所詮は取り繕っただけのものでしかない、と。<br><br>論理的思考というのは、伝えるだけではありません。相手が何を伝えようとしているのかを判断し、理解する力でもあります。相手が説明に苦しんでいる時に、少し「そこはこう言いたいの？」と一言添えてあげるだけで案外相手は自分が言いたいことを一気に明確にし、話もスムーズに進めることができるものです。すなわち、論理的思考とは、自分の意見を分かり易く伝える能力であると同時に相手の意見や疑問を汲み取る技術であって、これを更に引き延ばせばコミュニケーション能力とさえ言えるでしょう。しばしば就活で必要とされる「コミュニケーション能力」とは、ムードメーカーとして話すのではなく、論理的思考で以て相手の論点と自分の論点を明確にして会話をスムーズにする力であって、ゆとり教育を受けた実害こそ、この論理的思考力の欠如なのかも知れません。//
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<link>https://ameblo.jp/epsil0n/entry-12020362658.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Apr 2015 15:56:30 +0900</pubDate>
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<title>「追いつかない」</title>
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<![CDATA[ 皆様こんにちは。最近多忙だった為に、ネタはあるのに纏める時間が無くやや放置気味だったEpsil0nです。<br><br>ここ数年のスパンで、我々の生活水準は著しく向上しましたね。特にスマホの普及によって、様々なことが非常に便利になりました。<br>ところで、人類の発明のうち、その技術力が年々著しく向上しているのが車です。燃費性能は言うまでも無く、壊れ難さや安全性能で評価するならその成長は文字通りのドッグイヤーと言うべきでしょう。私も一応車好きではありますが、性能の進歩には全く付いていけていないのが実情です。<br>また、数十年前と比べても、車の量産力は桁外れと言えるでしょう。そもそも、車というのはRRやAston Martinのように一台一台の製造に非常にコストがかかるものです。近頃ですと、VWのGolfはコストから入らず顧客の満足から入るやり方で日本で高評価を得ましたが、しかしながらVWは本来的な車の「あるべき姿」を改めて体現したにしか過ぎません。「Das Beste oder nichts」をコンセプトにしていたドイツの某会社も、結局はコスト優先にした為、実質的に質を落としたようなものですが、そのやり方は本来の車作りの考え方としては褒められたものではありません。ぶっ壊れやすいことが特徴的な某スポーツカーも困りモノですが、結局はコストが最優先されてしまっては、本来の車とドライバーのあるべき関係も崩壊してしまう為、総じて「面白くない車」が大量に市場に出回ってしまうのではないでしょうか。<br><br>コストや売り上げばかりを優先してしまうことによる一番の弊害は、まさにその流通量です。<br>ところで、以前は、車はMTが当然でした。初心者には半クラッチは難しかったものでしょう。私も、ハンドルの握り始めはエンストを何回もしたものでした。ATが登場してからというもの、車の運転は一気に楽にはなりました。アクセルとブレーキ、そしてシフトレバー。クラッチを繋げる必要性が無い分、運転のし易さは「楽」へと。しかし、クリープ現象により、意図しない急発進によって多数の方が犠牲になっているのもまた事実です。彼らも、クリープ現象を知らなかったわけではないでしょうし、よしんばクリープ現象を理解していないならそもそも運転する資格はありません。根本的に普通自動車運転免許自体、「自動車を特別に運転することを認められた証」であって、免許を持っている＝運転できる、というわけではないことを改めて認識し直すべきです。<br>車の性能はパソコンよろしく進化を続け、例えばエンジン性能面ではBugattiはまさにその代名詞足り得る存在ですし、安全性能では日本車やBenzはその代名詞足り得るものです。しかしながら、その性能に実際のオーナーが追いついていないことをもう一度考慮すべきでしょう。追いついていなからこそ事故を起こすわけですし、運転技能が未熟なまま身分証明書代わりの免許証が罷り通るわけです。<br>極論では、車はchauffeur drivenをデフォルトにすればよい、というのが持論です。chauffeur drivenだと、運転する上では運転手はかなり気を使わざるを得ないですし、少なくとも事故の発生率を下げるある意味唯一の方法ではないかな？・・・と思います。<br><br>ところでこの僅か数年で、スマホも爆発的に普及しましたね。ところが、以前の記事でも書かせていただいたように、スマホも使いこなせている人は非常に少ない。以前、電池の減りが余りに早いと主張するある友人のiPhoneを見てみたところ、無駄な機能を常にONにしていたせいでした。因みに本人は「そんな機能、知らなかった」とのことでした。<br>「いや、そんなバッテリーの持ちくらいで・・・」と思う方もいるでしょう。問題はむしろここからで、例えば連絡帳の保管や、クレジットカードの情報保存についても同じです。アプリの使用に限らず、私からしてみれば、周囲がスマホだから、ということでスマホを使っている方の使い方をみると、如何に危険な使い方をしているかはある程度知識が無いと判断は難しいでしょう。しかし、知識不足を理由に、実際に被害に遭ってからでは遅過ぎる、ということです。<br><br>日本が世界的な経済大国になったのは、やはり第二次世界大戦やバブル経済を経ての結果と言えますが、しかしその「豊かさ」を享受できているのは残念ながらその「中身」を知っている人だけ、としか言えません。ですが、その元凶をつくったのが今の学校教育であり、教師の望む答えを的確に編み出した生徒が評価される、という、一方では致し方ない、しかし一方では教わる側の知見を狭めてしまう状態が連綿と黙認されてきたことにあります。これは是正されるべきとも言えず、むしろ各個がどこまで自ら学んでいくかにかかっているのが広義の生涯学習の姿なのかも知れません。//
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<link>https://ameblo.jp/epsil0n/entry-12014994442.html</link>
<pubDate>Thu, 16 Apr 2015 12:57:31 +0900</pubDate>
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<title>数学という魔物</title>
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<![CDATA[ こんにちは。Epsil0nです。<br><br>いきなりですが皆さん、数学は得意（ないしは好き）ですか？<br>得意、という方はいいんですが、苦手だというかたの場合の殆どは<br><br>・小学校でサレンダー<br>・中学校でサレンダー<br>・高校文系数学でサレンダー<br><br>の何れかでしょう。<br>因みに、上記に当てはまらない、とは、<br><br>・高校理系数学でサレンダー（ここまでくるとサレンダーとは言えない）<br>・大学教養レベルでサレンダー（いやいや、）<br>・大学専門以上、大学院程度でサレンダー（<strike>そもそも日常でそこまで要らないでしょ</strike>）<br><br>というレベルですが、ここまで来ると最早<strong>多分何か極めてますね。</strong><br><br>斯く言う私は、概ね大学教養レベル（理系の基礎教養レベル）でサレンダーした方かな、というの自覚があります。もっとも、ここまできてしまうと殆ど専門知識になってしまう為、一般的に社会で求められる数学力とはかけ離れていますが。（微分方程式なんて、日常生活で使うことは先ずありませんからね。それならむしろ統計学の方が重要です）<br><br>ところで、数学を諦めた方というのは、その大概は<br><br>・分数や小数<br>・二次関数<br>・微積分<br>・ベクトル<br><br>の辺りで躓いたのではないかな、というのが一般的な相場です。特に高校数学は微積分が最大の山場だというのは有名です。<br>もっとも、微積分は日常生活で使うことはありません。数列は使うことはあるでしょうが、これも、普通は皆さんスーパーでの買い物の時に暗算でやってしまうのが普通でしょうから、現実にいきなり頭の中で数列を作って総和を求める、なんて遠回りなことはしないでしょう。微積分にしても、普通はどう足掻いても日常で必要なことなんてありません。<br><br>何が言いたいかと言いますと、結局は、「日常で使わないから勉強しても仕方ない」というのが実情でしょう。<br>私は、一応基礎的な微積分は一通りこなせますが、例えば広義積分などでは未だに「ナニヲシテイルノカ」を説明することは出来ません。<br>数学が苦手だとかということも、こういった「ナニヲシテイルノカ」がわからなければ確かに面白くともなんともないでしょう。<br><br>私が初めて数学に魅せられたのは、微分と積分の関係を勉強した時でした。微分と積分は大きな繋がりを有する数学の一大分野ですが、その面白さに一気に引き込まれたものでした。まるで、幼き頃、どう折っても同じ船の形になる折り紙の折り方を知った時のように、その完結性は「美しい」の一言でした。<br>しかしながら、今の私でも、その時の衝撃や美しさを人に説明することは出来ません。微積分の美しさというものは芸術品と同じで、味わってみなければわからない、というのが持論だからです。<br><br>数学を早期に諦めてしまっている方というのは、そういう「衝撃」や「美しさ」、「魅力」を知ることなく、ただ受験の為に勉強しなければいけない無味乾燥なもの、という認識があるのかも知れません。確かにそうでしょう。私でも、三角関数の面白さやその利便性に気付くのには軽く２年かかりましたが、それは自転車の乗り方を知らない子供が、最終的には変速機付き自転車まで辿り着くのに些かの時間がかかるのと似ているのかも知れません。<br>また、数学は、一種の麻薬のようなものだと、私は思っています。と言うもの、例えばタバコを止められない人は、ニコチンの魔力に負けているのが相場でしょうが、数学でも、一度問題が解け始めると「次はコレを解いてみよう」という知的欲求や自分の知識の限界を試してみたくなったり、人に拠れば「解けない苦しみが快感で、解けるともっと快感」という、常人からしてみれば<strike>変態</strike>にわかには信じ難い考えを以て数学に取り組んでいるのですから。<br><br>数学の勉強を諦めても、再開のチャンスは幾らでも、何処にでも眠っています。それは、数学が、スマホやゲームのように一過性のものではなく、遥か昔、ピタゴラス学派の功績やその他数多の数学者の功績が未だに讃えられることにも通ずるものだと思われます。<br>もっとも、だからこそ今の教育現場に求められることは、「数学の美しさ」を如何に伝えることが出来るか、なんですが、それが如何に難しいかは数学好きなら誰しもが理解していることです。//
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<link>https://ameblo.jp/epsil0n/entry-12009270521.html</link>
<pubDate>Thu, 02 Apr 2015 12:49:15 +0900</pubDate>
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<title>スマホの使い方</title>
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<![CDATA[ 皆様こんにちは。近頃、スマホの充電が持たず、色々焦っているEpsil0nです。<br><br>買って１年程度で、親も「何故お前のスマホはそんなにバッテリーが持たないんだ？」と首を傾げられてはいますが・・・<br>いえいえ、そりゃ<br><br><strong>改造してりゃバッテリーなんてもたないでしょう</strong><br>・・・ただでさえ普通に使ってもバッテリーが持たないのに。<br><br>はい、その改造ですが、<br>恐らく皆さんでも、スマホを使っていても改造はしたことはないと思われます。<br>もっとも、改造とは言っても、いきなりCPUを差し替えるとかそういうテクニカルなものではなく、所謂脱獄やRoot化と言われる、よりギーク向けの方です。<br><br>私は脱獄もRoot化も<strike>その過程で生じた苦い経験も</strike>味わったものですが、他の人のスマホを見ていて思うのが、<br><br><strong><font size="3">何でそんなに何も入れていないの？</font></strong><br><br>というものでした。<br><br>個人的には、<br><br><strong><font size="2">アプリを入れていないのは、カーナビさえも付けていない車だ（？）</font></strong><br><br>という意見があります。<br>皆さん、車を購入したら、せめてカーナビや、ETCくらいはインストールするものでしょう？<br>しかし、スマホとなると、FBやTwitterなどは入れても、何らのアプリも入れない人は異常に多い。<br><br>もっとも、だからと言って脱獄やRoot化を勧めるわけではありません。脱獄は文鎮の危機、Root化は最低限の知識が無いとウイルスやハッキングの危険に晒されるものですから、私としても無責任に勧めるわけにはいきません。それは、いくらの車好きで、良い車載機があっても、流石にエンジン回りを弄ることを勧める人は居ないのと同じです。（もっとも、私はリムジン仕様やガルウィングには非常に興味がありますが）<br>しかし、私の周囲でも、<br><br>「えばーのーと？・・・って何？」<br>「か・・・かむ・・・かむすきゃなー？」<br>「ふらっしゅ？」<br><br>という人は依然としています。<br><br>もっとも、「知らなかった」という人は非常に多いです。<br>しかしその反面、「知ろうともしていなかった」ということが非常に多いこともまた事実です。<br>これは、ともするとそれまでの学校教育の責任なのかも知れません。<br>高校までは、教師が教える「答え」を丸暗記し、その上で一応自分なりに答えを捻り出せれば満点をもらえました。しかし、そのプロセスには「自ら知る」というプロセスは余り含まれていませんでした。答えは大抵目の前に存在し、自分から探し出すとしても大概は参考書に既に書かれており、必要なことと言えばせいぜい新たに参考書を増やす程度。<br>それだけではありません。<br>高校生までの間は、「受験で合格しないといけないから」参考書を開け、無心に勉強していました。つまり、義務的だったのですね。<br>ところが、スマホのアプリや改造行為は、「知らなくても十分使えているから」勉強する必要がないわけです。バッテリーの持ちが悪くても、「周囲も持ちが悪いと言っているから私のスマホだけが異常なのではない」という意味不明な理解に到達するわけです。（詳しいことは割愛しますが、この考え方は統計学的には非常に馬鹿馬鹿しい結論です）<br>しかし、考えてもみて下さい。一台５万円程度はする機械なのに、その性能の半分以下も引き出せずに満足していいのか。<br>脱獄やRoot化を行えば、性能の２００％程度は引き出せます。しかし、これは相応のリスクを伴う為、ある程度慣れている人がしないと恐ろしいことになります。（実際、私も一度脱獄で文鎮寸前までいってしまいました）<br><br>話は変わりますが、近頃、車は、所詮移動のアシだ、という人が少なくありません。サルーンより軽がよく売れていることからもそれは垣間見ることが出来るものです。<br>しかし、本来、車とは所有欲や自己満足を満たすものであって、本来的にはRRのような車が本来的な意味での「車」足りうるものであって、大量生産はフォードが確立したものです。<br>時代によって「意味」が変わってしまったものは多数ありますが、やはり歴史を知り始めると、世代に浸透している「考え方」や「共通意識」というものは恐ろしいものだな、と思います。//
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<link>https://ameblo.jp/epsil0n/entry-12008857993.html</link>
<pubDate>Wed, 01 Apr 2015 13:58:01 +0900</pubDate>
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<title>お金の教育をしない国</title>
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<![CDATA[ 皆様こんにちは。近頃ちょびちょび毒舌が多いかな？と悩んでいるEpsil0nでございます。<br><br>今回は、やや毒舌、というより批評志向で書いてまいります。<br><br>ところで、「朝まで生テレビ！」（テレビ朝日系）で堀江貴文氏が経済ジャーナリスト荻原博子氏を論破した、ということだそうで。<br><br>私個人の意見を言えば、当方、堀江氏の意見には賛成です。<br>少しばかり話を逸らしますが、当該対話で堀江氏が言った<br><br>「その時に『投資しなさいよ』って言って、その人たちが素直に投資したと思いますか？ 絶対できない」「（散財を）国が『そんなのは駄目なんだ！』って言うことだってできないわけでしょ？ じゃあ、これもう完全に自己責任じゃん」<br><br>これについては、ある意味、「クレジットカードは手元に現金が無くても買い物が出来る。自分で購買欲をある程度コントロール出来る人の強い見方」と、縦しんば国がアピールしても、カードを使おうとする日本人はそう多くはないことにも通じてくるかと思われます。一般的な家庭なら、年間の支出は１００万を超えるのは普通ですが、例えばこれを全てカードの決済に充てれば１０００円で１ポイントだとしても１０００ポイント以上、マイルが貯まるものなら年間でも１００００マイル以上は貯まりますし、JCBのプロパーならThe Premierのインビテーション条件に合致します。<br>アベノミクスでの（実施はされませんでしたが）政策の一つにライフ・アシスト・ポイント制度が検討されていました。この制度が実施されれば、美味しい思いをするのはカード利用者のみですが、結局は実現されませんでした。これも、現金が強い国ならではの状況でしょう。国が推進していても、国民がそれまでの教育課程の問題で政策や考え方を受け入れなければ何も進まないのです。<br>別にクレジットカードでなくても、銀行が推し進めているものにデビットカードがありますが、これもそれ程の普及はみられないものと思われます。デビットカードは、確かにクレジットカードと比べれば扱い難い感はありますし、実際、私はデビットカードは所有していません。発行会社にも拠りますが、概ね１０００円で２円程度のキャッシュバック。これが皆さんにとって魅力的かどうかはわかりかねますが、私にとっては「利便性としては不十分」ということでクレジットカードを使っているわけですが、デビットでさえも使わないのは如何なものなのでしょうか。其の反面、面白いことに、大抵の方はプリペイドカードは利用します。代表的なものではICOCAやPASMO、WAONなどはその代表例でしょう。先にチャージしておくことで使えるものですが、これも、クレジットと紐付けている方がどれだけ居るのか。<br>ですから、私にとって興味深く、また違和感を感じるのは、プリペイドカードや実質的なポストペイ型のものを使う人は非常に多いにも拘わらず、クレジットは使わない、ということです。<br>確かに、クレジットは情報の流出や、悪用された場合の保証など、その危険性は数多く存在します。しかし、私のカード人生に於いて各種リスクの実際発生確率はゼロで、むしろ現金を多額に持ち歩くリスクの方が圧倒的に高いということが経験から断言出来ることです。（統計学的な側面からこの点を議論することもアリかも知れませんが、少なくとも、限度額が低い平カードのリスクなぞタカが知れているものです。むしろ現金を紛失するリスクの方が精神的ダメージも遥かに大きい筈です）<br><br>閑話休題、<br>老後の為の蓄えを作るのは易しいことではありません。銀行の定期預金は金利は余りに低いですし、FXや外貨預金は元本割れのリスクを孕み、株式は暴落の危険性が、投信は論外と言えるかも知れません。FXはスワップがあるとは言え、資金が無ければ必要以上の長期戦となりますし、外貨預金は金利は確かに日本円より高いとは言え手数料が高く（FXの１００倍程度か）、株式は最悪紙屑、投信も私の親類が数百万の実質損（専門家が運用と言っても、厳密にどういう経歴なのか、学士なのか修士なのか博士号なのかなどの情報を得られる方は少ないでしょう）。どれに投資しようにも、お先が明るいとはお世辞にも言えません。<br>もっとも、それらのネガティブな考え方になってしまうのは、今までにお金の教育を受けてこなかった為です。日本は永らく詰め込み方教育を行い、単語を一つでも多く覚えることで評価される教育をしてきた為、また家庭でもお金に関する教育を積極的には行っていないことが一番の問題かも知れません。その意味で、アプリ内課金やパチンコに使う金があるなら、そのお金を溶かしてしまう前提で金融商品に投資し、経験を積むことがbetterと私は断言します。確かに金融商品は初心者が手を出すには余りにリスクが大きいですが、しかし経験がモノをいう世界です。これまで全く金融商品に手を出したことのない方が退職金を投ずる、といった銀行では（よく？）あるようですが、それこそそれまで全く金融商品について勉強してこなかった方が銀行を信じれば、カモられるのがオチです。再度の指摘ですが、銀行は株式会社であって、NPOでもNGOではありません。<br><br>さて、堀江氏は、老後に備えての蓄えを、という指摘をしましたが、これについても、特段に「毎月１０万円を節約しろ」なんて言っているわけではありません。遠回しであっても、お金の勉強をしろ、資産の運用を覚えろ、と言っているにしか過ぎません。<br>荻原氏の経歴を考えれば、高齢失業者を擁護する発言は致し方ないものではあります。しかし、それと同時に、「高齢者だから」という大義名分の下、高齢者を甘やかすのはどうかと思われます。確かに、昨今の日本では所謂ワーキング・プアと呼ばれる層も居ており、それに対する対策は確かに必要でしょう。しかしそれと同時に、結果の平等にフォーカスを当てるなら、それは機会の平等を最大限利用して真面目に頑張ってきた人に対する冒涜でしょう。若い頃から苦労して成功しても、その成功を結果の平等に託けて散財してきた層に分け与えなければならない。確かに、所得の再分配は国の仕事ではあります。しかしそれと同時に、所得の再分配は成功者の義務ではなく、飽くまで国が成功者から搾り取り、それをシェアしようとしているにしか過ぎないわけです。<br><br>所得をどう使うのか、それは各個の自由です。しかし、だからこそ成功者は自分の好きなように所得を使う権利があるのであり、その人が知る「成功のノウハウ」をシェアすることも然りです。国がお金の教育をしないなら成功者がそれを進んで行うことは、別に成功者が自分の財を失うわけではありません。成功者は自らの財を（言葉が悪くなりますが）怠慢者に分け与える必要性なぞ何処にも無く、それならむしろノウハウのみを教え、それを生かすも殺すも怠慢者の自由、そうすることで機会の平等を産み、結果の平等は二の次、そうあるべきではないかとは思います。<br><br>所得を活用した投資、そのニュースの一つに、若干古い話題ですが、一つに慶応の含み損の件。６年ほど前のニュースではありますが、関係者は何故そのタイミングに含み損が報道されたのか困惑している、とのことでした。と言うのも、学校法人側としても、少子化により入学者数が昔ほど確保出来ないと当然それだけ収入は減りますし、其の上で学園を運営するとなるとどうしても既存の資産を投資に回さざるを得ません。しかし、（もっともここは私自身も疑問ですが）法人には資産運用について専門家が居ない為、その運用を金融機関任せ、と言う点は、日本を代表する私立大学の実情としては褒められたものではないでしょう。慶応も当然理工系学部や経済学部はあるわけですから、金融工学について研究している教授もおられると考えるのが妥当ですし、そもそも実践で使えない人間が学生に教えているという事実にもいささかの違和感を感じます。<br>・・・とは言え、それでも、含み損に対してここまでメディアが中途半端に敏感なのもどうかとは思います。<br><br>こういったように、資産というのは運用して将来に向けて増やさなければならないもので、収入に対して相応に使っているのでは、それは自己責任というものです。にも拘わらず情に訴えかける方法を以て高齢失業者を守ろうとするのは過保護というものでしょう。それまで２０年、３０年と生きてきて全く蓄えが無いことこそ可笑しいのであり、いくら憲法で文化的な最低限の生活を謳っていようとも、褒められたことではありません。結果の平等を重視するあまり、生活保護の形で、本来なら十二分に働ける人をさえ甘やかすなら、それこそ真面目に働いている人がバカをみるだけです。<br>もっとも、私は成功者ではなく、成功する為に準備を進めている程度の人間です。しかし、成功したいと、老後に備えたいという人が居れば助言くらいはするくらいの人間ではあります。だからこそ、改めて問いたい。<br><br><strong>皆さん、本当に、これまで景気が良かったのか云々との言い訳で散財していたような高齢失業者を擁護すべきだと思いますか？</strong>
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<link>https://ameblo.jp/epsil0n/entry-12007991737.html</link>
<pubDate>Mon, 30 Mar 2015 11:06:46 +0900</pubDate>
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