<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>今日もいい天気だといいな</title>
<link>https://ameblo.jp/eremin-2021/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/eremin-2021/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>趣味のゲームや、リアル仕事のことなど、適当に思ったことを書いてます。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>憧れていたマン研に入部した時の話</title>
<description>
<![CDATA[ <p>いよいよ高校編に突入。</p><p>&nbsp;</p><p>以前も書いたが、高校入試は比較的すんなりとクリアすることが出来た。成績も良かったので、普通に地元の進学校に入学し、江ノ電で通学するという、青春ドラマのような生活が始まった。</p><p>&nbsp;</p><p>さっそく部活動を選ぶことになったのだが、中学の時は吹奏楽部だったので、そのまま吹奏楽も選択肢にあったけれども、やはり自分の中ではマンガに対する想いが強かったこともあり、マンガ研究部に入部することを決めた。</p><p>&nbsp;</p><p>放課後、おそるおそるマン研の部室(といっても、空いている教室を借りているだけ)に行き、そこにいた先輩たちに「マン研に入部希望です」と告げると、部長らしき女性がとても喜んだ様子で「おお～!!」と出迎えてくれた。</p><p>&nbsp;</p><p>自分の他にも、３人ほど入部希望者が来て、それぞれ自己紹介をしたあと、マン研の活動内容について説明を受け、帰りに画材屋に寄って、マンガを描く道具をそろえることになった。</p><p>&nbsp;</p><p>先輩たちに教えてもらいながら、墨汁やGペン・丸ペン、ケント紙など、とりあえず最低限の道具を買い揃え、これから始まる部活動の日々を想像しながら、新入部員である同学年の仲間たちとウキウキしながら語り合ったことを覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>次の日、部長から「とりあえず、一度自分で何かキャラクターでも描いてみて」と言われ、これまでノートの端に見様見真似で適当に描いたことしかなかった自分は、人気漫画家のキャラクターをなんとか描いてみたのだが、新入部員の中では一番ヘタクソで、とても恥ずかしくて見せられないような絵しか描けなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>他の新入部員たちは、みなそれぞれ個性的なキャラクターを描いていて、画力もそれなりにあって上手だったので、たぶん子供のころからずっとマンガを描いたりしていたんだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>部長を始め、副部長や他の先輩たちも同じように鉛筆でラフを描いていて、出来上がった絵を見せてもらうと、さすが先輩、ものすごく上手で、特に部長と副部長の二人は、同人誌での活動もしていたらしく、プロ並みに画力があってレベルが段違いであった。</p><p>&nbsp;</p><p>先輩はともかく、同学年の仲間たちにも劣る画力しかなかった自分は、「単に好きなだけじゃだめだ、きちんと努力して絵の練習もたくさんしなければ」と、かなりショックを受けて、その日から毎日、帰宅してから寝るまで何度も何度も絵の練習を続けていった。</p><p>&nbsp;</p><p>いきなり上手くなることはないのだから、まずはマンガ家のトレースから始めていった。短時間でそれなりに上手くなるには、真似をすることが一番早いと思ったのだ。もちろん、好きなマンガ家の影響はとても受けることになるけれど、多かれ少なかれ、みんな自分好みのマンガの影響は受けるものなのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>例えば、ドラゴンボールが好きならば、どうしても鳥山先生の絵に似たようなキャラクターを描いてしまうだろう。なかなかオリジナル性を出していくのは難しい。でも、取っ掛かりは人真似でもいいと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>一番大事なのは、「好きであること」なのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>「好きこそものの上手なれ」</p><p>&nbsp;</p><p>結局、これに尽きるんだ、何事も。</p><p>好きなことをしているときは、時間も全く気にならないし、いくらでもやっていられるし、食べることも寝ることもそっちのけで没頭する。そういうものなのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>先輩たちからマンガを描く知識を得ながら、絵もどんどん上達していき、２年生になる頃にはそれなりにマンガとして見られるくらいになっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>もう、毎日が楽しくて仕方がなかった、そういう１年間であった。</p><p>&nbsp;</p><p>続く。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/eremin-2021/entry-12756516497.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Aug 2022 22:36:47 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>オタクへの目覚め</title>
<description>
<![CDATA[ <p>マンガとの出会いは、少し前にも書いたのだが、友達の影響が大きかった。</p><p>&nbsp;</p><p>もともと自分の世界に浸るのが好きなタイプであったため、空想をしたり、物語の中に入り込んで、あたかも自分がそこで生活しているような疑似体験をするのがとても好きな子供であった。</p><p>&nbsp;</p><p>現代ではメタバースという、仮想空間で実際の経済活動をしたり、インターネットを介してコミュニケーションをとりながらサービスを受けたりする、新たな試みが話題になっているのだが、当時の自分はまさに似たようなことを自分の頭の中で空想して楽しんでいた。</p><p>&nbsp;</p><p>近いものにネットゲームもある(以下ネトゲ)。元々がこのような自分なので、ネトゲにハマるのも自然の流れであったし、それが生活の一部になるのも、自分にとっては別段おかしいことではなかった。ゲームの話はそっちのカテゴリーで書くことにするので、ここではあまり詳しく書かないことにする。</p><p>&nbsp;</p><p>中学時代は読者としてマンガを読むだけだったのだが、だんだんと自分でも「マンガを描いてみたい」という気持ちがわいてきて、落書き程度ではあったが、少しずつノートの端に好きなマンガのキャラクターを描いたりしていた。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、具体的に「マンガを描く」ということを、どのようにやったら良いのかわからず、現代のようにネットですぐ調べることもできない時代だったため、雑誌等の断片的な情報からなんとなく想像するくらいしか、手段がなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>そうなると、だんだんと共通の趣味を持つ仲間が欲しくなってくる。マンガが好きな友達はいたのだが、マンガを描くという一歩進んだところまで踏み込んだ友達はいなかったし、なかなかみつからなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>中学卒業が近づき、高校受験を控えて、自分が受験する高校の情報を集めているとき、たまたま部活動の情報も入ってきたのだが、その時初めて「マンガ研究部」という部活動が高校にあることを知り、期待で胸がドキドキしたことを覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>今思えば、オタクという言葉も、このころから徐々に広まってきたように思う。昔のオタクは、なんとなく「気持ち悪い」とか「根暗」とか、ネガティブなイメージがつきまとい、変人扱いされることも少なくなかったため、自分がオタクであることを隠したり、認めたくなかったりするなどの「後ろめたさ」があった。</p><p>&nbsp;</p><p>そろそろ高校編に移ろうかと思うが、高校に入学してからの自分は、まさにオタク道まっしぐら、といった青春を送っていたので、今の若者が堂々とオタクを名乗って表舞台で自由に表現している姿を見ると、羨ましくもあり、「いい時代になったな」と安堵する気持ちもあったりして、オタクの先駆けとして青春を謳歌していた自分としては、「いいぞ、もっとやれ!!」と応援したくなってくる。</p><p>&nbsp;</p><p>好きなことを好きだと公言できる、そんな世の中になって、とてもうれしく思う。いや、当時でも公言できたのだが、偏見や差別が多かったあの時代では、なかなか勇気のいることだったのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>次回からは、高校編に移ろうと思う。自分の中では、人生で一番楽しかった時期だったので、思い出もたくさんある。が、その反面、人生のつまづきの初めの一歩でもあった、高校時代でもあった。</p><p>&nbsp;</p><p>少しずつ、かみしめながら綴っていこうと思う。自分史なのだから。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/eremin-2021/entry-12754206716.html</link>
<pubDate>Tue, 19 Jul 2022 14:47:49 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ピアノを辞めた話</title>
<description>
<![CDATA[ <p>続けて部活の話を書こうかと思ったが、高校に入学してからの方が多いので、いったん別の話に戻ることにしよう。</p><p>&nbsp;</p><p>小学生の頃とは違い、中学生になると、いろいろな面で選択肢が増えていく。</p><p>&nbsp;</p><p>例えば、習い事ひとつにとってもそうだ。３歳から始め、１２歳で小学校を卒業するまで、ずっとピアノのレッスンを受けていた自分だが、卒業と同時に父の転勤で引っ越し、神奈川の中学校に入学すると、それまで習っていたピアノのレッスンが途絶えてしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>というのも、教えてくれる先生がなかなか見つからなかったというのもあった。母も自分も、藤沢に知り合いなどいるわけでもなく、近所にピアノを弾くような人もいなかったこともあって、ピアノ教室があるのかすらよくわからなかったし、そういった情報がなかなか得られないまま、なんとなくレッスンから遠のいてしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>しかも、中学に入学すると、勉強に限らず、部活動でも指導する先生が部によってより一層、内容も濃くなって専門性が出てくることもあり、ピアノしかよく知らなかった自分にとっては、たくさんの可能性を秘めた様々な選択肢に興味津々で、ピアノから気持ちがどんどん遠のいていくことをうっすら自覚していた。</p><p>&nbsp;</p><p>母・静子は、せっかく１０年もピアノを習って、それなりに上を目指せるくらい上達してきたのに、このままレッスンをやめてしまうことをとても残念がり、何度か「ピアノを続けてほしい」と言ってきたのだが、自分の気持ちは以前のようにピアノだけに情熱を注ぐほどの熱量はなく、はっきりと</p><p>&nbsp;</p><p>「ピアノのほかにもやりたいことがたくさんあるんだ」</p><p>&nbsp;</p><p>と、ピアノに未練はそれほど残ってないことを告げ、母に反抗し、自分の意志をきちんと伝えたことがあった。</p><p>&nbsp;</p><p>母・静子はその言葉がショックだったらしく、それ以降二度と「ピアノを続けろ」とは言ってこなかった。ずいぶん後になってから母から聞いたのだが、このとき母は</p><p>&nbsp;</p><p>「若いこの子には、これからの人生たくさんの選択肢があるのだから、親のエゴで強制してはいけない」</p><p>&nbsp;</p><p>と思って、親の夢を押し付けるのではなく、本人の好きなことをやらせた方がいいのだろうと、考えを改めたと聞いた。</p><p>&nbsp;</p><p>娘が少しずつ大人になっていく変化を、母親としても感じ取ったのだろう。もう親のいいなりで何でも言うことを聞くような年齢ではなくなってきたのだと、静子なりに反抗期の娘を理解しようと努力していたのだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>こんな経緯で、ピアノは趣味として時々弾くだけになり、音大へ行くという母親の夢はこの時点で潰えたのであった。</p><p>&nbsp;</p><p>じつは、ピアノの先生が見つからなかったというのは表向きの理由であり、自分の中では初めて挫折を味わった、あの「ピアニストを目指す転校生の男の子」の存在がずっと頭に残っており、なんとなく自分の才能の限界点を本能的に察してしまったことが、ピアノの道へ進むことをあきらめた本当の理由であったことは、静子も知らないであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>今になっても、あの時ピアノを辞めたことを後悔はしていない。趣味として弾くぶんには、十分すぎるほどの腕前があるが、職業として弾くことは自分には合わなかっただろうと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>ピアノを習わせてくれた母には感謝している。その後の人生においても、たまに弾くピアノは生活に彩を添えてくれた。よい経験をさせてもらったと思っているし、何より音楽は心を豊かな気持ちにさせてくれる、魔法のお薬みたいなものだ。</p><p>&nbsp;</p><p>プロにならなくても、趣味としてたくさんの習い事をすることは、決してマイナスではないし、むしろ人生を楽しくしてくれるのだと、つくづく感じ入っている。道はひとつではないのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/eremin-2021/entry-12751161571.html</link>
<pubDate>Fri, 01 Jul 2022 11:01:07 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>部活の話・その1</title>
<description>
<![CDATA[ <p>音楽好きだった自分は、中学に入ってから部活動を決める際、特に悩むこともなく吹奏楽部に入部した。</p><p>&nbsp;</p><p>ピアノばかり習っていたので、違う楽器もやってみたかった、というのも理由のひとつ。小学生のころ、授業でリコーダーを得意としていたこともあって、クラリネットやフルート、ピッコロなどの女性人気が高い楽器を希望したかった。</p><p>&nbsp;</p><p>だが、そういう楽器は競争率がとても高く、吹奏楽部のほとんどは女子が占めていたせいか、木管楽器に人気が集中してしまい、上級生から「他の楽器を希望するように」と強引にはじかれ、しかたなく他の楽器を希望することになった。</p><p>&nbsp;</p><p>生まれた時から体格が良く、身長も高く大柄であった自分は、よくよく考えてみれば華奢でかわいらしいイメージのピッコロやフルートなどは、見た目からも自分には合わない気がした。</p><p>&nbsp;</p><p>でかい自分に似合う楽器といったら、当然低音を響かせるチューバや打楽器などの大きい楽器だろう。どうしたもんかな、と悩んでいたとき、ふと目に留まった楽器があった。</p><p>&nbsp;</p><p>ひときわ目立つ、弦楽器。コントラバスである。</p><p>&nbsp;</p><p>自分の身長を超すくらい大きく低音を奏でる弦楽器で、演奏するときは立って演奏する。「これだ!！」とピンときた自分は、さっそく「コントラバスをやってみたいです」と先輩に告げた。</p><p>&nbsp;</p><p>だが、ひとつ問題があった。</p><p>&nbsp;</p><p>じつはこのコントラバスは、その年に初めて学校が購入した楽器であり、今まで誰一人として演奏したことがない楽器だったのだ。当然、コントラバスの先輩もいないし、完全に独学でやっていくしかない状況だった。</p><p>&nbsp;</p><p>教えてくれる先輩も、講師もいないのに、どうやって演奏すればいいのか。学校もその辺をよく考えて購入しろよ、とは思ったものの、いないものはしかたがない。</p><p>&nbsp;</p><p>顧問の先生も、大まかな知識しかなかったらしく、基本的なことはなんとなく教えてもらえたが、あとは自分で教則本を買ってきて、独学で学ぶしかなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>早速楽器屋へ行き、教則本と、弓に塗る松ヤニを購入して、とにかく本に書いてある通りに独自練習を続けた。あとは、もともと自分が持っていた音楽センス(笑)で、感覚的に楽器を使いこなしていくという、力業でそれなりに形になっていった。</p><p>&nbsp;</p><p>あとはごくたまに、近くの大学の吹奏楽部のお兄さんが教えにきてくれることがあったり、こちらから出向いて指導を受けたりして、そこそこ弾けるようになってきたのは、二年生になったころからだった。</p><p>&nbsp;</p><p>部活でただひとりしかいないコントラバス奏者だった自分は、部内にライバルもいなかったため、吹奏楽コンクールには必ず出場することができた。</p><p>&nbsp;</p><p>年に一度のコンクール。夏休みも学校に練習に行き、地方予選ではそこそこ良い成績を収めて金賞をとったこともあった。金賞は３校しか選ばれず、その３校の中から県大会へ出場する学校が１校だけ選ばれる、という仕組みだった。</p><p>&nbsp;</p><p>だが、同じ地区に毎年全国大会にも出場しているような、強力なライバル高校があり、いつも当然のようにその学校が選ばれていたので、金賞がとれただけでもよくやった、という感じだった。</p><p>&nbsp;</p><p>公立の学校ではそれが限界であった。ライバル校は私立で、お金をかけて専門の講師を雇って指導してもらったり、楽器もグレードの高いものを使っていたりして、中古の楽器を使いまわしながら独学でやっている高校とは、比べ物にならない差があったのも事実だった。</p><p>&nbsp;</p><p>やはり、金の力は偉大だ(笑)。</p><p>&nbsp;</p><p>まぁ、何事も、指導者と資金力の差がモノをいう。公立と私立、それだけでもスタートラインからすでに差があり、ぶっちゃけ公平ではない気がするけれど、日本という国は何でも「精神論」で通そうとするところがあるので、「要はやる気・努力があるかどうかだ」とすり替えて生徒を鼓舞する傾向がある。</p><p>&nbsp;</p><p>いやいや、いくらやる気とか努力とかあってもね、無理なもんは無理だろうし、余計なプレッシャーをかけて生徒にストレスためさせる指導の方がどうかと思うんだが。</p><p>&nbsp;</p><p>いろいろ複雑な感情を持ちつつも、それでも所詮学校の部活動の範疇だし、こんなもんだろ、というのが当時の自分の本音だった。</p><p>&nbsp;</p><p>続く。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/eremin-2021/entry-12748922206.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Jun 2022 13:33:19 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ア・テストという神奈川共通テストがあった時代の話</title>
<description>
<![CDATA[ <p>約40年ほど前。自分が中学生のころは、「ア・テスト」という、高校受験に必須の神奈川共通テストがあった。</p><p>&nbsp;</p><p>ずいぶん前にもうなくなってしまったらしいが、当時は「内申点50%・ア・テスト20%・受験当日の成績30%」という配分で高校に合格するかどうか決まっていたので、中学２年生の時に実施されるア・テストの成績は、とても重要であった。</p><p>&nbsp;</p><p>全科目のテストがあり、テストが近くなってくると、授業もほぼすべて「ア・テスト対策」に向けられるようになる。過去出題された問題集を繰り返し勉強し、傾向と対策が練られるわけだが、毎年だいたい似たような問題が出題されているので、過去問をしっかり反復学習していれば、満点に近い成績を取ることも可能であった。</p><p>&nbsp;</p><p>自分はこの時のア・テスト対策で勉強した内容が、今でも記憶にしっかり定着しており、知識の基礎となっている。特に美術や音楽といった芸術面での基礎知識は、このア・テストの時に学んだものが多い。</p><p>&nbsp;</p><p>中学進学しても、それなりに成績上位であった自分は、ア・テストも難なくクリアし、ほぼ満点に近い成績を取ることができた。この時点ですでに高校受験はよほどのことがない限り、落ちることはないと思われた。</p><p>&nbsp;</p><p>元々が真面目で先生に対しても従順であった自分は、内申点も良かったと思う。当日の受験さえ問題なくクリアできれば、高校は間違いなく合格できるだろうと思われた。</p><p>&nbsp;</p><p>あとは、どの高校を受験するかなのだが、当時学年で300人近い生徒がいた中で、上位30番以内の成績の者は、「湘〇高校」という東大にも合格者が出るような有名な進学校を受験し、30～70番くらいの者は、「鎌〇高校」へと進学する者が多かった。その次が「七〇〇浜高校」で、だいたい90番以内の成績の者が進学することが多かった。</p><p>&nbsp;</p><p>当時この上位３校が、地元では進学校として一目置かれていた高校であった。自分は成績に偏りがあって、英語が苦手で足をひっぱっていたこともあって、平均して60～70番前後をウロウロしているような位置にいたので、おのずと「鎌〇高校」か「七〇〇浜高校」の２択となった。</p><p>&nbsp;</p><p>どちらの高校も江ノ電に乗って通学し、まるで青春ドラマに出てくるような環境で高校生活を送ることができるので、正直どちらを受験してもよかったのだが、鎌高は高台にあって海が見えないけれども、七高は目の前に海が広がり、江の島が見え、とても景色が良い高校であったので、ただそれだけの理由で自分は七高を選んだ。</p><p>&nbsp;</p><p>鎌高より少し下のランクに下げた受験でもあったので、すんなりと七高に入学することが出来て、高校受験は全く苦労することがなかった。親、特に母・静子はランクの高い鎌高への進学を望んでいたようだったが、本人の希望が強かったこともあって、七高進学を反対することはなかった。静子にしてみれば、七高でも十分に周囲に自慢できる学校だったから、反対しなかったのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>加えて、七高のウリは「自由な校風」であった。生徒の自主性を重んじ、厳しい校則なども極力なくし、生徒の個性を伸ばすような教育方針をとっていた。当時はまだ新設校であり、自分が入学したときはまだ設立１０年目くらいの、新しい高校であったことも選んだ理由であった。</p><p>&nbsp;</p><p>のちに、この七高での学生生活が自分の中で、人生最高の時間を過ごすことになるのだが、この話は高校編でまた続きを書くことにしよう。</p><p>&nbsp;</p><p>---------------------------------------------</p><p>４０年近く前の話なので、当時と現在では、高校ランクもだいぶ変わっていると思う。残念ながら母校・七高は自分が卒業して以降、進学校としての評判はかなり落ちて、今では「自称・進学校」と揶揄されるような有様だと伝え聞いた。正直、複雑な気持ちではあるけれど、これも時代の流れなのだろうなぁ。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/eremin-2021/entry-12747409404.html</link>
<pubDate>Thu, 09 Jun 2022 22:22:59 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>好きなものを理解されない辛さ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>このところ、どちらかと言えば真面目で深刻な、そんな内容のものが続いていたので、ここらで少し違ったエピソードを・・・と思ったけれど、思い出すのは楽しかった思い出よりも、なぜか「イヤだったな」「辛かったな」「ショックだったな」といった、ネガティブなものばかり思い出してしまう。</p><p>&nbsp;</p><p>人間は、たぶんそういう風に出来ているのだろう。楽しいことは覚えていても、辛く悲しい出来事に上書きされてしまい、記憶に強く残るのは、たいてい後者の方だったりする。</p><p>&nbsp;</p><p>些細な事も、積み重なると次第に大きなものになっていくものだ。人の心はそうやって少しずつ、病んでいくのではないだろうか。自分でも気づかないうちに傷口はどんどん広がっていき、気づいた時には自分自身の力ではどうにもならないことになっていた、なんてことも。</p><p>&nbsp;</p><p>トラウマ(心的外傷)、という言葉を聞いたことがあると思う。過去にショッキングな出来事とか、自分の処理範囲を超えたストレスなどにさらされると、心の傷としてその後もずっと残ってしまう現象なのだけど、トラウマには程度があって、軽いものから重いものまで様々あるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>自分の場合、子供の頃に母親から受けた些細な出来事が、その後の人生で結構長く「嫌な記憶」として残り続けたことがあった。</p><p>&nbsp;</p><p>子供の頃、徹底した管理教育の下で真面目で優等生、絵にかいたようなイイ子であった自分は、母・静子の厳しい教育方針もあって、いわゆる漫画やアニメといった娯楽は、テレビで放送されているもの以外、ほとんど接する機会がなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>中でも、「ベルサイユのバラ」のような、フランス革命を題材にした質のいいアニメとかなら観ることが許されて、テレビ放送がある日はとても楽しみにしていたことを記憶している。</p><p>&nbsp;</p><p>そんなとき、友達の家に遊びに行ったとき、漫画の単行本というものを初めて目にして、「りぼん」「なかよし」といった、少女マンガの雑誌があることも、その時初めて知った。</p><p>&nbsp;</p><p>衝撃だった。世の中には、こんなにも楽しく、夢のような物語を掲載している雑誌があるなんて、ぜんぜん知らなかったのだ。それからというもの、友達の家に遊びに行っては、漫画本を読み漁り、どんどんマンガの世界にハマっていった。</p><p>&nbsp;</p><p>お小遣いをもらって漫画の単行本を買い揃え、大切に読んでいた自分であったが、母・静子は「漫画はくだらないもの」という先入観が強く、全く理解を示さなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな母親であったため、自分はいつもコッソリ漫画を読んで楽しんでいたのだが、ある日、没頭して宿題もせずに読みふけっていたため、母の逆鱗に触れてしまい、当時住んでいたマンションの３階の窓からビリビリに破かれた単行本を捨てられてしまうという、ショッキングな事件が起こってしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>泣きながら外に捨てられた漫画を拾いに行ったのだが、子供ながらに大切にしているものをビリビリに破られたことがかなりショックで、自分の好きなものが親に理解されないことへの絶望感、歩み寄ってもらえない失望感に打ちのめされ、少なからず心が傷ついてしまったのだった。</p><p>&nbsp;</p><p>この時の出来事は、その後しばらく尾を引くことになった。詳しくは高校時代の話を書くときにまた触れようと思うが、自分の好きなことを親に拒絶された、初めての出来事だったのではないかと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>今なら、親の気持ちも多少は理解できるのだが、それでも母・静子は偏見が強いタイプの人間だったなぁ、と思う。時代背景が違うのでしかたないことではあるが(苦笑)。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/eremin-2021/entry-12746440380.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Jun 2022 14:03:13 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>洗脳が解けた後</title>
<description>
<![CDATA[ <p>中学２年生に進級し、同級生ともうまく付き合うことができるようになり、順調に日々楽しく送っていたが、ちょうど思春期に入り、少しずつ大人へと変化していく中で、それまでの親子関係にも変化が訪れた。</p><p>&nbsp;</p><p>岡崎での徹底した管理教育の下で育った小学生の頃とは違い、藤沢での暮らしになじんでくると、いかに岡崎での生活が極端であったのかがよくわかった。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、誤解しないでほしいのは、管理教育自体が「悪」であったとは言い切れないし、そう思うこともできないのだ。まるで軍隊にいるかのような統制のとれた教育は、集団生活をする上で良い面も確かにあったと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>ルールにのっとって生きる人はとても真面目で、社会の中で生きていくのに適しているため、集団生活をする上で模範となりうる人間になるだろう。徹底した管理教育は、国にとって操作しやすい従順な国民を量産するのに最適な教育方法であると思う。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし反面、世の中にはルールから逸脱してしまう人も少なからずいる。ある程度なら許容範囲として受け入れつつ、お互いに妥協しながら生活していくのが現実的で、それが当たり前だと思うのだが、要するに、自分のように「こういうものだ」と教えられたら、それ以外は絶対に間違っている、もしくは受け入れられないといった、極端な思考を育ててしまう恐れがあるのが、管理教育の悪い面だと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>まさに、自分はその悪い面が前面に出てしまったがために、中学生活になじむことが出来ず、１年もの間苦悩したわけで、「何か変だぞ?」「何かおかしいぞ?」と自分で気づいて、自ら管理教育の洗脳から抜け出そうと努力したから、思考に柔軟性を持つことができるようになったわけで、もしあのまま気づけずにいたら、おそらく永遠に学校になじむことが出来ないまま、登校拒否から引きこもりになってしまったかもしれなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>ある意味、今までの教育に対しての、反抗。悪ではなかったにしても、極端すぎた。極端すぎたがために、思考の偏った人間を作ってしまうことにもつながった。自分は管理教育の申し子であると同時に、その洗脳から抜け出すことに成功した、有益なサンプルだと思っている。</p><p>&nbsp;</p><p>それまで、親や先生には絶対服従、逆らうことなどなかった自分が、洗脳から解けて、親が言っていることに矛盾を感じるようになってきたのは、言うまでもない。</p><p>&nbsp;</p><p>親の言うことは正しい、大人の言うことは間違っていないと信じ込まされてきた自分だったが、タイミング的にちょうど思春期で親離れを始める頃でもあったので、少しずつだが親に対して反抗することが増えていった。</p><p>&nbsp;</p><p>それと同時に、世の中の矛盾や家族間の不和についても、だんだんと見えてくるものがあった。そういったひとつひとつの事例の整合性を見出していくうちに、横山家に漂う数多くの問題にも気づき始めていった。</p><p>&nbsp;</p><p>この「気づき」は、長い長い時間をかけて、徐々に自分の心を浸食していき、結果的に限界を迎えて心が壊れる時が来てしまうのだが、それはまだ当分先の話になる。結果的にこの頃の経験が、現在の自分を作り上げていくことになるのだが、それはまたの機会に書こうと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/eremin-2021/entry-12744887481.html</link>
<pubDate>Thu, 26 May 2022 20:03:06 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>リセットして自分を変えた中２の春</title>
<description>
<![CDATA[ <p>本来ならば、中学に入学してからの自分の話を継続して書くつもりであった。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、ここから先は家族との関係が密接に関わってくる話が増えてくるので、どうしても家族と、家庭環境について掘り下げた話を織り込まないと、すんなり読み続けていくことが難しいと思い、少し脱線したけれども家族について大まかだが語ってきた。</p><p>&nbsp;</p><p>自分が置かれていた環境がどうであったのか、家族ひとりひとりの性格がどのようなものであったのか、これらを踏まえたうえで中学・高校時代の自分を思い出しながら書いていこうと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>--------------------------------------------</p><p>&nbsp;</p><p>中学に入学してからの1年間、転校生でうまく馴染めなく、ほとんど友達も出来ず、クラスの中でも孤立したまま不安定な日々を送っていた自分であったが、２年生になる頃、転機が訪れた。</p><p>&nbsp;</p><p>転機が訪れたと言っても、それは自分自身で転機を作り出したようなもので、さすがに中学の３年間、ずっと孤立したまま生活するのは辛すぎると思い、家族にも頼れない環境の中、「自分でなんとかしなければ」という気持ちがとても強く働いた。</p><p>&nbsp;</p><p>引っ越した以上は、もう岡崎に帰ることはないわけで、これからはずっと藤沢で生活し生きていくしかないのは揺るがない事実である。</p><p>&nbsp;</p><p>それならば、環境がどうだとか、考え方が今までと違うとか、馴染めないだとか、そんなことをいつまでも言っているわけにはいかない。馴染めないのなら自分から馴染めるように、自分自身を変えていくしかないのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>管理教育の下、ガチガチに洗脳されていた自分は、とにかく「お堅い」思考の持ち主であった。いいかげんなことが許せず、言われたことをサボるとか、先生に反抗するとか、まずありえない。むしろ、なんでみんな先生の言うことを聞かないのか不思議に思うほどであった。</p><p>&nbsp;</p><p>要するに、思考に柔軟性がなく、人間には多様さがあるということも理解できずにいたので、自分とは違う考えで行動するこちらの生徒たちとのギャップに、かなり苦しめられていたのだった。</p><p>&nbsp;</p><p>管理教育の申し子とまで言われるくらい、(先生から見て)優等生だった自分だからこそ、ここまで悩み苦しんだのだと思う。洗脳が濃ければ濃いほど、そこから抜け出すのは至難の業。しかも、誰の助けも借りずに自分自身の力だけで、気づき、乗り越えていかなければならなかったことを考えると、この頃の自分をほめてあげたいとすら思う。</p><p>&nbsp;</p><p>中学では、１年進級するごとにクラス替えがあり、クラスメイトもいったんここでリセットされる。</p><p>&nbsp;</p><p>この「リセット」が、とてもいいタイミングであった。「お堅い」自分からの脱却を図るには、いったんリセットされるクラス替えのタイミングでしか実行できない。</p><p>&nbsp;</p><p>２年生になって、クラスメイトも一新され、初めて知り合う子もたくさんいた。それまで冗談のひとつも言えない、真面目でお堅い自分が、生まれて初めてクラスメイトの前で冗談を言って笑わすことに成功したのである。</p><p>&nbsp;</p><p>その瞬間、空気がガラリと変わり、自分が受け入れられたことを肌で感じることができた。</p><p>&nbsp;</p><p>たぶん相手のほうも、「玲子さんって、楽しい人だな」という印象を持ってくれたのだと思う。すぐに仲の良い友人が複数できて、学校生活がとても楽しくなっていった。</p><p>&nbsp;</p><p>相手を変えることはできない。自分が変わるしかない。</p><p>&nbsp;</p><p>この真理を、誰の助けもなく自分で気づくことができたこと、そして勇気をもって変わろうと努力した自分がいたこと。この経験が後の人生においても、多大な影響を及ぼすようになっていった。</p><p>&nbsp;</p><p>今思えば、引っ越しして祖父母と同居をするようになって、父も母も兄もそれぞれに問題を抱えながら、みな自分のことで精一杯の日々を送っている環境であったからこそ、登校拒否になりかけるまで追い詰められた自分が「家族には頼れない、自分でなんとかしなければ」と必死に立ち上がろうとした結果、「乗り越える力」を得たことは、その後の自分の自信につながっていったのだと思っている。</p><p>&nbsp;</p><p>たぶん、もともと自分には「困難を乗り越えていく力」が少なからず備わっているんだろうと思う。いつも壁にぶち当たったとき、自分自身の力で乗り越えてきたことがとても多かった。もちろんすべてではないが、心が折れそうな時、くじけそうになる時、その時は凹んだとしても、いつも自ら立ち上がって乗り越えてきた気がする。</p><p>&nbsp;</p><p>心が強いのか、それとも逆に弱いからこそ立ち上がれたのかはわからないけれども、悪くすれば自殺やうつ病などでバッドエンドになりそうな事案だとしても、常に前を向いて生きようとしてきたように思う。</p><p>&nbsp;</p><p>ともあれ、こうして無事クラスメイトにも受け入れられて、ようやく楽しい学校生活を送れるようになった２年生の春であった。当時は地獄から天国へ舞い上がったような、そんな感覚であった。</p><p>&nbsp;</p><p>誰かに認めてもらって、受け入れてもらえる体験をすることは、心身の成長にとても重要なプロセスなのではないかと思う。思春期にこのような経験をすることが出来て、むしろ自分は幸せだったのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/eremin-2021/entry-12741344041.html</link>
<pubDate>Fri, 06 May 2022 20:40:33 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>家族関係　兄・正男の場合(その3)</title>
<description>
<![CDATA[ <p>高校を卒業した兄は、大学には行かず専門学校へ通うことになった。中学の頃から英語の成績がまあまあ良かったので、本人も英語を学んでおきたいと思ったのかは知らないが、総合的に大学に進学できるほど成績が良かったわけではなかったので、両親もしかたないと思ったのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>新宿にある英語の専門学校に通うことになった兄は、最初の１年は真面目に通学していたが、そのうちだんだん学校に行かなくなってしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>そうこうしているうちに自主退学してしまい、両親もとまどいを隠せないまま、月日が流れていった。その間、何をするわけでもなく、ただ毎日部屋で寝てばかりで、ダラダラした生活をするようになった。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、兄もこれではいけないと思ったのか、再度専門学校に通うことを母に相談して、母も「今度こそはきちんと通学して卒業してくれるだろう」と期待して高い入学金や授業料を納めたわけだが、しばらくして結局、兄はまた通学しなくなってしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>何が原因なのか、何が問題なのか全くわからないまま、勝手に自主退学してしまった兄に対して、母は当然ながらとても落胆し、「高い入学金と授業料が無駄になってしまった」と嘆き悲しんだ。</p><p>&nbsp;</p><p>二度に渡る親への裏切り。信頼をなくすような行為をしておきながら、兄は親に謝るどころか、部屋に引きこもってダラダラ寝てばかりの生活をするようになった。</p><p>&nbsp;</p><p>父・正春はこんな息子に対して全く向き合おうとはしなかった。おそらく、どう接したらいいのか、わからなかったのかもしれない。面倒なことが嫌いで、何でも母に丸投げして自分は素知らぬ顔をするという、少々卑怯な逃げ方をする父であった。</p><p>&nbsp;</p><p>親がきちんと兄と向き合わないまま、うやむやにしてしまった結果、兄はその後数年に渡り、引きこもり生活をすることになった。引きこもりと言っても全く外に出ないわけではなく、ファミレスでアルバイトをすることもあったが、どれも長続きしなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>ここからは妹である自分の推測にしかすぎない話になるが、発達障害の傾向が具体的に現れ始めていた兄は、集団生活における他人とのコミュニケーションが著しく下手(苦手)だったのではないかと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>世間の常識がよくわからない、他人の気持ちを汲み取ることがうまくできない、会話をしていても空気が読めない発言をしてしまう、などなど、普段一緒に生活していてもなんとなく「あれ？」と思うような言動があった兄なので、おそらく外でも同じようなことで友達が疎遠になって、人間関係の構築に支障があったから通学するのが苦痛になっていったのでは、と思う。</p><p>&nbsp;</p><p>このように思ったのは、あくまでも現在の自分だから推測できたことであって、当時、家族の誰もが「なんだかよくわからない」まま、兄との接し方に違和感がありつつも、「なんとなく」月日が流れていった、というのが正しいかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>みんながやっていることが当たり前にできない。みんな就職して働いているのに、兄は無職で親に食べさせてもらいながら部屋でゴロゴロしている。</p><p>&nbsp;</p><p>普通に見たら、ただの「ぐうたら息子」にしか見えないし、親も「この子はこのままどうなってしまうのか」という不安しかなかったと思う。それなのに、本人としっかり向き合うこともせずに、「いつかはちゃんと就職してくれるだろう」と根拠のない期待を持っている。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな状態が数年続き、ようやく兄も少しずつ働きだすようになったが、フリーターだったり、契約社員だったり、その立場はいつも不安定で、正社員として会社で働くという発想自体が本人にはなかったようだった。</p><p>&nbsp;</p><p>父・正春もさすがに将来を心配し、それとなく「オレが勤めている会社に口を聞いてやるから社員として働いてみないか」と打診したが、兄は全く取り合おうともしなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>「オレはサラリーマンにはなりたくない」「満員電車に揺られて毎日通勤するなんて無理」「６億円の宝くじ当てて家を建てる」とか、夢見がちなことを平気で言い、どこか甘い考えで現実をしっかりとらえてない感じがあった。</p><p>&nbsp;</p><p>兄の処遇については、両親もほとほと困り果て、「もうなるようにしかならない」という半ばあきらめの境地になりつつ、それでも大企業に勤める父・正春の経済力があったから、家族４人、食べていけたのだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>こんな調子で、兄の２０代はただダラダラ過ごすだけという、何の生産性もない生活をするだけで過ぎていった。妹の目から見ても、正直失望するような兄の生活態度であった。</p><p>&nbsp;</p><p>現在は幾分マシになったとはいえ、清掃業務で有名な、とある企業の委託契約で、清掃の仕事と営業を続けているが、それも結局は歩合制となんら変わらない。働いた分しか収入がないため、昨今のコロナ対策の折、仕事の受注が減って車の車検代すら払えないような状況になっている。</p><p>&nbsp;</p><p>衣食住は親に頼りっきり、収入が減ったところで食うに困ることもなく、とても自立しているとは言えない。兄はもう50半ばである。それでも父が生きていたころは何とかなったが、父の死後、当たり前だが年金も途絶え、家族の収入は一気に減った。</p><p>&nbsp;</p><p>本当の修羅場は、父・正春の死後にやってきたのだった。</p><p>&nbsp;</p><p>------------------------------------------------</p><p>兄の話はいったん、ここで終わりとするが、時系列の都合で、話の続きは別の機会に書こうかと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/eremin-2021/entry-12738978773.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Apr 2022 13:34:18 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>家族関係　兄・正男の場合(その2)</title>
<description>
<![CDATA[ <p>もともとは、妹の自分が肺炎になったことから始まった。風邪をこじらせたのか、はたまたどこかから感染してきたのかわからないが、高熱と咳がとまらず、しばらく寝込むことになってしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>自分は小学校６年間、一日も休まず、皆勤賞だったことを記憶しているので、夏休みや冬休みなどの長期休暇中に肺炎になったのだと思う。病院で診察を受け、処方された薬を飲んで、ほどなく回復した。</p><p>&nbsp;</p><p>子供ながらに、熱と咳がとても辛かったことを覚えている。そんな状態のとき、いつも元気で強気な妹が弱っている姿をみて、兄がニヤニヤしながら面白がってからかってくるのが気に入らず、内心「お兄ちゃんも同じように苦しめばいいのに」と思いながらぐったりしていたわけだが、今思えば兄はこの頃からすでに、「相手の辛い気持ちや状況を汲み取れない」という側面が徐々に具現化してきたのかな、と思う。</p><p>&nbsp;</p><p>すっかり元気になってしばらくたった頃、今度は兄・正男が高熱を出して寝込んでしまった。症状が似ていたため、自分の肺炎が兄にうつったのではと、すぐに病院にいって診察を受けたところ、「マイコプラズマ肺炎」だと診断された。</p><p>&nbsp;</p><p>案の定、妹の自分からウイルス感染したようで、その症状は自分の時と比べてかなり酷かった。「お兄ちゃんも同じように苦しめばいいのに」と思っていたことが現実となり、なんとなく罪悪感を覚えながら寝込む兄をみつめていたことを思い出す。</p><p>&nbsp;</p><p>兄の肺炎はとても酷く、高熱が何日も続き、肺に水がたまるくらい悪化し、当時の医師からは「万が一のこともあるかもしれない」と伝えられ、心配した母・静子は病院に寝泊まりしてつきっきりで看病し、１か月以上入院していただろうか、自分も一人で留守番することも多くなった。</p><p>&nbsp;</p><p>この頃、父・正春は愛知の知多半島にある工場に単身赴任し、食用油の研究と開発をしていて、１週間に１度だけ帰宅する生活をしていたので、母が病院に泊まるときは夜もひとりで留守番することになり、小学生の自分は誰もいない部屋で心細かったこともよく覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>治療がうまくいき、なんとか回復して退院した兄を見て、家族一同やっと笑顔が戻ってきたのもつかの間、久しぶりに高校へ復帰した兄は、１か月以上も休んでいたことで、まったく授業に追いつけなくなっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>兄が進学した高校は、兄にとっても少しレベルが高いランクの進学校だったこともあり、１か月も休んでいたら授業の内容もほとんどわからず、同級生との学力差はみるみるうちに開いていった。</p><p>&nbsp;</p><p>２学期が終わる頃には、通知表の成績はほとんどが赤点。間違いなく落ちこぼれである。兄自身も授業についていくのが大変だったと思うが、担任の先生も「自分のクラスから留年者を出すわけにはいかない」というプレッシャーからなのか、自宅にまで訪問して、夜遅くまで熱心に個人授業を始めるなど、今ではありえないような対応を行っていた。</p><p>&nbsp;</p><p>おそらく管理教育が徹底されていた地域特性もあったのだろう。先生自身の評価にも影響があったのだと推測できる。兄のような落ちこぼれを作った教師、というレッテルが張られるのは不名誉だったのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>原因が病気である以上、兄が落ちこぼれたのは本人が悪いというわけでもなく、どうしようもないことだったと思うが、周りの環境はそれを許してくれない。兄も相当追い込まれて、白目が赤く充血するほど勉強する日々が続いていった。</p><p>&nbsp;</p><p>この頃には、もう父が転勤希望を出して神奈川の実家へ引っ越すことが決まっていたこともあり、年が明けてからは、神奈川の高校への編入手続きも始めなくてはならなくなったのだが、ここでも兄は苦労することになった。</p><p>&nbsp;</p><p>赤点だらけの、非常に悪い成績の兄を受け入れてくれる高校がみつからないのである。編入試験を受けても落ちるばかり。たしか3校くらい落ちたと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>やっとのことで受け入れてくれる高校がみつかったとき、兄も静子も内心ほっとしたことだろう。しかし、もともと兄が通っていた高校と比べると、転校先の高校は進学校でもない、どちらかというとランクの低い高校であった。</p><p>&nbsp;</p><p>背に腹は代えられないし、なにより今の成績では現実的に上の学校には入れないのも事実。こんなはずでは・・・という思いもあったと思うが、兄にしてみれば、岡崎での重圧からやっと解放されたわけで、表情が明るくなったように感じた。</p><p>&nbsp;</p><p>神奈川県立の高校に編入した兄・正男は、とにかくこちらの生活に慣れようと、兄なりに努力したのだと思う。友達も数人出来たようだったが、愛知での徹底した管理教育の影響なのか、それと比べて緩い校則や、生徒たちの一見だらしなく見える生活態度とのギャップで、打ち解けることが難しく、ひとり、思い悩む姿が多くなっていった。</p><p>&nbsp;</p><p>もともと口数が少なく、自分の考えや気持ちを伝えることが苦手なタイプの兄。神奈川に来てから、ガラリと変わった生活環境に戸惑い気味だったのは、妹の自分と同じだったのではと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、自分と違って、兄は内に秘めるタイプだった。思春期真っ只中でもあったし、親にも相談することもなく、ひとりであれこれ思い悩む性格が災いしたのか、少しずつ、少しずつ、兄は引きこもっていくようになっていった。</p><p>&nbsp;</p><p>続く。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/eremin-2021/entry-12737070211.html</link>
<pubDate>Tue, 12 Apr 2022 18:18:54 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
