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<title>I am an Ikantomo Shigatai Man</title>
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<description>～書きたいことを書いてみる～</description>
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<title>『ボーイズ・オン・ザラン』</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110217/14/eso-viperfish/df/ba/j/o0310043711055677009.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110217/14/eso-viperfish/df/ba/j/t02200310_0310043711055677009.jpg" alt="$Ikantomo Shigatai-ボーイズオンザラン" width="220" height="310" border="0"></a><br><br><br>１．感想<br><br>とても良かった。<br>田西役の峯田、ちはる役の黒川芽衣、青山役の松田龍平等、キャスティングが良かった。<br>原作が好きで漫画も持っている者としては、脚色の上手さに感動した。<br>なので、これは、原作を知らない状態で観たかった。<br>原作とはまた少し異なるテーマで描かれていたのだが、これから何が起こるかを知っていたので、物語に入り込むのが難しかった。変に先入観を持たずにフラットな感じで観られたらもっと感動しただろうなぁと思うと、ちょっと残念。<br>脚色については、大きく違うのは、植村ちはると田西との関係性の行きつく先だった。<br>原作だと主人公の不器用さが最後まで裏目に出まくって、結局ちはるを幻滅させてしまう感じがどうしようもなくリアルで、読んでいて落ち込む感じが良いのだけれど、映画の場合はその不器用さが原作とは違った形で発揮されて、ちはるを戸惑わせて終わるのが、どうしようもなく切なくてやるせなくて、良かった。<br>そんなところ。<br><br><br>２．テ－マの分析<br><br>ストーリーをさらっと追ってみれば、現代の典型的草食系男子に振り掛かる悲劇のように思える。<br>確かに悲劇の側面もあって、この映画を観終わる時、悲劇に特有な無情感のような余韻も残るのだが、どういうことか、不思議と爽快な気持ちの余韻もまた、残るのだ。<br>これは何故なのか。<br>その後味の根拠を読み解いていくことで、この映画が本当に描き出したかったのが、愛を遂げることの出来ない男の悲劇の部分ではなく、その中でささやかに起こる成功劇の部分なのではないか、ということが見えてくる。<br><br>という訳で、読み解いていく。<br><br>主人公の田西が望む未来は一貫して、確かに、植村ちはると結ばれることにあった。<br>しかし、これが田西の真の葛藤であるとしたら、それに対する行動が「青山をぶん殴る」であることの説明がつかなくなる。青山をぶん殴ったところで、ちはると結ばれることにはならないからだ。<br>更に、もしも田西が「青山をぶん殴ればちはると付き合える」と思っていたとすれば、劇中でちはるにそれを指摘されてもなお戦うことをやめなかったことについて、辻褄が合わなくなる。<br>では、田西は一体、何に葛藤し、戦っていたのか。<br>その答えは、喧嘩の場面で青山から放たれる台詞によって、暴かれる。<br>「今まで何の努力もしてこなかったやつが、勝てるわけないんだよ。薄っぺらなんだよ、あんた。」<br>この台詞が、的確に田西の葛藤をえぐり出して見せている。<br>田西が本当に葛藤し、戦っていたのは、今まで自分の問題に対して向き合うこともせず、何の行動も起こして来なかった、過去の自分自身に対してなのではないか。<br>そういう背景があったから、誰に何と言われようと無我夢中でトレーニングに取り組んでいたのではないか。<br>「現実から逃げてばかりの、消極的で、無関心な自分自身との離別」<br>これが田西の真の葛藤であるとするならば、田西の取った全ての行動に筋が通る。<br>田西は潜在的に、勝つことではなく、「愛する人のために、ケンカする」という行動そのものに意味を見出していたのだ。<br><br>ただ、これだけならば、罵られ、現実を思い知らされ、ボコボコに殴られ、絶望に暮れ、そしてちはるをも失う田西は悲劇の主人公でしかない。<br><br>しかし、そうではなかった。<br><br>田西はささやかな返り打ちを食らわせる。パンチを１発も当てられなかった。それが現実だが、そもそもこれまでの田西であれば戦いもせず、滴の一滴を食らわせる機会をも得ずに受け流してしまっていたであろうということを考えれば、田西は確実に、劇的な変化を見せている。<br>そして更に、エンディングが、田西の変化を物語る。<br>田西は駆け抜けていく。人気のない道路を、全速力で、駆け抜けていく。<br>何を思って走るのか、語られることはないが、少なくとも映画冒頭で美人局の女に追われて全速力で逃げ惑う田西とは、走る理由が違う。そこには確かに田西の劇的な変化が反映されている。<br><br>この映画は、悲劇ではない。<br>田西は、敗れこそしても、愛する人のために怒り、戦って、変わった。<br>これは、成功とまでは言えないかもしれないが、「現実から逃げてばかりの、消極的で、無関心な自分自身との離別」を果たす足掛かりを掴んだ男の成長の物語なのだ。<br><br><br>３．２つの価値観<br><br>大抵の物語には、暗に、ある問い掛けが仕組まれている。<br><br>その問い掛けとは、テーマから生まれて観る者の行動を変えさせるものである。<br><br>この物語においても例外ではなく、テーマからそういった問い掛けを導くことが出来る。<br><br>それは、対照的な男性像の象徴として描かれる２人の男たち、“田西”と“青山”の比較によって表象してくる。<br><br>先に言ってしまうと、この物語では、ある２種類の比較、言い換えればある２つの価値判断基準を基に２者を対照的に描くことによって、１つの主張を導かせるための問い掛けを示している。<br><br>というわけで、その２種類の比較から、その問い掛けを探る過程を示していこうと思う。<br><br>まず１つ目として、２者は「勝者」と「敗者」という形で比較されている。<br>ここで言う勝者とは、勝つべくして勝つ者。即ち、生きることに器用で、自分を磨くために、地道に努力をしてきた者である。<br>また敗者とは、負けるべくして負ける者。即ち、生きることに不器用で、自分を磨くこともせず、ただ煩悩するだけで、何の努力もしてこなかった者である。<br>努力を積み重ねた者は争いに勝ち、欲しいものを手に入れる。逆に、積み重ねてきたものの無い者は敗れ、大切なものを失う。<br>努力をしてきた者こそが正義であり、格好良い。この価値観は、実力主義の世の中では当然のこととして受け入れられる、ある意味、摂理のようなものだと思う。<br>この基準のみから判断すれば、青山は格好良く、田西は無様だと言える。<br>しかし、この映画に限っては、必ずしも勝者である青山は格好良くは映らず、むしろ田西の方が格好良いという観方をすることさえ出来る。何故か。<br><br>それは、２つ目の価値判断基準によるものと思われる。<br>２つ目は、２者それぞれが何のために戦うかという観点からの比較である。<br>青山は確かに、これまでの人生で積み重ねてきたものを存分に活かして戦いに勝利する者であるが、戦う理由はあくまでも「自分の身を守るため」だ。<br>一方、田西の場合はどうか。<br>田西は、過去の積み重ねなど何も無く、誰の目から見ても明らかに、無様に戦いに敗れる者である。<br>ただ、彼の戦う理由は、「自分のため」ではあるが、「自分を守るため」ではない。あくまで「愛する者のため」だ。とは言っても、「愛する者を守るため」ではない。「愛する者への愛の証明のため」だ。言い換えれば、田西にとってその戦いは、自分が誰よりも愛していると自負する人に愛されず、奪われ、捨てられることでボロボロになった自尊心への弔い合戦であり、ちはるに対しての愛の証明なのだと思う。勝ち目の無い戦いに赴くという、むしろ自己保身とは正反対の方向へと田西の行動をMotivateするのは、怒りだ。愛する者を傷つけた青山に対する怒りと、自分の愛を受け入れないちはるに対する、怒りだ。<br>この観点からの比較を付加することにより、「勝者」と「敗者」という構図は、意味を変える。<br>かたや自己保身のために戦った勝者、かたや守るべき愛と自尊心のために戦った敗者として、描き出されることになる。よって２者は、戦う目的の善悪という価値観によって評価されることになるのだ。<br>この評価により、田西は格好良さを称えた、悲劇の「ヒーロー」というイメージを獲得する。これは、自分がコテンパンにやられてでも戦うという決断が出来る程に誰かへの愛を貫くことなど容易く出来ることではないという通念のようなものを、観る者の多くが潜在的に理解しているからである。<br><br>つまり、短期間で多少の努力をしたところでこれまでずっと努力をしてこなかった奴は敗北に終わる、という現実的なシナリオによって悲劇的な側面が強調される一方で、戦う理由が明確に二極化されていることで、観る者に善悪の価値観によって田西を正当化させているということになる。<br><br>以上が、この物語において描かれる、ある２つの価値判断基準のもたらす効果だ。<br><br>ここから、この物語には観る者に対するある問い掛けが仕組まれていることが分かる。<br><br>その問い掛けとは、まず、大きく１つ、「お前は格好良く生きているのか？」というものだ。<br>上述の通り、この物語が描きたいのは、要するに田西のヒーロー性、即ち「格好良さ」である。描かれる田西の生き様を「格好良い」と評価し、観る者はまずその格好良さが自分に当てはまるものであるかを自問させられる。<br>そうすると、次に考えるのは、田西の持つヒーロー性の要素を自分が満たしているかどうかだ。<br>ここで青山と田西の比較によって示される２つの「ヒーロー性」の価値判断基準が意味を持ってくる。<br>「勝者の条件を満たしているか」「その愛を証明するために戦うという選択が出来る程に強く誰かを愛せるか」という２つの要素の内、両方か、後者のみを満たしていれば、それは「ヒーロー性」の証明となるはずだ。<br>つまり、「お前は勝者としての条件を満たしているのか？」「お前はその愛を証明するために戦うという選択が出来る程、強く人を愛せるのか？」の２つが、最初の大きな問い掛けに答えるための、小さな問い掛けとなって、観る者に自問を促すのだ。<br><br>ここで明らかに、この物語がテーマを伝える対象を絞り込んでいるのが分かる。<br>それは言うまでもなく、２つの問いのどちらに対しても「Yes」と答えられない者である。<br>それは恐らくこの世に生きる男性陣の、大多数だろうと思うが。<br><br>以上より、観る者は上述した小さな２つの問い掛けによって、はっきりと気づかされるのだ。<br>自尊出来る程に誰かを愛することも、その愛を守るために努力をすることもしない、どうしようもなく格好悪いのは、自分自身であると。<br><br><br>４．おまけ<br><br>この映画の主題歌、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は、主演の峯田和伸が率いているバンド、銀杏BOYZの書き下ろし曲だ。<br>エンディングで駆け抜ける田西のバックで流れるのだが、書き下ろし曲というだけあって、その歌詞が本編とマッチしまくっていて、泣かせるのだ。<br><br>あなただけ　あなただけ　追いかけて<br>あなたまで　あなたまで　傷つけて<br>夢でも　夢でも　届かないのに<br>夢さえ　夢さえ　捨てられない<br>黒い髪をください　唇をください<br>あなたの幻を道連れにして<br>ボーイズ・オン・ザ・ラン<br>ボーイズ・オン・ザ・ラン<br>「もう遅いか」<br>ボーイズ・オン・ザ・ラン<br><br>完全に、田西的な男子の一途で不器用な愛を歌った歌だ。映画を一通り観終えて、田西の不器用さに共感した上でこの曲を聴かされたら、それはもうどうしようもなく切ない気持ちになって、良い。<br><br>主題歌がまた良い。それが言いたかっただけ。<br><br><br><br>おしまい<br><br><br><br><br>『ボーイズ・オン・ザ・ラン』<br><br>監督：三浦大輔<br>出演：峯田和伸<br>　　　黒川芽衣<br>　　　松田龍平<br>　　　YOU<br>　　　小林薫　<br>　　　リリー・フランキー<br>脚本：三浦大輔<br>
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<pubDate>Thu, 17 Feb 2011 14:13:32 +0900</pubDate>
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