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<title>金重明のブログ</title>
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<description>『小説日清戦争――甲午の年の蜂起』（影書房）『物語朝鮮王朝の滅亡』（岩波新書）『ガロアの論文を読んでみた』『１３歳の娘に語るガロアの数学』（岩波書店）『皐の民』（講談社）『叛と義と』（新人物往来社）『算学武芸帳』（朝日新聞社）『幻の大国手』（新幹社）など</description>
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<title>歴史の清算　Ⅱ－14</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>１４</p><p>&nbsp;</p><p>　すでにお気づきと思うが、韓国の民主陣営が追求している過去の清算、あるいは歴史のたてなおしは、国際的には「移行期の正義」と呼ばれているものと同じなのである。過去の深刻な人権蹂躙、大規模な残虐行為が残した傷跡を治癒していくことが、その社会に民主主義を定着させていく上で必要不可欠な条件である、という認識がその背景にある。</p><p>　たとえば19世紀以後独立を達成したラテンアメリカ諸国は、その後軍事クーデターと独裁の連続に苦しめられた。19世紀以後ラテンアメリカ諸国で引き起こされた軍事クーデターは総計250回を越える。そしてそのたびに、むきだしの暴力が民衆を襲い、おびただしい無辜の市民が虐殺されてきた。</p><p>　1982年に最初の真実委員会がボリビアに設立され、その後アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、エルサルバドル、ペルーなどで真実委員会が設立され、充分とは言えないながらも、移行期の正義の実現に努力している。</p><p>　移行期の正義の実現の必要性は国際社会でも共通の認識となっており、例えば2006年には国連総会で、移行期の正義の実現のための規範である「人権被害者の権利の章典」が採択されている。その具体的な方策については、この問題の解決に向けて努力してきた国際人権法学者の名をとって、ヴァン・ボーヴェン――バシオウニ原則とも呼ばれている。</p><p>　この原則は、簡単にまとめると、次のような施策の実行を求めている。</p><p>&nbsp;</p><p>・人権蹂躙の責任者の刑事訴追</p><p>・真実委員会の設置</p><p>・被害者への賠償</p><p>・再発防止のための制度改革</p><p>・公的な謝罪</p><p>・被害者の名誉回復のための記念物、博物館などの設立、追悼集会</p><p>&nbsp;</p><p>　この原則に従って、済州島4・3事件についての移行期の正義の実行について考えてみよう。</p><p>　まず済州4・3事件真相究明および犠牲者名誉回復委員会が組織され、真相調査が行われ、真相報告書が発表された。もちろん4・3事件のような複雑な事態に対してわずか3年の調査でそのすべてを明らかにすることはできない。追加の真相調査や遺骸発掘事業が平和財団によって行われている。</p><p>　これによって「真実委員会の設置」という条件はほぼクリアされたと言えよう。</p><p>　盧武鉉大統領が大韓民国を代表して遺族と済州島民に正式に謝罪した。これは「公的な謝罪」と言えよう。</p><p>　北朝鮮の使嗾による共産暴動である、と書かれた教科書は全面的に改訂され、学校教育を中心に2度とこのような惨事が起こらないよう子供たちを教育するさまざまなプログラムが実施されている。さらに同じ趣旨の市民に対する広報プログラムも進められている。充分とは言えないが、「再発防止のための制度改革」も進められている。</p><p>　済州4・3平和公園が造成され、園内には済州4・3平和記念館も建設されている。また毎年4月3日を中心とする1ヶ月間を4・3月間とさだめ、さまざまな追悼事業が全国で行われている。</p><p>　ここまでは充分とは言えないまでもかなりの成果をあげていると評価できる。済州4・3について口にすることもできなかった軍事独裁の時代を思うと、まさに隔世の感がある。</p><p>　しかし犠牲者への賠償は、これからの課題として残されている。保導連盟による犠牲者や不法な軍事裁判による犠牲者については、遺族が個別に再審請求をし、無罪判決を勝ち取っており、国家賠償訴訟にも勝利している。ただしそれは犠牲者のごく一部に過ぎない。</p><p>　現在包括的な国家賠償についての法整備に向けて、努力が続けられている。</p><p>　問題は、人権蹂躙の責任者の刑事訴追である。これについてはまったく実行されていない。</p><p>　焦土作戦を命じた将軍、政府高官のほとんどはすでに鬼籍に入っており、刑事訴追は事実上不可能だ。しかし歴史において彼らの責任を厳しく追及していく作業は続けていかなければならない。</p><p>　また焦土作戦の実行はアメリカ軍政下ではじまっており、それが本格的に実施されたのは大韓民国成立後ではあったが、その時点でも韓国軍はアメリカ軍の指揮下にあった。したがって焦土作戦の実行に関して、アメリカ軍はその責任を免れることはできない。</p><p>　ただし、虐殺を命じた政府高官や将軍に対しては厳しく責任を追及する必要があるが、上官の命令によって虐殺に加担した兵士などに対してどう対応するかは、微妙な問題だ。</p><p>　この点、済州島4・3平和財団が掲げる「和解と相生」というスローガンとその実践は、黒人と白人の葛藤を「赦しと和解」へと導いたネルソン・マンデラに匹敵するものとして、国際的にも高く評価されている。</p><p>　済州4・3平和財団は、民主化運動記念事業会、5・18記念財団、釜山民主抗争記念事業会、老斤里財団、台湾2・28事件記念基金会、台湾国家人権記念館準備処、広島記念館、沖縄記念資料館と「東アジア民主平和人権ネットワーク」を提携している。韓国の5団体はそれぞれの立場で、過去の清算を進めている。</p><p>　前述した述べたとおり、盧武鉉大統領の時代以後、軍事独裁政権時代にでっちあげられた多くの事件は再審が進められ、その大半は無罪となった。国家賠償訴訟にも勝訴した事例も多い。</p><p>　しかし苛酷な拷問によって事件をでっちあげてきた警察官や法官たちはひとりとして刑事訴追されていない。逆にそれらの事件でっち上げの功で出世し、栄耀栄華を謳歌した例が多い。</p><p>　例えば現在崔順実ゲートで問題となっている金淇春は、1960年、若干21歳で司法試験に合格した秀才だった。複雑な犯罪でも一瞬にして刑量を計算できるので、歩く刑量計算機と呼ばれていたという。頭脳明晰な男であったことは間違いなさそうだが、その優秀な頭脳を、権力に阿諛追従し自身の栄華を謳歌することに費消してしまった。</p><p>　20代で朴正煕に見いだされ、その寵愛を受け、維新憲法作成の中心人物となる。1975年、10数名の在日韓国人留学生を北朝鮮のスパイにでっちあげた学園浸透スパイ団事件では対共捜査局長としてマスコミに事件を発表している。その後も順調に出世を遂げ、検事総長から国会議員となり、朴槿恵政府では大統領秘書室長となって権勢をふるった。</p><p>　学園浸透スパイ団事件の被告となった在日韓国人留学生は長い監獄生活に苦しんだ後、現在は再審で無罪となっている。しかしスパイでっち上げの責任者である金淇春が責任を問われることはなかった。</p><p>　朴槿恵政府の閣僚の中には、金淇春のように過去の深刻な人権蹂躙の加害者が多く含まれているが、その責任を問われた者はひとりもいない。</p><p>　盧武鉉大統領の時代に、過去の清算事業は大きく前進したが、続く李明博大統領、朴槿恵大統領の時代にはそれまでの民主化の成果が後退し、過去の清算についてもそれ以上の進展はなかった。</p><p>　韓国における過去の清算の1番の問題点は、責任の追及が不十分である点だ。</p><p>　民主陣営が進めている過去の清算事業は、韓国内の事例だけにとどまっているわけではない。</p><p>　1999年、ハンギョレ新聞社の週刊誌ハンギョレ21が、ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺の事実を報じた。その惨状に驚いた市民が立ち上がり、真相究明、記念碑建立などの事業を進めている。</p><p>　しかしベトナム参戦兵士を中心とする反共団体などが、韓国軍の名誉を毀損する活動だと非難の声をあげ、ベトナムの民間人虐殺についての過去の清算事業は難航している。李明博、朴槿恵政府が、過去の清算を妨害しようとしていることも、この問題の解決を遅らせている。</p><p>　それに対し、ハンギョレ21とハンギョレ新聞は、綿密な取材による報道を続け、民間人虐殺の真相を明らかにしていった。</p><p>　過去の清算を求める市民も粘り強く活動を続け、2016年7月には、民間人虐殺についての過去の清算を推進する韓国・ベトナム平和財団の設立にこぎつけた。この平和財団には、元日本軍従軍慰安婦である李容洙も参加している。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/europa2718/entry-12979121663.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Sep 2026 03:42:33 +0900</pubDate>
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<title>歴史の清算Ⅱ－13</title>
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<![CDATA[ <p>１３</p><p>&nbsp;</p><p>　歴史のたてなおし、あるいは過去の清算という視点から、大韓民国の歴史を簡単に振り返ってきた。ではここで、韓国における歴史の清算の典型例として、済州島4・3事件について考えることとしよう。</p><p>　1954年、漢拏山の禁足地域が全面開放され、4・3事件は終了する。最後の武装隊の生き残りである呉元権が生け捕りにされたのは、1957年4月だった。</p><p>　流血の惨事は終了したが、遺家族は連座制に苦しめられながら、泣き寝入りするしかなかった。共産暴動であるという政府の見解に、一言の抗議もできず、真相究明などは望むべくもなかった。</p><p>　1960年の4月革命直後、済州出身の学生を中心として、真相究明を求める声が上がった。わずかずつではあったが、成果をあげはじめたその運動も、朴正煕の軍事クーデターによって圧殺されてしまった。</p><p>　日本では、4・3事件の経験者である金奉鉉、金民柱が1963年に「済州島人民たちの『四・三』武装闘争史」を出版する。ただし現地での調査もできない状態で執筆したため、残念ながら細かい点では誤謬の多い記述となった。</p><p>　在日朝鮮人作家の金石範が、1957年に済州島4・3事件をテーマとした「看守朴書房」「鴉の死」を雑誌に発表するが、大きく話題になることはなかった。その後1967年に「鴉の死」を中心とする短編集を出版し、それ以後済州島4・3事件をテーマとした小説を書き続けている。「鴉の死」は韓国でも地下で密かに読み継がれた。</p><p>　済州島出身の作家玄基栄が1967年に済州島4・3事件を背景とした「順伊おばさん」を発表するが、玄基栄は当局に連行され、残酷な拷問を受け、作品は発禁となった。しかしその後も粘り強く、済州島四・三事件をテーマとした作品の執筆を続けている。</p><p>　済州島4・3事件の真相究明の大きな画期となったのは、済州島の地方新聞の連載だった。</p><p>　1988年、『済州新聞』内に4・3取材班が設置された。取材班には梁祚勳を中心として16人の記者が参加した。そして翌89年4月3日、「4・3の証言」の連載がはじまった。</p><p>　しかし1990年1月、盧泰愚が進める「真の言論運動」を契機として、4・3取材班を含む多くの記者、職員が解雇され、連載も中止となった。</p><p>　解雇された110人のもと済州新聞記者、職員は、解雇手当を集めて5億3000万ウォンの創刊基金を作り、それをもとに広く道民株を募集した。済州人の手による、済州人の新聞を作るためである。</p><p>　またたくまに目標額17億ウォンを超過する22億ウォンが集まった。</p><p>　その資金をもとに、1990年6月、済州新聞を解雇された記者、職員が中心となり、済民日報が創刊された。その創刊号には、「4・3の証言」あらため「4・3は語る」連載第1回が掲載された。</p><p>　徹底した現地取材と資料発掘をもとに、「4・3は語る」はそれまでの済州島四・三事件についての「定説」を覆し、次々と真実を明らかにしていった。「4・3は語る」の連載は韓国社会に大きな影響を及ぼした。</p><p>　1993年夏、「4・3は語る」が韓国記者賞を受賞する。</p><p>　1994年春には、「4・3は語る」第1巻と第2巻が伝芸苑から出版され、たちまちベストセラーとなった。第1巻の日本語版「済州島四・三事件」も新幹社から同時に出版された。</p><p>　4・3の真実を語る書籍が韓国の書店に堂々と並ぶ、というのは、数年前には想像することもできないような、画期的なできごとだった。</p><p>　1998年の4・3勃発50周年を前に、4・3の真相究明を求める市民運動は大きな盛り上がりを見せた。1997年4月には、「済州4・3第50周年記念事業推進汎国民委員会」が結成された。</p><p>　そして1998年4月には、4・3の名誉回復のための道外済州人宣言、4・3の名誉回復の年宣布、4・3追慕および記念週間の設定、学術シンポジウム、犠牲者鎮魂祭祀、歴史写真展など、多様な行事が催された。ソウルだけでなく、済州島、日本の東京でも記念行事が開かれた。</p><p>　1998年2月に、金大中の大統領就任式が行われた。金大中は大統領選挙の公約として、済州島四・三事件の解決を掲げていた。</p><p>　金大中の大統領就任を目にして、4・3事件特別法制定をめざす市民運動は大きな盛り上がりを見せた。しかし反共団体を中心とする既得権層の抵抗は強く、特別法制定への動きは二転三転する。</p><p>　1999年12月26日、ついに国会で、済州島4・3事件の真相を究明し、この事件に関連する犠牲者とその遺族の名誉回復をはかり、人権伸張、民主発展、国民和合に寄与することを目的とする「済州4・3事件真相究明および犠牲者名誉回復のための特別法」が通過する。</p><p>　特別法誕生の瞬間の感動を、4・3は語る取材班の長を務め、その後も4・3の解決のための運動に邁進してきた梁祚勳はこう語っている（「4・3、その真実を求めて」梁祚勳著、図書出版ソニン、2015）</p><p>&nbsp;</p><p>　わたしは4・3特別法案の国会通過の直後「奇蹟のようだ」と表現した。特別法を通過させる課程で、どうしても突き破ることのできないと思われる障壁に幾度もぶちあたったが、その度ごとに不思議なことに何とか突破口が見つかったのだ。特別法成立に向けた歴史のたくさんの歯車のうち、そのひとつでもはずれればすべては水泡に帰したはずだ。それなのに、絶妙なタイミングで、解決策が見つかっていったのである。まるで「見えない手が導いてくれる」かのように感じたのは、1度や2度ではなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>　続いて、同法の規定によって済州4・3事件真相究明および犠牲者名誉回復委員会が組織され、4・3真相調査チームによって真相調査報告書の作成がはじまった。しかしこの作業もまた、既得権層の抵抗により、難航する。委員の中の軍や警察の代表は、虐殺を認めることを拒み、委員会では激論が交わされた。また軍や警察は、史料の提出にも非協力的であり、委員の苦労は並大抵ではなかった。</p><p>　紆余曲折の末、「済州4・3事件真相報告書」が発表されたのは2003年であった。その冒頭で、4・3事件について「1947年3月1日の警察による発砲事件を起点とし、1948年4月3日に発生した蜂起と、それ以後1954年9月24日まで済州島で発生した武力衝突と鎮圧の過程で良民が犠牲となった事件」であると規定した。この、無味乾燥とも言える規定の中にも、委員会の葛藤があったのである。</p><p>　そして同年10月31日、盧武鉉大統領が済州島を訪問し、国家元首として済州島民に謝罪した。</p><p>&nbsp;</p><p>　わたくしは委員会の建議を受け入れ、国政に責任を負う大統領として、過去の国家権力の過ちに対し、遺族と済州島民のみなさまに、心から謝罪と慰労の言葉を捧げます。</p><p>&nbsp;</p><p>　現在、2008年11月に発足した済州4・3平和財団を中心に、済州島4・3事件のさらなる真相究明、遺族の名誉回復のための幅広いさまざまな活動が行われている。</p><p>　済州市の奉蓋洞の35万9380平方メートルの広大な土地に済州4・3平和公園が造成された。公園の中央には慰霊塔が建ち、その周囲には犠牲者の名前が刻まれた刻名碑、1万3903基の位牌が並ぶ慰霊祭壇、行方不明者の標石、発掘された遺骸を納めた奉安館、そして4・3事件についてさまざまな角度から来館者に紹介する博物館として済州4・3平和記念館が建設されている。</p><p>　そして2014年1月14日、済州4・3事件を追悼する法定記念日として、4月3日が制定された。</p><p>　これが、済州島4・3事件をめぐる過去の清算の現状である。しかし李明博、朴槿恵という保守政権の成立に力を得た既得権層が、過去の清算の成果を毀損しようと、活発な活動を展開しているのも事実だ。</p><p>　例えば反共団体は、平和公園の慰霊祭壇に並ぶ位牌の中にはアカが含まれているから再審査をせよ、というとんでもないことを言い出しており、それを受けて朴槿恵政府も平和財団に再審査を指示した。もちろん平和財団はこれを拒否し、済州道も正式に抗議している。この問題については裁判になったが、平和財団側が勝訴した。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/europa2718/entry-12978459503.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Sep 2026 01:41:21 +0900</pubDate>
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<title>歴史の清算Ⅱ-12</title>
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<![CDATA[ <p>１２</p><p>&nbsp;</p><p>　2012年12月に実施された大統領選挙に勝利した朴槿恵の得票率は51.6％、対立候補の文在寅の得票率は48.0％、朴槿恵の辛勝だった。</p><p>　選挙の直後、国家情報院がインターネットを通じて文在寅の悪情報を流し、不正に選挙に介入した事実が判明し、韓国社会は騒然とした。さらに国軍サイバー司令部もこの不正な選挙介入に参加していた事実も明らかになった。</p><p>　これに対し朴槿恵は、あらゆる手段を動員して捜査の縮小を画策した。まず捜査を主導していた崔東旭検察総長の私生活を洗い出して婚外子がいることをつきとめ、これを理由として辞任に追い込んだ。さらに積極的に捜査を進めていた検事を地方に左遷し、朴槿恵の息のかかった検事に捜査を担当させた。</p><p>　そして国民の目をそらすため、脱北者スパイ事件と、統合進歩党内乱陰謀事件をでっちあげる。その後脱北者スパイ事件は国家情報院によるでっち上げであることが判明して無罪となり、統合進歩党内乱陰謀事件も大法院が無罪判決を下すが、国民の目をそらすという当初の目的は完遂された。国家情報院による大統領選挙介入事件は有耶無耶に終わってしまったのである。</p><p>　朴槿恵は貧困老人への生活支援、子育て支援、若者への援助など、きめ細かい福祉政策を公約として発表し、女性らしいソフトなイメージを前面に出して大統領選挙に臨んだが、当選するやいなや、それらの公約をことごとく覆してしまった。朴槿恵が実際に推し進めたのは、「持てる者」のための政策だった。</p><p>　貧富の格差は拡大し、とりわけ老人層の貧困問題は大きな社会問題として浮上した。非正規雇用の拡大による若者層の貧困も深刻で、みずからを揶揄する「ヘル（地獄）朝鮮」という言葉が流行語となるほどだった。</p><p>　労働関係法を改悪し、労働者に対しては苛酷な弾圧を強行した。朴槿恵に対する批判に対しては執拗に攻撃し、国会議員を有する政党である進歩党を解散させるなど、民主主義国家としては信じられない暴挙をも敢行した。</p><p>　死者、行方不明者300人以上という惨事となった旅客船セウォル号の沈没に際して朴槿恵政権はそのずさん極まりない対処で民衆の怒りを買ったが、この惨事の真相究明を求める遺家族の声を圧殺し、世論は沸騰した。</p><p>　さらにＭＡＲＳへの対処、鳥インフルエンザへの対処では、朴槿恵政府は後手後手に回り、危機管理の無能さをさらけ出してしまった。</p><p>　うち続く失政に怒った民衆はソウルの光化門前に集まり、ロウソクデモを展開した。ところが朴槿恵は、この平和的なデモに対して、暴力的な弾圧を加えるのである。大量の警察車両を動員して、槿恵山城と揶揄される車列を築いて集まった民衆の行動を規制し、ムルテポ（水大砲）による強力な放水で群衆を蹴散らした。その水には、トウガラシの辛味成分であるカプサイシンが混入されていた。平和的なデモが一瞬にして阿鼻叫喚の修羅場と化した。</p><p>　2015年11月14日、デモに参加していた農民、白南基が放水の直射を受け地面に叩きつけられ、頭部を強打して意識不明となり、意識を回復しないまま約1年後に死亡する。1947年生まれの白南基は、学生時代、軍事独裁政権に抗して活動し、幾度か逮捕された経験がある。白南基はふたりの娘に、トラジ（桔梗）、民主化という名前を付けた。その命名に、苛酷な時代を生きた老人の思いをうかがうことができる。</p><p>　国民の声にまったく耳を傾けようとしない朴槿恵は、不通の大統領と呼ばれるようになった。さらに、自分の責任についてまったく言及しようとせず、他人事のように話す態度は、幽体離脱話法と揶揄された。</p><p>　うち続く失政にもかかわらず、マスコミは朴槿恵礼賛一色だった。新聞社や放送局の人事に露骨に介入し、飼い慣らした結果だった。記者とスレギ（ゴミ）を合成したキレギという言葉が流行した。</p><p>　しかし韓国のマスコミがすべて権力の飼い犬となったわけではない。</p><p>　6月民衆抗争の熱気が冷めやらぬ1987年11月、東亜日報と朝鮮日報を解職された記者たちが、「全国民が作る新聞――『ハンギョレ新聞』の主人になりましょう」と全国民に呼びかけた。たちまち全国各地で自発的な後援会が組織され、わずか1ヶ月で10億ウォンの資金が集まった。しかし12月に行われた大統領選挙で、独裁者である全斗煥の同志である盧泰愚が当選すると、その熱気は冷めてしまう。ところが、政権交代を熱望していた市民が絶望にうちひしがれていた12月24日のクリスマスイブに「民主化は一発勝負ではありません！　虚脱と挫折を打ち払い、『ハンギョレ新聞』の創刊に力を合わせましょう」という文が発表されると、再び人々の熱気に火がつき、わずか2ヶ月で40億ウォンが集まり、総計50億ウォンという目標を達成し、ハンギョレ新聞が創刊されたのである。</p><p>　以来ハンギョレ新聞は、報道人としての矜持を保ち、政権の圧力に屈することない姿勢を貫き、民衆の圧倒的な支持を得ている。</p><p>　その他、京郷新聞も骨のあるところを見せており、2000年に創刊されたインターネット新聞であるオーマイニュースや、ＫＢＳ、ＭＢＣなどの解職放送人を中心に、視聴者の後援金のみによってニュースを製作する独立言論として2013年に設立されたニュース打破などが、政権批判の急先鋒となっている。</p><p>　これらの言論機関が、朴槿恵の友人である崔順実の国政介入、財閥からの異常ともいえる資金援助を受けているミル財団とＫスポーツ財団をめぐる疑惑、崔順実の娘の梨花女子大不正入学疑惑などを粘り強く報道していったが、朴槿恵と政府与党であるセヌリ党はこれらの疑惑を全面的に否定した。</p><p>　民衆の不満は爆発寸前であった。</p><p>　そして2016年10月、崔順実の国政介入の決定的証拠であるタブレットＰＣの存在をＪＴＢＣが報道した。朴槿恵とセヌリ党の言っていることが真っ赤な嘘であったことが判明したのである。</p><p>　民衆の怒りは爆発した。</p><p>　ロウソクを手にした民衆がソウル光化門前広場、そして全国各都市の中心部に集まった。正当性を失った朴槿恵は、民衆の平和的なデモに対し、これまでのような強圧的な弾圧を加えることはできなかった。</p><p>　そして12月3日の第6次デモには全国で200万人以上の人々がロウソクを手に集まった。</p><p>　12月9日、光化門前広場を埋め尽くすロウソクデモに尻を叩かれるようにして、国会が朴槿恵大統領弾劾訴追案を通過させた。</p><p>　検察の捜査や国会の調査によって、朴槿恵の不正が次々と明らかになっていった。崔順実の国政介入が注目されているが、問題の中心がそこにあるわけではない。</p><p>　朴槿恵が進めていたのは、維新の復活だった。</p><p>　一番大きな問題は、朴槿恵が財閥の領袖と独対（朝鮮王朝時代、王が臣下と1対1で会談することを「独対」と言った。いまは大統領が誰かと1対1で会談することを独対という)し、特恵と引き替えに献金を要求していた事実だ。独対の場も、再建された安家だった。朴正煕がはじめ、全斗煥、盧泰愚と受け継がれた不正のスタイルそのものだった。</p><p>　朴槿恵に批判的な勢力に対するさまざまな工作も明るみに出た。軍事独裁政権下で中央情報部や国家安全企画部が担っていた工作を、大統領府である青瓦台が実行していたのである。</p><p>　反対勢力に対し「アカ」の烙印を押して迫害するというのも、軍事独裁政権と同じだった。さらにさかのぼれば、反共を叫ぶことによって民族の裏切り者から愛国者に変身したかつての親日派と同じであった。</p><p>　また維新を美化するために、全国民の反対を押し切って、国定教科書を推し進めようとした。政権の望むような歴史を執筆することを拒否して、多くの歴史学者が国定教科書の編纂に参加しなかった。専門の歴史学者が参加することなく編纂された国定教科書は、朴正煕を美化し、その背景にいた親日派を擁護し、さらには日本の植民地支配を、朝鮮の近代化を進めたという意味で評価するという、とんでもない内容だった。</p><p>　野党大統領候補のひとりと目される文在寅は、建国初期に親日派の清算ができなかったことに起因する、大韓民国の歴史の中に積み重なった不正を根本からただす大掃除が必要だ、と語っている。大韓民国に蔓延する不正の横行は、親日派が実権を握り既得権層を形成したときからはじまり、現在までつづいているというのが文在寅の認識だ。</p><p>　文在寅は盧武鉉の同志だが、政治的理念の問題に力を注ぎ、貧富の格差拡大などの経済問題の解決に失敗した盧武鉉政府の教訓を生かし、ヘル朝鮮と呼ばれる現在の貧困問題にも注目し、公平な分配に向けて努力する必要があるとも語っている。</p><p>　朴槿恵大統領の弾劾が成立するためには、憲法裁判所が弾劾を認容する必要があり、まだどうなるかはわからない。また弾劾が成立しても、次の大統領選挙で民主陣営が勝利するかどうかも未知数だ。</p><p>　朝鮮戦争終了直後、既得権層と民主陣営との力量比は、0対10であった。民主的な志向を持つ人は殺されるか、国外に逃亡し、国内にはほとんど残っていなかった。まさに無菌室だったのである。</p><p>　ところが7年後の1960年、李承晩の不正選挙に憤激した民衆が立ち上がり、おびただしい血を流しながら、4・19月革命を成し遂げた。しかしその成果は、朴正煕の軍事クーデターによって踏みにじられてしまう。</p><p>　1987年、全斗煥の軍事独裁に反対する民衆が立ち上がり、6月民衆抗争によって大統領の直接選挙を勝ち取る。しかしその成果を体現するべき市民社会は未熟で、既得権層を代表する盧泰愚に漁夫の利を得させる結果となった。</p><p>　2016年、怒れる民衆は平和的なデモによって、国会での大統領弾劾訴追案通過を実現した。これまでのところ、一連のデモによる逮捕者はひとりも出ていない。死傷者もいない。お祭りのような平和的なデモで、大統領弾劾訴追案通過を勝ち取ったのである。</p><p>　2013年に大統領に就任した朴槿恵は、維新の復活を目論んだ。しかしその目論みは、民衆の圧倒的な力によって粉砕された。デモの中心にいたのは、生まれたときから自由と民主主義の中で暮らしてきた若者だった。朴槿恵の前にあったのは、成熟した市民社会であり、朴槿恵の試みはまさにアナクロニズムそのものであった。</p><p>　大統領の弾劾が実現するかどうか、この政変がどのような結果をもたらすか、まだ未知数ではあるが、世界史に特記すべき無血の大革命が進行しているのではないか、とわたしは思っている。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/europa2718/entry-12973791341.html</link>
<pubDate>Sun, 26 Jul 2026 00:39:09 +0900</pubDate>
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<title>歴史の清算Ⅱ-11</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>１１</p><p>&nbsp;</p><p>　金泳三、金大中、盧武鉉とつづく民主的な政権の改革によって、言論の自由などの市民的な権利は大きく認められるようになり、社会の民主化は進んでいった。しかしＩＭＦ事態以後、政府は新自由主義的な政策の実行を余儀なくされ、その結果貧富の格差は拡大し、派遣労働者の増加など労働者の地位は不安定なものとなった。</p><p>　民主化によって、庶民の生活は豊かにはならなかった。逆に新自由主義的な政策の推進によって、既得権層は大きな利益を得ることとなった。民主化で得をしたのは民衆ではなく、既得権層であるという皮肉な結果となったのである。</p><p>　漢江の奇跡を懐かしむ声が社会に広がっていった。朴正煕のリーダーシップが漢江の奇跡を生みだしたのだという虚偽の神話が蔓延していった。</p><p>　民主化によって豊かになることがなかった民衆は、2007年末の大統領選挙で、ブルドーザーとあだ名された行動力によって一会社員から大企業の社長になった李明博の「成功の神話」に期待をかけた。その結果李明博は、48.6％の得票率で大統領に当選した。対立候補の鄭東泳の得票率は26.1％で、結果は李明博の圧勝だった。</p><p>　しかし大統領となった李明博の手腕は、民衆の期待を裏切るものだった。経済は期待したように発展することはなかった。李明博が鳴り物入りで進めた四大江事業は、深刻な環境汚染を引き起こし、未来に負債を残すだけの結果となった。</p><p>　李明博政権で推し進められたのは、民主化によってやっと定着したと思われた成果を破壊することだった。</p><p>　2008年、アメリカと韓国の間で牛肉輸入についての交渉が妥結した直後、ＭＢＣの深層探査番組「ＰＤ手帖」が、アメリカ産の牛肉は狂牛病に関して安全ではない疑いがある、という内容の番組を放映すると、韓国社会は騒然となった。</p><p>　民衆がローソクを手にソウル光化門前広場に集まり、アメリカ産牛肉の輸入反対を訴えはじめたのである。その多くはＳＮＳを通じて集まった若者であった。ローソク集会はたちまちふくれあがり、光化門前広場を埋め尽くす勢いとなった。</p><p>　このデモは、それまでの韓国のデモとはかなり様相の違うものだった。そもそも、アメリカ産牛肉の輸入の問題でこれほど多くの人が集まることなど、誰も予想していなかった。</p><p>　海外巡訪から帰国した李明博は側近に、このデモを背後で操っているのはどんな勢力なのだ、と訊いたと伝えられている。しかし側近にこたえられるはずもない。背後には誰もいなかったからだ。</p><p>　わたしもちょうどそのとき所用があってソウルを訪問したので、光化門前広場に行ってみた。</p><p>　まずお祭りのような、平和で楽しげな雰囲気に驚いてしまった。韓国のデモといえば、催涙ガスと機動隊の棍棒の中を決死の覚悟で前進する、というようなイメージを持っていたのだが、そんな悲壮な姿はどこにもなかった。</p><p>　十代や二十代前半と思われる若い世代が多かった。制服姿の女子中学生が友人と手をつないでやってくる姿も見えた。幼児の手をひいた若い夫婦や、乳母車に赤子を乗せた若いお母さんもいた。</p><p>　歴史家の韓洪九がこのキャンドル集会についておもしろい指摘をしている。韓洪九自身も軍事独裁政権に抗して民主化運動に身を投じた経験があるが、彼と同じ世代は読書世代とも言われ、非常に多くの本を読み、熱心に勉強をしていた。民主主義について学び、民主主義について深く知り、そして命のように民主主義を渇望していた。</p><p>　金芝河に「灼けつく喉の渇きで」という詩がある。</p><p>&nbsp;</p><p>夜明けの裏道で</p><p>おまえの名を書く　民主主義よ</p><p>わたしの頭はおまえを忘れて久しい</p><p>わたしの足裏がおまえを忘れたのははるかな昔だ</p><p>&nbsp;</p><p>ただひとつだけ</p><p>灼けつく喉の渇きの記憶によって</p><p>誰にも見られないようにおまえの名を書く　民主主義よ</p><p>&nbsp;</p><p>明けきらぬ裏道の何処か</p><p>足音　呼び子の音　ドアを叩く音</p><p>一声長くつづく誰かの悲鳴</p><p>&nbsp;</p><p>呻き声　慟哭　嘆息　その中　わたしの胸の奥</p><p>その奥深くに刻まれたおまえの名前の上に</p><p>おまえの名前の孤独な輝きの上に</p><p>&nbsp;</p><p>よみがえる生の痛み</p><p>よみがえるあの青々とした自由の追憶</p><p>目の前に浮かぶ引きずられていく友の血みどろの顔</p><p>&nbsp;</p><p>震える指　震える胸</p><p>震えながら湧き上がる怒りで　板塀に</p><p>白墨で　拙い文字を書く</p><p>&nbsp;</p><p>息を殺し　むせび泣きながら</p><p>おまえの名前を　誰にも見られないようにして　書く</p><p>&nbsp;</p><p>灼けつく喉の渇きで</p><p>灼けつく喉の渇きで</p><p>&nbsp;</p><p>民主主義よ　万歳</p><p>&nbsp;</p><p>　この詩には曲がつけられ、盧武鉉の愛唱歌でもあったという。必死に民主主義を叫んだ世代にとって、民主主義はこのようなものであった。しかし彼らは、ただの一分一秒も、民主主義のもとで暮らしたことはなかった。民主主義を経験したことはなく、観念の中にだけ存在していた。</p><p>　それに対して、ローソク集会に参加した十代の若者たちは、民主主義についてとくに勉強したこともなく、悩んだこともない。生まれたときから民主主義のもとで生きてきた彼らにとって、民主主義は知識ではなく、生活そのものであった。</p><p>　自分が口に入れるものをなんでおまえたちが勝手に決めるのか、というのが彼らの自然な思いだった。ＳＮＳの呼びかけに応じて集まるのは、彼らにとって実に自然なことだったのだ。</p><p>　ローソク集会に参加した韓洪九は、李明博に向かって「独裁打倒」と叫びながら、思わず苦笑したという。この程度で独裁などと言われて、李明博はかわいそうだ、と思ってしまったからだ。</p><p>　ローソク集会ははじまったときと同じように、いつのまにか消えていった。しかし韓国社会に歴史上はじめて、民主主義をささえる成熟した市民社会が生まれたということを実感させる事件だった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/europa2718/entry-12973112682.html</link>
<pubDate>Sun, 19 Jul 2026 00:02:34 +0900</pubDate>
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<title>歴史の清算Ⅱ-10</title>
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<![CDATA[ <p>１０</p><p>&nbsp;</p><p>　2002年の大統領選挙に出馬した盧武鉉は、それまでの既成の政治家とは異なり、特定の地盤など持たない、在野の運動家の出身であった。</p><p>　1946年に貧農の息子として生まれた盧武鉉は、高校卒業後一度就職をするが、労働環境が劣悪だったために退職し、その後肉体労働をしながら司法試験の準備をする。しかしなかなか合格できず、軍に入隊し、除隊後結婚をして、2人目の子供が生まれた1975年にやっと司法試験に合格することができた。</p><p>　はじめは大田地方法院の判事に任用されたが、貧困から抜け出すために任用されて7ヶ月で退職し、釜山で弁護士を開業した。税務、会計専門の弁護士として名をあげ、かなりの収入を得るようになった。</p><p>　1981年、釜林事件を担当することによって、盧武鉉の人生は一変する。釜林事件は、苛酷な拷問によってでっちあげられた公安事件であった。</p><p>　その後盧武鉉は人権弁護士の道を歩み、公安事件とともに、労働問題に関する事件を担当するようになる。1987年の6月民衆抗争では、釜山国民本部常任執行委員として、抗争を陣頭指揮した。</p><p>　在野の活動家から国会議員となった盧武鉉は、その愚直な行動から「馬鹿な盧武鉉」という愛称で呼ばれ、若者の人気を集めることになる。盧武鉉を支持する若者は、「盧武鉉を（ノムヒョヌル）愛する（サランハヌン）集い（モイム）」の頭文字を取って「ノサモ」という組織を結成し、盧武鉉を熱烈に支持するようになる。ネットを通じて、ノサモの会員数は劇的に増加していった。</p><p>　ノサモの支持を背景に盧武鉉は民主党の大統領候補に立候補する。対立候補は保守陣営の重鎮である李会昌だった。これまでの常識からは結果を予想することのできない選挙戦となったが、盧武鉉の支持率48.9％、李会昌の支持率46.6％という僅差で勝利することができた。</p><p>　盧武鉉の勝利を支えたのはノサモに集まる若者であり、ネットの力が大きく作用したのである。</p><p>　既得権層の力に頼らずにはじめて大統領になったのが盧武鉉であった。財閥から1ウォンの政治資金ももらうことのなかった大統領だった。盧武鉉がもっとも重視したのは公平さだった。</p><p>　大統領選挙候補者に出馬するとき、盧武鉉は演説でこのようなことを述べている。</p><p>&nbsp;</p><p>　朝鮮建国以来600年、われわれは権力に立ち向かって権力を交代させるということができなかった。正義であったとしても、真理であったとしても、権力の嫌う発言をする者、真理のゆえに権力に抵抗した者たちは、すべて殺された。その子孫まで皆殺しにされた。完全に滅ぼされたのである。</p><p>　600年間、韓国で栄耀栄華を謳歌しようとする者どもは、権力にすがり、おもねり、頭を下げてきた。生きていくためには、世の中でどのような不正が行われようとも、力のある者が力のない者を踏みつけていようとも、知らないふりをして、下を向いて、目をそらさなければならなかった。</p><p>　目を閉じ、耳を塞ぎ、卑屈に生きる者だけが、何とか生きながらえることができたというのが、われわれの600年の歴史であった。わたしの母がわたしに残した家訓はこうだった。『出るくぎは打たれるのだよ、岩にタマゴを投げつけたって岩は痛くも痒くもないんだ。風の吹くまま、流れに任せて生きていかなくちゃね』</p><p>　80年代、デモをして監獄にぶち込まれた、正義感あふれる、血気盛んなわたしたち若者に対して、母親たちは何とかそれを止めようと努力した。そのときの話もまた、『岩にタマゴを投げつけるようなものなんだよ。やめておくれ。おまえだけは後に隠れていな』この卑怯な教訓を教えなければならなかった、われわれの600年の歴史、この歴史を清算しなければならない。</p><p>　権力に立ち向かい、堂々と権力を勝ち取るという歴史を実現してはじめて、われら若者が堂々と正義を語り、堂々と不義に立ち向かう新たな歴史を作ることができるのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　大統領としての盧武鉉の業績でもっとも高く評価されているのは、歴史の清算を実行したことだった。</p><p>　2004年、国家情報院過去事件真相究明を通した発展委員会を組織し、国家情報院の前身であった中央情報部（ＫＣＩＡ）、国家安全企画部、そして国家情報院が行ってきた人権侵害、各種犯罪行為の真相究明を進めた。既得権層の激しい抵抗にも屈することなく、同委員会は盧武鉉の任期末まで粘り強く活動を続けた。</p><p>　また真実、和解のための過去事整理委員会では、抗日独立運動や、解放後の反民主的行為、人権蹂躙、虐殺、疑問死事件などを調査していった。</p><p>　前述した人民革命党再建委員会事件をはじめ、軍事独裁政権時代のおびただしいでっち上げ事件の大半が、盧武鉉大統領の任期中に再審で無罪が確定していった。</p><p>　こうして独裁政権時代の人権蹂躙が次々に明らかになっていった。民主主義の実現のためには過去の清算が必要不可欠であることが示されたのだ。</p><p>　しかし既得権層の抵抗は激しく、過去これらの人権蹂躙を敢行した者たちを処罰することはできなかった。苛酷な拷問により事件をでっちあげていった者たちは、その「功績」によって出世し、高位高官として栄耀栄華を謳歌していたのである。</p><p>　またかえすがえすも惜しまれるのは、大韓民国の建国以来、人権蹂躙の法的根拠となり、おびただしい無辜の人々を苦しめてきた国家保安法を撤廃することができなかったことだ。</p><p>　国家保安法は日本の治安維持法をまねて作られた法律であり、近代法の大原則である罪刑法定主義を否定する稀代の悪法だった。</p><p>　既得権層があらゆる手段を動員して国家保安法を守ろうとしたのは事実である。しかし国家保安法を撤廃する機会はあった。盧武鉉がなりふりかまわず突き進めば撤廃できたはずだった。しかし盧武鉉は愚直にも正道に固執し、みすみす機会を逃してしまったのである。</p><p>　1871年のパリコミューンの際、立ち上がった市民は資金の不足に悩まされたが、パリの銀行に残されていたブルジョアジーの財産に手をつけようとはしなかった。あとから歴史を見る者としては、そのときのパリ市民の度を超した潔癖さに、もどかしさを感じざるを得ない。国家保安法撤廃を強行しなかった盧武鉉の愚直さに、わたしは同じもどかしさを感じてしまう。</p><p>　異色の大統領である盧武鉉に対する既得権層の抵抗は執拗で、盧武鉉政権は常に不安要素をかかえ、不安定であった。</p><p>　またアメリカとの同盟が重要であると考えた盧武鉉は、イラクへの派兵に応じ、ＦＴＡを受け入れて新自由主義的な政策を推し進めた。そのため、盧武鉉の支持層である若者層は盧武鉉に失望し、政権末期には支持率を大きく落とすこととなった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/europa2718/entry-12972417899.html</link>
<pubDate>Sat, 11 Jul 2026 20:10:40 +0900</pubDate>
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<title>歴史の清算Ⅱ-９</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>９</p><p>&nbsp;</p><p>　1997年の大統領選挙を前にして、金大中は元祖維新と呼ばれ、既得権層に属する金鍾泌とＤＪＰ連合を結成する。ＤＪＰ連合とは、大中の頭文字ＤＪと、鍾泌の頭文字ＪＰをあわせた呼称だ。</p><p>　そして12月18日に実施された選挙で、対立候補の李会昌に39万票という僅差で辛勝する。</p><p>　4度目の挑戦による勝利だった。</p><p>　拉致されて殺されかかり、死刑を宣告されながらも、屈することなく軍事独裁政権と戦い続けた金大中は、韓国の民主化運動を象徴する人物でもあった。それだけに大統領に就任後、さまざまな民主的改革を実行し、社会福祉の充実など民衆の生活に密着した政策を遂行していった。</p><p>　しかし大統領選挙に勝利するため、既得権層の巨頭である金鍾泌と手を結んだため、充分な改革を実施することはできなかった。</p><p>　またＩＭＦ体制下という制約のもと、不本意ながら新自由主義的な政策を実施せざるを得なかった。</p><p>　さまざまは意味で中途半端な統治期間であったが、歴史のたてなおしという意味では、2000年に制定された「済州四・三事件真相究明および犠牲者名誉回復に関する法律」は特記すべき業績であった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/europa2718/entry-12970911840.html</link>
<pubDate>Sat, 27 Jun 2026 01:19:25 +0900</pubDate>
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<title>歴史の清算Ⅱ-8</title>
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<![CDATA[ <p>８</p><p>&nbsp;</p><p>　盧泰愚大統領の任期満了の直前、野党民主党の次期大統領候補と目されていた金泳三は、盧泰愚の民正党、金鍾泌の共和党と民主党との三党合併を決断する。民主陣営のリーダーのひとりであった金泳三が、既得権層と手を結んだのである。</p><p>　在野の民主勢力は金泳三を厳しく批判した。しかし単独ではライバルである金大中に勝てないと判断した金泳三は、三党が合併した民自党の大統領候補となるのである。</p><p>　そして12月18日に実施された大統領選挙で、金泳三は平民党の金大中を194万票という大差で破り、勝利を収める。</p><p>　既得権層と手を握ることによって大統領に就任したが、金泳三は新しい政府を文民政府と命名し、就任初期から果敢な改革を実施し、民衆はこれを歓呼の声で迎えた。</p><p>　圧倒的な民衆の支持を背景として、金泳三は12・12粛軍クーデターと光州民衆虐殺の断罪を実行しようとするが、既得権層の激しい抵抗によって挫折する。</p><p>　金泳三は検察に対し、12・12粛軍クーデターを捜査するように命じるが、検察は「成功したクーデターを処罰することはできない」という法理を持ちだし、公訴権がない、という決定をくだした。</p><p>　1993年に金泳三は金融実名制を実施し、高位高官などの不正蓄財を暴いて民衆の喝采をあびたが、その頃から盧泰愚には莫大な秘密資金があるといううわさが流れはじめた。しかし物証はなく、そのようなうわさに対して盧泰愚は「これほど奇怪で荒唐無稽な話を受け入れるわけにはいかない。世界一忍耐強いと言われているわたしでも、我慢がならない」と全面的に否定していた。</p><p>　ところが1995年10月19日、民主党国会議員であった朴啓東が1枚の新韓銀行の口座照会票を手に壇上に立った。そして110億ウォンが領置されているこの口座は盧泰愚の秘密資金であり、これ以外に各銀行に4000億ウォンにのぼる偽名口座が存在する、と発言したのである。</p><p>　議場は騒然となった。</p><p>　盧泰愚は、事実無根であると抗弁した。</p><p>　しかしすぐに検察が捜査に乗り出し、次々と偽名口座が暴かれていった。そしてついに4600億ウォンという天文学的な秘密資金の存在が明らかになり、盧泰愚は逮捕された。</p><p>　世論は沸騰した。秘密資金だけではなく、12・12粛軍クーデターと光州民衆虐殺についても断罪しなければならないという声を抑えることはできなくなった。</p><p>　金泳三はこの機会を逃さず、「歴史のたてなおし」のスローガンのもと、民自党に「5・18民主化運動などに関する特別法」の制定を指示した。そしてこの法に基づき、盧泰愚と全斗煥は並んで法廷に立つことになるのである。</p><p>　1997年4月17日、大法院の最終判決として、全斗煥は無期懲役、追徴金2205億ウォン、盧泰愚は懲役17年、追徴金2628億9600万ウォンの宣告を受けた。</p><p>　罪名は、叛乱首魁、叛乱謀議参加、叛乱主要任務従事、不法進退（指揮官が職権を濫用して部隊、艦隊、航空機などを進退させること）、指揮官戒厳地域宿所離脱、上官殺害、上官殺害未遂、哨兵殺害、内乱首魁、内乱謀議参加、内乱主要任務従事、内乱目的殺人、特別犯罪加重処罰などに関する法律（賄賂）などであった。</p><p>　当時わたしはソウルに遊学中であったが、この一連の事態に対する民衆の昂揚は強く印象に残っている。新聞、テレビは連日この問題を掲載、放送していた。大新聞やテレビ局が政権の飼い犬になりはてた現在からは想像もできないことだが、過去の政府の悪行を暴く深層探査報道が連日のように報じられた。</p><p>　居酒屋で一杯やっているときも、聞こえてくるのはこの問題に関することばかりだった。誰もが政治に関心を持ち、これによって新しい韓国を作るのだという熱気に燃えていた。</p><p>　金泳三の言う歴史のたてなおしに、民衆は熱狂した。民主主義の実現のためには歴史のたてなおしが絶対に必要であるということを、みなが理解していた。</p><p>　しかし既得権層の抵抗により、歴史のたてなおしは中途半端のまま終わってしまう。全斗煥も盧泰愚も、安家で財閥総裁と独対し、特恵を与える代わりに秘密資金の提供を要求した。これは朴正煕のやり方をそのまま受け継いだものだった。であれば、朴正煕にもおなじような秘密資金があったはずであり、その真相も究明していかなければならなかったはずだった。しかし歴史のたてなおしは、維新独裁の時代にさかのぼって実行されることはなく、朴正煕の秘密資金が暴かれることはなかった。</p><p>　さらに朴正煕、全斗煥、盧泰愚とつづく軍事独裁政権を生みだしたのは、日本の満州軍出身の朝鮮人将校の人脈であり、彼らのような親日派が反共を唱えることによって韓国の既得権層を形成したことがそもそもの問題のはじまりであった。しかしそのことが問題とされることはなかった。</p><p>　金泳三の統治時代の後半は、大型惨事の連続と、外国為替危機によって暗雲に閉ざされる。</p><p>　1993年3月28日、京釜線で無窮花号が転覆事故を起こし、78人が死亡するという韓国鉄道史上最悪の惨事が発生した。</p><p>　4ヶ月後の7月26日にはアシアナ航空の旅客機が墜落し、68人が死亡する。</p><p>　そして10月10日、全羅北道の臨水島沖で西海フェリーが沈没し、292人が死亡した。</p><p>　1994年10月21日には、漢江にかかる聖水大橋が何の前触れもなく突然崩落するという信じられない事件が起こる。</p><p>　1995年4月28日には、大邱での地下鉄工事の最中に都市ガス管が爆発し、101人が死亡する。</p><p>　そして2ヶ月後の6月29日、全国第2の規模を誇るソウルの三豊百貨店が崩壊し、502人が死亡するのである。</p><p>　これら一連の事件は、いわば軍事独裁の時代に横行した不正による手抜き工事が原因であり、過去のツケを払わされることになった金泳三にとっては不運なことであった。</p><p>　またタイ、香港、マレーシア、フィリピン、インドネシアなどの東南アジア諸国の連続的な外貨危機の影響を受け、韓国も国家的破産の危機に追い込まれ、1997年12月3日、ＩＭＦの資金支援を受けることになる。</p><p>　大型惨事の連続とＩＭＦ危機により、金泳三の任期末の支持率は1桁台にまで落ち込んでしまった。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/europa2718/entry-12970300705.html</link>
<pubDate>Sun, 21 Jun 2026 00:36:26 +0900</pubDate>
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<title>歴史の清算Ⅱ-7</title>
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<![CDATA[ <p>７</p><p>&nbsp;</p><p>　6月民衆抗争によって、韓国の民衆は大統領直接選挙を勝ち取った。しかし民主主義の実現を求める民衆の声を組織化するような、成熟した市民社会はまだ韓国には存在していなかった。</p><p>　韓国の民衆はこれまで、自由と民主主義を体験したことがなかった。自由な雰囲気の中で、みずからの手で大統領を選んだこともなかった。</p><p>　民主化運動のリーダーであった金泳三も金大中も、近代的な民主社会における政治家というより、仁慈あふれる封建領主のような存在だった。ふたりとも民衆の痛みを知り、民衆を愛そうとつとめていたが、いわば忠臣に囲まれた豪族の領袖であった。</p><p>　金泳三は嶺南を地盤とし、金大中が基盤としたのは湖南だった。在野勢力を中心に、大統領選挙に勝利するためには候補を単一化しなければならない、との声が高まったが、ふたりとも譲ろうとはしなかった。それぞれの忠臣が譲歩を許さなかった、というのが実情であった。</p><p>　1987年12月16日に行われた大統領選挙で、盧泰愚は漁夫の利を得る形で勝利した。得票率36.6％という辛勝であった。</p><p>　民主陣営は6月民衆抗争によって大統領直接選挙という制度を獲得することはできたが、既得権層の支配を突き崩すことはできなかったのである。3割台の得票率で盧泰愚が大統領に当選したという結果は、民主陣営にとって衝撃的な結末だった。民主陣営は、軍事独裁の積み重なった弊害を大掃除する絶好の機会を逃してしまったのである。</p><p>　金東椿聖公大教授は、このとき光州虐殺の主犯である軍人（第5共和国の中枢）、保守言論、財閥、検察、国家情報院を清算できなかったことが、2016年の朴槿恵弾劾につながった、と語っている。軍事独裁を支えてきた勢力をこのとき除去することができなかったため、盧泰愚政権下で、これらの勢力が民主化された韓国社会で生き残っていく基盤を築いてしまったのである。</p><p>　盧泰愚の統治は基本的には全斗煥の延長であったが、6月民衆抗争を経験した民衆は、全斗煥のような鉄拳政治を許すことはなかった。ある程度言論の自由が認められ、政治活動も活発化していった。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/europa2718/entry-12969692438.html</link>
<pubDate>Sun, 14 Jun 2026 22:31:00 +0900</pubDate>
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<title>歴史の清算Ⅱ-6</title>
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<![CDATA[ <p>６</p><p>&nbsp;</p><p>　朴正煕の死に、韓国の民衆は沸き立った。抑えつけられていた鬱憤をはらすかのように、言論界は百家争鳴の様相を示し、そのありさまは『ソウルの春』と報じられた。民主化闘争のリーダーであった金泳三と金大中、そして朴正煕の同志でもあった金鍾泌の3 人の政治家が政界を動かし、世はいわゆる三金時代へと移行するかに思われた。</p><p>　しかし朴正煕の寵愛を受けていた全斗煥らは密かに陰謀をめぐらし、12月12日、軍を動かして上官である陸軍参謀総長鄭昇和を逮捕してしまう。このとき全斗煥らの反乱軍は北朝鮮と対峙していた38度線付近の軍も動員し、ソウルに侵攻した。ソウル市民はまったく知らなかったが、反乱軍を鎮圧しようとする政府軍との間で、ソウル市街戦が勃発する一歩手前まで危機が進行していたのである。</p><p>　この12・12粛軍クーデターによって軍の実権を握った全斗煥は、周到な準備の末、翌1980年5月17日、全軍主要指揮官会議を開き、戒厳令を発布した。同時に金泳三、金大中、金鍾泌ら主要な政治家を逮捕し、抵抗すると思われる者を根こそぎ逮捕していった。</p><p>　12・12にはじまった叛乱計画を、5・17によって完成させたのである。</p><p>　全斗煥らのクーデターに反対するデモは全国で行われたが、とりわけ光州でのデモは熾烈だった。</p><p>　18日、全斗煥は学生を中心とする光州のデモの鎮圧に空挺部隊を投入した。空挺部隊は学生に対し問答無用の暴力を振るい、鎮圧の過程でおびただしい負傷者を出した。</p><p>　これを目撃した市民は憤激し、抗議行動に加わり、デモはさらに拡大した。</p><p>　空挺部隊の暴力的な鎮圧はさらにエスカレートし、ついに市民に対して銃撃するにいたる。</p><p>　鎮圧軍の発砲に対抗するため、市民も武装を開始し、抗議行動はたちまちにして市街戦の様相を呈しはじめた。</p><p>　武装した市民の抵抗を前に、空挺部隊は市の郊外に撤収する。</p><p>　21日午後6時、道庁を接収した市民軍はただちに治安維持、防衛のための組織を編成する一方、「闘士会報」を発行して宣伝活動につとめ、また毎日「市民決起大会」を開いて民衆の声をただちに政策として実行するなど、卓越した自治能力を発揮した。</p><p>　光州コミューンとも呼ばれたこの時期、光州市内の治安は安定し、窃盗や暴力事件などはほとんどなかったという。市民軍は民衆の熱烈な支持を受け、市場のおばさんたちが海苔巻きなどを大量にこしらえて道庁の市民軍に配るなどの光景が見られた。</p><p>　しかしときがたつにつれ、市民軍首脳部の中に、政府との妥協を模索する穏健派と、独裁政権退陣まで戦い抜くべきだと主張する強硬派の対立が生じていった。</p><p>　戒厳軍は光州を完全に包囲し、その情報が漏れるのを完全に遮断した。光州の市民軍は他の地域でも蜂起が起こることを期待したが、光州以外の韓国の民衆は、光州で流血の事態が起きていることすら知らされていなかった。</p><p>　27日未明に戒厳軍の総攻撃があると聞いた市民軍は、最後まで戦うと主張する人々だけが全羅南道道庁に立て籠もり、残りは解散した。</p><p>　27日午前1時、戒厳司令部は作戦開始を命じた。第3空挺旅団、第7空挺旅団、第11空挺旅団が、死を覚悟した市民軍が立て籠もる道庁に進撃した。鎮圧作戦の終了は、午前5時10分だった。</p><p>　光州の民衆のおびただしい血の上で、全斗煥は実権を握った。全斗煥は自分自身を中将から大将に進級させてから、軍服を脱いだ。そして8月27日、代議員の間接選挙によって、大統領に選出された。</p><p>　朴正煕のエピゴーネンである全斗煥の統治時代は、維新独裁の延長であった。全斗煥は、苛酷な弾圧を強行すると同時に、スポーツ、セックス、スクリーンの３Ｓによって民衆の不満をごまかそうとした。愚民政治によって民衆の目をそらそうとしたのだが、民主主義を求める民衆の声を抑え込むことはできなかった。</p><p>　1987年6月、全斗煥は次期大統領として12・12の同志である盧泰愚を指名した。代議員による間接選挙では、盧泰愚が次期大統領になるのは確実であった。</p><p>　これに対し野党と在野勢力はその力を総結集して「民主主義を戦い取る国民運動本部」を結成し、6月10日に全国的な汎国民大会を開催すると宣言した。全斗煥は6万にのぼる警察官を動員し、力によってこれを鎮圧しようとした。</p><p>　6月9日、デモに参加していた延世大学の学生、李韓烈の頭部に催涙弾が命中し、昏睡状態に陥った。これを伝え聞いた学生、市民は憤激し、街頭に躍り出た。6月10日に予定されていた汎国民大会こそ警察の妨害で開催することができなかったが、全国の大学でゲリラ的なデモが行われ、街頭に出た学生に市民が合流した。</p><p>　中産層を象徴する、ネクタイ部隊と呼ばれるサラリーマンもデモに参加し、タクシーの運転手や市場の商人たちがデモ隊に拍手を送った。</p><p>　全斗煥は数千に及ぶ学生、市民を連行し、激しい拷問を加えたが、デモの勢いが衰えることはなかった。</p><p>　6月民衆抗争である。</p><p>　そしてついに6月29日、盧泰愚が「6・29宣言」を発表し、大統領直接選挙を約束する。</p><p>　6・29宣言以後、韓国は憲法改正と大統領選挙の熱気に包まれることになった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/europa2718/entry-12968954247.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Jun 2026 16:14:28 +0900</pubDate>
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<title>歴史の清算Ⅱ-5</title>
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<![CDATA[ <p>５</p><p>&nbsp;</p><p>　朝鮮の民衆は市民革命を経験することができなかった。朝鮮王朝末期、東学農民戦争が市民革命へと発展する可能性を秘めていたが、日本軍の介入によってそれは可能性のまま、おびただしい血を流して、押し潰されてしまった。</p><p>　日本の植民地時代、民主的な市民社会の成熟など望むべくもなかった。</p><p>　解放後も、権力を握ったのは親日派を中心とする既得権層であり、李承晩の独裁のもと、民衆の声は圧殺され続けた。</p><p>　４・19革命によって李承晩は退陣したが、民衆の望む民主的な社会を建設する受け皿は存在していなかった。3・15選挙で李承晩に対抗して立候補した野党候補が、済州島4・３事件の主犯のひとりである趙炳玉であったという事実が、このあたりの事情を象徴していると言えよう。</p><p>　4・19革命後の政局は混乱を極めた。そしてその隙をついて、1961年5月16日、第2軍司令部副司令官であった朴正煕がクーデターを起こし、政権を簒奪してしまうのである。</p><p>　朴正煕は1917年に、慶尚北道善山郡亀尾の貧農の子として生まれた。大邱師範学校を卒業し、聞慶公立普通学校の教師をしていたが、軍人になるという夢を捨てきれず、満州軍に志願する。しかし年齢が超過していたため一度は拒否されるが、それでもあきらめず、血書を添えて再び志願する。</p><p>　このことは1939年3月31日付の満州新聞に「血書、軍官志願、半島の若き訓導から」との見出しで掲載された。その記事によると、「一死以て御奉公、朴正煕」という血書に添えて「（前略）日系軍官募集要項を拝読しますと小生は凡ての条件に不適合の様であります。甚だ僭越にて恐懼の至と存じますけれども御無理を申しあげて是非国軍に御採用下さいませんでせうか（中略）日本人として恥ぢざるだけの精神と気魄とを以て一死御奉公の堅い決心でございます。しっかりやります。命のつづく限り忠誠を尽す覚悟でございます（中略）一人前の満州国軍人として満州国のために延いては祖国のため何で一身の栄達を欲しませう、滅私奉公、犬馬の忠を尽くす決心でございます（後略）」という手紙が同封されていたという。</p><p>　この血書のおかげで満州国新京軍官学校の2期生に選抜され、その後陸軍士官学校第57期の3学年に編入され、1944年4月に卒業した。卒業時の成績は300人中3番であったという。</p><p>　卒業後朴正煕は、満州熱河省に駐屯していた満州歩兵第8師団に配属され、少尉に任官された。創氏改名によって高木正雄となった朴正煕の主たる任務は、八路軍の討伐であった。</p><p>　しかし少尉任官からわずか8ヶ月で日本が敗戦してしまう。行き場を失った朴正煕は日本軍を逃亡し、陸路北京に向かい、大韓民国臨時政府の正規軍となることをめざしていた光復軍に参加し、中隊長となった。</p><p>　ところが朝鮮半島南部を占領したアメリカ軍政が大韓民国臨時政府を認めなかったので、臨時政府のメンバーや光復軍の兵士は、個人の資格で朝鮮に戻らなければならなかった。</p><p>　朝鮮に戻った朴正煕は、朝鮮警備士官学校に入学し、3ヶ月の課程を修了して陸軍少尉として任官するが、その後1年余で少佐にまで進級する。警備隊の草創期とはいえ、異常に早い出世である。</p><p>　このころ朴正煕は、時期ははっきりしないが、南朝鮮労働党に加入した。朴正煕の兄、朴相煕は左派の活動家で、1946年の10月人民抗争で警察の銃撃を受けて死亡しているが、その影響であると思われる。</p><p>　そして1948年、麗水、順天事件が勃発し、軍内部の粛正が進む中、朴正煕は南朝鮮労働党のフラクションの中心人物として逮捕されるのである。</p><p>　逮捕された朴正煕は、積極的に軍の捜査に協力し、仲間を売ることによって、処刑を免れた。はじめは無期懲役刑を宣告されるが、懲役15年に減刑され、すぐに執行猶予で釈放された。</p><p>　朴正煕の釈放には、軍の中枢を占めていた旧満州軍時代の人脈が大きな力を発揮した。</p><p>　1950年、朝鮮戦争が勃発すると、朴正煕は少佐として現役復帰し、53年に准将、57年に少将ととんとん拍子に出世していく。</p><p>　そして1961年、5・16軍事クーデターによって実権を握り、63年の大統領選挙で当選し、大統領に就任する。</p><p>　朴正煕は李承晩と同じく、永久執権をめざして強引な手段で憲法改正を繰り返し、露骨な不正選挙で大統領2選、3選を実現する。しかし1971年に実施された第7代大統領選挙では、権力を総動員した不正選挙を強行したにもかかわらず、野党候補である金大中に苦戦してしまう。</p><p>　この現実を目にした朴正煕は、国家非常事態を宣布し、1972年10月、維新憲法を宣布する。維新憲法は、民衆が直接選挙で大統領を選ぶ権利を否定し、実質的に朴正煕の永久執権を可能にするものであった。</p><p>　5・16軍事クーデターによって実権を握った朴正煕はまずアメリカ訪問を急いだ。韓国で権力を維持するためには何よりもアメリカの承認が必要だったからだ。</p><p>　その途中、朴正煕は日本に立ち寄り、岸信介と会談する。その場には新京軍官学校時代の師であった南雲親一郎も姿をあらわし、朴正煕は韓国での最高の礼である大礼で挨拶をした。</p><p>　その席で朴正煕は、明治維新の志士である吉田松陰らを尊敬しており、明治維新の志士のようなやむにやまれぬ思いで5・16「革命」を起こしたと語り、岸信介らを感動させたと伝えられている。</p><p>　永久執権のために全土に非常戒厳令を発し、国会を解散しすべての政治活動を禁止して独裁体制を完成させた一連の事態を『10月維新』を称し、そのとき強引に改正した憲法を『維新憲法』と名付けたが、この『維新』が明治維新を意味しているのは言うまでもない。</p><p>　大日本帝国陸軍の伝統がもっとも色濃く残っているのは、日本ではなく、韓国の軍であった。韓国軍の中枢を占め、その実権を握っていたのが、旧満州軍出身の朝鮮人将校であったからだ。</p><p>　彼らは大日本帝国時代の日本式教育をしっかりと身につけ、実行していった。そしてそれは、旧日本軍出身者ではない若い世代にも確実に受け継がれていた。</p><p>　5・16軍事クーデターを主導したのも、朴正煕をはじめ、金東河、李周一、金潤根ら、新京軍官学校出身の将軍であり、彼らの薫陶を受けた金鍾泌、金炯旭らの若い世代であった。</p><p>　朴正煕が作り出したのは、満州国を思わせる兵営国家であった。</p><p>　新聞、テレビなどのマスコミは徹底的に統制された。政府を批判する記事の掲載など夢にも望めないことだった。</p><p>　言論統制は庶民の日常生活にまで及んだ。一日の仕事を終え、居酒屋で一杯やりながらちょっと大統領の悪口を口にしただけで、密告されて懲役刑を受け、何年も刑務所で苦労したというような、笑い話のような話が現実であった。</p><p>　朴正煕は北朝鮮の脅威を煽り、徹底した反共教育を実施した。政権の危機が訪れるたびにスパイ事件がでっちあげられ、北朝鮮の恐怖が宣伝された。</p><p>　朴正煕政権の残忍性をあますことなく表現しているのが、人民革命党再建委員会事件である。</p><p>　1973年4月3日、ソウル大をはじめとするいくつかの大学が決起した。デモとともに配られたビラには、維新撤廃を要求する、全国民主青年学生総連盟（民青学連）の声明書が掲載されていた。</p><p>　政府は民青学連を主導していた学生を徹底的に弾圧し、軍法会議に回付された人員は180人にものぼった。求刑は死刑14人、無期懲役13人、懲役15年以上が28人であった。</p><p>　この事件で宣告された量刑を合計すると1650年にもなる。ひとつの事件としては、ギネスブックに掲載すべき数字であるといえよう。</p><p>　さらに中央情報部は、民青学連を背後で操縦したのは、北朝鮮の指令によって動いている人民革命党再建委員会であると発表した。1964年に摘発された人民革命党の残党が再結集したというのである。</p><p>　想像を絶する激しい拷問によってでっちあげられた事件だった。</p><p>　そして1975年4月8日、人民革命党再建委員会の8人の死刑が確定し、翌4月9日午前6時に死刑が執行された。</p><p>　金鏞元、都礼鍾、徐道源、宋相振、呂正男、禹洪善、李銖秉、河在完の8人が刑場の露と消えた。まさに司法殺人であった。</p><p>　当局は遺体の引き渡しを求めて泣き叫ぶ遺族の要求を無視し、強引に遺体を火葬してしまった。凄惨な拷問の痕跡を隠すためだとも言われている。</p><p>　民主化後、人民革命党再建委員会事件をはじめ、おびただしいでっちあげスパイ事件のほとんどは再審によって無罪となった。しかし拷問によってこれらの事件をでっちあげた捜査官、検事、裁判官などはひとりも処罰されていない。逆に彼らは、これらの「功績」によって出世し、その多くは現在も政権の中枢におさまっている。</p><p>　特恵を与えて財閥を育成し、その財閥に秘密資金の提供を要求する、というのが朴正煕の政治スタイルであり、この政治スタイルは朴正煕の死後も韓国の伝統として残った。</p><p>　朴正煕は財閥の領袖と「独対」して密談するのを好んだ。独対とは、王と臣下が一対一で密談することを意味する、朝鮮王朝時代の言葉だ。朴正煕は独対の場として使用するため、ソウルの各処に「安家」を作らせた。安家とは、安全家屋の省略である。</p><p>　朴正煕、全斗煥、盧泰愚とつづく軍人独裁者の次に文民として大統領になった金泳三は、安家に案内され、その豪華な内装に目を丸くした。金泳三は回顧録で次のように述べている。</p><p>&nbsp;</p><p>　当時青瓦台周辺の宮井洞、青雲洞、三静洞などに、いわゆる安全家屋という名の豪華な住宅が十二カ所あり、土地の総面積は一万九千坪に及んだ。安家は過去、朴正煕、全斗煥、盧泰愚などの軍人出身の独裁者が、女を侍らせ、週に1、2度遊興を楽しんだ場所だった。</p><p>　彼らは財閥の総帥を呼び出し、女を側に座らせて酒を飲みながら、政治資金の上納を強要した。また現役の軍人を呼び出して酒を飲ませ、現金を与えて私的組織を維持していった。一言でいって、密室政治と工作政治の巣窟であり、道徳的堕落が横行する場であった。朴正煕が女性のタレントを側に侍らして酒宴を行い、腹心の部下である金載圭中央情報部長に無惨に殺されたのも宮井洞の安家であった。</p><p>　わたしは就任直後、安家に行ってみた。それまで、安家がいくつあるのかさえ知らなかった。厳しく警護され、秘密が維持されていたので、安家が全部で12カ所もあるという事実を知っているのはごく少数に限られていた。安家を訪ねたわたしは心底驚いた。内部の豪華さ、華麗さは言葉で表現することができないほどだった。建物の方向も、南向きのものと東向きのものが用意されており、西洋式のベッドがしつらえられた部屋もあれば、伝統的なオンドルの部屋もあった。30数人が宴会をすることのできる大きな部屋もあった。大統領のその日の気分により、あの建物、この建物、あるいはあの部屋、この部屋と趣向を変えて楽しみ、ここでありとあらゆる密談がかわされたのだと直感することができた。</p><p>&nbsp;</p><p>　金泳三はすぐに安家の撤去を命じた。その直前、宮井洞の安家が新聞記者に公開されたが、その内部はイタリア製のソファ、巨大なシャンデリア、最高級の絨毯に飾られていた。豪華なベッドがしつらえられた寝室には、各部屋に国内外の主要機関と直接つながるホットラインが設置されていたという。</p><p>　安家では、財閥領袖や現役軍人との宴会以外に、3日に1度ほどの周期で、朴正煕が個人的に楽しむ宴会が開かれていた。この宴会は、大統領と2、3人の側近が参加する大行事と、大統領がひとりで楽しむ小行事とに分けられていた。大行事、小行事に侍る女性を調達する官吏は、俗に採紅使と呼ばれていた。この名称は、朝鮮王朝最悪の暴君と言われている燕山君が、全国から美女と駿馬を捜し出すために設けた採紅駿使に由来する。</p><p>　採紅使による女性狩りは朴正煕が権力を握った直後から行われており、そのため大統領夫人である陸英修との間で夫婦喧嘩が絶えなかったと言われている。</p><p>　最後の採紅使は、中央情報部儀典課長、朴善浩であった。朴善浩は、朴正煕を殺害した中央情報部長金載圭の部下であり、朴正煕殺害に加担して逮捕された。その裁判で、大統領の女性狩りが明らかになったのである。</p><p>　大宴会、小宴会に供された女性は、歌手やタレント、あるいはタレント志望の若い女性だった。名前を挙げれば誰でも知っている有名タレントもその中に含まれていたという。朴善浩は裁判でそのすべてを明らかにしようとしたが、金載圭が朴正煕の名誉を守るためにそれだけは口にするなと命じたため、裁判でそれ以上の事実が公開されることはなく、朴善浩は裁判の直後処刑されてしまった。</p><p>　上部の腐敗、堕落は下部に浸透していく。朴正煕が作り出した当時の韓国は、特恵と賄賂が横行した、腐臭芬々たる社会であった。</p><p>　朴正煕はベトナム派兵による資金と、日韓条約によって得た有償無償5億ドルの経済供与をもとに、漢江の奇跡と呼ばれる経済成長を実現した。</p><p>　ベトナム派兵による資金とは、いわば韓国の青年の血の代価である。</p><p>　そして全国民の激しい反対を、非常戒厳令宣布によって鎮圧し、おびただしい人員を軍事裁判で処罰することによって推し進めた日韓条約によって得た経済供与は、民族の誇りを売って得たものであった。</p><p>　朴正煕はこれらの資金を用いて財閥を育成し、高度成長を実現した。漢江の奇蹟を実現したのは朴正煕の指導力である、というような話がまことしやかに語られているが、詭弁に過ぎない。この高度成長を支えたのは、労働者の奴隷的な労働であった。</p><p>　当時韓国にも勤労基準法はあった。この勤労基準法は、ＧＨＱが日本で制定した労働基準法をまねたもので、世界でもっとも進んでいたとも言われているものだ。しかしこの労働基準法は、韓国が民主主義国家であると宣伝するためにアメリカ軍政が制定したものであり、韓国政府にはこの法律を遵守する気などまったくなかった。</p><p>　そのため、1970年11月13日、23歳の青年労働者全泰壹は、勤労基準法を遵守せよ、と絶叫しながら焼身自殺しなければならなかったのだ。</p><p>　当時の労働者の生活は実に悲惨であった。とりわけ全泰壹の周囲にいた若い女性労働者のありさまは、明治時代の女工哀史もかくやと思わせるような状態だった。</p><p>　朴正煕は労働運動を徹底的に弾圧した。労働運動の兆候が見えただけで、警察を動員し暴力的に鎮圧していった。</p><p>　1979年春、韓国最大のカツラ製造輸出業者であったＹＨ貿易で労働争議が起こった。会社側の誠意のない対応に、ＹＨ貿易の女性労働者たちは会社に立て籠もって抵抗した。警察の暴力的な弾圧に抗して立て籠もり闘争は長期化し、膠着状態に陥った。</p><p>　このうら若き女性労働者たちの命がけの闘争が、嵐を引き起こすチョウの羽ばたきになるなるのである。</p><p>　8月9日、女性労働者172人は、野党新民党の党舎に逃げ込み、助けを求めた。</p><p>　これに対し新民党総裁であった金泳三は「あなたがたが最後にこの党舎に助けを求めるまで追いつめられた事実に、涙を禁じることができない。わたしたちがあなた方を守るので、安心してください」と語り、女性労働者たちを保護した。</p><p>　しかし警察は強硬な姿勢を崩さなかった。そして8月11日午前2時、警察は数千の警察官を新民党党舎に突入させた。新民党国会議員、党の職員らが身をもって抵抗したが、完全武装の警察官に対抗できるはずもなかった。</p><p>　この混乱の中、屋上にのぼっていた金敬淑が墜落死する。党舎に立て籠もっていた女性労働者は全員強制排除された。</p><p>　この直後から、新民党議員は抗議の立て籠もり闘争に入った。さらに民主化闘争を担ってきたさまざまな在野の運動体が立ち上がった。</p><p>　朴正煕は政府与党を動かし、与党単独で金泳三国会議員除名決議を議決した。これを聞いた金泳三は「ニワトリの頭を切っても朝は来る。わたしを除名すれば朴正煕が死ぬ」と語った。</p><p>　野党議員は金泳三の除名に抗議して集団で辞任届を提出した。</p><p>　そして10月16日、釜山大学の学生が「維新政権は退陣せよ」「政治弾圧をやめよ」などと叫びながら校内を練り歩き、夕刻には街頭に飛び出していった。</p><p>　翌17日夕刻、学生のデモに市民が加わり、事態は拡大していった。デモ隊は警察車両を破壊し、派出所に襲いかかった。韓国放送公社（ＫＢＳ）も焼き討ちにあった。放送局が焼き討ちされたのは、真実を報道せず、政府の意に沿った歪曲された報道を繰り返していたからだ。</p><p>　これに対して朴正煕は、18日0時を期して釜山に戒厳令を宣布し、戒厳軍を投入してデモ隊を鎮圧し、千人以上を検挙した。</p><p>　しかしむきだしの暴力によっても怒れる民衆の声を抑え込むことはできなかった。19日には釜山に隣接する馬山の馬山大学と慶南大学の学生がデモを行い、市民、そして高校生までがこれに加わり、派出所や放送局を焼き討ちしていった。</p><p>　朴正煕は馬山に衛戍令を宣布する。しかし独裁打倒を叫ぶ民衆の抵抗は鎮まらず、逆に学生を中心に全国に波及する勢いを見せていた。</p><p>　この一連の抗争は、釜馬民衆抗争と呼ばれている。</p><p>　10月26日、宮井洞の安家で大行事が行われた。参加したのは朴正煕、大統領警護室長車智澈、中央情報部長金載圭の3人だった。朴正煕の側には、人気歌手の沈守峰、漢陽大演劇映画学科3年に在学中だった申才順の2人が侍っていた。採紅使朴善浩が調達した女性たちである。</p><p>　席上、朴正煕は釜馬民衆抗争に言及して中央情報部の対応の緩さを指弾した。</p><p>　のちの裁判における金載圭の証言によれば、そのとき車智澈は、軍を動員してデモをする市民を押し潰してしまえ、と発言し、「カンボジアでは300万人を虐殺したではないか。われわれが200万人を殺せないということはない」と強調し、朴正煕も「かつて崔仁圭や郭永周が死んだのは発砲命令をくだしたからだ。しかしわたしが直接発砲を命じればいい。わたしを銃殺する者などいるはずがない」と言ったという。</p><p>　崔仁圭と郭永周は、4・19革命当時、李承晩退陣を要求する市民に対し発砲を命じた男たちである。</p><p>　一時中座した金載圭は、銃を用意して宴席に戻り、朴正煕と車智澈を射殺した。</p><p>　金載圭はその後の裁判で、朴正煕射殺の動機について、自由民主主義を回復するためであり、わが国の国民の犠牲を未然に防止するためであったと述べた。中央情報部長として、朴正煕独裁政権の中枢にあった者の言としてはすぐに納得のいくものではないが、政権末期に至り常軌を逸した凶暴性を発揮するようになった朴正煕を目にして、祖国を救うためにはこうするしかないと決心した可能性は否定できない。</p><p>　いずれにせよ、腹心の部下による銃弾によって、朴正煕は死亡した。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/europa2718/entry-12967792309.html</link>
<pubDate>Sat, 30 May 2026 20:04:37 +0900</pubDate>
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