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<title>Development Studiesから日本を見る。</title>
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<description>ロンドン大学SOAS（国際開発学）での一年間と、旅行記を綴る。</description>
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<title>始まりの、終わり。</title>
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<![CDATA[ フィリピンでの２ヶ月半のインターン生活が終わりに近づいている。<br>あと３日。<br><br>これは私にとって、単なるインターンの終わりではない。<br>長い、長い、海外生活の終わり。<br><br>西欧、東欧、北欧、バルカン、アフリカ、中東、南アジア、東南アジア。<br>２３カ国。<br>１年と１７日。<br><br>限定的ながら、SOASで学んだアフリカ・オリエンタルの国々について、理論（勉強）と実際（旅やインターン）から理解を深める事が出来た。百聞は一見にしかずというのは本当で、いまではニュースで見聞きする土地の人々、文化、生活、社会経済が、色鮮やかに想像できるようになった。<br><br>そして海外に「住む」という、数日間の旅とはまったく違う経験もした。<br>いろいろな土地を自分の足で、自分の意思で回り、インターン先に応募し、生活を自分でセットアップしていくにつれ、独立して生きている自分というのを強く意識するようになった。自分の身は自分で守る。楽しむのも自分。責任は自分でとらなくてはいけない。（しかし、財政面以外ではあり、その点家族や奨学金のおかがで守られている。それがまた大きなファクターなのだとも思う。）<br><br>第２、第３の故郷ができた。<br>住んでいる期間が長くなれば長い程、知り合いもでき、生活に慣れ、良い思い出も悪い思い出も重なってゆく。<br>いま、９ヶ月生活したロンドンは間違いなく私の第２の故郷であり、<br>２ヶ月半生活したフィリピン・マニラは私の第３の故郷。１ヶ月住んだウガンダ・カンパラは私の第４の故郷だ。<br><br><br>数年前、参加した学生団体の勉強合宿のエンディングにこんな言葉があった。<br><br>「これは、終わりではない。<br><br>終わりの、始まりですらない。<br><br>ただ、始まりの、終わりかもしれない。」<br><br><br>出発前、友人と訪ねた居酒屋のマスターが、ギターを弾いて歌を贈ってくれた。タイトルは「８時５９分。」<br><br><br>学生の頃なんて、人生の時計でいったらまだ９時にも回っていない。出発前の私の心境はまさにそうであった。あと１分で「始まりが始まる。」<br><br>いまは、何時頃だろうか。感覚としては９時半ぐらいに思える。<br><br>そう、私にとってのこの１年間の終わりは、まぎれも無く「始まりの終わり。」である。<br><br><br>１年間、あまりにも多くの出会いと別れがあった。<br>パーティーであった友達も、授業であった同期も、寮生活をともにした仲間達も、旅先で出会った町の人も。そのほとんどが、今はもう簡単には会えない遠い、遠い土地に住んでいる。<br><br>いまはインターネットがある？FacebookやEメールがある？<br>「Keep in touchしようね。」<br>そうはいっても、そう簡単なことではない。それぞれにはそれぞれの生活があり、毎日出会う人が居て、悪気はなくとも優先順位から漏れてしまうこともしばしばなのだと知った。<br><br>留学、旅、ワークキャンプ、インターンと重ねるにつれて、もはや、別れに慣れてしまったような感覚すらある。<br><br>泣いても笑っても、さようならを言わなければならない時がある。<br>だからこそ、その時、その時の、<br>今を大切にすることが大切なのだと知った。<br><br><br>フィリピンを出ることは寂しくもあり、<br>日本に買える事は嬉しくもあり、わくわくする気持ちも、そして私自身がどう変わっているのか、日本についてどう感じるのだろうか怖さすらある。
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<pubDate>Sun, 05 Sep 2010 12:30:17 +0900</pubDate>
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<title>西洋からアジアへ。東欧、バルカン、ギリシャ、アラビア半島、インド。</title>
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<![CDATA[ ６月３０日。フィリピンに到着。<br><br>これまで約４週間、これまでにない程多くの土地をまわってきた。６月５日にロンドン発。鉃道で東欧、バルカンをまわりギリシャへ。そこから、格安航空（Air Arabia、Kingfisher、Air Asia。片道50-100$しかかからないので、日本へ通常の航空会社で直帰するのと同じ値段で世界旅行ができてしまう。）を乗り継いで、アラビア半島、インド、マレーシアを経由して、フィリピンへ。<br><br><br>人々。<br><br>ヨーロッパの豊かな生活と移民たち。東欧で見た、西欧とは様相の違う街。ソビエトとヨーロッパが共存する。ポーランドの大学で、日本語を学ぶポーランド人たち。彼らの期末試験は、自己紹介と箸の使い方。オーストリアのアルプス。バルカンの人々。ギリシャの人ごみ、経済危機に発したプロテスト、青い海。ザンテ島のリトルロンドンではブリティッシュアクセントが飛び交い、ワーキングホリデーやバカンスに来たイギリスの若者がクラブ街を形作る。<br><br>世界一インターナショナルであろうドバイ。２００カ国の国籍の人が住む。世界最大のショッピングモール、世界最高のタワーが砂漠の真ん中にそびえる。一方で見える、南アジアとフィリピンからの移民達。彼らは彼らのスタンダードがあり、旧市街に彼らのためのマーケットがあり、公共交通に乗るのも移民たちだけ。オマーンの猛暑。アラブの人々、移民達、そして車社会。<br><br>インドで見た物乞い、ビジネスマン、通りで物を売る青年、寝るところもないのに笑顔で話しかけてきた少年。ショッピングアーケードの真ん中にあるスラムの家に住む家族。荷物だなの上までにも人が乗り込む列車。一方で、中流、上流層は西洋と同じスタンダードのビジネスクラスに乗り、車を使う。<br><br>そして、マレーシアに着く。空港で、日本 vs パラグアイ戦を応援するアジア人たち。中国系、マレー系のマレーシア人、その他の東南アジアの国の人が、日本を応援してくれている。<br><br><br>宗教も多様だ。<br>英国教会、東方正教、ギリシャ正教の違いに驚く。アラビアでは、朝４時の最初のイスラムのお祈り。街に十カ所とあるモスクからマイクでお祈りの言葉が流れ る。国境の公務員はもちろん正装。インドは宗教のるつぼ。イスラム、ヒンドゥー、仏教、その他が共存する。ヒマラヤのふもと、ガンジスの上流にはインド内 外からヒンドゥー教徒が4000mもの高山までお祈りにやってくる。マレーシアのイスラム。フィリピンのカトリック。<br><br>食べ物。<br>ロンドンのフィッシュ＆チップスにフィッシュパイ。ドイツのソーセージ。ポーランドのロシア風スープ。餃子にはチーズとポテトが入り、醤油はない。彼らが 当たり前のように飲む、1lのジョッキビール。彼らはドイツ・チェコ・ポーランドはビール国家だと語る。ギリシャのケパブは中東文化の始まりだが、ソースがギリ シャ風。魚のグリルはオリーブオイルとレモンであっさりと味付けされる。イギリスのバターは、南欧ではオリーブオイルに置き換わる。アラビア半島では、ドバイのファストフードに、中東のブリヤニ、そして南アジアの移民達が作るカレー。インドでは本場のカレーの食べ方を知る。西欧世界にあった食卓の塩・コショウは、イ ンドではケチャップとグリーンチリソースに変わる。西欧のグリーンサラダは、ギリシャや中東ではアラブ風の角切りトマト・キュウリ、インドではタマネギ、 ニンジン、チリなどのあっさりした付け合わせに変わる。マレーシアに着くと、インドのマサラの辛さは、中華系のチリソースに置き換わる。<br><br>英語。<br>英語を誰もがあたりまえのように話すのは西欧世界だけ。ポーランドの田舎街を歩いたら英語がまったく通じない。年寄りの住民達は私を歓迎しているようには見えなかった。日本の田舎町でもそうかもしれない。西欧を一歩でたら、そこはヨーロッパであっても世界が違うのだ。一方、ドバイに着く と、彼らの共通語は英語しかない。カタコトより少し話せるくらいの移民達が、タクシーを運転し、レストランで働く。一方、UAEの大学生はきれいな英語を話す。このあたりから、ブリティッシュアクセントは姿を消す。インド人は強いインドのアクセントを話すが、はっきりと階級が言葉に現れる。飛行場や飛行機内、大学に通う暮らすのインドの若者はきれいな英語を話す。そして、観光地、大都市の商店ではカタコトの英語が通じるが、田舎町、ローカルクラスの列車内 では英語を話せる人は、公務員ほぼ居ない。中・上流はトリリンガル。自分の土地の言語と、ヒンディー語、英語を話す。フィリピンでは、アメリカ英語がスタンダードになる。イギリスの1st floorはフィリピンでは2nd floor。CentreはCenter。<br><br>コミュニケーション・スタイル。<br>ここでも、西欧と東欧には境界があるように見えた。その土地で、あるいは旅先のゲストハウスで出会った西欧人の、社交慣れした、きれいな英語でフレンド リーにふるまう若者たち。それ以上に、アメリカ、カナダ、オーストラリア人はさらにフレンドリーで、会話を始めたり自己紹介するのにためらいが無い。一 方、ポーランド人は日本人にも負けじと劣らずシャイ。アラビア半島のアラブ人は、日本で思った遠い存在というイメージからはかけ離れて、フレンドリーで、 信頼できる。インド人はアグレッシブで、駅や道路は先を押す人々でごったがえしている。そして、すぐにどこの国から着たのかと聞いてくる。日本だと応える と、good!と言い、扱いが良くなる。まるで、彼らがカースト制度のなかでお互いの職業を聞いて地位を立ちかめるがごとく、外国人は出身国で区別されて ゆく。これは日本の技術に水供給や自動車、電気機器を頼るアラビア半島でも同じで、西欧以上に、多くの国で日本のプレゼンスが相当に高い事を知る。（パス ポードも、ビザなしでこんなに多くの国を自由に旅できるのは、西洋以外では日本くらいだ。） マレーシアに着くと、東アジアのやわらかさ、空気を読む文化が感じられる。彼らも中東と同じく、フレンドリーだ。そして、フィリピン人はひときわフレンド リー。<br><br>気候。<br>ヨーロッパの冬は長く、短い日に沈んだ曇った日々が続く。それが打って変わって、青いそらが広がる夏。日は長く、８，９時まで暗くならない。そのつかの間 の夏を楽しもうと、ピクニックに出て寝そべる西欧人。ギリシャの日差しは強く、青い海が栄えて見える。しかし、気温はそこまで高くない。オリーブの木が植 わり、緑の国。一方、アラビア半島に出ると、砂漠の中では45℃にもなる。暑すぎて外を歩く事はできない。乾燥していれば良いが、海沿いで湿気が多い街で は地獄のようだ。おかげで、多くの観光地や商店がシエスタならぬ暑さよけで閉店し、マーケットは夕方からにぎわう。ミュージアムは午後１、２時までしか開 いていない。インドも暑いが、砂漠が広がる中東ほどではない。東南アジアは湿度が高く、雨のおかげで涼しく感じる。日本から着ていたら暑いと思うであろう に。<br><br><br>あまりにも多くのものを見聞きし、人と接してきた。<br>旅は、本やニュースで見聞きするのとは違う。旅は、全身で感じ、すべてを目撃し、体験することだ。<br><br><br>俺は、目撃したのだ。あふれんばかりのカルチャー・ショックを、そのまま忘れるわけにはいかない。<br><br>「百聞は一見にしかず。」<br><br>昔、授業で聞いた遠い国の歴史や地理が本当なのか、疑っていた自分を思い返す。馬鹿みたいだが、旅してみて、確かに、そこに彼らの生活、文化、地理、歴史はあった。一部はこれまで聞いた通り、一部はこれまでの知識が単なる偏見でしかないと知った。<br><br><br>「一を聞いて十を知る。」<br><br>この２年間で旅した国は２５カ国近くに登る。これを１０倍すれば、世界にある２００カ国を超える。全ての国を旅することはできない。しかし、この経験が、きっと世界を深く、広く理解するのに役立つはずだ。<br><br><br><br>飛行機の中からフィリピンを見ていた。<br>フィリピンは島国だ。火山も、地震もある。マニラには13millionの人々が住み、そこは東京に代表されるようなアジアのメガ・シティーだ。<br><br>緑に包まれた島には、あまり森林は多くはない。多くは伐採されたのか、あるいは火山がちな土質のためかもしれない。田園が広がり、山、川、海が共存する。<br><br>空港には日本のコンビニが入っている。スナック菓子には、日本語が装飾として書かれている。まるで、日本で使われている英文字のように。日本茶、日本で見たお菓子、ロンドンやインドよりもましな日本食が手に入る。<br><br>旅を終えた今の自分には、ここはやはり、もはやホームである。<br>東アジアに帰って来たのだ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/expworld/entry-10579753564.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Jul 2010 21:36:24 +0900</pubDate>
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<title>新しい始まり。</title>
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<![CDATA[ ロンドンでの留学生活７ヶ月も、泣いても笑っても今日で最後・・・<br><br>試験後の一週間は、いろんな人にさよならをいいながら、<br><br>飲みにいったり、ミュージアムやEast Endのギャラリーに行ったり、Hyde ParkでのFarewell ピクニックをしたりと、ロンドンの夏を満喫していました。冬とは違って、ほんとうに心地の良い涼しくて晴れた毎日。<br><br><br>今月で最後、今日で最後と考えると、ロンドンに着いたときの事、苦しかったときの事を思い出してしまう。<br><br>到着した日、バスも無く、夜中に寮に着いてシーツも無く、周囲のことも全くわからず寂しい夜を過ごした事。それから、生活用品をそろえて、新しい生活をスタートした頃。<br><br>それから友人もできて、暑い夏のなかEnglish presessionalで英語の勉強をしていた頃。ひとつのエッセイを書くのが、たまらなく苦しかった。<br><br>ふと気付くと飛行機のアナウンスが理解できるようになっていた、たまらなく嬉しかったあの瞬間。<br><br>英語で話さなければならない寮の食堂に行くのが怖くて、それでも頑張ってともかく自分から自己紹介をしていった事。次第に、気の合う友達もできて有意義な会話ができるようになった事。<br><br>留学が丁度半分過ぎた頃、何も達成できていない自分に焦って、どうしようも無く不安定だった頃。<br><br>それでも、留学の初期にできた友人から、「Your English has become better again!」と会うたびに言われ、素直に嬉しかった事。<br><br>ウガンダに行き、試験を乗り越え、また一つ先に進めた気がしている今の自分。<br><br><br>でも、それを乗り越えた自分が居ると考えると、それがまた、たまらなく嬉しい。達成できなかった事に悔しさはあるけれど、ともかく、いくつかたてた目標や思い描いていた事は、形は違えど何らかの形で達成できたのだ。確実に、自分がは変わっている。いい方向に。成長している。<br><br>そして、ほんとうにもう、沢山の人と、土地と出会い、別れを繰り返して来て気付いた事は、<br>どこに居ても、変わらず、できることの最前を尽くしていくという事。無いてばかり居ても仕方ないし、文化の違いや食事の質に文句を行っても仕方なくて、時には冷淡に、自分の意思や目標を貫き通してゆけばいい。<br><br><br>次の３ヶ月は、さらに行った事の無い世界を見て、<br>イギリスで得た経験を活かして、アジアと、環境問題という自分の分野に回帰していく期間。<br><br>東欧、中東、インドを旅して、次は東南アジアでの環境NGOのResearchインターンです。<br>
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<link>https://ameblo.jp/expworld/entry-10554467426.html</link>
<pubDate>Sat, 05 Jun 2010 10:42:55 +0900</pubDate>
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<title>イギリスの「学年末試験」</title>
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<![CDATA[ 今日はイギリスの大学の試験について。<br><br>イギリスの大学の試験は、ひょっとしたら世界で一番難しいのじゃないかと思う。<br>というのも、タームごとではなく、１年分をまとめて出題する<font size="4">「学年末試験」</font>制度だからだ。<br>この響きがなんとも中学、高校時代を思い出す・・。<br><br>アメリカでは前期、後期のそれぞれに期末試験があり（日本と同じ）、<br>ディスカッションの授業への参加度、エッセイ、出席などそれぞれが総合評価されると聞いたが、<br>イギリスではまさに、一発勝負である。<br><br>だいたい、ターム毎にエッセイがあって、それが成績の３０％（１、２タームで２本書いたら１５％づつ）、<br><font size="4">最終試験が７０％</font>である。<br>それに、授業の出席やディスカッションの参加度はいっさい加味しない。もちろん、大量のリーディングや「ディスカッションに参加しなさい」という要求があるが、それは、本人の意思に任せたまま。<br><br>つまり、最後に痛い目をみるシステムなのだ・・・。<br><br>そういうわけで、４月のイースター休暇から、５月にかけては、周囲もみな勉強モード。（という私はウガンダに居たので、焼けた肌とNGOの仕事のアウトプットを教授に提出して「開発学」の単位にかえさせて欲しい！）<br>SOASではそうではないが、UCLやLSEの図書館は２４時間空いている日もあるようだ。<br><br><br>試験の内容はというと、１時間で１本、合計３本のエッセイを３時間で書く形式。<br>それも、知識を書くだけでなく、複数の視点からの批判、自分の意見、論理的な構成が要求され、簡単ではない。<br><br>例えばSOASの１年生向けの開発学の試験は<br>（過去問は全て公開されている：http://www.soas.ac.uk/library/resources/exams/）<br><br>「『dependency は必ず経済発展の障害となる。』　論ぜよ。」<br><br>「『post development thoeryは開発の無意味性を主張する。』　論ぜよ。」<br><br>「どの程度、世界銀行とIMFの政策は経済発展を推進するか。」<br><br>と言った内容。<br><font size="5">「論ぜよ。」</font><br><br><br>というのがミソで、常に、答えが無い問題をぶつけてくる。<br><br>途上国が経済発展のなかで先進国との依存関係となっているという批判であるdependency theoryが、途上国の発展を妨げていることが「必ず」とは言い切れないだろうし、<br><br>参加型開発、オルタナティブ開発と並んで、既存の開発レジームに対する根本的な批判であるポスト・デペロップメントの「ポスト」が何を意味しているか：開発を否定するか、新しい開発を提案しているか、白黒つけられるものでもないし、<br><br>世銀やIMFの政策も、あるときは経済発展をサポートし、場合によっては途上国の累積負債を助長したかもしれない。<br><br>というわけで、<font size="4">イギリスでは最初から最後まで、常にargumentが要求される。</font>答えのないディベートを繰り返しさせられているような授業には、日本での分析的、真理追究的な考え方に慣れていると嫌になってくるのだが、こうして学問も政治も進んで来たのだから仕方がない。<br><br><br>加えて、問題なのが要求される文字数。<br>はっきり決まっては居ないのだが、どうもA４の要旨一杯書いて、それを片面計算で４ページから５ページ書けというのだ。１時間で。<br>３問あるから、<font size="4">３時間で、１２－１５ページとなる。</font><br><br>ぶっつづけで書いて、知識不足や、論理構成や、英語の問題でとまどったりしないで頑張って、それで、３０か４０分くらいかかるだろう。それに、問題を見てからそれを分析し、アウトラインを考える時間も必要になる。<br><br>いろんな友人が口にするのは、<br><font size="5">問題は頭じゃない。手だ。</font><br><br>ってこと。コンピュータに慣れているこの時代には、３時間はきっと辛い。<br><br>でも、留学生からしたら、<br><font size="5">内容も、議論の仕方も、英語も、手も。<br>どれも問題</font>なんですけど。<br><br>ついに試験は１週間後！<br>
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<link>https://ameblo.jp/expworld/entry-10530760358.html</link>
<pubDate>Mon, 10 May 2010 04:34:06 +0900</pubDate>
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<title>イギリス料理とウガンダ料理</title>
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<![CDATA[ ウガンダからイギリスに帰って、「食」に対する評価が全くもってかわってしまった。<br><br><font size="5">イギリスの飯はまずい</font>と評判だし、<br>渡英まで日本を出た事がなかった私としても、毎日がっかりさせられていたのだが、<br><br>ウガンダに着いたときの印象は、<br><font size="4">「ウガンダ料理はイギリス料理より上手い！」</font><br>と感じた。<br><br>やわらかいご飯（東アジアのものとは違うが）に、ウガンダ風魚の煮付け。ビーフシチューに、いろんな種類のイモやバナナ。と聞くと、少しはおいしそうだ。<br><br><br>しかし、それから２、３週間と過ぎると、<br><font size="4">「ウガンダ料理はシンプルすぎる！」</font><br>と飽きてしまった。というのも、上に挙げたもの意外に、魚のフィレット、フライドポテト、フライドチキン。あとは、肉がビーフかチキンかヤギかを選べて、ソースがピーナッツかスパイスのどちらかが選べる。しかし、それだけなのだ。<br><br>それも、ボランティアの団体で毎日出されていた昼食は、現地の子供達に食べさせる給食と一緒。甘くないコーンでつくったペーストに、豆のソースがかかっている、至ってシンプルなものである。現地の人々と食事を何度か共にしたが、一般の人は毎日魚や肉が食べられるわけではなく、炭水化物が多い食事をしている。<br><br>冗談で現地で話していたのだが、このウガンダ料理の質素さとシンプルさ、もしかしたらイギリスの旧植民地時代のせいなのではないだろうか。ウガンダ人の友人も、好きなものは何？という質問に、チップス（フライドポテト）と答える。フィッシュ＆チップスに毒されているのだ。旧ベルギー植民地のルワンダにも旅したが、料理はもう少しバラエティーにとんでいた。<br><br><br>しかし今、イギリスに帰って来ての印象は<br><font size="5">「イギリス料理は栄養満点で、高級な西洋料理だ！」</font><br>である。<br>自分でも信じられないのだが、ここまで来てしまったようだ・・。<br>毎日、イギリス人も酷評する大学寮で出される料理も、ウガンダで飽きていたものに比べればずっと食べ慣れた西洋料理。そして、ないよりも肉も野菜もふんだんに使ってあって栄養バランスが良い。<br><br>このまま行くと、日本に帰った時どうなってしまうのか怖い。<br>今の私には、日本のコンビニ弁当や牛丼は１０ドル出しても良いくらいの代物である。<br><br><br>こうしてヨーロッパ、アフリカを旅しての結論は、やはりロンドンは特別な場所だということだ。<br>毎週土曜日のモールには、各国からの露店が並んでいる。日本、韓国、中国、タイ、トルコ、スペイン、イタリア、ドイツ・・とそれぞれ、ロンドンに住む各国の人（であろうと思われる。少なくとも日本のブースはそう見えた。）が料理をつくってくれる。<br>街を歩けば、マイナーな国の料理だってみつかるし、日本食もまがいものが多いとはいえ大学から歩いて１０分のところに３件はある。<br><br>この先は東欧、中東、南・東南アジアを旅とインターンをして、帰国予定である。また、ロンドンのようには行かないのか・・と考えると、どうにも日本食スーパーやレストランに足が伸びてしまう今日この頃である。<br>
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<link>https://ameblo.jp/expworld/entry-10524699434.html</link>
<pubDate>Mon, 03 May 2010 17:36:41 +0900</pubDate>
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<title>インターンを終えて</title>
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<![CDATA[ １ヶ月、４週間弱のウガンダでの生活と、NGOでのインターンを整理したいと思う。<br><br>出発前の目標は、以下であった。<br><br>- - -<br><br>・国際開発NGOが現地の人々のためにできることは、何で、どのような方法なのか：特に、スターではなく、人々のアシスタントとして何が出来るのか。<br><br>・ドナーや公共と、被支援者の関係性についての理解：ドナーいかんでどのようにプロジェクトが影響され、どのようなストラグルがあるのか。<br><br>・開発NGOのフロントラインという環境で、私自身に何が出来るのか、あるいは出来ないのか。また、将来そのような現場で働きたいのか。<br><br>これらの３つについて、答えをもって帰られるようにしたい。<br><br>これに一般的なことを加えると、<br><br>・世界でも最も貧しい地域である、サブサハラアフリカについての理解を深める。<br><br>・仕事の前線で使える英語とはどのようなものかを知り、その水準に少しでも追いつく。<br><br>これらの２つを実践したい。<br><br>- - -<br><br><br>&gt;・国際開発NGOが現地の人々のためにできることは、何で、どのような方法なのか：特に、スターではなく、人々のアシスタントとして何が出来るのか。<br><br>現場に行けば、誰にでも、できることは沢山あることを知った。NGOワーカーのなかでも多くが、専門で勉強したわけでもなく、ただ現地の状況に共感し、ただ助けなければ、何か自分にできることはないかと思い、現地にとどまり、活動していた。インターン先の団体の代表もそうだし、そういう日本人の方にも出会った。<br>そこには、頭で考えるよりも、現場で出来る事からやっていこうという意思があった。<br><br>NGOはスターではない。小さなNGOにはリソースもなければ、技術も、お金もない。そういう状況で、報告書に書くために一方的に技術や資金の額を競って援助したりして、スターになれるはずもない。現場に密着すればするほど、現地の人の声に耳を傾けて、ほんとうに必要とされるものがわかってくる。また、そいうい意味では現地のソーシャルワーカーのスタッフが秀逸であった。彼らは、コミュニティをまわり、彼らと話、ニーズを探り、北からの支援と人々を結びつけられるようにトレーニングされていた。<br><br><br>・ドナーや公共と、被支援者の関係性についての理解：ドナーいかんでどのようにプロジェクトが影響され、どのようなストラグルがあるのか。<br><br>ドナーがいなければ継続的な支援ができない。ビジネスであてはまる顧客や投資がなければ継続できないのと同じく、開発援助NGOもそういう厳しい状況におかれていることを知った。ドナーを増やすための広告も、マーケティングもしなければならない。もちろん、会社でいう収益というような判断軸とは違い、ドネーションの量と、援助の効果というNGOなりの尺度があって自分たちを評価している。<br><br>たしかに、ストラグルは存在する。アカウンタビリティ、透明性というのがそれだ。スラム街の人々を効率的に助けるには、援助品をばらまき、質にこだわって高い費用を出し、結果支援できる人が少なくなるよりも、スラム街の人同士で助け合うようなしくみをつくってしまえば良いと思うが、簡単にはいかない。ドナーからの援助品を渡すには、誰からの支援品が誰のところにいったのかを明確にしなければならない。ドナーからの資金を使うには、質の保障できない、不明確なプロジェクトであってはいけない。多少お金がかかっても、識字教育にはそのプロを雇い、評価も実施していかなくてはならない。ドナーも、ただお金をくれているわけではないのだ。NGOにはNGOなりのシリアスさがあり、さらなるドナーを獲得するためには、そのドナーの期待、目に見える形で出したお金の効果を知りたいという欲求に答えなくてはならない。<br><br><br>・開発NGOのフロントラインという環境で、私自身に何が出来るのか、あるいは出来ないのか。また、将来そのような現場で働きたいのか。<br><br>自分にできることは無数にある。というのが結論だ。<br>しかし、次にくるとしたら、ボランティアという立場というわけにはいかない。資金的な持続性が無いし、できることも限られている。技術であれ、ビジネスであれ、政治であれ、コンサルタンツであれ、途上国は先進国との接点を必要としているし、高い水準を求めている。途上国支援にかかわるかどうかにこだわらず、日本でやりたいことを追求していき、そのプロフェッショナルになることができれば、いつか途上国にかえって来た際、それはきっと生きるのだと確信できた。<br><br>そういう意味で、がむしゃらにフロントラインでなくては働きたくないというわけではないことにも気付いた。好きな事を探し、研究でも仕事でも追求し、それが、役に立つときがくれば途上国に渡れば良いのだ。<br><br><br>・世界でも最も貧しい地域である、サブサハラアフリカについての理解を深める。<br><br>アフリカの、海から離れた、工業化の進んでいない国であり、そしてその都市化の波に襲われ、不十分な環境に生きるスラムの人々の生活に触れた。確実に理解は深まったと思う。<br><br><br>・仕事の前線で使える英語とはどのようなものかを知り、その水準に少しでも追いつく。<br><br>英語については恥ずかしいことばかりであった。仕事で外に出すには英語は不十分で、イングリッシュチェックをしてもらい、マネジャーや他のボランティアを煩わせてばかりであった。アセスメントのためのインタビューシート作りも、不明瞭な表現では現地スタッフが混乱してしまう。適切で、明確な表現を使う事。そして、外部に出すためにはナチュラルな英語にしていかなければならないことを知った。<br><br>英語で電話をかけ、交渉するというのが最も難しいことであったが、仕事ではいくども使うことになった。はじめは緊張してしかたなかったが、なんとか通じていくものだということがわかり、すこし成長した。<br><br>今回、レポートを書くというような仕事が多かったが、そういうシンクタンク的な仕事をするには、文章表現の完成度が求められることも悟った。プロポーザルを書くもの大学のレポートも同じ。通じるからよいや、ではなく、より正確な文法、適切な表現をしだいに身につけていかなければならないと感じた。<br><br>職場には、イギリス人、カナダ人、アメリカ人、オーストリア人のマネジャーとボランティが半数、ウガンダ人の教員やソーシャルワーカーのスタッフが半数ほどであった。そういう中に、アジア人が一人。英語だけでなく、コミュニケーションスタイルの違いから戸惑いも大きかった。<br><br>アジア人が通じることができる「空気を読む」というのは白人スタッフには通用しないし、その分、敬語をつかったり意見をいうのに遠慮する必要は無い。ものをはっきりと言い、ボランティアであってもフランクな会話が大切にされる。<br>ウガンダ人はお互いに対して丁寧であるという空気感では、日本人に通じるとことがあった。しかし、時間の感覚、約束や契約という感覚に欠けているところがあった。仕事を依頼しても、maybe later. afternoon.と言い、午後は何時かと聞くと maybe 2.と答える。そしてその時間になると、maybe tomorrow.と帰ってくる。雨が降ったらアポイントメントは解消になる。夕方のひどい渋滞のおかげで、夜の約束に時間も何もあったものではない。<br><br>そういう中で、これらの時間の感覚やコミュニケーションスタイルに慣れるということも学んだ。<br><br><br>以上、１ヶ月という短すぎる期間だったが、得るものは本当に大きかった。<br>思い切ってウガンダに渡って良かったと、今は本当に思っている。<br>
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<link>https://ameblo.jp/expworld/entry-10520424063.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Apr 2010 22:02:18 +0900</pubDate>
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<title>逆カルチャー・ショック</title>
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<![CDATA[ ウガンダでの１ヶ月のインターンシップがついに終わり、ロンドンに帰国した。<br>途中、アムステルダム経由便だったのだが、ヨーロッパに降り立った瞬間、なんともいえないような不慣れな、不思議な感覚に陥る。<br><br>いわゆる逆・カルチャー・ショックである。<br>例えば、日本からの海外旅行者や留学生が長く海外にとどまった後に帰国した際に、逆に日本の文化に違和感を覚えるのがその例だ。<br><br>私の場合、ウガンダに着いた後１週間は現地に慣れなかったが（前回、前々回のブログを参照。）、今、ヨーロッパに帰ってみてこんどはこちらにショックを感じてしまったのだ。<br><br>毎日歩いていたカンパラの、穴だらけの、未舗装道路。それが、きれいに整備されたロンドンの町並みに変わる。<br><br>熱帯の緑ばかりの木々はもうない。ロンドンではかわりに、涼しげな木々と、桜が咲いている。<br><br>道行く人に「外人！」「中国人！」と声をかけられることもない、平穏で、ミックスカルチャーなロンドンの人々。<br><br>銀行やデパートの前に大きな十を構えたセキュリティガードはもういない。家に頑丈な塀はない。しかし、それでも安全は保たれている。<br><br>自動ドア、自動水洗トイレに違和感を感じる。まともに信号を見て道路を渡ったのも、暖かいシャワーも、エレベーターを使ったのも１ヶ月ぶりだ。蚊帳なしで寝られるのも快適で仕方がない。<br><br>洗濯物も全自動で簡単に済んでしまい、電子レンジでおいしいご飯が手軽に作れる。手で洗濯をし、木炭に火をつけるのに手こずる必要も無い。そんな、生活自体が便利で、自動化されているからこそ、生活の基本はさておき、仕事や勉強に集中できる。<br><br>こぎたない乗り合いタクシーはなく、きれいに整備され、計画的に動くアムステルダムの公共交通。環境配慮からか路面電車が走り、人々は自転車を使う。ウガンダでは考えられない。<br><br>スロードラッグも、同性愛も自由で、まさにモダナイズされたアムステルダム。HIV防止のためにコンドームではなく禁欲が推進され、同性愛者が死刑にされるウガンダとは違う。<br><br><br>モダンからポストモダンへと映りつつあるヨーロッパ。<br>全てに今は慣れる事ができず、ぽかんと、空を見上げながら、大学への道を歩くしかない。<br><br><br>大学に戻る。<br><br>セキュリティの授業で、National Security、Private Security、Human Securityといった用語がでてくる。ウガンダで実際に見た、プライベートセキュリティ（家の高い塀や、銃をもった私用警備員が、警察にかわって富裕層の安全を守る。）を思い返す。人間の安全保障から考えると、ウガンダのスラム街の人々は、その安全保障の網から漏れてしまっている。<br><br>開発経済の授業では、ウガンダのケースタディが出てくる。世銀・IMFの構造調整プログラム以降、自由化、私有化に成功した例として扱われる。もちろん、治安はよく、悲惨な状況ではなかったが、スラム街や未だに有料の医療と基礎教育、ひどいインフラを目にした今、手放しで成功例だということに納得することはできない。<br><br><br><br>現場に行くと違う。本で読む世界と、授業で聴く世界と、ニュースや映画で見る世界。それは、理屈が通っているようでいて、でも、ただ単に想像と論理の世界でしかない。<br>現場には、生活があって、人が居て、そこは泥臭くて、リアリティがあって、動いている。<br><br><br>今回、ウガンダに行って、スラム街に毎日足を運び、彼らと話した。仕事では、マイクロファイナンスと成人識字教育プログラムのアセスメントをするために、受益者にインタビューをし、それを分析した。そのなかで、スラム街のスタンダードに立って、物事を深く考えた。<br><br>そして、パースペクティブが１８０°変わった。<br><br>私たちのプログラムの受益者のなかでは、１日１ドルの生活は良い方であった。<br><br>豆と小麦のケーキだけの食事も、１日１食は普通。２食あれば、それも良い方である。<br><br>支援なくしては、教育のためのお金は払えない。病気に倒れたら、薬を処方してもらえない。実際、数錠の薬で治るはずのマラリアで苦しむ人にも会った。<br><br><br>いままで、安いものだと思っていたものが、贅沢で、高級なものに映る。例えば、ピザやハンバーガーはロンドンでは最低ランクのジャンクフードだが、ウガンダでは高級品であった。小さな寮の部屋も、快適に思えて仕方ない。スラム街では、彼らはもっと小さい部屋に、４、５、６人もの子供と母親が住んでいた。ガスコンロも電気もトイレも、もちろんシャワーもない。トイレはビニール袋で、食事は木炭のストーブでつくる。<br><br>ウガンダで、普通だと思っていたものは、ロンドンには存在しない。豆と小麦だけの食事は、探してもほぼ手に入らない。寮のいままではまずくて食べられないと思っていた食事も、スラムに居たスタンダードからしたら、栄養満点で、高級な西洋料理だ。<br><br><br>自分が逆カルチャー・ショックを受けているということもあるが、実際にそういうスタンダードで暮らし、その生活のなかで楽しみ、笑顔を見せてくれる人々がいるということを知ったのだ。<br><br>もう、勝手な北の国の視点で、彼らが不幸だと決めつけたり、助けなければならないと一方的に語ったり、そういう勝手なことはしない。評論家ではなく現場を知ること。そして、彼らのスタンダードに立って考え、彼らの声に耳を傾けることが大切なのだ。<br>
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<pubDate>Wed, 28 Apr 2010 21:28:39 +0900</pubDate>
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<title>1ウガンダシリング = 1日本円？</title>
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<![CDATA[ 今日はウガンダの物価の話について。<br><br>よく、途上国を旅すると、物価レートのせいで、なんでも安い！という印象を受ける。実際、ドルや円を使う先進国からの旅行者にとっては、確かに物価は安い。<br>例えば、東南アジアのマレーシアでは物価は日本の１／３ほど。シンガポールでは２／３ほどであった。つまり、同じ金額で、３倍食べて飲んで、旅を楽しめてしまうのだ。<br><br>しかしどうも、東南アジアとウガンダでは様子が違う。<br>東南アジアでは「安く、何でも手に入る」という印象であった。食事も飲み物も、交通費も安くて、インフラは整っていて困りはしない。電化製品も、生活用品も日本より安い値段で、揃っていた。<br><br>それがウガンダではどうも、「いくらかのものは安い。他のものは高いか、手に入らない」という印象なのだ。例えば、ローカルフードであるキャッサバのフライや、チャパティという小麦粉のパンケーキ、豆の入った春巻きは現地では100~800ウガンダシリング（つまり、5円～40円ほど。）と安い。交通費も、100km離れた町までの乗り合いタクシーが6,000シリング（300円）である。ところが、輸入品の調味料となると数千シリング（200~500円）となり、紙や、英語の書籍（20,000~50,000シリング = 10~25ドル）も欧州で売られている値段より若干高い。そして、コンピューターなどの電子機器もやはり、欧米や日本よりも高いのだ。<br><br>そうしたものは現地では一般的でないか、あるいは一般的でないためか、輸入に頼っている。世界の工業地帯でもある東アジア・東南アジアとは違って、工業化の進んでいないウガンダは時には隣国のケニアから、時にはさらに海を渡って輸入しなければならない。海外から輸入する以上、その価格は輸送費などを付加され、輸入先の国（たいがいは、ウガンダよりも物価が高い）でのものよりも高くなる。<br><br>そうしたためか、いくつかの商品は容易には手に入らない。例えば、ローカルのキヨスク（小さな商店）に言っても、チョコレートやケーキといったお菓子は手に入らず、あめ玉とクラッカーとソーダ（コークなどの炭酸飲料）だけ。チョコレートやアイスクリームは、大きなスーパーや欧米人が出入りするお店に行くと、高い価格で高級品そうに置いてある。<br>それだけ、庶民にとって、そうした商品を買うのは一般的ではないのだ。<br><br>こうした物価の違いを、搾取だとか、ネオ植民地主義だとか呼ぶ場合があるが、その視点に経ったときの私の印象はこうである。東南アジアは世界の貿易構造に十分に取り込まれ、物価も安く抑えられている一方（これを「搾取」と呼ぶかどうかは価値観の問題である。）、モノも手に入る。しかし、ウガンダはその「搾取」される以前のバックワードで、十分に貿易をするインフラもなく、物価はもちろん安いが、モノも手に入らないのだ（それゆえ、モノによっては物価は高い）。<br><br><br>さて、タイトルに　１ウガンダシリング = 1日本円？　と書いたのは、現地の実感レートの話である。<br><br>ウガンダではウガンダシリング（Ush、記号は日本円の「¥」の代わりに 「1,000/=」などと書く。）が使われている。<br>レートは<br> US 1$ = 2,000 ウガンダシリング<br> UK 1£ = 3,000 ウガンダシリング<br>ほどだ。つまり日本円だと、<br> <br>1 ¥ = 20 ウガンダシリング<br>あたりになる。<br><br>ローカルフードのチャパティ（パンケーキ）に卵焼きを巻いたエッグロールは、800~1,000シリング（30円）ほど。ペットボトル入りの水は500シリング（25円）。ローカルの普通のレストランに行くと、ビールやチキンのスープにライス、バナナがついて5,000シリング（250円）で食べられる。<br><br>しかし、これを安いというのは、先進国からの旅行者だけの話である。<br><br>カンパラにある飲料水、炭酸飲料の工場で働く青年に、月々の給与を聞いてみると、100,000シリング（5,000円）だという。毎日、夜の７時から朝の７時までの夜勤を休まず続けての給与である。ソーシャルワーカーに現地の平均給与を聞くと、月に200,000シリング（10,000円）だという。つまり、一日あたりは2~4ドルだ。<br><br>これでも良い方だ。スラム街では、上手く言っている個人ビジネス（野菜を売ったり、小さな露店のレストランを開いたり）からの収入が、1日に5,000シリング、3,000シリングという声を聞く。つまり、１日１ドル、あるいは２ドル以下だ。これが、人によっては週に数千シリングだけという声も聞く。<br><br><br>ここで、一つ気付いた事がある。日本の大卒の初任給が200,000円、アルバイトで１日6000円稼ぐと、月に20日働いて120,000円。つまり、ウガンダ人が稼ぐシリングでの月給と同じとなる。<br><br>つまり、為替レートは1日本円 = 20ウガンダシリングだが、現地の給与から考えると、日本人にとっての円と、ウガンダ人にとってのシリングはほぼ同じ実感価値なのだ。<br><br><br>この実感レートで考えていくと、現地の物価は相当高い。<br>1,000「円」のエッグロールは高めのランチだし、100「円」のキャッサバフライはちょっとしたお菓子。800「円」の炭酸飲料も毎日飲むには少し高い。5,000「円」のウガンダフルコースのディナーはごちそうだし、10,000「円」のピザとなっては超高級料理だ。<br><br><br>これを「貧困だ」とか「貧しくてかわいそう」だとかで片付けるわけにはいかない。一人一人が何時間働いたかや、どれだけの価値を生み出したかだけでなく（もちろん、教育レベルが比較的低いウガンダでは、生産性が日本より低いであろうことは推測がつく。）、アフリカの内陸という立地や、国内に競争優位性が十分にある産業が無いといったマクロ経済的、あるいは構造的な理由で、為替レートが決まり、それが人々の生活を左右しているのだ。<br><br>だからといってその差を是正しようというわけではない。だが私は、現地で友人となったソーシャルワーカー（欧米の立派な援助機関から雇われている大人だ）に、隣町から私に会いにくるための交通費を補助してくれないかと頼まれ、食事を自然とおごってあげたことを、忘れるわけにはいかないだろう。<br>
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<link>https://ameblo.jp/expworld/entry-10509596407.html</link>
<pubDate>Fri, 16 Apr 2010 00:59:23 +0900</pubDate>
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<title>This is Africa. ウガンダという国と人々。</title>
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<![CDATA[ ウガンダでの生活ももうすぐ２週間が経つ。残りが２週間なので、これで折り返し地点。<br><br>ウガンダに来て、スラム街で働いて、旅をして、街を歩いて、ものすごい量のショックを受けた。<br>カルチャー・ショックというものには、この１年間、ロンドンでの生活と、数えると１５カ国以上を旅して、慣れている。また、SOASでもアフリカの貧困や、文化の違いをどう認識するかについてさんざん議論してきた。<br>だから、「違う」という事実自体には驚かないし、「違ってあたりまえ」だと認識することはできる。だが、今回はこれまで訪れたどの国とも違うのだ。<br><br>到着してしばらくすると、まず、<font size="3">ここが私が訪れたこれまでの国のなかで最も貧しい国であろう</font>ということに気付く。<br>観光地でありアラブ世界のモロッコも、砂漠地方にまでしっかり整備された道路があったし、マレーシアは工業化に成功し先進国に追いつく勢いで、ジャングルのなかにも政府の学校が設置され教育が行き届いていた。タイには日本の援助で作られた高速道路や通勤モノレールがあったし、フィリピンの首都、マニラには、貧しい人々は多いものの、豪勢で近代的なショッピングモールやホテル街、ビジネス街があった。<br>ところが、ウガンダにはそれすらない。<br><br>宿泊しているゲストハウスからNGOの事務所に通う途中、道路に空いているいくつもの大きな穴。おかげで車は左右に迂回しながら進まなければならず、中央線という概念すらない。車のすきまを、「borderborder」というバイクタクシーがスピードをつけてすり抜けていく。片道1$ほどで私もよく使うが、ひどい事故も多いのだと言う。<br><br>カンパラにも舗装されていない道路も多い。赤土ででこぼこした道に、どこかしこにと刷れられたビニール袋やらのゴミが埋まっている。スラム街だけではない。一部の中心の一等地を除き、全体的にともかく汚い、というのがカンパラの印象だ。<br><br>鉃道は、西部の銅山から東のケニアの海岸線まで引かれているが、いまは動いていない。カンパラ郊外から中心に歩いて通勤する人々は、線路の上を歩く。おそらく、そこがもっとも安全で近道だからであろう。<br><br><font size="3">ウガンダでは自動車の９割方が日本の中古車だ</font>。TOYOTA、NISSAN、MITSUBISHIといったロゴが国中にある。どこの中古輸入業者がマーケティングに成功したのだろうか、日本製の車は良いとみなが認識しているようだ。おかげで、トラックには日本の個人商店の名前「○○商店」「○○有限会社」といった字が残っていて、スイミングスクールの送迎バスが都市間バスに改造され、フロントガラスをみると「国土交通省　平成○○年度」という登録証が残っている。<br><br>地方を訪れた際は、乗用車をタクシー代わりにして人々が商売をしていた。初めて、５人乗りのトヨタ車に、子供２、３人を含むが１１人が詰め込まれる。後ろに７人。運転席には運転手と、もう一人。助手席に２人。もちろん、シートベルトという概念などない。<br><br>そして、スピードメーターの故障したトヨタ車を、100kmもあろうかのスピードで運転していく。バイクタクシーのスピードメーターも、動いていない。そして、途中でガソリン切れになる。盗まれたときの対策か、ワーキングキャピタルを減らすためか、タクシーはガソリンを常に少ししか積んでいないのだ。<br><br>街中を走っている乗り合いバスは、トヨタの古いミニバスを改造したもので、２０人ほどが乗り込む。すべてがこの種の日本の中古車なので、よくここまで集めたものだと関心する。地方からカンパラ行きの乗り合いバスに乗ると、足下になにか麻袋がある。そして、途中、何かの鳴き声が聞こえる。足下をみると、鶏がばたばたして自分の足を蹴ってくる。そうだ、私たちは輸送中の鶏袋と一緒にタクシーに載せられていたのだ。<br><br>地方には未舗装道路が何十kmも続き、おかげで車は20km/h程度で進んでいた。工事中の道路には砂が舞い、十分に前を見通すことができない。リゾート地のとなりに、歩いて１０分ほどで「City」があると聞いて歩いたが、少しの商店が並んでいるだけで何も無いと思って通り過ぎてしまう。しかし、その集落のようなものが「City」であったことに気付く。<br><br>そして今、ガソリンが高騰している。アメリカ人に聞くと、アメリカ国内よりもウガンダのほうがガソリンは高いのだと言う。輸送ルートでなにかあったのだそうで、ゲストハウスのコンロのガスは供給されていない。おかげで、食事をつくってくれるメイドは木炭に炉で火をつけて、調理しなければならない。もちろん、電子レンジや洗濯機などというものはない。マーケットには、<font size="3">木炭や薪が日常生活品</font>として供給されている。<br><br>- - - <br><br>自動車だけではない、<font size="3">多くのものが中古品で売り買いされている</font>。街で見かけた青年は、「metropolitan artmuseum」というおそらく中古のTシャツを大切に来ていて、女性は「staff」と大きく書かれた赤いTシャツを日常着にしていた。道ばたのマーケットには、中古の靴、衣服が並ぶ。どれも洋服だが、どこから来たのだろうか。もしかしたら、北の国から援助として運ばれて来たものが、いったん使われて売られたり、横流しされて、売られているのかもしれない。<br><br>周囲で最も発達しているのはケニアだが、紅茶、調味料やアルコールなどの日常生活品のいくつかはケニアから輸入されている。それに対して、東アフリカで生産していない、輸入品のチーズや、西洋ブランドの調味料などは法外に高い。<br><br>電気製品などとなるとアフリカ外から輸入される。<font size="3">ウガンダにはこれといった工業がない</font>。一部、ミネラルウォーターや石けん、ジュースなどはカンパラの工業エリアで製造されているようだ。しかし、工業エリア付近を歩いていたら、煙が舞い、何かが混ざったようなにおいが漂っていた。環境対策などという気配も感じられない。<br><br>- - -<br><br>そして、私にとって初めての、<font size="3">マクドナルド、ケンタッキーが進出していない国</font>だ。ウガンダの食事は質素で、学校給食や一般の貧しい人々は、小麦を似てペースト状にしたものや、キャッサバと、豆を煮たものを食べている。スラムでは一日１食か、それすら食べられない人も居る。<br><br>ホテルでも、結婚式の食事であっても、出てくる食事はだいたい予想がつくのだという。豪華なウガンダ料理のレシピは限られる。甘くない食用のバナナを練ったものと、ライス、茹でたジャガイモ、さつまいも、ビーフ、マトンなどのシチュー、ビクトリア湖からの白身魚のフライ、ピーナッツソースなど。町中ではインド風の春巻きや、揚げパン、パンケーキに卵焼きを挟んだエッグロールが売られている。それ以上のバラエティーはない。<br><br>US1-2$出せば肉のシチューとライス、デザートのバナナが食べられ、町中のエッグロールは0.5$。だが、ここではハンバーガー、ピザなどは高級品だ。西洋世界と変わらぬ値段、たとえば3-10$などで売られている。カンパラには西洋風のファストフードはいくつかあるが、数えるほどしかない。<br><br>- - -<br><font size="3"><br>彼らに取って、日本人は 「ムズンガ」（おもに白人であり、外国人のことをさす現地語）であり、「チャイニーズ」として認識される。</font><br><br>カンパラの街では「Helo. チャイニーズ.」とタクシードライバーから声を書けられる。笑顔で、I'm not. Japanese. Butkind ofChinese.だと返す。彼らには大ざっぱな認識しかない。白人と、インド人と、中国人だ。子供に、お前はジャッキーチェーンに似ていると笑われたら、まだ良い方だ。なぜなら、彼らは東洋人をテレビでも良いから知っているのだから。（もちろん、カンパラには日本人も済んでいるし、日本食、韓国料理レストランも１件ずつ、中華レストランも数件ある。）<br><br>田舎の街では、それすら言ってくれない。子供達は、笑顔で私に向かって「ムズンガ」と話しかける。彼らにしてみると、東洋人も、白人も、みなアフリカ人ではない、「白人」なのだ。<br><br>- - -<br><br>格差にも気付かされる。<font size="3">スラム街の人々の多くは基礎教育を受けておらず（受けていても、小学校１、２年ほどまで）英語を話す事ができないし、読み書き、計算もできない。生活を改善しようにも、小さなビジネスを始めるお金すらない。</font><br><br>それに対して、英語を話し、大学に通い、コーヒー商売や、森林プランテーションなどのビジネスをする中、上流層。カンパラにあるマケレレ大学は、一時はロンドン大学の学位を授与していた時期もあるくらいの、エリート大学だ。<br><br>知人の知人を訪ね、マサカという地方でプランテーションビジネスと建設資材の製造のビジネスをする人を訪ねた。森林のプランテーションには収益を上げるまでに１５年がかかる。それまでのキャピタルを手にした人だけが着手できるビジネスだ。しかし、輸出先は東アフリカに限るのだという。それは質の問題かもしれないが、彼はマーケットがないのだという。産業のボトルネックになっているものに、<font size="3">インフラの問題は相当大きいであろう</font>。地方で見た、未舗装道路と止まった鉃道。ウガンダは海からはなれたランドロックカントリーだから、港の近くに工業地帯を作るというわけにはいかないし、不十分なインフラでは配達の遅延なども起きるであろう。そうすると、北のマーケットのニーズにマッチすることができない。<br><br>彼はまた、政治の腐敗についても語った。<font size="3">国連やNGOなどの援助機関が物資を支援しても、半分も必要な人々のところに届かない</font>のだと言う。時には、９割り方が官僚の手によって横流しされ、無料で届くはずの薬は病院では不足し、横流しされた薬は薬局で有料で売られている。その差額は、官僚やその他の支配層の手に入るのだという。時には、国連職員自身がその腐敗に関与することもある。彼らにしてみると、これはみんなが知っているが変える事の出来ない、常識なのだという。<br><br>- - -<br><br><font size="3">スラム街では、目の前に、貧困の尺度といわれる「1日1$以下」（新しい指標では1.25%）で暮らす人々が居る</font>。コンゴやルワンダ、ウガンダ北部の内戦からの避難民も多く、母親だけで、４－６人もの子供を育てている。父親は、離婚したり、病気で無くなったのだと言う。あるいは、アルコールばかり飲んでいて手助けをしない父親もいる。<br><br>子供の中には、常に鼻水をたらしている子も多い。その多くは、母子感染でエイズに感染しているのだという。そしてそのエイズのケアをNGOが提供するが、日和見感染が発症するまでは症状もあまりないため、ケアの薬の服用を勝手に辞めてしまう人も多いのだそうだ。<br><br>先日訪れた家は、連日の雨で、泥をかためて出来た家がつぶれてしまっていた。<br><br>彼らの仕事は、スラム街のなかに小さな露店を開き、野菜を売ったり、木炭を仕入れて売ったり、簡単なレストランをしたり、あるいは他の多少裕福な層に雇用されている。男性は、建設などのカジュアルレイバーとして働く。毎日の収入は1$ほど。毎日のお金のやりくりは、今日、明日という時限で使われ、貯蓄や投資、ビジネスの拡張などにはほど遠い。<br><br><font size="4">「衣、食、住」</font><br>という日本の言葉の、その大切さが、基本的な生活にまず苦労する人々を目の前にして、身にしみて感じられる。<br><br>- - -<br><br>そんな中でも、ウガンダ人はフレンドリーで丁寧だ。（時間がゆっくり流れているので、日本人からするとルーズということを除くが。）街を歩いていて、レストランで食事をしていて、いろいろ手助けしてくれる人に何人も出会ったし、友達も何人か出来た。<br><br>そして、スラム街の苦しい生活にあっても、子供は元気いっぱいで、歌ってくれたり、笑顔を見せてくれる。<br><br><br>こういうアフリカのことを、西洋人は<br><font size="5">TIF, This is Africa.</font><br>と表現する。<br><br>アフリカの未開の状況、ゆっくりした時間と人々、そして文化の違いのどれもが混ざったなんともいえないカルチャーショックのことを、そう呼ぶのだろう。<br>
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<link>https://ameblo.jp/expworld/entry-10506331359.html</link>
<pubDate>Mon, 12 Apr 2010 04:49:07 +0900</pubDate>
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<title>ウガンダ出発前</title>
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<![CDATA[ ついに明日から、ウガンダでのインターンシップが始まる。<br><br>初のサブサハラアフリカ。<br>初の開発NGOの現場。<br>初の英語での長期の仕事。<br><br><br>この１ヶ月、１日あたり３£もするマラリア予防薬や、いつもより十倍も濃い虫除けスプレー、８種類にもわたる予防注射など、準備を進めるに連れて、サブサハラのシリアスさをひしひしと感じてきていた。<br><br>この予防接種も受けられない、<br>マラリア予防薬を買う事も出来ない、<br>人々が確かに生活しているのだということを。<br><br>そして、私が働くことになるKampalaのスラム街には、<br>ビクトリア湖地域の紛争や、貧困や、さまざまな背景を抱えた人が、<br>スラムという状況のなかで暮らしていることを。<br><br>そんな風に、同情の気持ちでばかりみていて良いのかもわからない。<br>彼らが、どれだけ苦しんでいるのだろうか。<br>それとも、他の途上国の国々のように、笑顔を見せてくれるのだろうか。<br><br>わからないことだらけで、<br>だからこそ、これは新しい、きっと後で私の血となり肉となる経験になるだろう。<br><br><br><br>今回のインターンは、ウガンダの首都Kampalaの、スラム街での支援活動。<br>マイクロファイナンス、ジョブトレーニング、チャイルドスポンサーシップのどれかを志望したので、これらの現場経験とオフィスワークの両方をすることになるだろう。<br><br>「能力に応じてどんどん責任のある仕事を任せていく」<br>と書いてあったので、<br>全ては自分次第。英語力も、現場で仕事に適応し、創造性をはっきしていく力も、コミュニケーション力も、現場だからこそ、すべてがパフォーマンスに影響する。全角度で、全力でいくしかないのだ。<br><br><br>応募時の書類を振返ってみると、<br>'give us a brief statement of purpose.'という質問に対する私の答えは、<br><br>-----<br><br>国際開発NGOのフロントラインについて、<br>・途上国で困難とともに暮らす人々のために、NGOに何が、どのようできるのかについての理解を得る。<br>・国際開発NGOで働くためのゼネラルスキル（チームワーク、オフィスワーク、フィールドリサーチ、インタビュー）および個別のプロジェクトノウハウ（マイクロファイナンス、スキルエンパワーメント、教育活動）を得る。<br><br>これらを達成するために、<br>・難しい問題に対して、知識とスキルを総動員し、学びのサイクルを続ける。<br>・新しい問題を発見し、存在するプロジェクトを能動的に向上する。<br><br>また、プリンシプルとして、<br>・人々のアシスタントであり、スターではないという方針を実践する：現地の人々の言葉を聞き、ニーズを知り、強要するのではなく、彼ら自身のプログレスを支援する。（これにより、国際開発NGOの深い意義と役割を理解する。）<br>・ドナーと被ドナーの両方のことを考え、つなぐ：現地の人々はもちろんだが、事業の継続性を保つためにドナーや一般社会（世論）についても考え、両方のニーズを満たす。<br>・オープンマインドと、探究心を持って仕事にあたる。<br><br>-----<br><br><br>以上。どれもアピールになるように書いたものだが、なかでも<br><br>・国際開発NGOが現地の人々のためにできることは、何で、どのような方法なのか：特に、スターではなく、人々のアシスタントとして何が出来るのか。<br><br>・ドナーや公共と、被支援者の関係性についての理解：ドナーいかんでどのようにプロジェクトが影響され、どのようなストラグルがあるのか。<br><br>・開発NGOのフロントラインという環境で、私自身に何が出来るのか、あるいは出来ないのか。また、将来そのような現場で働きたいのか。<br><br>これらの３つについて、答えをもって帰られるようにしたい。<br><br>これに一般的なことを加えると、<br><br>・世界でも最も貧しい地域である、サブサハラアフリカについての理解を深める。<br><br>・仕事の前線で使える英語とはどのようなものかを知り、その水準に少しでも追いつく。<br><br>これらの２つを実践したい。<br><br><br>到着次第、<br>新しい日々が始まる。<br>ひょっとしたら、留学よりもずっと刺激的な日々になるかもしれない。<br><br>いずれにせよ、全力で、<br>全力を出して、負ける事を恐れないように、<br>頑張って来たいと思う。<br>
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<pubDate>Tue, 30 Mar 2010 08:03:12 +0900</pubDate>
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