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<title>Rai's Theory</title>
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<description>日頃感じたり考えたりしたコトを気分で更新する日記です(・ω・)信条や人生論、深層心理などを載せていこうと思います！(｀・ω・´)参考にしていただけたら幸いです！(´∀｀)ヨロシクです☆★^^</description>
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<title>Theory11-「個性」の捉え方②-</title>
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<![CDATA[ またまたお久しぶりです。<br><br>今回は「個性」の第２弾。<br><br>前回の最後にお話した「個性至上論」を唱える人の特徴について、少し述べてみたいと思います。<br><br>私が見聞きした「個性至上論者」のパターンは大きく分けて３つです。<br><br>最初のパターンとして、彼らは「個性的になれ」「個性を持て」と言いますが、そもそもこの表現が誤解を招きます。<br><br>このような言い回しでは、まるで相手に「あなたには個性が備わっていないのだから」と言っているも同然ではないでしょうか？<br><br>もちろんそうではありません。<br><br>「個性」がないと考えている人は、自分の「個性」の存在にあまりにも無意識だったために、あるいは、ほとんど自分自身を客観的に見つめるコトをしてこなかったために、「個性」があるコトに気づいていないだけなのです。<br><br>携帯電話をドコに置いたか忘れて、あちこち探したが見つからず、「ドコにいったのだ」と落胆して首を前に傾けたら自分の手で握っていたのが見えた、というような展開とよく似ています。<br><br>携帯電話は自分から離れた所にあると思い込み、かつ「探す」という行為に夢中で、電話を持つ自分が見えていなかった何よりの証拠です。<br><br>同じように、「個性」が外にあると思い込み、「自分探し」に夢中で、元から内包されている「個性」に気づきません。<br><br>そして、長い間探し求めた後に自分の内側を見返して初めて、ソコに「個性」があるというコトに気づきます。<br><br>探すのに使った時間は全てムダになります。<br><br>携帯電話のように目に見えるであれば多少の時間で気づくでしょうが、それが目に見えない「個性」となるとハナシは別で、ヘタすると何年かかっても自分を振り返るコトに至りません。<br><br>このように、彼らはまるで「『個性』をゼロから創り上げましょう」というようなコトを標榜しますが、そうではなくて、まず自分の内側に潜む「個性」は何なのか認識するコトが重要なのです。<br><br>コレはよく、自分が無意識のうちに行動する時に浮き彫りになるコトが多いので、自分を客観視するコトに慣れていないうちは他人に聞いてみるのがオススメです。<br><br>「個性」は自分の外側にはありません。<br><br>つまり、自分の「個性」は自分自身を写し出す鏡のようなモノです。<br><br>自分で自分のコトを分かっていないような人は、かなり悲惨な末路を辿りますのでお気をつけ下さい。<br><br>そして次に注意していただきたいパターンは、「個性」を「ナンバーワンになれないコトへの言い訳」として利用する連中のパターンです。<br><br>コレは相当にタチが悪いです。<br><br>こういう人を、私自身何人も見てきました。<br><br>彼らは、ナンバーワンを決める競争をする中で他者に勝てないと判断すると、「ナンバーワンになるコトだけが全てじゃない」と言い始めます。<br><br>勝てないコト・負けてラクな方向に行くコトへの何かもっともらしい理由が欲しいがために、そして勝てない自分を慰め、正当化するために、つい先ほどまでナンバーワンを争う闘いに参加し、「オンリーワンよりナンバーワン」だった人は、このように突如として意見を翻すのです。<br><br>私の同級生の中には、「学校の中間・期末テストは無くした方がイイ」と真剣に主張する人がいます。<br><br>理由は「テストの点数だけが全てじゃないから」だそうです。<br><br>彼らの要点はさしずめ「数字による差別化以外に、もっとタイセツなモノがあるハズだ」といったトコでしょう。<br><br>私はいつもこの意見に対してこう思います。<br><br>「点数も取って、なおかつそれ以外のタイセツなモノも手に入れる」という選択肢は存在しないのか、と。<br><br>オンリーワンを目指すというコトと、ナンバーワンになるのを放棄するというコトはイコールでは結び付きません。<br><br>ナンバーワンを目指しつつ、オンリーワンも磨けばイイだけの話です。<br><br>実際、もともと特別なオンリーワンなのですから、どんなにナンバーワンを目指そうとオンリーワンです。<br><br>オンリーワンは誰にでも保証されているからこそ、誰もに対しての保証がないナンバーワンを目指すコトにも価値が出てくるのです。<br><br>実際、このような主張をする人のほとんどが、大学のカンタンなテストさえ悲惨な結果だったりするものです。<br><br>彼らが言う「個性」とは、決して純粋な気持ちから来ているモノではありません。<br><br>ソレは「ナンバーワンになれなかったコトへの弁明」という不純物が大量に混じった気持ちである可能性が高いです。<br><br>このように、個性至上論者の中には競争に敗れたいわゆる「負け組」も多いのです。<br><br>これらの意見はただの「負け犬の遠吠え」ですので、彼らのハナシは無視するコトをオススメします。<br><br>最後のパターンとして挙げるのは、「個性」を「何でもアリ」と勘違いしているグループです。<br><br>コレは前回の内容とかぶりますが、まさに「個性」を最も尊重すべきモノとして掲げたがために発生したパターンです。<br><br>果たして「お年寄りに優先席を譲らない」「礼儀作法を重んじない」「空気を読まない」…といった内容は「個性」なのか、というコトです。<br><br>つまり、「個性」も「常識」や「礼儀」、「協調性」といった面からある程度の制約を受けるというコトです。<br><br>「個性」は時として、その場その場で「周囲から求められる個性」であらざるを得ないのです。<br><br>「周囲から求められる個性」とは少し矛盾した感じもしますが、この矛盾を紐解く、つまり「周囲からの要望≧個性」にしなければ、先ほどの荒唐無稽な考え方が「個性」として認定されてしまいます。<br><br>ですから、私たちは「個性」は「何でもアリ」なのではないというコトを十分に分かっておく必要があります。<br><br>自分の「個性」を出すからといって、自分のコトだけを考えていてはいけません。<br><br>以上３パターンに分けて「個性至上論者」の特徴を述べてきました。<br><br>周囲にあてはまるような人がいた際にはご用心下さい。<br><br>次回で完結。<br><br>次回は、この現状を打破するための方策と、「良い個性」とはどのようなモノか、またそれはどのような条件の下で養われていくのかについて考えてみようと思います。<br><br>最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
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<link>https://ameblo.jp/farewell1129/entry-10173855732.html</link>
<pubDate>Fri, 05 Dec 2008 11:53:16 +0900</pubDate>
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<title>Theory11-「個性」の捉え方①-</title>
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<![CDATA[ お久しぶりです。<br><br>今回からは「個性」の捉え方についてイロイロ書いていこうと思います。<br><br>「個性」とは何か、またイマドキの人たちが「個性」をどう捉えているのか。<br><br>そして、「個性」に関してどれ程の「勘違い」をしているのか。<br><br>といった、少し風刺じみた内容です。<br><br>でも最後にはしっかりTheoryを提示するのでご心配なく。<br><br>「現代はアイデンティティー不足の時代」と言われ始めて久しい今日、アイデンティティー、つまり「個性」について本気で考える人も多くなったのではないでしょうか。<br><br>まさに「自分探しの旅に出る」という感じです。<br><br>この風潮をカンペキなまでに表しているのが、人気グループ"SMAP"の「世界に一つだけの花」という曲です。<br><br>「ナンバーワンにならなくてもいい<br><br>もともと特別なオンリーワン」<br><br>という歌詞が元で飛ぶように売れたのも記憶に新しいですね。<br><br>しかし、このまるで「個性」が全ての基盤であり、また全ての中心であるかのような考え方は100％問題だというコトを述べておきたいのです。<br><br>つまり、今回の本筋を先に言えば「『個性』は全ての基盤ではないし、『個性』が全ての中心に来てはいけない」というコトです。<br><br>なぜか。<br><br>それは、個性を全ての基盤・中心にしようとした結果、あたかも「全てが正しい」かのような認識が生まれてしまったからです。<br><br>「無理が通れば道理が引っ込む」<br><br>コレは、「個性至上論」と言い換えられそうな現代を素晴らしく的確に捉えた表現だと思います。<br><br>例えば、私が小さかった頃は「勉強なんかしたくない」とダダをこねても「いいから。学生なんだから黙って勉強しろ」という説教が通じていました。<br><br>そこには「学生は勉学にいそしむもの」という暗黙の「道理」がありました。<br><br>皆が皆、その暗黙の「道理」をわきまえていたため、その説教も説得力がありました。<br><br>しかし今はそうではありません。<br><br>「いいから勉強しろ」と言うと、「なんでそんな事しなくちゃならないんだ」と反抗されます。<br><br>その結果、「学生とはいえ、勉強以外の事を重視するのもアリだ」という荒唐無稽な意見が出てきます。<br><br>コレを子供が言うのならまだしも、大の大人が声高に提唱しているのだからマズいです。<br><br>「学生でも勉強しなくていい」という「無理」が通ってしまったため、「学生とは勉強するもの」といった「道理」が引っ込んでしまったのです。<br><br>そして「個性至上」という理由で、こうした言わば「ワガママ」のようなものが正当化されていきます。<br><br>現状はこうです。<br><br>では、具体的にはどこが「マズい」のか。<br><br>それは、彼らが「『個性』以前に重視されるべきモノ」の存在を軽視しているという点です。<br><br>語彙力が稚拙な私には、コレを「基礎能力」と呼ぶ以外に表しようがないです。<br><br>例を挙げると、いくら「個性的な柔道」を掲げる柔道家がいたとしても、まずは適切な食事と筋トレをしなければオリンピックで金メダルなんて夢のまた夢でしょう。<br><br>「個性至上論」とは、私にとっては体重40キロそこそこで、周囲に腕相撲で負けているクセに「いや、柔道家だが食事と筋トレなしでオリンピックを目指すのもアリだ」と言っている男子柔道の選手と同じように見えます。<br><br>おそらく、誰が見ても「オリンピックどうこうより、まずその体格をなんとかしろ」と言うでしょう。<br><br>つまり「個性」というモノは、それ以前にその基盤となる「基礎能力」が完成した上で初めて発揮されるものだというコトが言いたいのです。<br><br>「個性」は「基礎能力を応用した結果生じる特性」と考えるべきなのです。<br><br>「まず『個性』ありき」ではないのです。<br><br>コレに関して、最近「個性至上論」によって確実に失敗に終わったモノがあります。<br><br>それは、いわゆる「AO入試」を始めとした大学の推薦入試です。<br><br>コレは私の経験上感じたコトですが、AO入試などの推薦入試を利用して入学した学生は、必修の授業にすらついてこれず、挙げ句授業を休みがちになり、結果留年・退学…という結末をたどる人がヒジョーに多いです。<br><br>必修といっても、レベルは高校の授業の繰り返し程度です。<br><br>大学入試は本来、学力のある生徒を大学に入れるためにあったものです。<br><br>ソレはおそらく「『個性』うんぬん以前に、『個性』を発揮するための『基礎能力』があるかどうかを見極めないといけない」という意味合いがあるように思えるのです。<br><br>「『基礎能力』のない者が『個性』などと言うのはそもそもどうなのか」と。<br><br>案の定、「基礎能力」を見ずに「個性」のみを見たAO入試で入ってきた生徒は、蓋を開けてみれば「『基礎能力』がボロボロで『個性』どころの騒ぎではない」という人たちがほとんどでした。<br><br>「基礎」を疎かにし、「応用」のみを鍛えた「頭でっかち」な人が、基礎をツンとつつかれただけでガタガタと崩れていくのは想像に難くないでしょう。<br><br>こうした結果を受け、一部の一流大学の間では、すでに多くの推薦制度を廃止する動きが見られています。<br><br>「個性」を伸ばす「だけ」では、事はうまく運ばないのです。<br><br>早稲田大学の理工学部の推薦のように、「科学オリンピック準優勝以上」のようなとてつもない能力を持った者の推薦や、全国大会ベスト４クラスのアスリート達のスポーツ推薦など、一部の推薦を除いて、AO入試を始めとしたこれらの推薦は結果的に大学の評価を落とし、進級すらできない生徒を量産する温床となっているのが現実です。<br><br>したがって、「『個性』を伸ばす」というコトは、まずそれ以前の「基礎能力がしっかり出来ている」コトが絶対条件です。<br><br>先ほどの柔道に限らず、運動であれば「食事」や「筋トレ」が「基礎能力」となります。<br><br>対象が変わればもちろん「基礎能力」も変わります。<br><br>そのため、何が「基礎」となっているのかを見分ける必要があります。<br><br>繰り返しになりますが、「個性」を育てる際は、その核となる「基礎能力」があるかどうかをしっかり見極めた上で始めた方がイイです。<br><br>次回はこの続きとして、「個性至上論」を唱える人の特徴を述べて、そこから何らかのTheoryを導こうと思います。<br><br>最後まで読んでいただきた方、ありがとうございました。
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<link>https://ameblo.jp/farewell1129/entry-10173712695.html</link>
<pubDate>Fri, 05 Dec 2008 00:06:05 +0900</pubDate>
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<title>Theory10-対話・議論のコツ③-</title>
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<![CDATA[ 前回のTheoryを掲載した日とその翌日、アクセスの多さにビックリしました。<br><br>こんな19才の拙く、堅苦しい論文もどきのブログをたくさんの方々に見ていただき、至極光栄です。<br><br>皆様本当にありがとうございます。<br><br>ペタして頂いた方にも感謝申し上げます。<br><br>これからもよろしくお願いいたします。<br><br>アクセス数に突き動かされて、感謝のしるしとして睡眠時間返上で書き上げました。<br><br>6000字近い自称「力作」です。<br><br>少し遅れましたがお許しください。<br><br>では、「中立」と「曖昧」の第３弾です。<br><br>今回は、「中立」「曖昧」「止揚」を、「思考」という観点から見てみようと思います。<br><br>概略を示すと、「最終結論を二択にする事が可能な質問の場合、私たちの思考は『曖昧』から始まり、紆余曲折の『止揚』の末に『中立』に辿り着く場合が多い」というコトになります。<br><br>今回も例を出して説明します。<br><br>私たちは今から「自民党と民主党、どちらが政権運営を進めていくべきか」というテーマで議論を始めるとします。<br><br>この場合、最終結論は「自民党」あるいは「民主党」となります。<br><br>では、私たちがどのように思考するかを考えてみましょう。<br><br>まず、いきなりこのような問題について議論しろと言われても、私たちがすぐに結論を出せる可能性はほぼあり得ません。<br><br>この時点で大抵の方の考えは、「どちらとも言い難い」という状態でしょう。<br><br>何せ、私たちは今何も考えていない状態である上に、判断基準となる資料や知識等も不足しているからです。<br><br>思考の初段階は「曖昧」です。<br><br>では、これらの不足分を議論で補っていくコトにしましょう。<br><br>まずは、自民党・民主党それぞれに政権運営をさせるメリット・デメリットを列挙していきます。<br><br>「小泉政権時代に『美辞麗句で国民を騙した』とまで揶揄され、安倍・福田両総理の無責任かつ理不尽とも言える辞任劇が続いた。もはや自民党を支持する国民はどれほどいるだろうか」<br><br>「データを見ても、国民の多くは民主党支持に回っている」<br><br>「だが自民党は長年与党という立場を保っており、いきなり民主党に第一党を任せるのは不安だ」<br><br>「民主党は自民党に何か不祥事がある度に政権交代を標榜するが、それだけでは政策に何も具体性がない」<br><br>「民主党支持を掲げる人の中にはミーハーも多く、いったいどれほどが民主党の政策について具体的に語れるだろうか」<br><br>「自民党の官僚、特に大臣は不祥事を起こしすぎた。裏金の話も絶えない昨今、綱紀粛正という意味合いでも、自民党は第一党から退くべきなのでは？」<br><br>「しかし不祥事だけなら民主党も分からない。自民党のスキャンダルのせいで表面化していないだけなのでは？以前の前原代表のような事態が起こっても何ら不思議ではない」<br><br>と、政治的アパシーの私がパッと考えてもこれくらい浮かぶワケですから、政治に関心のある方々が数人で議論すればかなりの意見が出そうです。<br><br>このように反対意見を次々と提示していくコトで、止揚への材料も増えていきます。<br><br>ただし、ココでのの「止揚」という作業はあくまで「建設的」を目指すものであり、幼稚で滑稽な揚げ足取りのような行為はイチバン場をしらけさせますのでご注意を。<br><br>ココは反対意見を持つもの同士の双方がナットクいくような意見を捻出する場であって、そういう場に批評家気取りは必要ありませんし、むしろジャマです。<br><br>では、先ほどの例で双方がナットクいくような意見を捻出してみましょう。<br><br>今の会話で止揚の材料となりそうな一対の事象は、<br><br>自民党：<br>「スキャンダル等による国民の支持率の低さ」⇔「長年第一党を守ってきた伝統と実力・手腕」<br><br>民主党：<br>「ミーハーを含むが、国民の支持率の高さ」⇔「政策の不透明さ、政権交代を叫びすぎる」<br><br>といった感じでしょうか。<br><br>双方ともに一対の事象を止揚すると、<br><br>自民党：<br>「第一党を保ってきた優秀な政治手腕や政策を前面に出していき、かつその内容はあくまで(本当の意味での)国民目線を意識し、用途が不透明な金は極力無くす」<br><br>民主党：<br>「国民の民主党に対する関心の高さを勢いに変えて、政策を極力具体的に(国民にわかるように)提示し、(自民党を批判するだけでなく)政策の質の良さで自民党に対抗する」<br><br>となります。<br><br>ココでは少々具体性にかける結論となっていますが、それはもう少し深く議論すれば解消されるでしょう。<br><br>では、最終結論はどうなるのか。<br><br>偏りがない限り、皆さんはこう思ったのではないでしょうか。<br><br>「先ほど挙げた二つの止揚後の結論を遂行してくれるなら、正直どちらでも構わない」<br><br>答えは「中立」となるのです。<br><br>「自民党が今の課題を克服してくれるなら自民党、民主党がそうなら民主党」という「中立」の答えは、「対話・議論」をしていく上での「止揚」の連続の末に導き出される答えです。<br><br>ただ、時には「最終的にどちらかに決めて投票しなければいけない」という条件も存在します。<br><br>そんな中、ココまで議論が進み、「中立」の立場・双方の利点を分かった後で、「でも自分は民主党のこういう点が気に入ったから民主党かな」といったような主観が入ってどちらかに投票、という形を取れれば素晴らしいですね。<br><br>「わたしたちとまったく反対の意見を持つすべての人が、それゆえに野蛮で未開だというわけでなく、それどころか、多くの人がわたしたちと同じかそれ以上に、理性を働かせている」<br><br>コレはデカルトが『方法序説』の中で述べたコトバです。<br><br>片方を批判するコトでもう片方を推すのではなく、お互いのイイところを冷静に分析し、見つめた上で判断ができるような人になりたいものです。<br><br>最後に、デカルトは『方法序説』でさらにこのようなコトバを残しています。<br><br>「わたしは、等しく受け入れられているいくつもの意見のうち、いちばん穏健なものだけを選んだ。<br><br>一つには、あらゆる極端は悪いのが通例であり、穏健な意見は行うのにいつも都合がよく、おそらくは最善であるからだ。<br><br>また一つには、穏健な意見に従えば、やりそこねた場合にも、両極端の一方を選んだあとにもう一方をとるべきだった、とわかるよりも、真の道からの隔たりが少なくてすむからだ」<br><br>「中立」「止揚」の重要性は、時を越えても変わりませんね。<br><br>なお、コレはTheory1「思考による極端化」と矛盾するかと思われますが、それは違います。<br><br>「思考による極端化」は上級者にのみ現れる法則で、「極端」になる理由は「中立」を考えた後の「主観」の入り具合が強いからです。<br><br>言い換えれば、「極端化」はあくまで「あらゆる事象を使っての、双方の綿密な比較検討を思考」した上での「自信」からくるものなのです。<br><br>最初から反対の意見を見ないのは、「思考による極端化」には当てはまりません。<br><br>なぜなら、よい「思考」の中には必ずと言ってイイほど「止揚」のプロセスが存在するからです。<br><br>長くなりましたが、コレで「対話・議論のコツ」を終わりにしたいと思います。<br><br>最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
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<link>https://ameblo.jp/farewell1129/entry-10142411802.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Sep 2008 16:14:55 +0900</pubDate>
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<title>Theory10-対話・議論のコツ②-</title>
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<![CDATA[ <p>いつも更新が遅れるコトへのせめてものお詫びとして、今回は少し更新を早くしてみました。<br><br>とは言え、もうすぐ始まる大学の関係で、また更新頻度は落ちるのですが。<br><br>では、「対話・議論のコツ」の２回目になります。<br><br>今回は、前回指摘した２つのポイントのうちの２つ目。<br><br>「常に『止揚』を心がける」について考えていきたいと思います。<br><br>コレは、建設的な対話や議論をする際には不可欠な要素となります。<br><br>まず、『止揚』というコトバについてカンタンに。<br><br>『止揚』(Aufheben・アウフヘーベン)はヘーゲルが使った哲学用語で、『矛盾する諸契機の統合的発展』のコトを指します。<br><br>二つの相反する事象を、高度な次元での考察によって一つに統一するというコトです。<br><br>この『止揚』の重要性は兼ねてから考えていましたが、つい最近受けた授業であの齋藤孝氏も同じコトをおっしゃっていました。<br><br>彼曰く「対話の基本は、ある説(テーゼ)と、それに相反するもう一つの説(アンチテーゼ)との止揚を完成させる事である」だそうです。<br><br>当然まずは、二つの相反する事象を探すコトから始めるワケですが、ココで私の主張したいコトがあります。<br><br>それは、「自然の摂理や科学的な法則といった絶対不変な事象以外の事象は、多くの場合、その一つの事象の中に一対以上の相反する下位事象を含む」というコトです。<br><br>例えば「増税」という事象１つにしても、どんなにカンタンに考えても<br><br>「国の資産増加」⇔「国民の支出増加」<br><br>という一対の下位事象や、<br><br>「円滑な経済運営」⇔「国民の反感」<br><br>という下位事象などがあります。<br><br>つまり、一つの事象には多くの場合「正」と「負」一対の下位事象が存在するため、「止揚」の材料はカンタンに手に入るというコトです。<br><br>よって、「止揚」は一人でも出来ます。<br><br>そしてこの場合、「止揚」とはもちろん「『正』の事象を尊重しつつ、『負』の事象を解決する新たな事象を創り上げる」というコトになります。<br><br>先ほどの例で言えば、<br><br>「国の資産を、間接税を通して増やしつつ、国民の支出増加を抑える」<br><br>「増税による資金で、より円滑に経済運営を行いつつ、国民の反感を買わないようにする」<br><br>というコトになります。<br><br>前者は税率の理想的なパーセンテージ、後者は増税の代わりとしての国民へのサービスなどが論点となりそうです。<br><br>また、「止揚」によって出来上がった新たな事象でも、その中にはまた別の一対の下位事象が存在するハズです。<br><br>その「負」の部分を見つけ出し、「正」の部分を基本線に置きつつ解決していく。<br><br>こうして止揚に止揚を重ね、事象の次元を高めていこうというワケです。<br><br>またこの場合、幾重にも止揚を重ねた事象は、イチバン最初の止揚を加える前の事象からは想像もつかないくらいに内容が変貌している可能性があります。<br><br>よって、事象の次元の高さを立証するためにも、くれぐれも前回述べた「必要以上の論理展開の省略」はしないようお気をつけ下さい。</p><br><p>この「止揚」に関して、、私が信じている考え方の中に「表裏一体説」というモノがあります。</p><br><p>「コインに必ず表と裏があるように、光には必ず影があるように、すべての事象には対になっている」という考え方です。</p><br><p>以前、シャーロック・ホームズに関する考察を見つけて興味深く感じたコトがあります。</p><br><p>それによると、「シャーロック・ホームズの名声は、 まさにジェームズ・モリアーティー教授の存在によって獲得されたものだ」と言うのです。</p><br><p>ジェームズ・モリアーティー教授とは、ホームズの最大のライバルで、物語の最後には２人ともども滝壺に落ちるという結末が待っています。</p><br><p>なぜか。</p><br><p>つまり、「どれほど優れた名探偵がいても、それにふさわしい事件がなければその存在は意味を成さない」「名探偵と対になる優れた犯人が存在しなければ、名探偵はただの探偵でしかない」というコトです。</p><br><p>「名探偵が活躍する推理小説は、名探偵の存在だけでは書けない」「名探偵と対になる者が存在し、その２つの『止揚』の結果が優れた推理小説になる」</p><br><p>『シャーロック・ホームズ』の原作者コナン・ドイルは、そのようなコトを考えていたような気がします。</p><br><p>「正」の立場を持つホームズにもし「負」の面、つまり欠点があるとすれば、「難事件、あるいはそれを起こす人間がいなければ、ホームズは名探偵とは呼ばれない」という点になるでしょう。</p><br><p>ドイルはホームズのその「負」の面を、モリアーティー教授という存在を創り出すコトによって補った、と考えるコトは大いに出来るでしょう。</p><br><p>「優れた推理小説＝シャーロック・ホームズ×χ」</p><p>「χ＝ジェームズ・モリアーティー」</p><br><p>「止揚」が掛け算に例えられるなら、こういった計算式が成り立つでしょう。</p><br><p>「表裏一体」というコトは、「表」と「裏」を掛け合わせるコトが出来れば、より高度な次元が存在するというコトになります。</p><br><p>そして、新たに存在した次元でもまた、「表」と「裏」が一体となっているでしょう。</p><br><p>対概念を「止揚」していくと、時には『シャーロック・ホームズ』を書き上げるのと同じような成果が得られる可能性があるというコトになります。</p><br><p>以上の点から見ても、「止揚」という概念は大いに考察に値するモノではないでしょうか。</p><br><p>次回は、私が考えた人間の思考プロセスの観点から、「『中立』と『曖昧』の混同を避ける」という「事象」と、「常に『止揚』を心がける」という「事象」を「止揚」してみたいと思います。<br><br>この止揚により「対話・議論のコツ」をつかむささやかなヒントくらいにはなると思います。<br><br>今回はこの辺りで終わりにしたいと思います。<br><br>最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。 </p>
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<link>https://ameblo.jp/farewell1129/entry-10141045082.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Sep 2008 06:56:57 +0900</pubDate>
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<title>Theory10-対話・議論のコツ①-</title>
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<![CDATA[ お久しぶりです。<br><br>今回は「対話・議論のコツ」についてご説明したいと思います。<br><br>なお、ココには一般論ではなく、あくまで私が実体験を通して感じたコトを書かせていただきます。<br><br>とは言っても、ココに書いたTheoryは私の実体験がほとんどなのですが。<br><br>私が気を付けている主なポイントは二つ。<br><br>１つ目は「『中立』と『曖昧』の混同を避ける」というコト。<br><br><br>２つ目は、「常に『止揚』を心がける」というコトです。<br><br>今回は、前者について書きたいと思います。<br><br>「『中立』と『曖昧』の混同を避ける」と言われても…と、分かりにくい方もいらっしゃるかと思いますので、ある対話の例を以下に挙げます。<br><br>「どうすれば生徒の成績を上げることが出来るだろう？」<br><br>「うーん、人によると思う」<br><br>コレは、私ともう一人の人との間で実際に取り交わされた会話の一部です。<br><br>この場面において私は、「人による」という答え方は二重にマズい答え方だと思います。<br><br>まずココで注目していただきたいのは、「質問に対する反応が、質問の『答え』にはなっていない」という点です。<br><br>「どうすれば生徒の成績を上げることが出来るだろう？」という質問に対する答えは、「こうすれば生徒の成績を上げることが出来ると思う」という答え方であるべきでしょう。<br><br>例えそういった答え方をするのが難しいとしても、質問者側はそういう答え方で返答してくれるのを望んで質問をしているワケです。<br><br>上に挙げた答えではないという時点で、その反応は「質問者の要望に応えられていない」というコトになります。<br><br>私は、コレが出来ていない人がヒジョーに多い感じをうけます。<br><br>質問をしても、全く見当違いの答えを出し始めるどころか、場合によってはそのまま話を見当違いの方向に持っていったまま、その方向で延々と話し始める人までいます。<br><br>まずは相手のハナシをキチンと聞き、相手の求めている答えが何なのかをしっかり考えた上で答えるようにしたいですね。<br><br>聞き上手が話し上手の能力を得るのはカンタンですが、その逆、つまり話し上手が聞き上手の能力を得るのにはかなりの労力が必要です。<br><br>まずは自分の言いたいコトは一旦胸の内にしまって、「聞き上手」になるコトから始めてみて下さい。<br><br>コレは近頃流行りの『アサーション』にも関連付けられそうです。<br><br>『アサーション』とは心理学の世界で使われるコトバで、カウンセラーが相談に乗る際に使われる技法のコトです。<br><br>最近はこの『アサーション』について書かれた本がかなり多くなってきています。<br><br>コレについては私より詳しく説明できる方がたくさんいらっしゃるので、キョーミのある方はネットで検索してみて下さい。<br><br>ハナシを本題に戻します。<br><br>もう一つの注目点は、この「人による」という言い方によって発生するものです。<br><br>お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、コレが本日のテーマである「中立」と「曖昧」に繋がるのです。<br><br>何を隠そう、「人による」という言い方では、それがあらゆる事態を勘案した上で何とも言い難いという「中立」の立場で言っているのか、大して何も考えず、思考放棄としての「曖昧」の立場で言っているのかが分からないのです。<br><br>仮に「中立」の立場なのだとしたら、この後に「例えばこういう人はこうだし、ああいう人はああだし…」と説明を付け加えないと、「人による？何だ、そのテキトーで何も考えてなさそうな答え方は」と思われてしまいます。<br><br>しっかり考えた人が、言い方一つ間違うだけで大して考えていない人と同等に見なされてしまいます。<br><br>コレと逆の場合であるならラッキーで済まされますが、そうでない場合は悲しい結果をもたらします。<br><br>原因はもちろん、「中立」の立場で言った人が「論理展開の大幅な省略」をしている点にあります。<br><br>論理展開を必要以上に省略すると、その結論が、周りの人からはどうしてそういう答えになるのか見当がつかないものになります。<br><br>「風が吹けば桶屋が儲かる」という表現を思い浮かべていただけると分かりやすいかと思います。<br><br>風が吹いてから桶屋が儲かるまでには、確かに幾重にも連なる整然とした論理があります。<br><br>しかし、途中の論理展開が省略されているがために、「どうして風が吹いたら桶屋が儲かるの？」と質問したくなるのです。<br><br>「中立」か「曖昧」かが曖昧な表現は避けましょう。<br><br>長くなりましたので、今回はココで一旦区切ります。<br><br>次回は「常に『止揚』を心がける」です。<br><br>そしてその次に、この二つのポイントに着目した具体的な対話・議論を提示していきたいと思います。<br><br>最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
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<link>https://ameblo.jp/farewell1129/entry-10140634254.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Sep 2008 03:00:44 +0900</pubDate>
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<title>Theory9-目標設定③-</title>
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<![CDATA[ 学校の方針で介護体験があった関係で、更新が遅れましたことをお詫び申し上げます。<br><br>今回で最後になる「目標設定」シリーズ。<br><br>「目標設定」を「自主性」の面から考察してみるコトにします。<br><br>一言でまとめれば、設定する「目標」における「自主性」が高ければ高いほど、その「目標」は効果を発揮する、というコトです。<br><br>例えばあるプロジェクトを遂行する際、前回の「具体性」は「綿密なプランの作成」や「適切な人材の採用」といった役割を果たすのに対し、今回の「自主性」は「成功させてみせるんだ」というような、いわば当事者の「意気込み」のようなものです。<br><br>いくら「目標」に対する「綿密なプラン」があり、自分が「適切な人材」として採用されたからといって、それが上から「強制」されたものであれば、自主的にプロジェクトに携わるコトはそれほど多くはならないと思います。<br><br>この「自主性」は、「教育」の世界でも注目されています。<br><br>その例を今からご紹介します。<br><br>もっとも、「教育」というコトバを使うとすぐに「教師」のイメージに結び付くかと思いますが、会社で上司が部下に仕事のやり方を教えるのも立派な「教育」ですので、ぜひご参照下さい。<br><br>英語教育の世界には「Input理論」と呼ばれるモノが存在します。<br><br>かなりおおざっぱに説明すると、今から何十年も前にKrashenという英語学者が提唱した、第２言語(＝母国語以外の言語)習得についての５つの仮説(Hypothesis) の総称です。<br><br>その５つの内の１つである「The Affective Filter Hypothesis」と呼ばれる仮説が、今回の「自主性」とよく似たコトを述べています。<br><br>この仮説は、「第２言語習得の際に、情意(感情と意思)がどのように関わっているか」を述べたモノです。<br><br>Krashenによると、第２言語を効果的に習得する情意の要因は３つ。<br><br>１つ目は「動機(Motivation)」。<br><br>高い動機づけを持った学習者は、第２言語を効果的に習得出来るというコト。<br><br>２つ目は「自信(Confidence)」。<br><br>自信と良い自己イメージを持った学習者は、第２言語を効果的に習得できるというコト。<br><br>３つ目は「不安(Anxiety)」。<br><br>不安が少ない学習者は、第２言語を効果的に習得できるというコト。<br><br>つまり、「第２言語習得」という「目標」に対し、Krashenは「動機」「自信」「不安の少なさ」を、タイセツなコトのベスト５に挙げているのです。<br><br>ココで言う「動機」「自信」「不安の少なさ」は、まさに「自主性」とイコールで結んでも異論はないでしょう。<br><br>「動機」があれば、また「自信」があれば、そして「不安」が少なければ、「自主性」は自ずと生まれてくるでしょう。<br><br>今ご説明した仮説は「目標」がたまたま「第２言語習得」だったというだけであって、私は「目標」を他の何に置き換えても「The Affective Filter Hypothesis」を当てはめるコトは出来ると思います。<br><br>「動機」については、この「目標設定」のTheoryの説明で事足りるでしょう。<br><br>「自信」については、この仮説でKrashenが「または良い自己イメージ」と付け加えているように、以前お話しした「自恃」の意味合いも含んでいるでしょうから、「自恃」のTheoryをご参照下さい。<br><br>「不安」についても、「不安の中枢」「感情移入のズレ」のTheoryでご説明した通りです。<br><br>Krashenからすれば、これらのTheoryはともに「目標」に到達する上での重要な要因たちというコトになるワケです。<br><br>コレにて一件落着。<br><br>「自主性」も「具体性」同様、「目標設定」で重要な役割を担う。<br><br>これで「目標設定」３部作を終わりにしようと思います。<br><br>改めて、最後のみ更新が遅れ、ご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。<br><br>最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
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<link>https://ameblo.jp/farewell1129/entry-10136310807.html</link>
<pubDate>Sun, 07 Sep 2008 06:57:17 +0900</pubDate>
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<title>Theory9-目標設定②-</title>
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<![CDATA[ 前回冒頭に書いた約束を早速破り、本当に申し訳が立ちません。<br><br>今回は「目標設定」の第２弾。<br><br>「具体性」についてお話させていただきます。<br><br>コレ例を挙げると分かりやすくなります。<br><br>今、英語が全く出来ないあなたは「英語が出来るようになりたい」と思い、英語の勉強をし始めたとします。<br><br>この時点で、あなたの目標は「英語が出来る人になる」というコトになります。<br><br>しかしコレでは目標があまりに大きすぎて抽象的なので、またあまりに現実からかけ離れた「理想論」になってしまっているので、設定すべき「目標」にはほとんどなりません。<br><br>設定する「目標」が「具体性」を欠けば欠くほど、「目標」の成功率が低くなるコトが分かっていただけるかと思います。<br><br>ソコで私がオススメする「目標設定」の方法は、「ピラミッド＆ミッション型」というやり方です。<br><br>ちなみにコレは完全に私の造語です。<br><br>「ピラミッド＆ミッション型」、一言で言えば、「目標はピラミッド型に組み上げ、ミッションをクリアしていく形で１段ずつ登っていけ」というコトです。<br><br>「ピラミッド」、つまり頂上から下がるごとに１段あたりの石の個数が増えていくという構成を作ります。<br><br>ピラミッドの原理と同様、最も安定感のある構造になるのでこの方法を採用しました。<br><br>以前「不安の中枢」のTheoryで、不安の解決策を考える際に「10の量の解決策を１個作るのではなく、１の量の解決策を10個作る」と申し上げましたが、今回もコレと似たような形です。<br><br>「10の量の解決策を１個」頂上に作り、「１の量の解決策を10個」その下に作るというワケです。<br><br>つまりあの時同様、「目標」を「手に追えるレベルまで還元する」コトから始めます。<br><br>まず、ピラミッドの頂上に「最終目標」を１つ設定します。<br><br>この頂上にある「目標」は「具体性」を欠いている場合がほとんどですので、ココから下の段にいくに連れ、徐々に「具体性」を出していきます。<br><br>そして、あらゆる状況から判断し、先ほどの「１つ」の下を支える「２つ」の「目標」を設定します。<br><br>「２つ」を設定し終わったら次は「３つ」、その次は「４つ」…といったように、段々と下段を大きくする形で目標を分岐させ、「具体性」が色濃く現れるまで掘り下げていきます。<br><br>理想は、上にあげたような「１つずつ増えるピラミッド(数学でいうn+1の等差数列)」です。<br><br>「具体性」がこれ以上ないくらいにハッキリ見えたら、その段が最下層になります。<br><br>よって、高さは頂上の内容によってバラバラです。<br><br>もっとも、「２つ」の下が一気に「５つ」になったり、「３つ」の下がそのまま「３つ」で変わらなくても構いませんが、下の段が上の段より数的に小さくなるコトは許されません。<br><br>抽象的なものを具体化する際、説明する量が減るコトはあり得ないのと同様です。<br><br>先ほどの例で考えます。<br><br>頂上は「英語の出来る人になる」です。<br><br>次は何でしょうか？<br><br>コレは私なりの解答ですが、例えば英語はSpeaking・Listening・Reading・Writingに大別されます。<br><br>この中から「○○が出来る人になる」の「○○」に２つ当てはめます。<br><br>英会話を習っているような人はSpeakingやListeningはある程度出来るでしょうから、「Reading」「Writing」が原則として当てはまるでしょう。<br><br>逆に受験勉強のような英語勉強スタイルを取った人は、受験勉強であまり重視されなかった「Speaking」「Listening」というコトになるでしょうか。<br><br>これで「２つ」は完成です。<br><br>あとは皆様の判断にお任せします。<br><br>例えば「Listening」なら、<br><br>「ネイティブの発音は速いから聞き取れない」<br><br>→「速さに対応出来るようにする」<br><br>「カタカナで聞こえはするが、何の単語を言っているのか分からない」<br><br>→「語彙力を増やす」<br><br>など。<br><br>「Writing」なら、<br><br>「単語は知っているが作文すると変な語順になる」<br><br>→「文法を鍛える」<br><br>「単語の意味は分かるが類義語のうちどれを使うべきなのか分からない(see‐look at‐watchの区別など)」<br><br>→「語法を学ぶ」<br><br>など。<br><br>策は無限にあるので、ピラミッドの構成も自分次第です。<br><br>策の見つけ方は、「感情移入のズレ」のTheory内の「段階評価型」「YES or NO型」を参考にすると一層やりやすくなるかと思います。<br><br>また、「ミッション」と書いた通り、横列に並んだ段を全てクリアしないうちに、次の段に進むと痛い目に会います。<br><br>それは、レベルアップもしないうちに高レベルのボスに戦いを挑みにいくようなものです。<br><br>ミッション１をしっかりクリアしてからミッション２に進みましょう。<br><br>横列の項目が増えすぎたら、ピラミッドを分割して小さいものにしたり、ピラミッド自体にミッションを取り付けたりする(＝このピラミッドの頂上をクリアしたらあのピラミッドの１段目にいく)のも手です。<br><br>まとめると、「ピラミッド＆ミッション型」の名が示す通り、タイセツなポイントは２つ。<br><br>①「具体性」がはっきり見えるまで、掘り下げて小さな「目標」をピラミッドのように(＝下を大きく)構築するコト<br><br>②「具体性」の高いものをクリアして、初めてワンランク「抽象性」がアップしたものに取りかかるコト<br><br>です。<br><br>私もこの方法で日々あらゆる困難に対処しています。<br><br>きっちり効果が現れるコトも実証済みですので一度ぜひお試し下さい。<br><br>今まででイチバン長くなりました。<br><br>読むのはあっという間ですが、ケータイで5000字近く打ったのでさすがに疲れました。<br><br>その分、次回の「自主性」については短く済みそうです。<br><br>では、最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
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<link>https://ameblo.jp/farewell1129/entry-10128451454.html</link>
<pubDate>Sun, 17 Aug 2008 20:49:14 +0900</pubDate>
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<title>Theory9-目標設定①-</title>
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<![CDATA[ <p>今回は「目標設定」のタイセツさについてご説明させていただきたいと思います。<br><br>何かをやり遂げる時に─それの実現する確率が高くても低くても─「目標設定」をするかしないかでは、成し遂げるまでの「苦労の感じ方」に雲泥の差が生じます。<br><br>なぜでしょうか？<br><br>「何かを目標にする」というコトは同時に、「目標のために頑張る」「目標のために艱難辛苦は耐える」というコトでもあります。<br><br>頑張れないほどの疲れや艱難辛苦に対し、「目標」は、それを乗り越える「理由」となるのです。<br><br>言い換えれば、「目標設定」はそれまでのプロセス全てに「意味」を付与する行為、というコトです。<br><br>疲れも艱難辛苦も、「何のために疲れたり苦しんだりしているのか」という「理由」が分かれば、何も分からない場合よりはずっと軽減されるハズです。<br><br>つまり、疲れや艱難辛苦に「意味」を付与するコトで負担を減らすのです。</p><br><p>「目標設定」の上でタイセツなポイントは３つあります。</p><br><p>１つは、「目標設定」を行うことで「感情移入のズレ」を改善できるという点。</p><br><p>もう１つは、設定する「目標」は極力「具体性」を持っていなければいけないという点。</p><br><p>最後は、設定する「目標」は極力「自主性」を持っていなければいけないという点。</p><br><p>今回は最初のポイントについて考えてみたいと思います。<br><br>以前、「感情移入のズレ」について書きましたが、この「目標設定」はただの動機付けのみならず、感情を統制する手段としても使うコトが出来ます。<br><br>「理由」の「理」は「理性」の「理」だからです。<br><br>「目標設定」は、自分がポジティブな時もネガティブな時も、自分を救い、高めてくれる手段なのです。<br><br>うまくいっているときは設定した「目標」に向かってただ邁進する。<br><br>うまくいっていないときは設定した「目標」を再確認し、「今は『目標』を達成するために苦しんでいる」と考え、負の感情を統制し、余計な負担を減らす。<br><br>こうするコトで、「目標」までの達成スピードを早めていきましょう。<br><br>ですから、艱難辛苦に出会ったら、何でもイイのでまず何か「目標」を設定してみるコトをオススメします。<br><br>「何のために今苦しいのか」分からずに感じる苦しみほど、辛いものはありませんよ。<br><br>英語でgoalという単語には「終着点・ゴール」という意味の他に「目標」という意味もあります。<br><br>つまり、「目標設定」とは「終着点・ゴールの確認」というコトなのです。<br><br>ゴールがドコなのか確認もせず、かつ途中道に迷わず、タイムロスもなくスイスイとマラソンを完走するコトが、果たして誰に出来るでしょうか。<br><br>イイ時も悪い時も、終着点までのタイムロスを確実に防いでいきたいですね。</p><br><p>ちなみに、このTheoryは私の経験則によるものですが、コレは同時に<span class="style2">「ゴール・ダイレクテッド・ビヘイビア（目標指向行動）」という名で、</span>心理学的にも実証されています。</p><br><p>詳しく知りたい方は「<span class="style2">ゴール・ダイレクテッド・ビヘイビア」または「目標指向行動」で検索してみてください。</span></p><br><p>ココからは少しハナシを逸らします。<br><br>感情移入のズレでも書きましたが、人間不安になるとどうも感情が先行し、先が見えなくなります。<br><br>仮にそうなったとして、先行した感情を爆発させ、放出した後に解決の方策(またはそれへのヒント)がしっかり見えていればイイのですが、大抵の場合、それは感情が爆発する前より見えづらくなっていたり、考えるのもイヤになっていたりするものです。<br><br>確かに感情を抑え込まずに出し切ってしまうコトも時には必要ですが、正直私は、それはいつでも、誰にでも出来る「最もラクな方法」だと思っています。<br><br>理由は、不可避である不安の感情の膨張を、ただ流れに任せて放出するだけだからです。<br><br>極端に言えば、流れに任せたという点では「むしゃくしゃしてやった」という、最近よく見かける支離滅裂かつ身勝手な殺人の動機と何も変わりません。<br><br>膨張する感情の爆発はいつでも誰にでも出来るのに対し、膨張する感情を理性によって統制し、冷静に解決案を考えるコトは、訓練を重ねなければ出来ません。<br><br>訓練を重ねた後に、訓練を重ねた人でなければ出来るモノではありません。<br><br>だからこそ、状況によって両方使い分けるためにも、感情の荒波を理性で静める能力が重要なのです。<br><br>喜怒哀楽の「喜」や「楽」の時には、おもいっきり感情を爆発させて、他人とそれを分かち合ったり自分を誉めてあげたりしてください。<br><br>逆に「怒」や「哀」の時は感情を爆発させるのを控えて、冷静に解決案を模索していきましょう。<br><br>その時抑えた感情は、後に「怒」や「哀」が「喜」や「楽」に変わってから、一緒に爆発させて出し切ってしまえばイイのですから。</p><br><p>次回で、「目標設定」の上での「具体性」「自主性」の重要性、また「具体性」については、それを持たせるための方策について言及します。<br><br>では、最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。 </p>
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<link>https://ameblo.jp/farewell1129/entry-10120835601.html</link>
<pubDate>Mon, 28 Jul 2008 01:15:48 +0900</pubDate>
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<title>Theory8-ものの捉え方-</title>
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<![CDATA[ <p>私は夏休みなので、これからはもう少し更新ペースを早められそうです。<br><br>今回は「ものの捉え方」についてお話しさせていただきます。<br><br>一言で言えば、「ある事実と、人のそれに対する捉え方は違う」というコトです。<br><br>つまり、「全てはどういう事実かではなくて、我々が事実をどう捉えたか」というコトです。<br><br>例えば、一つ失敗をした時にも、その失敗を<br><br>「痛いなぁ…やってしまったなぁ…」<br><br>「この失敗を生かせば次には成功するかも…」<br><br>「失敗は成功のもと。たかが一つ失敗したくらいでどうってコトない」<br><br>「この失敗自体が無意味。自分が馬鹿馬鹿しい」<br><br>と、どんな感じで捉えても良いのです。<br><br>なぜこの話をしたかというと、私がこのTheory通りにしなかったがために混乱したコトがあったからです。<br><br>様々な本を読んだり、他人の意見を聞いたりしていると、やはり私は少なからず感銘を受けます。<br><br>本の内容や他人の意見を参考にしたいな、と思わされます。<br><br>しかし、ココで注意しなければいけないポイントがあります。<br><br>それは、自分以外からの考えを100％コピーするのはダメ、というコトです。<br><br>皆さんも、人生で一度や二度は「あぁ、コレはすごいな。とても自分の及ぶ範囲ではないな」といったような考えに出会ったコトがあるでしょう。<br><br>そして、それをすぐにでも自分のものにしたいと思ったハズです。<br><br>しかし、コレを100％コピーしてしまうと、自分の脳の中で「異常」が発生します。<br><br>その理由は、その考えが他ならぬ「自分以外からの考え」だからです。<br><br>おそらく、それ自体が他の考えと何の関連も持たず独立している考えは存在しません。<br><br>つまり、全ての考えは、いくつもの考えと密接に関連した結果生み出されるものなのです。<br><br>ですから100％コピーとは、相手の考えに至るまでのプロセスをほぼ全て無視して自分の考えに取り入れる、というコトになるのです。<br><br>当然私たちは新しく入ってきた考えを自分のものにするべく、それを脳に取り入れます。<br><br>しかし、それがどのような考えから産み出されたか分からない(もしくは自分の脳内にインプットされていない)ため、自分の脳内で関連させるのが非常に困難になります。<br><br>こうなるとパニックが起きます。<br><br>「相手の考えは素晴らしい。<br><br>しかし、それが自分の考えとは繋がらない。<br><br>でも、この考えは取り入れたい。<br><br>では、相手の考えを自分の考えの根幹に設定すべきなのか？<br><br>…今までの自分の考えをほとんど壊してまで。」<br><br>となります。<br><br>つまり、自分の考えの「軸」ごと壊しかねない状態になるのです。<br><br>「軸」は自分の過去の経験の総体なので、それを壊して一から作り直すのがどれ程タイヘンなコトかは分かっていただけると思います。<br><br>拙い例で申し訳ないのですが、個人的に、100％コピーは「A型の人にO型の血を輸血する」ようなモノだと考えています。<br><br>では、「自分以外からの考え」は吸収できないのか？<br><br>ココで「ものの捉え方」の出番です。<br><br>つまり、「自分以外からの考え」を「自分用の考え」に変換するのです。<br><br>相手の考えは崩さずに、その考えに至ったプロセスを少し考えてみる。<br><br>そして、自分の考えと関連しそうならそれと関連づけて取り入れる。<br><br>「他人の素晴らしい考えがある」という事実を、「自分はそれを取り入れる／取り入れない」と判断しなければ、上のようなパニックは避けられません。<br><br>あくまで「自分以外からの考え」は、『自分の考え』という『軸』の「周辺部品」にするというスタンスでいくべきです。<br><br>100％コピーではなく、その間に自分の判断を入れましょう。<br><br>全ては、「ある事実を自分がどう捉えるか」です。<br><br>どんなに一般から称賛を浴びているようなものでも、自分が素晴らしいと思わないなら「自分はこういう理由で素晴らしいとは思わない」と言える人でありたいですね。<br><br>「私はこう思う」と、自分の考えの「軸」がはっきりした状態で意見を言える人になりたいですね。<br><br>自分の「軸」がブレてしまうと、スランプに陥るコトもあり得ますのでご注意下さい。<br><br>ただし、それが違っていたと分かる十分な証拠があったら、素直にそれを認めるべきでしょう。<br><br>この考えは、論理からはみ出して感情論に適用されると、ただの「意地っ張り」になってしまいますから。</p><br><p>ちなみにこのTheory、心理学的には「リフレーミング」と呼ばれるものに近いです。</p><br><p>再び違う枠組みから見る、という意味で、re（再び）＋framing（枠組みを表すframeのing形）と書きます。</p><br><p>キョーミのある方は検索してみてください。</p><br><p>補足ですが、以前、「自分を高める」のTheoryの中で「他人の技術を自分に適用する際は、それと自分の技術とをミックスさせず、他人の技術をそのまま使ってみるコトをオススメします。」と書きましたが、これは他人の技術を現に目の前で見ることが出来るからこそ行えるものです。</p><br><p>それに対し、今回は頭の中で繰り広げられる、いわば「空想」の世界でのハナシです。</p><br><p>前者は自分の技術と他人の技術のうち、「片方は目に見える」という点で自分と他人との技術の差がいくぶん明確になり、比較検討がしやすくなります。</p><br><p>後者は完全に観念上の問題で、比較検討がしづらいために100％コピーはオススメしません。</p><br><p>目に見えるものと見えないものとでは、100％コピーの意義も違ってくるのでお間違えなく。<br><br>では、最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。 </p>
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<link>https://ameblo.jp/farewell1129/entry-10118975579.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Jul 2008 20:05:36 +0900</pubDate>
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<title>Theory7-メリハリ④-</title>
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<![CDATA[ 遅くなりました。申し訳ないです。<br><br>メリハリシリーズもいよいよ最終回。<br><br>今回は決断力養成ポイント③「日常生活の中で、物事を自分の本気・全力でこなす時間を作る」です。<br><br>３つのポイントの中では、コレがイチバン大事です。<br><br>なぜなら、「本気」こそが、①の「論理的思考力」をフル回転させつつ、②「緊張」もするため、結果的に「時間制限」があるのと同じコトになるからです。<br><br>確かに世の中の仕事は辛いですが、それらの大半は正直、本気を出さなくてもやり遂げるコト自体は可能です。<br><br>学生生活(特に大学)で、大して勉強もしていないのにそれなりにイイ点数や評価が来るのと似ています。<br><br>ですが、実力主義の現代において、テキトーにやってイイ評価をもらってポンポンとステップアップ…と順風満帆に行くハズもありません。<br><br>コレにカンペキに当てはまるのが「受験勉強」です。<br><br>「受験勉強」をしていく中で、自分の現段階での実力からは雲泥の差があるほど偏差値の高い大学に合格するためには、常に「本気」が必要とされます。<br><br>常に日頃の勉強や模試に「本気」で取り組まない限り、合格は勝ち取れません。<br><br>気を抜いたり、他のコトに気をとられていたりすると偏差値は平行線のまま。<br><br>いつまでたっても偏差値は上がりません。<br><br>その間に、「本気」を出した他の生徒に抜かれていきます。<br><br>勉強を仕事に、偏差値を業績にそれぞれ置き換えれば、実生活にも十分当てはめられるでしょう。<br><br>余談ですが、私は以前にある予備校の先生から「受験勉強は勉強の成績を問われているだけじゃない。キミたちの生き様が問われているんだ。」と言われたコトがあります。<br><br>ココでいう「生きざま」が、どこまで「本気」になれるか、というコトなのかな、と思います。<br><br>「本気」でやらなくても出来るコトを敢えて「本気」でやってみたり、「本気」でやっても成功するか分からないような難題に挑戦してみたり…。<br><br>とにかく、初期段階では「本気」になるコト自体にイミがあります。<br><br>結果は気にしないで下さい。<br><br>なぜなら、「本気」が必ずしも結果に結び付くワケではないからです。<br><br>あくまで「メリハリ」をつけるための試みなので、結果はついてきたらラッキーくらいに考えて下さい。<br><br>あともちろん、脳をいきなり「本気」にするのは、ウォーミングアップをせずにハードに体を動かすのと同じコトなので、「本気」になる前にある程度頭を動かしたり、精神統一をしたりしておきましょう。<br><br>また、しばらく好きなコトに対して「本気」を出し続けていると、キョーミのないコトやメンドーなコトにも「本気」で取り組めるようになります。<br><br>こうなると好奇心は無限に広がり、非常に人生が楽しくなってきます。<br><br>またもや話が二転三転してしまったのでまとめます。<br><br>「本気」は、３つの方法論の中で①と②を同時にかつ自動的に引き起こす概念なので重要。<br><br>最初は結果は気にせず、やりたい分野だけに関して「本気」を使っていく内に、他の分野においても同様の現象が現れてくる。<br><br>以上です。<br><br>次回のテーマはまだ未定ですが、何かまた有益なTheoryをココで展開できたらと思います。<br><br>最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
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<link>https://ameblo.jp/farewell1129/entry-10111634238.html</link>
<pubDate>Tue, 01 Jul 2008 00:48:39 +0900</pubDate>
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