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<title>films9のブログ</title>
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<description>好きなことを気ままに、ゆるゆると</description>
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<title>次回</title>
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<![CDATA[ 次回はマーティン・スコセッシ監督の「シャッターアイランド」を予定しています。まだ、僕自身見ていませんが解釈が難しいということを聞いており、とても楽しみな作品です。<br><br><br><br><br><br><br><iframe width="480" height="270" src="https://www.youtube.com/embed/C2QHD98f-wg" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br><br><br>恐らく、いつもの様にいくつかの解釈を列挙しながら、書くことになると思います。今まで以上に大変そうです。（笑）精神病棟の話ということですが、予告編を見る限り、推理小説なんかで使われる叙述トリックが結構用いられていそうですね。<br><br><br><br><br><br><br><br>個人的に推理小説は結構好きなので、何かお勧めの本がありましたら、紹介よろしくお願いします。（笑）<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>それでは、また。<br>
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<pubDate>Sat, 05 Mar 2016 11:18:37 +0900</pubDate>
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<title>大島渚「戦場のメリークリスマス」</title>
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<![CDATA[ 予告通り「戦場のメリークリスマス」について少し思うところを書きます。この作品は大島渚監督の作品ということもあり、多くの人がこの作品についての批評を書いていると思うので、他の人が同じ事を書いているかも知れません。ですから、読んでいて少し退屈かも知れませんが、ご勘弁を。(笑)あくまで、僕の想像ではありますが。<br><br><br><br>あらすじ<br><br>1942年、日本統治下にあるジャワ島レバクセンバタの日本軍俘虜収容所で、朝鮮人軍属カネモトがオランダ人男兵デ・ヨンを犯す。翻訳者として働かされている捕虜の英国陸軍中佐ジョン・ロレンス（トム・コンティ）は、ともに事件処理にあたった軍曹ハラ（ビートたけし）と奇妙ではあるが、親しい関係になっていく。<br><br>一方、ハラの上司で所長の陸軍大尉ヨノイ（坂本龍一）は、輸送隊を襲撃した末に俘虜となった陸軍少佐ジャック・セリアズ（David Bowie）を預かることになり、その反抗的な態度に悩まされながらも彼に魅了されるのであった。<br><br>また、ヨノイ大尉は、カネモトとデ・ヨンの事件処理と俘虜たちの情報を巡り、プライドに拘る空軍大佐の俘虜長ヒックスリーと衝突する。其々の思惑の中、戦場にクリスマスが訪れる…。<br><br><br><br><br>このような物語です。前回同様自分でまとめてみました。続きが気になる方はDVDで。<br><br><br><br><br><iframe width="459" height="344" src="https://www.youtube.com/embed/w3FpOcjrUcM" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br><br><br><br><br>ここから先は、基本的に、ストーリーを知っている前提で話を進めます。ですので、ネタバレが嫌な方は読まない方が良いかと。<br><br><br><br><br><br>・「戦場のメリークリスマス」本編について<br><br><br><br>この作品は第二次世界大戦をテーマにした作品ですが、戦闘シーンが全く存在しません。僕自身、戦争を扱った作品について余り知らないのですが、捕虜に対する虐待のシーンは結構あるものの、交戦する場面が無いというのは珍しいのではないかと思います。基本的に、戦争を扱った作品は第三者の視点と主要人物の視点を織り交ぜながら悲惨な場面を映す事で、疑似体験として、戦争の恐ろしさを伝えるものかと。小学校の授業なんかで上映される映画が、その典型例だと思います。<br><br><br>また、この作品の登場人物は全て男性です。これも珍しいかも知れませんね。登場人物が女性だけという映画もあるのでしょうか。少し興味があります。<br><br><br><br><br>この作品は表立った主題やメッセージというものは、余り無いような表現をされていると思います。しかし、背景には様々な価値観が見え隠れします。「武士道」、「神道や仏教」、「ニ・二六事件」、「日本人のヨーロッパやアメリカなどに対する劣等感や憧れ」、そして、イギリス人（やアメリカ人）の「階級制度やエリート意識（誇り）」、「信仰」…。他にも根底に流れるテーマが存在するかも知れません。これらの価値観のアウフヘーベンや互いの立場を超えた友情をもって、この作品はクライマックスに入り、エピローグへと終息します。また、大島渚監督の後期の作品の特徴の１つである「特異な状況下での性愛」というテーマも、男性の同性愛として描写を通じて、表現されていると見做せるでしょう。個人的には、大島渚監督の男性の同性愛に関する表現は結構有名かなと思いますが。<br><br><br><br>ここで、話を脱線して「武士道」について少し書きたいと思います。基本的に武士道というのは、封建社会に於ける、武士階級の倫理や道徳といった価値観の規範になる思想全般をさしたり、日本独自の常識的な価値観をさしたりするものと捉えられています。（もしかすると、”他の定義もある”かも知れません。これが肝ではありますが。）自分である程度調べてみたところ、厳密な定義はどうも存在しないようで、時代は同じでも人により解釈は大きく異なる場合もあったみたいです。また、武士に於ける規則書ではない思想であります。要は、武士道と言っても千差万別であり、全く異なる部分が見られるということです。（僕自身こういうことについては疎いので、間違いなどがありましたら、指摘をお願いします。）<br><br><br><br><br><br>一番有力だと思われるのは、矢張り新渡戸稲造の「武士道」で広まったというものです。これは西洋の唯物主義などの価値観に対するアンチテーゼとしての思想という感じが否めません。外国に対して、「武士道」を日本人の普遍的な価値観と紹介したため、日本は武士道の国であるという認識が広がったようです。基本的にアンチテーゼというものは内容如何に関わらず、人気になり易いのかも知れませんね。<br><br><br><br>また、江戸時代に武士道という言葉が一般的だったかと言うと、少し怪しいようです。武士道という言葉が出てくる江戸時代の書物に「甲陽軍鑑」がありますが、戦国時代に於ける武士のサバイバル術という面が強いです。ですから、本来の武士道というものは恐らく、（武士が戦闘を行っていた時代に於ける）生存術といった方が正確かも知れません。そこに、儒教的な道徳観や美徳などは余り無く、どちらかというと西洋の個人主義に近いものだったのでしょう。（実際に見た訳では無いので断定は出来ませんが。）個人主義が主になっている咋今に「近代武士道」は確かに学ぶことは多いかも知れません。しかし、人にもよると思いますが、「武士道を実践しています。」なんて言ってしまうと大きな誤解を生む可能性があります。今の時代に、それこそ戦国時代の頃の武士道なんて実践してしまうと立派な犯罪者になるでしょう。(笑)なので、そういう場合は、せめて新渡戸稲造の「武士道」が好きですと言った方が良いかと思います。前述の「武士道」という言葉は後者の新渡戸稲造の「武士道」の内容を指すものと、ここで改めて明記しておきます。(笑)<br><br><br><br><br>話を戻します。この映画はバックミュージックに「Merry Christmas Mr.Lawrence」が流れるところから始まります。（正確に言うと少し違いますが。）ここは、最後のシーンと対比になっています。最後まで見てから初めて分かることではありますが。（後述）<br><br><br>カメラが歩くハラ軍曹とロレンスを追い、オランダ人捕虜を犯そうとした朝鮮人兵士を、ヨノイの許可無く勝手に処刑しようとするところから物語は始まります。ハラはロレンスに言います。「腹切りを見ずして日本人を見たとは言えんからな。」、と。<br><br>また、こうも言います。「何故死なん。自分なら捕虜にはならない。」と。<br><br><br>衒学的になり易い「宗教」（や「国家」）といったテーマを、このハラ軍曹という人物が上手く緩和させる役割も果たしていると思います。しかし、こういう言動は観客に彼が野卑だという先入観を持たせることにもなっているのでしょう。<br><br><br>基地に戻って来た後にハラはロレンスに言います。「日本人は敵に助けを求めたりなどしない」、「なぜお前ほどの軍人がこのような恥に耐えられるのか、自決しないのか。」（ロレンスは捕虜です）等と。それに対してロレンスは穏やかに反論するのですが…。この映画の登場人物の中で、最も共感しやすいのはロレンスではないかと思います。戦時下という間違った価値観であるという認識がされやすい環境の中で、最も俯瞰的に状況を捉えている人物という描写がされています。基本的に映画というのは、第三者の視点で進むものなので（勿論そうでないものも多数存在すると思います）、その視点に最もロレンスが則している点に於いて。彼の言動が監督の主張という見方も出来るでしょう。この映画は、東洋と西洋の対立のような価値観の対比が多く含まれているので、それが一番の主題なのかも知れません。異なる文化や価値観、信仰の邂逅という場面は多いので。しかし、大島渚監督は既に亡くなっていますから、それを知る由はもう無いのですが…。解釈は一元化すべきではないと思いますが、個人的には気になるところです。<br><br><br>ここで場面が変わり、あらすじで紹介した英国陸軍少佐ジャック・セリアズの軍律会議が開廷されます。これは外見上裁判と言う体を取っただけのもので、セリアズはすぐに死刑が決まるやに見えますが、セリアズは検事との言葉の応酬の中で、自分の過去を話すように言われて腹を立てて、毅然とこう言い放ちます。「My past is my business.」、と。この言葉を受けた時、ヨノイは独特の表情を浮かべていました。その後、セリアズは浮虜収容所へ連行され、ヨノイ大尉はハラ軍曹にセリアズをすぐに医務室へ運ぶよう命令します。<br><br><br>このヨノイ大尉という人物は二・二六事件の生き残りで、自分が生き残ってしまったことを後悔しているような描写をされています。ヨノイ大尉は英語が堪能でシェークスピアの原文を引用する場面もあり、かなりの知識人なのでしょう。ですから、この戦争の意味にも疑問を持っているのかも知れません。そういう中で、どんな苦難においても自分を曲げることのなく行動するセリアズに対して、ヨノイ大尉は強烈な興味を抱くようになります。それを紛らわせるように剣道の稽古に打ち込むのですが、あまりの気迫に周囲の人間が不安になってしまいます。その原因がセリアズだと思ったヨノイ大尉の部下は、彼を殺害しようとします。　しかし、それは失敗に終わりました。収容所で発見された無線機を持ち込んだという理由で、ロレンスか誰かにその罪を着せて処刑するのだというヨノイ大尉の「収容所全体の秩序を守るためなら、たとえ無実であってもいいから誰かを処刑する」という言葉は印象的です。ある集団が暴走したとき、そこにその集団を批判する人がいない場合は、更に暴走してしまうという事を端的に表していると感じたからです。<br><br><br>その濡れ衣によって、ロレンスは処刑されることになってしまいます。その折に、ロレンスは怒りのあまり、日本兵の神聖な葬儀のためにあつらえられた祭壇を破壊し、「君たちの狂った神のせいだ。」と叫びました。抵抗も空しく、ロレンスは独房に連れて行かれます…。<br><br><br><br>しかし、その日はクリスマスでした。<br><br><br><br><br>その日の夜に、ロレンスはハラ軍曹の下に急に呼ばれます。そこには酒を飲んで酔ったハラ軍曹が座っており、「ふあーぜる・くりーすます（サンタのことだと思います）」と二人に対して連呼した後、なんと彼らを釈放してしまいます。戦時中、外国語の使用も禁止されていたはずであるのにも関わらず。酔っている為に正常な判断が出来なくなっているだけなのかも知れませんが、本音というのは普段に比べて出易くなっているはずです。そう考えると、ハラ軍曹の人となりや考えが少し見えてくるのかなと思います。自分のことをサンタと言いつつ、死刑になっている人間を釈放したのですから。<br><br><br><br>その後、不安が募るヨノイ大尉は、病棟の捕虜も無理矢理引き立てて全員集合をかけ、以前から反抗的であった俘虜長ヒックスリーを斬ろうとします。そこへジャックが進み出て、ヨノイ大尉の両頬にキスします。非常に有名なシーンですね。この場面は画面がぶれるのですが、それがヨノイ大尉の驚きをよく表現していて、流石だなと思いました。<br><br><br>これはヨノイ大尉にとって衝撃だったでしょう。ヨノイ大尉はセリアズに惹かれていると書きましたが、、それ以外にも西欧に対するコンプレックスや劣等感などの弱みも感じていたのではないか、と。何故なら、帝国軍人の模範たるヨノイ大尉が、敵の兵士にキスなどされるという前代未聞の恥辱を受けながら、その場ですぐセリアズを斬るどころか崩れ落ちてしまったのが、それを如実に示していると思います。前述の裁判劇の中で、シェークスピアの言葉を引用してセリアズの注意を引こうとした経緯もあり、全く太刀打ちできない相手であること、本来尊敬すべき相手であることをまざまざと思い知ったのが、あの場面のヨノイ大尉だったと思います。そのような価値観の相違を抜きにしても、自分を殺すかも知れない相手の頬にキスをするなんて出来ることでは無いでしょう。個人的な感想ですが、マハトマ＝ガンディーと姿が被りますね。「許す」ことで対抗する、というのは。<br><br><br><br><br>ここで、セリアズの回想の場面が流れます。苛められている弟にたいして、見て見ぬ振りをしてしまった自分。必ず帰ると約束した自分。彼は誰かを庇うという行動によって、弟に対して弁解したかったのかも知れません。その意味で、彼は自分の思い出したくは無い過去に打ち勝ったのでしょう。あくまで個人的な意見ではありますが。<br><br><br><br><br>その後、日本兵から袋叩きにされ、地面に首まで埋められて動けない状態のまま、目を閉じ、無残な姿で衰弱し、死にかけているセリアズ。 ヨノイ大尉はそのセリアズのもとに静かに近づき、彼の髪をひと房落とすと、それを形見として大切にしまい込みます。セリアズの顔に乗った蝶が印象的でした。背景に「Sowing The Seed」が流れます。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>ここで、ジャック・セリアズという人物を演じ先月亡くなったデビット・ボウイに哀悼の意を表します。貴方が演じたジャック・セリアズは、作中で最も好きな人物でした。ここに、少なくとも一人、”ジャック・セリアズ”のファンがいることを明記しておきます。<br><br><br><br><br>R.I.P David Bowie,Jack Celliers　 <br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>場面が暗転します。<br><br><br><br><br><br>4年後の1946年のクリスマス、処刑前日のハラ軍曹をロレンスが訪れます。下に動画を貼り付けて置きました。前述したように、このシーンは最初のシーンと対になっています。<br><br><br> <br><br><br><iframe width="459" height="344" src="https://www.youtube.com/embed/JWx8o5FI-Us" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br><br><br>ハラ軍曹を節操の無い人物だと思う方もいるでしょう。何しろ、敵国の言葉である英語を勉強していたのですから。個人的には現実主義だったのかなと思います。解釈は人夫々でしょうが。明記することはしません。<br><br><br>また「私は、他の兵士と同じことをしただけなんです」とも言っています。日本兵皆同罪だろう、と。<br><br><br>ロレンスが言います。「正しい者など居ない」、と。正しいと信じている人がいたというだけの話で。その正当性は戦争での勝利と言うものしか無いと思います。この場面によって、正義というものは只の方便に過ぎないと観客に明示されます。<br><br><br>そして、最後にハラはロレンスにこう言います。<br><br><br><br><br>「Merry Christmas, Mr. Lawrence」<br><br><br><br>態々”ミスター”と敬称を付けているんですよね。以前は捕虜だった相手に対して。また、これはロレンスに対しての命乞いだったのかも知れません。そう考えると、こみ上げて来るものがあります。前述した通りハラは「日本兵は敵に命乞いなどしない」と言っていました。また、自分がロレンスをクリスマスに釈放している訳です。そういった様々な感情がロレンスの去り際に湧き起こり、この台詞を言ったのかも知れません。<br><br><br><br>「他人同士、ましては価値観が異なる者同士が分かり合うことは出来ないだろう。しかし、分かり合おうとすることは出来るのでは無いか。」個人的にはその様に感じました。他の人はどうなのでしょうか。気になる所です。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>表面上はぱっとしないものの、色々な事を考えさせてくれる良い映画だと思います。今回も急いで書き上げたので内容が読みづらいかもしれませんが、ご了承下さい。また、間違い等がありましたら、コメントの方よろしくお願いします。<br><br><br><br><br>これからも酔い続けていきますので。（笑）<br><br><br><br><br><br><br><br><br>”All the world's a stage,and all the men and women merely players.”<br><br><br><br><br>それでは、またの機会に。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Mon, 08 Feb 2016 00:44:29 +0900</pubDate>
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<title>次回</title>
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<![CDATA[ David Bowieが亡くなったという事で、大島渚監督作の「戦場のメリークリスマス」について少し書いてみようかなと思っています。書くことは少ないでしょうが。<br><br><br><br><br><br><br><iframe width="459" height="344" src="https://www.youtube.com/embed/w3FpOcjrUcM" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br><br><br><br>David Bowieと言えば、僕の中では映画の中の若々しい姿しか思い浮かびませんでしたが、もう69歳だったんですね。亡くなったとは言え、未だに作品や人の記憶として、生きているので大丈夫だと思います。<br><br><br>僕の勝手な妄想なのかも知れません。悪しからず。(笑)<br><br><br><br><br>それでは、また。
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<pubDate>Fri, 15 Jan 2016 18:56:46 +0900</pubDate>
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<title>M・ナイト・シャマラン「ヴィジット」</title>
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<![CDATA[ 前回「ポーラｘ」について書くと予告をしていましたが、シャマラン監督の新作「ヴィジット」が公開されると知り、今回の記事は同作品について書くことにしました。<br><br><br>今回も前回の「黒衣の刺客」同様、まだ上映中の地域があると思うのでネタバレをある程度控えるか迷いましたが、今回はほぼ隠さず、ストーリーについて触れていきます。ネタバレが嫌な方は、予告編を貼り付けておきましたので、ストーリーをある程度想像してから観てみると面白いかも知れません。(笑)（僕自身はストーリー云々と言うより、只管お婆さんの行動に恐怖していましたが。）<br><br><br><br>・あらすじ<br><br><br>祖父母の家で1週間を過ごすこととなったベッカとタイラー姉弟。不安もあったが、実際に会った祖父母は優しく、楽しい一週間を過ごせそうな予感がしていた。<br><br>祖父母は高齢の為、9時半には就寝しないといけないので、姉弟もそれ以降は部屋から出ないようにと言い渡される。<br><br>そしてその夜、眠りにつこうとしていた姉弟だったが、部屋の外から聞こえて来る不穏な物音に目を覚ます..<br><br><br><br>このような物語です。前回同様自分でまとめてみました。続きが気になる方は是非劇場で。<br><br><br><iframe width="480" height="270" src="https://www.youtube.com/embed/IRNGswSDmbI" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>・「ヴィジット」本編について（ここからネタバレです）<br><br><br><br>この映画は殆どの場面をPOVで撮られています。また、CGも殆ど使われていません。POVというのは、主人公（やその周辺人物）の主観視点で撮影されるカメラワーク、又は映画そのものを指します。役者自らがビデオカメラを持って撮影しているもの、と考れば良いかと。（最近は映画以外の媒体でもこの言葉は使うようですが。）殆どというのは、POVとは言えない場面を散見したからです。うろ覚えではありますが、ベッカとタイラーが母親の元を離れるシーンや祖父母が歓迎の旗を持って駅で出迎えをするシーンがそうだったと思います。前者が高めの第三者の視点、後者がかなり低めの第三者の視点でした。（覚えている限り）何故カメラワークを気にしたのかと言うと、シャマラン監督の代表作の１つとも言える「シックス・センス」がカメラワークを細かく変えて撮影されていたからです。あの映画の視点を大まかに分けると、モブ（一般の人）の視点、コールの視点、マルコムの視点という３つの視点から構成されていました。（あくまで、個人的な意見ではありますが。）推理小説の叙述トリックのようなものです。基本的に第三者の視点というのは客観的なものであるため、観客に誤解されるよう当事者の視点が用いられる事が殆どかと思います。この叙述トリックをまた使ってくるか注目していたのですが、今回は只のPOVでした。(笑)POVは視界が制限されたり、フレームが揺れたりする事により、臨場感（や恐怖の度合い）が増します。ホラー映画では結構使われているらしいですが…。個人的には、シャマラン監督作品の中では「アンブレイカブル」が最も好きですかね。話が脱線してしまいました。<br><br><br>この物語は主人公ベッカ（とタイラー）が、初めて祖父母に会いに行く様子を収めたドキュメンタリー映画を作るため、母親にインタビューをしているシーンから始まります。そのインタビューの中で、母親は語ります。<br><br><br><br>・十代の頃、学校の代理教師と恋に落ちたが、両親が認めてくれなかったこと。<br><br>・１９歳の時に起こったある出来事により、もう１５年間も両親と会っていないこと。<br><br>・その後、結局は旦那になった彼はスターバックスで出会った別の女性と恋に落ち、パロアルトに引っ越してしまったこと。このときベッカとタイラーは既に物心付いている年齢です。<br><br><br><br>それを聞いた上で、ベッカは何故長い間連絡を絶つ事になったか、もう一度はっきり説明してくれと母親に尋ねますが、母親はそれは話したくないと言い、話そうとしません。それはベッカの祖父母がベッカに話すかどうか決める事だ、と。自分は何年も両親と話していないが、祖父母は良い人たちで、地元の病院でボランティアをしているとだけ言い残しました。余談ですが、個人的にこの母親は少し嫌いですかね。映画の登場人物に腹が立つのは結構久しぶりだと思います。<br><br><br><br><br>次に「月曜日」というチャプターに移ります。フィラデルフィア（だったと思います）にある駅に向かう車内で、ベッカの弟タイラーが登場します。タイラーはラッパーに憧れる少年で、「年頃のガキってこうだよね」と言わんばかりの振る舞いをします。個人的に、在り来たりとも言えるストーリーに独特の演出を加えて、映画に仕上げるシャマラン監督の姿と重なりました。多分僕の気のせいです。(笑)冗談は置いといて、この作品は「ヘンデルとグレーテル」がモチーフなのかも知れません。幼い姉弟が危険な家を訪れるというストーリーの大筋が同じだったり、お婆さんがお菓子ばかりご馳走したり、ベッカがオーブンに入れられたりという点で。<br><br>少し強引ですかね。(笑)<br><br><br>駅で母親と別れのハグをして、ベッカとタイラーが電車に乗り込みます。見送る母親が少し涙ぐんでいたのが印象的でした。これが別れの為なのか、両親への負い目からだったのか判断しかねますが、個人的には後者の方が大きいかなと思います。この映画の主題の１つでもある（と個人的に思っています）「家族の再生」というのを考えると。シャマラン監督の作品は全て見たわけではありませんが、見た作品はこのテーマが主題の１つであることが多いような気がします。「シックス・センス」の母と息子、「アンブレイカブル」の父と息子、「サイン」の一家…。<br>一般には、所謂どんでん返しがシャマラン監督の売りかも知れませんが、個人的には此方のテーマの方が気になります。何故そこまで”家族”に拘るのか。<br> <br>電車内では、タイラーはベッカのカメラに向かって、自分のラップを披露します。<br>車掌にカメラを向けると「昔役者を目指していたんだ」と言います。これは、お爺さん・お婆さんが祖父母になりきる演技をしていたという事を暗に示している気がするのですが…。（後述）<br><br><br>ベッカは、今回の旅行に同意したのは、母親が新しい彼氏とより親密になる為に５日間のクルーズはいい機会だと思ったからだと言います。前の父親を忘れたかったのでしょうか？いずれにしても、複雑な心境だろうなとぼんやり思いました。これも伏線の１つだったのかも知れません。<br><br><br><br> 駅ではお婆さんとお爺さんが、「ベッカ＆タイラー」と書いた旗を持って待っていまた。このシーンと前述の駅で母親と別れるシーンが第三者の視点で撮られていました。一応対になるシーンではありますが、それ以外の意図は良く分かりませんでした。只、対比としては表現されていたと思います。記憶違いで無ければ。単に構図として見辛かっただけかも知れませんね。<br>ベッカとタイラーは、電車を降りている時に旗を見つけ、まっすぐに彼らに歩いて行きました。<br><br>ここから”The Visit”が始まります。<br><br><br>祖父母は車で、２人を彼らの大きな家へと連れていきます。<br>タイラーはおばあちゃんが提案した「パイナップルのアップサイドダウンケーキ」を使ったフリースタイルのラップを歌います。ベッカは自分のドキュメンタリーや、映画作りへの情熱を２人に対して語りました。劇中には、ベッカが「母の好きな音楽を流して、ここにいない母の存在を強く感じさせる」等の演出のテクニックを語る場面がありますが、この映画には僕が覚えている限り、そういう婉曲的な表現はありませんでした。基本的に、要所を全部見せるように、撮影されていたと思います。ここで、祖父母２人の写真が映されます。しかし、光が反射して顔がよく見え無いように撮影されていました。このシーンが、ベッカが撮影したものかどうか記憶が曖昧なので、もしかすると、第三者の視点の映像だったのかも知れません。<br><br>僕自身はこの時点で大体のストーリーが分かったので、後の展開を想像して只管戦々恐々でした。顔の殆どを手で覆って、いつ怖いシーンが来ても大丈夫なように準備してましたね。(笑)<br><br>その後２人は、元々は母親の部屋だったという２階の部屋で落ち着きます。誰がベッドかソファで眠るか決め、ベッカがベッドで寝ることになります。ベッカはタイラーに、週末にやってくるハッピーエンディングの場面で流すつもりの曲について話し、追加の映像も撮れるよう、タイラーにもカメラを渡します。<br><br>次の場面でタイラーがそのカメラに向かって舌を出しているんですよね。流石。(笑)タイラーは、お爺さんが物置小屋で怪しげに何かしているのを撮影します。タイラーが大声でお爺さんを呼び止めますが、お爺さんはタイラーを無視していきました。<br><br><br><br>ここで、場面が変わり、タイラーが無理やりベッカを誘い、家の下でかくれんぼをすることになりました。２人が床下をはい回っていると、四つん這いになったお婆さんが突然タイラーの後ろに現れます。お婆さんはタイラーを追いかけた後、ベッカも見つけて追いかけまわします。<br> 恰も発狂しているように、「つかまえてやる！」と繰り返し言いながらあちこち動き回るお婆さんからベッカは必死で逃げます。狂っているような人物と閉塞感のある場所でかくれんぼをするなんて怖すぎです。<br><br> やっとのことで、２人は家の床下から逃げ出します。するとお婆さんが笑いながら這い出てきますが、かくれんぼのルールをわかっていて、ただ参加したかっただけという風に言いました。お婆さんは立ち去りますが、その後ろ姿は大騒ぎしたせいで洋服が上にあがり、尻が丸見えでした。流石、あざとい。人によってはこのシーンが一番と言うかも知れません。(笑)<br><br>１人の男性が玄関に来て、祖父母と話がしたいとベッカとタイラーに聞きます。彼らは「祖父母は今不在だ」と答えました。この人物もカメラを向けられると「昔役者を目指していた」と言います。ここで先程の車掌の言動と合わせて違和感を感じた方もいるかも知れません。<br><br> 男性は、「自分は祖父母が週に数日ボランティアをしているメドウシェードという病院の知り合いで、最近病院で起こったある事件について話がしたくて来た」と２人に話しました。しかし、どんな事件なのか話す事なく、男性は立ち去ります。<br><br>タイラーはお爺さんの不振な行動が気になり、物置小屋に何があるのか調べに行くことに決めました。そして角にハエが集っている何かの山を見つけ、それが何なのか近づいてみると、大人の使用済みオムツの山であることが分かり、叫び声を上げてそこから逃げ出します。確か「サラ・マクラクラン」と言っていたような。（後述）家の中で、お婆さんはタイラーに「お爺さんが失禁症であること、世の中にはオムツをしている大人も沢山いること、その事を恥じているから物置小屋にオムツを隠している」と説明しました。<br><br><br>それからお婆さんは、ベッカにクッキーの作り方のコツを教えることに戻ります。前述したように、このお婆さんはお菓子しか作りません。<br><br>その夜、お爺さんが子供たちの部屋に来て、「地下室はカビだらけだから絶対に行かないこと、 自分たちが高齢である為、消灯時間は９時半にする」と言います。予告編であった３つの約束の中で、劇中にはっきりと明示されたのは、この「消灯時間が９時半」というものだけでした。恐らく、残り２つは広告会社が作ったのだろうと思います。<br><br> 子供たちは不満に思いながらも、ここにはネット環境がないのでスマートフォンもコンピューターも使えないし仕方無いと、承諾しました。<br><br><br>タイラーは、ラップの中で女性軽視用語の代わりにポップスターの名前を使うことに決め、もし足の指をぶつけたりした時に汚い言葉を使うよりも、「シャキーラ」と叫んだ方がカッコイイからさと言います。これはこの映画の通して言える事かも知れませんが、タイラーは全編を通じて苛立った時や危険を感じた時に「サラ・マクラクラン」や「ケイティ・ペリー」と叫びます。この作品ではタイラーが率直な笑いを誘う役割なので、この歌手の名前を叫ぶという行動は笑うべきか微妙な場面と相まって絶妙ですね。(笑)<br><br> １０時を過ぎましたが２人はなかなか眠れません。ベッカはこっそり部屋を抜け出して、お婆さんのクッキーを取ってくると言います。<br><br>そしてドアを開けると、お婆さんが一歩歩く度に吐きながら暗闇の中を歩いているのを目撃し、素早くドアを閉めます。シャマラン監督の他の作品にも嘔吐のシーンがあったような…。僕の気のせいですかね。このドアを開けるシーンは、じわじわと描写を積み重ねることで恐怖を高ぶらせていくような演出がしてあり、かなり怖いです。このような演出のシーンは他にもありますが、昂らせておいて結局のところ、何もしないというシーンもあります。次第に違和感と恐怖の度合いが大きくなっていく中で、このような緊張感の緩急の使い方が上手いなと、恐怖に震えながら思いました。(笑)<br><br><br>このようにして、次第にお爺さんとお婆さんの奇行が日に日に多くなっていきます。勿論奇行の内容も。<br><br><br><br>「火曜日」。<br> 翌朝、お婆さんはベッカのコンピューターのカメラの上に間違えて油を塗り汚してしまったことを謝ります。これも伏線の１つです。<br><br>その後子供たちはお爺さんにお婆さんは病気なのか尋ねます。お爺さんは、お婆さんは日没症候群だが、寝言みたいなもので心配することはないと言い、夜に２人は部屋から出ないようにするのが一番良いと話しました。そしてお爺さんはタキシードを着始めながら、お婆さんは体の中に悪いものが溜まっていると信じきっていて、それを出すために吐いているんだと言います。<br><br> しかしすぐに混乱した顔でタキシードを脱ぎ始めます。これも伏線の１つですね。<br><br>お爺さんは子供たちを街へ連れて行きます。街の中の建物にどんな人が住んでいるのか作り話をするゲームをしました。建物に選ばれたのは「警察署」、そして住人に選ばれたのが「ジェリー」という名の警察官でした。後でこのジェリーという人物が出てきます。（後述）<br>あるひとつの高いビルの中にどんな人が住んでいるか話を作ろうとした時、お爺さんがその建物が自分たちがボランティアをしているメドウシェードで、今度家からバッジを持ってきた時に中を見せてあげるよと言いました。<br><br><br>それから公園に遊びに行きますが、突然お爺さんが誰かに尾行されているから帰らないといけないと言い出します。子供たちは通りの向こう側に、３人には全く注意を払っていない様子の携帯電話を使用中の男を見つけます。お爺さんはその男性を殴り始めてしまいます。子供たちはその男性から離れるようお爺さんを説得し、お爺さんは２人に謝りました。<br><br>家に戻り、ベッカは軽い質問からお婆さんにインタビューを始めました。<br>そして１５年前に何があって娘と連絡を絶つようになったのかと聞いた途端、お婆さんが突然凶暴になり、激しく震え始め、もうこれ以上ベッカの映画は手伝わないと叫びます。<br><br> 家の外で、タイラーがベッカにインタビューします。<br><br>「何故髪の毛をとかす時ですら自分の事を鏡で見ないのか、歯を磨くときは下を向くのか」、と。ベッカはそれはきっと父親が何年も前に自分たち家族３人を捨てたせいで、自分は拒絶されたと感じているからだと仄めかします。<br><br><br>これに対して、タイラーは父親を弁護する為、タイラーが８歳の時にあった出来事を話しだします。<br><br>タイラーが少年アメフトチームでプレイしていた時の事です。<br>タイラーのチームは４クォーター目で３点リードしており、そのまま誰もゴールを入れなければ勝てるはずでした。そこに、相手チームの体の大きい子供がタイラーに向かって走って来ましたが、タイラーは相手をブロックする事が出来ず、ただただ固まってしまったのです。<br>周りの皆がタイラーに向かって叫びました。しかしタイラーはいつも怯えた時にそうなるように、固まったまま動くことが出来ません。それでも父親は一度もその事でタイラーの事を非難しませんでした。しかし、タイラーは時折、それが父親が離れていった理由であるのではと自分を責めています。この２人の場面の撮り方は、他の場面以上にシリアスであるため、この作品の一番の肝は、矢張り此処なのですかね。ひいては、「家族の再生」というテーマが一番の主題なのでしょうか。決めつける事はしません。<br><br><br>ベッカが映画を編集しているなか、自分とタイラーと父親が映っている写真のスライドショーの前で、自分自身を撮影している所が映ります。ベッカはカメラに向かって、母親の両親とのストーリーを撮ろうとする間は、これまでの人生の中で自分が認めるに値すると思えない人は誰もビデオに登場させないと話しました。ここで、家族を捨てた父親の存在の大きさを改めて観客に示します。<br><br><br>その日の夜、１０時半過ぎに、タイラーとベッカの部屋の鍵のかかったドアの外から気味の悪い音が聞こえてきます。外で何が起こっているのかを撮影したい為、タイラーがベッカにドアを開けるように言いますが、ベッカはそれを断りました。<br><br>タイラーは、カメラを持っていてくれたら自分がドアを開けるよと言います。そしてドアを開けると、裸のままお婆さんが狂ったようにドアを引っ掻いていました。<br><br><br>「水曜日」<br><br><br>近所に住むステイシーという女性が訪ねて来て、自分がリハビリで病院にいた時にお爺さんとお婆さんがボランティアをしていて、その時のお礼にお菓子を焼いてきたのと子供たちに話します。<br><br>それから暫くして、窓の外からお爺さんとお婆さんが近所に住むステイシーと口論をしているのが見えます。子供たちは何についての話をしているのだろうと不思議そうに眺めていました。<br><br><br><br><br><br><br>この後のストーリーについては話が長くなってしまったので、映画をみた前提で話を進めます。<br><br><br>この作品のどんでん返しは、クライマックスでも、結末でも無い場面に設定されています。クライマックスの前段として、それが観客に対して明きらかになり、同時にベッカとタイラーにとって、本当に恐ろしいのはここからです。果たしてどうなるのかという緊迫のクライマックスを迎えることになります。特に今回は、シャマラン監督の他の作品と比べると、クライマックスらしいクライマックスになっている感じがしました。あくまで、個人的な意見ですが。<br>タイラーは、試合の大事な局面で棒立ちになってしまい、父親を失望させたと思っています。ベッカは、鏡に映る自分を見ることが出来ません。これらの心の傷は、２人にとって直視出来ないものであり、父親との離別がその原因です。トラウマと言えるそれらが、クライマックスで彼らを追い詰めていきます。しかし、シャマラン監督の他の作品同様、この極限の状態を越えることで、それを振り払います。そして、最終的に「家族の再生」という物語に帰結します。<br><br>シャマラン監督の作品のストーリー自体は、どんでん返しという点に於いて確かに物足りないことが多いと思います。また、途中でストーリーが分かってしまう人も少なくないかも知れません。しかし、他のテーマと隣在しつつ行う家族の愛情についての丁寧な描写は、もう少し評価されても良いのではないか、と。どちらかと言うと、大まかなストーリーの骨組みは他の作品のオマージュのような気がします。完全に他のどの作品にも依存していない作品は殆ど無いのかも知れませんが、それを差し引いても、矢張りメタフィクションなのかも知れません。<br><br><br>母が心に負っている傷のために、ベッカは”万能薬”として、祖母から「許す」という言葉を引き出そうとします。それは結局叶いませんでしたが…。興奮するお婆さんを宥め、例え話にすることで、お婆さんは「許す」というのですが、何に対して「許す」と言ったのでしょうか？彼女がどう思って「許す」と言ったのかは未だに分かりません。認知症や障害についても、監督は何か言及したかったのだろうかとぼんやり思いました。矢張り観客に明示させない事によって、そのようなことを想起させたかったのかも知れませんね。<br><br><br>後述と言っていた箇所について少し書こうと思います。お婆さんが壁を引っ掻いていた場面ですが、精神病院の部屋から出ようとしていた行動が再発していたのかも知れませんね。また、お婆さんがお菓子ばかり作っていたの精神病院に入っていたからだと思います。作り方は簡単ですし。パソコンのカメラ部分を汚したのは、母親に自分達の姿を見られないようにする為でしょう。祖父母の家を訪ねたステイシーは木に吊るされて殺されていました。どうやって木に吊るしたのかが未だに謎です。(笑)終盤で、母親が警察に電話したとき、「ジェリーは電話に出られません」という留守番電話のメッセージが流れます。ベッカとタイラーのゲームをしていたお爺さんが、本当に存在していたジェリーを殺してしまったということなのですかね？個人的にはここが一番怖かったです。まさか、警察官も殺されているのかと思ってしまって。(笑)お婆さんが「暗闇さん」に向かって笑うのは、ベッカとタイラーの祖父母達を殺してしまった事実を隠そうとする為の防衛行動だったのかも知れません。解釈は色々あると思いますが。<br><br><br><br>因みに、ここまで「祖父母」と「お爺さん」・「お婆さん」という言葉を使い分けながら、文章を書いていきましたが、気付きましたか？これも伏線の１つですね。(笑)<br><br><br>もう１つ付け加えるなら、この作品に出てくる主要人物は皆、何処かしらおかしいところがあります。（所謂モブ以外の人物の事です。）「人は何処かしらおかしいところがあるよね」という監督のメタファーなのかも知れません。個人的な意見です、悪しからず。<br><br><br><br><br>最後に「The Visit」という題名について。<br><br><br>ベッカとタイラーの祖父母の家を訪れたのは、ベッカとタイラー以外にもう一組いたのですね。秀逸なタイトルだと思います。お婆さんとお爺さんにとっての訪問者は、ベッカとタイラー、暗闇さんと黄色い目をした白い人影の二組でしょうか。最終的には、ベッカとタイラーには、父親を許す事により、自らのトラウマを克服するというハッピーエンドが訪れた訳です。<br><br><br><br>もう年末ですが、これを読んでいる人にも良い年が訪れると良いなと思いつつ。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>”All the world's a stage,and all the men and women merely players.”<br><br><br><br><br>それでは、またの機会に。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/films9/entry-12105760269.html</link>
<pubDate>Sun, 13 Dec 2015 14:11:19 +0900</pubDate>
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<title>次回</title>
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<![CDATA[ <p>「ホーリー・モーターズ」の加筆が終わりました。改めて楽しんで頂けると嬉しいです。</p><br><br><br><br><p>次回は、今のところ特に見る予定の映画が無いので、「ポーラｘ」について書く予定です。感想を書いてほしい映画などがありましたら、言ってもらって構いません。</p><br><br><br><br><br><br><p>それでは、また。</p>
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<pubDate>Sat, 24 Oct 2015 01:00:06 +0900</pubDate>
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<title>ホウ・シャオシェン「黒衣の刺客」</title>
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<![CDATA[ <p>予告通り、第二回目は「黒衣の刺客」です。「ホーリー・モーターズ」の加筆はこれを書き上げた後に行う予定です。</p><br><p><br>今回はまだ上映中の地域もあると思うので、簡単なあらすじと見所なんかを書きたいと思います。どうしても批評（感想）とネタバレは分離出来ないと思いますので。この映画はDVDよりも映画館で見る方が望ましいと思います。見ていない方は是非映画館で。</p><br><p><br>ですが、ある程度はネタバレすることになります。そこは前もって断っておきます。</p><br><br><p><br>・あらすじ</p><br><p>中国、唐の時代の話。今から13年前に女道士に預けられた隠娘は両親のもとに帰ってきたが、美しく成長した彼女は暗殺者として育て上げられていた。女刺客となった隠娘の標的はかつての許嫁であった田季安。どうしても止めを刺せない隠娘は、暗殺者として自分の中に残る情愛に戸惑うのであった…</p><br><br><p>このような物語です。第一回目に引き続き著作権が怖かったので、自分でまとめてみました。</p><br><br><p>・「黒衣の刺客」本編について</p><br><p><br>この映画はモノクロ―ムでの二頭のロバのシーンから始まります。この映画はモノクロームとカラーの切り替えや画面の大きさの変更などを行っており、絵画のような映像に仕上げられています。また、隠娘が殺人を行う場面は、カメラが上を向くと木々が揺れ葉がぶつかり音を立て、その前で人物たちが佇み、夜を照らすロウソクの火がゆらめくだけで台詞すらありません。全編を通してこのように、ひたすら静かに、ゆっくりと、物語は進んでいきます。</p><br><p>ここで少し話がずれますが、この監督は台湾出身です。</p><p>興味のない方もいるとは思いますが、やはり台湾映画と香港映画は切り離せないものですので（個人的な意見です。悪しからず）、少し書きます。（興味のない方はとばしてもらって構いません。）正直自分も現実のことを分類するのは余り好きではありません。「捉え方」の１つですしね。</p><br><p>台湾では日本統治時代の1900年から映画製作がはじまっていたそうです。しかし、1937年の日中戦争によって、1945年までは実質的には製作されていません。その後、中国大陸の映画製作者が台湾へと渡ってきたことで、1949年以降台湾映画は再び発展し始めましたが、政府の規制によって台湾語などによる映画は徐々に減少していったらしいです。</p><br><p>1980年代になって映画鑑賞が一般的になりましたが、娯楽の要素が強い香港映画などの流入によって台湾映画は淘汰されていきました。（最近の香港映画で有名なものは「少林サッカー」ですかね。この映画は割と好きかもしれません。(笑)）それに対抗して台湾映画の運動が起こるわけですが。この時期の台湾映画は台湾で暮らす人々を写実的に映すことで「共感」を軸とした作りになっているような気がします（あくまで個人的な感想です）。虚構性の追及というより、寧ろリアリズムの追求と言えるでしょう。これによって国際映画祭で受賞するような作品が出てくることになります。矢張り「リアリズム」や「虚構性」というテーマは普遍的なものなのかもしれません。そういうテーマを映像として表現している映画というのが、ずっと見られていくことになるのでしょうか。</p><br><p>矢張り面白い作品を作る人というのは、現実で色々な経験をしているような気がします。面白い作品を見たり、読んだり、批評したりするだけでは不十分かもしれませんね。話がまた脱線していました。</p><br><br><br><p>今回の「黒衣の刺客」も娯楽の要素が強い香港映画とは対極にあるような作品だと感じました。この映画のテーマにも「リアリズムの追及」があると思います。こういう作品こそ娯楽だという人もいるでしょうが。台詞が少なく、ストーリーもかなりゆっくりと進みます。そして、ストーリー自体について言及する所は、個人的には無いかなと思います。主人公である隠娘の葛藤や人間性を取り戻す所がストーリーの見所かもしれません。只、カメラワークや舞台といったものが兎に角美しく、圧倒されます。（そういうシーンを１つ１つ取り上げることはしません。）特に「赤」という色が注目されるように作られている印象を受けました。また、「女性」を中心に作られてもいます。（恐らく）暗殺の師匠と主人公は女性ですし、「赤」という色や森のシーンもそれを想起させる意味でも扱ったのかもしれません。「女性」は複雑な感情を表現するという点において、芝居には欠かせない要素とも言えるでしょう。「女性」と孤独の象徴とも言える「刺客」の組み合わせも、官能的な美やエロスを感じさせるためなのかも知れませんね。（あくまで個人的な意見であり、差別を助長するつもりはありません。）そのような演出によって、CGやSFXといった過剰とも取れる演出を行う映画がある中で、寡黙による緊張感こそが最も過剰な演出だと示しているのかもしれません。個人的にも後者の演出の方が好きですね。また、前者のような演出が多い作品は「観客の慣れ」によって頭打ちになりそうな感じが否めません。そういう意味でもこの作品は極めて純度の高い作品だと思います。只、一か所少し残念なアクションだなと感じたシーンがありました。多分僕の気のせいなので、触れないことにします。(笑)</p><br><p>黒澤明監督のオマージュと取れるシーンも散見しました。監督自身も黒澤監督について言及していたので、意識して行っているのでしょう。黒澤作品が好きな方は是非劇場で。(笑)</p><br><br><p>これで一応終わりですが、自分はホラー映画がとても苦手です。紹介されても絶対に見ません。冗談抜きでトイレに行けなくなるので止めてください。</p><br><br><br><p>"All the world's a stage.And all the men and women merely players."</p><br><br><p>では、またの機会に。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/films9/entry-12085701299.html</link>
<pubDate>Sun, 18 Oct 2015 22:21:59 +0900</pubDate>
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<title>次回の予告</title>
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<![CDATA[ <p>次は「黒衣の刺客」（か「ポーラｘ」）を書く予定です。土日の用事がどこまで食い込むかが問題ですね…。しかし、個人的には武侠ものというのは余り好きなテーマではありません。とは言っても矢張り楽しみですね。(笑)</p><br><br><p>先日書いた「ホーリー・モーターズ」は少し加筆します。後半は書きたいことを結構削っていたので。</p><br><br><p>それでは、また。</p>
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<link>https://ameblo.jp/films9/entry-12082304739.html</link>
<pubDate>Fri, 09 Oct 2015 16:01:10 +0900</pubDate>
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<title>レオス・カラックス「ホーリー・モーターズ」</title>
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<![CDATA[ <p>このブログは自分の好きな映画についての感想や批評を書いたものです。</p><br><br><p>記念すべき第一回目はleos caraxの「holy motors」。</p><br><br><p>自分にとってはleos carax作品の中でもこの映画は特別な作品です。何しろこの映画でleos caraxという映画監督を知ったのですから。初めてブログを書く上であれこれ悩んだ結果、個人的に思い入れ深いこの作品について書くことにしました。</p><br><br><p>個人的に言うとこの映画は「人生は舞台」（「役者のメタファー」とも言える）、「映画の変遷及び映画の在り方」、「監督自身（の映画）に対する問い（アイロニー）」という３つの大きなテーマに基づいているように感じました。分けて書きましたが、２つ目と３つ目に書いたテーマはほぼ同じと捉えてもよいと思います。簡単に言うと、”映画”に対する批評を行いながら他のテーマも扱っている、ということです。ここで予め断っておくと、個人的な解釈なので他の捉え方もあると思います。</p><br><br><br><br><br><p>・「holy motors」の大まかなあらすじ</p><br><br><p>夜明けから深夜までの一日を巡る主人公oscarの物語。彼は一日の間に様々な人物としてパリの街を往く。あるときは銀行員、またあるときは乞食の老婆、はたまた怪人（merde）から殺人者まで・・・。彼の目的は一体何なのだろうか？</p><br><br><p><br><br></p><br><p>このような物語です。著作権が怖かったので、自分でまとめてみました。先が気になる方は是非映像でみて下さい。ここから先はネタバレなので、まだ観ていない方は読まない方が良いかと。</p><br><br><p>※ここからは映画を観た前提で話を進めます。また、同監督の他の作品にも触れて話をしているので、分かりにくい部分もあるかも知れません。</p><br><br><br><br><br><p>・「holy motors」本編について</p><br><br><p>まず冒頭の白黒映画のシーン。これは恐らく映画黎明期に撮影されたものだと思います。というのも映画黎明期（映写黎明期ともいえるかも）の映像にはある特徴があり、それは「動作の繰り返し」・「無音声」です。勿論カメラは動きません。これによって馬の走り方なんかが解明されたのは有名ではないでしょうか。今でもこういう映像は作れますが、恐らくleos caraxはそういうことはしないだろうという個人的な思い込みからかもしれません。悪しからず。</p><br><p>さて、この黎明期の映像は冒頭にも登場しますが、作中では何度かこのような映像が流れます。ここから、２つの意図が考えられます。</p><br><p>①映画の歴史を示す。</p><p>②映画黎明期の映画と現在の映画の比較。</p><br><p>２つと書きましたが、これらは独立したものではないことが容易に分かると思います。特にcarax作品を見ている人なら直ぐに気づくでしょう。映画の中で映画というものについて考えているのではないか、と。（後述）</p><br><br><br><p>次に映画館のシーン。とある映画館で顔がない観客達（厳密に言うと顔が見えない）が映画をみている。よく見ると、赤ん坊が通路を歩いています。どういう意図かは良く分かりませんが、監督自身のメタファーというのが一般的でしょう。そこにleos carax（監督本人）が観客達を見回し、映画を見る。（観客の顔がなかったのは、監督にとって観客というものが不特定多数の人間達というのを端的に表しているのかもしれません。）その映画の主人公というのが先程も述べたオスカー（ドニ・ラヴァン）。ここからメインストーリーに入っていきます。（まあ、全部メインですが。）ガラス越しの少女のシーンは印象に残った方も多いのではないでしょうか。監督の娘さんだそうです。</p><br><br><br><p>ここから、オスカーの物語が始まります。冒頭でも述べたようにオスカーは様々な人物を演じていきますが、これが彼の仕事です。劇中では"アポ"と呼んでいました。劇中で今日は９つのアポがあるとオスカーの側近のセリーヌ（エディット・スコブ）が言っていました。（後述）</p><br><br><br><p>最初のアポは富豪の銀行員。車の中でオスカーが弁当を食べる場面があります。これ。和食なんですよね、恐らく。しかも箸を使って食べています。(笑)後の「アポ」のmerdeに繋がるなあと思った方もいるでしょう。merdeはオムニバス映画「tokyo」に登場した人物です。また、似たようなテーマを扱った邦画（アニメーション）があります。今敏監督の「千年女優」です。そうなってくると…何かしら思うものはあると思います。</p><br><p>・・・考えすぎですね。(笑)</p><br><br><p>冗談はさておき、この作品はオマージュだと思う場面が多いです。自分が多いと感じるので、人によってはもっと多く感じると思います。従ってオマージュが分かる人と分からない人との評価は大きな差があるのではないでしょうか。また、この映画のテーマの１つである「人生は舞台」というものを扱った作品は他にもあります。先程挙げた「千年女優」がその１つですね。ですから、下敷にあるのではないか、という作品は多いと思います。（そういう作品は自分よりも詳しい人が挙げていると思うので特には触れません。）</p><br><br><p>２つ目のアポは「乞食の老婆」。１つ目のアポの「富豪の銀行員（老爺）」と対になるようにしているのでしょうか？敢えて決めつけることはしません。演じるアポの幅を示したかったのかも。</p><br><br><p>３つ目のアポが「モーションキャプチャーでのアポ」。leos caraxには珍しくCGやSFXを取り入れています。後に出てくる「行為の美しさ」というのを（観客に対して）端的に表現しているシーンですね。また、ドニ・ラヴァンの演技も凄い。女性と交わるシーンはモーションキャプチャーでのセックスを表現しています。非常に綺麗でした。劇場で見たときは思わず唾を飲み込んだのをよく覚えています。</p><p>また、この後のリムジンの中で「今週は森のアポはないのか？」と聞いていることから、オスカーが疲れており、癒しを求めているように感じられます。これは後の会話に繋がるものなので、少し頭の片隅に置いていて下さい。</p><br><br><p>４つ目のアポは「merde」。ここも３つ目との対比と見られるかもしれません。同監督作品の「Tokyo」でのあの怪人です。登場はやはりマンホールの中から。「ヴォ―ヒーヴィー！」という叫び声が聞けて嬉しかった人もいるはず。墓場の場面でよく見ると、墓に刻んであるのが人の名前ではなく、サイトのURLなんですよね。(笑)これは監督の皮肉を込めたユーモアなのかも知れません。</p><br><p>女性のモデル（エヴァ・メンデス）がイスラム風の格好をするシーンは絵画のような美しさがありました。ミケランジェロのピエタのような構図の場面もありましたし。また、このモデルは最後の子守唄以外セリフがありません。無言でいることにより、緊張感が出ていて良かったですね。これは全編通して言えることではありますが。矢張りセリフが多いと緊張感が無くなり、間延びしてしまいます。</p><br><br><br><p>５つ目のアポは「娘がいる父親」。（人によってはアポでは無いと解釈するかも。）実際にこのようなやり取りが監督と娘の間にあったのでしょうか。車内の中での「（お前の罰は）お前がお前として生きていくことだ」というセリフは、アポをひたすら演じていくオスカーにとってはアイロニーのように感じました。”父親”という「役」へのアイロニーもあるでしょう。この後のオスカーの苛立ちはそういった部分もあったかもしれません。（もしかしたら、苛立ちまでアポかも知れない）この映画はアポとアポではない部分との境界がはっきりとしません。だからこその振れ幅があるとは思いますが。</p><br><br><p>次は「インターミッション」。インターミッションとは映画館での休憩時間です。また、インターミッションという題名の映画もあります。</p><br><p>恐らく多くの人がこの映画を通して最も印象に残った場面ではないでしょうか。必見。</p><br><br><p>６つ目のアポは「殺人者」。このアポの冒頭でアレックスと呼ばれているので、オスカーの名前はアレックスかも知れない。因みに監督の本名はAlexandre Oscar Dupontです。アレックス・オスカーなんですよね。また、同監督の代表的な映画の主人公もアレックスという名前です。</p><br><p>（付け加えるとalex oscar→leos caraxアナグラムになっています）</p><br><p>このアポは大事な場面の１つですね。何故ならこの場面によって、オスカーにとってアポというものが単なる酔狂では無いと示すことになるからです。文字通り命を懸けてアポを行っている、と。しかし、首をナイフで刺された後、車に戻ると致命傷のはずなのに平然としています。あくまでこれもアポ（フィクション）に過ぎないということを暗示しているのかも。</p><br><p>その後、リムジンの中でオスカーの仕事の関係者らしい男と言葉を交わします。</p><br><p>「君にとっての原動力は何だ？」</p><p>「行為の美しさだ」</p><p>「美しさ、それは見るものの瞳の中にあるという」</p><p>「見る者がいなければ？」</p><br><p>「カメラは昔は人間より重かった、それが小さくなり、今では見えない」</p><br><p>見る者がいないとき、「作品」は「作品」足るのでしょうか？これはほとんどの”もの”に内在する問いでもあります。誰も見る者がいない美は美では無いなら、行為の美しさの為に演技を続けるオスカーの行為は何なのだろうか？ここからのオスカーのアポはひたすらアイロニーが付き纏います。</p><p>しかし、将来に向かった何らかの目標のためではなく、行為というものそのものの美しさこそが、生きること（演じること）の原動力であるとするというのは、目的の為に行為を行う私達からすると、滑稽さを通り越した美があります。</p><br><p>ですが、自分は何者なのか、という問いに対しては答えが出ません。「見られること」―他者の存在―によって自分が存在付けられるのであれば、他者を取り除いたとき果たして自分は何者なのだろうか、と。</p><br><br><p>また、これは映画という芸術に対する嘆きという解釈も出来るでしょう。観客がいない映画というのは、最早映画として成立しないのだろうか、と。これは冒頭の場面の顔のない観客と繋がりますね。</p><br><p>少し話がずれますが、この「holy motors」は「映画（というフィクション）」の中に「アポ」と呼ばれる映画内での演技を用い、更に「フィクション」を作り出しています。つまり、私達観客が見ているのは「虚構」と「虚構の虚構」という２層構造を同時に見ている訳です。当たり前のことではありますが、フィクションはフィクションであることから抜け出せません。所謂「ノンフィクション作品」というものも、演出や虚構によってフィクション足りえます。この作品はフィクションの虚構性を逆に強調することによって、ある種のリアリズムを追及していると言えるでしょう。ペルソナでは人の本性は分からないとされるが、逆にペルソナ（の集合体）がその人足りえるのではないか？といった感じですね。（因みに個人的には後者の意見です。端的に言ってしまうと、外界への反応を集積、再構築されていくものが心というものではないかな、と。話が脱線してしまいました。）　</p><br><p>また、一日の中で様々な舞台を描くというのは、フィクションであることを観客に意識付けると共に、（映画の中での）一人称・三人称、（映画を見ている）自分という三つの立場を意識させるものでもあります。同じような構成の小説の１つにジョイスの「ユリシーズ」が挙げられると思います。普段はこういう線引きをしないまま生活していますが、線引きがなされたものを疑似体験として捉えることで、対比を観客に意識させるためなのかも知れません。</p><br><p>「カメラは昔は人間より重かった、それが小さくなり、今では見えない」というのは、カメラというもの、ひいては映像というものに対するレクイエムでしょうか。現在はSNSを共有することで、絶えず誰かに見られていると言えます。街頭の監視カメラへの不安というものは以前よりも薄れているでしょう。自らを、また、自らの何らかの人格の”カタチ”を晒すことへの抵抗とも言えますが。</p><p>また、自らをカメラに撮り第三者に自分をさらすという者もいます。見られることよりも、見ることの方が寧ろ優先されていると言えるでしょう。見られるということが特別なことではなくなったということです。そして、恐らく意図して撮られた「holy motors」の映像よりも、意図せずに撮られた無数の映像の方が虚構性が少ない分現実に即しています。「人生は舞台」とするならば、全ての動物、植物、空間を映し、繋いで作られる映像群も映画と呼べるでしょう。これは映画を作る者からすると、意識せざるを得ない皮肉でしょう。以前は撮られるという行為はシャッター音やカメラそのものの存在によって”示されて”いました。しかし、現在は”示す”必要がありません。スマートフォンのボタンを押すだけで半永久的で編集可能な映像が手に入ります。文字通り人よりも大きかったカメラは次第に小さくなり、今ではスマートフォンなどの小型の機械に収まる小さなものになってしまいました。カメラそのものの存在が見えず、意思も”示されない”ことで、「撮られる」覚悟は忘れ去られている。このセリフはそんなノスタルジーを示しています。最後の車が話すシーンに繋がるものでもありますね。</p><br><p>しかし、逆に、「設置の監視カメラやそれに類する人々の目によって、常に第三者から監視されており、その他でも役割の演技を強要され、その演技をお互いに監視で鑑賞されながら、疲弊のなか人々が生きているのではないか」という解釈も出来ます。所謂パノプティコン―監視される管理社会―のメタファーですね。アポ（演技）に疲れているというオスカーの描写がそれを物語っているとも言えるでしょう。</p><br><p>７つ目のアポは「銀行員殺し」。これはアポかどうか良く分かりませんでした。しかし、オスカーが１１の役になるとするならば、アポとしないと数が合わないんですよね。更にアポとも取れるシーンもあります。只、鉄砲で蜂の巣にされてもオスカーが生きていることによって、これがフィクションであるということを観客に対して強く印象付けることになります。「股関を狙え！」は痛快です。(笑)</p><br><p>８つ目のアポは「今わの際の老人」。息を引き取ろうとしている老人とそれを看取る姪。これも６つ目のアポと対になっていると言えるのかもしれません。彼女の相手が自分の財産を目当てで彼女と結婚したことで、不幸にしたことを詫びる感動的な場面があった直後に、これも「アポ」に過ぎないということを突き付けられます。そして、姪も「アポ」を演じているに過ぎないと示されることで、この世界全体がフィクションであるということを更に強く印象付けることになりました。</p><br><br><p>そして、「昔の恋人との再会」。ここも非常に重要な場面です。「あと20分でわたしのパートナーが到着する。20分でわたしたちの20年分を埋めましょう」とかつての恋人（カイリー・ミノーグ）が言い、取り壊されているサマリテーヌというデパートに入っていく。これは「ポンヌフの恋人」で登場した建物であり、実在します。実際に取り壊される建物の中で撮影したんですね。彼女とオスカーは無言のまま階段を登っていき、彼女が「Who were we?」を歌いだします。これはこの映画の大きなテーマの１つでもあります。「行為の美しさ」で演技を続けるオスカーですが、自分自身であることに疲れているように描写されています。その中で改めて「自分は一体何者なのか？」という問いが出てきます。その問いの中で、改めて”自分”を生き直すことを考えるのでしょう。</p><br><br><br><p>ところが、この「Who were we ? 」を歌った女性は､　オスカーが建物の下に降りていくと、飛び降り自殺しており、頭から血を流しているのです。その傍らには同じく彼女のパートナーも死んでいます。映画の中のことだが演技であった筈のことが突然映画内の現実となってしまいます。この世界全てがアポ（虚構）ではないのか？という問いがまた出てくることになります。</p><br><br><p>９つ目のアポは「あなたの家」。チンパンジーの妻と子供が出てきます。「マックス、モン・アムール」のオマージュだと思います。最早映画に人間は必要ではないというメッセージでしょうか。また、他の動物も演技をしていると言えるのではないか？という問いであるようにも感じました。決めることはしません。</p><br><br><p>最後にリムジンの運転手セリーヌが車庫であるホーリーモーターズに車を停めます。そして仮面を付けて去っていきます。これは「顔のない眼」のオマージュかも。かなりグロテスクなシーンがある映画です。今でも自分はこの映画が見れませんね。(笑)</p><p>仕事が終わったのに素顔を隠すところから、ペルソナの具現化とも言えるでしょう。仕事が終わった後は本来の自分を隠し、別の顔になる。彼女もまた演じている一人なのだということを印象付けます。</p><br><p>そして車庫に集まったリムジンたちが話し出します。</p><br><p>「人間は見える機械を必要としない」</p><p>「もはや行為も望まない」</p><br><p>「アーメン」</p><br><p>”モーションこそエモーショナル”と示しているが、最早行為が必要とされていない。他の映画に対する皮肉とも取れますね。「行為の美しさ」を原動力とするオスカーの姿と重なります。</p><br><p>この会話でこの物語は終わりです。最後に2011年に亡くなったレオス・カラックスの妻、カテリーナ・ゴルベワの写真と「カーチャ（ゴルベワ）。君に捧ぐ」というメッセージが出てきます。これを見た時、この作品が生と死を繰り返し見せるのは、今まで作り出してきた映画を全て使うことで、最愛の人への想いを表現したかったのかも知れないと思いました。</p><br><br><br><br><br><br><br><p>最後に、この「ホーリー・モーターズ」という題名について。</p><br><p>motorとは「何かに動きをあたえたり、自ら動いたりするもの」という意味です。（間違えていたら御免なさい。）語源はラテン語の「moto」（→set in motion）です。</p><br><p>「holy motors」―神聖な”動力”―映画の冒頭、少年が物を地面に叩き付けて壊すという動作の繰り返しの映像から、この映画は始まりました。</p><br><p>”運動”こそが映画を動かす動力（motor）なのだ、と。</p><br><p>ここまで長々と物語について書いてきましたが、ストーリーを言葉で表現することは恐らく監督自身は望んでいないでしょう。この作品が”motor”―肉体の動き、映画のモーターとしてのカメラ、への映画である以上。これまで映画というものの根本であった様々な”motor”に対するレクイエムであり、映画の再定義でもあるという気がしてなりません。映画という芸術が、ストーリー性に注目される中での、細やかかつ皮肉を込めたメッセージなのかも知れませんね。</p><p><br><br></p><br><br><br><p>”mortalとしてのmotorを”―なんてね。(笑)<br><br><br><br><br><br><br></p><br><p>"All the world's a stage.And all the men and women merely players."</p><br><br><p>では、またの機会に。</p><br><br><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Mon, 05 Oct 2015 07:33:11 +0900</pubDate>
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