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<title>沙々木史也の研究室</title>
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<description>SNSの普及で、学校はどうなるのか。先生を経験した立場から、個人の解釈を書いてゆく。研究内容は「自由」について。</description>
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<title>学校不要論</title>
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<![CDATA[ <p>　最近はSNS上での炎上がよく見られるようになりました。発信者の意図とは裏腹に騒ぎ立てる人たちの存在が可視化されました。中には、炎上するべくして炎上している話題もありますが、そうでない場合の方がよく目につきます。</p><div>　例えば、堀江貴文氏の「文字や行間が読めない人がほとんどだということがわかりました」といった発言も各所で小さな炎上を起こしているようですが、書籍や動画などを見る限り、悪意を感じることはありません。この真意は「多様性を認めよう、多様性を認められる社会を実現しよう」という内容のように感じます。</div><div>　「文字の読解が苦手であれば、無理をする必要がない」「苦手なことを頑張るよりも、他の分野の得意が隠れているからそれを探したほうがいい」</div><div>　という前提があるようです。これは何も文字だけでなく、計算が苦手だとか、外国語が苦手といったものも同様です。</div><div><br></div><div>　つまり、個人が得意なことを生かせる社会を理想としているだけで、現在行われている授業や学校自体の活動を否定しているわけではないということです。</div><div>　ただし、そういった理想を「実現できないのなら」既存の学校は不要なのではないか、と言っているに過ぎないのです。</div><div>　だから仮に、学校の勉強を頑張って大学に入りたいと思うのであれば、日本の制度上は教科の勉強が必要になりますし、ある程度の苦手も努力する必要が出てきます。</div><div>　勉強に限らず、得意なスポーツを生かして進学したり、就職して実業団で活躍したり、あるいはプロを目指したりすることも全く問題ありません。</div><div>　もし、得意でないにしても、好きなのであれば問題ない。苦手だと思っていても、周囲から応援や支援を受けて、やってみたら案外好きになれた、得意になれたという経験もあると思います。</div><div>　しかし、ここで気を付けなければならないのは、「いくらやっても好きになれない、できない人」の存在です。実際に学校で教えているとそういった生徒は一定数、存在します。</div><div>　また、数年間の学校生活が、「苦手の克服」だけで終わってしまう生徒も多数存在しています。これについても全てを悪だとは感じません。</div><div><br></div><div>　そういった人たちは無理をする必要がない。ただ、それだけです。しかし、現在の学校を基盤とした社会のシステム上、今のところ、無理をするしかありません。</div><div><br></div><div>　そこで、ICTです。閉鎖的なつながりを仮想空間で実現するツールによって、この問題を解決する可能性が高いと考えています。</div><div>　苦手なことに無理をする必要はない。させる必要もない。その代わりに、好きなことや得意なことを発信させる。発信によって評価される。</div><div>　学校における評価が、授業やそれに伴う取り組みとペーパーテストによる一本建てである現状を、閉鎖的なSNSを使って「人格評価の可視化」を行う。要するに、評価に二面性を持たせるということです。　</div><div>　個性を生かせる基礎をつくり、学校で練習したうえで、社会に出ていく。</div><div>　こういったことが実現可能になったのは、スマホの登場によって、低コストに学び直しができるようになったおかげだと思います。</div><div><br></div>
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<pubDate>Wed, 27 Apr 2022 06:24:20 +0900</pubDate>
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<title>属性化とAIの時代</title>
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<![CDATA[ <p dir="ltr" style="line-height:1.38;margin-top:0.0pt;margin-bottom:0.0pt;" id="docs-internal-guid-1e4299ae-7fff-b066-08e2-cf2fe0c2fe6a"><span style="font-size: 11pt; font-family: Meiryo; color: rgb(0, 0, 0); background-color: transparent; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; vertical-align: baseline; white-space: pre-wrap;">　これまで、学校の先生になるためには、大学に進学し、教員免許を取得して、採用試験に受かるというのが主流でした。しかし、今では動画配信者（ユーチューバーなど）が教養系の知識やビジネスに関する知識などを配信し、まるで「先生」のように振る舞っています。先生方の中でも「授業なんかいらない！youtubeで検索して説明動画を探せばいくらでもあるだろう！」というような発言をする方も増えました。それは同時に、危機感を抱いていることを暗に示しているようです。</span></p><br><p dir="ltr" style="line-height:1.38;margin-top:0.0pt;margin-bottom:0.0pt;"><span style="font-size: 11pt; font-family: Meiryo; color: rgb(0, 0, 0); background-color: transparent; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; vertical-align: baseline; white-space: pre-wrap;">　過去のプロセスを経なくても実現できるようになることをここでは属性化と呼びたいと思います。大学に行かずとも、学校の先生のような振る舞いができるようになったことは非常に大きな変化です。</span></p><p dir="ltr" style="line-height:1.38;margin-top:0.0pt;margin-bottom:0.0pt;"><span style="font-size: 11pt; font-family: Meiryo; color: rgb(0, 0, 0); background-color: transparent; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; vertical-align: baseline; white-space: pre-wrap;">　そして、これは学校の先生に限ったことではありません。例えば、歌手であっても、スポーツ選手やコーチであっても、作家や政治家であっても、小規模であれば誰でも活動することができ、プロ以上の働きができる可能性も高まりました。</span></p><p dir="ltr" style="line-height:1.38;margin-top:0.0pt;margin-bottom:0.0pt;"><span style="font-size: 11pt; font-family: Meiryo; color: rgb(0, 0, 0); background-color: transparent; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; vertical-align: baseline; white-space: pre-wrap;">　スマートフォンの普及によって、あらゆることのコストが下がり、ほとんどが無料、そして自由になりました。技術が進展してきたことによって、単純労働がロボットに代替された過去の出来事と重なる部分があります。</span></p><br><p dir="ltr" style="line-height:1.38;margin-top:0.0pt;margin-bottom:0.0pt;"><span style="font-size: 11pt; font-family: Meiryo; color: rgb(0, 0, 0); background-color: transparent; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; vertical-align: baseline; white-space: pre-wrap;">　となると、当然学校で教える内容も、教え方も変化するのが妥当です。しかし、現在、学校に居ながらにしてその変化を感じることはほとんどありません。たしかに、タブレットを生徒に貸出したり、ソフトウェアや各種サービスを利用して授業をしてはいますが、これだけでは本質的なＤＸ（デジタルトランスフォーメーション）、デジタル化ではないと思います。</span></p><br><p dir="ltr" style="line-height:1.38;margin-top:0.0pt;margin-bottom:0.0pt;"><span style="font-size: 11pt; font-family: Meiryo; color: rgb(0, 0, 0); background-color: transparent; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; vertical-align: baseline; white-space: pre-wrap;">　職業の属性化を止めることや抗うことでは到底できません。ましてや仕事を失うことに怯え、子どもたちを脅してもなんの意味もありません。また、AIに単純作業という不利な分野での勝利を目指すことは、不幸な人々を増やすことにもなりえます。</span></p><p dir="ltr" style="line-height:1.38;margin-top:0.0pt;margin-bottom:0.0pt;"><span style="font-size: 11pt; font-family: Meiryo; color: rgb(0, 0, 0); background-color: transparent; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; vertical-align: baseline; white-space: pre-wrap;">　属性化は受け入れるしかありません。受け入れたうえで、どのように楽しむか、どう楽しませるか。どうやったら大切な自分の気持ちに嘘をつくことなく生活していけるのか、生活させられるのかをしっかりと考えるべきです。</span></p><p dir="ltr" style="line-height:1.38;margin-top:0.0pt;margin-bottom:0.0pt;"><span style="font-size: 11pt; font-family: Meiryo; color: rgb(0, 0, 0); background-color: transparent; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; vertical-align: baseline; white-space: pre-wrap;">　これからの学校の役割は、属性化を活用して楽しめる人材を育成する仕掛けや仕組みを考えることに変化してくることが予想されます。</span></p><br><p dir="ltr" style="line-height:1.38;margin-top:0.0pt;margin-bottom:0.0pt;"><span style="font-size: 11pt; font-family: Meiryo; color: rgb(0, 0, 0); background-color: transparent; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; vertical-align: baseline; white-space: pre-wrap;">　新井紀子著「ＡＩ　ＶＳ　教科書の読めない子どもたち」は鮮烈な印象を人々に与えましたが、ＡＩが東大に入学できなかったとしても、ＡＩよりも点数が取れない人の方が多いことを証明しました。同じ土俵に立つことほど愚かなことはありません。</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/fomel2/entry-12738695369.html</link>
<pubDate>Thu, 21 Apr 2022 21:19:18 +0900</pubDate>
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<title>通信制という選択</title>
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<![CDATA[ 　不登校傾向にある生徒や、人間関係に悩むほとんどの生徒にとって、通信制学校は非常に魅力を感じる場所になりつつあります。<div>　現に、生徒の家庭環境を聞くと兄弟姉妹に通信制学校やそれに類する教育機関（インターネット高校と呼ばれるもの）に所属している生徒が全体の５％ほど存在しています。</div><div>　体や心が落ち込んでいるときに真っ先に選択肢に入ってくる通信制の学校に、どういった魅力を感じているのでしょう。全日制の学校に魅力を感じなくなって、相対的に通信制が優位になっているのかもしれません。そのあたりについて、少し考えてみたいと思います。</div><div><br></div><div>　こういった状況に置かれた生徒に直接尋ねてみると、口裏を合わせたかのように「環境を変えれば、自分が変われるかもしれない」といったニュアンスのことを話します。</div><div>　さて、根底にあるのはどういった思考なのか。</div><div><br></div><div>　「FM FESTIVAL 2012 未来授業」で養老孟司氏は次のように述べています。</div><div>　”環境問題、自然環境など様々な場面で使われる「環境」という言葉。多くの人はその意味を理解できてない。それは教育にも責任の一端があるが、我々はその意味をもう一度見直す必要が出てきた。</div><div>「自分とはなにか」という問いが騒がれる昨今、「自分」と「環境」の違いを掴むことが答えに近づくアプローチになるのではないだろうか。</div><div>　それは「自分＝環境」である場合もあるし「環境＝世界」という場合もある。田を見て将来の自分だと思えますか”</div><div><br></div><div>　つまり、環境の一部として、自分が存在するということです。自分の外の世界のことを「環境」と定義してしまうのは、それまでの経験と受けてきた教育によるものです。学校や家庭での生活全般あらゆる出来事において、自分自身が外の世界に変化を起こす影響力がないと錯覚してしまった場合、「自分には何も変えられない」といった無力感を持ってしまいます。</div><div><br></div><div>　たしかに、何か変化を起こさなければ生き残れない状況で、自分に変化を起こすような影響力がないとしたら、外の世界を取り替えて、生き残る可能性に賭けるという判断は正しいといえます。また命に関わるようなケースではある程度のリスクも覚悟する必要がでてきます。</div><div><br></div><div>　しかし、当事者が気が付いていないこと、当事者には見えない部分が存在することも確かです。こういった状況では、ほとんどの場合、教室に入れなくなったり、学校に来なくなったり、自室に引きこもったりします。</div><div>　こうなると、自分がいなくなった教室内の変化や友達の気持ち、雰囲気の変化などは全く見えなくなります。</div><div>　実際担任をしてみるとわかりますが、生徒が一人休むだけで教室全体の雰囲気は「ガラッ」と変わります。普段は明るい表情を絶やさない生徒が急に体調不良を訴えたり、逆に普段は全く発言しないようなおとなしい生徒が急に明るくなったりと様々です。</div><div><br></div><div>　話を戻しますが、通信制への転学により自分の内側・外側の連動を感じる機会が減ってしまうことがあれば、それは自分の考えと周囲の考えを調整する力やそういった力を身につける機会を失う恐れがあります。つまり、ここで重要なことは、自分を環境に含めて話を進めること。</div><div>　これからの社会において、他者と関わる機会を減らすことは、大きなリスク（予測可能な危険）、デンジャー（わざわざとる必要のない危険）となりえるということです。選択のときにこのような部分に潜むリスクについて周囲や本人が改めて認識することで判断が大きく変わることがあるかもしれません。</div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/fomel2/entry-12737291092.html</link>
<pubDate>Wed, 13 Apr 2022 22:19:08 +0900</pubDate>
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<title>自主的モチベーションの重要性</title>
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<![CDATA[ 　これまでの時代においては、モノやカネを外発的動機として利用することができました。バブル期にはモノやカネがモチベーションとなり、その一方で、「カネのためならなんでもやるのか」といった逆のベクトルのモチベーションも生まれました。<div>　なので、バブルを経験した人たちからは「働いた分だけ儲かって豊かな生活ができる」という肯定的な意見と、「馬車馬のように働かされてかわいそうな人たちだった、私はカネなんかじゃ動かなかった」という意見の両端を聞くことができました。</div><div>　つまり、外発的な動機付けと、それを否定する内発的動機付けが同時に利用できたということです。</div><div>　さて、現在はこういった動機付けのモデルを使っても上手く機能しません。少なくとも、私がこれまでに勤務した高校でまともに機能している例を見たことがありません。</div><div>　なぜでしょうか。時代や技術の変化を背景にして考えてみます。</div><div><br></div><div>　まず、現在の子どもたちにはバブル期のような大企業への憧れがありません。これはSNSやインターネットの普及で、大企業に就職した人たちの情報を簡単に取得できるようになったことに大きな理由がありそうです。高収入であれ、肩書きが立派であれ、どういったケースにおいても、それに伴う苦労があることを何となく認識できてしまいます。</div><div>　同じように、当時３高と呼ばれた高学歴・高収入、ましてや高身長までもが、大多数の魅力には映りません。SNSなどの技術の普及によって「得るものが大きければ、失うものも大きい」といった事実が明らかになりました。</div><div>　日本経済の状況を見ても、終身雇用制度は普通ではなくなり、カネやモノに囲まれた生活を見れば見るほど、「ちょっと違うな」と感じてしまっているのが、現在の高校生です。</div><div>　そして、高校の内情としては、一部の進学校でない限り指定校推薦や学校推薦、総合型選抜を利用して進学する生徒が大多数です。大学側の事情もあるでしょうが、それほど悪い成績や生活態度でなく、こだわりもなければ誰でも大学に進学できる状況であることは確かです。</div><div>　高卒就職にしても同様に、欠席が異常に多いなどの特殊な事情があって、不採用通知が来てしまう生徒もいることはいますが、ほとんどの生徒は初回の面接試験で合格通知をもらえるという所謂「売り手市場」です。</div><div><br></div><div>　なかには、例外的に好奇心旺盛で熱心な生徒もいますが、知能指数で標準偏差をとった場合の両端５％程度の人数しかおらず、残り９５％はそうではないのが事実です。</div><div>　大半の生徒の本音は「今楽しければそれでいい。ゲームや動画視聴、そこそこの友人関係で時間をつぶしたい」というものです。なんだかやるかたない気持ちになってしまいますが、もはや、現在の学校においては、モノやカネなどを外発的動機付けには使えません。</div><div><br></div><div>　それでは、次に内発的な動機付けについて考えてみます。</div><div>　心理学者ブルーナーは、内発的な学習意欲を高めるために外側からどのような統制が可能になるかをいくつか挙げています。</div><div>　　１．好奇心</div><div>　　２．能力向上への欲求</div><div>　　３．モデルを見習う欲求</div><div>　　４．社会的相互性</div><div>　などがそれにあたりますが、上記の理由から「能力向上への欲求」からの切り口は上手くいかないことが予測できます。また、スマホの普及によって、なんでもすぐに調べることができるため「好奇心」による統制も難しい。</div><div>　よって、「モデルを見習う欲求」あるいは「社会的相互性」を重視することが賢い手段だと言えます。わかりやすく言うと、モデルが「型」、相互性が「組手」ということです。これからの社会では、モチベーションをどう持たせるか、維持するかが重要な要素になることは間違いないのです。</div><div><br></div>
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<pubDate>Tue, 12 Apr 2022 00:16:44 +0900</pubDate>
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<title>スマートフォンが日常に登場</title>
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<![CDATA[ 　東日本大震災、いわゆる３・１１をきっかけに、日本中でスマートフォンやSNSが普及しました。それまでは、使う人ぞ使うものであったのに、そんなことは誰も覚えていません。<div><br></div><div>　それまでの価値観でいえば、スマートフォンを操作している人は物珍しい目で見られました。私は当時WILLCOMのスマートフォンを使っていたので、周囲から「なんでそんなもの持ってるの？」とか「電波が悪いのになぜそれなの？」とかいろいろと質問をされたことを覚えています。それ以前には、高校の担任が今の倍くらいの大きさのスマートフォン（のようなもの)を使っていて違和感がありました。</div><div>　不便に勝る強みがあるからこそ使っていたのですが、少なくとも私の周囲には理解してくれる人はいませんでした。だからといって、「私が正しくてみんな間違っている」とは思いません。そうではなくて、私のようなちょっと変わった、新しい物好きの人以外は持っていなかったということです。</div><div><br></div><div>　SNSも存在はしていましたが、主にPCで利用する人が多かったこともあり、普及までは至っていませんでした。「ネットで知り合った」というと、「出会い系？」と怪訝な表情をされるような価値観が一般的でした。</div><div><br></div><div>　そして、３月１１日に大震災が起きました。東北はまだ積雪があり、気温も低い。私はちょうど大学の卒業式でしたので、当時の記憶を鮮明に覚えています。</div><div>　この時、固定電話やガラパゴスケータイの通話、メールまでも不通が続きました。運よくつながっても相手の安否が確認できない状況でした。大規模な停電で信号機さえ止まり、街は真っ暗。防犯カメラが動かないコンビニやスーパーでは盗難が相次ぎ、ヘアーワックスまで盗難されたことが後に話題に挙がりました。</div><div><br></div><div>　そんな中、SNSは大活躍をします。SNS内でのダイレクトメッセージだけは、ほぼ影響を受けずに相手に届き、すぐに安否の確認ができました。さらには救助を待っている人たちを投稿情報から場所を特定し、命を救うようなドラマを生みました。</div><div>　</div><div>そして、人々は「もしものために」とスマートフォンを持ち、子どもたちにも積極的に持たせるようになりました。そして、その後はそのコストの安さや利便性の高さに取りつかれていきます。</div><div>　が、生活が便利になった反面、若年層でトラブルが多発します。いや、それ以外の年代でも見えてこないだけで、起こっているのかも知れません。</div><div><br></div><div>　学校も同様に、問題が起こればその都度対処はしているものの、根本治療は行えていません。そもそも、こういった情報モラル教育の部分はほとんどの学校で外部に依頼しているというのが現状です。</div><div>　こういったことから、教員や学校に携わる大人のスキル向上にブレーキがかかりました。</div><div><br></div><div>　堀江貴文氏はスマートフォンの位置付けとして、</div><div><br></div><div>　”スマホいうツールが世に出て、10年余りになる。わずか10年で、世界の情報インフラを支える必須のツールとなった　・・・（中略）・・・</div><div>　SNSでも、ビジネス系のインフルエンサーたちが、この問題を提起している。スマホは搾取される側のツールであり、パソコンを使う側にいなければ、お金を稼ぐことはできない。だからパソコンを使える最低限の能力と教養を身につけておかないとダメだ、と言いたいのだろう。</div><div>　スマホが単なる消費端末ではいけない、というのは、その通りだろう。</div><div>　しかし「スマホより、もっとパソコンを使え」と言われたら、それは違う！　と僕は反論したい。”</div><div><br></div><div>　と述べています。ここではパソコンとスマホを対比していますが、要するに、スマートフォンは携帯電話ではなく、コンピュータであるということです。</div><div>　スマホが電話ではなくコンピュータである以上、成果物の量や質には、使用者のリテラシーが関わってくるのです。</div><div><br></div>
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<pubDate>Mon, 04 Apr 2022 20:08:40 +0900</pubDate>
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<title>キャラクター不満が引き起こす離職</title>
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<![CDATA[ 　就職する高校生の約４割が３年以内に離職しているという調査結果があります。<div>　大学生ではその割合が約３割と多少減少はしてはいるものの、不満を抱えて仕事を続けたり、何かしらの諦めや妥協をしながら仕事をしている人が全体の半数以上を占めている可能性が高いと思います。</div><div>　これが社会の当たり前だ、社会は厳しいところだというのは簡単ですが、この問題について、今一度しっかりと考えておく必要があると思います。　</div><div><br></div><div>　実際に離職した元生徒に話を聞いてみると、ほとんどの場合、人間関係が理由でした。</div><div>　では、喧嘩をしたり、意見の相違があったりしたのかと聞くと、「喧嘩もしていないし、仲が悪いわけではないけど何か嫌になってしまった」と、これもまたほとんどの場合そう答えます。</div><div>　さらに詳しく聞くと、「悪い噂を流された」「自分はそんなキャラじゃないのに」といったことを話します。</div><div><br></div><div>　このことから、離職の本質的な理由は自分自身のキャラクターに不満があることだと推測できます。</div><div>　この「キャラクター不満」の状態を少し説明したいと思います。</div><div>　仮に、高校ではみんなから頼られるようなキャラクターだとします。勉強やスポーツなどはそこまで得意ではないのですが、堂々とした態度と曲がったことが嫌いな性格で周囲から信頼されているという女子がいたとします。</div><div>　</div><div>　その子のキャラクターは一言でいうと「頼りになる姉御肌」です。</div><div>　</div><div>　しかし、高校で何度も面接練習を行い、一般化された「いい人」を演じて就職してしまったため、就職先では「そこまで優秀ではないけど、真面目でハキハキした可愛い子」として職場デビューをしてしまいます。</div><div>　就職前は明るい表情で結果を報告していたその子は、就職後、このギャップに苦しみ、数カ月後には離職。現在は別の仕事を転々としています。</div><div><br></div><div>　いかがでしょうか。実際、こういった境遇に立たされる生徒は多く感じます。</div><div><br></div><div>　今の職場におけるキャラクターに満足していればいいのですが、高校に通っていた頃のキャラクターとはどうにも交じり合わない職種に就いたと報告を受けたとき「精神的に追い込まれていないだろうか」と心配になってしまいます。</div><div>　　</div><div>　岡田斗司夫氏は著書「いい人戦略」で、キャラクター・コンテンツ・コミュニティを３要素として挙げ、まずは「いい人」というキャラクターを作るべきだと述べています。</div><div>　これはコンテンツを一から伸ばすのは難しく、コンテンツがないとコミュニティを築くことが困難であることを理由としています。</div><div><br></div><div>　たしかに、「いい人」であるキャラクターを演じることで、コンテンツやコミュニティを伸ばすことができますし、同時に「特別何かできるわけじゃないけど、あいつに頼んでみよう」から始まることも理解できます。</div><div>　しかし、全員がいい人戦略を選択できるとは思えません。それなりの立場やある程度のコミュニティが出来上がってしまっている場合、戦略の変更にそれなりのコストが発生してしまいます。</div><div>　</div><div>　子どもであればなおさらで、それまでのことをすべて知っている同級生や同年代が周囲にいたり、学校・家庭の世間体を気にしたりすることで、いい人というキャラクターに移行したくても、精神的なコストを支払うことをできず、キャラクター不満に陥るというのが実情です。</div><div>　岡田氏本人も「全員」を対象にしていないとは述べているものの、学校としては指導に取り入れにくいのもまた事実です。</div><div><br></div><div>　自分が納得のいくキャラクターをつくり、外に向けて発信し、それが評価されるまでには、キャラクター作成から周囲の評価までの過程を何度か（何度も）繰り返す必要があります。</div><div><br></div><div>　「納得できる家を建てるには三軒立てないとわからない」とはよくいったもので、納得のいくキャラクターを作るためには、繰り返しキャラクター設定を行う必要があるように感じます。</div><div>　それは同時に、学校はそういった活動に協力するべきだということにもつながるのではないでしょうか。</div><div><br></div>
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<pubDate>Sun, 03 Apr 2022 19:42:41 +0900</pubDate>
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<title>価値観の変化に先生はどう考え動くのか</title>
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<![CDATA[ 　ニュースサイトなどでもパラダイム・シフトという用語がよく使われるようになりました。<br>　「事実をどういった形で捉えるのか」をパラダイムと呼びますが、農業革命や産業革命は人類史上最大のパラダイム・シフトだったと言われています。　　<br>　また、現在も大きなパラダイム・シフトの渦中にあると言われており、社会全体の価値観が変わってきています。<br><br>　P・F・ドラッカー氏は、次のように述べています。<br><br>　”最も重要なことは、自分自身をマネジメントする責任を担うべき時代になったことだ・・・今から数百年後、長期的な視野から、私たちの時代の歴史が描かれる時、未来の歴史家は、この時代の最も重要なできごとが、テクノロジーの進歩だったとは考えない可能性が非常に高いと私は思っている・・・インターネットでもなければ電子商取引でもない・・・それは、人類を取り巻く環境で起こる誰も経験したことのない変化だ・・・歴史上はじめて・・・この表現は誇張でも何でもない・・・さまざまな選択肢を持っている人の数が実にたくさんになり、しかも爆発的な勢いで増加している・・・そんな変化である・・・つまり歴史上はじめて、こうした人たちは自分自身をマネジメントする必要に迫られている・・・しかし私たちはその事態になんの備えもできていないと言える・・・人類の歴史上はじめて、私たちは自分自身をマネジメントする責任を担う・・・これは、どんなテクノロジーよりもはるかに大きな変化だ・・・人類を取り巻く環境に起こっている決定的な変化だ”<br><br><br>　今生きている人たちにとって、これだけ大きな価値観の変化は初めてです。誰も経験したことがありません。<br>　さらには、産業革命以降の「学校」や、それ以降続いている「教育」しか経験していません。<br><br>　価値観と一般的に呼ばれているものの正体は、確固たる何かではなく、現在の状況を切り取った一部分でしかありません。<br>　時代が変化するにつれ、状況は刻一刻と変化し、それに伴って社会全体の価値観が変化していく。<br>　それを追うように様々な仕組みや種々の取り組みが変化してきます。<br><br><br>　なにも暗く、お堅い話ではありません。私達はスマートフォンやSNSなどの登場と普及によって、これまでと比べものにならないほど自由になりました。<br>　社会はまだその状況に対応し切れていませんが、もうすぐ先には、まるっきり違う世界が待っているように感じてなりません。<br>　それゆえ現在の教育職は、自由を楽しむことができ、自由の責務を全うできるクリエイティブな職業だと感じています。また、未来を担う人材のお手伝いができる職業であるとも感じます。<br>　<br>　価値観の変化が、学校にどういった影響を及ぼすのか。学校や教師はどういった備えをしておけば、自由に働き、且つ自由な人間を育てられるのか。<br>　そういったことを考えながら、筆を執っていきたいと思います。<br>
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<pubDate>Sat, 02 Apr 2022 21:15:54 +0900</pubDate>
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<title>自由な学校を目指して</title>
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<![CDATA[ 　１９９５年・岡田斗司夫著「ぼくたちの洗脳社会」では、評価経済社会の到来を見事に言い当てています。<br>　しかしながら、評価と貨幣のバランスに大きな変化が起こっているとしても、一般的な生活者には認知することすら難しい。<br>　自分には関係がないことにされているのが現状です。また、若い年代は気が付いているかというと、そうでもありません。<br>　普段から生徒を見ていても、実際に起きている時代の変化と生活者の認識の間に大きなズレが生じています。<br>　私自身もそんな生活者の一部ではありますが、渦中にいる生徒や周囲の方々に、学校現場の状況と私なりの見解をお伝えしたいと思っています。<br>　この文章を読んでもらっても、読者の方に直接的な影響を与えることはほぼないと思います。<br>　　ですが、現代の学校という機関は非常に閉鎖的であり、学校関係者にしか語れない部分が多く存在しています。だからこそ、「先生」が当事者として語る必要があると考えています。<br>　「そんなことわかってるよ」「そんなこと当たり前でしょ」という方もいらっしゃるかと思いますが、どこかで役に立つかもしれません。徒然なるままにと言ったら叱られそうですが、安易な気持ちから執筆していますことを先にお詫びしておきます。<br><br><br>　さて、これまでの歴史の中で、時代ごとの重要な役割として機能してきた学校が、評価経済社会においてどう変化していくのか。また、その変化はどこに向かっているのか。一緒に考えていけたら嬉しい限りです。<br>　余談ですが、この文章は、岡田斗司夫著「ぼくたちの洗脳社会」の構造を参考にしております。内容・構造ともに基礎としてはこの書籍ですので、先にそちらを読んでからこちらを読んだ方がわかりやすいかと思います。<br>　<br>　もし読んでみて、この文章が参考になったという方がおられましたら、まるで自分で考えたことのように振る舞ってもらって構いません。というか、振る舞ってください。そうした振る舞いによって、各所で多様な見識が生まれ、沢山の方々が変化を起こす起爆剤となることを願っています。<br><br>　追記　学校の先生を目指している人に向けて、これからの学校の自由さと楽しさを感じてもらうために、私個人の解釈を書き連ねていきます。<br>　質問や疑問点がありましたら、それをきっかけにまた改めて考えてみたいと思いますので、ぜひコメントください。
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<link>https://ameblo.jp/fomel2/entry-12735142963.html</link>
<pubDate>Fri, 01 Apr 2022 23:58:21 +0900</pubDate>
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