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<title>風と傷跡に誘われて</title>
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<description>日本のことを中心に。</description>
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<title>地下鉄サリン事件とは何だったのか</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<pubDate>Fri, 20 Mar 2015 02:05:58 +0900</pubDate>
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<title>我々は本当に震災後の社会に生きているのか</title>
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<![CDATA[ 震災後の社会と呼ばれるいまを生きている人たちが本当に震災後を生きているのか考える。目的はひとつ、使い古され汚され擦り切れてしまった平和のために。<br><br>震災後に日本は変わった、震災後でも日本は変わらない、などという言明が蔓延っている。震災から4年という歳月が経過した今、果していつ震災が終焉を迎えたというのか。本震が収まったときか、原発「事故」が終息したと野田前首相が宣言したときか。どれも欺瞞だ。何も終わってはいない。原発「事故」終息宣言を安倍現首相が撤廃したからではない。こう言おう。忘却は甘い。ゆえに人は忘れる。何も終わっていないことをも忘れる。だから人は叫ぶ。忘れてはいけないと。しかしこのシュプレヒコールがどんな意味を持つだろうか。忘れてはいけない、忘れてはいけない。数多の人間が死んだことを？　原発を制御できなかったことを？　違う。ではいったい何を？　忘れてはいけないというとき、目的語はいつも漠然とした経験である。もちろんそうはなり得ないナラティブもあることに疑いを挟むつもりはないが、ここではシュプレヒコールについて述べているのである。結局のところ、忘れてはいけないという言葉の後ろで、思考は鼾をかいて眠っている。忘れてはいけないと合唱するのならば、何故人は忘れるのかを考えなければならない。何故人は忘れるのか？　そういうふうにできているとしか言いようがない。人は忘れる。それは避けられない。そこには悲しみと旨みが混在する。ただしそこに恥があったとしたらどうなるか……？<br><br>私は被災地という呼び名が嫌いだ。この名には問題を切り分けようという外からの意志が煌々と燈っている。被災地の人はかわいそうだ、被災地の農産物を食べよう、これをヒューマニズムだとか人間主義だとか呼ぶのか知らないが、被災地という名を用いるときには、本人が意識しているかどうかに関わらず、自分自身は被災していないあくまで外部の人間であるという境界線が生ずる。そんなのは当たり前のことだ、なぜならば、私は家族や友人や財産を失うという凄惨な経験をしていないのに当事者として語るなんて言語道断であるからだ、という非難があるかもしれない。しかしここにはなにか言い知れぬ違和感がある。その正体は何か。ここからこの記事の主題へと導かれる。すなわち、我々は本当に震災後の社会に生きているのか。ただしすぐに接続する必要はない。焦らず迂回しよう。急ぐ必要はないのだから。それにまだ、恥、が語られることを待っている。<br><br>ところで死者の言葉を代弁するなどということが可能だろうか。そんなわけはない。死んでしまったのが、親であろうと子であろうと親友であろうと恋人であろうと、その人の言葉を代弁することはできない。ただし、悲観せずにこう言いたい。死者の声は聞き取り続けなければならないと。それは日常のざわめきの中に微かな耳鳴りを聴くようなことかもしれない。それでもやらなければならない。何故か。それは死者が間違いなくそこにいたことを教えてくれるからである。こんな書き方をすると嫌悪感を示す方もおられるかもしれないが、いわれのない誹りは放っておいて続ける。<br><br>「私は生まれた」「I was born」「Je suis né(e)」当たり前のように受け身である。連綿と続くこの営みの一端を死者が担っていた、そして担っていることは疑いようがない。このことが忘れ去られている。我々は人類のなかの「一」である。だからみんな繋がっているだなんてそんな下らないことは言わない。「かけがえのない人間」という表現から暴力としか呼びようのない自由を抽出してきた私たちが認めなくてはいけないこと、それがこの人類のなかにあるこのちっぽけな「一」である。そして死者もまたこのちっぽけな「一」である。しかしそれは、私を生み育てた一かもしれないし、私が生み育てた一かもしれない。私とわかり合った一かもしれないし、私と愛し合った一かもしれない。私と関係を結んだちっぽけな「一」なのだ。この関係があってはじめて自我が現れる。そんな私達がその自我に立脚して誰か、あるいは何かに裁きを下すことができようか。憎いから復讐する、腹が立ったから殺す、この論理の礎石にある自我が自分のものであるなどという主張はあまりにも頼りないものである。それにも関わらず、他者に裁きを下そうなどというのは臍が茶を沸かす。死者たちの声を真摯に聞き取ること、まずはそこから始めなければならない。人類の営みは続いてゆく。永遠ではなくとも私達の時間感覚からすれば永遠に。永遠の中で死者は教えてくれる、次の世代が誕生することを、そのまた次の世代が誕生することを、そしてそのまた……もうやめよう。つまりはこういうことだ。過去に私達を胚胎した彼女たちは教えてくれる。恥を知ることを。<br><br>私達は原発について何も知らない。知らないものを放っておいたから「事故」が起きた。いい加減にしよう。あれは事故などではない。私達の惰性の帰結である。原発は健全な経済活動のために必要であり、人間が生きていくために必要不可欠なものである。嘘をつけ。いつのまにか消えた計画停電はどこへいった。大地震という自然災害が起こらないようにすることは決してできない。ならば千年に一度の大地震などという嘘をつかずに、それが今後も起こり、今回と同程度、あるいはそれ以上に放射性物質を撒き散らすと考えておいたほうが、身のためではないか。だれの？　もちろん未来の世代のである。今後百年間で同規模の災害が起きなかったとしてそれがどうだというんだ。二百年後の世代はどうなる？　三百年後は？　そのころには原発に変わってより安全なクリーンエネルギーが使われているはずだ？　嘘をつけ。ならばなぜ今は使われていないのか。原発を使わなければならない理由を創り上げてきたからではないか。電気の安定供給などではない、それは間違いなく冷戦と結び付いている。<br><br>原発推進派・反対派、ついでに左派・右派、タカ派・ハト派、すべてどちらでもよろしい。どちらでもよい、すなわち「Cela nous est égal」私達にとってはどれも等しい価値しか持たないはずだ。派閥などというものは争いを生みだすだけの装置に過ぎない。そんなものにかまけている暇があるなら、歴史を学んだ方がよっぽどいい。惰性に身を委ねず考えなければならない。死者の声により耳を澄まし、恥を知るためには。原子力を放っておいたことは私達の恥である。原子力は私達の住む場所を壊す。地盤の奥深くまで徹底的に。そこは私達だけが住む場所ではない。そこには住む。犬、猫、小鳥、蟻、蝶、松、桜、名も知らぬ草、生きとし生けるものすべてが。そして私達の子どもたちが。<br><br>ところで親が知ったら悲しむという言い回しが日本語にはあるが、親のことなんか知ったことではないという人が増えている気がする。老いも若きも。親からもたらされる恥の力が弱まっている証拠であろう。すべての責任をわがままな子どもに帰することはできない。親を親たらしめる儀礼がないのだから。こんなことを言わなくてはならない現状が痛々しいが、ここで立ち止まるわけにはいかない。では死者は本当に恥を教えてくれるのだろうか。死者には葬儀がある。葬儀の意義とは、死者に死を与えることと、生者が他者の死を位置づけ関係づけることにある。死者は自分が死んだことがわからない。なぜなら人間は永遠に死にゆく存在であるからだ。人は自分が死んだとは絶対に言えない。ただ死にゆく自分として消えてゆくのである。その人の死を認めるのは他者であり、死んだということを生者が死者に教えるというのがまずもっての葬儀の意義である。一方で、葬儀を通して生者の側でも死者を死者として位置付ける可能性が開かれる。そうすることで、死者との対比としての自分の定点が確立され、死者に「あなたはそれであるところのそれである」ということを教えられる。それは法であり契約であり約束である。それを破ることは定点を見失うことであり、人はそれを避ける。そしてその定点では死者の声を聞くこととなる。そこで連綿と続く人類の一であることに気づき、これから到来する世代のために恥を教わることとなる。<br><br>死者の声を聞かねばならない、子どもたちのためにも。改めてここで問いたい。震災は何を破壊したか。いや、こう問わねばならない。震災は何を破壊し続けているか。すべてを。私が私であるという明証性の不確かさを露わにしながら。震災は確かに過去形で語ることができる。地震と津波と原発が生きる者たちの命と財産を奪った、と。しかしその爪痕が今でも残っているのではなく、猛威をふるい続けている、膿んだ傷跡として。私が私であるということはそれほど確かなことだろうか。そこにはアイデンティティの危機などという心理学用語を超えた何かがある。いや、そこには何もなかったのだ。自我は幻だ。震災以前から自我は揺れていた。不安はあった。ところがいまや自我の残像さえもない。私達はあまりに多くのものを失った。私達はあまりに多くのものに裏切られた。私達はあまりに多くのことを隠された。外傷は人間を世界から切り離す。切り離された人間は自我という幻にしがみつこうとして、その手は空を切る。空を切った手は他者を取り込もうと手を伸ばす。他者はあっけなく避ける。あるいは他者に飲みこまれようとする。他者はあっけなく踵を返す。その連続の中に我々はいる。自我を打ち立てるということをひとりで達成しようなどということは、はっきりいて無駄である。だからといって他者と同化することなどできない。一方で、他者と関係を結ぶことが不可能であるというシニシズムと呼べそうなものに呪われている私達もいる。他者は他者としてそこにいる。どちらの意味においても他者が他者であるということがますますわからなくなっているいまの時代に生きている私達が、震災後の社会に生きているなどとどうして言えようか。自戒も籠めて「我々は震災のさなかに生きている」と表したい。<br><br>ではどうすれば私達は震災後の社会へと移行できるのだろうか。その可能性を探るために、ここで先日起こった「イスラム国」（イスラムを冠するべきではないという国内外の批判はあるが、これまでに提案されたどの名称も納得のいくものではないため、ここでは括弧付きの「イスラム国」と統一することとする。）による日本人人質事件へと話を展開する。「転換」ではなく「展開」であることに注意いただきたい。<br><br>この事件は日本国内で数多くの議論を巻き起こし「た」が、ここで注目するのは言葉である。本件を機に、イスラム教と「イスラム国」を分離するために奔走する人たちがいた。しかしイスラム教徒は危険な思想の持ち主ではないと喘いでも、震災のさなかにあるこの日本においてその悲痛さは届かない。それは言葉を紡ぐことへの不信感に直結する。はっきり言おう。言葉は意味を失っている。この国では、イスラム過激派とイスラム原理主義組織というふたつの呼称はまるで同じもののように扱われる。しかし本来の字義は異なる。過激派とは読んで字のごとく、自分たちの思想が抑圧され糾弾され裏切られた場合には、いかなる過激な手段をもってでも抵抗する人々のことであり、一方、原理主義とは、イスラム教に関わらず、聖典や経典といったすべての行動や価値の根拠となるテクストを忠実に再現するべきだと主張する思想のことである。このことはいくら強調してもし過ぎることはない。なぜなら同じように扱われているこのふたつの組織を批判するにあたり、必要とされる論理は全く異なるからである。このように言葉が意味を失うと何を批判すればよいのかまるでわからなくなる。何かに真剣に向き合うためには言葉の復権が必須である。そしてそれが直接、批判するのがより困難であろう原理主義を改めることにつながる。<br><br>イスラム教の聖典であるクルアーン（コーラン）は西暦650年（我々日本人にとってなじみ深いという理由だけでここでは西暦表記している。）頃に編纂された。今から千年以上前のことである。ただこれだけの理由で、古いものに縋り続けるイスラム教徒というレッテルを押しつけようとしてきた西洋の偏狭な自己愛は断固として糾弾されねばならない。西洋社会はイスラム社会と比べて近代化などしていない。さらに言えば、近代と呼び得る文化圏などこの世界には存在しない。科学の発展、工場のオートメーション、金融のグローバル化、これらが近代化の証じゃないかと鼻息荒く捲し立てる輩は放っておこう。これらが本当に近代化と呼べるのか考えることなしに喚いているだけなのだから。原理主義が批判されて然るべきなのは古いなどという点ではない。テクストの解釈が介入していない点である。それは絶対的な存在に身を委ねることである。それは忘我であり、母の胎内に立ち戻ることであり、自殺である。クルアーンに従って行動することを批判しているのではない。クルアーンを解釈しないことが問題なのだ。なにもそれはイスラム原理主義だけに限った話ではない。キリスト原理主義だって存在するし、自己啓発本原理主義だって存在する。逆説的に聞こえるかもしれないが、それはそのテクストを信用していないということである。なぜならその人は読んでいないのだから。<br><br>言葉やテクストに対する信頼が薄れているのは、イスラム原理主義者や日本人だけには止まらない。このことは世界中で同時的に進行している。言語はコミュニケーションの手段でしかないとよく言われるが、ではテクストはどうだろうか。ここまで定義を確認することなくテクストという語を用いてきたが、テクストとは何か。語源を呼び出すまでもなくそれは織り成されたものである。テクストである、小説、詩、ダンス、音楽、絵画、彫刻、これらはすべてコミュニケーションの手段でしかないのだろうか。そんなわけはない。そしてテクストは藝術に留まらない。街並み、ジェスチャー、何気なく描いたらくがき、誤解を恐れずに言えばテクストとは世界に与えられた傷痕である。私達は傷痕を世界に対して与えているか、そして何よりも傷跡を解釈しているか。テクストが蔑にされているということはどういうことか。織り成すことができない、織り成されたものに一瞥さえもくれない、これはどういうことか。それは自己を世界に対して刻むことができない、他者が刻んだ印を無視するということに他ならない。テクストはコミュニケーションという語から零れ落ちる関係性を掬いあげるどころか、一瞬のうちに迸る閃光の一撃を秘めている。それを蔑にしていい理由などどこにもない。私達はそれを解釈せねばならない。それが死者の声を聞くことである。むなしく谺する平和という語を蘇生するために。<br><br>今後ブログという場で言葉を紡いでいくにあたって、ひとつ、無意味な先取りの言い訳を。先日おまえの書く文章は「宗教」のようだという批判を受けた。彼がいう宗教とは、仏教やキリスト教、イスラム教といった世界を形作ってきたものではなくカルト教団のようなものだとのことだった。何をもってそう言ったのだろうか。そもそもカルトの語源はラテン語の「崇拝（cultus）」という語まで遡る。何かを崇拝している匂いを文体、あるいは、エクリチュールから嗅ぎ取ったのであろうか。しかし現実で非難されているカルト教団が並べ立てる欺瞞とは断じて違う。オウム真理教は教団員に何を教えたか。人は必ず死ぬということを吹き込んだ。その「絶対的」事実に耐えられない人間が起こした凄惨な出来事を知らない「大人」はいない―このふたつの括弧を取り去るわけにはいかない。ナチスも同様だ。ヒトラーの目的、それは集団自殺だ。優生主義に基づいて劣った人間を殺戮することで最終的な自らの死を歴史の終焉と結び付けようとした。こんな愚かなことに類することを書いているつもりは毛頭ない。強いて言うのならば、死ぬことができない人間がいかに生きてゆくことができるか、その可能性を書いている。いや、書かされているといったほうが正しい。書きたいと思ったことを書ける人間がいるだろうか、書きたいと思わされずに内発的に書きたいと思える人間がいるだろうか。ロビンソン・クルーソーがどこにいる。少なくともネットユーザに彼と同じ環境に置かれた人はいない。長々と書いてきたが、ここまで書いてきた批判の対象から私自身を除外するつもりはない。崇拝とは呼べないまでも金科玉条として私が常に信じなければならないと信じていることがあるとすれば、それは「他者は他者としてそこにいる」そのことだけである。だが時にそれを信じられなくなることもある。だから私自身を絶対に除外しない。これはもしかしたら世俗化された宗教と呼びうるのかもしれない。しかしこの宗教は、自由、権利といった西洋から輸入した概念をそのまま受け入れることはせずに、言葉という主人のもとで育った解釈者として施した操作のうえに作り上げられた血であり肉である、と叫ぶことは、震災のさなかに生きる我々にとってはあまりにセンチメンタルなことだろうか？
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<link>https://ameblo.jp/fool-dreamer/entry-12000325670.html</link>
<pubDate>Wed, 11 Mar 2015 20:55:10 +0900</pubDate>
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<title>二〇一四年三月二十二日（土）</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<pubDate>Sat, 22 Mar 2014 21:02:06 +0900</pubDate>
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<title>いまおもうこと</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<link>https://ameblo.jp/fool-dreamer/amemberentry-11787828357.html</link>
<pubDate>Wed, 05 Mar 2014 04:50:12 +0900</pubDate>
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<title>フランス語　文法メモ1</title>
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<![CDATA[ フランス語の動詞は3つの法に従って、その形を変える。<br><br>1．直接法<br>2．条件法<br>3．接続法<br><br>ふむふむ、ここまでは知ってるぞ。だがしかーし、曖昧な点がいくつもあるので時制とあわせて総復習してみた。<br>きょうはとりあえず直接法だけメモしておく。<br><br><br>1．直接法<br><br>・直接法現在<br><br>いちばんオーソドックスなやつ。Je t'aime.とか。<br><br>・直接法複合過去<br><br>助動詞（avoirかêtre）＋過去分詞。<br>これも問題ない。Hier, je suis allé à la picine.とか。<br><br>・直接法半過去<br><br>複合過去との使い分けはいまだによくわからんけど、terminaisonはtrès simpleなのだ。<br>例外はêtreだけ・・・のはず。<br><br>j'avais<br>tu avais<br>il/elle avait<br>nous avions<br>vous aviez<br>ils/elles avaient<br><br>・直接法大過去<br><br>これは主節が過去で、従属節がさらに昔のときとかに使うやつ。<br>助動詞（avoirかêtre）の半過去形＋過去分詞。<br><br>je croyais qu'il avais déjà sorti.（あってるのかしら。。）<br><br>・直接法単純過去<br><br>はい、でました。口語では使わないので無視、、と言いたいところだけど、小説なんかを読んでいるとちょいちょい出てくるので、êtreのconjugaisonだけメモしておく。<br>ちなみに口語では複合過去を使うポイント「など」で、この単純過去は使うらしい。<br><br>je fus<br>tu fus<br>il/elle fut<br>nous fûmes<br>vous fûtes<br>ils/elles furent<br><br>もうここまでくると、フランス語による学習者へのいじめの領域に入っていますね。<br><br>・直接法前過去<br><br>いい加減にしてください、と言いたい。<br>これも文語でのみ使うそうな。大過去の文語版みたいなものだけど、いろいろ違いもあるとのこと。違いは知りません。<br>助動詞（avoirかêtre）の単純過去形＋過去分詞。<br><br>・直接法単純未来<br><br>ちょっと一安心。<br>例外はあるものの、だいたいのterminaisonは原則にしたがう。<br><br>je serai<br>tu seras<br>il/elle sera<br>nous serons<br>vous serez<br>ils/elles seront<br><br>・直接法前未来<br>前過去にくらべれば楽。<br>助動詞（avoirかêtre）の単純未来形＋過去分詞。<br>未来完了なんかに使われる。<br><br>J'aurai fini mon travail quand il arrivera.<br>とか。<br><br><br><br>ここに書いてあることは間違っている可能性大だけど、次回につづく。<br>第2回は条件法。<br><br>ばいちゃ。
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<link>https://ameblo.jp/fool-dreamer/entry-11780207781.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Feb 2014 05:35:33 +0900</pubDate>
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<title>暴力の種類</title>
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<![CDATA[ この世界には多様な暴力の姿がある。<br><br>戦争、紛争、家庭内暴力、いじめ、頭にさっと浮かぶ暴力だけを数えてもきりがないほどの種類だ。<br>しかし、そんな数多く存在する暴力の種類を眺めてみると、目に見えやすい暴力、目に見えづらい暴力があるのはすぐに納得できるのではないか。<br><br>たとえば連日ニュースで放映されるような紛争には、加害者と被害者が存在しており、多くの人にとって暴力として映るであろう。反対に幼児の虐待などは、子どもがなんらかの方法で訴える力を持っていない、家庭内という他人が容易に入り込めないパンドラの箱のなかでの出来事である、愛情と虐待の関係性が不明確である、などといった理由から見えづらい暴力として映る。<br><br>とはいえ、目に見えやすい暴力も目に見えづらい暴力も、どちらも暴力として認識されているという点においては共通する。となれば、次のように考えることは難しくない。<br><br>世の中には「社会が暴力だと認識している暴力」と「社会が暴力だと認識していない暴力」がある。<br><br>なぜここで主体を社会にしているか。<br>どのような出来事も人によってとらえ方が違う。<br><br>たとえば、「きみは要領がわるい」と会社の上司に言われたとする。<br>ある人は、上司の言葉にはもっと要領よく仕事をしてほしいという期待が込められているのだからそれに応えたい、と叱咤激励と考えて、それ以降の仕事のやり方を改善しようとするかもしれない。<br><br>またある人は、自分は考えたうえでこの仕事を進めているのに、そんなことも確認せずに、具体的な改善案も示さずいきなり要領がわるいだなんて、きっと家庭でいやなことでもあったのだろう、と上司の叱責をストレス発散のための行動と考えるかもしれない。<br><br>どちらが正しいのだろうか。<br>もちろん上の「きみは要領がわるい」という文だけでは、文脈がなく判断不可能である。では現実的な文脈が与えられた場合には、判断可能なのであろうか。不可能であると私は考える。というのも人の解釈に真偽は問えないからである。<br><br>それでは、人間は日常生活における解釈の真偽をどこに求めるのか。<br>答えは社会の通念である。<br><br>社会とは人と人のあいだに生まれるものであるから、社会通念とは構成員めいめいの価値観が溶けあい、ゆっくりとしかし変化してゆく動的なものなのだろうか。実際には、社会通念というものは経路依存性を持っており、硬直的なものであることが多いように思われる。また、なにが正しい、なにが間違っている、という価値が関主観的（人はこれを関主観ではなく、客観だと誤認することが多いことにも注意したい）だったとしても、歴史のなかで創りあげられた社会通念が主体の価値が存在することに先だって存在しており、それが個人の価値観となっている可能性は否定できないのではないか。とすると、主体は日常生活における解釈の真偽を自分の価値観に沿って判断していると考えるが、事実は、長い時の流れのなかで固められた社会通念にならって判断しているのかもしれない。<br><br>だとすれば、社会通念においては暴力と呼ばれない事柄は暴力ではないのか。そんなことはない。<br>わかりやすく言えば、「受け取り側がいじめだと感じれば、それはいじめ」なのである。<br>なにもこれは世間で一般に言われるいじめに限ったことではない。何事も受け取る側が暴力と認識すれば、それは暴力なのである。一般のいじめに関しては、学校や学級というコミュニティの構造によってたとえいじめが不可視な状態であっても、日本社会としては、いじめはわるいこととして認識し始めているように感じる。しかしそのような認識がない暴力もある。<br><br>ここではそれがなにかという点までは踏み込まないが、今後すこしずつ言及していきたい。<br><br>最後に、もちろん暴力という語それ自体がなんらかの価値を反映したものであり、暴力の正義については私にはなにひとつ申し上げることはできないということを申し添えておく。
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<link>https://ameblo.jp/fool-dreamer/entry-11773381086.html</link>
<pubDate>Sun, 16 Feb 2014 07:15:35 +0900</pubDate>
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<title>あせらず</title>
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<![CDATA[ エデア市に来てから2ヶ月半。最初は本気で日本に帰って、あたたかいお味噌汁といっしょに涙を呑むつもりだったが、ようやく生活が落ち着いてきたきょうこの頃。2月以降のスケジュールもほぼほぼフィックスし、イレギュラーなことも少なくなってきた。<br><br><strong>一週間のスケジュール</strong><br>月<br>午前：授業準備　<br>午後：コンピュータ基礎の授業<br><br>火<br>午前：授業準備　<br>午後：コンピュータ基礎の授業<br><br>水<br>午前：授業準備<br>午後：日本クラブの活動、コンピュータ基礎の授業<br><br>木<br>午前：資料作成や他校見学・打ち合わせ<br>午後：フランス語学習<br><br>金<br>午前：資料作成や他行見学・打ち合わせ<br>午後：フランス語学習<br><br><br>暇そうに見えるスケジュールだが、見えるだけでなく実際に暇なほうだと思う。活動であれをやりたい、これをやりたい、と次々にアイディアを出せるタイプの人間ではないため、とりあえずやるべきことを安定して出来るようにすることをまずは目標にしている。1年目はあれこれ手をださず、まずは落ち着いた精神状態で日々を過ごせるようになる。カメルーン人のニーズがあるところから少しずつやっていく。自分に甘く、それだけできればはなまるをあげたい。<br><br>2年目はカメルーンに散らばる他職種の隊員との連携を図りコンピュータが普及していいない村でなにか活動したり、PC隊員間の協力を促進し高度なこともできればと考えている。<br><br><br>以下はフランス語について。<br><br>12月から始めた、1日に20単語暗記するという挑戦はほそぼそと続けている。毎日しっかり覚えられているわけではないし、1日に100単語くらい新しい単語をリストに書き連ねることもあるが、気づけば始めてから900単語、自分の知らなかった語彙に出会っている。「お、1週間ぶりじゃん！元気してる？」という再会や、「あれ、たしかどこかでお会いしましたよね？」という邂逅も増えてきており、これをあと10カ月くらい続けられれば目標にしていた5000語という語彙数に到達できる。これからも気張らずほそぼそとやっていこう。<br><br><br>「読む・書く・聴く・話す」それぞれの勉強法はこんなかんじ。↓<br>Compréhension d'écrit（読む）：アルベール・カミュ『異邦人』を精読。わからない単語は全て調べてメモする。文意がとれないときは邦訳と読み比べ納得するまでにらめっこする。<br><br>Écrit（書く）：Lang-8というSNSを利用して、自分の日記をフランス人に添削してもらう。<br><br>Compréhension d'oral（聴く）：同じ映画をなんども流し、使ってみたいフレーズがあれば暗記する。インターネットニュースを聴く。<br><br>Oral（話す）：授業でたくさんしゃべらなきゃいけないので、その場で適当にしゃべっているうちにどうにかなるだろうと信じている。話すときは自分の使ったことのない表現をあえて選んで使ってみる。<br><br><br>なんとか年末までには活動にはほとんど困らないレベル、DELFでいうとB2までにはもっていきたい。カッコよくフランス旅行するために頑張ろう。
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<link>https://ameblo.jp/fool-dreamer/entry-11761559087.html</link>
<pubDate>Fri, 31 Jan 2014 08:04:10 +0900</pubDate>
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<title>フランス語、どこまでやるか？</title>
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<![CDATA[ 多くの人に助けてもらいながら、少しずつうつうつとした気分から立ち直ってきたと同時に、フランス語を上達したいという意欲がわいてきた。なので今のうちに、カメルーンにいる間にどのレベルまで持っていくか、目標を先に決めておく。目標は欲張りすぎず、モチベーションを保てる程度のものに設定するのが大切。そんなわけで以下のように決めてみた。<br><br>＜カメルーン滞在中、2015年1月にDELF B2合格＞<br>＜日本帰国後、2016年5月にDALF C1合格＞<br><br>帰国後のDALF C1はさておき、DELF B2合格のためには、「話す、聞く、書く、読む」この4つの力をかなりのレベルまで伸ばさなければならない。ちなみに単純には比較できないが、DELF B2とは英語でいうと、英検準1級程度に相当すると思う。<br><br>そんなレベルに到達するためにはどうやって学んでいけばいいか。そのへんは英語に散々苦しめられてきたので、そのときの教訓をもってやっていけば大丈夫だろうと踏んでいる。基本的な文法はさらっている前提で、必要なことはつぎの2点だけ。<br><br>1．まずはフランス語を聞きまくる。<br><br>幸いにもフランス国営放送のRFI（日本のNHKのような組織）がLe Journal en Francais Facileというフランス語学習者向けのコンテンツを毎日ウェブにアップしている。これはその日のニュースをわかりやすいフランス語で10分間という限られた時間に要約して流しているもの。うれしいことにスクリプトも公開されているため、わからない部分は辞書を使いながら意味を確認していく。語学学習でいちばん大切なのは聞けるようになること。これは英語のときの経験からいって間違いない。<br><br>2．同時に語彙力を伸ばす。<br><br>DELF B2で求められる語彙数は5000語程度らしいので、日々20単語ずつ覚えていく。まずは上述のLe Journal en Francais Facileで登場する単語を日々おぼえ使えるようにしていく。このとき大切なのはわからない単語数が20単語に達した時点で、その日の勉強をスパっとやめること。無理してそれ以上の単語を覚えようとしても頭に入らないし、なによりモチベーションを維持できない。週に一度程度はフランス語のことは忘れてのんびり過ごし、また翌日からコンスタントに学習していく。そんな方法でも20単語ずつ学んでいけば2015年1月までには5000語はゆうに超えているはず。<br><br>この2点を徹底的に実践できれば、読む、話す力も伸び、外国語はかならずマスターできる。書くことだけはまた別の方法で鍛えねばならないが、これは最後でいい。英語で苦しんだのは、モチベーションが続かずに基本のこの2点を実践できなかったことが原因だと思う。<br><br>協力隊として活動していれば自然に語学も身につくなんて甘いことはない。やはり日々コツコツと勉強しなければ伸びないのが語学だ。協力隊活動だけでなく、フランスへの哲学留学も視野に入れて、どっしり構えてやっていきたい。
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<link>https://ameblo.jp/fool-dreamer/entry-11727724826.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Dec 2013 07:12:56 +0900</pubDate>
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<title>2ヶ月</title>
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<![CDATA[ なんだかんだ言って、カメルーンにやって来てからはや2ヶ月。<br><br>ここまで感じてきたストレスってなんなんだろう。<br><br>フランス語、文化の違い、孤独、騒音、将来への不安。<br><br>いろいろあるけれど、自分自身の現実の捉え方によって変えられるものもおおい。<br>それは簡単ではないけれど、粘り強くゆっくりとやってみよう。<br><br>カメルーンに来てからフランス語にたいするモチベーションががっくり下がっている。やっぱり後天的に言語を学ぶのはむずかしいし、ストレスになるよなー。とそんなことを考えていたら、ハンガリー人の作家アゴタ・クリストフを思い出した。彼女はハンガリー動乱でオーストリアへ脱出し、その後スイスに移ったそうだ。彼女の母語はもちろんハンガリー語であって、20歳を過ぎてから必要に迫られてフランス語を学んだ。<br><br>それにもかかわらずフランス語で小説を書き、その独自の文体は世界的に評価されている。<br><br>そんな彼女は生前フランス語のことを敵語と呼んでおり、母語であるハンガリー語が徐々にフランス語に犯されていく不安があったそうな。しかしこういった事情があるとは言え、20歳を過ぎて学んだ言語で小説を書くなどという芸当をやってのけたという事実には、とても勇気づけられる。<br><br>アゴタ・クリストフの作品のなかでも、特に有名なのがこの『悪童日記』。感情表現を徹底的に排した文章のなかで描かれる2人の子どもの姿は、読後もあたまから離れない。ぜひ読んでいただきたい一冊。<br><br><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=25649562" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">悪童日記 (ハヤカワepi文庫)/早川書房<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51A5T9SMNBL._SL160_.jpg" border="0"></a><br>￥693<br>Amazon.co.jp<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/fool-dreamer/entry-11716081504.html</link>
<pubDate>Mon, 02 Dec 2013 02:53:53 +0900</pubDate>
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<title>逃げ</title>
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<![CDATA[ 辛いことや嫌なことがあると逃げたくなる。それは当然のこと。<br>しかし日本人は「逃げる」という言葉にとても敏感に反応する。<br><br>最近なんだか漠然とした不安がつねにつきまとっており、正直逃げだしたい。<br><br>じゃあなぜ逃げないのか？<br><br>逃げるのは悪いことだから？<br>いや、そんなのは間違っている。<br><br>逃げる人を受け入れ認められる社会、日本をそんな社会にちょっとずつしていきたい。<br>しかしこんな思いも今ここで逃げ出したら、そんなのダメな自分を守るために言ってるだけだろ、と一蹴されてしまうだろう。<br><br>逃げることが悪いことだから逃げないんじゃない。<br>逃げたくない理由があるから逃げないんだ。<br>その理由がたいせつなものでないならば、ひとはいつでも逃げていいんじゃないかな。<br><br>なんか「逃」という漢字がゲシュタルト崩壊してきた。
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<link>https://ameblo.jp/fool-dreamer/entry-11715481842.html</link>
<pubDate>Sun, 01 Dec 2013 06:27:09 +0900</pubDate>
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