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<title>新天地のブログ</title>
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<title>新天地、初めの御言葉 287</title>
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<![CDATA[ 初めの御言葉<br><br>(本文：ヨハ1:1~34（核心聖句：ヨハ1:1~5）)<br><br> <br><br><br><br><br><br><br><br>本文を通して知らせようとする核心は、旧約の預言と成就に関する事である。<br><br> <br><br>初めの御言葉は何だろうか？初めの御言葉は、神様であり、御言葉が神様と共におられた。万物は、初めの御言葉で造られた。その御言葉の中に命があり、この命は人々の光である。この光がやみの中に輝いたが、やみは悟れなかった（1-5節）。<br><br> <br><br>やみは光である御言葉がない者であり、創世記の第一日と第一テサロニケ5章で話したやみであり、夜である教人たちである。初めの御言葉は、命と光と創造力がある神様の種である。イエス様も神様の種で生まれたので、神様の子であり、御言葉である。（Ⅰヨハ1:1）<br><br> <br><br>初臨の時、旧約（マラ3:1）に約束したバプテスマのヨハネが来たが、彼はまことの光ではなく、しばらくの間燃えて輝くともしびに過ぎず（ヨハ5:35）、イエス様は完全な命の光（ヨハ12:46）、すなわち、まことの光であった（6-9節）。<br><br>当時、アブラハムの血統で立てられた肉的イスラエルは、神様の所属の選民であったが、天の太陽、月、星が暗くなって落ちるように落ちて夜になり（ヨエ2:31、3:15）、光であられる主である神様とその子イエス様が来られたが（マタ3:16-17、ヨハ10:38、14;10-11参考）、彼らは悟れず、受け入れないで（10-11節）、かえって、迫害と殺人をし続けた。この時、審判権を持ったイエス様（ヨハ5:22）と神様は、血統や肉に関係なく、その名を信じる者たちに神様の子どもとなる特権を与えたので、これはただ神様から生まれた者たちである（12-13節）。もう一度言えば、人間の意志ではなく、神様の種で生まれた者たちである。この事が新しい事であり（エレ31:22）、彼らが新しいイスラエル（霊的イスラエル）であり、霊的神様の家族であり、約束の民族である。<br><br> <br><br>言葉は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父の身元から来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた（14節）。律法はモーセによって与えたものであり、恵みとまことはキリストによって実現したのである（17節）。<br><br> <br><br>この時、ユダヤ人たちがエルサレムで祭司長たちとレビ人たちをヨハネに送って 、「あなたがキリストか、エリヤか、預言者か？」と聞いたが、彼は違うと答え、自分はイザヤの御言葉のように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声だと言った（19～24節）。ユダヤ人、すなわち、パリサイ人が送った者たちが「では、どうしてあなたがバプテスマを授けているのか？」と言った。ヨハネが「私は水でバプテスマを授けているが、私は、私の後に来られる方のくつのひもを解く値うちもありません。」と言った（24～28節）。<br><br>ヨハネがイエス様にバプテスマを授けたのは、来られる方をイスラエルに現わそうとする事であった（31節）。そして、ヨハネに知らせてくださった方（神様）が「聖霊が誰の上でもとどまられる方が、すなわち、来られるキリスト（聖霊によってバプテスマを授ける方）である。」と言われ、ヨハネがバプテスマを授ける時、聖霊がイエス様に臨まれた（29～34節）。この時、初めて神様とイエス様は一つになったのである。<br><br> <br><br>旧約（マラ3:1）の預言と成就に関する神様の働きは、このように成し遂げられた。これは、2千年前、初臨の時の道を備える者バプテスマヨハネと契約の使者イエス様の働きの始まりに関する事である。<br><br> <br><br>ヨハネの福音書1章で見たように、初めの御言葉の威力と、また御言葉が肉体になって来たという点を記憶するべきであり、やみと光について知るべきであり、肉的イスラエルではなく、イエス様の名を信じる者が神様の子どもになるという点を知らなければならない。<br><br>自分に御言葉があるので、神様が共におられ、御言葉があるので、命と光があり、御言葉があるので、神様の子どもになり、御言葉で新しく生まれた被造物になるという事を肝に銘じなければならない。<br>
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<link>https://ameblo.jp/foreverscj/entry-11960413554.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Dec 2014 09:54:02 +0900</pubDate>
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<title>新天地、ノアの時とロトの時の正統と異端</title>
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<![CDATA[ ノアの時とロトの時の正統と異端<br><br>  <br><br><br><br><br><br><br><br> イエス様は、再臨の時の事件をノアの時、ロトの時のようだと言われた（ルカ17:26~30）。旧約のノアの時とロトの時、そして、その時と同様である再臨の時の正統と異端は各々誰だろうか？<br><br> <br><br>正統は、神様から直接啓示を受けた人（牧者）とその組織（教団）である。いわば旧約時代のモーセ、初臨の時のイエス様、再臨の時の新しいヨハネのような者たちとその組織が正統である。異端は、神様の御言葉に合わない古い伝統に属している人々とその組織である。罪を犯したアダム、カナン、初臨の時の祭司長と長老などがここに該当される。洪水でさばかれる前に、ノアがアダムの世界に神様の直通の啓示を伝えていたが（Ⅱペテ2:5参考）、アダムの世界の人々は自分たちが正統だと主張しながらその御言葉を信じなかった（Ⅰペテ3:19~20参考）。ロトの時にロトは、ソドムの人々に神様の啓示を伝えたが、彼らは信じなかった（創19:14）。旧約の預言者たちが正統の神様の啓示をユダとエルサレムに伝えたが、彼らは信じずに、かえって預言者たちを異端として扱い、みんな殺した。時代ごとに当時の牧者たちと信仰人たちが、神様が遣わされた牧者を迫害して殺したのである。聖書（マタ5:11~12、23:29~35、使7:51~53）を読んでみると、このような事実をよく話している。<br><br>初臨のイエス様の時、イエス様が直通の神様の啓示をユダとイスラエルに伝えたが、彼らは自分たちの正統性を主張しながら信じずに、かえってイエス様とその弟子たちを異端だと言いながら迫害して殺した（マタ26:57~68、マタ27章、ヨハ15:18~21、ルカ20:9~16）。主の再臨の時も、ノアの時とロトの時と同じで、イエス様の初臨の時と同じだと聖書は言っており、今日の現実がそうである。<br><br> <br><br> ここでしばらく神様の行為と悪魔の行為が、どのようなものなのか調べてみよう。<br><br>神様は愛であられ、御言葉であられる（Ⅰヨハ4章、ヨハ1:1）。そして、世を愛されて独り子を下さり、イエス様は愛で人の罪の身代わりとなられて、ご自身のいのちまで下さったので、これは世を救われるためであった（ヨハ3:16~17）。そして、イエス様の新しい戒めは、互いに赦して愛しなさいという事であった（マタ18:35、ヨハ13:34~35、Ⅰヨハ2:8~11）。敵をも愛しなさいと言われ、敵が飢えたなら、彼に食べさせなさいと言われた（マタ5:44、ロマ12:20）。<br><br>今日の現実は、どうだろうか？今日も、同じ宗教人たちが、その以前の時のように迫害して殺しながら、イエス様にそうしたように、新天地イエス教を聖書的な根拠もなく異端だと言いながら迫害している。彼らは新天地を生かそうともせず、救おうともせず、新天地が死ぬことを望んでいる。イエス様の初臨の時のように、全ての牧者たちが死に物狂いで迫害に先立っている。この行為は神様の戒めでもなく、神様の御言葉でも御心でもない。それでは誰の行いであり、心だろうか？もちろん、殺し、滅ぼし、迫害し、偽りを作り出す悪魔の行為である（ヨハ8:44）。信じる者がこの行為を見ても悟る事ができなければ、彼はまことの信仰人ではないからであり、悪魔に近いからであり、イエス様の御言葉を信じないからだろう。犬は犬の泣き声を出し、鶏は鶏の泣き声を出す。<br><br> <br><br>我が新天地は、彼らの迫害と呪う言動をその中の神（霊）の行為と声で見分けられるので、揺り動かされる事がなく、その行為に惑わされたり、そのような悪行のために試みに陥ったりする理由もなく、また、彼らを支持する理由もない。ただ、私たちにあるのは善と悪の区分だけである。私たちは、何度も公開討論、及び、聖書の問題・質問に対する答えを求めたが、彼らは応じず、答えもしなかった。結果的に私たちは真理で世に勝利したのである。それだけではなく、聖徒たちが彼らの行為を見て失望して、新天地の言葉（主張、教理）と行為が「まこと」だと言いながら新天地に来ている。これが、どうして新天地の過ちだろうか？聖書に合わない彼らの行為のせいでなければ、何だろうか？仏教徒たちと儒教徒たち、そして、キリスト教徒たちをみんなに呼んでおいて、彼らの迫害と殺人が正しいかと聞くならば、正しいと答えるだろうか？言っていない言葉を言ったと言って、新天地を異端だと言い、自分たちの誤った行為を私たちに擦り付ける事は、神様の聖霊の行為ではない。聖書を知っている信仰人たちは、悪魔の霊を受けた者たちが迫害する事をよく知っているだろう 。<br><br> <br><br>我が新天地イエス教が主張している真理と私たちが受けた聖霊は、神様とイエス様と聖書と同じ真理であり、聖霊である。そして、新天地の約束の牧者と彼が伝える教理がまことの正統であり、神様とイエス様の直通の啓示の御言葉である。<br>
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<link>https://ameblo.jp/foreverscj/entry-11960413268.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Dec 2014 09:52:55 +0900</pubDate>
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<title>新天地、いのちの木と善悪の木の正体</title>
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<![CDATA[ いのちの木と善悪の木の正体<br><br> <br><br>(本文 : 創2:7-9)<br><br> <br><br><br><br><br><br><br><br>いのちの木と善悪の木の正体は何だろうか。<br><br> この二つの木が聖書に現れてから6千年が経ったが、どの一人の牧者もこの木の正体を明らかにした者がいない。神様は、詩編78編で「初めから隠されていたものを比喩で現わして、後代に伝えなさい」と言われて、初臨の時、イエス様が来られて比喩で語られて現わされた。そして、時になると明らかに知らせて下さる事を約束された(ヨハ14:25)。そして、イエス様の名で来られる真理の聖霊保恵師が真理に導き入れると約束された(ヨハ14:26, 15:26, 16:13)。<br><br> <br><br>　再臨の時である今日、その約束通り我が新天地は、真理の聖霊がともにおられる約束の牧者がおられ、比喩ではなく「事実」を明らかに知らせている。その中の一例で、二種類の種でできた木について調べてみる事にする。<br><br> <br><br>　まず、二つの木を絵で描くが、一つは神様のいのちの種によってできた木、もう一つは悪魔の死の種によってできた木を描く。そして、枝と実と鳥も描く。<br><br> <br><br>　神様は、善悪の知識の木の実を取って食べると死ぬと言われ（創2:17）、いのちの木の実を食べると永遠に生きると言われた(創3:22)。 この木の正体は何だろうか？箴言3:18に見ると、いのちの木は植物ではなく、知恵を堅く握る者だと言われ、イザヤ5章にぶどうの木はイスラエルの人だと言った(イザ5:1-7)。アダムの幕屋、エデンの園に二種類の木があり、マタイの福音書13章に、イエスの一つの畑に二つの種が蒔かれたと言った(マタ13:24-30, 37)。 この小さな種が成長して大きな木になり、枝に鳥が巣を造ると言った(マタ13:31-32)。<br><br> <br><br>この二種類の木は、種から始まる。種は神のことばである(ルカ8:11)。神様の種はいのちの御言葉であり、サタンの種は死の言葉である。いのちの種を畑、すなわち、心の畑に蒔くといのちの木が生まれ、死の種を畑に蒔くと死の木が生まれる。いのちの木はいのちの実を結び、死の木は死の実を結ぶ。これは種と木の道理である。<br><br> <br><br>　天国であるイエス様は(マタ13:24, 37)、ヨハ15章にご自身をまことのぶどうの木、弟子たちを実を結ぶ枝と言われ(ヨハ15:1-5)、イエス様には鳩のような聖霊の鳥が臨んだ(マタ3:16, 13:32)。地獄の悪魔であるバビロンの王ネブカデネザルは大きな木で、そこには実を結ぶ枝があり、その枝に鳥が巣を作り、その下に獣が住んでいる(ダニ4:20-22)。ご自分の畑、すなわち、イエス教会に二つの種が蒔かれたので、当然、二つの木が生まれる。神様の種はイエス様を通して蒔かれ、悪魔の種は当時の律法学者とパリサイ人の牧者たちを通して蒔かれた。各々、蒔かれた種によって、良い種は神様の御国の子どもたちになり、毒麦は悪魔の地獄の子どもたちになる(マタ13:38)。<br><br> <br><br>前で調べてみた二種類の木のうち、一つは天国であるイエス様であって、もう一つはバビロンの王ネブカデネザルであった。この二人のうち、誰がいのちの木であり、だれが善悪の木であろうか？当時、イエス様はまことのぶどうの木であり(ヨハ15:1)、律法学者とパリサイ人の牧者たちは蛇だと言った(マタ23:29, 33)。申命記32章に見ると、ぶどうの木は蛇の毒であり、コブラの恐ろしじであると言ったので、律法学者とパリサイ人の牧者たちは蛇のぶどうの木である。イエス様は自分の事を道であり、真理であり、いのちであると言われたので (ヨハ14:6)、 まことのぶどうの木、すなわち、いのちの木であり、今日、啓示録 17、18章のバビロンの牧者は不品行のぶどう酒ですべての国々を倒したので、悪霊、すなわち、悪魔の善悪の木である。善悪の木の実と、及び、ぶどう酒を飲めば、自分の霊が死ぬ。そして、悪魔の子どもになり、地獄に行く。<br><br> <br><br>エデンの園のいのちの木と善悪の木の正体について結論を言えば、次のようである。<br><br>初臨の時のいのちの木の実体はイエス様であって、善悪の木の実体は蛇であるパリサイ人の牧者たちであった。再臨の時のいのちの木の実体は新天地12支派であり(啓22:1ー2)、善悪の木の実体は啓示録13章の選民の天の幕屋に入って来て幕屋を滅ぼし、啓示録17-18章の不品行のぶどう酒(蛇の毒)を食べさせた、霊的なバビロンの七つの頭と十本の角を持った獣のような牧者たちである。これは、エデンの園一ヶ所に二種類の木があったように、今日、イエス教会の一つの畑に二つの種からできた木があるのである。一つは神様の種から生まれたいのちの木であり、一つは悪魔の種から生まれた善悪の木である。この二種類の木は、各々神様の牧者と悪魔の牧者である。<br>
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<link>https://ameblo.jp/foreverscj/entry-11960412758.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Dec 2014 09:50:54 +0900</pubDate>
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<title>新天地、牧者区分</title>
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<![CDATA[ 牧者区分<br><br> <br><br><br><br><br>聖書における牧者は何通りに分けられるだろうか？<br><br>大きく四通りに分けることができる。預言の牧者と約束の牧者と一般の牧者と、そしてサタンに属した偽りの牧者である。<br><br> <br><br>預言の牧者は、神様が将来、成し遂げる出来事を前もって知らせるために選ばれた牧者である。この牧者は将来起こる事を前もって見て聞いたので、「預言者」とも言う。将来の出来事である預言は、神様の預言であり、約束であり、将来成し遂げられる事の青写真(設計図)でもある。成し遂げる時は、この預言通り成し遂げられる。初臨のイエス様以前の預言は旧約であり、イエス様以後の預言は新約である。<br><br> <br><br>約束の牧者は、神様が預言者たちを通して聖書で約束された牧者である。例を挙げれば、初臨のイエス様は神様が約束された牧者である(イザ７:14、ヨハ5:37~39)。神様は、約束の牧者を通して預言を成就し、その成就した出来事を、聖書を通してあかしされる。また預言された神様は、約束の牧者に来られて共におられて成し遂げられる。<br><br> <br><br>一般の牧者は、旧約の律法を伝えたり、また預言が成し遂げられる事によって現れた事を見て伝える牧者である。モーセの律法を伝えて来た牧者たちも一般の牧者であり、イエス様の成し遂げられた事を今日まで伝えて来た牧者たちも一般の牧者である。<br><br> <br><br>この三つの牧者の中で約束の牧者が第一であり、次は預言の牧者である。十二弟子とそれ以外の当時の使徒たち(パウロなど)を除く一般の牧者は、神様が選んだ牧者ではなく、預言が成し遂げられた事を見て、後代に伝える牧者に過ぎない。<br><br>そして、偽りの牧者は、偽りを教える牧者である。偽りの種は。悪魔が与えたものである(ヨハ8:44)。悪魔は、嘘を言う者を選んで自分の使者、すなわち、牧者にしてあかしさせる。そして、自称正統と名乗りをあげ、救われたと主張し、真理を話す者たちを異端だと追い込み、迫害し殺す牧者である。世の終りになれば、イエス様の預言通り偽りの牧者が多く起こるようになる(マタ24:11~12)。<br><br> <br><br>　聖徒が聖書の御言葉をよく知らないので、自分の教団の牧者が真理を言っているのか、偽りを言っているのか、よくわからず、わけもなく｢アーメン｣と言うようになる(マタ7:21～23参考)。このゆえに、偽りの言葉、すなわち、悪魔の種を受け、同じ悪魔の子どもになる。世の終わりの聖徒は、聖書に預言した約束の牧者に会うことによって真理を知ることができる。初臨の時、旧約(律法)を教えた一般の牧者たちが悪魔の霊を受けた偽りの牧者と一つになって、イエス様にどのようにしたのかをよく知っているだろう。再臨の時もこれと同じだという事を聖書は言っている(啓13,16章)。<br><br> <br><br>聖霊の耳がなくて、聖霊の目がない者だとしても、聖書の御言葉と共に主に絶えず祈らなくてはならない。世の終りの四通りの牧者のうち、約束の牧者に会ってのみ、救いの道があるようになる。旧約の約束の牧者は、勝利者(ヨハ16:33)イエス様であり、新約の約束の牧者は、啓2～3章に約束した勝利者、新しいヨハネである。<br>
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<link>https://ameblo.jp/foreverscj/entry-11960412451.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Dec 2014 09:49:48 +0900</pubDate>
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<title>新天地、新約が言う三つの秘密</title>
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<![CDATA[ 新約が言う三つの秘密<br><br><br><br><br>新約が言う三つの秘密がわからなければ救われない。<br><br> <br><br>その三つの秘密は、一つは七つの星と七つの金の燭台の秘密であり（啓1:20）、もう一つは、淫婦とその群れである七つの頭と十本の角を持った獣の秘密であり（啓17:5-13）、もう一つは、最後の第七のラッパの秘密である（啓10:7）。<br><br> <br><br>「まことに、神である主は、そのはかりごとをご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と言われた（アモ3:7）。啓示録の成就の時である今日、神様は、選ばれた牧者である新しいヨハネに新約の秘密を知らせて成し遂げられ、また、それを伝えさせられる。<br><br> <br><br>では、新約が言う三つの秘密について調べよう。<br><br> <br><br>七つの星と七つの金の燭台は、イエス様の手で、すなわち、イエス様が選ばれて働いた者たちであったが、背教した者たちである（啓2、13章）。淫婦とその群れである七つの頭と十本の角を持った獣は、異邦のいつわりの牧者で、七つの星（使者）の幕屋（七つの金の燭台、すなわち、13章の天の幕屋）の聖徒たちを滅亡させた者たちである（啓13章）。そして、第七のラッパは、啓2、3章の勝利者、すなわち、啓12章の女が産んだ子とその兄弟たちが滅亡者である獣の牧者たちと戦って勝利することで、その時から世の国が神様の国となることを知らせる救いのラッパの音である（啓12：7-11、11：15）。<br><br> <br><br>霊的イスラエルの終末であり、主の再臨の時の事件である啓示録は、前述した背教者たちと滅亡者たちと救い主たちの事件を記録したものである（マタ24章、Ⅱテサ2:1-4参考）。背教者の組織（山、教団）、滅亡者の組織、救い主の組織、この三つの秘密の組織を知らなければ、第一に自分の位置がどの所属かわからないのであり、誰が背教者で、誰が滅亡者で、救い主かもわからない。<br><br> <br><br>イエス様が「そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」と言われた（ヨハ14:29）。前もって言われた預言の啓示録に精通して信じる者は、約束した実体が現れた時、見て、背教者、滅亡者、救い主を見分けることができるが、精通してない者は、その実体を見てもわからない。今まで新約の預言、啓示録が封じられていたのでわからず、また預言の実体が現れなかったのでわからなかった。しかし、もう預言が成し遂げられて、その実体が現れたので、記録したように、ただ一人、新しいヨハネにだけ見せて下さり、知らせ下さるのであって、その人を通してのみ、啓示を受けるようになるのである（啓1:1-2、22:16、啓10章）。それゆえ、聖徒たちは、新約に約束した牧者を探して、出会って、あかしを受けてのみ、新約の三つの秘密とその組織がわかるようになる。<br><br> <br><br>世の終りである今日、この話を無視して、自分の牧者だけを信じる者には救いはない。悟って約束の牧者を探して会うことを祈っている。<br>
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<link>https://ameblo.jp/foreverscj/entry-11960411622.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Dec 2014 09:46:25 +0900</pubDate>
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<title>新天地、新天地イエス教のビジョンと目的</title>
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<![CDATA[ 新天地イエス教のビジョンと目的<br><br> <br><br>新天地イエス教のビジョンと目的は、天国と永遠のいのちであり、神様の国と祭司長になる事であり、公義公道と真理の都になる事と聖書に精通する事、また愛と赦しと祝福をする天民になる事である。そして、世を新しくする事である。<br><br>これは御心が天で行われたように、この地でもそのように行い、天の霊界の御国が我が新天地イエス教に臨んで来て一つになって霊と肉が一つになる（霊肉合一の）地上天国になる事である。<br><br> <br><br>今日、この世は、未信者たちより宗教人たちのほうがもっと良いと言えるだろうか？そして、宗教人たちの中でもキリスト教徒たちのほうがもっと良いと言えるのだろうか？世界のキリスト教の中でも韓国のキリスト教徒たちがもっと悪いのではないだろうか？もっと悪いとしたら、その理由は何だろうか？預言されたように、神様とイエス様と天国が韓国のキリスト教の中に来られるので（啓3:12参考）、世界の悪魔たちが神様の働きを邪魔するために韓国のキリスト教に集まって来たからだろう（啓16:13～16参考）。<br><br>悪魔は自分が必要とする人に入って、まことの神様の仕事をする人を呪い、迫害し、殺し、偽りで邪魔するための仕事をする。時代ごとにサタンの霊が治めていた者はみな、同じ行動を繰り返して来た（マタ5:10～12、使7:52参考）。<br><br> <br><br>地上のあらゆる宗教人たちが知らなければならない事は、自分の宗教の経書である。しかし、どの宗教でも、その経書の意味を正しく知る所はまったくない。それゆえ、信仰世界で教え学ぶ事は、人の戒めだけである。この人の戒めは、神様が知らせようとされる御心とは違い過ぎる（イザ29:9～13参考）。<br><br> <br><br>地球上の人々の祖先は同じなので、互いに他人になることはできない。世界の民族たちは一人の血統によって増えて分けられたのである。しかし、宗教が言っている事は、これとは違うのである。人の血統ではなく、神の種で神の民族を創造する事である。人の思想と神の思想が異なるので摩擦が生じ、理解しにくい。しかし、人の生死禍福を治めておられる創造主の神様は、ご自身の御言葉の中にいのちと祝福を置かれたので（申30:15～20参考）、この祝福を受けるためには、義の神様の御言葉の種で新しく生まれて、新しい被造物にならなければならない（ヨハ3:5、Ⅰペテ1:23参考）。神様の種で新しく生まれた被造物は、神様の形になり、神様の子どもになる。それゆえ、神様の相続人として世を治める者になる（Ⅰコリ15:50、ガラ4:1～7、啓21:5～7参考）。<br><br> <br><br>神様の本の経書が言っているのは、肉的なことを終え、霊的な神様の種で神の人を創造する事である（使17:29）。これを創造する過程では、険しい峠を何回も越えなければならない。この峠は、サタンとその所属の人々の妨害工作である。妨害者が白いものを黒いと言い、黒いものを白いと言っているので、どうしたらいいだろうか？正統を異端だと言い、異端を正統だと言いながら、教権で押さえ付けているので、これもまたどうしたらいいだろうか？獣は神様とその御言葉がわからない（箴30:2～3参考）。妨害者が、この獣のように、神様ともその法である御言葉とも関係なく、人から受けた教権で教団を治めるので、神様のまことの道が妨害されるようになる。このような狭くて険しこを通らなければならないので、越えなければならない峠が多いのである。どんなにかすれば、神様が来られる時、その涙を拭い取って下さると言われたのだろうか？（啓21:2～4参考）<br><br> <br><br>初臨の時も再臨の時も、聖書と神様を誤解しているの（マタ22:29）は、恣意的な信仰のためである。今日、キリスト教徒たちは、自分自身がきちんとした信仰生活をしており、正統であり、救われたと思っている。これは聖書に約束された預言を知らないからである。もし、新約の意味がわかったならば、むやみに「救われた、正統だ。」という話しはしないだろう。教権には二つがあるが、その一つは人が与えるものであり、もう一つは神様がお与えになるものである。しかし、この世では人から受けた教権が、神様が下さった教権を押さえ付けて来て、今もそうである。<br><br> <br><br>新天地は、既成教会の牧者たちが旧約を成し遂げた事とイエス様をあかしする事を間違っているとは言っていない。定めの時になるまでは、それは、当然、あかしできるのであり、私たちもそのようにあかしして来た。しかし、啓示録の預言が成し遂げられている再臨の時である今日、我が新天地があかしする事は、旧約を成し遂げた初臨の働きではなく、新約の約束が成し遂げられた事をあかしするのである（啓10:1～11）。もう一度言えば、既成教会の牧者たちは初臨の事を、新天地の牧者は再臨の事をあかしするので（啓22:16参考）、そのあかしする内容が違うという事である。この二つの中で新約時代の聖徒が信じて守るべき事は、新約が成し遂げられる再臨の事である。再臨の時である今日、たとえ旧約が成し遂げられた事とイエス様をよく信じてあかしするとしても、それだけでは救いは得られない。なぜなら、新約時代の聖徒は、新約が成し遂げられた事と再臨の時の啓示の御言葉を信じなければ救われないとイエス様が言われたからである（啓22:18～19参考）。再臨の時である今日、どちらをもっと大切にして信じなければならないのか、聖徒は判断すべきである。<br><br>既成教会の牧者たちが、新天地イエス教の聖徒たちを迫害するのは赦されるとしても、そのあかしの御言葉を信じず、迫害することは赦されない。これは聖霊に逆らう冒涜の罪に該当するからである（マタ12:31～32参考）。<br>
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<link>https://ameblo.jp/foreverscj/entry-11957505243.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Nov 2014 10:56:48 +0900</pubDate>
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<title>新天地、三つの秘密の山</title>
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<![CDATA[ 三つの秘密の山<br><br> <br><br>三つの秘密の山は、どこにある、どのようなものなのか？三つの山は、背教の山と滅亡の山と救いの山である。<br><br> <br><br>イエス様は、終末の事件をノアの時、ロトの時のようだと言われた（ルカ17:26～30）。ノアの時、ロトの時の避難所は山であった（創8:4、19:17～30）。そして、イエス様の再臨の時の避難すべき所も山だと言われた（マタ24:15～16）。この山はどこなのか？背教の山（エゼ36:1～2、啓8:8、啓13章）、滅亡の山（エレ51:25、啓13章、啓17:9）、救いの山（イザ2:2～4、啓14:1～5）の中で。<br><br>まず、霊的な「山」が何か調べてみよう。<br><br>山はたくさんの土が集まって成されたもので、霊的な山は、土（肉体）で造られた聖徒たちがたくさん集まっている教会、または、そのような教会で組織された教団を指すのである。<br><br>啓示録13章の天の幕屋の聖徒が主を裏切り、獣に刻印を受けて拝んだので、この幕屋の組織は「背教の山」である。<br><br>また、啓示録13章に、バビロンの七つの頭の牧者と、十本の角の偽りの預言者が天の幕屋に入って来て幕屋の聖徒たちを滅亡させたので、このバビロンの組織は「滅亡の山」である。啓示録17章9節の淫婦が治める七つの頭を七つの山、七人の王（啓17:9）、または、大水（啓17:1、3）と言った。七つの頭を七人の王と言ったのは、七つの教会の牧者を意味するのである。七つの頭を七つの山、または大水と言ったのは、この七人の牧者が各々受け持った教会、教団（山）を代表する者であるからであり（啓17:1、15参考）、多くの人々が集まって成された教会と教団なので、人山人海（無数に多い人の群れ）を成したと言えるだろう。<br><br>「救いの山」は、滅亡者が聖なる所に立つのを見て逃げて行った山（マタ24:16）で、この山は霊的シオン山であり、ここには小羊が立っており、神様の御座がある山である（啓14:1～5）。滅亡者が立っている所には滅亡があり、小羊イエス様が立っている所には救いがある。<br><br> <br><br>この三つの教団を三つの「秘密の山」と言った理由は何だろうか？<br><br>背教の山を秘密だと言ったのは、啓示録1章の七つの星の幕屋、すなわち、啓13章6節の天の幕屋を秘密だと言ったからである（啓1:20）。滅亡の山を秘密だと言ったのは、この天の幕屋に入って来たバビロンの牧者である七つの頭を秘密だと言ったからである（啓17:1～7）。また、救いの山を秘密だと言ったのは、神様の秘密である終わりの第七のラッパを（Ⅰコリ15:51～54、啓10:7）吹いて勝利する事によって現れた国、すなわち、初穂たちで成し遂げられた十二支派が救いの山（組織体）である事が秘密だからである。<br><br> <br><br>末世と言えば、地球の終わりではなく、イエス様によってできたキリスト教世界である霊的イスラエルが終わる事であり、この霊的イスラエル（選民）は、滅亡者が滅亡させる事によって終わるのである。この時、背教、滅亡、救いがあるようになり（Ⅱテサ2:1～4）、滅亡者が聖なる聖殿に侵入する時は、救いの山へ逃げてのみ、生きるようになり（マタ24:15～16）、三つの組織の山の中でイエス様がおられるシオン山が救いの山である。ここシオン山のイエス様の御座には、勝利者も共に座っている（啓3:21）。これらの山を世が、どうして知ることができるだろうか？しかし、世の終わりに滅亡を免れた者たちが集まっている所が救いの山である事をわからなければならないだろう。<br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/foreverscj/entry-11957504863.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Nov 2014 10:55:32 +0900</pubDate>
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<title>新天地、まことの神様の国、霊的新しいイスラエルの家族</title>
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<![CDATA[ まことの神様の国、霊的新しいイスラエルの家族<br><br> <br><br>創造主の神様は、6千年前、エデンでアダムに生気を与えて生霊にされた（創2:7）。しかし、アダムは善悪の実を食べて再び肉に戻った（創3章）。そして、人が地上に増え始め、神様の子どもが地の娘たちと一つになり、肉になった（創6:1～3）。<br><br> <br><br>その後、神様はアダムの9代目の子孫ノアを選ばれ回復の働きをされたが、ノアの二番目の息子ハムによってまた罪が入って来た。この後、神様は、ノアの10代目の子孫アブラハムを選ばれ、肉的イスラエルがアダム以後、イエス様が来られる時まで続いて来た。彼らは、アダムが生霊から肉に戻った時から産まれた肉体の子孫なので、すなわち、アダムの肉的な血統によって産まれた子孫たちである。<br><br> <br><br>その後、神様が新しい事を行われる事を約束され（エレ31:22）、アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンに移住するまで14代、バビロンに移住してから14代を経て（マタ1:17）新しい事を行われた。すなわち、マリヤを通して聖霊によって子イエスを産んだ事である（マタ1:18～21、ルカ1:26～35参考）。イエス様は肉の種によって産まれたのではなく、聖霊、すなわち、神様の種によって畑であるマリヤから産まれた神様の御子である。<br><br> <br><br>初めの御言葉が神様であられ（ヨハ1:1）、神様の種は神様の御言葉であり（ルカ8:11）、神様の種によって産まれた御子のイエス様も御言葉であられる（Ⅰヨハ1:1～3）。イエス様の時から御言葉を信じて受け入れる者たちを神様の子どもにされる（ヨハ1:12～13）霊的イスラエルが始まった。これが、すなわち、新しい事であり、新約である。<br><br> <br><br>肉的選民イスラエルは、新しい事、すなわち、イエス様の出現によって終わり（ルカ16:16）、イエス様が天国の良い種（マタ13:24）をご自身の畑、すなわち、イエス教会に蒔かれた。この種は肉の種ではなく、神様の種、すなわち、御言葉である。パウロはガラテヤ書4章19節で「産みの苦しみをする。」と言い、また、テモテに愛する「子」テモテと言い（Ⅱテモ1:2）、また、第一コリント3章1～2節では、兄弟（聖徒）たちを「堅い食物ではなく、乳を与えた。」と言ったので、パウロは肉の種ではなく、神様の霊の種を受けて霊の子どもを生んだのである。<br><br>それゆえ、肉の種と霊の種があり、肉によって生まれた者は肉であり、霊によって生まれた者は霊である（ヨハ3:3～6）。<br><br> <br><br>聖書を基準として信仰をする者であるなら、神様が旧約に何を語られ、新約に何を語られたのかを知って、御言葉に従って信じる者にならなければならないだろう（ヨハ14:29）。<br><br> <br><br>私たち（肉体）の心は畑であり（Ⅰコリ3:9）、私たちの心の畑に神様の種が蒔かれ、神様の種と御霊によって再び生まれる時、新しい被造物になり（Ⅱコリ5:17）、神の子孫（使17:29）になる。これは御言葉の種でできた神と呼べる（ヨハ10:35）。神様の種と御霊によって生まれた神様の子どもが神様を父と呼ぶ事ができ、神様の家族なので、神様の家である天国に入る資格を持つようになる。彼らが今日、新しく生まれた霊的新しいイスラエルの神様の家族である。そして、彼らが第一の復活にあずかるようになり（啓20:4～6）、肉体も神の子孫に変わって、Ⅰコリ15：52～54 で言ったように、新しい被造物になる。<br><br> <br><br>肉の種によって生まれた肉体が神様の子どもになる事はできないし、神様が彼の父になることはできない。これは神様とは関係のない地の人に過ぎない。<br><br> <br><br>私たちが見たところ、仏教徒やカトリック教徒たちのほうが改新教徒たちより善良で優しい者が多いようである。しかし、彼らにないものがある。それは神様の御霊と種である。彼らは肉的な人として善良で優しいだけで、神様とは何の関係もない。それだけではなく、神様と光といのちの御言葉がないので、やみに属した者たちであり、肉的な人に過ぎない（ヨハ1:1～5参考）。<br><br> <br><br>神様は聖書に「事実」を語られた。しかし、人が聖書の神様の御言葉をわからないので、恣意的な信仰をするだけである。それゆえ、イエス様がユダヤ人たちに聖書も神様の力も知らないから、思い違いをしていると言われたのである（マタ22:29）。カトリック教徒、改新教徒にかかわらず、御言葉の前に出て来て新しく生まれなければならない。<br><br>新約の約束通り、今日（主後、約2千年）、 創造された新天地12支派は神様の種によって生まれた家族であり、聖霊に導かれて聖書に精通し（Ⅰコリ2:10参考）、啓示を受けて宣べ伝えている。今日、預言通り成し遂げられたので、聖徒たちはこれを信じなければならない（ヨハ14:29参考）。<br><br> <br><br>聖書を基準として信仰をする者ならば、神様が聖書に何を語られたのかを知って、御言葉に従って信じる者にならなければならない。<br><br><br><br><br>今日、聖書の約束通りに成し遂げられた神様の国である新天地と、その成し遂げられた事を信じない既成教会のうち、どちらに救いがあるだろうか？正しい判断をしなければならない。<br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/foreverscj/entry-11957503940.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Nov 2014 10:52:08 +0900</pubDate>
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<title>新天地、世界の中心国である主の御国</title>
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<![CDATA[ 世界の中心国である主の御国<br><br> <br><br><br><br><br>神様は天地と万物を創造された創造主であられる。<br><br> <br><br>聖書で見たところ、「時代」ごとに創造があって、創造を行った「場所」があった。アダムの世界はエデンで(創2章)、ノアの世界はアララテ山で(創8章)、ノアの子孫であるモーセはシナイ山(出34章)、ヨシュアはカナンの地(セゲム)で(ヨシ24章)、イエス様はガリラヤ(マタ4:12～17)で始まった。<br><br>肉的イスラエルはイエス様の初臨のときに終わったので、もはや神様の選民ではない。主の天の福音の種はユダヤの地から始まり全世界に蒔かれたが、肉的イスラエルは主の福音をいまだに受け入れていない。<br><br> <br><br>このような時に再臨の主はどこに来られるだろうか？<br><br>神様の御心と聖書に明るい信仰人はよく分かるだろう。神様の子は肉的イスラエルではなく、信じる者たちが神様の子となった(ヨハ1:10～13)。肉的イスラエルは預言の使徒たちを迫害して殺し、自分の国に来られたイエス様(神様が共におられた)を殺した(マタ21:33～39)。イエス様は当時の肉的イスラエルについて「･･･だから、わたしはあなたがたに言います。神の御国はあなたがた(肉的イスラエル)から取り去られ、 神の御国の実を結ぶ国民に与えられます。」と言われた(マタ21:40～43)。<br><br> <br><br>実を結ぶ木とは啓示録22章のいのちの木であり、このいのちの木は毎月12種の実を結ぶ。このいのちの木は啓示録が成就する今日、約束の牧者である新しいヨハネと、またその牧者から啓示の御言葉を受けた14万4千人の祭司長(啓7章、啓5:9～10)のことをいうもので、これは、すなわち、新しく創造される神様の御国である。いのちの木の12枝は12支派で、啓7章で見たところ、各支派が神様の印を押され毎月12種の実を結び、各支派1万2千人ずつを成す。このいのちの木である12支派は、啓示録が成就するときに現れると約束された神様の御国(天国)である。この国は、啓示録全章の事件が現れる大韓民国で創造されている。神様の6千年間の働きの完成は、約束された啓示録の実である12支派の創造にある。神様はこのため6千年間働いてこられた。<br><br> <br><br>神様の御心と聖書を信じて、また聖書どおりに現れたことを見た者が証しするので、新約に約束された神様の御国と12種の実を結ぶいのちの木が大韓民国にあり、世界は大韓民国によって生きるようになり、大韓民国は世界の中心国となる。これはすべての福の根源であられる神様とイエス様と天国が大韓民国に臨まれるからである(啓3:12)。<br><br>毎月12種の実を結ぶいのちの木の葉は万国をいやす。万国はいやされるために韓国に集まってくるはずで、永遠のいのちの糧があるので生きるために韓国を探してくるはずだ。この時、十人が御国の人のすそを堅くつかみ、「私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神様があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。」(ゼカ8:23)と掻き口説く時が来る。御国の民になったと言うことは神様を正しく信じた恵みであり、これは霊的な新しいイスラエルの神様の御国と民だからこそできる。我が新天地イエス教はこれをはっきりと信じる。アーメン。<br><br> <br><br>時代ごとに「選ばれた牧者」と、彼を通して「働かされた国」があったことのように、この時代にも選らばれた牧者と働かされる国がある。今日、新約の預言である啓示録が成就する所は大韓民国であり、新天新地(啓21:1)の働きは大韓民国で始まった。これは神様の約束であり、御奥義である。<br><br> <br><br>御国の民が受ける福は、神様とイエス様と御使いたちが共にする天国と永遠のいのちを得ることである。世の中のどんな知識もこの福よりは大きくなくて、宗教の知識と目的にしている望みだけを見ても、これ以上の福はない。すべての宗教の帰結はこれである。ハレルヤ、アーメン。<br>
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<link>https://ameblo.jp/foreverscj/entry-11957503291.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Nov 2014 10:49:31 +0900</pubDate>
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<title>新天地、二種類の種と収穫</title>
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<![CDATA[ 二種類の種と収穫<br><br><br><br><br>(本文：マタ13:24～30)<br><br> <br><br> <br><br><br><br><br>二種類の種と収穫は何を意味しているだろうか？<br><br> <br><br> <br><br>イエス様は天国の良い種をご自分の畑に蒔かれた。この畑に悪魔が自分の種(毒麦)をさらに蒔いた。そのため、この二種類の種によって二種類の木が同じ畑で一緒に育った。畑は世(マタ13:38)、すなわちイエス様の教会であり、種は御言葉である(ルカ8:11)。天国の良い種は天国の子となり、悪魔の種は地獄の子となる(マタ13:38～39)。<br><br> <br><br> <br><br>この二種類の種を蒔くことについては、今から約2,600年前、神様がエレミヤを通して「二種類の種、すなわち人間の種と家畜の種をイスラエルの家とユダの家に蒔く日が来る。」と預言された(エレ31:27)。この後、約600年が経ち、イエス様とパリサイ人がそれぞれ自分の種を蒔いた。人間の種は人の子であるイエス様が来られて蒔かれたのであり、家畜の種(悪魔の種)は獣、すなわち、蛇であるパリサイ人(マタ23:29、33)が蒔いたのである。この二種類の種でできた木が収穫の時まで一緒に育つことになる(マタ13:30)。<br><br> <br><br> <br><br>収穫のときは、滅亡者によって霊的イスラエルである太陽、月、星が暗くなり落ちて夜になった時であり(マタ24章、啓13章)、この時イエス様と御使いたちが手に鎌を持ち(啓14:14)種が蒔かれた畑、すなわち、イエス教会へ行かれる。イエス様と御使いたちは霊であり、手に持った鎌は御言葉を持つ聖徒である。収穫は、このように夜こっそりと(盗人のように)行って(Iテサ5:2、Ⅱペテ3:10)ひとつずつ収穫し、神様がおられる倉に納め、新しい歌(啓14:3)で養い、印を押して生まれ変わらせる。この時、収穫されてくる者は、御言葉を信じて、御言葉すなわち神様(ヨハ1:1)に従って来るのである。御言葉を信じなじ麦は、御言葉に従って来ない。収穫されて行く倉は神様がおられる霊的シオン山であり、ここは初穂である12支派があって神様の御座があり、小羊と四つの生き物と24長老がいる所である(啓14:1～5)。<br><br> <br><br> <br><br>この収穫の時を世の終わりだと言われた(マタ13:37～39)。なぜ世の終わりなのか。この世の終わりとはキリスト教の世界、すなわち、霊的イスラエルの終わりのことをいう。その理由は何であろうか。穀物を収穫してから残された教会と毒麦を焼き尽くすことで(マタ13:30)、霊的イスラエルと教会が終わるので世の終わりであり、太陽、月、星が暗くなって落ちるので霊的イスラエルの滅亡であり、終わりを迎えるのである。<br><br> <br><br> <br><br>収穫の時に収穫された初穂が救われるのだろうか、自分の教会に残っている毒麦と自分の牧者と教会が救われるのだろうか。収穫されていくことに反対し、自分の教会に残ることを好む者たちは、イエス様とその御言葉を信じない者たちである。<br><br> <br><br> <br><br>神様が二種類の種を蒔くことを預言され、イエス様のときにそれを成し遂げられたように、イエス様が収穫する時があると預言され、今日になってそれを成し遂げられた。この時、種が蒔かれた畑に残されている毒麦が異端なのだろうか、収穫された者である穀物が異端なのだろうか？初臨のとき種を蒔かれたイエス様を異端と言った上に、再び来られて収穫されている(マタ24:31)イエス様を異端だと言うのは、初臨のときイエス様を異端だと言った悪魔の神がその中に入ったからである。初臨のとき、イスラエルの牧者たちが天の御国の門をさえぎり、自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせなかった(マタ23:13)ように、今日また同じ現状が起きている。イエス様とその約束の御言葉を信じる者は御言葉に従わなければならない。<br><br> <br><br> <br><br>新天地イエス教がいのちの木と善悪の知識の木、収穫と世の終わりの前兆、啓示録の三つの秘密などを知っているのは、主の啓示によってそれを見て聞いたからである。神様の遣わされた者は見て聞いた事を証しするのであり、また、神様の遣わされた者は神様の御言葉を話すが、これは神様が御霊を無限に与えられるからである(ヨハ3:31～34)。<br><br> <br><br> <br><br>キリスト教の終わりの日に聖徒たちは、人の子の時がノアの時のようであるという御言葉(マタ24:37、ルカ17:26)を記憶し、約束された救いの場所を探してこそ救われるようになる。<br>
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<link>https://ameblo.jp/foreverscj/entry-11957502949.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Nov 2014 10:47:49 +0900</pubDate>
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