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<title>World Joining Us!</title>
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<description>ウクライナとベトナムをこよなく愛する働かない企業人の旅日記。</description>
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<title>ベトナム－ホーチミン2</title>
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<![CDATA[ 私が人生で始めて一人旅を実行した舞台はベトナムだった。<br>24歳のゴールデンウィークを利用して、ホーチミンへ向かった。<br><br>飛行機の中で、滞在先などの記載をするシートを渡され、私はちょっと困ってしまった。というのも、宿泊先は決めていなかったからだ。<br>しょうがないので、『地球の歩き方』のミニホテルが掲載されているページから、適当なホテル名と住所を書き込んだ。<br><br>"○△×Hotel"<br><br>もちろん、そこに泊まると決めたわけではなく、入国審査を抜けるために、適当に記入しただけだった。<br><br><br>空港へついて、バス停を探したが、バス停を見つける前に、タクシーの運ちゃんに声をかけられた。<br>一人旅は初めてだったが、アジア事情はだいたい把握していたので、「いくらでデタム通りまで行く？」と聞いた。すると、「君が決めればいい」と、あっさり言うので、「じゃあ5ドルね、いい？」（今、考えれば相場よりかなり安い、無理な価格だった）と、4回くらい確認した。おっさんは、「OK」を繰り返すばかり。<br><br>タクシーが走り始めると、「ベトナムは初めてなの？」とか、「日本から来たの？」とか、こちらの現地の把握レベルを探るような質問が飛んできて、私は「素直に答えたら足元をみられてカモにされるんじゃないか」と警戒しつつ、適当な返事を返していた。<br>しかし、そのおっさんがあまりにも無邪気な表情でたずねてくるので、次第に私からも質問をするようになった。<br>名前を聞いて、それを平仮名で書いてみせてあげたりもしてみた。<br><br><br>20分ほどでデタム通り周辺に到着し、私は約束どおり、5ドルを渡した。すると、おっさんは、それまでの表情を一変させて、「足りない！」と、手を差し出してきた。<br>そう言われた時点で、私は「ああ、やっぱり、そうきたか」と思うと同時に、そのおっさんの変わりようにガッカリした。<br><br>「空港で5ドルっていって、OKっていったじゃん。約束の金額は払ったよ」<br>「足りない！」<br>「じゃあ、いくらならいいのさ」<br>「10ドル！」<br><br>今は相場を知っているので前述すると、空港からデタム周辺までは8ドルが妥当なところだ。<br>しかし、おっさんは10ドルだという。<br>嘘には嘘でかえすしかない。<br><br>「あのね、空港のスタッフに相場を聞いたんだよ。私は。あんたは自分の国の人間が信じられないの？」<br>「足りないものは足りないんだ。10ドル！」<br><br>押し問答が15分ほど続いた末に、5ドルを支払って戦いは終結した。<br>車を出るとき、彼の名前を日本語で書いた紙を見せてみたが、案の定、そんなものに用は無い、とでも言うように、彼は不機嫌そうに首を振った。<br>予想していたものの、最初のベトナム人との出会いが、こんな結末になることが嫌だった私は、彼がそれを受け取ってくれることを、ほんの少し、まだ期待していたのだ。<br><br><br>気を取り直して、宿泊先を決めるべく、ホテルめぐりを始めた。<br>見渡すと、『地球の歩き方』で人気の安宿として紹介されていたミニホテルの看板が目に入ったので、受付へ行ってみた。<br><br>「部屋はある？」<br>「今日は満室」<br><br>受付のお姉さんは、そっけなく答えた。<br>やはり予約をしないで来たのは無茶だったのだろうか、と、一瞬弱気になったものの、通りに並ぶホテルの多さを見て、そんなはずはない、と考え直し、再びブラブラと歩き始めた。<br><br>すると、ほどなくして、「おねえさん、このホテルいいよ！」と、客引きのオバちゃんが寄ってきた。<br>「まあ、すぐに決まりそうもないし、見ておくか」と思い、オバちゃんに値段を聞いてみたところ、15ドルだという。<br>ちょっと高いと思ったものの、とりあえず部屋を見せてもらうことにした。<br><br>ホテルの入り口に入ると、すぐにスタッフと思われるベトナム人の兄ちゃんがやってきた。<br>おばちゃんはいつの間にか姿を消していて、私は、その兄ちゃんに連れられて、螺旋階段を上がっていった。<br><br>部屋を見せてもらうと、意外にもキレイで広い部屋だった。おまけに通りに面していて、ごちゃごちゃとホテルが並ぶ風景も中々面白い。しかし、だからこそ気になることもあった。<br><br>「セキュリティボックスってないの？」<br>「大丈夫。ここは安全安全」<br><br><br>適当だなーと思いつつも、私はそのホテルに泊まることにした。<br>にいちゃんは、「サンキュー」と言って、私に鍵を渡してくれた。<br><br>「私はカオリ。君はなんて言う名前なの？」<br>「ジュン」<br>「そう。ジュンね、よろしく」<br><br>手を差し出して、我々は握手を交わした。<br><br>「カオリはいくつ？」<br><br>いきなり年齢を聞く意味がわからなかったが、コミュニケーションしてみようと思って、答える代わりに聞いてみた。<br><br>「いくつだと思う？」<br>「うーん。24」<br><br>驚いたことに、彼は一発で私の年齢をあてた。<br>後で知ったことなのだが、ベトナムでは相手が自分より年上か年下かで二人称が変化するので、自己紹介がてら、年齢を聞くのはあたりまえのことなのだそうだ。<br><br>「カオリ、ゴハンたべる？」<br>「あー後でね。疲れたから」<br>「OK、じゃあ、後で」<br><br>彼は私のパスポートを受け取ると、部屋を出て行った。<br>私はベトナムへ来て初めて、コミュニケーションに手ごたえを感じることが出来た。<br><br>ベッドにひっくり返ってすぐ、電話が鳴った。<br><br>「ハロー？」<br>「ゴハン、ゴハン」<br><br><br>「後で」と言ったのに、すぐに電話をかけてきた忙しなさに呆れつつ、それでも空腹ではあったため、下におりていった。<br>しかし、彼はホテルの入り口に座り込んだままで、出発の気配はない。<br><br>「で、ご飯たべにいくの？行かないの？」<br>「ちょっと待って」<br><br>彼が指差した方向には、日本人らしき男の子が電話をかけていた。どうやら、彼を待て、ということらしかった。<br>暇つぶしに、ホテルの入り口から上を見上げると、そこにホテルの名前が書いてあった。<br><br>"○△×Hotel"<br><br><br>私が飛行機の中で適当に記入したホテル名の名前が、そこにあった。<br><br>奇妙な偶然が引き合わせた一人のベトナム人と、現地で働く日本人青年。<br>2008年4月26日、私が始めてホーチミンを訪れたときから、今もなお、トモダチを続けている役者が、そろった瞬間だった。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/franik/entry-10290843313.html</link>
<pubDate>Tue, 30 Jun 2009 23:41:01 +0900</pubDate>
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<title>ベトナム－ホーチミン</title>
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<![CDATA[ タン・ソニャット空港についたら、すごい人だかり。ミス・ベトナムに遭遇した。超美人。<br>外に出て、さてタクシーの運ちゃんと値段交渉で一戦交えるか、と思ったら、後ろから荷物を引っ張られた。<br>強硬手段かコノヤロー！と思って振り返ったら、わざわざ迎えに来てくれていた友達だった。<br><br>一ヶ月ぶり、バイクに乗って、ホテルに向かう途中、サイゴンの喧騒と空気の悪さが、ものすごく懐かしかった。<br>町並みは変わっていない。いつまでたっても路上工事中。。<br><br>今回は観光皆無のぐだぐだ旅行。ホントはフエに住んでいる友達とサイゴンで再会する予定もあったけど、ニアミスで会えず。<br>昼間は、ふらっとゴハンを食べに行ったり、ホテルの前を通りかかる人としゃべったり、本を読んだり。<br>深夜に容赦なく電話で起こされ、EURO2008を10人くらいで観戦した。<br>最初は日本人もいたけど、睡魔にやられて後半戦に入る頃には脱落していき、結果的にベトナム人ばっかり（女の子は一人もいない。サッカー興味ないんだろうか？）の中、観戦することになった。<br>試合結果を賭けて、昼間はベトナム人のベトナム人によるベトナム人のための賭場が開かれていた。<br>何が面白いって、彼らの盛り上がりよう。試合終了が近づくと、神棚に祈りはじめたりする。<br>カリフォルニア出身の長期滞在中の英語教師は、その席にお酒がないことが不服だったらしく、２人で40度のウォッカを買って試合前に飲んで酔っ払っていた。<br>明らかに少数派。むこうの女の子はお酒もたばこもやらないらしく、飲みの席に加わるのは、ベトナム人の男性か、日本人が多かった。<br><br><br>ベトナム人って、かなり適当。人の話は聞いてないし、自分勝手だったり。でも興味のあることには、ものすごい情熱を持って臨むし、驚くくらい親切だったりもする。<br>適当であり、精一杯であり、相反する要素を不思議にも混在させたキャラクターで、なんか憎めないのだ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/franik/entry-10284595282.html</link>
<pubDate>Sun, 21 Jun 2009 09:57:26 +0900</pubDate>
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<title>ネパール－ポカラ</title>
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<![CDATA[ 　2008年9月某日。<br><br>上り下りの激しいポカラでのサイクリングツアー。私を案内してくれたのは、ちょっと年上のネパール人男性。<br>安宿のオーナーが、暇をもてあますであろう事を予測し、どこからか呼び寄せてくれた。カトマンズのガイドのように、サービス精神旺盛というわけではなかったが、都会ズレもしておらず、素朴な感じが信用できそうな人だった。<br><br>たった半日のサイクリングツアーだったが、あまりの坂の多さと、日差しの強さに、何度か吐き気さえも覚えた。もちろん、地元育ちの人間にはなんて事のない、軽い運動だったのだろうが、とにかく「きつかった」、の一言につきる。<br><br>ぐったりして宿に戻り、受付カウンターのある小さなロビーで一休み。<br><br>「ネパールのことをどう思う？」<br><br>ガイドの彼が、英語を使って私に質問してきた。どこでも一度は聞かれる質問。<br><br>「不思議なもので、日本の人たちよりもネパールの人たちの方が、幸せに見える。日本の方が豊かなのにね」<br><br>「ここでの暮らしは楽じゃない」<br><br>私が出会う、アジアの多くの人々は、日本に憧れを持っている。お金があって、ピカピカの電家製品が買える。私は、正直、彼らの口から出る日本への憧れの言葉が、時々過剰に思えることがあった。<br>もちろん、日本は豊かかもしれない。実際、そうであることを否定はできない。<br>しかし、だからと言って、みんながお金持ちなわけじゃない。<br>国にはそれぞれ物価というものがあって、彼らにとっては大金でも、日本で暮らすには決して大金ではないということを、理解して貰えず、度々、がっかりすることもあった。<br><br>「そうかもしれない。けれど日本は日本でいろんな問題を抱えてる」<br><br>「・・・たとえばどんなこと？」<br><br>彼は、「日本で言う問題なんて我々にとっては取るに足りないものだ」という否定をするのではなく、私に尋ねてきた。<br><br>「そうだなー・・・たとえば、日本では年間、３万人の人が自殺してる」<br><br>当然のごとく、返された言葉は、いったい何が理由で彼らは自殺するのか、という問いだ。<br><br>「たとえば、不況のせいで職を失ってしまったからとか。東京では、しょっちゅう電車に人が飛び込んでる」<br><br>彼は一呼吸置いて、ちょっと考えていた。あまり表情は豊かな人ではなかったけれど、「わからない」、という言葉の上に、彼の感情が現れていた。<br><br>「言ったとおり、ここで暮らすのは楽じゃない。職が無いなんて事はめずらしくない。僕だって、ガイドの仕事で一定の収入を得られるわけじゃない。客がきたら、オーナーが僕に声をかけてくれる。言ってしまえば、その日暮らしだ。どうして日本人は、仕事を失ったら死ぬんだ？」<br><br>素朴な疑問。　だけど、明確な答えは私にもわからない。<br>ただ思うのは、人には人の世界があって、考え方があって、死を選ぶ人には、その人にしかわからない苦しみがあるということ。<br><br>けれど、一歩日本という社会を出れば、もっと過酷な状況で生きている人もいる。<br>諦めてしまう前に、もし、そんな人たちと出会っていれば、違う選択を出来たかもしれない、とも思う。<br><br><br><br>サイクリングの帰り道、デモ集団をやっとのことで潜り抜け、大通りの長い下り坂を、二人で一気に自転車で下りながら、私は彼が私にしたのと同じ質問を、彼にしていた。<br><br>「ねぇ、君はネパールの事を、どう思っているの？」<br><br>「好きだよ。もちろん」<br><br>「政治が不安定でも？」<br><br>「そうだね、ネパールではリーダーがしょっちゅう変わってる。選挙もホントによくあるし、さっきみたいなデモもある。けれど、今の僕達には、テストが必要なんだ。不安定な政治が続いても、いろいろ試してみることは、ぜんぜん悪いことじゃない。もうすぐ、新しいネパールが誕生するよ」<br>
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<link>https://ameblo.jp/franik/entry-10283758147.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Jun 2009 22:28:21 +0900</pubDate>
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<title>ウクライナ－キエフ２</title>
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<![CDATA[ 2日目。<br><br>ぺチェルースカ大修道院へ。この修道院には地下墓地があるということだったので、行ってみる。女性はスカーフで髪を隠さねばならず、入り口でスカーフを買う。終日霧という悪天候もあってか、観光客はどこにもいなかった。ミイラがガラスケースの中に収められていて、そのガラスケースに頭をつけて祈る人たちがたくさんいた。特定の宗教に属さない者の目からしてみれば、慣れない空気で恐怖感に似た感情を持った。地上に出たら、ちょうどミサをやっていたので、見学した。<br><br>Ivano-Frankivskでも、タクシーやバスに十字架をかけている光景は日常だったし、日曜日にミサに行く人たちもいた。その一方で、「僕は神を信じない。信じるとすれば、それは自然の中にある力で、宗教という枠の中での神という概念は持っていない」という人もいた。日本よりは宗教に関連した行事や、慣習が多いものの、若い世代にはそれほど強い信仰心を感じることはなかった。<br><br><br>町に戻って、前代のAIESEC in UkrianePresidentに会う。彼らはAIESECの同僚たちと、会社を立ち上げていて、日産が入っているビルの一室にオフィスを構えていた。オフィスでは、彼が現役の時の映像や、写真をたくさん見せてくれた。どの国でも、AIESECのOBたちは、本当に楽しそうに、当時の話をする。<br>ウクライナについての話をした時に、多くの人が言っていたように、彼もこんなことを話していた。<br><br>「ウクライナは若い国だから、年代によって人々の考え方や行動にも差がある。けれど、数年発てば、もっと素晴らしい国になるよ。ロシアとEUに挟まれている立地も活かせるはずだしね」<br><br><br>そういう話をする彼らは、いつもとてもいい表情をしている。<br>けれど、一方で、私は彼らにはキエフを東京のような街にはして欲しくない、とも思った。
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<link>https://ameblo.jp/franik/entry-10283556402.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Jun 2009 17:58:24 +0900</pubDate>
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<title>ウクライナ－キエフ</title>
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<![CDATA[ 首都、キエフについて。<br><br>イヴァノ・フランキフスクから夜行列車で12時間。11月の末に、キエフへと向かった。メトロの駅へ向かう途中で、スリ集団の洗礼を受けるなど、あまり良いスタートを切ることはできなかったが、3日間を利用して、わりと多くの場所を回れたので、書いてみることにする。<br><br>まず、キエフについて驚いたのは、物価の高さ。駅近くのカフェでは、モーニングセットが17grn（400円ほど）と、もう東京の物価と大して変わらない。一日、10grn未満のFranikでの生活とは大違いだ。<br>また、宿泊施設を確保していなかったため、ガイドブックで調べたホテルに電話をするも、ホテルの人間が英語をまったくしゃべれない。埒があかないということで、直接ホテルへ向かうことになる。ホテルへついてからも、相手の顔が見えて、紙とペンが使えるという点ではマシだったものの、誰一人として英語がしゃべれず、チェックインにも時間がかかる。<br><br><br>それでもなんとか、チェックインをすませ、メトロでコントラクトヴァ・プローシチャという駅へ向かう。ところで、キエフのメトロは東京のメトロとほとんどスピードが変わらない。朝のラッシュ時は毎45秒おきに、電車が来るらしい。切符というものはなく、プラスチックで出来た青いコインを改札に入れる。距離によって代金が変わるということは無く、たしか日本円にして20円ほどだったと思う。<br><br><br>さて、コントラクトヴァ・プローシチャだが、ここにはチェルノブイリ博物館がある。例に寄って道に迷い、人に尋ねまくるが、「知らない」と答えるものが大半。地元では、あまり有名な場所ではなかったようだ。<br>博物館はお世辞にも良いものとはいえなかった。展示物の解説はロシア語のみで、展示されているものも、亡くなった人の顔写真や、当時の記録文書ばかりで、実際の事故当時の様子を伝えるような工夫がなされていない。「本当に伝える気があるのか、この博物館は？」というのが正直な感想。<br>それでも、訪問ノートには、多くの日本人の名前が残されていた。<br><br><br>その後、メトロで一駅移動。<br>ケーブルカーに乗って、ドニエプル川を眺めつつ、山を登り、聖ミハイル教会へ。真向かいはソフィア教会があり、教会前の広場には、1933年の大飢餓で亡くなった人々を弔うための、キャンドルが無数に置かれていた。広島の灯篭流しを思い起こさせる光景だった。<br>ソフィア教会の塔からは、キエフの町が一望できる。ただし、この塔の階段のぼりはさすがにきつかった。<br><br><br>教会近くのアンドレイ坂には、たくさんのみやげ物やがある。街中は高いので、買い物はそこで済ませ、ペトリーフカのマーケットへ。そこには、紅茶から書籍、CDに至るまで、多くのモノが売られていて、<br>Yen Simはマレーシアのマーケットと良く似ていると話していた。<br><br><br>一日目はこれで終了。
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<link>https://ameblo.jp/franik/entry-10283556005.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Jun 2009 17:57:45 +0900</pubDate>
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<title>アメリカ－ワシントンDC</title>
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<![CDATA[ US研修中の週末、NCのRaleighというところから、Washington DCへ日帰りドライブをした。<br>同期の友人は、そこで学生時代の友人と会うということだった。私は一人で街をぶらつく予定で、彼女のDC行きに便乗したのだが、当日の道中、彼女の友人も、一人、知り合いを連れてくるということで、私は、その人と、半日DCを観光した。<br><br>その彼は韓国からの旅行者だった。お互いが共通言語である英語を流暢に話せなかったこともあり、かえって一方がストレスを感じることも無く、面白い会話ができたように思う。<br>市内でタクシーに乗ったとき、あきらかに、ぼったくられた金額を請求されたので、私は運転手に抗議しようとしたが、彼に止められた。<br>なんで正規の料金を尋ねないのか、と質問したが、まあいいじゃないか、というような感じで、さして気にしていない様子だった。<br><br>私が日本人、中国人、韓国人の見分けがつかないというと、それをきっかけに、街中ですれちがうアジア人の国籍あてゲームが始まった。すれ違うときに、話している言語で、いずれの出身かがわかる。韓国では、いま流行のブランドがあって、韓国人は皆、そのブランドのロゴの入ったジーンズをはいているからすぐに判別がつくのだそうだ。<br><br>そして、２０歳の男の子である彼が興味深そうに私に尋ねたのは、「日本でも男が女の子に奢る」というのが普通の習慣なのか、ということであった。そこで合点がいったのが、タクシーに乗ったときに、料金を払おうとした私の横から、「いらないから！」といって、ありえん素早さで運転手にお金を払った時のことだ。<br>なるほど、と思い、韓国ではそうなのかと尋ねたら、「その判断はとても難しい。僕個人としては、割り勘というのが公平で一番良いと思うけれど、そうは思わない人もいる」ということだった。きっと、国籍も異なる初対面の人間とタクシーになんぞ乗って、どうすりゃいいのか判断がつかなかったんだろう。結局のところ、割り勘も断られてしまったわけであるが、質問に関しては、「日本の女の子も考え方は人によるよ」という返答を返しておいた。あんまり有益な返答とも思えないが、実際にそうなんだから、そういうしかない。<br><br><br>ところで日本人は写真をよく撮るという話は有名だが、私に言わせれば、日本人以上にカメラ好きの外国人の方が多いように感じる。それも、ふとした瞬間にシャッターを切るのではなく、有名な建造物の前での「記念撮影」を撮りたがるのだ。「私はここに行ったのだ！」という記録を残したいのだろうか。有名建造物をバックにした記念写真というモノの価値が、私にはいまいちよく分からない。<br><br><br>WashingtonDCという街は、非常に住み心地のよさそうな街だった。観光に行くだけとなると、すでに多国籍料理を食べたり、ショッピングをする環境に恵まれた都会人には、あまり珍しいものもなく、適してはいないかもしれないが、都会過ぎず、かといって田舎でもない。のんびりと長期滞在して、街の人たちとの生活を楽しむとすれば、良いUS滞在の一コマが作れそうだ。
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<link>https://ameblo.jp/franik/entry-10283555288.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Jun 2009 17:55:31 +0900</pubDate>
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<title>ポルトガル－カルダス・ダ・ライーニャ</title>
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<![CDATA[ 5月某日。<br>リスボンに退屈した私は、絶対に行こうと決めていたナザレという海辺の町へ向かうべく、高速バスのターミナルへ。<br><br>バスには「NAZARE」というオレンジ色の電光表示。リスボンから高速バスで2時間くらいという情報は、例によって『地球の歩き方』により得ていた。<br>初めて乗るポルトガルのバスは、日本のバスに劣らずキレイ。ベトナムのバスみたいに、前後の座席の間が極端に狭くないし、ウクライナのバスみたいに埃っぽくも無い。実に快適だった。<br>乗車券には座席番号が記載されていたけれど、バスの前部に8人ほど集中しているだけで、後部座席はガラガラ。<br>バスが出発すると、私は一番乗りで、広々とした空席に移った。<br><br>リスボンを抜けてからは、緑色の畑風景が広がり、遠くのほうに、低い山が時折見えた。<br>アジアの風景とは明らかに違う、「正統的なヨーロッパの田舎風景」が続いた。<br><br>１時間ちょっとで、バスは町に到着した。<br>バスターミナルには町の名前を示す標識はなかったが、町に入る直前に「NAZARE」という文字とともに、町の入り口の方向を示す標識をみていた。<br>前部の指定された席に、きっちり座っていた乗客たちががバスを降りていった。<br>私もバスを降り、ターミナルを出た。<br><br>まずはじめに、荷物を持ち歩かずにすむように、宿を探すことにした。<br>どうしても、海の見える宿がよかった。ナザレの地図を見ると、海岸まで数百メートル。<br>自分が進めた歩幅の分、だんだんと近づいてくる砂浜の向こうの大西洋を想像して歩き始めた。<br>ターミナルの前では、花や食料品を売るマーケットが開かれていた。賑わいを横目に、私は海を目指して歩を進めた。道の両側にはブランド品のお店やレストランもあり、観光客らしき人たちが大勢いた。賑わいを抜けると、広い通りにでた。しかし依然として、海は見えてこない。地図によるとターミナルから海岸まで、数百メートルしかないのに、海が見えないどころか、潮の香りもして来ない。<br><br>正午を過ぎて、日差しも強くなり、荷物を抱えたままウロつくのに疲れて、私は歩いてくる途中で見た、レジデンスという文字と、ベッドの絵が書かれた標識のある場所に引き返した。<br>宿の受付には、自分と同じ年頃の女の子がいた。ポルトガル人のルーツは様々なようで、「こんな顔がポルトガル人」というのは難しいけれど、強いて言うなら隣国の、スペインの人たち特有の、目鼻立ちのハッキリした、体系のスラッとした小柄な女の子だった。<br><br>「宿を探しているんだけど、今夜の空きはある？」<br>「何泊する予定？」<br>「たぶん、1泊か2泊。いくら？」<br>「３０ユーロ」<br>「うーん。それより安い部屋はない？」<br><br>いつも宿泊客から、同じ質問を投げかけられているのだろう。女の子は「残念だけど」という慣れた笑顔を返した。<br>疲れていたし、とりあえず荷物を置いて他にいい宿が見つかれば、また移ればいいや、と思い、私はチェックインを頼んだ。<br><br>「ところで聞いたいんだけど、この地図で言うとこの宿はどこらへんにあたるのかな」<br><br>女の子は私の示した『地球の歩き方』に載っている小さな地図を、真剣な表情で確かめた。そして、はっきりとした口調で言った。<br><br>「わからないわ」<br><br>地図は一応、ポルトガル語表記もされていたので、わからない、という返事もおかしいと思ったが、私は、それについては追求せず、質問の仕方を変えることにした。<br><br>「じゃあ、このあたりの名前を教えてくれない？」<br>「×△■＠×△■＠」<br><br>ぜんぜんわからん。すべき質問を間違えた。<br><br><br>「発音が難しくてわかんないんだけど、それ、通りの名前？」<br>「ううん、町の名前よ」<br>「町？ここはナザレだよね？」<br>「いいえ、町の名前は×△■＠×△■＠よ」<br>「！」<br><br>発音がいくら難しいとはいえ、「ナザレ」と彼女が発音していないのは明らかだった。<br>女の子は、また、「残念だけど」という表情を浮かべた。<br>しかし、目的地を間違える客は、流石にそんなにいないのだろう。さっきの慣れた微笑み方とはちょっと違っていた。<br><br>「・・・じゃあさ、ナザレまでどれくらいなの？」<br>「うーーーーん。」<br><br>女の子はまた真剣な表情で、パソコンのキーをたたいて調べてくれた。<br><br>「４５分ってとこかしら。タクシーで」<br><br>『地球の歩き方』によれば、リスボンから2時間。バスを降りたのは、出発から１時間ちょい。ナザレまで、ここから４５分。<br>間違えた。バスを降りるべき町を。完璧に。<br><br>「あっちへ行けば、ターミナルに着くわよ」<br><br>わざわざ宿の外へでて、方向を教えてくれた彼女に礼を言って、私はさらに日差しの強くなった通りを歩いた。<br>もっと交通機関が適当な国でも、目的地を間違えるバカをしたことはなかったというのに、ここへ来て、こんなヘマをするとは。。<br>ていうか、なぜ地図を見ていて気づかないんだ。。アホか。<br><br><br>ターミナルで、係のおばちゃんに「ナザレ行きのバスは何時？」と聞いたが、「ポルトゥゲース？」と聞かれ、わたしは首を振った。<br>すると、おばちゃんはどこからか、英語の話せる、にいちゃんを連れてきてくれた。<br>ターミナルで働いているのだろう。制服を来た、ちょっと太めのにいちゃんだった。<br><br>「ポルトガル語しゃべれる？」<br>「しゃべれない」<br>「OK、英語でしゃべっていいよ」<br>「1時間くらいまえのナザレ行きのバスに乗ってきたんだけど、降りるとこ間違えちゃったんだよね。なんとかなる？」<br><br>すると、にいちゃんはこっちにおいで、というジェスチャーをして、事務所の方へ歩いていった。<br>後を追いながら私は、きっとここからナザレまでの乗車券を買わされるんだろうなー、でも払うのやだから言われたら交渉しよう、と思っていた。<br>事務所につくと、「乗車券を見せて」、とジェスチャーで言われたので、券を渡すと、にいちゃんは新しく発券したチケットを、その上にホッチキスでとめた。<br>またバス停の方へ戻ると、ここでちょっと待ってて、と言った。<br><br>「次のバスは何時に来るの？」<br><br>まあ、ちょっと待っててよ、というサイン。<br><br>この、感覚…。相手はしっかりわかっているけど、こっちに情報が明かされないまま、とりあえず待たされる、もどかしい状況。<br>これは、アジアでよく出くわす状況だ。<br>アジア旅行の方が経験的に多い私は、こういう時、悪い結果を想定するようにプログラムされてしまっている。<br>奴らが「すぐだよ、すぐ」と言って、こちらを待たせるときや、具体的な時間を明かさないときは、決して「すぐ」じゃないのだ。<br><br>数分後、にいちゃんが到着したバスの運転手の傍で、私を呼んだ。<br>なにやら、先ほどの乗車券をしめして、運転手に説明している。<br><br>「OK」<br><br>にいちゃんは、それだけ言ってバスの方を顎で示すと、その場を去っていった。<br>バスの表示には、「NAZARE」の文字はない。<br>運転手に「ナザレ？」と聞くと、彼はうなずいて、乗るように私を促した。<br><br><br>バスが出発し、私は事の顛末を思い返した。<br>お金は一銭も払わず、にいちゃんにはお礼も言ってなかった。<br>アジア旅行の経験上、面倒なことが起こるかもな、と身構えたが、まったくの取り越し苦労だった。<br>わたしは、ポルトガルという国に対して、失礼なことをしたような気分になった。<br><br><br>『地球の歩き方』を開くと、ナザレの前のページに、「カルダス・ダ・ライーニャ」という町が紹介されていた。<br><br>「×△■＠×△■＠」<br><br>宿の女の子の難しい、長い発音は、カルダス・ダ・ライーニャのことを言っていたのだ。<br>最初のページを見ると、「ターミナルの傍の広場では朝市が開かれる」とあり、写真が載っていた。<br>わたしがターミナルを出たときに見たマーケットは、これのことだったのだろう。<br><br><br>ナザレを目指す途中で、思いがけずに降り立った発音の難しい町。<br>この町で、私はポルトガルの人たちの、飾らない優しさに触れることができた。<br>
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<link>https://ameblo.jp/franik/entry-10283034806.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Jun 2009 20:41:25 +0900</pubDate>
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