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<title>私流哲学</title>
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<description>哲学、政治、科学、社会学などなど、独自流で思うことを書いていきますっ。</description>
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<title>幽霊は存在するか？</title>
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<![CDATA[ <p>私にとってはロマンである。</p><br><p>幽霊が存在する＝あの世が存在する</p><br><p>ということなので、死に対する恐怖が非常に和らぐという点で非常にありがたい。いずれくる「死」に対してこれほど心強いことはないわけです。</p><br><p>しかし残念ながら、どうもいないということになりそうです。</p><br><p>よくあるのが心霊スポットなどでの目撃情報ですが、体験者はウソをついているのでしょうか？もちろん、そういう人もいるでしょうが、おそらくはちゃんと「体験」している可能性は高いです。</p><br><p>アメリカでは、そういった心霊現象に対して科学的にアプローチする実験が多くなされており、例えば、こんな実験があります。</p><br><p>１）特にいわくもなければ、心霊スポットでもない廃墟をひとつ用意します。</p><br><p>２）被験者に事前にアンケートを取り、「心霊現象を信じるかどうか」をヒアリングし、２つのグループに分けます。</p><br><p>３）被験者全員に、そのなんでもない廃墟について「寝室で殺人があり、幽霊の目撃情報がある」と話します。</p><br><p>４）それぞれに廃墟に入ってもらい、幽霊と遭遇したかどうかを聞きます</p><br><br><p>そうすると、もともと幽霊を信じるグループが圧倒的に「見た」と答え、しかも目撃場所が「寝室」に集中します。まさしく幻覚によるものなのですが、人はいとも簡単に幻覚を作り出すことが可能です。</p><br><p>また、こういう実験もあります。人間には聞こえない重低音を流した廃墟で実験させると、飛躍的に幽霊の目撃数がアップします。この重低音は聞こえないのですが、人間の心理を不安に陥れる効果があり、建物の構造状態などによりますが、風が吹き抜けるだけでも発生するもので、心霊スポットにはそういった状態が作られている可能性もあります。</p><br><p>通常の心理状況からかけ離れた状態で、より体験談が多いことなどを考えると、心霊体験はウソをついているわけではなく、れっきとした「幻覚」であるといえるでしょう。</p><br><p>ちなみに私も過去３渡ほど、不可思議な体験をしたことがあります。</p><p>どれも幻覚だったと思っています。</p><br><p>そこまでいうなら、数ある心霊スポットを巡ってこい！と言われそうですが、幻覚でも怖い想いはしたくはありませんので、率先して行きたいとは想いませんが、やはり、そういう場所に行かないほうがよいでしょう。</p><br><p>幻覚であろううが、呪われたと自己暗示がかかれば、その後も幻覚に苦しむことになります。</p><p>怖がりほど、幽霊（幻覚）は見えてしまいますし、そうでなくとも、心霊スポットは「幻覚発生装置」のようなものなので、平気だと思っても近づかない方がよいといえるでしょう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/freelife-in/entry-11559936286.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Jun 2013 23:07:10 +0900</pubDate>
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<title>この世は存在していない？</title>
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<![CDATA[ <p>「この世は確率的にしか存在していない。」</p><br><p>少し誇張した表現ではありますが、最新物理学の見解からするとそういうことになるようです。</p><p>では、順を追ってご紹介してきましょう。</p><br><p>物質の最小単位は量子というものになります。</p><p>原子のさらに小さなものたちです。様々なものがありますが、代表的なものは電子。光の粒子なんかも量子になります。</p><br><p>詳細は省略しますが、この量子、確率的にしか存在していません。</p><p>どういうことかというと・・・</p><br><p>A地点にいる確率：７０％</p><p>B地点にいる確率：２０％</p><p>C地点にいる確率：１０％</p><br><p>というふうに、分布している確率と場所までは特定できるのですが、「観測するまでは」もやのような状態で存在はハッキリしていません。</p><br><p>もうちょっとわかりやすくいうと、電子君の休日の過ごし方は</p><br><p>秋葉原にいる確率：７０％</p><p>池袋にいる確率：２０％</p><p>自宅にいる確率：１０％</p><br><p>というところまでは確かなのですが、電話して電子君に居場所を確認するまでは、秋葉にも池袋にも自宅にも存在しています。同時に存在しています。で、電話した瞬間に彼の存在が確定し、物質としての性質を持つようになります。ウソのような話なのですが、これが大マジメに本当の話。</p><br><p>これらのことを踏まえて、解釈するとこの世はあたかもRPGのゲームの世界に非常に近しい具合になります。</p><br><p>あなたが今リビングにいるとします。で、寝室に入ろうとしています。</p><p>確率的にはほぼ、いつもどおりベットがあり、シーツがかぶせてあり、そして枕があるのですが、観測するまでは、確率的に規定されているだけで、冗談抜きで確定していません。</p><p>確率上、いきなりトイレになっている確率もありますし、断崖絶壁になっていることもありうるのです。</p><p>RPGゲームで街を探索すれば、ほぼ間違いなく、いつもの場所に宿屋があり、いつもの場所に武器屋があるのですが、あくまでプログラムでそこにある確率をほぼ１００％にしてあり、その地点までプレイヤーを動かすとほぼほぼ宿屋なり武器屋が出現するのですが、その地点にいくまでは確率上のプログラムでしかない、そういうことがこの世界でも行われているということです。</p><br><p>にわかには信じられませんし、かのアインシュタインも量子の振る舞いについては素直に認めませんでした。しかし、そうであるとしないと物理学の世界では成り立たない事柄が多すぎるのです。</p><br><p>もう一つ例を挙げましょう。</p><p>量子の中には、対になっているものがあり、片方が右回りにスピン、片方が左回りにスピンしているものがあります。必ず、別方向にスピンしています。</p><br><p>この対になっている量子の片方だけを遠ざけて、別々の場所に置きます。</p><br><p>量子は観測するまでは、どちらにスピンしているかどうかは確定していません。５０％で右回り、５０％で左回りという２つの状態が同時に存在しています。</p><br><p>で、今、その片方のスピンの向きを確認したとします。</p><p>「右回り」と確定した瞬間、他方の量子は「左回り」が確定します。</p><p>実に何万光年引き離しても、そうなります。</p><br><p>つまり、情報が瞬時に伝わるということ。</p><p>光速以上でものは動けないのですが、光速うんぬんというより、タイムゼロで情報を伝えることが可能であるということです。</p><br><p>これを利用して、現在実験が行われているのが、量子ネットワークというもので、完成すれば本気でタイムゼロで情報を伝達することが可能になりますし、量子コンピューターというものも開発中で、とんでもない早さのCPUも作れることになります。</p><br><p>量子の世界では、ほぼ間違いなく、彼らは確率上でしか存在しておらず、常にモヤのような状態でしかありません。ただ、ミクロからマクロ、つまり、我々が認知しているレベル（マクロ）になるとどうなのか、というところは、いまだに議論が決着していないところであり、「シュレーディンガーの猫」という話や、アインシュタインの「神がサイコロをふらない」という逸話などが有名です。</p><br><p>それにしても不可思議ですね。</p><br><p>「なにゆえ観測するまで」は不確定な状態なのか、しかも「なにゆえ観測すると」確定しようとするのか、また「なにゆえ、世界はそんな風に構成されたのか」。</p><br><br><p>どこかに超巨大コンピューターのようなものがあり、誰かがシムシティのようなゲームを遊んでいるだけなのかもしれませんね！</p>
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<link>https://ameblo.jp/freelife-in/entry-11559906833.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Jun 2013 21:15:07 +0900</pubDate>
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<title>「信じるものは救われる」はわりと正しい</title>
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<![CDATA[ <p>前記事では、ブッダの「人生は苦だ」という話をしてきた。</p><br><p>ブッダはその苦しみがどこからくるのかを追求し、欲望（煩悩）が原因であり、それを細分化して対処法を考えようとした。</p><br><p>人生は苦である。そしてそれに対しどうすればよいのか。</p><br><p>実に宗教の起源はここにあるのかもしれない。</p><p>世界的にもっともメジャーな宗教といえば、キリスト教である。イエス・キリストは人類史上最も有名な人物であり、聖書は人類史上最高発行部数の書籍である。</p><p>では、キリスト教ではどのような答えを用意しているのだろうか。</p><br><p>まずもって大前提として、「神」の存在を認めなければならない。</p><p>なので、我々、キリスト教や神の存在に馴染みのない日本人にはその感覚はあまりよくわからないが、ヨーロッパ旅行などに行き、有名な教会などに立ち寄ったことのある人なら少しわかるかもしれない。写真などで見るよりかなり神秘的かつ催眠的な場所である。あの荘厳な雰囲気を幼少期に味わい、周りの大人達から当たり前のように言い聞かせられれば、普通に「神」の存在を信ずることになるだろう。</p><br><p>正確には前身であるユダヤ教の話になるが、その神がまず７日間かけてこの世を作ることから、教義はスタートする。これを創造論という。</p><br><p>その後、人間の始祖であるアダムとイブには楽園が用意され、人間は何不自由なく暮らすことになるが、サタン（悪魔の親分みたいなの）の使いのヘビに騙されて、禁断の果実を食べてしまう。この禁断の果実は知恵の実といい、悪賢くなったりするそんな果実だったように思う。</p><p>で、神様というのは我々、クリスチャンでないものからすると、非常に癇癪持ちかつ非寛容に感じるのだが、激怒し、人間を楽園から追放してしまう。</p><br><p>その後も、人間は度々神を怒らせまくる。</p><p>例えば、バベルの塔。神様の近くへ行きたいがために、なるべく高い塔を立てようとしたのだが、神様は、</p><br><p>「おおーういやつじゃっ（ニッコリ）」</p><br><p>とはならず、スーパー激怒。</p><p>雷槌で塔を破壊するだけでは怒りは納まらず、二度と人間たちが協力して塔が作れないように、人々の言語を分断してしまう。だから、この世界は違う言語だらけになったとしている。バベルの塔を建造しなければ、学校で英語を勉強しなくてもよかったのでは、と思うと、なんとも腹立たしい話である。</p><br><p>さて、また前置きが長くなってしまいましたが、「なぜ、人生は苦なのか」という答えはキリスト教的には</p><br><p>「そもそも、人間が罪を背負って生まれてきたから」</p><br><p>という答えになる。</p><p>なにもまだ悪いこともしてないのですが、我々現代人は、生まれた時点で罪人なのである。</p><p>だから、人生苦だらけで当然というわけだ。たいへん理不尽な話だが、「だって一度は楽園を用意したげたやん？それをおまえらが約束を破ったんやん？で、そのあとも散々やったやん？」というのが神様の言い分なのだ。</p><br><p>キリストは何をした人なのか。</p><br><p>そもそも「人」なのか「神の子」なのかハッキリしない。これは教派によって違うようであるが、何にしてもそういう神の怒り＝罰を一人で背負って死んでくれた人という言い方が一番わかりやすいかもしれない。我々愚民の代わりに、耐え難い苦を味わい代理してくれたというわけだ。</p><br><p>では、その人生の苦に対する対処法はというと・・・</p><br><p>これがなかなかすごいのだが、基本的には「ない」という答え。</p><p>もう少しちゃんと言うと「生きている間には、ない」という答えになる。キリスト教を信仰し、教義を守る人生を全うすること、それはつまり罪を償うことにつながり、最後の審判の日にその時代に生きている生者、それまでに死んだ死者、全てまとめて、天国行きと地獄行きに振り分けられる。</p><p>つまり・・・</p><br><p>人間に生まれた時点で罪→人生はある意味、服役中みたいなものなので、苦しいのは当たり前→教義を守って、正しく生きれば→天国にいけるよ！</p><br><p>ということなのだ。</p><p>「なんで人生って苦しいんだろう・・・」と思い悩むものにとって、非常にわかりやすい説明なのである。ブッダの場合、結構科学的というか心理学的に苦が発生する心理システムにアプローチしているが、正直難しいし、ほぼ悟りは開けないという絶望的なゴール設定に比べ、かなり甘いゴール設定であるし、当時、「神」の存在に疑いを持たなかった人々にはかなりすんなり受け入れられたのではないだろうか。</p><p>仏教もわかりやすくしてから、一気に布教している。例えば、浄土宗は「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽浄土が約束される。その意味は理解していなくとも、エッセンスが詰め込まれた文言なのでそれでよいという理屈だ。マニ教という宗教の場合、赤ちゃんをあやすくるくると回るおもちゃののようなマニ車と呼ばれる教義の書かれたものを回すだけでよいものもある。</p><br><p>なんにしても、当時の人々の心はそれで救われたのである。</p><p>裕福な生活のできる現代日本人には全くわからない感覚だが、本当にただ生き抜くだけでもかなりキツイ人生が多かったのだろう。</p><br><p>しかし、キリスト教にはかなり神秘的な部分に頼るところが大きい。</p><p>先ほど挙げた創造論が代表例で、神様が人間を含め、全ての生物種を作ったとしているが、これが進化論と真っ向から対立してしまう。創造論は聖書に書かれてしまっているわけで、間違いを認めることはできない。ましてや、人間は神の姿を似せて作られたものとしているので、サルから進化したなどと認めるわけにはいかないのだ。</p><p>こういった科学の進歩と聖書との矛盾は次第に大きくなり、しばしば対立論が発生する。それは我々日本人が思う以上に大きく、アメリカのある州では、学校で進化論を教えることは違法であると判決が出て、一時期、創造論を無理やり科学チックに作り変えて聖書の内容と矛盾が出ないようにした「インテリジェンス・デザイン論（ID論）」を教えることになったこともある。</p><p>また、もともと科学は、神が造られたこの世界を理解しようとしたことがその力の源泉になっている。古の科学者達はいろんな自然の法則を発見するたびに、その厳格で秩序高い完璧さに</p><br><p>「やべえ！！！やっぱ神様すげええ！！！」</p><br><p>と感嘆したわけだ。</p><p>しかし、地動説や進化論など、無敵の神様論を打ち破る危険のあるものまで生み出してしまったことは皮肉的なことだと言えるだろう。</p><br><p>ただ、神の存在を認めず、人生の意味を問おうとすると、前記事のニーチェのように「この世は無価値」つまり「人生は無価値」というニヒリズムに陥ることになる。ここからの脱却は、少なくとも神を信じて生きていくよりかなり難しい。ただ神を信じ、聖書に書かれている生き方に従順であれば、死んでから救われるのだ。だからこそ、庶民にとっては「信じるものは救われる」がわりと正しいとなるのである。ブッダのように煩悩と戦い、史上達成者一名という超難関「悟り」に到達する必要もない。</p><p>これこそがキリスト教最大のメリットであり、また布教率の高さの源泉でもあるといえるだろう。</p><br><p>しかしながら、前述した科学との対立以外にもデメリットも大きい。特に社会組織的になると問題化するものが多い。</p><br><p>わかりやすいのは、他宗教との対立。</p><p>これは一神教、つまり、「神はひとつ」という考え方のものは全てそうなのだが、他の信仰を認めない姿勢からくるもので、ご存知のとおり歴史上様々な宗教戦争を引き起こした。多神教、例えば日本のアニミズム（川、山、石、木、様々なものにそれぞれ神様がいる）の場合、他宗教に対し寛容である。ちなみになのだが「アニメーション」という言葉はこのアニミズムが語源である。無機物に生命を与えるという意味で、ある意味、日本がアニメの最先端なのは妙理であっり、なかなか面白い。</p><br><p>次に社会構造で発生する格差層同士の対立の加速化。これはニーチェが非常にわかりやすく説明している。貴族階級（勝ち組）に支配される一般市民（負け組）にとって、貴族階級は悪である。まあ、これは今の日本社会でもこういう考え方をする人が結構いるわけだが、生活が貧しく質素倹約しなければならないのは彼ら支配階級のせいであると考える。キリスト教は基本的には禁欲主義で、質素倹約は結構正義なところがある。つまり、弱者＝正義という保証を与えてしまう恐れがあるのだ。</p><p>富を持つことは「悪」だとされる恐ろしさは想像するに難くない。メディア、特にネットに蔓延する怨恨感情（ルサンチマン）を見ればそれは一目瞭然だろう。</p><br><br><p>なんにしてもキリスト教も「人生とは？」ということ答えのひとつを語っている。我々日本人には難しいが「神の存在」を大前提とすることができるならば、前述のニーチェやブッダよりもかなり明確である。</p><br><p>さて、次回は、少し話を変えて、量子物理学の話をしたいと思う。</p><p>我々の体を含め、全てのものの最小構成単位は「原子」と学校では習うが、実はさらに小さい「量子」によって構成されている。その量子なのだが、</p><br><p>「実はちゃんとそこに存在していない」</p><br><p>と現代物理学は説明するのだ。すんごい変な言い方をすると、</p><br><p>「あなたは実は、そこにいない」</p><br><p>と科学的にすごく非科学的なことを最先端の物理学者達は語っていたりする。</p><p>実に哲学的な側面もあり、なかなか面白いのでそのエッセンスを紹介したいと思う。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/freelife-in/entry-11558588305.html</link>
<pubDate>Sun, 23 Jun 2013 07:24:17 +0900</pubDate>
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<title>「人生とは何か」に対するある人の答え　その２</title>
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<![CDATA[ <p>さて、次にご登場願うは仏教の始祖ブッダである。</p><br><p>ちなみに私はお坊さんでもなく、普通のおっさんなので、仏教に対して正確な知識かどうかは保証しない。また、前記事のニーチェさんに対する記述も保証はできないことを先に言い訳させておいて頂く。</p><br><p>あくまで私個人の自己解釈によるものである。</p><br><p>ブッダは</p><p>「人生は苦である。いやいや、マジで。もうほんと基本的に苦痛ばっかり。生まれてくる事自体が苦。病気にもなるし、嫌でも老いてくし、最後は、あんた、知ってる？死ぬんですよ！？」</p><br><p>あまりに簡単に言い過ぎだが、これが仏教でいう「生老病苦」というやつである。</p><p>ブッダはこの真実を心の底から受け入れて、その上でどうしたらいいかを考えぬいた人である。</p><p>これが実に簡単なことではない。本気で受け入れようとすると、前記事のニーチェの途中の段階に陥ること請け合いである。そんなの御免、まじで今すぐにでも死にたくなるというもの。</p><br><p>現代仏教、特に日本における大乗仏教は、かなり神秘的なものになっていて、そんな死にたくなるような話を坊主が説教したりすることはない。どちらかというと、身内の死に対して、どう対処するべきかを提供するビジネスである。</p><p>現代仏教には大きく小乗仏教（上座部仏教）と大乗仏教に分かれていて、タイを代表する東南アジアでは小乗仏教、日本では大乗仏教が主流である。違いは、信じていれば全員救われるかどうか。日本の大乗仏教は信じていればそれだけで誰でも救われちゃう感じだ。極端な話、意味もわからず、ナンマイダーと唱えていれば、極楽浄土へレッツゴー、というと多分、間違いなく怒られるが違いを理解するには我ながらよい表現だと思う。</p><br><p>ブッダは仏教の創始者ではあるが、彼の本来の考えと、現代の我々の仏教のイメージとはかなり違う。少なくとも私はそう感じる。そもそも輪廻（何度も生まれ変わること）については、その時代、疑いようのないメジャーな考え方であったりして、完全否定はしてなかったようだが否定的とも取れる言葉を残している（正確には弟子に伝えている）。それに関連して、死んだら終わり、あの世もなけりゃ、マジで終了といった印象すら受けるレベルだ。弟子の「死んだらどうなるんですか？」という問いに対して、簡単にいうと「俺、死んだことがないからわかんねーよ、そんなの。だから考えてもしょうがなくね？」という具合でごまかしている。</p><p>基本的にはブッダ自身が直筆で残したものはなく、弟子達が編纂したものが原始仏教になるのであるが、グループ抗争が勃発、自分のグループの都合のよいように解釈しようとした背景があり、この辺りはキリスト教他、同じような経緯を辿っている。ただ、一つ言えるのは、仏教はもともとはブッダという人が挑んだ哲学であり、その成り立ちが宗教的な部分も小さかったがゆえに、他の宗教にも寛容で、その時代、その土地に合わせて、キリスト教などに比べても内容は変化できるものであったことは間違いないだろう。</p><p>が、故に、もともと哲学だったものが、ずいぶんと神秘あふれる宗教に変わってしまったともいえるわけである。</p><br><p>と、まあ、仏教の変遷は置いておいて、ブッダ自身の哲学を借りて話を進めたい。</p><br><p>彼はもともと小国の王子様だった。つまりはパンピーに比べて不自由のない生活を送っていたのである。嫁と子供がおり、まあ、変に悩まなければ、我々俗人の目で見ればなかなかよい人生を送れたのではないだろうか。</p><p>しかし、街散策した彼は一般市民の「人生の苦」を目の当たりにして、大いに悩み苦しんでしまう。あっちに行けば病気で苦しむ人、こっちでは老いてよぼよぼの醜い姿、そして死にゆく者、そういった情景に対し、我々のように「あーやだやだ！まじで死ぬとか考えらんねーし、とりあえず考えたくない！てか、腹減った、めしだぁー！」と目をそむけたりはできなかったようである。</p><br><p>そのあと彼は、地位や家族を捨てて、苦行の世界に没頭する。滝を浴びるとかそういうレベルでなくて、現に死にかけていたレベルで究極の苦行に耐えている。いまいちよくわからないが、苦をなくすことはできない確かに存在する、ならば更に苦しいことに耐えられるようになれば、全ての苦に対しても耐えられるようになると考えたのかもしれない。確かそんな説明が何かの本でもあったような気がする。</p><p>これもわからない理屈でもない。</p><p>毎日ぐーたら、好きなときに起きて適当に出前で好きなもの注文して、ゲームでもやりながら、眠くなったら寝るという生活を送るニートが一人いたとする。彼にとっては一日足りとも労働するということは極めて苦痛であろう。しかし、その苦痛に耐えて、１年もすれば、少しづつ苦痛を感じなくなる。簡単にいえば「慣れ」というやつだ。習慣化させることで、脳そのものを変化させてしまえばよい。PCでいうなら、脳はハードで、行動がソフト、人間の環境適応力を活かして「苦」を「苦」でなくさせることを試みたのではないだろうか。</p><p>結果、彼の結論はこうだ。</p><br><p>「無理！」</p><br><p>死にかけるほど苦行してみたものの、やっぱりしんどかった。「苦」を完全に取り払うことはできなかったようで、死にかけているところにスジャータという娘が通りがかり、ミルク粥をもらって、「やべー！超うめぇぇぇ！」と言ったかどうかは知らないが、そこで苦行は無味なしと結論付けたようだ。</p><p>ちなみに余談だが、コーヒーのクリープのスジャータは、この娘の名前からきている。らしい。</p><br><p>その後、菩提樹という樹の下で、悟りを開く。</p><p>もちろんどういうことを悟ったのか、それは悟りを開いた人でなければ真に理解することはできないわけだが、今のところ、いろいろ宗派によって違いあるらしいが悟りを開けたのはブッダのみか、あと数名程度らしい。で、悟りを開いたブッダは、それもよくわからないが、人生というものを完璧に理解したが故に、大満足してそのまま誰にも教えず死のうとしたらしい。ひょっとすると、ブッダ以前に同じ考えにたどり着いたけど、人に教えず満足して死んでった先人がいたかもしれない。</p><p>ただ、ブッダは、弟子の変遷によるとではあるが、神様のようなものが現れ、ちゃんと教えてまわれよ！と叱られたので、割りと渋々教えることにしたらしい。</p><br><p>いやはや、我々の知る現代仏教とはかなりかけ離れた像である。</p><p>もちろん私の適当にいろんな書物を読んだ中の、さらに記憶のアヤシイものを集めて紹介したに過ぎないが、そんな感じだ。</p><br><p>で、前置きが随分と長くなってしまったが、彼は人生の苦についてどう考えたか。</p><p>私の勝手な解釈ではあるが、まず、</p><br><p>「なぜ、苦しいと感じるのだろうか？」</p><br><p>ということを整理しようとしたフシがある。</p><p>苦しみの種類を細分化したり、それぞれの苦しみの元になっている心の動きや心因を整理しようとしている。で、一つの大枠の結論として、</p><br><p>「欲があるから苦しいんじゃね？」</p><br><p>ということにたどり着く。で、これまた欲を細分化して、いろんな欲望を分類しようとしている。これが煩悩である。ちなみにご存知のとおり、１０８個に分類できたようだ。</p><br><p>人間の内なる欲望を素直に見つめ、それを分析しようとしたあたりは、どこかニーチェに似通っている。詳しくは知らないがニーチェが仏教に触れる機会があったのかもしれない。ニーチェは、時代背景的にキリスト教社会に生きた人だから、キリスト教的な禁欲主義（欲望は悪いこと）という考えが、人が本来持つ活力の妨げになっていると考え、禁欲、つまり、ブッダ的には苦行は意味がないという結論に達しているあたり、アプローチは違えど、根本的には同じような考えに至っていると見ることもできる。</p><p>では、ブッダはこの内なる欲望に対してどう考えたのだろうか。</p><br><p>悟りとは煩悩を完全に消し去ることと説明されることがある。日本で人が死ぬと「仏さん」と呼ぶ。悟りを開いた人のことを「ブッダ（仏）と同じ境地にたどり着いた」としてそう呼ぶらしいのだが、なんということはない、死んで意識がなくなって、欲（煩悩）がなくなったから、やったぜ！ブッダと同じだー！的な感じ…と説明するとまだかなり怒られそうだが、それが一番わかりやすい説明だ。だから、信じていれば誰でも救われる極楽浄土に直行できるという巧妙なシステムが成り立つのである。</p><p>しかし、どうも悟りを開くというのは本来そういうことではないらしい。この１０８の煩悩、言い換えれば愚かしく不幸を招き、人生の至るところで苦をもたらす根源である欲の種類をしっかりと理解し、その欲を「いかにうまくコントロールするか」を説いている。苦をもたらさないようこれらの欲を完璧にコントロールできるおうになったときを悟りをいい、一切の苦を遠ざけることができるグレイトな人生が待ってるぜ！と言っているものと思われる。</p><br><p>まとめると、</p><p>「生まれてきてしまったものはしょうがない。どうも人間というのは、その性質上、苦を感じながら生き、そして死にゆく、そういうものらしい。これはもう、そういうものなんだからしょうがない。でも苦はすんげー嫌。で、苦しいことに慣れちゃえばいいかなって。超しんどい苦行やってみたけど、根本的解決にはならんかった。ていうか死にかけた。もうさ、認めたのよ、欲があるから苦しいんだって。死にかけのとき、ミルク粥</p><p>飲んだらマジでうまかったし、餓死寸前で食欲あるとか普通じゃね？そういうの素直に認めて、欲望があるのはOK！！あとはどうコントロールするか、それが大事じゃね？」</p><br><p>ということ。</p><p>抑えこもうと無理をするのも良くないし、欲望の思うがままに振り回されるのも良くない。ほどほど。ちょっと意味合いは違うが「中道」という言葉も欲望をコントロールする有り様を表した言葉である。</p><br><p>欲をうまく活用しポジティブで活力あふれる人生にしようと考えたニーチェ、欲を分析しコントロールすることが苦をなくす方法だと考えたブッダ。やはり根本的には非常に近い考え方のように思う。</p><br><p>ちなみに般若心経は、「世の中ってこういうもんで、人間なんてこんなもん、だからまあ、こんなふうに考えてこんなふうに行動してみたら楽かもよ？」と実は書いてある。</p><br><p>色即是空空不異色</p><br><p>その一部であるが、</p><br><p>色（現象）すなわちこれ空（なんでもない）である。空（なんでもない）ものも色（現象）に異ならず。</p><br><p>よくわからないが、例えば、美しい女性も時が経てば老いさらばえ、死ねば朽ちて土になる、美しさを感じる心がそうさせているに過ぎず、すなわち全ては移ろい変わるもので不変なものなどなく、つまりは執着するべきものもなく、全ては空である。逆もまた然り。と解釈したりしなかったりである。ニーチェのいう「この世の全ては無価値である」という考えにも通づるあたり、これまた面白い。</p><br><p>「人生とは、無価値であり（ニーチェ）、苦である（ブッダ）」</p><br><p>しかし、この言葉を並べてもそんなに悪いもんでもないのかなと思えてくるから、なんとも不思議だ。</p><br><br><p>次回は、真逆に、なんというか</p><br><p>「この世は価値がありまくり！神が作ったんだから、この世は超絶ふつくしい！！！」</p><br><p>という形式で心の安寧を図ろうとしたキリスト教的考え方を紹介したいと思う。</p>
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<pubDate>Sat, 22 Jun 2013 04:37:22 +0900</pubDate>
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<title>「人生とは何かに」対するある人の考え　その１</title>
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<![CDATA[ <p>前回はこの世の誕生から人が生まれるまで科学的な見地から説明を試みた。</p><br><p>神が存在しうるならキリスト教的に存在意義を見出すことは可能であるだろうが、そんな信心を持たないもの、つまりは科学教信者にとっては、明るく美しい存在意義など見出すことはできないし、それを本当に受け入れようとするとかなり大きな虚無感に襲われる…という話をさせて頂きました。</p><br><p>「あなたに確かな存在意義などございません。まあ、そうですね、DNAという化学組成的に複製機能を持つものがただ複雑化して、その延長線上に、物理的惰性でこの文章を読んでるだけ。そういう存在。」</p><br><p>といわれれば、なんだか明日働くのも、いや、明日以降生きていくことそのものが、希薄というか矮小化してしまう気がしてきます。全てがバカらしくなる、というのがもっと近い表現でしょうか。</p><br><p>しかし残念ながら、この事実をひっくり返すことも否定することも難しいようです。できるのは宗教だけでしょう。</p><br><p>科学が進歩し、神や今まで信じられてきた神秘的なものがどんどんと否定され始めたとき、「この世に意味などない、つまり人生にも特別な意味などない」ということに気付き、悩んだ人がいます。</p><p>ニーチェさんです。ここまで聞くだけだと、めちゃめちゃ暗い人のように思います。友達なんかできないだろうお前、と言いたくなるほどの根暗野郎です。</p><p>しかし、彼の話には続きがあります。</p><br><p>ただただひたすらに無価値で無意味なこの世界で、どうすれば人生を歩んでいけるのか。</p><br><p>彼はこう言いました。</p><br><p>「全ては無価値。つまり、従来の善悪や価値観も無価値。だからこそ、どんな道徳観、価値観、生き方も自由。内なる自分に素直になってよい。」</p><br><p>ちょっと意味がわかりません。</p><p>まあ、これには彼が生きた時代背景も関係しており、キリスト教社会や禁欲主義への批判も入っているのでなんともしっくりこないところもあるのですが、つまりは、</p><br><p>「確かにこの世もこの社会も知らずに身についてしまった価値観も、全部無価値だな。なら、今ある全てのしがらみやなんやら全てをぶん投げて、俺の中で自然に湧き上がるものに素直に従って生きてけばええやん？」</p><br><p>ということ。若干、語弊はあるが、これをニーチェの「超人思想」といい、実は私もいまいち理解していない。しかし、なんとなく言わんとしていることはわかるような気もする。というか、そうでも思わなければ、特に当時の今よりもはるかに苦の多い人生だった人達にとって、生きる価値は見出せなかったのかもしれない。無価値なこの世、無価値な人生なら、しんどい思いなどせず、とっとと死ねばよいのだ。</p><br><p>全ての価値観を無にして、その上で自然に湧き上がるものを感じ取ってみよう。</p><br><p>まず、うまいものが食いたい。うまいものというのがすでに価値観からくるものかもしれないから、飢えたくないの方がよいだろうか。次に、女を抱きたい。できれば美しい女を抱きたいが、美しいというのも過去に作られた価値観なので、いい感じで射精したいとしておこう。あとはいつも「楽しい」という感情でいたい。何を楽しいと感じるかは価値観次第なので、この表現でいいだろう。</p><br><p>飯喰って、セックスして、その他の時間は、うっは！楽しいいいいいいいいいいい！</p><p>で人生お願いします。</p><br><p>というのが、本当に本当に残念なことだが、私の「内なるエネルギー」だ。</p><p>いや、おそらく過去に築いた価値観を無価値にして考えるならば、あなたもこの残念な人間像に到達するのではないだろうか。</p><br><p>しかし「これが純粋な生きるエネルギー」なのだという理屈もよくわかる。</p><br><p>本当にこの世や人生は無価値だと理解し、この純然なエネルギーを素直に認め素直に活用できることが可能になれば、人はより豊かで活力的で強く生きられるという。</p><p>もっと簡単にいうならば「過去の私の人生やいろんな事柄から～しなければならない」人生から「超素直～にしたい」人生への転換という言い方もできる。</p><p>確かにそんな風に生きられる人は、間違いなく強き人だし、生のエネルギー（根本的な活力）にあふれた人でなければ実現できないだろう。</p><br><p>もちろん、欲望に身を任せて無法な行動に出ることではない。</p><p>もし私が素直に「セックスしたーい！」とその辺を歩いてる女子高生にアタックを試みれば、即座に通報され、私の人生は「楽しいいいいいいい！」からかなり遠いものになる。</p><br><p>未来永劫、人の存在意義もこの世の存在意義も無価値なのだから、その真実から目をそむけず、今感じている価値観を捨て去ることができれば、より元々人間本来に備わっている生に対する素直なエネルギーを活用できて、生き生きと暮らせると・・・思うんだけど？</p><br><p>と彼は言っているのだろうと私は勝手に解釈している。</p><br><p>例えば、人に読んでもらいたいと思うから、こうして今、私はブログを書いている。これは自己顕示欲からくるもので、そうでないと否定することはできない。</p><p>「俺って、こんなこと知ってるんだ！こんなこと考えたんだ！俺ってすごくない！？」</p><p>と思ってほしい気持ちがあるから、わざわざブログにしているのだ。少しだけ自己擁護するとそれだけではなく、自分の考えを文章にしながらまとめたいという気持ちも大いにあるが。</p><p>でも、自己顕示欲がないなら、日記にでも書けばいい。</p><p>しかし、「自己顕示欲はよくないもの、気持ちが悪いもの」という価値観を強く保持していては、こんなことはできないし、やる必要もない。おそらく文章化することもせず、こういったことに対して、ただたまに思い巡らすくらいで、今、キーを叩くこの活力は私には湧いて来なかっただろう。</p><br><p>私の行動（活力）を抑制している価値観＝自己顕示欲はよくないもの</p><br><p>を捨てたからこそ、現に行動できている。元来備わっている活力に素直になることが、より強く豊かな人生を過ごすうまいやり方であるとニーチェは言いたいのではないだろうか。</p><br><br><br><p>でも、まあ、言うても人生、よほど生まれながら超絶金持ちで、イケメンで、聡明で、性格も良くて、病気にもならない体を持っていない限りは、基本的に苦痛なことも多い。大半の人は仕事はしんどいし、人間関係で嫌なことも我慢して、あれこれごまかして人生を全うする。ニーチェさんのいう内なる活力を最大限活かせるようになったとしても、「苦」は存在するだろうし、完全に取り払うことはできないだろう。</p><br><p>人生は苦である。</p><p>病気にもなっちゃうし、老いてどんどん醜くもなる、そして最後は死んでしまうのだ。</p><p>なにゆえ、人は苦しむのか。なにゆえ、人生は苦なのか。</p><br><p>これを本当に理解し、素直に受け入れ、どうあるべきかを考えぬいた人がいる。</p><br><p>次回はブッダについて語っていこう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/freelife-in/entry-11557759069.html</link>
<pubDate>Sat, 22 Jun 2013 02:58:49 +0900</pubDate>
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<title>人とは何か</title>
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<![CDATA[ <p>はじめまして。</p><p>哲学的な話、社会学的な話を自分の思うがままに書いていくために立ち上げました。実は別のブログもやっているのですが、そちらではあまり見せたくない一面でもあり、そちらだと書ける内容に制限も出てくるので、二本目を立ち上げた感じです。</p><p>よければ、今後共お付き合い下さい。</p><br><p>さて。</p><p>いきなり、とんでもなく大きなテーマです。</p><br><p>「人生とはなにか」</p><br><p>非常に難しく、はっきり言って答えのない問いなのですが、ひとまずこのテーマでキーを叩いてみたいと思います。</p><br><p>高校生くらいの頃でしょうか。</p><br><p>「自分はなぜ存在するのか」</p><br><p>という問いに頭を抱えるほどではありませんが、ちょくちょく考えるようになりました。</p><p>おそらく誰もが考えることなのだと思います。</p><br><p>また、この問いに対し、これも誰もが経由する流れかもしれませんが、</p><br><p>「自分はなぜ存在するのか」</p><p>「人間はなぜ存在するのか」</p><p>「生物はなぜ存在するのか」</p><p>「地球はなぜ存在するのか」</p><p>「宇宙はなぜ存在するのか」</p><p>「この世はなぜ存在するのか」</p><br><p>と問い詰めるほどに、その対象は大きくなっていきます。</p><p>キリスト教的には、『神』という全知全能の無敵キャラがあるため、「人間」のところで答えは導かれるのですが、特に何かの宗教に信仰のないものにとっては、その存在を内包する対象へと次々に存在意義を移していくことになります。</p><p>自分がなぜ存在するのかは、人間がなぜ存在するのかが導けなくてはならない、しかし人間がなぜ存在するのかは生物がなぜ存在するのかが導けなくてはならない・・・といった具合です。</p><br><p>では、一つづつ少し細かく見ていくことにしましょう。</p><br><p>「自分に存在意義はあるのか」</p><p>物理的には単純に私の父と母が結ばれたからで、その存在そのものに大きな意味はありません。６０億いる人間という生物の一個体です。存在意義や意味をなすのは、社会的、組織的な意義に留まります。生活を続ける中で、他人と接し、その社会ネットワークの中でのみ意義を見出すことができます。</p><p>つまり、人間社会というもの、もっといえば人間というものそのものに意義がなければ、その人間が作り出すネットワークにも意味がないことになります。</p><br><p>では、次に</p><p>「人間に存在意義はあるのか」</p><p>さらに希薄化していきます。生物というカテゴリで考えるならば、環境保全主義者の中にはむしろ害悪と考える人もいるでしょう。そういう人に生へのモチベーションをどう保っているのか聞いてみたいぐらいですが、遺伝本能的に生き続けようと考え行動するプログラムが組み込まれているため、人間にかかわらず生物全てが種を保存しようとします。意義は見出せませんが、本能的に「産まれてきたからにはなるべく存在し続けなければならない」という割と機械的な理由で種を保存しようとする、また存在し続けようとすることは確かなようです。では、そんな本能を持つ生物達ですが、生命そのものに存在意義はあるでしょうか。</p><br><p>「生物に存在意義はあるのか」</p><p>ここまで幅を広げると、様々な種があるため、考えるにあたってやや知識も必要になってきます。なぜ存在し続けようとするかは、太古にDNAが複製機能を持ったことに由来します。単に化学組成的に複製を促す組み合わせになった過ぎないのですが、それが複雑化し多様化したものが生命だという化学的な一つの答えにぶつかります。</p><p>広義では、生命の行動はその遺伝子の複製のための行動と一致するという進化論的な説明とほぼ同義ですが、アリやハチのような社会的昆虫が合致しません。働きアリや働きバチは自分の生殖機能は持たず、１/４だけ遺伝的に同じ女王の遺伝子を残すために一生を費やします。非常に特殊ですが、「一つの巣を一個体」と考えると他生命と同様に扱えます。人間に例えるなら、女王は生殖器、働きアリは手足や髪の毛などのいち細胞のひとつと考えるわけです。つまり個体そのものは、定義によっては「生命ではない」という答え方になるかもしれません。ある意味、生命を超えた生命といえるかもしれませんし、事実、個体数や繁栄数からいくともっとも成功した種といえるかもしれません。</p><p>少し脇道にそれましたが、化学的な理由で言えば、社会的昆虫も内包されますので、DNAの複製機能が生命の存在を固辞しようとしている、という理由で問題なさそうです。しかし、これもDNAの元である原子そのものに存在理由がなければならないことになります。</p><br><p>「地球に存在意義はあるのか」</p><p>もう、存在意義という言葉が似つかわしくなくなってしまいます。ですので、成り立ちについてお話しますが、そもそも、水素以外の原子はこの宇宙にはほとんどありません。では水素以外の物質はどうやって生まれたのか。巨大な恒星の中でしか生成されないことがわかっています。巨大な恒星はたいへん重力も強いため、水素と水素が中心核で核融合を起こします。その際、ヘリウムが誕生するのですが、ヘリウムは水素よりも重たいため、当然中心に集まっていきます。そして、また重力によってさらに核融合を起こし、さらに重たい原子へと変わります。そうやってドンドンと重たい原子が誕生し、最後は、超新星爆発を起こし、周囲に撒き散らします。これらが地球の元になっています。</p><p>つまり、我々のこの体も元は過去に爆発した巨大恒星の中心核にあったもの。そう考えるとなんだか不思議な気がします。</p><br><p>「この世に存在意義はあるのか」</p><p>ここまでくると、地球、宇宙、つまりはこの世そのものに存在意義はあるのかという最終的な問いにぶつかります。「あの世」という不確かなものを考慮しないなら、宇宙とこの世はほぼ同義と考えることができますので、宇宙のそもそもの成り立ちや終わりについて考えてみましょう。</p><p>宇宙の成り立ちとして、今のところ物理学者達の見解が一致しているのはビッグバンまでです。１３０億年ほど昔にある特異点というものが突然出現し、大爆発を起こしたというものです。何もないところからいきない物が生まれたわけですから、まあ、納得できません。</p><p>しかし、科学的には確かなことらしく、「なにもないところからなぜ？」という問いについては、簡単にいうと、「物質と反物質が同時に生まれた」という返答が返ってきます。この２つは対生成と対消滅を繰り返しているもので、プラスとマイナスの関係にあります。</p><p>つまり『0=1-1』ということです。ゼロの状態から大量の＋１と大量の－１が生産され、なにかの理由でほんのわずかだけプラス側は多く残ったというのが、現在の仮説になっているようです。その生き残ったほんのわずかなプラス軍の粒子がこの世の全てであるらしい…という、お伽話のような世界になっていきます。</p><p>「0→+1と－1」になったというのを受け入れても、なぜプラス側が残ったかについてはいまいちよくわかっていません。一例としてブラックホールの時空の境界線の例というのがあります。今現在も対生成が発生しており、何もない空間から物質と反物質は常に生まれ、またぶつかると対消滅しています。ただ、この時空の境界上で対生成した場合は、一方はブラックホールに吸い込まれ、一方だけが「この世」に残ることになる…らしいです。</p><p>ビッグバン以前のことは、学者によって説は様々です。穴あきチーズのように多数の宇宙が存在するという説もありますし、パラレルワールド説もマジメに議論されていたりします。</p><br><p>この世の始まりは最大の謎であることは間違いありませんし、これがわかれば、我々そのものの存在意義の助けになるかはわかりませんが、「なぜここにいるのか」という問いの答えにはグッと近づくことになります。しかし、アリさんに微分積分がわからないように、人間には脳構造的に絶対に理解ができない謎なのかもしれません。</p><br><p>もし宇宙、つまり現世に意味があるならば、その終焉についても興味があるところです。こちらも紹介しておきます。</p><p>予測は大きく2つにわかれていて、一つはビッグクランチ、もう一つがビッグリップです。</p><p>ビッグ・クランチはビッグバンと同じ状態に戻る説です。宇宙はいまだに膨張しており、さらにその膨張速度を加速させているところまではわかっています。その膨張の加速が減速し、縮み始め、最終的に1点に集約されるという説です。そしてまたビッグバンが起こり、つまりは膨張と収縮を繰り返している可能性を示唆します。だとすると、今は何回目の宇宙なんでしょうね？いやそれとも、何回目などという概念そのものがないのかもしれません。</p><p>もうひとつがビッグリップ。実はこちらの方が学者の支持率は高いようです。宇宙は膨張し続け、簡単に言えば空間が希薄化して、原子や量子そのものも存在できなくなって分解されていき、最終的には全てが蒸発して無に帰すという終焉仮説です。こちらはもう夢も希望もないなんとも暗く冷たい残念な終焉といえるかもしれません。</p><p>どちらになるかは、重力の総和とダークエネルギーという仮説上の、でもないといろいろ現に起こっている現象が説明できない力の総和による綱引きの結果によると言われています。</p><br><p>と、順を追って、その存在について語ってきました。</p><p>この世、つまり宇宙は現在の我々では知り得ない何かから生まれ、水素の超巨大な塊の中で酸素や炭素のような水素以外の重たい原子が生まれた。地球ができ、化学組成上、複製したがるDNAというものが偶発的に誕生した。そして、その複製能力がより効率化していき、人間が誕生し、今、その一人として私がここにいる。</p><br><p>なるほど、なにか特別に「私の存在意義」などないのである。上記の流れの中で、ただただ愚直に生まれでた人間という物質でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないのである。</p><br><p>その事実を理解し、受け入れたのは３０才くらいのときだろうか。</p><p>たいへんな虚無感を伴うものだったし、ニーチェのニヒリズムに近い感覚なのかもしれない。</p><br><p>しかし、私はDNAによる抗うことのできない指令によって、本能的に、なるべく長く生きながらえようとしているし、より豊かな人生を望んでいる。これもまた事実。</p><br><p>次回は、同じ虚無感かどうかはわからないが、「人生に意味などない」としながらもどう人生を歩むべきかを考えぬいたニーチェや、「人生は苦である」としその苦の対処法にたどり着いたブッダの考えを取り入れながら、書き綴ってみたいと思う。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/freelife-in/entry-11557741183.html</link>
<pubDate>Sat, 22 Jun 2013 01:04:43 +0900</pubDate>
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