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<title>fstoeのブログ</title>
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<title>誤解を招かないためにも「一番簡単な真理」を詳述する</title>
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<![CDATA[ <p>死をリアルにイメージすることで得られる「絶対的空虚」こそが一番簡単な真理であることを示した。</p><br><p>しかしながら、これだけでは誤解が起きる恐れがある。</p><p>一番起きやすい誤解が「その空虚というものは、ウツではないのか。ウツに陥ってしまうと、それこそ人生を悲観し、そして最悪の場合はその悲観によって自殺をしてしまうのではないか。」</p><p>といった誤解である。</p><br><p>まず、ウツではない。ウツとは「日常生活に支障をきたすくらいに落ち込んだり不眠、食欲不振などに陥る」状況である。ここで言っている空虚とは、その日常が普段どおりに流れている中での空虚である。普段どおりベッドから起き、普段どおり仕事をし、普段どおり風呂に入り、普段どおり寝る。この繰り返しの中で自覚する「空虚」なのである。「生きていることに意味はない」といって、わざわざ日常を壊すわけではない。そういう状況ではなく、ただただ一切が過ぎ去る流れの中（永遠回帰的な感覚）でただただ静かに感じる「空虚」である。</p><br><p>一般市民は、多かれ少なかれ「未来に夢を持ってその夢の実現のために一生懸命に努力する人生」こそが幸せであると思っている。</p><br><p>ここで言っている空虚はそれとは次元を異にする。夢なんてない。未来なんてない。とはいっても悲観主義でもなく、ウツでもない。ましてや自殺を助長しているわけでもない。そこにあるのは、ただただ一切が過ぎ去る流れのみである。</p><br><p>これが一般市民でも簡単に悟れる「一番簡単な真理」である。</p><p> </p><p> </p><br>
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<link>https://ameblo.jp/fstoe/entry-11641144855.html</link>
<pubDate>Thu, 17 Oct 2013 22:19:44 +0900</pubDate>
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<title>世間一般の人でも簡単に悟れる「一番簡単な真理」</title>
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<![CDATA[ <p>我々は一番単純な真理、すなわちその辺にいる世間一般の人でも簡単に理解できる真理を真理として掲げなければなるまい。もちろん真理とは実際にはなかなか言葉で表せないくらいに、言葉で表されたとしても誤解を招くくらいに難しいものである。しかしやはり世間一般の「普通のその辺のひと」でも理解できるものに噛み砕かなければなるまい。いや、噛み砕くのではなくて「昇華」ともいうべきか。</p><br><p>「一番簡単な真理」とはこうだ。</p><br><p>椅子に座る。10秒間ボーっと座る。その間にテレビのスイッチを入れたりスマホをいじったりせずひたすら何もしない。10秒後に落ち着いた後に冷静にイメージするのだ「いつかは私は必ず死ぬ。死んだ後は文字通り永遠の無」とリアルにイメージするのだ。</p><br><p>死のイメージはしにくい。生きてるものの中で死んだ経験をした者がいないからだ。</p><p>しかしそれが問題なのではない。イメージするのは、この何気無い日常が永遠に消え去るイメージである。特に自分が一番愛する者、大切にしているもの、大切な空間、時間、日常等々が（残酷だが）それらが無慈悲に自分から消え去る（実際は自分が消え去る）イメージをするのだ。</p><p>最低でも3分間行おう。</p><br><br><p>このイメージの後に残るのが「空虚」である。この世で何をしようが何をしないでいようが、結局は無になるという空虚感。この絶対的空虚感こそが我々が提示しようとしている「一番簡単な真理」に他ならない。</p><br><p>この一番簡単な真理こそ、その辺の世間一般のひとが悟れる唯一の真理（悟り）である。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/fstoe/entry-11639794285.html</link>
<pubDate>Wed, 16 Oct 2013 21:13:59 +0900</pubDate>
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<title>エゴとは何か。</title>
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<![CDATA[ <p>エゴとは何か。人類の一人ひとりに潜む巨悪の根源のようにみなされているが、やはりそれは「実存政治」的に考えないといけない。</p><p>エゴは一言で言うと「手慣れた環境のより快適化」ということになる。</p><p>欲望にはきりがないというが、それは要は手馴れた環境がいつブルーシートに陥るか分からない、</p><p>という不安感の裏返しである。要は今生きている実存がとりまく環境というものは、実はシャボン玉のように不安定なのである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fstoe/entry-11636174160.html</link>
<pubDate>Sun, 13 Oct 2013 22:17:15 +0900</pubDate>
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<title>人間ひとりひとりが最も考えるべきこと</title>
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<![CDATA[ <p>人間一人ひとりが最も考えるべきことは「空虚感」である。これは単純に、人間が人間として事実としてこの世に存在する以上、どこの誰に対してもその日常の奥に潜む「当たり前」だからである。要はこの「空虚感」という当たり前があるからこそ、「将来の夢」に向かって何かに打ち込むことでその「空虚」を忘却するのである。「子孫繁栄」という生命の神秘に触れることで、その「空虚」を忘却するのである。</p><br><p>勿論、日々の過酷な労働や過酷な戦争状態に陥ったとすると、そんな時に「空虚」を冷静に考えることに何の意味があろうか。そんな状態にいるときは「生きたい」という一心でそのために行動し、「空虚」ははるかかなたに消えさっている。</p><br><p>とは言うものの、そういった「社会状態」の根底にも（どこかの誰かに対する）「空虚」が根付いているのだ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fstoe/entry-11629272635.html</link>
<pubDate>Sun, 06 Oct 2013 11:41:30 +0900</pubDate>
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<title>意識の（実存政治的な視点による）詳細な分析</title>
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<![CDATA[ <p>全ての意識の出発点は「瞬間の自覚」である。これは存在している自己であれば誰でも（無自覚的に）自覚しているものである。「我々は、色々物事を考える以前にもうすでにこの世に事実として存在している」という当たり前すぎる事実が意識の出発点なのである。</p><p>この当たり前の事実を自覚することは、実は（一般市民にとっては）なかなか難しい。一般市民にとってはこの瞬間瞬間の存在している事実は「過去」「未来」「夢」「遠い世界の出来事」などによって覆い隠されているからである。</p><br><p>この「瞬間の事実」から分断の断絶線（対立）が引かれたときに、その瞬間から自己が離れてしまう。</p><p>断絶とはすなわち「今」と「過去未来」に対する断絶、「ここ」と「遠い世界」とに対する断絶、「自己」と「他者」との断絶である。もっと分かりやすくいうと、赤色と青色という対立が意識に上ってきて初めて「色」が存在することになる。生まれて死ぬまで「赤色」しか見ていない人が「色」そのものを認識するとは考えにくい。我々は死ぬから「生」を認識できるのであって、皆が不老不死で誰も死なない場合、「生」を認識するとは（事実として生きているとしても）考えにくい。</p><br><p>こんな一見どうでもいいような例えを出したが、実はこの例えがとても重要である。すなわち、</p><p>「意識が何かを認識するということは、それは瞬間に断絶線を引くこと」だからである。</p><p>要は何も断絶線を引いていない瞬間こそ、その「瞬間の自覚」であり、瞬間に沢山のの断絶線を引くことで一般市民は色々な物事を認識しているのである。</p><br><p>ここで、もっとも重要視すべき断絶は「自己」と「他者」という断絶である。瞬間瞬間においては実は自己も他者もない。事実として瞬間瞬間が流れているのみだからである。</p><br><p>さて、この自己と他者との断絶が起きたときに、次に重要なのが「身内」と「赤の他人」という断絶である。</p><p>身内はまさに親、兄弟、親戚、または広い意味で同僚、同級生、、といった類である。</p><p>その逆に「赤の他人」とは、まさに「名前」も「所属」も「住所」も知らない他者である。</p><p>この分類はとても重要である。実は（とても逆説的ではあるが）自己の生死はその「赤の他人」から「信用」が得られるか否かにかかっているのである。身内との信用はもちろんとても大事だが、それは赤の他人との信用と比べると「お遊び」のレベルである。</p><br><p>そしてその赤の他人からの信用こそ「お金」に他ならない。</p><p>それぞれの業界団体はその「赤の他人からの信用」を恒常的に得るために、様々な概念を洗練化する。</p><p>例えば、「宇宙の果て」は物理学業界によって洗練化されている概念である。</p><p>「深層心理」は心理学業界、精神医学業界によって洗練化されている概念である。</p><p>「神」は（有神論的な）宗教業界によって洗練化されている概念である。</p><br><p>このようにして様々な概念は、赤の他人から絶大な信用を得るという目的のもと、様々な業界団体によって洗練化されている。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fstoe/entry-11597079214.html</link>
<pubDate>Wed, 21 Aug 2013 20:12:24 +0900</pubDate>
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<title>脳が先か意識が先か</title>
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<![CDATA[ <p>一般市民とちょっと哲学的な話になると「脳がまず存在してその脳が意識を作っている」ということを周知の事実として話が展開される。</p><p>しかしながら、それは確かにある一面では正しいが、それが出発点の考察では真実を深くえぐり出すことは出来ない。「存在する自己が、瞬間瞬間の事実を自覚している」ということが出発点であるべきである。このことを心の底から悟らないといけない。（論理的に理解する類のものではない）このことを悟れない普通の一般市民が「脳がまず存在してその脳が意識なり心なりを作っている」という類のことを出発点としてしまっているのだ。</p><br><p>さて、なぜ「脳が意識を作っている」を出発点とすると真実をえぐりだせないのか。その一般市民の出発点とは何者なのか。</p><br><p>「瞬間の自覚」を出発点とすると、その「脳」という概念が実は誰かによる誰かの為の概念であることを自覚する。すなわち概念とは「目的概念」である。</p><p>社会なり世間なりの何かしらの有用性に適する存在事物に「概念」を付与するのであって、無意味な存在事物に長年の歴史に耐えうる概念が付与されることは無い。</p><p>米を主食とする民族には米だけでなく田や稲やごはん等々の様々な概念が存在するが、</p><p>パンを主食とする民族にriceはriceという概念しか存在しない。</p><p>上下関係に敏感な民族はあなたを貴様やお前や君といった色々な言い回しが存在するが、</p><p>上下関係よりも個を重視する民族にはyouしか存在しない。</p><br><p>要は脳という概念はとても有用なのであるがゆえに、脳という概念が生まれたのである。脳という存在事物があたかも全ての出発点としての物質として君臨しているのではない。</p><br><p>さて、本題はここからである。脳という概念を生み出したのは誰か？それは間違いなく医学業界の誰かである。タクシー業界の誰かが突拍子も無く脳という概念を生み出したとは考えにくい。</p><p>医学的に極めて有用な概念であるがゆえに、それがあたかも存在の根底に君臨する概念として確立してしまっているに過ぎないのである。</p><p>要はわれわれがアルツハイマー病なりの何かしらの脳の病気になったときに医学的に生きる概念であって、何気無い日常生活においてその脳という概念が必要になるということはまず無い。</p><p>ここで強調しておきたいのは「どんな業界も業界として政治的である」という点である。「医療は人の命を助けるとても重要で神聖で政治的に犯されるべきではない」という綺麗ごとが時々公にされる場合があるが、これはあくまでも表向きの綺麗ごとである。「人の命を助けた、というデータを蓄積させて、そのデータによって医療業界の存在感を高める」というのが真実である。</p><p>この真実を我々自己自身は自覚しないといけない。この自覚すべき真実を自覚すると、例えばおのずと「セカンドオピニオン」という概念が自己側で生まれ、（陰的に）政治的に利用されている我々の肉体を逆に我々自身が政治的に守ることが出来るようになるのである。</p><br><p>「脳」の根底には医療業界の政治があり、その政治に利用され闇に葬り去られないためにも我々自身が自己を自覚して、逆に政治的感覚を研ぎ澄ます必要があろう。</p><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/fstoe/entry-11594611642.html</link>
<pubDate>Sat, 17 Aug 2013 23:14:11 +0900</pubDate>
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<title>自分だけ幸せでは駄目、とは何か。</title>
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<![CDATA[ <p>あるテレビ番組で「自分だけ幸せになろうとしても駄目」と言っている人がいた。</p><p>それはもちろんそうだと思うのだが、それと同時にやはり「自分だけ幸せになろうとしてしまう精神をエグリ出してないなあ」という視点が欠けているとも感じた。</p><p>戦争は絶対に絶対に駄目だ！とも言っていた。それは勿論そうだが、やはり「どうして戦争に走ってしまうのか」という冷徹な視点が抜けている気がした。</p><br><p>そう、冷徹な、鋭く深く精神の本質をエグりだす鳥肌が足りない気がした。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fstoe/entry-11590848997.html</link>
<pubDate>Sun, 11 Aug 2013 22:45:15 +0900</pubDate>
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<title>選挙と暴動の実存哲学的考察</title>
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<![CDATA[ <p>選挙とは民主主義の象徴である。多数決で権力者が決まる制度である。</p><p>さて、この制度が本当に最良の制度なのであろうか。あたかも最善でどの国でも採用すべき制度だと</p><p>歌われているが、果たしてそうなのだろうか。</p><br><br><p>この制度の本質は、選挙における敗者たちが暴動を起こすか否かの一点に尽きる。</p><br><br><p>実存的視点に立っていえば、敗者は「スラム街」への道のりに乗ることであり、勝者は高級住宅街への道のりに乗ることである。それは身近に手慣れた存在事物全てに対する、その生活環境そのものの流動である。目の前で起きている映画のワンシーンなんかではない。</p><br>「暴動で傷つくリスクを負うくらいなら、スラム街に耐えよう」という絶妙なバランスが保たれているがゆえに「選挙」が成り立つのである。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/fstoe/entry-11561265388.html</link>
<pubDate>Wed, 26 Jun 2013 21:33:19 +0900</pubDate>
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<title>永遠回帰の感覚</title>
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<![CDATA[ <p>客観的に物事が永遠に繰り返されるということはない。いや、そういうことではなく、あたかも「永遠に繰り返されるのではないか」という感覚である。世間一般の人々は日々の生活から「将来の夢」というものを大なり小なり持ってその夢のために日々を生きていることが素晴らしいとされている。高校生なら受験合格だったり、大学生だったらいい企業の就職だったり、退職前の会社員だったら年金生活だったり、野球選手だったらリーグ優勝やタイトル獲得などである。</p><br><p>生きる目的こそが、この世で美しいことであり、また「生きる意味」の素晴らしさが説き伏せられている。</p><p>生きることに意味を見出さなければならないのが世間一般なのである。</p><br><p>しかしながら、実存的に自己を覚すると、そういうものは幻影であることを悟る。</p><p>いや、そういった者でも人間として生きる以上、勿論そういった生きる目的を設定し、そのために努力する。</p><p>しかしそういう「生きる希望」的な努力の中に没している中ですら、その実存的自己は</p><p>「一切の物事は過ぎ去る。ただそれのみ。喜び、悲しみ、むなしさ、出会い、別れ、などが永遠に繰り返されるという感覚」を悟っているのである。</p><br><p>例えば、我々が物理的に本当に不老不死になったとしよう。そうであったとすると、それこそ文字通り「永遠回帰」になるわけである。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/fstoe/entry-11556111615.html</link>
<pubDate>Wed, 19 Jun 2013 21:45:08 +0900</pubDate>
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<title>競争についての実存哲学的考察</title>
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<![CDATA[ <p>競争というものを実存哲学的に考えてみる。競争とは目の前に広がる自己と無関係な「ゲーム」ではない。それは自己自身が直接世界と関わる関係そのものである。その関係を否定も肯定もする以前に、自己自身の精神の内奥で既に起きている関係性である。</p><br><p>競争の本質は「それぞれの自己が手慣れている世界がガラッと変わる」点にある。今まで自己の身近に存在した「近い存在」が遠ざかったり、今まで身近でなかったものが「近い存在」として急接近したりすることである。例えば、或る者が普通のサラリーマンから物乞いに落ちたとしよう。サラリーマン時代に、その者は普通の家を持ち、普通の同僚、部下、上司を持ち、普通の服を着ていた。「競争」によって、そういった身近な存在が瞬く間に遠のき、ブルーシートと段ボールが身近な存在事物となる。</p><br><p>この実存哲学的視点は、「競争は自己と時々関係したりしなかったりするマグレなもの」という巷の勘違いを言っているのではない。あらゆる実存的事象の根底に「競争」があると言っているのだ。</p><p>物の考え方、善悪の思想、常識、非常識、羞恥心といった人間（ここでいっている人間は、あくまで普通の世間一般の人間、という意味での人間）の根幹にその「競争」が関わっているといっているのだ。そして（ここが最も重要だが）普通の人間は「人間精神の根幹は、実存的競争によって決定させられている」ということに全く気付いていないのだ。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/fstoe/entry-11553831522.html</link>
<pubDate>Sun, 16 Jun 2013 21:33:29 +0900</pubDate>
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