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<title>Shinmatsudo-EFC Pastorのブログ</title>
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<description>千葉県松戸市内の「新松戸福音自由教会」の牧師の個人的ブログです。</description>
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<title>礼拝メッセージ（2021年6月6日)</title>
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<![CDATA[ <p>ヨハネの福音書　10章1～6節</p><p>「主イエス・キリストの御声を聴いて生きる」　</p><p>&nbsp;</p><p>　「人間とは何か？」　<s>　　 &nbsp;</s>&nbsp;私たちを造り、生かしている創造主なる神の前にどのような存在かということを離れては、正しい答えは出ません。 「聖書」は、私たち人間を、羊のようだと言っています（→イザヤ53：6、エゼキエル34:31）　さて、「羊」という動物は<s>　　　</s></p><p>〇自分で水や食物を見つけられない(近眼？)。</p><p>〇満腹になって、安全でないと眠れない。</p><p>〇単独では生きていけない。</p><p>〇方向音痴で迷いやすく、帰巣本能がない。</p><p>〇自己防衛力がない。</p><p><s>　　　　</s>　など、非常に弱い動物ですから、「羊飼い」が導かなければ生きていくことができないのです。　どんなに強いと見える人も、神の目には、人は羊のように弱い存在、導く存在がいないと生きていけないのです。 羊のような私たち人間を導いてくれる「羊飼い」が良き者でなければ、命とりなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　“迷える羊”である人間は、人を正しく導くことはできません。 導くことができるのは、人を造られた方、そのすべてを知っている方＝神でなければならないのです（→エゼキエル34:11～16）。</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエスが、羊と羊飼いの比喩(6)を語ったのは、9章から続いて、主イエスよって生まれつき目が見えなかった人の目が開かれ、さらに真実の神である主イエスを見るようになった人を、ユダヤ教から追放したパリサイ人たちを前にしてでした(10：19～21)。 本来なら、パリサイ人たちは人々を、神のみことばによって正しく<b>主</b>のもとに導くべきでしたが、良き羊飼いである主イエスを悪人と決めつけ、目が開かれた人を追放するパリサイ人は、羊を奪うだけの、盗人、強盗なのだと、この比喩を語られたのです。 当時のパリサイ人の教え（＝人から出た教え）は、人をいやすのでなく、苦しめ、散らしてしまうものでした(12)。</p><p>&nbsp;</p><p>　この世には、あらゆる偽りの声が満ちています。 神の愛から遠ざける声(情報)が人をだましています。　その声が私たちを殺し、滅ぼすものであることを知り、私たちを正しく導く「私の羊飼い」(詩篇23:1)である主イエスの御声を聞き分けなければならないのです。 私たちの真の良き羊飼いである主イエス・キリストは、私たち一人ひとりを知って、その名を呼んで連れ出し、先頭に立って導いてくださるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　真の羊飼いである主イエスは、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。 わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの」（イザヤ43:1b）と言われます。私たちはその御声を聴き分け、迷いやすいこの世の荒野で、憩いを、安らぎを見出していけるのです。　そのために神のことば、「聖書」から、良き羊飼いの御声を求めていくのです。　そうすれば、神の声と悪の声を聞き分けることができるのです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fukuintei-pastor/entry-12685440485.html</link>
<pubDate>Fri, 09 Jul 2021 16:20:19 +0900</pubDate>
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<title>礼拝メッセージ（2021年5月30日)</title>
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<![CDATA[ <p>ヨハネの福音書 9章13～41節　　「信仰の大人へ」　</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエスのことばに従って、生まれつき目の見えない人の目が開かれました。 しかし、この出来事はそれだけで終わりませんでした。　主イエスを憎むユダヤ教指導者のパリサイ人たちが、彼を尋問しました。 彼の目が見えるようになったことを、人々が喜んであげるのではなく、思わぬ宗教的、社会的圧迫を受けることになりました。 それでもこのことを通して、彼が肉体の目が開かれただけでなく、さらに霊の目が開かれて、主イエスが神の御子キリストであることをはっきり確信し、礼拝する者になっていくのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　彼は自分に起こった事実をそのまま話します。 パリサイ人は、彼の目を見えるようにしたイエスは安息日なのに泥を作り、それを塗って、洗えと命じたことは律法違反だから、律法を守らないイエスは罪人だ、悪人だと決めつけます。　今でも人々は、主イエスの神である「しるし」の事実を曲げてでも、とにかく神ではない、ただの人に過ぎないと決めつけるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　その後、彼の両親にも尋ねます。 彼が、生まれつき目が目えなかったことから否定しようとするのです。 両親は、息子は大人だから、本人に聞いてくれという対応は、ユダヤ人の共同体から“村八分”<s>　　　</s> 追放されることを恐れての答えでした(22）。 息子の目が見えるようになったことが喜べなくなりました。</p><p>&nbsp;</p><p>　彼は再び呼び出されて（24）、イエスは神から出た者でないことを認めるようにと圧力をかけられます。 彼はパリサイ人の“パワハラ”を受けながらも、自分の目を開いてくださった方が神から出た方であることを、確信していくようになります。 ユダヤ教社会から追放されることも恐れず堂々と、どこまでも自分の体験が事実であり、イエスはパリサイ人が言うような悪人ではなく、パリサイ人の主張の愚かさをも指摘するほどになりました。 彼は迫害の中で強くなりました。 迫害下にあった福音書読者の励ましとなったでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>　彼はユダヤ教から追放されますが、主イエスの方から彼に近づいて(35)、その信仰を確かなものとし、救い主であると告白し、礼拝へと導きました(38)。 これこそが、「この人に神のわざが現れる」(9：3)ことだったのです。 私たちにも主イエスが寄り添い、フォローして、信仰へと導いてくださいます。 聖霊に導かれる教会は、互いに励まし合う交わりを持ちますが、信仰は、一人ひとりが主イエスを前に礼拝するのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　私たちにも主イエスによって救われたそれぞれの救いの体験があります。 私たちも彼が言ったように、「私は盲目であったのに、今は見える」(25)という証しを、自分の言葉で、“おどろくばかりの恵み”によって救われたことを、聖書や主イエスの真実を知らずに、根拠なく拒否しようとする人たちの中で、“信仰の大人”として証しする者へと成長していくのです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fukuintei-pastor/entry-12685439654.html</link>
<pubDate>Fri, 09 Jul 2021 16:15:02 +0900</pubDate>
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<title>礼拝メッセージ（2021年5月23日)（聖霊降臨日）</title>
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<![CDATA[ <p>使徒の働き 2章29～36節</p><p>「聖霊によって語ること」　</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエスが約束し、父なる神が遣わされた聖霊が教会に与えられた時は、主イエスの降誕、十字架と復活と同じように重要な出来事です。</p><p>　ユダヤ人の三大祭りの一つ、「五旬節（七週の祭り）」の時、エルサレムで弟子たちは集まって祈りに専念していました(1:14、15)。　主イエスが約束された「もう一人の助け主」（→ヨハネ14：16～17、16：7～13）である聖霊なる神が弟子たちに降りました。</p><p>&nbsp;</p><p>　聖霊に導かれた弟子たちが、他国のことばで神の大きなみわざを語りだしました(2：4～11)。 敬虔なユダヤ人たち(2:5)が目撃した確かな事実です。　酒に酔ったり、気が狂ったりしたことによっては起こり得ないことです(2:15)。 この後のキリスト教会によってなされる世界宣教の前ぶれであり、かつて罪ゆえに神が言語を混乱させた“バベルの塔事件”(→創世記11章)と真逆の神のわざです。 それから二千年間、キリストの教会は世界中にイエスがキリストであるという神のことばを宣べ伝えました。　その世界宣教の原動力が聖霊の働きなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　キリストの教会は、聖霊が語らせる主イエスの十字架と復活の福音の宣教と、聖霊が結ばせる実（ガラテヤ5：22～23）によるキリスト者の生き方の両輪によって前進しているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　聖霊に満たされたペテロは、今起こっていることは、聖書の預言の成就であるとして、ヨエル書を示します(17～21)。 さらにダビデ王は預言者でもあったと(30)示して、ダビデに与えられた詩篇16篇は(25～28)、ダビデ自身のことではなく、キリストの復活の預言となっていて、「あなたがたは十字架につけた」(36)メシアであったイエスは、死から復活し、天に上り、神の右の座に着座されていると宣言しました。</p><p>&nbsp;</p><p>　ダビデが「自分の子孫の一人を自分の王座に就かせる」（30）と知っているゆえのキリストについての預言は、まだすべてがこの地上では成就していません。 ダビデが<b>主</b>から与えられた『ダビデ契約』（→第二サムエル記7章11～13節）が成就するのは再臨されてからです。 ペテロが示したヨエル書も、“二段階預言”となっていて、この時の聖霊の降臨の時を超えて、終末に起こる天変地異とともに、主イエスが再臨される時に完全に成就するのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　聖霊に満たされたペテロが、主イエスによって聖書の預言が成就したと理解させたように、さらにこの後もすべて主イエスにおいて成就するということを、聖霊なる神は私たちにも分からせてくださいます。</p><p>&nbsp;</p><p>　聖書は、過去の記録だけでなく、復活されて今も生きている主イエスを示し、やがて再臨されて、世界の王となる将来（→使徒1：6～7）を、私たちの、罪の暗闇の世界の希望として示しているのです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fukuintei-pastor/entry-12676626678.html</link>
<pubDate>Tue, 25 May 2021 16:17:16 +0900</pubDate>
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<title>礼拝メッセージ（2021年5月16日)</title>
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<![CDATA[ <p>ヨハネの福音書 9章1～12節</p><p>「主イエス・キリストが開く目」　</p><p>&nbsp;</p><p>　8章後半で、「わたしのことばを守るなら<s>　　　</s>死を<u>見る</u>ことがありません」(8:51)と言う主イエスと、肉体の目で見えることしか考えられないユダヤ人とのすれ違う会話がありましたが、その文脈で主イエスが生まれつきの盲人の目を開いた奇跡へとつながります。</p><p>生まれつき目が見えない人に主イエスは目を留められました。主イエスが彼へと向けたのは、彼のこれまでの苦しみも悲しみも分かってくださる愛のまなざしです。私たちにも向けられているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　弟子たちの質問(2)は愛がなく、世の宗教などが苦しみの意味を教えるのは、無責任で苦しんでいる人をさらに傷つけるのです。 ユダヤ教の教師も無慈悲にも、だれかに罪があるからだと教えていました。　</p><p>この世に起こることは、罪深い人の起こす原因があり、“因果応報”と言えることもありますが、原因を追究しても解決しないことがあります。 私たちは“犯人捜し”ではなく、そこから神のみわざが現れるためには、何をしたら良いのかを神に聞くべきでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエスは、人の罪のゆえだと何の解決もない答えをせず、神のわざの現われるためだと言われました(3)。 このみことばは、彼だけでなく、苦難の中に置かれた多くの人の希望の光となったでしょう。</p><p>主イエスは、そのように口先で言っただけでなく、実際に彼に神としてのみわざを行いました。 泥をこねてその人の目に塗り、シロアムの池に行って洗いなさいと命じました。目の見えない彼が他の感覚によって神のわざを感じるための配慮でしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>　彼にとっては困難な道でしたが、あのように言ってくれた方の希望のことばにかけて、そのとおりにしました。 そして見えるようになりました。 生まれつきの盲人が見えるようになったということは、病気の癒しとは別次元の、創造主の神であるからこそ出来る奇跡で、メシアである証拠でした(→イザヤ35：5～6)。</p><p>&nbsp;</p><p>　生まれつき目が見えなかった人の目が見えるようになったという奇跡は、私たちにとっては、神のあわれみ、救いの恵みによって、信仰によって見えるようになる “霊の目”と解釈できるでしょう。 この盲人こそ私たちです。　私たちは生まれながら、神とその真実が見えない者です。 その目を開くのが、世の光として人の罪の暗闇に来られた御子イエスなのです。　あなたは、主イエスが開いてくださった“新しい目”で何を、どのように見ていくのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエスを信じて霊の目が開かれ、神を知ったという人も、まだぼんやりと見えている状態です。 やがてはっきりと顔と顔とを合わせて見るまでは（→Ⅰコリント13：12）、主のみことばを私たちの足のともしび、道の光として、導かれていくのです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fukuintei-pastor/entry-12676626100.html</link>
<pubDate>Tue, 25 May 2021 16:13:40 +0900</pubDate>
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<title>礼拝メッセージ（2021年5月9日)</title>
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<![CDATA[ <p>「昔も、今も、永遠におられる神<s> 　　</s> 主イエス」　</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエスを憎み、殺そうとするユダヤ人宗教指導者たちは、イエスよ、お前のように、「私たちは淫らな行いによって生まれた者」ではなく(8：41)、「サマリア人で悪霊につかれている」(48)者ではないなどと、主イエスをののしりました。 世の人々は主イエスを神の御子、救い主と信じる者と、ののしる者、まったくの無関心に分かれます。　私たちは神であると信じます。</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエスをユダヤ人が言うような悪霊につかれている者ではなく、神であり、救い主だと信じる者には、「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません」(51)と約束します。 「死を<u>見る</u>ことがない」というのは、肉体の死だけではない、神との永遠の断絶の死、滅びに至らないことです。 主イエスを信じるならば、死は恐ろしく、滅びてしまうのではなく、永遠の神の御国へ迎えられる時なのだと、<u>信仰の目で見られるのです</u>。</p><p>&nbsp;</p><p>　「わたしのことばを守る」とは、単に一時的に信じたというだけの者ではなく、主イエスのみことばに聞き、みことばに従い、行いをもって応答しようとすることです。　そのために私たちは「聖書」を読み、みことばに導かれて生きて行こうと決心していくのです。 その決心を、聖霊が助けて行わせてくださいます。</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエスは、ユダヤ人が信仰の父としている先祖アブラハムが生きる前から「わたしはある」である永遠の神であるとはっきりと（58）（→24、28も）宣言しました。 それを聞いたユダヤ人たちは怒りに燃え、石を投げつけて殺そうとしました(59)。　しかし、「イエスの時」(8：20)ではなかったので、すり抜けるように去って行かれました。 確かに普通の人間にはありえないことですが、主イエスは不可能のない神であるからこそ、私たちはそのとおりのお方なのだと信じます。 主イエスは昔からおられ、今もおられ、永遠におられる神である方です！　「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」（ヘブル13：8）</p><p>&nbsp;</p><p>　信仰の父アブラハムは、やがて来る救い主を、信仰をもって<u>見て、</u>喜んでいました（56　→ヘブル11:13、17～19）。 他の預言者たちも、やがて来る救い主を信仰によって<u>見て</u>いました。 私たちはすでに、預言のとおりを完了された主イエスのみわざが「正確な事実」(ルカ1:4 新改訳第三版)であったと聖書に示されている恵みの時代に生かされているのですから、主イエスの言われたことも、すべてそのとおりになるのだと、“信仰によって<u>見る</u>”ことが出来るのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　私たちは、すべての人を罪から来る報酬の死から救ってくださる永遠の神である主イエス・キリストが、確かに今も生きている方だと、隣人に知ってもらいたいと祈りつつ、確かなみことばを蓄えていきましょう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fukuintei-pastor/entry-12676625558.html</link>
<pubDate>Tue, 25 May 2021 16:10:01 +0900</pubDate>
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<title>礼拝メッセージ（2021年5月2日）</title>
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<![CDATA[ <p>ヨハネの福音書 8章37～47節</p><p>「イエスは悪魔の子か、神の子か」　～　私たちは？</p><p>&nbsp;</p><p>　ユダヤ教宗教指導者たちは、イエスは神を冒涜する者であり、悪霊のかしらベルゼブルによって悪霊を追い出しているのだと(→ルカ11：15)、“悪魔呼ばわり”され、殺すべきだと思われていました。</p><p>&nbsp;</p><p>　ユダヤ人は、“我々はアブラハムの子孫だ”ということが誇りでした(37)。 しかし彼らは、アブラハムが単なる民族上の先祖ということだけで、聖書が示しているアブラハムの神に対する謙遜な信仰や、神のことばに聞き従う模範の“霊的先祖”であるという最も大切なことを見失っていました。</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエスは、「あなたがたの父がすることを行っているのです」(41、→38)と言います。 主イエスがユダヤ人たちに言う「あなたがたの父」とは、ユダヤ人が「私たちにはひとりの父、神がいます」(41)と言うような（→イザヤ64:8）、唯一の神が父である者のように生きているのではなく、神に敵対する人殺しの悪魔を父としているような者だとはっきりと言われました(44)。 だからアブラハムのように神から遣わされた者を受け入れるのではなく（創世記18:1～8)、神の御子である方、主イエス・キリストを殺そうとしていたのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　私たちは、悪魔とそのかしらサタンが存在していて、私たちを真の神に背かせ、真理から遠ざけ、ともに滅びへ道連れにしようとするのだと聖書を通して知ることができます。　この時のユダヤ人だけでなく、私たちも生まれながらにして、神に敵対する人殺しの父、「偽りの父」(44)である悪魔の子になっていたのであり、また罪の奴隷であって、その罪の中で死んでいた者であったということを忘れてはいけません（→Ⅰヨハネ3:8、3：1～2）。</p><p>&nbsp;</p><p>　父なる神は、悪魔、サタンの支配下の罪の奴隷であった私たちをあわれみ、ユダヤ人の先祖アブラハムに誓った約束（→創世記12:1～3）を果たし、悪魔の支配から買い戻し、神の子にするために、神の御子イエスを遣わして、買い戻しの代価として与えてくださったのです。 この主イエスを救い主と信じ、そのみことばに聞き従う者は、神の子として生まれ変わります。　そして恵みのゆえに、罪によって遠く離れていた神を永遠に父とよぶことができる特権（力）が与えられる契約で結ばれるのです（→ヨハネ1:12）。</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエスを信じる私たちが今、悪魔の子でなく、父なる神の子であるなら、神の子にふさわしく、父なる神のみこころを行いたいと願いましょう。 その土台は主イエスが悪魔から出た者ではない、神の御子として来られた方と、そのみことばに聞き従うことです(47)。　日々選び取る選択にも、悪魔の誘惑でなく、聖霊なる神の導きを受けて、良いことを選び取っていけるようにと祈っていきましょう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fukuintei-pastor/entry-12676624893.html</link>
<pubDate>Tue, 25 May 2021 16:05:36 +0900</pubDate>
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<title>礼拝メッセージ（2021年4月25日)</title>
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<![CDATA[ <p>ヨハネの福音書 8章30～36節</p><p>「神から与えられる真の自由」</p><p>&nbsp;</p><p>　30節で主イエスを信じた人々がいましたが、その時だけでした。　一時的に“信じた”だけではなく、“信じ続けるキリストの弟子”とならなければなりません。 “本当の主イエス・キリストの弟子”(31)とは、真理であるイエス(→ヨハネ14:6)の「わたしのことばにとどまる」（31）者です。 “本当の弟子”は、真理なる主イエス・キリストにつながることによって、「本当に自由になる」(36)と主は言われます。　神の基準から離れた「自由」は、“放縦”であって、自己中心の的外れな罪人の生き方なのです。　では、真の自由とは<s> 　　</s></p><p>&nbsp;</p><p>1、 罪の奴隷からの解放（34）</p><p>　ユダヤ教指導者たちは、我らは奴隷ではない自由な民だと、間違った“プライド”を持っていました。 かつてはエジプトなどの奴隷であったし、現実はローマに支配されていました。 悪魔の奴隷状態であることがわからないことが罪の奴隷である者の現実です。 真理なる主イエスを信じて、そのみことばにとどまる者は、自分が罪の奴隷であったことが分かるようになります。 そこから罪の奴隷からの解放と、本当の自由を得るようになるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>2、 神の基準に基づく本当の自由となる</p><p>　本当の自由を与えることができるのは、本当の自由を持つ者だけです。 真の“自由の絶対的基準”は、すべての創造主なる神のみが持つべきものです。 罪と死を支配するサタンの奴隷の人間が解放され、自由にされるために、罪の奴隷でない方、人となった神の御子イエス・キリストは、罪の奴隷の買戻しの身代金を支払われたのです。</p><p>本当の自由とは、罪の支配、罪の結果からの自由であって、ユダヤ人が誤解していた(33)政治的、社会的自由ではありません。 しかも、ただ解放されただけで、どこかをさまようのではなく、キリストを長子とした神の子に養子縁組されて、キリストとともに「共同相続人」となる祝福が与えられたのです（→ローマ8:15～17）。　罪の奴隷から解放された私たちを、神の御子が父なる神の家族である本当の自由を与えてくださったのです(35～36)。</p><p>&nbsp;</p><p>3、&nbsp;&nbsp; 永遠の自由があるべき身分、立場を知る　</p><p>　自由の国の国民であるためには、その国の国籍があり、その国の法に保障されなければならなりません。 そして、その国における義務、責任、使命も負わなければならなりません。　本当の自由である神の民であるためには、神の御国の民であり、その国民として生き、その国の王キリストのみことばにとどまらなければならないのです(31)。</p><p>&nbsp;</p><p>　私たちはキリストにある真理と自由を知り、味わい、喜び、キリストの弟子として、主のみことばにとどまり続けていくのです（→ガラテヤ5:13、Ⅰペテロ2:16）。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fukuintei-pastor/entry-12676624350.html</link>
<pubDate>Tue, 25 May 2021 16:02:09 +0900</pubDate>
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<title>礼拝メッセージ（2021年4月18日)</title>
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<![CDATA[ <p>ヨハネの福音書 8章21～30節</p><p>「罪の中に死なないために」　～　“下”から“上”へ　</p><p>&nbsp;</p><p>当時のユダヤ人は、ローマ帝国の支配、圧政からの政治的解放者としての救世主(メシア)の登場を期待していました。 その頃に人々から注目されていたナザレのイエスは、安息日を破っていた者で、ユダヤ教指導者たちを非難して、自分を『わたしはある』(24、28)である神と同じだと主張する、神を冒涜する者だと退けられ、最後にはのろいの十字架につけられて、みじめに死んでいった者だから、メシアであるはずはないと、今もなお拒絶されています。 それでもやがて、主イエスを拒絶したことを悔い改める時が来ることも預言されています(→ゼカリヤ12：10)。</p><p>&nbsp;</p><p>主イエスは、ユダヤ教指導者たちの前から去って行き、その行くところに来ることができないと言われました(21)。 それを彼らは、“私たちは天国に行くが、イエスよ、お前は自殺して地獄に行くからか！”と理解しました(22)。 彼らに主イエスは、「あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」と繰返し言いました(21、24)。</p><p>&nbsp;</p><p>彼らも理解できなかったように、罪の「<u>中</u>」に死んでいる者は、主イエスが来られた「<u>上</u>」(23)を知ることができません。　人はみな「<u>下</u>」(23)の者だからです。 私たちは、単なる目に見える“位置”のことだと理解するのではなく、「聖書」が示す「上」「中」「下」の真実の“立ち位置”を確認しなければなりません。</p><p>&nbsp;</p><p>主イエスは、「わたしは上から来た者です」(23)と言われました。 「上」とは、父なる神のみもとです。 そこは、もともと『わたしはある』(24、28)である神の御子がいるべきところです。　「下」(23)は、この世であり、「自分の罪の中に死ぬ」人のいるところです。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちは「自分の罪の中に死ぬ」者です。 「死ぬ」とは、心臓が止まるというような肉体のことだけではなく、やがて神のさばきによって、神の愛と恵みのない「下」に行く、永遠の“断絶の死”です。 しかし私たちは、「上」から「下」に降りて来られた神の御子イエスによって、罪の「中」から救われ、神がいつもともにいる「上」に行く救いを受けたのです(29)。</p><p>&nbsp;</p><p>その事実を確認するために、私たちは神の前に「“下”から“上”へ」の礼拝をささげるのです(→使徒20：7～11)。 かつては罪の「中」に死んでいた者だと認め(エペソ2:1)、そして「人の子」(28)主イエスが私を罪の中から救おうと、十字架に「上げられ」(28、→ヨハネ3:14-15)て、罪の中に死ぬべき私に代わって死んでくださったことを感謝するのです。 神の恵みによって「下」から移され、「上」にいるという恵みを感謝するのです（→ヨハネ17：15～17）。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちの真実の、いのちの“立ち位置”は、「上」である神の子とされている者として、そこにいる方の喜ばれる生き方を目指していくのです(29)。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fukuintei-pastor/entry-12671658280.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Apr 2021 16:40:45 +0900</pubDate>
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<title>礼拝メッセージ（2021年4月11日)</title>
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<![CDATA[ <p>ヨハネの福音書 8章12～20節</p><p>「神の御子、世の光イエス・キリスト」</p><p>&nbsp;</p><p>　「ヨハネの福音書」に織りなされていることは、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1：5)ということが、主イエスにあって実際に起こっている記録です。 罪の暗闇の中にいることも分からないで救い主に背を向け続ける人々と、世の光である主イエスに出会って、永遠のいのちの光の中に導かれた人々が、それぞれ対比されています。<s> 　　 </s>&nbsp;そして、この福音書の読者は問われるのです。 “あなたは、主イエスの光の中にいて、いのちの光を持っていますか？”<s>　　　</s> と。　</p><p>&nbsp;</p><p>　世の光なる方の真実を確かめようとせず、最初から人を惑わす悪人だと決めつけて、主イエスを抹殺したいと思っているユダヤ教の宗教指導者たちは、いのちの光を与える神を、自分と等しいという主イエスの言い方に「あなたの証しは真実ではありません」(13)と反発します。 他にだれもそのことを証言する“人”がいないからです。</p><p>　</p><p>　確かに“人”は、主イエスが「世の光」である神であると証言できません。 しかし、主イエスはご自分の証しを「父」(なる神)も証言していると言われました(18)。　パリサイ人たちは、父なる神が遣わされた子なる神という存在があるということを理解できないので、怒りに燃え、捕らえようとするのです（20）</p><p>&nbsp;</p><p>　父と御子と聖霊の “三位一体”の神を、目に見える肉体の論理で理解することはできません。 それは、神のことばである聖書と、聖霊なる神の助けなしでは理解できないことです。 その真理に立たなければ、永遠の愛なる神や、「イエスの時」(20)になされる罪人の代わりに神の御子が罪の負債を払うという救いの完全さを説明することはできないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　「ヨハネの福音書」は、主イエスが御子なる神であることを主題としています。 「わたしは世の光です」(12)でも用いられているギリシヤ語での「エゴー・エイミー」は、「わたしはある」(→出エジプト3：13～14、ヨハネ8：24、→8：58)とモーセに宣言された<b>主</b>と同じであることを示す表現です。 荒野でイスラエルの民を支えた“マナ(パン)”であり、“岩からの水(泉)”であり、民を導いた“雲の柱、火の柱”で神の栄光(光)を現した神であるという主イエスの“神性宣言”なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　「わたしは世の光です」(12)という主イエスの宣言が作り話か、狂人やペテン師の戯言か、それとも真実の証しなのか？<s>　　　</s>　そのとおりだと主イエスを信じて従うなら、世の闇の中にあって、永遠のいのちの光を持ち、自分がどこから来て、どこへ行くのかが分かる者となります(14)。 主イエスの光は、人の目には見えない光ですが、受け入れた人を通して、その光の存在が明らかにされるのです。　その光の中に生きると信じた私たちを通して表されていくのです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/fukuintei-pastor/entry-12670253726.html</link>
<pubDate>Fri, 23 Apr 2021 14:55:46 +0900</pubDate>
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<title>礼拝メッセージ（2021年4月4日)</title>
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<![CDATA[ <p>復活祭(イースター)礼拝メッセージ要約　</p><p>マルコの福音書 16章1～8節</p><p>「死からの復活により動いたもの」</p><p>&nbsp;</p><p>　安息日が終わった週の始めの日(日曜)の早朝、マグダラのマリアたちは、安息日前(金曜 日没前)にあわただしく葬った主イエスのなきがらを丁寧に葬ろうと、香料を持って主イエスが葬られた墓に向かいました。　</p><p>　男の弟子たちはユダヤ人を恐れて隠れていました(→ヨハネ20：19)。 彼女たちは墓の入口をふさいでいた大きな石のことを分かっていましたが(3)、それでも主イエスが葬られた墓に向かいます。 そこにある問題がわかっていても、とにかくそこに向かってみようとすることは、最初からあきらめて何もしないよりも良いことでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>　ところが、彼女たちが墓に着くと、彼女たちが問題と思っていたその石はすでに転がされていました。　しかも、その墓の中に入ってみると、真白な白い衣をまとった「青年」(御使い)が、彼女たちの思いをはるかに超えた知らせ、主イエスがよみがえられたことを告げたのです(6)。 青年(御使い)は、弟子たちとペテロが主イエスとガリラヤで会えることを彼女たちに告げました(7)。</p><p>&nbsp;</p><p>　マタイの福音書には、主イエスの墓にはローマの番兵がいたことを記録しています(→マタイ27：62～66、28：2～4)。　それらの障害もすでに取り除いて、主イエスの墓の石は動いたのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエス・キリストは、罪のゆえに滅びるべき私たちに代わって罪のさばきを受け、十字架の死をもって、罪に対する神のさばきを一身に背負い、陰府(よみ)に下られました。　しかし、死から復活されました！ そのことによって人間の死と滅びの“大きな石”のような、不可能の隔ての壁が動いたのです。　主イエスは、復活の栄光のからだをもって、人の終着地のような墓から出て来られたのです！</p><p>&nbsp;</p><p>　その朝、墓には朝の陽射しが差し込んでいたでしょう。 主イエスの復活によって、人間が最後に行き着く場所である墓は、よみがえりの主によって、いのちの光が差し込んだのです。　転がされた墓の石は、その確かな証拠なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　私たちの人生にも動かないと絶望するような、大きな石のような問題にも、目を上げて見ると(4)、すでに転がしてあったということが、復活の主イエスの力によって起こることを信じたいのです。　</p><p>　主イエスの復活によって、この世の常識とするあらゆるものが動きました。　</p><p>&nbsp;</p><p>　主イエスの墓からの復活によって、墓は、死を示す所から、復活を示す所となりました。</p><p>　“初穂”である主イエスの死からの復活によって（→Ⅰコリント15：20）、信じる私たちも続いて肉体の復活が与えられます。 そして、神のしもべの忠実さが報いられ、栄光の冠を受けるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　対して、この世で罪を犯した者の公正なさばきが、再臨される主イエスによって行われます。 罪のさばきは、人が生きている時だけのもので、免れられるものではありません(→使徒17：31)。</p><p>&nbsp;</p><p>　さらには、人の罪のゆえに虚無に服した被造物は、のろいから解放され（→ローマ8：21）、失われたエデンの園の豊かさよりも神の栄光に満ちる世界となるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　私たちの死という大きな石は、すでに取り除かれています。 死という現実を示した人間の歴史は、主イエスの復活の事実に塗り替えられたのです！</p>
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<link>https://ameblo.jp/fukuintei-pastor/entry-12666902225.html</link>
<pubDate>Tue, 06 Apr 2021 10:20:36 +0900</pubDate>
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