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<title>治安弾圧法を考える</title>
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<description>爆発物取締罰則、治安警察法、行政執行法、大逆罪、治安維持法…天皇国家、日本帝国による治安弾圧法を考察していく</description>
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<title>内山愚童の宣言</title>
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<![CDATA[ <p>2月11日に……内山愚童の宣言</p><p>『入獄記念・無政府共産』<br>「人間の一番大事な、なくてはならぬ食物を作る小作人諸君。…今の政府を亡ぼして、天子のなき自由国に、するということがナゼ、むほんにんの、することでなく、正義をおもんずる勇士の、することであるかというに、今の政フや親玉たる天子というのは諸君が、小学校の教師などより、ダマサレテ、おるような、神の子でも何でもないのである、今の天子の先祖は、九州のスミから出て、人殺しや、ごう盗をして、同じ泥坊なかまの、ナガスネヒコなどを亡ぼした、いわば熊ざか長範や、大え山の酒呑童子の、成功したのである、神様でも何でもないことは、スコシ考えてみれば、スグしれる。……… 小作人諸君。諸君はひさしき迷信のために、国にグンタイがなければ、民百姓は生きておられんものと信じておったであろう。ナルホド、昔も今も、いざ戦争となれば、ぐんたいのない国はある国に亡ぼされてしまうにきまっておる、けれどもこれは天子だの政府だのという大泥坊があるからなのだ。<br>戦争は政府登政府とのケンカではないか、ツマリ泥坊と泥坊がナカマげんかするために、民百姓が、なんぎをするのであるから、この政府という、泥坊をなくしてしまえば、戦争というものはなくなる。戦争がなくなれば、かわい子供を兵士にださなくてもよろしいということは、スグにしれるであろう。<br>ソコデ小作米を地主へ出さないようにし、税金と子供を兵士にやらぬようにするには、政府という大泥坊をなくしてしまうが、一番はやみちであるということになる。<br>しからば、いかにしてこの正義を実行するやというに、方法はいろいろあるが、マズ小作人諸君としては、十人でも、二十人でも連合して、地主に小作米をださぬこと、政府に税金と兵士をださぬことを実行したまえ。諸君がこれを実行すれば、正義は友を、ますものであるから、一村より一ぐんに及ぼし、一ぐんより一県にと、ついに日本全国より全世界に及ぼして、ココニ安楽自由なる無政府共産の理想国ができるのである。<br>何ごとも犠牲なくして、できるものではない。吾と思わん者はこの正義のために、いのちがけの、運動をせよ。（オワリ）」<br>天子なき自由国<br>　天皇国家を廃止して自由な「くに」にしようと、小作農に訴えている。学校で教え込まれ神格化された天皇が侵略者の子孫であることを喝破し、非軍備が平和の本質であることを明らかにし、軍隊を無くすために税金の不払いと兵役の拒否を訴えている。<br>　この正義のために小作人が連合を積み重ねて行けば支配が無い社会が実現すると結び、そのために運動に参加をすることを呼びかける。</p><p>内山愚童　　　　　　　　　　　　　　</p><p>　内山愚童は赤旗事件の実刑判決に抗議し社会変革を訴えるために秘密出版を独力で為した。箱根、林泉寺の住職であった愚童は『入獄記念・無政府共産』を執筆、自身で活字を拾い、版を組み印刷製本をした。文庫本サイズの小冊子である。　　　　　<br>　愚童は一八七四年生まれ、一九〇三年五月頃に林泉寺の住職になる。平民社とつながりのあった医師、加藤時次郎の別荘が小田原にあった縁で愚童も平民社に関わる。<br>　一九〇四年一月一七日付け『週刊平民新聞』十号に初寄稿、「社会主義の信者となる」が掲載される。以降、社会主義者と愚童の交流が始まる。　　<br>　〇八年三月二十日、愚童は巣鴨監獄に「金曜屋上演説会」の実刑者を出迎えに行く。愚童自身も社会変革の意志と国家からの弾圧を強く意識していたのであろうか。この時代、同志を迎えに行けば官憲の監視はより強まる。<br>当然ながらその三ヶ月後の赤旗事件の公判にも注目をしていた。公判が進行をしている頃、社会主義者の守田有秋から印刷機を斡旋され入手している。<br>そして判決から程なくして『入獄記念・無政府共産』の原稿を書きあげている。九月三〇日には柏木の平民社を訪問し無罪釈放となった管野須賀子とも会っている。<br>内山愚童の研究家柏木隆法は愚童が大逆のイデオローグであったと述べている。<br>同書を部分ではあるが紹介をする。復刻がされ参照をすることができるが、入手をした活字が揃っていないので文を活字に合わせているところもある。また民衆に理解されやすく漢字の使用をおさえて書いている。</p><p>『無政府共産』の配布<br>一九〇八年一一月三日、宮下太吉は内山愚童から『無政府共産』五〇部を受け取る。<br>　 宮下太吉は内山愚堂と面識はなかった。内山は平民社の購読者リストから秘密出版した『無政府共産』のパンフレットを複数部送付をした。<br>　宮下は、その内容に大いに共感し、たまたま一一月一〇日に天皇ムツヒトが関西行きのため、近くの東海道線大府駅を通過するという新聞記事を読み、集まる住民に配布することを決意した。<br>　 神格化され絶対権力者としての天皇への批判・否定のパンフレットは所持しているだけでも「不敬罪」の取締対象である。現実に何人かが内山から送られたものを所持しているだけで弾圧され、不敬罪で起訴され五年の実刑攻撃をうけている。 そして一〇日、東海道線大府駅での天皇通過を見に来た民衆に『無政府共産』を配り公然と反天皇宣伝を開始したのである。<br>　　<br>機械工宮下太吉<br>熟練の機械工であった宮下は一八七六年生まれ。小学校を卒業し、すぐに鍛冶屋に見習いにはいった。彼は社会主義文献に触れる前から労働者が置かれている環境に疑問を持ち『日刊平民新聞』を入手、さらに労働者の組織化に目覚め、自分の職場に組合を結成し「亀崎鉄工所友愛義団」と名付けた。<br>　 弁護人が残した大審院特別法廷覚書によると、宮下は法廷で次の様に述べている。<br>「煙山氏の『無政府主義』を読みし時、革命党の所為を見て日本にもこんな事をしなければ、ならぬかと思いたり」予審調書では<br>「私は社会主義を読み、社会主義を実行するに当たり、皇室を如何にすべきかとの疑問を持っておりました処、一九〇七年一二月一三日、森近に会ったから、日本歴史に関し皇室の事を質問したのです。 …… 」<br>　 森近運平から、後に早大教授となる久米邦武の『日本古代史』を見せられ、「皇室崇尊の思想は迷信である」と学んだのである。<br>　 〇八年一月には片山潜の講演会を企画し地元で主催したが片山の議会主義には納得しなかった。二月には再び森近を訪れ、秘密出版されたアナキスト、ローレルの『総同盟罷工論』を貰っている。<br>　 大逆事件に巻き込まれる森近は『日本平民新聞』一三号（〇八年二月五日号）に宮下の印象記を載せている。『脳と手』と題し「宮下君ら数十名の同志は、面倒臭い本こそ読まぬ。金鎚と鉞とネジ廻しとを以て、器械を組み立てる技術を持った人である。その頭脳の明晰なる事、到底帝国大学の先生方の及び能わざる所であると感じた」</p>
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<pubDate>Sat, 11 Feb 2017 02:33:45 +0900</pubDate>
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<title>朝鮮独立運動、治安維持法適用</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/9a/53/j/o2448326413863729908.jpg"><img alt="" height="3264" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/9a/53/j/o2448326413863729908.jpg" width="2448"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/c0/9d/j/o2448326413863729911.jpg"><img alt="" height="3264" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/c0/9d/j/o2448326413863729911.jpg" width="2448"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/d5/00/j/o0960128013863730138.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/d5/00/j/o0960128013863730138.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/fe/cc/j/o0960128013863730140.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/fe/cc/j/o0960128013863730140.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/c5/e9/j/o0960128013863730141.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/c5/e9/j/o0960128013863730141.jpg" width="960"></a>
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<pubDate>Wed, 08 Feb 2017 04:24:10 +0900</pubDate>
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<title>治安維持法、その他適用死刑判決</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/d5/00/j/o0960128013863730138.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/d5/00/j/o0960128013863730138.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/fe/cc/j/o0960128013863730140.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/fe/cc/j/o0960128013863730140.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/c5/e9/j/o0960128013863730141.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/c5/e9/j/o0960128013863730141.jpg" width="960"></a><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/94/5f/j/o0960128013863728815.jpg" width="960"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/a4/1e/j/o0960128013863728816.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/a4/1e/j/o0960128013863728816.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/73/11/j/o0960128013863728818.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/73/11/j/o0960128013863728818.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/b4/05/j/o0960128013863728961.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/b4/05/j/o0960128013863728961.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/6b/c7/j/o0960128013863728964.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/6b/c7/j/o0960128013863728964.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/80/c4/j/o0960128013863728966.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/80/c4/j/o0960128013863728966.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/31/3a/j/o0960128013863729078.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/31/3a/j/o0960128013863729078.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/ce/fb/j/o0960128013863729080.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/ce/fb/j/o0960128013863729080.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/5c/db/j/o0960128013863729082.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/5c/db/j/o0960128013863729082.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/46/0b/j/o0960128013863728968.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/46/0b/j/o0960128013863728968.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/9f/f0/j/o0960128013863728970.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/9f/f0/j/o0960128013863728970.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/55/26/j/o0960128013863729073.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/55/26/j/o0960128013863729073.jpg" width="960"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/75/93/j/o0960128013863729076.jpg"><img alt="" height="1280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170208/04/futei1/75/93/j/o0960128013863729076.jpg" width="960"></a>
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<pubDate>Wed, 08 Feb 2017 04:20:23 +0900</pubDate>
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<title>大逆事件と家族/堺利彦の慰問</title>
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<![CDATA[ <br>堺利彦<br>　百年前の一九一一年四月、堺利彦は処刑された同志の遺族への慰問目的と、直接的な弾圧を免れた社会主義の同志たちの状況を把握するために各地を訪問する。<br>官憲の史料であるが『社会主義者沿革第三』に「堺利彦、陰謀事件関係者遺族慰問の旅行顛末、附大石誠之助遺物の処分」と題された項目が残されている。<br><br>　その報告から適宜引用をする。「三月三十一日出発同年五月八日帰京せり……」と、京都府の岩崎革也が堺に対し旅費を工面した事実から書き始められ、「金十円内外を堺に貸与したりと云う旅行中の重もなる事項を挙くれば左の如し」と以下各地での動静が十項目に分けられ記されている。岩崎の三月下旬の東京滞在時に堺や大杉栄が訪ねていることも別項目で報告されている。<br><br>　岩崎革也は一八七〇年生れ。『平民新聞』刊行など初期の社会主義運動を財政的に支援した。当時は京都の須知(しゅうち)町の町長と推測される。後に京都府議となる。<br>堺は四月一日から六日にかけて京都に滞在し岩崎、高畠素之、有馬源次らと会い雑誌刊行、「陰謀事件発覚前後の状況等」に付いて談話をしたという。報告は追尾していた各地の警察官、あるいは密偵が探り出した内容である。この「社会主義者沿革」が作成された経緯の概要を記す。<br><br>特高設置直前<br>社会主義者沿革は内務省警保局が極秘文書として作成、政府部内に配布した社会主義者への視察取締経過報告書である。第三は一九一一年六月時点でまとめられた報告書である。<br><br>天皇国家の政府は自由民権運動退潮後も政治思想を有する者を警戒した。一八八六年、警視庁の国事、高等警察部門の拡張を為し所管を八一年以来の内局から本部第三局に移した。警視庁による視察は当初は主として密偵が使用された。一八九三年以降は高等警察専任警官が置かれる。一九〇六年四月に高等課を新設し、さらに一九一一年八月二一日に特別高等課が分設された。<br>(参考『続・現代史資料１』松尾尊兊《まつお・たかよし》の解説)<br><br>処刑後の遺体引取りの新聞記事　画像<br><br>岡山<br>堺は四月七日、岡山に森近運平の妻繁(六月二一日主義者に編入、註、視察対象となる)と実弟良平に面会し「実父嘉三郎に使者を遣わし弔詞を述べ、長女マガラに対する土産として繁より金を受け取った」と報告。附記として良平は「貴下の御越しに付いては自分は赤旗を出して迎度考なり」と語ったという。良平は処刑された兄の無念を解消したかったのであろうか。堺を赤旗で出迎えるという意図は痛快である。堺は遠慮して断り実現しなかった。<br><br>福岡、熊本<br>九日、福岡に着き同志の森繁、横田宗次郎の訪問を受けたと報告されている。<br>一一日に熊本着、一三日に出発迄の動静は「松尾卯一太の妻倭久、実父又彦、実弟久男を訪ね弔辞を述べ、佐々木道元の実母エキ、実兄徳母に面会慰問の辞を述べ、徳母の案内で、新美卯一郎の妻金子トク、叔父巳之太郎を慰問、巳之太郎の案内で卯一郎の墓を拝し、松尾方にて古庄友祐(旧『熊本評論』社同人)と対談」。<br><br>高知<br>四月二二日から二七日にかけて高知県中村町の幸徳秋水の義兄、幸徳駒太郎宅に滞在し幸徳の家族たちと交流をする。秋水の墓前に詣でる。一家の者と共に下田港湾附近に漁遊を試み、幸徳一家の請に応じ約二〇枚の揮毫を為し、甥徳武次郎(準、註、視察対象に準じる)、従弟安岡友衛(準)、義従弟幸徳虎次(七月八日に準に編入)を始め「十数人の親族に面接し頗る歓待を受けたり」と報告される。<br><br>二六日には「土佐郡潮江村に移り翌日に梅の辻なる岡林寅松の実妹晃恵の嫁せる西野久寿弥太方を訪ねる。慰めの辞を述べ寅松家族に対する談話を為す」と報告。<br><br><br>大阪<br>二八日に兵庫県の小松丑冶の留守宅を訪問。後に大阪に移動。<br>二九日、武田九平の実弟伝次郎を訪ね同人と共に九平の妻森口ユキ及び同居者にて岡本穎一郎の妻藪田ハル(不在)を慰問、伝次郎、岩出金次郎と共に三浦安太郎の家族を訪問し、九平の留守宅に来合わせた百瀬晋と暫時対談の後に出発。続けて京都に移動し三〇日に岩崎方に一泊し五月一日に出発。<br><br>和歌山<br>五月三日に和歌山県に着く。同日に「大石誠之助の妻恵為を訪ね弔辞を述べる同家に滞在誠之助の墓を拝し、高木顕明の妻権田タシ、誠之助の実兄である玉置西久と訪問を交換し」、「恵為の案内で峯尾節堂の母ウタ方、玉置方を訪問し玉置方にて大石真子にも面談する」(玉置方の訪問目的は同家に預けてある誠之助の書籍を見るためという)。そして西村伊作に出会い成石平四郎、勘三郎の家族には四日に書面で慰問をする。五日、三重県に入り、崎久保誓一の<br>家族を慰問。<br><br>六日に木本港より乗船し翌七日鳥羽港に着き帰京の途に就く。<br>警察官あるいは「密偵」はどの程度まで主義者たちやその周辺に接近し、情報を得ていたのだろうか。荒畑寒村は同志たちとの茶話会や研究会に警官が同席していたことを回想している。<br>堺は帰京の夜、同志たちに各地の状況を報告する。<br><br>同志への報告<br>五月七日、堺利彦は帰京の夜に同志たちを招集し報告会を開いた。参集した同志は大杉栄、堀ヤス、岡野辰之助、田島梅子、斎藤兼次郎、吉川守国、藤田四郎の七名である。<br>『社会主義者沿革第三』に掲載された堺の談話の要領を引用する「大逆事件処刑者の遺家族は坂本清馬、飛松与次郎を除くの外は悉く訪問せしが累の及ばんことを恐れ面会を好まざる者なきにあらざりしも其の多数は歓迎しくれたるを以て余は大に満足せり」。<br><br>坂本と飛松の家族を除いて全て訪問をした。社会主義者である堺と会うことにより、官憲からの更なる弾圧が引起されることを恐れ、訪問を嫌がる家族も少数であるがいた。しかし多くの家族は私の訪問を歓迎してくれたので満足をしているという趣旨である。<br><br>幸徳の遺族<br>土佐、中村の幸徳家を訪ね秋水使用の部屋に案内されている。堺は秋水のことや裁判の過程で病死した秋水の母親の遺影をみて様々に感じている。<br>「幸徳秋水の遺族同駒太郎は余の往訪を喜び特に秋水常居の一室に招かれたり室内には秋水の老母の写真を飾りありて感慨交々至れり秋水の祖母は秋水に再会せしの感ありとて大に喜べり」。<br><br>続いて幸徳秋水の遺産の分配に関しての報告である。「秋水の家屋其の他所有品を売却せし代金二千余円ありしも大部分は秋水に於て費消し剰す所約五百円に過ぎざるも」とあり、師岡千代(秋水の離別した妻)には百五十円を譲与し遺稿の『基督抹殺論』の収益五十円を加えて二百円を与えると堺は調整をした。そして「何れ千代に相談する考えなり」と述べ、残りの三百五十円は在米の社会主義者で秋水の甥の幸徳幸衛に譲与がなされるはずであると報告。<br><br>各地の家族<br>刑死者の家族の様子も報告されている。「松尾の妻は管野スガの後継者になる可能性がある」。<br>『熊本評論』を刊行していた松尾卯一太の妻に関する評価である。管野須賀子が引き合いに出されている。妻の直接のコメントとして伝えられていないので推測をするしかない。妻が語ったのは政府批判であり、天皇国家の問題点、社会矛盾に関してのことなのであろうか。その後の消息は資料で見ることはない。<br><br>「武田、岡本の妻は芸者屋を為しているが警察の迫害に苦しむ」、<br>大阪の武田、岡本の妻は芸者の置き屋をやっていたようである。警察からいやがらせを受け苦痛となっているようである。<br><br>「森近良平は意思堅固、立派な同志である、運平の妻は東京の同志のことを尋ねていた」。運平の実弟の評価が高い。<br>「京都の同志は東京の同志と常に連絡を保ちたいとの懇望、同志の氏名を告げる」。<br>京都の社会主義の同志たちは東京の同志たちと連携を続けるという決意があり、堺は連絡が可能な同志たちの名を伝えた。<br><br>和歌山の遺族たち<br>和歌山での大石の妻に関して報告。「病院其の他器具等を売却し当時は極めて閑散の身と為り居るも流石は大石の薫陶をうけたるものなれば」と語り始め、誠之助の「衣類書籍は東京の同志に配布を」と依頼されたことを報告。<br>「高木の妻は同地の習慣で後継住職の梵妻たるべきはずであるが妻は過日、秋田監獄の高木を訪問し不都合ということで、放逐された」。<br><br>同地域のみの習慣なのか、後継住職の妻になるはずが監獄に行き面会をしたという当然のことが問題視され、寺から追われたということである。<br><br>堺の今回の旅行全体に関しての費用は「三百円かかったが岩崎より恵まれる。同氏に対して大いに感謝する」。前号に記した岩崎革也の資金カンパが堺の今回の訪問を支えた。<br><br>「各地の状況は決して悲観すべきにあらず尚かつ優に一と旗挙げ得べきを認めたり」。<br>大逆罪弾圧の判決と処刑から数カ月を経たなかでの同志懇談会である。堺は数少なくなった同志たちを奮いたたせるコメントを発した。<br><br>最後に「エマ・ゴールドマンより幸徳其の他、刑死者に対する弔慰金として三百弔慰金<br>『社会主義者沿革第三』に項目タイトル『米国紐育の「エムマゴールドマン」婦人より陰謀事件関係者に対し義捐金を送付し来る』と付され<br>弔慰金の分配先の一部が記載されている。<br><br>まず四月一一日付でエマ・ゴールドマンより横浜貯蓄銀行払いにて「米貨換算額」百五十円が加藤時次郎宛に送金されている。先に三百円の額と堺より報告されているが銀行が海外からの個人送金の手数料として大幅に銀行が引いたのだろう。(今日でも銀行を利用して海外から送金を受けると手数料が大きく引かれる)。<br><br>堺が分配せし形跡あり、と書き始められ「其の内判明せしもの左の如し」として森近運平実弟良平へ金十円、成石平四郎寡婦「むめ」へ五十円、坂本清馬実父幸三郎へ十円、成石勘三郎家族へ金五円、新田融妻ミヨへ金十円と列挙されている。<br><br>同沿革の記載によると、加藤はエマと面識がないという。加藤が滞米中に演説をしたことがあり、エマはその件から加藤の連絡先をたどったと思われる。<br><br>エマ・ゴールドマン<br>エマは一八六九年リトアニア生まれ、ロシアからアメリカに移住した。アナキズム運動、女性解放運動、反戦運動に参加し七〇年の生涯を通して闘い続け、恋愛にも情熱をそそいだ。一九世紀末、二〇世紀始めの社会主義に関心がある人たちにとってエマ・ゴールドマンは大きな印象を残している。エマの発表した論文や彼女の活動は伊藤野枝などによって邦訳され一九二〇、三〇年代のアナキズム機関紙誌に多く掲載された。エマの関心は労働運動、産児制限、男女同権、徴兵制反対、監獄と多岐にわたり、ロシア革命時には当地に渡ったが失望し、スペイン内戦においてはアナキストを支持した。<br><br>マザー・アース<br>沿革には『マザー・アース』誌の一九一一年七月発行号に掲載された堺利彦と加藤時次郎のエマ宛書簡と同志で恋人でもあったアレキサンドル・バークマンの「日本よりの声」と題された短い前書きが官憲により訳載されている。<br>「沿革」の訳載文は漢文混じりである。堺が英訳した書簡をエマに送ったのかどうか定かではない。官憲から依頼された訳者が形式が書簡ということであえてこのような訳文にしたのか。もしくは堺が文中で指摘しているように官憲が信書をかってに開封し事前に写しとっていたのであろうか。「沿革」は今でこそ文献として読めるが、元々は政府の一部中枢に報告された官憲の文書である。当時、堺たち社会主義者が手にすることはできなかった文書である。<br><br>堺書簡<br>「日本政府の野蛮なる実に拙者共の信書の封緘をば窃に相破り候も併しながら未だ流石に金円は窃取不候、故に此の際何卒御送金願上候、金円は目下非常に入用に有之…」と書き始めている。日本政府、すなわち政府の意を受けた官憲が堺利彦が発受信する書簡を開封するという事実をあげ、しかし現金に関しては今のところ盗られていないので送金をお願いしたい、今お金は必要であるという趣旨である。<br><br>続けて「二十名余の我同志者は今尚鉄窓の下にあり、其の多部分は無期懲役囚に御座候、而して過般殺戮せられたる同志者共の遺族等は四囲の迫害と日夜の貧窮とに悪戦苦闘致居候、想ふに全世界に亘る我が同志者は必ずや吾々共に深く御同情下さる事に可有之候」。<br><br>大逆事件以外で弾圧された同志たちも含めてであろうか二十名と記している。先に堺が遺族、家族を訪問し東京の同志たちに報告と同じように周囲からの迫害を受けていること、困窮状態にあること世界の同志たちは同情してくれるだろうと訴えている。<br><br>日本の下層社会は覚醒しつつあり社会主義運動は今後十年で大きくなるであろう、医師の加藤時次郎は友人にして同志である、と記す。<br><br>家族への配分<br>今回、義捐金を送付して頂ければ最も逼迫している遺家族に配与し、一部を以て在監中の同志者に書籍の差入を致す費用にさし向けたい、しかし在監者は「僅かに其の最近親戚より送付の書面を受領し得るに止り、自余の面々よりは一切文通を受け難し、其の受け得るは書籍の差入れだけに御座候」と親戚以外は書籍の差入れしかできないことを伝えている。<br><br>「今や日本政府は社会主義又は無政府主義の新聞雑誌を悉皆没収致候も、夫れに拘らず小生は時々米国に在る友人より貴『マザー・アース』誌を寄贈せられて領掌居候」と関連文献は発禁処分にされているが、あなたの雑誌は受け取っていると六月三日付けの書簡を結んでいる。<br><br>妻たちの困窮<br>前号は『マザー・アース』誌宛て堺利彦の書信を引用したが続けて加藤時次郎の執筆の文面を引用する。<br>(参考文献『社会主義沿革一』みすず書房)。<br>加藤は堺が各地の家族を訪問して知り得た生活の概況を手紙に認めている。すでに堺の報告を引用したが新しい内容もあるので紹介する。<br><br>「同志者新美の寡婦は琵琶弾手となりて僅かに糊口致居り、其の母と共に極めて淋しく暮らし居り候」<br>「同志者松尾の寡婦は一男一女を有するにも拘らず、故人の弟と逆縁致すべき強迫致され候」。義理の弟との再婚を峻拒したので勘当され路頭に迷うのではないかと判断している。<br><br>「同志者森近の未亡人は裁縫学校の教師となりて生計を営まんとし目下其の手運び中に御座候、彼女に七歳の女児一人ありしも右は亡夫生家に引取りて養育する所と相成り、彼女は真に手持無沙汰に有之候」。<br><br>二人の女性は家父長制の社会で子どもの育児もままならず、さらに独自の収入を得ることの困難さ、大逆事件の被処刑者の妻であることから独りあるいは子育てしながら生活して行くことに幾重もの圧力を受けている。<br>「大石未亡人は亡夫の遺児二名と共に極めて安穏に暮らし居候、同志者大石は医師に有之、若干の財産を遺して去りたるものに候」、<br>「同志者成石の寡婦は其の養父母と共に覚束なき小店を有して生活致居候」。<br>老父母の困窮<br>「自余七名の殺戮せられたる我同志者は何れも独身者なりしを以て寡婦をも孤児をも遺さず候」と報告されている。他の刑死者七名は独身であったが或る者は老父母が居た。その父母は貧苦に悩んで扶養を受けざるを得ないであろうと報告している。<br><br>無期囚の家族<br>在監者の同志者家族に就いては「小松の養女は養鶏を以て湖口致居候、武田の養女は芸妓を致し居る其の姉妹の留守番等を勤めて詰り姉妹の厄介になり生活、岡本の養女は工女と成りて勤め候」と不安定な仕事に就いていることが報告。<br><br>「取分けて非惨なるは岡林の妻女に候、彼女の両親は彼女に迫りて遮二無二、在監中なる其の良人と離縁せしめんと致し候も、彼女百方之を拒み候、然るに結局彼女の意志は蹂躙せられて離縁に相成り彼女と良人との間に挙げたる一男児は強いて彼女の腕より捥ぎ取られ良人の老父之を鞠養致候」とやはり封建的な家制度の犠牲となっている。<br><br>家族への義捐金<br>加藤は家族に義捐金を分配すると報告して文面は終っている。日付は一九一一年六月八日。宛名は在紐育、友人にして同志者なるエー、バークマン殿。<br><br>状勢一班第四<br>大審院の判決から半年近く経て内部報告文書の名称の変更があり「特別要視察人状勢一班」となる。「第四」の期間は「大凡明治四十四年七月より大正三年六月迄の間に於ける特別要視察人状勢の一班を叙述したるもの」と三年に亘る。<br><br>分析された主義者<br>「第一款総説」には「幸徳伝次郎等に係る陰謀事件の判決は要視察人をして頗る戦慄恐怖の念を懐かしめ中には之が動機となりて全然主義を抛棄したりと認めらるるものなきにあらず」、<br>「該事件以来一般に警戒心を助長せる結果表面は至極平静なるの観なきにあらざるも一歩進めて深く彼等の真相を探るときは思想堅固なるものに在りては毫も其の変化を来したる跡なきのみならず益々之が研究に力め同志の糾合を図りて他日に期する処あるもの」、<br><br>「不敬罪犯者等の恩赦に浴して出獄せるものが尚改悛の域に達せず彼等の群に投じて行動を共にする等甚憂慮に堪えざるものあり」と大逆事件以降の社会主義者たちの動向を分類している。<br><br>対象人員数<br>第二款には視察対象の人数が記されている。「人員は陰謀事件関係者の他の家宅捜索等に拠り新たに多数の者を発見したる為明治四十四年六月末日現在は特別要視察人九百九十四名準特別要視察人九百八十一名」「大正三年六月末日、前者二百五十九名、後者四百二十七名」。<br><br>関連の家宅捜索で一時的に増えたが三年後には要視察人が四分の一になり減少している。元々大逆事件における弾圧が大方はフレームアップの上に彼等の家族や周縁の知人にまで家宅捜索をした結果が要視察人の増加となっている。減少するのは当然である。<br><br><br>幸徳の「陳弁書」<br>「堺利彦は明治四十四年七月一九日附けを以て茨城在住小木曽助次郎へ宛『故幸徳伝次郎が生存中獄中より弁護士に送りたる極めて有益なる書面なれば一読の上返却せられたし』との意味を附記し左の一遍を郵送せり。『幸徳秋水の獄中より弁護士に贈る書』。目次、諸言、無政府主義と暗殺、革命の性質、所謂革命運動、……聴取書及調書の杜撰」と項目がたてられ、続けて長文の本文が全文収録されている。<br><br>堺が幸徳の弁護人から幸徳の書を借り受けて筆写したものを送付したと推測できる。幸徳は大審院の休廷日の一二月一七、八日に弁護士宛ての文書を執筆した。無題であるが後に「陳弁書」と言われる。<br>天皇国家の官憲は郵便局の協力のもとに社会主義者の書簡を開封するという暴挙を継続していたのである。幸徳が刑死して半年、堺利彦は幸徳の思想を同志たちに伝える役割を担っていた。
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<link>https://ameblo.jp/futei1/entry-12244109261.html</link>
<pubDate>Fri, 03 Feb 2017 02:13:04 +0900</pubDate>
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<title>1911年1月25日　管野須賀子処刑される</title>
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<![CDATA[ <p>1911年1月25日　管野須賀子処刑される<br>最後の書信発信/遺稿 1911年1月24日<br>「廿四日　晴れ 堺・増田の両氏と眞ア坊へ発信。<br>堺さんには在米の弟に記念品を送って貰う事を頼む。<br>紙数百四十六枚の判決書が来た。在米の同志に贈ろうと思う。<br>吉川さんが『酔古堂剣掃』を差入れて下すった。<br>針小棒大的な判決書を読んだので厭な気持ちになった。今日は筆を持つ気にならない。吉川さんから葉書が来る。<br>　夜磯部・花井・今村・平出の四弁護士、吉川・南・加山・富山の数氏へ手紙や葉書をかく」</p><p>2008年正春寺の管野須賀子の墓碑画像　ブログにリンク<br><a href="http://d.hatena.ne.jp/futei/20080126" rel="nofollow" target="_blank">http://d.hatena.ne.jp/futei/20080126</a><br>管野須賀子、平民社における『平民新聞』発行の奮闘<br><a href="http://taigyaku.blog.jp/archives/1004694253.html" rel="nofollow" target="_blank">http://taigyaku.blog.jp/archives/1004694253.html</a><br>「死出の道艸」<br><a href="http://taigyaku.blog.jp/archives/1021000364.html" rel="nofollow" target="_blank">http://taigyaku.blog.jp/archives/1021000364.html</a></p>
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<link>https://ameblo.jp/futei1/entry-12241263215.html</link>
<pubDate>Wed, 25 Jan 2017 05:19:46 +0900</pubDate>
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<title>幸徳事件</title>
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<![CDATA[ <p>幸徳事件　</p><p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170106/03/futei1/8a/e1/j/o0729148813838937940.jpg"><img alt="幸徳秋水" height="857" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170106/03/futei1/8a/e1/j/o0729148813838937940.jpg" width="420"></a></p><br><hr><p>1910年11月、旧刑法73条＜1908年10月より実施、1947年現刑法より削除。天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス＞により幸徳秋水外25名が大審院に付され翌年1月に24名に死刑判決（12名は翌日無期に減刑）が出され12名が処刑された事件。初めての刑法73条の適用、被告とされた人数が多いこともあり固有名が付かず「大逆事件」と一般的に言われる。他の「大逆罪適用事件」と区別する場合は被告たちの中心人物とされた幸徳秋水の姓から「幸徳事件」と言われる。</p><p>被告の内、宮下太吉外3人は爆裂弾により明治天皇への攻撃を考えていたが実行計画は中途半端なままで実現に至るには曖昧なものであった。それは大審院判決理由において＜爆裂弾を用い馬車で通行する天皇に投げつける＞秋季逆謀と認定されたが、大審院が有罪とした幸徳中心の全体計画なるものは完全なフレームアップである。元老山縣、首相桂の藩軍閥政府による無政府主義者、社会主義者圧殺の政策のもと弾圧が拡大し、無政府主義者、社会主義者だけではなく被告とされた家族、友人たちにも捜索押収、取調べが行われた。またその過程で不敬罪弾圧、出版物への取締が強化された。<br>　このフレームアップ事件は社会主義者だけではなく文学者たちにも大きな影響を与え、徳富蘆花は「謀反論」と題した講演を第一高等学校で行い死刑廃止論の立場を鮮明にした。石川啄木は社会主義と被告たちへのシンパシーをもち裁判を研究、作品にも結実させた。大逆事件後を「社会主義運動の冬の時代」と言うケースが多いが、しかし赤旗事件から大逆事件へのフレームアップに至る時期、大審院公判中まで徹底した無政府主義、社会主義運動への弾圧が続き実際の「冬の時代」であった。1911年、同志たちが処刑された後、残された堺利彦は月に一回の「茶話会」から再起を始めた。大杉栄、荒畑寒村はいちはやく運動の再構築を図り、1912年『近代思想』を刊行した。</p><h2>非戦論と直接行動派</h2><p>20世紀始め、日露戦争前の1903年、堺利彦、幸徳秋水らを中心に平民社に拠った人たちは非戦論と社会主義を掲げ、運動を国内各地に広げはじめた。明治専制政府の藩閥・軍閥政治は内部対立と政党政治が不可避な状況の中、崩壊しつつあった。しかし社会主義運動の更なる拡大を恐れ、帝国主義諸国に伍して東アジアでの植民地確保、侵略戦争体制に向け国内専制体制を防衛しようとし、社会主義運動に対し機関紙発行、演説会、結社への弾圧を強化し抑圧政策を推進めた。1906年よりクロポトキンのアナキズム思想の影響を受けた幸徳を中心にし直接行動派が台頭し始め、アジアからの留学生たちにも影響を与え始めた。議会政策中心の社会主義者たちと分岐が鮮明になったが、政府も対策をすすめ1908年、金曜会屋上演説事件、神田錦輝館赤旗事件により過剰な弾圧を行い大杉栄、堺利彦らの主要な活動家を裁判にかけ実刑攻撃により活動を封じ込めた。幸徳は病気療養で中村に戻っていて難を避けられた。</p><p>アナキズム思想の影響を受けた活動家や社会主義者は秘密出版で対抗し、ゼネスト論や人民への抑圧政治の根源には天皇の存在があるという事実を暴露した『入獄紀念無政府共産』を刊行、政府の弾圧に抗した。幸徳ですらクロポトキンの主要理論書『パンの略取』を翻訳しながら、「平民社訳」とし政府への出版届出の前に頒布するという実質秘密出版をせざるを得なかった。1909年、幸徳は千駄ヶ谷の地に移った平民社を拠点に赤旗事件では無罪を勝ち取った管野須賀子と『自由思想』を創刊し公然運動を盛上げようとした。しかし出版法違反で続けての刊行ができず、管野も一時拘引され、裁判では罰金刑が確定し活動が行き詰まった。菅野や長野出身の活動家で一時平民社に住込んでいた新村忠雄は合法活動が圧殺された状況を打破しようと模索し、政府に対する闘争心が強い古河力作や爆裂弾を使い天皇を倒したいという社会主義者で機械技工労働者の宮下と連絡を取り始めていた。</p><p>宮下は爆裂弾を一度完成させ試爆させていた。幸徳自身は1910年になり、最後の拠点「平民社」を解散し、活動と生活立直しのため湯河原で執筆に専念することを決意、管野は罰金を払わず収監、100日間の労役場留置の策を選択せざるを得ず5月18日に東京監獄に入る。</p><h2>弾圧開始</h2><p>そのような状況下、長野の明科製材所で働いていた宮下の元へ新村が度々訪れた件、またブリキ缶と薬品を分散して所持していたことが察知され、5月25日爆裂弾の材料にあたるとして爆発物取締罰則違反で逮捕された。同日、長野の屋代に戻っていた新村忠雄と薬調合のための薬研を調達しただけの兄新村善兵衛も逮捕される。続けて平民社に出入りし、宮下が明科で保管していた薬品包みの連絡先として記されていた東京の古河も5月28日に連行され29日、松本署において爆発物取締罰則違反で逮捕。宮下は29日に至り明治天皇が馬車で通行時に爆裂弾を投げつけるという「相談」が存在していたことを供述、検事聴取に新村、管野、古河の名を出す。これを契機に刑法73条の該当事件として検事総長に書類送致される。ブリキ缶を依頼され作り自室に薬研を預かっていた宮下の職場の同僚、新田融も帰郷先の秋田から連行され、松本で6月4日逮捕された。 31日にはその5人に加え、湯河原滞在の幸徳秋水と東京監獄在監中の管野に対し大審院に予審請求されることが決定した。幸徳は6月1日湯河原を離れようとした時、管野は6月2日に監獄内において逮捕される。</p><h2>拡大</h2><p>当初はこの7人の「陰謀」事件として報道されていることからも官憲の一部には7人だけで「事件」を収束させる判断もあったようだが、大審院直轄になった検事たちが、平民社に出入りしていた社会主義者や供述で名を出された社会主義者を各地の当該警察署に拘引、直接の取調べ、捜索押収の過程で刑法73条該当事案として強引にこじつけ最終的には19人を加え、幸徳以下26人の「大逆事件」としての一大フレームアップの物語を完成させた。</p><h2>更なる弾圧の拡大</h2><p>官憲側の史料である『社会主義者沿革第三』によると「予審中、被告の外、1908年11月前後、＜無政府共産主義者＞にて大石、内山と会合し幸徳を平民社に訪問、寄宿しその説を聴き＜本件陰謀熟知＞せりと認められる者は東京、横浜、群馬、愛知、京都、大阪、神戸、岩手等の各地に散在」と記述されている。この＜本件陰謀熟知＞自体もフレームアップである。残された公判記録にはその「各地」の社会主義者の証人「調書」が数十人分残されている。この場合「無政府共産主義」という官憲の認識は1906年以来の直接行動派としての幸徳に同調していた同志たちも含まれている。家宅捜索や取調べで、幸徳たちに関連づけられなくても弾圧の口実を引っ張り出し、実刑弾圧を受けた社会主義者は多かった。前出の官憲史料に記録されているだけでも9月から12月にかけ「不敬罪」での判決が10件あり、1名が懲役4年、9名が懲役5年の投獄攻撃を受けている。かつて幸徳、新村と「気脈を通じた」とされた諏訪郡境村を中心とした農村運動のグループも治安警察法違反で14人が検事局に送検、1名が禁錮8ヶ月、10名が禁錮6ヶ月（内執行猶予5名）の判決を受けた。</p><h2>大審院予審</h2><p>大審院検事局の公訴事実を、平出弁護人が『特別法廷覚書』で骨子を記録している。その立会い検事平沼騏一郎の論告(1910年12月25日)は1908年11月、巣鴨平民社での、それぞれ別の日での大石誠之助、松尾卯一太と幸徳との話し合いを陰謀とし「本件の発端なり」と位置づけ、<br>「第一　東京・信州方面(幸徳直轄)、<br>第二　大石（誠之助）の紀州陰謀、<br>第三　松尾（卯一太）の九州、<br>第四　内山（愚童）の遊説(大阪・神戸)」<br>と広域化、各地の社会主義者へ「大逆罪」弾圧を拡大した内容である。</p><p>この構成には三つの「大逆罪」が含まれている。<br>1 天皇への爆裂弾投擲<br>2 暴動を起こし二重橋（宮城）へ逼る<br>3 皇太子に危害を加える</p><p>大審院がフレームアップした幸徳秋水（伝次郎）の「大逆」の意図を『判決理由』から抜粋すると以下の物語となり「11月謀議」となる。</p><p>「11月19日東京府北豊多摩郡巣鴨町伝次郎(幸徳)宅に於て、伝次郎が誠之助及び森近運平に対し赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて、富豪を劫掠(こうりゃく・財を奪い)し貧民に賑恤(しんじゅつ・賑し)諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、且つ進んで宮城に迫りて、大逆罪を犯す意あることを説き、予め決死の士を募らんことを託し、運平(森近)、誠之助(大石)は 之に同意したり………」<br>「11月卯一太(松尾)もまた上京して伝次郎を訪問し、伝次郎より赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募り、富豪の財を奪い貧民に賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、進んで宮城<br>に逼りて大逆罪を犯さんと意志のあることを聴き、これに同意して決死の士を養成すべきことを約し……」　　この「謀議」は空想が生み出したものを検事・判事が文にしたものである。故にこの文言以上に内容が語られることはない。計画の証明も実行できる物的証拠も無く証人調べも却下している。そして全ての「陰謀」を幸徳につなげ、幸徳の「無政府共産主義」に全被告が感化されたことになっている。その「無政府共産主義」の内容も、議会政策を否定し直接行動を主張し暴力革命を唱え、クロポトキンの『パンの略取』を手にしたことである。大審院はその思想すら語れず、行為を裁かず「主義」を裁いているのである。1884年の太政官布告による爆発物取締罰則も治安弾圧を目的とし前文は実行行為のみではなく、思想や考えを含めて裁くことを本質としている。大逆罪もまた同様である。　　11月謀議は幸徳がパリ・コミューンや1905年のロシア革命での労働者の決起を雑談で同志に話したのが、予審でフレーム・アップされ、さらに大石、松尾が新宮、熊本に戻り同志に東京での「幸徳の革命をめぐる雑談」として伝えたことがさらなるフレームアップへの糸口となった。さらに内山愚童を無理矢理組み込むための皇太子「暗殺」計画なるものをフレームアップしている。</p><p>　全ての環に幸徳を存在させ内山を補強人物とし、大石、松尾を軸とし大阪、神戸、和歌山、熊本の人脈へと繋げた。『熊本評論』は1908年の「赤旗事件」の頃は幸徳の影響を受け実質的な直接行動派の機関紙になりつつあった。松尾は無政府共産主義に傾いていた。神奈川、名古屋の同志も一時はつなげられようとした。判決理由でことさら＜赤旗事件の連累者を待ち＞と虚構の物語を記しているのも、あわよくば堺、大杉たちを再び弾圧せんとする目論見がある。<br>大石は7月6日、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誠一は7月7日、成石勘三郎を7月8日、成石平四郎を7月14日に起訴決定。熊本関連は新美卯一郎、飛松与次郎、佐々木道元を松尾と同じく8月3日に起訴決定。 松尾、飛松は前年から新聞紙条例違反の禁錮刑で熊本監獄に在監していた。架空の「11月謀議」時に巣鴨平民社に同居していた森近運平は岡山に戻っていたが6月15日に起訴決定。　巣鴨時代の平民社に住込み、その後幸徳から離れた坂本清馬は8月9日起訴決定されている。（ 7月26日、東京にて印刷所で労働中、浮浪罪とフレームアップされ拘引、数日後に拘束）</p><p>　さらに1910年8月21日、大阪にて内山愚童の皇太子暗殺計画(「オヤジをやめて、セガレをやれば胆をつぶして死ぬだろう」なる放言)なる二つめの「大逆罪」フレームアップを組み込み、内山の歴訪した大阪から武田九平、岡本顕一郎、三浦安太郎は8月28日に起訴決定。神戸から神戸平民倶楽部の岡林寅松、小松丑治を9月28日に起訴決定、内山愚童を10月18日に起訴決定した。(内山は出版法、爆発物取締罰則違反で東京監獄にて服役中であった)判決では「愚童、寅松、丑冶の行為は各同条の規定中皇太子に対し危害を加えんとしたる者は死刑に処すとあるに該当し、被告平四郎。安太郎の行為は各同条規定中天皇に対し危害を加えんとしたる罪と、皇太子に対し危害を加えんとしたる罪の刑に処すべく……」とされている。 　　6月28日に拘引された奥宮健之は自由民権運動の世代でかつての自由党壮士。無政府主義、社会主義と無縁の立場であった。幸徳とは同郷の縁で交流があり、1909年10月、昔の仲間から爆裂弾の製法情報を入手し幸徳にそれを伝えたという件で巻き込まれた。(予審判事意見書では「伝次郎一派を緩和せしめんため…懐柔策を協議」とあり政治ブローカーとの間にたち金銭利益を得ようとした気配もあるが成功していない。このような動きと立場の違いが一部では政府のスパイ説を生み出した。) 11月1日、検事総長は全員有罪の意見書を大審院に提出し、9日、予審終結、公判開始決定となった。11月10日、被告たちの接見、通信禁止は解除された。幸徳は20日か21日に『基督抹殺論』を脱稿している。</p><h2>予審訊問調書</h2><p>「本体」といわれる東京（平民社の一部）での天皇への攻撃相談と、信州・明科の宮下の爆裂弾関連を予審訊問から整理すると次ぎのようになる。<br>1　宮下太吉が爆裂弾を一度完成させ試爆をしたこと。本人の供述だけ。<br>2　宮下、管野、新村、古河が天皇に爆裂弾を投げつけるという相談。<br>（相互の供述）通過の際の投擲順番を籤引きで決めた。そのための爆裂弾は完成されていない。<br>いつ何処で決行するかも相談されていない。但し後に古河は「参加する振りをしていたが抜ける時期を模索していた。」と語る。<br>（大審院審理終結後の獄中での執筆文書）。管野は収監され、曖昧な「計画」になっていた。<br>3　幸徳を管野たちは相談・計画に引込もうとしなかった。<br>4　幸徳は、相談・計画の中味は詳細には聞いてはいないが、爆裂弾を使用した相談が一時期あったのは認識していた。<br>5　幸徳は爆裂弾の製法＜薬品の配合＞を奥宮に問合せていた。<br>6　幸徳は管野を「計画」から引き離そうとしていた。平民社を解散させた。相談の有無に関しては記憶が無いと対応。</p><h2>大審院公判</h2><p>弁護人は予審時選任できず、公判に付されることが決定してからようやく選任が可能となった。平出修弁護士を始め奮闘したが短期での活動では限界があった。第一回公判開廷後、一般傍聴人を入廷させておきながら傍聴禁止とし排除したが政府関係者は多数傍聴し、選任されてはいない弁護士も傍聴できた。判決公判だけ見せしめのため一般傍聴をさせたが官憲が入廷者を検問し主義者はほとんど排除された。 12月10日、特別裁判開廷、検事総長冒頭陳述、それに基づく被告訊問と陳述が続く。宮下、新村忠雄の意見陳述、12日、管野、古河、新村善兵衛、幸徳の意見陳述、13日幸徳、森近、奥宮、大石、高木、峯尾、崎久保、成石兄弟の意見陳述、14日、松尾、新見、飛松、佐々木、坂本の意見陳述、15日、内山、武田の意見陳述、16日、岡本、三浦、岡林、小松の意見陳述と連日の集中審理であった。幸徳は公判の合間、休廷日の17,18日に弁護士宛ての文書を執筆、無題であるが後に「陳弁書」と言われている。再び公判が続く。19日、幸徳らの意見陳述、20日、幸徳らの意見陳述、22日、幸徳らの意見陳述、補充審問を終え、23日、弁護人の証拠調べ、24日、弁護人の証拠書類閲覧、鶴裁判長は弁護側の証人申請を却下した。25日、検事論告、大逆罪として全員死刑求刑。27、28、29日、弁論。28日に幸徳の母は中村にて死去する。　</p><h2>判決と処刑</h2><p>1911年、1月15日、大審院の七判事、判決文に署名。<br>18日、24名に有罪判決、新村善兵衛、新田は爆発物取締罰則のみ認定、「大逆罪」を承知していたという調書は信用できないとされた。大審院の審理は形式的で、政府の意を受け刑法73条適用、取調、予審訊問をコントロールした検事総長の「有罪意見書」「論告」を追認するだけであった。<br>唯一の独自判断は2名を「大逆罪」から外し爆発物取締罰則違反のみで認定しただけである。しかし、そうであるならば管轄違いであったということで差し戻し審に回すのが当時の法体系に沿うものである。<br>大審院が有罪理由とした24名を組み込んだ全体のストーリーはフレームアップされたものであり、その計画「赤旗事件への報復、暴力による反抗、赤旗事件の連累者の出獄を待ち東京の中心で暴動＜富豪の財を奪い官庁を焼き払い殺し＞を起こし宮城に逼る、あるいは決死の士50名により暴力革命を起こし皇太子を殺す」、は当事の状況下では全く不可能で現実化しようが無い。<br>19日、遅い時間に12名の特赦決定。<br>19日、日本国内発行の英字紙『ジャパン・クロニクル』『ジャパン・アドバタイザー』は非公開裁判を批判。減刑者の移送が始まる。<br>1月20日、新村、新田、千葉監獄に移送、21日、峯尾、千葉監獄に移送、21日、12人への減刑が新聞報道される。22日　高木、崎久保、飛松、坂本、秋田刑務所に移送、22日、森近、獄中手記として「自叙伝」を書き始める。（24日の死刑執行寸前まで）「実際の処、私は多分無罪の判決を得る事と思うて居た」、22日、徳富蘆花、兄蘇峰へ「減刑されなかった12名の死刑阻止に向け、桂首相に伝わるよう」手紙を送る。22日、23日、成石、岡本、岡林、小松、武田、三浦、長崎監獄に移送。</p><p>24日、東京監獄にて11名絞首、幸徳秋水 午前8時6分　新美卯一郎　午前8時55分　奥宮健之　午前9時42分　成石平四郎午前10時34分　内山愚童　午前11時23分　宮下太吉　12時16分　森近運平午後1時45分　大石誠之助　午後2時23分　新村忠雄　午後2時50分　松尾卯一太　午後3時28分　古河力作　午後3時58分　処刑　　宮下太吉、執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝わる。</p><p>25日、管野須賀子絞首。</p><p>アメリカ、ヨーロッパにおいても処刑反対の抗議行動が広がり、政府は死刑執行を急ぎ、判決後一週間内で12名を処刑した。国内でも審理終結前後から徹底した報道・情報規制を行い地方紙を主として幸徳や無政府主義に触れた記事掲載で15件余りが発売・頒布禁止、差押処分を受け新聞紙条例・新聞紙法違反で禁錮、罰金判決が出された。弁護人ですら公判記録を判決後所持することは認められず大審院は返還要求をした。また刑死者の獄中記や遺書を法務、監獄当局は隠匿し続けた。　　1月25日、幸徳の遺体は堺が引取、落合火葬場へ運ぶ。古河の遺体は実父が引取、大石は実姉が火葬、森近の遺体は堺が引取27日に火葬場へ運ぶ、内山の遺体は義弟が引取る。<br>25日、徳富蘆花、天皇に対し「12名の助命嘆願」の手紙を書き、東京朝日新聞主筆、池辺三山に託す（執筆時、処刑報道は伝わっていなかった）。<br>26日、管野の遺体、増田謹三郎が引取る。成石平四郎、松尾、新美の遺体、堺為子が引取る。<br>26日『二六新聞』紙に1月21日付け「管野すがより大杉夫婦宛書簡」掲載。<br>27日、荒畑寒村、増田方を訪れ管野須賀子の遺体と対面。27日、古河遺体火葬、27日、内山の遺骨は箱根林泉寺に埋葬<br>28日、古河遺骨、渡辺政太郎が堺方に移す。28日、管野須賀子の遺体、正春寺に埋葬。<br>28日、徳富蘆花、「謀反論」の演説草稿を完成させる。<br>29日、新村実姉、共同墓地の新村遺体を火葬<br>29日、ニューヨークで幸徳死刑への抗議集会と日本領事館に向けデモ。<br>30日、堺利彦宅にて刑死者の遺体引取りに関わった人たちの慰労の集まりが開かれる。<br>31日、新村遺骨、染井墓地に埋葬。</p><p>2月1日、幸徳秋水遺著『基督抹殺論』刊行。幸徳が公判中に脱稿し、処刑後一週間での刊行。印税は後に第一回の屋外メーデーの活動資金にも充当された。2月1日、徳富蘆花「謀反論」と題する講演を一高で行う。</p><p>2日　大石遺骨、新宮町南谷共同墓地に埋葬。<br>5日、堺利彦、監獄共同墓地の宮下の遺体を引取り火葬。<br>6日、政府寄りの「大逆事件講演会」国学院大学で開かれる。逆徒幸徳非難の保守的演説会であったが、唯一三宅雪嶺は官憲、裁判所を批判。<br>7日、幸徳の遺骨、中村の正福寺に埋葬。<br>12日　サンフランシスコで処刑者追悼大演説会が開かれる。<br>17日、宮下遺骨、実姉により甲府市三吉町光沢寺に埋葬。</p><p>　同志たちは接見禁止解除後、面会、差入で支援し、堺も在監中に関連して取調べを受けたが9月2日に出所、12月に売文社を立上げ、赤旗事件で出所した同志たちや仲間の仕事を確保しつつ、処刑者の遺体引取、火葬、遺族への慰問に奮闘した。</p><p>　大杉栄も千葉刑から東京監獄に移送され幸徳たちに関連して取調を受けたが、検事はフレームアップに組込むことはできず、11月29日に出所。面会、差入れを続けた。処刑後3月17日、大杉栄は東京を出発して大阪の「大逆事件」受刑者の家族を見舞い、22日に帰京、24日、同志茶話会にて「春三月縊り残され花に舞う」の句を読む。大杉はその後も懲役者への差入、刑死者の墓参りをした。<br>24日、古河遺骨、牛込、道林寺に埋葬。<br>堺は遺族の慰問で各地を回る。4月7日、岡山に森近の妻と実弟を慰問。<br>11日、エマゴールドマンより弾圧犠牲者への義捐金が加藤時次郎を受取人として送られる。<br>11日、堺、熊本の松尾の妻、実父、実弟慰問、佐々木の実母、実兄、新美の内縁の妻、叔父を慰問、墓参り。松尾方にて古庄友祐＜旧『熊本評論』社同人＞と対談、<br>22日から27日にかけて高知県中村の幸徳義兄宅滞在、幸徳の家族たちと交流、<br>28日には兵庫県小松留守宅訪問、<br>29日、武田内縁の妻、実弟を慰問、岡本内縁の妻、三浦家族を慰問。<br>5月3日、和歌山を訪問。大石、高木、峯尾、西村を慰問。成石の家族には書面で慰問。<br>5日、三重の崎久保遺族を慰問。<br>7日に帰京、同志への報告会を開く。<br>12日、堀保子、秋田監獄の坂本に書籍郵送するが、閲読は不許可になる。<br>7月、官憲の記録には＜堺利彦、7月19日附け茨城在住小木曾助次郎へ宛てに「故幸徳伝次郎が在獄中より弁護士に送りたる極めて有益なる書面なれば一読の上返却せられたし」との意味を附記し郵送せり。「幸徳秋水の獄中より弁護士に贈る書」＞とある。後に「陳弁書」と題される幸徳のテキストが同志間には閲覧されていた事実があり、フレームアップ事件としての「幸徳事件」の概要は知れ渡っていた。</p><p>1913年2月3日、大杉栄、秋田監獄の坂本に面会。[坂本清馬年譜]<br>1914年4月14日大杉、坂本宛に手紙発信。16日に坂本は手にする。<br>大杉は＜坂本の姉が心配しているとして司法省に谷田監獄局長を訪ね、局長と典獄から二件の許可を得る。＜書籍差入れを大杉が受持つ、坂本からの書信は交互に大杉と坂本の家族に発信する、大杉と坂本の家族も交互に発信する＞</p><h2>海外での抗議活動</h2><p>1910年9月21日、ロイター通信が「天皇暗殺計画」を報道。<br>11月12日 エマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルら５名のアナキスト・自由思想家が駐米全権大使内田康哉あてに講義文を送る、これを機に全米、ヨーロッパ抗議行動が広がる。<br>11月22日 エマ・ゴールドマン、ニューヨークで第一回抗議集会を開く、数百名が出席「ニューヨーク・アピール」を採択。 12月10日　ロンドンのアルバートホールにおいて「処刑反対大演説会」が開かれる。<br>12月12日 ゴールドマン、ハベル、ニューヨーク、抗議集会、桂首相に抗議文を提出することを採択。<br>12月16日 岩佐、サンフランシスコで「幸徳記念演説会」を開く、作家ジャック・ロンドン支援日本大使に抗議文を送る。<br>12月　報告＜コウトク事件＞ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。<br>1月　報告＜日本における正義＞ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。<br>2月、報告＜アナーキー万歳！＞ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。<br>「悪業が行なわれた。民衆の中の最良にして高貴な者が倒れ、最も悪魔的で野蛮な方法で殺 害された。比べようのない極悪な犯罪が1911年１月24日行なわれた。恐るべき打撃を人類に与え、文明の面前に挑戦状をたたきつけた。無情な野蛮主義が新思想のパイオニア達を 冷酷に縊り殺し、その絶望的な犠牲者達の苦痛に狂喜している。だが、われらは悲しまない。むしろわれわれの同志達の無実、純粋性、公明正大、忠実、自己犠牲と献身を全世界に表明するのがわれらの仕事である。われらは悲しまない。われらの友は不滅を成しとげ たのだ。新時代が彼らの受難の日をもって日本を衝撃した。ミカド・ムツヒトの時代は、人間の記憶から消えよう。ブシドウもおとぎ話で神話に過ぎない時も来よう。だが受難したアナキスト達の名前は人類の進歩の頁を飾るのだ。大審院の構成員達、人類の高貴な者を執行者の手にした彼らは、やがて忘れられよう。だがトウキョウの殉教者達は未来の世代の人々によって尊敬され賛美されよう。………」<br>2月、報告＜コウトクデモ＞『マザー・アース』掲載。<br>2月11日　報告＜親愛なるホール様＞エマ・ゴールドマン『マザー・アース』掲載。<br>2月15日、「ロンドンタイムス」記事　イギリス議会で「大逆事件」が議題となり、裁判手続、思想の自由等を独立労働党のケヤ・ハーディーが質問する。</p><h2>12名、投獄後の状況</h2><p>1914.6.24 高木　秋田監獄で縊死<br>1914.9.30　坂本　法相尾崎行雄宛に「無実を訴える」上申書を提出<br>1915.7.24　新村善兵衛、千葉監獄より仮出獄<br>1916.5.18 三浦　長崎監獄で自殺<br>1916.7.15　佐々木、千葉監獄で獄死<br>1916.10.10　新田、千葉監獄より仮出獄<br>1917.7.27 岡本　長崎監獄で病死<br>1919.3.6　峰尾　千葉監獄で病死<br>1919.4.2　新村善兵衛、大阪で死去<br>1925.5.10　飛松　秋田刑務所より仮出獄<br>1929.4.29 崎久保は秋田刑務所より、成石勘、武田は長崎刑務所より仮出獄<br>1931.4.29 岡林、小松は長崎刑務所より仮出獄<br>1931.1.3 成石　死亡<br>1931.10.1　坂本、秋田より高知刑務所へ移送<br>1932.11.29 武田　自動車事故で死亡<br>1934.11.3　坂本　仮出獄<br>1937.3.20　新田、東京で死亡<br>1945.10.4　小松　困窮の中で死亡<br>1946.2.24 坂本、岡林　刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」<br>1948.6.26 崎久保、飛松「復権」<br>1948.9.1　岡林、高知で死去<br>1952.10　坂本「逆徒といわれて　在監25年・幸徳事件の真相」を『中央公論』10月号に発表。<br>1953.9.10　飛松、山鹿町で死去　65歳<br>1955.10.30　崎久保、市木村で死去<br>1975.1.15　坂本死去 84歳<br>1975.1.24　中村で追悼会「故坂本清馬君翁を讃える会」発足</p><h2>再審闘争</h2><p>1960.2.23　「大逆事件の真実を明らかにする会」発足<br>1961.1.18 坂本清馬、森近栄子(運平実妹)、東京高裁に再審請求申立て、東京高裁、森長弁護人等代理人<br>1963.9.13,14　坂本出廷陳述<br>1963.11.29　荒畑寒村証言<br>1963.12.20　荒畑寒村証言<br>1964.1.13,14　森近栄子他証言、岡山にて<br>1964.3.11　築比地仲助、証言<br>1964.5.8　崎谷一郎、証言<br>1964.7.15　日弁連、旧東京監獄刑場跡に「刑死者慰霊塔建立」<br>1964.9.25　神埼清証言<br>1964.12.28 意見書<br>1965.1.29　弁護人意見陳述<br>1965.12.1　再審請求棄却　（註　公表10日）<br>1965.12.14　特別抗告<br>1966.9.20　最高裁審理決定<br>1967.7.5 高裁決定を有効と判断、特別抗告棄却</p>
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<pubDate>Tue, 24 Jan 2017 19:15:03 +0900</pubDate>
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<title>治安警察法違反1906年「電車事件」宮城控訴院判決　1908年6月13日</title>
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<![CDATA[ <p align="left">宮城控訴院判決　1908年6月13日 　　『東京社会新聞』1908年13号　7月25日　掲載</p><hr><p align="left">全文ではない、電車事件といわれる「事件」の発端部分を官憲側の主張として参考にするため。いずれ全文アップの予定。</p><p align="left">1906年7月9日東京地方裁判所、無罪判決</p><p align="left">1907年11月25日、東京控訴院、無罪判決</p><p align="left">1908年2月7日大審院に於いて該判決を破毀し本件を当院に移送</p><p align="left">「日本社会党員たり被告栄も亦其主義を同ふせる者なる処明治39年(1906年)3月中市内に於ける東京</p><p align="left">市街鉄道株式会社東京鉄道株式会社東京鉄道株式会社東京電気鉄道株式会社が相通じて其の筋に</p><p align="left">請願し電車乗車賃増額をなさんとする聞き之が反対の意志を発示し其値上げを阻止せんと図り他の同</p><p align="left">志と共に同市内に於て各所に演説会を催し同月11日には同市日比谷公園に東京市民大会を開き市民</p><p align="left">を糾合し大に其勢を張らんとしたるも意の如き好果を見さりしより同月15日第二の市民大会を同公園芝</p><p align="left">山瀧附近に開きたる上同所に於て＜我々は市会の決議を無視す＞等の文字を記したる紙旗を順次掲</p><p align="left">出して当時集会せる多衆の賛同を得るに至りたるも被告西川光次郎は如上尋常の手段は未だ以て其</p><p align="left">目的を遂行するに足らず恰も当日東京市会の開会あるを聞けるを以て現に集合せる数千の群集を率い</p><p align="left">共同の力に頼りて市会に喧閙し兼ねて前記会社を脅さんには如かずと思惟し同日午後1時過頃右会場</p><p align="left">に於て主催者の一人たる田川大吉郎同加藤時次郎等が散会の文字あるか紙旗を掲げて其旨を会衆に</p><p align="left">報したる後直に被告西川光次郎は芝山に立ちて対し諸君恰も東京市会の開会中なれば之より市会に</p><p align="left">押しかけては如何と叫び被告岡千代彦、山口義三、吉川守国、樋口傳、大杉栄、斎藤兼次郎、竹内余</p><p align="left">所次郎、及び当時右大会に参会し居たる被告半田一郎等は直に其意を承け岡千代彦は傍らより市会</p><p align="left">市会と連呼して会衆を煽動し其賛同の声に乗じて山口、樋口、大杉は各赤布の旗を翻えし吉川は太鼓</p><p align="left">を荷いて傍らより之を打たしめつつ芝山を下り西川、岡は右赤旗の下に立ちて先導となり幾百の群集を</p><p align="left">率い斎藤、竹内、半田は之に随い同公園桜門を出て或は其軌道に立塞り或は電車に対して石片を投</p><p align="left">ずる暴行者等と共に行々喧擾し迂曲して麹町区有楽町三丁目東京市街鉄道株式会社に迫り被告西川</p><p align="left">、岡、山口等に於て電車値上反対三銭均一万歳等を大呼するや群衆は之に和して鬨声を上げ同時に</p><p align="left">投石して同社の窓硝子を毀壊し其山下見附を出て外濠に沿うて左に向うに際しては同所を運転中の電</p><p align="left">車を止め或は之に石を抛て窓硝子を破り其数寄屋橋を渡りてし同区有楽町二丁目の前同会社数寄屋</p><p align="left">橋出張所を脅かし前同様投石して硝子戸を損壊し同町三丁目所在同社電気変圧所の窓硝子を破り其</p><p align="left">板塀を毀つに至りたる処西川を始め既記の被告等は豫て警察官吏の己等に尾行するを察知せるより途</p><p align="left">中陽に二三制止の言動を示したるも尚行動を継続し遂に喧■して同区東京市役所構内に侵入し同所</p><p align="left">土木課及市区改正課なる木造建物を市会議事堂と誤認したる上之に対し瓦礫を乱擲し西南両面の硝</p><p align="left">子窓十数ヶ所を破壊し更に相率いて玄関口より右室内に闖入せんとする際警視向田幸蔵巡査の出張</p><p align="left">するあり鎮撫を試みたるより西川以下既記の被告等は自ら落伍するの利なるを察し門外に退き解散と称</p><p align="left">して同午後2時頃群衆の一部と共に同所を立去り足り。</p><p align="left">群衆の他の一部は再び日比谷公園に到り右騒擾の喧傳に応じて集合せる他の群衆と会し同午後2時30分頃数百人相合して同公園を出て其附近並に前記会社附近に於て数多の電車を囲み之に妨害を加え或は前同社に押寄せ或は瓦石を擲ちて電車を損壊し又は同会社の建物を毀損し其従業者を殴打し警察官の制止に因り同公園内に引揚げたるも更に出でて前同様同所に喧閙し電車を襲撃し乗客に負傷せしむる等暴行を継続し同午後七時過に至りたるものなるか先是被告敏太郎は右暴動を関知し前同公園正門附近に到り同午後7時過頃巡査が群衆を鎮制するを見て「諸君退却すへからす大に遣るべし遣るべし」と発言し且つ同所に徘徊せる群衆の一部に対し電車賃値上の不当なる事を演術したる末「諸君是より任意に活動す可し」と反覆高言し其群集の雷同するや「諸君右に行くべし」と手を挙て之に先ち前同会社前に到り同社に対し群衆の罵詈騒羃する際後方より「大に遣るべしべし」と連呼煽動し被告高次は右敏太郎の演説中同所に於て「大に遣るべし会社を破壊せよ」と叫び会社前に同行しては「会社を破壊せよ電車を焼毀せよ」と呼ひて之を助け被告傳吉は其際右等の煽動に応じて之に附和し同社前に於て之に石を投じたるものなり其後被告栄は治安警察法違反に依り明治四十一年三月中東京地方裁判所に於て軽禁錮一月に処せられたり</p><p align="left">證憑を按ずるに第一、判示冒頭より三月十五日の大会に於て判示の紙旗を掲げ会衆の賛同を得たる迄の事実に付ては</p><p align="left">一、第一審公判始末書中被告光次郎が日本社会党員なる事判示年月中演説会を開き又は市民大会を開きたる事並に其趣意等右と一致する供述及十一日の大会の際は降雨の為め多数の集会なく僅に二百名なりしとの供述記載</p><p align="left">二、同被告が当審公廷の供述中十一日の大会は国家社会党員山路弥吉等と共に協力して開催したるものなるも同日同人は被告等が属する日本社会党の旗又は同党伝道用の太鼓等を用いたるに感情を害し同月十五日に開くべき大会に参会せざる旨を述べたる事あり十一日の大会の決議文は内務大臣官邸に持参する為め田川大吉郎堺利彦及被告外一人に於て委員に選定せられたるも山路は同官邸には赴かさりしとの事十五日の大会には判示の如き旗を掲げ会衆の賛同を得たる事等の趣旨</p><p align="left">三、当審公廷に於て被告千代彦、義三、守国、兼次郎、傳、余所次郎が各日本社会党員たる事被告栄は同党員に非るも党の運動には出席したる事電車賃値上反対の為め市民大会を開くに至りたる迄の次第は大略判示の通なること被告余所次郎が十一日の大会に出席せずと云うの外何れも十一日十五日の大会に出席したる事等の各自認及十五日の大会開会の方法に付ても被告千代彦義三兼次郎傳余所次郎等に於て判示の通なる旨を各供述に徴し明白なる事実なりとす(中略)</p>
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<link>https://ameblo.jp/futei1/entry-12240063545.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Jan 2017 07:43:45 +0900</pubDate>
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<title>植民地支配の歴史　私案・草稿　無支配主義の視点から</title>
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<![CDATA[ <h2>植民地支配の歴史　私案・草稿　無支配主義の視点から</h2><p>2010年 08月 01日</p><p>　100年前の1910年8月22日、「帝国」日本が大韓帝国を強制「併合」した。すでに外交権を奪い軍隊を解散させての占領下でこの22日に条約を「締結」し29日に天皇陸仁の名により公表、告知した。<br>　<br>　大韓帝国に対する占領、強制併合に至る「帝国」日本の侵略の歴史を認識することから出発し強制占領・植民地支配における暴力、民族差別に対する日本の国家責任、「帝国」日本の最高責任者であった三代にわたる天皇の責任を明らかにし謝罪と占領下・独立戦争下の被害者・遺族への国家としての戦後補償が正しくなされ、また企業責任も問われ戦後補償が正しくなされることが求められている。<br><br>　1875年9月、天皇を頂点とした日本の専制政府は領土拡大と資源強奪の野望のもと朝鮮の首都への入口、江華島・カンファドに軍艦「雲揚」により進攻し砲台を破壊、朝鮮兵35人の殺害、永宗島ヨンジョンドを占領、民家を焼き払という東アジアの平和を壊す愚かな行為に出て朝鮮の社会を脅かした。<br><br>江華海峡</p><center><a href="http://futei8.exblog.jp/iv/detail/?s=13690435&amp;i=201008%2F01%2F05%2Fb0194405_21164139.jpg"><img alt="b0194405_21164139.jpg" height="375" width="500" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fpds.exblog.jp%2Fpds%2F1%2F201008%2F01%2F05%2Fb0194405_21164139.jpg"></a></center><p><br><br>ブログ内リンク　<br><font size="5"><a target="_blank" href="http://futei6.exblog.jp/11634944">江華海峡とチョジジン・草芝鎮の岸辺</a></font><br><br>　翌1876年1月、艦隊を朝鮮に派遣し軍事力行使を背景に賠償と不平等な修好条約を締結した。天皇を神格化した憲法により「国民」統合をおしすすめ始めた日本は、さらにアジア大陸への侵略のため1894年7月23日、東学党の反乱と同調し朝鮮政府に対し決起した農民たちの「鎮圧」を名目にソウルの王宮に進攻し日朝戦争をひきおこした。そして朝鮮支配を強化せんとしていた清国と開戦し、その軍を朝鮮から排撃し旅順における清国の民衆虐殺をひきおこした。<br><br>　日本の軍隊と対峙のためこの甲午の年の秋に再び決起した農民兵たちに対し非対称な武器で優位にたちながらも天皇を最高責任者とした広島の大本営は農民兵の殲滅を指示した。朝鮮政府軍を従えた日本軍は少なくとも3万人以上の農民兵の大虐殺を行い翌年春までに朝鮮最西南端の海南・珍島まで追いつめ殲滅した。<br>　その侵略と戦争行為は止まず1895年台湾へ進攻し抵抗する人々への虐殺をすすめ台湾植民地戦争を遂行し「帝国」日本が出現した。<br><br>　従来「日清戦争」と総称されるこの近代最初のアジアの国によるアジアの国における戦争は朝鮮、中国、台湾を戦場としてアジア民衆へのジェノサイドを遂行することにより始まった。この戦争はアジア民衆に長く続く苦痛を与える侵略の開始であり「帝国」日本の敗戦まで継続した侵略と虐殺の50年にわたる暴力による支配と占領、戦争の始まりでもあった。<br><br>　朝鮮民衆に対しアジア・太平洋戦争に至るまで過酷な抑圧と支配を「帝国」日本とその多くの国民は暴圧をもって貫き義兵闘争時、3・1独立闘争、間島における住民たちへ、関東大震災時における朝鮮人への虐殺とジェノサイドは続いた。<br><br>　占領、植民地化の朝鮮の民衆に対し皇民化政策のもと「帝国臣民」としつつ治安維持法などを背景に治安取締の対象民族として朝鮮人に対する戦時動員、朝鮮女子勤労挺身隊、朝鮮人軍人・軍属・被徴用労働者、日本軍「慰安婦」として虐待・奴隷的労働を強要し、「満州」、中国に広がった独立闘争の活動家に対しては戦争状態で対峙した。強制労働、動員の範囲は樺太地域、南方にも及んだ。<br><br>　今日なお朝鮮国内外での戦時動員、あるいは独立運動を闘った人数、実態、犠牲者数など事実を知り得ない。<br><br>　そして敗戦以降65年の間、その侵略、占領、植民地支配の責任、過去清算、真相究明と謝罪を国家、昭和天皇、現天皇と多くの国民は明確にできず、アジアの平和と地域の安定、人権問題・民族差別に影響をおよぼしてきた。こんにちなお日本の市民も真相究明と謝罪が求められる。私たちはこれから述べる歴史認識を確認したうえでこれから暴力の無い平和なアジアの地域を市民の立場から築いていくことを宣言する。<br><br>二、植民地支配の歴史と独立戦争・闘争<br><br>「日清戦争」が終結した後も「帝国」日本は1895年10月、ロシアの影響排除を目的として朝鮮政府の権力構造に実力で介入、前年に続き再び朝鮮王宮に進攻し朝鮮政府軍、官僚、女官、王后を虐殺した。<br><br>　その現場首謀者はソウルにおける外交の最高責任者、領事・三浦梧桜以下であり日本の軍隊と連携をとり景福宮に侵入した。このような日本の軍隊を動かしてまでの侵攻と殺戮は藩閥専制の日本政府の実力者の指示がなければ実行できないが広島に送還した48人を免訴にし本裁判に付さず真相究明は放棄された。そして指揮官の軍人8名が軍法会議にかけられたが無罪放免になった。　<br>　未だこれらの行為に対して日本政府による真相究明は取組まれていない。</p><center><a href="http://futei8.exblog.jp/iv/detail/?s=13690435&amp;i=201008%2F01%2F05%2Fb0194405_21225864.jpg"><img alt="b0194405_21225864.jpg" height="510" width="680" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fpds.exblog.jp%2Fpds%2F1%2F201008%2F01%2F05%2Fb0194405_21225864.jpg"></a></center><p><br>乾清宮<br><br><br>ブログ内リンク<br><font size="5"><a target="_blank" href="http://futei6.exblog.jp/11641237/">1894,95年日本帝国の侵略の場・景福宮　修復と「復元」権力者不在の「宮殿」の現在</a></font><br><br>　この乙未事変・ウルミサピョンと朝鮮政府内での前年からの甲午改革・カポケピョクによる近代的改革の推進に対し義兵闘争が起こされた。<br><br>　1897年朝鮮は大韓帝国と国号を変えた。一方、覇権をめぐり「帝国」日本はロシアとの緊張が高まりついに1904年、ロシアとの戦争を開始し大韓帝国に対しては軍事力を背景に2月に「議定書」、11月には「日韓協約」を強制締結させた。1905年日露戦争の収束後、11月になり日本は一方的な乙巳・ウルサ条約と言われる「保護条約」を「特派大使」として乗り込んだ伊藤博文が高宗を威嚇、武力示威を後ろ盾に調印を強要し外交権を奪った。<br><br>　これらの強制の保護条約により「帝国」日本による強制占領が開始されたのである。さらに義兵の決起が続いた。<br>　1907年、大韓帝国皇帝、高宗・コジョンはオランダ・ハーグに特使を秘かに派遣。第二回万国平和会議にウルサ条約の不法と強要、侵略を世界に広く知らせようとした。しかし「帝国」日本は天皇陸仁の名のもと高宗皇帝を息子に強制譲位させ、軍隊解散をさせたうえで内政権を掌握する協約締結を強要し占領政策を強化した。<br>　それにより軍人の抗日闘争が起きソウル市内で日本軍と市街戦になり軍人たちは義兵部隊に合流した。義兵戦争が拡大しさまざまな人々が参加し抗日戦争となった。義兵の戦死者二万人、民衆へのジェノサイドも数万人ともいわれるこの時期の「帝国」日本の軍隊の暴力支配の究明が求められる。<br><br>　一方、この時期、東京に滞在していたアジア各国の独立を望む活動家は「亜州和親会」を発足させ独立運動を活性化せんとした。その影響を受けた少数ではあるが日本の初期社会主義者たちは1907年7月21日、「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」と決議を発した。</p><center><a href="http://futei8.exblog.jp/iv/detail/?s=13690435&amp;i=201008%2F01%2F05%2Fb0194405_21294426.jpg"><img alt="b0194405_21294426.jpg" height="634" width="500" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fpds.exblog.jp%2Fpds%2F1%2F201008%2F01%2F05%2Fb0194405_21294426.jpg"></a></center><p><br><br>　改めて103年前にこの「決議」が発せられたことを確認し、日本においても多数の民衆が併合論をよしとする社会状況のなか独立が必要だと明確に主張をしたことを記憶にとどめたい。<br><br>　1909年10月26日、安重根・アン・ジュングンはハルビン駅構内で朝鮮統監府前統監の伊藤博文を射殺した。ロシアの管轄権をこえて「帝国」日本の外務省下にある関東都督府地方法院での審理が1910年2月に始まった。伊藤の罪を予審訊問や法廷で述べ「国土と民衆」を蹂躙したこと、韓国と東洋の平和が侵害されている現実とその責任を挙げ「東洋平和論」を述べた。しかし3月26日、殺人の罪で処刑された。<br><br><br>ブログ内リンク<br><font size="5"><a target="_blank" href="http://seoul1919.exblog.jp/10879296/">アンジュングンへの死刑判決本文・理由の報道</a></font><br><br><font size="5"><a target="_blank" href="http://seoul1919.exblog.jp/10879267/">関東都督府地方院弁論、アンジュングンの意見表明</a></font><br><br><font size="5"><a target="_blank" href="http://seoul1919.exblog.jp/10823734/">アン・ジュングン関東都督府地方法院2月7日法廷</a></font><br><br><br>　日本では天皇殺害の計画があったとして日本の社会主義者たちを壊滅させる大弾圧がかけられた。幸徳秋水ら12人が処刑された刑法73条による大逆罪事件である。大逆事件の弾圧と日韓強制併合は同時進行であった。<br>　大逆事件で弾圧された社会主義者たちは1907年の「朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重、帝国主義的政策批判をなし日本政府による朝鮮独立の保証」を決議したメンバーと重なる。<br><br>運営サイトリンク<br><font size="5"><a target="_blank" href="http://members3.jcom.home.ne.jp/anarchism/miyashita.html">大逆事件　大逆罪・爆発物取締罰則弾圧による国家テロリズム&nbsp;</a></font><br><br>　1910年8月22日「帝国」日本はソウルに一個師団の日本軍の駐屯とさらなる結集を背景に併合条約を大韓帝国に強制締結させ29日に天皇の名による告知で韓国民に一方的に広めた。本国内の日本の社会主義者たちの活動を封じたうえでの強制併合の施策であった。<br><br>　設置された「帝国」日本による朝鮮総督府は三権を掌握、日本への同化主義、朝鮮人による新聞、雑誌を認めない、宗教以外の自主的社会活動を認めないという権力末端の憲兵・警察を駆使した暴力支配で占領、植民地支配を徹底した。しかし占領・植民地支配に対し、抗日独立運動の闘いが継続された。<br>　<br>　一方、国策会社であり天皇、皇族が大株主の東洋拓殖株式会社は政府の補助金により土地の買収を進めた。1910年から1918年にわたる朝鮮の土地の地調査事業で日本が接収した土地のうち1万1400町歩が東洋拓殖株式会社に現物出資され、植民地経営の一翼として朝鮮人小作農に貸し付け最大の地主として植民地支配を支えた。過酷な条件で農民は生活を圧迫され離農、移住労働者にならざるを得なかった。<br><br>　その間、日本に留学した朝鮮からの学生は留学先の大学内で母語である韓国語の使用を抑圧され抵抗の運動を作り始め日本国内においても独立の主張の言論が少数でも展開された。<br><br>　1919年のパリ講和会議ではアメリカの都合によい主張であるが「民族自決」「植民地問題の公正解決」が含まれていた。日本に留学していた朝鮮の学生はこの国際情勢を独立の機会として考え「朝鮮青年独立団」を組織し独立宣言書と決議文を発表した。2・8独立宣言であり民族の生存権を主張した。<br><br>　東京での決起に続き3・1独立運動が広がった。<br><br>　鐘路・チョンノのパコダ公園に学生・市民が集まり独立宣言書が朗読され太極旗をもち「独立万歳」を叫んで市内で示威運動を展開した。宣言書は「吾等はここに朝鮮が独立国であるとと、朝鮮人が自主の民であることを宣言する」に始まり「侵略主義、強権主義の犠牲となって十年の間に生存権が奪われたこと。子孫に安全な幸福を導き迎えるには民族的独立を確実にする」と記される。<br><br>　この全土で二百万人余りの民衆の参加、中国東北地方にも広がった反日独立闘争に対し「帝国」日本の警察と軍隊は銃剣で厳しい弾圧を加え京畿道水原の堤岩里における虐殺を含め7,000人をこえる虐殺、五万人近くの逮捕者というというジェノサイドをおこなった。大規模な独立闘争はおさえられたがアジアの民衆にも大きな影響を与え、近代史上最大の反日独立闘争であった。<br><br>　次に「帝国」日本の朝鮮総督となった斉藤実は暴力支配を根幹とする治安維持政策は変わらないが朝鮮民衆への懐柔と分断政策も進めた。この時期民衆は新たな抵抗運動を組織し集会・結社・言論活動を広げ労働運動、農民運動、衡平運動を闘い始めた。同時期の日本本国の民衆による1918年の女性たちの決起を契機とした米騒動、1919年の労働運動の勃興、1920年すでに居住していた朝鮮民衆も参加した「日本社会主義同盟」の結成と国家の権力に対する闘いにおいて相互の影響があり共同した闘争が萌芽し始めた。<br><br>　1921年11月には当時、勉学や労働のため東京で生活をしていた社会主義の傾向をもつ朝鮮の学生や労働者により黒濤会という団体が結成された。朝鮮の人々による社会主義グループの結成は初めてであり、参加メンバーは日本国内での独立運動の中心となっていった。<br><br>　1922年夏、新潟県の水力発電所工事現場における朝鮮人労働者の虐待と数体の遺体が信濃川に流れつくという虐殺事件がおきその真相究明運動が朝鮮と日本の社会主義者により初めて共同して進められ、9月には東京において大規模な報告集会が開かれた。<br>　この真相究明と抗議の運動が共同して取組まれたことも強制併合100年の歴史の中で記憶せねばならない。<br><br>ブログ内リンク<br><a target="_blank" href="http://futei7.exblog.jp/11927687/">1922年新潟・中津川事件</a><br><br>　中国に展開した朝鮮の独立運動の主要は臨時政府として上海に統合された。そして中国東北部の間島地方での武力闘争を展開する。「帝国」日本の軍隊は1920年８月、「間島地方不逞鮮人焦土計画」を立てるが10月に金佐鎮部隊が青山里において日本軍へ壊滅的打撃を与え、その報復に1921年４月まで間島地方の朝鮮人村落においてジェノサイドを行使し、当初の２ヵ月間だけで殺害3,600余名、婦女強姦70、家屋放火3,200軒との報告がある。<br><br>　一方、義烈団は少人数での武装闘争を展開するために結成された。1923年1月、独立活動家申采浩・シン・チェホの起草による義烈団の「朝鮮革命宣言」は独立闘争の理念と具体的行動を長文で宣言した。それまでの強制条約批判、独立宣言を踏まえているが民衆における階級問題や親日派への批判を明確にし、3.1独立宣言の限界を越える内容として起草された。<br><br>ブログ内リンク<br><font size="5"><a target="_blank" href="http://d.hatena.ne.jp/futei/20090221">≪朝鮮革命宣言≫1936年2月21日。シン・チェホは日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて55歳で獄中病死した</a></font>　</p><center><a href="http://futei8.exblog.jp/iv/detail/?s=13690435&amp;i=201008%2F01%2F05%2Fb0194405_21264525.jpg"><img alt="b0194405_21264525.jpg" height="445" width="680" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fpds.exblog.jp%2Fpds%2F1%2F201008%2F01%2F05%2Fb0194405_21264525.jpg"></a></center><p>&nbsp;</p><center><a href="http://futei8.exblog.jp/iv/detail/?s=13690435&amp;i=201008%2F01%2F05%2Fb0194405_21272213.jpg"><img alt="b0194405_21272213.jpg" height="686" width="459" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fpds.exblog.jp%2Fpds%2F1%2F201008%2F01%2F05%2Fb0194405_21272213.jpg"></a></center><p><br>シン・チェホ　獄中の肖像<br><br><br>　1923年「帝国」日本の「帝都」東京において関東大震災が起きた、自然災害であったが政府、軍隊は発生直後に戒厳令を施行すると共に在留朝鮮人を脅威とするデマゴギーを流布した。それに民間人が軍隊、官憲と協同した自警団が組織され少なくとも6,000人余りが虐殺されジェノサイドを行使した。<br><br>ブログリンク<br><font size="5"><a target="_blank" href="http://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/2343502.html">和田久太郎意見陳述</a></font><br><br>　3・1独立闘争、間島における民衆虐殺と同様、関東大震災時の朝鮮人虐殺も、日本政府による真相究明と謝罪がなされず今日に至っており国会における真相究明と謝罪がなされることを求める。<br><br>　1923年末から翌年にかけて日本人の社会主義者や朝鮮の独立活動家は震災時の朝鮮人虐殺に対して摂政宮裕仁に責任があると武装闘争で決起をする。彼らは死刑判決で処刑されるか獄死をした。<br>「帝国」日本の暴力支配とジェノサイドに対し個々の活動家が責任追及のため決起した状況下、日本政府は震災時の朝鮮人虐殺を正当化するため天皇への暗殺計画が朝鮮人と日本人のアナキストにより同年に準備されていたというフレームアップをしかけ刑法七三条、大逆罪で大審院に付した。真相究明が未だなされていない。<br><br>運営サイトリンク<br><font size="5"><a target="_blank" href="http://members3.jcom.home.ne.jp/anarchism/index3.html">金子文子の生き方</a></font><br>&nbsp;</p><center><a href="http://futei8.exblog.jp/iv/detail/?s=13690435&amp;i=201008%2F01%2F05%2Fb0194405_2142942.jpg"><img alt="b0194405_2142942.jpg" height="863" width="680" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fpds.exblog.jp%2Fpds%2F1%2F201008%2F01%2F05%2Fb0194405_2142942.jpg"></a></center><p><br>金子文子<br><br><br>　1928年、台湾において1932年、東京において独立活動家の皇室メンバー、天皇への闘いがあり処刑された。同年、上海における植民地支配者日本政府高官への闘いもあり処刑された。<br><br>　リンク<br><a target="_blank" href="http://futei.exblog.jp/12796697/">朝鮮独立運動家が処刑された10月10日</a><br><br>　1930年代以降も中国東北部でのコミューンを拠点にした独立闘争、民族主義での抗日戦争、中国や台湾、日本国内における闘争は続き「帝国」日本の「大東亜共栄圏」の版図は抗日戦争、独立闘争を担う朝鮮の人々にとって戦場であり 義烈団や民族主義団体、社会主義グループによる抗日武装闘争が組織的に取組まれた。<br><br>　治安維持法、大逆罪弾圧と日本の暴力的な植民地支配は不可分の関係である。台湾や朝鮮を侵略し植民地支配、占領していた「帝国」日本は本国の刑法を支配地において準じて適用していた。独立活動家の少なからずは「帝国」日本、天皇を攻撃目標としていた。「帝国」日本はその敗北まで戦争状態で対峙せざるを得なかった。<br><br>ブログリンク<br><font size="5"><a target="_blank" href="http://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/2346950.html">治安弾圧法</a></font><br><br>　一方、朝鮮における労働者が急増、朝鮮人労働者への不当な違約金の徴収や日本人との賃金格差も極端化し賃金労働者の生活は困窮した。1921年釜山の埠頭労働者の争議を皮切りに争議は増加、なかでも1929年の元山におけるストは広がり最大の争議となった。しかし警察や日本軍400名の動員により弾圧された。朝鮮人労働者を主体とする労働運動、組合結成、争議は日本国内でも取組まれ、朝鮮では光州学生闘争、新幹会の結成など民衆の闘争も持続された。<br><br>　大政翼賛組織の国民総力朝鮮連盟が1938年に結成され中央本部は朝鮮総督府におかれ朝鮮人労働者、軍人、軍属の「皇国臣民」化を進めた。中国侵略を前にして朝鮮の民衆を「帝国」日本に組み込むため創氏改名、「東方遥拝」、「君が代」斉唱、日の丸の掲揚、「御真影」と称する天皇の肖像への礼を強要した。戦時体制強化のため「陸軍特別志願兵令」を公布。朝鮮での徴兵実施に向け1941年、朝鮮総督府は朝鮮語の学習を廃止し「国語」として日本語使用を強制した。</p>
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<link>https://ameblo.jp/futei1/entry-12239155744.html</link>
<pubDate>Wed, 18 Jan 2017 07:11:15 +0900</pubDate>
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<title>戒厳司令官福田雅太郎狙撃「和田久太郎意見陳述」</title>
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<![CDATA[ <table width="564"><tbody><tr><td itemprop="articleBody"><p>『労働運動』紙に引用「和田久太郎意見陳述」　<br><br>和田久太郎が福田雅太郎を狙った理由は本人が意見陳述で述べているが、これまで「大杉栄虐殺への復讐」という部分だけがクローズアップされてきた。秋山清の記述も例外ではなく『ニヒルとテロル』の＜酔蜂・和田久太郎＞一九五七年。「関東大震災のとき大杉栄、伊藤野枝らが殺害されたことの報復を念として…」八七頁。＜アナキスト・和田久太郎＞一九七一年、においては「和田久太郎はもし大杉暗殺の復讐としての福田暗殺に成功すれば…」ニ九六頁。しかし本人は大杉復讐のためだけではないことを法廷で語っている。([アナキストたちの記憶]九月、六月の項よりデータ再録)<br><br>『労働運動』紙より<br><br>　1925年6月27日。和田君は第三回公判廷にて左のやうに言つた。<br><br>「僕のこの度の行為は、僕が常に抱いてゐる主義思想とは関係なく、一昨年、震災の混乱を利用して『社会主義者鮮人の放火暴動』などといふ嘘八百の流言を放ち、火事場泥棒的に多くの社会主義者や鮮支那人が虐殺されたことに対する復讐である。その当時、流言蜚語を放つた者を厳罰する法令が出て、その流言蜚語を取り次いだ者の二、三が罰せられた事は白日公然の事実であるから、即ちその流言蜚語を放つた犯人が時の政府でなく、警視庁でなかつた事も、確かに白日公然の事実である。然しながら、それと同時にあの当時、各所に流言を放つて歩いた者の多くが、騎馬にまたがつて軍服を附けてゐたもの、自動車に乗つて巡査の制服を着けてゐたもの等であつた事も、震災地にゐた総ての人々の眼に映つたところの事実である。兎に角、あの当時『鮮人を殺せ、社会主義者を生かして置くな』といふ流言蜚語が盛んに行はれた。<br><br>所々に於て鮮人は群集に切り殺され、兵隊によつて銃殺された。平澤計七君等十一名は、ただ社会主義者だといふ理由だけで、真裸体にして突き殺され、首をちよん切られた。何故僕が首を切り落とされた事まで知つてゐるかといふと、その虐殺された平澤君の首と胴体の離れた姿が、偶然にも、当時或る人の撮つた写真の中から発見されたのである。然して、十六日には、吾が大杉夫妻及び六歳の甥の宗坊が憲兵本部に連れ行かれ、諸君の知らるゝ通りの残虐極まる殺され方をしたのである。<br><br>又、ある社会主義者の宅は銃剣を着けた軍隊に襲はれ、ある者の家は武装した青年団に襲はれた。巣鴨警察に検束された同志の中の四名は、道場や広庭に引出されて、柔道の手で投げ飛ばされ、竹刀、厚板等で乱打され、幾度か気絶さゝれた。吾が労働運動社は、九月一日から七日迄の間、ただ一度二升の玄米を分配されたのみで、それ以外、一切の食料品の分配を町内青年団から拒まれた。そして七日に、一斉に駒込署に検束され、僕の如きは四十度近い熱で病臥してゐるのを布団のまゝ留置場にかつぎ込まれた。かくの如き暴虐!　これに対する悲憤!　それが凝つて以つて今回の復讐となつたのである。がその数多い暴虐の中に於いても、特に、吾が大杉夫妻及び気の毒で堪らないいたいけな宗坊の虐殺に対する悲憤が、尤も強く僕の心を動かした事は勿論である＞<br><br>第二回公判での意見陳述(1925年6月)<br><br>＜今、仮に一歩を譲つて、判検事の僕に言はれた如く、また福田自身の言明の如く甘粕の行為は決して福田大将の与り知らなかつた所だとした所で、しかし、あの虐殺が決して甘粕等自身の自発的行動でないといふ事に就いては、多くの眼明きの人々が明白に認めてゐることだらうと思ふ。それ故にこそ福田自身ですら、予審調書に『しかし、私を命令者と和田等が思ふのも亦無理のない点もある。何うも甘粕の裁判の時の態度が曖昧だつたので、私ですら他に殺させた者があるのではないかと疑つてゐる。しかし、軍法会議で裁判も終つた事だから何んとも仕方がない』と述べなければならなかつたのである。然して、この誰も疑ふ当然の疑ひを僕が疑つて、その背後の全責任者として僕は福田大将を睨んだのである。僕は、福田を甘粕事件の黒幕だと推定するに役立つ三つの材料を揚げる。<br><br>第一。彼は当時の戒厳司令官である。<br><br>第二。九月二日、所々に貼り出された『鮮人社会主義者等が放火し暴動しつつあれば、人々はよく団結して彼等に備へよ』云々の掲示板には、な戒厳司令官福田雅太郎と署名してあつた。<br><br>第三。当時、戒厳司令官より各青年団、在郷軍人団に発したといふ謄写版刷りのビラの中に『社会主義者、鮮人を徹底的に取締れ』と記されてあつた。<br><br>　即ち僕は、この三つの事実に思ひを潜めて、そして、前述の誰もが抱く疑ひである甘粕の背後の、最も明白な第一の責任者として福田大将を認めたのである。<br><br>　私は思ふ。福田雅太郎の直参旗本であつた憲兵隊は青年団、在郷軍人団等の及びもつかない忠実さを以つて、その司令官の内訓にのつとつて、大杉夫妻を『徹底的に取締つた』ものであり、殊に余りに徹底しすぎて、僅かに六才の宗坊をまで『取締つて』了つたのである、と。<br><br>　しかし、これでも猶、福田が『その推定は間違つてゐる。私は甘粕事件には少しも関係がない』といふならば、僕は福田雅太郎にお願ひする。<br><br>　福田も、甘粕の黒幕があるやうに疑つてゐるのだから、幸い甘粕がのこのこ酒蛙々々と娑婆へ出て来た今日である、その疑ひを何か明白にして貰ひたい。そしてその黒幕を発いて、僕の『間違ひ、思い違ひ』をして翻然と改めさして慾しいものである。が、その背後の黒幕は、余りに大きく数も多さうなので、よもや福田もそれは出来まい。出来なければ男らしく責を負つたらどうだ。『何うも軍法会議が済んで了つたから仕方がない』などと、暗に自分達の軍法会議をけなしてまでその責任を避けやうといふのは、余りに軍人らしくない態度ぢやないか。部下に絶対服従を強ゆる権力を握つてゐるものならば、仮りにその部分の仕出かした誤ちとしても、甘んじてその責任を負つてこそ軍人じやないか。」</p></td></tr></tbody></table><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/futei1/entry-12239154993.html</link>
<pubDate>Wed, 18 Jan 2017 07:05:17 +0900</pubDate>
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<title>布施辰治弁護士</title>
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<![CDATA[ <h2>布施辰治弁護士</h2><p>「布施辰治/自由と人権」シンポと李文昌<br>斃れしアナキストたちと布施辰治<br><br>二〇〇五年一月一三日、「布施辰治・自由と人権」と題した記念シンポジウムが明治大学・明治大学法学部主催で開かれた。<br>　記念とは韓国政府が布施に日本人として初めて「建国勲章」を授与したことである。副題が「明治法律学校出身の社会派弁護士」。布施は明治大学とゆかりがあり公判書類、蔵書等の一部は明治大学図書館に遺族から寄贈がされている。<br>　布施が韓国で評価されたのは朝鮮人留学生による独立宣言への弾圧、出版法違反裁判への無償弁護を始めとし（一九一九年二月八日、神田の朝鮮基督教青年会館で宣言された）、義烈団、朝鮮での農民の土地問題、朝鮮共産党事件などの弁護活動、関東大震災下の虐殺事件の調査・抗議等はば広く朝鮮の民衆のために活動したことである。<br>弁護活動の一つに金子文子・朴烈の大逆事件もある。<br>第一部として関係者の挨拶が続き、遺族を代表し孫である日本評論社、大石進会長の発言でしめられた。<br>第二部のシンポジウムのパネラーは明治大学から山泉進法学部教授他一名、布施の伝記を執筆中という森正名古屋市立大学名誉教授、そしてソウルから招請された李文昌国民文化研究所名誉会長。（アナキズム運動人名事典編集委員にソウルから加わっていた）<br>李会長には昨年秋、ソウルにて開催された初期社会主義研究会の大会関連企画として市内見学があり友堂記念館の案内と設立の経緯の解説をお願いした。その際、山泉さんへソウルで開催された「布施国際学術大会（二〇〇一年）」に関わったことを紹介した。その縁で今シンポジウムへの招請につながった。<br>発言の主題は「朝鮮民族との連帯」、主要には朴烈・金子文子との関係で語り一九二二年からの布施と二人の邂逅から、大審院の法廷闘争での連帯の内容を語った。また布施の著作『自治研講和』から「無為而治」（為さずして始める）を引用、「人間生活の理想は誰からも支配されない自由と誰も支配しない平等の社会」を建設することにあると布施の理想を無強制無権力の完全な自治社会の実現にあると、論を展開した。<br><br>翌日、私の案内で李会長を金子文子の故郷である山梨の牧丘町へと誘う。事典編集委員であった山口守さん（一九九〇年代にソウルで東アジアにおけるアナキズムをめぐるシンポジウムを企画、李文昌さんと交友が始まった）、李京錫（イ・キョンソク）さん（東アジアにおける近代政治史を研究、亜州和親会に朝鮮からの参加者が存在したという論文を発表）が同行した。牧丘町訪問に先立ち塩山市内で「李文昌さんを囲む会」が開催され金子文子を通じての韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした懇談会を開かれた。遺族である金子こま江さん、牧丘町住民、教育委員会、山梨文芸協会、県生涯学習センター職員らこの間、金子文子に関心を寄せてきた人たち二〇名近くの参加者があった。<br>牧丘町の金子家では歌碑の説明を受け、葡萄畑から山並みを展望、築二百年前後という文子も出入りしたこま江さん宅に上がらせてもらい、文子の生きてきた時代を偲んだ。<br><br>三月一三日、布施の出身地、石巻市において布施辰治を語る会（市、市教委、布施辰治顕彰会主催）が開かれ李文昌さんが再び日本の地に招かれた。筆者も参加のため石巻を初めて訪問。布施の生誕地、記念碑を見学、布施辰治顕彰会の人たちと交流した。会場には二百人余りの市民が集まり熱心に聞いていた。<br>　講師のもう一人は岩手大の早坂啓造名誉教授。大正期に布施が扱った岩手の小繋（こつなぎ）入会権訴訟を語った。<br>　李会長は朝鮮独立と布施の関わりを語り「差別のない平和な社会は、今からの東アジアの共通課題だ」と結んだ。<br>　<br><br>布施辰治のアナキストへの弁護<br><br>布施がアナキストたちと関わった始めは布施柑冶『ある弁護士の生涯』によると一九一九年の大杉栄への新聞紙法違反への弁護ということである。（同書において著者は父親である布施辰治をＦ氏と客観的に表現している）<br>「大正八年(一九一九年)、九年Ｆ氏は大杉栄(新聞紙法違反容疑、つづいて尾行警官追っ払い事件)、高尾平兵衛(クロポトキン『法律と強権』秘密出版事件)、近藤憲二などのアナーキストの弁護をとくに記憶に残した。大杉が検事の公訴事実陳述、論告などに被告が敬意を表する理由はないと主張し、その前例を開いたとき、Ｆ氏は法律家として強く支持した」五四頁。<br>　布施は大杉の弁護人となる一三年前に「電車賃値上反対騒擾事件」で山口孤剣の弁護を引き受けている。大杉も同事件の被告であり面識ができたのはこの時であろう。<br>　森長英三郎の著書『山崎今朝弥』では「大正八年までは、実践的な社会主義弁護士としては山崎今朝弥一人だけであった。……大正九年に布施辰治が自己革命を宣言して、人道主義的弁護士から社会主義的弁護士に転じ、山崎と共に社会主義者や労働組合、農民組合の事件を弁護するようになり、布施、山崎とならび称せられるようになった。……」（一三三頁）と記述されている。<br>　布施は一九二〇年代、自由法曹団の中心弁護士として活躍。労働争議、朝鮮人、台湾人への弁護、借家人同盟の創設と驚異的な活動を展開、アナキストたちに対しては公判の弁護だけではなく、獄死(病死、自死、刑死)したケースで遺体を監獄当局から「奪還」、死因の検証、布施の自宅での通夜の世話と最大限に斃れしアナキストたちへの追悼と支援をなした。<br>しかし『ある弁護士の生涯』では金子文子・朴烈と福田狙撃・ギロチン社事件に関しては個別に記述があるがそれも具体的ではなく、他の関わりもほとんど書かれていない。そこで各文献から布施に関わる事項を年代順に整理した。<br><br>斃れしアナキストたちへの弁護<br>一九一九年一月二〇日　大杉栄、新聞紙法違反、『民衆の芸術』への執筆（一九一八年九月二三日頃発行の雑誌『民衆の芸術』中に恵まるる政治及生の反逆と題したる記事は安寧秩序を紊乱するものとして…官憲資料）東京区裁判所に於いて罰金百円の判決<br><br>一九一九年三月一七日　東京地方裁判所、無罪判決（官憲資料）『ある弁護士の生涯』では大杉の新聞紙法違反としか回想していないが大杉のこの時期の該当する裁判はこれだけである。しかし山崎今朝弥の『地震・憲兵・火事・巡査』には『民衆の芸術』編輯・発行人の大石七分への判決を資料として「馬・鹿判決」として掲載。<br>布施の大杉への弁護活動は山崎のテキストでは記述はない。<br><br>一九一九年七月二三日　大杉栄は尾行巡査殴打事件（五月二五日）午後五時拘引状を執行される。（官憲資料）布施は山崎今朝弥と共に弁護人<br><br>一九一九年八月四日　東京区裁第四号法廷に於て尾立判事の係りにて開廷&nbsp;<br><br>一九一九年九月一一日　東京地裁 懲役三ヶ月に処す　言渡し　上告　<br><br>一九一九年九月二七日　東京地方裁判所に於て田山裁判所長係にて陪席として鶴、尾高両判事竝に岩松検事立会公判開廷&nbsp;<br><br>一九一九年一〇月二日　第二回公判弁護士花井卓蔵、山崎今朝弥、布施辰治ら出廷　被告は先般も起立せす悪習慣は改めさるへからす依て起立するの必要なしとて起立せす…　　　　　　<br><br>一九二〇年六月　高尾平兵衛、出版法違反、クロポトキン『法律と強権』謄写版刷り無届出版　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二一年四月九日　近藤憲二、東京地裁、草野裁判長（第一審東京区裁、ビラまきで拘留二十日の刑で控訴）。近藤の回想によると当初は巡査への傷害事件でフレームアップされかかったが官憲は失敗し、ビラ撒きが弾圧の対象とされた。　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二三年四月　朴烈は、東亜日報張徳秀への殴込みで神田署に検挙、市谷刑務所に送られ既決囚扱いで頭髪を刈ろうとする看守と乱闘、布施が支援、弁護。金子文子はこの件で布施と初めて会う。「破れ障子から」『現社会』に布施の支援を記す。　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二三年六月二六日　高尾平兵衛が右翼に射殺される。吉田一、石黒鋭一郎、平岩巌らの家宅侵入、傷害事件を弁護、裁判は関東大震災後　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二三年七月八日　高尾平兵衛の社会葬、葬儀委員長　　　　　　　<br><br>一九二三年九月一日　夜、市谷刑務所の収監者を見舞う。吉田一らと話す　　　　　　　　<br><br>一九二三年九月二日　朴烈、四谷の布施事務所に寄る　　　　　　　　<br><br>一九二三年九月三日　金子文子・朴烈、保護検束　　　　　　　　　　　<br><br>一九二三年九月一九日　朝、大杉らの行方不明につき村木源次郎と共に警視庁総監湯浅倉平を問い詰める『ある弁護士の生涯』　　　　　　　　<br><br>一九二三年一〇月　金子文子・朴烈　治安警察法違反で予審調べが続く。布施が弁護　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二五年一月二三日　村木源次郎の獄中危篤に立会う市谷刑務所　<br><br>一九二五年一月二五日　後藤謙太郎の死因追及で午後三時、巣鴨刑務所、佐藤典獄を問詰める　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二五年一月二六日　午後一時半　雑司ヶ谷墓地で後藤の遺体発掘、布施が立会う（二七日という報道もある）後に江口渙が小説『彼と彼の内臓』に布施をモデルとした人物登場　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二五年　五月二一日　福田大将狙撃事件第一回公判、和田久太郎、古田大次郎らの弁護人となる。「裁判所に行く前（午前六時頃）に感想を書く、中浜君も僕も以前から弁護士排斥論者だった…一日で全部の（東京に於ける全部）の事実調べを済ませて、夕刻帰って来た」古田手記<br><br>一九二五年六月一六日　「今日は小阪事件の調べだが……張合いない（出廷前記）一一時開廷、先づ僕に対する小阪事件の事実調べを終わり、次に倉地君の事実調べの後休憩、午後再開、弁護士諸君の証人申請、……検事は全部必要なしとして却下し、裁判長は合議の上、只中村高一弁護士のみを証人として許した、次回は二七日。午後四時閉廷。」古田手記<br><br>一九二五年六月二七日　「一一時開廷、…僕に対する大阪小阪事件の証拠品調べが済んで、愈々検事の論告に移った」「午後再開、和田君の最後の陳述後、……布施氏縦横に弁を振るう事約一時間半、和田君に対する弁護を終えて、夕刻一時休憩、更に続行の筈だったが、裁判所の都合で中止となった、時に午後七時…」古田手記<br><br>一九二五年九月一〇日　判決『死刑の宣告を聞きにゆく日』　古田手記　　　　　　<br><br>一九二五年一〇月一五日　古田刑死、布施は遺体を引取り通夜を催す　　　　　　　　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　一九二五年一一月一四日　金子文子・朴烈、布施弁護士を選任<br><br>一九二六年始めか、大阪の中浜哲控訴審を弁護　　　　　　　　　　　　　　　　<br>一九二六年二月二六日　金子文子・朴烈第一回大審院公判<br><br>一九二六年三月二五日　大審院判決　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二六年四月一五日　中浜哲刑死　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二六年四月一六日　夜半、布施は中浜の遺体引取りに大阪に赴く　新聞報道<br><br>一九二六年六月　古田大次郎の獄中記『死の懺悔』刊行、布施は『原始』八月号に「古田君を偲ぶ」掲載<br><br>一九二六年七月三〇日　金子文子死去の報で布施は金子の母親、同志、医師らと宇都宮刑務所栃木支所に向かう、宇都宮刑務所所長に遺体発掘を要求、馬島医師と共に検分<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　一九二六年七月三一日　金子文子の遺体を荼毘に付し、夜雑司ヶ谷の布施宅にて遺骨安置　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二六年八月一日　朝鮮のアナキスト同志二名が追悼のため遺骨を移動、栗原一男、椋本運雄、金正根らが検束される<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　一九二六年八月一五日　三人は朝鮮テグにおける治安維持法違反にデッチ上げられ朝鮮に送られる、後に真友連盟事件で裁判になり布施も弁護に関わる、デッチ上げ予審起訴の解説を翌年『労働運動』誌に掲載<br><br>一九二六年八月一六日　朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く。（『ある弁護士の生涯』では布施が金子文子の遺骨埋葬全般に関わったと受け取られる記述があり、しばしば引用される。実際には朴烈の実兄が遺骨への対応と埋葬。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二六年八月三〇日　「…朴廷植は語る『文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが警視庁から受取ってから別送する方が安全だという……子供は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通訳のために連れて行ったままです』」『京城日報』<br><br>一九二六年一〇月、栗原、椋本、金正根らが大邱地方予審に廻される<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br>一九二七年三月八日、栗原らの予審が終結…免訴は覆り公判に付される。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>一九二七年五月二六日、六月九日、一四日と三回の公判が開かれる。<br><br>一九二七年六月二五日　判決公判で栗原は懲役三年、即日下獄となり後に京城西大門刑務所へ移監させられる。&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/futei1/entry-12239154581.html</link>
<pubDate>Wed, 18 Jan 2017 07:02:12 +0900</pubDate>
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