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<title>なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko</title>
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<description>小説、詩、絵画、映画、歴史、人物、言葉などから想起するイメージを色エンピツでじゃかじゃか描く。</description>
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<title>第１０回　高浜虚子　選句一路</title>
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<![CDATA[ <p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101231/00/gallery-chikochiko/e4/7f/j/o0800060210951550915.jpg"><img height="166" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101231/00/gallery-chikochiko/e4/7f/j/t02200166_0800060210951550915.jpg" width="220" border="0"></a><br></p><p>正岡子規の門下生で、俳句の雑誌「ホトトギス」を中心に自ら句作する一方、<br>俳壇撰者として影響力を持ち、多くの俳人を見出し、俳壇に君臨した。<br>昭和２９年には文化勲章も受賞した。。</p><p><br>子規は虚子と碧梧桐の２人を門下の双壁と称賛していた。<br>子規が２人を比較している。</p><p><br>「碧梧桐は冷かなること水の如く、虚子は熱きこと火の如し、碧梧桐の人間を<br>　見るは猶無心の草木を見るごとく、虚子の草木を見るは猶有情の人間を見るが<br>　ごとし、随って其の作る処の俳句も一は写実に傾き、一は理念に傾く、<br>　一は空間を現し一は時間を現す」</p><p><br>虚子はこんなことを言っている。</p><p><br>「選と云うことは一つの創作であると思ふ。少くとも<br>　俳句の選と云うことは一つの創作であると思ふ。<br>　此全集に載った８万３千の句は一面に於て私の創作で<br>　あると考へて居るのである。」</p><p><br>異論のある人も多いだろう。<br>ただ、この言いきりはすごい。<br>こうも言っている。</p><p><br>「私はひとによって採択に斟酌しない。其人が俳壇における地位を<br>　自認しようがしまいがそれに頓着なくまづい句はどしどし落とす。<br>　其人の眼から見ると暴君のやうにも見えるであらう。<br>　此事が積もり積もって満腔の不平の圧へ難いものが背叛者となって<br>　行くものと思ふ。<br>　私はこの犠牲者を沢山に出した雑詠全集を自ら尊重する。」</p><p><br>ずいぶん激しい物の言い方である。子規亡き後の俳壇を引っ張ってきた自負と、<br>分裂していく俳壇の主流を歩んできた自信がみなぎるが、穏やかではない表明である。<br>権力者の意思もうかがえる。</p><p><br>撰者と云うものはそのくらいの決意がなければやっていけない。<br>まさに子規の言うように熱きこと火の如し、有情の人、理念の人なのだろう。</p><p><br>ただ決意と云うものは、人に語らぬが花とも云えるのだが。</p><br><br><br><br>
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<pubDate>Fri, 31 Dec 2010 00:26:06 +0900</pubDate>
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<title>正岡子規　いかなる時でも平気で生きる</title>
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<![CDATA[ <p>前回の続き</p><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101226/08/gallery-chikochiko/b2/c1/j/o0800060810941209245.jpg"><img height="167" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101226/08/gallery-chikochiko/b2/c1/j/t02200167_0800060810941209245.jpg" width="220" border="0"></a><br></p><p><br>１０月１３日　大雨恐ろしく降る　午後晴れ<br>の記述から始まるこの日は緊迫した１日である。</p><p><br>今日も飯がうまくない。１行目から感情のくすぶりがある。<br>昼飯もすぎて、午後二時ごろから天気が少し直りかけてくる。</p><p><br>律は風呂に行ってしまう。<br>母は黙って枕元に坐っている。</p><p><br>子規の精神状態がにわかに変になってくる。<br>「さあ　たまらんたまらん」<br>「どーしやう　どーしやう」</p><p><br>いつもの様な逆上が始まるのかと恐怖すると<br>ますます心乱れ<br>「たまらん　たまらん」<br>「どうしやう　どうしやう」<br>と連呼する。</p><p><br>母は静かな言葉で<br>「しかたがない」</p><p><br>誰かに知らせるため電信を打ってもらいに<br>母に行ってもらうようにする</p><p><br>母は車屋に頼むという。<br>子規は直接行ってくれ。５０歩１００歩だという。<br>そういった自分の心の中は、我ながら恐ろしかった。</p><p><br>さあ静かになった。</p><p><br>左向きに寝たまま硯箱を見ると<br>二寸ばかりの鈍い小刀と<br>二寸ばかりの千枚通しの錐がある。</p><p><br>自殺熱がむらむらと起こる。</p><p><br>次の間に行けば剃刀がある。<br>しかし悲しいことに今は腹這うことも出来ない。</p><p><br>やむなくこの小刀でも喉笛を切断できぬことはない。<br>錐でも心臓に穴をあけて死ぬことはできる。<br>恐ろしさが勝つので決心がつかない。<br>死は恐ろしくない。苦しみが怖い。<br>病苦でも耐えられないのに、死にそこなってはと<br>思うのが怖い。</p><p><br>小刀を取ろうか取るまいか考えているうち、<br>しゃくりあげて泣きだした。</p><p><br>母が帰ってきた。</p><p><br>ここから数行調子の変わった、やや滑稽味を帯びた文章が続く。</p><p><br>そのあと、古白曰来　とあり、<br>その下に、自殺を試みようとした道具の<br>小刀と千枚通しが、筆でスケッチされている。</p><p><br>古白というのは、ピストル自殺した子規の従弟である。<br>その古白が「来いと言ってる」のだ。<br>その下には、それを使って自殺しようとした道具を<br>味のある筆致で描いているのだ。</p><p><br>ここで「仰臥慢録」はとぎれ、「仰臥慢録二」とした部分が<br>はじまる。</p><p><br>「仰臥慢録二」には、１０月１３日の残りの部分がある。<br>その内容は簡単で</p><p><br>しゃくりあげて泣いているところへ電信で読んだ人が来て、<br>いろいろ不平をもらしているうちに夜に入って、<br>心はればれとしてくる。</p><p><br>というものである。<br>妙な構成であるが、<br>この日は子規にとってよっぽど切迫した日だったのだろう。</p><p>　<br>この日の記述以後、子規は変わってくるのである。</p><p><br>１０月１５日<br>死を売り物にしていると、後にあれほど罵倒していく中江兆民の<br>「一年有半」（兆民が食道がんを患い、医師に余命を聞いたところ<br>１年半と告げられたことから、このタイトルをつけて筆を起こした）<br>ついても格調高く、批判している。</p><p><br>兆民居士は喉に穴が一つあいたという。わたしは腹、背中、臀とはいわず<br>蜂の巣のごとく穴があいている。<br>１年半の寿命というのは、わたしと同じだ。<br>ただあなたには美というものが分かっていない。<br>理があれば、あきらめはつく。美が分かれば楽しみができる。<br>杏を買ってきて妻とともに食うのは楽しみには相違ないけれど、<br>１点の理がひそんでいますよ。<br>「焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処<br>何の理屈か候べき」</p><p><br>自分の葬儀をコミカルに語り、家人や見舞客を思いやるようになってくる。</p><p><br>１０月２９日　曇り<br>の記述で「仰臥慢録」はいったん中断される。</p><p><br>翌、明治３５年３月１０日　月曜日　晴れ<br>から再開されるが、「日記のなき日は病勢つのりし時なり」<br>のコメントがある。</p><p><br>この日から麻痺剤服用の記述がある。<br>８時４０分麻痺剤を服す</p><p><br>１０時に包帯を取りかえるが、この日腹部の穴を見て驚く。<br>穴というのは小さい穴かと思っていたらがらんどうだった。<br>「心持悪くなりて泣く」</p><p><br>痛みを止めるために麻痺剤を飲むようになったのか、<br>時間をきちんと記録している。</p><p><br>しかし病状が悪化したのか、この日記は３月１２日で中断される。</p><p><br>再び日記は６月２０日から始まるのであるが、麻痺剤服用日記と<br>あるように、麻痺剤を服用した時間の記述がほとんどである。</p><p><br>この日記は７月２９日で終わる。</p><p><br>この間、子規は「病床六尺」を５月５日より公表しはじめたのである。<br>そして、これは死ぬ２日前まで続く。</p><p><br>一般に公表していることもあろうが、病状はさらに悪化しているにもかかわらず、<br>「仰臥慢録」に比べて落ち着て、滑稽味を増した文章になっている。</p><p><br>公表している物のため、妹の律への不満をあからさまには書けない。<br>７月１６日から７月２０日までと７月２４日に病人看護について論じているが、<br>落語の小言幸兵衛が小言をまくし立てているようで、滑稽味を帯びている。</p><p><br>さらに７月２６日には、またも中江兆民に対し教え諭すように<br>病気について論じているところなどかなり滑稽だ。</p><p><br>兆民居士は、死生の問題についてあきらめがついたように見えるが、<br>あきらめがついたうえで天命を楽しむという境には至っていないね。<br>ややわかりかけて来たようにも思えるが、まだ十分にわかっていないね。<br>もう２，３年病気をしてごらん。今少しその境地が分かるかもしれない。</p><p><br>子規というのはたぶん座談の名手で、集まってくる見舞客は、<br>子規の談義を聞くのも面白かったのではないかとおもえる。</p><p><br>「仰臥慢録」と違って題材も家庭内を中心とすることでなく、広く世間に題材を取ったり、<br>死期近くなってきたためか過去の思い出も多く出てくる。<br>どうでもいいようなことも記されているが、ときおりドキリとするほどの一文や、<br>美にいきなり出会うことがある。</p><p><br>６月２日に記述にこういう部分がある。</p><p><br>余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。<br>悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、<br>悟りという事はいかなる場合にも平気で生きて居る事であった。</p><p><br>モルヒネの服用にもよるのだろうが、８月１０日の夜にはこんな夢を見ている。</p><p><br>梅も桜も桃も一時に咲いている、美しい岡の上をあちこちと立って歩いていて、<br>こんな愉快な事は無いと、人と話しあった夢を見た。睡眠中といえども暫時も<br>苦痛を離れる事の出来ぬこの頃の容態にどうしてこんな夢を見たか知らん。</p><p><br>しかし病苦は子規が死ぬまで去らなかったようだ。<br>「病床六尺」の最後の記述。<br>（９月１７日　死ぬ２日前である）</p><p><br>俳病の夢みるならんほととぎす拷問などにだれがかけたか</p><p><br>悟ったようでも猛烈な痛みの前には、そんなものは吹き飛んでしまうのが人間だろう。<br>ただ、死ぬ１４日前の９月５日には途方もなく美しい文章が残されている。</p><p><br>暑く苦しい１日が暮れ、隣の普請の大工左官の声も聞こえなくなり、茄子の漬物に<br>舌打ちならした夕餉の膳を押しやった時、向島より１鉢の草花が届く。<br>緑の広葉並んだ間から、７，８寸もある真っ白な花がゆらめいている。<br>夕顔である。床の間の鴨居に天津から送られてきた樺色の旗２流が掛け垂らしてある。<br>そこに夕顔を置くと、また違った趣がある。</p><p><br>「くれなゐの、旗うごかして、夕風の、吹き入るなへに、白きもの、ゆらゆらゆらく、<br>立つは誰、ゆらくは何ぞ、かぐはしみ、人か花かも、花の夕顔」</p><p><br>子規は夕顔の花がとても好きだったと思える。</p><p><br>子規の病勢が相当進んだ３月末、友人（弟子）たちが交代で子規を看病することをきめる。<br>９月１０日ごろより麻痺剤も聞かない状態となる。<br>９月１８日、朝から容態悪化。眼の放せぬ状態となる。<br>この日、高浜虚子が付き添っていた。</p><p><br>夜中、子規がよく眠っていると、気を許し、<br>ちょっとうとうとしていた。<br>その刹那、子規の寿命は尽きた。<br>９月１９日　午前１時頃。</p><p><br>虚子が仲間に子規の死を知らせようと外の飛び出すと、<br>１７日の月が中天にかかったいた。</p><br><p>子規逝くや十七日の月明に</p><p><br>子規の辞世　３句</p><p><br>糸瓜咲て痰のつまりし仏かな</p><p>痰一斗糸瓜の水も間にあわず</p><p>をとといひのへちまの水も取らざりき</p><p><br>この回終わり</p><br><br><br><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/gallery-chikochiko/entry-10748303822.html</link>
<pubDate>Sun, 26 Dec 2010 08:36:11 +0900</pubDate>
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<title>正岡子規　「仰臥慢録」　記録文学の金字塔</title>
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<![CDATA[ <p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101219/08/gallery-chikochiko/3c/96/j/o0800059310926207970.jpg"><img height="163" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101219/08/gallery-chikochiko/3c/96/j/t02200163_0800059310926207970.jpg" width="220" border="0"></a> <br><br><br></p><p>前回の続き</p><p>「仰臥慢録」は明治３４年９月２日　雨　蒸暑（むしあつし）<br>の記述から始まる。</p><p><br>庭の情景と写生画、８月２６日に行われた俳談会の時の句などを記した後、<br>食事の内容が詳しく書いてある。この後食事の内容は、記録日ごとに詳しく<br>書かれていく。</p><p><br>まず,その量の多さに驚かされるのと、<br>あいだに入る短いコメントに<br>子規の感情がほの見える。</p><p><br>のっけの記述の中にすでにこうある。</p><p><br>この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかえす<br>二時過牛乳一合ココア交て<br>煎餅菓子パンなど十個ばかり</p><p><br>吐きかえしては、また物を食うのである。<br>それも間食とは言えない量である<br>このようなことが繰り返される。</p><p><br>食い過ぎで苦しくなったり、<br>水下痢状態になって、<br>医師を呼ぶ状態となる。<br>また懲りずに、少し良くなると<br>食うのである。</p><p><br>翌日の９月３日の昼食の記述には、<br>鰹のさしみに蝿の卵あり<br>それがため半分ほどくふ<br>晩飯のさいに買置きたるわらささしみにつくる<br>旨くなし　食はず</p><p><br>鰹の刺身に蝿の卵があっても半分は食ってしまう。<br>ただ、晩飯になるとわさらのさしみは食わない。<br>ここにはくすぶった感情がある。</p><p><br>９月４日の昼食の後の記述にこうある<br>間食　芋坂団子を買来らしむ（これに付き悶着あり）</p><p><br>ここにはかなりはっきりした怒りの感情がある。</p><p><br>これが後に記される妹の律への感情の爆発の<br>導火線になっている。</p><p><br>子規の病気の世話には大変なエネルギーがいる<br>それを子規の母と妹が請け負っていた</p><p><br>しかも子規には来客、見舞客が多い（これは子規の<br>人間性に人を引き付ける魅力があったのだが）。<br>その接待も母と妹である。</p><p><br>子規は寝たきりの上、脊椎カリエスによる膿がでる。<br>そのため包帯の巻き替えを毎日行わなければならない。<br>その時は、便通もある。その便通も山の如しと<br>表現されるくらいの量がある時がある。<br>しかも膿の出る穴は次第に増える。<br>歯茎から出るようにもなる。</p><p><br>包帯の取り換えは毎日４０分から１時間かかる。<br>この時便通もある。これは律の役割である。</p><p><br>そのほか小間使いから、子規の代筆、食事の支度をし、食事をさせる。<br>子規も部屋から出られないが、目の離せない病人のため<br>家人もほとんど家に釘づけになる。</p><p><br>見舞客がいないときで、痛みが襲ってきたときには、<br>一家の状況はかなりの張り詰めたものとなる。</p><p><br>子規が病苦のあまり絶叫、号泣する。<br>精神的不安定になり、逆上する。<br>病苦かる来るストレスのためエゴイズムの塊になる。</p><p><br>家人はそれの受け付け場である。</p><p><br>子規は送られてきた鴫３羽を、翌日の昼、３羽とも焼いて<br>一人で食ってしまうように家人に対する思いやりはない。</p><p><br>何しろ他のことはさておいても、病人の世話が第一だと<br>述べている。<br>「病床六尺」においては、婦女子はすべからく<br>そう教育するべきだとも云っている。</p><p><br>家人の食事内容といったら、子規が律の事を書いたくだりにもあるが、<br>「野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事はをはるなり」<br>非常に粗食だったと思われる。</p><p><br>子規が自分の所得について言及した部分がある。<br>やや自嘲的にではあるが、一か月５０円の収入を得られるように<br>なった事を書いている。<br>そこに月の払いの内容を記述した個所がある。<br>合計３２円７２銭３厘。</p><p><br>（羅列した支出のほかに医療費も当然あったと思われるが、それは記述にない）</p><p><br>そのうち子規一人のための支出と思えるものが<br>６円１５銭　　　　魚（さしみ一皿１５銭乃至２０銭）<br>３円４５銭　　　　車及使（内水汲賃１円半）<br>１円７８銭　　　　菓子、砂糖、氷（付落沢山あり）<br>２円３０銭２厘　　現金払飲食費（付落沢山あり）<br>　　　　　　　　　鰻、鮪、西洋料理、佃煮、八百屋物等</p><p><br>合計１３円６８銭２厘<br>支出の半分近い。</p><p><br>９月２０日から９月２１日に出てくる有名な律に関する<br>病人看護に対する勤務評定ともいえる記述でも、<br>じつは子規は自分のエゴイズムも家人の大変さも<br>よくわかっている。</p><p><br>律の事も、殺してやりたいほど腹の立つことのある女ではあるが、<br>兄の看病人となって終わらせてしまう哀れさも重々感じている。<br>さんざん律の悪口を書いたあとで落ち着いたのか、<br>いったん筆を止めたように思える。</p><p><br>そして母、妹と３人で菓子を食うのである。</p><p><br>３人で菓子を食った後、律は綿（子規の包帯巻き替えに使用する）を<br>買いに行くのである。</p><p><br>それでも病苦の苦しさから、<br>「病勢はげしく苦痛つのるのに従い我思ふ通りにならぬために絶えず<br>癇癪を起し人を叱す　家人恐れて近づかず　一人として看病の<br>真意を解する者なし」<br>という状態になる。</p><p><br>こうした日常の中、<br>やがて緊迫の１０月１３日を迎える。</p><p><br>次回に続く</p><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Sun, 19 Dec 2010 08:43:11 +0900</pubDate>
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<title>第９回　正岡子規　仰臥慢録　元祖ハードボイルド</title>
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<![CDATA[ <p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101212/08/gallery-chikochiko/e6/88/j/o0800059510912746766.jpg"><img height="164" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101212/08/gallery-chikochiko/e6/88/j/t02200164_0800059510912746766.jpg" width="220" border="0"></a><br></p><br><br><p>ハードボイルド小説の元祖は、アーネスト・ヘミングウェイといわれる。<br>簡潔で、客観的な描写にする手法よる文体によって表現されていく小説群。</p><p><br>となると子規の書いた記録文学（日記といってもいいし、日々のメモといってもいい）<br>の金字塔「仰臥慢録」はそれ以前に書かれたハードボイルド日記となる。</p><p><br>しかも、そこにはハードボイルド小説の主人公のストイックな思考と行動、<br>それに伴う気取りと自己陶酔などみじんもない。</p><p><br>いっさい虚飾を排した記録である。</p><p><br>書いてあることといったら、<br>食事の内容。<br>菓子、果物などのおやつの内容。<br>病状。<br>見舞客とのやりとり。<br>排便、嘔吐。<br>薬の服用。<br>脊椎カリエスにより出来た身体の穴から出る<br>膿の処理のための包帯の交換。<br>合間合間に襲ってくる激痛。<br>写生の色彩画。<br>俳句。</p><p><br>病人の日々の行状をたんたんと記録してある。</p><p><br>しかし、その記録の行間より、記録者の異常な熱気が感じられてくる。<br>怒りがあり、エゴイステックであり、安堵があり、切なさあり、絶叫があり、すすり泣きがあり、<br>号泣があり、嫉妬があり、異様な緊張があり、なにやら滑稽であり、至高の美がある。</p><p><br>この記録は、<br>明治３４年９月２日　雨振りの蒸し暑い日から始まり、<br>　　　　　１０月１３日　大雨恐ろしく降り、午後晴れた日までが<br>　　　　　仰臥慢録１である。</p><p><br>　　　　　１０月１３日の残りの記述から<br>　　　　　１０月２８日の　雨後曇り<br>　　　　　ここから中断する。</p><p><br>再び再会するのは</p><p><br>明治３５年３月１０日　晴れ　から<br>　　　　　３月１２日　晴れ　まで</p><p><br>　　　　　ここから再び中断して<br>　　　　　麻痺剤服用日記として</p><p><br>　　　　　６月２０日から<br>　　　　　７月２９日　曇り　まで<br>　　　　　これが仰臥慢録２である。</p><p><br>「仰臥慢録」とはもはや腹這うことがままならぬほど病勢が進み、<br>半紙を綴じたものに毛筆を用いて仰向けで書いていたということであろう。</p><p><br>子規の病歴は、</p><p><br>明治２２年（２３歳）５月９日、夜突然、喀血したことから始まる。<br>　　　　　　　　　　　　　　　喀血は１週間ほど続く。</p><p><br>明治２７年（２８歳）従軍記者となり、金州、旅順など約１カ月<br>　　　　　　　　　　滞在。帰国途上５月１７日、喀血。重体となるが６月中旬ごろから<br>　　　　　　　　　　回復に。</p><p><br>明治２９年（３０歳）２月、左腰が腫れ、激痛に見舞われる。<br>　　　　　　　　　　３月、医者にカリエス診断されショックを<br>　　　　　　　　　　受ける。</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br>明治３０年（３１歳）３月２７日腰部の手術。　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　４月下旬再手術。<br>　　　　　　　　　　９月臀の下に穴が２か所できる。<br>　　　　　　　　　　　　膿が出始める。</p><p>　　　　　　　　　　　　　<br>明治３２年（３３歳）臀にあたらしい穴ができる。</p><br><p>明治３３年（３４歳）５月頃より疲労が強くなる。</p><p>　　　　　　　　　　８月１３日大量喀血。</p><br><p>明治３４年（３５歳）連載された「墨汁一滴」の１月３１日の記述。<br>病状の悪化していく様子が切なく記されている。<br>　　　　　　　</p><p>人の希望ははじめ漠然としたものとして大きく後ようやく小さく確実に<br>なるならいなり。</p><p><br>我病床における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行（ある）き得ずともよし、<br>庭の中だに歩行き得ば、といいしは４、５年前の事なり。</p><p><br>その後１，２年をを経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しらん、<br>と思いしだにあまりに小さき望かなと人にも言いて笑いしが</p><p><br>一昨年の夏よりは、立つことは望まず座るばかりは病の神も許されたきものぞ、<br>とかこつほどになりぬ。</p><p><br>しかも希望の縮小はなおここに止まらず。座る事はともあれせめて１時間なりとも<br>苦痛無く安らかに臥し得ばいかに嬉しからん、とはきのう今日の我希望なり。</p><p><br>小さき望かな。</p><p><br>もはや我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極限にまで達したり。<br>この次の時期は希望の零（ゼロ）となる時期なり。</p><p><br>希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃（ねはん）といい<br>耶蘚（ヤソ）はこれを救いとやいうらん。</p><p><br>「墨汁一滴」は明治３４年７月１日まで連載された。</p><p><br>そして「仰臥慢録」はこの年９月２日より始まるのである。<br>しかも子規はこの記録を発表するつもりがなかった。</p><p><br>子規の弟子である高浜虚子はこの記録の存在を知り、その面白さに<br>「ホトトギス」に発表する予告をしてしまう。</p><p><br>掲載の事を頼む虚子に対し、子規は激昂する。<br>自由にものを書いているのに、そんなことをしたら「筆が渋る」<br>と強く虚子を叱責する。</p><p><br>次回に続く</p><br><br><br><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/gallery-chikochiko/entry-10734330244.html</link>
<pubDate>Sun, 12 Dec 2010 08:39:18 +0900</pubDate>
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<title>平城遷都１３００年　阿修羅と大仏開眼の時代</title>
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<![CDATA[ 前回からの続き<p><br><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101204/19/gallery-chikochiko/81/b4/j/o0800107510898184460.jpg"><img height="296" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101204/19/gallery-chikochiko/81/b4/j/t02200296_0800107510898184460.jpg" width="220" border="0"></a> </p><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101204/19/gallery-chikochiko/2f/d2/j/o0800108010898229634.jpg"><img height="297" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101204/19/gallery-chikochiko/2f/d2/j/t02200297_0800108010898229634.jpg" width="220" border="0"></a> <br><br><br>この時代、平穏なようでも貴族同士の権力闘争は熾烈を極めていた。</p><p><br>聖武天皇第一皇子　神亀５年（７２８年）基王夭折。</p><p><br>長屋王の変が天平元年（７２９年）に起こる。</p><p><br>光明皇后五重塔を天平２年（７３０年）興福寺につくる。</p><p><br>天平３年（７３１年）藤原不比等の男子、<br>武智麻呂（ムチマロ）、房前（フサマエ）、宇合（ウマカイ）、麻呂（マロ）<br>の四兄弟が権力を握る。（光明皇后の異母兄弟）</p><p><br>天平６年（７３４年）興福寺　光明皇后　西金堂建立（阿修羅像安置）。</p><p><br>天平９年（７３７年）天然痘の流行により、藤原４兄弟が次々と病死する。</p><p><br>天平１０年（７３８年）橘諸兄の台頭。</p><p><br>天平１２年（７４０年）藤原宇合の男子、広嗣（ヒロツグ）が九州で挙兵。<br>中央の衝撃は大きかった。<br>聖武天皇、平城京を出る。<br>再び平城京へ戻るまで１０年間遷都を繰り返す。</p><p><br>聖武天皇　都を恭仁京（京都市木津川市）へ。</p><p><br>天平１５年（７４３年）聖武天皇、政情不安と社会不安を仏の力で鎮めようと<br>大仏造営を決意する。</p><p><br>天平１６年（７４４年）２月難波宮（大阪府大阪市）へ遷都。<br>　　　　　　　　　　１１月紫香楽宮（滋賀県甲賀市）へ遷都。</p><p><br>天平１７年（７４５年）再び平城京へ遷都。大仏造営が平城京で再開。</p><p><br>天平勝宝元年（７４９年）聖武天皇譲位。安倍内親王即位、孝謙天皇。<br>　　　　　　橘諸兄勢力失墜し、藤原武智麻呂の男子、仲麻呂台頭。</p><p><br>天平勝宝４年（７５２年）東大寺大仏開眼。</p><p><br>天平勝宝８年（７５６年）聖武上皇没。橘諸兄は引退する。</p><p><br>天平宝字元年（７５７年）橘諸兄の男子、奈良麻呂の乱起こる。</p><p><br>天平宝字２年（７５８年）孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。</p><p><br>天平宝字４年（７６０年）藤原仲麻呂、太師（太政大臣）となる。<br>　　　　光明皇后没。</p><p><br>この後も政変は数々起こっていく。</p><p><br>こうみると光明皇后が興福寺、西金堂を建立したのは、従兄弟でもある藤原４兄弟が<br>中央をがっちり固めていた時期に当たる。</p><p><br>律令制にもすでにほころびは出ていた。農民の税の重さと使役の労苦から<br>逃亡も激しくなっていた。<br>そんななか平城京はますますきらびやかさを増していく時期。</p><p><br>西金堂の塑像群は釈迦を取りまく大きなジオラマのごときものであった。<br>釈迦を中心に左右に菩薩がいる。正面には２人の金剛力士、四方には四天王の１人１人を配置し、<br>釈迦を守護している。</p><p><br>釈迦の左右の後方には、十大弟子が控えている。そのさらに後方には阿修羅を含めた<br>八部衆が守護している。<br>八部衆は釈迦の守護をしているが、釈迦を見つめている。<br>その表情は、釈迦の威光に圧倒されているといえばいえるが、<br>何ものかに恐れおののいているといった方がいい。</p><p><br>２人の金剛力士の間には、金鼓（こんく）とよばれる鐘がおかれ、そのわきに<br>鐘を鳴らす役を持ったバラモンがいる。まだまだいる。釈迦を含めて３５人。</p><p><br>この金鼓というのは、銅製で獅子のような動物がスフィンクスのように<br>腹這っている。その背中から一本の柱が立つ。<br>柱には２匹の龍の足が絡みつく。腹の所で別れるのだが、再び前足が絡みつき、<br>２匹の顔はそっぽ向く。別れた腹の部分がまあるく空洞になる。<br>そこに鐘がつり下がるというもの。</p><p><br>何かの時に燈明がともされ、この金鼓を鳴らすことがあったのだろうか。<br>燈明による仏像の陰影と、堂内に広がる鐘の音。<br>なんともいえない荘厳な光景だったろう。</p><p><br>平城京の繁栄の半面、公地公民制が崩れ始めていた。<br>たえまない政争と政変が相次いで起こる。</p><p><br>政変には血が流れ出ている。</p><p><br>中央の官僚たちも前途の不安におののき、身をすくめ、耳をそばだて、<br>疑心暗鬼に精神をすり減らし、自己保身にきゅうきゅうとする。</p><p><br>わが宿のいささ群竹（むらたけ）吹く風の音のかそけきこの夕べかも<br>ー大伴家持（おおとものやかもち）<br>７５４年頃の歌。繊細な歌だが、どこかしら不安がよぎる。</p><p><br>繁栄の真っ盛りの中、影の部分も次第に大きくなっている。</p><p><br>仏像群に少年が多いのは、光明皇后に一歳に満たずしてに亡くなられた基王への<br>思いがあったのかもしれない。</p><p><br>不安を隠そうともしない仏像群は、無名の工人たちの、この時代の心理を表現してしまっている。<br>財力によってただいいものを作ることだけを念頭に、湯水のように金のかかる製造方法を<br>用いて作製された仏像群は、はからずも時代の不安と平安への希望を表現してしまった。</p><p><br>人が生きていくことの不安と希望。</p><p><br>時代を越えた傑作が出来上がったのは間違いない。</p><p><br>余談</p><p><br>乾漆造の十大弟子の中に須菩提（しゅぼだい）の像がある。<br>これも少年の像であるが、とても美しい像がある。<br>鼻も小さく、口も小さくぽっちゃりしている。</p><p><br>薄く眼を開けて、遠くを見つめている。明るく澄み切った立ち姿。<br>よく見ていると、顔も立ち姿も単純に作られているが、左手がいやに生々しい。</p><p><br>静かに落ち着いた、まあるい顔の中の薄く開けた目は、<br>すべてを見っ切ってしまった凄味を宿している。</p><p><br>西金堂の現存する少年像の中で、この像のみはこわい。</p><br><br><br><br>
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<pubDate>Sat, 04 Dec 2010 19:46:51 +0900</pubDate>
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<title>平城遷都１３００年　阿修羅　光と影</title>
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<![CDATA[ <p>前回の続きです。</p><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101128/08/gallery-chikochiko/5b/33/j/o0800093910885687407.jpg"><img height="258" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101128/08/gallery-chikochiko/5b/33/j/t02200258_0800093910885687407.jpg" width="220" border="0"></a><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101121/09/gallery-chikochiko/c8/93/j/o0800108010871688483.jpg"><img height="297" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101121/09/gallery-chikochiko/c8/93/j/t02200297_0800108010871688483.jpg" width="220" border="0"></a><br><br>阿修羅の仲間で、釈迦を守護する現存する残りの八部衆はどうかというと、<br>八部衆は阿修羅のほかに、ゴブジョウ、シャガラ、カルラ、クバンダ、<br>ケンダツバ、キンナラ、ヒバカラがいる。</p><p><br>このうちゴブジョウ、シャガラ、ケンダツバ。キンナラは阿修羅同様<br>少年である。</p><p><br>みな何ものかを見つめているが、不安は隠せない。<br>頭にイノシシを乗せたゴブジョウも、角を生やしたキンナラも。<br>シャガラなど、完全に何ものかを恐れおののいている表情。<br>虎だか獅子だかを頭に載せたケンダツバに至っては、完全に目をつむっている。</p><p><br>カルラは顔が鳥で、身体が人間という半人半獣だが、立ち姿はスマート。</p><p><br>クバンダは獣のような叫び声をあげるという。<br>口を左右に大きく広げている顔は、叫びで敵を脅しているのだろうが、<br>泣いているようにも見えて、なんとなくおかしい。</p><p><br>ヒバカラはあごひげを立派に蓄えた大人であるが、沈鬱な面もちで<br>立っている。</p><p><br>総じて守護神というには頼りない。</p><p><br>阿修羅に至っては、他の八部衆は鎧をまとっているのにサンダル履きである。<br>ヤル気あるのか疑いたくなる。</p><p><br>ここまで表情豊かに不安をあらわした仏像群は、他の時代と比べても、同時代を<br>比べてもきわめて異質である。</p><p><br>やや後になるが同じような手法で作られた東大寺　戒壇院にある四天王像と<br>比べてみるとよくわかる。四天王の感情はすさまじい憤怒だけである。</p><p><br>これらの像は脱活乾漆造という方法で作られている。<br>まず心木を立て、横木を合わせて木組みを作る。<br>その上に粘土で形を作り、その上に麻布を巻き、漆をその上から塗って固める。<br>ある程度でき上ったところで背中の一部をくりぬき、土を出す。<br>木屎漆（木屑と漆を混ぜたもの）で最終調整し、その上から彩色、箔を施す。</p><p><br>非常にやわらかで繊細な表現をしやすい。</p><p><br>たとえば、阿修羅像の合掌された掌のあつみと、やわらかな指ののびやかさ。<br>サンダル履きした足のしなやかさ。</p><p><br>この作製方法は白鳳文化期に若干の例があり、平安時代には作られなくなってしまった。<br>つまり平城京時代を中心の独特の技法である。<br>製造材料の漆が相当高価であったことも、この技法が衰えた理由と思われる。</p><p><br>何故、平城京時代のみこんな高価な製造方法が取れたのか。<br>仏像と人間との距離感の薄く、ここまで人間的な表現ができたのか。<br>いったい、だれが作ったのか。</p><p><br>阿修羅像はそもそも、たびかさなる戦乱で、今は失われてしまった興福寺の<br>西金堂に安置されていた。</p><p><br>西金堂は天平６年（７３４年）母の菩提を弔うために光明皇后が建立したものであった。<br>光明皇后の父は藤原不比等。母は橘三千代。</p><p><br>仏像は集団で制作され、監督したのは百済系の渡来人の子孫、仏師将軍万福（しょうぐんまんぷく）。<br>仏像彩色の監督は秦牛養（はたのうしかい）。しかし実際作ったのは無名の工人たちであろう。</p><p><br>律令制は確立され実施されていた。矛盾は表れていたが、貴族の生活は繁栄をうたっていた。<br>平城京はきらびやかあった。</p><p><br>青丹よし寧楽（なら）の都の咲く花のにほうが如く今盛なりー小野老（おののおい）</p><p><br>それを象徴するようなみずみずしい仏像群である。<br>若さと張りがある。</p><p><br>しかしなんと現代的な不安を宿した表情なのだろう。</p><p><br>律令国家の最盛期を迎えつつあるこの時代。<br>仏像は図らずも繁栄の裏側を見つめてしまったのだろうか。<br>けんらんとした天平の黄金時代（７２９年～７４９年）は<br>けっして太平ではなかった。</p><p><br>次回に続く</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/gallery-chikochiko/entry-10720433626.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Nov 2010 08:16:10 +0900</pubDate>
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<title>第8回　平城遷都1300年　阿修羅　興福寺</title>
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<![CDATA[ <p>興福寺にある天平時代を代表する彫刻、阿修羅像のことである。<br>不思議な仏像である。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101121/09/gallery-chikochiko/c8/93/j/o0800108010871688483.jpg"><img height="297" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101121/09/gallery-chikochiko/c8/93/j/t02200297_0800108010871688483.jpg" width="220" border="0"></a><br></p><p><br>阿修羅像は興福寺の西金堂のなかに安置されていたが、<br>西金堂が度重なる火災で焼失してしまった。</p><p><br>幸い阿修羅像は幾たびかの火災にあったが、奇跡的に避難できた。<br>像自体が軽かったため、運び出すのが容易であったためといわれている。<br>（像が軽かったのは、作製方法にあり、それはのちほど紹介する）</p><p><br>阿修羅とともに作製された八部衆（阿修羅もその一人）といわれる像も、<br>痛みの大きいものもあるが、全部そろって現存している。</p><p><br>さて、阿修羅とは何ものぞ。</p><p><br>釈迦出現以前からあったインドのバラモン教の神のひとりで、憤怒のため<br>赤い肌をして、腕が６本、顔が３つ、牙を上に向け、弓矢を持つという異形である。<br>戦闘的で獰猛な神で、始め仏教を妨害していたが、後に釈迦に帰依し、仏法の守護神と<br>なる。</p><p><br>ところが興福寺西金堂にあった阿修羅像は、このイメージからかけ離れている。<br>確かに身体は赤く塗られ三面六臂の異形で作られてはいるが、正面の合掌して<br>いるすがたは、青年に近い少年である。</p><p><br>しかも頬のふっくらとした眉目秀麗な顔立ちであり、鼻の下と唇の下に<br>にょろにょろとした髭が細く描かれており、眉根をひそめ、怒っているのか、<br>不安なのか、沈鬱なのか、驚いているのか、何ものかにたいして真剣に立ち向かって<br>いるのか、落ち着いているのかよくわからない。</p><p><br>八頭身でほっそりとし、しなやかにのびた腕など女性的でもある。</p><p><br>しかもかなりオシャレである。</p><p><br>髪の毛は頭上でたばねて装飾的。<br>両手首にはブレスレット。二の腕にもかなり凝ったブレスレット。<br>ネックレスもつけて、長いきれを左肩から右腰の上に斜めにかけ、<br>へそ出しルック。<br>薄く長いきれを身体に巻いていたらしいが、そうなるとシ―スル―。</p><p><br>ズボンでなくスカートをはいて、ベルトをしているようだが、スカートの<br>折り返しでそれは見えない。</p><p><br>サンダルをはいている。砂浜を模した台座に立っている。<br>ずいぶんファッショナブルな格好である。</p><p><br>左右にある顔はどんな表情かというと、むかって右側の顔は何ものかを<br>じっとみている。<br>向かって左側の表情は、唇をかみしめ何ものかを見つめている。<br>どちらも少年の顔である。</p><p><br>左右の顔は輪郭は同じであるようだが、正面の顔よりやや硬い。</p><p><br>二本の腕は正面で合掌し、残りの腕二本で左で弓、右で矢を持つ。<br>天に向かってのびた腕の掌の上には、左手は日輪、右手は<br>月輪を捧げ持っていたらしい。</p><p><br>それにしても釈迦を守る守護神としてはかなりたよりない。</p><br><p>次回へ続く。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/gallery-chikochiko/entry-10713494473.html</link>
<pubDate>Sun, 21 Nov 2010 09:31:12 +0900</pubDate>
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<title>河津掛け　対　バックドロップ(力道山　対　ルー・テーズ）</title>
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<![CDATA[ <p>前回からの続きです。</p><p><br>河津掛け　対　バックドロップ<br>２つの技の応酬についてです。</p><br><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p><p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101114/01/gallery-chikochiko/df/51/j/o0800108510857972805.jpg"><img height="298" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101114/01/gallery-chikochiko/df/51/j/t02200298_0800108510857972805.jpg" width="220" border="0"></a> <br></p><br><br><p><br>それは昭和３７年（１９５７年）１０月７日後楽園球場特設リング上<br>においてである。<br>リング上には対戦する力道山（３３歳）とル―・テ―ズ(４１歳）がいる。<br>観客は３万人。</p><br><p>上昇一方だったプロレス人気も前年後半より停滞状態にはいり、<br>この年になると、陰りが見えてきた。</p><p><br>力道山はこの状態の打開策としてこのカード（ＮＷＡ世界チャンピオンタイトルマッチ）<br>を日本で組むことによって、起死回生を図る。</p><p><br>しかし簡単なことではない。<br>何しろ相手は９３６連勝という驚異的な記録を持っている<br>ＮＷＡ世界チャンピオンである。</p><p><br>ルー・テーズを招聘して試合をすることは、興行的なこともあるが<br>プロレス人気を日本に完全に根づかせるためには有効である。</p><p><br>力道山は苦心してこのカードを組むことができた。<br>いろいろ問題はあったがスポンサーも付き、なんとかテレビ中継もできるようになる。</p><p><br>残るのはＮＷＡチャンピオンベルトの奪取である。よしんばベルトを取れなかったとしても<br>ベストマッチを行わなければならない。</p><p><br>そうしないと一挙にプロレス人気は凋落してしまう。</p><p><br>幸いこの年の８月のボボ・ブラジル戦でプロレス人気は復調した。<br>はずみをつけて人気を不動のものにするには、この一戦であった。</p><p><br>４年前、昭和２８年（１９５３年）１２月６日ハワイのシビック・オーデトリアム<br>で、力道山はＮＷＡ世界チャンピオンのルー・テーズと対戦している。</p><p><br>そのときは試合開始から４３分。力道山はル―・テ―ズのバックドロップで<br>マットに沈んでいる。</p><p><br>ル―・テ―ズは劣勢に陥っても、一瞬のすきをついてバックドロップを繰り出し<br>形勢逆転させてしまう。<br>相手に攻めさせるだけ攻めさせて、最後は見事な返し技で相手を仕留めてしまう。<br>プロレスにおける横綱相撲である。</p><p><br>ここがよく誤解されるところであるが、力の差があっても短時間のうちに<br>勝負を決めない。それでは興行として成り立たないのだ。<br>相手の技を受けるだけ受けて、観客をじらせ、はらはらさせながら、最後は<br>必殺技で逆転してしまう。</p><p><br>それだけ技を受けていても逆転させるスタミナが残っている。<br>それがチャンピオンであり、横綱なのだ。</p><p><br>ル―テ―ズは様々な技をストックしている。</p><p><br>スタンディング・ヘッド・ロック、フライング・ボディシザーズ、<br>馬乗りのフォール（しかも膝で顎、肩を圧迫する）、ト―・ホールド、<br>地獄攻め、リストロック、キーロック、ローリングアーム・ロック、<br>フライング・キック、ドロップキック、ヘッドシザーズ、<br>クロスフェイス・チッキンウィング、ハンマー・ロック、ＳＴＦ、<br>テ―ズ・プレス、パワー・ボムなどなど。</p><p><br>次々と多彩な技を繰り出せる。</p><p><br>ルー・テーズは力道山と４年前にハワイで対戦した時、相撲で徹底的に鍛えて<br>あるだけあって、立ち技のバランスがよく、強力であることを記憶していた。<br>その上、空手チョップを繰り出されると試合運びとして相当不利になる。<br>しかもアウェイだ。</p><p><br>ルー・テーズは徹底したグランド（寝技）レスリングを展開していく。</p><br><p>当然試合は地味になると思えるが、素早い展開（返し技に次ぐ返し技）と<br>力の入った緊張感に富む試合展開は観客に固唾を飲ませる。</p><p><br>テ―ズはヘッドロックした力道山の顔面にナックルを<br>打ち込んで心理的な圧迫を加えていく。<br>この打撃は相手が攻めに回ったときに、<br>ヘッドロックをかけてくるための伏線である。</p><p><br>その時が必殺技のバックドロップを繰り出す絶好の機会なのだ。</p><p><br>しかもグランドレスリングの展開は着実に力道山のスタミナを奪っていく。</p><p><br>試合がル―・テ―ズ優位に運んで行った。そろそろとテ―ズが立ち技に<br>移った。</p><p><br>テ―ズが一瞬隙をついてバックドロップの体勢に入る。</p><p><br>やられた。と３万人の観客がおもった。</p><p><br>しかし力道山は宙になかった。</p><p><br>テ―ズの右足に、力道山の左足が絡みついたのだ。</p><p><br>河津だ。</p><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101114/01/gallery-chikochiko/58/8b/j/o0800061110857970784.jpg"><img height="168" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101114/01/gallery-chikochiko/58/8b/j/t02200168_0800061110857970784.jpg" width="220" border="0"></a> <br></p><p><br>力道山が相撲取りだったころ習い覚えた技がとっさに出たのだ。</p><p><br>ル―・テ―ズは思わぬ事態になりふり構わず投げを打とうとする。<br>力道山の足は絡みついたまま。</p><p><br>テ―ズは力道山の左足を引っこ抜くように強引に投げを打つ。</p><p><br>テ―ズは河津掛けがどんな技かわからない。<br>当然自爆する。</p><p><br>だがさすがにテ―ズ。こんな時でも放り投げているため、<br>力道山もダメージを受ける。</p><p><br>バックドロップを封じられたテ―ズもさすがにあわてたのか、<br>グランド技に持ち込めずに、封印させていた力道山の<br>空手チョップまで喰らってしまう。<br>力道山が攻勢に出る。</p><p><br>結局、この試合は時間切れの引きわきに終わる。</p><p><br>第２戦は大阪で行われた。<br>６０分。３本勝負。</p><p><br>１本目は、ル―・テ―ズが誘い込むようにしてバックドロップを放つ。<br>一瞬のすきを突かれ河津を繰り出すことも出来なかった。</p><p><br>力道山のダメージは大きい。２本目が始まってもダメージは残ったまま。<br>低い位置からだったからよかったが、もうすこし高い位置からこの角度で<br>投げられた場合、２本目はどうなっていたかわからない。</p><p><br>テ―ズも河津掛けを恐れたためチャンスと見るや間髪をおかずに<br>投げを打つ必要があったのだろう。</p><p><br>力道山のダメージが時間稼ぎによって何とか回復できた。ロープ・ブレークで<br>イライラするテ―ズが一気に勝負をかけ、ロープの反動を利用したところ、<br>逆に力道山の空手チョップを見舞われる。<br>強烈なカウンターヒットとなる。</p><p><br>２本目はこの一撃で力道山が勝利する。</p><p><br>３本目は力道山がヘッドロックにはいるや、テ―ズすかさずバックドロップを<br>放とうとする。</p><p><br>力道山も今度は警戒している、河津を繰り出す。<br>がっちり突っ張っぱているためテ―ズも投げられない。</p><p><br>攻防を繰り返した後、テ―ズがロープ際で力道山を高く抱えあげる。<br>そのまま回転させる。飛行機投げだ。</p><p><br>力道山が回転させられながら、とっさにロープをつかんだ。<br>それに引っ張られるようにして、テ―ズもろともに場外に転落。</p><p><br>両者リングアウトとなる。</p><p><br>西洋のレスリングから編み出されたバックドロップに対して、<br>日本の伝統の相撲技が互角に渡り合った試合だ。</p><br><p>試合の内容は観客の満足するところであったし、興行も成功する。</p><p>これ以後プロレスは日本に定着する。</p><br><p><br>これだけでも日本の武道の伝統技に対して誇りがわいてくる。</p><br><p><br>実はバックドロップというのは、日本の柔道の裏投げが<br>改良されたものだという説もある。</p><p>こうなると、まさに日本伝統武道恐るべし。</p><p><br>余談</p><p><br>裏投げ</p><p><br>相手の後方より片手で、相手の腰を抱え、もう片方の手を相手の腕の脇下より<br>たすき掛けのように、反対側の襟を取る。<br>この体勢より襟をつかんだ後方へ向けて自らも倒れこみながら、膝のバネと腰を<br>使って投げる技。捨て身技という。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/gallery-chikochiko/entry-10706462550.html</link>
<pubDate>Sun, 14 Nov 2010 01:28:58 +0900</pubDate>
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<title>第7回　かわず掛け　対　バックドロップ</title>
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<![CDATA[ <p>今回は東西の格闘技の出会いについてです。<br>出会いとは、対決です。二つの技の応酬です。</p><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101107/01/gallery-chikochiko/fa/ad/j/o0800061110844658693.jpg"><img height="168" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101107/01/gallery-chikochiko/fa/ad/j/t02200168_0800061110844658693.jpg" width="220" border="0"></a><br><br> <br><br><br><br>まずは河津掛けについて</p><p><br>これは相撲の一手です。</p><p><br>河津掛けを開発して、初めて使ったのは<br>河津祐泰（別名　三郎）であり、そのため技にこの名がついた。</p><p><br>時代は平安末期のこと。<br>河津祐泰が、相模の国の豪族　俣野景久と<br>相撲を取ったとき繰り出された技です。</p><p><br>河津祐泰は日本３大仇討で有名な曽我兄弟の父親です。<br>伊豆国の豪族、伊東祐親の嫡男であります。</p><p><br>祐泰は剛力無双のツワモノでしたが、残念なことに<br>所領争いから伊豆の奥野の狩り場の帰り道、工藤祐経の家臣から<br>矢で射られ、落命してしまう。</p><p><br>この矢は父親の祐親を狙ったものであったが、誤って<br>祐泰を射てしまう。<br>享年３１。</p><p><br>これが発端となり、祐泰の子、十郎五郎の曽我兄弟が<br>父を射殺した工藤祐経を打ち取ってしまうのである。</p><p><br>ところがそれが源頼朝が催した富士の裾野の大規模の<br>巻狩りの時であったため、いろいろ憶測を呼ぶことに<br>なってしまう。</p><p><br>話が横にそれそうなので、祐泰のことに戻すが<br>大変な膂力の持ち主であったらしい。</p><p><br>力試しに使っていたという手玉石という１００kg前後の<br>石がいくつか残っていて、それを祐泰は手玉のごとく<br>扱っていたという。</p><p><br>一方、祐泰と相撲を取ったという俣野景久という人は<br>どんな人だったかというと、身の丈６尺を越えた剛力の相撲上手。</p><p><br>源頼朝が挙兵し、伊豆の目代、山木兼隆を打ち取った後、<br>石橋山の戦いで平家との本格的な戦いになる。<br>この時、俣野景久は、頼朝の家臣でこれまた武勇に優れた<br>佐奈田義忠<br>（戦に自信があったのか、覚悟していたのか、<br>頼朝に装束が派手すぎると注意されるが、いくさは武士の<br>晴れ姿といって、さらに目立つ白馬に乗っての参戦）<br>と一騎討ちにおよぶ。</p><p><br>闘いは、馬上の取っ組み合いから、転げ落ち、<br>暗夜の地面で泥まみれになって<br>上になったり下になったりの取っ組み合い。<br>景久とっさの機転で義忠を打ち取った。<br>頼朝軍は敗走する。</p><p><br>といった経歴のある祐泰、景久の二人が相撲を取ったのだから、<br>相当激しい戦いが土俵上で行われたのは間違いない。</p><p><br>では河津掛けというのはどんな技かというと、</p><p><br>返し技であり相手が外掛けや、切り返しを仕掛けてきたとき、<br>絡めてきた足にさらにこちらの足で相手の内股にがっちり絡める。</p><p><br>絡めた足を跳ね上げながら相手の首などを抱え込む。<br>そのまま体を反らせて後方に倒す。</p><p><br>ということはこのまま倒れると相手は後頭部ないし<br>首、肩が土俵に、ないし土俵の外にしたたかにたたきつけられる。<br>しかもその上に相手の体がのしかかってきた場合<br>さらに打撃の衝撃は増す。</p><p><br>しかし下手に返せば自分の身が危ういという、<br>まさに捨て身技。</p><p><br>相当に危険な技であり、現在柔道では禁じ手になっている。</p><p><br>祐泰と景久が相撲を取った時、<br>景久が外掛けで仕掛け、巨体にまかせグイグイ圧力を加え、<br>祐泰を仰向けに押し倒そうとしたと思える。</p><p><br>その時土俵際で繰り出したのが、この河津掛けであったのだろう。</p><p><br>祐泰はなにしろ１００kg前後の石を手玉に取る男。<br>しかも景久は力任せに外掛けをかけて、勢い込んで押しに押したはず。<br>そこをすかされ勢い余った。<br>おまけに河津を掛けられ、土俵に倒れこんでいく。<br>自分の勢いと、河津祐泰の体重がのしかかる。</p><p><br>河津をくらった俣野景久はいくら剛の者とはいえ、後頭部をしたたかに打ち<br>その場にのびてしまったのではないかと思う。<br>というかよく生きていたと思う。</p><p><br>一方バックドロップとは解説するまでもないと思いますが、<br>どんな技かというと</p><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101107/01/gallery-chikochiko/37/b3/j/o0800108510844654433.jpg"><img height="298" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101107/01/gallery-chikochiko/37/b3/j/t02200298_0800108510844654433.jpg" width="220" border="0"></a> <br><br>相手の背後から胴に両腕を巻き付け、膝と腰のバネを使って持ちあげ、<br>そのまま後方に反り返り、投げつける。相手の体重に自分の体重を<br>乗せて投げるため、高さとマットに対して落下角度が<br>９０度に近いほど、破壊力ますというもの。</p><p><br>日本では岩石落としという別名もあり、アメリカでは<br>ベリー・トゥ・バック・スープレックス（belly to back suplex)<br>ともいう。</p><p><br>つまりスープレックスなのであるが、バックドロップがこの技と<br>どう違うかというと、スープレックスの場合相手の胴にクラッチされた<br>両腕を投げ終わった後も放さず、ブリッジした状態でそのままフォール<br>に持ち込む。</p><p><br>最後にブリッジ状態でフォールに持ち込むため、投げる時膝を<br>曲げて後方に投げ、ブリッジ状態になるように腰を中心に<br>円を描くように投げなければならない。</p><p><br>ジャーマン・スープレックスといい、カール・ゴッチがレスリング技から<br>開発した。しかもこの技の名手である。非常にきれいな円を描いて投げる。</p><p><br>バックドロップは持ちあげて後方に投げ捨てる。後頭部から首、肩までが<br>衝撃を受ける。その後、相手のダメージを見計らってフォールに入る。</p><p><br>バックドロップの名手といえばあの鉄人ルー・テーズである。</p><p><br>投げ方はスープレックスと変わらないが、ブリッジしたまま<br>フォールに持ち込むということから解放されているため、<br>いかに高く、いかに高角度で投げ捨て、マットにたたきつけるかを追求する。</p><p><br>つまりこの技は相手に対するダメージの大きさ追求するものである。</p><p><br>一撃必殺の技であるため、そのままフォールに入る必要がない。<br>ルー・テーズはこの技を決めた後は、仰向けになった相手の<br>腹に馬乗りになり、両手首をつかんでマットに押さえつけ、<br>フォールに入る。</p><p><br>ル―・テーズのバックドロップをまともに喰らったレスラーは、<br>全身の筋肉が弛緩してしまうのか、ぐにゃとした身体でマットに<br>横たわっていた。</p><p><br>または、意識朦朧とした状態から抜け出すのに相当長い時間がかかっていた。<br>相当危険な技である。</p><p><br>この技は、腰のひねり具合によってはマットに当たる部位が変わってくる。<br>片方の肩に打撃個所を集中させると、その肩を脱臼させることもできる<br>という。</p><p><br>この二つの技が接近遭遇した時がある。<br>そのことについては次回に。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/gallery-chikochiko/entry-10699511212.html</link>
<pubDate>Sun, 07 Nov 2010 01:21:50 +0900</pubDate>
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<title>第６回　山頭火(SANTOKA)続き　Clouds are billowing up</title>
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<![CDATA[ <p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101029/23/gallery-chikochiko/54/04/j/o0800106610828908913.jpg"><img height="293" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101029/23/gallery-chikochiko/54/04/j/t02200293_0800106610828908913.jpg" width="220" border="0"></a><br></p><p><br>山頭火が亡くなった１９４０年（昭和１５年）は東京でオリンピックが<br>９月１６日から開催される予定でしたが、日中戦争の影響で日本政府が<br>開催権を１９３８年返上したため、昭和１５年の幻の東京オリンピックと<br>なってしまいました。</p><p><br>開催権を得たヘルシンキですが、こちらも第2次世界大戦のため開催する<br>ことができませんでした。</p><p><br>山頭火が亡くなった年の翌年、昭和16年12月8日に日本は真珠湾を攻撃し<br>太平洋戦争に突入します。</p><p><br>そんな息苦しい世の中、山頭火の人生捨て切ったかのような<br>自由奔放さが悲しく、人々はいとおしいと思ったのでしょうか。</p><p><br>人の好意と施しで生きた<br>何の役にも立たない山頭火が<br>人々により愛されることになったのでしょうか。</p><p><br>山頭火の句は自分の心情がストレートに出すぎていて味が濃すぎる上、<br>一本調子と敬遠する人も多いと思います。</p><p><br>しかしそれが山頭火節なのでしょう。<br>偽りがなく、技巧もなく、生々しく、飾りがない露骨な真情を、<br>独特のリズムと独特の映像感覚にのせてよむ。</p><p><br>それがないと山頭火ではないし、それだからこそ山頭火なのである。<br>それほど句の様式として確立してしまっている。</p><p><br>それでいて人がマネするととてつもない駄作に陥る。</p><p><br>山頭火は句作には命を張ったが、自立して生活することができず、<br>最後の最後まで人に甘えに甘えて生きた。</p><p><br>しかしそれだからこそ山頭火であり、<br>そうでなければ山頭火ではないのだ。</p><p><br>芭蕉にしてもパトロンなくして生活はできなかった。</p><p><br>山頭火が１１歳の時、母親が自殺した。<br>父親の女遊びが原因で井戸に飛び込んでしまった。</p><p><br>山頭火が遊びから帰ってくると、井戸から母親が引き上げられていた。<br>大人たちは山頭火を近ずけなかったが、母親を取り巻く人々の<br>足の間から母親の姿を見てしまう。</p><p><br>１１歳といえば、今の小学校５年生である。<br>この出来事は山頭火の心に終生の傷となった。</p><p><br>山頭火の一生は母親に甘えられなかった分を取り戻すかのように、<br>甘えられる人に甘えつくす。</p><p><br>甘えたい、叱られたい、許されたい。<br>人々も甘えさせ、困ったような顔をしながら、許してしまう。</p><p>母の４７回忌の句<br>うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする</p><p><br>母の４９回忌の句<br>たんぽぽちるやしきりにおもう母の死のこと</p><p><br>ひとに甘えて生きるといっても、すべてが賄えるわけでもない。<br>飲まず食わずのこともある。</p><p><br>行乞に出なければ、食い物にもありつけない。宿にも泊まれない。<br>しかも、酒も飲みたいのだ。<br>それでも行乞がいやでいやでたまらなくなる時がある。<br>句<br>いちにち物いはず波音</p><p><br>気ままに見えるが雲水僧もつらいのだ。</p><p><br>句<br>捨てきれない荷物のおもさまえうしろ</p><p><br>捨てたはずの妻子であるが<br>ともにやり直そうとした時もあった。<br>結局うまくいかなかった。</p><p><br>何かと決別したくて日記を焼いた。</p><p><br>句<br>焼き捨てて日記の灰のこれだけか</p><p><br>やはり旅を続けるしかない。</p><p><br>５７歳の時、自分の生命の長くないことを悟る。最後の旅。<br>四国遍路の旅に出る。母に位牌も一緒に。</p><p><br>このたびの日記の面白いエピソードがある。</p><p><br>そこは人情も信仰もあついところで行乞の成績もいい。<br>高知から愛媛に向かうところの街はずれを野宿覚悟でいそいでいると<br>川土手の下から呼び止められた。行乞のコメを売ってくれという<br>おかみさんがいる。そこに降りていくと家といえば家のような小屋が<br>２軒。<br>「竹籠を編んでゐた主人公が、よかったら泊まって行きなさい、野宿よりは<br>ましだらうと、といふ、<br>渡りに船で泊めてもらふ、板張、筵敷、さんたんたる住居である、<br>そして夫婦のあたたかい心はどうだ！<br>（茶碗も数が足らなく蒲団も掛け一枚きりだった）<br>子供６人！猫３匹、鶏数羽、老人、牛・・・・・・<br>私はなけなしの財布から老人と主人に酒を、妻君と子供に菓子を買ってあげて、<br>まずしい、しかもおいしい夕飯をみんないっしょにいただいたことである。」</p><p><br>思わず微笑んでしまうような話。<br>山頭火の人となりをうかがい知ることができる。</p><p><br>こんな山頭火を友人たちが放っておかない。</p><p><br>たどり着いた松山に草庵をプレゼントしてくれたのだ。</p><p><br>「高台で閑静で、家屋も土地も清らかである、山の景観も市街や山野の遠望も佳い。<br>京間の六畳一室四畳半一室、厨房も便所もほどよくしてある、水は前の方十間ばかりの<br>ところに汲揚ポンプがある、水質は悪くない、焚物は裏山から勝手に採るがよろしい、<br>東々北向だから、まともに太陽が昇る、月見には申分なからう。」</p><p><br>「すべての点に於いて、私の分には過ぎたる栖家である、私は感涙して、すなほに<br>つつましく私の寝床をここにこしらへた。」</p><br><p>ここで死ぬまでの１０か月をすごす。<br>最後にたどり着いた草庵で山頭火は友人たちに囲まれて幸せだった。</p><br><p>終の棲家となった松山の草庵で、ある記者に<br>「あなたの様な生産しない人が増えると、これからの時代困る」<br>と問い詰められた時、</p><p><br>「イボも大きくなると邪魔ものだが、小さいイボなら愛嬌だから<br>勘弁してくれ」<br>と歯のない口を大きく開けて笑った。悠揚迫らぬこの答え。</p><p><br>「所詮私の道は私の愚をつらぬくより外にはありえない」</p><p><br>辞世の句</p><p><br>もりもりと盛りあがる雲へあゆむ<br>Clouds are billowing up<br>I am walking toward clouds</p><p><br>山頭火がもりもりと大空に盛り上がってくる雲に向かって、歩んでいく。<br>その雲に溶け込んでいくように。</p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101029/23/gallery-chikochiko/11/ef/j/o0800059810828911974.jpg"><img height="164" alt="なんでもギャラリー　カフェchiko-chiko-Cloud are billowinng up    I am waiking toward c" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101029/23/gallery-chikochiko/11/ef/j/t02200164_0800059810828911974.jpg" width="220" border="0"></a><br></p><p><br>この回終わり</p><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=12303266" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">山頭火句集 (ちくま文庫)/種田 山頭火<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F519TNX0VREL._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="MARGIN: 0px">￥1,050</dd><dd style="MARGIN: 0px">Amazon.co.jp</dd></dl><p><br></p><br><br><br><br><br><br><br><p><br></p>
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<pubDate>Fri, 29 Oct 2010 23:38:05 +0900</pubDate>
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