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<title>原始エルサレムの風</title>
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<description>真理を共有するブログ。</description>
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<title>聖霊を受けるには（後編）</title>
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<![CDATA[ <div><img alt="" height="405" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260730/16/genshi7/6a/90/p/o1672094115807473155.png" width="720"></div><div class="sp">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><nav aria-label="目次"><details class="mo" open><summary>目次</summary><p><a href="#11">11. 聖霊を受ける前に</a></p><p><a href="#12">12. 聖霊を受けるための改め</a></p><p><a href="#13">13. 素直ではない</a></p><p><a href="#13-1 ">  口だけである</a></p><p><a href="#13-2">  兄弟を罵り裁いている</a></p><p><a href="#14">14. 行いを軽視している</a></p><p><a href="#15">15. 御言葉を軽視している</a></p><p><a href="#16">16. 主は厳しい御方でもある</a></p><p><a href="#17">17. 最も重要なこと</a></p></details></nav><div id="11">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>11. 聖霊を受ける前に</h2><p>信仰に入って皆が受けているわけではない以上、何か必要なことがありそうです。<br><br><b style="font-weight:bold;">「初めから選ばれていなかった」</b>という「予定説」は流すとして、「熱心になって悔い改めなさい」と仰るぐらいですから、やはり何らかの点が改められていないということでしょうか。<br><b style="font-weight:bold;">「現段階では選ばれていない」</b>とする概念の方がスッキリしますがどうでしょうか。[マタイ22:14,24:40-41,ヨハネの手紙一3:1-2]<br><br>■信仰心・忠誠心が重要なのは、前編5.で書きましたが、抽象的なため少し具体的にすると下記の感じになります。<br><br><span style="color:#ff0000;">「いかに世に染まらず、いかに主の御言葉を優先し、真理を愛し、主を信頼し、自分の命・人生に執着せず、隣人を自分のように愛せるか、友のために命を投げ出せるぐらい愛せるか」</span>など。<br><br>もちろん初めから上記すべてが完全なのは、主イェシュア以外におられません。人それぞれ、受け取るまでの時間や度合いがあったりするのかもしれません。<br><br>なお、上記は勝手に考え出したわけではありません。聖書を読んだ人であれば、福音書等に「似たような御言葉がある、言い方を変えただけ」と気付かれたと思います。<br>[ヨハネの手紙一2:15-17,マタイ6:24,8:21-22,10:37,10:39,16:24-25,ヨハネ15:13-14参照]<br><br>恐れることはありません。心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なる神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、本気で祈り、信じ、求め続ければ問題ありません。（口では簡単ですが）<br><br>■信仰に入って主を信じたにもかかわらず、何年経ってもまだ受け取っていないのでしたら、現状で何か問題があると考えられます。問題のある部分が自分で見えれば良いのですが、自分では客観的に見られなかったり、なかなか受け入れられないものです。<br><br>神学を盲信している場合は「実は違う道に行っていた」あるいは「立ち往生している」状態になっているかもしれません。「悔い改め、方向転換、生き方や考え方の変化、価値観の変化」が必要です。※全て同じ意味。<br><br>仕事で言えば、結果・成果ですが、結果として受け取っていないということは、今のままではよろしくありません。これまでの延長では難しいと考えられます。</p><div id="12">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>12. 聖霊を受けるための改め</h2><p>改める、すなわち「悔い改め」とは、ギリシア語原語で「メタノイア＝視座・視点を転換する」という意味です。ヘブライ語では「シューブ＝立ち返る」で、神に立ち返るという意味でもあります。<br><br>「罪を改める、回心する、生き方を変える」とほぼ同じで、ギリシャ語・日本語であっても意味は概ね伝わります。主はヘブライ語またはアラム語で言っておられたはずです。「悔い改め」は和製のため「改める」でも問題ありません。本気で悔いていたら改めますし、逆の順であっても改まっていけば悔いるようになります。<br><br>■よくある間違いは「聖書勉強を沢山した」「通読を何回した」というのがあります。「聖書を通読、研究」というのは聖霊を受ける段階では、必須ではありません。※通読、研究はした方が良いです。<br><br>前編記事の使徒10:45の異邦人コルネリウスたちは、ペトロの伝道で、その場ですぐに聖霊を受け取ったとあります。描写的に数十分程度でしょうか。仮に数日かけて御言葉を伝えていたとしても、短期間です。※元々、旧約聖書の知識が少しはあったかもしれない。<br><br>異邦人が信仰に入った時に聖霊を受けているということは「旧約聖書の歴史的な背景の知識」「三位一体はどうなのか」「イエス・キリストはいつ生まれたのか」等はあとの話で、聖霊を受ける段階では必須ではありません。<br><br>「聖書を沢山、学んだ」というのは知識であり、本人が悔い改まっていないのであれば意味がありません。※知識を軽視していない。<br><br>これは「勉強好き・勉強が得意」な人に陥りやすい過ちです。「博識、膨大な本を読んだ、読むのが速い、記憶力が良い」等で、学歴、経歴、能力を誇りにして驕りが出るのは問題です。<br><br>■それから、政治や経済や世の法律に詳しい必要はありません。詳しければ世に騙されにくくなり、また他者のために役立てることはできますが、聖霊を受けることには直接的な関係はありません。これは当時のペトロや若者のヨハネらが、田舎の漁師だったことを考慮すれば分かるでしょう。<br><br>主は「まず、熱心な悔い改め」を求めておられるのであり、熱心な聖書勉強を一番に求めておられるわけではありません。熱心に聖書を学んだ方が良いとはいえ、神学校に行くのは全くお勧めできません。下記を参照。</p><blockquote class="seiku"><p>あなたがたのうちには、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。</mark>この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。<br>(ヨハネの手紙一2:27 口語訳)</p></blockquote><p>「だれにも教えてもらう必要はない」と先輩のヨハネが警告してくれています。<br><br>これは油（聖霊）を受けて間もない人に向けての警告です。受けていないのであれば尚更、慎重さが必要です。神学校でヘブライ語やギリシャ語だけを学んだり、部分的には得ることもあると思われますが、それだけでは済まないため、総合的には不利益になります。学歴に似たかたちとして「権威付けや宣伝のために有利だから」という心理に惑わされないよう気をつけましょう。<br><br>既に行ってしまい、間違った教えを植え付けられた箇所については、修正して巻き返してください。聖霊を受ける前にパウロ書簡を読んでしまった場合も、影響が残っているはずですので、修正して巻き返してください。<br><br>さて、下記では誇りについて気を付けるよう言われています。</p><blockquote class="seiku"><p>主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。<br>(エレミヤ9:23-24 口語訳)</p></blockquote><p><br>上記により、これまでの信仰歴・聖書読書歴は、聖霊を受けることに全く関係ないとまで言えませんが、驕りが出るため意識しないようにしましょう。<br><br>今後、新たに信仰に入った時に聖霊を受ける兄弟たちが出てくる事を考慮すると、現時点で受け取っていなければ、より熱心に改める必要があるでしょう。（これを言うのは心が痛みますが、言わなければなりません）。</p><div id="13">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>13. 素直ではない</h2><p>聖霊を受けられない理由として、根本的な部分で「間違った考えを持っている、または間違った事をしている」のが挙げられます。悔い改めようと抗っていないということですね。<br><br>目の中に丸太(梁)があるのに自分では気付いてない状態といえます。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。<br>(マタイ7:3-5 口語訳)</p></blockquote><p>この丸太は一本の太い棒ですから「一点の致命的な部分が未だある」という意味も含まれます。<br><br>特に素直ではないというのは致命的です。主はマタイ10:16で「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われましたが「せこくなりなさい」とは言っておられません。「素直」と訳された原語の「ἀκέραιος」は「純真,純粋,無垢,誠実,素直」などの意味です。<br><br>素直というのは「素(す)の自分らしく」「ありのまま」という意味ではありません。自分らしくありのままは、文字通り「我がまま（ワガママ）」です。ワガママでは根本的な悪い心は改善されません。他者から指摘されても、素直に聞く子供のような心を忘れないようにしないとですね。神の霊が鳩で表現されています。[マタイ3:16]<br><br>素直と謙虚は相関があり、素直の反対は「頑固,強情,捻くれ者」等ですが、態度の面では「傲慢」も部分的に対立します。<br><br>素直と言えば無邪気な子供ですが、天国は幼な子のようにならなければ入れないと聖書にあります。下記三つを参照。</p><blockquote class="seiku"><p>すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。<br>(マタイ18:2-4 口語訳) ※原文「幼な子のようにならなければ、天国に入ることは<span style="color:#ff0000;">決して</span>できない」</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。<br>(マタイ19:13-15 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。<br>(マタイ11:25-27 口語訳)</p></blockquote><p><br>心をいれかえるのは難しいことですが、絶対条件のようです。幼な子からの成長によって、悪くなったところを素に直す、すなわち神様との関係を直す修復でもあります。<br><br>幼な子のように素直なだけでなく、先の10:16「蛇のように賢く」も同時にないと、教会選びや聖書解釈で間違えます。蛇のように賢くとは「ずる賢く」ではなく「用心深く,思慮深く」という意味です。<br><br>■さて、通常は信仰に入れば主イェシュアの御言葉を聞き入れることによって、様々な悪い心が改善していくものです。しかし一方で、表面上は改善したフリをして装ったり、良識あるように振る舞う人もいるかもしれません。ある程度は改善し外側は主に従っているように見えても、信仰に入る前から持っていた悪い部分・頑なな部分を、無視している人もいるかもしれません。<br><br>直すためには、自分の良いところではなく、悪いところに目を向けないといけないのですね。</p><div id="13-1">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>&nbsp;口だけである</h2><p>素直ではないとしてよくあるのは、口だけなことです。神様の存在を、<b style="font-weight:bold;">自分の人生の+α（プラスアルファ）としている</b>のでしょう。口先で「神様を信じています」「イエス様を愛しています」と言っていくら信仰告白しても、心の奥底の想いまで、主には筒抜けです。[マタイ10:30]<br><br>聖霊を授かるためには、祈り求めることも重要です。しかし口だけで、そもそも祈りが届いていないのかもしれません。自分一人だけの祈りだけではなく、聖霊を受けた兄弟姉妹と一緒に祈った方が当然祈りは届きやすいでしょう。※祈りについては、別記事<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12973534886.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">「祈りについて」</a>をご参考までに。<br><br>話を戻します。<br>言葉だけは綺麗で信仰心があつく見えても、熱心に「外側」を白く塗るのなら、ファリサイ派たちがそうでした。そして民衆の多くが見分けられませんでした。<br><br>口で告白する事によって神様・人に見てもらおうとする、点数稼ぎのような発想がありませんか。他には、信仰告白により信仰度を上げるかのような発想。周りが信仰心あるように見えるため焦って同じように口だけ合わせようとする、などなど。形から入ってそれで満足して、本来の目的を見失わないようにしたいところです。<br><br>口だけなのは嘘に繋がります。好かれようと、もしくは良く見せようと、本来の自分と違う人物像（キャラクター設定）を作ったり、演じたりなども当てはまります。「二枚舌・二心・八方美人・ダブルスタンダード」そういうのは嘘とほぼ同じです。思ってもいないお世辞（リップサービス）、ごますり（媚びへつらい）など、人から見ても嫌われることです。<br><br>嘘については、下記二ヶ所で出てきます。</p><blockquote class="seiku"><p>しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。<br>(ヨハネ黙示録21:8 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。<br>(ヨハネ黙示録22:15 口語訳)</p></blockquote><p>「すべて偽りを言う者」とあるため、少しくらいの嘘は大丈夫とあまく考えがちですが、下記によりやめた方が良いです。<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。<br>(ヨハネの黙示録14:5 口語訳)</p></blockquote><p>例外で、出エジプト1:19の「イスラエルの子供の命を救うために嘘をついた助産婦の話」は祝福されています。ヨシュア記2章のイスラエルの二人を匿うために嘘をついたラハブも同様です。ただし、兄弟の信仰心を上げるためとして、説教で受けが良いように御言葉を曲げたり、「証し」で少しぐらい良いだろうと話を盛るなどは、問題ありです。</p><div id="13-2">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>&nbsp;兄弟を罵り裁いている</h2><p>先ほどの聖句の「人殺し」は論外ですが、兄弟に腹を立て「愚か者」や「馬鹿」と言って見下したり罵るのも致命的です。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。<br>(マタイ5:21-22 口語訳)</p></blockquote><p><br>同様に「愚者,アホ,ボケ,マヌケ,カス,クズ,ゴミ,能なし,無知,白痴,痴呆,池沼」等の罵りも言い方が変わっているだけで、意味はほぼ変わりません。SNSや匿名のネット掲示板の書き込みや、本人の見ていない影口でも気をつけないといけません。<br><br>心の中で罵るのも控えた方が良いです。思っていることが口に出てしまい（マタイ12:34）、上記の続き5:27-28では「心の中」だけで姦淫になると警告があります。聖句を見て「兄弟に対してでなければ良い」と思ったり、また、主や洗礼者ヨハネがファリサイ派たちに「マムシの子」と言っていたから大丈夫と思うかもしれません。ですが口の制御は難しく、いずれ兄弟に対して言ってしまいかねません。怒るには遅くですね[箴言14:29,15:1,ヤコブ1:19-20,3:1-12,4:11-12]。<br><br>たとえ、口では罵りを控え正論だけを言っていても、実際にはできていないということもあり得ます。道義的な正論を認識し口で言えても、心が伴っていない場合です。その場合、自分で気付けなければ、誰かから注意・指摘され気付くしかありません。そして気付くには「謙虚」「素直さ」が必要です。<br>例えば、未信仰の人に注意・指摘されたからといって「イエス・キリストを知らないくせに」「聖書を読んだ事もないくせに」と心で思っていたら態度や言葉にも出て改善できないため、謙虚な姿勢が必要なのですね。人によっては、意外と未信仰の人の方が部分的にできていることは多々あるため、軽視はできません。<br><br>■それから、他者の能力が自分より低かったり、聖書理解が浅かったり、働きが少なくても、馬鹿にしたり見下すような発言・態度に気を付けないといけません。逆に自分より、他者の能力が高かったり、聖書理解が深かったり、働きが多くても、嫉妬すればそれはカインになります。<br><br>他には、柔和を忘れ、細かい事で兄弟を責め立てるようなこともあるかもしれません。その場合、他者にどうこう言っている場合ではなく、まず己を顧みる必要があります。[マタイ7:3-5 ※既出]<br><br>ほとんどの人が五歳ぐらいの子供の時は、素直で無垢、純粋な心だったはずです。大人になるにつれ、いつの間にか汚い思いが入り込んで、変わってしまったわけです。だからどこから落ちたのかを思い出し、改めなければなりません[黙示録2:4-5]。<br><br>他には、律法を守っている兄弟たちに対して「異端,ファリサイ派」と揶揄するのも気をつけないといけません[マタイ5:17-20,7:1-5,使徒21:21]。公正で真実に基づく裁きであれば問題ないですが、「カルト,悪魔,反キリスト,偽教師,偽兄弟,地獄行き」と罵るのも同様に気をつけないといけません。<br><br>「自分とは信条が違うし兄弟ではないから大丈夫」と考えるのは危険です。自分がまだ聖霊を受けていなければ、本物の兄弟かうまく見分けられない可能性があるため、わざわざ大きな賭けに出てまで言わない方が良いでしょう。直接本人に言わなくても、間接的に言うのも気をつけた方が良いです。例:「割礼を受けている者は異端だ、ファリサイ派だ」など。<br><br>これらの言葉は、高ぶってくるほど「言いたくなる → つい言ってしまう → 言わざるを得なくなる」と悪い段階を経る事になるため、自分を低くしないといけないのですね。高ぶりは自分の力だけでは気付けないものです。<br><br>このような正論は言うだけなら誰でもできますが、問題は正論どおりにできているかどうかですので、客観的に自己分析し、また他者を実で見分けなければなりません。</p><div id="14">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>14. 行いを軽視している</h2><p>「天の御国に入るのに、行いは関係ない」という説教を聞いたことがあると思います。ですが下記により間違いです。</p><blockquote class="seiku"><p>人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">わたしが空腹のときに食べさせ</mark>、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">かわいていたときに飲ませ</mark>、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">旅人であったときに宿を貸し</mark>、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">裸であったときに着せ</mark>、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">病気のときに見舞い</mark>、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">獄にいたときに尋ねてくれた</mark>からである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。<br>(マタイ25:31-37 口語訳)</p></blockquote><p>「行い」ですね。続き46節までを見ても、行いで左右されています。</p><p>&nbsp;</p><p>下記も同様。※前編から再掲載</p><blockquote class="seiku"><p>わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">父の御旨を行う者だけ</mark>が、はいるのである。<br>(マタイ7:21 口語訳)</p></blockquote><p>行いです。</p><p>&nbsp;</p><p>それから下記も同様です。</p><blockquote class="seiku"><p>預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">冷たい水一杯でも飲ませてくれる者</mark>は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。<br>(マタイ10:41-42 口語訳)</p></blockquote><p>行いです。</p><p>&nbsp;</p><p>次へ。</p><blockquote class="seiku"><p>あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">心を変えて、出かけた</mark>。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。<br>(マタイ21:28-31 口語訳) ※原文は兄と弟の返答が逆。</p></blockquote><p>行いです。伝道も含まれます。</p><p>&nbsp;</p><p>次へ。</p><blockquote class="seiku"><p>さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい</mark>。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。<br>(マタイ25:28-30 口語訳)</p></blockquote><p>行いです。働きは人により違うようです。</p><p>&nbsp;</p><p>次へ。</p><blockquote class="seiku"><p><mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">善をおこなった人々</mark>は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。<br>(ヨハネ5:29 口語訳)</p></blockquote><p>善行、悪行、どちらも行いです。</p><p>&nbsp;</p><p>次へ。</p><blockquote class="seiku"><p>世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">神の御旨を行う者</mark>は、永遠にながらえる。<br>(ヨハネの手紙一2:17 口語訳)</p></blockquote><p>前述のマタイ7:21と似ています。行いです。<br><br>次へ。</p><blockquote class="seiku"><p>そして、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">御言を行う人</mark>になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。<br>(ヤコブ1:22-23 口語訳)</p></blockquote><p>行いです。「聞くだけ、口だけ」だといけません。<br><br>次へ。</p><blockquote class="seiku"><p>これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">実際に行う人</mark>である。こういう人は、その<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">行いによって祝福</mark>される。<br>(ヤコブ1:25 口語訳)</p></blockquote><p>行いによって祝福されます。実際に行う人です。<br><br>次へ。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">もし行いがなかったら、なんの役に立つか</mark>。その信仰は彼を救うことができるか。<br>(ヤコブ2:14 口語訳)</p></blockquote><p>行いです。これは「信仰による（信仰のみ）」という人たちへの反論です。<br><br>長いですが次へ。</p><blockquote class="seiku"><p>信仰も、それと同様に、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">行いを伴わなければ</mark>、それだけでは死んだものである。しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">わたしの行いによって信仰を見せてあげよう</mark>。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。ああ、愚かな人よ。<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">行いを伴わない信仰のむなしいこと</mark>を知りたいのか。わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">行いによって義</mark>とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">信仰が行いと共に働き</mark>、その<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">行いによって信仰が全う</mark>され、こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">人が義とされるのは、行いによる</mark>のであって、信仰だけによるのではない。同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">行いによって義</mark>とされたではないか。霊魂のないからだが死んだものであると同様に、<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">行いのない信仰も死んだもの</mark>なのである。<br>(ヤコブ2:17-26 口語訳)</p></blockquote><p><br>上記も行いです。分かりやすく何度も「行い」と伝えています。行いと報いは切り離せません。聖書では旧約から新約まで、弱者であるやもめ、みなしご、貧しい人への憐れみ・施しを忘れないようにとあります。<br>[レビ記19:10,申命記15:7-9,エレミヤ7:6,ゼカリヤ7:10,マラキ3:5,マタイ19:21,ヤコブ1:27,2:15-17、他]。<br><br>律法を守るのも行いです。上記は律法にある戒め（神の戒め）ですから。<br><br>とはいえ逆に「行いのみ」と極端な方へいってもいけません。「信仰」「神の恵み」により「行う」のですね。</p><div id="15">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>15. 御言葉を軽視している</h2><p>主の教えを全く守る気がないのは、御言葉を軽視していることになります。福音書の主の教えでは、厳しいことを言っておられました。下記、十二の聖句を参照。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。<br>(マタイ5:17-20 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。<br>(マタイ5:29 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。<br>(マタイ5:39 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。<br>(マタイ5:44 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。<br>(マタイ7:13-14 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。<br>(マタイ8:21-22 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。<br>(マタイ16:24-25 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。<br>(マタイ18:3 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。<br>(マタイ19:23-24 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。<br>(マタイ19:29 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。<br>(マタイ22:14 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。<br>(マタイ23:2-3 口語訳)</p></blockquote><p>分かりやすい聖句を抜粋しました。上記も行いがいくつか含まれますが、「心の行い」もあります。<br><br>それから上記マタイ22:14と同じ御言葉が、20:16の後半にも原文（TR底本）ではあるのですが、一般的な日本語訳聖書にはありません。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない<br>(マタイ20:16後半 TR底本私訳)</p></blockquote><p><br>上記一覧とここまで記載した聖句に「聞く耳を持つ、やる気がある、またはできそう」なら選ばれるのでしょうか。逆で考えますと、上記一覧に全く当てはまらず聖霊を受けていないにもかかわらず説教していれば、確実に間違った解釈だらけになります。<br><br>「主の御言葉に依り頼みましょう」とよく聞くかもしれませんが、実際、口だけであれば意味がありません。パウロの言葉に依り頼んでいる場合は危険です。「パウロがこう言っている」「パウロがこう書いている」といった具合ですが、それを「聖書に書いてある」と言い換えても同じです。彼個人の言葉です。「御言葉」ではありません。それらの書簡は現在普及している聖典に含まれていますが、初期のエルサレム教会は読んでおらず、4世紀頃のエルサレム教会の後継であるナザレ派もそれらの書簡を用いていないでしょう。</p><div id="16">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>16. 主は厳しい御方でもある</h2><p>先の聖句群すべてを初めから完全に遂行できるのは、主以外におられません。一見すると、かなり厳しいように見えます。ですが目を背けず、前に進んでいかなければなりません。いきなり完璧に守るのは無理ですが、まずは意識だけでも変える必要はあります。難しいからと自分は無理そうだからと、楽な道へ行ってはなりません。入り口からして間違ってはいけません。<br><br>主は愛のある御方です。でも、忘れてはならないのは、旧約聖書時代から、厳しい御方でもあります。懲らしめのある厳しさも「愛」です。実際は厳しいと人間が感じるだけであって、天では当たり前のことなのかもしれません。「御心が行われますように。天におけるように地の上にも」ですから。主が求めておられる水準は、皆が思っているよりも高いでしょう。人間側が水準を低くしているのは確実にあります。<br><br>「悔い改められていない → 最低限の水準に達していない → 洗礼になっていない」のかもしれません。<br><br>ノアの洪水で残ったのは、たった八人だけでした。※外典とされるヤシャルの書によると、洪水前にはメトシェラや他にも神に従う人が少数、いたもよう。<br>大洪水で滅ぼされた人たちの中で、ノアたち以外に、人間目線で見れば「まともそう」に見える人が他にも沢山いたのではないでしょうか。<br><br>話を戻します。何でもそうですが、初めは厳しいと思っていても、少しずつやっていたら鍛えられていって、いつの間にか楽にできるようになっている事がよくありますよね。忍耐力は上がっていくものですから、忍耐せず「楽な考え・楽な解釈・楽な行動」を取り続けていると、忍耐力は下がり、逃げ癖がついてしまいます。誘惑にも負けやすくなります。<br><br>主が求めておられる水準の聖なる者となれるよう、清くなれるよう、生ぬるくない熱心さが必要ではないでしょうか。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。<br>(ヨハネの手紙一3:3 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。<br>(黙示録3:15-16 口語訳) ※再掲載</p></blockquote><p><br>さて、「自己義認・信仰義認」という造語がありますが、律法を守ることに当てはめるのは間違いです。造語は、対象を拡げて当てはめようとする悪さがよく起こります。「熱心な悔い改め」ですから、改善するために努力は必要です。行動を抑制する場面もあります。「恵み」「贖い」「救い」を強調し過ぎる綺麗事に流されないようにしましょう。<br><br>聖書には厳しい御言葉だけでなく、励みとなる御言葉も沢山ありますが、綺麗事は言っておられません。<br><br>現状で傷付いている人、厳しい環境や、苦しい立場に置かれている人もおられると思います。「すぐには改善できそうにない」と落ち込む事は誰でもあります。自分が悪いのに何でも環境のせいにしていては問題がありますが、環境は大事です。前を向き上を向き、できる事から改めていけば良いのではないでしょうか。小さな一歩でも、歩み続ければ見えなかった景色へ到達するものです。</p><div id="17">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>17. 最も重要なこと</h2><p>聖霊を受けるために最も重要なことは、下記に要約されます。</p><blockquote class="seiku"><p>イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。<br>(マタイ22:37-40 口語訳)</p></blockquote><p>上記の「神を愛する」「隣人を愛する」の二つですね。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」の意味が分かっていないと主なる神を完全に愛することはできません。その意味については、別記事<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972543088.html#3" rel="noopener noreferrer" target="_blank">「律法は今も有効か」項目3.</a>の⑪で触れています。<br><br>そして、人に対する最も大きな愛は下記の二つです。</p><blockquote class="seiku"><p>人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。<br>(ヨハネ15:13-14 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。<br>(ヨハネの手紙一3:16 口語訳)</p></blockquote><p>恐れず、兄弟のために命を捨てることができ、かつ主の御名を捨てず命を捨てられる「愛」を目指しましょう。<br><br>主と同じ道を歩み、悪い心を改めて、聖霊を求めれば授かるでしょう。</p><blockquote class="seiku"><p>「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。<br>(ヨハネの手紙一2:6 口語訳)</p></blockquote><p>&nbsp;</p><p>主は十字架にかけられ、私たちの罪を贖い、罪を赦してくださいました。私たちが先に愛したのではなく、主が先に愛してくださった。だから感謝し愛せるのです。</p><blockquote class="seiku"><p>もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。<br>(ヨハネ14:15 口語訳)</p></blockquote><p>「主を知った」のであれば同じように、兄弟皆が最後まで悔い改め邁進していこうではありませんか。<br><br><br>よい羊飼いが羊のために命を捨てられた。同様によい羊も仲間の羊のために命を捨てる。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。<br>(ヨハネ10:11-12 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。<br>(ヨハネ10:16-17 口語訳)</p></blockquote><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><h2 style="margin:7px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">終わりに</span></h2><p>主の道を歩むとは、主が示され歩まれた道を、同じように辿ること。<br><br>眠っていてはいけない。<br><br><span style="font-size:1.05em;"><b>起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光はあなたの上に輝く。[イザヤ60:1]</b></span><br><br>&nbsp;</p><div><style type="text/css">.seiku2{  background:#99aabb;  height:1px;  margin:12px 11px 12px 5px;}blockquote.seiku {  border:1px solid #99aabb;  background:#ebeef2c2;  margin:0 auto 4px;  padding:12px 10px 12px 12px;  border-radius:5px;  quotes:none;}blockquote.seiku::before, blockquote.seiku::after {  content:none;}.seiku p {  line-height:1.6;}h2{color:#223344}h2.koumoku {display:flex;font-size:20px;margin:8px 0;margin-left: 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<link>https://ameblo.jp/genshi7/entry-12975057285.html</link>
<pubDate>Fri, 07 Aug 2026 21:07:37 +0900</pubDate>
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<title>聖霊を受けるには（前編）</title>
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<![CDATA[ <div><img alt="" height="405" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260730/16/genshi7/6a/90/p/o1672094115807473155.png" width="720"></div><div class="sp">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 style="margin:7px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">前置き　　</span></h2><p>聖霊に関しては参考が少ないため、使徒行伝を慎重に引用していきます。<br>※当記事は既に聖霊を受けた人は対象外です。</p><p>※心に余裕のない場合は、落ち着いた後に読んでください。<br><br>&nbsp;</p><nav aria-label="目次"><details class="mo" open><summary>目次</summary><p><a href="#0">はじめに --聖霊とは--</a></p><p><a href="#1">1. 聖霊は信仰に入ると受けるのか</a></p><p><a href="#2">2. 聖霊は受ければ分かるのか</a></p><p><a href="#3">3. 聖霊によらなくても「イエスは主である」と言える</a></p><p><a href="#4">4. 聖霊を受けたか　見分ける方法</a></p><p><a href="#5">5. 条件は心から神に従うこと</a></p><p><a href="#6">6. 水の洗礼について</a></p><p><a href="#7">7. 火の洗礼について</a></p><p><a href="#8 ">8. 聖霊の満たし・賜物について</a></p><p><a href="#9">9. 異言について</a></p><p><a href="#10">10. 聖霊を受ける前に</a></p></details></nav><div id="0">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>&nbsp;はじめに --聖霊とは--</h2><p>聖霊は「力（パワー,エネルギー）」とは違い「霊」です。「悟り」「真我」等の仏教系・ヨガ系・スピリチュアル系の類とも違います（主イェシュアと関係ないため）。マタイ12:31-32で「御霊を冒涜する者はゆるされない」「聖霊に言い逆らう者はゆるされない」とあり、やはり単なる無機質なものとは違います。<br><br>はっきりと授かることにより、主と一つになったと分かります。下記五つを参照。</p><blockquote class="seiku"><p>神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。<br>(ヨハネの手紙一3:24 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。<br>(ヨハネの手紙一4:13 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。<br>(ヨハネ14:20 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。<br>(ヨハネ17:10-11 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。<br>(ヨハネ17:22 口語訳)</p></blockquote><p>逆に聖霊を受けなければ、一つになったのかよく分からないということになります。</p><p><br>では、他にどう受け取っていると判断するのか、聖霊を受けるとはどういうことか、どうすれば受けるのか、徹底的に見ていきます。</p><div id="1">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>1. 聖霊は信仰に入ると受けるのか</h2><p>必ずしも、メシアである<span class="red">主イェシュアを救い主として信じるだけで、受けるとは限りません。</span>下記三つを参照。</p><blockquote class="seiku"><p>彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。<br>(使徒行伝19:2 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、<span class="sen0">聖霊はまだだれにも下っていなかった</span>からである。そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。<br>(使徒行伝8:16-17 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。<br>(使徒行伝10:44 口語訳)</p></blockquote><p>上記の状況を比べると、信仰に入った時に聖霊を受けた人と、受けていない人がいます。</p><p>&nbsp;</p><p>上記19:2はパウロの発言とされているため引用を躊躇いますが「信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と聞くということは、受けた時に本人がはっきり分かるということになります。また発言内容からして、信仰に入った時に受ける事例をいくつか見聞きしていたと推測できます。<br><br>上記8:16-17によると、使徒ペトロ,ヨハネが来るまでそこにいた人たちに「聖霊はまだだれにも下っていなかった」とあります。既に信仰に入り、主イェシュアの名によってバプテスマ（水の洗礼）は受けていたとあります。仮にペトロたちの到着が一年後だったとしたら、一年間は聖霊を受けていなかったことになります。十年後であればそれも然り。(その前に願い求めて受ける人が出てきそうですが)</p><p><br>ですから使徒行伝の記述を信じるのであれば、「クリスチャンであればもれなく聖霊を受けている」とはなりません。</p><div id="2">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>2. 聖霊は受ければ分かるのか</h2><p>先の例と下記五つによると、受け取った本人は受け取ったとはっきり分かっているようです。</p><blockquote class="seiku"><p>突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。<br>(使徒行伝2:2-4 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。<br>(使徒行伝4:31 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手をおいたために、御霊が人々に授けられたのを見て、金をさし出し、「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」と言った。<br>(使徒行伝8:17-19 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。<br>(使徒行伝10:44-45 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。<br>(マタイ3:16 口語訳)</p></blockquote><p>仮に使徒行伝の描写が不正確だったとしても、また主イェシュアの場合だけは特殊だったとしても、やはり劇的な何かが起こっています。</p><p>&nbsp;</p><p>「二千年も前の事だから、現在は起こらない」と考えるかもしれません。ですが初期エルサレム教会から現代にかけて、全てが本物かどうかはともかく、聖霊がはっきり降ったと証言する兄弟は、現代にもいます。そのような事は起こらないと思っていたら、起こらないかもしれません。<br><br>下記では、集会一同がはっきりと御霊を受けたから、このような書き方になるのでしょう。</p><blockquote class="seiku"><p>神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、<span class="bgy">神がわたしたちに賜わった御霊によって</span>知るのである。<br>(ヨハネの手紙一3:24 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p><span class="bgy">神が御霊をわたしたちに賜わったことによって</span>、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。<br>(ヨハネの手紙一4:13 口語訳) ※再掲載</p></blockquote><p>もし集会一同に先のような、いわゆる「聖霊体験」がなければ、上記内容は説明になっておらず激励にもなっていません。ですから例が少ないとはいえ、ヨハネ福音書・使徒行伝・ヨハネの手紙の記述から判断すると、聖霊はきちんと降り分かるようです。そうでないと受けたか分からないわけですので、当然と言えるのではないでしょうか。<br><br>なお、聖霊を与えられることにより、平安も与えられます。なぜなら、世にあるもの全てに勝る賜物だからです。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。<br>(ヨハネ14:27 口語訳)</p></blockquote><p>前節26節で聖霊のことを述べておられ、この箇所は聖霊のことを言っておられます。与えられなければ真の平安が得られないということです。</p><div id="3">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>3. 聖霊によらなくても「イエスは主である」と言える</h2><p>「大丈夫、あなたも聖霊を受けていますよ」と下記の引用を見聞きした事があるかもしれません。</p><blockquote class="seiku"><p>そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、<s style="text-decoration:line-through;">また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。</s><br>(コリント第一12:3 口語訳)</p></blockquote><p>上記の前半は正しいですが、後半は正しくありません。<br><br>論理的に変換してみます。</p><fieldset style="margin:15px 0;padding:4px 5px 12px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><ul class="ulul"><li><b>命題：</b>聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。<br>↓</li><li><b>対偶：</b>だれでも「イエスは主である」と言うことができるならば、その人は聖霊による。</li></ul></fieldset><p>一見、別の真意があるのかと思いきや、前後の文脈である12:1,12:2,12:4を見る限り、特に深い意味はないでしょう。<br><br>文字どおり受け取るとして、下記七つを参照。</p><blockquote class="seiku"><p>すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「<span class="bgy">主よ</span>、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。<br>(マタイ8:2 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そこで百卒長は答えて言った、「<span class="bgy">主よ</span>、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。<br>(マタイ8:8 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>すると女は言った、「<span class="bgy">主よ</span>、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。<br>(マタイ15:27 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>「<span class="bgy">主よ</span>、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。<br>(マタイ17:15 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「<span class="bgy">主よ</span>、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。<br>(マタイ20:31 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「<span class="bgy">主よ</span>、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。<br>(マタイ26:22 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>トマスはイエスに答えて言った、「わが<span class="bgy">主よ</span>、わが神よ」。<br>(ヨハネ20:28 口語訳)</p></blockquote><p>上記は全て、ペンテコステ前の聖霊が与えられていない時期ですが、普通に「主」と言っています。初対面の異邦人も言っています。<br>&nbsp;</p><p>それから、ほとんどのクリスチャンは心から信じて「イエスは主である」と言えています。もちろん筆者も言えます。グノーシス派でも言えており、現代でカルトや異端と言われる教派でも言えています。これまで不祥事を起こした信仰者も「主イエス」「Lord Jesus」と呼んでいるでしょう。言えない人は、よほど聖書を読み違えているか、不信仰なだけです。<br><br>「イエスは主である」の箇所を「イエスは神である」に言い換えて解釈するのは間違いで、原文では先に「神の霊」として[Θεοῦ→God→神]の単語が出ていて、[Κύριος→Load→主]とは区別しています。フィリピ2:11も同様の区別です。上記の聖句群も全て「Κύριος→主」で原語は同じです。<br><br>下記聖句ではこうあります。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしにむかって『<span class="bgy">主よ、主よ</span>』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『<span class="bgy">主よ、主よ</span>、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。<br>(マタイ7:21-23 口語訳)</p></blockquote><p>「主よ」と言えるだけでは天国に入れないとあります。天の父の御旨を行う者が、入れるようです。<br><br>口先だけではダメです。「イエスは主」と言えるだけでは、聖霊を受けた根拠にはなりません。根拠にしてはいけません。<br><br>ちなみに、先のコリント書と似た内容で、下記でも、口であれこれ書かれています。</p><blockquote class="seiku"><p>すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。<br>(ローマ10:9-10 口語訳)</p></blockquote><div id="4">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>4. 聖霊を受けたか　見分ける方法</h2><p>「本人の知らない内に受け取っていた」という事が例外としてあり得るかというと、どうでしょう（例外がないとは言っていません）。きちんと聖霊が降っている人たちがいる以上、安易な判断は危険です。<br><br>現代では、はっきり受け取っていないのが例外とされず、冒頭で挙げたように聖霊がはっきり降ることの方が例外扱いされています。なぜ違いがあるのか、当ブログを読まれて答えを出してください。<br><br>聖霊を受けているかどうかは、ある程度の判別方法があるようです。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。<br>(ヨハネ16:13 口語訳)</p></blockquote><p>「あらゆる真理に導いてくれる」ので、聖書の解釈で大まかには見分けられるということなのでしょう。ただ、聖霊を受けて間もない時期では、まだまだ未熟で人それぞれの成長段階があります。<br><br><span class="red">「自分と解釈や信条が違うから相手は聖霊を受けていない、自分は聖霊を受けている」とする短絡的な判断は危険です。</span>多くの人は自分が正しいと思いたいものですので、他者・他教会と比較して根拠にしようとするかもしれません。「下を見る、上を落とす」といった見方ではなく、自分自身に聖霊が降ったのかどうかが根拠になります。[ヨハネの手紙一3:24 ※既出]<br><br>短絡的な判断は危険ですが、聖霊を受けている同士であれば、ある程度の解釈が一致し理解し合えるはずです。神の霊は反発しないからです。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。しかし、あなたがたは聖なる者に油を注がれているので、あなたがたすべてが、そのことを知っている。<br>(ヨハネの手紙一2:19-20 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。<br>(ヨハネの手紙一4:4-5 口語訳)</p></blockquote><p>上記2:19の「出て行った」人たちは「一緒にとどまらず、属さない者」とありますが、通常で考えるなら、聖霊を受けていなかったとなります。ヨハネの手紙三のディオトレフェスとの不和も同様に見ることができます。<br><br>キリスト者が別のキリスト者を迫害するのは考えにくいことですが、実際は歴史を見ると迫害しています。献金を強要したり、世俗に塗れている信徒や、信徒を虐待、性犯罪する偽教師が度々出てきます。また、皆、解釈がバラバラで大きく違います。よって、信仰に入って全員が受けるわけではありません。<br><br>■聖霊を受けたのか、兄弟に直接聞くことについては、繊細なことですから難しい面もあるかもしれません。例えば「信仰に入った時に聖霊を受けましたか」「いつ受けたか分かりますか」「はっきりと受けましたか」と聞くと、機嫌を悪くする人もいるでしょう。<br><br>なお、この質問だけでは完全には見分けられない場合があります。証などの体験談を鵜呑みにするのは危険です。それから現時点で聖霊を受けていなくても、必ずしも偽物の兄弟とは限りません。<br><br>注意が必要なのは、現時点で受けていないからといって、受けた人たちに嫉妬などの負の感情を抱いてはいけません。カインのように転げ落ちる事になりかねません。<br><br>どちらにしても、下記の見分け方が重要になります。</p><blockquote class="seiku"><p>良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。<br>(マタイ7:18-20 口語訳)</p></blockquote><p>上記は偽預言者の見分け方ですが、偽教師、信徒も同様です。<br><br>他者の粗探しばかりして見分けるのがうまくなっても、その人物・教会の悪さは見つけられますが、結局「自分はどうなのか」が大事です。[マタイ23:25-28]</p><div id="5">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>5. 条件は心から神に従うこと</h2><p>下記では条件が書かれています。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。<br>(使徒行伝5:32 口語訳)</p></blockquote><p>上記、使徒行伝のペトロの発言ですが、信じるだけではなく「神に従う者に賜わる」とあります。ヨハネ7:37-39の聖句を見て「信じれば無条件に与えられる」と考えるかもしれませんが、そういうことではありません。「主を信じます」「神に従います」と口では簡単ですが、ペトロたちのような「素直さ・忠誠心・信仰心のあつさ」等が重要になりそうです。<br><br>下記により、人によって時間はかかるかもしれませんが、熱心に悔い改められれば聖霊を授かれます。扉を開けるのは自分だからです。</p><blockquote class="seiku"><p>すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、<span class="bgy">熱心になって悔い改めなさい</span>。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは<span class="sen0">その中にはいって</span>彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。<br>(ヨハネ黙示録3:19-20 口語訳)</p></blockquote><p>上記の「その中にはいって」と下記の「その人のところに行って、その人と一緒に住む」は同じ意味です。</p><blockquote class="seiku"><p>イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちは<span class="sen0">その人のところに行って、その人と一緒に住む</span>であろう。<br>(ヨハネ14:23 口語訳)</p></blockquote><p>これらは比喩ですが、聖霊がその人に入るという意味です。<br><br>聖霊が降り、一緒に住むことで、主と一つになったと分かります。冒頭「はじめに」で同様のことを書きました。「一つになる」というのは「結婚」の意味でもあります。そして主を「知る」という意味でもあります。創世記2:24「妻と結び合い、一体となる」、4:1「アダムが妻エバを知った」というのが同じ比喩表現になります。<br><br>信仰に入ったからそれで「主を知った」「一つになった」というわけではありません。聖霊を受けて、一つになり知るのです。「聖霊を知っていますか」と聞かれて「知っている」と答えられても、知識として知っているだけであれば真の意味で知っているとまでは言えません。<br><br>■さて、上記3:19では「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする」とありましたが、ヨブのような感じでしょうか。懲らしめがないのは愛されていないことになるため、あるだけありがたい事ですが、それでも懲らしめを無視し続けてはいけません。</p><p>&nbsp;</p><p>一部分のみ悔い改めたとしても、まだ他に改めなければならないことは多々あるものですので、現状で満足していると聖霊は授かれないかもしれません。</p><div id="6">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>6. 水の洗礼について</h2><p>水の洗礼は、冒頭の使徒10:44の続き下記47節で洗礼していない場合でも、聖霊を受けています。これも当時から現代にかけて同様のため「水の洗礼を受けなければ聖霊が与えられることはない」と言い切るのは間違いです。</p><blockquote class="seiku"><p>「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。<br>(使徒行伝10:47 口語訳)</p></blockquote><p><br>次に下記をご覧ください。</p><blockquote class="seiku"><p>すると、ペテロが答えた、「<span class="bgy">悔い改めなさい</span>。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。<br>(使徒行伝2:38 口語訳)</p></blockquote><p>上記は「イエス・キリストの名」のみになっています。記載を省いたのか分かりませんが、水の洗礼のことでしょう[マタイ28:19,使徒8:16,19:5を参考]。</p><p>&nbsp;</p><p>水の洗礼を受けるとキリスト者に「無条件に聖霊が与えられる」と思うかもしれません。ですが初めに「悔い改めなさい」とありますし、福音書全体の主の教えを鑑みると「生半可な悔い改めだと与えられない」と捉えるのが妥当ではないでしょうか。先の黙示録3:19で「熱心になって悔い改めなさい」と言っておられました。言われた彼らは既に水の洗礼は受けていたはずです。<br><br>「水の洗礼を受けると同時に聖霊を受けている」と考えると、一時的には安心できるかもしれません。ですがそういった大衆受けする心地良い教えは警戒が必要です。先の題3.と似ています。<br><br>前述のマタイ7:21-23の人たちが、水の洗礼を受けていなかったとは考えにくいです。前述のヨハネの手紙一2:19の「出て行った」人たちも信仰に入って水の洗礼を受けていたはずです。ヨハネの手紙三のディオトレフェスとの不和も同様です。使徒8:18のシモンや、イスカリオテのユダも水の洗礼は受けていたでしょう[使徒8:13,ヨハネ4:2]。よって、水の洗礼と同時に聖霊を受けているとするのは希望的観測で危険です。<br><br>■使徒18:25のアポロに関しては「霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」とあります。聖霊のバプテスマを知らなかったわけですが、これは使徒19:3と同じく聖霊を受け取っていなかったという見方もあります。「霊に燃えて」というのが「自分の霊」とする解釈です。<br><br>しかし、聖霊のバプテスマを知識として知らなくても、実は聖霊を受けていたという事はあり得ます。なぜなら、伝道者により主イェシュアを信じた時に聖霊がはっきり降ったとしても、伝道者を含め本人や周りが誰も聖霊について知らなければ、その事が「聖霊のバプテスマ」だと直ぐには理解できません。<br><br>■さて、水の洗礼で安心するのは危険ですが、ある時期を境に「聖書が分かるようになってきた」という理由による、<span class="red">独断の認定も危険</span>です。点と点が線に繋がり一気に理解が深まるのは勉強でよくある事です。「ひらめき」や「アハ体験」とも言えますが、熱心に聖書を読めば、ほぼ全員がそうなります。</p><p>&nbsp;</p><p>鳥肌が立って、無敵になったような感覚になる事もあるでしょう。これは知識を得たのであり、聖霊を受けるとは別の話です。また、解が間違っていても起こり得ます。実験で、被験者が間違ったパズル解答や誤った仮説を思いついた時にも「被験者の主観的アハ体験強度に差はない」と報告が複数あります。直感でも間違う時がありますよね。アハ体験は強烈なため、この高揚感からくる主観の「聖霊を受けた確信」が一番危険かもしれません。<br><br>「受け取ったと信じている」であれば、それは主を信じること（信仰）とは別です。「聖霊が与えられる」という約束については信じるべきですが、「与えられたと信じなさい」とは言っておられません。※マタイ21:22で「祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられる」とあるため、祈り信じ求めることは重要です。<br><br>■聖霊を受けていないなら受けていないとし「いったい自分に何が足りていないのだろうか」と冷静に考えて突き詰め、また改め続けましょう。求め続けましょう。死ぬ最後の瞬間まで諦めてはなりません。逃げに走ってもいけません。何か不思議な事が起こった時に「聖霊のバプテスマ」だと都合よく結びつけないように気をつけましょう。また体験重視になり極端な方へ傾くのは避けましょう。</p><p>※体験重視は極端、体験軽視も極端。<br><br>&nbsp;</p><h3 style="margin:0px 0;font-weight:bold;text-align:center"><span style="display:block;padding:16px 12px;font-size:21px;background-color:#e5edf9;border-radius:2px">一旦休憩</span></h3><p><span style="display:block;padding:15px 4px;margin-top: -8px;font-size:16px;background-color:#e5edf9;padding:8px;border-radius:2px">書いてあることを基に、そのまま曲げずに述べてきました。まずは、受けていない場合は受けていない認識をすることが大事なため、このような直球の記事になっています。童話「裸の王様」のように、着ていないのに着ていると思っていたら話は進みません。受けていないと認識できた場合は、残念に思うかもしれませんが、前に進む準備はできたと言えます。これから受ければ問題ありません。そのためにどうすれば良いか、よく考え行動に移しましょう。警告のため分かりやすくしましたが、これでつまずく事がないようにしてください。この記事は、信仰を弱める目的ではなく注意喚起ですので、もし「自分は絶対に聖霊を受けている」と確信があり譲れない場合、間違っていなければ問題ないため、各自の判断に委ねられます。<br><br>聖書に書いていませんが「現代人の霊性が低く、ほとんどの人は聖霊を受けても認識できない」という事があり得るかというと、それに関しては言及を控えますが、賭けであるため期待し過ぎず、熱心に改め続けていきましょう。<br><br>休憩になっていなかったかもしれませんが、まだしばらく刺激は続きます。</span></p><div id="7">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>7. 火の洗礼について</h2><blockquote class="seiku"><p>わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と<span class="red">火</span>とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。<br>(マタイ3:11-12 口語訳)</p></blockquote><p>火の洗礼の描写は聖書にありません。使徒2:3で「火の舌のように分かれた」とは出てきます。「バプティゾー」には「洗う,沈める,浸す」の意味もあるため、「水で浸す、聖霊で浸す、火で浸す」と言い換えられます。</p><p>&nbsp;</p><p>洗礼者ヨハネが上記で言った「聖霊」と「火」の二つを同じものとする解釈がありますが、「箕を手に持って、火で焼き捨てる」とありますので、そのまま解釈するなら<b style="font-weight:bold;">「聖霊が良い意味での洗浄、火が悪い意味で裁きの洗浄」</b>となります。</p><p>下記八つも参照。</p><blockquote class="seiku"><p>斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、<span class="red">火</span>の中に投げ込まれるのだ。<br>(マタイ3:10 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>良い実を結ばない木はことごとく切られて、<span class="red">火</span>の中に投げ込まれる。<br>(マタイ7:19 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>だから、毒麦が集められて<span class="red">火</span>で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。<br>(マタイ13:40 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>炉の<span class="red">火</span>に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。<br>(マタイ13:42 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そして炉の<span class="red">火</span>に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。<br>(マタイ13:50 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>見よ、主は<span class="red">火</span>の中にあらわれて来られる。その車はつむじ風のようだ。激しい怒りをもってその憤りをもらし、<span class="red">火</span>の炎をもって責められる。主は<span class="red">火</span>をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる。主に殺される者は多い」。<br>(イザヤ66:15-16 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その<span class="red">火</span>は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。<br>(イザヤ66:24 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、<span class="red">火</span>と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。<br>(ヨハネの黙示録21:8 口語訳)</p></blockquote><p><br>食物規定の記事で別角度から触れましたが、ノアの洪水が水の洗礼の「型」として、主イェシュアが来られる火の裁きが火の洗礼というようにも見れます。下記参照。</p><blockquote class="seiku"><p>人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。<br>(マタイ24:37-42 口語訳)</p></blockquote><p>ただし、ノアとモーセの時は、水に浸かるではなく水を通って助かっている事もあり、「火を通る」という事であれば、必ずしも悪い意味のみとは限りません。<br><br>ある人は「主イェシュアの直々の火の裁きで燃やされ」ある人は「キリスト者として生きている内に火をくぐり、死の裁きから逃れられる」という感じです。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を<span class="red">火</span>の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。<br>(ゼカリヤ13:8-9 口語訳) ※原語[×生き残る ◯残る]</p></blockquote><p>マラキ3:2-3にも上記と似たことが書かれています。火は焼却で灰にすると同時に、不純物を取り除いて価値ある物を僅かに取り分ける事もできますね。他には、ダニエル書3:16-18の三人が、火の炉に投げ込まれたのに助かった話も少し関連があります。火の洗礼が悪い意味だけとは限らず、両義的に二つの意味でも考えられそうです。</p><p>&nbsp;</p><fieldset style="padding:4px 15px 12px;border:1px solid #778899;margin:0 0 10px 0;border-radius:2px;"><legend align="left"><span style="padding:20px 0;font-size:1.08em;margin:0 3px 0"><b>余談</b></span></legend>仏教などで「火渡り」の儀式がありますが、これは聖書の教えではありません。</fieldset><p>&nbsp;</p><p>さて、既出のマタイ25:1-13の「十人の乙女のたとえ」は、火も一応、入っています。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。<br>(マタイ25:3-4 口語訳)</p></blockquote><p>「油」は聖書的に見て聖霊のことですが「あかり」は、原語で「λαμπάδας→lampadas→ランプ」で、日本語訳では「灯し火」と訳されることが多いです。</p><p>&nbsp;</p><p>上記の前半部分を原文どおり訳すと「自分の灯りは持っていたが、自分の油は持っていなかった。」となります。冗長だからか「自分の」が二回省かれています。灯りも油も自分のを持っていないと問題です。<br><br>「自分の」を用意していなかったのですから字義どおりですと、信徒一人一人の個別責任の意味合いがあります。主が来られる時は、油を持っている人たちの隣にいても、その人たちの灯りでは一緒に歩めないということになります。油が無ければ、火は消えます。直前のマタイ24:40-41のたとえ「ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される」にも繋がります。<br><br>■集会では油を持っている人たちがいれば、集会全体が主の栄光で照らされます。そこに燭台が置かれ、そこに主がおられるからです[マタイ18:20]。燭台とはメノーラー🕎のことです[出エジプト25:31,ゼカリヤ4:2-3]。黙示録1:20では「燭台＝教会」。ただ、燭台とランプは別です。ランプ（灯り）を「教会」とする解釈もありますが、どうでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>聖書に照らし合わせるなら、十人の乙女のランプは「ともしび皿」と考えられます。[出エジプト25:37]</p><p>日本語訳では「נִיר(ネル)→ともしび皿」と訳されますが、英語では「lamp=ランプ」であり油を入れる器のことです（メノーラーも油は入る）。メノーラーは台座があり、持ち歩く物ではありません。また、重さもあるため、乙女が各自用意して持ち歩く物ではありません。[純金製の物では重さ一タラント=約34kg：出エジプト37:24参照]</p><p>一方、ともしび皿であれば、手軽に持ち歩けてすぐ火が消えてしまうため、たとえの比喩表現と合っています。とはいえどの道、教会とは違う、油の供給源が必要です。では、油の供給源はどこで、どこに用意しなければならないのか、考えてみましょう。<br><br>■五人の思慮深い乙女が油の入った容器を用意していたのは、「自分の体が器」と考えられます。つまり聖霊を受けているか（＝準備できているか）どうかです。論理的に考えれば、聖霊を受けていなければ、受けていないのだから、油の準備はできていません。</p><p>&nbsp;</p><p>「空気のように毎日少しずつ吸っていていつのまにか聖霊を受けている」と捉えている人は多いかもしれません。ですが、聖書にそのようなことは書いていません。また、それであれば、どうやって受けたと分かるのか疑問が出てきます。「受けた」ではなく「受けたと思っている」状態が危険なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>続きの25:13では「だから、目をさましていなさい」とあるため、それが主旨ですが、聖霊の準備も同等の意味で重要です。だから、受けていると思っているだけでは問題であり、主が来られた時にはっきり分かっても遅いのです。<br><br>■他には、「ランプ（あかり）」を「信仰」や「神の御言葉」とする比喩的解釈もありますが、心に火を灯すという意味では火の洗礼として完全な間違いとまでは言えません。その場合、神の御言葉を聞き入れていても「理解はしていなかった,目覚めていなかった,聖霊を受けず主と一つになっていなかった」という感じになります。</p><p>そうすると、マタイ25:12で「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と痛烈な言葉になっているのに繋がります。先に記載したマタイ7:23とほぼ同じ御言葉であり、多くの者が「知らない」と言われてしまうようです。初めに25:1で「天の国」のたとえとして出されていることに留意です。<br><br>上述により、<span class="red">灯り、火の洗礼云々はともかく、聖霊を授かることが重要です。</span>油断は禁物です。</p><div id="8">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>8. 聖霊の満たし・賜物について</h2><p><span style="font-size:1.2em;">◆</span>「聖霊の満たし」は新約聖書でルカのみが好んで使う言葉です[ルカ福音書1:15,1:41,1:67,4:1,使徒2:4,4:8,4:31,6:5,7:55,9:17,11:24,13:9,13:52]。<br>エフェソ5:18で「御霊の満たし」、出エジプト28:3で「知恵の霊を満たし」、31:3,35:31で「神の霊を満たし」、申命記34:9で「知恵の霊の満たし」は出てきます。黙示録1:10では「霊に満たされ」と訳されることがありますが、原語の直訳だと「霊の内にいた」となります。<br><br>例えば、讃美歌を歌い感動して「聖霊に満たされた」、全力で祈って心や体が熱くなり興奮したから「聖霊に満たされた」、急に涙が出てきて感動したから「聖霊に満たされた」等の使い方は危険です。それをもって「聖霊を感じた」「聖霊を受けた」とするのも同様です。<b>感情を基準にすると見誤ります。</b><br><br>ヨハネ7:38の「腹から生ける水が川となって流れ出る」は聖霊の満たしに含まれると言えそうです。なお新共同訳では「内から」新改訳では「心の奥底」の訳ですが、原語の意味は「腹」です。</p><p>ただし「お腹周りが熱くなった」として「聖霊に満たされた=受けた」とするのは危険です。感動するとお腹周りは熱くなり、胸焼け、胃腸の炎症、胃腸の消化が活発になるなど他、体の様々な箇所で熱くなる生理現象があります。<br><br><br><span style="font-size:1.2em;">◆</span>「聖霊の賜物」についてはよく耳にしますが、福音書に「聖霊の賜物」は出てきません。「賜物」は特にパウロとルカが好んで使う言葉です。<br><br>福音書内では唯一、ヨハネ4:10に「賜物（贈りもの）」として「δωρεὰν」が出てきます[他は、使徒2:38,8:20,10:45,11:17,ローマ5:15,5:17,コリント第二9:15,エフェソ3:7,4:7,ヘブライ6:4]。※同種の言葉で「δώρημα」がヤコブ1:17で一度使用。<br><br>上記「δωρεὰν」以外に「χάρισμα：カリスマ→賜物」もよく使います[ローマ1:11,5:15,5:16,6:23,11:29,12:6,コリント第一1:7,7:7,12:4,12:9,12:28,12:30,12:31,コリント第二1:11]。<br>他に、口語訳,新共同訳,協会共同訳,新改訳,岩波訳などは、コリント第一12:1,14:1,14:12で「賜物」と出てきますが、これはTR底本にはありません。<br><br>神の御霊、聖霊が「賜物=Gift=贈りもの」であり、授かる事により、知恵・悟り・知識・勇気などを授かります[イザヤ11:2]。<br>&nbsp;</p><p>独身だから「独身の賜物=聖霊を受けた」といった使い方は極めて危険です。それから「何か声を聞いた」としても、まずその前に聖霊を受けていないと順番が不自然なため、「声が聞こえた=聖霊を受けた」事にするのも、危険です。必ずしも悪霊とは限らないかもしれませんが、統合失調症や幻覚・幻聴もあるため、慎重に判断しなければなりません。<br><br>さて「聖霊の満たし」と同様に、何か不思議な事が起こった時に「聖霊の賜物を受け取った」として、それにより「聖霊も受け取った」とするのを耳にした事があると思います。<br>四つ例を挙げます。</p><div style="padding:4px;border:1px solid #778899;margin:5px 0;border-radius:2px;"><b>(1)主を見た、声を聞いた。<br>(2)口から意味不明な羅列が出た。<br>(3)悪霊を追い出せた。<br>(4)病気を癒せた（癒された）。</b></div><p>上記(1)は先ほど同様の事を書きました。使徒26:13-18,コリント第一15:7,コリント第二12:1-4で言っている事とほぼ同じですが、彼の場合、聖霊が降ったとは書かれていません。また、信仰に入る前に起こった出来事です。<br><br>(2)は次項9.で説明します。<br><br>(3)はマタイ7:21-23により、奇跡や悪霊の追い出しができる事と、天の御国に入れる事とは関係ない旨を主は言われています。例えば「信仰に入って数年後のある日、悪霊に取り憑かれている人を見つけ主の御名で悪霊の追い出しをした」とします。そして成功したとします。では聖霊はこの時に授かったのかというと、何か違います。ではいつの間にか授かっていたのかというと、自分でもいつ授かったのか分からないというのは、やはり変です。そうなると、悪霊を追い出した事が聖霊を受け取った根拠になってしまい、危険です。</p><p>マルコ9:38-39では、きちんと信仰に入っていなさそうな人でも、主の御名で悪霊の追い出し、力あるわざ（奇跡か）が行えるとあります。未だ主イェシュアが天に上っておられない時の話であり、聖霊は降っていません。<br><br>(4)も(3)と同様ですが、例えば使徒など兄弟からの癒しで病が治ったとします。ですが癒された人物がそれで聖霊を受けた事になっているかというと違います。では誰か人からではなく、祈っていて癌が小さくなったり、病気が治ったとします。「癒されたのだから神様に愛されているから聖霊を受けているはず」と考えたくなるところですが、いつどこで聖霊が降ったのか自分でも分からないというのは、やはり危険です。</p><p>それを理解しているから、異言を練習する人が出てきてしまうのかもしれません。「真理の御霊を欲する」ではなく<b>「聖霊を受けた証を欲する」であれば本末転倒</b>です。<br><br>主は「聖霊を受けなさい」とは言われましたが、「聖霊の賜物を受けなさい」とは言っておられません。何か能力を得たり奇跡が起きた事と、聖霊が降る事は別で考えないと危険です。[マタイ7:21-23 ※既出]</p><p>&nbsp;</p><fieldset style="padding:4px 15px 12px;border:1px solid #778899;margin:0;border-radius:2px;"><legend align="left"><span style="padding:0 2px;font-size:1.08em;margin:0 3px 0"><b>余談</b></span></legend><p>■「<span class="sen0">聖霊の働き</span>」もよく聞きますが聖書には出てきません。聖霊の働きはありますが、乱用されがちな言葉です。<br>■「<span class="sen0">聖霊の内住</span>」「<span class="sen0">聖霊の内在</span>」等も同様です。聖書的には、先に聖霊を受けていなければ聖霊の内在はありません。<br>■「<span class="sen0">聖化</span>」も同様ではありますが、受けていなくても清くしていくこと自体は良いことです。</p></fieldset><div id="9">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>9. 異言について</h2><p>聖霊を受けた証として、異言が流行しています。またその異言が「異言=意味不明の羅列」となっているようです。※(偽)異言の実演が後述にあり。<br><br>正しくは聖霊を求めるのであり、異言を求めるのではありません。<br>冒頭の使徒2:4-6では「<span class="sen0">他国の言葉で語り出した</span>」とあります。下記も参照。</p><blockquote class="seiku"><p>ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々が<span class="sen0">わたしたちの国語</span>で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。<br>(使徒行伝2:11 口語訳)</p></blockquote><p>上記、使徒行伝によると聖霊を受けた時に発現していますが、「母国語以外の習った事がない他国の言語」という意味で使われています。「異言」の「言」は、ギリシャ語原語で「γλῶσσα：グロッサ→舌,言語,言葉」等の意味です。前に「ἑτέραις→other→別の,他の」がかかっているので、やはり外国語です。「異言」と名詞化で呼ばれるこの名称が、混乱を招いていると思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>10:46も同じ単語が使われていますが「ἑτέραις」は省略したのか無く、外国語でしょうか。同節46で、神を賛美（外国語か）したと書いてあり、次節47で「私たちと同じように聖霊を受けた」とペトロの発言としてあります。ですから、もしこの箇所が意味不明な異言を発していたとしたら、ペトロは困惑したはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>ここからは<b>「外国語の異言」</b>と区別するため<b>「意味不明の異言」</b>と言います。<br><br>2:4では「御霊が語らせるままに」とあり、2:13-15によると外部からは酔っているように見られています。単純に色んな言語で語っているからそのように見えたのでしょうか。一番分かりやすいのは、預言状態（変性意識状態）に近かったとする解釈です。もし、そうであれば「他国の言語を習得した」というより、単発の出来事でしょう。なぜなら、外国人と他国語で会話を交わす都度、その状態になるのは何か違うでしょうから。<br><br>さて、イザヤ書で「主は異国のくちびる（もつれた舌：新改訳）と、異国の舌とをもってこの民に語られる」とあり、出来事として一致します。下記、七十人訳と共に記載。</p><blockquote class="seiku"><p>否、むしろ主は異国のくちびると、異国の舌とをもってこの民に語られる。主はさきに彼らに言われた、「これが安息だ、疲れた者に安息を与えよ。これが休息だ」と。<span class="bgy">しかし彼らは聞こうとはしなかった。</span><br>(イザヤ28:11-12 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>彼らは、この民に、悪口の唇と異国の舌でこう言うであろう。「これは飢えた者の安息であり、これは滅びである」。<span class="bgy">しかし、彼らは聞こうとしない。</span><br>(イザヤ28:11-12 七十人訳_機械翻訳)</p></blockquote><p>下記コリント第一では上記聖句を引用しています。</p><blockquote class="seiku"><p>律法にこう書いてある、「わたしは、異国の舌と異国のくちびるとで、この民に語るが、<span class="bgy">それでも、彼らはわたしに耳を傾けない</span>、と主が仰せになる」。<br>(コリント第一14:21 口語訳)</p></blockquote><p>イザヤ書と比べると少し訳が違いますが、パウロはおそらく七十人訳から引用しています。そして重要な部分は省略しています。その省略部分は「これが安息だ、疲れた者に安息を与えよ。これが休息だ」と語られた箇所です。この箇所が異国の唇・異国の舌で語られたのであり、意味不明の異言ではありません。もし意味不明の異言であれば、上記の<span class="bgy">「彼らは聞こうとしない」</span>のは当然です。なぜなら、意味不明であれば聞いても意味がないですから。引用自体と省略するのが適切なのか、疑問は出ますが流します。<br><br>ちなみに彼が聖句を引用した理由は、コリント教会で流行していた意味不明の異言の乱立を治めるためと思われます。なぜなら続き14:22で「したがって、異言は信じていない者のためのしるしである」、23節で「だからもし、教会に集まって皆が異言を語っている時に未信者が来たら、気が狂っていると思われないだろうか」とあります。</p><p>※前に述べた事柄を補足する接続詞あり。原文にもあり。<br><br>「異言は信じていない者のためのしるし」とのことで、確かに使徒2:16以降の説明によると、外国語の異言が発現したのは「他者向け」です。ですが「気が狂っていると思われる」様に見える<span class="red">意味不明の異言であれば、真逆の効果</span>です。<br><br>それから下記では主イェシュアが予め忠告されていました。</p><blockquote class="seiku"><p>また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。<br>(マタイ6:7 口語訳)</p></blockquote><p>上記「くどくど祈るな」は新改訳では「同じことばをただ繰り返してはいけません」ですが、原語「βατταλογήσητε」は「無駄な言葉の繰り返し」などの意味もあるようです。異邦人（異教）でそういう祈りが当時からあったということですね。<br>&nbsp;</p><p>当時、コリント教会は異教の習慣が多く入り込んでいたようですので、忠告に当てはまっています。長く祈れるようになったからと喜ぶのは危険です。※仏教では「ナム」系で、修行なしに多くの人が半時間〜数時間以上、唱えている。<br><br>マタイ10:19-20の「父の霊」が語るのも、当然、意味が理解できる言語です。仮に神様にのみ分かる言語があったとしても、全ての言語を理解できる御方のため、一人で祈る（賛美）時にわざわざ当人が理解できないことを、御霊が語らせる意味があるとは思えません。<br>&nbsp;</p><p>■そもそも祈り方は、マタイ6:5-13にはっきりと書かれてあります。もし仮に、神・天使の言語があるとしたら、それはアダムに教えられた言語ではないでしょうか（ヘブライ語か）。</p><p>&nbsp;</p><p>それから、<b style="font-weight:bold;">聖書内に主イェシュアが意味不明の異言を語った箇所はありません。</b>主は「言葉」を大切にされる御方です。<br><br>コリント第一13:1で「御使いの異言」や、12:10で「解き明かせる賜物」とありますが、彼の言っていることを真に受けてはいけません。解き明かすのであれば、言語学の専門家であれば、言語として成立しているか解明できます。素人から見ても、明らかに言語として成立していないのが分かるものも見られます。それに皆、意味不明の言語としての種類が違い過ぎます。「御使いの言語」にも何十ヶ国語があることになってしまいます。※あるいは何億ヶ国語。<br><br>それと、解き明かせる人がほぼいないようですが、割合がおかしいと思われます。<br><br>「意味不明の異言の賜物」「解き明かす賜物」があるなら、それは「霊」ですから録音するなどして、本物か確かめた方が良いです。冒涜でも失礼でもありません。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。<br>(ヨハネの手紙一4:1 口語訳)</p></blockquote><p><br>■ところで、<a href="https://www.youtube.com/watch?v=PHHPl5Yuycc" rel="noopener noreferrer" target="_blank">(偽)異言をやってみました。コチラ。</a>※技術向上の貢献にならないよう、あえて英語寄り。<br>「異言」で思い出したのですが、未信仰だった子供の頃に、デタラメ言語で遊んだ事があります。その時に第一声で習得しましたが、少し器用な人であれば練習しなくてもできます。延々とできます。難易度は、小学生がする鉄棒の逆上がり程度でしょうか。できない子は中々できません。</p><p>&nbsp;</p><p>異言を練習しても全然できない人がいるようですが、むしろそれは良かったです。不器用な人は「ラララ」「バラバラ」「シャバダバ」など初めは単純で、滑らかではないはずです。なお、御霊は赤子ではないため、練習をしなくても初めから上手く喋れます[使徒2:4]。<br><br>仮に、上記の子供の頃に信仰に入っている状況で、大人に勧められ第一声でできたら、異言だと信じて普通に騙されたかもしれません。有名な人・高学歴の人・親切そうな人が、真面目に熱く語るのを見ると、信じてしまいがちです。本人が嘘を付いているつもりのない場合、ある意味、偽りではないため注意が必要です。<br><br>聖霊ではなく異言が信仰の拠り所とならないよう、気をつけましょう。拠り所を間違えると倒れ方がひどい事になります。[マタイ7:27]</p><div id="10">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>10. 聖霊を受ける前に</h2><p>聖霊を受ける準備、と書くと安っぽくなりますが、最低限はあると考えられます。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。<br>(ヨハネ14:17 口語訳)</p></blockquote><p>上記「見ようとも」は、原語で「θεωρεῖ：見る（視覚的に）」の意味です。稀に「知覚する」の意味で使われますが、次に「知ろうともしない」とあり、原語で「γινώσκει：知る,認識する,知覚する」のため、前者は「見る」で正解です。<br><br>「真理の霊」ですから「現実を見ようとしない」「真実を知ろうともしない」のも当てはまります。現状を客観的に見て、現実を直視することが重要です。<span class="red">自分にとって不都合であったとしても。</span></p><p><br>ではここで、単純なたとえを見てみます。</p><fieldset style="margin:10px 0 20px 0;padding:4px 15px 12px;border:1px solid #778899;border-radius:2px;"><legend align="left"><span style="padding:0 2px;font-size:1.08em;margin:0 3px 0"><b>たとえ</b></span></legend><p>ある時、雨が降ってきた。雨が降っているのをはっきり見て、そして雨に打たれたのであれば、間違いなく雨は降ったのである。もし雨が降っていなければ降っていない。降っていなければ道に水溜りがいくつかあったとしても降っていない。しかし、しばらく旅に出ている間に降ったと思い込むことはできてしまう。</p></fieldset><p>現実的なたとえです。「自分は聖霊を受けているはず」や「自分が聖霊を受けていないわけがない」とするのは、希望的観測になるため気をつけましょう。自己認定は危険です。聖書を沢山学んだ人ほど、または教会に頑張って足を運んだり、牧師など説教を頑張った人ほど、そう思う傾向があるはずです。それらは、ファリサイ派の方が本業としてもっと頑張っていたかもしれません。<br><br>「もしかして自分は受けていないのでは」と考えること自体が不信仰な気がしてしまうかもしれませんが、逆です。受けていないのであれば、そう考えるのが誠実な態度です。幻想・虚構はいけません。立ち止まり誠実に向き合った瞬間に、方向転換して前へ進めるものです。<br>&nbsp;</p><p>さて、先ほどの聖句では「世は」とありましたが、信仰歴が何十年あるからといって、世に属していないとは限りません。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。<br>(ヨハネの手紙一2:15-16 口語訳)</p></blockquote><p>「世俗的な生活をしている・世俗的な心を持っている・または世を愛している」場合は、世に属しているかもしれません。山に篭ったり、世捨て人や、浮世離れしていて、世に属していなさそうだからといって、それで聖霊が与えられるとも限りません。まだ悔い改めが中途半端で、「初めから間違った教えを受けていたり、怠惰、嫉妬、自惚れ、傲慢、怨念、悪い欲などが強く残っていたりする場合」は、まだ受け入れる準備ができていないかもしれません。<br>&nbsp;</p><p>そういうことはキリスト者に関係なく改善、成長できることですよね。<br><br><br>■次に、冒頭の使徒10:44のコルネリウスたちを参考に見てみます。彼ら異邦人に直ぐ聖霊が降ったと書かれているからといって、軽く考えてはいけません。使徒10:2によると、彼らは「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、また絶えず神に祈っている」とあります。選ばれるべくして選ばれている人たちです。<br>&nbsp;</p><p>10:22では「すべてのユダヤ人から評判の良い人」とまであります。おそらく「神を畏れる異邦人」と呼ばれた人たちで、律法の何らかの戒めの数々を守っています。24節で「親族や親しい友人を呼び集めて」とありますので、コルネリウス一家と彼らに与えられたと思われます。集まった親族と親友もコルネリウス程ではないとしても、既に信仰心のあつい人たちだったはずです。そうでないと、その場で話を聞いてすぐに主を信じることはないでしょうから。</p><p>※10:7では上記に含まれていないと思われる側近の部下も「信仰心のあつい人」と記載。<br><br>通常、親族や親友を集め伝道したとして、その場で主を信じる人はほぼいません。使徒ペトロの説教の影響があったとしても。（使徒16:31-34の話は少し違います）<br><br>■他の聖霊を受けた話も、同様に考えられます。<span class="red">「目立つ人たち、目立った話」だから、掲載された</span>と見るのが妥当です。使徒行伝の著者の立場になって考えてみれば分かります。「目立つ話、載せたい話」を優先的に採用するはずです。福音書も同じで、特別に信仰心のあつい話、不信仰な話、特別な出来事の話が出てきます。聖書に限らず、古代史でも象徴的・代表的な場面が取り上げられるものです。<br><br>したがって、あたかも皆が信仰に入って簡単に聖霊を受けているように見えてしまいますが、<span class="red">錯覚</span>です。その勘違いは油断に繋がり、信仰の熱心さに影響します。このような錯覚は至るところにあり、焦点が定まっていなければ、真理の霊は見えないかもしれません。<br><br><br>前編はここまでです。次の記事で、どうすれば受けられるのか、具体的に見ていきます。<br>&nbsp;<br>&nbsp;<br><a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12975057285.html" rel="noopener noreferrer">&gt;&gt;後編記事へ進む</a></p><div><style type="text/css">.seiku2{  background:#99aabb;  height:1px;  margin:12px 11px 12px 5px;}blockquote.seiku {  border:1px solid #99aabb;  background:#ebeef2c2;  margin:0 auto 4px;  padding:12px 10px 12px 12px;  border-radius:5px;  quotes:none;}blockquote.seiku::before, blockquote.seiku::after {  content:none;}.seiku p {  line-height:1.6;}h2{color:#223344}h2.koumoku {display:flex;font-size:20px;margin:8px 0;margin-left: -7px}.koumoku2 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<pubDate>Thu, 06 Aug 2026 21:39:48 +0900</pubDate>
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<title>パウロは偽使徒か【完全版】（後編）</title>
<description>
<![CDATA[ <div><img alt="" height="405" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260730/16/genshi7/30/08/j/o1280072015807473116.jpg" width="720"></div><div class="sp">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><nav aria-label="目次"><details class="mo" open><summary>目次</summary><p><a href="#16">⑯パウロは何度も呪った</a></p><p><a href="#17">⑰パウロは使徒たちに対抗心があった</a></p><p><a href="#18">⑱パウロは誇りだらけだった</a></p><p><a href="#19">⑲自分にならう者にさせようとした</a></p><p><a href="#20">⑳パウロは使徒称号に固執していた</a></p><p><a href="#21">㉑パウロ神学のレトリック</a></p><p><a href="#22">㉒「信仰による義」の間違い</a></p><p><a href="#23">㉓女性の被り物の教義を、独自に加えた</a></p><p><a href="#24">㉔他、色々な間違い</a></p><p><a href="#25">㉕黙示録にパウロの土台が無い</a></p><p><a href="#26">㉖パウロは異邦人の使徒ではない</a></p><p><a href="#27">㉗七つの教会がパウロとほぼ無関係</a></p><p><a href="#28">㉘エルサレムからの手紙が現存しない</a></p><p><a href="#29">㉙聖書の信憑性は失われるのか</a></p><div class="mo2"><p><a href="#30">㉚ペトロの手紙二でパウロ擁護の理由</a></p></div></details></nav><div id="16">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑯パウロは何度も呪った</h2><p>次に下記二つを参照。</p><blockquote class="seiku"><p>しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人は<span class="sen0">のろわるべき</span>である。わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人は<span class="sen0">のろわるべき</span>である。<br>(ガラテヤ1:8-9 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>もし主を愛さない者があれば、<span class="sen0">のろわれよ</span>。マラナ・タ（われらの主よ、きたりませ）。<br>(コリント第一16:22 口語訳)</p></blockquote><p>上記のガラテヤ書は、口語訳や新改訳では「呪われるべきである」と柔らかい表現ですが、[新共同訳→呪われよ],[岩波訳→呪いあれ],[欽定訳→let him be accursed→呪われたものとなるように] となっています。新共同訳ではコリント第一の方が「見捨てられるがいい」と意訳ですが、ガラテヤ・コリント第一のどちらも、原語は [ανάθεμα→アナテマ→呪い] です。<br><br>主は「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われ、<b style="font-weight:bold;">呪いは真逆</b>です。</p><blockquote class="seiku"><p>しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。<br>(マタイ5:44 口語訳)</p></blockquote><p>ところが、パウロもローマ12:14では「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。呪ってはならない」と言い、先の発言と矛盾しています。ガラテヤ書とコリント第一は、ローマ書より先に執筆とされています。指摘されたか、正しい教えを後から知り、ローマ書では正しいことを書いたのでしょうか。もしくは「迫害する者を呪ってはいけないが、違う福音を伝える者は呪って良い」と字面どおりの狭い解釈を持っていたのでしょうか。<br><br>■紀元325年の原ニカイア信条の末尾には、呪い（αναθεματίζει）があります。パウロにならってしまったのでしょう。<br><br>■マタイ26:74では、ペトロも呪いの言葉を口にし同時に誓い始めています。擁護するなら、これはおそらく自分を呪う誓いであり、また、この時点ではまだ聖霊を受けていません。それに誓い始めてすぐに鶏が鳴いていますので、呪いと誓いが完了する前に止めています。守られたのでしょう。<br><br>パウロは、呪い方が分かっていても、下記により、祈り方は分かっていませんでした。</p><blockquote class="seiku"><p>御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。<br>(ローマ8:26 口語訳)</p></blockquote><p>祈り方については、下記のマタイ6:5-8で、どうすればよいかを主が詳しく教えておられます。そして次節9節から、周知の「主の祈り」です。</p><div id="17">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑰パウロは使徒たちに対抗心があった</h2><blockquote class="seiku"><p>実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。<br>(コリント第一15:9 口語訳)</p></blockquote><p>上記は一見、謙虚に見えます（使徒ではないですが）。<br><br>下記の二つでは、反対の内容になっています。</p><blockquote class="seiku"><p>事実、わたしは、あの大使徒たちにいささかも劣ってはいないと思う。<br>(コリント第二11:5 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしは愚か者となった。あなたがたが、むりにわたしをそうしてしまったのだ。実際は、あなたがたから推薦されるべきであった。というのは、たといわたしは取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちにはなんら劣るところがないからである。<br>(コリント第二12:11 口語訳)</p></blockquote><p>なお、「大使徒」が偽兄弟に対する皮肉だという解釈もあります。<br><br>下記では、こう述べています。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしたちは、自己推薦をするような人々と自分を同列においたり比較したりはしない。彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである。<br>(コリント第二10:12 口語訳)</p></blockquote><p>先ほど、上記発言の次の章とその次の章で、直後に二回、比べていました。「仲間」ではないので問題ないということでしょうか。<br><br>下記では<b>「彼ら」、すなわち使徒たちの中の「だれよりも多く働いてきた」</b>と、使徒たちと功績を比べています。</p><blockquote class="seiku"><p>しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。<br>(コリント第一15:10 口語訳)</p></blockquote><p>先ほど記載の9節「使徒たちの中でいちばん小さい者」「使徒と呼ばれる値うちのない者」と言っていた直後に、比べて自分を上に置く発言をしたことになります。<br><br>人に言うだけで、自分は行わないのはファリサイ派の特徴です[マタイ23:3参照]。駄目出しばかりになりますが、「神の恵み」と三回付け加えて強調し一見、神に感謝を献げているようで実質できていません。<br><br>■なぜ比べようとするのか、察しが付きます。<br><b style="font-weight:bold;">・</b>パウロは、ファリサイ派で、ローマ市民権を持ち、地位、特権、世俗の名誉があり、多言語を話せて、聖書を含む学問の知識がありました。現代で言う「エリート、上流階級」です。そして、教える側でした。</p><p><b style="font-weight:bold;">・</b>ペトロは、漁師で、田舎のガリラヤ出身の庶民であり、教えを聞く側でした。ですが立場は逆転し、ペトロは主と面識があり、直接教えを受け、権威、名誉、新しい名までも与えられました。<br><br>さて、下記も気になる発言です。</p><blockquote class="seiku"><p>そして、かの「重だった人たち」からは──彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから──事実、かの「重だった人たち」は、わたしに何も加えることをしなかった。<br>(ガラテヤ2:6 口語訳)</p></blockquote><p>&nbsp;</p><p>下記では比べ過ぎたためか、気が狂ったように語っています。</p><blockquote class="seiku"><p>彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル人なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。<br>(コリント第二11:22-23 口語訳)</p></blockquote><p>先の10:12で「比較したりしない」と言っていた直後に、特大級の比較です。他者と比較ばかりしていると、能力などを誇って高慢になったり、実績を自慢したり、逆に落ち込んだり、嫉妬でおかしくなるのは、世の常です。<br><br>下記では、教会内でも比較しています。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。<br>(コリント第一14:18 口語訳)</p></blockquote><p>「神」をみだりに出す癖は直すべきでした。<br><br>以上により、使徒や兄弟たちと張り合っていたのは間違いありません。</p><div id="18">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑱パウロは誇りだらけだった</h2><p>下記二つでは、誇りについて語っています。</p><blockquote class="seiku"><p>それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。<br>(コリント第一1:29 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。<br>(コリント第一9:16 口語訳)</p></blockquote><p>先に挙げたコリント第一13:4や、ほかの手紙でも、誇らないように、高ぶらないように注意しています。<br><br>ですが、色々な誇りがあるようです。</p><blockquote class="seiku"><p>さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇であって、良心のあかしするところである。<br>(コリント第二1:12 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。<br>(フィリピ2:16 口語訳)</p></blockquote><p><br>下記は、9:1以降にある、使徒の自称などを疑われた際の弁明ですが、誇っている本音が出ました。</p><blockquote class="seiku"><p>しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。<br>(コリント第一9:15 口語訳)</p></blockquote><p>「福音宣教で生活費など得なかった・権利を行使しなかった」ことに誇りがあったようです。食糧などを受け取って誇らない方が良かったと思われます。[マタイ10:10参考]<br><br>下記では「ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ」とありますが、持たせては駄目でしょう。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。<br>(コリント第二5:12 口語訳)</p></blockquote><p><br>次に下記を参照。</p><blockquote class="seiku"><p>そして、わたしは彼に対してあなたがたのことを少しく誇ったが、それはわたしの恥にならないですんだ。あなたがたにいっさいのことを真実に語ったように、テトスに対して誇ったことも真実となってきたのである。<br>(コリント第二7:14 口語訳)</p></blockquote><p>以上から察すると、どうやらパウロは自分の功績・実績（教会を築いた事）を誇っているようです。これは行いの誇りになります。先の使徒たちとの功績を比較したり、対抗心を抱くのも頷けます。<br><br>また、下記五つでも似た発言があります。</p><blockquote class="seiku"><p>だから、あなたがたの愛と、また、あなたがたについてわたしたちがいだいている誇とが、真実であることを、諸教会の前で彼らにあかししていただきたい。<br>(コリント第二8:24 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしは、あなたがたの好意を知っており、そのために、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年以来、すでに準備をしているのだと言った。そして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させたのである。<br>(コリント第二9:2 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしが兄弟たちを送ることにしたのは、あなたがたについてわたしたちの誇ったことが、この場合むなしくならないで、わたしが言ったとおり準備していてもらいたいからである。<br>(コリント第二9:3 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>すでにある程度わたしたちを理解してくれているとおり、わたしたちの主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇であるように、わたしたちもあなたがたの誇なのである。<br>(コリント第二1:14 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしはあなたがたを大いに信頼し、大いに誇っている。また、あふれるばかり慰めを受け、あらゆる患難の中にあって喜びに満ちあふれている。<br>(コリント第二7:4 口語訳)</p></blockquote><p>ちなみに人からの栄誉ではなく、神からの栄誉は求めて大丈夫です。[ヨハネ5:41-44]<br><br>以下では別の誇りも沢山あるようです。あり過ぎるため一挙載せます。</p><blockquote class="seiku"><p>たとい、あなたがたを倒すためではなく高めるために主からわたしたちに賜わった権威について、わたしがやや誇りすぎたとしても、恥にはなるまい。<br>(コリント第二10:8 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>しかし、わたしたちは限度をこえて誇るようなことはしない。むしろ、神が割り当てて下さった地域の限度内で誇るにすぎない。わたしはその限度にしたがって、あなたがたの所まで行ったのである。<br>(コリント第二10:13 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしたちは限度をこえて、他人の働きを誇るようなことはしない。ただ、あなたがたの信仰が成長するにつれて、わたしたちの働きの範囲があなたがたの中でますます大きくなることを望んでいる。<br>(コリント第二10:15 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしの内にあるキリストの真実にかけて言う、この誇がアカヤ地方で封じられるようなことは、決してない。<br>(コリント第二11:10 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>しかし、わたしは、現在していることを今後もしていこう。それは、わたしたちと同じように誇りうる立ち場を得ようと機会をねらっている者どもから、その機会を断ち切ってしまうためである。<br>(コリント第二11:12 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>繰り返して言うが、だれも、わたしを愚か者と思わないでほしい。もしそう思うなら、愚か者あつかいにされてもよいから、わたしにも、少し誇らせてほしい。<br>(コリント第二11:16 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきって言うのである。<br>(コリント第二11:17 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。<br>(コリント第二11:18 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。<br>(コリント第二11:30 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。<br>(コリント第二12:1 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。<br>(コリント第二12:5-6 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。<br>(コリント第二12:9 口語訳)</p></blockquote><p>上記12:1からは啓示体験のことで自分を誇っています。6節で「しかし、それはさし控えよう。」と誇るのを控えようとしますが、<span style="color:red">全く控えられていません。</span>ちなみにコロサイ2:18では「彼らは幻を見たことを重んじる」とあります。<br><br>コリント書内だけで「誇」という言葉がここまで出るのは尋常ではありません。主が喜ばれる誇りは下記です。</p><blockquote class="seiku"><p>主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。<br>(エレミヤ9:23-24 口語訳)</p></blockquote><p>コリント第二10:17では「誇る者は主を誇りなさい」と言っており、上記聖句を知っていたようですが、理解はしていなかったようです。その17節前後で主を誇る以外で誇っていて、11:6では知識の自負（誇り）もあります。<br><br>言っていることと心の内が反対です。真似しては駄目です。</p><div id="19">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑲自分にならう者にさせようとした</h2><blockquote class="seiku"><p>わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたも<mark>わたしにならう者になりなさい。</mark><br>(コリント第一11:1 口語訳)</p></blockquote><p>彼ではなくキリストにならう者になりましょう。<br><br>他でも同じことを言っています。</p><blockquote class="seiku"><p>そこで、あなたがたに勧める。<mark>わたしにならう者となりなさい。</mark><br>(コリント第一4:16 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>兄弟たちよ。お願いする。どうか、<mark>わたしのようになってほしい。</mark>わたしも、あなたがたのようになったのだから。あなたがたは、一度もわた<br>しに対して不都合なことをしたことはない。<br>(ガラテヤ4:12 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>兄弟たちよ。どうか、<mark>わたしにならう者となってほしい。</mark>また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。<br>(フィリピ3:17 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p><mark>わたしたちに、どうならうべきであるかは、</mark>あなたがた自身が知っているはずである。あなたがたの所にいた時には、わたしたちは怠惰な生活をしなかったし、<br>(テサロニケ第二3:7 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただ<mark>わたしたちにあなたがたが見習うように</mark>、身をもって模範を示したのである。<br>(テサロニケ第二3:9 口語訳)</p></blockquote><p><br>下記は最初期の手紙ですが、既に雲行きが怪しいようです。</p><blockquote class="seiku"><p>そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、<mark>わたしたちと主とにならう者となり、</mark><br>(テサロニケ第一1:6 口語訳)</p></blockquote><p>エフェソ書5:1のみ「神にならう者になりなさい」とあり、やはり偽書でしょうか。テサロニケ第二も偽書疑惑がありますが、真作として見ると展開が見えてきます。「わたしたちと主とにならう者→わたしたちにならう者→わたしにならう者」と、段階的に範囲が狭くなっています。<br><br>パウロにならうと、彼に似た人となります。</p><div id="20">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑳パウロは使徒称号に固執していた</h2><blockquote class="seiku"><p>わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。<br>(コリント第一9:1-2 口語訳)</p></blockquote><p>どれだけ連呼しても事実は変わりません。使徒の自称を許すと、他にも同じように自称する者が出てきてしまいます。現在「異邦人の使徒」以外にも色々な造語があるようです。「使徒職,使徒性,使徒的」など。<br><br>彼はほとんどの書簡で、使徒と称しています。下記により21回以上。</p><div style="margin:10px 0;padding:5px 5px 5px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><ul class="ulul"><li>ローマ1:1で一回,1:5で一回,11:13で一回</li><li>コリント第一1:1で一回,4:9で一回,9:1で一回,9:2で二回（原文）,15:9で二回</li><li>コリント第二1:1で一回,12:12で一回</li><li>ガラテヤ1:1で一回, ※1:17は今回は除外, ※2:8は原語には無い</li><li>エフェソ1:1で一回</li><li>コロサイ1:1で一回</li><li>テサロニケ第一2:6で一回 (遠回しで微妙)</li><li>テモテ第一1:1で一回,2:7で一回</li><li>テモテ第二1:1で一回,1:11で一回</li><li>テトス1:1で一回</li></ul></div><p>一伝道者として「自称の使徒称号」を使わずに伝道する方法は採用しなかったようです。ちなみにヨハネは書物で一度も名乗っていません。主イェシュアも御自身のことをあまり明かしませんでした。<br><br>初めの挨拶で、「使徒となったパウロから」や「使徒とされたパウロから」とあまりに大胆に何度も自称するので、雰囲気で流されそうですね。<br><br>最初の執筆とされるテサロニケ第一では、未だ完全には「使徒」と自称しておらず（2:6で既に怪しいですが）、ガラテヤ書では挨拶で自称しています。ガラテヤ2:9の本人談によると「右手を交わらせた（δεξιὰς→右手：複数形）」として異邦人の方へ行く事に決まった、つまり「握手」かその類をした事により同意を得た、として<span style="color:red">「異邦人の方へ宣教→異邦人へ遣わされた→異邦人の使徒→使徒」</span>と段階的に名乗るようになったと推測されます。<br><br>仮に、使徒13:2-4により使徒と任命されたとする場合、バルナバも使徒となってしまい更にややこしくなります。<br>&nbsp;</p><p>■さて、偽使徒になりたいと思ってなる人は、案外いないかもしれません。自分のことを「偽使徒・偽教師」とは考えていない可能性です。たとえば、ファリサイ派・律法学者たちは、自分たちを偽教師とは思っていなかったでしょう。統一教会の文鮮明は自分を偽メシア・偽教師とは思っていなかったでしょう。<br><br>ここで、偽使徒になってしまう「<span class="sen1">動機</span>」に繋がります。なぜ偽使徒が現れるのか、偽使徒になりやすそうな人物像を想定してみます。</p><div style="margin:10px 0;padding:5px 5px 5px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><ul class="suuji-list"><li>主が非難したファリサイ派たちのような心を持つ</li><li>使徒たちに対抗心を抱く</li><li>自分を誇りにする、誇大な自己評価</li><li>自分に従わせたい、自分にならう者にしようとする</li><li>使徒称号を欲する,称号に固執する</li></ul></div><p>他にも色々とありそうですが、候補としては上記で十分です。したがって、パウロは動機が十分あることになります。</p><div id="21">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>㉑パウロ神学のレトリック</h2><p>パウロはタルソス出身で、学も知識もあると書いています[使徒26:24,コリント第二11:6]。タルソスは教育熱心な都市で、アテネやアレクサンドリアをも凌ぐ程で、あらゆる修辞学の学校があったとされます[ストラボン-地理誌14巻5章]。<br><br>下記、書簡内の詭弁的な箇所を見ていきます。</p><div class="table0"><label class="table1"><b>詭弁的な箇所 八つ抜粋</b></label><div style="padding:5px 2px"><p class="table2"><mark class="bgg">(一)ローマ3:28前後</mark><br><b>前提1：</b>人は信仰によって義とされる<br><b>前提2：</b>義は律法の行いでは得られない<br><b>結論：</b>よって我々は信仰によって義とされると考えている。<br>➡︎「信仰」と「行い」を二分して排他化しています。誤った二分法（false dichotomy）。個人的な考えであり、前提の証明ができていません。<br><br><mark class="bgg">(二)ローマ4:2–3 (ガラテヤ3:6)</mark><br><b>前提1：</b>アブラハムは神を信じ、義とされた<br><b>前提2：</b>アブラハムは行いによって義とされたのではない<br><b>結論：</b>よって人は信仰によって義とされる<br>➡︎ ここでも「信仰」と「行い」を二分しています。アブラハムの事例を「万人に適用」としていますが、そもそも、アブラハムは義とされる前にも後にも命令どおり「行い」をしています。そしてヤコブの手紙2:21-24で同様の話で反論されています。詳細は次項㉓にて。<br><br><mark class="bgg">(三)ガラテヤ2:16</mark><br><b>前提1：</b>律法の行いによっては誰一人、義とされない<br><b>前提2：</b>人が義とされるのは律法の行いによるのではなくキリスト・イエスを信じる信仰による<br><b>結論：</b>よって私たちは律法の行いではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる<br>➡︎ ここでも前提の証明ができていません。「信仰」と「行い（律法）」の対立を強調し、律法の行いの義を否定しています。<br><br><mark class="bgg">(四)ガラテヤ3:10–13</mark><br><b>前提1：</b>律法の行いによる者は皆、呪いの下にある<br><b>前提2：</b>律法に書かれてある全てのことを守らない者は皆、呪われる<br><b>結論：</b>よって、律法によっては神の御前に義とされる者は一人もいないことが明らかである<br>➡︎「完全遵守はできない」「完全遵守でなければ全滅」という論理で、部分的遵守や、悔い改め、死に至らない罪、神の憐れみ等の可能性を除外しています。3:13で「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いからあがない出して下さった」と書いていますが、であれば例えば「もう律法を守らないで呪われる事はなくなり、守れば祝福になる」といった論理展開が可。<br><br><mark class="bgg">(五)ガラテヤ4:21–31</mark><br><b>前提1：</b>女奴隷ハガルの子イシュマエルは肉の奴隷、自由なサラの子イサクは約束の子<br><b>前提2：</b>私たちは女奴隷の子ではなく、自由な女による子である<br><b>結論：</b>よって律法の下にいる者は奴隷であり、キリストにある者は自由である<br>➡︎ 上記も間違いです。なぜなら<span style="color:red">エルサレム教会の兄弟皆が、熱心に律法の下にいました</span>[使徒21:20]。それから寓喩的解釈を前提にしていますが、上記のような話は作ることができ、例えば「女奴隷ハガルの子孫には律法が与えられず、自由なサラの子孫には律法が与えられた → 律法は一点一画も廃されていない → よって律法を守らない彼らは〇〇〇、守る我々は〇〇〇」といった論理展開が可。<br><br><mark class="bgg">(六)ガラテヤ5:2–4</mark><br><b>前提1：</b>もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものとなる<br><b>前提2：</b>割礼を受ける者は律法の全部を行う義務がある<br><b>結論：</b>よって、割礼を受けようとするあなたがたは、キリストから離れて恵みから落ちている<br>➡︎「割礼を受ける→キリストを否定」という極端な短絡。聖書的ではありません。両立の信仰を無視しています。ここでも「信仰」と「律法」の対立構造にしています。そもそも、長老たちは割礼を肯定しています[使徒21:21]。<br><br><mark class="bgg">(七)フィリピ3:6-9</mark><br><b>前提1：</b>私は律法の義については落ち度のない者である<br><b>前提2：</b>律法の義よりも、キリスト・イエスを知ることの方がまさる<br><b>結論：</b>よって、律法の義は無価値（塵）であり、信仰による義を得ることが真の益になる<br>➡︎ 前提1の正誤は無視するとして、ここでも旧来の価値を否定しています。熱心に律法を守るエルサレム教会の兄弟たちの前では、同様のことを言わないでしょう。<br><br><mark class="bgg">(八)テサロニケ第一2:13</mark><br><b>前提1：</b>私たちは神の言葉を語った<br><b>前提2：</b>あなたがたはそれを人間の言葉ではなく、神の言葉として受け入れた<br><b>結論：</b>(よって、私たちの言葉をもっと受け入れなさい)<br>➡︎ 実際は結論のことを言っていませんが、言っているに等しい構造です。なぜなら、それまでずっと自分たちの正統性を主張しています。また、続きのテサロニケ第一5:27では「わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい」と言っていました。</p></div></div><p>以上のように詭弁的な内容で、修辞学を学んでいたか、用い方を知っていたと見られます。ただ、人前で話すのは苦手だったようです。なぜならコリント第二10:10で「手紙は重味があって力強いが、会った時は弱々しく話はつまらない」とあり、コリント第二11:6では「たとえ弁舌はつたなくても、知識はそうでない」とあるからです。</p><p><br>また、コリント第一2:3では「わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」とあります。当時のコリントは修辞学が盛んで弁論の強者が多いです。それから、使徒18:24で「アレクサンドリア出身で雄弁なアポロ」とあり、原語λόγιος（雄弁）が修辞的教養を示す語で、アレクサンドリアも修辞学が非常に発達していた都市でした。つまり、「アポロは弁論術を学び話術が得意・パウロは力強い文章を構成できるが話術は苦手」だったようです。</p><div id="22">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>㉒「信仰による義」の間違い</h2><p>信仰によるとして律法や行いを軽視する間違った教えがあります。先の(八)つと下記の影響です。</p><blockquote class="seiku"><p>もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、<span class="sen0">働きはなくても</span>、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。<br>(ローマ4:2-5 口語訳)</p></blockquote><p>まず「働きはなくても」義とありますが、マタイ25:14のタラントンのたとえで、<span class="sen0">働きがないと</span>怠惰な役立たずとして追い出されています。それからヤコブの手紙2:20-26では、上記に対する反論のように逆の事が書かれています。「信仰には行いも必要」と。<br><br>アブラハムは創世記15:6で主から「義」と認められる前の12:1で既に行いで示しています。生まれ故郷を捨て、親族と父の家を離れ、主を信じてカナンの地へ旅立ちました。このような行いも含めて信仰です。もしこの時、アブラハムが命令に逆らってカナンに行かなければ、後の「信仰も義も」ありません。<span style="color:red">「信じる・行う」の両方が揃って「義」です。</span><br><br>ところで、ルターはパウロの主張に同意で「行いを軽視した信仰による義」のプロテスタントの礎？を築いています。そして、ヤコブの手紙を「藁の書」と評していました。彼の訳したドイツ語聖書では、ローマ3:28の「人は律法の行いによらず、信仰によって義とされると考える」の箇所を「信仰によってのみ」としました。原文に無い「allein：のみ」を入れた事により論争になります。よって、ルターはヤコブの手紙が、自身・パウロの主張と違うことを書いていると認識しています。<br>&nbsp;</p><p>当初はユダヤ人に対して寛容だったルターですが、最終的にはユダヤ人を迫害、迫害推奨しています。本人著「ユダヤ人と彼らの嘘について」を参照。カルヴァンも兄弟（セルヴェト）の逮捕、処刑判決を強く主張していたという文献が残っています。<br><br>迫害する側になってはいけません[マタイ5:44,ヨハネの手紙二 1:9参照]。<b>「信仰のみ」では「行い」が伴いません。</b></p><div id="23">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>㉓女性の被り物の教義を、独自に加えた</h2><blockquote class="seiku"><p>祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。<br>(コリント第一11:5-6 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは、ふさわしいことだろうか。自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである。<br>(コリント第一11:13-15 口語訳)</p></blockquote><p><br>女性の被り物についての教えですが、<span class="red">これは律法にはありません。</span>主イェシュアも教えておられず福音書にもありません。パウロ独自の教えです。ただ、時代や地域によっては女性の被り物が慣習として存在したかもしれません。<br><br>カトリックでは礼拝の時に女性が被り物をしていましたが、近年では被りたい人だけが被っているようです。カトリック以外の教会でも女性の被り物をしている教会はあるようです。なお、パウロは女性が祈りや預言をする時の限定で被るように言っているため、それ以外で被っている場合は拡大解釈していることになります。<br><br>聖書を読めば、律法に書かれていない教えであることは分かるわけですので、口伝律法であるパウロの教えに流されないようにしましょう。</p><div id="24">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>㉔他、色々な間違い</h2><div class="table0"><label class="table1"><b>書簡内の色々な間違い</b></label><div style="padding:5px 2px"><p class="table2"><br><mark class="bgg">(一)コリント第一12:3</mark><br>聖霊によらなくても「イエスは主である」と言えるため間違いです。別記事<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972543547.html#3" rel="noopener noreferrer" target="_blank">「聖霊を受けるには」の項目3.</a>を参照<br><br><mark class="bgg">(二)律法についての沢山の間違い</mark><br>別記事<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972543088.html#5" rel="noopener noreferrer" target="_blank">「律法は今も有効か」の項目5.</a>を参照<br><br><mark class="bgg">(三)ローマ10:6–8 (申命記30:11–14)</mark><br>引用元の申命記は律法のことであり「行い」が三回出てきますが、それをローマ書では除外して信仰義認と再解釈し、原文の意味から程遠いです。<br>&nbsp;</p></div></div><div id="25">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>㉕黙示録にパウロの土台が無い</h2><p>下記二つを参照。</p><blockquote class="seiku"><p>それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。<br>(マタイ7:24-27 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。<br>(マタイ16:18 口語訳)</p></blockquote><p>上記により<span style="color:red">「岩の土台」「砂の土台」</span>の二種類あります。砂の土台に家を建てた愚かな人というのは、直前マタイ5:1から7:29までの「山上の説教を聞いてそれらを行わない者」、または「その主の教えから外れた者」のことと解釈できます。<br><br>そして「ペトロ（岩、石の意味）」と新しい名が与えられ、その岩の上に教会を建てるので「岩の土台」です。厳密には主はアラム語で「ケファ（ギリシャ語でペトロ）」と名付けておられます[ヨハネ1:42,ガラテヤ1:18]。上記聖句の岩の土台と掛けているわけですね。<br><br>プロテスタントでは上記、岩の土台を「ペトロの信仰告白」としています。どちらでも結論は変わらないため進めます。<br><br>下記ではパウロも土台をすえました。</p><blockquote class="seiku"><p>神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。<br>(コリント第一3:10-11 口語訳)</p></blockquote><p>上記の土台は、岩ではなく「イエス・キリスト」になっています。この土台が「パウロの信仰告白」だとしても、ペトロたちとは教えが違うので、別物の土台です。<br><br>パウロは新規の土台を建てることが望みだったようです。</p><blockquote class="seiku"><p>その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。<br>(ローマ15:20 口語訳)</p></blockquote><p><br>土台のたとえは、⑭の毒麦のたとえと繋がっています。つまり「何か違う種を植えた人と、何か違う土台をすえた人」に気をつけるようにと主は忠告されました。<br><br>さて、黙示録21:14によると、城壁の「土台が十二個」あり「それに十二使徒の名」が刻まれています。ところがパウロの土台、名がありません。上述のとおり、土台を沢山すえました。もし彼が使徒で功労者であれば、別の土台として黙示録に記載されていても良いはずですが、何もありません。<br><br><b>雨が降り、川があふれ、風が吹いたら、砂の土台の家は倒れるとありました。</b></p><div id="26">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>㉖パウロは異邦人の使徒ではない</h2><blockquote class="seiku"><p>そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、<br>(ローマ11:13 口語訳)</p></blockquote><p>自称ですが「異邦人の使徒」と言っています。<br><br>使徒行伝15:7では「<span class="bgy">異邦人が私の口から福音の言葉を聞いて信じる</span>ようにと、神は初めの頃に、諸君の中から<span class="bgy">私をお選びになった</span>」とあります。これは、ペトロは異邦人の使徒にもなりますね。（当然と言えば当然です）<br><br>それからマタイ28:19では「すべての国民を弟子としなさい」と命令があります。「[ἔθνη→国民」は原語では多くの場合[ἔθνη→gentiles→異邦人] と訳される単語です。<br>&nbsp;</p><p>使徒行伝によると、弟子たちは命令どおり、イスラエル国内から、ステファノ・フィリポなどギリシャ語を話すユダヤ人や改宗者[使徒6:1,6:5]、エチオピアの高官[使徒8:27]など「改宗者・門の改宗者・神を恐れる異邦人」を中心としながらもパウロが回心したとされる前から既に異邦人にも伝道しています。彼が回心したとされる後にも、ペトロがコルネリウス一同に伝道[使徒10章]と、異邦人伝道の描写があります。よって、初めて異邦人に伝道したのはパウロではなくペトロたちです。</p><p><br>使徒8:1と11:19により、ステファノの事件以降に異国に散ったので、<span style="color:red">異邦人伝道が開始されるのは時間の問題でした。</span>次節11:20以降でキプロス人・キレネ人が出てきており、後にバルナバとパウロも加わり、アンティオキアの異邦人伝道が本格化したのでしょう。<br><br>&nbsp;</p><p>次に宣教の行程を見ていきます。辿ることでパウロが何をしたかったのか、見えてきます。</p><fieldset style="padding:4px 15px 12px;margin:7px 0 17px 0;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><legend align="left"><span style="padding:0 2px;font-size:1.08em;margin:0 3px 0"><b>宣教の行程</b></span></legend><p>パウロは使徒13:5サラミスの「<mark>ユダヤ人の諸会堂</mark>」から宣教旅行を開始しました。次に14節でも、ピシディア州のアンティオキアで<mark>安息日に会堂</mark>に入って宣教しています。これは、先のペトロや他の弟子たちの宣教とやり方は同じです。続く45節を見ると、そこでユダヤ人から反感を買って、46節で「異邦人の方に行く」と宣言しました。「異邦人の方に行く」と宣言しても、続く14章1節でイコニオンの<mark>ユダヤ人会堂</mark>で宣教しています。17章1節でもテサロニケの<mark>ユダヤ人会堂</mark>へ、10節でもべレアの<mark>ユダヤ人会堂</mark>へ、17節のアテネでも<mark>会堂でユダヤ人たちと</mark>毎日論じて、18章4節で<mark>安息日ごとに会堂でユダヤ人やギリシア人</mark>の説得に努めて、5節ではシラスとテモテと合流後に<mark>ユダヤ人に宣教</mark>していて、反抗されると「異邦人の方に行く」とまた同じことを言いました。その後19節のエフェソでやはり<mark>会堂に行きユダヤ人</mark>と論じ合っています。19章8節では<mark>会堂でユダヤ人</mark>も説得しようとしています。10節では二年ほど毎日論じあっていたので「アジア州に住む者は、<mark>ユダヤ人もギリシャ人も</mark>誰もが、主の言葉を聞いた」とあります。28:17では、ローマに着いて三日後には、<mark>ユダヤ人たちを招いて</mark>宣教して、最後の30-31節では、<mark>誰でも歓迎</mark>して宣教しています。</p></fieldset><p>結局はユダヤ人を中心に宣教していました。マタイ書の最後で「すべての国民を弟子にして、バプテスマを施し、あなたがたに命じておいたことを全て守るように彼らに教えよ。」との命令があるため、他の弟子たちと違いはあまりないということですね。<br><br>「異邦人の方に行く」と言ったのは「この街では異邦人に対してだけ宣教する」という意味は、もちろん考えられます。ですが単純に大半のユダヤ人には聞いてもらえなかったから、その都度、異邦人に切り替えるかたちです。コリント9:19-21では「<mark>すべての人を得るために、ユダヤ人、異邦人のようになった」</mark>とあります。使徒16:3では<mark>ユダヤ人伝道のため</mark>にテモテに割礼を受けさせています。<br><br>異邦人関係なくの宣教でした。異邦人の使徒とはいえません。※そもそも使徒ではない。</p><div id="27">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>㉗七つの教会がパウロとほぼ無関係</h2><blockquote class="seiku"><p>その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。<br>(ヨハネの黙示録1:11 口語訳)</p></blockquote><p>上記、<span style="color:red">七つの選ばれた教会の中で、パウロが直接関わった記載があるのはエフェソ（エペソ）だけ</span>です。そしてそのエフェソに、黙示録2:2「使徒の自称を見抜いた」事が書かれています。<br><br>ラオディキアについては、パウロが行った記載は無いですが、コロサイ4:12-13によると仲間が頑張っていたようです。16節で、手紙の回覧でラオディキアの名が出てきます。<br><br>下記を考慮するとエフェソを拠点にして、仲間を派遣し宣教していたのでしょうか。</p><blockquote class="seiku"><p>それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。<br>(使徒行伝16:6-7 口語訳)</p></blockquote><p>さらっと興味深い事が書かれています。「禁じられた」の部分は原語では[kóluó：妨げる,妨害する,阻止する]の意味でよく使われます。当然、妨げられる何らかの理由・意図があります。<b>その地域から七つの教会が選ばれました。</b><br>&nbsp;</p><p>仮にビティニア州に進ませない理由が、西のマケドニア州に進ませたかったためだとしても、アジア州では御言葉を語ることが禁止されるのは不思議です。禁止が解除されたことは書かれていません。<br>※なお、テサロニケ第一2:18で「あなたがたの所へ行こうとしたが二度、サタンから妨げられた」とあります。ややこしくなるため次へ。<br><br>仮に「アジア州で御言葉を語るのが危険だから守られた」としても、18:19にはエフェソで何かしら論じています。<br><br>コロサイ1:7によると、コロサイの人たちはパウロの福音を、エパフラスから学んだようです。地図上で、七つの教会の最南にあるラオディキアの更に南に位置するコロサイですが、七つの内には選ばれなかったようです。コロサイ書が存在しているのと関係あるのでしょうか。<br>※なお、コロサイに立ち寄った記載はない。<br><br>使徒19:10で「それが二年間も続いたので、アジア州に住んでいる者は、ユダヤ人もギリシャ人も皆、主の言葉を聞いた」とありますが、エフェソに留まって論じていたような描写になっています。<br><br>下記では、まだエフェソにいます。</p><blockquote class="seiku"><p>しかるに、諸君の見聞きしているように、あのパウロが、手で造られたものは神様ではないなどと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説きつけて誤らせた。<br>(使徒行伝19:26 口語訳)</p></blockquote><p>「アジヤ全体」と出てきますが、「ほとんど」です。それから「手で造られたものは神様ではない」と伝えただけです。これは「御言を語ることを聖霊に禁じられた」内に入らないでしょう。ユダヤ人であれば誰でも語れる旧約聖書の内容です。<br><br>ちなみに、使徒26:22では「預言者たちやモーセがこれから起こると告げていたこと以外には何も語っていません（私訳）」とありますが、これは間違いです。直前21節の捕まった理由と、それから23節以外のことも書簡で教えています。<br>&nbsp;</p><p>話を戻しますが、パウロがエフェソ以外の六つの都市に行っていたとしたら<mark>事細かに記述しようとする性格のルカが書かなかった</mark>のは変です。七つの教会は、エフェソ含め主要交通路にあった商業都市などですから。ルカはパウロが立ち寄った様々な地域・島・都市・村名を几帳面に書いています。[先の㉖の後半参考]</p><p><br>エフェソ書が偽書であれば、七つの教会宛のパウロ書簡は一つもなかったことになります。</p><fieldset style="padding:4px 15px 12px;margin:10px  0 8px 0;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><legend align="left"><span style="font-size: 17.3px"><b>まとめ</b></span></legend><ul class="ulul"><li>アジアから七つの教会が選ばれた</li><li>エフェソ以外は訪問せず</li><li>書簡が存在せず</li><li>ルカは記さず</li><li>アジア州で御言葉を語れず</li><li>訪問したエフェソだけは使徒の自称を見破った話がある</li></ul></fieldset><p>ここまで重なると偶然ではなく必然と思われます。なお、テモテ第二1:15では「アジアにいる者たちは、皆わたしから離れて行った」とありました。<br><br>以上により「七つの教会がアジア州から選ばれた理由」が使徒ではない根拠の一つです。</p><div id="28">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>㉘エルサレムからの手紙が現存しない</h2><blockquote class="seiku"><p>異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。<br>(使徒行伝21:25 口語訳)</p></blockquote><p>上記は15:28-30と同じ手紙ですが、紛失したようです。この手紙は重要です。使徒・長老書簡ですから。ですが存在確認がなく、教会史でも出てきません。</p><p>&nbsp;</p><p>使徒15:23によるとアンティオキア・シリア州・キリキア州、宛となっており、手紙が一通とは限りません。ギリシャ語とアラム語の手紙も用意したか不明ですが、大事な内容であれば手渡しているはずです。使徒16:4口語訳では「渡した」とあります。原語[παρεδίδοσαν：届ける,引き渡す」の意味もあります。<br><br>この手紙は写本が一つも残っていないわけですが、<span style="color:red">パウロ書簡よりよっぽど重要です。</span>異邦人からすると、一教会に一枚は残して置きたいぐらい励みになる手紙です[使徒15:31]。証拠として保存しようと思う人は全くおらず、他の教会は欲しがらなかったのでしょうか。安息日を守らないように書いてある「アンティオキアのイグナティオス」の手紙は残っています。</p><p>&nbsp;</p><p>手紙の分量は短そうで転写は手軽です。ヨハネの手紙二・三やユダの手紙のような短いのも残っているぐらいです。福音書が執筆される前にできた新たな教え（手紙）とされていますので、本来、最も早く写本が出回っているはずです。使徒行伝15章に含まれたから必要なくなったという見方はできなくはないですが、使徒行伝書が完成するまで、30年前後の期間があります。30年前後あれば、写本がかなり広まっていておかしくありません。<br><br>■パウロはガラテヤ書,コリント書,ローマ書で割礼など律法を守らせないよう何度も言っていましたが、長老たちの決定を伝えるか、手紙の存在、内容を言えば良いだけです。ですが、パウロ書簡では手紙（決定）の事は一言も触れていません。特にガラテヤ2章で触れていないのが気になります。なお、「ガラテヤ書・コリント書・ローマ書が、エルサレム会議より前に執筆」とするのは難しそうです。</p><p>仮に、ガラテヤ書がエルサレム会議前に執筆されたのであれば、会議前にパウロの一存で割礼の是非の決定を下し教えていて、余計におかしいです。<br><br><b>「重要な手紙の写本が一枚もない」「書簡で手紙について言及しない」</b>と重要なところが欠けているのは疑問が残ります。<br><br>■使徒15:20,21:25により「偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むように」と書かれてあり、十戒が含まれていません。21:25は欽定訳などのTR底本では「それ以外は何も守らなくて良い」とあり、RV底本ではありません（ギリシャ語の26語から19語になっていて、7語分が抜けています）。削除されたか、追加されたか、どちらを選んでも問題です。<br>&nbsp;</p><p>十戒を守るようには書いていないこともあり、手紙の真意が「異邦人信徒がユダヤ人教会（集会）と交わるための暫定的・調整的措置」とする見解に一定の支持があります。<br><br>「残すほどの内容の手紙ではなかった」のであれば、残っていなくて納得です。</p><div id="29">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>㉙聖書の信憑性は失われるのか</h2><p>「神様が聖書を守らないはずがない,正典に偽物が混ざるはずがない」と思うかもしれません。旧約聖書は守られていますね。後の福音書など、主の御言葉・預言も、しっかり守られています。<br><br>ヨハネ10:35で「聖書の言が廃れることはあり得ない」とありますが、当時に新約聖書は無いので、主イェシュアの時代まであった旧約聖書のことでもあります。もちろん、主の御言葉の福音書も廃れることはないですが、<span style="color:red">パウロ書簡は神の言葉ではありません。</span>彼の言葉です。一個人の説教集(と自己弁護)です。<br><br>気になるのは、コリント第一の手紙の前に、別の手紙を出しています。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、<br>(コリント第一5:9 口語訳)</p></blockquote><p>紛失でしょうか。※一応、偽書のコリント人への第三の手紙は存在。<br><br>他にも、コロサイ4:16では「ラオディキアから回ってくる手紙」と書かれていますが、紛失でしょうか。※一応、偽書のラオディキアへの手紙は存在。<br>もしくはエフェソ書がそれに当たると見なせます。※最古の写本では宛名が無く「エフェソ」と書かれていない。<br>ただし②で、エフェソ書・コロサイ書の間違いを指摘しました。<b>よって偽書とするなら「正典に偽物が混ざっていた」、偽書としないなら「パウロの教えは間違っていた」</b>となります。※どちらにしても間違っている。<br><br>他には、ユダの手紙1:14-16でエノク書から引用されていますが、エノク書は正典に入っていません。※「エノクの預言」とあるのに注目。<br><br>他には、テモテ第二も正典に無い「ヤンネとヤンブレの書」から引用されています。そもそも牧会書簡自体が偽書と見られています。それが事実なら、やはり現在の正典とされている中に紛い物が含まれていることになります。<br><br>それから先の㉘の使徒・長老からの手紙も正典に入っていません。<br><br>■ところで、聖書は66巻で完成でしょうか。ですが宗派によって巻数はバラバラです。カトリック73巻、エチオピア正教会81巻（77巻）、プロテスタント66巻。プロテスタントの判断が正しいかはともかく、ルターが宗教改革？した16世紀頃まで、霊感で現在の66巻の正典・外典を区別できていなかったということになります。</p><p>&nbsp;</p><p>「ルカ福音書とパウロ書簡のみ」を正典として、かつ旧約聖書も外し、全く反対方向に振り切ったマルキオンという人物がいました。マルキオン派にとってはそれが正典だったわけです。パウロ書簡を正典に含めない宗派は当初からいくつか存在しています（もちろんエルサレム教会を含む）。つまり、どれを正典とするかは各々の宗派で決められることになり「多数決・歴史の長さ・翻訳普及率」は確実な根拠とは言えません。<br><br>さて、27巻の新約聖書は「紀元363年,393年,397年の会議」あたりでほぼ正典認定されています。これは当時のカトリック（普遍的教会）による多数決で決まっていますね。それもほぼ異邦人が占める多数決です。異邦人の使徒と称し伝道していたパウロを信じる側が多勢のため、初めから会議の結果は決まっています。マタイ7:13-14のような少数派の声はかき消されます。そもそも律法を守るユダヤ人キリスト者たちは、代表として会議に呼ばれてもいないでしょう。<br><br>実際は上記の正典認定より前の2世紀頃には、ペトロの手紙二などを除く20巻近くは普遍的に読まれていたようですが、それが後のカトリック教会です。エルサレム教会の流れを汲むナザレ派ではパウロ書簡は読まれません。<br>&nbsp;</p><fieldset style="padding:4px 15px 12px;margin:0;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><legend align="left"><span style="padding:0 2px;font-size:1.08em;margin:0 3px 0"><b>まとめ</b></span></legend>新約聖書に紛い物がいくつか含まれているとはいえ、必要な分として聖書は守られており、聖書全てが信用できないわけではありません。「パウロの言葉」が消え去ることで、信仰基盤が大きく揺らぐ場合、本質から逸れている証拠です。</fieldset><div id="30">&nbsp;</div><div style="margin:5px">&nbsp;</div><p><span style="font-size:0.8em;color:#ff0000;width:5px;border:1px solid;margin:1px;padding:1px 5px;border-radius:4px">重要</span></p><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>㉚ペトロの手紙二でパウロ擁護の理由</h2><blockquote class="seiku"><p>また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。<br>(ペトロの手紙二3:15-16 口語訳)</p></blockquote><p>上記により「やっぱりパウロは使徒」と思ってしまうかもしれません。「無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」と脅しまであります。だが恐れてはならない。パウロが使徒ではないなら、この手紙は<b>「訳がおかしい」「改ざんで書き加えた」「偽書」</b>のどれかであり、その証拠が出てくるはずです。<br><br>まず原文ギリシャ語や英語訳も、概ね意味は同じです。改ざんかどうかの証拠は、有るのか無いのか提示は難しいです。最後に「偽書」ですが、これは根拠がいくつも出てきます。下記を参考。<br>&nbsp;</p><p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99%E4%BA%8C" rel="noopener noreferrer" target="_blank">ペトロの手紙二 wikipedia</a></p><fieldset style="margin:19px 0;padding:4px 5px 12px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><legend align="left"><span style="padding:0 2px;font-size:1.08em;margin:0 3px 0"><b>要約</b></span></legend><ul class="ulul"><li>ムラトリ正典目録（2世紀末〜3世紀初頭）にペトロの手紙一,二が含まれず言及もない</li><li>正典に組み込まれたのは最も遅い</li><li>ラテン教会は4世紀半ばまでこの手紙を知らなかったとされる。</li><li>エイレナイオス,テルトゥリアヌスが正典と認めた文書内に、ペトロの手紙二を挙げてない</li><li>ローマのクレメンス,ポリュカルポスといった教会史の文献に手紙二の言及がない</li><li>手紙二の最初の言及者のオリゲネス (紀元253年没) は「疑わしい書物」として議論があった</li><li>エウセビオスも、議論のある書として否定的に言及していた</li><li>現代でペトロの真正書簡と見る側は少数。福音派の「新実用聖書注解」でも認められている</li><li>自由主義神学のほとんどの神学者が偽名書簡としている</li><li>二章の批判が「罵詈雑言」、ペトロの性格に似つかない</li><li>ユダ書と内容が似ている。ペトロの手紙二が真似た蓋然性が高い</li></ul></fieldset><p>■偽書の疑いは濃厚です。教父と呼ばれる人たちの間で見解が分かれており、霊感により正典か見分けられていない事になります。ペトロという重要人物の書簡が、初期の頃では存在が薄いのは不自然ですね。<br><br>■手紙二3:15-16は、「どの手紙にも」の箇所は原語「πάσαις：すべて」の手紙です。<span style="color:red">多くのパウロ書簡をペトロがなぜか読んでいる前提になっています。また、読者もパウロ書簡を読んでいることを前提にしています。</span>ペトロの時代は未だパウロ書簡は諸教会に広まっておらず、同時代のペトロには知り得ません。もし、それだけパウロ書簡が広まっていたなら、ペトロの手紙二の方こそ広まっていなければ不自然です。「すべて」ですから少なくとも二、三通以上のパウロ書簡のことを述べています。文脈的にそれなりの数がある書き方です。</p><p>そもそもパウロ書簡には、冒頭の使徒の自称は置いておき、ユダヤ人・異邦人にも律法から離れるように書いてあるため、ペトロは書簡を読んだ時点で気付きます。とはいえギリシャ語は読めないでしょうから、間接的に聞くことになります。[使徒21:21]<br><br>■手紙二3:1で「わたしはあなたがたに二度目の手紙を書きますが」とあるため、手紙二は手紙一より後発で間違いなさそうです。手紙一はある程度どの教会宛てか絞れますが、手紙二では宛先を書いていません。偽書とバレないようにするための偽装手法という説があります。<br>後から出てきた出所も宛先も分からない手紙は尚更、信憑性が低いです。焚書を含め、新約聖書以降から数多くの偽書が存在し、特に「ペトロの名」の書は多いです。下記参照</p><div class="table0"><label class="table1"><b>ペトロの名が付く書</b></label><div style="padding:1px 5px 1px 14px"><ul class="ulul"><li>ペトロ行伝:2世紀</li><li>ペトロ福音書:2世紀</li><li>ペトロ黙示録:2世紀前半</li><li>ピリポに送ったペトロの手紙:2世紀後半</li><li>ペトロの問答:2世紀中頃〜</li><li>ペトロの宣教 (Kerygmata Petrou)</li><li>ヤコブ宛のペトロの手紙 (Epistula Petri ad Jacobum)</li><li>ペトロとクレメンスの往復書簡<br>&nbsp;</li><li class="no-marker">※後半四つは「Clementine Homilies / Recognitions」に関連。</li></ul></div></div><p>&nbsp;</p><p>■次に手紙一にも触れます。手紙一も二ほどではないですが、偽書と見る学者は多いです。「恵み」「救い」「義」「（権威への）服従」などの用語・思想がパウロ書簡と似ています。</p><p><br>それから手紙一は5:12により「シルワノ」が代筆か配達かどちらかです（偽書だとそれも疑わしい）。シルワノはコリント第二1:19、テサロニケ第一・二の初めで、パウロと共に名前が出てきます。悪い意味かさておき「忠実な兄弟として信頼しているシルワノ」と名前を出して書いたのは、パウロ・シルワノたちと「仲間である」と認識させるために書いているように見えます。パウロ書簡に出てくるシルワノを知っている読者宛てのような感じです。なぜなら、代筆である事を示し、かつ手紙の結びに兄弟の名前を出すこの書き方は、パウロ書簡と似ています。他の使徒書簡とは異なります。</p><div style="margin:2px">&nbsp;</div><fieldset style="padding:4px 15px 12px;margin:0;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><legend align="left"><span style="font-size: 17.3px"><b>結論</b></span></legend>ペトロの手紙二の執筆理由は、手紙の最後3:15-16に書いた<span style="color:red">「パウロ擁護の偽装が一番の目的」</span>と見るのが妥当です。（教会でのパウロ書簡の権威付けが同等の理由）。似た事例として、二世紀に「パウロへの愛から」との理由で「パウロ行伝」を偽作し、発覚した小アジアの教会の長老が、罷免されています。(Tertullian On Baptism, XVII-17)</fieldset><div style="margin:30px">&nbsp;</div><h2 style="margin:7px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">終わりに</span></h2><p class="stock"><span class="item"><u>物的証拠</u></span><span class="leader">&nbsp;</span><span class="status">あり</span></p><p class="stock"><span class="item"><u>目撃証言</u></span><span class="leader">&nbsp;</span><span class="status">あり (複数人 : 証拠に沿う)</span></p><p class="stock"><span class="item"><u>状況証拠</u></span><span class="leader">&nbsp;</span><span class="status">あり (聖書内に多数)</span></p><p class="stock"><span class="item"><u>動機</u></span><span class="leader">&nbsp;</span><span class="status">あり</span></p><p class="stock"><span class="item"><u>実の悪さ</u></span><span class="leader">&nbsp;</span><span class="status">各自の判断</span></p><p class="stock"><span class="item"><u>使徒の条件</u></span><span class="leader">&nbsp;</span><span class="status">全く当てはまらない</span></p><div style="margin:5px">&nbsp;</div><p style="text-align: right"><br>以上</p><div><style type="text/css">.seiku2{  background:#99aabb;  height:1px;  margin:12px 11px 12px 5px}blockquote.seiku {  border:1px solid #99aabb;  background:#ebeef2c2;  margin:0 auto 4px;  padding:12px 10px 12px 12px;  border-radius:5px;  quotes:none}blockquote.seiku::before, blockquote.seiku::after {  content:none}.seiku p {  line-height:1.6}h2{color:#223344}h2.koumoku {display:flex;font-size:20px;margin:8px 0;margin-left: -7px}.koumoku2 {width:8px;background:#778899;margin-right:5px;border-radius: 2px;height: 38px;margin-top: -3px}.table0{border: 1px solid #778899;border-radius:2px;margin:15px 0}.table1{background:#ebeef2c2;display:block;text-align:center;padding:3px;border-bottom:1px solid #778899;font-size:17px}.table2{padding:3px}.ulul li{margin:7px;line-height:1.4}[data-uranus-component="entryBody"] ul {margin:0}._1WkQWJsL ol, ._1WkQWJsL ul {padding: 0px;margin:2px}.no-marker {  list-style: none}.ulul {   padding-left:10px !important}.suuji-list {list-style-type: decimal;padding-left:20px !important;line-height:1.3}.suuji-list li::marker {  content: counter(list-item, decimal) ". 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<link>https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972543361.html</link>
<pubDate>Wed, 05 Aug 2026 22:49:42 +0900</pubDate>
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<title>パウロは偽使徒か【完全版】（前編）</title>
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<![CDATA[ <div><img alt="" height="405" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260730/16/genshi7/30/08/j/o1280072015807473116.jpg" width="720"></div><div class="sp">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 style="margin:7px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">前置き　　</span></h2><p>①〜⑤は重要です。⑯〜⑳で「実」の悪さの検証。最後㉚でペトロの手紙二「パウロ擁護」について解説しています。ある程度、順番に読んだ方が分かりやすい構成です。</p><div class="sp">&nbsp;</div><nav aria-label="目次"><details class="mo" open><summary>目次</summary><div class="mo2"><p><a href="#1">①パウロは使徒の条件に合わない</a></p></div><p><a href="#2">②律法を廃し、主の教えと逆</a></p><p><a href="#3">③独自の考えで異邦人に教えた</a></p><p><a href="#4">④エルサレム教会と教義が違う</a></p><div class="mo2"><p><a href="#5">⑤違う教義を教えていた事がバレた</a></p></div><p><a href="#6">⑥パウロは蛇の子孫か</a></p><p><a href="#7">⑦啓示が本物か確認を怠った</a></p><p><a href="#8">⑧パウロは(偽)預言者か</a></p><p><a href="#9">⑨パウロは聖霊を受けたのか</a></p><p><a href="#10">⑩パウロは悪霊に取り憑かれていたか</a></p><p><a href="#11">⑪パウロの裏切りは預言されていたか</a></p><p><a href="#12">⑫パウロの回心話の疑問点</a></p><p><a href="#13">⑬兄弟たちはパウロを疑っていた</a></p><p><a href="#14">⑭パウロの教えは毒麦か</a></p><p><a href="#15">⑮パウロの門は広い門か</a></p></details></nav><div id="1">&nbsp;</div><div style="margin:0">&nbsp;</div><p><span style="font-size:0.8em;color:#ff0000;width:5px;border:1px solid;margin:1px;padding:1px 5px;border-radius:4px">重要</span></p><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>①パウロは使徒の条件に合わない</h2><div><blockquote class="seiku"><p>すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。<br>(使徒行伝1:22 口語訳)</p></blockquote>「主の復活の証人」とあります。生前に面識がなく、行動を共にしておらず、復活も目撃していないため、復活の証人になれません。ヨハネ15:27でも「あなたがたも、<b>初めからわたしと一緒にいたのであるから</b>、証をするのである」とあります。<br><br>したがって、<span class="sen1">使徒の条件</span>には全く当てはまっていません。<br><br>コリント第一15:8では、復活後に目撃したかのような書き方になっていますが、彼だけかなり時間差があるように思われます。仮に啓示で似姿を見たとしても、復活の証人にはなっていません。<br>&nbsp;<p>パウロにとっての「使徒である証」は、下記のように違います。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。<br>(コリント第一9:2 口語訳)</p></blockquote><p>伝道の働きで信仰に入らせたから、「コリントの兄弟にとっては使徒」とのことです。それは「伝道者」です。その理屈で使徒といえるなら、バルナバやアポロたちも「使徒職の印」を持っていることになります。<br><br>次に下記を参照。</p></div><blockquote class="seiku"><p>また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。<br>(ヨハネの黙示録21:14 口語訳)</p></blockquote><p>「十二使徒の十二の名が書いてあった」とあります[マタイ19:28も参考]。そこに、パウロの名は入っていません。使徒は十二の枠だから十二使徒と呼ばれます。十三ではなく十二です。使徒1:12-26ではマティアの選出を書いています。<span class="red">十二人でなくても良いのであれば、マティアともう一人どちらかを選別する必要がありません。</span>どちらも使徒になれば良い話です。<br><br>黙示録2:2では、エフェソ教会宛に「使徒と自称し実はそうでない者たちを調べ、彼らの嘘を見抜いた」事を、主は褒めておられます。七つの教会の内、エフェソ教会だけはパウロも出入りしていました。※詳しくは後編㉗を参照。<br><br>念のため「例外」の可能性を考慮し、検証を続けます。</p><p>&nbsp;</p><fieldset style="padding:4px 15px 12px;border:1px solid #778899;border-radius:2px;margin:0 0 15px 0;"><legend align="left"><span style="padding:0 2px;font-size:1.08em;margin:0 3px 0"><b>余談</b></span></legend>ニーチェ、トルストイは、パウロが使徒ではないと見ていました。なお、トルストイは信条が特殊でしたが信仰者でした。</fieldset><div id="2">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>②律法を廃し、主の教えと逆</h2><p>まず下記聖句により、主は律法の小さな戒めも廃棄・廃止しないと明言されています。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。<br>(マタイ5:17-20 口語訳)</p></blockquote><p>下記でも律法を守るように言っておられます。</p><blockquote class="seiku"><p>そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。<br>(マタイ23:1-4 口語訳)</p></blockquote><p><br>ところが下記では、逆のことを書いています。</p><blockquote class="seiku"><p>キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を<span class="bgy">廃棄した</span>のである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、<br>(エフェソ2:14-15 口語訳)</p></blockquote><p><span class="bgy">廃棄した</span>とあります。下記でも同様のことを書いています。</p><blockquote class="seiku"><p>だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。<br>(コロサイ2:16-17 口語訳)</p></blockquote><p>上記は「きたるべきものの影」であるから、食物規定や安息日は守らなくても良いという教えになります。<br><br>ただし、エフェソ書とコロサイ書は、擬似パウロ書簡（偽書）の疑いがあります。偽書だとしても、他の書簡で同様のことを言い、律法を守らせないようにしています。下記五つを参照。</p><blockquote class="seiku"><p>それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。<br>(ローマ7:1 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。<br>(ローマ7:4 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。<br>(ガラテヤ3:24-25 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。&nbsp;<br>(ガラテヤ4:21&nbsp;口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。<br>(コロサイ2:14 口語訳)</p></blockquote><p>廃棄と同様の意味です。<br><br>箇所によっては「律法を実行する者が義」「律法は聖なるもの、善いもの」(ローマ2:13,7:12)など、律法を部分的に高く評価しますが、結論では律法を守らないように教えています。上記以外の箇所で、ローマ4:15「律法は怒りを招くもの」,ローマ7:6「律法から解放」,ガラテヤ2:19「律法に対して死んだ」,ガラテヤ3:19「約束されていた子孫が来るまで存続するだけのもの」,フィリピ3:6-9「律法の義は損失（塵）」と書いています。<br><br>よって、これらの書簡が、主の教えと違ったという<span class="sen1">物的証拠</span>になります。<br><br>下記によると、彼は相手によって立場を変えていました。そのため聖書読者は、「別の書簡ではこう書いてある」と、それぞれ都合のよい箇所を拾ってしまうようです。</p><blockquote class="seiku"><p>ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には──わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが──律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。<br>(コリント第一9:20-21 口語訳)</p></blockquote><p>一方で「律法は善いもの」、一方で「律法の下に留まるな」と言うので、望む方の解釈を採用してしまうのかもしれません。<br><br>「モーセの律法は廃棄された」とする根拠は、きまって下記のようなパウロ書簡類から大量に持ち出されます。<br>[ローマ3:20-21,3:28,4:2–3,4:13-15,7:1,7:4,7:6,10:4,ガラテヤ2:16,3:10–13,3:19,3:24-25,4:21–31,5:2–4,6:2,エフェソ2:14-15,コロサイ2:16-17,フィリピ3:6-9,ヘブライ7:18-19]<br><br><span class="red">これらの大量の箇所が、律法から離れるように言っていた決定的な証拠になります。</span><br><br>彼の教えに依存するのは危険です。上記の書簡は、ファリサイ派である一信徒が書いた手紙であり、一個人の解釈です。どの解釈を採用するかが鍵です。その前に、誰の言うことに耳を傾けるかが大事です。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。<br>(マタイ17:5 口語訳)</p></blockquote><p><br>主イェシュアに聞くのであって、パウロに聞くのではありません。</p><div id="3">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>③独自の考えで異邦人に教えた</h2><p>下記二つを参照。</p><blockquote class="seiku"><p>見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。<span class="bgy">割礼を受けようとするすべての人たちに</span>、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。<br>(ガラテヤ5:2-6 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。<br>(使徒行伝15:28-29 口語訳)</p></blockquote><p>上記の一つ目は、パウロの信仰上の考えです。二つ目は、使徒15:1-5（またはガラテヤ2:1-4）により「異邦人に対する割礼の是非の問題」でエルサレムへ上ったのが発端です。そして使徒15:28-29の会議決定は、<b>異邦人限定</b>とされています。<br><br>また、神に立ち帰る異邦人を悩ませないための<span class="red">妥協案</span>とされています。妥協せずに割礼を受けると、「キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」とするのは論理的ではなく、聖書的でもありません。<br><br>“割礼を受けようとするすべての人たち” に対して言っているため、割礼を受けていないユダヤ人も含まれます。多くは生後八日目に受けますが、父親が異邦人で母親がユダヤ人の場合、割礼を受けない人も出てきます。<br><br>上記ガラテヤ書の発言のほか、フィリピ3:2、コリント第一7:19、ローマ2:28などでも割礼のことを悪く言っているため、異邦人だけに言っていたわけではなさそうです。ローマ書でも律法から離れるように書いていますが、ローマ2:17,2:25-27により、ユダヤ人に対しても書いています。<br><br>もし割礼が信仰の害になるなら、エルサレム会議よりももっと前に「異邦人は割礼をしてはならない」と決まっていないとおかしいでしょう。エルサレム教会は、そのような禁止を命じていません。</p><div id="4">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>④エルサレム教会と教義が違う</h2><blockquote class="seiku"><p>一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、<span class="bgy">みんな律法に熱心な人たち</span>である。ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。<br>(使徒行伝21:20-21 口語訳)</p></blockquote><p>上記は、本拠エルサレムのヤコブ・長老たちのもとへ行った時のことです。20節により、数万ものユダヤ人が信者になり<span class="bgy">「みんな律法に熱心な人たち」</span>とあります。ですが21節では、パウロがユダヤ人一同（原文：異邦人の間にいる全てのユダヤ人）に「割礼を施すな」など「モーセにそむくことを教えている」とあります。実際に先のとおり、ガラテヤ5:2-6で割礼を受けないよう脅したり、ガラテヤ3:10で律法を守ることに対して脅していました。</p><p>&nbsp;</p><p>パウロの教えは、エルサレム教会の教えと違ったようです。「彼らが伝え聞いているところによれば」とあり、この時は第三者たちの又聞きの報告であるため、長老たちはどちらが事実なのか判断しかねている状態です。<b>[噂の出所：他国ディアスポラのユダヤ人→エルサレム兄弟→長老たち]</b><br><br>続き24節では、こうあります。</p><blockquote class="seiku"><p>この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。<br>(使徒行伝21:24 口語訳)</p></blockquote><p>上記は21節で聞いていた内容が根も葉もなく、パウロは律法を守り、また背くように教えていないだろうと、ヤコブ・長老たちは信じようとしたわけです。この疑いに対するパウロの弁明は書かれていません。何も言わずに身の清めに従ったということは、先のとおり「モーセにそむくことを教えて」いながら、ただの噂として信じさせた事になります。<br><br>ヤコブ・長老たちを含めその場にいた人は「（ユダヤ人に）割礼やモーセの律法に背くことを言ってはならない」と認識しています。しかし、パウロは同じ認識を持っていません。<br><br>教えが違えば、使徒行伝で度々問題が起こったり、ガラテヤ書のペトロたちと衝突したり、他教会への書簡で問題になるのは仕方ありません。</p><div id="5">&nbsp;</div><div style="margin:2px">&nbsp;</div><p><span style="font-size:0.8em;color:#ff0000;width:5px;border:1px solid;margin:1px;padding:1px 5px;border-radius:4px">重要</span></p><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑤違う教義を教えていた事がバレた</h2><p>下記は先ほどの出来事の続きです。</p><blockquote class="seiku"><p>七日の期間が終ろうとしていた時、アジヤからきたユダヤ人たちが、宮の内でパウロを見かけて、群衆全体を煽動しはじめ、パウロに手をかけて叫び立てた、「イスラエルの人々よ、加勢にきてくれ。<span class="sen0">この人は、いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている。</span>その上、ギリシヤ人を宮の内に連れ込んで、この神聖な場所を汚したのだ」。<br>(使徒行伝21:27-28 口語訳)</p></blockquote><p>当時のアジア州（エフェソ）で、パウロは宣教の土台を築いていました。上記で「いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている」とあります。それを間近で見聞きしていたアジアのユダヤ人たちに見つかり、発覚しました。二人以上の目撃証言です。※使徒24:19によると数人。<br><br>確かに、アジアから来たユダヤ人たちの主張どおり、律法から離れる教えを様々な書簡で書いていました。※捕まったのが紀元57年頃とされ、ガラテヤ書やローマ書などは、それより前に執筆とされる。<br><br>これは彼を嵌めるための、でっち上げの嘘だったのでしょうか。ですが、計画していたわけではなく、たまたま見つけたのです。このユダヤ人たちが怒っているのは、主イェシュアの御名を広めたから怒っているのではなく「律法にそむくことを教えていた事」「聖所を汚した事（真偽不明）」の二つに怒っています。<br><br>一人の証言だと信用は難しいですが、複数の証言です。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。<br>(申命記19:15 口語訳)</p></blockquote><p><br>したがって、<span class="sen1">物的証拠</span>に加え、複数の<span class="sen1">目撃証言</span>まであります。「律法にそむくことを教えていた事」については、物的証拠に沿った内容の目撃証言であることが、事実の裏付けになっています。<br><br>やはり以前からのヤコブ・長老たちへの報告どおりでした。（アジアから来たユダヤ人の報告と同経路の可能性あり）<br><br>続く29節で「ギリシャ人を宮の内に連れ込んだ事」について、ルカは擁護しますが、真相はともかく一方の容疑についてだけでは不十分です。「いたるところで律法にそむくことを教えていた事」について擁護しない理由は<b>「擁護できる根拠がなかった」</b>からと見られます。なぜなら、使徒6:11-13のステファノの事件とは書き方に明らかな差があります。ステファノを嵌めるために11節で「周りを唆した」13節では「偽証人を立てた」と、きっちり悪事を書いていました。<br><br>ルカはステファノの件では過去の事で関わっていませんが、パウロとは同行していたことも考慮です。二つの容疑の片方を擁護しなかったことが、物的証拠と目撃証言が事実だったことを裏付けています。つまり擁護できる証拠が無い、逆に言うなら「無いことを証明（悪魔の証明）ではなく、有ったから潔白の証明ができない」のです。事実、物的証拠が存在しているのですから当然です。</p><p><br>■さて、先の事件では捕らえられた後に弁明をしたわけですが、一旦その場では助かっています。そして場面は変わり、使徒23:9の最高法院裁判（サンヘドリン）では「この人には何も悪いことが見出せない」と、なぜかファリサイ派が味方につきました。<br><br>23:6の最高法院では<span class="red">「わたしはファリサイ派でファリサイ派の子です」</span>と告白しました。原文では「エゴー エイミー→わたしは〜である」の言い回しです。<br><br>現在進行形で「わたしはファリサイ派である」とのことで、この場では「キリストの弟子」としての証しではなく「ファリサイ派」である証しをしてしまいました。同節23:6では「死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられている」と主の御名が出ず、理由を濁しました。←そもそも捕まった理由が違う。</p><p>&nbsp;</p><fieldset style="padding:4px 15px 12px;border:1px solid #778899;border-radius:2px;margin:0;"><legend align="left"><span style="font-size: 17.28px;"><b>ここまでのまとめ</b></span></legend><span class="sen1">使徒の条件</span>に該当しないこと、それから<span class="sen1">物的証拠</span>があり、その証拠に沿う複数の<span class="sen1">目撃証言</span>がありました。異邦人・ユダヤ人に対して、律法から離れることを教えていたのは事実でした。これについては自白は不要です。</fieldset><div id="6">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑥パウロは蛇の子孫か</h2><blockquote class="seiku"><p><span class="bgy">へび</span>よ、<span class="bgy">まむしの子</span>らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。<br>(マタイ23:33 口語訳)</p></blockquote><p>衝撃的な題ですが、聖書を基に見ていきます。上記のように、主イェシュアと洗礼者ヨハネは、ファリサイ派のことを<b>「へび、まむしの子」</b>と言っています。それから<b>「地獄の子,悪魔の子,悪魔である父（偽りの父）から出た者」</b>とまで言われました。[マタイ3:7,12:34,23:15,23:32,(ヨハネ8:44,ルカ3:7はファリサイ派とは書いてない)]<br><br>マムシは毒蛇であり、悪魔は蛇なので、「ファリサイ派→マムシの子→蛇の子（蛇の子孫）」です。<br><br>上記を基にすると、初めから、あからさまに何度も書かれていたことになります。ちなみに、次節34節の主の宣言どおりに、パウロは迫害を行い、御言葉がほぼ成就しました。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちの<span class="bgy">ある者を殺し</span>、また十字架につけ、そのある者を<span class="bgy">会堂でむち打ち</span>、また<span class="bgy">町から町へと迫害して行く</span>であろう。<br>(マタイ23:34 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そして、この道を迫害し、<span class="bgy">男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ</span>、彼らを<span class="bgy">死に至らせた</span>。<br>(使徒22:4 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そこで、わたしが言った、『主よ、彼らは、わたしがいたるところの会堂で、あなたを信じる人々を獄に投じたり、<span class="bgy">むち打ったりしていた</span>ことを、知っています。<br>(使徒22:19 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、<span class="bgy">彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました</span>。それから、<span class="bgy">いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して</span>、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに<span class="bgy">外国の町々にまで、迫害の手をのばす</span>に至りました。<br>(使徒26:10-11 口語訳)</p></blockquote><p><br>■さて、「蛇の子孫」は、創世記3:15の宣言「おまえ(蛇)の子孫と女の子孫の間に敵意をおく」と内容が合致します。主イェシュアについては神の子でありながら「人の子」と聖書で何度も表現されています。ファリサイ派は「蛇,蛇の子」。主イェシュアは「人の子」です。<br><br>女の子孫については下記を参照。</p><blockquote class="seiku"><p>女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。<br>(ヨハネの黙示録12:5 口語訳)</p></blockquote><p>ファリサイ派の子であるパウロは、黙示録12:17の「女の子孫の残りの者たち」のペトロたちと衝突していました。<br><br>■次に「目から鱗のような物」について見ていきます。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>するとたちどころに、サウロの目から、<span class="bgy">うろこのようなもの</span>が落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、<br>(使徒行伝9:18-19 口語訳)</p></blockquote><p>上述を考慮すると、これは魚の鱗ではなく<span class="red">「蛇の鱗」</span>に繋がります。魚は話と関連が無いですが、蛇なら有ります。ファリサイ派は蛇に関連しますが、魚が関連するのは漁師だったペトロたちです。それと、ペトロの故郷であるベツサイダの意味は「漁師の家」という意味のアラム語に由来します。それから、マタイ7:10の「魚を求めるのに、蛇を与える者があろうか」も参考。<br><br>このように聖書では、「魚」と「蛇」を対比させて示唆していたわけですね。<br><br>■次に事象を見ていきます。<b>蛇の目にはアイキャップという透明の鱗があり、脱皮の時に目の鱗が剥がれ落ちます。</b>ただし、脱皮不全で目の鱗が残る場合があります。蛇は脱皮前に「拒食」、脱皮後に「食事をして元気」を取り戻します（使徒9:9,9:19参照）。種の個体差はありますが、目が白く濁り、三日前後で脱皮準備、脱皮開始、その後三日前後で脱皮完了です。<br><br>蛇の脱皮は「新生」と言われますが、この場合の新生は、キリスト者の「新生」と何か違います。それから、蛇の脱皮時は乾燥していると脱皮不全（新生の失敗）で健康に影響が出たり失明する事があります。※ダマスコは乾燥地帯<br><br>それから、パウロは病気だったのか目が悪くなっていました。ガラテヤ4:15で「あなたがたは自分の目をえぐり出してでも、私に与えようとした」とあります（前節4:13-14も考慮）。同書6:11では「私自身の手で、こんなに大きい字で、あなたがたに書いている」（欽定訳:現在完了,原語:第一アオリスト）とあります。最後だけ自分で書き、大きな字で書かないと認識できない状態だったのかもしれません。他の書簡は本文を口述筆記し、挨拶だけ自分で書いていたとあります[ローマ16:22,コリント第一16:21,コロサイ4:18,テサロニケ第二3:17,フィレモン19参照]。<br>※偽書とされるエフェソ書や牧会書簡は、最初から最後まで自筆のように見える。</p><p><br>さて、目の症状は「鱗」と関係あるでしょうか。もしくは「光」と関係あるのでしょうか（⑫を参考）。パウロの周りを照らすほどの光を見て一時的に失明し、目から鱗のような物が出たのなら「目」と関連します。<br><br>なお、石打ちにより両目が悪くなる確率は、極めて低いです（わざと両目を潰す目的でもない限り）。片目の視力が悪くなる可能性は考えられますが、片目が無事であれば「大きな字」でなくても普通に書けますし、また、片目が無事であれば「自分の目をえぐり出してでも、私に与えようとした」というのは過剰な感じがあります。</p><p><br>こういうわけで後半は余談でしたが、ファリサイ派（へび）の子であるパウロは、蛇の子だったようです。父・子・聖霊とあるように、聖書では初めから「誰が父で、誰の子か」は一貫した考え方です。</p><div id="7">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑦啓示が本物か確認を怠った</h2><p>下記二つによると、本当に「イエス・キリストの啓示」だったのかを確認するために、すぐに使徒たちのところへは行かなかったようです。</p><blockquote class="seiku"><p>兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただ<span class="sen0">イエス・キリストの啓示によったのである。</span><br>(ガラテヤ1:11-12 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。それから再びダマスコに帰った。その後三年たってから、わたしはケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間、滞在した。しかし、主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった。<br>(ガラテヤ1:17-19 口語訳)</p></blockquote><p>誇らしく言っているのは気になりますが、流します。素朴な疑問ですが、もし上記がイエス・キリストの啓示ではなかった場合、どうするのでしょう。統一教会の文鮮明もイエス・キリストの啓示があったと言っていました。幻視の中で「まばゆい光とともにイエスが現れた」とされ、任命されたとしています。事実であれば、使徒⋯⋯。<br><br>下記ではヨハネの忠告があります。</p><blockquote class="seiku"><p>愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。<br>(ヨハネの手紙一4:1 口語訳)</p></blockquote><p>口語訳では「ためしなさい」ですが、原語は「δοκιμάζετε：確かめなさい,吟味しなさい」等で訳せます。<br><br>パウロは、その後の行動を見る限り、上記の確認を怠ったようです。彼自身の言葉で、こうあります。</p><blockquote class="seiku"><p>こういう人々は<span class="sen0">にせ使徒</span>、人をだます働き人であって、<span class="sen0">キリストの使徒に擬装</span>しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。<span class="sen0">サタンも光の天使に擬装</span>するのだから。だから、たとい<span class="sen0">サタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装</span>したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。<br>(コリント第二11:13-15 口語訳)</p></blockquote><p>上記の知識をどうやって入手したのかはともかく、「サタンも光の天使に擬装する」とあります。であれば、主をも装う可能性があるでしょうから、やはりすぐにでも使徒たちの所へ行き確認が必要です。「にせ使徒」とありますので、<span clss="red">使徒ではないのに「使徒」と名乗る不届き者が、この時には既に存在していたようです。</span><br><br>「にせ使徒」「キリストの使徒に擬装」「義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない」とあります。確かに気をつけないといけません。<span style="color:#ff0000;">自ら「偽使徒です」と言う偽使徒はいません。</span>むしろ偽使徒は、自分が使徒であると強調し、疑われても必死に弁明するはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>ところで、ペトロたちは主の公生涯の間に弟子となり、教えを学び鍛えられ、初めから一緒にいた者として使徒任命されました。兄弟たちを牢に送り処刑にも加担し、ファリサイ派で厳しく学び、人一倍に熱心に口伝律法を守っていたパウロは、その過程を辿りませんでした。[使徒22:3-4,ガラテヤ1:14参照]<br>&nbsp;</p><fieldset style="padding:4px 15px 12px;margin:0;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><legend align="left"><span style="padding:0 2px;font-size:1.08em;margin:0 3px 0"><b>要点</b></span></legend>啓示後に確認を怠った事に加え、福音（教え）をペトロたちから聞かなかった事は、問題があります。なぜなら、現在のように福音書が無かったのですから。</fieldset><div id="8">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑧パウロは(偽)預言者か</h2><div>彼が(偽)使徒だったのかは一旦置いておき、(偽)預言者だったのか見ていきます。下記参照</div><blockquote class="seiku"><p>わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。<br>(テサロニケ第一4:15-17 口語訳)</p></blockquote><p>まず上記は「わたしたちは」とあるため、パウロの預言とは確定できません。ともかく自分たちが死ぬ時までに主の再臨があると思っていたようです。初めの挨拶でパウロ,シルワノ,テモテの名が出てくるため、彼ら三人がそのように考えていたのでしょうか。<br><br>シルワノとシラスは同一人物の説があり、使徒15:32では「シラスは預言する者」とあります。[シルワノ（ラテン語）= シラス（ギリシャ語）]。使徒17:1のテサロニケでもシラスは出てきますし、17:14-15,18:5では「シラスとテモテ」が揃って出てくるため、同一人物なのは濃厚でしょう。<br><br>■次に、下記では「パウロの語っている言葉がキリストによるのか」、証拠を求められています。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしは、前に罪を犯した者たちやその他のすべての人々に、二度目に滞在していたとき警告しておいたが、離れている今またあらかじめ言っておく。今度行った時には、決して容赦はしない。なぜなら、あなたがたが、<span class="bgy">キリストのわたしにあって語っておられるという証拠</span>を求めているからである。キリストは、あなたがたに対して弱くはなく、あなたがたのうちにあって強い。<br>(コリント第二13:2-3 口語訳)</p></blockquote><p>「キリストのわたしにあって語っている」と分かりづらい言い回しですが、これは「キリストがわたしに語っている」もしくは「キリストの名によって語っている」と言い換えられそうです。だから、その「証拠」を求められているのです。<br><br>上記書簡の前に出された下記発言が決定打となったのでしょう。</p><blockquote class="seiku"><p>もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、<span class="sen0">主の命令</span>だと認めるべきである。<br>(コリント第一14:37 口語訳)</p></blockquote><p>上記によると、この人がコリント人に書いていることは、主の命令とのことです。それができるのは<b>「預言者」</b>です。確かに主の名、権威を用いています。<br><br>下記でも主の権威を用いています。</p><blockquote class="seiku"><p>こういうわけで、離れていて以上のようなことを書いたのは、わたしがあなたがたの所に行ったとき、倒すためではなく高めるために<span class="sen0">主が授けて下さった権威を用いて</span>、きびしい処置をする必要がないようにしたいためである。<br>(コリント第二13:10 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>兄弟たちよ。<span class="sen0">主イエス・キリストの名によってあなたがたに命じる</span>。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた言伝えに従わないすべての兄弟たちから、遠ざかりなさい。<br>(テサロニケ第二3:6 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしは<span class="sen0">主によって命じる</span>。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。<br>(テサロニケ第一5:27 口語訳)</p></blockquote><p>例えば、この記事の筆者が「主によって命じる。この記事を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい」と書いたら、どうなるでしょう。<br><br>さて、先の題⑦のガラテヤ1:12で<mark style="background:#eceef0c7"> “わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。” </mark>と書いていました。そもそも、神（神の子）の声を聞き、啓示で与えられた命令を宣べ伝えたのなら、<span class="red">それを「預言者」というのではないでしょうか。</span>未来の事を伝えるだけが預言者ではありません。モーセのように教えを受け伝えたり、時にヨナのように警告を伝える者、時に良い知らせを伝える者でもあります。ダニエルのように御使いを通しての場合もあります。<br><br>使徒27:22-25では、御使い(？)を通して、預言に近い告知を受けたとされています。擬装した御使いではなかったということなのでしょうか。<br><br>既出のヨハネの手紙一4:1では、この時点で既に「多くの偽預言者が世に出てきている」とありました。マタイ7:15-20では「偽預言者たちに警戒しなさい」と予め弟子たち（私たち）に警告されていました。</p><div id="9">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑨パウロは聖霊を受けたのか</h2><blockquote class="seiku"><p>しかし、わたしの意見では、そのままでいたなら、もっと幸福である。わたしも神の霊を受けていると思う。<br>(コリント第一7:40 口語訳)</p></blockquote><p>上記で「神の霊を受けていると思う」と自信がなさそうな発言になっています。ただ、ギリシャ語原語の意味合いで、そのように見えるだけかもしれないため、流します。<br>&nbsp;</p><p>コリント書では下記のように、奇跡・力についてや、幻体験の話は出てきますが、<span class="red">彼の場合は聖霊が降ったとは書かれていない</span>のが気になります。</p><blockquote class="seiku"><p>そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。<br>(コリント第一2:4 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>しかし主のみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、高ぶっている者たちの言葉ではなく、その力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく、力である。<br>(コリント第一4:19-20 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。<br>(コリント第二12:12 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた──それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。<br>(コリント第二12:2 口語訳)</p></blockquote><p><br>なお、下記によると聖霊を受けていなくても、主の御名で悪霊を追い出すことができるようです。</p><blockquote class="seiku"><p>ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。<br>(マルコ9:38 口語訳)</p></blockquote><p><br>下記によると、やはり奇跡や力があるだけでは、証明にはならないようです。</p><blockquote class="seiku"><p>その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。<br>(マタイ7:22-23 口語訳)</p></blockquote><p><br>ローマ5:5で「わたしたちに賜わっている聖霊」と言っているから「聖霊を受けているのでは」と思えそうですが、この手の言葉はよく使われます。カルト団体でも「神に選ばれたわたしたち」、「神の導きによって」、「聖霊の働きによって」など事実と違っていても、誰でも使用できる言葉です。<br><br>ちなみに、回心したとされる使徒9:3の体験は聖霊が与えられた体験とは違うようです[後述⑫参考]。<br>&nbsp;</p><div id="10">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑩パウロは悪霊に取り憑かれていたか</h2><blockquote class="seiku"><p>そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、<span class="bgy">高慢にならないように、わたしを打つサタンの使</span>なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。<br>(コリント第二12:7-8 口語訳)</p></blockquote><p>上記の「彼」と訳された箇所は、新共同訳では「この使い」、新改訳では「その使い」と意訳されています。文脈上「とげ＝サタンの使い」です。<br><br>上記は二つの解釈が考えられます。</p><div style="margin:10px 0;padding:6px 5px 6px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><ul class="ulul"><li>肉体に一つのとげ（怪我や病気）をサタンの使いが与え、そのとげを取り払ってほしかった</li><li>肉体に一つのとげ（これ自体がサタンの使い→悪霊）が与えられ、そのサタンの使い（悪霊）を離れさせてほしかった</li></ul></div><p>文脈をそのまま読むと後者の可能性が高くなります（次の題⑪も考慮）。サタンの使いがずっと肉体に付き離れないのなら、それは悪霊に取り憑かれている以外の何ものでもありません。聖霊と悪霊の同居があり得るかどうかはともかく、「高慢にならないように、わたしを打つサタンの使」とあります。もし悪霊が常に側にいるのなら余計、高慢になりそうです。<br><br>下記の記述は、パウロを信じたルカによる福音書にだけ記載されています。</p><blockquote class="seiku"><p>シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。<br>(ルカ22:31 口語訳)</p></blockquote><p>さらっと重要なことが書かれています。似たような話がヨブ記の初めにありました。原語では、「願って」と訳された箇所は「要求した」の方が適切です。また口語訳では「許された」とありますが、原語ではありません。<br><br>「ペトロたちだけではなく、信仰に入った兄弟全員がふるいにかけられる」という意味かと思われます。パウロの所にサタンの使いが来た理由と関係はあるのでしょうか。</p><div id="11">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑪パウロの裏切りは預言されていたか</h2><p>旧約聖書のサウル王とパウロは、同じ名前でした。使徒9:1でサウロ[Σαῦλος=Saulos]とありますが、4節では「サウル、サウル」[Σαούλ=Saoul] と二回呼び掛けがあります。17節も同様に [Σαοὺλ=サウル] です。口語訳と新改訳では全て「サウロ」になっていますが、新共同訳では原語どおり、サウロとサウルで分けて訳しています。七十人訳ではサウル王も [Σαουλ=Saoul] です。<br><br>サウル王と同じ名前で、同じベニヤミン族出身です。そしてサウル王は悪霊に悩まされ、パウロもトゲであるサタンの使い（悪霊）が来て、悩まされました。聖書には<b>「予型」</b>という型があり、歴史の繰り返しがありますね。サウル王は、嫉妬と高慢により、神様とダビデに反逆しました。パウロも、嫉妬と高慢により、神様と主イェシュアに反逆したのでしょうか。<br>&nbsp;</p><fieldset style="padding:0 15px 12px;border:1px solid #778899;border-radius:2px;margin:0"><legend align="left"><span style="padding:0 2px;font-size:1.08em;margin:0 3px 0"><b>余談</b></span></legend>使徒13:7でローマ総督セルギウス・パウルス（セルジオ・パウロ）が出てきて、9節からサウロの名がローマ名のパウロになっています。何らかの影響でしょうか。<br>「パウロ→小さい者」の意味ですが、マタイ5:19では「これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれる」とあります。</fieldset><p><br>次に、下記の二聖句も参考。</p><blockquote class="seiku"><p>ヤコブはその子らを呼んで言った、「集まりなさい。後の日に、あなたがたの上に起ることを、告げましょう、<br>(創世記49:1 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p><span class="bgy">ベニヤミンはかき裂くおおかみ</span>、朝にその獲物を食らい、夕にその分捕物を分けるであろう」。<br>(創世記49:27 口語訳)</p></blockquote><p>口語訳・新共同訳では「後の日に」となっていますが、新改訳では「終わりの日に」とあります。欽定訳でも「last days」で、ヘブライ語原語でも「בְּאַחֲרִ֥ית：last,end,final,descendants」のように、概ね同じ意味の「終わりの日」や「終末」と訳すことが多いです。サウル王の時代は終末ではありません。<br><br>後述のローマ11:1,フィリピ3:5で<b>「ベニヤミン族出身」</b>と、自身の発言でしっかり残っているのも小さな根拠の一つです。<br>&nbsp;</p><p>上記ヤコブの預言は、17節のダン族と27節ベニヤミン族は、なぜか、理由が示されないまま痛烈に書かれています。そして預言どおり、黙示録7:5-8のイスラエル十二部族からダン族は外されています。ダン族は偶像崇拝をして神様から離れたのでしょう[士師記18:30-31]。ところがベニヤミン族は7:8で十二部族から外されていません。つまり、ダン族は全体が駄目だったが、ベニヤミン族はその一部が「かき裂くおおかみ」と考えられます。下記七つを参照。</p><blockquote class="seiku"><p><span class="bgy">にせ預言者</span>を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は<span class="bgy">強欲なおおかみ</span>である。<br>(マタイ7:15 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>ヨハネは、<span class="bgy">パリサイ人</span>やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「<span class="bgy">まむしの子ら</span>よ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちは<span class="bgy">のがれられると</span>、だれが教えたのか。<br>(マタイ3:7 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p><span class="bgy">へびよ、まむしの子ら</span>よ、どうして地獄の刑罰を<span class="bgy">のがれることができようか</span>。<br>(マタイ23:33 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そこでイエスは言われた、「<span class="bgy">パリサイ人</span>とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。<br>(マタイ16:6 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、「兄弟たちよ、<span class="bgy">わたしはパリサイ人</span>であり、<span class="bgy">パリサイ人の子</span>である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである」。<br>(使徒行伝23:6 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、<span class="bgy">ベニヤミン族の者</span>である。<br>(ローマ11:1 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、<span class="bgy">ベニヤミン族の出身</span>、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上では<span class="bgy">パリサイ人</span>、<br>(フィリピ3:5 口語訳)</p></blockquote><p>ベニヤミン族でパリサイ人。当てはまっています。</p><div id="12">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑫パウロの回心話の疑問点</h2><blockquote class="seiku"><p>サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。<br>(使徒行伝9:7 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。<br>(使徒行伝22:9 口語訳)</p></blockquote><p>回心話は上記二つと26:13と、一つの書の中に計三回あります。※ガラテヤ1:16にも少しあり。<br>この回心話には、おかしな点が<span class="bgb">六つ</span>あります。<br>&nbsp;</p><p><span class="bgb">(一)</span> 上記9:7では「同行者たちは声を聞いた」ですが、22:9では「同行者たちは声は聞かなかった」となっています。新改訳では「聞き分けられませんでした」の訳。話を盛ったり嘘をついていると、一貫性がなくなるものですが果たして。<br><br><span class="bgb">(二)</span> 使徒9:4-7で「彼は地面に倒れ同行者たちは無言で立っていた」、22:7「私は地面に倒れ」ですが、26:14では「私たちは皆、地に倒れた」とあり、影響範囲が大きくなりました。<br><br><span class="bgb">(三)</span> 使徒9:3「光」、22:6「強い光」、26:13「太陽より明るく輝く光」と表現が段々と激しくなっています。<br><br><span class="bgb">(四)</span> 使徒9:3「光が彼の周りを照らした」、22:6「光が私の周りを照らした」ですが、26:13では「光が私と同行者との周りを照らした」と光の範囲が広がりました。※詳細な説明を加えたと言えなくもない。<br><br><span class="bgb">(五)</span> 使徒5:33-42では、彼の師であるファリサイ派のガマリエルによる、迫害を思いとどまらせる穏健な提案が耳に入っていないとは考えにくいため、それに賛同せず迫害に回ったのでしょう。回心したとされる直前まで迫害に息巻き、まったく悔い改めていませんでした。ですが突如「-100から+100」へ、一気にスーパーマンのように転身とされています。主は何でもできますが、問題は、実際にそのようになさるかどうかです。パウロは人一倍熱心なファリサイ派でしたが、彼が「良い選び」の対象になるかはともかく、その後もファリサイ派でした。マタイ23:33では「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」とありました。<br><br><span class="bgb">(六)</span>「信仰に入る」とは、部分的にでも悔い改めて主を信じた時の事を言います。パウロの場合は「悔い改める前・信仰に入る前」に光に照らされ声が聞こえたとなっています。使徒19:2では「信仰に入った時に、聖霊を受けたのか」と尋ねています。そうなると、この体験は聖霊を受けた事になっていなさそうです。そうでないと、悔い改める前の人類全員に強制的に聖霊を与え、回心させて救うことができることになります。<br>&nbsp;</p><p>■これらによって、彼の回心をそのまま信用はできません。</p><div id="13">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑬兄弟たちはパウロを疑っていた</h2><blockquote class="seiku"><p>わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。<br>(コリント第一9:1-3 口語訳)</p></blockquote><p>「批判」の箇所は正確には「ἀνακρίνουσίν：審査する,調査する,尋問する」です。「使徒」を繰り返していますが、これは、使徒であるかどうかを疑われていた証拠です。先の⑧で挙げたコリント第二13:2-3でも、疑われていました。</p><p>&nbsp;</p><p>黙示録2:2のエフェソ信徒が偽使徒を見破った話の方は「ἐπείρασας：試す,試みる」で、意味合いは少し違いますが似ています。</p><p><br>「あなたがた」とありますので、疑う人たちが存在したようです。コリント第二書の方はアカイア州全体にも宛てられていますが、コリント第一1:12のパウロ派の人たちは信じていたようです。それにしても「信仰に入った兄弟たち」に疑われるというのは、奇妙な状況です。例えばペトロたち十二使徒が、信仰に入った兄弟たちに、使徒なのか疑われることがあるとは考えにくいです。<br><br>パウロはペトロたちやエルサレム教会から「使徒として認められていなかった疑惑」もあります。ペトロたちがパウロのことを、使徒と認めたとは書いていません。自己証言のみです。<br><br>彼がどれほど疑われていたのか、発言から読み取れます。下記参照（省略私訳）。</p><div style="margin:10px 0;padding:6px 5px 6px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><ul class="ulul"><li>私があなたがたを絶えず思っていることは神が証人である[ローマ1:9]</li><li>私は偽りを言わない[ローマ9:1]</li><li>私は自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言う[コリント第二1:23]</li><li>神は私が偽りを言っていないことを、ご存じである[コリント第二11:31]</li><li>神の御前で言うが、決して偽ってはいない[ガラテヤ1:20]</li><li>私が愛をもってあなたがたをどんなに慕っているか神が証人である[フィリピ1:8]</li><li>私たちはへつらいの言葉を用いなかった。神が証人である[テサロニケ第一2:5]</li><li>私は真実を語っており、偽りを言っていない[テモテ第一2:7]</li><li>私は神とイエス・キリストと御使いの前で宣言する（TR底本）[テモテ第一5:21]</li><li>神の御前とキリスト・イエスの御前で厳かに宣言する（TR底本）[テモテ第二4:1]</li></ul></div><p>発言に色々と思うところがありますが、流します。<br>&nbsp;</p><p>疑われた理由は「自称使徒のこと,教えが違う,人間性(実)」以外に、エルサレム本拠からの推薦状が無かったことも要因でしょう。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>わたしたちは、またもや、<span class="bgy">自己推薦</span>をし始めているのだろうか。それとも、<b>ある人々のように、あなたがたにあてた</b>、あるいは、あなたがたからの<span class="bgy">推薦状</span>が必要なのだろうか。わたしたちの<span class="bgy">推薦状</span>は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。<br>(コリント第二3:1-2 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>■4:2「（わたしたちは）<span class="bgy">自分を推薦</span>している」</p><p>■5:12「またもや<span class="bgy">自己推薦</span>をしようとするのではない」</p><p>■10:12「わたしたちは、<span class="bgy">自己推薦</span>をするような人々と自分を同列においたり比較したりしない」</p><p>■10:18「自分で<span class="bgy">自分を推薦</span>する人ではなく、主に<span class="bgy">推薦される</span>人こそ、確かな人である」</p><p>■12:11「あなたがたから<span class="bgy">推薦される</span>べきであった」<br>(省略 私訳)</p></blockquote><p><br>ここでは「推薦」という語がたびたび出るため、どうやら推薦状が無いことを問い詰められたようです。当時は推薦状を出すのは一般的で、信用を担保するうえで重要だったようです[使徒15:22,18:27]。現代でも「職,学業,交友関係」で推薦状が必須の時があります。主イェシュアが来られる旧約預言も、ある意味では推薦です。</p><p><br>パウロが1年半かけて開拓したコリント教会ですが、後に<b>推薦状を携えて派遣された兄弟たち</b>がやって来たのでしょう。推薦状を持たず「律法は不要」という趣旨の重大なことを言う人を、信じるユダヤ人はあまりいません。ただでさえ主イェシュアの御名を広める伝道で騒動になるのに、もっと騒動になるのは当然です[使徒24:5]。<br><br>そもそも、仮に、律法を守らなくても良いという重要な教えであれば、主イェシュア御本人が直接言われます。教師、すなわち教えるために来られたのですから[マタイ23:10]。「律法の一点、一画もすたることはなく」とは、はっきり言われました。[マタイ5:18]<br>&nbsp;</p><p>以上によって、パウロを信用していなかった兄弟の割合は、現代に考えられているよりも多かったと推定できます。</p><div id="14">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑭パウロの教えは毒麦か</h2><blockquote class="seiku"><p>イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である。畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。<br>(マタイ13:37-40 口語訳)</p></blockquote><p>毒麦のたとえは、マタイ13:24-30と13:36-43の二箇所にあります。毒麦がどういうものか下記参照。</p><fieldset style="margin:15px 0 4px;padding:4px 5px 12px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><legend align="left"><span style="padding:0 2px;font-size:1.08em;margin:0 3px 0"><b>毒麦（ドクムギ）とは</b></span></legend><ul class="ulul"><li>欧州、または西アジアが原産とされる</li><li>明治時代に渡来し帰化植物となる</li><li>道端や牧草や麦畑にも生える雑草</li><li>毒麦と小麦は日本には少ない</li><li>小麦に交じって生育し、穂が出るまで（刈り取りまで）は小麦と判別しづらい</li><li>小麦の根に絡みつくため、毒麦を抜くと小麦まで抜いてしまう恐れがある</li><li>毒麦が混ざった粉で作ったパンは人間に有害</li><li>毒麦を食べると家畜も中毒を起こす</li><li>元々、毒麦自体に毒は無く、種子に麦角菌が感染し、菌の毒素により中毒となる</li><li>菌が感染していない個体は毒性がほとんどないとされる</li><li class="no-marker">※ライ麦（麦角菌に感染しやすい）を主食とした中世の欧州では中毒が頻発した</li></ul></fieldset><p><br>さて、上記<b>「良い種をまく者は、人の子」</b>で、下記では<b>「ファリサイ派の子も種をまきました」</b>。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。<br>(コリント第一3:6-7 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。<br>(コリント第一9:11 口語訳)</p></blockquote><p>種をまいて（植えて）います。<br><br>マルコ書では、下記のようにあります。</p><blockquote class="seiku"><p>種まきは御言をまくのである。<br>(マルコ4:14 口語訳)</p></blockquote><p>つまり、主イェシュアの御言葉とは違う「新しい独自の教え,新しい独自の命令」をまいている人は怪しいということになります。当時はまだ新約聖書が無かったため、そもそも主の教えを聞かなかった人は、上手く御言葉をまくことはできないと思われます。<br>&nbsp;</p><p>下記では、「ファリサイ派のパン種（教え）」に警戒するよう言われました。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。<br>(マタイ16:11-12 口語訳)</p></blockquote><p>⑤のとおり、彼はずっとファリサイ派でした。ファリサイ派出身の信徒が説く「偽の教え（パン種）」に気を付けるようにと忠告されていたのです。毒麦は小麦と似ていて、外からだと一見、似た教えのように見えます。刈り取りの時期、すなわち終わりの日に近づくほど、真実が明らかにされ、別物と見分けられるということです。<br><br>主が警戒するようペトロたちに言われたということは、<span class="red">敵は初期段階で種をまいた</span>と推定できます。</p><div id="15">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>⑮パウロの門は広い門か</h2><p>狭い門については下記を参照。</p><blockquote class="seiku"><p>狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。<br>(マタイ7:13-14 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。<br>(マタイ22:14 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。<br>(マタイ20:16後半-TR底本 私訳)</p></blockquote><p>上記の狭い門は、大学入試で使われる「狭き門」とは意味合いが違います。門自体が目立たず、見つけても通りづらく、多くはそこから入ろうとは思わないため、狭い門という意味です。<span class="red">日本ではキリスト者になる事そのものが稀なため、それで狭い門をくぐったと錯覚しがち</span>ですが、信仰に入った後にどの狭い門から入るかということです。<br><br>マタイ22:10で誰かれ構わず招いていますので、字義通りだとその中から「選ばれる者は少ない」ということでしょう。信仰者の中でも少数派のようです。通常は、正しい福音の方が広まると考えますが、上記マタイを考慮すると「広まっていない」ことの方が軍配が上がります。パウロの教えの門は大きく、入りやすく、その道は広く、歩きやすく、目立ちますが、どうでしょう。<br>&nbsp;</p><p>ちなみにコリント第一16:8-9では<b>「有力な働きの門がわたしのために大きく開かれている」</b>とありますが、上記聖句とは門の単語が違います。[マタイ：πύλη→gate→門] [コリント：θύρα→door→門,戸]<br>&nbsp;</p><p>さて、命に至る方が少数とのことですが、門を教派別の「統計」で試しに見てみます。世界では、カトリック・プロテスタント・正教会で、95％近くを占めるとされます。下記参照</p><div class="table0"><label class="table1">教派　人口比率</label><p class="table2">■世界人口：約80億人<br>■キリスト教徒：約23〜26億人<br>■カトリック：約50%→11〜13億人<br>■プロテスタント：約35〜37%→8億人<br>■正教会：約10〜12%→2〜3億人<br>※残りが東方諸教会（東方典礼カトリック、アッシリア教会）やその他の少数派</p></div><p>上記だと一見、三つの中で正教会が狭いように見えますが、プロテスタントと教義はあまり変わらない、と言うと怒られてしまうでしょうか。日本ではプロテスタント系が一番多いですね。</p><p>&nbsp;</p><p>上記の他にも、統計に反映されない家庭集会に集うキリスト者や、隠れキリスト者（野良クリスチャン）がいます。<br><br>下記では、こういう預言もあります。</p><blockquote class="seiku"><p>主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。<br>(ゼカリヤ13:8-9 口語訳) ※原語[×生き残る ◯残る]</p></blockquote><p>字義どおりなら、三分の一から精錬された者だけが「神の民」になるのでしょうか。先の表では全世界の約三分の一がキリスト教徒になっていました。一応、黙示録21:24-22:2には、都の外に諸国民がいるようにも読めます。ただ、諸国民は「命の木の『木の葉』で癒される」とありますが「命の木の実」が貰えるとまでは書かれていないのが気になります。</p><p><br>上記の預言は「ローマ軍によるユダヤ戦争（紀元70年頃）で多数が滅び、残りが精錬され成就した」という見方もできますが、型として将来の二重成就になっているという見方もあります。</p><p><br>上記の「精錬」は比喩ではありますが、精錬比率を出してみます。<br><span class="bgy">[精錬:鉱石1トン（100万g）あたり金2〜20g 銀150〜300g]</span><br>人間に換算してみると、100万人に2〜300人といった感じになります。現代の日本人だけで見ると、キリスト者は2%以下しかいないため、約200万人がキリスト者と想定して、単純計算だと「金4〜40人：銀300〜600人」程になるのでしょうか。男女混みでこの数字であれば厳しいです。<br><br>黙示録では「誰にも数えきれないほどの大群衆」とあります。ただ、二千年分に加えて、今後の人々も含めると「割合では少数でも絶対数では多い」ということでもあります。<br><br>...前編はここまでです。後編では別角度から見ていきます。<br><br>&nbsp;</p><p><a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972543361.html" rel="noopener noreferrer">≫後編の記事へ</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><div><style type="text/css">.seiku2{  background:#99aabb;  height:1px;  margin:12px 11px 12px 5px}blockquote.seiku {  border:1px solid #99aabb;  background:#ebeef2c2;  margin:0 auto 4px;  padding:12px 10px 12px 12px;  border-radius:5px;  quotes:none}blockquote.seiku::before, blockquote.seiku::after {  content:none;}.seiku p {  line-height:1.6}h2{color:#223344}h2.koumoku {display:flex;font-size:20px;margin:8px 0;margin-left: -7px}.koumoku2 {width:8px;background:#778899;margin-right:5px;border-radius: 2px;height: 38px;margin-top: -3px}.table0{border: 1px solid #778899;border-radius:2px;margin:15px 0}.table1{background:#ebeef2c2;display:block;text-align:center;padding:3px;border-bottom:1px solid #778899;font-size:17px}.table2{padding:3px}.ulul li{margin:7px;line-height:1.4;}[data-uranus-component="entryBody"] ul {margin:0}._1WkQWJsL ol, ._1WkQWJsL ul {padding: 0px;margin:2px}.no-marker {  list-style: none}.ulul{  padding-left:10px !important}.sen0 {padding-bottom: 0.12em;  background: linear-gradient(    transparent 87%,    #334455 100%)}.sen1 {text-decoration: underline double;text-underline-offset:2px}.sen2 {  text-decoration: underline wavy red;  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<link>https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972543308.html</link>
<pubDate>Tue, 04 Aug 2026 20:48:05 +0900</pubDate>
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<title>食物規定は今も有効か</title>
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<![CDATA[ <div><img alt="" contenteditable="inherit" height="405" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260730/16/genshi7/a5/a1/p/o1672094115807472483.png" width="720"></div><div class="sp">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><nav aria-label="目次"><details class="mo" open><summary>目次</summary><p><a href="#00"><mark class="bgp">□</mark>本題に入る前に</a></p><p><a href="#0"><mark style="background:#b7dcff">□</mark>聖句 --予備知識--</a></p><p><a href="#1">1. 発端は手を洗わなかったこと</a></p><p><a href="#2">2. 翻訳上の問題</a></p><p><a href="#3">3. 口伝律法から離れさせるため</a></p><p><a href="#4">4. 律法を廃止しない明言</a></p><p><a href="#5">5. 消化・排便の言及理由</a></p><p><a href="#6">6. 食べ物を軽く見てはいけない</a></p><p><a href="#7">7. 食物規定が定められた理由</a></p></details></nav><div id="00">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 style="font-size:20px;margin-bottom:9px"><mark class="bgp">□</mark>本題に入る前に、下記を◯×形式で見てみましょう。</h2><div style="line-height:1.47;padding:7px;margin-bottom:17px;border-radius:2px;border:1px solid #778899"><p><mark class="bgp">□</mark>当時のユダヤ人たちは、豚やネズミを食べ物と思わない。食べ物と認識しない。<br><br><mark class="bgp">□</mark>律法学者・ファリサイ派たちは、洗わない手で食べ物(食物規定内の)に触れると、その食べ物は汚れると思っていた。<br><br><mark class="bgp">□</mark>上記の汚れた(と思い込んでいる)食物規定内の食べ物を食べると、食べた本人が汚れると思っていた。<br><br><mark class="bgp">□</mark>上記の汚れを避けるため、念入りな手洗い、市場から帰ると身を清めてからでないと食事をしなかった。他に、杯、鉢、銅器、寝台なども洗い清めていた。その言い伝えを先祖から受け継いで堅く守っていた。<br><br><mark class="bgp">□</mark>上記の徹底した事を、ファリサイ派たちだけでなく、庶民に至るまでユダヤ人は皆、堅く守っていた。<br><br><mark class="bgp">□</mark>ファリサイ派たちは言い伝えのために、神の掟を破り蔑ろにしていた。口先だけ神を敬う偽善者だった。群衆はそんな人たちを先生と呼び、付いていけば共に穴に落ちるのみだった。</p></div><p>聖書に照らし合わせると、上記は全て◯です。背景を把握すると理解しやすくなります。<br>※上記については記事内に解説があります。</p><div id="0">&nbsp;</div><p>&nbsp;</p><h2 style="font-size:20px;margin-bottom:4px"><mark style="background:#b7dcff">□</mark>聖句 --予備知識--</h2><p><span style="font-size:1em">下</span>記①～⑦の聖句を使用。最後まで何度も参照するため、<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972542954.html#0" rel="noopener" target="_blank">別のタブに表示</a>しておいてください。</p><p>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>①.わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。これは獣と鳥と、水の中に動くすべての生き物と、地に這うすべてのものに関するおきてであって、汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、食べられない生き物とを区別するものである。<br>(レビ記11:44-47 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>②.見よ、主は火と共に来られる。主の戦車はつむじ風のように来る。怒りと共に憤りを 叱咤と共に火と炎を送られる。主は必ず火をもって裁きに臨まれ剣をもって<span class="sen0">すべて肉なる者</span>を裁かれる。主に刺し貫かれる者は多い。園に入るために身を清め、自分を聖別しその中にある一つのものに付き従い豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者はことごとく絶たれる、と主は言われる。<br>(イザヤ66:15-17 新共同訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>③.すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。<br>(マルコ7:18-19 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>④.イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。<br>(マタイ15:16-20 口語訳)</p></blockquote><p>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>⑤.この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、憎むべき物の、あつものをその器に盛って、言う、「あなたはそこに立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別されたものだから」と。これらはわが鼻の煙、ひねもす燃える火である。<br>(イザヤ65:3-5 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>⑥.その祭司たちはわが律法を犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。<br>(エゼキエル22:26 口語訳) ※[原語:×汚れた物 ○不浄な物、×清くない物 ○汚れた物]</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>⑦.彼らは主の地に住むことなく、エフライムはエジプトに帰り、アッスリヤで汚れた物を食べる。<br>(ホセア9:3 口語訳)</p></blockquote><p>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px"><mark class="bgb">□</mark>①の聖句について</h3><p>食物規定だけを守って聖なる者になるわけではないですが、主と同じように聖なる者となるためには守る必要がある（あった？）のですね。なぜ食物規定を守る必要があるのか、また、なぜ定められたのか、その理由もはっきり書かれています。果たして異邦人には関係がないのでしょうか。主イェシュアが来られるまでの間だけだったのでしょうか。後に解説します。<br><br>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px"><mark class="bgb">□</mark>②の聖句について</h3><p>豚やネズミを食べることに、激しく怒っておられるように見えます。豚やネズミを食べる行為そのものではなく、偶像祭儀を象徴的に批判しているという解釈もあります。しかし、「豚の肉」「忌まわしい獣」「ねずみ」と具体的な生き物を用い、「その器に盛って」と具体的に書かれており、象徴にしては描写が細かすぎます。<br><br>この66章と65章はイザヤ預言の最終章であり、裁きの日の事が書いてあります。<br><br>「すべて肉なる者を裁かれる」は、<b>[すべての肉なる者:新改訳][all flesh:欽定訳][כָּל־→all,every,whole. בָּשָׂ֑ר→flesh,meat:ヘブライ語原語]</b>で原語どおりです。「主の再臨時」のことでしょうか。ヨハネの黙示録の描写と表現が似ています。さらに下記の創世記6:13では②と同じ言葉が出てきます。</p><blockquote class="seiku"><p>神はノアに言われた。「<span class="sen0">すべて肉なるもの</span>を終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。<br>(創世記6:13 新共同訳)</p></blockquote><p>原語により近い新共同訳を用いましたが<span class="red">「すべての肉なるもの」</span>で同じです。原語も先ほどのものと比較してください。<b>[すべての肉なるもの:新改訳][all flesh:欽定訳][כָּל־→all,every,whole. בָּשָׂ֛ר→flesh,meat:ヘブライ語原語]</b>。<br><br>ノアの時代ではこの後、大勢が死にましたが、終末でも大勢の人が死に、選ばれる者は少ないようです[マタイ22:14参照]。②と似ています。歴史は繰り返しますが、まだノアの時代に対応するような終末的な出来事は、まだ起きていません（水の次は火。バプテスマに関係か）。<br><br>仮に成就されている預言である場合は<b>「すべての肉なる者」</b>が文字通りではなかったことになります。既にイザヤは9:5、11:1、53:1、59:20で来たる主イェシュアの事について預言をしていました。さらに、66:10,13節で、二回「エルサレム」が出てきます。そして②の15節があり、それを挟んで20節でもう一度「エルサレム」が出てきます。直後の22節では黙示録に記載の「新しい天と新しい地」が出てきます。その前の65:17でも「新しい天と新しい地を創造する」と書かれています。<br><br>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px"><mark class="bgb">□</mark>③の聖句について</h3><p>「イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた」とあります。この箇所は訳によって大きく異なりますが、新共同訳では③の19節最後の部分が、「こうして、すべての食べ物は清められる。」と、「」込みで、主の発言になっています。それから原文には、「イエスは」に当たる語はありません。<br><br>この箇所は「マルコ書著者が注釈として書いた」という説があります。文法的に現在分詞「καθαρίζων」が主語なしで挿入されているためで、この説は、比較的有力とされています。注釈であれば、著者の解釈が反映されている可能性が出てきます。また注釈であれば、この箇所が④のマタイ福音書ではなぜか無いことの説明がつきます。つまり、マタイ書著者が注釈だと気付いて外したという可能性です。著者の注釈は「神の御言葉」ではないため除外できそうです。マルコ書はおもに異邦人向け、マタイ書はユダヤ人向けであり、著者の立場が違います。<br><br>よって、執筆順が現在有力なマルコ先行説に従うなら、<span class="red">重要な部分を意図的に外したマタイ書著者は「食物規定が廃止とは考えていなかった」</span>ということになります。マタイ書には重要な山上の説教が含まれており、また、初期ではマタイ書とヨハネ書の二つが重要視されていました。初期の写本ではマルコ書は四番目に置かれているものが多いようです[出典:共観福音書が語る ユダヤ人イエス.299頁]。<br><br>次に、原語を確認します。ギリシャ語原語で [πάντα τὰ βρώματα：all the food] なので、「すべての食べ物」ですね。「すべての食べ物」は、本当に、多くの人が考えるように、あらゆる生き物を含むのでしょうか。先の②の「すべての肉なる者」はすべてではなかったのでしょうか。<br><br>ここで一点、重要なことがあります。<span class="red">③④の出来事の時点では、確実に「豚やネズミは、食べ物の枠に含まれていない」</span>ということを頭に入れておかなければなりません。モーセ律法の確立後、およそ1500年もの長い間、食べ物としなかったのですから[モーセの生まれ:紀元前16〜前13世紀頃]。その場にいた聴衆も主イェシュアも皆ユダヤ人です。主が「食べ物」「口に入るもの」と発せられた時点で、豚などは初めから除外です。「すべての食べ物」であったとしても同様です。<br><br>私たちも、ネズミや犬は食べ物枠に入りません（ところが食べ物とする人、国はあります）。彼らユダヤ人にとっては、豚やネズミなどの「汚れた食べられない生き物」も同じで、食べ物枠ではありません。①の律法にあるように「食べ物ではなく、食べられない物」です。新共同訳と新改訳では「食べて良い生き物と食べてはならない生き物」と訳されています。「食べられない物」か、「食べてはならない生き物」か、で意味合いは少し変わりますが、どちらにしても彼らは豚やネズミを食べ物と認識しません。<br><br>現代の私たち日本人も「すべての食べ物」と聞いた時に、犬・猫は無意識に除外しているでしょう。「ゴキブリは食べ物に含まれますか」と聞かれて「はい」と答える日本人はほぼいないでしょう。食べ物ではない物です。彼らユダヤ人は現代の私たち以上に、もっとハッキリ区別しています。このように、概念を当時の彼らと同じにして考える必要があります。<br><br>さらに、「すべての食べ物が清い」であって、「すべての生き物が清い」になっていない点も見逃せません。ノアの時代、創世記7:8の時点で、「清い動物」と「清くない動物」に分かれています。ノアの時代は、動く生き物は何を食べても良いとされました（「清くない」であって、洪水後しばらくは「汚れていなかった」のでしょうか。あるいは言っても守れないからでしょうか。）&nbsp;が、①で「汚れた食べられない生き物」と神様が命じられたのですから、それ以降は新たな命令がない限り、食べられない生き物は、食べ物枠ではないでしょう。<br><br>それから、細かいですが③「<span class="sen0">外から入ってくる</span>」と、④「<span class="sen0">口に入ってくる</span>」は同じようで違います。わずかな意味合いの違いで解釈にブレが出るため、小さなことも見逃せません。「外」か「口」のどちらかがより正確です。文脈上「外」「口」のどちらも通じるのですが、ここでは「口」であったとして話を進めます。豚やネズミや犬などは、食べ物ではないので、口に入れるものではありません。そうであれば、先の説明どおり「口に入ってくるもの」の定義に、豚やネズミや犬などは初めから除外です。文字ではなく口頭で説教を聞いていたのなら尚更、当時のユダヤ人であれば「口に入ってくるもの」「食べ物」の定義は子供でも分かります。<br><br>「腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである（原語にonlyの強調語は無い）」は、胃腸を通り、排泄されるという文字どおりの意味です。この「外に出て行く」の「外」はマタイ・マルコ両書ともありません。原語では「便所に出される（下水に排出される）」という意味です。ですから「外から入って外へ」ではありません。マタイだと「口から入って便所に出される」です。口語訳,新共同訳,協会共同訳では「外へ」になっています。岩波訳の注釈では<mark style="background:#eceef0c7"> “口語訳や協会共同訳が単に「外」としているのは、婉曲に過ぎる”&nbsp;</mark>と批判されています[出典：岩波訳-頁133]。<br><br>③④だけを読むと、現代人（異邦人）なら食物規定の廃止を意味するようにしか見えないかもしれません。ですが、<b>この話の流れは何か不自然</b>です。後に解説します。<br><br>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px"><mark class="bgb">□</mark>④の聖句について</h3><p>③と共通の話の箇所です。ほぼ同じ事が書いてあるように見えますが、先の説明で、マルコ書の「どんな食物でもきよいものとした」の部分が無いことに触れました。主イェシュアは「律法の一点一画も廃止しない」とはっきり言われましたが、汚れた食べられない生き物を含め、何を食べても良いとは一言も言っておられません。エバが悪魔に騙された時のやり取りを思い出してください。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」とはっきり言われていたのに、悪魔は神の言葉を曲げ、エバは悪魔が曲げた言葉と、魅力的な木の実の誘惑に負けました。食物規定を巡る問題と少し重なります。<br><br>主イェシュアが、人を惑わせるようなことを言われるとは考えられません。では、どういう意図で言われたのか、次の本題で探っていきます。<br><br>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px"><mark class="bgb">□</mark>⑤⑥⑦の聖句について</h3><p>やはり豚や汚れた生き物は食べない方が良いのではないでしょうか。②同様、豚の肉などを食べる行為が、忌むべきものとして扱われています。では、これらを踏まえて本題に入ります。</p><div id="1">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>1. 発端は手を洗わなかったこと</h2><p>聖句③④の発言の発端は、ファリサイ派と律法学者が、「<span class="sen0">食事の前に手を洗わないこと」を咎めたこと</span>です。マルコ7:5の「なぜ洗わない手（汚れた手）でパンを食べるのか」を参照。[マルコ7:2,7:5&nbsp; κοιναῖς χερσίν→defiled hands→汚れた手,穢れた手]</p><p>④の最後に「しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」と、手洗いの問題の結論を述べられました。※この最後の言葉はマルコ書には無い。<br>&nbsp;</p><p>マタイ15:10で「聞いて悟りなさい」と仰ったのですが、ペトロ（弟子たち）は悟れず「その譬を説明してください」と主に聞きました。そして主は、悟れないことを叱り、この話の最後で答えを言ったかたちです。食物規定廃止のことを言っているにしては、話の流れが不自然です。</p><p>もし食物規定廃止が答えだったとしたら、そのような大きな問題の答え（新たな教え）を言わずに、誰でも分かるような小さな問題の答え（手洗いのこと）だけを言うのは変です。食物規定が廃止である場合、そのような重要なことを、手洗いの問題の合間に、ついでに言ったようにもなってしまいます。<br>&nbsp;</p><p>俯瞰的な立場にいる現代の我々なら「手洗いの問題」の小さな問題の答えは、あまりにも簡単に分かります。でも、<span class="red">当時の彼らには、その答えすらも「はっきり」言われないと分からなかった</span>のです。その理由は、下記の箇所から分かります。</p><blockquote class="seiku"><p>もともと、パリサイ人をはじめ<span class="red">ユダヤ人はみな</span>、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。<br>(マルコ7:3-4 口語訳)</p></blockquote><p>「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな」、念入りな手洗いなどの言い伝え（口伝律法）をかたく守っていたからです。マルコ書ではこの手洗いの問題について、導入部分で背景の説明を丁寧にしています。「この話の主題だから」ではないでしょうか。<br><br>③の「すべての食べ物」でもπάνταの単語が出てきましたが、上記聖句の「みな」[πάντες→all→すべて]は文字通りではなく、マルコ7:2によると「弟子たちの中で手洗いしていない者がいた」とあり、中には従わない者も少数いたでしょう。ですが大多数は、食事前の念入りな手洗い・身の清めの洗浄などを過剰に行い、当時の律法学者たちの言うことに従ってむなしく主を崇めていたのです（ユダヤ社会全体でそのような空気だったのでしょう）。</p><p><br>このように「すべて」と書かれていても文字通りとは限りません。どのような意図で用いられているかを、文脈と背景から読み取る必要があります。<br>&nbsp;</p><p>話を戻します。上記の口語訳では抜けていますが「κλινῶν：寝台,食事の時に寄り掛かるマット」も洗っていたようです。これらは上記7:3・下記7:8・後掲の引用により、現代人が普通にする食事前の手洗い以上の、儀式的な清めの概念も含まれそうです。<mark style="background:#eceef0c7">&nbsp;“「こぶし」の与格（pygmēi）。意味が必ずしも明確でないと思われるので、協会共同訳などは「念入りに」などと意訳する。実際には、この表現はこぶしの上に水を注ぐ儀式的な手の「洗い」方を示す。”&nbsp;</mark>[出典:岩波訳-頁29]<br>&nbsp;</p><p>それから、マルコ7:8の日本語訳（NA底本）では、半分がありません。下記はTR原文の私訳（欽定訳も同様）</p><blockquote class="seiku"><p>あなたたちは、神の戒めを蔑ろにして、器や杯を洗い清める（βαπτισμοὺς：バプテスマする）などの人の言い伝えを堅く守っており、その他にもあなたたちは、それと同じような多くのことを行っている。<br>(マルコ7:8 TR底本 私訳)</p></blockquote><p>似たようなことが先のマルコ7:3-4に書かれていました。そして上記マルコ7:8は<b>「主の御発言」</b>です。聖書が廃れることはないですが、このように訳によっては、少しは主の御発言を削除、または追加したり、言い回しを変えて印象操作が、できるということです。「同じような多くのこと」ですから、洗い清めは現代の皿・鍋・箸・スプーンだけでなく、食台も含まれると見るのが妥当です。彼らはその類の多くのことをしないと「汚れる」と思っていたのです。<br>&nbsp;</p><p>マタイ15:2,マルコ7:5では「なぜ洗わない手でパンを食べるのか」の前に「なぜ言い伝えを守らないのか」とも言っています。彼らは聖書に無い、言い伝え（口伝律法）を重視していたのです。次節9節では、言い伝えについて叱責されましたが、主は初めからこれらの無駄な言い伝えを堅く守っていることを、繰り返し厳しく叱責しておられます。その前の6-7節でも、イザヤの預言を引用し「人間の戒め」を堅く守り「神の戒め」を蔑ろにしていることに対して、厳しく非難しておられます。<br>&nbsp;</p><p>手洗いの問題は「人間の戒め」であって、食物規定は「人間の戒め」ではありません。「神の戒め」です。手洗いの問題だったのが、唐突に<span class="red">「人間の戒め」</span>の叱責から<span class="red">「神の戒め」</span>である食物規定の廃止に、なぜなるのでしょうか。話の初めから論点は手洗いの問題（口伝律法）でした。<br>&nbsp;</p><p>だから会話の流れが不自然に見えるのです。<br>&nbsp;</p><p>当時、ファリサイ派・律法学者らはマタイ15:14で「盲人の道案内をする盲人」と言われるほどでした。父母を敬わず、父母に渡すべきものを「コルバン」と言って神への供え物だとし回避していました。これは食べ物の援助、扶養義務を蔑ろにしていたという解釈があります。「この民は口先ではわたしを敬うが」とイザヤ預言の引用でもありましたが、このような「口から出てくるもの」「中から出てくるもの」悪い心が人を汚すと仰りたかったのでしょう。だから、洗わない手で食事をしても汚れない、と。<br>&nbsp;</p><p>先ほどから「<span class="sen0"><b>手洗いの問題</b></span>」と書きましたが、実際はそれどころではなく、市場から帰っても身を清めないと、食べ物を口には入れなかったわけです。もちろん食物規定内の食べ物です。それに加え彼らは、杯・鉢・銅器も洗い清めないと、汚れが間接的に口から入り汚れると思い込んでいます（他に理由が見当たらない）。ファリサイ派だけでなく、当時のユダヤ人は皆、盲目的にやっていたのです。この背景を忘れてはなりません。<br>&nbsp;</p><p>それほどまでに、皆が神経質な潔癖だったわけですが、「現代にも似たような事」がありました。</p><div id="2">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>2. 翻訳上の問題</h2><p>ここからは聖書翻訳の問題点を指摘していきます。先のマルコ7:8の後半部分の有無、それから新共同訳では③の19節終わりが「こうして、すべての食べ物は清められる。」と「」込みで、主の発言になっていました。それから「外から入って外へ出る」という形に訳されていました。</p><p>2節では「εμεμψαντο：非難した,咎めた」がTR本文にはありますが、NA本文にはありません。非難や文句を言ってきたため、主も冒頭から「偽善者」と呼び、厳しく応じておられます。</p><p><br>他にマルコ7:16の「聞く耳のある者は聞きなさい」と、その場での締めの言葉がありません(※写本により有無)。話の流れからは、16節まで手洗いなどの問題を扱っていたと見られます。なぜならマルコ7:5で「なぜ洗わない手でパンを食べるのか」との問いに対して、<span class="sen0">きちんと返答していない</span>のですから。<br><br>次の17節以降は場面が変わりましたが、同様のことを繰り返し言っているわけですので、もし16節までが手洗いなど口伝律法の間違いを正す話だったのであれば、自動的に17節以降も延長上の同じ話になります。つまり、<span class="red">16節までで話は区切りがついており、この時点で話が食物規定廃止のことかそうでないか、決着がついています。<b>マルコ7章の1節から16節まで</b>を読み、本当に食物規定廃止の話になるのか、確認してみてください。先ほどのマルコ7:16、と8節を私訳した後半部分も補って書き込み、読んでください。 </span>※マタイなら15:1-11まで。</p><p><br>読みましたか。もし食物規定廃止であるなら、次のようになります。</p><p><br><b>[手洗い問題の背景説明 ➔ 手を洗わない事を咎め ➔ 神の戒めを蔑ろにした口伝律法である人間の戒めについての叱責 ➔ 突然14節から16節で神の戒めを廃止]</b> という非常に不自然な展開になってしまいます。この問題は「彼らが何を行い、何をしてきて、主は何に憤慨しておられ、何をさせたかったのか」それが答えです。食物規定廃止は、話題と「関連がある」ように見えて、「関係のない」話です。<br>&nbsp;</p><p>彼らは食事前の念入りな手洗いだけでなく、市場から帰ったら身を清めてからでないと食事をせず、杯、鉢、銅器、寝台をバプテスマで清めたり、他に同じような多くのことを行っていました。これらは律法に書かれていない先祖からの言い伝え、すなわち口伝律法です。そしてファリサイ派・律法学者だけでなく、ユダヤ人は皆が堅く守っていました。なぜなら、ファリサイ派や律法学者は「先生」と敬われ、教師として民衆に教えていたからです。<br><br>だから、初めから手洗いを含む口伝律法の数々をやめさせるための教えです。他にも似た多くのことがあったようですから、一から十まで全部言わないでしょう。そして重要なのは、この16節の時点で弟子たちは「洗わない手でパンを食べても汚れない」ことを悟れていないことです。もし次節17節で弟子たちが「どういう意味ですか」と尋ねなければ、以降の話はありませんでした。だから16節までで話の区切りがついたのは間違いなく、1-16節までで「食物規定廃止の話にはならない」となれば、そこで確定です。<br><br>翻訳の間違いの話に戻りますが、この話には訳語によって印象が変わる部分が多くあります。この話を読む時は毎回、マタイ15:1またはマルコ7:1の初めから読むと良いでしょう。(先の追加削除や修正部分を書き込んだ方が良いです)</p><p><br>それから“パン”ですが、新共同訳では、マタイ15:2とマルコ7:2,5で“パン”ではなく“食事”と意訳しています。協会共同訳でも同じです。口語訳ではマタイ書だけ“食事”になっています。少しづつ変わっています。パンは食事のことと理解できるのですから、原語どおり<mark class="bgy">“パン”</mark>で訳すべきです。“食事”とすると、現代の我々は「箸やスプーン」を想像してしまい、読み取りが弱くなってしまいます。<br>&nbsp;</p><p>つまり、ファリサイ派を含むユダヤ人は皆「洗わない素手でパンに触れると汚れたパンになる」と思っていたということです（現代のバイ菌に似た概念）。だから“その汚れたパン”を食べることによって自分も汚れると思い込んでいたのです。それでユダヤ人皆が、汚れたくないために食事前の念入りな手洗いだけでなく、器の洗い清めもしていたということです。<br>&nbsp;</p><p><b>[手を洗わない=汚れた手 ➔ その素手でパンに触れる ➔ パンに汚れが移る ➔ その汚れたパンを食べる ➔ その人は汚れる]</b> という思考です。<br><br>下記の三つが、影響したと考えられます。</p><div style="margin:10px 0;padding:6px 5px 6px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><ul class="ulul"><li>レビ記7:19の「その肉がもし汚れた物に触れるならば、それを食べることなく、火で焼き捨てなければならない」</li><li>民数記19:22の「すべて汚れた人の触れる物は汚れる。またそれに触れる人も夕まで汚れる」</li><li>マラキ1:7の「汚れた食べ物（汚れたパン）」</li></ul></div><p>現代のバイ菌概念の「汚れ」よりも「穢れ」の概念の方が近かったかもしれません。<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%81%E3%83%A7" rel="noopener noreferrer" target="_blank">※エンガチョを参考。</a><br><br>そういうわけで、皆が手洗いをしなくなると、ファリサイ派にとっても都合が悪かったはずです。なぜなら彼らにとって、洗わない手=汚れた手です。食事前にせっかく身を清めたのに、身を清めていない人に触れてしまうと台無しです。この考え方をさらに発展させたような例として、<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12973552822.html#2-2" rel="noopener noreferrer" target="_blank">別記事で扱ったエビオン派の水による清め</a>がありました。<br><br>彼らが「異邦人の素手で裂いたパン」「異邦人の素手で握ったおにぎり」を食べることができたか想像してみると良いでしょう。ちなみに現代のユダヤ教にも、口伝律法である「ミシュナ」「タルムード」にパンを食べる前の手洗いの細かい規定があり、特に正統派を名乗る人たちは守っているようです。髪や体に触れると手洗いのやり直しです。※どこまで適用するかは共同体によると思われる。</p><p><br>■さて、マタイ15:20の箇所ですが、新改訳は「洗わない手で食べることは人を汚しません」で、原文に近いです。口語訳も近いです。新共同訳・協会共同訳では「手を洗わずに食事をしても、人が汚れることはない」と意訳されています。意味はほぼ同じですが、解釈に少し影響が出ます。細かいですが、この違いも読み取りが弱くなる一因です。</p><p><br>この二つの訳の違いが解釈にどう影響するか、下記を参照。<br>先ほどの<mark class="bgy">“パン”</mark>の違いを含めて、脳内の思考経路を比べてみます。</p><div style="margin:10px 0;padding:6px 5px 6px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><ul class="ulul"><li>洗わない手で食べることは➡︎「ユダヤ人たちは洗わない素手（汚れた手）でパンに触れることで汚れたパンになると思っていたのだろうな。それを食べることで自分も汚れると思っていたのだろうな」</li><li>手を洗わずに食事をしても➡︎「ユダヤ人たちは食事前に手を洗わないと汚れるという概念を持っていたのだろうな」</li></ul></div><p>という差が出ます。<br><br>&nbsp;</p><h3 style="margin:4px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">■ここまでの簡易まとめ■</span></h3><p><span style="display:block;padding:8px;margin-top: -8px;font-size:16px;background:#e5edf9">主はマタイ15:10,マルコ7:14で「聞いて悟りなさい」と言われました。それで現代人は現代の価値観に基づいて解釈しがちですが、当時のユダヤ人たちは食事前の念入りな手洗いが習慣で常識となっており、皆が、そうしなければ汚れると思っていました。洗わない素手でパンを食べても汚れないのに、そのことをはっきり言われなければ弟子たちですら理解できないほどでした。ファリサイ派は、仮にはっきり言われたとしても、理解できないほどでした。（だから盲人と言われていた）。マルコ7:16までの時点では、言い伝えを大事にしていることについて、主はお怒りでした。また、この時点では、主は、手洗いについての問いに、まだ直接は答えておられませんでした。そして場面が変わり、ファリサイ派がいなくなった後、弟子たちに対してだけは、遠回しに述べた内容を解説されました。こうして聖書に書かれていない、間違った教えを正されました。</span></p><div id="3">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>3. 民を口伝律法から離れさせるため</h2><p>ファリサイ派や律法学者たちは、口伝律法の細かな規定を数多く、堅く守り、人々にも教え、背負えない荷を背負わせ、守らない者を非難し、他のユダヤ人たちも同じ道を辿っていました。その盲人の道案内について行くと盲人もろとも穴に落ちるので、付いて行かないようにと聞く耳のある弟子・民衆には悟らせようとしていたわけです。そんなファリサイ派や律法学者を「先生、先生」と呼んで尊敬していた民衆が沢山いました。歴史は繰り返します。<br>&nbsp;</p><p>現代の日本でも、外から帰ってきた時や食事の前に手を洗わないと、子供を叱る親などいますね。コロナ対策などと言い、大勢はマスク、ワク、店の入口で手のアルコール消毒などを過剰にして、やらない人を非難した人もいたのです。一部の芯の強い人は、何を思われ何を言われようと、マスクさえしなかったから分かるでしょう。言っても理解できず周りに流される人だらけだったのです。<br>&nbsp;</p><p>主が悟らせたかったことは、それと変わりないのでは。ユダヤ人皆の、無駄にむなしく主を崇める行いが悪化するのを止めさせたかったのでは。だからこそ、「悟りなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」の言葉なのでは。<br><br>主は昇天までに、数多くの誤った解釈や教えを正し、新たに細かく教え直されました。もし食物規定の撤廃だとしたら、修正どころではありません。<b>それは修正でも緩和でもなく、廃棄です。</b>そもそも食物規定の食べて良い物に関しては、修正の必要がなく、正しく守られていました。<br>&nbsp;</p><p>右派左派という言葉がありますが、真っ直ぐの狭く細く険しい正しい道を行かなければならないのに、ファリサイ派・律法学者たちは解釈を一方に偏らせ、右へ逸れていきました。その反動として、多くの異邦人キリスト者は反対方向へ偏り、律法そのものを退けていきました。これらはマタイ15:19のとおり「悪い心」、それから「肉の欲」が原因でしょう。肉の欲は人の目を塞ぎます（光が見えなくなる）。下記を参照</p><blockquote class="seiku"><p>世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。<br>(ヨハネの手紙第一2:15-16 口語訳)</p></blockquote><p>ですから「豚肉などが食べられなくなるのは嫌だ」という思いが少しでもある時点で、公平な目線での解釈になりづらいのは事実です。その思いの分、少しは天秤が傾くはずです。</p><p><br>「手洗いの行いを正すだけのことを、わざわざ福音書に記載するだろうか」と思うかもしれませんが、先のマルコ7:3-4によりユダヤ人の皆がやっていたぐらいです。他国にいる離散のユダヤ人たちもやっていたと想定できます。手洗いに加え、父母を敬わなくてもよいとする言い伝えや、他にも多くの同じような事をして神の戒めを破っていたのですから、当時のユダヤ人たちにとって<span class="red">重要な説教</span>です。この説教は手洗い等を続けているユダヤ人向けです。<br>&nbsp;</p><p>現在のユダヤ教の一部は口伝律法であるミシュナやタルムードを大事にしていますので、「間違っている」と伝えても聞く耳を持たないでしょう。</p><p><br>口伝律法がどれほど大きな問題だったか、下記聖句から伝わるでしょう。</p><blockquote class="seiku"><p>イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。<br>(マタイ15:3 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。<br>(マタイ15:5-6 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。<br>(マタイ15:9 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたたちは、神の戒めを蔑ろにして、器や杯を洗い清めるなどの人の言い伝えを堅く守っており、その他にもあなたたちは、それと同じような多くのことを行っている。<br>(マルコ7:8 TR底本 私訳) ※既出</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。<br>(マルコ7:8-9 口語訳) ※並行箇所</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。<br>(マルコ7:13 口語訳) ※並行箇所</p></blockquote><p>文章全体を読めば分かりますが、ファリサイ派たちに付いて行かないように、聞く耳のある者には悟らせたかったのです。食物規定廃止は話題と関係ありません。<br><br>上記マルコ7:13の口語訳を、原文に即して訳すと「こうしてあなたたちが伝えてきたあなたたちの言い伝えによって、神の言葉を無効にして、それと同じような多くのことを行っている」です。直後で、それら多くの事柄の一つをやめさせるための悟しなのに、どうして食物規定をやめさせる話になるのでしょう。<br>&nbsp;</p><p>仮に聖句④の最後の「洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」とファリサイ派にはっきり告げたとしても、彼らは長年の習慣と固定観念、さらに悪い心もあるため、「理解せず反発してくる」ことは確定でした。<span class="red">彼らが理解できず反発してくるだけだと読者も想像できるでしょう。</span><br>&nbsp;</p><p>少し遠回しに言っても弟子たちすら悟れていなかったので、「そんなに物分かりが悪いのか（まだ分からないのか）」と、主はお叱りになって最後に答えを言われたのです。</p><div id="4">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>4. 律法を廃止しない明言</h2><p>そもそも主が①において食物規定を細かく定められて「聖なる者となりなさい」と言われました。もし掟や戒めが変更されたのなら、なぜ明確に言われなかったのでしょうか。旧約聖書において、そのような例が一度でもあったでしょうか。むしろ逆で、事細かに規定されるほど、はっきりと主は言われる御方です。もし悟らせるのなら「人々の誤ったことを」でしょう。</p><p>マルコ7章・マタイ15章を初めから読むと、<b>この話題の約半分は、本来の律法にはない言い伝えの問題</b>に充てられています。主題が手洗いの問題、すなわち口伝律法であるなら、そうなって当然です。<br><br>そもそも主が①で細かく定められて、聖なる者となりなさいと仰られました。もし、掟・戒めが新たに変わったのなら、はっきり仰らないのはなぜでしょう。なぜ「新たに変わる法」を悟らせようとするのでしょうか。旧約聖書時代からそのような事が一度でもあったでしょうか。むしろ逆で、事細かに規定するぐらいまで、はっきりと主は言われる御方です。もし悟らせるのなら「間違った事を」でしょう。<br>&nbsp;</p><p>一つたとえてみます。</p><p style="margin:7px 0"><span style="display:block;background-color:#e5edf9;padding:7px">■重度のピーナッツアレルギーの子がいたとします。親が「あなたにとって清い食べ物ではないからピーナッツは食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と子に言いつけました。子は言いつけを守っていましたが、ある日、学校で洗わない手でピーナッツを食べている友人を見て、子は言いました「洗わない手でピーナッツを食べている！汚れている！」。それを聞いていた教師が言いました。「洗わない手で食べても汚れない。それは腹に入って便所に出ていくだけだからだ。そうではなく、心から出てくるものが人を汚す」。子はそう言われた事に納得し、友達からピーナッツを分けてもらい、洗わない手で食べました。</span></p><p>上記のたとえは、手洗いの問題と構造が違うため不適切ですが、「言った：言ってない」の問題を分かりやすくするために挙げました。上記は「食べても良い」とは一言も言っていません。「食べ物は腹に入り便所に出ていくだけで、その人は汚れない ➔ 何を食べても良い」とするのは論理の飛躍になります。<br>&nbsp;</p><p>法律では明示しないと問題が出ます。あやふやだと解釈で変えられてしまいます。現代の政治や司法においても。明示しても内容が曲げて解釈され、それに惑わされる人が出ます。当記事の表題もそうかもしれません。「言った：言ってない」の問題は大きいです。<br>&nbsp;</p><p>必ず邪魔や拡大解釈が広がることは分かっていたため、<span class="red">主は、前もって下記聖句二つではっきりと忠告・命令</span>しておられます。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。<br>(マタイ5:17-20 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。<br>(マタイ23:1-4 口語訳)</p></blockquote><p>上記聖句により「食物規定を守った方が良いです」と、ここで推奨だけしておきます。守らないと救われないとは言っていません。<br>&nbsp;</p><p>「彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい」とあり、律法学者とファリサイ派は、食物規定も守るように言います。「モーセの座」「みな守って実行しなさい」「律法の一点、一画もすたることはなく」とのことで、十戒だけではありません。<br><br>「みな」は文字通りではなく、マタイ15:3-9で先に口伝律法を堅く守っていることを非難しておられるため、間違った口伝律法は除きます。<span class="red">「これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者」</span>とあり、食物規定が小さかったとしても無視できません。<br><br>「天地が滅び行くまでは」と言っておられますので、律法は今も廃されていません。主イェシュアが十字架にかけられた時までではなく「天地が滅びるまで」です。それから「パリサイ人の義にまさっていなければ」とあり、少なくともファリサイ派は食物規定を守っていました。<br>&nbsp;</p><fieldset style="padding:4px 15px 12px;border:1px solid #778899;border-radius:2px;margin:0"><legend align="left"><span style="padding:0 2px;font-size:1.08em;margin:0 3px"><b>例外</b></span></legend>安息日に良い事をするのは許されていた例外があったように、食物規定も例外はあります。それぞれの事情と聖書全体を踏まえて判断する必要があります。</fieldset><div id="5">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>5. 消化・排便の言及理由</h2><p>手洗いのことだとしたら「腹の中にはいり、そして、便所に出される」と、なぜ消化、排便の事まで言及されたのか疑問に思うかもしれません。一つの<b>可能性</b>として書きます。<br>&nbsp;</p><p>下記、レビ記（民数記も）に「夕方まで汚れる」という教えが多々出てきます。</p><blockquote class="seiku"><p>もろもろの這うもののうち、これらはあなたがたに汚れたものである。すべてそれらのものが死んで、それに触れる者は夕まで汚れる。またそれらのものが死んで、それが落ちかかった物はすべて汚れる。木の器であれ、衣服であれ、皮であれ、袋であれ、およそ仕事に使う器はそれを水に入れなければならない。それは夕まで汚れているが、そののち清くなる。<br>(レビ記11:31-32 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたがたの食べる獣が死んだ時、その死体に触れる者は夕まで汚れる。その死体を食べる者は、その衣服を洗わなければならない。夕まで汚れる。その死体を運ぶ者も、その衣服を洗わなければならない。夕まで汚れる。<br>(レビ記11:39-40 口語訳)</p></blockquote><p>この夕方まで汚れる教えは、食物規定と関係ない箇所でも出てきます。上記二つめの聖句「食べる獣」は訳が悪いです。原語で「獣」の意味もありますが「動物」という意味もあります。食物規定内の家畜のことです。</p><p><br>とにかく「食物規定内の牛などの死骸に触れる・または食べると、<b>夕方まで汚れる</b>けど、衣服を洗えば後（夕方以降、日没か）に清くなる」とのことです。食物規定内の家畜とはいえ、死骸（死んだ動物）を食べても汚れるのは夕方までのようです。これは「腹から入って便所に出される」という事になるようにも思えます。<br><br>とはいえ、一時的には汚れるという趣旨で書かれているわけです。もし仮に、夕方以降になって清くなって直ぐの夕食にまた死骸を食べたら「次の夕方まで丸一日汚れたまま」になるでしょうか。それをずっと続けると持続的、つまり仮に「汚れた生き物を食べて腹に入って肝臓や腎臓で解毒され便所に出される」としても、汚れた生き物を入れ続けると、持続的に内蔵が汚れた状態になるのかもしれません。<br><br>ところが困ったことに、食べてはならない汚れた生き物については、いつ清くなるのか書かれていません。上記は「食物規定内」ですし「豚やネズミの死骸」だと夕方以降に清くなるのでしょうか。<br>&nbsp;</p><p>よって、仮に汚れた生き物を食べたとして「腹から入って便所に出され人を汚し得ない」としても、だからといって「食物規定を守らなくても良い」とは限りません。実際、守らなくて良いとは言っておられず、逆に一点一画も律法は廃らないと言っておられたわけです。<br><br>「最も小さい戒めの一つ」であっても守った方が良いです。もちろん食物規定を守っていても「ブヨをこして、ラクダを飲み込んでいる」のであれば駄目です[マタイ23:24]。これは慣用句ですが、食物規定を守っていても、より大きな戒めを守らず盗んだり姦淫したり兄弟を愛していなければ本末転倒ですね。<br><br>「汚れた生き物を食べると臓器など肉体が一時的に汚れる」という仮定だと、マタイ15:18-19の「心から出てくる悪い思いが人を汚す」というのと一応、辻褄は合います。たとえそうだとしても、肉体・臓器に負担がかかるのなら、やはり守った方が良いとなります。そうでないと冒頭の①「汚れた生き物を食べるのを避けて聖なる者となりなさい」と②「豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者はことごとく絶たれる、と主は言われる。」と矛盾してしまいます。<br><br>だから、どうあっても結論は「守った方が良い」となります。度の強いアルコール・タバコ・砂糖など、その人の心は汚れないとしても、無い方が良いです。<br><br>食物規定廃止ではない解釈の方が、冒頭①②と③④で整合性が取れ、かつ最初から最後までの会話の流れに、一貫性があります。⑤⑥とマタイ5:17-20マタイ23:1-4の聖句も。<span class="red">さらに、主がマタイ15:14でファリサイ派を「盲人」と言われたのにも合点がいきます。</span><br><br>当時、急に食物規定廃止っぽい事（はっきりとではない）を言われたとして、それを食物規定廃止のことだとファリサイ派が理解できなくて「盲人」と呼ばれるのは変です。モーセ、エリヤ、イザヤ、エゼキエル、マラキ、洗礼者ヨハネなど、彼らであっても誰一人、理解できないと思われます。ヨハネが主の道を真っ直ぐにするために、荒野で毛衣を着て「豚」を食べ物として「悔い改めよ」と言っていたら、何か違います。ヨハネは律法の服装規定と食物規定を守っていたから、その格好で野蜜・イナゴを食べていたのでしょう。<br><br>主イェシュアが来られる前の、旧約聖書最後であるマラキ書最後4:4で「律法を思い起こすよう」に言われているため、律法に忠実な人ほど悟る事ができないという逆転現象が起きてしまいます。そして、その「律法を思い起こす」直後4:5で「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」とあることから、終末に来るエリヤは洗礼者ヨハネ同様「食物規定・服装規定」を守っているのではないかと見ることができます。<br>それと、預言者ダニエルは、大いに愛されている人（ダニエル9:23）でしたが、食物規定をしっかり守っていました。[ダニエル1:8-9]<br>&nbsp;</p><p><br>さて、ファリサイ派は心は神様に向いてなく形上だけでしたが、食物規定自体の戒めは守れていて、これからも神の戒めとして命令通りに守ろうとはしていたわけです。食べて良い物か駄目な物かについては、きちんと守れていました。だからこそ主は<b>「モーセの座についている」と彼らに酷評だけでなく一定の評価</b>はされています。※マタイ15章「盲人」の発言より後の、23章2節にて。<br>&nbsp;</p><p>彼らは「食事前の念入りな手洗い・身の清め・杯・鉢・銅器・寝台など」やりすぎなほど清めており、そしてファリサイ派たち指導者は守らない者を咎めました。ですから、咎めても守らない者を「<span class="sen0">汚れている</span>」と貶したり分け隔てていた可能性があります。例えば、会堂で席に座らせないなど。ヤコブ2:2-では例えで、汚れた身なりの貧しい人を、席に座らせない差別的な事の説教があります。常習化していたのか分かりませんが。ヨハネ7:49では「律法を知らないこの群衆は呪われている」と言い、9:22では「イエスをキリストと告白する者は、会堂から追い出すことに決めていた」とあります。ですから、彼らの言うこと、言い伝え（手洗い）を守らない者がいれば不利益を被るのは目に見えています。<br><br>民衆、誰しも汚れたくないし、汚れていると言われたくないし、差別もされたくないし、皆、揃って手洗いを守ろうとします。でも、貧乏な人・病弱な人・身体の不自由な人たちは、余裕がなく、重荷で守ってられません。そうすると、統計的に守らない弱者たちが増える事によって、ますます弱者たちは冷ややかな目で見られます。格好がみすぼらしければ尚更、バイ菌のように見られるでしょう。いつの世も「自分たちはこんなに頑張ってやっているのに、あの人はやっていない」という大衆の心理が働くものです。(数年前の茶番騒動の既視感)<br><br>だから、「汚れている」と言う人たちに対して「口に入る食べ物（食物規定内）は全て、腹に入って便所に出される。洗わない手で食べても汚れない（元々、清い食べ物だから）。そうではなく、口から出る、心から出てくる悪い思いが人を汚す」という差別、分け隔てを正す意味を含め言われた可能性はあります。この場合「食物規定は守った方が良い前提」で言われた形です。ユダヤ人の群衆に向けて語られた事であり、洗わない手（汚れた手）でパンを食べている事を咎めてきたのが発端ですので、会話の流れは自然です。<br><br>これらは「会話の流れ・背景・御言葉・主の御心」等を考慮したうえでの根拠ある推測です。</p><p><br>主はヨハネ13:1からの最後の晩餐で、パンを食べ終える前に、奴隷のように弟子たちの足を洗い、身をもって教え、最後までこの上なく弟子たちを愛されました。互いに足を洗うように、兄弟で愛し合うように、伝えられました。<span class="red">「手を洗う」ではなく「足を洗う」</span>その教えで彼らの多くは、兄弟間の差別と潔癖な慣習からも抜け出せたのではないでしょうか。ユダヤ人・異邦人関係なく<span class="red">「洗わない手で裂いたパン」</span>を分け合えるようになったのではないでしょうか。</p><div id="6">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>6. 食べ物を軽く見てはいけない</h2><p>「何であれ、腹から便所に出されるだけで、たかが食べ物なのだから豚だろうとネズミだろうと問題ではない」と思うかもしれません。ですが「たかが食べ物」と軽くみてはいけません。(豚とネズミは食べ物枠ではないですが)<br><br>アダム・エバは食べ物で、目が開きました。<b>「たかが食べ物」</b>でです。エバたちは、まさか<b>食べ物で死ぬ事に</b>なるとは思わなかったのです。「必ず死ぬ」とはっきり言われていたのに。<b>食べ物によって</b>、それまで裸すら恥ずかしくなかったのに「神や天使の一人のように、善悪を知る者となった」わけです[創世記3:7,3:22]。さらに永遠に生きる者となるのを防ぐため神は「命の木の実」を食べさせないようにされました。<b>命の木の実も食べ物</b>です[エゼキエル47:12,黙示録22:2]。<br>&nbsp;</p><p>その後にも神はカインの「土の実り」には目を留められませんでした。仮に「土の実り」が直接的に関係なかったとしても、もしカインかアベルが、最上級の「豚の初子」を持参したらどうなったでしょう。それから<b>「偶像に献げた肉」</b>もそうです[黙示録2:14,2:20]。一般的な概念だと所詮、「タンパク質の塊の肉」で、これも「たかが肉」です。現代の世の価値観であれば「他者が献げた肉だから自分が食べても関係ない」と言えるように思えてしまいます。<br><br>ちなみに外典ディダケー6:3では「偶像に捧げられた肉には十分注意しなさい」とあります。また「食物についてはできる限り保ちなさい」もしくは「食物についてはできる範囲で対応しなさい」とあります。※前者はギリシャ語版で指示的な命令、後者は英語版で柔軟な指示。<br>&nbsp;</p><p>創造主である神は食物規定を「清い」か「汚れている」かで分けられています。他でも様々に聖別としてはっきり区分けされていますね。食物規定は神が戒めとして定められたものであって、当時の人たちの経験則で作ったのではありません。なぜ清くない動物も存在しているかといえば、通常で考えるなら「食物連鎖においての浄化過程で必要か、または結果的にそうならざるをえなかった」からでしょうか。<br><br>ハエ（ウジ）・ゴキブリ・ネズミ・カラス等は、腐った物や死骸を処理しています。これらの生き物は人間の食べ物として作られているとは考えにくいです。極端に分かりやすい生き物を選びましたが、もしゴキブリ等が人間の食べ物として作られていないのであれば、中間点があるわけで、どこかで線引きが必要ではないでしょうか。それが食物規定なのでは。<br><br>後は衛生面の理由も考えられます。下記参照。</p><fieldset style="margin:10px 0;padding:6px 5px 6px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><ul class="ulul"><li>ブタ肉→寄生虫トリヒナ（加熱不十分）</li><li>ネズミ→特に野生ネズミは寄生虫・病原体・汚染物質（重金属や農薬）を蓄積</li><li>猛禽類→感染性病原体を持ちやすい（死肉を貪るため）</li><li>ヒレと鱗がない魚・貝類・甲殻類→赤潮毒・細菌の食中毒の頻度が高い。生食による危険性は現代でも高い</li><li>カキなど二枚貝→ノロウィルス（二次感染で周囲にも影響）</li><li>ウナギ→寄生虫の危険性が比較的高い（加熱不十分）。血に毒性</li><li>フグ→毒（鱗がない。一応、針は鱗が進化とされる）</li><li>カエル→寄生虫（加熱不十分）。寄生虫は除去できても毒素が残る可能性</li><li>反芻しない→雑食動物は反芻する牛・羊・ヤギなどより寄生虫の危険性が高くなる傾向</li><li>虫→コオロギなど重金属が溜まりやすい。ゴキブリは論外。例外のイナゴは麦(稲)を食べるため食物規定内に入ったと思われる</li><li>死骸→細菌・ウイルス・寄生虫が急増</li><li>血→細菌・寄生虫が残りやすく、古代の衛生状態では明確に危険性が高かった</li></ul></fieldset><p>これらは現代の衛生学的に見ても「合理的だった」と評価しやすい要素です。<br><br>安全に徹底された養殖のゴキブリやカエル等を食べている事で、主がどう評価されるかですね。日本人的には結構きついものがありますが、仮に食物規定廃止であれば、特に問題ではないことになります。できる限り、主と同じ価値観を共有していきたいところです。<br><br>それでも「何を食べても腹の中に入って排便で出ていくだけ」と思うかもしれません。では下記三つを見ていきます。<br>&nbsp;</p><p>◆一つめ。当時、仮に豚やネズミの肉が流通していたとして、主イェシュアがそれを口に入れる事があるか考えてみましょう。もし、どんな生き物であれ問題なく、何を食べても汚れず微塵も罪にならないのであれば、避ける必要はないということになります。同様に、十字架刑の復活後ヨハネ21:15でペトロたちと共に食事（パンと魚）をしたような描写がありますが、その時に、豚やネズミの肉を口に入れる事は問題ないかどうかも考えてみましょう。<br>主と人間では違うからと考えがちなため、一応、論理的かつ聖書的に考えてみると<b>「主は完全に聖なる御方→汚れた生き物を食べない→『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』と言われた→神の民に聖さを求めておられる→よって食べる物は主と同じが良い」</b>という感じでしょうか。<br>&nbsp;</p><p>◆二つめ。聖霊を注がれたらその体が聖霊の宮（神の宮,神殿）となると使徒ではないパウロが言っていますが、であれば豚やネズミの肉を体に入れるのは果たして良いのか考えてみましょう[コリント第一3:16-17,6:19,ヨハネ14:23,ヨハネ黙示録3:19-20]。<br>&nbsp;</p><p>◆三つめ。「血」はどうでしょう。血を飲んでも牛乳と同じように腹の中に入って排便で出ていくだけです。「血は命だから食べてはならないと規定されている」と思うかもしれませんが、</p><p>レビ記11章でも同様に「豚などは食べてはならないと規定されています」。（血に関してはノア以前には無かった命令）。血は水分ですが、血を固めて固形状の食べ物にした場合はどうでしょうか。血を使った料理は各国、色々あります。「ブラッドソーセージ、豚血糕、豬血糕、猪紅、鴨血、嫩鴨血、米血糕、酸辣湯、ヘジャンクク」 など。<br>&nbsp;</p><p>なお、沖縄の一部や台湾では豚の血料理があります。それと、マムシなど蛇や、蛇の生き血は滋養強壮に良いといわれますし、日本でも一昔前まで、蛇を普通に食べたり、蛇の生き血を飲む地域がありました。むしろ、血は栄養価が高く肉体的には良い物のようにさえ思えてしまいます。<br><br>血を食べてはならないことは、<span class="red">神様から言われないと人間には分かりません。</span>同様に食べて良い清い物か食べてはならない汚れた物かどうかも、神様から言われないと分かりません。<br><br>信仰に入る前・聖書を読む前までは「血を食べても腹に入って便所に出されるだけ。自分は食べたいと思わないけど、食べたい人は好きにすれば良いのでは。」と思っていたはずです。自分の価値観で考えるから分からなくなるのかもしれません。</p><div id="7">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>7. 食物規定が定められた理由</h2><p>なぜ主は食物規定を定められたのか、その理由が分かれば表題の答えも分かります。食物規定を細かく制定される以上、当然、「理由も併せて言われます」。そうでないと民は、何のためなのか分からなくて守れなくなります※律法を見ると大抵、理由が添えられている。</p><p><br>まず①に<span class="red">「身を汚してはならない」「聖なるものとなりなさい」と、はっきり書いてあります。</span>①の前29節から12章に移る前までを、抜粋し私訳でまとめますと「ネズミなどは汚れたものである。地を這うものなどは汚れたもので、食べてはならない。汚らわしいものである。あなたがたはこれらで身を汚して、自分自身を汚らわしい者としてはならない。わたしは聖なる者であるから、あなたがたも聖なるものとなりなさい。以上が全ての生き物についての指示であり、汚れた物と清い物、食べて良い生き物と食べてはならない生き物を区別するものである」です。これ以上、どう言えばよいか分からないぐらい明確な理由です。<br>※新共同訳のみ29,31,41,42,43,44節と、計六回「爬虫類」とあるが原文には無い。<br>&nbsp;</p><p>■食物規定制定の理由が「ユダヤ人と異邦人を隔てるため（同化から守る）」という説があります。正しいのか見ていきます。②では「園に入るために身を清め、自分を聖別しその中にある一つのものに付き従い豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者はことごとく絶たれる」と、主はお怒りでした。<b>異邦人との接触関係なく、食べて絶たれる</b>ので、隔てるためとは関係ないように思われます。<br>&nbsp;</p><p>次に、下記を参照。</p><blockquote class="seiku"><p>すべて自然に死んだものは食べてはならない。町の内におる寄留の他国人に、それを与えて食べさせることができる。またそれを外国人に売ってもよい。あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。子やぎをその母の乳で煮てはならない。<br>(申命記14:21 口語訳)</p></blockquote><p>上記、食物規定内で商売上の交流許可を出していますが、それは良いとして、「子やぎをその母の乳で煮てはならない」は<b>異邦人との接触と全く関係がありません</b>。出エジプト23:19（34:26）から申命記に持ってきたのかもしれませんが、そうだとしても、レビ記11:33でヤモリ等の死骸が入った土器を壊す命令も、<b>異邦人との接触と全く関係がありません</b>。土器に死骸のエキスが染み込むため、使い用がなくて壊す判断と思われます。※土器は多孔質で、死骸の液体や微生物、毒素が器の内部に吸収されやすい。<br>&nbsp;</p><p>次に、食物規定には「ひずめの分かれたもので、反芻するもの」「ヒレと鱗のあるもの」といった原則があります。ユダヤ人と異邦人を隔てるためだけの理由で、この原則を規定するのは考えにくいです。この原則にする別の理由があるはずです。先の6.では衛生面での説明をしました。それから昆虫は特定のイナゴ、バッタ類のみが可となっています[レビ記11:20-21]。口語訳は「שֶׁ֣רֶץ：群れ」が抜けていますが、蝗害となる群れのイナゴ、バッタ類だと、麦(稲)のみを食すので、そのため食物規定内に含まれるのではないかと考えられます。やはり異邦人とは関係ない理由と見れます。<br>&nbsp;</p><p>仮に、異邦人と隔てるための理由で神が、「食べ物の一部を汚す」と設定されたとします。そして主イェシュアが来られて、その一部の汚れた食べられない生き物も含め「全てを清い」と設定し直されたとします。その場合、③④で「そんなに物分かりが悪いのか」と叱るのは無理があります。「法・自然の理」が突然に変わったのですから、察する・悟るのは人間には無理です。まして普通の庶民たちです。もし、全ての食べられない生き物までを清いとし直されたとしたら、それこそ主は「叱る前に、はっきりと」教えを伝えられるでしょう。<br>&nbsp;</p><p>使徒10:15のペトロが見たとされている幻で「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」とあります。この幻は異邦人を汚れた生き物として比喩的に表しています。「汚れた獣を食べよ」という形ですが、直後にペテロ自身が「異邦人を汚れているとか言ってはならない」という意味で幻の解釈をしており、食物規定廃止と解釈していません[10:28]。<br><br>それから先に説明したとおり、もし神が突然、汚れた食べられない生き物を含め「全てを清い」と設定し直されたのなら、ペトロたちを叱ったのは無理があります。記述通りだと、幻を見た時にペトロは食物規定が廃止されたとは思っていなさそうです。食物規定が廃止だと知っていたのなら、食べた事のない物とはいえ、三度も食べるのを断るのは考えにくいです。既に聖霊を受けていますし、「三度、主を知らない」と言ったのとはわけが違います。主は③④の後に、ペトロに食物規定廃止の事だと伝えなかったのでしょうか。もし食物規定廃止だったとしたら、伝える絶好の機会でした。<br>&nbsp;</p><p>10:28（11:3）で「ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています」と、ペトロが言っているとして、「ユダヤ人と異邦人を隔てるため」の理由になっていると思うかもしれませんが、これは律法に無いので言い伝えでしょう。ヨハネ4:9のサマリア人とは交際しないのも同様でしょう。</p><p>食物規定で、確かにユダヤ人は異邦人と物理的にある程度は隔てられましたが、それは副次的な理由ではないでしょうか。<br>&nbsp;</p><p>下記レビ記20章は、食物規定が異邦人と隔てるためだと、見ようと思えば見れます。</p><blockquote class="seiku"><p>24.わたしはあなたがたに言った、「あなたがたは、彼らの地を獲るであろう。わたしはこれをあなたがたに与えて、これを獲させるであろう。これは乳と蜜との流れる地である」。わたしはあなたがたを他の民から区別したあなたがたの神、主である。25.あなたがたは清い獣と汚れた獣、汚れた鳥と清い鳥を区別しなければならない。わたしがあなたがたのために汚れたものとして区別した獣、または鳥またはすべて地を這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。26.あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。<br>(レビ記20:24-26 口語訳)</p></blockquote><p>この箇所は訳によって違うので原語と他の訳を見て判断した方が良さそうです。<br>先で、食物規定を守るための「理由も併せて言われます」と書きましたが、①のレビ記11章では語られなかった理由を、20章で書き、それが本命の理由だったとは考えにくいです。20章は、まとめみたいなもので、再度少し食物規定について出てくるだけです。上記20章26節でも「<span class="red">主なるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なるものとなりなさい</span>」と理由が書かれています。食べ物によって異邦人と隔てたという事であるなら、食べ物そのものを指して「汚れた生き物」と言われるのは、不自然ではあります。<br>&nbsp;</p><p>それと、レビ記20:25英語欽定訳では「shall not make your souls abominable」とあり「あなたがたの魂を忌まわしい（嫌悪する）ものにしてはならない」となります。仮に欽定訳が正しいとして、魂が忌まわしくなるなら、物理的に異邦人と隔てる理由になりません。ただし、日本語訳では「魂」はありません。七十人訳聖書（ギリシャ語版旧約聖書）では[ψυχὰς→プシュカス→魂]があります。なお、欽定訳の「魂」と訳された部分は、原語では「נַפְשֹֽׁתֵיכֶ֜ם」ですが、他の箇所を含め13回使われ、[yourselves：あなた自身]と訳される箇所もあります。ですが欽定訳ではほとんど[your souls：あなたの魂]の方が採用されています。※厳密には[נֶפֶשׁ→ネフェシュ→魂,命]</p><p>ちなみに七十人訳では、レビ記の11:43節と44節でもψυχὰς（魂）を汚すなと、二回出てきます。七十人訳の信憑性は微妙ですが、当時の訳者たちは「身体」の語を使わず「魂」を採用したようです。</p><p><br>以上のように「食物規定はユダヤ人と異邦人を隔てるため」という理由の根拠は薄いですが、否定する根拠はいくつかあります。<br><br>&nbsp;</p><h2 style="margin:7px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">終わりに</span></h2><p>このように食物規定は難しい問題です。聖句によると「廃止」がないわけですので、それを踏まえて主の御命令と照らし合わせて解釈すると、「守った方が良い」という結論になります。<br><br>律法には戒めの大小があるため、優先順位を考えながら、少しずつ守れるようにしていくと良いでしょう。<br><br>&nbsp;</p><p style="text-align:right">以上</p><div><style type="text/css">.seiku2{  background:#99aabb;  height:1px;  margin:12px 11px 12px 5px}blockquote.seiku {  border:1px solid #99aabb;  background:#ebeef2c2;  margin:0 auto 4px;  padding:12px 10px 12px 12px;  border-radius:5px;  quotes:none}blockquote.seiku::before, blockquote.seiku::after {  content:none}.seiku p {  line-height:1.6}h2{color:#223344}h2.koumoku {display:flex;font-size:20px;margin:8px 0;margin-left: 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<pubDate>Mon, 03 Aug 2026 20:23:16 +0900</pubDate>
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<title>食物規定「食べ物・食べ物ではないもの」一覧</title>
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<![CDATA[ <div><img alt="" contenteditable="inherit" height="405" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260730/16/genshi7/9c/e3/p/o1672094115807472881.png" width="720"></div><div class="sp">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><nav aria-label="目次"><details class="mo" open><summary>目次</summary><p><a href="#0">はじめに</a></p><p><a href="#1">1. 食べられる生き物</a></p><p><a href="#2">2. 食べられない生き物</a></p><p><a href="#3">3. 注意が必要な物</a></p></details></nav><div id="0">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>&nbsp;はじめに</h2><fieldset style="margin:10px 0 20px 0;padding:4px 15px 12px;border:1px solid #778899;border-radius:2px;"><legend align="center"><span style="padding:0 2px;font-size:1.08em;margin:0 3px 0"><span style="font-size:1.1em;"><span style="color:#ff0000;">※免責事項</span></span></span></legend><p>現代ユダヤ教の食物規定で「食べられる物・食べられない物」とされる物を一覧可しました。実際の聖書の規定（解釈）とは少し間違っている物があるかもしれません。<span style="color:#ff0000;">この記事はほぼAI作成です。</span></p></fieldset><div id="1">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>1. 食べられる生き物</h2><p><mark style="background-color:#bfebff;color:inherit;">■食べられる地上の動物？</mark><br>・牛<br>・水牛<br>・羊<br>・山羊<br>・鹿<br>・トナカイ<br>・ヘラジカ<br>・カモシカ<br>・アンテロープ類<br>・ガゼル類<br>・キリン<br><br><mark style="background-color:#bfebff;color:inherit;">■食べられる鳥？</mark><br>・鶏<br>・七面鳥<br>・アヒル<br>・カモ<br>・ガチョウ<br>・鳩<br>・ウズラ<br><br><mark style="background-color:#bfebff;color:inherit;">■食べられる魚？</mark><br>・サケ<br>・マス<br>・ニジマス<br>・イワナ<br>・ヤマメ<br>・アユ<br>・イワシ<br>・ニシン<br>・コノシロ<br>・コハダ<br>・アジ<br>・サバ<br>・サンマ<br>・カツオ<br>・マグロ<br>・ブリ<br>・ハマチ<br>・カンパチ<br>・ヒラマサ<br>・タラ<br>・スケトウダラ<br>・タイ<br>・スズキ<br>・ヒラメ<br>・カレイ<br>・ホッケ<br>・サワラ<br>・ボラ<br>・コイ<br>・フナ<br>・ブラックバス<br>・ブルーギル<br>・ピラニア<br>・アロワナ<br>・ティラピア<br>・メバル<br>・カサゴ<br>・ハタ<br>・トビウオ<br>・シシャモ<br><br>&nbsp;</p><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>2. 食べられない生き物</h2><p><mark style="background-color:#ffbfbf;color:inherit;">■食べられない地上の動物？</mark><br>・豚<br>・イノシシ<br>・馬<br>・ロバ<br>・シマウマ<br>・ラクダ<br>・ラマ<br>・アルパカ<br>・ウサギ<br>・ノウサギ<br>・ハイラックス<br>・熊<br>・犬<br>・猫<br>・狐<br>・狸<br>・アライグマ<br>・イタチ<br>・オオカミ<br>・ライオン<br>・虎<br>・猿<br>・カンガルー<br>・カピバラ<br>・ヌートリア<br>・ネズミ<br>・リス<br>・ゾウ<br>・サイ<br>・カバ</p><p>&nbsp;</p><p><mark style="background-color:#ffbfbf;color:inherit;">■食べられない鳥？</mark><br>・ワシ<br>・タカ<br>・ハヤブサ<br>・トビ<br>・ハゲワシ<br>・カラス<br>・フクロウ<br>・ミミズク<br>・カモメ<br>・ペリカン<br>・サギ<br>・コウノトリ<br>・ウ<br>・ダチョウ<br>・エミュー<br>・ヒクイドリ<br>・ペンギン<br>・クジャク<br>・オウム<br>・インコ<br><br><mark style="background-color:#ffbfbf;color:inherit;">■食べられない魚？</mark><br>・ウナギ<br>・アナゴ<br>・ハモ<br>・ウツボ<br>・ヌタウナギ<br>・ヤツメウナギ<br>・ドジョウ<br>・ナマズ<br>・タチウオ<br>・ハタハタ<br>・サメ<br>・エイ<br>・マンタ<br>・チョウザメ<br>・フグ<br>・ハリセンボン<br>・マンボウ<br>・アンコウ<br>・シーラカンス<br>・肺魚<br>・エビ<br>・カニ<br>・ロブスター<br>・ザリガニ<br>・オキアミ<br>・シャコ<br>・フジツボ<br>・イカ<br>・タコ<br>・貝類<br>・ウニ<br>・ナマコ<br>・ヒトデ<br>・クラゲ<br>・カメ<br>・スッポン<br>・ワニ<br>・カエル<br>・クジラ<br>・イルカ<br>・シャチ<br>・アザラシ<br>・アシカ<br>・セイウチ<br>・ジュゴン<br>・マナティー<br><br>&nbsp;</p><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>3. 注意が必要な物</h2><p><mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">■注意が必要な加工食品？</mark><br>・ハム<br>・ソーセージ<br>・ベーコン<br>・ハンバーグ<br>・ミートボール<br>・餃子<br>・焼売<br>・カレー<br>・ラーメン<br>・スープ<br>・ブイヨン<br>・ふりかけ<br>・味付け海苔<br>・魚肉練り製品<br>・カニ風味かまぼこ<br>・魚肉ソーセージ<br>・ゼリー<br>・グミ<br>・マシュマロ<br>・栄養補助食品<br>・カプセル薬<br>・マーガリン<br>・ショートニング<br>・乳化剤を含む食品<br>・たんぱく加水分解物を含む食品<br>・魚介エキスを含む食品<br>・オイスターソース<br>・コチニール色素を含む食品</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><h2 style="margin:7px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">終わりに</span></h2><p>ハム、ベーコンなどは豚肉であり、ほか、添加物などは豚肉由来やエビのエキスなどが含まれることがあります。<br><br>それから、現代のユダヤ教では<b style="font-weight:bold;">「スズメ」</b>は食物規定外とされていますが「スズメが一アサリオンで売られていた」ため、当時のユダヤ人たちは食べていたと思われます。[マタイ10:29,ルカ12:6]</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: right">以上</p><div><style type="text/css">.seiku2{  background:#99aabb;  height:1px;  margin:12px 11px 12px 5px;}blockquote.seiku {  border:1px solid #99aabb;  background:#ebeef2c2;  margin:0 auto 4px;  padding:12px 10px 12px 12px;  border-radius:5px;  quotes:none;}blockquote.seiku::before, blockquote.seiku::after {  content:none;}.seiku p {  line-height:1.6;}h2{color:#223344}h2.koumoku {display:flex;font-size:20px;margin:8px 0;margin-left: -7px;}.koumoku2 {width:8px;background:#778899;margin-right:5px;border-radius: 2px;height: 38px;margin-top: -3px}.sen0 {padding-bottom: 0.12em;  background: linear-gradient(    transparent 87%,    #334455 100%)}.sen1 {text-decoration: underline double;text-underline-offset:2px;}.sen2 {  text-decoration: underline wavy red;  text-decoration-skip-ink:none;  text-underline-offset:1px;}.sen3 {  text-decoration: underline wavy;  text-decoration-skip-ink:none;  text-underline-offset:2px;}.sp {  margin:7px 0;}.bgy{  background:#f7f777}.bgb{  background:#b7d7f7}.bgb2{  background:#b7d7f7;border-radius:50%}.bgp{  background:#f7b7d7}.red{  color:#f74747}.mo {  border:1px solid #bbb;  padding:3px 12px 3px 11px;  margin:auto;  background:#fefefe;}.mo summary {  list-style:none;  cursor:pointer;  font-weight:bold;  display:flex;  align-items:center;  padding:5px 5px;}.mo summary::before {  content:"▾";  display:inline-block;  width:1em;  margin:0 3px 0 -9px;  text-align:center;}.mo:not([open]) summary::before {  content:"▸";}.mo a {  text-decoration:none;  display:block;  border-top:1px dashed #ddd;  padding-top:1px;  color:#2a5288;}.mo a:hover {  text-decoration: underline;  color: #111;}.mo p {  margin:4px 0;  padding-left:0;}</style></div>
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<pubDate>Sun, 02 Aug 2026 20:27:22 +0900</pubDate>
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<title>安息日は今も有効か</title>
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<![CDATA[ <div><img alt="" contenteditable="inherit" height="405" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260730/16/genshi7/c4/f6/p/o1672094115807472846.png" width="720"></div><div class="sp">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><nav aria-label="目次"><details class="mo" open><summary>目次</summary><p><a href="#0">はじめに --安息日とは--</a></p><p><a href="#1">1. 日曜日は安息日ではない</a></p><p><a href="#2">2. 主は安息日を肯定</a></p><p><a href="#3">3. 安息日は異邦人も対象か</a></p><p><a href="#4">4. 初めはなかったから守らなくて良いのか</a></p><p><a href="#5">5. 安息日を守らなくなった理由</a></p><p><a href="#6">6. 安息日の重要性</a></p><p><a href="#7">7. 安息日に控えること</a></p></details></nav><div id="0">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>&nbsp;はじめに --安息日とは--</h2><p>安息日（あんそくび,あんそくにち）の起源については、下記聖句に記されています。</p><blockquote class="seiku"><p>こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。<br>(創世記2:1-3 口語訳)</p></blockquote><p>日曜日を第一日として第七日の土曜日に、主なる神が休まれ、その第七日を祝福して聖別されました。<br><br>そして、人が安息日を守るように命じられているのは、下記の出エジプト記からです。</p><blockquote class="seiku"><p>モーセは彼らに言った、「主の語られたのはこうである、『あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい』と」。<br>(出エジプト16:23 口語訳)</p></blockquote><p>その後、出エジプト20:8で、安息日を守ることが十戒の一つとして規定されました。他にも、安息日を守るよう命じる記述が、さまざまな箇所にあります。[出エジプト31:13-16,35:2-3,レビ記16:31,19:3,19:30,23:3,23:32,24:8,26:2,申命記5:12など]<br><br><span style="font-size:1.2em;"><b style="font-weight:bold;">■安息日を何のために守るのか</b></span><br>出エジプト23:12には、「家畜や女奴隷の子、寄留者を休ませるため」とあります。他にも、後述する「出エジプト31:13,エゼキエル20:12,20:20,イザヤ56:2-7」にあるように、安息日を守ることは「主と私たちとの間のしるし」であるとされています。<br><br>十戒の一つに含まれていることからも、重要な戒めであると考えられます。</p><div id="1">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>1. 日曜日は安息日ではない</h2><p>日曜日を礼拝日・休業日とする慣行は、後代のカトリック教会によって定着したものであり、安息日とは異なります。<br><br>安息日は第七日、金曜日の日没から土曜日の日没までとされています（諸説あります）。下記四つの聖句を参照。</p><blockquote class="seiku"><p>神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。<br>(創世記1:5 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その<span style="color:#ff0000;">夕から次の夕まで安息を守らなければならない</span>」。<br>(レビ記23:31-32 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。<br>(出エジプト20:8-11 口語訳) ※前後に十戒の記載あり。</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたは六日のあいだ、仕事をし、七日目には休まなければならない。これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである。<br>(出エジプト23:12 口語訳)</p></blockquote><p><br>夕方から次の夕方までが、安息日の一日であるようです。また、第一日から第六日までの六日間働き、第七日に仕事を休むのが、正しい安息日の守り方です。</p><div id="2">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>2. 主は安息日を肯定</h2><p>下記により、律法は一点一画も廃れていません。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。<br>(マタイ5:17-20 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。<br>(マタイ23:1-4 口語訳)</p></blockquote><p>上記聖句の詳しい説明は、<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972543088.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">別記事「律法は今も有効か」を参照</a>。<br><br>主イェシュアは、安息日を守らなくて良いとは一言も言っておられません。また、日曜日を安息日として守りなさいとも言っておられません。<br><br>主はたびたび安息日に会堂で教えておられました。会堂では、毎週の安息日に集会が開かれていたからです。[マルコ1:21,使徒行伝13:42-44]<br><br>それから、下記聖句では安息日が守られていることを前提として語っておられます。</p><blockquote class="seiku"><p>その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。あなたがたの逃げるのが、<mark class="bgy">冬または安息日にならないように祈れ</mark>。<br>(マタイ24:19-20 口語訳)</p></blockquote><p>主が十字架にかけられ、天に昇られた後のことを言っておられます。<br><br>ただし、並行箇所である下記のマルコ書では、安息日について書かれていません。</p><blockquote class="seiku"><p>その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。この事が冬おこらぬように祈れ。<br>(マルコ13:17-18 口語訳)</p></blockquote><p><br>マタイ書はユダヤ人向けに、マルコ書は異邦人向けに書かれたため、違いが出たのだと思われます。主イェシュアが実際に口で語られたのはどちらか一方であるはずですから、マタイ書で付け足したか、マルコ書で省いたかどちらかになります。</p><div id="3">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>3. 安息日は異邦人も対象か</h2><p>下記によると、異邦人に対しても述べられています。</p><blockquote class="seiku"><p>安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、また<mark class="bgy">あなたの門のうちにいる他国の人</mark>もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。<br>(出エジプト20:8-11 口語訳)</p></blockquote><p>上記で、「あなたの門のうちにいる他国の人」も守りなさいとあります。ですから、イスラエル人だけでなく、その共同体の中にいる異邦人も守るよう命じられています。<br><br>「門」という言葉は、聖書の中にたびたび出てきます。以下の四つを参照してください。</p><blockquote class="seiku"><p>求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。<br>すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。<br>(マタイ7:7-8 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。<br>(マタイ7:13-14 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。<br>(ヨハネ10:9 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。<br>(黙示録21:12 口語訳)</p></blockquote><p>上記の「門」は、信仰や救いの比喩として使われています。一方、出エジプト記の「あなたの門のうちにいる他国の人」は、町や共同体の中に住む人を指しています。<br><br>本題に戻ります。少し長いですが、下記では異邦人も安息日を守る対象とされています。</p><blockquote class="seiku"><p>安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は──わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。<br>(イザヤ56:2-7 口語訳)</p></blockquote><p><br>やはり、イスラエル人だけに言っているわけではありません。つまり、上記が過去に語られた預言であったとしても、「安息日はイスラエル人だけに与えられた」という教えは間違いです。<br><br>さて、安息日を守る宦官には<b style="font-weight:bold;">「記念の名」「永久の名」</b>が与えられます。褒美ですね。黙示録2:17の、白い小石である<b style="font-weight:bold;">「新しい名」</b>と同じです（3:12も関連か）。同じである根拠は聖書に書かれていませんが、それでも同じであると断言します。<br><br>「永久の名」が異邦人にも与えられるとは、この箇所では明記されていません。しかし、異邦人についても「主の祈りの家」で楽しませるとありますので、安息日は守った方が良いです。</p><div id="4">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>4. 初めはなかったから守らなくて良いのか</h2><p>アダムの時代から、モーセによる出エジプトの初期までは、人が安息日を守るよう命じられた記述はありません。冒頭に引用した創世記2:1-3の創造の記事でも、「神が第七日を聖別し、休まれた」とあり、人間であるアダムに休むよう命じてはいません。主がモーセに命じられるまでは、守っていたという記録がありません。<br><br>ですが、これらは「安息日を守らなくてよい根拠」にはなりません。なぜなら、十戒の「殺すな・盗むな・姦淫するな・隣人について偽証するな」なども、モーセの律法が与えられるまでは、十戒という形では書かれていないからです。正しい人であるノアやアブラハムにも、同じ形式では語られていません。<br><br>アダムからアブラハムの時代では、安息日だけでなく、十戒の他を守るよう仰らなかった何らかの理由があったのでしょうか。あるいは、書かれていないだけで、下記のように、すでに何らかの戒めがあったとも考えられます。</p><blockquote class="seiku"><p>アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。<br>(創世記26:5 口語訳)</p></blockquote><p><br>以上のことから、十戒の中から安息日の戒めだけを廃止する根拠はなく、初めに命じられていないからといって、守らなくて良い根拠にはなりません。<br><br>なお、食物規定でも同じことが言えます。アダムには「全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木」が与えられました。しかし、当時の人々が菜食だったのかというと、創世記4:2ではアベルが羊を飼う者となっており、主に羊の初子と、その肥えたものをささげています。<br><br>ノアの時代には、「動いている命ある生き物であればすべて」食べて良いと、命令ではなく、食べることを「許可」されました。しかし、モーセ以降は食物について細かく命じられました。その後、食物規定を変更する明確な命令や許可はありません。※使徒11:7の幻は別の話。</p><div id="5">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>5. 割礼不要という教えはなかった</h2><p>多くのクリスチャンが安息日を守らなくなった要因の一つは、カトリック教会の影響でしょう。<br><br>紀元321年、コンスタンティヌス1世は「太陽の日（dies Solis）」を休業日とする勅令を出しました。その後、4世紀末にはキリスト教がローマ帝国の国教となりました。<br><br>後のラオディキア会議（紀元364年頃）第29条では、次のように定められています。</p><blockquote class="seiku"><p>Christians must not judaize by resting on the Sabbath, but must work on that day, rather honouring the Lord's Day; and, if they can, resting then as Christians.<br><br>キリスト教徒は安息日に休むことによってユダヤ化してはならず、その日は働くべきである。むしろ主の日を尊び、可能であれば、キリスト教徒としてその日に休むべきである。<br>(私訳)</p></blockquote><p>これは、異邦人を中心とする教会会議で独自に決められたものですので、従う必要はありません。なお、ラテン語写本では、上記の続きに「もしユダヤ化している者と見なされれば、キリストから破門されるべき」と書かれています。<br><br>それから、下記ではこうあります。</p><blockquote class="seiku"><p>彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。<br>(ダニエル7:25 口語訳)</p></blockquote><p>同じくカトリックでは、十戒の第二戒「偶像を造ってはならない」を削除し、第十戒の「隣人の家や財産をむさぼってはならない」を、「隣人の妻を欲してはならない」と「隣人の財産を欲してはならない」の二つに分けています。<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92" rel="noopener noreferrer" target="_blank">「十戒」Wikipedia</a><br><br>確かに、上記の「時」と「律法」が変更されています。<br><br>他には下記も要因です。</p><blockquote class="seiku"><p>だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。<br>(コロサイ2:16-17 口語訳)</p></blockquote><p>食物規定や安息日などを廃止とする教えです。ただし、コロサイ書については、パウロ本人の執筆ではない可能性が指摘されています。※テモテが執筆した可能性あり。<br><br>上記2:16の「安息日」は、十戒に定められた週ごとの安息日を含めて書いていると考えます。レビ記23章3節,24節,32節,39節などの、祭りに伴う安息日だけを書いているのではありません。なぜなら、「祭→新月→安息日」という書き方は、「年単位→月単位→週単位」の順に列挙したものと見られるからです。<br><br>仮に、コロサイ書の著者に十戒の安息日を廃止する意図がなかったのであれば、「祭や新月や祭りの安息日などについて、だれにも批評されてはならない」と修飾語を付けて書くはずです。そうしなければ、読者、とりわけ異邦人が「安息日を守らなくて良い」と解釈してしまいます。<br><br>実際には、「食物（飲み物）・祭・新月・安息日」のそれぞれは接続詞「ἢ（英語ではor）」で結ばれています。ですから、この「安息日」だけを祭りに伴う安息日と限定して解釈するのは不自然です。<br><br>何より、これらの律法の戒めを廃止する方向性は、パウロの考えにそっくり当てはまります。したがって、上記コロサイ2:16は、「安息日を守らなくても良い」とする、一人の信徒による見解です。<br><br>さて次に、外典『ディダケー』の記述をどこまで信頼するかは別として、遅くとも2世紀頃には「主の日」に礼拝している人々がいました[ディダケー14章]。そして、黙示録1:10には「主の日」とあります。聖書における「主の日」は、本来、裁きの日を表します。しかし、黙示録1:10では、「主の」に相当する語が形容詞形で使われており、別の意味で使われています。よって、ここでは日曜日を指すという解釈が主流です。<br><br>ただし、これは単純に、週の終わりである土曜日と、週の初めである日曜日の両方に礼拝していたと見るのが妥当です。つまり、土曜日の礼拝に加えて、日曜日にも礼拝していたということです。<br><br>「日曜礼拝をしているのだから、土曜礼拝はしない」というのは論理の飛躍です。土曜日にも集会していた根拠はあります。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>世界中のほとんど全ての教会が毎週の安息日に聖なる秘蹟を祝うにもかかわらず、アレクサンドリアとローマのキリスト教徒は、ある古い伝統に従って、これを行わなくなった。アレクサンドリア近郊のエジプト人やテバイ地方の住民は、安息日に宗教集会を開くが、一般のキリスト教徒と同じやり方で秘蹟に参加することはない。<br>(ソクラテス教会史 第5巻22章 私訳)</p></blockquote><p>上記は、東ローマ帝国の教会史家であるコンスタンティノープルのソクラテスが書いた『教会史』（4～5世紀）からです。<br><br>西方のローマと、エジプトのアレクサンドリア以外のほとんどの教会では、毎週の安息日に秘蹟、おそらく聖餐を行い、集会を開いていたようです。文中からは、アレクサンドリアとローマの信徒が集会自体も行わなくなったのかは確定できません。<br><br>ただし、先のラオディキア会議（紀元364年頃）第29条などにより、やがて土曜日の安息日の遵守や集会は行われなくなっていきます。<br><br>本拠エルサレムの長老たちや使徒たちが、日曜日を礼拝日として守るよう指示したとは考えにくいです。そもそも主に命令されていないため、日曜礼拝は一部教会の「伝統」または「自主的な集会」になります。<br><br>ちなみに、使徒20:7では、週の第一日である日曜日にパンを割くために集まっていますが、使徒2:46のように、毎日集まっていただけかもしれません。<br><br>下記でも、似た記述があります。</p><blockquote class="seiku"><p>また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。<br>(ローマ14:5-6 口語訳)</p></blockquote><p>ただし、上記は断食を行う日について述べている可能性があります。<br><br>次の、アンティオキアのイグナティオスの手紙も、安息日を守らなくなった要因と考えられます。※「カトリック教会」という語を、現存文献の中で初めて用いた人物とされる。</p><p><br>イグナティオスの手紙には、真作と後代の加筆・偽作とされるものがありますが、『マグネシヤ人への手紙』という、真作とされる手紙からの内容です。</p><blockquote class="seiku"><p>If, therefore, those who were brought up in the ancient order of things have come to the possession of a new hope, no longer observing the Sabbath, but living in the observance of the Lord's Day, on which also our life has sprung up again by Him and by His death.<br><br>それゆえ、古い秩序の中で育てられた人々が、新しい希望を持つに至り、もはや安息日を守らず、主の日を守って生活するようになったのであれば、その日に、私たちの命もまた、主とその死によって再び芽生えたのです。<br>(The Epistle of Ignatius to the Magnesians 9 私訳)</p></blockquote><p><br>安息日を守らず、「主の日」を守るように勧めています。パウロは異邦人だけでなく、ユダヤ人にも律法から離れるように教え、律法を守ることが信仰上の害になるかのように教えていました。そのため、彼がアンティオキアに滞在したことが、後のアンティオキア教会のイグナティオスに影響を与えたと見るのが妥当でしょう。[ガラテヤ2:11-14]<br><br>と、あえて断言しませんでしたが、実は断言できます。なぜなら「律法から離れる教え」の発端はパウロであり、そこから波及しているため、<span style="color:#ff0000;">教えの土台はパウロです</span>。つまり、カトリック教会やイグナティオスが要因と記事で見てきましたが、根っこを辿ると一人の人間に行き着くのでした。</p><p><br>上記の手紙のように、主イェシュアが言っておられない教えは、基本的にどこかの一信徒による解釈であることに留意しましょう。その解釈を採用する人が多くいても、正しいとは限りません。</p><div id="6">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>6. 安息日の重要性</h2><p>主は安息日についてたびたび言及されています。下記の八つを参照。</p><blockquote class="seiku"><p>「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。<br>(出エジプト31:13-15 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、わたしの定めに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを捨て、大いにわたしの安息日を汚した。そこでわたしは荒野で、わたしの憤りを彼らの上に注ぎ、これを滅ぼそうと思ったが、<br>(エゼキエル20:12-13 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>これは彼らがその心に偶像を慕って、わがおきてを捨て、わが定めに歩まず、わが安息日を汚したからである。<br>(エゼキエル20:16 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>主なるわたしはあなたがたの神である。わが定めに歩み、わがおきてを守ってこれを行い、わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。しかしその子どもたちはわたしにそむき、わが定めに歩まず、人がこれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを守り行わず、わが安息日を汚した。そこでわたしはわが憤りを彼らの上に注ぎ、荒野で彼らに対し、わが怒りを漏らそうと思った。<br>(エゼキエル20:19-21 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>これは彼らがわがおきてを行わず、わが定めを捨て、わが安息日を汚し、彼らの目にその先祖の偶像を慕ったからである。<br>(エゼキエル20:24 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたはわたしの聖なるものを卑しめ、わたしの安息日を汚した。<br>(エゼキエル22:8 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>その祭司たちはわが律法を犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。<br>(エゼキエル22:26 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>さらに彼らは、わたしに対してこのようにした。すなわち、彼らは同じ日にわたしの聖所を汚し、わたしの安息日を犯した。<br>(エゼキエル23:38 口語訳)</p></blockquote><p><br>ところで、上記のエゼキエル書では、なぜ同じ箇所で、同様の内容を何度も語っておられるのでしょうか。それは<span style="color:#ff0000;">「何回も言わないと分からないから」</span>です。それだけ安息日を重視されているのでしょう。</p><div id="7">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>7. 安息日に控えること</h2><p>まず、関連する聖句をいくつか挙げます。</p><blockquote class="seiku"><p>安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない」。<br>(出エジプト35:3 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>またこの地の民らがたとい品物または穀物を安息日に携えて来て売ろうとしても、われわれは安息日または聖日にはそれを買わない。また七年ごとに耕作をやめ、すべての負債をゆるす。<br>(ネヘミヤ10:31 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そのころわたしはユダのうちで安息日に酒ぶねを踏む者、麦束を持ってきて、ろばに負わす者、またぶどう酒、ぶどう、いちじくおよびさまざまの荷を安息日にエルサレムに運び入れる者を見たので、わたしは彼らが食物を売っていたその日に彼らを戒めた。<br>(ネヘミヤ13:15 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。<br>(イザヤ58:13-14 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>主はこう言われる、命が惜しいならば気をつけるがよい。安息日に荷をたずさえ、またはそれを持ってエルサレムの門にはいってはならない。また安息日にあなたがたの家から荷を運び出してはならない。なんのわざをもしてはならない。わたしがあなたがたの先祖に命じたように安息日を聖別して守りなさい。<br>(エレミヤ17:21-22 口語訳)</p></blockquote><p><br>上記のように、火をたいたり、世俗の仕事や家事、娯楽などを行ったりすることは、控えるべきだと考えられます。食事の準備などは、安息日前に終わらせておきましょう。<br><br>前述したように、安息日を守る目的は、安息日を聖なる日として取り分け、自分の楽しみを求めるのではなく、むなしい行いを避け、むなしい言葉を語らず、安息して、主との交わりを喜ぶことです。<br><br>安息日を軽く見たり、汚したりしてはいけませんが、人を助けたり、良いことをするのであれば、安息日を汚すことにはなりません。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。<br>(マタイ12:11-13 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。<br>(ヨハネ7:23 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、安息日であった。パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。彼は答えた、「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。<br>(ヨハネ9:14-16 口語訳)</p></blockquote><p><br>形式だけで守るのではなく、何のために守るのかという本質を忘れないようにしていきましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><h2 style="margin:7px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">終わりに</span></h2><p>ここまで、安息日について見てきました。一度に完璧にしようとせずに、まずは今週からでも、できる範囲で安息日を守り始めてみましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: right">以上</p><div><style type="text/css">.seiku2{  background:#99aabb;  height:1px;  margin:12px 11px 12px 5px;}blockquote.seiku {  border:1px solid #99aabb;  background:#ebeef2c2;  margin:0 auto 4px;  padding:12px 10px 12px 12px;  border-radius:5px;  quotes:none;}blockquote.seiku::before, blockquote.seiku::after {  content:none;}.seiku p {  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<link>https://ameblo.jp/genshi7/entry-12974457986.html</link>
<pubDate>Sat, 01 Aug 2026 21:35:48 +0900</pubDate>
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<title>服装規定は今も有効か</title>
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<![CDATA[ <div><img alt="" height="405" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260730/16/genshi7/d9/67/p/o1672094115807472999.png" width="720"></div><div class="sp">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 style="margin:7px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">前置き　　</span></h2><p>服装規定の服装がどういうものか知りたい場合は、先に2.の「画像検証」から見た方が早いです。</p><div class="sp"><br>&nbsp;</div><nav aria-label="目次"><details class="mo" open><summary>目次</summary><p class="mofo1"><a href="#0">はじめに --服装規定とは--</a></p><p class="mofo1"><a href="#1">1. 服装規定は現在も有効</a></p><p class="mofo1"><a href="#2">2. どの服装が正しいか検証</a></p><p class="mofo2"><a href="#2-0"> &nbsp;◆絶対に違う服装</a></p><p class="mofo2"><a href="#2-1"> &nbsp;◆天上の主の服装</a></p><p class="mofo2"><a href="#2-2"> &nbsp;◆帯について</a></p><p class="mofo2"><a href="#2-3"> &nbsp;◆画像検証</a></p><p class="mofo2"><a href="#2-4"> &nbsp;◆結論</a></p><p class="mofo1"><a href="#3">3. 服装規定を細かく分析</a></p><p class="mofo2"><a href="#3-0"> &nbsp;◆衣服の角の房</a></p><p class="mofo2"><a href="#3-1"> &nbsp;◆素材</a></p><p class="mofo2"><a href="#3-2"> &nbsp;◆男女の服の違い</a></p><p class="mofo2"><a href="#3-3"> &nbsp;◆色の指定</a></p><p class="mofo2"><a href="#3-4"> &nbsp;◆身頃の交差の向き</a></p></details></nav><div id="0">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>&nbsp;はじめに --服装規定とは--</h2><blockquote class="seiku"><p>「イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と、目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。<br>(民数記15:38-39 口語訳)&nbsp;※原語では四すみではなく「複数の角」</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない。身にまとう上着の四すみに、ふさをつけなければならない。<br>(申命記22:11-12 口語訳)</p></blockquote><p>上記のように、古代イスラエルの時代から「衣服の角に房を付け、房に青ひもを付ける」のが正しい服装です。</p><div id="1">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>1. 服装規定は現在も有効</h2><blockquote class="seiku"><p>主なる神の前に沈黙せよ。主の日は近づき、主はすでに犠牲を備え、その招いた者を聖別されたからである。主の犠牲をささげる日に、「わたしはつかさたちと王の子たち、および<mark style="background:#fbff0a">すべて異邦の衣服を着る者を罰する</mark>。<br>(ゼファニア1:7-8 口語訳)</p></blockquote><p>聖書で「主の日」は終わりの裁きの日のことです。直前のゼファニヤ1:2で「地のおもてからすべてのものを一掃する」と言われていますので、やはり終わりの日の事と考えられます。「異邦の衣服を着る者」を罰するとあります。<br><br>ここは三つの解釈ができます。一つ目は字義どおり異邦人の服装をしている者。二つ目は象徴として異邦人文化や価値観へ追随した者。三つ目はその両方を含む、両義的な解釈です。象徴的に解釈しようとすると何でもできてしまうわけですので、根拠がない限り、まず字義どおりに読むのが妥当です。<br><br>律法は廃棄されていないことも考慮しましょう。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。<br>(マタイ5:17-20 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。<br>(マタイ23:1-4 口語訳)</p></blockquote><p>上記聖句の詳しい説明は、<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972543088.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">別記事「律法は今も有効か」を参照</a>。上記聖句により「服装規定を守った方が良いです」と、ここで推奨しておきます。守らないと救われないとは言っていません。<br><br>次に下記の聖句を見てみます。</p><blockquote class="seiku"><p>だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。<br>(マタイ6:31 口語訳)</p></blockquote><p>あえて一部分だけを抜き出しましたが、上記は「何を食べても良い、何を着ても良い」という意味ではありません。この話は24節「神と富に仕えることはできない」からの続きです。</p><p>前後の文脈により「何を食べれば寿命が伸びるか、どのように着飾れば良いか」等で悩むなという意味です。そういうのは「異邦人が切に求めている」ということです。また、26節と話の結びに当たる33〜34節により「食べる物・着る物が乏しい人」に対して、明日のことまで心配するなという意味もあります。</p><div id="2">&nbsp;</div><div id="2-0">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>2. どの服装が正しいか検証</h2><h3 class="h3h"><b>◆絶対に違う服装</b></h3><p>まず、現代ユダヤ教の黒スーツは違います。2000年前の服装にはありません。モーセの律法が制定された時代だと約3500年前です。※後述により、現代の「正統派ユダヤ教」の一部の人は服装規定を守っています。<br><br><span style="color:#ff0000">現代の「洋服」はもちろん違います。</span>「西洋」の服ですので、異邦人の服の代表と言えます。「服」の字は「服従,服属,征服」の言葉どおり、支配に関係します。日本は二千年近く続いた服装を明治時代から、徐々に手放してしまいましたが、戦争の影響が一番大きいです。イラクなども戦争の影響で洋服化が進んでいますが、近世ではアフリカなどの貧困国への不要になった古着の援助（援助になっていない）や、スポーツの普及からも影響を受けています。動きやすい服の方が有利です。服装の乱れは文化や心にも影響しますので、服は軽視できません。<br><br>主イェシュアが「チュニック（キトン）,トガ」といったローマ・ギリシャの服を着せられ描かれるのが多いですが、これも異邦人の服であり、間違いです。先のゼファニア書で「異邦の衣服を着る者を罰する」と語っておられるのに、主が異邦人の服を着るのはあり得ません。</p><p>&nbsp;</p><p>それと茶金髪、長髪、青目の西洋の容姿で描かれるのも極めて考えにくいでしょう。アブラハムはセムの血統で、ウル出身（現在のイラク南部）ですので、欧米の容姿ではなく、当時のイスラエル人のほとんどが中東系の黒目黒髪です。<span id="2-1">&nbsp;</span></p><div class="sp">&nbsp;</div><h3 class="h3h"><b>◆天上の主の服装</b></h3><blockquote class="seiku"><p>それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。<br>(ヨハネの黙示録1:13 口語訳) ※原語[×上着 ◯衣]</p></blockquote><p>足までたれた衣を着ておられるようです。胸に金の帯をしているのは、大祭司の服装でしょうか。<br><br>下記の天使たちも同じように、胸に金の帯をしめています。</p><blockquote class="seiku"><p>その聖所から、七つの災害を携えている七人の御使が、汚れのない、光り輝く亜麻布を身にまとい、金の帯を胸にしめて、出てきた。<br>(ヨハネの黙示録15:6 口語訳)</p></blockquote><p>ただし、上記15:6の方はギリシャ原語が別です。どちらも「胸」の意味ですが、1:13の方は「乳房」の意味もある単語です。単語を変えていることから、少し帯の位置が違うのかもしれません。<br><br>下記は胸ではないようです。</p><blockquote class="seiku"><p>目をあげて望み見ると、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、ウパズの金の帯を腰にしめていた。<br>(ダニエル10:5 口語訳)</p></blockquote><p>こちらは原語で「腰」になります。<span id="2-2">&nbsp;</span></p><div class="sp">&nbsp;</div><h3 class="h3h"><b>◆帯について</b></h3><p>帯は、下記の六つの箇所にも出てきます。</p><blockquote class="seiku"><p>彼らは答えた、「その人は毛ごろもを着て、<span class="sen0">腰に皮の帯</span>を締めていました」。彼は言った、「その人はテシべびとエリヤだ」。<br>(列王紀下1:8 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、<span class="sen0">腰に皮の帯</span>をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。<br>(マタイ3:4 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>彼女は亜麻布の着物をつくって、それを売り、<span class="sen0">帯をつくって</span>商人に渡す。<br>(箴言31:24 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたの衣を着せ、あなたの<span class="sen0">帯をしめ</span>させ、あなたの権力を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの民とユダの家との父となる。<br>(イザヤ22:21 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>しかしあなたは<span class="sen0">腰に帯して</span>立ち、わたしが命じるすべての事を彼らに告げよ。彼らを恐れてはならない。さもないと、わたしは彼らの前であなたをあわてさせる。<br>(エレミヤ1:17 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で<span class="sen0">帯をしめ</span>て、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに<span class="sen0">帯を結びつけ</span>、行きたくない所へ連れて行くであろう」。<br>(ヨハネ21:18 口語訳) ※原語:×手を　○両手を（複数形）</p></blockquote><p>帯は、聖書内で沢山でてきますが、列王記上2:5、ヨブ記38:3、箴言31:17、イザヤ5:27,8:9,11:5で「腰の帯」とあり、他の箇所でも比喩としてよく使われます。<br><br>以上により、イスラエル人は<span style="color:#ff0000">腰に帯を締める服装だった</span>ことが分かります。上記ヨハネ21:18で、ペトロが他の人に帯を締められることから、単に体を一周させるだけの細い紐ではなさそうです。すぐ結べるなら自分でやった方が早いですので。ちなみに、昔の日本でも、身分の高い者（主人）の帯を、使用人（妻）が締めることはありました。<br><br>この箇所は比喩として言われている可能性はありますが、帯をしていたのは間違いありません。エリヤの時代から帯をしており、律法の服装が、そう簡単に変わらないでしょう。<br>&nbsp;</p><fieldset style="margin-top:15px;padding:4px 15px 12px;border:1px solid #778899;margin:0;border-radius:2px"><legend align="left"><span style="font-size:18px;margin:2px 3px;padding:0 7px 0;padding:0 2px"><b>余談</b></span></legend>洗礼者ヨハネはエリヤと同じ格好をしており、マタイ17:12-13のヨハネは、エリヤのことでした。ヨハネは蜂蜜とイナゴを食べていたことから、服装規定と食物規定を守っています。終末に来るエリヤも「服装規定・食物規定」は守っているのではないでしょうか。<span id="2-3">&nbsp;</span></fieldset><div class="sp">&nbsp;</div><h3 class="h3h"><b>◆画像検証</b></h3><p><mark class="kiiro">■まずは下記、日本の浴衣・着物</mark></p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260731/16/genshi7/46/3b/j/o1024102415807774089.jpg"><img alt="" height="420" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260731/16/genshi7/46/3b/j/o1024102415807774089.jpg" width="420"></a></p><div class="sp">&nbsp;</div><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260731/16/genshi7/41/61/j/o1024102415807774133.jpg"><img alt="" height="420" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260731/16/genshi7/41/61/j/o1024102415807774133.jpg" width="420"></a></p><p>※画像はAIで生成</p><p><br><a href="https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GG043094&amp;hid=335&amp;p=13" rel="noopener noreferrer" target="_blank">ほかの画像はコチラ</a>　　<a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Utagawa_Toyoharu_-_Muk%C5%8Djima_k%C5%8Draku_zu.jpg" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>足元まで一枚着で、身頃の交差、袖口の広さ、太い帯が特徴です。カーディガンのように上着を羽織る点も特徴です。女性の帯の幅は広くなります。<b>以下、和服と比較していきます。</b><br><br><br><mark class="kiiro">■下記は、ユダヤ人の服装</mark><br><a href="https://picryl.com/media/pikiwiki-israel-78051-a-jew-living-in-safed-1900-f7e1c8" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>1900年頃のイスラエルのサフェドに住むユダヤ人です。前身頃の交差、帯、帯の幅、袖口の広さ、和服とほぼ同じです。帽子、長い髭、モミアゲは現代と変わっていません。<br><mark class="kiiro">下記も1890年頃のサフェド在住のユダヤ人</mark><br><a href="https://picryl.com/media/pikiwiki-israel-77901-street-in-safed-1890-151e84" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>こちらも服装はほぼ和服と同じようです。<br><mark class="kiiro">下記は1869年頃のイラク（バスラ）のユダヤ人絵画</mark><br><a href="https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GG043089&amp;hid=335&amp;thumbp=" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>袖口が細く見えますが、ほぼ和服です。違いは上着が足元まであることです。和服の長羽織は長くても膝下までです(束帯・法衣などは除く)。上質な生地を使っているのが絵でも伝わります。帽子ではなくターバンを巻いています。<br><mark class="kiiro">下記は1859年頃のシリアのキリスト者で著名な人物</mark><br><a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Mikhail_Mishaqa" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>資料からはユダヤ人であるか確認できませんが、おそらく異邦人と思われます。和服とほぼ同じです。中東だからか、同じく帽子ではなくターバンです。当時の流行りだったのか、先ほどと似た薄色のストライプ柄で、浴衣のようにも見えますね。こちらも上着が足元までの長さになっていますが、一点気になるところがあります。それは、通常の羽織には無い「衽（おくみ）」が付いています。これはおそらく本来の上着ではなく、下着を上着として着たのだと思われます。袖の長さも体に合っていません。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はサマリア人の服（1920年）</mark><br><a href="https://en.wikipedia.org/wiki/File:The_High_Priest_of_the_Samaritans_with_the_Codex_Nablus_c._192.jpg" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像一はコチラ</a>　　<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Samaritans" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像二はコチラ</a></p><p>一枚目は驚くほど和服と似ています。前身頃の交差、帯、帯の幅、袖口の広さ、羽織、ほぼ同じです。1920年頃のイスラエル近辺に出回っている素材は、羊毛・綿・絹で、レーヨン（人工絹）はあまり普及しておらず、画像の羽織は羊毛や綿には見えないため、絹と思われます。上着は先の画像と同じく足元まであるかもしれません。<br>サマリアはエルサレムに近いですが、異邦人が多くいました[列王記下17:24-29参考]。ヨセフスのユダヤ古代誌でも「アッシリア系移民の子孫」と書かれています。ですが、列王記下17:28でイスラエルの祭司が来て律法を普及させています。29節により、独自に高台を聖所として（エルサレムからゲリジム山に）いましたが、トーラー（律法）を重視しモーセ五書を聖典としていました。現在でも「サマリア五書」として、サマリア文字で書かれた物があります。よって当時のサマリア人もモーセの律法、服装規定を守っています。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記は現代イスラエルのユダヤ教一派の服</mark><br><a href="https://vrienden-van-osho.nl/de-chassidische-joden/" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>房や青紐は無さそうですが、帯のある薄手のロングコートを、スーツの上からですが着ている人が少数おり、近いです。黒いスーツが古代の服装とは違うことは、気づいているのでしょう。この写真では一番若い人だけが、周りと違う近い服を着ています。<br><mark class="kiiro">下記も近いです。</mark><br><a href="https://www.reddit.com/r/Judaism/comments/x9sdz6/why_do_perushim_wear_a_different_bekishe_compared/" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>帯が二つありますが、問題ではないでしょう。男性和服であれば、もう少し袖口が広く、細帯を隠し、太帯を腹部ではなく腰の位置まで下げる感じになります。<br><mark class="kiiro">下記の動画も似た服を着ています</mark><br><a href="https://youtube.com/watch?v=dPuJBYhixyM&amp;pp=ygUV5q2j57Wx5rS-440m44OA44Ok5pWZ0gcJCccJAYcqlYzv" rel="noopener noreferrer" target="_blank">動画はコチラ</a><br>プリム祭と思われますが陽気ですね。音楽はロシアとアラブを混ぜた感じでしょうか。袖口は細いですが、人によって違うようです。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はトルコの衣装（19世紀）</mark><br><a href="https://itoldya420.getarchive.net/media/turkey-1810-17-fc8733" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像一はコチラ</a><br>ほぼ和服と同じですが、上着は同じとして、中着の袖口は細くなっています。下記のように多様な衣装があります。<br><a href="https://itoldya420.getarchive.net/media/students-asiret-school-abdullah-freres-photographes-de-smi-le-sultan-3" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像二はコチラ</a>　　<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Osman_III_by_John_Young.jpg" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像三はコチラ</a>　　<a href="https://fr.wikipedia.org/wiki/Fichier:Le_costume_historique._Cinq_cents_planches,_trois_cents_en_couleurs,_or_et_argent,_deux_cents_en_camaieu._Types_principaux_du_v%C3%AAtement_et_de_la_parure,_rapproch%C3%A9s_de_ceux_de_l'int%C3%A9rieur_de_(14741155816).jpg" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像四はコチラ</a>　　<a href="https://www.facebook.com/groups/402842090524966/posts/1236758050466695/" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像五はコチラ</a><br><br>※絵画資料は作家が想像で描いている物も一部あるかもしれませんが、確認は取れていません。</p><p><br><br><mark class="kiiro">■下記はインド北部のラダック人の民族衣装ゴンチェ</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?q=%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%AF+%E8%A1%A3%E8%A3%85+%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7&amp;sca_esv=fa0d648ec49d7a9f&amp;udm=2&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;ei=J_bmaPuUBJ7K1e8Pycn6wA0&amp;ved=0ahUKEwi7xPaL45WQAxUeZfUHHcmkHtgQ4dUDCBE&amp;uact=5&amp;oq=%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%AF+%E8%A1%A3%E8%A3%85+%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7&amp;gs_lp=Egtnd3Mtd2l6LWltZyIg44Op44OA44OD44KvIOiho-ijhSDjgrTjg7Pjg4HjgqdIqgRQAFgAcAB4AJABAJgB6AGgAegBqgEDMi0xuAEDyAEA-AEBmAIAoAIAmAMAkgcAoAczsgcAuAcAwgcAyAcA&amp;sclient=gws-wiz-img" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>上記も和服に似ています。身頃が交差するものと、交差しないものの両方があり、交差しないのは近代化の影響でしょうか。ラダック人はチベット系の人たちであり、チベット人の約5割は日本人と同系統のハプロDです。現在のチベットには漢族が多く入ってきており、ラダックが最もチベットらしさがあると言われます。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はチベットの民族衣装のチュバ</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?sca_esv=fa0d648ec49d7a9f&amp;udm=2&amp;fbs=AIIjpHxAboEh8T4AmOafDyCTZyImRiqTfQHPlfmQNPDJpiOEB0B8N6AC8kiE6py9pWguob5u-iitCCq1ZYhVdsjAyXN5xwJqyGELFaRchKVPHDHkp7lmFbB_BYsGsTsJxsf5CX5YU-8DxJ7Q4WVmVSRBdsmzH23XXi_tLwiCV4wOM8kQrDwGs89hq_r8i_PsfBMTRuB4I3mdRs5-ms1TkoBgv-OZlvyjnvnW1ZSYVuQkz7vXOtCy6OQ&amp;q=%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88+%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%A1%A3%E8%A3%85+%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%90&amp;sa=X&amp;ved=2ahUKEwiA0-qq5ZWQAxWtUfUHHa9iFUcQtKgLegQIFBAB&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;dpr=2.5" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a></p><p>近代化の影響か、飾りが多く派手な印象ですが、素朴で和服に似た形の物もあります。僧侶（ダライ）のオレンジと赤の服装は、後世に成立したと考えられます。右肩だけ掛けない姿はインド仏教からの影響のようで、僧侶だけでなく一般人もする人がいます。日本の仏教の住職も同様に「袈裟」を着用します。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はブータンの民族衣装</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?q=%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%80%80%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;sca_esv=fa0d648ec49d7a9f&amp;udm=2&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;ei=H_bmaM36EuLq1e8PzfnSoQ4&amp;ved=0ahUKEwiNhp2I45WQAxVidfUHHc28NOQQ4dUDCBE&amp;uact=5&amp;oq=%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%80%80%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;gs_lp=Egtnd3Mtd2l6LWltZyIb44OW44O844K_44Oz44CA5rCR5peP6KGj6KOFMgUQABiABDIFEAAYgAQyBRAAGIAEMgUQABiABDIFEAAYgAQyBRAAGIAEMgUQABiABDIFEAAYgAQyBRAAGIAEMgUQABiABEjxF1AAWJcWcAB4AJABAZgB3gOgAbUYqgEKMS4xOS4xLjAuMbgBA8gBAPgBAZgCDaAC6Q3CAg0QABiABBixAxiDARgEwgIQEAAYgAQYsQMYgwEYBBiKBcICChAAGIAEGLEDGATCAgcQABiABBgEwgIOEAAYgAQYsQMYgwEYigWYAwCSBwgwLjEyLjAuMaAH51CyBwgwLjEyLjAuMbgH6Q3CBwQyLTEzyAc-&amp;sclient=gws-wiz-img" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a></p><p>ブータンもチベットと遺伝子が同系統のハプロDで、両地域の距離も約400kmと近いため、似ていて当然かもしれません。少し和服から遠ざかっていますが、前身頃の交差と帯などは同じです。袖口は細くなり折り畳み式になっていますが、次のモンゴルと同じです。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はモンゴルの民族衣装のデール</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?q=%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB+%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;sca_esv=fa0d648ec49d7a9f&amp;udm=2&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;ei=-_jmaOfcIuekvr0Pm7G_iQE&amp;ved=0ahUKEwinxrLl5ZWQAxVnkq8BHZvYLxEQ4dUDCBE&amp;uact=5&amp;oq=%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB+%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;gs_lp=Egtnd3Mtd2l6LWltZyIZ44Oi44Oz44K044OrIOawkeaXj-iho-ijhTIFEAAYgAQyBRAAGIAEMgUQABiABDIFEAAYgAQyBhAAGAcYHjIFEAAYgAQyBRAAGIAEMgYQABgHGB4yBhAAGAcYHjIFEAAYgARI0RlQAFiQGHAEeACQAQCYAZgBoAGQDKoBBDAuMTO4AQPIAQD4AQGYAgegAv0DwgIIEAAYBBgHGB6YAwCSBwMzLjSgB6UmsgcDMC40uAfuA8IHBTAuMS42yAci&amp;sclient=gws-wiz-img" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a></p><p>和服から遠ざかりましたが、少し似ています。立ち襟になっているのと、前身頃の交差部分の形状の違い、また袖口が細くなっていて折り畳んでいます。折り畳み式は、物を入れるポケット代わりになっているそうです。袖口は細くなっていったと考えられます。モンゴルは寒いですので、これらの違いは防寒性では有利です。騎馬生活に適した動きやすさを重視した面もあるでしょうか。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記は中国（支那）の漢服</mark></p><p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Wall_Mural_of_a_Male_Figure,_Han_Tomb_from_Hou-t%27un_Village_(%E5%BE%8C%E5%B1%AF%E6%9D%91),_Tung-p%27ing_County_(%E6%9D%B1%E5%B9%B3%E7%B8%A3).jpg" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像一はコチラ</a>　　<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Back_of_a_Eastern_Han_Dynasty_Man.jpg" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像二はコチラ</a></p><p>上記画像一が前漢時代（紀元前206-紀元8年）の服装。画像二が後漢時代（25-220年）。<br>和服と近い物があり、歴代王朝により形状が異なるようです。筒袖短衣にズボン（一概には言えない）の「胡服」と、伝統的な「漢服」とに分かれます。17世紀半ばの満洲族による制圧で、清朝になり、弁髪や満洲族の民族衣装チーパオ（チャイナドレスの原型）に強制されました。なお、チャイナドレスは二十世紀にできた物で民族衣装とはされません。<br><mark class="kiiro">下記はユンリンシャンという上着</mark><br><a href="https://en.m.wikipedia.org/wiki/Yuanlingshan" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>北朝時代（439-589年）には高位の男性が、唐の時代（618-907年）には女性にも流行したようです。襟元が丸いのが特徴です。韓国の朝廷、日本の朝廷の服（袍）にも影響があるようです。絹製であれば防寒だけでなく合羽にも使えそうです。日本の道中着にも少し似ています。<br><mark class="kiiro">下記は「幞頭（幞头:ふくとう）」</mark></p><p><a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Futou" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>唐の時代の帽子、頭巾です。日本の官人の冠（衣冠束帯）の原型のようです。同様の物で、唐では鳥紗帽（うさぼう）、日本では日常用として烏帽子（えぼし）の名で残っています。<br><mark class="kiiro">下記は中国の少数民族のチャン族</mark></p><p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E6%97%8F" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>派手ですが、和服に少し似ています。袖口は、写真中央の女性は広くなっています。他二人は、袖口がモンゴル風で折り畳み式です。襟元、身頃の交差もモンゴル風です。腰巻のような物が追加されていますが、これは前面のみの前掛けになっており、後ろは紐（帯）でくくるようになっています。前掛けがなく普通の帯になっている物もあります。男性は足元まで一枚布と、ズボンの人とで分かれていますが、胡服の影響か近代化の影響でしょうか。チャン族は人口約20〜30万人の少数民族で、ハプロDが約二割います。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記は韓国（朝鮮）の韓服</mark></p><p><a href="https://ja.namu.wiki/w/%ED%95%9C%EB%B3%B5" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>現代では朝鮮女性のチマチョゴリが有名ですが、他に和服と近い物、遠い物もあります。高句麗・新羅・百済の三国いずれかの時代の服装が近かったのか、もしくはシナ系・モンゴル系・ツングース系の異民族が朝鮮半島に入ってきた影響もあるでしょうか。帯ありと帯なしの両方があり、胸の身頃の交差あたりに紐がついていて結ぶ物もあります。<br><mark class="kiiro">日本の埴輪に、胡服の影響か身頃の交差あたりで同様に結ぶ物が多いので、関連はあると思われます。下記参照</mark></p><p><a href="https://www.haniwakan.com/tenji/jubunsitei.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像一はコチラ</a>　　<a href="https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/464015" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像二はコチラ</a></p><p>日本の埴輪は3世紀後半から7世紀頃の作品とされています。卑弥呼の死去が247年頃とされ、以降はしばらく歴史資料が乏しいです。3世紀以前はどのような格好だったのか、埴輪が出土していない地域ではどのような格好だったのか分からないため、判断が難しいです。魏志倭人伝によれば3世紀末で「貫頭衣」を着用とされています。なお、職貢図（魏志倭人伝の横幅衣）では日本人に似つかない蛮族のような格好が描かれています。<br>画像一は日本で発掘された「ユダヤ人埴輪」と呼ばれる物ですが、同じ帽子が韓服でもあります。</p><p><mark class="kiiro">「カッ」という名の帽子で、上記とほぼ同じです。下記参照</mark></p><p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%83" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>現代ユダヤ教も似た黒帽子を被っていますね。韓国にもイスラエル系の人々が渡来していたのでしょうか。</p><p><mark class="kiiro">下記「鷹匠の埴輪」や「あぐらを組み合掌する男子埴輪」も似た帽子を被っています</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?q=%E9%B7%B9%E5%8C%A0%E3%81%AE%E5%9F%B4%E8%BC%AA&amp;sca_esv=99331a272fb6ecba&amp;udm=2&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;ei=pqfnaNL7H6q4vr0PsoaSoQg&amp;ved=0ahUKEwjS5pKvjJeQAxUqnK8BHTKDJIQQ4dUDCBE&amp;uact=5&amp;oq=%E9%B7%B9%E5%8C%A0%E3%81%AE%E5%9F%B4%E8%BC%AA&amp;gs_lp=Egtnd3Mtd2l6LWltZyIP6be55Yyg44Gu5Z-06LyqSN0EUNICWNICcAF4AJABAJgBdKABdKoBAzAuMbgBA8gBAPgBAvgBAZgCAKACAJgDAIgGAZIHAKAHM7IHALgHAMIHAMgHAA&amp;sclient=gws-wiz-img" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像一はコチラ</a>　　<a href="https://www.google.com/search?sca_esv=99331a272fb6ecba&amp;udm=2&amp;fbs=AIIjpHxAboEh8T4AmOafDyCTZyImRiqTfQHPlfmQNPDJpiOEB0B8N6AC8kiE6py9pWguob7T1bpacOUtOM01qd3HI4FMaynVW5YxdAyLTcAWJmZYeFEz_a8syik9tLBLSdNzCKMNLhe4lWO5cWMGhCI9iolPIRtenJc6OKos0du8MB3IQShKTVwgj9Mw39sVYf5abKXzUzkNHTAZDv7DjuBtU-5FU3mgqYl4ONPGSWoqwc_3rgOwdxA&amp;q=%E3%81%82%E3%81%90%E3%82%89%E3%82%92%E7%B5%84%E3%81%BF%E5%90%88%E6%8E%8C%E3%81%99%E3%82%8B%E7%94%B7%E5%AD%90%E5%9F%B4%E8%BC%AA&amp;sa=X&amp;ved=2ahUKEwixn56ujJeQAxUYePUHHWQhDaoQtKgLegQIFRAB&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;dpr=2.5" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像二はコチラ</a></p><p>先の「ユダヤ人埴輪」とは異なる顔立ちをしています。鼻が高くなく髭もなく、美豆良をしています。ユダヤ人埴輪もモミアゲが美豆良に似ています。これはレビ記19:27の「びんの毛（モミアゲ）を剃ってはならない」から来ていると考えられます。それからこの二体の埴輪が被っている帽子は先端が曲がっており、日本の立烏帽子にも影響を与えているのかもしれません。ほぼ全ての帽子の特徴が黒色です。被る人が黒髪だからと考えるのが無難でしょうか。</p><p><mark class="kiiro">下記のように「帽子の埴輪」を作るぐらいですので、大切な品としていたようです</mark></p><p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E7%80%AC%E6%88%B8%E3%83%B6%E8%B0%B7%E5%8F%A4%E5%A2%B3_%E5%B8%BD%E5%AD%90%E5%BD%A2%E5%9F%B4%E8%BC%AA_(J-36619-3).JPG" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>&nbsp;</p><p><br><mark class="kiiro">■下記は沖縄（琉球王国）の琉装</mark></p><p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E8%A3%85" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>琉装も和服とほぼ同じ型です。大陸の影響と九州に近いので当然と言えます。なお、沖縄の人の遺伝子は、中国人・韓国人よりも圧倒的に本土の日本人に近いです。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はアフガニスタン近郊のパタン族（イラン系）</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?q=%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%B3%E6%97%8F+%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;sca_esv=99331a272fb6ecba&amp;udm=2&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;ei=8qrnaOmXJ9Szvr0P053DsQw&amp;ved=0ahUKEwjp2NPBj5eQAxXUma8BHdPOMMYQ4dUDCBE&amp;uact=5&amp;oq=%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%B3%E6%97%8F+%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;gs_lp=Egtnd3Mtd2l6LWltZyIZ44OR44K_44Oz5pePIOS8nee1seiho-ijhUiwHlCzAVjHHHADeACQAQCYAdQBoAGrGqoBBjAuMTUuM7gBA8gBAPgBAZgCAaACrgHCAgUQABiABJgDAIgGAZIHAzAuMaAHrgeyBwMwLjG4B64BwgcDMi0xyAcD&amp;sclient=gws-wiz-img" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a></p><p>別名パシュトゥン族。イスラエルから約1800km東のイラン東部からアフガニスタンにかけて定着。近代の戦争や西洋化の影響により、男性の服は現代風に変わっています。一応古い写真では身頃の交差をしている物もあります。女性用はケミスという衣装名で比較的原型を留めているようです。身頃の交差は無いですが、後ろで帯をくくっています。胸当てのような派手なものがあり、<a href="https://www.google.com/search?sca_esv=82a37564b757cef6&amp;sxsrf=APpeQns6eAzrv6HVwxJyTfw47HRKjQ2xaA:1785498122097&amp;udm=2&amp;fbs=ABfTbFW60ZrVzTvtIxIeR2xJaWa9SdcaJcENDlHsqMah8vn6u3BSoAvixJTZT2tkfrPDTXoNXkWWGuILmhm7F0mp66uXwcIXrN3OGtbQ3Gb5NT0D8UGM56jMkhR4Qz3S0tGk7ygl9tvLsJ-UoO-ODgDAQAQtiFxqq32cZIFyNC-3umFBtByIiBQmWH7Gm4jqJvuxqP5J1WJ3RyvmW8pJr8dqZ8PRx3k-hW36wFd0uSQ7LNNMObUC72q8QqdS50jVSFlWF85Lgrot&amp;q=%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%89&amp;sa=X&amp;ved=2ahUKEwjP5sHq6vyVAxV0k1YBHQzBJgsQtKgLegQIFhAB&amp;biw=1302&amp;bih=742&amp;dpr=2.2" rel="noopener noreferrer" target="_blank">イスラエルの大祭司の服「エフォド」</a>のようにも見えます。意匠は両肩に掛かっており、装飾があります。女性が祭司の服装をするのは考えられないですが、エフォドの影響と推測します。</p><p>&nbsp;</p><p>なお、北イスラエル王国は紀元前722年に滅び、メソポタミアや現イラン西部から中部も含まれるメディア王国の町々へ強制移住（列王記下17:6）させられました。<br><br>&nbsp;</p><p><mark class="kiiro">■下記は現ウズベキスタン周辺のブハラ首長国の衣装</mark></p><p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a></p><p>型は、和服と似ています。<br><br>&nbsp;</p><p><mark class="kiiro">■下記はバシキール人の民族衣装</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?sca_esv=82a37564b757cef6&amp;sxsrf=APpeQnvSJ66glprld9apJxcgNmgL-JNYNQ:1785499469252&amp;udm=2&amp;fbs=ABfTbFUCk5nEvrJ89ZKOhP1eOZgkxKGw4hCnqUW8KvV4xMEBhS1tcUjrnFOtpLBGuTB0Ram61mi9kLy2FbJlfeW6qDMNMhNxT7XRBvx6dhIyP7d8FmBXassPnuX9CAnbCZXgpvAlvNS9fzReVe5HIGVRKaHNHFOMH505sAIRkVGUXJczzQVtWn2dcnXKZhOu04NvbLWrEwcDrL1710WhSkHxOky0MNqU6oDGWw_cQg_HSdX7s0z-pevMsNMX-9oiSsn8sFkm5rmY&amp;q=%E3%83%90%E3%82%B7%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA%E3%80%80%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;sa=X&amp;ved=2ahUKEwj42vHs7_yVAxU9hq8BHUFIKRIQtKgLegQIGBAB&amp;biw=1302&amp;bih=742&amp;dpr=2.2#sv=CAMSUxoyKhBlLWFGaGxkeGRLZDN0c0hNMg5hRmhsZHhkS2QzdHNITToOTXJnMW1STjM2blBfSk0gBCoXCgFzEhBlLWFGaGxkeGRLZDN0c0hNGAEwATgAGAcgt-_o1QpKCBABGAEgASgB" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>ロシアの一部の自治国で、バシコルトスタン共和国に居住する民族。こちらでも、女性の衣装にのみ胸当てのような装飾が見られます。悪霊からの守護で付けているようです。男性は和服っぽいものや胡服っぽいのもあります。<br>&nbsp;</p><p><br><mark class="kiiro">■下記はロシアの衣装</mark><br><a href="https://www.alamy.com/ancient-russian-fashion-and-lifestyle-18th-century-from-geschichte-des-kostums-in-chronologischer-entwicklung-history-of-the-costume-in-chronological-development-by-racinet-a-auguste-1825-1893-and-rosenberg-adolf-1850-1906-volume-5-printed-in-berlin-in-1888-image348092623.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>19世紀後半の作品。それぞれ異なる服装ですが、和服に少し近い服装もあります。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はボクサーのガウン</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?sca_esv=57c838167095f3b0&amp;udm=2&amp;fbs=AIIjpHxAboEh8T4AmOafDyCTZyImRiqTfQHPlfmQNPDJpiOEB0B8N6AC8kiE6py9pWguob5u-iitCCq1ZYhVdsjAyXN5xwJqyGELFaRchKVPHDHkp7lmFbB_BYsGsTsJxsf5CX5YU-8DxJ7Q4WVmVSRBdsmzH23XXi_tLwiCV4wOM8kQrDwGs89hq_r8i_PsfBMTRuB4I3mdRs5-ms1TkoBgv-OZlvyjnvnW1ZSYVuQkz7vXOtCy6OQ&amp;q=%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%83%B3&amp;sa=X&amp;ved=2ahUKEwjkusq0vpeQAxXjZvUHHXInLA8QtKgLegQIERAB&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;dpr=2.5" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>実は和服と型は似ています。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はバスローブ</mark></p><p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%96" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a></p><p>こちらも実は和服の型に似ています。バスローブは中世頃には欧州に存在したようです。<br><br>&nbsp;</p><h4 style="margin:4px 0;font-weight:bold;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background-color:#e5edf9">■一旦まとめ■</span></h4><p><span style="display:block;padding:8px;margin-top: -8px;font-size:16px;background-color:#e5edf9">ここまでを読んで気づいたと思いますが、和服と言っても日本人の専売特許ではありません。多くの地域でもともと似た形の衣服が用いられていました。引き続き他の国を見ていきます。</span></p><p><br><br><mark class="kiiro">■下記はペルシャ人（イラン）の衣装</mark></p><p><a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Persian_clothing" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像一はコチラ</a>　　<a href="https://www.reddit.com/r/iran/comments/ccpwg9/dress_code_in_iran_dos_and_donts/" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像二はコチラ</a>　　<a href="https://www.alamy.com/costumes-of-high-ranking-persian-men-and-women-at-top-and-commoners-below-physiognomy-of-a-persian-man-in-turban-handcoloured-lithograph-from-friedrich-wilhelm-goedsches-vollstaendige-vlkergallerie-in-getreuen-abbildungen-complete-gallery-of-peoples-in-true-pictures-meissen-circa-1835-1840-goedsche-1785-1863-was-a-german-writer-bookseller-and-publisher-in-meissen-many-of-the-illustrations-were-adapted-from-bertuchs-bilderbuch-fur-kinder-and-others-image331620079.html?imageid=99F23E43-03E5-43D6-9DBB-96AB2718E3C1&amp;pn=1&amp;searchId=aec24bbd8af4d62f44f83cd80614c7ed&amp;searchtype=9" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像三はコチラ</a><br>画像一のページは、和服と似たものが多くあります。画像二は左がクルド人、子供の左にいる男性がペルシャ人。画像三の左上の人物が上位層のペルシャ人、左下の人物が下位層のペルシャ人。前述のイラクのユダヤ人と同様にイランも、ユダヤ人が捕囚で連れて行かれた地です。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はアラブ系の衣装トーブ</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?q=%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E7%B3%BB+%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%96&amp;sca_esv=fe1d53302ad225f0&amp;udm=2&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;ei=LaXoaIuHOpjt1e8Po5qJMA&amp;ved=0ahUKEwjL0cGT_piQAxWYdvUHHSNNAgYQ4dUDCBE&amp;uact=5&amp;oq=%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E7%B3%BB+%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%96&amp;gs_lp=Egtnd3Mtd2l6LWltZyIW44Ki44Op44OW57O7IOODiOODvOODlkiODFDJCljJCnABeACQAQCYAXGgAXGqAQMwLjG4AQPIAQD4AQGYAgCgAgCYAwCIBgGSBwCgBzOyBwC4BwDCBwDIBwA&amp;sclient=gws-wiz-img" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a></p><p>和服からは遠いです。帯が無く、身頃の交差は無くボタン留めで、袖口は細くなっています。モンゴルとは反対に直射日光で暑く夜は寒いため、風通しがよく直射日光を遮る白服で、かつ帯無しの細い長袖が好まれたのでしょう。国民ほぼ全員がイスラム教で、アラブ人はアブラハムの子イシュマエルの子孫とされています。イサク,イシュマエル,ヤコブは、アブラハムと同じ服装をしていたでしょう。おそらくアブラハムも帯をしていたと思われます。出エジプトで帯が出てくるため、帯をするのが正しい服装です。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はエジプト衣装のガラベーヤ</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?q=%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E3%80%80%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A4&amp;sca_esv=fe1d53302ad225f0&amp;udm=2&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;ei=QKXoaMDjNpqrvr0P4uiEuQc&amp;ved=0ahUKEwjAg8ac_piQAxWala8BHWI0IXcQ4dUDCBE&amp;uact=5&amp;oq=%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E3%80%80%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A4&amp;gs_lp=Egtnd3Mtd2l6LWltZyIe44Ko44K444OX44OI44CA44Ks44Op44OZ44O844OkMgYQABgHGB4yBRAAGIAEMgUQABiABDIGEAAYBxgeMgYQABgHGB4yBhAAGAcYHjIGEAAYBxgeMgUQABiABDIGEAAYBxgeMgYQABgHGB5IhwVQuwFYuwFwAHgAkAEAmAGnAqAB8QOqAQMyLTK4AQPIAQD4AQGYAgGgArACmAMAkgcDMy0xoAePBbIHAzMtMbgHsALCBwMyLTHIBwY&amp;sclient=gws-wiz-img" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a></p><p>アラブ衣装と同じ感じです。現在はエジプト国民の90%がイスラム教ですが、ファラオ時代の古代エジプト人と現在のエジプト人では遺伝子が大きく異なります（人種が違う）。よって、出エジプトにて古代イスラエルとは関係が深いですが、参考にはできません。なお、昔のエジプトの壁画では男性は上半身裸が多く、女性はチュニックのような物を着ています。現在の洋服のTシャツとほぼ変わらない<a href="https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/242503" rel="noopener noreferrer" target="_blank">4世紀頃のエジプトチュニック</a>も存在しています。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はリトアニアの民族衣装</mark></p><p><a href="https://pt.wikipedia.org/wiki/Ficheiro:Jan_Kazimierz_by_Daniel_Schultz.jpg" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像一はコチラ</a>　　<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:JRadziwi%C5%82%C5%82.JPG" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像二はコチラ</a></p><p>画像一は、17世紀中頃のポーランド王の肖像画。画像二は、リトアニアの貴族。マントがあるとはいえ、帯や身頃の交差などがあり、和服に近いようにも見えます。衣装名は「ジュパン」「デリア」といい貴族の衣装です。現代のリトアニアの民族衣装については、現代の洋服のような服装にもかかわらず、帯は付いています。王や貴族の衣装が律法の服装に近いということは、王や貴族がユダヤ人の子孫だった可能性はあるかもしれません。リトアニアは人口280万人程のソ連崩壊後に独立した国で、バルト三国の一つです。分類では「北欧あるいは東欧」とされます。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はルーマニアの民族衣装</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?sca_esv=c8099ca82f4112b0&amp;udm=2&amp;fbs=AIIjpHzuznnfRcKw6WJsjCzN2zWf55I9OrcLWiEzlPL8TiG0L_DqC0w_yKrYVnGrQTB16CZuLnK7yImqx3bCwbYB7Zcj2SHTjsA1f1XN18TD8cbdi8GD9cm4O77mFWtKLN09TaOGo1jMXNmu5CshrugYKoz9NXvCJkP6cXGU-o7jGzb3eJXzrqPSvXMh7Oq-DjjudiBwjeTjFWCe_Xnq6ahLmu44Ku5NRTMNYmu0Z2lukhdxvCSmS4o&amp;q=%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2+%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;sa=X&amp;ved=2ahUKEwjI6O3miJmQAxW_ha8BHSg2OgkQtKgLegQIDxAB&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;dpr=2.5" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a></p><p>ルーマニアは東欧です。似ているのは帯だけです。女性の衣装は和服とは遠く、これは現代でいうワンピースやドレスですね。華やかな色合いが多いですが、近代化の影響でしょうか。男性は裾が短くなっておりズボンを履いています。身頃の交差は無く、中央で縫うか首元を紐で結ぶものがあります。地理的に近いマケドニア、ブルガリアも似た感じの衣装です。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記は西欧・北欧の民族衣装</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?q=%E8%A5%BF%E6%AC%A7%E3%83%BB%E5%8C%97%E6%AC%A7%E3%81%AE%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;sca_esv=c8099ca82f4112b0&amp;udm=2&amp;biw=1152&amp;bih=655&amp;ei=W7DoaOmxBr_O1e8PudfJoQc&amp;ved=0ahUKEwipy-jniJmQAxU_Z_UHHblrMnQQ4dUDCBE&amp;uact=5&amp;oq=%E8%A5%BF%E6%AC%A7%E3%83%BB%E5%8C%97%E6%AC%A7%E3%81%AE%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;gs_lp=Egtnd3Mtd2l6LWltZyIe6KW_5qyn44O75YyX5qyn44Gu5rCR5peP6KGj6KOFSLyCE1D9_RJY_f0ScAJ4AJABAJgBjQGgAY0BqgEDMC4xuAEDyAEA-AEC-AEBmAICoAIPwgIFEAAYgATCAgQQABgemAMAiAYBkgcBMqAHM7IHALgHAMIHAzItMsgHCw&amp;sclient=gws-wiz-img#sv=CAMSURoyKhBlLUVzQWJ0cThfWTRMRXlNMg5Fc0FidHE4X1k0TEV5TToOSDJ3ZldXc1NPYWhUak0gBCoXCgFzEhBlLUVzQWJ0cThfWTRMRXlNGAEwARgHIK6m_90JMAJKCggCEAIYAiACKAI" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像一はコチラ</a>　<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Diandlgwand.jpg" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像二はコチラ</a></p><p>西欧・北欧になると、エプロンやベストのように肩に掛ける物が多くなり、男性は更に遠くなります。また中世頃からか、女性はコルセットやドレスの様な物も見受けられます。身頃を交差させない服は、帯やベルトの役目が、体の線を細く見せるか強調するための物になりがちです。</p><p>&nbsp;</p><p>ドイツなどの酒場で、女性がビールを片手に持っていそうな<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB" rel="noopener noreferrer" target="_blank">ディアンドル</a>という民族衣装があります。これはもともと労働者女性の作業着で、18-19世紀頃にできた近代の衣装です。ドイツ以外にはオーストリア,スイス,チェコ,スロバキア,ハンガリーあたりはディアンドルと似ています。</p><p><br>アメリカにも似た衣装がありますが、移住当時にイギリス系だけでなく、ドイツ系、スイス系の移民が居たからでしょう。イギリス,アイスランド,オランダ,イタリアはディアンドルからは少し遠くなり、フランス,スペイン,ポルトガルは更に遠くなりドレスっぽくなります。先のルーマニアとの地理関係を考慮すると、欧州の中央あたりがディアンドル分布域でしょうか。<br>&nbsp;</p><p><br><mark class="kiiro">■下記は北欧のサーミ人（原住民）</mark><br><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9F%E4%BA%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Saami_Family_1900.jpg" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>少し毛皮の和服っぽいです。先祖代々、トナカイの放牧を中心とする質素な生活のため、服装が受け継がれていると推測します。現代のサーミ人は服装が変わっていますが、上記画像が原型に近いはずです。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はアメリカ・カナダ　オジブワ族（原住民）</mark></p><p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%AF" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a></p><p>男性は裾丈が短いですが、似ているのは身頃の交差、帯（紐）ぐらいでしょうか。19世紀頃と近代の写真であり、ズボンが近代の物となっていることもあり、原型はもっと違うでしょう。<br><br><br><mark class="kiiro">■下記はエチオピアのベタ・イスラエル（ファラシュ）</mark></p><p><a href="https://www.google.com/search?q=%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2+%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A5++%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;sca_esv=75d6586d45596069&amp;udm=2&amp;biw=1302&amp;bih=742&amp;sxsrf=APpeQnubqSoQcl3Pn7AB9QconQAJehFcnA%3A1785504199296&amp;ei=x6FsatDDEe-n2roPs_Sl-AE&amp;ved=0ahUKEwiQw6y8gf2VAxXvk1YBHTN6CR8Q4dUDCBE&amp;uact=5&amp;oq=%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2+%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A5++%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%A1%A3%E8%A3%85&amp;gs_lp=Egtnd3Mtd2l6LWltZyIt44Ko44OB44Kq44OU44KiIOODleOCoeODqeOCt-ODpSAg5rCR5peP6KGj6KOFSMAFUJoBWIIEcAF4AJABAJgBtwGgAcYCqgEDMC4yuAEDyAEA-AEC-AEBmAIAoAIAmAMAiAYBkgcAoAcisgcAuAcAwgcAyAcAgAgB&amp;sclient=gws-wiz-img#ip=1" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a></p><p>ベタ・イスラエルと呼ばれるエチオピアに住むユダヤ人とされています。帯はあり、少し近いのもありますが、身頃の交差はないように見えます。現在の意匠は昔のものとは変わっているはずです。現代イスラエルの帰還法により85%の約11万人がイスラエルへ移住しました。エチオピアの北西にエリトリアとスーダン、さらに北にエジプト、その北にイスラエルがあります。エチオピアのキリスト教の起源は4世紀頃とされ、国民の40-45%がエチオピア正教会,プロテスタント19%、カトリック0.7％程の割合です。<br><mark class="kiiro">ジンバブエのレンバ族</mark><br>レンバ族はユダヤ人の末裔とされていて、エチオピアと同じアフリカ大陸です。割礼・安息日・食物規定（豚肉を食べない）などを守っているようです。残念ながら民族衣装の画像は見当たりませんでした。「当時の物とは別物では」と思われる画像は見つかります。外見は当時のユダヤ人とは違いネグロイド（黒人）ですが、外見で判断すると真実から外れます。例えば、日本人男性×ジンバブエ女性の混血の子では、男女変わらず、一世代の混血でも、外見上はアフリカ系の特徴が強く現れます。※差異はあり。<span id="2-4">&nbsp;</span><br><br>&nbsp;</p><fieldset style="margin-top:15px;padding:4px 15px 12px;border:1px solid #778899;margin:0;border-radius:2px"><legend align="left"><span style="font-size:18px;margin:2px 3px;padding:0 7px 0;padding:0 2px"><b>◆結論</b></span></legend>以上のように<span style="color:#ff0000">「和服」が律法の服装規定に近いと分かりました。</span>上記画像一覧のように、いくつか共通する特徴を持つ衣服が、世界各地に残っています。もし、服装規定の衣服が現代に一つも残っていなければ、誰も服装規定を守れません。房の付け方を含め百点満点は難しいですが、概ねの服装規定は守れます。</fieldset><div id="3">&nbsp;</div><div id="3-0">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>3. 服装規定を細かく分析</h2><h3 class="h3h"><b>◆衣服の角の房</b></h3><p>冒頭の民数記15:38-39と申命記22:11-12ですが、房を見ていきます。下記、再掲載。</p><blockquote class="seiku"><p>「イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と、目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。<br>(民数記15:38-39 口語訳)&nbsp;※原語では四すみではなく「複数の角」</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない。身にまとう上着の四すみに、ふさをつけなければならない。<br>(申命記22:11-12 口語訳)</p></blockquote><p>上段で四すみが出てきますが、原語では<span style="color:red">「כַּנְפֵ֥י：複数の角」</span>です。複数形で、二つ以上のことであり、数は明示されていません。左右で二つもあり得るでしょうか。四としているのは口語訳と新改訳ですが、補足からきた意訳です。<br><br>申命記の方は上着かどうか単語からは断定が難しいです。なお、出エジプト22:26-27と同じ単語です。どちらにしても上着や羽織を覆っていると、せっかく付けた房が見えなくなり意味がないため、上着にもした方が良さそうです。<br><br>座布団の四すみの房とは違い、衣服だと正解が難しいです。ちなみに現代ユダヤ教では、四角い布の外套に青と白の四すみの房（ツィツィト）を付けています。前述で見てきた画像ではどれも房を付けていないように見えます。<br><br>下記、平安時代の男性衣装「直垂」では、四すみの房とそっくりのものがあります。<br><a href="https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/544702" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br><br>上下、衣が分かれており、下は袴になっています。江戸時代の現存の物ですが、確かに四すみに青紐です。そして、現代ユダヤ教と同じ、白と青っぽい二色の紐の物が多いのが目に留まります。下記参照<br><a href="https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/493479" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ 一</a><br><a href="https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/464248" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ 二</a><br><a href="https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/570459" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ 三</a><br><a href="https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/490861" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ 四</a><br><a href="https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/438248" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ 五</a><br><br>下記の毛利元就（もうり もとなり）所有の1560年物の現存物では、足元を含め四隅になっています。<br><a href="https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/sp/bunkazai/summary.asp?mid=70083" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br><br>正解か不明ですが、男性の伝統衣装「狩衣,小直衣,褐衣,浄衣,水干,格衣」等にも、それらしいのがあります。下記参照</p><p><a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5958566" rel="noopener noreferrer" target="_blank">画像はコチラ</a><br>上記では、数は二です。しかし、紐が袖口を一周しています。平置きで見れば、袖口の上下左右の四点という意味では、四すみになるとも言えます。ただ、その場合、四ヶ所からは房（ツィツィト）が出ていませんが。袖口を一周しているわけで、奥と手前の紐を結べば、一応、二本づつの紐になり、計四つになってはいます。<br><br>先の「複数の角（隅,端）」と訳されるヘブライ単語ですが、単数系では<span style="color:#ff0000">「כָּנָף：翼」</span>の意味もあります。神の翼・天使の翼・鳥の翼としても使われます。例えば創世記1:21「翼のあるすべての鳥」、列王記上6:27「ケルビムの翼」、詩篇57:1「あなた（神）の翼」などで同単語が使われています。イザヤ11:12で「地の四すみ」でも使われています。<br><br>和服系であれば、腕を広げると、翼のように見えますね。トンビコートは名称どおり翼のように見えます。袖丈が50㎝前後もあるのは現代人からすると、何のために長くするのか理解しづらいですが、元は翼を模倣していると考えると納得です。ですから、前述の画像検証だけでなく、単語的にも袖口の袂があった裏付けになります。<br>&nbsp;</p><p>話を戻しますが、裾だと地面に擦れてしまうため、どちらが正解か判断が難しいです。一応、裾に「フリンジ（fringe）」を付けている伝統衣装はあります。[例:ベルベル人のマント,ネイティブアメリカンのマキシドレス,中東民族衣装のフリンジ]<br>フリンジは「房飾り」「縁飾り」ですが、後付けではなく制作段階で織り込んでいます。</p><p>&nbsp;</p><p>ふさを付ける理由が「ふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起こす」「欲に従って、みだらな行いをしないため」であるため、その理由を忘れないように見えやすい位置が正解でしょう。<br><br>現代のユダヤ教では女性は房（ツィツィト）を付けないで良いとしていますが、上記の理由を考慮すると、女性も付けた方が良いでしょう。原文で「あなたがたの中の男は皆、房を付けなさい」とは書かれていません。<br><br>青紐については、なぜ青かというと「空」や「天」を想像し、主を思い起こしやすくなるからと考えられます。[出エジプト24:10,エゼキエル1:26も参考]<br>&nbsp;</p><fieldset style="margin-top:15px;padding:4px 15px 12px;border:1px solid #778899;margin:0;border-radius:2px"><legend align="left"><span style="font-size:18px;margin:2px 3px;padding:0 7px 0;padding:0 2px"><b>ここから長い余談</b></span></legend>下記の三つでも「ふさ」が出てきて同じ単語が使われています。<blockquote class="seiku"><p>するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。<br>(マタイ9:20-21 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そして彼らにイエスの上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいとお願いした。そしてさわった者は皆いやされた。<br>(マタイ14:36 口語訳) ※原語の単語では上着とは限らない。</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、<br>(マタイ23:4-5 口語訳)</p></blockquote>これらの単語「κράσπεδα：ふさ」は「縁」とも訳せますが、ここでは衣服の角、縁の意味ではなく、房（ツィツィト）のことです。理由は、七十人訳では民数記15:38,申命記22:12の צִיצִת（ツィツィト）が「κράσπεδα：ふさ」と同様に訳されているからです。<br><br>どちらにしても、上記マタイ9:20の女が群衆に紛れてバレずに後ろから触れるとしたら、襟元や裾の縁ではなく、袖口か房しかありません。<br><br>マタイ23:4-5の方は「経札を幅広くつくり」とあり、これは規定で決められたものですので、次にある「衣のふさを大きく（長く）」も同様に規定からと見られます。それらを目立たせ敬虔なように見せていたという具合です。</fieldset><div id="3-1">&nbsp;</div><p>&nbsp;</p><h3 class="h3h"><b>◆素材</b></h3><p>冒頭申命記22:11-12のように、羊毛（ウール）と亜麻糸（麻、リネン）を混ぜて織った着物はダメなようです。何のための規定か理由が書いていません。考えられるのは素材の性質の違いによる、静電気での帯電を防ぐためでしょうか。下記画像を参照。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260731/22/genshi7/bf/22/j/o0800038015807867758.jpg"><img contenteditable="inherit" height="338" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260731/22/genshi7/bf/22/j/o0800038015807867758.jpg" width="710"></a><br>動物性と植物性を混ぜてはならないという考え方もできなくはないです。エリヤとヨハネは、動物の毛皮の衣と皮の帯をしていましたね。とにかく綿,麻100%であれば問題なさそうです。絹は動物性ですが、ダメとは書かれていません。「下着から靴下まで全ての素材を統一しなければならないのか」や「下着のゴムに5%化繊が使われているのは良いのか」など細かい疑問は出てきますが、なるべく合わせるのが理想でしょうか。</p><div id="3-2">&nbsp;</div><p>&nbsp;</p><h3 class="h3h"><b>◆男女の服の違い</b></h3><blockquote class="seiku"><p>女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。<br>(申命記22:5 口語訳)</p></blockquote><p>和服では男と女の着物は一見、あまり変わりません。女性用は、お端折りの有無、帯の太さと位置、八つ口の有無の違いですね。当時の服装が、男女どちらかが少し違う可能性はあります。しかし、念の為、男性物は避けるのが無難でしょう。おそらく男性が女性っぽく見えるとか、女性が男性っぽく見えるのがよろしくないのだと思われます。</p><div id="3-3">&nbsp;</div><p>&nbsp;</p><h3 class="h3h"><b>◆色の指定</b></h3><p>色指定が無いとはいえ、赤（緋色、紅）の服は、避けた方が良いかもしれません。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>彼女はその家の者のために雪を恐れない、その家の者はみな紅の着物を着ているからである。彼女は自分のために美しいしとねを作り、亜麻布と紫布とをもってその着物とする。<br>(箴言31:21-22 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>「このエドムから来る者、深紅の衣を着て、ボズラから来る者はだれか。その装いは、はなやかに、大いなる力をもって進み来る者はだれか」。「義をもって語り、救を施す力あるわたしがそれだ」。「何ゆえあなたの装いは赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のように赤いのか」。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。もろもろの民のなかに、わたしと事を共にする者はなかった。わたしは怒りによって彼らを踏み、憤りによって彼らを踏みにじったので、彼らの血がわが衣にふりかかり、わが装いをことごとく汚した。<br>(イザヤ63:1-3 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>ああ、荒された女よ、あなたが紅の着物をき、金の飾りで身をよそおい、目を塗って大きくするのは、なんのためか。あなたが美しくしても、むだである。あなたの恋人らはあなたを卑しめ、あなたの命を求めている。<br>(エレミヤ4:30 口語訳)</p></blockquote><p>派手な色柄物はなるべく避けた方が良さそうです。</p><div id="3-4">&nbsp;</div><p>&nbsp;</p><h3 class="h3h"><b>◆身頃の交差の向き</b></h3><p>どちらが正しいか聖書内で特に指定はないですが、現代の着物では右前で、相手から見て右が上、自分から見て左が上です。洋服も右前になっています。名称が逆ではないかと思うかもしれませんが、「前」には先の意味があり、また「手前（自分に近い、つまり右が手前）」の意味と考えられます。左前は死装束とされていますが、昔は左前の時期がありました。<br><br>太陽が右回り、時計回りなように、帯も右回しにするのが自然かと思いますので、帯を右回しにするなら、着物も右前にしないと着崩れします。<br><br>聖書的には下記が影響するかもしれません。</p><blockquote class="seiku"><p>ヨセフはエフライムを右の手に取ってイスラエルの左の手に向かわせ、マナセを左の手に取ってイスラエルの右の手に向かわせ、ふたりを近寄らせた。すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。<br>(創世記48:13:14 口語訳)</p></blockquote><p>上記は按手ですが、手を交差させています。先に右手を差し出しているため、次の左手が上に行くのが筋でしょうか。二人の身長差次第ではありますが、この時は二人とも20歳前後です。48:20で「彼はエフライムをマナセの先に立てた」とあり、右が先ということになります。<br>&nbsp;</p><fieldset style="margin-top:15px;padding:4px 15px 12px;border:1px solid #778899;margin:0;border-radius:2px"><legend align="left"><span style="font-size:18px;margin:2px 3px;padding:0 7px 0;padding:0 2px"><b>余談</b></span></legend>2.の画像検証のサマリヤ人は、左前になっています。※画像内の文字が反転していないため写真も反転はしていない。</fieldset><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><h2 style="margin:7px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">終わりに</span></h2><p>服装規定に関しては、房の付け方や袖口の大きさなど、現代と少し違う可能性があります。少し外れても、まずは大枠を守っていくのが良いです。まずは許容範囲内の寸法を測り、素材等を調べ進めていきましょう。一度に完璧にしようとせず、夏用、冬用をできるところまで用意していくと良さそうです。</p><p><br>&nbsp;</p><p style="text-align:right">以上</p><div><style type="text/css">.seiku2{  background:#99aabb;  height:1px;  margin:12px 11px 12px 5px}blockquote.seiku {  border:1px solid #99aabb;  background:#ebeef2c2;  margin:0 auto 4px;  padding:12px 10px 12px 12px;  border-radius:5px;  quotes:none}blockquote.seiku::before, blockquote.seiku::after {  content:none}.seiku p {  line-height:1.6}h2{color:#223344}h2.koumoku {display:flex;font-size:20px;margin:8px 0;margin-left: -7px}.koumoku2 {width:8px;background:#778899;margin-right:5px;border-radius: 2px;height: 38px;margin-top: -3px}.sen0 {padding-bottom: 0.12em;  background: linear-gradient(    transparent 87%,    #334455 100%)}.sen1 {text-decoration: underline 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<pubDate>Fri, 31 Jul 2026 21:45:03 +0900</pubDate>
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<title>割礼は今も有効か</title>
<description>
<![CDATA[ <div><img alt="" height="405" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260730/16/genshi7/74/7b/p/o1672094115807472413.png" width="720"></div><div class="sp">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><nav aria-label="目次"><details class="mo" open><summary>目次</summary><p><a href="#1">1. 割礼は今も有効か</a></p><p><a href="#2">2. 割礼はモーセ律法より前にある</a></p><p><a href="#3">3. ヤコブは割礼不要としていない</a></p><p><a href="#4">4. 律法を廃さない明言</a></p><p><a href="#5">5. 割礼不要という教えはなかった</a></p><p><a href="#6">6. 心の割礼と肉の割礼について</a></p><p><a href="#7">7.「新しい契約」と「心の割礼」</a></p><p><a href="#8">番外</a></p></details></nav><div id="1">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>1. 割礼は今も有効か</h2><p>最初に核心部分から見ていきます。下記二つをご覧ください。</p><blockquote class="seiku"><p>見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。<mark style="background-color:#f7f777;color:inherit;">割礼を受けようとするすべての人たちに</mark>、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。<br>(ガラテヤ5:2-6 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。<br>(使徒行伝15:28-29 口語訳)</p></blockquote><p>上段のガラテヤ書の言葉は、パウロによる信仰上の考え・解釈です。<br><br>下段の使徒15章は、1-5節（またはガラテヤ2:1-4）により「異邦人に割礼を受けさせるべきかどうか」という問題をめぐって、エルサレムへ上ったことが発端です。そして使徒15:28-29の会議決定は、<b>異邦人限定</b>とされています。<br><br>神に立ち帰る異邦人を悩ませないための<b>妥協案</b>とされています。妥協せずに割礼を受けると「キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」とするのは論理的ではなく、聖書的でもありません。<br><br>“割礼を受けようとするすべての人たち” に対して言っているため、割礼を受けていないユダヤ人も含まれます。多くは生後八日目に受けますが、父親が異邦人で母親がユダヤ人の場合、割礼を受けない人も出てきます。<br><br>上記ガラテヤ書の発言のほか、フィリピ3:2、コリント第一7:18、ローマ2:28などでも割礼のことを悪く言っているため、異邦人だけに言っていたわけではなさそうです。ローマ書では律法から離れるように書いていますが、ローマ2:17,2:25-27により、ユダヤ人に対しても書いています。<br>※同様に、律法について守らせないような発言が各所にあります。<br><br>もし割礼が信仰の害になるなら、<span class="red">エルサレム会議よりももっと前に「異邦人は割礼をしてはならない」と決まっていないとおかしいでしょう。</span>エルサレム教会は、そのような禁止を命じていません。</p><p>&nbsp;</p><p>主イェシュアの教えはモーセの律法の延長線上にあります。なぜなら、律法を完成するために来られたからです[マタイ5:17-20,マタイ23:1-4参照, ※別記事<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972543088.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">「律法は今も有効か」</a>も参照]。「モーセの律法」と「主イェシュアの教え」は、両方を受け入れることができます。</p><p><br>冒頭に引用したガラテヤ5:2-6は、キリスト者にとってこれ以上の脅しはないかもしれません。ガラテヤ5:12では「いっそのこと切除してしまえばよい」とも言っています。※皮肉と思われる。<br><br>これらを一度頭に入れてしまうと、なかなか恐怖が抜けないかもしれません。しかし、パウロが使徒ではないのなら、何も恐れることはありません。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。人はわたしに何をなし得ましょうか。<br>(詩篇56:11 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。<br>(箴言29：25 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。<br>(イザヤ41:10 口語訳)</p></blockquote><p>聖書に「恐れるな」「恐れてはならない」と出てくる回数は、百回近くに上ります。様々な書で出てきます。そこで、同じように言います。</p><p>&nbsp;</p><p><b>「パウロの言葉に恐れてはならない」</b></p><div id="2">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>2. 割礼はモーセ律法より前にある</h2><p>冒頭のガラテヤ書簡で、「そういう人たち（割礼を受ける人のこと）は、律法の全部を行う義務がある」と言っていましたが、そもそも割礼は、モーセより前のアブラハムの時代から存在していた命令であり、契約です。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に<mark class="bgy">代々</mark>わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家に生れた者も、あなたが<mark class="bgy">銀で買い取った者も</mark>必ず割礼を受けなければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって<mark class="bgy">永遠の契約</mark>となるであろう。割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。<br>(創世記17:9-14 口語訳)</p></blockquote><p>「代々守らなければならない」「永遠の契約となる」とのことです。※マソラ本文の原語にも、「代々」「永遠」に当たる単語があります。<br><br>上記の創世記17章に加え、ヨハネ7:22にも --モーセから始まったのではなく族長（アブラハム）たちから始まったものだが-- とあります。上記聖句を要約すると「割礼を受ければ、奴隷や異邦人も同じ民として扱われる」「受けなければDNAでイスラエル人（ユダヤ人）であっても民から断たれることになる」ということなのでしょうか。<br><br>とにかく、アブラハムの契約としての割礼であれば、パウロの言う「律法の全部を行う義務がある」というのとは違うことになります。<br>※義務であるかはともかく守った方が良い。<br><br>下記の発言についても同様です。</p><blockquote class="seiku"><p>律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。<br>(ローマ2:23-25 口語訳)</p></blockquote><p>しかし、アブラハムへの命令ゆえに割礼を受けたのなら、モーセの律法とは違うため「割礼は無割礼となってしまう」ことにはなりません。あるいは、主イェシュアが受けられていたように、同じように受けたいから受けたと考えれば、何ら問題ありません。<br><br>先の創世記17:13節では「あなたが<mark class="bgy">銀で買い取った</mark>者も必ず割礼を受けなければならない」とあります。ただし、主イェシュアは命を代価として我々を贖われ<mark class="bgy">血で買い取った</mark>ため、違いはあり、それをどう解釈するかは検討が必要です。<br><br>さて、先のガラテヤ書のパウロの発言により、次のような懸念を抱くかもしれません。</p><div style="margin:0 0 24px;padding:4px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><b style="font-weight:bold;">(1)「割礼を受ければ新しい契約が無効になってしまうのでは」<br>(2)「割礼を受ければ主の御業が無駄になってしまうのでは」</b></div><p>しかし、パウロ自身の行動が、割礼を受けてもそのような結果にはならないことを示しています。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>パウロはこのテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、まず彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることは、みんな知っていたからである。<br>(使徒行伝16:3 口語訳)</p></blockquote><p>上記のように、パウロは事情に応じてテモテに割礼を受けさせました。よって(1)の反対で、彼自身、割礼を受けても新しい契約が無効になるわけではないと認識していたことになります。伝道で支障がないようにという大義名分があったわけですが、では割礼を誇ったり割礼に依り頼まなければ、受けたとしても彼の言う「律法の全部を行う義務がある」「キリストから離れてしまっている」という状態には当てはまらないことになります。<br><br>よって、(2)の反対で、割礼を受けた事によって主の御業は無駄にならず、救いも失われません。与えられた命令を守ることによって、悪くはなりません。</p><div id="3">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>3. ヤコブは割礼不要としていない</h2><p>エルサレム教会の中心であるヤコブと長老たちは、下記により「ユダヤ人に子供の割礼を施させず、モーセの慣習から離れるよう教えること」に対して、否定的な立場を示しています。<br>※21章18節の原語は[τε：and,both→も,両方]などの意味になり正確には「長老たちも」となるため、ヤコブもこの場にいた。</p><blockquote class="seiku"><p>一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。<br>(使徒行伝21:20-21 口語訳)</p></blockquote><p>十二使徒だけではなく、ヤコブたちも当然「新しい契約」を知っているでしょう。ですからヤコブと長老たちは「新しい契約に関係なく割礼をした方が良い」という認識（教え）を持っています。もし割礼がどちらでも良いのであれば、上記のような発言にはなりません。</p><p><br>ここで、下記の三つのような疑問を持つかもしれません。</p><div style="margin:0 0 24px;padding:4px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><b style="font-weight:bold;">(1)「割礼はユダヤ人限定という意味ではないのか」<br>(2)「割礼はキリストを信じる前はした方が良くて、信じた後は不要という意味ではないか」<br>(3)「割礼はエルサレム神殿が無くなったから不要では」</b></div><p>上記(1)について。まず、先に引用した創世記17:9からのアブラハムへの命令によると違いますが、どう判断するかは読者に委ねます。それから、冒頭の使徒15:28-29の「異邦人は割礼をしなくてよい」という妥協案になったとされているわけですから、妥協案であるなら、異邦人も割礼を受けないより受けた方が良いことになります。「しない方が良い・どちらでも良い・した方が良い」の三択であれば、した方がより良いです。したがって、推奨するのも良いことです。<br><br>(2)について。そのようなことは聖書（パウロ書簡類を除く）に書いていないわけですが、次のように説明できます。信仰に入らないと救われないのであれば、信仰に入る前に割礼を受けることに、意味があるのでしょうか。仮に無意味であるなら、先の長老たちの発言、つまり子供たちに割礼を受けさせないことを問題視せず、むしろパウロと同じ思想になっているはずです。「割礼を受けさせずに主イェシュアを信じて救われなさい」と教えたらそれで済みますが、本拠であるエルサレム教会のヤコブ・長老たちはそれに反対です。<br><br>(3)について。紀元70年にエルサレム神殿は破壊され、見える形の神殿は無くなりました。ですが、割礼は神殿が存在しないアブラハムの頃からあります。ですから「神殿の存在の有無は、割礼と直接的な関係はない」ように思われます。つまり、神殿で礼拝する際、聖所（中央）へは割礼を受けない者は入れませんでしたが、「現在は神殿が無いから」として、そのことを理由に、割礼を受けなくてよいとする根拠は弱いと思われます。</p><div id="4">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>4. 律法を廃さない明言</h2><p>パウロを自称使徒と見る立場からすれば、最も躍起になっていた律法廃止、特に割礼の廃止に力を入れているように見えるため、「守った方が良いのでは」と逆の視点から考えたくなるわけですが、どうでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>主は昇天前に、ペトロたちに割礼が不要とは伝えなかったわけですが、下記の二聖句で、むしろそれとは反対のことを言っておられました。</p><blockquote class="seiku"><p>わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。<br>(マタイ5:17-20 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。<br>(マタイ23:1-4 口語訳)</p></blockquote><p>上記聖句の詳しい説明は、別記事<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972543088.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">「律法は今も有効か」</a>を参照。<br><br>割礼は手術ですので、極僅かな危険性があり推奨しづらいのですが、上記聖句により「割礼を、守った方が良いです（自己責任）」と、ここで推奨だけしておきます。守らないと救われないとは言っていません。なお、機能的に受けられない人が例外としておられるかもしれません。</p><p><br>さて、使徒行伝15章のエルサレム会議の内容は「異邦人への配慮」から決まったことですが、なぜかパウロはユダヤ人に対しても同じように教えています。</p><p><br>ガラテヤ1:6-7で「別の福音があるわけではない」と言っていますが、二つ存在してしまっています。パウロの福音では、ユダヤ人にも異邦人にも律法は不要としています。ところが本拠エルサレムの長老や使徒たちはそう考えていません。福音が二つ存在する以上、必ず衝突が起こります。</p><div id="5">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>5. 割礼不要という教えはなかった</h2><p>パウロは割礼をやめさせようと熱心でしたが、この教えに関しては、使徒ペトロたちより正しく教えを伝えていたのでしょうか。実は、聖書の中で割礼を受けないように反対していたのはパウロだけだったりします。つまり「パウロは使徒ではない」となった時点で、かなり変わってきます。</p><p>&nbsp;</p><p>ところで、下記によると、偽の兄弟らがエルサレムにいたようです。</p><blockquote class="seiku"><p>しかし、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼をしいられなかった。それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。<br>(ガラテヤ2:3-4 口語訳)</p></blockquote><p>割礼を強要しようとする偽兄弟たちがいたと書かれています。実際に強要だったのか、実際に偽兄弟だったのかは分かりません。おそらく、先の使徒15:1の人たち（ファリサイ派とは書かれていない）か、もしくは5節のファリサイ派から信者になった人たちのことを言っていると思われます。<br><br>ファリサイ派から信者になったとはいえ、先に引用したマタイ23:1-4・マタイ5:17-20により、彼らは間違いなく割礼を推奨します。主から「異邦人は割礼を受けなくて良い」とは教えられていなかったため尚更です。</p><p><br>さて、話は変わって、イザヤ書の最終章では気になる預言があります。</p><blockquote class="seiku"><p>「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」と主は言われる。<br>(イザヤ66.21 口語訳)</p></blockquote><p>「彼らの中」が誰を指すのかはさておき、レビ人といえばモーセもレビ族の出身です。聖書的には割礼を受けず律法を守らずに、祭司・レビ人に選ばれるのは難しい気はしますが、どうでしょう。そもそも、聖霊を受けて心の割礼をされていなければ、問題ですが。</p><p><br>直前の66:17も気になります。</p><blockquote class="seiku"><p>「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。<br>(イザヤ66.17 口語訳)</p></blockquote><p>食物規定です。</p><p>&nbsp;</p><p>下記も気になります。</p><blockquote class="seiku"><p>「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。<br>(イザヤ66.23 口語訳)</p></blockquote><p>安息日です。</p><p><br>聖書的には、上記の祭司・レビ人に、女性が含まれるか微妙なところです。女性には肉体的な割礼がないとは、無関係ではないかもしれません。</p><div id="6">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>6. 心の割礼と肉の割礼について</h2><p>心の割礼について、七ヶ所を見ていきます。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p><mark style="background-color:#ffbfde;color:inherit;border-radius:50%">①</mark>というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による<span class="sen0">心の割礼</span>こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。<br>(ローマ2:28-29 口語訳)</p></blockquote><p>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>②それゆえ、あなたがたは<span class="sen0">心に割礼</span>をおこない、もはや強情であってはならない。<br>(申命記10:16 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>③そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の<span class="sen0">心に割礼</span>を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。あなたの神、主はまた、あなたを迫害する敵と、あなたを憎む者とに、このもろもろののろいをこうむらせられるであろう。しかし、あなたは再び主の声に聞き従い、<mark class="bgy">わたしが、きょう、あなたに命じるすべての戒めを守るであろう。</mark><br>(申命記30:6-8 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>④ユダの人々とエルサレムに住む人々よ、あなたがたは自ら割礼を行って、主に属するものとなり、自分の<span class="sen0">心の前の皮</span>を取り去れ。さもないと、あなたがたの悪しき行いのために わたしの怒りが火のように発して燃え、これを消す者はない」。<br>(エレミヤ4:4 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>⑤主は言われる、「見よ、このような日が来る。その日には、割礼をうけても、<span class="sen0">心に割礼</span>をうけていないすべての人をわたしは罰する。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの人々、モアブ、および野にいて、髪の毛のすみずみをそる人々はそれである。これらの国びとはみな割礼をうけていない者であり、イスラエルの全家もみな心に割礼をうけていない者である」。<br>(エレミヤ9:25-26 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>⑥すなわちあなたがたは、わたしの食物である脂肪と血とがささげられる時、<span class="sen0">心にも肉にも、割礼</span>を受けない異邦人を入れて、わが聖所におらせ、これを汚した。また、もろもろの憎むべきものをもって、わが契約を破った。<br>(エゼキエル44:7 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>⑦それゆえ、主なる神は、こう言われる、イスラエルの人々のうちにいるすべての異邦人のうち、<span class="sen0">心と肉とに割礼</span>を受けないすべての者は、わが聖所にはいってはならない。<br>(エゼキエル44:9 口語訳)</p></blockquote><p><br>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px;"><u style="text-decoration:underline;"><span style="background:#ffbfde;border-radius:50%">①</span>について</u></h3><p>①を除く他の六つの聖句からは、肉の割礼が不要になったとは解釈できません。心に割礼を受けなければなりませんが、だからと言って「肉の割礼は必要ない」とは書いていません。普通に読めばどちらも必要です。現代にも当てはまるかどうかは、ひとまず置いておき、他の六つを見ていきます。<br>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px;"><u style="text-decoration:underline;">②について</u></h3><p>「心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない」とあります。これは当時のイスラエル人に向けての言葉ですが「心の割礼を受けたので、肉の割礼は不要である」とはなりません。どちらも必要です。</p><p>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px;"><u style="text-decoration:underline;">③について</u></h3><p>「子孫の心に割礼を施す」との預言があります。だからといって、肉の割礼が不要だとは言っておられません。8節では<mark class="bgy">「しかし、あなたは再び主の声に聞き従い、わたしが、きょう、あなたに命じるすべての戒めを守るであろう」</mark>とあります。つまり、「心に割礼を受けると、律法を守るようになる」ということです。字義どおりであれば、そうなっていないなら「心に割礼を受けていない」ということになります。ただし、「律法を守るようになったから心に割礼を受けている」と確定できるわけでもありません。</p><p>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px;"><u style="text-decoration:underline;">④について</u></h3><p>「心の前の皮を取り去れ」との忠告です。同様に、だからと言って肉の割礼は不要など言っておられません。</p><p>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px;"><u style="text-decoration:underline;">⑤について</u></h3><p>「割礼をうけても、心に割礼をうけていないすべての人をわたしは罰する」とあります。心も割礼を受けていないから主が怒っておられるのであって、肉の割礼を受けていなければ、もっと怒られそうな気がします。ちなみに⑤は、新共同訳と新改訳では、口語訳と大きく異なる訳になっており、「わたしは包皮に割礼を受けた者をことごとく罰する」になっています。まるで肉の割礼を受けると罰せられるかのような訳ですが、そういう意味ではありません。なぜなら続きを読めば割礼を受けていない者も罰するとあるからです。欽定訳では、「割礼を受けた者も受けていない者も共に罰する」とあります（七十人訳でも同様）。肉に割礼を受けていても「心も割礼」を受けていないから罰せられるのです。</p><p>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px;"><u style="text-decoration:underline;">⑥について</u></h3><p>心にも肉にも割礼を受けていない異邦人は聖所に入れてはならないようです。どちらも必要とのことです。</p><p>&nbsp;</p><h3 style="margin:0;font-size:19px;"><u style="text-decoration:underline;">⑦について</u></h3><p>⑥と同様の説明です。</p><p><br>これらにより、肉の割礼が無効になったことや、まして害になるということは、ここまで見てきた箇所を含め、聖書には書かれていません。とはいえ、マタイ27:51で神殿の幕が裂けているため、神殿中心の時代は終わったという見方があることに留意してください。<br><br>もちろん心に割礼をしていなければ肉の割礼をしていても駄目です。説明は要らないと思いますが、心の割礼は比喩で「心を覆っているものを取り除く」という意味ですね。「心を頑なにして、神に逆らってはならない」という警告です。出エジプト6:12で「唇の割礼」や、使徒7:51で「耳の割礼」も出てきます。「耳に割礼をしていない＝聞く耳を持たない」とそのままです。[マタイ13:14のイザヤの引用も参考]<br><br>下記の預言では「心の割礼」と似たような言葉があります。</p><blockquote class="seiku"><p>そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。これは彼らがわたしの定めに歩み、<mark class="bgy">わたしのおきてを守って行い</mark>、そして彼らがわたしの民となり、わたしが彼らの神となるためである。<br>(エゼキエル11:19-20 口語訳)</p></blockquote><p>石の心、すなわち「硬い心＝頑なな心」であり、それを「心の包皮を取る＝心の割礼」するという意味です。「肉の心を与える」は、「肉の思い」とは当然違いますので、「石」と対照である「肉」の硬くなく柔らかい心という意味です。「新しい霊を授け」とは、神の御霊、聖霊のことです。<br><br>では①ローマ2:28-29の発言は正しかったのかというと、そうではなく何度も述べているように、仮に聖霊を受けて心の割礼が完了したとしても、だからといって肉の割礼が要らないとはどこにも書いていません。上記の聖句にも、先に挙げた③の申命記30:8と同様に「<mark class="bgy">わたしのおきてを守って行う</mark>」とあります。<br><br>さて、次のように考えるかもしれません。「新約の心の割礼は、旧約の心の割礼とは違うので、聖霊を受ければ心の割礼が完了し肉の割礼は必要ない」と。しかし、旧約にしか出てこない「心の割礼」を持ち出した以上、旧約の六つの聖句に沿って解釈しないと、一貫しないのではないでしょうか。</p><div id="7">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>7.「新しい契約」と「心の割礼」</h2><p>「心の割礼」は「新しい契約」とも関係しています。新しい契約については下記を参照。</p><blockquote class="seiku"><p>主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの<span class="sen0">律法を彼らのうちに置き、その心にしるす</span>。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。<br>(エレミヤ31:31-34 口語訳)</p></blockquote><p>上記33節で「律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」とあります。これは先ほどのエゼキエル書の預言と同一と考えれば理解しやすいです。なぜなら、エレミヤとエゼキエルは預言の活動場所は異なるものの、時代はほぼ同じだからです。[エレミヤ：紀元前627年頃からエルサレムで活動。 エゼキエル：紀元前593年頃からバビロンの捕囚民に向けて活動]</p><p><br>先のエゼキエル11:19-20と合わせると<span class="red">「新しい契約」とは「一つの心を与えられ、新しい霊を授けられ、律法を内に置かれ、心に記され、主の定めに従って歩み、掟を守って行い、神の民になる」</span>ということになります。</p><p><br>よって、新しい契約でも律法は廃止されておらず、主の定めに従って歩み、掟を守るのですね。マタイ5:17-20の「律法の一点一画も廃止しない」と繋がっています。<br><br>ところで、こう考えるかもしれません。「肉の割礼は契約のしるしであり、心の割礼を受けることで新しい契約が成立するのだから、古い契約である肉の割礼は不要だ」と。</p><p><br><b>ですが、新しい契約の「新しい」の反対として「古い」と考えがちですが、契約には「更新」という概念があります。更新契約であれば「前の契約」から、何か条件が変更されることもあれば、以前の条件がそのまま残ることも、新しい条件が付け加えられることもあります。もちろん一新されることもあります。</b><br><br>「更新」は漢字の文字通りだと「更に新しい」という意味ですから「新しい契約」ともいえます。英語だと「更新」は「Renew」または「Update」です。ただし、原語の「καινός」は、「新しい,刷新,質的に新しい」という意味であり、語義に「更新」という概念が含まれているわけではありません。<br><br>※「旧約聖書・新約聖書」の名称は後世の人間が付けたものである点に留意。現代のユダヤ教では「旧約聖書」とは呼ばず、ペトロたちもそのように呼ぶことはあり得ない。正しくは、律法・預言書・諸書に、福音書などの書物が加わった形。(パウロ書簡類は除く)</p><p>&nbsp;</p><p>それから、先のエレミヤ預言で「この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない」とありましたが、割礼は出エジプトのモーセより前のアブラハムからの契約ですね。なお、モーセの律法で、アブラハムへの命令の割礼は受け継がれています。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、信仰に入った時に、全員が聖霊を受けるわけではないということは、信仰に入った時に自動的に「新しい契約」が結ばれるわけではないということでしょうか。聖霊については、別記事「聖霊を受けるには」で詳しく見ていきます。</p><div id="8">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>番外</h2><p>下記では、主が割礼を重視しておられるように見えます。</p><blockquote class="seiku"><p>さてモーセが途中で宿っている時、主は彼に会って彼を殺そうとされた。その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、その男の子の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です」。そこで、主はモーセをゆるされた。この時「血の花婿です」とチッポラが言ったのは割礼のゆえである。<br>(出エジプト4:24-26 口語訳)</p></blockquote><p>ここは解釈が難しい箇所です。エジプトのファラオのもとへ行くよう命じられた後に、モーセを殺そうとされる展開は不自然にも思えます。<br><br>この箇所は口語訳の意訳であり、厳密には原語では「モーセ」の名は全て「彼」になっています。そしてモーセへの割礼ではなく、モーセの息子が割礼されました。そのため「モーセの子が割礼を受けていなかったため、主はモーセの子を殺そうとされた」と読み替えたくなりますが、字義どおりならモーセです。もし、モーセが殺されそうだったのであれば、モーセが契約（割礼）を軽視したゆえに、殺されかけたことになります。<br><br>ミディアン人のチッポラが割礼を施したという事を考慮すると「子への割礼を異邦人のチッポラが拒否していた」とすると一応、辻褄は合います。現代でも「野蛮な風習」「子供がかわいそう」と思う異邦人の母親は多いでしょうから。<br>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">この話の主人公はチッポラです。</b>場面が変わったのに「モーセ」が原文で一度も使われず、代名詞の「彼」としているのも、チッポラを目立たせるための技法のように見えます。そうであれば、この話の意義は「母親が子に割礼を施さなかったため殺されかけた」「母親が割礼を施したから殺されずに済んだ」ということではないでしょうか。<br><br>次に、やや長いですが、下記を参照してください。</p><blockquote class="seiku"><p>その時、主はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」。そこでヨシュアは火打石の小刀を造り、陽皮の丘で、イスラエルの人々に割礼を行った。ヨシュアが人々に割礼を行った理由はこうである。エジプトから出てきた民のうちの、すべての男子、すなわち、いくさびとたちは皆、エジプトを出た後、途中、荒野で死んだが、その出てきた民は皆、割礼を受けた者であった。しかし、エジプトを出た後に、途中、荒野で生まれた民は、みな割礼を受けていなかった。イスラエルの人々は四十年の間、荒野を歩いていて、そのエジプトから出てきた民、すなわち、いくさびとたちは、みな死に絶えた。これは彼らが主の声に聞き従わなかったので、主は彼らの先祖たちに誓って、われわれに与えると仰せられた地、乳と蜜の流れる地を、彼らに見させないと誓われたからである。ヨシュアが割礼を行ったのは、この人々についで起されたその子どもたちであった。彼らは途中で割礼を受けていなかったので、無割礼の者であったからである。すべての民に割礼を行うことが終ったので、民は宿営のうちの自分の所にとどまって傷の直るのを待った。<br>(ヨシュア記5:2-8 口語訳)</p></blockquote><p>エジプトから出た男子は皆、割礼を受けていたようです。やはり、モーセの子が割礼を受けないままエジプトを脱出することは、許されることではなかったのでしょう。アブラハム契約の時に「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」と定められているため、割礼を受けていない男子は、民から断たれる対象になったと考えられます。</p><p><br>上記の口語訳には訳し方の問題があります。新共同訳・新改訳・欽定訳では7節で「彼らに代わって息子たちを立てた」とあります。原語でも「תַּחְתָּ֔ם：代わりに」とあります。そして、代わった息子たちも割礼を受けるよう、主は命じられました。<br><br>最後になりますが、割礼を受けるのは八日目が一番望ましいですが、上記の人々は途中からの割礼であり、アブラハムや、アブラハム契約の銀で買い取られた異邦人、モーセの息子、神を恐れる異邦人や改宗者など、途中からの人は多いようです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><h2 style="margin:7px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">終わりに</span></h2><p>冒頭のガラテヤ書の発言が、かなり強烈なので、判断が揺れるかもしれません。まずはパウロが使徒ではないことを理解し、恐怖を取り除いていきましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: right">以上</p><div><style type="text/css">.seiku2{  background:#99aabb;  height:1px;  margin:12px 11px 12px 5px;}blockquote.seiku {  border:1px solid #99aabb;  background:#ebeef2c2;  margin:0 auto 4px;  padding:12px 10px 12px 12px;  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cursor:pointer;  font-weight:bold;  display:flex;  align-items:center;  padding:5px 5px;}.mo summary::before {  content:"▾";  display:inline-block;  width:1em;  margin:0 3px 0 -9px;  text-align:center;}.mo:not([open]) summary::before {  content:"▸";}.mo a {  text-decoration:none;  display:block;  border-top:1px dashed #ddd;  padding-top:1px;  color:#2a5288;}.mo a:hover {  text-decoration: underline;  color: #111;}.mo p {  margin:4px 0;  padding-left:0;}</style></div>
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<link>https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972542614.html</link>
<pubDate>Thu, 30 Jul 2026 21:32:17 +0900</pubDate>
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<title>律法は今も有効か【完全解説】</title>
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<![CDATA[ <div><img alt="" height="405" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260730/16/genshi7/dd/1e/p/o1672094115807472635.png" width="720"></div><div class="sp">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><nav aria-label="目次"><details class="mo" open><summary>目次</summary><p><a href="#0">はじめに --律法とは--</a></p><p><a href="#1">1. 律法は廃止されていない</a></p><p><a href="#2">2. 律法を完成する為に来られた</a></p><p><a href="#3">3. 十戒だけではない</a></p><p><a href="#4">4. ヨハネ福音書でも暗示か</a></p><p><a href="#5">5. 律法を守らせない動き</a></p><p><a href="#6">6. 異邦人は律法を守らなくて良いのか</a></p><p><a href="#7">7. まとめ　聖句一覧</a></p></details></nav><div id="0">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>&nbsp;はじめに --律法とは--</h2><p>「律法」は現代で言えば「法律」に相当します。律法は神様がモーセを通して与えられたため「モーセの律法」とも呼ばれますが「律法」と省略しても同じ意味です。つまり、律法とはモーセの律法全体のことで、全ての戒めを指します。<br><br>律法には、613ほどの戒めがあります。「十戒」は文字通り十個の戒めであり、特に重要な戒めです。そして、613の内の10個が十戒です。「律法＝十戒」ではありません。これらを踏まえて本題に入っていきます。</p><div id="1">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>1. 律法は廃止されていない</h2><p>まず重要な二つの聖句を見ていきます。</p><blockquote class="seiku"><p>17,わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。18,よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。19,それだから、<mark class="bgy">これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者</mark>と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。20,わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。<br>(マタイ5:17-20 口語訳)</p></blockquote><blockquote class="seiku"><p>そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。<br>(マタイ23:1-4 口語訳)</p></blockquote><p>書いてあるままですが、少し要約します。<br><br>天地が過ぎ去るまで、律法に書かれたヘブライ文字の一点一画も廃りません。主が十字架に掛けられるまでではありません。律法を廃止するためではなく、完成するために来られました（次項2.で解説）。<mark class="bgy">だから、律法の最も小さい戒めの一つでも破り、また他者に守らないように教えると最も小さい者</mark>になるようです。その反対は大いなる者。そして、律法学者・ファリサイ派はモーセの座に着き、モーセの律法に基づいて教え、口では指導できたので、彼らが言うこと、すなわち小さな戒めも、みな守り行うように言っておられます（口伝律法を除く）。また、律法学者・ファリサイ派の人々より義がまさっていなければならないようです。<br><br>よって、律法は廃止されておらず、現在も守った方が良いです。なお、当ブログ記事の「守った方が良い」とは、三択の「守らない方が良い：どちらでも良い（守らなくても良い）：守った方が良い」であれば、守った方が良いという意味で言っています。守らなければ救われないとは言っていません。<br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><fieldset class="field"><legend><span class="field2"><b>問題【初級】</b></span></legend><p>律法に関する捉え方で適切なものを、次の中から一つ選びなさい。<br>&nbsp;</p><ul class="kana-list"><li>モーセの律法は廃棄された</li><li>律法とは十戒のことである</li><li>律法を破っていても天国にいける</li><li>律法の小さな戒めでも破らない方が良い</li></ul><p><br>答え：<select name="答え">&nbsp;<option value="空白">　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;</option><option value="ア">ア</option><option value="イ">イ</option><option value="ウ">ウ</option><option value="エ">エ</option></select></p></fieldset><div id="2">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>2. 律法を完成する為に来られた</h2><p>冒頭マタイ5:17の「成就」と訳された箇所は、他に「πληρῶσαι：完全にする,満たす,補充する」等の意味もあります。主イェシュアは律法を廃止するのではなく、完成されました。<b>そのことは、直後の21節以降から分かります。</b><br><br>21節から「人を殺したら裁きを受ける」が「兄弟に腹を立てる事（理由なく：TR底本）、兄弟を愚か者、馬鹿と言ったら裁きを受ける」と、より厳しい解釈になりました。27節からは、姦淫について「みだらな思いで女を見たらそれだけで姦淫したことになる」と、より厳しい解釈となっています。31節から「淫行の理由以外で自分の妻を離縁すると、彼女に姦淫を犯させたことになる。また、離縁された女と結婚しても姦淫になる」（マタイ19:9も参照）と、より詳しく厳しい教えを追加されました。ここまでは、十戒の「殺すな、姦淫するな」についてです。<br>&nbsp;</p><p>33節から「偽って誓ってはならない」の戒めを、「一切、誓いを立ててはならない」と言われました。これは民数記30:3,レビ記19:12のことです。十戒ではなく、モーセの律法からです。その前節レビ記19:11には「盗んではならない」同章3節には「安息日を守りなさい」として、十戒も共に書かれている箇所です。マタイ5章に戻りますが、38節からは「目には目をとして悪人に手向かうな」（出エジプト21:24,レビ記19:18,24:19-20）、43節からは「敵を憎むのではなく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられました。※「敵を憎め」は律法に無い。<br><br>それ以降も、十戒だけではない他の戒めを追加、修正し、律法を完成されました。他に、安息日の良い行いは問題ないと正されました[マタイ12:12,ヨハネ7:23]。それから、無益な伝統や、誤った口伝律法を固く守っていること、食事前の手洗いをしなくても汚れないこと等を、正されました[マタイ15章]。※食物規定の廃止ではないことは別記事を参考。<br>それから他に新しい掟として「兄弟を互いに愛すること」や、気をつけるべき点、心構えなどを教えられたのです。そして、自らの行動によっても教えられました。だから主イェシュアは先生であり、完全なお手本でもあります。<br><br>以上のことから、モーセの律法がイスラエル人だけに関係するものではないことが分かります。上記の「一切、誓いを立ててはならない」「目には目をとして悪人に手向かうな」は異邦人も関係あります。<span class="red">「律法の一点一画もすたることはない」と言われた直後に十戒以外のことも守るように正されたのですから「律法の一点一画」は十戒だけのことではありません。</span>よって「最も小さいいましめ」も十戒のことではありません[詳細は次項]。これらにより、主が十字架にかけられた事で「律法から解放された」「モーセの律法は廃棄された」という教義は、間違いだと分かります。<br><br><br>■先ほどの原語「πληρῶσαι」は、「成就する,完全にする,満たす」の、どの訳語を採用するかによって、神学的な解釈が変わってきます。<br><br>日本語で「成就」は一般に「成し遂げる」「達成する」という意味ですが、「完成」の意味合いも少し含まれます。ギリシャ語には近い語として τελέω（完了する、成し遂げる、果たす）があります。しかし、マタイ5:17では著者は τελέω ではなく πληρῶσαι を用いています。<br><br>τελέω は「行為や目的を完了・達成すること」を表すのに対し、πληρῶσαι は「満たす」「完全なものにする」という意味合いを持つ語です。両者は似ていますが同義語ではありません。例えば日本語でも「成果：結果」、「承認：許可」が同じようで意味が異なるように、文脈次第で解釈が変わります。</p><div style="margin:12px 0;padding:6px 5px 6px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><p>■例1.「成果：結果」<br><span class="ddd">彼は努力の成果を得た</span><br>→ 努力が実を結び、良い結果を得たことを示す。<br><span class="ddd">彼は努力の結果を得た</span><br>→ 良い結果とも悪い結果とも読める。<br><br>■例2.「承認：許可」<br><span class="ddd">社長が計画を承認した</span><br>→ 内容を審査し、正式に認めたことを意味する。<br><span class="ddd">社長が計画を許可した</span><br>→ 実行することを認めたことを意味する。内容に賛成とは限らない。</p></div><div id="3">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>3. 十戒だけではない</h2><p>「十戒だけを守り、他は破っても問題ない」という解釈は間違いです。十戒だけではないことは述べましたが、更に詳しく見ていきます。根拠を<mark class="bgb2">⑫</mark>個、見ていきます。<br><br><mark class="bgb2">①</mark>前項2.のとおり、マタイ5:17-20の直後21節から「十戒を含めた律法全体」に言及され、十戒以外の追加、修正をされました。よって十戒だけではありません。</p><p><br><br><mark class="bgb2">②</mark>冒頭の引用聖句マタイ23:1-4で「モーセの座」に着いた<span class="sen0">律法学者</span>とファリサイ派たちの言うことを、全て守るように言っておられるのですから、モーセの律法のことを言っておられます。律法以外の何を守るように言っておられたのかを説明することはできません。こちらもマタイ5:17と同じように、主が十字架に掛けられるまでではありません（コロサイ2:14は無視）。なぜなら、仮に十字架にかけられるまでであれば、この教えをマタイ書に掲載する必要がありません。この箇所を「十戒」とするのは極めて不自然です。「モーセの十戒」は後世の造語で、聖書にありません。よって十戒だけではありません。</p><p><br><br><mark class="bgb2">③</mark>エルサレム教会のユダヤ人兄弟たちは、皆が律法を熱心に守っていました。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、<span class="sen0">みんな律法に熱心な人たち</span>である。<br>(使徒行伝21:20 口語訳)</p></blockquote><p>もちろん十戒だけではありません。「十戒を守るのに熱心な人たち」だと変ですね。上記の続き21:21からは、長老がパウロに対し、律法を守っている事を証明させようとしています。律法を守らなくてもどちらでも良いなら、上記20節前後のような会話・行動にはなりません。守った方が良いから、皆が信仰に入った後、すなわちメシアを信じた後に、より熱心に律法を守っています。<br><br>この時は主が天に昇られてから既に二十年近く経っており、冒頭で引用した聖句の教えを使徒たちから直接聞いていたでしょうから、皆が熱心になるのは納得です。もしモーセの律法が廃棄されていたなら、むしろ律法への熱は冷めています。よって十戒だけではありません。<br>&nbsp;</p><p><br><mark class="bgb2">④</mark>マタイ5:19の「最も小さい戒めの一つ」は律法の戒めの613ほどの内にあります。律法の中からであって、十戒の中からではありません。下記、再掲載。</p><blockquote class="seiku"><p>17,わたしが<mark class="bgy">律法や預言者</mark>を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。18,よく言っておく。天地が滅び行くまでは、<mark class="bgy">律法</mark>の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。19,それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。<br>(マタイ5:17-19&nbsp;口語訳)</p></blockquote><p><span class="red">17節の「律法＋預言者」は聖書全体を表す定型句です。もし「律法」を「十戒」だけに限定すると、この並列構造が破綻します。</span>よって十戒だけではありません。<br>これ以降はオマケです。<br>&nbsp;</p><p><br><mark class="bgb2">⑤</mark>上記5:18では「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはない」と言われた直後で「それだから、これらの最も小さいいましめ（ἐντολῶν=エントローン：原型はエントレー）の一つでも破る者は...」と続きます。<br><br>「それだから」と接続詞があり、直前の「律法の一点一画も...」にかかっています。だから「これらの最も小さいいましめの一つ」とは「律法の一点一画」のことです。「十戒の一点一画」ではありません。よって十戒だけではありません。</p><p><br>巻物に記された一点一画と、最も小さい文字であるヨッド（י）、すなわちヘブライ語の<b>「最も小さい文字」</b>と、<b>「最も小さいいましめ」</b>を掛けて言われています。だから「それだから」の接続詞の意味がよりはっきりします。十戒だけではありません。<br>&nbsp;</p><p><br><mark class="bgb2">⑥</mark>そもそも、十戒はどれも大きな戒めであり優劣つけ難く「最も小さいいましめ」と言われること自体が不自然です。よって十戒だけではありません。<br>&nbsp;</p><p><br><mark class="bgb2">⑦</mark>主はマタイ23:23で「十分の一の献げ物」も蔑ろにしてはならないと言っておられます。よって十戒だけではありません。だからといって、律法の他の大きな戒めを軽視し守らず「十分の一（の献金）」を重視し熱心に守らせるのは、悪い心掛けです。「人間への貢ぎ物」になっていないか、気をつけましょう。<br>&nbsp;</p><p><br><mark class="bgb2">⑧</mark>下記は現在も破ってはいけないので、十戒だけではありません。</p><blockquote class="seiku"><p>あなたは神をののしってはならない。また民の司をのろってはならない。<br>(出エジプト22:28 口語訳) ※使徒23:4</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。<br>(レビ記18:22 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。また女も獣の前に立って、これと交わってはならない。これは道にはずれたことである。<br>(レビ記18:23 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>死人のために身を傷つけてはならない。また身に入墨をしてはならない。わたしは主である。<br>(レビ記19:28 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>貧しく乏しい雇人は、同胞であれ、またはあなたの国で、町のうちに寄留している他国人であれ、それを虐待してはならない。<br>(申命記24:14 口語訳)</p></blockquote><p>上記はモーセの律法に含まれる戒めです。十戒もモーセの律法に含まれる戒めです。律法のうちに上記の戒めを含む613前後の戒めがあり、10個ではありません。そして上記の戒めは廃棄されていません。</p><p>上記の戒めを「守らない方が良い」ではなく「どちらでも良い」でもなく「守り、またそうするように教える」のです。よって十戒だけではありません</p><p>&nbsp;</p><p><br><mark class="bgb2">⑨</mark>知恵・知識を授かったソロモンでさえ、律法を守らなかったゆえに、道を外しました。<br>たとえば列王紀上10:28-29では、エジプトから商人を遣わして馬を輸入させたとみられます。これは下記で禁止されています。</p><blockquote class="seiku"><p>王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。<br>(申命記 17:16 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。<br>(申命記 17:17 口語訳)</p></blockquote><p>続く17節では、多くの妻や金銀についても戒められています。これも破り、1000人の妻や側女を持ち、主から離れてしまいました。[列王紀上11:1-6参照]<br><br>下記の時点で既に、悪い予兆が出ていますね。（666は獣の数字）</p><blockquote class="seiku"><p>さて一年の間にソロモンのところに、はいってきた金の目方は六百六十六タラントであった。<br>(列王紀上10:14 口語訳)</p></blockquote><p>やはり律法は守った方が良いです。十戒だけではありません。<br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><mark class="bgb2">⑩</mark>下記では「モーセの律法」を思い起こすように言っておられます。</p><blockquote class="seiku"><p>あなたがたは、わがしもべ<span class="sen0">モーセの律法</span>、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた<span class="sen0">定めとおきて</span>とを覚えよ。見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。<br>(マラキ4:4-5 口語訳)</p></blockquote><p>「モーセの律法」とあるため十戒ではありません。また「定めとおきて」とあります。そして「主の大いなる恐るべき日が来る前」の終末にエリヤが来るわけで、エリヤがモーセの律法を守っていないと文脈に合いません。よって十戒だけではありません。<br><br><br><mark class="bgb2">⑪</mark>下記の聖句の意味が理解できると、十戒だけではないことが分かります。</p><blockquote class="seiku"><p>イエスは言われた、「『<mark class="bgy">心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ</mark>』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。<br>(マタイ22:37-38&nbsp;口語訳)</p></blockquote><p>「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」とは、律法の戒めを守ることが含まれます。以下、12箇所を参照。</p><blockquote class="seiku"><p>主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし<mark class="bgy">心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会う</mark>であろう。<br>(申命記4:27-29 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたは<mark class="bgy">心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない</mark>。<br>(申命記6:5 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、<mark class="bgy">心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って</mark>、さいわいを得ることである。<br>(申命記10:12-13 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>もし、きょう、あなたがたに命じる<mark class="bgy">わたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば</mark>、<br>(申命記11:13 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが<mark class="bgy">心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛する</mark>か、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、彼を恐れ、<mark class="bgy">その戒めを守り、その言葉に聞き従い、彼に仕え、彼につき従わなければならない</mark>。<br>(申命記13:3-4 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>きょう、あなたの神、主は<mark class="bgy">これらの定めと、おきてとを行うこと</mark>をあなたに命じられる。それゆえ、あなたは<mark class="bgy">心をつくし、精神をつくしてそれを守り行わなければならない</mark>。<br>(申命記26:16 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたもあなたの子供も共にあなたの神、<mark class="bgy">主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば</mark>、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。<br>(申命記30:2-3 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、<mark class="bgy">心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ</mark>、こうしてあなたに命を得させられるであろう。あなたの神、主はまた、あなたを迫害する敵と、あなたを憎む者とに、このもろもろののろいをこうむらせられるであろう。<mark class="bgy">しかし、あなたは再び主の声に聞き従い、わたしが、きょう、あなたに命じるすべての戒めを守るであろう。</mark><br>(申命記30:6-8 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>これはあなたが、あなたの神、<mark class="bgy">主の声に聞きしたがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰する</mark>からである。わたしが、きょう、あなたに命じる<mark class="bgp">この戒めは、むずかしいものではなく</mark>、また遠いものでもない。<br>(申命記30:10-11 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p><mark class="bgy">神を愛する</mark>とは、すなわち、<mark class="bgy">その戒めを守ること</mark>である。そして、<mark class="bgp">その戒めはむずかしいものではない</mark>。<br>(ヨハネの手紙一5:3 口語訳) ※原語 ἐντολὰς：エントラス(複数)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>ヨシヤのように<mark class="bgy">心をつくし、精神をつくし、力をつくして<span class="sen2">モーセのすべての律法にしたがい</span></mark>、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起らなかった。<br>(列王紀下23:25 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そして王は自分の所に立って、主の前に契約を立て、主に従って歩み、<mark class="bgy">心をつくし、精神をつくして、その戒めと、あかしと定めとをまもり</mark>、この書にしるされた契約の言葉を行おうと言い、<br>(歴代志下34:31 口語訳) ※王→ヨシヤのこと。</p></blockquote><p>上記は十戒だけではありません。そしてヨハネの発言「<mark class="bgp">その戒めはむずかしいものではない</mark>」（※原語では複数形）は、申命記30:11を踏襲しています。上記によると、ヨシヤ王はモーセの律法の戒めを全て守っていたようです。もちろん主イェシュアほどではありません。<br>&nbsp;</p><p>さて、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの<b>神を愛せよ</b>」に律法を守ること自体が含まれるのはおかしいと感じるかもしれません。なぜなら「戒め」は「律法」に包含されています。つまり、下記のように「律法→大枠、戒め→小枠」の関係になる、と通常は考えます。<br>&nbsp;</p><fieldset class="field3"><legend align="center">&nbsp;<b>律法＋預言者 (書)</b>&nbsp;</legend><p>&nbsp;</p><fieldset class="field4"><legend><b>■613の戒め</b>&nbsp;</legend><p><br><b>・</b><u>心をつくし...主なる神を愛せ</u><br><b>・</b><u>自分を愛するように隣人を愛せ</u><br><b>・</b>最も小さい戒めの何か<br><b>・</b>他<br><br><b>■十戒</b><br><b>・</b>殺すな<br><b>・</b>盗むな<br><b>・</b>他<br>&nbsp;</p></fieldset><p>&nbsp;</p></fieldset><p><br>しかし、先ほど引用したヨハネの言葉が示す<b>「神を愛する=戒め(複数)を守ること」→「神を愛せよ=戒めを守りなさい」</b>である意味を考慮すると、包含関係が変わり、違う形が見えてきます。<br>下記により、二つの戒めが全てを包含する形です。<br><br>先のマタイ22:37「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」が第一の戒めですが、次節の「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」が第二の戒めで、その二つの戒めに、律法全体と預言者(書)とがかかっています。先の「出エジプト22:28,レビ記18:22,レビ記18:23,レビ記19:28,申命記24:14」等は、どれも第一の戒めか第二の戒めか、または両方にかかっています。</p><p><br>だから「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛し、かつ自分を愛するようにあなたの隣り人を愛している」のであれば、相応に「自ずと律法の戒めを守るようになる」ということです。よって十戒だけではありません。</p><p><br><br><mark class="bgb2">⑫</mark>先のマタイ22:37の前後でも「ἐντολή=エントレー：戒め」という語が使われていますが、「十戒」の意味では使われていません。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。<br>(マタイ22:36 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。<br>(マタイ22:38-40 口語訳)</p></blockquote><p>「エントレー」そのものは十戒を意味しません。そして上記のとおり「いちばん大切ないましめ」は十戒ではありません。よって十戒だけではありません。<br>&nbsp;</p><p>そもそもマタイ5:19の<b>「最も小さい戒めの一つ」</b>の逆である<b>「最も大きい戒めの一つ」</b>が、先ほどの22:37「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」なのであり、十戒を示していません。<br><br><span class="red">22:36の逆で「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん小さいですか」と聞いて、十戒の中から答えは返ってきません。</span>よって十戒だけではありません。十戒だけでは完全ではないため、他に沢山の戒めがあります。それが律法全体なのであり、最も大きい戒めである第一と第二の戒めに、律法全体と預言者とがかかっています。律法全体と預言者は、十戒ではありません。<br><br>以上により、冒頭マタイ5:19の「戒め」は十戒のことを言っているわけではありません。</p><p><br><br><mark class="bgb2">⑬</mark>番外：パウロはコリント第一7:19で「割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである」と書いていて、ここで「<b>ἐντολῶν</b>＝エントローン：戒め」が出てきます。割礼も神の戒めなのですが、彼は「倫理的な神の戒め全般」の意味で用いていると思われます。（前後でずっと結婚について述べているため）<br><br>エフェソ2:15でも「数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄した」として同じ<b>「ἐντολῶν」</b>を用いていますが「戒め」を十戒とはしていません。冒頭マタイ5:19も<b>「ἐντολῶν」</b>でしたが、十戒として用いていないことは説明済みです。仮に、コリント第一7:19が「神の戒め」として「神の」が付いたことにより十戒としていたとしても、ヨハネの手紙一3:23では「神の戒め」を十戒の意味で用いていません。<br>また、マタイ5:19は「神の」が付いておらず、やはり十戒として用いていないことになります。よってマタイ5:19のとおり、律法の戒めを守った方が良いです。十戒だけではありません。<br><br>&nbsp;</p><p><mark class="bgb">□</mark>ヘブライ7:18で原語「ἐντολῆς＝エントレース：戒め」が使われていますが、その戒めを「無益」「無効（廃止）」と書いています。内容の正誤はさておき、十戒の意味で使っていたら問題あり過ぎなため「十戒以外にも戒めがある」という認識で単語を使っていることになります。「戒め=命令」で613前後あるため当然といえます。<br><br>黙示録14:12でも「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」として「ἐντολὰς＝エントラス：戒め」が使われています。十戒の意味で書いたかというと、当時には既にギリシャ語で「十戒」の語は「δεκά λογος：デカ（十）&nbsp;ロゴス（言葉）」として七十人訳聖書にありました。<br><br>ヨハネ14:15でも「もしわたしを愛しているなら、わたしの戒め（エントラス）を守りなさい」とあります。「わたしの戒め=主イェシュアの戒め」は十戒だけではありません。※冒頭マタイ23:1-4を含むため。<br><br>&nbsp;</p><p><mark class="bgb">□</mark>黙示録11:19には、新しい契約前から存在する<b>「契約の箱」</b>が出てきます。そして契約の箱には、モーセに与えられた石板が入っています[歴代誌下5:10]。石板には「十戒」が書かれているとあります[出エジプト34:28,申命記4:13,申命記10:4]。<br><br>したがって、「十戒」あるいは「十の言葉」「十の戒め」という言葉は、七十人訳聖書のギリシャ語だけでなくヘブライ語でも存在していました。そして聖書内で、十戒を限定して守るように言われた箇所はありません。ただ、黙示録で契約の箱が出てくるという事は、十戒は特別です。ただし、十戒だけではありません。<br>&nbsp;</p><fieldset class="field"><legend><span class="field2"><b>問題【中級】</b></span></legend><p>なぜ、天地が過ぎ去るまでは律法の文字の一点一画も廃ることがないのか。最もふさわしい理由を次の中から選びなさい。<br>&nbsp;</p><ul class="kana-list"><li>律法が廃棄されたから</li><li>律法が成就されたから</li><li>十戒が廃棄されないから</li><li>天地が過ぎ去るまで律法が廃棄されず、律法が全うされるから。また、律法の一点一画に至る最も小さな戒めであっても、守り、またそうするように教えることが全うされるから</li></ul><p><br>答え：<select name="答え">&nbsp;<option value="空白">　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;</option><option value="ア">ア</option><option value="イ">イ</option><option value="ウ">ウ</option><option value="エ">エ</option></select></p></fieldset><div id="4">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>4. ヨハネ福音書でも暗示か</h2><p>ヨハネ福音書は、マタイ福音書と比べると一見、穏やかな内容に見えます。しかし、律法を守ることを暗に示されているような箇所があります。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。<br>(ヨハネ14:23-25 口語訳)</p></blockquote><p>上記のように「主イェシュアが語られる言葉=父から出た言葉」または「主イェシュアが語られる言葉=父の言葉」です。であれば「主イェシュアの言葉（命令・掟）を守る=父の言葉（命令・掟）を守る」ことになるのではないでしょうか。前節14:21でも似た御言葉があります。「わたしの言葉」「あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったこと」に、冒頭のマタイ聖句二つも入るでしょうか。<br><br>前述のヨハネ14:15では「もしわたしを愛しているなら、わたしの戒め（エントラス：複数形）を守りなさい」とありました。そして続く17節で「世は見ようとも知ろうともしないので、真理の霊を受け入れることができない」とあります。そして上記23節の「わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」というのは聖霊のことでもあります。<br><br>よって、聖霊を受けていないのであれば、何か重要な御言葉・律法の戒めが守れていない、または守る気がないということが考えられます。外面的な形だけで厳格に律法を守るのはファリサイ派と変わらないため、心の問題もあります。<br><br>次に、ヨハネ13:34で「新しい戒めをあなたがたに与える」とあります。<b>「新しい戒め」</b>ですから、その前に与えられた<b>「前の戒め」</b>があります。前述のヘブライ7:18で「前の戒め」が出ましたがパウロ書簡類は無視します。<br><br>「前の戒め」は、「古い戒め」と言い換えることもできます。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、<span class="sen0">新しい戒め</span>ではなく、あなたがたが<span class="sen0">初めから受けていた古い戒め</span>である。<span class="sen0">その古い戒め</span>とは、あなたがたが<span class="sen0">すでに聞いた御言</span>である。<br>(ヨハネの手紙一2:5-7 口語訳)</p></blockquote><p>「初めから受けていた古い戒め」「すでに聞いた御言」とあり、それは主イェシュアが来られる前から受けていた戒め「モーセの律法（の戒め）」のことです。<br><br>「古い戒め」と同様の言い換えで「初めから持っていた戒め」「父から受けた戒め」でも良いです。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>あなたの子供たちのうちで、わたしたちが<span class="sen0">父から受けた戒め</span>どおりに、真理のうちを歩いている者があるのを見て、わたしは非常に喜んでいる。婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、<span class="sen0">新しい戒め</span>を書くわけではなく、<span class="sen0">初めから持っていた戒め</span>なのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。<span class="sen0">父の戒め</span>どおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。<br>(ヨハネの手紙二1:4-6 口語訳)</p></blockquote><p>「父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛」というのが、先の十二個の聖句群の申命記30:10-11とヨハネの手紙一5:3に繋がります。<br><br>ヨハネの手紙一・二に見られる、不自然で遠回しな表現をまとめると、<b>「主イェシュアの戒め（複数形）を守らない者は偽り→初めから受けていた古い戒め→あなたがたがすでに聞いてきた御言葉→御父から受けた戒め」</b>を守るように言っています[手紙一2:3-4,2:7,5:3,手紙二1:4-6]。十戒のことのように見えなくもないですが、先の手紙一5:3も含めて字義どおりに読むと、モーセの律法のことです。<br><br>主は冒頭マタイ5:18で「よく言っておく」の直後で「律法の一点、一画もすたることはなく」と言われていました。「よく言っておく」と念を押す理由は、「律法は廃棄された」と言う者たちが後に出現するからです。当時、既に「律法は廃棄された」と教える者たちがいて、特にエフェソ周辺で活発でした。ヨハネの手紙がエフェソ周辺で執筆された、または同地域に宛てられたものであれば、内容と合致します。<br><br>さて、先のヨハネ14:23-25とヨハネの手紙一2:5-7ですが、ここもヨハネは御言葉を踏襲しています。下記、共通箇所を色分けで再掲載。</p><blockquote class="seiku"><p>イエスは彼に答えて言われた、「もし<mark class="bgb">だれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守る</mark>であろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、<mark class="bgy">わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住む</mark>であろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。<mark class="bgp">あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。</mark><mark style="background:#b6f062">これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。</mark><br>(ヨハネ14:23-25 口語訳)</p></blockquote><p style="text-align: center;">⬇︎</p><blockquote class="seiku"><p>しかし、<mark class="bgb">彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされる</mark>のである。<mark class="bgy">それによって、わたしたちが彼にあることを知る</mark>のである。「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。愛する者たちよ。<mark class="bgp">わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。</mark><mark style="background:#b6f062">その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。</mark><br>(ヨハネの手紙一2:5-7 口語訳)</p></blockquote><p><br>ほぼ同じ意味の構成ですね。よって、主イェシュアとヨハネは同じことを指して言っています。なぜ遠回しに言ったのか、その理由が答えに繋がりそうです。なお、ヨハネの手紙一の著者は本当にヨハネか、<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12973552822.html#5-1" rel="noopener noreferrer" target="_blank">別記事「初期のエルサレム教会について」項目5-1.</a>で解説しています。<br><br><br>■「律法の一点一画の全てを守らなければ天の御国に入れない」とまでは、はっきり書かれていません。小さな戒め（命令）を蔑ろにしてはいけないですが、<span class="sen0">死に至る罪</span>と<span class="sen0">至らない罪</span>があります。下記参照</p><blockquote class="seiku"><p>もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。<br>(ヨハネの手紙一5:16-17 口語訳)</p></blockquote><p>では、「死に至らない罪」とは何か、それは律法に書かれた「小さいいましめ」への違反以外に何が当てはまるでしょうか。</p><p><br>さて、律法を守っていると「律法に頼っている」「律法主義」「自己義認」といった言葉がよく使われますが、間違いです。十戒を守っていたとして「十戒に頼っている」とは言いません。<br>偶像崇拝はいけませんし、殺さない、盗まないように守るものです。同様に、律法にある十戒以外の戒めも守るのは良いことで、「頼る」かどうかという問題ではありません。「最も小さい戒め」とあるように、<span class="red">戒めの大きさ（重要度）が違う</span>ということです。<br><br>だから、小さい戒めや難しい戒めを持ち出して「守っていないじゃないか」と文句を言ったりするのは、詭弁に近いためやめましょう。もっとも、兄弟姉妹を愛していなければ、小さな戒めに拘っても本末転倒です。しかし、小さな戒めも蔑ろにしてはならないのですね。</p><div id="5">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>5. 律法を守らせない動き</h2><p>律法を守った方が良いことは証明できました。ですが、律法を守る事は害であるように言う人たちが初期の時代からいました。ここからはパウロ書簡類の解釈を個別に見ていきます。</p><blockquote class="seiku"><p>キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、<br>(エフェソ2:14-15 口語訳)</p></blockquote><p>「律法を廃棄」とありますが、主イェシュアは冒頭で引用したマタイ5:17で、これとは反対の「律法の一点一画も廃さない」と言っておられました。「数々の規定から成っている戒めを廃棄する」とは言っておられません。<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。<br>(ローマ3:20-21 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良いです。マタイ5:19で言われています。本拠エルサレムの幾万人の兄弟たちも皆、律法を熱心に守っていました。<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。<br>(ローマ3:28 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良いです。マタイ5:19で言われています。本拠エルサレムの幾万人の兄弟たちも皆、律法を熱心に守っていました。<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。<br>(ローマ4:13-15 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良いです。マタイ5:19で言われています。本拠エルサレムの幾万人の兄弟たちも皆、律法を熱心に守っていました。<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。<br>(ローマ7:1 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。<br>(ローマ7:4 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。<br>(ローマ7:6 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。<br>(ガラテヤ2:16 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。<br>(ガラテヤ3:11-12 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。<br>(ガラテヤ3:19 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。<br>(ガラテヤ3:23-25 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。<br>(ガラテヤ4:21-25 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。<br>(フィリピ3:6-7 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。<br>(フィリピ3:9 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。<br>(コロサイ2:16-17 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、（律法は、何事をも全うし得なかったからである）、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。<br>(ヘブライ7:18-19 口語訳)</p></blockquote><p>だそうですが、律法を守った方が良い...(略)<br><br>ところで、これらの書簡は「使徒ではない一個人の私的解釈」ですが、その主張を裏付ける同様の記述は、聖書には見当たりません。<br><br>上記一覧の主張と反対のことが書かれている聖句なら、下記の律法と預言者の書にあります。</p><blockquote class="seiku"><p>そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の<mark class="bgp">心に割礼</mark>を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。あなたの神、主はまた、あなたを迫害する敵と、あなたを憎む者とに、このもろもろののろいをこうむらせられるであろう。しかし、<mark class="bgy">あなたは再び主の声に聞き従い、わたしが、きょう、あなたに命じるすべての戒めを守る</mark>であろう。<br>(申命記30:6-8 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに<mark class="bgp">新しい霊</mark>を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。これは<mark class="bgy">彼らがわたしの定めに歩み、わたしのおきてを守って行い</mark>、そして彼らがわたしの民となり、わたしが彼らの神となるためである。<br>(エゼキエル11:19-20 口語訳)</p></blockquote><p>心に割礼を施されると、命じられたすべての戒めを守るとのことです。新しい霊を授かると、定めと掟を守り行うようになるようです。新しい霊といえば、聖霊の「新しい契約」です。<br><br>神学論争になりそうですが「主を信じ愛する者には、主が歩んだ道を同様に歩めるように聖霊を授けて下さり、そして律法を守れるようになる」という解釈になります。この解釈は上記、聖書どおりの解釈です。また、「律法と預言者の成就」にもなります。<br><br>以上により、「モーセの律法は廃棄された・律法は罪を気付かせるためにあった・律法を守るのは律法主義・律法の義では救われない・義は信仰による・影ではなく本体のキリストと歩む・律法を全て守る事は人間にはできない・律法の下にはいない・キリストの律法に従うべき・恵みの時代だから・教会の時代だから・新約の時代だから」など口から出るものは置いておいて、律法を守った方が良いです。<br><br>だから、エルサレムの幾万人の兄弟たち皆が、律法を熱心に守っていたのです。<br>&nbsp;</p><fieldset class="field"><legend><span class="field2"><b>問題【初級】</b></span></legend><p>昔、あるところに親の命令を熱心に守る人々がいた。なぜ命令を熱心に守っていたのか、最もふさわしい理由を次の中から選びなさい。<br>&nbsp;</p><ul class="kana-list"><li>暇だったから</li><li>守ってはいけないから</li><li>守っても守らなくてもどちらでも良いから</li><li>守った方が良いから</li></ul><p><br>答え：<select name="答え">&nbsp;<option value="空白">　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;</option><option value="ア">ア</option><option value="イ">イ</option><option value="ウ">ウ</option><option value="エ">エ</option></select></p></fieldset><div id="6">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>6. 異邦人は律法を守らなくて良いのか</h2><blockquote class="seiku"><p>すなわち、<b>聖霊とわたしたち</b>とは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。それは、<mark class="bgy">偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避ける</mark>ということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。さて、一行は人々に見送られて、アンテオケに下って行き、会衆を集めて、その書面を手渡した。<br>(使徒15:28-30 口語訳) ※原語:×不品行 ○淫行（性的不道徳）</p></blockquote><p>上記により「異邦人は律法を守らなくて良い」と思う人が多いと思います。<mark class="bgy">「偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫行とを、避ける」</mark>と四つあり、律法にある613ほどの戒めの極一部が書かれてあります。不品行（姦淫を含む）のみ十戒ですが、他三つは十戒と違うため、よって十戒だけではありません。<br><br>上記を読むと、冒頭マタイ5:19の「それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう」に当たるのでは、と疑問が出てきます。<br>使徒・長老たちが「最も小さい者」になるのはおかしいです。では、5:19は十戒のことだったかというとそれは違うのは証明済みで、そもそも上記15:28-30が律法の戒めの一部であり、かつ十戒を守るよう書いていません。さて、どう整合を取りましょうか。<br><br>パウロは使徒か疑惑がありますが、使徒行伝著者（ルカとする）は彼を信じていました。<a href="https://ameblo.jp/genshi7/entry-12972543308.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">「別記事-パウロは偽使徒か」</a>を参照。 ちなみに、ルカは福音書著者で唯一の異邦人と見られています。※コロサイ4:11で「割礼を受けた者は三人」とあり三人の中にルカは入っておらず、直後の4:14で「愛する医者ルカ」と名前が出る。<br>使徒行伝の内容の一部は情報提供者がパウロと思われます。それから、主イェシュアと共に十字架に掛けられた二人についての記述が、マタイ・マルコ書とは異なり、ルカ書はパウロ神学寄りの話になっているのは気になります。<br><br>さて、当時は一人一冊の聖書がなかっただけでなく、福音書もまだ成立していなかったため、異邦人こそ色々と教わった方が良いのですが、上記の前にこうあります。</p><blockquote class="seiku"><p>古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。<br>(使徒15:21 口語訳)</p></blockquote><p>上記を文脈から読み解くと、次の二通りの言い換え、または解釈ができそうです。</p><div style="margin:5px 0;padding:6px 5px 6px 15px;border:1px solid #778899;border-radius:2px"><ul class="ulul"><li>どの町にもモーセの律法を教える人がいるのだから、偶像に供えた肉や不品行などを避けるよう手紙に記すべき</li><li>安息日に諸会堂でモーセの律法を朗読するので、安息日にそれを聞いて学んで、律法を守る人は守るだろうから</li></ul></div><p>という感じです。この問題の事の発端は異邦人の割礼をどうするかでしたから、これらは神に立ち返ろうとしている異邦人への配慮です。文脈上は妥協案ですので、やはり律法は守った方がより良いことになります。なお、文脈と合いませんが「暫定措置」だったのではないかという説もあります。<br><br>使徒行伝のみの記載とはいえ、先の使徒15:28-30で<b>「聖霊とわたしたち」</b>により決定したと書かれてありました。そう書かれている以上、この記述を前提として、慎重に進みます。<br><br>ひとまず字義どおりに読むと、主が昇天されてから十数年後に、異邦人のみ、律法の一点一画のほとんどを廃し、条件がかなり緩くなったという感じなのでしょうか。<br><br>次に、下記は山上の説教の最後の御言葉です。</p><blockquote class="seiku"><p>また、わたしの<span class="sen0">これらの言葉</span>を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。<br>(マタイ7:26-27 口語訳)</p></blockquote><p><span class="sen0">これらの言葉</span>というのはそのまま解釈すると、山上の説教（5:1-7:27）のことです。よって冒頭マタイ5:17-20も含まれます。とりあえず、聞くだけで終わらずに異邦人も律法を守るのは良いことですので、律法を宣べ伝え推奨していくこととします。<br><br><span class="red">「律法をどこまで守るかは、信仰による」</span>、これなら冒頭聖句の主の御言葉と概ね整合します。ここまでの説明とも整合します。本拠エルサレム教会で律法を熱心に守っていた幾万人の兄弟たちの行動とも合致します。</p><div id="7">&nbsp;</div><div class="sp">&nbsp;</div><h2 class="koumoku"><span class="koumoku2">&nbsp;</span>7. まとめ　聖句一覧</h2><div style="margin:-7px;">&nbsp;</div><fieldset class="field"><legend><span class="field2"><b>問題【最終】</b></span></legend><p>ここまでの記述を参考に、次の中から聖書解釈として正しいものを全て選びなさい。<br>&nbsp;</p><ul class="kana-list"><li>主は律法の一点一画を廃棄するのではなく、律法を完成され、律法の戒めである十戒だけではなく、他の戒めも完成された</li><li>律法の「最も小さい戒めの一つ」は十戒の戒めのことではない</li><li>「律法学者とファリサイ派がモーセの座にすわっているから、彼らが言うことは、全て守って実行しなさい」とは、彼ら自身の行い全般ではないが、モーセの律法の教えを指す</li><li>天地が過ぎ去るまで、律法の最も小さな戒めでも守り、またそうするように教えることは、天国で大いなる者と呼ばれるため、良いことである。逆に、守らず、また守らなくて良いと教えることは、天国で最も小さい者と呼ばれるため、良くないことである</li></ul><p><br>答え：<select name="答え">&nbsp;<option value="空白">　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;　&nbsp;</option><option value="ア">ア</option><option value="イ">イ</option><option value="ウ">ウ</option><option value="エ">エ</option><option value="アイ">ア、イ</option><option value="アウ">ア、ウ</option><option value="アエ">ア、エ</option><option value="イウ">イ、ウ</option><option value="イエ">イ、エ</option><option value="ウエ">ウ、エ</option><option value="アイウ">ア、イ、ウ</option><option value="アイエ">ア、イ、エ</option><option value="アウエ">ア、ウ、エ</option><option value="イウエ">イ、ウ、エ</option><option value="アイウエ">ア、イ、ウ、エ</option></select></p></fieldset><p><br><br>下記は、律法の聖句一覧。</p><nav aria-label="開く/閉じる"><details class="mo" open style="margin-right: 0px !important;margin-left: 0px !important;border:1px solid #777"><summary> 開く/閉じる</summary><blockquote class="seiku"><p>わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。<br>(マタイ5:17-20 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。<br>(マタイ23:1-4 口語訳)</p></blockquote><p>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた戒めと、律法とを慎んで行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主につき従い、心をつくし、精神をつくして、主に仕えなさい」。<br>(ヨシュア22:5 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法にしたがい、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起らなかった。<br>(列王記第二23:25 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。<br>(申命記10:12-13 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。<br>(マタイ22:37-38 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。<br>(ヨハネの手紙一5:3 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである。わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。<br>(申命記30:10-11 口語訳)</p></blockquote><p>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>あなたの子供たちのうちで、わたしたちが父から受けた戒めどおりに、真理のうちを歩いている者があるのを見て、わたしは非常に喜んでいる。婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。<br>(ヨハネの手紙二1:4-6 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。<br>(ヨハネの手紙一2:5-7 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。<br>(ヨハネの黙示録12:17 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。<br>(ヨハネの黙示録14:12 口語訳)</p></blockquote><p>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>ゆえに、あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守り、これらのもろもろの憎むべき事の一つでも行ってはならない。国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者もそうである。<br>(レビ記18:26 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>すなわち、あなたがたも、あなたがたのうちに寄留している他国人も、同一の律法、同一のおきてに従わなければならない』」。<br>(民数記15:16 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>すなわち男、女、子供およびあなたの町のうちに寄留している他国人など民を集め、彼らにこれを聞かせ、かつ学ばせなければならない。そうすれば彼らはあなたがたの神、主を恐れてこの律法の言葉を、ことごとく守り行うであろう。<br>(申命記31:12 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。<br>(ヨシュア1:7 口語訳)</p></blockquote><p>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>律法を捨てる者は悪しき者をほめる、律法を守る者はこれに敵対する。<br>(箴言28:4 口語訳) ※原語で「トーラー：律法,教え」。箴言では新共同訳・新改訳は「おしえ」と訳している。</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>耳をそむけて律法を聞かない者は、その祈でさえも憎まれる。<br>(箴言28:9 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>預言がなければ民はわがままにふるまう、しかし律法を守る者はさいわいである。<br>(箴言29:18 口語訳)</p></blockquote><p>※詩篇119篇は「トーラー：律法,教え」が25回出る。<br>&nbsp;</p><blockquote class="seiku"><p>わが民よ、わたしに聞け、わが国びとよ、わたしに耳を傾けよ。律法はわたしから出、わが道はもろもろの民の光となる。<br>(イザヤ51:4 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。<br>(マラキ4:4-5 口語訳)</p><div class="seiku2">&nbsp;</div><p>それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。<br>(マタイ28:19-20 口語訳)</p></blockquote></details></nav><div style="margin:30px 0">&nbsp;</div><h2 style="margin:7px 0;text-align:center"><span style="display:block;padding:8px 12px;font-size:20px;background:#e5edf9">終わりに</span></h2><p>律法を守っていくことは、自分一人の力では難しくても、仲間がおり、聖霊が与えられるなら、守っていくことができるはずです。小さな戒めを軽んじてはいけませんが、まずは大きな戒めである十戒から守っていきましょう。<br><br>&nbsp;</p><p style="text-align:right">以上</p><div><style type="text/css">.seiku2{  background:#99aabb;  height:1px;  margin:12px 11px 12px 5px}blockquote.seiku {  border:1px solid #99aabb;  background:#eaeef2c7;  margin:0 auto 4px;  padding:12px 10px 12px 12px;  border-radius:5px;  quotes:none}blockquote.seiku::before, blockquote.seiku::after {  content:none}.seiku p {  line-height:1.6}h2{color:#223344}h2.koumoku {display:flex;font-size:20px;margin:8px 0;margin-left: -7px}.koumoku2 {width:8px;background:#778899;margin-right:5px;border-radius: 2px;height: 38px;margin-top: -3px}.ulul li{margin:7px;line-height:1.4}[data-uranus-component="entryBody"] ul {margin:0}._1WkQWJsL ol, ._1WkQWJsL ul {padding: 0px;margin:2px}.no-marker {  list-style: none}.kana-list {  list-style-type: katakana;padding-left:23px !important;font-weight:bold;line-height:1.3}.kana-list li::marker {  content: counter(list-item, katakana) ". 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<pubDate>Wed, 29 Jul 2026 19:57:55 +0900</pubDate>
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