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<title>頑固オヤジの政治政談</title>
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<description>人生　人との出会い　出会いが人生</description>
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<title>「YouTube」に投稿された日本の捕鯨をめぐる動画が大きな波紋を呼んでいる。</title>
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<![CDATA[ <p><br>「YouTube」に投稿された日本の捕鯨をめぐる動画が大きな波紋を呼んでいる。日本の調査捕鯨に対して豪州政府が猛反発している事態を痛烈に批判する内容。豪州での「人種差別」や「動物虐殺」を例に挙げた刺激的な動画に、日本語のみならず英語での書き込みが動画のコメント欄に1万件以上書き込まれる「大論争」を巻き起こしている。さらに豪州政府の外相がコメントする事態にまで発展。</p><p>　「人種差別を正当化するために鯨を使ってはいけない」<br>　「豪州人は日本人への偏見と差別を捨てなければならない」<br>　こんなメッセージが音楽と映像とともに表示される動画が2007年末にアップされた。動画の内容は、日本の調査捕鯨に猛烈に反発する豪州政府の方針などを痛烈に批判するもので、豪州での人種差別暴動やディンゴやカンガルーといった動物の虐殺映像を使って、豪州人が持つ日本人や捕鯨への「差別」を克明に描いたものだ。</p><p>　そこでは、人種差別運動の様子、殺されるディンゴ、白人男性がカンガルーの母親のお腹の袋から赤ちゃんカンガルーを取り出して足で踏みつぶす様子、さらには「鯨のフルコース」を注文した日本人男性が銛で刺し殺されるCMなどが流され、「次の犠牲者は日本人ですか？」「豪州は最も多くの動物を殺す国だ」「カンガルー殺しは残酷じゃないの？」といったメッセージが添えられている。</p><p>　この動画は1月8日夕方までに23万回以上再生され、動画のコメント欄には1万件を超える日本語・英語のコメントが書き込まれる「大炎上」の事態にまで発展している。コメントがこれほど大量に書き込まれるのはユーチューブでは異例の事態。英語の書き込みには、<br>　「ジャップはキモいマンガとかアニメで"自分イメージ"を良く見せるよな。でも今回は失敗なんじゃないか」<br>　「あ～汚れたジャップ･･･」<br>　「鯨は世界で最も美しく価値ある動物で、子孫がその美しさを見るためにも保護すべきなんだよ。<br>　だからカンガルーと比べんな･･･黙りやがれ、ジャップはこんな議論する権利はないんだ」といったこの動画や捕鯨を批判するものが多くある。</p><p>　一方、日本人と思われるユーザーからは「豪州政府にIQテストを実施する必要がある」「これは良くできた動画ですね。すばらしい。」といったコメントが書き込まれている。真面目な議論もあるが、なかには日本語、英語の罵詈雑言風のものも飛び交っている。</p><p>　豪州では、日本の調査捕鯨に強硬に異議を唱えていた労働党が政権を取り、日本が行う調査捕鯨を監視させるために軍を出動させる可能性も豪州政府の閣僚などから公言されている。豪州で高まる「反捕鯨熱」もあって、まさに日豪サイバーバトルの様相を呈している。</p><p>　この動画にことさら敏感に反応したのは豪州メディアと豪州政府関係者だ。1月7日の豪デイリーテレグラフ（電子版）はユーチューブに掲載された動画を「オーストラリアの人種差別者と日本の捕鯨支持者」と題して報じ、「豪州政府を脅して捕鯨反対の立場を変えさせられると考えるのは全くの間違いだ」とする豪州政府スポークスマンのコメントを紹介。また同日の豪ABCニュース（Australian Broadcasting Corporation）は、「捕鯨推進者のビデオが"差別主義者"キャンペーンで攻撃」と題して、この動画を批判的に報じた。同局は、ディンゴ協会長の「我々は捕鯨はどんなことがあっても容認できない立場」「捕鯨推進者の都合のいいように（ディンゴ保護活動家がディンゴ虐殺を批判する）コメントが使われた」といったコメントを紹介。さらに、捕鯨反対の立場のスティーブン・スミス外相の「このビデオで、我々の強固な捕鯨反対の立場が変わることはない。<br>　豪州政府は固い信念は変わらないし、豪州国民もまた、こんなもので尻込みすることはないと信じている」というコメントまで紹介している。たった1つの動画が豪州に与えた影響は小さくはないようだ。<br><a href="http://www.j-cast.com/2008/01/08015346.html">http://www.j-cast.com/2008/01/08015346.html</a></p><p><br>問題の動画：オーストラリア批判動画  <a href="http://www.youtube.com/watch?v=e8lvep0-Ii0">http://www.youtube.com/watch?v=e8lvep0-Ii0</a><br>（この動画は、The Oceania Project さんによる著作権侵害の申し立てにより削除されました。）</p>
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<link>https://ameblo.jp/ggg222a/entry-11590463021.html</link>
<pubDate>Wed, 11 Sep 2013 10:35:45 +0900</pubDate>
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<title>国籍変えてまで子どもを外国人学校に送る人たち</title>
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<![CDATA[ <p>国籍変えてまで子どもを外国人学校に送る人たち </p><p><br>　社会で指導的立場にある実業家ら約60人が、外国国籍を違法に取得して子どもたちを外国人学校に不正入学させた <br>疑いで検察の捜査を受けている。現在、警察から事情聴取を受けている人たちは、財閥グループ元副会長の嫁、財閥 <br>会長の嫁、病院長夫妻、大型法律事務所所属の弁護士、投資企業代表、ゴルフ場所有者などだ。彼らは移住あっせん <br>ブローカーに5000万－1億ウォン（約350万－700万円）を支払い、中南米やアフリカの偽造パスポートを購入し、国籍を <br>変更し、子どもを外国人学校に通わせていた疑いが持たれている。夫婦のうちどちらかが外国国籍の場合、子どもが外国人 <br>学校に入学できるという点を悪用したものだ。 </p><p>　財閥グループ元副会長の嫁と財閥会長の嫁は、ブローカーからホンジュラス、ニカラグアの偽造パスポートをそれぞれ購入し、 <br>法務部（省に相当）に自ら韓国国籍を放棄する申請書を提出、各国の国籍を取得した。検察によると、韓国国内のブローカー <br>たちが、外国旅券の偽造ブローカー団を通じてパスポートを偽造したという。なお、夫よりも妻が韓国国籍を放棄したケースが <br>多かった。検察は、国籍放棄申請を行った場合、名簿が官報に掲載されることから、外部の目を避けるため、夫の代わりに <br>妻が国籍を放棄したと見ている。 </p><p>　外国人学校は、韓国国内に居住する外国人の子女や外国で3年以上暮らして帰国し、国内の学校に適応するのが難しい <br>韓国人児童・生徒が通う学校だ。全国に51校あり、学費は年間3000万－4000万ウォン（約210万－280万円）と高額だが、 <br>外国人教師が米国や英国などの教育プログラムに従って授業を行い、英語を身につけることができる上、海外の大学に進学 <br>する上でも有利とされる。外国人学校は十数年前から富裕層の間で、早期留学の代替手段として浮上していたが、今や <br>違法に国籍を変えてまで子どもを入学させるという事態まで起きている。 </p><p>　目的を達成するためには手段や方法を選ばない親を見て、子どもたちは何を学ぶのだろうか。金さえあれば何をしてもいいという <br>浅はかな倫理意識しか学ばないだろう。 </p><br><p>朝鮮日報／朝鮮日報日本語版: 2012/09/15 12:51 <br><a href="http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/09/15/2012091500511.html">http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/09/15/2012091500511.html</a> <br></p>
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<link>https://ameblo.jp/ggg222a/entry-11590463492.html</link>
<pubDate>Sun, 01 Sep 2013 10:36:50 +0900</pubDate>
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<title>これでは困る韓国」呉善花・崔吉城</title>
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<![CDATA[ <p><br>■これでは困る韓国」呉善花・崔吉城■ </p><br><p>▲とんでないまちがいが本気で信じられているいい例の一つに、<br>日本でお祭りなんかで使われる「ワッショイ」という言葉が、<br>韓国語の「ワッソ」（来た）からきたものだというのがあります。<br>いったい、なにを根拠にそういうことになっているのかわかりませんが、<br>これはまったくまちがっているんです。</p><p>▲だれが最初にそう言ったか調べてみたら、この前亡くなられた在日の<br>文学者の金達寿さんでした。それ以後、韓国の学者や在日の学者が<br>堂々と本に書いたりしているんですね。<br>しかし国語学者では、日本人でも韓国人でも認める人はだれもいません。</p><p>…出典　「これでは困る韓国」呉善花・崔吉城…</p><p>▲そもそも、15世紀にハングルが作られる以前、朝鮮では漢字漢文で<br>全てが書かれていたわけだから、その当時（高麗時代以前）の朝鮮語が<br>どんなものであったかは、ほとんど解明されていない。ハングル以前<br>には吏読(りとう)・口訣(こうけつ)・郷札(きょうさつ)など、漢字を用いて<br>朝鮮語を表す方法がなかったわけではないが、それらはごく一部分で<br>断片的しか残っていない上、漢字の音と訓を複雑に交えた表記法なので、<br>どの漢字がどう読まれたのかなどは正確に分かっていない</p><p>▲また、それらが音韻の複雑な朝鮮語を正確に書き表したとは考えられない。<br>高麗時代の朝鮮語でさえ曇りガラスを通して見ているようなものなのに、<br>古代朝鮮語の姿などは、月も出ていない闇夜で物を見ているのに等しいくらいに<br>分かっていないのある。</p><p>▲今、古代朝鮮語まで辛うじてさかのぼれる単語は数えるほどしかなく、それらの<br>うち日本語の単語と何らかの関係があると推測される単語となると、微々たる<br>ものである。<br>▲それらの単語は日本語と朝鮮語がルーツが同じだと証明できるような<br>ものではなく、せいぜい朝鮮語から日本語に借用されたものであるという程度の<br>ものに過ぎない。</p><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ggg222a/entry-11590456221.html</link>
<pubDate>Wed, 21 Aug 2013 10:22:25 +0900</pubDate>
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<title>鄭大均　「日本のイメージ」</title>
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<![CDATA[ <br><p><br>「わが国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高句麗・新羅三国の文化<br>が日本に伝えられた話が出てきますが、その内容は日本古代史書である<br>「日本書紀」を土台にしているもので、わが国の史書にはありません。<br>（そもそも韓国に古代の文献はほとんどない）ところが、日本の学者が<br>「日本書紀」を土台にして、古代日本が二百年余り朝鮮半島南部の伽耶<br>（日本名任那）地域を支配したという「任那日本府説」を主張すると、<br>韓国の学界ではそれは信じることができないと主張しています。</p><p>これは明白な矛盾であり、こうした姿勢ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く<br>見るのではありませんか」という、身の程を知らぬ質問をした。</p><p>そしたら、Ｌ教授は黙り込んで答えず、横に居られたＣ教授が「自信がないんだよ」<br>とおっしゃった。</p><p>「日本書紀」には日本が「任那日本府」という機構を置いて朝鮮半島南部を支配しつつ、<br>三国文化を運んでいったようになっている。しかし、韓国の中・高等学校<br>では三国文化が日本に伝播される国際関係に関しては何の説明もされず、<br>ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた事実だけを教えている。<br>そこで学生達は日本を客観的に理解できずに、無条件、対日優越意識だけを<br>助長する結果をもたらせた。外国に出かけたわが国の学生が「任那日本説」<br>に接して戸惑うのも無理はない。</p><p>　　　　　　　　　　高麗大学教授　金鉉球<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　鄭大均　「日本のイメージ」より</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/ggg222a/entry-11590461824.html</link>
<pubDate>Mon, 19 Aug 2013 10:23:44 +0900</pubDate>
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<title>若光が来朝した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制５年（６６６）年</title>
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<![CDATA[ <p>▲古代には多くの朝鮮人が日本に亡命してきました。朝鮮の王からその領民まで<br>亡命してきたんですね。心優しい日本は彼らに住む土地を与えて保護してあげ<br>ました。その帰化朝鮮人が住んでいた所に彼らの神を祭りました。<br>それが今日まで残っているんですね。……しかし神社は天皇が大本です……<br>「帰化朝鮮人の神」が神社に祭られているという事は彼らの神が天皇に服属した<br>という事なんですけどね（笑）</p><p><br>▲高麗神社の主祭神はかつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗国からの帰化人高麗王若光<br>（こまのこきしじゃっこう・「王」は他に「こしき」「こにしき」<br>「こにきし」などとも読む）です。<br>　若光の故国高句麗は、紀元前１世紀ころ朱蒙（しゅもう）によって建国されたと<br>いわれています。最盛期は５世紀の広開土王（こうかいどおう）長寿王（ちょうじゅおう）<br>の１００年で、中華人民共和国吉林省集安県にある広開土王碑からはそのころの<br>高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。</p><p>▲　若光が来朝した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制５年（６６６）年<br>１０月高句麗から派遣された使節の中に「二位玄武若光」の名があります。<br>『続日本紀』文武天皇大宝３年（７０３）年に当社の御祭神が「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」<br>と記されており、高句麗が６６８年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、<br>『日本書紀』にある「玄武若光」と高麗王若光は同一人物と思われます。</p><p>　若光は元正天皇霊亀二年（７１６）武蔵国内に新設された高麗郡の首長として<br>当地に赴任してきました。<br>当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河（静岡）甲斐（山梨）<br>相模（神奈川）上総・下総（千葉）常陸（茨城）下野（栃木）の各地から移り<br>住んだ高麗人（高句麗人）１７９９人とともに当地の開拓に当たりました。<br>若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」<br>として祀りました。これが高麗神社創建の経緯です。</p><p>▲なお「従五位下」というのはとても低い階位です。当時の日本が朝鮮半島に対する<br>関係がよくわかると思います</p><br><br><br><p>百済義慈王の王子の禅広（ZENKOU）は、<br>新羅・唐の連合軍によって祖国が滅亡し、日本に亡命してきた。<br>そして天皇に仕え、天皇から「百済王」という姓を賜った。<br>百済王敬福（KEIFUKU）が建てた「百済王神社」</p><p>百済王敬福（KEIFUKU）は陸奥（MUTSU）という日本の東北地方に赴任させられた。<br>当時の感覚では、南極のような僻地だ。</p><p>百済王敬福（KEIFUKU）は陸奥（MUTSU）で黄金を産出し、天皇に献上した。<br>天皇はとても喜び、敬福（KEIFUKU）を従5位から従3位に昇進させた。</p><p>百済王の冠位は、それまで100年間、ずっと「5位」でした。<br>それが、「3位」になったという事は、大出世です！</p><p>日本株式会社（社長・天皇）として例えてみます。<br>━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━<br>天皇</p><p>皇族<br>正1位<br>従1位<br>━━━━━━━↑役員クラス↑━━━━━━━━━━<br>正2位<br>従2位<br>正3位<br>従3位←昇進した冠位<br>正4位<br>従4位<br>━━━━━━━↑部長、課長クラス↑━━━━━━━<br>正5位<br>従5位 ←百済王の基本の冠位<br>正6位<br>従6位<br>━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━<br>要するに「黄金を献上したので、百済王を係長から課長に昇進させた」という意味です。<br>日本株式会社（社長・天皇）で、百済王の基本冠位は係長クラスでした。<br>繰り返しますが、百済王の日本の冠位は基本的に「5位」です。<br>ところが、江戸時代に日本に来た象は・・・。<br>1728年6月7日、ベトナムから中国の貿易商が連れてきた象。<br>1729年4月26日に京都、5月25日には江戸に到着。<br>京都では、象が天皇に謁見する際、「従4位」の官位が与えられた。</p><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/ggg222a/entry-11590455219.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Aug 2013 10:20:05 +0900</pubDate>
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<title>中国の史書は、倭国が国家の統合度と人口規模でずば抜けた大国であったと記している。</title>
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<![CDATA[ <p>日本は東アジアの大国だった</p><br><p>　中国の史書は、倭国が国家の統合度と人口規模でずば抜けた大国であったと記している。</p><br><p>■１．古代中国の見た朝鮮半島</p><p>　古代史の研究にはかならず出てくる「魏志倭人伝」は、西暦280年から290年頃に編纂された『三国志』のうちの『魏書』の一部であるが、この書は我が国のみならず、「韓伝」「高句麗伝」など、東アジア各地の地理、歴史、国情を伝えている。たとえば：</p><p>＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿<br>「高句麗伝」<br>　国の広さはほぼ２千里四方で、戸数は３万戸である。人々の性格は凶悪性急で、さかんに他国を侵攻し、財物を盗む。</p><p>「韓伝」<br>　韓は帯方（JOG注: 朝鮮半島の中西部）の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している。・・・</p><p>　馬韓（JOG注: 韓の３つの地域の一つ）は、月支国など全部で５０余国。・・・馬韓の習俗は、制度がととのっておらず、諸国の都には主帥がいるが村落が整備されず入り乱れているためよく統治することができない。北部の帯方郡に近い諸国は礼俗をわきまえているが、遠い地域では全く囚人や奴卑のようで礼俗は備えていない。<br>￣￣￣￣￣￣￣￣￣￣</p><p>　一方で、『魏書』は我が国に対しては「風俗は規則正しく、婦人は淫らでなく、嫉妬をしない、盗みがなく、訴訟も少ない」などとやけに好意的である。中国が手を焼いていた隣接地域と比較して、友好的な外交関係を結んでいた倭国への「えこひいき」もあるかと思う。</p><p><br>■２．東アジアの大国・倭国</p><p>「凶悪性急」などという主観的な評価は別にして、これら「倭人伝」「高句麗伝」「韓伝」などをもとに、当時の東アジアの国勢調査という形でまとめたものが、大平裕氏の『日本古代史　正解』に出てくる。それによると：</p><p>１）君主国として機能しているのは高句麗と倭のみで、半島中南部の三韓の地は村落共同体が首長をいだいているといった後進地域であること。人口こそ、合計１４万５千戸と多いが、７０余ヶ国に分立している。</p><p>２）君主国としてまとまっていた高句麗（現在の満洲から北朝鮮を占める）は、人口わずか３万戸。一戸平均５人とすると、１５万人に過ぎない。</p><p>３）倭国は人口１５万戸。邪馬台国に従わない周辺国家を含めると、２０万戸を超える。人口にして１００万人規模である。</p><p><br>　こうして見れば、国家としての統合度、および人口規模において、当時の東アジアで倭国がずば抜けた大国であった事が分かる。</p><p>　その大国ぶりは、魏の厚遇ぶりにも現れている。邪馬台国の卑弥呼は「親魏倭王」の称号を与えられているが、これは229年の大月氏国に与えられた「親魏大月氏王」と同格で、外臣に与える称号としては最高のものであった。遣使の二人にまで銀印青綬が与えられ、さらに銅鏡１００枚をはじめ高価な品々を贈った。</p><p>　倭国の使節がやってきたのは、魏が、それまで遼東半島を押さえていた公孫氏を滅ぼした翌年である。政情さだまらぬ朝鮮半島を抑える上で、大国・倭を心強い味方と歓迎したのだろう。</p><p><br>■３．朝鮮半島南部に倭国の領土があった</p><p>　もう一つ「韓伝」から分かることは、朝鮮半島南部に倭の領土があった、ということである。「韓は帯方の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している」との表現から、この事が窺える。</p><p>　倭との間で海を挟んでいたら、東西のみならず、南も「海をもって境界とし」という表現になっていたはずだ。「接している」とは、地続きだ、という意味である。</p><p>　三韓の一つ、半島南東部で日本海に面していた「弁辰」（後の新羅の地を含む）は１２ヶ国からなり、そのうちの一つ「涜廬」に関しても、再度「倭と接している」という記述がある。</p><p>　さらに、「弁辰の国々からは鉄を産出する。韓・わい（「さんずい」に「歳」）・倭が、鉄を採取している」とあり、倭人が鉄の採掘まで行っていた事が窺われる。</p><p>　また、魏志倭人伝の中で、有名な邪馬台国までの行程を表現した部分で、帯方郡から海岸沿いに南へ下り、さらに東へ行くと、「其の北岸の狗邪韓國（くやかんこく）に至る」という一節がある。韓半島の南端を、「其の北岸」と言っているのは、「倭国の北岸」という意味にとるのが、一般的な解釈である。</p><p><br>■４．新羅の４代目王は倭人</p><p>　朝鮮最古の史書『三国史記』は、新羅、高句麗、百済の歴史を述べており、高麗王朝（918-1392)がそれまでの古史書をまとめて、1145年に完成させた。我が国で言えばその４００年以上前に編纂された『日本書紀』にあたる。</p><p>　その「新羅本紀」の４代目王・脱解王初年(西暦57年)の条には、こう記されている。</p><p>＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿<br>　脱解はそもそも多婆那（たばな）国の生まれだ。その国は倭国の東北１千里にある。[2,p23]<br>￣￣￣￣￣￣￣￣￣￣</p><p>　倭国の中心が近畿地方にあったとすれば、その東北１千里（４００キロ強）という多婆那国は新潟県あたりとなる。脱解は多婆那国の王妃から卵で生まれたという奇怪な伝説があり、それで海に流され、辰韓の海岸に流れ着いたという。「新羅本紀」では初代王も卵から生まれたという伝説があるので、おそらく王を継ぐにふさわしい人物だという権威付けであろう。</p><p>　２代目王は脱解が賢者であることを知り、自らの長女を嫁がせ、さらに最高官職である大輔（総理大臣兼軍司令官）に任じた。その後、１４年間も大輔として活躍し、３代目の王は自身に息子が二人いたにも関わらず、脱解を４代目王に推挙した。</p><p>　脱解は王位につくと、翌年には瓠公（ホゴン）を大輔に任命する。瓠公も倭人で、瓠（ひょうたん）を腰に下げて、海を渡ってやってきたので、瓠公と称される。なにやら浦島太郎を連想させる。</p><p>　いずれにせよ、新羅は４代目王も総理大臣も日本人だった。その後、５～８代目は３代目王の血筋に戻るが、１３代目を除いて９～１６代目は脱解の子孫が続いている。これが「新羅本紀」の記録なのである。</p><p>　そしてこの記録をまとめた高麗王朝は、「伝統ある新羅から禅譲を受けた王朝」と自らを位置づけている。[2,p15]</p><p><br>■５．新羅も百済も倭国を敬仰していた</p><p>　倭人が王となった事を堂々と書く「新羅本紀」には、現代の韓国人が「朝鮮が先進文明を日本にもたらした」と主張するような尊大な姿勢はまるで感じられない。</p><p>　７世紀半ばに完成した中国の正史『隋書』には、こんな一節がある。[2,p13]</p><p>＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿<br>　新羅も百済も○国（倭国）を大国とみている。優れた品々が多いためで、新羅も百済も○国を敬仰し、常に使節が往来している。<br>（○：人偏に「妥」、『隋書』では倭国をこう表記した。）<br>￣￣￣￣￣￣￣￣￣￣</p><p>　先に、「弁辰」（後の新羅の地を含む）で、倭人が鉄を採掘している、という『韓伝』の記事を紹介したが、考古学の世界では、半島では３世紀になっても刀剣は鋳鉄だったが、日本列島では進んだ鍛造品が作られていたことが、明らかになっている。[2,p48]</p><p>　鋳鉄は、溶解させた鉄を型に流し込んで作るが、伸びが無く、堅くて脆い。鍛造は鉄を叩いて成形する際に、金属内部の空隙をつぶし強度を高める。後の日本刀の工法である。</p><p>　また日本独特の墓制である前方後円墳は３世紀頃から作り始められているが、半島西南端の栄山江地域には、５～６世紀に築造された１０数基の前方後円墳が見つかっている。この頃の半島南端部には、１００メートル近い墓を作る倭人の強力な勢力があった。[2,p79]</p><p>　こうした考古学上の発見と合わせて考えると、半島南端部は倭人が勢力を張り、また新羅地域にも倭人が住んで、鉄の採掘などをしていた。進んだ技術で「敬仰」されていた倭人の一人が王位を継承したことを、新羅や高麗の人々は自然に受け止めていたのであろう。</p><p><br>■６．倭国の進攻</p><p>　しかし倭人が王となった新羅に対しても、倭国はたびたび進攻を試みている。『新羅本紀』によれば、紀元前５０年、第一代王の時に「倭人が出兵し、辺境を侵そうとしたが云々」が最初である。</p><p>　倭人の４代王・脱解の治世では、西暦５９年「夏５月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した」と、倭人同士のよしみか、一度は友好関係を結ぶが、西暦７３年には「倭人が木出島（蔚山市）に侵入、王は角干羽烏（かくかんうう）を派遣したが敗退、羽烏は戦死した」とある。</p><p>　このような記述で、紀元前５０年から３６４年の４００年間に、１２回もの侵攻があったと『新羅本紀』は述べている。</p><p>　この３６４年の侵攻が、『古事記』『日本書紀』に伝えられる「神功皇后の三韓征伐」だというのが、[1]の著者・大平裕氏の見解である。氏は、神功皇后が当時の半島情勢の中で果たした役割について、こう述べている。</p><p>＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿<br>（神功皇后は）・・・大和朝廷の偉大な皇后であり、朝鮮半島では、倭国の権益圏内にあった伽那、加羅地方の宗主国として新興の新羅と戦い、半島中部に進出して高句麗の南下に備え、百済の支援を精力的におしすすめた人物なのです。<br>￣￣￣￣￣￣￣￣￣￣</p><p>　当時の朝鮮半島は、新羅、高句麗、百済、そして倭国領土と、あたかも今日のバルカン半島の如くに錯綜・拮抗していた。この地域が新羅か高句麗に統一されてしまうと、我が国は半島南部の権益を失うだけでなく、日本列島そのものにも危機が及ぶ。</p><p>　地政学的に言えば、朝鮮半島は我が国につきつけられたハンマーであり、それが敵対する強国に握られることは、日本にとって安全保障上、最大の問題であった。日清戦争、日露戦争、そしてアメリカが戦った朝鮮戦争も、すべてここに起因している。したがって、百済をバックアップして、新羅や高句麗から守ろうするのは、理に適った戦略なのである。[a]</p><p><br>■７．神功皇后の新羅征討</p><p>　大平氏は、神功皇后の新羅征討を次のように、簡潔に記述している。</p><p>＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿<br>　仲哀天皇の崩御後、神功皇后は臨月にもかかわらず神功皇后元年(362年)、対馬より水軍を進め、新羅の地に上陸して王都まで兵を進出させました。</p><p>新羅王はほとんど抵抗することなく降伏、自ら首に白い組みひもをかけ手を後ろでに縛り、土地の図面と人民の籍を封印して皇后に奉じ、「今から以後、天地とともに長く、（降)伏して(馬)飼部（かいべ）となります。・・・また海(路の)遠いのをものともせず、年毎に男女の調(みつぎ)を貢上しましょう」と申し出ています。<br>￣￣￣￣￣￣￣￣￣￣</p><p>　一方『新羅本紀』には、次のように記されている。</p><p>＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿<br>　９年(364年)夏４月、倭兵が大挙して侵入してきた。王はこの報告を聞いて(倭軍の勢力に)対抗できないことを考慮して、草人形を数千個作り、それに衣をきせ、兵器をもたせて吐岩山の麓にならべ、勇士１千人を斧けん（山へんに「見」）の東の野原に伏せておおいた。倭軍は数をたのんでまっしぐらに進撃してきたので、伏兵を出動させて倭軍に不意うちをしかけた。倭軍が大敗して逃亡したので、追撃して倭兵をほとんどすべて殺した。[1,p185]<br>￣￣￣￣￣￣￣￣￣￣</p><p>　紀年に２年の食い違いがあり、また勝敗の記述も異なるが、共通しているのは新羅が正面からの抵抗を諦めざるをえないほどの圧倒的な大軍を倭国が送ってきたことである。</p><p>　最近、韓国教員大学の研究者たちによって、倭軍が新羅の東海岸から上陸したという研究成果が公にされている。神功皇后の実在を疑う向きもまだまだ多いが、その問題とは別に、当時の日本が、多くの軍船で大軍を半島に送りうる、まさに「東アジアの大国」であったことは、両国の史書を見ても動かない事実である。</p><p><br>■８．建国記念の日に</p><p>『古事記』『日本書紀』は７世紀前半に、朝廷の統治を正当化するために創作された物語、と主張したのは、大正年間、今から１００年近くも前に研究を行っていた津田左右吉である。そしてこの見方が、戦後の自虐史観に利用されて歴史学研究を拘束し、今も初代・神武天皇[b]からここで述べた神功皇后まで十数代の天皇、皇后の実在が否定されている。</p><p>　しかし『古事記』『日本書紀』を否定するばかりで、それではどのように我が国が建国されたのか、その史実を探究しないのであれば、それは歴史学の名に値しない。</p><p>　その一方で、『古事記』『日本書紀』と中国、朝鮮の史書の比較研究、さらには考古学的研究が進み、古代の我が国の姿がおぼろげながら明らかになりつつある。</p><p>　本編では、そのごく一部を紹介したが、歴史学がイデオロギー的制約から解放され、真の学問的研究成果によって国民が先人たちの歩みに想いを馳せる、そんな「建国記念の日」が待ち遠しい。</p>
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<link>https://ameblo.jp/ggg222a/entry-11591719314.html</link>
<pubDate>Tue, 13 Aug 2013 10:43:48 +0900</pubDate>
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<title>最後の日本兵</title>
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<![CDATA[ <p><br>最後の日本兵</p><p><br>１９７４年、最後の日本兵帰還。<br>横田伍長がグアム島で「発見」されたのに次いで１９７４年、小野田少尉がフィリピン、ルバング島で「発見」され大きなニュースとなりました。</p><p>実はこのすぐ後にもうひとり日本兵がインドネシア、モロタイ島で「発見」されています。<br>高砂族（アミ族）出身の中村輝夫（民族名：スニヨン）氏です。</p><p>敗戦を知らないまま、ジャングルに潜み３０年の月日を孤独に耐えながら生き抜き、故郷の台湾に生還します。<br>台湾に戻って知ったのは、自分の名前が「李光輝」に変わっていること、高砂族出身であるために自分はもう日本人ではなくなってしまったことでした。</p><p>当時の日本は台湾と断交状態になった微妙な時期で、日本政府は日本人として長い間戦いを続けてきた彼を、「日本人ではない」ことを理由に冷遇します。<br>また当時の台湾は激しい反日政策のため、生まれ育った頃とはまったく違う価値観を押し付けられました。</p><p>３０年間、信じ守り続けてきたものが崩れさり、帰国してわずか４年後、失意の中で亡くなります。</p><p><br>慰霊碑建立<br>１９９２年、慰霊碑建立。<br>タイヤル族の女性頭目であった周麗梅（日本名：秋野愛子）さんが、大東亜戦争で戦死した高砂族兵士の慰霊のため「台湾高砂義勇隊戦没者英霊記念碑」を建立します。<br>長い歳月をかけ、多額の借金をしてまで、慰霊事業と記念碑の維持に力を注ぎます。</p><p>２００４年、慰霊碑撤去の危機。<br>２００３年に東アジアに猛威を振るったＳＡＲＳがこの慰霊碑の存続に思わぬ影響を与えます。<br>ＳＡＲＳで日本人観光客は激減、慰霊碑の土地を提供してきた観光会社は立ち行かなくなり倒産します。<br>そしてさらに慰霊碑を守ってきた周麗梅さんが亡くなったことで、慰霊碑は今、撤去を迫られています。</p><p>歴史に翻弄されてきた高砂族。</p><p>日本人の記憶からはその存在が忘れ去られようとしていますが、高砂義勇隊の生還者や遺族たちは、日本に賠償や謝罪を求めることもなく、志願し日本人として戦ったことを今なお誇りとしています。</p><p>かつて日本人として日本のために命をかけた同胞、高砂族の記憶を風化させないためにこの慰霊碑が存続することを願うばかりです。</p><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/ggg222a/entry-11590454223.html</link>
<pubDate>Tue, 13 Aug 2013 10:18:03 +0900</pubDate>
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<title>「高砂義勇兵」記念碑封鎖で公開協議</title>
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<![CDATA[ <p>「高砂義勇兵」記念碑封鎖で公開協議 </p><br><p>台北県烏来郷の公園内に設置された台湾先住民出身の元日本兵「高砂義勇兵」の戦没者らを祭る記念碑が２００６年２月、地元当局によって封鎖された問題で、県側は２９日、地元と初の公開協議を行った。この中で一帯の拡張工事を行った上で記念碑の封鎖を解除し、撤去した石碑も元の場所に全面返還することで両者は最終合意した。作業は終わる予定で、問題は３年ぶりに全面解決する見通しがついた。</p><p>　県側は同日、記念碑一帯に新たに９００万台湾元（約３０００万円）と投じる工事計画の概要を発表し、記念碑を歴史的な観光資源として活用していく方針を説明。日本語の碑文には中国語、英語、先住民語による訳文をつけ、９月には施工に入るという。</p><p>　再建後の管理権は土地所有者の県側に移るが、観光客の案内業務など運営は地元に委託される方向だ。県はまた記念碑を指定観光地とする計画でという。</p><p>１６年前に建立された記念碑は、敷地を提供した観光会社の倒産で存続の危機に陥った。これを報じた産経新聞の記事がきっかけとなり、記念碑を「日台友好のきずな」として存続を求める読者らから３０００万円を超える義援金が寄せられ、２００６年２月、現在の県有地に移設された。</p><p>　だが、移設直後に台湾メディアが碑文を誤訳して報じ、これを下に県側は「日本の軍国主義をあおっている」と決めつけ、問題は一気に政治化。中国国民党出身の新任県長（知事）は石碑を強制撤去し、記念碑を封印した。これに対し、地元側は同年４月処分取り消しを求める訴願を内政部（内務省）に提出、昨年３月には高等行政裁判所に行政訴訟を起こした。</p><p>　しかし「烏来郷高砂義勇隊記念協会」のマカイ・リムイ総幹事は２９日、訴訟取り下げを検討する考えを示し、「ようやく日本から送られた善意に応えられる。訳文などの公正性が保たれるよう県との交渉は続くが、問題は大きな山を越えた」と話している。</p><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/ggg222a/entry-11590453356.html</link>
<pubDate>Mon, 12 Aug 2013 10:16:16 +0900</pubDate>
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<title>高砂族と隼人</title>
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<![CDATA[ <br><p><br>高砂族と隼人</p><p>日本統治時代、タイヤル族、ルカイ族、アミ族、パイワン族などオーストロネシア語族の９つの原住民族を総称して高砂族と名付けられました。</p><p>主に山岳地帯に住み、勇猛な性質と、首狩りの習俗を持つことで恐れられていました。<br>各民族の言語は言語学的に大きな隔たりがあるため意志の疎通は不可能です。<br>そのため戦前に日本の教育を受けた世代の共通言語は今でも日本語です。</p><p>高砂族が属するオーストロネシア語族とは太平洋に散らばる島々で話されている諸言語です。<br>かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていました。</p><p>最近になって高砂族の諸言語が、マレー・ポリネシア語族と近似関係にあることが判明し、語族の地域を拡大し、オーストロネシア語族（南島語族［南（Austro）の島（nesia）］）と呼び方が変わりました。</p><p>オーストロネシア語族に属する言語は非常に広範囲です。<br>西はアフリカ大陸の南東に位置するマダガスカル島から東はモアイで有名なイースター島まで、北はハワイ諸島から南はニュージーランドまで分布しています。</p><p>その中で台湾の高砂族の諸言語は、言語学的にオーストロネシア語族の中でもっとも古い形を留めています。</p><p>オーストロネシア語の故郷は中国南部または東南アジアとされており、台湾にオーストロネシア語の古い形が残されていることから、オーストロネシア語族の先祖はまず台湾に渡り、そこから各地へ広がったのではないかと考えられています。</p><p>航海に長けたオーストロネシア語族の先祖は季節風などを利用して各地へ分散し、４世紀頃にはイースター島に、５世紀にはマダガスカル島に到達しました。</p><p>６世紀初めに書かれた記紀（古事記・日本書紀）には、九州南部に勢力を持っていた隼人と呼ばれる種族について書かれています。<br>隼人はインドネシア・ポリネシアの民族と類似する点が見られることから、黒潮に乗って海を渡って来たのではないかと考えられています。</p><p>例をあげると、勇猛で知られた隼人の盾に描かれた逆S字の文様は、インドネシアの山岳地帯にある高床式住居の彩色彫刻の文様と酷似しており、盾の形もよく似ています。<br>また、隼人の顔面への入墨の記述は、高砂族に残る入墨の風習に似通っています。</p><p>記紀に書かれた山幸彦と海幸彦（初代神武天皇の祖父）の兄弟の物語で、失われた釣り針を求めて海の向こうにある国へ探しに行くくだりはインドネシア・ミクロネシアの諸島に伝えられている物語とそっくりです。</p><p>記紀では、隼人は海幸彦（兄）の子孫であり、天皇家は山幸彦（弟）の子孫であると書いています。<br>物語は古くから海洋民族が日本に居住していたことを伝えており、日本もこの海洋国家群のひとつであったことがわかります。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/ggg222a/entry-11590452888.html</link>
<pubDate>Sun, 11 Aug 2013 10:15:26 +0900</pubDate>
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<title>好太王碑は中国領にあり、中国の研究者が改竄説の検証をおこなった結果</title>
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<![CDATA[ <br><p><br>好太王碑文改竄説は、1972年に日本朝鮮学校の李進煕が、岩波書店『思想』に<br>発表したのが発端で、呼応するように北鮮が改竄説を宣伝した。</p><p>好太王碑は中国領にあり、中国の研究者が改竄説の検証をおこなった結果は、<br>王建群・吉林省文物考古研究所長(1984)『好太王碑研究』(吉林人民出版社)で、<br>訳本として、翻訳：林国本・繆光禎『好太王碑の研究』(雄渾社)がある。<br>検証の詳細はこの本にまかせるが、改竄説のでっち上げを厳しく批判している。</p><p>「歴史は客観的存在であり、歴史の研究は事実にもとづいてすすめなければならない。<br>中国に対して破壊活動を行なった酒匂景信や当時の日本陸軍参謀本部の犯した罪は<br>徹底的に暴露しなければならない。しかし同時に、事実を無視し、根拠のないことを<br>書き加えるようなことは、してはならないのである。」</p><p>この発言でも、是々非々で対応する中国人と、朝鮮人のレベルの違いが分かる。 </p><p>酒匂雙鉤本は、著者の碑文との照合から判断して、碑文の本来の姿に<br>忠実であるよう努力しており、意識的に改竄されたような痕跡がないと<br>考えられる。<br>問題の箇所は、“「倭以辛卯年来、渡海破百残、？？[新]羅、以為臣民」。<br>これらの文字は、実際に石碑にそう彫られているもので、改竄されてはいない。<br>字形、点、画も、石碑にもともと彫られていたものに忠実である。”としています。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ggg222a/entry-11590451773.html</link>
<pubDate>Sun, 11 Aug 2013 10:11:14 +0900</pubDate>
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