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<title>ハンドバッグ製造（繊維製）について思う</title>
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<description>ハンドバッグ製造（繊維製）について思う</description>
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<title>石磨き業の説明</title>
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<![CDATA[ 弁証法をこのようにして多少とも独立化し、定式化・公式化［＃「公式化」に傍点］するだけそれだけ、之は話題［＃「話題」に傍点］には値いして来るが、同時にそれだけの危険性を有って来る。ただこの根本特色が充分に又は全く理解されていない時に限って、このような公式化は一定の効果を持つことが出来るのであり、この理解が多少とも展開し始めた後は、公式としての弁証法［＃「公式としての弁証法」に傍点］はやがて、却って一つの桎梏でしかなくなるだろう。このような場合に必要なのは却って、旧公式の解体又は新しい公式の構成でなければならない。蓋し公式はその場合々々の状態に応じて、実践的な必要に従って、形成されねばならない。――このようなものが弁証法の弁証法的把握［＃「弁証法の弁証法的把握」に傍点］である。<br>　存在が観念を決定するということ、吾々の思惟は事物が存在するままに之を把握せねばならぬということ、この至極判り切った［＃「至極判り切った」に傍点］ことの内に、正に弁証法が横たわる。右翼の或る人々は云うかも知れない、それは素朴な模写説ではないかと。併し模写説の唯一の欠点は、原像と写像との一致によって真理を知るためには却って予め原像自身を知っていなければならぬ、という循環の外にはないのであるが、この循環はただ認識の実際の過程を非実践的に考えるという仮定の上で、初めて成り立つものに過ぎないことを忘れてはならぬ。実践的な模写説は哲学概論的な所謂模写説とは非常に異ったものなのである。又左翼の或る人々は云うかも知れない、弁証法が存在と概念との関係の内に横たわるならば、それは存在そのものの［＃「存在そのものの」に傍点］内に在るのではないことになる、そうすれば弁証法は観念的なものとなるではないか、と。<br>
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<pubDate>Fri, 11 Jan 2013 09:10:47 +0900</pubDate>
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<title>トマト栽培の説明</title>
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<![CDATA[ 単なる自己意識でなく、自己意識が同時に根拠の意識であるというところに自覚の本来の意味があり、その根拠の意識によって自己意識も成立するのである。自覚は超越によって可能になるのであって、主体的とは、単に主観的ということでなく、却って自己の存在の根拠を自覚し、これと内面的な関係を含むということである。自己意識としての個人的自覚は人格の認識根拠となるにしても、その存在根拠であることはできぬ。しかも我の存在の根拠であるものは、同時に汝の存在の根拠であることなしに、我の存在の根拠であることもできない、我は汝に対して初めて我であるから。我々は我々の存在の根拠であるものから社会的に限定されてくるのである。かような存在の根拠が最も深い意味における世界にほかならない。主体的立場というのは個人的立場でなく、社会的立場であり、世界的立場を意味している。この世界は客観としての世界ではない。客観としての世界においては、主体である人間はその場所をもたない。見られた自己はその中に入っているにしても、見る自己はそれに対して何処か外にあると考えられねばならぬ。しかしながら、「世界は深い」とニーチェもいった如く、世界は主体である人間を内に包み、これを超えて深いのである。主体がそれにおいてある世界即ち絶対的場所は、どこまでも主体的なものでなければならぬ。
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<link>https://ameblo.jp/gqfv1085/entry-11437236455.html</link>
<pubDate>Sat, 29 Dec 2012 10:21:35 +0900</pubDate>
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<title>船外機販売修理の説明</title>
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<![CDATA[ 性格を一つの人間的［＃「人間的」に傍点］な概念と呼ぶことは誤りではないであろう。尤も何か他の関心から動機せられて人間的と呼ばれるのではない、例えば浪漫的な興奮や道義的な謹厳さからそう呼ばれるのではない。ただ理論的に云ってそれが人々にとっての通路を用意しているからなのである。個性――それは結局個人［＃「個人」に傍点］概念から離脱することが出来ない――の概念から性格の概念を区別した吾々は、個性的なるものとして普通掲げられる処の所謂人間的なるものから、吾々の性格概念を自由にしなければならない。併しそれにも拘らず性格は――云わば理論的に――人間的である。も一遍云おう。性格は通路を用意している点に於て一つの人間的概念である。――処で併しかの個性の概念は或る意味に於て人間的な概念で矢張りありながら、このような理論的に考えられる通路を用意しているとは思われない。個性の概念はそれ自身に個性の理解乃至取り扱いの概念を伴わない、それは例えば知識学［＃「知識学」に傍点］的に取り扱われることの出来ない概念であろう＊＊。性格は恰も之に反して、常に知識学的な又は多少の注意を怠らずに言葉を使用するとして認識論的な、課題を含んでいる。性格概念はこの意味に於て人間的［＃「人間的」に傍点］概念であり、知識学的通路［＃「通路」に傍点］を用意している。<br>性格の概念を人格的なるものから芸術的なるものへ移したものは、テオフラストスであろう。<br>ライプニツのモナドは表象の能力を有っている。併しかかる能力は形而上学的実在の規定であって、知識学的な通路を意味するものではない。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/gqfv1085/entry-11429590896.html</link>
<pubDate>Tue, 18 Dec 2012 11:56:21 +0900</pubDate>
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<title>ブラジャー製造について思う</title>
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<![CDATA[ 如何なる問題も、既成的問題であっても、又歴史上の宿題であっても、展化する。同じ問題であっても問題提出の仕方は展化する。併し既成的問題にあっては、その展化の仕方それ自身が新しく展化することは出来ない。その展化の軌道――展化という過程ではない――そのものは伝統的に固定されているのである。固定した軌道はそれが属すべき何かの位置が既知であるに相違ない、それ故既成的問題は既成の科学的分科［＃「分科」に傍点］のどれかにぞくする問題として位置づけられることが出来る。哲学の問題は何々であり、法律学の問題は何々であり、言語学の問題は何々である等々、分科的に独立な問題とそれはなることが出来るわけである。恰もこのような科学的儀礼に対して突発的問題は不信と疑惑とを懐くのである。<br>　さて、突発的問題［＃「突発的問題」に傍点］と既成的問題［＃「既成的問題」に傍点］とのこの区別――そして前者は後者を優越する――を用いて、問題［＃「問題」に傍点］と立場［＃「立場」に傍点］との関係を決定することが出来る＊。<br>今仮にタルドの思想を借りるならば、問題――問題の解決もそうであるが――は発明［＃「発明」に傍点］され次で模倣［＃「模倣」に傍点］される。前の場合が突発的問題に、後の場合が既成的問題に、相当するであろう。但し吾々にとっては、問題が単に個人的に、非歴史的に発明されるのであっては、元来それは、問題ではあり得なかった筈である。問題の発見は歴史社会的必然によって規定されるべきであった<br>
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<link>https://ameblo.jp/gqfv1085/entry-11416434502.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Nov 2012 10:05:36 +0900</pubDate>
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