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<title>フラクタルな時空を求めて</title>
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<description>街や公園を歩いてみたりそうかと思えば、光と音の中で、大勢の人々の歓声と一体化したり時間と空間の様々な地点、時点で失われた時を求めるより、フラクタルな時空を求めることにした</description>
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<title>宵闇の演奏会　</title>
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<![CDATA[ 夕闇の中、新宿御苑のそばを歩くと<br>虫達の声に包まれる。<br><br>虫の声は、雨の後の爽やかな空気を振わせ<br>その日の出来事や何もかも<br>いっときでも<br>忘れさせる<br>安らぎを与えてくれる。<br><br>心のオアシスか。<br><br>その外側は、砂漠なのだろうか。<br><br>齢を重ねるということは、<br>夢<br>を持たなくなることなのか。<br><br>夢<br>を持つ事は若い人達の特権なのか。<br><br>ま、虫の声でも聞きながら、<br>一献傾け、朧月夜を過ごせばよいではないか。<br>
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<pubDate>Fri, 06 Sep 2013 23:05:58 +0900</pubDate>
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<title>AKB48 さよならクロール　選抜総選挙Now On</title>
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<![CDATA[ 2013-5-22に発売（とは言うものの、フライングゲット）<br>の「さよならクロール」をようやく観ることができた。<br><br>２２日の選挙速報が、衝撃的なのと、このところMVを観る暇もなく、忙しかった。<br><br>今日、MVを見てみて、映像のイマージュがとても奇麗で感動していた。<br><br>やはり、アイドルグループで、独自路線、多様性をもって活動しているのは、<br>AKB48グループをおいてないのだろうと、つくづく思った。<br><br>先日は、白黒決着つけようぜの最終日のグループ総出演の昼の部を観て、<br>思ったのは、AKB48グループは、もはや独自路線、エンターテイメントの<br>ひとつの特異な立体形状を成しているのだと、つくづく感じたわけだ。<br><br>４次元的な舞台設定、床自体が光のイマージュを作り、<br>客席のサイリウムの光のイマージュと呼応していた。<br><br>「さよならクロール」は、蜷川女史特有の作品の、<br>基調となる色のトーン、<br>ルージュ色がベースになっている。<br>「さくらん」もそうだった。<br>吉原にはルージュが似合う。<br><br>「ヘビーローテーション」でも、ルージュの、あの深紅の、あざといまでの<br>なめ猫達め、といった、遊びのモチーフで、イマージュを合成させていた。<br><br>曲と歌詞と併存しながら、DVDの回転、つまり、時間の流れに沿って、<br>イマージュを生成し続けること、それがMVの役割だから、<br>アイドルと呼ばれるために活動しつづける、<br>きわどいメディア選抜メンバーの、<br>明るい陽射しの下で、多様な表情や、花でできた水着、<br>いつものメンバーの髪型とは違った、<br>「さくらん」のような、色との競演。<br><br>３２人の多様な選抜メンバー。<br><br>オープニングは、水族館の、深くて淡いブルーの下、白い制服姿のメンバー達が<br>普段の髪型で登場する。<br><br>砂浜、コバルトグリーンの海を背景に、ルージュを基調とした、花の水着の<br>メンバー達が踊る。<br>メンバー達の髪型は、結い上げたりして変わっている。<br>新鮮さを感じるリップシーンのひとつひとつ。<br><br>平面を埋め尽くすばかりの、溢れる花。<br><br>夏の夜を思い出させる、浴衣姿のメンバー達は、綿飴や団子を食べ合うのは、<br>ヘビロテでもおなじみの、食べる姿の、欲望を満たす姿を、<br>静かに、夜空の下に、そのイマージュを流している。<br><br>この曲は、リフレインが多くありそうにみせながら、<br>歌詞が少しずつ、異化しながら、再帰的な流れを作っている。<br><br>風船と浮き輪のメンバー達が、平面を埋め尽くしながら、<br>エンディングとなる。<br><br>選挙のゆくえとは、別に、一足早い夏を思う。<br>砂浜を散歩するのもいいだろう。<br>
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<pubDate>Fri, 24 May 2013 01:13:46 +0900</pubDate>
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<title>論理学とは？　信念の体系という観点から　民俗学へのアプローチ（１）</title>
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<![CDATA[ 論理学が何かということについては、<br>本やサイトが数限りなくあるので、<br>それらに何かを追加するのもどうだろうか。<br><br>とはいうものの、<br>ちょっと、変わった観点で書かれている本が<br>あったので、紹介しておこう。<br><br>翻訳の状況はわからないが、<br>「LOGIC an introduction to elementary logic」<br>（Wilfrid Hodges　著　Penguin）<br>という本がユニークな観点で書かれている。<br><br>この本は、Penguinのペーパーバックになっている。<br>なので、安価に入手できる。（今は円安になっているけれども）<br><br>Hodgesの論理学の定義は、<br>矛盾のない信念の集合（consistent sets of beliefs）を研究するもの。<br><br>いろいろな信じていることの間に、両立性があれば、そこに矛盾が<br>ないということになる。<br><br>スマリヤンのパズル本「この本の名前は何？」<br>につぎのようなくだりがある。<br><br>精神病院を退院するときに、<br>患者に嘘発見器のテストをする。<br>「あなたはナポレオンですか？」と患者にたずね、<br>患者が「いいえ」と答えると、<br>嘘発見器が患者が嘘をついていることを告げる。<br>こうして、患者は退院ができないことになる。<br><br>つまり、Hodgesによれば、患者の信念は世間の信念と<br>矛盾があることになる。<br><br>患者は自分はナポレオンだと信じていることが<br>嘘発見器によって明らかになる。<br><br>その信念は、医師達の信じていることと<br>両立しないので、矛盾があることになる。<br><br>しかし、患者の信念体系の中には、実は矛盾している<br>ことは何もない。<br><br>患者にとって、<br>自分がナポレオンだということは<br>患者の信念体系とは矛盾していないのだ。<br><br><br>たとえば、憑き物という信仰が<br>日本でも存在していた時代があった。<br>（今でもあるのかもしれないが。<br>「今日はツイている」というときの<br>「ツキ」について考えてみると<br>いいかもしれない）<br><br>共同体の中の信念体系では、<br>矛盾がないということになる。<br><br>といったように、<br>論理学を使って、<br>民俗の信念体系について<br>次回から、考えてみよう。<br><br><br><br><br>
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<pubDate>Sun, 17 Mar 2013 14:35:57 +0900</pubDate>
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<title>乃木坂46 　君の名は希望</title>
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<![CDATA[ 乃木坂46の５thシングルが3月13日にリリースされた。<br><br>「ぐるぐるカーテン」の衝撃から早くも一年。<br><br>衝撃というのは、この時代にあの曲は、<br>とてつもない感覚をもたらしたからだ。<br>とてつもないとは、どういうことだろう。<br><br>秋元氏の詩ごころというのか、懐かしい感覚と、<br>現代という表層の下で、<br>深層部分へメッセージというのか、ある何か、それは、<br>乃木坂46のメンバーの声が、すでに忘れていた<br>何かを思い出させてくれるからだ。<br>（少し間違えれば、<br>時代錯誤というリスクを軽く乗り越えているともいえるが）<br><br>（乃木坂46のメンバー達との、握手会での笑顔を思い出しながら、<br>「君の名は希望」を聞きながら、このブログを書いている）<br><br>早速、PVを見てみると、今回は、<br>やはりAKB48の「So long」と対称をなすかのように<br>山下敦弘監督が監督した作品となっている。<br><br>「So long」の大林監督に対抗し、<br>「君の名は希望」では山下監督（「苦役列車」には<br>あの前田敦子が出演している）となっている。<br><br><br>設定は山下監督の次回作のオーディション（ガチなのだ）という設定で、<br>「君の名は希望」の選抜メンバー十六人が、<br>即興で演技をしてゆくというもので、<br>ベテランの役者さんも加わり、いくつかの設定の中で、<br>台本の断片を演じてゆく。<br><br>そして、当然のことながら、PVであるがゆえに、劇中劇の中で、<br>つまりクライマックスで、「君の名は希望」の曲が流れ、メンバーが歌う。<br><br>この曲を初めて聞いたとき、<br>前作の「制服のマネキン」とはまったく対照的な<br>曲ともいえる、本来の乃木坂46（ともいえるのだろうか）、<br>「ぐるぐるカーテン」的なモチーフの、<br>ピアノ伴奏の曲なわけだ。<br><br>そして、なぜか、ある忘れていたものを思い出し、<br>失われたときに涙してしまうのだろうか。<br><br><br>乃木坂46のDVDは、メンバー全員がひとりひとり、<br>別々の監督によるミニ映画になっているという<br>贅沢な作品集でもあり、握手会への手引きともいえるのは、<br>これまでの４枚のシングルと<br>同じであることはいうまでもないのだが。<br><br>春のにおいをかぎながら、<br>「君の名は希望」を聞くというのもオツなものだが。<br>
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<pubDate>Sat, 16 Mar 2013 00:22:31 +0900</pubDate>
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<title>AKB48　PVイマージュ（３）So long!</title>
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<![CDATA[ AKB48の30枚めのシングル「So long!」を早速、観てみた。<br><br>大林監督がどのようなPVを作るのかひそかに楽しみにしていた。<br><br>大林監督といえば、<br>「時をかける少女」や「さびしんぼう」へとリンクする。<br><br>「さびしんぼう」は富田靖子主演で、ショパンの「別れの曲」。<br>ロケ地は尾道。夕陽の美しい街並。<br><br>今回のPVというのか、映画とPVといったほうがいいのだが、<br>斬新な感覚のイマージュで構成されていた。<br><br>新潟県の長岡市は、個人的にも縁深く、<br>想い出深い地でもある。<br><br>長岡の三尺玉（花火）が有名だ。<br>幼少の頃、花火を観た記憶がある。<br>夜空に拡がる花火は、すべてを忘れられる時空間だ。<br><br>PVが始まったときに、何かホットするような、<br>これまでの他の曲のPVとは違った、<br>新鮮な感覚が生まれた。<br><br>全編、大林監督の空間と時間のイマージュが展開された<br>とでもいうのだろうか。<br><br>「さびしんぼう」の富田靖子に代わり、<br>本編では、渡辺麻友がイマージュをナビゲートしてゆく。<br><br>AKB48もこれまでとは違ったフェーズに入ったのだろう。<br><br>エンディングのクレジットが流れ、<br>AKB48のメンバー達が元気で茶目っ気を<br>出しているいつも通りの姿を見て、<br>ホットしたものだ。<br><br>Makingフィルム好きなオタクの私としては<br>握手会や公演などのライブで、<br>元気なメンバーの姿に会えることで<br>現在のときを感じられる、といったところだろうか。<br><br>AKB48は、脱皮というのか、<br>次へと変化している段階なのだろうか。<br><br>今回のPVはそういう意味で、大林監督の健在ぶりも<br>みれてとてもよかったといえる。<br><br>総体的には、即興劇という印象だった。<br><br>恥ずかしい話だが、So long!の曲が流れ出したとき、<br>不覚にも涙が流れてしまうのだった．．．．．<br><br><br>PVとは話がズレるのだが、AKB48グループと乃木坂46を違う角度から見ると、<br>チェスではないかと思えるのだ。<br><br>チェスといえば、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」にリンクする。<br><br>「鏡の国のアリス」では、アリスがチェスのゲームの進行とともに、<br>物語を牽引してゆくというモチーフになっている。<br><br>秋元氏の潜在意識にはチェスがあるのではないかと思えるほど、<br>チェスの数字に関わってくる。<br><br>まず、16という数字は、チェスのそれぞれの駒の数になる。<br><br>チェスというのは、64マスの市松模様のボード上で、<br>総計32個の白黒の駒を使って、チェックメイト（王手）を競うゲームだ。<br><br>AKB48は現在、３チームに別れて（実際には研究生のチームもあるので<br>４チームになるのだが）、劇場公演をおこなう。<br><br>３チームの構成は、16人。この３チームが競うのだ。<br>何を？<br><br>そう、推しメンの獲得、選抜入り、自己実現へ向けて、日々競うのだ。<br><br>そして、ライバル乃木坂46も１６人（このうち８人が八福神）が<br>シングル発表の度に、選抜入りを競っている。<br>しかも劇場がないだけに、彼女たちには、チャンスが少ないのだが。<br>（乃木坂４６のためにも、映画が待望されるのだが）<br><br>いま、チェスボード上では、炎のゲームが演じられているのだ。<br><br>ファイヤーオンボード（かつてロシアの若手棋士の本のタイトルだった）上で、<br>展開が次々に変わってゆく。<br><br>駒ではない、少女たちには、やはり人の応援が必要なのだ。<br><br>梅の花の咲く頃に。<br><br><br><br><br>
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<pubDate>Sat, 23 Feb 2013 18:38:51 +0900</pubDate>
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<title>つれづれ哲学論考（４）</title>
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<![CDATA[ ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインは<br>「論理哲学論考」を書いた。<br><br>書いたというより、戦争中に従軍しているときに<br>リュックサックにメモを書き溜めたものを<br>編集して、番号を付けて、整理して本にしただけらしい。<br><br>論理学、当時は記号論理学という数学のひとつの分野に<br>関する哲学的なコメントを、思いつくままにメモしていたらしい。<br><br>そもそもは飛行機のエンジニアを目指しているうちに<br>数学の基礎に疑問をもち、フレーゲという数学者に<br>相談したところ、イギリスにバートランド・ラッセルが<br>いるので、そっちにいったほうがいいといわれ、<br>大陸（フレーゲはドイツにいた）からイギリスへ渡ったらしい。<br><br>真偽のほどはわからないが、（これから書く事はほんとうか<br>どうかわからないので本気にしないでほしいのだが）<br>フレーゲはいわゆる右翼、国粋主義者で、<br>ウィトゲンシュタインはオーストリア人で<br>しかもユダヤ系（名前からしてそうだが）なので、<br>自分の弟子にしたくなくて、<br>民主的で心の広いラッセルのもとへと<br>追い払ったのではないかと、思う。（まあ、真偽のほどは<br>わからないけれども。ナチスが台頭していた頃だし、<br>ドイツの論理学者ゲンチェンも右翼で、戦後、獄死した<br>らしい。有名なゲーデルとかタルスキはユダヤ系なので、<br>さっさとアメリカへ亡命したのだった）<br><br>ウィトゲンシュタインは相当の変わり者だったと<br>晩年のラッセルはいろいろなところに書いているが<br>どうもオーストリア独特の文化とユダヤ系特有の文化<br>が、イギリスのビクトリア朝文化で育った貴族のラッセル<br>には合わなかっただけなのかどうかは不明だ。<br><br>ただ、ウィトゲンシュタインに会った、<br>ほとんどの人々は、ウィトゲンシュタインの<br>奇癖や発言について証言しているようだ。<br><br>はげしく起こりだす癖は<br>ベートーベン以上に激しかったらしいが。<br><br>火かき棒（暖炉にたてかけてある薪をかきわける棒）<br>を突きつけれたカール・ポパーの証言もあるほどだ。<br><br>ひとつの学派（分析哲学派というらしい）ができるほど<br>「論理哲学論考」の影響は大きかったらしい。<br><br>ラッセルも「私の哲学の発展」という自伝的な本の中で<br>衝撃について一章を割いている。<br><br><br>そのウィトゲンシュタインも、<br>オランダの数学者ブラウアーの講演を聴いて、<br>自分の哲学の方向を大きく展開させたという<br>神話のような話がある。<br><br>このブログでも紹介してゆくが、<br>ブラウアーは直観主義という論理学の体系を<br>作らしめた（自分では作っていないので）影響を<br>持っている。<br><br>排中律「Aが正しいかAが正しくないかのどちらかだ」<br>という自明な法則を認められない事象が数学にはある<br>ということを主張したのが、ブラウアーだった。<br><br>ウィトゲンシュタインがブラウアーの講演から<br>何を思って、「論理哲学論考」の考えを変える<br>思想へと向かったのか、何も具体的には分からず<br>謎のままなのだが。<br><br>ソウル・クリプキという哲学者がウィトゲンシュタイン<br>のいわゆる後期と呼ぶ著作から、<br>様相論理学の哲学的問題と関連させて引用を<br>多く使っているのだが。<br><br>クリプキ自身も直観主義論理学についての<br>論考も書いている。<br><br>直観主義とウィトゲンシュタインの関連については<br>謎が多いのだが、謎をもっと分かりやすく解説して、<br>シャーロック・ホームズとはゆかないまでも<br>刑事コロンボのように<br>コツコツと解いてみようか<br>というのが、今後のプログラムといったところで、<br>では次回へと。<br>
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<pubDate>Wed, 23 Jan 2013 23:19:20 +0900</pubDate>
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<title>つれづれ哲学論考（３）</title>
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<![CDATA[ <span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック', 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Arial, Helvetica; font-size: 14px; line-height: 19px; background-color: rgb(255, 255, 255);">「このあたりでは皆狂っているのさ」（チェシャ猫　ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」）<br></span><br>チェシャ猫君のこの言明文について、すこし考えてみよう。<br><br>もしチェシャ猫君が狂っているとしたら、この文は狂っているがゆえに、<br>内容は正しくないことになる。<br><br>補足すれば、狂っているものが語ることは、狂った内容であるという前提があるのだが。<br><br>この前提を受け入れれば、「このあたりでは皆狂っている」という内容自体、狂っている<br>のだから、皆が狂っているわけではないことになる。<br><br>ところが、皆が狂っていないとなると、チェシャ猫も狂っていないので、チェシャ猫の発言は<br>嘘になってしまう。<br><br>さらに、狂ったことを語るものは狂っているという前提を立てると、<br>チェシャ殿はやはり狂っていることになってしまう。<br><br>皆が狂っていないか、または、このあたり以外のところでも狂ったものがいることか。<br><br>まあ、そもそもアリスの迷い込んだ世界は、狂っているとも言えるのだけれど。<br><br><br><br>レイモンド・スマリヤンの論理パズルの本を開けば、<br>こうしたパラドックスがたくさん溢れ出てくる。<br><br>「What is the name of this book?」（「この本の名は？」TBS出版会）<br>に、精神病院を退院するためのテストについて言及している（まあ、ジョークなのだが）<br><br>それは「あなたは自分がナポレオンだと思うか？」という問いに対して「いいえ」と<br>答えるもので、嘘発見器が反応しなければ無事退院ということらしい。<br><br><br>知識の論理学の古代の例では、荘子の本に出ている。<br><br>「荘子　外編　秋水篇」（岩波　金谷治訳注）<br>濠で魚が泳いでいる姿をみて、荘子があれが魚の楽しみだと恵子（ケイシ）に語ると、<br>恵子は荘子に、どうして魚の気持ちが分かるのかという。<br><br>魚でもない荘子に魚の気持ちが分からないというのが恵子の論点だ。<br><br>しかし、荘子は切り返して、恵子自身が、荘子の知識の程度を知って、<br>質問しているではないか、という。<br><br>恵子は、荘子が魚の気持ちを知らないことを知っていることになる。<br>しかし、それは、荘子が魚の気持ちを知ることができないことを<br>恵子は知っていることになる。<br><br>だが、翻すと、恵子は、荘子が魚の気持ちを知る事ができることを<br>知らないことを、荘子は知っていることになる。<br><br><br>これを、ちょっと幅を広げてみれば、社会というもの、<br>他人の知識に依存していることが多い。<br><br>それが信頼、あるいは信念になるのだが。<br><br>たとえば、医者は医学の知識を持っている事を我々は知っている。<br>しかし、それは信念ともいえる。<br>もしかすると、医者がすべて、平準化された医学知識を持っている<br>わけではないかもしれないが、持っているかもしれない。<br><br>世の中、試験が存在する理由は、この知識の有無を知る事が<br>簡単にはできないからなのだろう。<br><br>世のドライバーは、交通ルールを知っていることを知っているのは、<br>ライセンスを所有しているという担保に基づいているからだ。<br><br>だが、果たして、ほんとうなのか？<br><br>ではまた、つれづれなるままに。<br><br><br><br>
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<pubDate>Sun, 02 Dec 2012 15:13:03 +0900</pubDate>
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<title>AKB48　PVイマージュ（２）最新のPVを観て</title>
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<![CDATA[ グレングールドの「<em style="font-style: normal; font-family: arial, sans-serif; font-size: small; line-height: 16px; background-color: rgb(255, 255, 255);">ゴールドベルク変奏曲（バッハ）」<br>を聴きながら、このブログを書いている。<br><br>この曲は、映画「羊たちの沈黙」で<br>レクター博士が監視付きの檻？の中で<br>聴いているシーンがある。<br><br>また「地球が静止する日」にもこの曲が流れ<br>地球が救われるというシーンがある。<br><br>まあ、音楽というものは、映画のシーンに結びつく<br>ことが多い。<br><br>そして、われらがAKB48のPVも音楽と映像が統合された<br>ひとつの芸術ではないかとさえ、近頃思うのだ。<br><br>とはいいながら、今日は、乃木坂46、NMB48、SKE48、そして<br>AKB48の最新PVを観たので、順に書いてみる。<br><br>乃木坂46の「制服のマネキン」のPVが公開されたので早速観てみた。<br>（CDとDVDは来月下旬に発売予定なので待ち遠しいが）<br><br>このPVを観て、少し衝撃的だった。<br>というのも、いままでの乃木坂46のコンセプトというのか<br>殻を破り、次の段階がやって来たのかもしれないと感じたからだ。<br><br>（なんとなく、AKB48の初期の「スカートひらり」を連想してしまったが）<br><br>曲調がハイテンポで、「</em><span style="background-color: rgb(255, 255, 255); font-family: sans-serif, 'ヒラギノ角ゴ Pro W6'; line-height: 14px; color: rgb(17, 17, 17);">走れ！Bicycle</span><em style="font-style: normal; font-family: arial, sans-serif; font-size: small; line-height: 16px; background-color: rgb(255, 255, 255);">」など今までの3曲とは<br>違っているような印象がある。<br><br>ダンスも今までの色調とは異なるようだ。<br><br>センターは、生駒、星野、生田の三人なのは<br>今まで通りで、秋元真夏が新たに選抜入りしたことは<br>すでに周知のことだ。<br><br>このPVの構成はラストシーンを除いて、<br>ダンスシーンが流れてゆく。<br><br>ラストシーンは、「会いたかったかもしれない」へ<br>リンクするかのように、あるいは真逆なのだが、<br>チャイムと生駒里奈の視線で終幕となっている。<br><br>体育館から、教室への、いつもの日常に戻り、<br>休憩から目覚めた生駒のクローズアップとなり、<br>始業のチャイムが鳴り、<br>教室の生徒全員が<br>さっきまで「制服のマネキン」を踊っていた<br>制服で、黒板のほうへ姿勢を正し、<br>ドアが開く。<br><br>そして、生駒がドアのほうへ視線を向けて<br>エンド。<br><br>曲のタイトルどおり、衣装は制服になっている。<br><br>体育館をメイン舞台にして、廊下、教室でのシーンが<br>交互に挿入されてゆく。<br><br>そして、メンバーの表情がすべて無表情ともいえる<br>硬質な表情でダンスをしている。<br><br>そう、ちょうどAKB48の「UZA」に対抗するかのような<br>ハードな印象の振り付けと曲、そしてイマージュになっている。<br><br>おそらく、公式ライバルとして、脱皮したイマージュが<br>この「制服のマネキン」とでもいうのだろうか。<br><br>乃木坂46、年明けすぐに大握手会があるので、<br>今から楽しみしている。<br><br>この点からみても、ライバルが秋葉の劇場公演を<br>年明け元旦にやった後、間髪いれずに乃木坂は<br>正月休み開けに、勝負にでるということだろうか？<br><br><br><br>NMB48「北川謙二」<br><br>教室の黒板の前で三人の女生徒達（さやねえ、ゆいはん、ミルキー）<br>が数学の問題を解いている。<br><br>黒板には数式が書き込まれ、教室の女生徒全員が、<br>三人も含めてみな、眼鏡をかけている。<br><br>眼鏡が、知性のイマージュを生み出すのだろうか。<br><br>そして、ひとりの女生徒（ミルキー）だけ、数式が解けず<br>「X=AC=</em><em style="font-style: normal; font-family: arial, sans-serif; font-size: small; line-height: 16px; background-color: rgb(255, 255, 255);">北川謙二」と書き込み、<br></em><em style="font-style: normal; font-family: arial, sans-serif; font-size: small; line-height: 16px; background-color: rgb(255, 255, 255);">オーバーヒートして、ミュージックシーンが始まる。<br><br>教室が反転して、ハートをたくさん付けた衣装で、<br>ダンスと音楽が始まる。<br><br>ダンスシーンは、教室の椅子に座ったままのメンバーが<br>制服のまま、上半身だけで振り付けをするシーンが、<br>時々挿入され、調味料のような味付けをしている。<br><br>ピンクのクッションと<br>植樹の植木鉢（緑）を二列に並べたシーン。<br><br>床には黄色の円形の模様が並び、<br>軽さを生み出している。<br><br>色が、植樹の緑、クッションのピンク（赤系）<br>そして床の模様の黄色と、<br>三色の統合となるイマージュだ。<br><br>そして、ダンスの振り付け自体が軽やかだ。<br><br>軽さのイマージュ、それが「北川謙二」なのか。<br><br>（先日の読売ランドの握手会でも<br>北川氏本人が握手会を行なうという<br>軽さが、とても印象的だった）<br><br><br><br>SKE48「キスだって左利き」<br><br>丸山健志監督によるPVは、何と言っても学園ドラマと<br>ミュージックシーンが統合された作品となる。<br><br>学生寮、教室、通学途上を舞台にドラマが展開し、<br>学園なのか、花壇のある中庭で、<br>純白の衣装で、ダンスシーンが始まる。<br><br>純白の衣装が、ピュアなイマージュを<br>予感させている。<br><br>ジョギング途中で、男女のキスシーンを偶然覗き観た<br>女生徒が、学生寮の部屋に、<br>同級生達を集めてキスの仕方を説明する。<br><br>通学途中のシーンでは、思いを寄せる男子とバスに乗り合わせた<br>女生徒が、離れた位置から、男子のほうへ視線を向ける<br>シーン（クローズアップ）が挿入される。<br><br>ソフトクリームを同級生と食べながら、<br>店員に思いを寄せている女性徒の視線。<br><br>そして失恋、破局へと向かうのが、<br>じゅりなの役となる。<br><br>教師に思いを寄せる女生徒（じゅりな）は<br>親友（玲奈）に頼んで、講堂でプレゼント<br>を渡すのだが。<br><br>ところが、失恋し、親友に打ち明ける。<br>親友は、回想シーン（落ち込んでいるときに<br>話しかけてくれたことや二人で自転車に<br>乗ったこと）から、友達の思いを理解し<br>慰める。<br><br>この曲は明るく、テンポの良い、<br>SKE48らしいメロディーになっている。<br><br>ラストシーンは、天使たちのイマージュとなるのだろうか。<br>中庭で、純白のメンバー達が輪になり、<br>中心でキスを思わせるじゅりなとれな<br>の重なった白いシルエット。<br><br><br>AKB48「UZA」<br><br>このPVがJoseph Kahnの作品だと知って、<br>今更ながら驚いている。<br><br>「ギンガムチェック」との違いが大きい。<br><br>トーマス・ピンチョンの小説のような<br>「ギンガムチェック」の<br>複数のプロットが並走し迷走し、<br>ギャク的なイマージュと比較すると、<br>今回の「UZA」は、<br>統合されたバランスになっていることに<br>気づく。<br><br>屋根裏部屋らしき場所で、<br>木の葉舞い散る床。<br><br>人形使い師らしき二人（まゆゆ、じゅりな）がシルクハットと<br>ステッキの出で立ちでわれわれを迎える。<br><br>ダンスシーンがモンタージュされるが、<br>全体は、部屋にある人形達、<br>バレリーナ、あやつり人形、貴婦人のドール、<br>ブリキの兵士、パイレーツ、ファイター<br>そして、びっくり箱から現れるピエロ。<br><br>多彩なキャラクターを、二人の人形使い師が操るのだ。<br><br>UZAでは、非対称がひとつのポイントになっている。<br><br>それは、左と右のポジションを入れ替えているところにある。<br><br>人形使い師は、ブリキの兵士のいるガラス館の横で、<br>左右を入れ替わりながら、ステッキのダンスをする。<br><br>非対称となることで、全体の美のテンションが維持される。<br><br>笑顔がない世界で、ピエロ（ゆきりん）をびっくり箱から出す<br>人形使い師（まゆゆ）だけが笑顔をこぼす。<br><br>ピエロの左頬のダイヤのマークまでもが、<br>非対称性を生み出しているのだ。<br><br>これも全体と個の非対称のイマージュになっている。<br><br>無表情を維持している全体のシーン。<br><br>神が憑依した古代の巫女（シャーマン）のような<br>人形使い師（じゅりな）は、<br>激しい動きで、人形達の動きをクライマックスに<br>もってゆく。<br><br>静的でソフトなもうひとりの人形使い師（まゆゆ）が<br>全体の激しさと非対称なイマージュを作り出す。<br><br>ラストシーンが、静的なイマージュとなるのは、<br>全体の流れのハイテンションな色調との<br>非対称のせいなのだろう。<br><br>ドアが締まり、観る者であるわれわれは<br>部屋から締め出される。<br><br><br></em><br>
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<link>https://ameblo.jp/greenjack/entry-11414762140.html</link>
<pubDate>Tue, 27 Nov 2012 23:01:38 +0900</pubDate>
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<title>つれづれ哲学論考（２）</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">「論理空間の中にあるいろいろな事実が世界である」（ウィトゲンシュタイン）<br><br>「このあたりでは皆狂っているのさ」（チェシャ猫　ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」）<br><br>最近は猫の眼のように、自分の考え方がくるくると変転している。<br>というよりも、考えが定まらない状態でずっときている。<br><br>そもそも、わたしは論理学を手がかりにして、<br>哲学と数学の境界上をさまよってきたのだ。<br><br>今もさまよっている。<br><br>文学がわからないのは昔からで、<br>わたしの感性には文学や詩は<br>よくわからないというのが<br>正直なところだ。<br><br>だからという訳ではないが、<br>ルイス・キャロルのアリスものを<br>繰り返し読んでいる。<br><br>アルトーが、精神的な危機に陥ったときに、<br>ルイス・キャロルのアリスものを読んで救われたという話が<br>あるが、わたしの場合にも当てはまるのかもしれない。<br><br>意味というものが何であるか？<br><br>ウィトゲンシュタインは、第一次大戦に志願して従軍したらしい。<br><br>そして、戦場で、屍の累々としたキリングフィールドで、<br>メモを書き溜めて、捕虜となって、終戦後に帰還してから<br>バートランド・ラッセルの支援で、<br>メモを整理して出版したのが、<br>「論理哲学論考　tractatus logico-philosophicus」だ。<br><br>ラッセルは絶賛し、哲学を無意味にする威力がこの本には<br>あるのだと言った。<br><br>「世界とは事実の集まりの全体である」といった調子で、<br>格言？がつづき、６つの格言に枝番がつき、注釈がある。<br>最後の７番目の格言だけ、注釈がない。<br><br>小津安二郎やゴダールのモノクロ映像の中で、<br>ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」について<br>語るシーンでもあったらどんなにクールだろうか。<br><br>ヘンリー・ミラーの「南回帰線」には「論理哲学論考」<br>がピアノとともに語られている。<br><br>その後、ひとつの学派が出来上がり、形而上学つまり、<br>従来の哲学は無意味な言葉遊びだといって、<br>活発な活動が始まったらしい。<br><br>ニーチェがこの分析哲学派のことを知ったとしたら、<br>きっと、ルサンチマンをもとに何か楽しいことを<br>語ってくれたかもしれないが。<br><br>「語ることができないものについては、沈黙を押し通すしかない」<br>これが「論理哲学論考」の結論（７番めの格言？）になる。<br><br>無意味なことについて意味があるかどうかを問う事自体が<br>無意味になりかねないのだが。<br><br>当時のヨーロッパは、ヘーゲルの影響が大きく、<br>ヘーゲルと喧嘩したショーペンハウエルは<br>大学を去り、フルートをふきながら、<br>憂さ晴らしの本を書いて一生を過ごしたほどらしい。<br><br>イギリスでもヘーゲルの影響が大きく、<br>こぶしを振りながら、弁証法を説く先生が<br>いたと、ラッセルは自伝の中で想い出話に<br>していた。<br><br>そんな状況で、ウィトゲンシュタインは<br>裸の王様達に、弁証法の形而上学は<br>ナンセンスな、言葉の使い方を<br>誤ったものだと真っ向から<br>言ってのけたわけだ。<br><br>やがて、時は経ち．．．．．<br><br>ラッセルはホワイトヘッドと共著で<br>「数学原理」という三巻からなる<br>分厚く、中身は記号でいっぱいの<br>人類史上、恐るべき著書を書いている。<br><br>数学、それも算数を、<br>論理学の概念だけで記述しようと<br>試みたのだ。<br><br>1+1=2を証明するのに数頁を費やしている。<br><br>論理的概念で記述すると<br>とてつもないものになるのだが、<br>ラッセルは数学に矛盾がないことを<br>証明するために、論理体系を使ったのだ。<br><br>古代ギリシア以来、ユークリッドの幾何学体系<br>には矛盾がない、絶対の真理であるという<br>迷信めいた信念がずっと続いたらしい。<br>（かのエイブラハム・リンカーンもユークリッドを<br>愛読していたそうだ）<br><br>とはいいながら、「数学原理」で使った論理学というのは<br>タイプ理論とも呼ぶ言語体系なのだが、<br>ーーこのエッセイで後の機会にどんなものかを<br>説明する予定ではあるが、<br>ここではそんなものがあったということで<br>ーー現代では様相論理と呼ぶ更に拡大した<br>言語体系は使っていない。<br><br><br>そして、様相論理の体系についてわずか十六歳にして<br>論文を書いた、ソール・クリプキから<br>哲学がまた再開することになったのだ。<br><br>ラッセル、ウィトゲンシュタインらが、論理学をもとに<br>哲学の無意味さを説いてから、<br>同じ論理学の流れを組む様相の論理をもとに<br>クリプキは哲学を始めるという<br>図式（この流れには、哲学の無意味さの<br>先鋒だった、ルドルフ・カルナップがいて、<br>カルナップは後に様相論理学の本を書き、<br>再び哲学を始めるのだから、<br>歴史は変転するものだ）<br>は、まるでわたしの考えが変転するのに<br>対応しているわけだ。<br><br>最近、流行していたかのゲーデルは、<br>神の存在証明に様相論理を使っているらしい。<br><br>様相論理とは、ではどんなものか。<br><br>必然性、可能性、知ること、信じること、<br>現在、過去、未来、義務などを<br>記号を使って、数学として<br>論理を分析するものになる。<br><br>これは次回以降、いろいろと紹介する予定だ。<br><br>それにしてもチェシャ猫のいう「このあたりはみな<br>狂っている」という文は、果たして真偽のほどは<br>いかがか。<br><br>次回、そのことの分析から始めてみよう。<br><br><br></span><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/greenjack/entry-11414024022.html</link>
<pubDate>Tue, 27 Nov 2012 00:22:06 +0900</pubDate>
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<title>AKB48　PVイマージュ（１）</title>
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<![CDATA[ すでに「UZA」でいくつめだろうか。<br><br>最初は、新宿の焼き鳥屋でPVが流れていたのと、<br>飲み仲間から少しずつ教えてもらいながら、<br>AKB48に惹かれていったのだった。<br><br>「ポニーテールとシュシュ」<br>「ヘビーローテーション」<br>「Everyday カチューシャ」が最初に観たPVだった。<br><br>やがて、飲み仲間の二人に勧誘され、最近では握手会へ<br>休日になると出かけてゆくまでになった話は<br>また別の機会にゆずるとして．．．．．<br><br>まず最初に、「AKBがいっぱい」から鑑賞というのだろうか、<br>３枚のDVDを毎日のように観ていた。<br><br>各曲の初めにメンバーが感想を<br>語りあうインタビューがまた面白い。<br><br>ミュージックPV自体は、洋楽を中心に結構好きなので<br>カラオケでも、PVを眺めていて人が歌うのを聴くほうが<br>いい。<br><br>AKB48の本来の素晴らしさというのか、<br>基盤は、なんといっても秋葉原の劇場で<br>公演を観にゆかなくてはならないのだが、<br>このMUSTを実行するには、<br>時間と運が必要だ。<br><br>抽選の倍率が100倍というのだから、<br>なかなかどうして．．．．クールな状況だ。<br><br>それと、平日公演に当選したとして、<br>仕事の都合上なかなかどうして．．．．．Be cool!!<br><br>なので、ひたすらPV鑑賞に甘んじるしかない<br>状況だが．．．．．やはり公演へはゆきたいものだ。<br><br><br>PVを観ていると、面白いのは曲と一緒に流れる<br>映像、ドラマだったり、ダンスだけのシーンだったり<br>Lipシーンが挿入されて、サブリミナル効果があるのだが、<br>ほぼ２つのタイプに種別されることに気づいた。<br>（今更なのだが．．．．）<br><br>導入部がドラマになって、しばらく進行し、<br>やがて曲が始まり、無声ドラマが<br>曲と同時に、メンバーのダンスシーンとのモンタージュに<br>なっているタイプ。（Aタイプとしよう）<br><br>曲全体が無声ドラマになって、曲とともに<br>無声ドラマが進行して、やはりダンスシーンとの<br>モンタージュになっているタイプ。（Bタイプとしよう）<br><br>最新の曲「UZA」に入っている曲はすべて後者のタイプだ。<br><br>そして、「UZA」に特典収録されている高橋監督バージョンの<br>「ギンガムチェック」はAタイプになっている。<br><br>（ドラマは渡辺麻友のクローズアップから始まっている。<br>クローズアップということは、このドラマがサスペンス的<br>な謎というのか問題から始まることを予感しているのだが<br>どうなっているかはご覧あれ）<br><br>「次のSeason」は、ちょっとしたドキュメンタリーになっている。<br><br>「次のSeason」に出演するメンバー達が、ものをなげて、ターゲットに<br>到達する場面を撮っている。<br><br>たとえば、後ろ向きにものを投げてごみ箱に入れようとするとか、<br>ペン立てにゴールさせるとか、帽子を投げて壁のフックへかかるなど。<br><br>成功するまで何度撮ったかのTake回数も表示される。<br>こういうドキュメンタリーがダンスやリップシーンとともに<br>モンタージュされている。<br><br>なかなか、今までにない発想で面白いと思った。<br><br><br>といったように、このブログシリーズで<br>PVについて少しずつAKB48イマージュを書いてみよう。<br><br>また、SKE48、NMB48についても。<br>そしてライバルである乃木坂46についても。<br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/greenjack/entry-11409328718.html</link>
<pubDate>Wed, 21 Nov 2012 00:04:06 +0900</pubDate>
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